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■春九(3)

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中川浩美は高崎で5代続く和菓子屋さんの家に生まれた。もっとも浩美の子供の頃実際に店をやっているのは祖母だけで、父は市内の建設会社に勤めていたし母も近くのスーパーでパートをしていた。浩美は小学生の頃からよくあんこを作らされていたので、あんこ作りはかなりうまくなった。また高校生の頃から、求肥(ぎゅうひ)を作ったり、それを使ってお団子・お饅頭を作ったりもしていた。
 
東京の大学に進学し、バイトでデパートに勤めたら
「お菓子屋さんの娘なら」
と言われてお菓子売場に配属される。最初は様々なお菓子の販売をしたのでデパートで売っている様々なお菓子の試食もして、お客さんに訊かれた時、味や食感の説明をけっこう上手くできるようになった。
「あんたの説明は分かりやすい」
と随分お客さんにも褒められた。
 
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2年目は生菓子のコーナーに行く。
「あんこ作れる?」
と訊かれたので
「家が和菓子屋だつたので小学生の頃から作ってました」
と答える。
「じゃやってみて」
と言われる。
「粒あんですか?漉し餡ですか?小倉あんですか?」
「粒あんと小倉あんの違いを知ってるのはさすが。漉し餡をよろしく」
「はい」
 
それで作ったが
「上手に作るね」
と褒められた。
 
職人さんに教えられて練り切りとかも作らせてもらったが
「きれいな形にしたね」
と褒められ、そのまま売り物にしてもらった。この年は簡単な形のものは全部浩美が作っていた。
 
3年目はまた体制が変わり、浩美は“大角饅頭”のコーナーに回された。大角というのはこのデパートの名前である。このコーナーでは今川焼き・鯛焼き・大角饅頭をその場で作って売っていた。要領は同じだが、生地と型が違う。大角饅頭は白っぽい生地、鯛焼きと今川焼きは黒っぽい生地である。また白餡には水飴を混ぜ、黒餡には蜂蜜を混ぜていた。その生地と餡も浩美が作っていた。生地作りも餡作りも上手いと褒められた。
 
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大学を出た後、ソフト屋さんに就職したが、あまりにもハードなので1年で辞めた。次の仕事を探すまでつなぎにと思い、移動レストラン・ムーランでバイトしようと思い“厨房希望”として申し込んだ。履歴書を書いて郵送したら、銀座のムーラン本社ビルで27-28歳の女性が面接してくれた。
 
“株式会社ムーラン代表取締役・山吹若葉”という名刺をもらったので、社長さんが直々に面接してくれたのかと仰天した。
「デパートではどんな仕事してたの?」
「和菓子のコーナーで、餡子作ったり、それで練り切りとかの生菓子を作ったり、あるいは鯛焼きや今川焼きを作ってました」
「作るのやってたんだ。凄いね」
「高崎の和菓子屋の娘なので、餡子は小さい頃から作ってたんです」
「それは凄い」
と感心したように山吹社長は言い、こんな提案をした。
「給料月70万出すからさ、富山県に新設したお菓子屋さんで和菓子とか、或いは今聞いた今川焼きとか作ってくれないかなあ。あと後輩の指導と。住まいは確保して無償で提供する」
「住宅付きで70万も頂けるのでしたら富山くらい行きます」
 
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ということで、中川浩美はガトームーランの高岡店に来ることになったのである。
 
高岡へは、山吹社長と一緒にムーラン本社屋上にあるヘリポートから
高岡市に隣接する氷見市にある飛行場までヘリコプターで移動した。そんな所に空港があるとは全然知らなかった(空港ではなく飛行場と言われたが違いが分からない)。“飛行場”から鉄道(と思ったがこれも新交通システムと言われた。違いが分からん)で移動する。その“伏木”駅のすぐ傍にお店はあった。店長の佐藤さんは優しそうな人で、すぐ仲良くなれそうな気がした。現在は洋菓子のみ売っているが、洋菓子のショーケースの隣に和菓子のショーケースを設置し、そちらに和菓子を並べたいということだった。それで、取り敢えずお団子数種類、お饅頭などを作ることにした。練り切りも作れるのなら作ってと言われたので作ることにした。
 
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「小豆、小麦粉、蜂蜜とかこんなんで行ける?」
といって村山さんという27-28歳の女性が持って来てくれる。
 
「この蜂蜜すごく美味しい。小豆もいい小豆だと思います」
「うちの畑で作ってる小豆なんだよ」
「へー」
 
“うちの畑で作ってる小豆”などというので、村山さんの御両親とかが小さな畑を耕しているの想像したが実際は広大な畑を機械も導入して
何十匹ものキツネが耕作しているとは、とても想像できなかった。
 
「白餡は白小豆使う?白インゲン使う?」
{白餡に2種類あるのご存じなのはすごいですね。練り切りには白小豆で、お饅頭は白インゲンで}
「了解。どちらも用意するね」
 
「村山さん、東京オリンピックにでてませんでした?」
「ああ。あれは双子の妹。バスケットで銀メダル取ったね。私は剣道やるんだよ」
「へー。でも姉妹でスポーツするのは素敵ですね」
 
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住まいであるが、お菓子屋さんの裏手に3階建てマンションがあり。そこの2階にお部屋をもらった。部屋は2DKで一人で住むには充分すぎる広さだった。母に頼んで東京のアパートの荷物をこちらに送ってもらった。マンションの裏手には神社があり、そこの巫女さんをしている女性が2名、マンションの同じフロアに住んでいた。どうもこの神社も山吹社長が建てたものらしい。
 
マンションの1階には佐藤店長と、神社の宮司をしている斎藤さんという女性が住んでいた。斎藤さんは何か格好いい装束を着ていた。浩美は女性の宮司さんもいるのかと驚いた。
 
浩美が作るお団子や饅頭も売れたが、最も売れたのが今川焼きである。山吹社長はこれに“水車饅頭”という名前を付け、水車模様の型で焼き、また水車の絵を描いた紙袋に入れて売った。これが4月末には店の売り上げの半分以上を占めるに至る。
 
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また佐藤店長は
「中川さん、あんころ作れません?」
と言った。金沢名物の和菓子らしい。作れるも何も見たことが無いというと、1包み買ってきてくれた。
「ああ。作れると思います」
と言って試作してみると
「美味しい。美味しい。これもお店に出しましょう」
ということになる。あんころについては半月ほど試行錯誤させてもらってから商品にした。その間に浩美は金沢に行き、自分で数種類のあんころを買って食べて見て研究を重ねた。
 
斎藤(花代)宮司は毎日ガトームーランでお菓子を買い、神社の神前に捧げていたが、だいたいいちごショート、モンブラン、チョコショートに、あんころというパターンが多かった。神様が4柱なので4つらしい。
 
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若葉は元々東北・関東で展開しているお菓子ショップ“ムーランルージュ”にパン屋さんを併設する構想があった。それでムーラン本体の洋食・軽食の店舗でもそこのパンを使おうと考えていた。それで関東出身の女性3人を友好会社のニューバンブーパン(仙台)に入れてパン作りの研修をさせていた。それで彼女たちに北陸に来てもらい、いよいよ“ムーランベーカリー”を立ち上げようと考えた。この3人はいづれも、ムーランベーカリー(ブランジュリ・ムーラン)の関東地区のお店を立ち上げる時はそちらに戻れるという条件で北陸行きに同意してくれた。また石川富山出身の人、6人くらいを彼女たちの下に付けて研修させることにした。ここで浮上したのが酵母問題である。
 
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若葉は最初、ニューバンブーパンの竹西さんに酵母も分けてもらえないかと打診してみた。しかし、実は竹西さんの親戚が津幡町でパン屋さんをしていて、同じ酵母を使っているので、北陸で使われるのは困ると言われた。
 
困ってしまったのだが、救いの手が現れる。ガトームーランの高岡工房に勤める川口遙佳が「うちのレストランで使ってる酵母で良ければ使ってもいい」と言ったのである。若葉は珠洲市まで行き、遙佳の父が経営するレストラン・フレグランスでパンを食べてみて美味しいと思った。それで遙佳たちの父・川口昇太と交渉すると酵母の提供を快諾してくれた。それでムーラン・ベーカりーはフレグランスの酵母を使って出発することになった。
 
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この酵母は元々は昔輪島市にあったパン屋さんから分けてもらったものらしい。
 
もう少し先に書くことになるが、実はフレグランスの店舗は2023年5月の地震で潰れてしまう。しかしムーラン・ベーカリーのお陰で酵母を失わなくて済むのである。
 
ムーラン・ベーカリーは当初、伏木店(本店)・金沢店・津幡店のみにパン工房を併設したが、その後、売上の大きな店から順次拡大して行った。ガトームーランの売上が凄い七尾店なども早めに併設したが(仙台のニューバンブーパンで研修した人のひとり・山坂さんに行ってもらった:津幡店からの異動)、ここはパン屋さんの売上も凄かった。
 
ここは市街地から大きく離れているか、能越道に直結していて道路でのアクセスが抜群で広い駐車場もあることから、市外からの客が半数を占めているようだった。また能登各地区からD製薬の富山・高岡工場に勤めている人や南砺市のムーランのセントラルキッチン、朱雀のマスク工場や製紙工場に勤めている人が帰宅途中、ウィングライナーを降りてからパンを買い、自分の車で帰宅するというパターンもかなりある模様だった。
 
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輪島に朱雀林業の拠点がある関係で実は南砺市の朱雀製紙の従業員の半数が能登地区の住人である。(朱雀製紙能登工場の従業員の家族・親戚・友人が多い。また能登地区の高校や七尾・輪島・珠洲にある支援学校の卒業生をだいぶ受け入れた:B型作業所を併設している)
 
また2020年にマスク工場を作ったとき、実は南砺市と穴水町で誘致合戦があり、南砺市に決めた後も穴水町や周囲から就業した人が結構居てこれまでは送迎バス(穴水・七尾−城端)を運行していたのをウィングライナーに振り替えた経緯などもあった。
 

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