【女の子たちの成人式】(その1)

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千里は友人達と別れた後商店街をのんびり歩き、やがてその端の方にある呉服屋さんの前で足を留めた。
 
実は千里がここで足を留めるのは初めてではない。ここ1ヶ月くらいの間でももう10回目くらいである。見とれていたのは店のショーウィンドウに飾られた美しい振袖。『いいなあ』しばしそれを眺めてから、千里は自宅への途に就いた。
 
千里は大学2年生である。入学した当初、同じクラスの男子学生達から飲みに誘われて付いていったものの話に全然混じれなかった。彼らの話すエロ話は強烈に刺激的だったものの、千里の感性はそれに耐えられなかった。どうも場違いだと感じたのは向こうも同じだったようで、その後彼らからお誘いが掛かる事はなかった。
 
逆に少し親しくなったのは同じクラスの女子学生達だった。しばらく教室の中での千里の雰囲気を眺めていて『どうもこの子、あちらの系統では?』と見抜かれてしまったようであった。理系の学科で、女子がクラスに6人しかいないし、その6人がみんな理系に来るだけあって男勝りの性格だったので、女っぽい性格の千里と結果的に近い感性を持っていた。それで自然に彼女達とよく話すようになっていた。
 
ある時は教室で先生の来るのを待ちながら教科書を眺めていたら、いきなり後ろの席から耳をつかまれた。「な、なに?」と言うと「じっとしてて」と言われやがて耳たぶに何か圧迫感。
 
「イヤリング付けてあげたよ」
千里はバッグから手鏡を取り出して見てみた。イルカのイヤリングだ。「可愛い」と思わず言ったら「気に入ったのなら、それあげる」と言われた。
 
こんな感じで、パッチン留めやらカチューシャやらブレスレットやら、彼女たちからもらってしまった。マニキュアを塗られたり、マスカラを付けられたりもした。どうも着せ替え人形扱いのようである。
「千里、眉毛少し細くしなよ」と特に気の合う友人である桃香からは言われた。よく分からないというと「じゃやってあげる」と言われ、任せておいたら眉毛をかなり細くカットされた。「このくらいが可愛いよ」「ありがとう」
 
そんな彼女たちから、お茶会に誘われたりすることも多かった。実はさきほど千里が別れてきたのも彼女たちを含む理系クラスの女子達のグループだったのである。最近のことばでいうと女子会だが、千里は完璧にそのメンツに入れられていた。彼女たちと話す、ファッションの話、男性アイドルの話、また恋話などは、千里の心をリラックスさせた。恋愛の話は中身がなまなましいものであっても男子学生達の話にはちょっと耐えられない感じがするのが、女子学生達の話は不快でなかった。不用意に妊娠してしまった子の中絶費用をカンパしたこともあったが、そういうのにも自然に応じられていた。
 
そんな千里がその呉服屋さんに気づいたのは2年生の夏休みに入った頃であった。いつも和服の店員さんが店頭に立っていて、道行く若い女性に声を掛けていた。実は千里も最初、男の店員さんに呼び止められてティッシュをもらったのである。千里は髪を伸ばしていたので、別にお化粧などしていなくても充分女の子に見える。実際街角で美容液とか生理用品とかのサンプルをもらってしまうこともあった。
 
その時も、ティッシュを反射的に受け取ったあと、そのまま足を留めてしばらく話していたら途中で向こうが気づいたようで「あ、済みません。君、男の子でした?ごめんね。男の子は振袖着ないよね」と頭を掻いて解放してくれた。その時千里の耳にその『男の子は振袖着ないよね』という言葉がいつまでも残響していた。
桃香は詰まらない顔をして、母と呉服屋の店主とのやりとりを眺めていた。初老の店主は「お嬢様によくお似合いですよ」と言っているが、振袖はこれから仕立てるのであって、実物を見るのは数ヶ月先。肩から布地を掛けてもらったもののそれは実物ではなく、色違いの布地で代用された。実際に使う布地は品切れを起こしており、今工房で生産中で今月末にできあがるということだった。
 
成人式の振袖を頼みに来たのだが、実はあまり気が進まなかった。どうせ1度しか着ないしレンタルでいいと言ったのだが、母は地元の友禅の工房に頼むなどと張り切っていた。冗談じゃない。何百万もする振袖なんてもったいないというので、あれこれやりとりした結果、桃香の住む町の呉服屋さんで手頃な価格の振袖を買うということで妥協が成立したのであった。
 
成人式なんてそう騒ぐようなイベントでもないと思ったし、桃香は普段着の洋服で行ってもいいと思っていた。友人たちはやはり振袖を着るという子が多い。「女子会」のメンツではレンタルの子が多いが、買うという子も何人かいた。あ、そういえば千里はどうするんだろう?一応男の子だから背広だろうか?千里のそんな姿はあまり見たくないな。あの子は可愛くしなくっちゃ・・・・むしろ私が背広着て出たいかも。FTM宣言しちゃおうか。私は男でも生きていける気がするし。でも、そんなことしたら母が卒倒するか?
 
よけいなことを考えている内に商談はまとまってしまっていた。「セット価格」
で69万8000円という振袖である。代金は桃香と母が折半することになっていた。
「それでは、記念写真の前撮りをなさる場合は着付け料込みで2万円で。それ以外で着付けをなさる場合は1回1万円で御承り致しますので」「はいはい」
返事しているのはもっぱら母である。
 
母を駅で見送ってから、何となく商店街を散策していた桃香は、ふと千里の姿を見て声を掛けようとしたが、千里はこちらに気づかず、行ってしまった。千里何見てたのかな?え?ここも呉服屋さん??もしかして成人式に和服、紋付き袴なのだろうか?と思ったが、その呉服屋さんの店頭に飾ってあったのは大柄な花模様のピンクの振袖であった。

朱音は成人式の振袖の件で、母と電話越しに大げんかしてしまった。朱音は成人式の振袖は自分で買うつもりで、バイトでお金を貯めていた。ところが母が勝手に地元の百貨店の展示会で買ってしまったというのであった。
 
「そんなの私着ないからお母さんが着たら?」などと言ったりして、売り言葉に買い言葉で、最後はお互いに縁切り宣言してしまった。
 
「はあ」と受話器を置いた朱音はため息をついた。母とはもとより折り合いが悪く、今までも何度も衝突している。こないだからそれで3ヶ月ほど音信不通だったのだが、久しぶりに向こうから電話してきたかと思ったらこれである。向こうは仲直りのつもりで振袖を買ってくれたのかも知れないが、そんなものこちらの好みも聞かずに勝手に買って欲しくなかった。
 
「なんか振袖自体面倒くさいなあ。もう普段着で出ちゃおうかな、成人式。でも他の子はみんな振袖かなあ・・・」
 
朱音は「女子会」のメンツをひとりずつ思い浮かべながら、この子はこんな感じのが似合うよなと思っていた。桃香は・・・振袖じゃなさそうな気がするな。ドレスかな。スーツ姿もりりしいよな。まさか背広とか着てきたりして?朱音は桃香のセクシャリティは、かなり怪しいと思っていた。あ、怪しいといえば・・・千里はどうするんだろう?あの子にはぜひ振袖を着せたいな。背広なんか着てきたら、みんなで寄ってたかって脱がせて振袖着せちゃおう。
 
変な妄想をしていたら少し気分が晴れてきた。

それは8月下旬のある日のことだった。講義はまだ始まっていないが自主ゼミがあったので千里は午前中に大学に行き、そのあとボールペンの替え芯を買ってから家に帰ろうと思い街に出てデパートで買い求めた後、商店街を抜けていった所で、また呉服屋の前で足を留めてしまった。
 
またまたしばらくそのショーウィンドウの振袖を眺めていた時、店頭にいた女性の店員さんが声を掛けてきた。「この振袖、可愛いでしょう」「あ、はい」
と答える。その時、以前声を掛けてきた男の店員さんが「あ、そのお客さんは」
と言ってきたが、その女の店員さんは「いいの、いいの」とそれを遮って
「いつもこの振袖を見ておられる気がして。妹さんか誰かに贈り物ですか?」
と尋ねた。「いえ」と首を振ると「あ、やはりご自分用ですよね」と尋ねる。千里は真っ赤になったがコクリと頷いた。
 
「別に押し売りしませんから、少し商品のご説明しましょうか?」と笑顔でいうので、千里は「はい」と言って、その店員さんに案内されて店内に入った。
 
「女物の和服、浴衣とか持っておられますか?」
「いえ、全然ありません。和服自体、さっぱりわからなくて」
「着物の格というのは分かりますか?」千里は首を振る。
そういえば和服のことって全然知らなかった。同級生の女の子たちとも洋服のファッションのことは話すが、和服の話題はあまり出たことがなかった。
「細かく分けると色々あるのですが、大雑把に分けると、礼装・外出着・普段着ということになります」「ああ、なるほど」
 
この店員さんは自分が男と分かった上で、特にその性別を気にすることなく普通に扱ってくれている感じがして、千里は好感した。それで少し話を聞いてみようという気になっていた。店員さんは「鈴木美千代」という名刺を出した。 「礼装になるのが未婚の方ですと振袖、既婚の方ですと留袖ですね」「ああ」
「それに準じるのが訪問着とか付下げというのがあります」
「その下に小紋とか色無地とかがあり、このあたりまでが外出着」「はあ」
「そして浴衣とか、ウールや化繊の着物が普段着ですね」
「なるほど。振袖って礼装なんですね!」
「未婚の女性の第一礼装ですね。イブニングドレスなどと同じですよ」
「振袖と浴衣しかわからなかった。訪問着、付下げ?、こもん??」
 
「小紋というのは小さな模様をたくさん型押しして作られた生地ですね」
「ああ、小さい紋ですか」「そうそう」
「訪問着と振袖は似たような作り方をしているのですよ。ちょっとこちらを見てください」といって店内の和服を着たマネキンの所に連れていった。店内には多数のマネキンが並んでいる。
 
「この服の模様を見てください。縫い目を越えて模様が続いてるでしょ?」
「あ、ほんとだ。凄いですね」
「振袖も訪問着もこういう作り方をするんです。絵羽というんですよ。最初に仮縫いして模様を染めて、またバラしてから仕上げるんです」
「すごい手間が掛かっているんですね」
 
「付下げというのは小紋との違いで説明するとわかりやすいかと思うのですが長い反物状の布を着物に仕立てる時、最初の模様が全部同じ向きに入っていたら、仕立てた時に上向きの模様と下向きの模様が出来てしまいますよね」
「あ、確かに・・・・」
「小紋の場合はそもそも小さな模様なので上下逆になってもかまわないのですが、付下げはもっと大きな模様を使うので、逆さまになると困ります。そこで、あらかじめ着物の状態になった時にどちら向きになる部分かというのを考えて、上下ひっくり返らないように模様を染め上げた反物で作ったのが付下げです」
「凄い。着物って、よく考えられてるんですね!」
「付下げでも凄くよくできているものは、縫い目で模様がつながってしまうものもあります。それで最近は訪問着と付下げの境界線がけっこう曖昧になってるんですよ」「へー」
 
「それでお客様、振袖に興味を持っておられたようですが、成人式か何かに着られます?」「成人式!」
そういえば自分も来年の1月は成人式だ。何を着るかなんて全く考えてもいなかった。でも振袖で成人式? 確かに女の子たちは着るよな・・・・・女子会でもそんな話が出ていた。でも男の自分がそんなの着ていいのかしら??
「着てみたい気がします」
え?自分は何言ってんのさ?そんなの着た写真とか親に送れないぞ。
「お客様なら、振袖似合うと思いますよ」鈴木さんはにこやかに言った。
「でも、和服を全然着たことのない人がいきなり振袖着ると、なかなか着こなせないことも多いので、まずは浴衣などで練習なさってはいかがでしょう?今年は猛暑ですしまだしばらく、浴衣を着る機会はありますよ」
そういえば子供の頃は浴衣を着て縁日とかに行ったっけ?
 
「今から浴衣着てたら、1月には振袖自分で着れるようになるでしょうか?」
「あ、浴衣は少し練習したらご自分で着れるようになると思いますが、振袖は自分で着るのはとても難しいです。最初は当店のような呉服屋か、美容室などで着付けを頼んだ方がいいですね。当店で振袖をお買い求めになりますと、1年間は何度でも着付けは無料でさせて頂きますから」
「ああ、そういうものなんですね」
「洋服などでもそうですが、それを着ている自分を心の中に受け入れてないとまさに「借りてきた衣装」になり違和感が残ります。ですから、成人式で振袖を着たいというお客様にはそれ以前に、浴衣でもウールの着物でもいいから、頻繁に和服を着て出歩くことをお勧めしています。洋服と和服で歩き方から違いますし」
「あ、着こなしってそうですよね」
千里がスカートを穿けないのもそれだった。スカート姿の自分に違和感があった。
 
「振袖、もしお買い上げになる場合でも、お客様はほんとに和服が初めてのようですので、色々な柄を見てからお決めになった方がよいのではないでしょうか。当店の既製品のカタログを差し上げますね。少し眺めてみてください」
「ありがとうございます」
「今日も店内を自由に見学なさってかまいませんよ。あと来週、着物のミニ講座などしますので、いらっしゃいませんか?」「あ、はい」
 
千里は「着物ミニ講座」のパンフレットをもらい、鈴木さんにお礼を言うと店内をゆっくりと散策するかのような感じで見てまわった。実に色々な和服がマネキンに着せて展示されている。箱に入れられたものも多数並べられていたが、箱に全部写真が添えられていた。また反物の状態で展示されているものもある。浴衣コーナー、街着コーナー、小紋・色無地コーナー、留袖・訪問着コーナーと見て、やはり振袖のコーナーで足を留めた。
 
洋服のデザイナーとしても有名な人のブランドの振袖もある。しかし千里はそれは微妙な感じがした。古典柄と書かれたものはどれも好みだという気がした。自分は日本人なんだな、と千里は思って微笑んだ。反物の状態のもので友禅風と書かれたものは、とりわけ千里の心を動かした。
 
『表地価格35万円・フルセット価格50万円』と書かれている。千里が顔を上げると鈴木さんがやってきた。「すみません。この表地価格・フルセット価格というのは、何でしょうか?」
「はい。表地価格というのは和服の表に使うこの生地そのものの価格ですね。和裁をなさる方でしたら、それだけ買ってご自分でお仕立てなさってもよいのですが、当店にお仕立てを御依頼いただき、それと帯ですとか、長襦袢、各種小物、草履・足袋・帯締め、帯板などなど着付けに必要な品までセットにしたものを『フルセット価格』としております」
「なるほど。お仕立代に帯とかも高そうですね」
「ええ。ふつうはフルセットでお買い求め頂いた方が良いかと思います」
 
「ショーウィンドウのも良いけど、これも良いなと思って。友禅って、京友禅とか加賀友禅とかいう、あれですね?」
「はい。とても高度な技法で制作されたものです。ただこれは『友禅風』
ですのでお安くなっております」
「ああ、本当の友禅じゃないんですね」「お客様こちらへ」
鈴木さんが千里を店の奥のほうに案内する。店の奥のほうは畳になっていてそこに和箪笥が並べられていた。そのひとつを開けて布地を取り出す。
 
「こちらが京友禅の品です。京友禅の若手作家が制作したもので、センスが新しいですし京友禅にしては派手なので、お客様にも合うと思います。こちらは表地価格が180万円の品でフルセット価格は選ぶ帯にもよりますが220万円くらいです」
 
「きれい」千里はその美しい模様に心を奪われ、しばし見とれていた。
「でもごめんなさい。さすがに予算オーバーです。でもすごくきれいですね。頑張ってバイトしてこんなの買えるようになりたいなあ」
「このお品は売れてしまうかもしれませんが、予算がお取りいただけるようになりました時に、また何かご案内させて頂きますよ」
鈴木さんはにこやかに言った。
「ありがとう」
千里は、かなりその気になっていた・・・・でも成人式には貯金が間に合わない。
 
「そうだ。今日は浴衣を買っていきます」「あら、ありがとうございます」
「すみません。今日はまだあまり勉強してなくてよく分からないので、適当なものを選んで頂けますか?1万円以内で」
 
鈴木さんはしばらく見ていたが赤い地のシックな雰囲気の花柄の浴衣を選んでくれた。帯・草履とセットで8000円からの値下げ価格6000円だった。
「何でしたら今、お着付けしましょうか?着付け料サービスしますよ」
と言われたが、その格好で家まで歩いて帰るのがまだ恥ずかしい気がした。
「すみません。今日はいいです」
「では浴衣の着方を解説したパンフレット差し上げますね」
「ありがとうございます!練習します」
 
千里は商品を入れた紙袋を受け取ると、心躍るような気持ちで家まで戻った。
 
自宅に戻って、まずシャワーを浴び、ついでに肌のお手入れをした。
きれいに仕上げた時のすべすべの足の肌の感触が、千里は好きだ。
自分の身体に自分で惚れてしまいそうになる瞬間。
 
少しどきどきしながら、タンスから女性用の下着を取り出し、身につける。ふだんは中性的な下着を着けているのだが、一応女性用の下着も持っていた。そしてスカートとカットソーを着てから、壁に寄りかかり、浴衣の着方の解説書を読み始めた。浴衣を着る前に女性的な気分に心をシフトしておきたかったのでスカートを穿いた。スカートは5着ほど持っていたが、それを穿いて外に出たことはあまりない。もっぱら家の中での着用になっていた。
 
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