【娘たちの努力の日々】(上)

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“ミチ”は出生名・桃川春道として1978年2月27日5:56、北海道の奥尻島で生まれた。 
北海道の地理を言うと、利尻島・礼文島は北端の稚内の西40-50kmの場所にあるが、奥尻島はずっと南、渡島半島の真ん中付近から西30kmほどの所にある。江差町からは50kmほど西北、函館からなら100kmほどである。
 
島との交通はフェリーと飛行機があり、フェリーは江差町からは通年、せたな町からは夏期のみ連絡がある(夏は江差便が1日2本、せたな便が1本、冬は江差便が1日1本)。飛行機は函館空港との間に1日1便である。
 

ミチは物心ついた頃から自分は女の子だと思っていた。しばしば姉の服を勝手に着ていたりしたという。
 
友人たちはミチの「性別」をそれなりに理解してくれていた。しかし親は頑なに拒否し、男を強制した。
 
ミチは「ただひとりの男の子」として、何事でも姉よりも優先されていた。御飯はいちばん美味しい部分を与えられる。お風呂には父の次に入る。父が出港している間は一番風呂である。お菓子が1つしか無かったら、姉には我慢させてミチがもらっていた。それで姉からは嫉妬され意地悪された記憶も多い。色々物を壊したのを随分ミチのせいにされた。
 
父親からは常に男らしくあれと言われ続けた。近所の悪ガキにいじめられたら「殴り返して来い」と言い、殴ってくるまで家に入れないと言われて閉め出される。ミチは運動が苦手で水泳もできなかったが「漁師の跡取りが泳げなくてどうする?必死で手足を動かせば泳げるようになる」と言われて、ふんどし1丁で海に放り込まれたりしたこともある(マジでおぼれて近所の人が助けてくれた)。 
また母親はミチが姉の服を着ているのを見ると物凄く怒り酷く折檻した。 
「男の癖に女の服を着るような変態はろくな者にならん」
 
などと言って、着ていた女物の服を全部脱がされ、裸で真冬の屋外に放り出されたりした。
 
「こんな悪い子はちんちん切ってしまう」
 
などと言って、包丁をちんちんに当てられたこともある。ミチ自身はちんちん切って欲しいと思っていたので、むしろ期待して見ていたら、全然反省していないと思われたようで、母は少し血が出るくらいまで皮膚を切った。しかしちんちんを切り落としてはくれなかった。
 
ミチは「切り落としてもらえなくて」泣いたが、母は「痛い目にあって反省して泣いた」と思ったようであった。
 
ミチはその傷が治るまで、母から「これ付けてなさい」といわれて厚い布のようなものをもらい、当てていたが、それがナプキンという女性専用の品であることを当時のミチは知らなかった。
 

ミチは音楽が好きで、よく歌を歌っていたし、小さい頃から姉が習っているエレクトーンの教本を勝手に見て家にあった中古のエレクトーンを弾いていた。耳で覚えた曲も探り弾きをしていた。
 
もっとも、これを姉がいる時にやると
「私のエレクトーン勝手に弾かないでよ」
と文句を言われていた。
 
自分もエレクトーンかピアノを習いたかったものの、母に言うと
「男がピアノとか習ってどうする?」
などといわれ、相手にしてもらえなかった。
 
そんなことを言われる度にミチは女の子になりたいと思った。
 

ミチが両親や姉と心理的な距離を感じたままの生活を送っていた中で、友人たちは結構ミチの「趣味」に協力的で、少し古くなった女物の服を譲ってくれたり、女物の下着を買いに行くのに付き合ってくれたりした。それで親には内緒で結構女の子の服を着て友達と遊んだりしていた。またそういう女物の服を保管してくれる友人までいた。
 
ミチは勉強も頑張ったので、札幌の公立高校に合格することができ、奨学金をもらって札幌に出てきた。友人たちの多くが島内の高校に進学する中、彼女がわざわざ札幌の高校に進学したのは、勉強のレベルの問題もあるにはあったが、居るだけで辛い家庭にこれ以上居たくなかったことと、「自由に女装したい」という気持ちがあったからだ。もっとも父は「これからの漁師は学問もできなきゃいかん」と言って札幌の高校に送り出してくれた。
 

ミチは学校には一応男子の制服で行くものの、学生服の下には白いブラウス、その下には女の子シャツと女の子パンティをつけていた。そして学校から寮に戻ると自室ではずっとスカートを穿いて過ごしていた。ミチは高校入学以来、もう男物のブリーフは穿かなくなった。でもまだブラジャーをつける勇気は無くて、実は最初に買ったブラジャーはサイズが合わなくて着けられなかった。 
父からは野球部でも柔道部でもいいから運動部に入れと言われていたのだが、ミチはそもそもいつも体育が1だったし走ると100m走るのに35秒くらい掛かっていた人なので、運動部など入れてと言っても入れてもらえる筈もなかった。ミチは親には黙って合唱部に入った。
 
ミチはアルトの声域が出ることをアピールして、アルトに入れてくださいと言ったものの、顧問の真枝先生は、男子をアルトに入れる訳にはいかないと言い、テノールに入れられる。それでもミチは練習する曲のソプラノパート、アルトパートも一所懸命練習していた。
 

そんなミチを見ていて真枝先生は
「あなたテノールに入りたくないなら、いっそピアニストになる?」
と言った。
 
「私、姉のエレクトーンを自己流で弾いていたんですけど、ピアノは弾いたことがないんです」
とミチは言ったが
「練習すればいいよ!」
と先生は笑顔で言った。
 
ピアノが未経験でエレクトーンだけ経験している人は、楽譜の読み方や和音・音階などの理論などは分かるものの、指の力が足りなくてピアノの重い鍵盤を打てない。それでミチはボールを握ったり、指立て伏せなどもして指の力を付けた。弾き方そのものについてはクラスメイトや合唱部でピアノのできる子が色々教えてくれたし、真枝先生も結構昼休みなどに教えてくれた。
 
それで5月の下旬には、ミチは簡単な曲なら左手で和音を4分音符刻み弾きしながら右手でメロディーを弾く程度の演奏はできるようになる(エレクトーン弾きにはいちばん易しいピアノ奏法)。左手アルペジオ奏も6月頃にはできるようになった。
 
「桃川君、君音楽の才能があるよ。3年生が抜けた後の秋以降は正式に合唱部のサブピアニストになってもらおうかな」
と真枝先生はミチの上達ぶりを見て言った。(一応最上級生からメインピアニスト、その下の学年からサブピアニストを選ぶ) 
「あんた初見や即興に強いんだよね」
「たくさんポップスを弾いてきたからかも」
「聴き取り奏は凄い完璧だもんね!」
 

そんな中、高校最初の学期が終わろうとしていた1993年7月12日(月)22:17北海道南西沖地震が発生。震源すぐ近くの奥尻島を高さ30mを越える津波が襲った。
 
この日、ミチは寮の自室で宿題をしていたのだが、寮母さんが飛んできて 
「桃川君、奥尻島が大変なことになっている」
と知らせてくれた。
 
何も情報が無い中、ミチは寮母さんの部屋で夜通しNHKを見ていた。そして夜が明けた後も、教室にも出て行かずにずっと1日テレビを見て過ごした。実家や親戚の家などに電話してみるもののつながらない。どうも向こうの電話線自体がいかれているようである。
 
夕方、出身中学の水野教頭から電話がある。警察の無線電話を借りて電話してきたということだった。
 
「桃川君。君に辛い話をしなければならない」
と水野先生は言った。
 
「君のご両親、お姉さんが津波で亡くなった」
 

担任の坂下先生と、合唱部の真枝先生がミチに付き添ってくれて、やっと再開されたフェリーに乗り、ミチは奥尻島を訪れた。
 
亡くなったのは両親と姉だけではなかった。双方の祖父母や何人もの親戚、そして多くの友人が命を落としていた。ミチの実家があった地区がいちばん津波の被害が激しかったのである。津波で全て持って行かれて何も無くなりただの瓦礫の山と化している実家付近の様子にミチは衝撃を受けた。
 
この地震・津波による死者行方不明者は230人に及ぶ。その内202名が奥尻島である。
 
集落合同の葬儀に出席し、白木の骨箱多数は現地のお寺さんに委託する。ミチはお寺さんに払う供養料も無かったが、顔見知りの住職さんは「君がおとなになってお金に余裕ができてから少し納めてくれればいいから」と言って無料で預かってくれた(火葬代金は災害救助法により自治体が払ってくれる)。 

高校は、ミチの成績が校内でも10位前後という優秀なものであることから、授業料を全免すると言ってくれた。それでミチは取り敢えず高校はやめずに済んだものの、月1.5万円の奨学金で教材費・生活費をまかなえるものか不安だった。しかしそれ以前に思考停止状態に陥っていた。
 
地震からわずか半月後の7月23日、ミチの連絡役を務めてくれている水野教頭から連絡が入る。
 
「桃川君、義援金の第一次配分が出ることになったから、口座番号教えて」
「あ、はい」
 
義援金か・・・2〜3万くらいもらえるのかなあと思い、通帳のつけ込みにいったら、奥尻町から21万円も振り込まれていたのでびっくりする。水野先生に電話する。
 
「あのぉ。21万円も入っていたんですが」
「亡くなった方1人あたり3万円、取り敢えずのお見舞い金として配布したんだけど、これはあくまで第一次配分だから。まだ義援金が入って来たら、もっと渡せると思う」
 
両親と姉、両方の祖父母で合計7人亡くなっているので、3x7=21という計算らしい。ミチは命が金に換えられているみたいで不快だったものの、とにかくこのお金は助かった。
 
「助かります。私、こないだ奥尻島まで往復した時のフェリー代も担任の先生から借りたままなんですよ。取り敢えず返さなきゃ」
 
「僕としてはそれは当面借りたままにしておくことを勧める。多分もっと色々お金のかかることがあるよ」
「そうかも」
 

途方に暮れていた所で、21万円もらい、もしかしたら何とかなっていくかもという気持ちになると、取り敢えず夏休みの間、合唱部の練習に出て行くだけの元気は出た。
 
担任の先生に、義援金を少しもらえるみたいなので、それで先日借りた交通費を返しますと言ったら
「ああ、それ出したのは真枝先生」
と言う。それであらためて真枝先生にその件を言ったら
「じゃ、義援金の配分が完全終了したら返してもらうよ」
と言って笑っていた。
 
ともかくも合唱の練習に出ていくようになったことで、少し生活のリズムが戻ってくるものの、それでも寮の部屋の中でぼーっとして過ごしている時間が結構あった。その間、ミチは部屋の中で女の子の格好をしていた。練習に行く時だけ学生ズボンを穿いたが上はワイシャツと見せて実はブラウスを着ていた。 
この頃は既にミチの「女装癖」は寮生の間でもバレていたので、寮の食堂に行く時は開き直ってスカート姿のまま行ったりもしていた。そういう「女性化の進行」が実はミチの心を支えていた。
 

お盆が過ぎた時、合唱部の真枝先生が彼女に言った。
 
「桃川君。私があなたの保護者になってあげる。うちで暮らさない?大学を出るまでの学費も面倒を見てあげるよ」
 
奥尻島の外に頼れる親戚などもなく途方に暮れていたミチはその申し出を受けたいと思った。しかしそこには大きな問題があった。
 
「私、実はオカマなんですけど、いいですか?」
 
とミチは勇気を出して言った。
 
「知ってるよ」
と先生は笑顔で言った。
 
「だから、桃川君が女の子の服装をしていたかったら、していてもいいからね。女の子の服も、パンティーやブラジャーも買ってあげるよ。私、娘が欲しかったけど、男の子しかできなかったからさ、桃川君が私の娘になってくれると嬉しいな」
 
ミチは涙が出る思いだった。ミチは
「済みません。他に頼る人がいないんです。よろしくお願いします」
と頭を下げた。
 
「OKOK。私をホントにお母さんだと思ってもらっていいからね。だから、私のことを『お母さん』と呼んでいいよ」
 
と言ったあとで先生は少し悩むように言った。
 
「春道ちゃん、ナプキンは要るんだっけ?」
「えっと・・・実は使い道が無いんですけど、時々つい買っちゃいます」
と恥ずかしそうに答える。
 
「うん。それもいいんじゃない」
と真枝先生は笑って言った。
 

それでミチは寮を引き払い、真枝先生の家で暮らし始めた。家賃食費代わりに奨学金を全額先生に渡した。先生は彼女のことを家庭内では「ミチ」と呼んでくれた(授業や合唱部では「桃川さん」と女子に準じた呼び方をしてくれた)。ミチも先生のことを「お母さん」と呼んだ。むろん校内では「真枝先生」と呼ぶ。 
そして先生は法的にもミチの未成年後見人になってくれた。
 
先生がミチの後見人になって最初にしてくれたのは、相続放棄の手続きである。ミチの父は漁船のローンなどで多額の借金を抱えていたし、母もその保証人になっていた。またミチの姉も奨学金や学費ローンの債務が存在した。何も手続きをせずにいたら、その3人の債務が全部ミチに掛かってくる所だったので、裁判所に申請してこれを全部放棄した。お陰でミチは多額の借金からは免れた。 

ミチは先生の自宅で暮らすことで、自宅のピアノ(小型のグランドピアノ1台と夜間練習用のクラビノーバ)でたくさん練習することができた。それでピアノの腕もどんどん上達していった。
 
先生は当時、事実上ひとり暮らしであった。ご主人は数年前に事故で亡くなっている。先生のご両親は函館でお兄さんの所で暮らしており、ご主人のご両親はご主人の妹さんが住む長万部におられるという話であった。
 
先生には大学1年生の息子・亜記宏がいた。彼の通う大学は市内ではあるのだが、自宅からはやや遠いので、大学近くのアパートでひとり暮らししている。彼の部屋はそのままにしてあるので、ミチはその隣の3畳ほどの部屋に入った。この家を建てた時、子供が2人できたら1部屋ずつ使わせればいいねと言っていたのだが、子供が1人しかできなかったので、その部屋は事実上物置になっていたらしい。これを亜記宏も入れて3人がかりで大掃除してそこで生活できるようにした。
 

亜記宏は普段はアパートに居て、時々自宅に戻ってくるのだが、それでミチとも結構話す機会があった。
 
「ふーん。ミチちゃん、そういう格好したら充分女の子に見えるじゃん。僕と一度デートとかしてみる?」
 
「え〜〜!?」
「僕が嫌い?」
「そんなことないです」
「じゃデートデート」
 
と言って彼はミチを度々町に連れ出してくれた。一緒に商店街を歩いたり、マクドナルドなどに入ってみたり、映画に一緒に行ったりしていると、何だか胸のときめきを感じた。私、亜記宏さんのこと好きになっちゃいそう・・・と当時ミチは悩んでいたが、戸籍上男である自分が彼の恋人になれる訳が無いと自分の気持ちを抑え込んでいた。むしろ自分は亜記宏の妹のような存在になれたらいいなと思っていた。
 
彼はミチのことを「みっちゃん」と呼ぶようになった。ミチは「お兄さんと呼んで良いですか?」と言ったのだが「アキとでも呼んで」と言うので、「アキさん」とか「あっちゃん」と呼ぶようにした。
 

真枝先生は自分でも色々調べてくれたようで、性転換のことも色々教えてくれた。
 
「大雑把に言うと、おちんちんとタマタマを取って、ヴァギナを作る手術ということみたいね」
「ええ。そうなんです。だから、ちゃんと男性とセックスできるようになるらしいです」
「すごいね。私もそこまでできるようになるとは思わなかった」
「私、その手術のこと知るまで、ヴァギナというものを知らなかったんですよねー」
 
「ああ。自分の身体についてないものはよく分からないよね。でも性転換して女の人になっても子供は産めないみたいけど、それは我慢できる?」
 
「そこまでは自分でも調べました。最初知った時はショックだったけど、仕方ないと思います。子供産めなくても女の身体になれたら、それでいいです」
 
「戸籍上の性別も変更できないから、男性と結婚することもできないけど、それも我慢できる?身体を女の身体にしてしまった以上、もちろん女の人とも結婚できないよ」
「それも悩んだけど、仕方ないです。我慢します」
 

「でも結局、手術を受けるにはタイに行くのがいいんですね?」
 
「今のところ、そうみたい。国内でもこっそりやっている病院はあるらしいけど、何かあった時のこと考えたら、正規の医療としてやっている所を使ったほうがいいよ」
 
(埼玉医科大が正規医療として性転換手術を始めるのは1998年である)
 
「でもお金かかりますよね」
「だいたい100万円くらいみたいね」
「きゃー」
「渡航費とか手術後のケアに掛かる医療費考えたら150万円、できたら200万円くらいは用意が無いとまずいと思う。さすがに出してあげられないけど、就職してから頑張って貯金して手術を受けなよ」
「はい」
 
「でも、その前に去勢だけしておく?」
「あ・・・・」
「去勢手術は20万円くらいでできるみたい。そのくらいなら出してあげるよ」
「だったら、それ、私、先生に借用書書きます」
「別にいいのに」
 
それでミチはその年の冬休みに旭川市内の某病院で去勢手術を受けた。また、その先生に処方箋を書いてもらって、女性ホルモンの飲み薬を飲むようになった。おかげで、ミチは高校を卒業する頃までにはAカップサイズのバストが形成されることになるし、肩なども張ったりせず、充分女として通用する身体になることができた。
 
亜記宏はミチが高校2年くらいになると
「最近、みっちゃん、女の子の香りがするね」
と言っていた。
 
「女の子の香り?」
「なんか甘酸っぱい匂いなんだよ」
「うーん。。。分からない。ホルモンのせいかなあ」
「だと思う。女の子同士では分からないのかもね」
 

その去勢手術を受ける直前、高校1年の12月、合唱部のクリスマス会で、ミチは合唱部のピアニストとしてステージ・デビューすることになる。近隣の高校の合唱部が集まって開いたイベントであったが、ここで2曲演奏する際の1曲は2年生の祐川先輩が弾き、もう1曲をミチが弾いた。
 
「ピアニストは特別だから、制服でなくてもいいのよね。背広とか着る?」
「あ・・・えっと・・・」
「それともドレス着る?」
「ドレス着たい!」
「よしよし」
 
実際には祐川先輩が白いドレス、ミチは青いドレスを着た。
 
ミチのドレスは先生が貸してくれたものだが、当日楽屋で着替えることになる。しかし学生服を着て女性用の楽屋に入りドレスに着替えるのは大いに問題があるので、ミチは青いセーターにチェックのスカートという女子高生っぽい格好で会場に入り、女性用更衣室で祐川先輩と一緒にドレスに着替えてステージに出た。 
これは物凄く素敵な体験だった。
 
「ミチちゃん、ドレス着たら演奏技術が1割あがった気がする」
などと祐川先輩から言われ、
「だったら、私ずっと女の子の格好してようかなあ」
などと言ったりした。
 

「お母さん、私いっそ女子制服で学校に出て行ったりはできないかなあ?」
とミチは真枝先生に訊いた。
 
「そうだねえ」
 
真枝先生はその件を教頭先生に相談してみたものの、戸籍上男である以上、女子制服での通学は認められないという回答だった。
 
「正式にはダメということなんだけどさ、女子制服作るだけ作っちゃう?」
「作りたい!」
 
それで真枝先生は女子制服を作ってくれたので、それ以降、ミチは授業は学生服で受けるものの、放課後は女子制服に着替えて部活に参加したりするようになった。朝は色々問題があり難しいものの、下校時には女子制服のままで下校したりしていた。
 
また高校2年の時の体育の水泳の授業には体育の先生の許可を取って女子用水着で参加した。実際当時のミチはバストが発達し始めていて男子水着を着るのは問題があったのである。お股の所は先生がうまく処置してくれた。
 
「それ、チンコも取ったの?」
と男子のクラスメイトに訊かれたが
「ひみつ」
とミチは答えておいた。
 

ミチは北海道教育大学の特設音楽課程に合格。真枝先生が高校の校長とも共同で大学側と交渉してくれた結果、女の格好で通学するのは問題無いと言ってもらえた。学生証も『桃川美智』の名前で、写真も女の子っぽく撮ってもらった。 
ミチは大学にはむろんずっと女装で通学し、女子トイレ・女子更衣室を使用していたので、そもそも彼女が女ではないことに気づく人は少なかった。ちょっと声の低い女だと思われている感じだった。
 

その年の秋くらいのことだった。
 
亜記宏とデートまがいのことをしていた時、彼が言った。
 
「みっちゃん、知ってる。男でもね、女の声を出す方法があるって?」
「えっと・・・・それカストラートとか?」
「うん。変声期前に睾丸を取っちゃうのはひとつの手。でも変声期が過ぎてから睾丸取っても変声前の声に戻ることはできない」
「うん。だから私ってこんな声」
 
「ところが変声してしまっている男でも、実は女の声が出せるんだって」
「ほんと!?」
 
それはアメリカでMelanie Anne Phillipsという人が自分のホームページで公開していたもので、アップロードされていた彼女の声は、女性の声にしか聞こえなかった。
 
メラニーはその訓練法を記録したCDを販売していると書いてあったので、早速アメリカから取り寄せてみた。そしてミチはそこに書いてある方法で一所懸命練習を続けた。
 
この訓練法については真枝先生も
「これ画期的だね」
と言って、ミチの声の出方について色々アドバイスしてくれた。
 

そういった訓練の成果が出始めたのは翌年の夏頃である。
 
「みっちゃん、最近けっこうハイトーンで話してるね」
と大学の友人が言った。
 
「いやあ、今までみたいな声だと私、性別を誤解されかねないと思ってさ」
「ああ、確かに男の声と思えば男の声にも聞こえる声だったよね」
 
しかしメラニーが「声で男女を判断するのはピッチよりも話し方や話す内容だ」と言っていたのをミチは身にしみて感じていた。
 
入学以来、ミチが男みたいな声の高さで話していても、誰もミチが男とは思いもしなかったのである。それはミチの話し方が「歌うように話す」女の話し方であった上に、ミチの話す内容が女の子の話す内容だったからである。 
当時ミチはAカップのバストを持っていたし、水着になる時はアンダーショーツできれいに押さえ込んでから着ていたので(当時まだタックは知られていない)、ミチは昨年の夏にもその年の夏にも、友人に水着姿を曝している。それでよけいミチは女として「パス」していた。
 

1998年1月15日、ミチは成人の日を迎えた(ミチは2月27日生まれなのでこの時点ではまだ19歳である)。
 
むろん他の女の子同様、振袖(レンタルだが)を着て成人式に出席した。会場の入口では、名簿をチェックした人が一瞬「あれ?」と言ったものの、女性用の記念品・リップブラシをもらった。男性用の記念品はネクタイピンだったようである。
 
そしてこの日、亜記宏とデートしたミチは初めて彼とホテルに行った。 
「うしろ」を使うのはお互いにためらわれたものの、ミチはお口でしてあげて、彼も気持ち良さそうにしていた。乳首を随分舐めてもらって、こちらも脳が恍惚の状態になっていた。
 
「みっちゃん、パンティ脱がないの?」
「勘弁して〜。あっちゃんの、もう一度舐めてあげるから」
「うん」
 
彼もわざわざミチのあれを見るつもりも無かったようである。
 
「僕たちって結婚できるんだっけ?法的には兄妹みたいなものだよね?」
「私の戸籍が女じゃ無いから無理」
「あっそうか!」
 

ミチはこの大学で4年間、みっちりと音楽の専門教育を受けた。日々の課題が物凄いのでとてもバイトなどする余裕は無かったものの、奨学金のおかげで真枝先生にはほとんど迷惑を掛けずにこの4年間を送ることができた。 
小さい頃からピアノのレッスンに通っていた子たちにはどうしてもかなわないものの、彼女のピアノ演奏は充分プロの領域に達していると大学の先生は褒めてくれた。
 
ミチは2000年3月に大学を卒業した。
 
大学では中学・高校の音楽教師免許も取得していた。ミチの母校は女装のままミチの教育実習をさせてくれた。しかし実際に女装で教師として採用してもらう可能性はゼロだと思った。
 
結局入ったのが、道内の楽器製造会社である。彼女の音楽的な能力を買って管楽器や弦楽器の最終的な音程調整の仕事を頼むと言われた。ミチは幼児段階で音楽教育を受けていないため絶対音感は無いのだが、相対音感で0.1Hzの違いを聴き分けることができた。
 
ミチはこの会社に大学時代に使ったのと同じ「桃川美智」の名前で就職し、女装で勤務したが、社内で彼女の戸籍が男であることを知っていた人のは社長夫妻だけであった。
 

ミチが就職した翌年の夏、亜記宏が彼の会社の同僚女性と結婚した。ミチは亜記宏と法的に結婚することはできないものと納得しているつもりではあったもののショックだった。しかし結婚式では、明るく「新郎の妹」として振る舞い、花嫁をサポートした。翌年にはふたりの間に女の子も生まれた。
 
この子供の誕生はまたミチの精神を落ち込ませた。結局自分は子供を産むことができないから、どうしても天然女性には勝てないという気持ちがとめどもなくミチの心を苛んだ。
 
なおミチは亜記宏が彼女と婚約して以降は1度も性的な関係を持っていない。実は何度か誘われたものの「彼女に悪いよ」と言って断った。
 
そして亜記宏の結婚以降、彼との関わり自体がほとんど無くなってしまったし、真枝先生の家にも何となく出入りしにくくなってしまった。
 

2007年、ミチは不幸の連続に見舞われた。
 
不幸が束になってやってきた感じであったが、いちばんショックだったのが、真枝先生が癌で急逝したことである。
 
亜記宏が喪主となり、親族なども来てくれて葬儀は済ませたものの、ミチは再度天涯孤独になってしまった気分だった。
 
そして先生の四十九日が済んだ後、唐突に亜記宏が
 
「高校大学時代の学資として貸したお金400万円を返せ」
 
という手紙を送ってきた。ミチ本人としては、いつか返したいと思っていたものの、具体的に先生との間で借用証書は交換していない。高校時代の生活費などについて先生は「返す必要は無い。あんたは私の娘なんだから」と言っていたが、亜記宏としては色々思う所もあったのかも知れない。
 
ミチは彼に電話して話し合おうとしたが、電話には出たくないようで取らない。ミチの方が弁が立つので、言い負かされるのを避けているのかとも思った。代わりに彼は「この恩知らず」とか「やはりオカマ野郎って非常識だ」とか執拗な精神攻撃をする手紙やメールを送ってくるので、ミチはノイローゼ気味になった。
 
ミチは彼と一時的には恋愛関係にもあったし「週末妻」になっていた時期もあったので、別れたとはいえ、その彼からそんな冷たい態度を取られて二重にショックだった。むろんミチには400万円も彼に渡すほどの資力は無かった。 

そんな中、勤めていた楽器製造会社が倒産した。
 
給料は実は2年ほど前から残業代がカットされ、1年ほど前からは遅配が続いており、この時点で3ヶ月分未払いだった。夏のボーナスも出ていない。退職金が出るかどうかも不明という状況だった。どうもたちの悪い所から借金していたようで、会社に明らかにその筋の男たちがきて、社員を追い出した。社長夫妻も、社長の弟夫妻も消息不明であった。
 
これ以外にもミチはこの年、色々嫌なことがあって、ミチは死にたくなった。 

性転換手術を受けるための資金として貯めていた120万円ほどの定期預金を解約して引き出し、更にクレカで限度いっぱい100万円キャッシングした。手持ち現金と合わせて230万円近い現金を手にした。
 
「これだけの現金があったら後先考えずにタイに行って性転換手術したい気分だなあ」
と独りごとを言う。実際には有名病院は何ヶ月も前からの予約が必要だ。 
最初に住んでいたアパートを解約する。荷物はトランクルームに預けた。3ヶ月分の料金6万円を払う。移動は引越業者に頼み、これが4万掛かった。残金約220万円である。なお電気・ガス・水道・NHKは解約し、健康保険は任意継続にした。
 
奥尻島に渡り、親や姉の遺骨を預かってもらっているお寺にお参りをした。いつか墓も作りたいとは思っていたものの、とてもそこまでのお金は無い。 
住職に
「ずっと払っていなかった永代供養料の足しに」
と100万円渡そうとしたが、住職は
「あんたの着ている服を見たらこれしか受け取れん」
と言って50万円は返してくれた。
 
「あ、やっぱり、しまむらじゃダメですかね」
「エルメスとか平気で着て来れるようになったらもう少し受け取るよ」
と老年の住職は笑って言った。
 
「ところであんた性転換手術はしたの?」
「まだお金足りないですー」
「ああ、あれ高いんだろ?」
「健康保険が利いたらいいんですけどねー」
「大変だね。でも手術したら戸籍の性別も直せるようになったんだって?」
「そうなんですよ。だからその内、ちゃんと手術して女になって、お嫁さんに行きたいんですけどね」
「おお、頑張りなさい」
 

しばらく話している内に住職が言った。
 
「色々辛いことあるだろうけど『物事はなるようになるべ』と思って、気張らずに生きて行こうよ」
と住職は言った。
 
ああ、死ぬつもりでいるのを見透かされたかなと思った。住職が
「これやる」
と言って、ガラスの玉をくれた。
 
「下から覗いてみ」
と言うので見ると、玉がレンズになり、中に封じ込められた小さな仏像の絵が見える。
 
「勢至菩薩だよ。君は午年生まれだから、午年生まれの人の守護本尊」
 
「ありがとうございます」
と言って、ミチはそれを財布の中に入れ、退出する。
 

帰る前にお経をあげてあげるよと言われ、本堂に行く。住職は随分長いお経をあげてくれた。お経の内容は分からないものの、ミチは何だか涙がぼろぼろ出てきた。
 
お寺のお堂を出た時、突然雪が降ってきた。太陽は照っているのに雪が降るという不思議な空模様だった。
 
その光景を見ていたら美しいメロディーが浮かんだので、お堂の軒先を借りて、それをいつも持ち歩いている作曲ノートに書き留めた。この曲に桃川は『雪の光』というタイトルを付けた。
 

ミチは本土に戻ってから、死に場所を求めてさまよった。死ぬ前に女の身体になっておきたいなと思ってその筋では知られた、旭川市内の性転換手術をしてくれる病院に行った。ここは実は高校時代に去勢手術をしてもらった病院でもある。
 
本式の性転換手術をしてしまうと数ヶ月動けないので自殺もできない。それでミチはペニスの単純切断をしてもらうことにした。少なくともペニスが無ければもう男ではないし、これなら我慢すれば何とか数日で動けるだろう。
 
それで入院して手術してもらい、一週間入院して退院の日、精算が終わるのを待っていたら、明らかに高校生くらいの『男の娘』が入ってきた。聞き耳を立てていると、彼女も陰茎切断術を申し込んでいた。ミチは考えた。
 
自分も高校生くらいに性転換しておきたかった。しかし真枝先生が、手術するのはいつでもできる。大学を出てからでも遅くないと言って、去勢手術だけ受けさせてくれた。
 
あの子も陰茎切断しようというのであれば、きっと既に去勢は済んでいるのだろう。
 
しかし高校生が、その先までしてしまうのは早すぎるとミチは思った。 

それでミチはその高校生の所に行った。
 
「あんたにはこの手術はまだ早すぎる」
 
そう言うと、彼女は動揺していた。その動揺した様子を見て、やはりこの子に声を掛けたのは正解だったと思った。それで言う。
 
「逃げちゃいなよ」
 
その子は少し迷っていたようだったが、やがてミチにお辞儀をして裏口から逃げて行った。
 

陰茎切断術の費用は60万円と思っていたのだが
「あんたは以前うちで睾丸除去をしているから、その20万円を引いて40万円」
と言われる。
 
なんか儲けたような気分になった。
 
待合室で手元に残ったお金を数えてみると1,234,567円だった。
 
この数字すごーい!と思って思わず現金の写真を撮っておく。そのあと120万円を真枝先生の口座に振り込んだ。亜記宏の口座ではなくわざわざ先生の口座に振り込んだのは、せめてもの腹いせである。
 
この時、口座に残っていた千円以下の端数が振り込み手数料に足りないので、実際にはATMに120万1千円入金した。それで手元には33,567円の現金が残った。 
そしてレストランに入って精密に計算しながら3万円ジャストになるようにオーダーして食べた。我ながらよく入るもんだと思った。まあこの世で最後の食事だからいいよね?これで残金が3567円になる。何となく旭川駅前からバスに乗る。これが旭岳山麓行きで運賃は1430円だった。残金2137円。
 
ああ、山を見ながら雪に埋もれて死ぬのもいいなと思った。それでロープーウェイの切符を片道(1200円)買い、上まで行く。
 
これで残金はもう937円になったので、帰りの切符を買うお金も無い。自販機で120円のコーヒーを買い、残金817円。
 

そして雪道を歩いている内に、本当に美しい景色が目に飛び込んできた。まだ凍っていない池に旭岳の姿が反射している。
 
「ああ、ここでいいな」
と桃川は思った。
 

気がついたら、男性2人に揺り動かされ、何度も頬を叩かれていた。
 
痛いじゃないと抗議したくなったが、声が出なかった。
 
「君、名前は?」
と訊かれる。
 
名前はえっと・・・私名前なんだっけ?と思ったものの、やがて自分の名前らしきものが口から出てくる。
 
「ももかわはるみち」
と言おうとしたのだが、口がうまく動かず
「ももかわはるみ」
くらいで切れてしまった。
 
「はるみさん?」
「取り敢えず意識あるみたいだね」
「ロープウェイの駅まで連れていくよ。俺の背中に乗って」
 

その後、また気が遠くなってしまったが、次に記憶がはっきりしているのは病院で診察を受けている時であった。
 
ミチはその2人の男性に自分の名前を「ももかわ・はるみ」と思われているようだということに気づくが、この時はあまり「生き延びる」気持ちが無かったので、それでもいいかと思った。
 
それで結局彼女の名前はそれ以降「桃川春美」で定着してしまう。
 
彼女を助けてくれた2人の男性は秋月・大宅と名乗った。ふたりは知人が経営している美幌町の牧場に行く予定だったと言い、春美にも一緒に来ないかと誘った。
 
春美は財布に817円しかなくて自殺のしようもないので、2人に付いていくことにする。
 

そしてこの牧場で桃川が出会ったのが、虹子・星子の姉妹である。
 
彼女たちは一卵性双生児の姉妹なのだが、言語障碍で言葉が話せないということであった。
 
「でもこの子たち歌が好きなんだよ」
と言って、大宅が古いカラオケの機械を操作して森高千里の『ストレス』を掛けると、姉妹はマイクを1本ずつ持って、楽しそうに「歌い」出した。 
しかし彼女たちは発声できないので、むろん歌声は聞こえない。しかしいかにも楽しそうに「歌って」いるのである。
 
「なんか凄くいい雰囲気ですね」
「でしょ?この子たち凄く歌うのが好きなんですよ」
と秋月も言った。
 
春美はふたりの歌を見ていると、何だか楽しい気分になってきた。
 

牧場のオーナーはいい人で春美に
 
「何もしなくてもいいから、牛たちを眺めてごはんを食べているといい。まあうちは粗食だけどね」
などといっていた。
 
しかし何をしないのも悪いので、教えてもらって牛の乳搾りをさせてもらった。もっとも初日は牛のおしっこをまともに掛けられて、思わず悲鳴を上げた。 
「それやられると何日か臭いが取れないんだよねー」
などと秋月は笑って言っていた。
 
春美が牧場に来た翌々日、女子高生くらいの女の子がふたり
 
「ただいまー」
「お邪魔します」
と言って入って来た。
 
「ただいま」と言った方はこの牧場に9月頃から勤めている子で、もう1人はその友達ということだった。
 
どちらも言葉遣いが東京の人である。
 

話していると、その女子高生2人(実際には退学したらしい)は歌手志望だったらしく、ふたりとも凄く歌が上手かった。
 
それを見ていて春美は唐突に思いついた。
 
「ね、ね、2人羽織みたいにしてさ、虹子ちゃん・星子ちゃんのバックで八雲ちゃん・陽子ちゃんが代理歌唱したらどうかな?」
 
それは面白いと秋月さんたちも言い、やってみる。
 
森高千里の『ストレス』をカラオケで流しながら、虹子・星子の2人がマイクを持って楽しそうに「歌う」。そのバックで八雲と陽子が声を出して代理歌唱する。
 
「ね、これバンド形式でも良くない?」
と見ていたオーナーさんが言い出す。
 
何でも秋月さんがギター、大宅さんがベースを弾くらしい。
 
そこで、ふたりが伴奏して虹子・星子の「歌」、八雲と陽子の発声歌唱で演奏してみた。
 
「あ、いい感じ、いい感じ」
「でもギターとベースだけでもいいけど、もう少し音に彩りがあるといいなあ」
とオーナーの妹さんが言う。
 
「電子キーボードでも入れる?」
「誰か弾けない?」
 
「あ、私が弾こうか?」
と春美が言う。
 
「弾ける?」
「私、教育大の特設音楽課程・ピアノ専攻を出てるので」
「それは凄い!弾いて弾いて」
 
そこで秋月・大宅のギター・ベースに加えて春美のキーボードも入れて演奏した。 
「おお、いい感じ、いい感じ」
と言ってオーナーが拍手をしてくれる。
 
しかし『ストレス』はバンドで演奏するには微妙だね、と言っていた時、八雲が「『See again』を演奏しませんか?」と言った。
 
津島瑤子の今年の大ヒット曲である。津島瑤子は数年前に『出発』という曲をヒットさせたものの、その後は鳴かず飛ばずで、一発屋とみなされていた。しかし今年のこのヒットで、一発屋を返上したのである。
 
「あれは結構リズミカルだね。でも声域広いよ」
「私と陽子なら歌えます」
「それは凄い」
 
それでキーを確認した上で、大宅・秋月と春美で『See Again』を演奏する。それに合わせて虹子・星子が「歌い」、八雲・陽子が声を出す。
 
「結構うまく行ったね」
「ちょっと間違ったけどね」
 
虹子が筆談で「この歌好き」、星子も「気持ち良かった」と書いた。
 
「ねね、今月下旬にうちの町で歌謡祭があってさ、ゲストにしまうららさんも来るんだよ。それに出ない?」
 
「ああ、そういうのに出るのも楽しいかもね」
 
それでこの7人で練習してそのイベントに出ようということになった。 
オーナーが早速申込書を書く。
 
「あ、ユニット名は何にしようか?」
 
「うーん」とみんなで悩んでいた時に春美は唐突に思いついて言った。 
「ツインチェリーズにしよう」
「どういう意味?」
 
「ボーカルの2人が双子だからツイン、バックコーラスが桜木八雲と桜川陽子でどちらも桜の字が入っているからチェリー」
 
「私たちバックコーラスだったのか!」
「メインボーカルじゃないもんね」
「確かに」
 
「僕たちは?」
と大宅が訊く。
 
「おじさん・おばさんたちは伴奏スタッフということで」
と春美は楽しそうに言った。
 
つい数日前まで死ぬことしか考えていなかったことをもうこの時彼女は忘れてしまっていた。
 

このイベントでツインチェリーズに大いに興味を持った、しまうららさんはうちの事務所からデビューしないかと誘った。
 
東京に出て行き、主として気良姉妹以外の5人でしまさんの事務所ζζプロのポップスを統括する観世専務と話したものの、微妙に違和感が残った。ただ、当面インディーズで活動し、反応を見てメジャーデビューを考えるという方針には同意し、それで7人は年明けくらいに契約をする方向でいくことにした。曲に関しては、数々のヒット曲を生み出している東郷誠一さんから1曲頂き、もう1曲はコンペで募集しようかという話であった。
 
この方針でツインチェリーズがデビューしていたら、おそらくほとんど話題にもならず消えて行っていたであろう。
 
ところがここで大きな事件が起きる。
 
八雲は12月中旬に東京に赴き、ζζプロとデビュー曲制作のスケジュールについて打ち合わせた。
 
世間ではあまり認識されていないのだが、実は彼女はこのユニットのマネージングリーダー的役割を果たしている。それは本来の共同リーダーである大宅と秋月は「時々牧場に来る」人であり、ふだんは山歩きばかりしていて連絡がつかず、春美は自律神経が弱くて遅刻魔、陽子は感情の起伏が大きく精神的に不安定。虹子・星子では交渉事ができない。
 
それで牧場に常駐していて、男性的な性格で交渉事も嫌いではない八雲が事務的な面の管理者になっていたのである。
 

だいたい話がまとまり北海道に戻るのだが、この時、旭川駅でドリームボーイズの蔵田孝治にナンパされてしまった。
 
元々が男性同性愛である蔵田は、八雲のような男装女子もかなりツボなのである。
「君、男の子?女の子?」
などと訊かれる。
 
婚約者の樹梨菜がついていたので「未遂」に終わったものの、蔵田は浮気をごまかすかのように、この子たちが今度歌手デビューするというから、曲を書いてあげるんだよ、などと言い出す。
 
それで取り敢えず牧場に来て、ツインチェリーズのパフォーマンスを見た蔵田は面白い!と言ってこのユニットを気に入り、牧場のオーナーから美味しい料理とお酒をふるまわれてご機嫌となり、東京に戻ると、助手!のケイをスタジオに呼びつけて、一緒にツインチェリーズのデビュー曲を制作した。
 
ただこの時、蔵田は「ツインチェリーズ」という名前がうろ覚えになっていて「チェリーツイン様」という宛名書きで楽曲データをζζプロに渡した。持って行ったのはケイで旧知の兼岩会長に渡したのだが、それを見た兼岩は
 
「蔵田君がチェリーツインと書いているから、君たちの名前はチェリーツインにしよう」
と言って、勝手に改名してしまった!
 
《ツインチェリーズ》の命名者である春美は「え〜〜!?」と言ったものの、芸能界に数年身を置いていた八雲と陽子は
 
「これよくあることですよ。偉い人に言われたら、その名前を使った方がいいです」
と笑いながら言っていた。
 
なお「ツインチェリーズ」は画数的には20画で凶だが、「チェリーツイン」は16画で吉になる。
 
しかし蔵田とケイの力(リキ)の入った作品のおかげで、チェリーツインはインディーズ・デビュー曲が4万枚も売れ、一躍全国に名前を知られることになる。
 
また彼女たちのパフォーマンスは、全国の多くの言語障碍の子供を抱える親たちを勇気付け、支援学校、作業所、支援施設などが、BGM用などの名目で購入してくれたりもした。
 
なお、デビュー前の段階で、蔵田としまうららの話し合いで、八雲と陽子はお面で顔を隠して気良姉妹のバックで踊るということを決めた。
 
これは2人が「メテオーナ」として一時的にマスコミに顔をさらしていたので、素顔を露出するとふたりの身元が結構な人に知れ渡ることになり、八雲の喫煙補導問題、陽子の姉の放火事件のことで騒がれる可能性があると考えて、2人は当面顔も名前も出さないほうがよいという配慮もあった。
 

ところで春美は自殺未遂前にクレカで思いっきりキャッシングしていたのだが2008年4月になって、そのクレジット会社から連絡が来た。
 
春美は素直に謝り、実は自殺未遂してそのあと牧場で療養させてもらっていたことを説明した上で、借金は少しずつでも返していくと言ったのだが、向こうが 
「それではこの残債を返却してください」
と提示した額が妙に少ない。
 
「あのぉ、2007年11月に100万円キャッシングで借りた分は?」
「え?」
 
それでクレジット会社の人が確認してみると
「翌月きちんと決済されています」
と言う。
 
それで春美も慌てて確認した所、自殺未遂の直前に真枝先生の口座に振り込んだ120万円が、先生の口座が廃止されていたようで「該当口座無し」で手数料だけ引かれて戻って来ていたこと、また少し遅れてアパートの敷金の払い戻し分が入金していたことが判明する。それで翌月分は決済されていたのである。 
「いえ、決済は先月分まできちんとされていたのですが、桃川様の住所が分からず、請求書が宛先不明で戻って来ていたのでカード自体は使用停止にさせて頂いていたのですよ」
 
とクレジット会社の人は説明する。
 
「従って残金はリボ払いの残高32万円なのですが」
 
「それなら払います!」
と言って、春美は牧場に来て以来頂いたものの実際には使い道もないためほぼまるまる貯金していたお金が40万円あったので、それで一括返済した。 
クレジット会社は事情が事情であったこと、連絡が取れたら即対応してくれたこと、それに安定した収入があるようだということから、カードは無効にせずそのまま使えるようにしますと言った。
 
それでクレカの件は片付いたものの、結果的には亜記宏には全くお金は渡さなかったことになる。しかし精神力を回復させていた春美は、考えてみたらそもそも「亜記宏に」お金を「返す」いわれはない気がした。
 
この件に付いては弁護士さんに相談した所「一切金は渡さない方がいい」と弁護士さんは言った。へたに10万でも渡してしまうと、債務があることを春美が認めてしまうことになるのだという。
 
そもそも真枝先生は春美の未成年後見人だったので、被後見人の費用を本人の財産から支出する、あるいは本人の債務として処理するには全て裁判所の許可が必要だったはずだというのである。
 
これはしばしば被後見人を食い物にする悪質な後見人がいるので、それを防ぎ被後見人を守るための規定なのだという。
 
「裁判所にちゃんと収支報告書も出していたと思いますよ。おそらく教材費とか通学定期代とかを桃川さんが入れていた奨学金で支払っていたのではないでしょうか。そのくらいしか裁判所は認めませんから」
 
「そのあたり全然聞いてなかった」
「もし裁判になったら、その収支報告書を開示請求して確認できると思います」
 
「後見人になるというのは養子縁組はしなくても事実上、親になるということなんですよ。親が子供に『お前を育てるのにこれだけ掛かった。その分の金を返せ』とか言いますか?真枝さんは無償であなたを育ててくれたんだと思いますよ」
 
という弁護士の言葉に、春美は涙を流した。
 
それに弁護士さんは高校時代の学資の援助額で400万円というのはそもそも計算がおかしいと言った。授業料は全免になっていて、しかも奨学金をまるまる渡していたのだから、せいぜい100万円くらいにしかならないはずと試算してくれた。
 
しかしそもそも返済の必要性が無いものだから、向こうが何か言ってきたら、弁護士名で債務不存在の主張を内容証明で送りつけますよと言ってくれたのだが、結局亜記宏はその後、全く連絡してこなかった。
 

チェリーツインのインディーズデビューから1年半後。
 
2009年7月、日本の奄美大島付近の領域で皆既日食が見られた。これを大宅と秋月が見に行ったのだが、彼らはそこで雨宮三森・上島雷太・醍醐春海の3人と遭遇した。もっとも最初会った時大宅たちは3人の正体に気づかず、普通の親子連れだと思い込んでいた。
 
しかし後になって上島と雨宮のことに気づき、10月下旬に偶然醍醐春海と遭遇したことから、自分たちが書いている曲を雨宮先生に添削してもらえないかと打診した。
 
チェリーツインの曲はデビュー曲こそ蔵田孝治から頂いたものの、その後は蔵田が多忙でなかなか曲が書けない(実はケイが忙しかったせいである)ということで、大宅と秋月のペアが主として書いていた。しかし自分たちの曲はあまり売れないようだと、彼らは認識していたのである。
 
雨宮はチェリーツインのビデオを見て「面白い」と言い、その話を快諾。彼らが次のアルバム用に書いた曲を、半分はケイ、半分は醍醐にリライトさせた上で、大宅たちの曲にどういう問題があったのか、これまで何曲もヒット曲を出しているケイや醍醐がなぜこう書き直したのかを、長時間掛けて講義し、ふたりもかなり刺激を受けていたようであった。
 

それでケイたちが書き直してくれた曲をベースにアルバムの制作をしていた春美はふと『雪の光』という曲のことを思い出した。
 
制作中のスタジオの片隅で、春美はふと雨宮にその曲のことを漏らした。 
「それ記憶で譜面を再現できないの?」
「あのあと私自殺未遂起こして、記憶がかなり飛んでいるんですよ。実際に記憶に頼って書いてみたこともあるのですが、もっといい曲だった気がして」
 
「でも死ぬ前って自分を美化しているよ。実は大したことない曲だったかもよ」
「その可能性はあるんですけどねー。あのノートがあれば」
 
「そのノートはどこかで無くした訳?」
「たぶん旭岳の雪の下だと思うんですよ」
 
ふたりがこの曲のことでことばを交わしたのはその時だけで、春美もそんな会話を雨宮と交わしたことを、ほとんど忘れていた。
 

2009年12月25日。チェリーツインは「アイドル・クリスマス」という東京でのイベントに参加するために上京した。
 
ついでにアルバム用のPVも撮影しようということにしていた。このイベントでは新しいアルバムの曲もいくつか披露し、結構な反響を得ていたようであった。
 
翌日、大宅・秋月・春美の3人は雨宮に呼び出された。この時点で3人は何の用事なのか聞かされていない。ただ“旅の用意”をしてこいと言われただけである。それで気良姉妹のことは八雲・陽子に頼み、3人で出てきたのである。 
待合せ場所に行くとローズ+リリーのケイと、KARIONの和泉がいた。この時点で3人はケイがKARIONのメンバーでもあることは知らない。
 
そしてそこに雨宮が現れ、唐突に旭岳に行くよと言った。
 
雨宮はその場にいた和泉とケイにも一緒に来るように言い、6人で新幹線に乗った。
 
「北海道に行くのに飛行機じゃないんですか?」
とケイは尋ねたが
「私の弟子で霊感のある子が大間からフェリーに乗れと言ったからよ」
と雨宮は言った。
 
このフェリーの上で和泉はKARIONのヒット曲の中でも出来としてベスト3に入れてもいい曲『海を渡りて君の元へ』を書いた。
 

当時の新幹線は八戸までである。八戸で雨宮の筆頭弟子・新島鈴世と合流。彼女は冬山を歩くための装備を用意しておいてくれた。
 
特急つがるで野辺地まで行き、大湊線に乗って終点の大湊まで行く。ここに雨宮の弟子・毛利五郎がいてエスティマを持って来ていた。その車に乗って大間まで行く。一泊して翌朝のフェリーで車ごと函館に渡る。そして車でひたすら走って、午後、旭岳の麓に到着した。
 
ロープーウェイで上に登る。春美はちょっと心が痛むような気分だった。今回は全員往復切符を購入しているが、前回春美は行きの切符しか買っていない。(帰りは病人搬送ということで結果的にタダで乗せてもらっている)
 

しかし冬の旭岳は白一色である。
 
こんな一面の雪野原でノートなんか見つかるのか?とケイは思ったものの、春美が自殺未遂をしたという場所の付近を歩いていたら、何かを感じる場所があった。同じ場所に和泉も立ち止まった。
 
「あんたたち何か感じた?」
と雨宮が訊く。
 
「いや偶然、私も和泉もここに何か感じたんです」
とケイが言う。
 
「よし。男に掘らせよう」
と雨宮は言い、大宅・秋月・毛利の3人でそこを掘る。すると本当にその下にノートが埋もれていたのである。ノートはかろうじて読める感じであった。
 
このノートを発見した時、そこから何か白いガラス玉のようなものが落ちて雪の中に埋もれたことに、その場に居た誰もが気づかなかった。
 
 
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