【娘たちの逃避行】(3)

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「すみません。どなたでしたっけ?」
と赤い髪を男子みたいに短髪に刈り上げてバスケの練習をしていた高梁王子(たかはしきみこ)はコート脇に寄って行き高田に言った。
 
「こんにちは、ミズ高梁。私は札幌P高校の女子バスケ部のコーチをしている高田裕人と言います」
「まさかスカウトですか?」
 
「高梁さんがうちに来てもいいと思うなら、ぜひ来て欲しいです。奨学金とかも出させるようにしますよ」
「ごめんなさい。私、当面日本に戻るつもりないから。今は取り敢えずここに『居る』だけだけど、夏休み明けからは1年間の留学に切り替えるつもりなので」
 
「私は今U19日本代表の選手選考の作業もしているんですよ」
「日本代表?」
「7月にU19世界選手権が開催される。日本は昨年11月にアジア大会で優勝して世界選手権の参加資格を得ているんだよ。そのチームを編成するんだ」
 
「でも私、K高校を辞めちゃったから、半年間は大会に参加できないんですよ」
 
「うん。インターハイには出られない。でもU19日本代表になる条件は日本国籍の女性であることと、1990年1月1日以降の生まれであることだけ」
 
「なるほど。確かに私、日本人だし、たぶん女みたいだし、1992年7月30日生れで今16歳だし」
 
「たぶん女って女性だよね?」
「性別検査受けさせられましたよ。あそこに突っ込まれてショックだった」
「未婚の女の子にはショックな検査みたいね」
「確かに女性であるって診断書もらいました」
「だったら問題無いね。だから、君は日本人女子高生なんだから、ルビー高校に在学したまま、日本代表になることもできるんだよ」
 
彼女はK高校が内紛でおかしなことになった時、学校を辞めてアメリカに渡り、こちらの高校に入学したのである。学期が中途半端なので、手続き上は岡山市のミッションスクールE女子高に2月付けで転校しており、そこからアメリカの同じ系列の教団が運営しているボーディングスクール(私立高校)に「滞在」している形になっている。
 
つまり彼女の学籍は現在岡山市内のE女子高に存在しているらしい。彼女は実際にはそちらに籍を置いているだけで、生徒名簿にも掲載されていなかったため所在確認に手間取った。この話は昨年中学の全国大会で活躍した選手で今年E女子高に進学した子が居て、その子が高梁の名前を出していたことから気づいたのである。その子は高梁がE女子高に入ったと聞いて急遽ここに進学先を変更したらしい。それでE女子高バスケ部は1年生3人を中心とするチームで先日のインターハイ地区予選に臨み、192対0という恐ろしいスコアでブロック優勝、岡山県大会に駒を進めたのである。(岡山県の地区予選は各地区ごと幾つかのブロックに分けて予選が行われ、各ブロック優勝校が県大会に進出する。なお強豪のK高校やH女子高はそもそも地区予選が免除されている)
 
ただ高梁本人も言ったように、彼女はこの夏から1年間はこのアメリカのルビー高校に正式に留学する予定である。つまり彼女が日本の高校に戻ってくるのは2010年夏になる。その時点で日本の高校の2年生に編入されるので、彼女は2010,2011年のインターハイ・ウィンターカップに出場可能である(県予選を勝ち上がれば)。
 
王子はしばらく考えていたようである。
 
「それって日程は?」
「7月から実質的なチーム活動を始める。大会は7.23-8.2 バンコクで行われる」
「じゃ1ヶ月だけ?」
「各自は自分のチームで充分鍛錬をしているものという前提だね」
 
「他にどんな人が招集されるんですか?」
と彼女が訊くので名簿を見せる。
 
「きゃー、私きっと村山さんに殴られる」
などと言っている。
 
やはりウィンターカップで旭川N高校の部員を殴ったことを本人としてもやや反省しているようだ。
 
「彼女は温和な性格だから、そんなんで仕返ししたりしないよ。何よりも殴られた本人が全然気にしてないから」
 
「ほんとですか?」
「どう?7月の1ヶ月間、こちらに来て、世界のバスケットを体験しない?」
 
「やりたいです。その期間はどっちみちこちらは夏休みだし」
「よし」
 

手術が終わって病室に戻ってきた時、薫は
「お父ちゃんごめんね」
とベッドに横たわったまま、父に感謝と謝罪の言葉を言った。
 
「棒も穴も無くて、男でも女でもない状態ではどうにもならんからな。俺の息子は死んだけど代わりに娘ができたんだと思うことにするから」
と父は渋い顔をしながらも、その「生まれたての新しい娘」に答えた。
 
結局、薫の母は父と話し合い、薫の性転換手術を認めてやることにした。手術は薫がペニスの切断手術を受けた旭川市内の病院で6月上旬に行われ、薫はとうとう女性の身体を獲得した。実はこの病院で1年ほど前に切断したペニスをそのまま冷凍保存してもらっていたので、今回はそれを利用して造膣を行ったのである。
 
薫はこの手術を受けるために大学を2009年前期いっぱい休学している。入学即休学というのに大学側は困惑したものの「病気治療のため」という説明に納得してくれた。結果的には入学時点では入学金のみを納入し、9月に後期授業料を納めればよいと言ってもらった。その結果実は、薫が勝手に学資保険を解約していたことで払えなくなり困っていた授業料についても助かったのである。
 
薫は退院するとすぐに宇田先生を通してバスケット協会に接触し、協会指定の医師の診察をあらためて受けて、8月、2010年2月20日から有効の正式の女子選手としてのカードを発行してもらった。薫の性別移行という事情を汲んで、協会も所属チーム空欄のままの登録を認めてくれた。
 
薫は性転換手術を受けたことをあまり人には言いたくなかったので、11月に千里と再会した時は、今年の前半は男女混合のチームに入っていたなどと嘘を言っていた。実際には6月に手術を受けて8月いっぱいまでは休養していたので、9月から個人的にトレーニングを始め、10月に大学に復帰すると大学の「女子バスケット愛好会」のメンバーと一緒に練習をしていた。ただ薫はA大学の女子バスケ部の再建の目処が立っていないことから、当初の予定通りクラブチームへの参加をもくろみ、それで自分と合いそうなチームが無いかを見に行った関東総合で千里や麻依子の入った千葉ローキューツが活躍しているのを見て、彼女たちに接触し、合流することになる。
 

6月19日(金)。溝口麻依子は会社の昼休みに近くの定食屋さんに入ろうとしていたら、そこで意外な人物に遭遇した。
 
「佐藤さん!?」
「わっ。溝口さん?」
 
「何か久しぶりだねー」
と言って同じテーブルに就く。
 
「佐藤さん、U19世界選手権出ますよね?」
「ううん。出ないよ」
「え〜?そうなんですか?佐藤さんが出るのと出ないのとでは戦力が全然違うのに」
「私、当面バスケはしないから」
 
「あれ?今どこかのチームに入ってないんですか?」
「プー太郎(死語)」
「嘘!?」
 
「いや、入る予定のチームが廃部になっちゃって」
「聞きましたよ。でも佐藤さんほどの人なら、どこにでも入れるでしょうに」
「なんか燃え尽きちゃってね」
 
その時、ふと麻依子はそのことを思いついた。
 
「佐藤さん、ちょうどU19の後になりますが、8月8-9日に、シェルカップってオープン大会があって、うちのチームも出るんですけどね。どこのチームにも入ってないんだったら、助っ人で出ません?オープン大会だから、とりあえず女子でさえあればチームに登録していなくても出られるんですよ」
 
「女子であるって確認書はこないだもらった」
「へー!」
 
それで彼女は「参加資格確認書」なるものを見せてくれた。
 
《佐藤玲央美(平成2年12月28日生)は確かに女性であり、女子選手として国内外の大会に出場可能であることを確認しました》
 
「ほほお」
「私、今バスケ協会に登録ないと思ってたけど3月にスカイ・スクイレルに入った時、チームまとめて選手登録して、その時バスケ協会の会費も払っていたらしい。それで私、バスケ協会自体には籍があるのよねー。それで4月にセックスチェック受けてくださいと連絡が来て」
 
「大変ですね!」
 
「中学の時にも1回、高校の時も世界選手権の前に1回検査されてる」
 
「千里は毎年受けさせられてるみたい。年に2度検査されたこともあったって」
「まああの子は仕方ないね。でも私も中学生の時は嫌〜と思ったけど、もう3度目になるとヴァギナを見られることに耐性ができてしまう感じ」
「千里もそんなこと言ってた」
 
「でもオープン大会か。だったら出てもいいかなあ」
「じゃ名簿に書いておきますよ。あ、携帯のアドレス交換できます?」
「OKOK」
と言ってふたりは赤外線でデータを交換した。
 
「でもほんとに何もしてないんですか?」
「一応基礎的なトレーニングはしてる。でも私も練習パートナーも4月から一度もボールに触ってない。だからそろそろ私のバスケの勘もさび付いて来始めているかも」
 
「ボールに触らずにどういう練習してるんです?」
「走って泳いで体操して素振りして」
「へー。でも練習パートナーってどういう人なんです」
 
それで麻依子は玲央美から彼女の練習パートナーの名前を聞き驚くように言った。
 
「それうちのチームの設立者ですよ」
「え〜!?」
 

旭川N高校女子バスケ部はあまりにも凄かった昨年の3年生が抜けた後、戦力の低下に苦しんでいた。特にゴール下で絶対的な存在であった留実子と、相手がどんな強固な守りをしていても無関係に遠距離から得点を奪う千里の穴はあまりにも大きすぎた。
 
新人戦こそ道大会準優勝であったものの、インターハイの地区予選では準決勝で旭川A商業に敗れてしまう。3位決定戦に勝ってギリギリで道大会に進出したものの、OG会から不安の声があがる。
 
更に5月上旬の嵐山カップでは準決勝でL女子高に敗れ、釧路Z高校との3位決定戦にまで敗れて4位に甘んじる。そこで宇田先生は5月下旬のシニア大会の参加枠を(N高校が遠征費まで負担してあげた上で)開園したての旭川C学園に譲った上で、その日程で層雲峡合宿を行った。
 
学校の許可を得て5月29日(金)と6月1日(月)はベンチ枠候補の20人について公休にしてもらった上でそのメンバーとOGの久井奈・麻樹・暢子・留実子・睦子にも参加してもらい、4日間、層雲峡の温泉宿に籠もって基礎的な技能を徹底的に再確認する練習をしたのである。
 
その結果このメンツの中で久美子がスターター枠を伺うほどの成長を見せたのと、(揚羽の妹の)1年生・紫が完璧にPG枠争いに加わる活躍を見せ、それに刺激されて3年生の永子・2年生の愛実が物凄く頑張り、かなり全体の底上げをすることができた。
 
そして迎えた6月19-21日の道大会であるが、それでも難産であった。
 
ブロック決勝で当たった札幌D学園に苦戦して最後に久美子のスリーが出て1点差で辛勝したものの、その疲れも出て決勝リーグ初戦・L女子高に負けて黒星スタートとなる。翌日の釧路Z高校戦は勝ったものの、その時点でP高校2勝・L女子高1勝1敗・Z高校2敗で得失点差を入れて暫定3位と厳しい状態であった。
 
L70-64N P82-64Z N78-74Z P72-66L 得失 P24 L0 N-2 Z-22
 
そしてL女子高がZ高校に勝って2勝1敗とし、これで多くの人が
 
「今年の代表はP高校とL女子高か」
と思ったのだが、最後の札幌P高校との試合で絵津子・不二子・ソフィアの2年生「中核トリオ」(新鋭トリオから改名)が試合前にシャワールームで冷水を浴びて気合いを入れ直し頑張ったことから、激戦になる。延長戦にもつれる厳しい戦いの末に最後は絵津子のスティールからソフィアのブザービーターとなるスリーが決まってP高校に5点差勝利。
 
L68-66Z N99-94P
 
この結果旭川N高校は最後の試合で2勝1敗と星を並べ、得失点差わずか1点の差でかろうじて2位、3年連続のインターハイ進出を決めた。
 
\P_ N_ L_ Z_ 勝敗 得 失 差
P -- 94 72 82 2-1 248 229 19
N 99 -- 64 78 2-1 241 238 3
L 66 70 -- 68 2-1 204 202 2
Z 64 74 66 -- 0-3 204 228 -24
 
今大会の得点女王は湧見絵津子、スリーポイント女王は伊香秋子、リバウンド女王は歌枕広佳、アシスト女王は森田雪子、と結果的には代表になった2校がタイトルを独占した。MVPはいったん渡辺純子と発表されたものの純子はそれを辞退して該当者無しとなった。そして決勝リーグ最後の試合で絵津子に負けた悔しさにまたまた丸刈りにしようとした所を猪瀬キャプテンに停められ「女子の丸刈りは校則違反」と十勝先生からも叱られた。
 
今年のインターハイは大阪である。
 

6月26日(金)。
 
千里の従姉の吉子が茨木市で結婚式をあげた。千里はまたまたインプで大阪まで走り、わざわざ千里中央の駐車場に車を停めるとモノレールで茨木市に入り、式場まで行った。そして本当に偶然に、この結婚式の披露宴会場で貴司と遭遇する。
 
新郎が貴司と同じ会社の同じバスケ部員だったのである。
 
結局貴司のマンションまでついて行った千里はそこで貴司からセックスを求められるが「貴司に恋人がいる限りは私はセックスNG」と拒否する。しかし我慢できない貴司は千里にとうとうそのことを告白する。
 
「彼女とこないだセックスしたんだけど、到達できなかった」
 
そこまでは言わなかったが、実は貴司は昨年の秋以降、千里とのセックス以外では1度も射精できずにいるのである。
 
「ああ。浮気ばかりしてるからじゃないの?もう男性能力無くなったんなら、いっそ手術して女になっちゃう?」
「それは嫌だ」
 
ほんとかなぁ〜?結構貴司ってその気(け)ありそうだけど。
 
「そばでオナニーしてもいい?」
などと貴司が言うので、オナニーくらい勝手にどうぞと言ったものの、貴司がかなり苦しんでいるようだったので
 
「仕方無いな。私の左手だけ貸してあげる」
と言って左手を丸くして貴司の方に差し出した。
 
すると貴司は嬉しそうにそこに自分のものを入れて来てわずか2−3分で逝くことができた。
 
「やった!逝けた!」
と喜ぶ貴司に千里は微笑んで
「良かったね」
と言う。その晩は結局身体を密着させるようにして一緒に寝た。
 

翌朝、千里はありあわせの材料にコンビニで少し材料を買ってきて足してカレーを作る。貴司は千里の手料理を嬉しそうに食べていた。千里はそれを見ながら、男女交際の基本は餌付けなのかなあ、などとも思った。
 
千里はこの週、結婚式のためにこちらに出てきていたので引き出物まで含めて荷物が多い。それで駐車場まで貴司が荷物を持つのを手伝ってくれたのだが、その時、貴司は
 
「これも持って行きなよ」
と言って、千里にバッシュを渡した。
 
去年の国体の時に貴司が買ってくれたバッシュで、千里はこれでアジア選手権とウィンターカップを戦った。
 
「うん。またもらう」
と千里は笑顔で受け取った。この日は半ばセックス同然のことをした後で、千里も素直になれたのである。
 
結局ふたりで、この日貴司の試合がある京田辺市まで一緒にドライブした。そして千里はその試合を客席で見学したのだが、この時、千里は貴司を見ている女性が自分以外にもいることに気づく。
 
彼女と視線がぶつかる。彼女もこちらに気付き、そして自分のライバルであることを認識した雰囲気であった。お互いに激しい視線がぶつかりあうが、千里はこの子は手強いぞと思った。
 

貴司のチームの監督は、友人であるという千葉ローキューツの監督宛てに千里を推薦する推薦状を書いてくれた。それで千里は週明けの月曜日、いつもの体育館に出て行く。
 
するとそこに旭川L女子高出身の友人・溝口麻依子がいるのでびっくりする。麻依子は関東の実業団に入るためにこちらに出てきたものの、そのチームが廃部になり、旭川A商業出身の愛沢国香に誘われてこのチームに参加していたのである。
 
それで結局千里はこのチームに入ることになり、ローキューツの監督はその場でノートパソコンを使って千里をバスケ協会に選手として登録した。
 
そうして千里がローキューツに入団しバスケ協会のデータベースに登録されたのは6月29日である。
 
U19世界選手権に派遣される日本代表はその少し前、6月24日に発表されていた。
 

そしてその代表を発表する直前、6月23日になって、やっと高田コーチは熊野サクラを見付けた。
 
彼女は大阪近郊で居酒屋のチェーン店に勤務していた。彼女を見付けたきっかけは大阪の大学に進学した鞠原を訪ねてきた高校時代のチームメイトが「そういえば熊野サクラに似た子が居酒屋の厨房にいるのを見た」と言ったのがきっかけである。ただどこの店で見たかは記憶が曖昧であった。それで鞠原から連絡を受けた高田は鞠原の大学のバスケ部員に協力を求めて、目撃情報のあった近辺の居酒屋に総当たり攻撃を掛けたのである。多人数で3日間居酒屋に通って、やっと発見することができた。
 
フロアスタッフではなく、厨房スタッフで、あまり客の前に姿を見せないことから、発見に時間がかかったのである。彼女はあまり気が回らないし話し方もぶっきらぼうなので接客には向かないとみなされたものの、身体は丈夫そうということで厨房の要員に使われていた。
 
「実家が苦しいんで、私が働くしか無いんです」
とサクラは高田コーチに訴えた。
 
「聞いてるよ。お父さんが破産したんだって?」
「ええ。父の事業は停止しているし、母も保証人になっていたので巻き添え破産して、その母の給料も今、最低生活に必要な分を除いては差し押さえられていて、妹の学費も出ないんですよ。だから私が働いて、妹の授業料を払っているんです」
 
「どのくらい仕事してるの?」
「ここの会社は、従業員たるもの、365日・24時間働くべしということで。でも少しは寝ないとさすがにもたないので、今、朝9時から夜中3時頃まで働いて、いったん寮に帰って4時頃から7時頃まで寝てます」
 
「3時間しか寝てないの!?」
「ナポレオンは3時間しか寝てなかったと言われました」
「休みは?」
「休みを取るなんて怠け者の考えだって」
 
「なんか酷いなあ。それで給料いくらもらってる?」
「4月は最初だったから8万円でした。5月は12万円もらいました。でも寮費を3万円払わないといけないし、食費はまかないなので安くしてもらうけど月に3万円は掛かるから、4月は2万しか送金できませんでした。5月も私、4回も遅刻しちゃって1回につき5000円で2万円引かれたから4万送りました」
 
「ちょっと待って。君、9時から3時までなら時間外勤務が10時間にも及ぶよ。それに土日も出勤していたら、残業代が凄まじい金額になるのでは?」
 
「残業代って何ですか?」
 

高田コーチはこのサクラの一言で切れた。
 
「今すぐそこ辞めなさい」
「えーーー!?」
「僕がもっとまともな会社を紹介するから。給料20万円は保証する。そしたら7-8万円は妹さんに送ってあげられるんじゃない?」
 
「ほんとに?」
「君が勤めている会社はどう考えてもおかしい。労働基準法違反もいい所だよ」
 
「実は私も、社会で仕事するって、こんなに大変なんだっけ?と少し疑問を感じ始めていたんです。でも、毎日の勤務が厳しくて、あまりよく考えている時間もなくて」
 
「過酷な勤務を押しつけて精神的に疲労させ、思考停止にしてしまうんだよ。でもそんな状態で仕事をしていたらミスや重大事故を起こしかねない。君が加害者になってしまう可能性もあるよ」
 
「実は・・・こないだ同僚が醤油と消毒薬を間違っちゃって。瓶が似てるんですよ。お客さんが臭いが変だというので食べる前に気づいたんで事故にはならずに済んだんですが」
 
「他のお店だけど、その手の事故で死者が出たこともあったはずだよ。君、人殺しで刑務所には入りたくないでしょ?」
 

サクラは泣きだした。
 
そして「私やはりここ辞めます」と言うので、高田コーチは店長に電話させて辞意を伝えさせた。
 
「急に辞められたら困るから交代の人が見付かるまでは仕事してくれと言われてるんですが」
とサクラが言う。
 
それで高田コーチは電話を代わると、かなり強い口調で店長に労働基準法違反を指摘した上で、何なら弁護士を伴ってそちらに行くし、未払い分の時間外手当を請求する訴訟を起こす準備もあると言った。すると向こうは突然軟化し、辞めても構わないと言った。ただ時間外手当はこちらは残業を命令した覚えは無いので支払えないと主張した。
 
それで高田コーチがそのまま電話で交渉。残業手当の件はいったん棚上げにした上で、今月分の給料は日割り計算にして規定通り来月10日に支払うこと、寮は今月一杯で退去することなどを決めた。
 
それで高田コーチは彼女を取り敢えず東京に連れて行き、ホテルを取って3日くらい、ひたすら寝なさいと言った。
 
それがもう代表を発表しなければならない24日の朝である。そして高田自身も少し仮眠した上で午後から篠原監督・片平コーチとも会談。3人の同意の上で、U19世界選手権・日本代表12名のリストを協会に提出。夕方キャプテンの入野朋美と副キャプテンの前田彰恵の2人だけ出席させて記者会見を開いた。
 
選手全員が揃った写真は7月1日の代表合宿初日に公開することを言明した。
 

その日川崎美花(24)は、厳しい表情で業務部長のことばを聞いていた。
 
美花が勤めているJI信金は経営が実質破綻し、来年4月付けで第二地方銀行のKL銀行に救済合併されることが、つい1週間ほど前、総代会(一般企業の株主総会に相当するもの)の直前に発表された。総代会は大荒れだったらしい。
 
「当信金の経営状態がひじょうに厳しいため、福利厚生費関係をかなり切り詰める必要があります。そのため、女子テニス部、女子陸上部は6月いっぱいで廃部が決定しました。所属していた社員選手は全員退社が決まっています」
 
6月いっぱいと言われても今日は6月26日である。
 
「ただ女子バスケ部については2部リーグにあって3年前にリーグ準優勝を達成した実績もあり、判断をいったん保留することになりました。今期2部リーグで優勝した場合、もしくは準優勝でも入れ替え戦に勝ち1部リーグに昇格することができた場合は存続を認めることになりました」
 
それは凄まじくハードな条件である。現状の戦力では絶対無理と美花は思った。
 
関東2部はABの2リーグに別れており、各リーグの優勝チームが戦って最終的な2部優勝チームを決める。つまり優勝にしても準優勝にしても、各リーグでの優勝が必要。そのためには事実上全勝する必要がある。
 
しかし2年前に準優勝した時の中心選手はみな、もっと強いチームに移籍していってしまった。良い成績をあげても給料などの待遇が変わらないので良い条件を提示するところに移動したのである。
 
業務部長は更に言う。
 
「また7月以降、このチームはプロ契約のみとします。現在社員選手の方はプロ契約に変更をお願いします。あるいはバスケ部を辞めて純粋な社員になりたいという方は、ご相談に応じます」
 
確かに最近はどこもプロ志向だ。社員選手といっても実際には契約社員で仕事は何もしておらずひたすら練習をしている実質プロという選手もよそのチームでは多い。美花は午前中だけ融資関係の仕事をして午後からは練習をしていた。
 
「プロになった場合、どのくらいの報酬をもらえるのですか?」
という質問が入る。
 
それに対して業務部長が答えた内容は衝撃的であった。
 
「年俸60万円を基本とします」
 
60万か・・・意外にもらえるな、と美花は思ったのだが、再質問の応答を聞いて絶句することになる。
 
「年俸60万円って、それ毎月60万円ですか?それともまさか年間で60万円ですか?」
「1年で60万円です。1ヶ月に直すと5万円ですね」
 
ちょっと待て。月5万円でどうやって暮らせと言うのだ!?
 

6月28日(日)。
 
美輪子の長年の恋人・浅谷賢二が、1年程度以内に正式に籍を入れる前提で、美輪子のアパートに引っ越してきて同棲を開始した。
 
正直美輪子としても、姪の吉子の結婚式に出席して、自分も結婚してもいいかなあと思ったのである。そのことをつい賢二に言うと
「じゃ、取り敢えず同棲しようよ」
と言って、半ば強引に押しかけてきたのである。
 
「押しかけ女房ならぬ押しかけ亭主かな」
などと本人は言っていた。
 
「賢二が女房になってもいいけど」
と美輪子。
 
「うーん。僕あまり女装は得意じゃないから」
などと本人は言う。
 

それで最終的には、今美輪子が使っている部屋を夫婦共同の部屋にすることにはするものの、すぐには荷物が整理できないということで、取り敢えず賢二の荷物を3月まで千里が使っていた部屋に運び込んだ。
 
(ここは数年後にはふたりの子供の部屋になる)
 
友人の軽トラを借りてきて、賢二の友人数人に協力してもらって荷物を運び込んだのだが、すぐには使わない物の入った段ボールを取り敢えず天袋に放り込もうとしたら、そこに何か入っている。
 
「あれ、何かバッグが入ってますよ」
「ありゃ、もしかして千里ちゃんの忘れ物かな」
 
それで美輪子に見せると
「あ、これ千里が探していたバッグだ。こんな所にあったのか」
と言う。
 
先月千里は自分のナイキのバッシュが無いことに気付き、それを入れたはずのスポーツバッグが旭川に残ってないか訊いてきていたのである。
 
「じゃ送ってあげよう」
ということになり、千里の住所を書いた紙を美輪子が賢二に渡し、賢二はバッグを持って近くのコンビニに出かけた。
 

同じ6月28日、札幌P高校の女子寮。
 
P高校はいくつかの女子寮を持っているが、ここはバスケ部・バレー部・ソフトボール部の選手だけが入寮できる寮である。この高校には道内各地から生徒が集まってきているし、特に強豪として知られるこの3つの部の部員には寮に入っている子が多い。
 
その日、たまたま寮を訪れたOGの太平さんが渡辺純子の部屋を見て
「汚い!掃除しなさい!こんなんだからこないだN高校に負けたんだよ」
と言った。
 
純子の部屋の散らかりようは前々から寮母さんをはじめ、たまに見に来る高田コーチ(男性でこの寮の中に入れるのは高田コーチとバレー部の杉岩コーチくらいである)からも言われていたのだが、簡単には譲らない太平さんから、しかも先日の敗戦に絡めて言われると、純子も「ごめんなさい」と言って、渋々掃除を始めた。
 
「手伝ってあげるよ」
と言って、親友の江森月絵・伊香秋子も一緒に掃除をしてくれる。
 
床に散らばっている下着類(純子の部屋には平気でブラジャーや生理用品が転がっている)をとりあえず押し入れに入れようと秋子がふすまを開けると・・・・押し入れに詰め込んであった物体群が雪崩を起こして秋子の上に落ちてきた。
 
「きゃー!」
「大丈夫?」
「これ、どういう入れ方してあったのよ?」
 
太平さんが睨んでいるので、結局床を放置して先に押し入れの整理をすることになった。
 
それでしばらく整理していたら、見慣れないスポーツバッグが出てくる。
 
「これ誰のだっけ?」
などと純子は言っている。
 
「それ、確か玲央美先輩のだよ」
「なんでここにあるの?」
 
「もしかしたら玲央美先輩がこの部屋に来た時に忘れていったものを、あとで返してあげようと思っててそこに放り込んだままになっていたのかも」
 
「何が入っているのかな」
と言って太平さんも一緒になって開けてみる。
 
「着替えがたくさん入っているね。遠征用のかな」
「バッシュも入ってるじゃん。無くて困ってないかな」
「いや、先輩はバッシュは何足も持ってるから困らないとは思うけど」
「あれ、でもこれウィンターカップの優勝記念にもらったバッシュじゃん」
「だったら探しているかも」
「あ、パスポートまで入ってる」
「これは困ってるよ。送ってあげなくちゃ」
 
「じゃそれ私が玲央美先輩の所に宅急便で送りますよ」
と途中から見に来ていた小平京美が言い、送り先を確認しようと高田コーチに電話した。すると高田コーチは少し考えていたが、
 
「じゃ、今から言う住所に送ってくれる?送料はあとで僕が払うから送り状を持って来てよ」
と京美に住所を告げた。
 

千里は7月に父の知人の紹介で塾の夏季講座の講師をすることになった。しかも父の知人は千里のことを男の子と思い込んでいるので、背広を着てやるはめになったのである。この背広は貴司のものを借りた。
 
取り敢えず7月は18日と25日にお願いしますと言われて了承した。この日程なら、ちょうど雨宮先生から頼まれた19-23日に奄美に行ってくるのも大丈夫だなと千里はこの時は思った。25日はU19大会とまともにぶつかるけど!
 
ところが千里が塾の面接に行ってきた翌日、雨宮先生から電話が入った。
 
「千里、こないだの奄美行きの件だけど、ちょっと予定が変わった」
「あ、はい」
「鹿児島発・鹿児島着でツアーに申し込んでいたのに、このルートが最少催行人数に到達しなかったらしいのよ」
「あららら」
「それで鹿児島発・沖縄着に変更した」
「なるほど」
「それで沖縄で1泊してから鹿児島に飛行機で移動するから、悪いけどエンドが1日ずれて茉莉花さんとのランデブーが24日になってしまう」
「はい、いいですよ。24日までは空いてました」
「じゃそれでよろしく。もしかしたら24日が夕方になってしまうかも知れないから、その場合はその日は福岡で泊まって東京帰着が25日朝になるかも知れないけど」
 
千里は考えた。福岡に泊まるのであれば朝1番の飛行機に乗ったら確か8時半くらいに羽田に着いたはずだ。それなら何とか塾の講義には間に合うだろう。
 
「はい、それで何とかなると思います」
 
ところが雨宮先生との電話を切った直後、今度は塾の方からメールが入る。
 
《村山先生。昨日お打ち合わせさせて頂きました講義の日程ですが7月25日(土)に大規模な電気工事のため停電があるとの連絡がありました。大変申し訳ないのですが24日(金)に振り替えることはできませんでしょうか?》
 
何〜〜〜!?
 
千里は少し考えた。
 
『ね、きーちゃん』
『ん?』
『申し訳ないけどさあ、24日、私の代わりに背広着て塾の先生してくれない?』
『うーん。まあ私は男装はあまり得意ではないけど、元々千里の男装が凄まじく不自然だから、その代わりなら何とかなるかな。でも何の教科だっけ?』
『英語だよ』
『それなら行けると思う。私も漢文とかは教えきれないけど』
『漢文なら青龍が教えられる』
『俺は女装したくない』
『今回は男装だよ』
『うーん。それならいいか』
『じゃもし漢文も教えられませんかと言われたら、せいちゃんに頼もう』
 
そこで《きーちゃん》は千里の奄美行きに同行せず千葉市内に残って24日に夏季講座の講師をすることにし、塾の方にはOKのメールを返信した。
 
そうして7月24日に千里が沖縄と千葉に同時に居たという事態が発生するのだがこの件は1年ほど後に偶然玲羅の知る所となる。しかし玲羅も知らなかったのだが、実は7月24日に千里は3箇所に存在したのである。そのことは、この時点では千里自身でさえ知るよしも無かった。
 

7月22日。桃香と玲央美は午前0時から9時まで(途中休憩あり)のオペレータ勤務を終えて「疲れたね−」と言いながらコーヒーを飲みながら少しおしゃべりし、私服に着替えた後、マクドナルドででも朝御飯を食べようと、明治通りに出た。その時、道のあちこちで立ち止まって空を見上げている人たちがいる。みんな手に博多にわかのお面?みたいなものを持っている。
 
「何だろ?」
と言ってふたりも空を見上げる。
 
「あ、太陽が欠けてる」
「日食があってたのか」
 
ふたりも思わずそれに見とれていたら、40歳くらいの男性が声を掛けた。
 
「君たち、あれを直接見たら目を痛めるよ。これあげるから使いなさい」
と言って日食用の観察グラスを2枚渡してくれた。雑誌の付録のようである。
 
「ありがとうございます」
 
ふたりはそれで太陽を見たが、太陽の右上の方が少し掛けている。
 
「なんか凄いね」
 
この日は曇りがちな空だったので、しばしば太陽は雲の向こうに隠れてしまうのだが、それでも結構顔を出すし、また雲を通しても欠けているのは結構見えた。
 
日食はもうしばらく続きそうということでふたりはマクドナルドでマフィンをテイクアウトし、公園に移動してから食べながら日食を見続けたが、太陽はどんどん細くなっていき、10:56には左側がわずかに三日月のように残るだけとなった。
 
「あと少しで全部消えるかな」
などと言っていたのだが、福岡ではそこまでのようで、太陽の上の方が少しずつ太くなっていく。30分も経つと太陽はもう上半分くらいが見えている状態になった。そして12時17分には天体ショーは完全に終了した。
 
「何か凄かった」
「皆既食になるかと思ったらちょっと残ったね」
 
そんなことを言っていたら、近くで観測していたおばちゃんが言う。
「悪石島まで行けば皆既が見られたんだけどね」
「それどこですか?」
「鹿児島の南の方にある小さな島らしいよ。今日は人口100人くらいの島に千人くらい詰めかけたらしい」
「すごーい」
「食料が無くなるのでは」
 
「そういうのも持参。ゴミは持ち帰り。でも飲料水とかトイレとかの用意も大変だったらしい。そもそもそんな人数を1日では運べないから島に入るのも出るのも1週間がかり」
「わあ」
 
「無秩序に来られたらたまらんから、近畿日本ツーリストのツアーの人しか入島できないようにして。でもそのツアーが1人40万円以上」
「ぎゃっ」
「さすがに出せないから諦めたよ」
 
「でも一度完全な皆既も見てみたいもんですね」
 
ふたりはそのおばちゃんと一緒に華麗な天体ショーの余韻にひたっていた。
 
しかし実際には高額のツアーで悪石島に行った人たちは折からの豪雨で日食どころか太陽自体が全く見えなかったし、小学校の校舎の中に避難したりで大変な目に遭ったのであった。
 
悪石島よりずっと日食の継続時間は短いものの収容能力の高い奄美大島に行った千里や雨宮先生たちは、やはり曇ってはいたものの、雲を通して何とか皆既の様子を観測することができた。
 

7月24日夕方。鹿児島市内で春風アルトさんと車を交換した千里はプリウスの後部座席に雨宮先生を乗せて九州自動車道を北上していた。
 
22日に奄美で日食を観測した後、23日早朝にフェリーに乗って半日掛けて沖縄に移動。23日夕方に那覇港に到着して、24日の午後の飛行機で鹿児島に移動し、アルトさんと落ち合ったのである。
 
雨宮先生は最初寝ていたのだが、1時間もしない内に目を覚ましたようで言う。
 
「何か雨が凄いね」
「凄いです。警報とかが出ているようですよ」
「この車流されないよね?」
「まあ道路ごと流されたら仕方ないですけど、運がよければ大丈夫だと思います」
「運がいい方に賭けておくことにしよう」
 
しかし24-26日にかけて九州を襲った豪雨では、この九州自動車道の側壁が崩れて走行中の自動車が生き埋めになる事故まで起きている。千里たちの車は幸いにも事故もなく走行していたのだが、熊本近くまで来た時に雨宮先生の携帯が鳴る。
 
「あぁ、雷ちゃんか。何?はぁ? 分かった。ああ。そんなこと言ってたね。了解了解。それはこちらで何とかするから、あんたは茉莉花ちゃんとハネムーンのやり直し頑張りな。うん、それじゃ」
 
千里はその会話でいや〜な予感がした。
 
「千里、よろこべ、バイト代を30万円から100万円に積み増しするぞ」
と雨宮先生が言う。
 
今回の奄美行きの「バイト代」は5日間の拘束で25万円という約束だったのだが1日伸びたので30万円に増額されていた。それを100万円にって、まさか14日間拘束期間が延びるとか!?
 
「明日から8月7日まで福岡でお仕事」
「なんでですか〜?」
 
本当に2週間拘束されるのか!?
 
「上島がさあ、日食の方の日程は今日で終わるからと思って明日から7日まで福岡で開催中の音劇博に出演するManhattan Sistersっていう、アメリカ人のアイドルユニットのプロデュースをする予定だったらしいのよ。それを代わってあげることにした」
 
「そんなの代わっていいものなんですか?」
「興行元は私が代わるのなら構わないと言ったらしい。それに元々適当だし」
「そうなんですか!?」
「だいたいが寄せ集めの臨時編成ユニットなんだよ。歌う楽曲だけは事前に各自に渡して練習させている」
「酷い。それでお金取るんでしょ?」
「入場料は8400円だし」
「暴利では?」
「ブロードウェイで人気のアイドルグループとうたってるし」
「詐欺では?」
「ブロードウェイに出演した子が半分くらい混ざってる」
 
「うーん・・・あ、待って下さい。私8月3日から7日まで期末試験なんですよ」
「そのくらい延期しなさい」
「無茶言わないでください!」
「追試か何か受けられるようにできないの? 私も短期決戦だから助手がいないと手が回らない。もちろん新島と高倉も呼ぶけどさ」
 
高倉さんは熊本在住の雨宮先生の弟子である。
 
千里は考えた。元々が上島先生とアルトさんの関係を修復させるために計画したことである。何とかしてあげたい。千里は次のPAで車を駐めた上で、クラスの担任教官に電話してみた。
 
「夜分恐れ入ります。村山千里ですが、今度の期末試験の件なのですが」
と千里が言うと、教官は意外な反応をした。
 
「うん、聞いてるよ。こちらに戻って来るのが4日くらいになるんでしょ?」
「あ、いえ7日まで掛かるので、戻れるのは8日になると思うのですが」
 
聞いてるよって何??と千里は思う。誰かと勘違いしてないだろうかと不安になる。
 
「あ、そうだったっけ。それで村山君に関しては今期の受講科目については基本的に8月14日の金曜日までにレポートを提出してもらったら、それで審査することにしているから。英語・フランス語・体育に関してはこれまでの出席状況が問題ないので、無試験で単位認定してくれるそうだ」
 
「ありがとうございます」
と千里は答えながらも、なぜそんなに優遇してもらえるのだろう?と思う。しかし教官は確かに「村山君」と言っている。うちのクラスに他に村山は居ないので人違いでも無さそうだ。しかし優遇してもらえるのなら好都合だ。
 
「ご配慮ありがとうございます。それでは14日までにレポート提出します」
「うん。レポートのテーマは僕がまとめて郵便で君の住所に送っておいたから千葉に戻ってきたら見ておいて」
 
「はい、ありがとうございます」
 
そういう訳で千里は頭の中が「??」状態ではあったものの、レポートによって試験に代えるということにしてもらったのであった。
 

千里と雨宮先生は19時頃に鹿児島を出て、途中広川SAで休憩しただけでひたすら走って23時前に福岡市に到着した。そのまま舞鶴にある音劇博事務所で向こうのエージェントと会う。
 
「雨宮さんといえば、アメリカでもLana CrystalとかChristopher sistersとかのプロデュースをなさいましたね」
と言ってエージェントさんはご機嫌である。
 
「まあたまたま関わりができたので。こちらは助手の鴨乃清見です。あと2人助手を呼ぶつもりですので」
 
「鴨乃さんというと大西典香の『Blue Island』の作者さんですか!」
「はい、そうです」
「あれはアメリカでも凄いヒットだったんですよ」
 
千里は自分の名前まで認識してもらえているとは思ってもいなかったので驚いた。しかし先方は雨宮先生と千里のペアを気に入ったようである。
 
Manhattan Sistersの子たちには、今、明日の公演を前に最終練習をさせている所なので見て欲しいというので中央区内のスタジオに移動した。
 
そして千里も雨宮先生も見ている内に無言になった。
 
「Girls, Want you reboot from zero all over?」
 
と先生は言った。千里も厳しい視線で女の子たちを見ていた。彼女たちの中にはえ〜?という顔をしている子とむしろホッとしている感じの子とが混ざっていた。
 

それからが大変であった。
 
何しろ公演は翌日午後1時からしなければならないのに、とてもじゃないがお金を取って見せられるレベルではなかったのである。いったい上島先生はどうやってこの子たちをまとめるつもりだったのだろうと千里は疑問を感じた。
 
雨宮先生はまず彼女たちにステージ上のフォーメーションとして3種類のパターンを覚えさせた。それを代わる代わる使うことで変化をつける。また彼女たちの中で明らかに「輝いている」3人の子を抜擢して、その子たちを最前面に立たせる形を確立する。
 
雨宮先生が全体的な指示をする中で、千里は個別に何人かの子に「ここはこうした方がいい」とか「君タイミングがずれがちだから、早め早めに動くようにしよう」などといったアドバイスをしていった。ダンスのうまい子を4人認識したので、先生と相談してその子達をメインボーカル3人の斜め後ろに2人ずつ配置する形にした。
 
後ろの方でダンスとコーラスをさせていた子の1人が
「自分はスターだ。これまでCDも4枚売った。こんな後ろの方で集団で踊るだけなのは嫌だ。それにこんな遅い時間まで練習させられるのも不愉快だ」
と主張した。雨宮先生はその子に
「今すぐアメリカに帰れ」
と通告した。エージェントさんも頷いていた。その子は退場したが、これで逆にその後みんなが引き締まった感じであった。
 
午前3時頃、熊本から高倉さんが駆けつけて来て、手伝ってくれたが、何とかこれで形になるかなという状態に到達したのはもう朝の6時であった。ここまで付き合ってくれたエージェントさんもお疲れ様である。実際、昼過ぎから公演をやるという状況ではここで少し出演者を休ませないとやばい。それで雨宮先生は簡単な注意だけして11時半集合、時間厳守ということにして解散させた。
 

「ところで雨宮先生はご予定は無かったんですか?」
「うーん。それが8月1日だけ、東京で制作会議に出ないといけない。その日はあんたたちで何とかしてくんない?」
「まあ1日だけなら。高倉さんも新島さんもいるなら、何とかなるかな」
「醍醐さんも新島さんもいるなら何とかなるかな」
「毛利さんも呼びましょう。猫の手程度にはなりますよ」
「そうだなあ。まあ猫程度には役立つかな」
 
ということで、結局このユニットのプロデュースは雨宮先生を中心に、25日中に駆け付けてくれた新島さん、毛利さん、そして千里と高倉さんの5人によるチームで行ったのである。
 
ステージはひじょうに好評で雑誌などにも高い評価がなされていた。またこのメンバーでCD/DVDを制作することになり、8月4-5日の2日間でスタジオで録音作業をおこなった。また本当は臨時編成ユニットのはずだったのをアメリカに帰国しても当面存続しようということになったらしい。
 
千里は福岡でこのManhattan Sistersに関する作業をしている間、ああ、U19世界選手権も終わっちゃったしインターハイも終わったな。日本代表はどこまで行ったんだろう?と思いつつきっとバスケ協会のメルマガで送られてくるだろうしと思っていた。なお旭川N高校のインターハイの成績については、南野コーチからのメールで知ることになる。
 

2009年のインターハイは7.29-8.03の日程で大阪府(メイン会場は大阪市中央体育館)で行われた。
 
今回のインターハイでは、旭川N高校は準々決勝までは進出したものの、愛知J学園に敗れてBEST8に留まった。準決勝は岐阜F女子高−札幌P高校、愛知J学園−東京T高校の組合せで行われ、P高校とT高校が決勝に進出。P高校が勝ってインターハイ2連覇を達成した。
 
MVP・得点女王は渡辺純子(P高校)、スリーポイント女王は神野晴鹿(F女子高)、リバウンド女王は夢原円(J学園)、アシスト女王は水原由姫(F女子高)が取った。
 
そしてP高校とT高校がウィンターカップに出場することになったので今年のウィンターカップは、北海道が2校、東京は3校出場することが決定した。
 
旭川N高校はインターハイが終わったことから2年生中心の体制に移行。湧見絵津子が新しい部長(主将)、黒木不二子が副部長(副主将)に任命された。3年生の中で、揚羽・雪子・志緒の3人が特別枠でウィンターカップ出場を目指すことになった(道予選以上に出場する)。
 
またインターハイの予選・本戦でセンター陣の弱さが苦戦につながったことから、紅鹿(177cm)を久井奈や麻樹の居る旭川A大学、耶麻都(179cm)を葛美や留実子・暢子の居るH教育大旭川校に引き受けてもらい、徹底的にリバウンドを鍛え直すことにした。
 

8月3日の夕方、千里はManhattan sistersの公演も何とか折り返し。あと残りは4日か・・・などと考えながらひとりで大濠公園を散策していた。するとそこで思わぬ人物を見る。
 
「レオちゃん?」
「千里?」
 
「奇遇だね!」
とお互い言い合う。玲央美はトレーニングウェアの上下を着て公園をジョギングしていた。
 
「千里も走ろう」
「あ、うん」
 
それで一緒に走り出す。千里は今日はスニーカーにジーンズという格好であった。大濠公園は1周が約2kmでジョギングやウォーキングしている人も多い。50mごとに距離をあらわすラインまで入っている。
 
「久しぶりだね。なんで福岡にいるわけ?」
 
ふたりは2月に玲央美が失踪事件を起こして千里が福岡県の矢部村まで追いかけていき、帰りに羽田空港で別れて以来である。
 
「ちょっとお仕事で2週間ほど滞在してるんだよ」
と千里が言うと
「私もお仕事で2週間ほど滞在しているのよね。今夜で終わりだけど」
と玲央美は言う。
 
「わあ、夜間の仕事なんだ」
「うん。電話の受付」
「大変だね!」
「千里は?」
「こちらは昼前くらいから始めて夜12時くらいまでかな。実は歌唱ユニットの指導をしているんだよ」
「ああ、そういえば音楽に色々関わっているんだったね」
「うん」
「でもどちらも働く時間帯だけ聞いたら他人に誤解を与える時間帯かも」
「あ、そうかも!」
 
それでしばらく一緒に走っているうちに玲央美が言う。
 
「千里、かなり体力が落ちてる」
「うん。それは認識しているから今少しずつリハビリしている所。玲央美は結局今どこのチームに居るんだっけ?」
「どこにも入ってない」
「嘘!?」
「千里はクラブチームに入ったんだね」
「あ?知ってたんだ?」
「麻依子ちゃんから聞いた」
「へー!」
「でも私ももう半年ボールに触ってないからなあ」
「でもこうやって練習はしてるんじゃないの?」
「基礎体力を鍛え直しているんだよ」
「そっかー。でもバスケに戻って来るよね?」
 
玲央美は少し考えていた。
 
「千里、U19世界選手権には出たんだよね?」
「ううん。高田コーチからたくさんメール来てたけど、私、今とても世界でどころか全国で戦う自信も無いんだよ」
「確かに千里、かなり運動能力が落ちてる雰囲気だもんなあ」
と玲央美は言って立ち止まり、それに続けて立ち止まった千里の腕に触る。
 
「腕が凄く細くなってる」
「そうだね。半年前からするとずいぶん筋肉も落ちたかな」
「まるで高校1年の頃の千里みたいだ」
と言われてドキっとする。
 
「まさか男の子に戻ったりはしてないよね?」
「それはない。2度と男の子には戻りたくないよ」
「少し安心した」
 
「玲央美はU19出たんでしょ? どうだった? 私まだ結果聞いてなかったんだよ。いつ帰国したの?」
「私も出てない。私の所にも高田コーチからたくさんメール来てたけど」
「嘘!?」
 
「しかし千里も私も出なかったんなら、他のみんなに悪かったなあ。私もまだ成績は確認してないけど」
 
それでふたりはその場で携帯からU19の成績について検索してみたのだが、うまく検索に引っかかってくれず、成績は分からなかった。
 
「まあいいや、1〜2日中にバスケ協会のメルマガで送られてくるよね」
「あ、私もそう思ってた」
 
「じゃ千里、8日は一緒に頑張ろう」
「8日?何があるんだっけ?」
「シェルカップに出るよね?」
「うん。玲央美もどこかのチームで出るの?」
と千里が訊くと玲央美はなぜか物凄く可笑しそうに笑った。
 
「それじゃ当日」
と言って手を振って別れた。
 
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【娘たちの逃避行】(3)