【娘たちの逃避行】(2)

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「男子制服では来たくないと言ったんです」
「あれ?女子制服で通学しているという噂も聞いたんですけど」
 

5月16日(土)。作曲家の鍋島康平さんが亡くなった。
 
千里は特に鍋島先生との交流は無かったものの、業界の大御所だけに新島さんから「取り敢えず顔を出して」と言われた。
 
「千里ちゃん、喪服持ってる?」
「持ってません」
「じゃ用意しておくから。喪服は女物でいいんだっけ?男物を着る?」
「女物にしてください!」
 
「了解。それで香典は自分で用意して欲しいんだけど」
「なんか高そうですね。いくらくらい包まないといけません?」
「葵照子ちゃんも来られる?」
「あの子、今週末は北海道に一時帰省してるんですよ」
 
「だったら、千里ちゃんが醍醐春海・葵照子・鴨乃清見名義の3つの香典を出してもらえる」
「分かりました」
「それで醍醐春海と葵照子は20万円ずつでいい」
「20万円ですか」
 
と答えながらきゃーと思う。この業界は恐ろしいなあ。
 
「それで鴨乃清見名義のは100万円ほど入れて欲しいんだけど」
「え〜〜〜!?」
 
100万って・・・・何か金銭感覚が麻痺しそう。
 
「だって鴨乃清見はヒットメーカーだもん。2年連続・RC大賞歌唱賞受賞。既に一流作曲家だよ」
 
「うう。本人は大したことないんですが。分かりました。何とかします」
「鍋島先生から曲を頂いていた歌手だと今度は最低が100万円になるみたい」
「きゃー」
「だからローズ+リリーの2人も100万円ずつ包ませるって上島先生が言ってたよ」
「高校生に払えるんですか?」
「足りなかったら取り敢えず津田さんあたりが立て替えとくんじゃない」
「ほんとに恐ろしい世界だ」
「まあ北原ちゃんの葬儀の時も恐ろしい金額包んでくれた人たちいたからね」
「あぁ・・・」
 
何かこの世界おかしくないか?と思いながらも千里は出かける準備をしたが、今新島さんと交わした会話のどこかに何か違和感を覚えた。あれ〜? 今何か変なこと聞いたっけ???
 

それで千里はまずは銀行に電話で連絡を入れた上で、先にコンビニに行くと香典袋を3つ買う。それから連絡していた銀行の支店に行って窓口で140万円下ろし、その内100万円を銀行の封のある札束で出してもらうことにしたのだが・・・・
 
実際に窓口に行って連絡していた村山千里と言い、身分証明書として運転免許証を見せると、窓口の人は封のしてある100万円の札束を2つ渡してくれた。 
「あれ?200万円ですか」
「すみません。違いましたでしょうか?」
「いえ、お願いしたのは140万円だったんですが」
「すみませーん」
「いえ、いいですよ。60万円は予備に持っておきます」
 
千里はそう言って200万円受け取り、鴨乃清見名義の香典袋にその封のある札束を1個、醍醐春海と葵照子の香典袋にはもうひとつの札束の封を切ってから、20万円ずつを入れた。残り60万円はバッグに入れておく。
 

新島さんと通夜会場近くのカフェで落ち合う。そこのトイレを借りて喪服に着替えた。新島さんが黒いハンドバッグと袱紗を渡してくれる。袱紗の中に分厚い香典袋を3つ入れた。
 
それで一緒に会場に向かうが唐突に千里はさっきの会話の違和感に気づいた。 
「雨宮先生は別行動ですか?」
 
すると新島さんは困ったように言う。
「実は居場所が分からなかったのよ。あの馬鹿」
「うむむむ」
 
「それで雨宮先生の分の香典は私が持って行くけど、いくら包めばいいか分からなくてさ、それで上島先生に相談したのよ」
「それでローズ+リリーの話が出たんですか」
「そうそう」
「いくら包んだんですか?」
 
「直接の関わりは無いけど、鍋島先生のお弟子さんの東堂千一夜さんからワンティスは何度か曲を頂いているから、孫弟子格ということで300万円でいいだろうという話だった」
 
「ひぇー」
 
「でも今日は通夜だからとりあえずいいけど、多分来週の日曜に作曲家協会葬かレコード協会葬あたりになるのではないかという話なのよね。それまでには何とかあの馬鹿を捕まえて連れて来ないとまずいわ」
 
と新島さんは言っている。
 

通夜は大きなホールを持っている都内の葬儀場で行われていたのだが、何か凄いメンツが会場には居た。有名な作曲家や往年の大歌手などの姿が多数ある。若手の売出中の歌手も結構いる。ローズ+リリーの2人の姿も見かけた。高校生なんだから制服でもいいのだろうが、ふたりともふつうの喪服を着ていた。彼女たちにテレビ局のレポーターさんがひとり声を掛けていた。
 
「おふたりとも喪服なんですね」
「お通夜ですから」
「高校生だから制服でも良かったのでは?」
と千里が思ったのと同じことを訊く。
 
「ケイが男子制服では来たくないと言ったんです」
とマリが言っている。
「あれ?ケイさん、結局ほんとうに男子制服で通学しているんですか? ケイはもう女子制服で通学しているという噂も聞いたんですけど」
とレポーターさん。
 
「そのあたりはプライバシー保護ということで。一応私たち引退した身なので」
「誰も引退したとは思ってませんよ。来月にはアルバムが出るし。次のシングルはいつ出るんですか?」
「うーん。そのあたりはちょっとあちこちの思惑があるみたいですが・・・」
とケイは言葉を濁したが、ケイがカメラの前で一瞬両手の指で10という数字を作ったのを千里は認めた。
 
この件はあとでネットで「ローズ+リリーは10月に新曲をリリースするのでは」という噂として広がる元となる。ただしケイは指の形は偶然数字に見えただけで、別に何も意図は無いと自らネットに書き込んでいた。
 

千里は通夜の会場で、ワンティスのメンバーともあちこちで会った。上島さんとはこの日は遭遇しなかったのだが、下川さん、水上さん、海原さんと遭遇して新島さんが挨拶をしていた。しかしそんなことをしている内に千里は新島さんとはぐれてしまう。
 
参ったなあと思いつつも、まあ焼香が始まったら適当なタイミングでした後帰ればいいんだろうと思う。喪服は明日にでも新島さんのマンションに持って行けばいいし・・・と思っていた所でワンティスの三宅さんとばったり遭遇する。 
千里が会釈すると
「ごめん、誰だったっけ? なんか見たことあるんだけど」
などと言われる。
 
「すみません。雨宮先生の弟子で鴨乃清見と申します」
と言って、鴨乃清見の名刺を出した。
 
「君が鴨乃さんか!」
と驚かれる。
「まだ学生なもので、あまり表には出ておりませんもので」
「そうかぁ。でも雨宮の弟子だったんだ?」
「はい」
 
と千里が答えると
「ね、雨宮は今日来てた?」
と訊かれる。
 
「あ、いえすみません。何か遠くに行っておられるらしくて、今日は間に合わないということでした」
と答えておく。こういう答え方がたぶん無難な所だろうと思った。
 
「ああ、やはり間に合わないよな」
と三宅さんが言う。千里はその言い方に微妙なニュアンスを感じた。
 
「あのぉ、もしかして雨宮先生の居場所をご存じですか?」
と千里は尋ねた。
 
すると三宅さんは少し悩むようなそぶりを見せたが、
「ちょっと来て」
 
と言って、千里を会場の外に連れ出した。
 
「あまり他の人には聞かれたくないんだ。でも君、口が硬そうだし」
と言ってどこかに電話するようであった。
 
「ミモリン、あんた結局今どこにいるのさ?」
と三宅さんは突然電話口に言った。
 
「まだそこかぁ」
と言って天を仰ぐ仕草。
 
「こっちは大変なんだよ。何とかしてすぐ帰国してくんない?鍋島先生が亡くなったのは知ってるよね? うん、それは聞いたのか。僕たちにとっては先生の先生になるからさ、通夜は仕方ないとしても葬儀に出ない訳にはいかないじゃん。え〜!? ちょっと待って」
 
と言って三宅さんは少し考えてから千里に尋ねる。
 
「鴨乃さん、パスポート持ってる?」
「はい。いったん自宅に戻ったら」
「自宅どこだっけ?」
「千葉市内なんですが」
「じゃちょうど成田に行く途中だな。じゃさ、悪いけど君、あの馬鹿を連れ戻しに行ってきてくれない?」
 
ああ・・・三宅さんにまで馬鹿と言われるのか。
 
「はい、参ります。外国におられるんですか?」
「ドイツなんだよ」
「それはまた遠いですね」
「ポーランドに居たのが取り敢えずドイツまで移動してきたらしい。でもあいつ昨夜、うとうとしている間にカードの入った財布盗まれたらしくてさ」
 
「わぁ」
 
「何とか頑張ってカード会社には連絡して利用停止にしてもらったらしいけど、お金がなくて身動きできないと言ってる。僕が交通費は出すから、申し訳ないけど、行ってきてくれない?」
 
「分かりました」
 
それで三宅さんの携帯を借りて雨宮先生と直接話をする。
 
「ああ、千里か。すまん、すまん。面目ない。新島には内緒にしといてよ」
「そういう訳にはいきません」
「融通が利かないやつだ。いつ来てくれる?」
「ちょっと待ってください」
 
三宅さんが時刻を確認してくれたが、今日の21:55成田発のエールフランス便パリ行きがいちばん早いようだということになる。
 
「今から間に合うかな?」
「千葉まで1時間、千葉駅から私のアパートまで往復30分、千葉駅から成田空港まで40分、たぶん20時すぎに到着できます」
 
「だったら何とか間に合うかな」
 
それで三宅さんは予約センターに電話して座席を1枚確保する。
 
「鴨乃さん、本名教えて」
 
「村山千里です」
と言って千里は Chisato Murayama 1991.3.3生とメモに書いて渡す。
 
三宅さんがそれを予約センターの人に伝える。
 
「パスポート番号分かる?」
「あ、はい。それはメモがあります」
 
と言って千里は手帳にメモしていた番号を見せる。それを三宅さんが相手に伝える。
 
「性別? えっと君、女だっけ?」
「はい、女です」
 
それで予約は成立したようである。
 
それで千里は雨宮先生と電話で話し、今から成田に向かうことを言う。 
「ああ、パスポートを自宅に置いているんだ?」
と雨宮先生。
「ええ。ふだんは使わないものだから」
と千里。
 
「そんなの普段から持っておきなさいよ」
「なんでですか〜?」
「私が来てと言ったら、いつでも地球の裏側まででも来て欲しいからよ」
「無茶言わないでください」
 
電話を切ったあとで三宅さんが
 
「鴨乃さん、クレカは持ってる?」
と訊く。
「はい」
と言って自分のクレカを見せる。
「これ限度額は?」
「300万円と聞きました」
「だったら、万一の場合はそれで帰りの航空券を決済してくれる?。すぐ返すから」
「はい」
 
「一応、この僕のカードも持って行って。航空券はチェック厳しいから難しいかも知れないけど、これで決済できそうなものは何でも自由に決済していいから」
 
「分かりました。お預かりします」
 
と言って受け取ったが、ん?と思う。
 

「これ三宅先生のご本名ですか?」
「うん」
 
そのカードの表面には MS IKUE MIYAKE とプリントされており、カードを裏返すと《三宅行絵》という署名がある。
 
「ちょっと見たら女性の名前にも見えますね」
「まあ僕は戸籍上は女だから」
「え?」
「詳しい話は雨宮から聞いてよ。女性名義のカードを女性に見える鴨乃さんや雨宮が使うのはふつうの場所では問題は起きないと思う」
 
「そうですね」
「あと、君今現金いくら持ってる?」
「60万円ほど」
「じゃ使うかどうか分からないけど、念のためあと40万円預けておくね」
 
と言って千里に札束を渡してくれた。
 
「こんなに預かっていいんですか?」
「これでは片道航空券代にも足りないから、もっと渡してあげたいんだけど100万円までしか海外には現金で持ち出せないから。現地で現金がどうしても必要だったらそのカードでキャッシングして。キャッシングの限度額は1000万円に設定しているから」
 
「分かりました」
 

三宅さんが自分から聞いたということを新島さんに言わないで欲しいというので、千里は「雨宮先生の居場所が分かったので呼びに行ってきます」とだけメールし、会場を飛び出した。
 
事態が事態なので千里は《こうちゃん》に頼んで『空路!』で千葉市内のアパートまで移動させてもらう。普段着に着替えドイツは寒いかもと思ってコートも用意し、パスポートを持ち、着替えとパソコンを旅行用バッグに詰めて出かける。《こうちゃん》に再び成田空港駅まで運んでもらった。
 
それで千里は19時半には空港に入ることができたが、結果的には《こうちゃん》に運んでもらって助かったのである。
 
この日は何かVIPが到着するとかで空港は厳戒態勢であった。空港のカウンターに辿り着くまで凄い時間が掛かる。しかしその待っている間に三宅先生から連絡があり、シャルル・ド・ゴール空港からハンブルグ空港への乗り継ぎ便も予約したので、そのままトランジットしてということであった。
 
カウンターで予約していたチケットを購入する。実際にはチケットは三宅さんのカードで既に決済されており、千里は予約番号を伝えるだけで現金などの受け渡し無しで、パリ行き・ハンブルグへの乗り継ぎ便ともに発券してもらうことができた。しかし金額を見ると45万円もする。内心すごー!と思いながらも笑顔で航空券を受け取った。パスポートの番号、名前・生年月日・性別だけ確認された。
 
出国手続きは昨年合宿でオーストラリアに行った時に自動化ゲートを利用できる登録をしていたので、スムーズに通過できる。そしてエールフランスのB777の座席に座ると
 
「おやすみなさーい」
と自分に言ってすやすやと眠ってしまった。
 

エールフランス機は翌日5/17 4:15(JST 11:15)にパリのシャルル・ド・ゴール空港に到着する。入国手続きは何しろ人が多いのでやや時間が掛かった。千里は復路の航空券を持ってないことを言われないかなと少し心配したのだが、その点は特に言われなかった。何日滞在するかとだけ(フランス語で)訊かれたので「今日帰る予定だが用事に時間がかかったら明日になるかも知れない」とこちらもフランス語で答えると、そのまま通してくれた。
 
入国審査を通ったのがもう5時半すぎであったものの、ハンブルグへの乗継便は8時なので、空港内で朝食を取る余裕もあった。雨宮先生に電話すると 
「おお、来てくれたか。感謝感謝」
と言われた。
 
しかし雨宮先生に掛けた電話が一発でつながったのって、凄く珍しいことだぞと千里は思った。雨宮先生は既にハンブルグ空港のそばまで来ているらしい。 
「お金は全部盗られちゃったんですか?」
「そうなのよ。ここまで来る交通費もちょっと縁のあった人に借りたけど、食事が自由にならないから、パンをちょっと食べただけ」
 
「大変でしたね」
「あんた御飯は?」
「機内食も美味しく頂きましたし、今クロワッサンとカフェオレ頂いてます。さすが本場ですね。美味しいですよ」
 
「私がお腹すかせてるのに良い身分ね」
「食べられる時には食べておくものですよ」
「今度あんたがお腹すかせている時に私は500gのステーキ食べよう」
「そんなに食べたら糖尿になりますよ」
「ありがとう。心配してくれて」
 
ハンブルグ空港に辿り着いたのは10時半である。すぐに電話で連絡を取り合い雨宮先生と落ち合った。先生は現地の人っぽい20代男性と一緒だった。 
「ありがとう。助かる」
と言ってから、先生は千里に
 
「あんた今、いくら現金持ってる?」
と訊く。
 
「念のため100万円持って来ましたが」
「この人に5000ユーロ(約65万円)払ってあげて」
「は?」
 
何と、先生がお金を盗まれた時に居たクナイペ(居酒屋)の支払いがまだ済んでなかったらしい。
 
「一体何をやったら、クナイペで5000ユーロも飲むんですか?」
「うーん。みんなにワインおごったりしたからなあ」
 
それで千里は空港内の銀行営業所で90万円をユーロに両替し(約6600ユーロ)、それでクナイペの支払いを済ませ領収書を受け取る。そしてここまでの交通費もこのクナイペの主人の息子さんに借りたらしいので、千里は雨宮先生の分の交通費と、彼の往復交通費、途中の食事代を尋ねた。
 
「途中で食べた御飯の分はたくさんお店に払ってもらったから、僕のおごりでいいです。交通費は1往復半で294ユーロなんですが」
 
と彼が言うので、千里は
「ではチップ込みで」
 
と言って200ユーロ紙幣を5枚渡した。約9万円のチップを渡したことになる。すると彼は初めて笑顔になり
 
「アリガトウ」
と日本語で言って帰って行った。
 
「ふむ。私が恥を掻かない程度の額のチップを渡してくれたね。いいセンスしてるよ」
と雨宮先生は言うが
 
「既に充分恥を掻いてる気がしますが」
と千里は言った。
 
しかしあっという間に残金は600ユーロ(約8万円)と日本円10万円である。 

「でも参った参った。とりあえず飯」
などと先生が言うので空港内のレストランに入り、食事をした。千里も何となくお腹が空いた気がしたので少し食べた。ウィンナーが美味しかった。
 
「あんたドイツは何度も来てるの?」
「ヨーロッパは初めてですね。昨年オーストラリアとインドネシアに行ったのが初めての海外旅行で」
「こちら戸惑わなかった?」
「特には。飛行機自体にはしょっちゅう乗ってますし」
「そうか。北海道だと東京に出てくるのが毎回飛行機だよね?」
「そうなんです。津軽海峡を泳いで渡るのはさすがに無茶だから」
「一度泳いでみない?」
 
「雨宮先生が試してみてください。こちらへはお仕事でいらしてたんですか?」
「うーん。まあ仕事といえば仕事、そうでないといえば」
「ああ、女性歌手か何かとトラブル起こして海外逃亡ですか」
「あんた、ほんっとに遠慮が無いね」
「先生の弟子ですから」
 
「私に従順なのは毛利だけだな」
「うふふふ。だから毛利さんってみんなに愛されているんですよ」
「まああいつの人徳かな」
 
それで一息ついたところで帰りの便を予約する。カウンターに行って尋ねると、フランクフルトを21:05発の成田行きが取れることが分かる。
 
「ファーストクラス空いてる?」
「申し訳ございません。満席でございます」
「ビジネスは?」
「それでしたら並びの席がお取りできます」
「じゃ、それで」
 
ということでフランクフルトまでの国内便の分を含めて2人分12000ユーロ(約150万円)を三宅さんのカードで支払おうとする。
 
「これはどなたのカードですか?」
と当然訊かれる。
 
「私の妻のカードです」
と雨宮先生は言った。
 
へ?
 
「あなたは女性ではないのですか?」
「あら。私は男よ」
と言って、雨宮先生は自分のパスポートを見せる。写真は女装で写っているものの性別は M と印刷されている。
 
「失礼しました!」
 
「私のカードが盗難にあったのよ。それで妻のカードを借りるの」
と雨宮先生が言うと、その説明を窓口の人は受け入れてくれた。
 
ということで成田行きの航空券を、雨宮先生の分と千里の分と発券してもらった。 

早めの便でフランクフルトに移動して取り敢えずレーマー広場のカフェに入り、ミルクたっぷりのコーヒーにケーキを頼んだ。なおドイツ語ではコーヒーもカフェもどちらも「カフェ」だが、コーヒーは Kaffee, カフェはCafe と綴る。 
「三宅先生って、雨宮先生の奥さんだったんですか?」
「知らなかったの?」
「はい」
「あんた、私が結婚してることを知ってた」
「でも相手が誰かまでは知りませんでした」
「あんた面白い子ね」
 
と言って雨宮先生はその話をしてくれた。
 
「あいつは高校までは女子制服を着て通学していたのよ。でも大学に入ったのを機に完全に男に移行した」
「そうだったんですか」
「でも男性ホルモンを飲んでいただけで、身体にはメスは入れてない。本当はおっぱいは取りたいみたいだけどね」
「あぁ」
「でもおっぱい取るのはちんちん取るのより痛いらしいよ」
「それ両方体験できる人が居ない気がしますが」
 
「最初は大学3年生の時だったのよ」
「ワンティスを結成する前ですね」
「うん。うちのバンドとあいつのバンドとで合同でライブの打ち上げしたことがあって、その時何となくあいつと最後まで一緒になってさ、結局私、あいつのアパートに転がり込んだんだよ」
 
「へー」
「私は、あいつは私が男だということを知っていると思っていた。だから男同士だから構わないと思ってた」
 
「向こうは女同士だと思ってたんですね」
「そうそう。あいつは私のこと女だと思ってたから、女の子を泊めるのは別に問題無いと思っていた」
 
「ところが・・・・」
 
「うん。『あんた男なの!?』『嘘。あんた女なの?』と」
 
「で、やっちゃったんですか?」
「あんたもストレートな言い方するねぇ」
「もう女子大生になりましたから」
 
「まあそれで1回しちゃったけど、お互いの性別のことは口外しないという約束をしたし、その後も特に恋愛関係は続いていなかった」
 
「と雨宮先生は思っておられたんですね」
 
「うん。あいつはずっと私のこと思ってたと後から告白された」
 
「それで結婚なさったんですか」
 
「ワンティスが活動停止した後だよ。結婚してくれと言われた。それで私は言った」
「はい」
 
「指輪無し、同居無し、入籍無し、挙式無し、浮気自由なら結婚してもいいと」
「それ結婚なんですか?」
 
「あいつはそれでもいいと言った。でも最終的に式だけは挙げたんだよ」
「へー!」
 
「双方の親兄弟と、ワンティス関係では支香だけが出席した。実は支香にとって三宅は、唯一の同性メンバーだったんだよ」
 
「なるほどー!」
「だから支香は元々三宅が女だということを知ってたらしい」
「そうだったんですか」
 
「だから上島もこのことは知らないのさ」
「でも面白い関係ですね」
 
「お互いが夫婦であるという意識を持っているだけ。だから私は浮気はたくさんするけど、誰とも同棲しないし、むろん結婚することはあり得ない」
 
「純愛って気がしますよ」
 
「そうかもねぇ」
と言って雨宮先生は遠くを見るような顔をした。
 

「じゃおふたりは純粋にお互いが夫婦であるという意識であるだけなんですか?」
と千里は尋ねた。
 
「まあ気が向いたらセックスするよ」
「それってどちらが男役かって訊いてもいいですか?」
「私が男役に決まってるじゃん」
「へー!」
「あいつは男装はするけど男が好きなんだよ。浮気相手も大抵男だよ」
「やはり性ってほんとに人それぞれなんですね」
「まあ私たちは多少変わったカップルかなという気はする」
 
「ホテルとかで落ち合うんですか?」
「そういうこともあるし、お互いの自宅に行くこともある。基本的にお互いに自宅には愛人は連れ込まない」
「面白いですね」
 
「あとは1年に1度、結婚記念日の前後にお互いスケジュールを空けて一緒にどこかに旅行に行く」
 
「それ素敵だと思います」
「やはり旅に出るとお互いへの気持ちを再確認できるんだよね」
「列車か何かの旅ですか?」
「ううん。だいたいRX-8を使う。RX-8はそれ以外の用途には使わない」
「へー!エンツォフェラーリをお使いになるのかと思いました」
「あれは飾っとくだけ。そもそも目立ち過ぎるんだよ」
「確かに確かに」
「RX-8の後部座席はウレタンを座席の形にカットしたものを敷いてフラット化してるんだよ」
 
「ああ。ご休憩用ですか」
「そうそう。だからRX-8を使う。この種の車の中ではいちばん後部座席が広い」
「面白いですね。いっそアテンザとか使わないんですか?」
「微妙かな」
 

そんな感じで半ばおのろけのような話までしていた時、唐突に雨宮先生は「そうだ」
と言って、どこかに電話を掛ける。
 
「ああ。やはり悪石島はもう一杯か。うん。じゃ奄美でいいよ。2つ押さえてくれない。え?フェリー?何それ? うっそー、飛行機満杯なの? まあいいや。じゃその日程で」
 
どうも日本の旅行会社の人と話しているようである。
 
「あ、ちょっと待って。それ沖縄発着じゃなくて、鹿児島発着にはできない?あ、そちらの方が余裕があるんだ? OKそれで。うん。2人・・・待って、フェリーになるんだったらツアーは3人分押さえてくれない? うん。それで。え?性別?ひとりは男、ひとりは女みたいに見えるけど男、もう一人は・・・」
 
と言ってから雨宮先生は千里をチラっと見る。
 
「もう一人はたぶん女だな。うん。名前は帰国してからFAXする。うん。今フランクフルトなのよ」
 
それで電話を切る。
 
「三宅先生と奄美においでになるんですか?」
「ううん。雷ちゃんとデート。千里、あんたも付き合って」
「はい?」
 
そして次に先生は別の人に電話をする。
 
「こないだの件だけどさ。ふたりでどこか旅行にでも行ってこない?旅先ならお互い気分も変わるし、何より開放的になるから愛を深めるにもいいわよ。うん。それがうまい口実があるのよ。詳細はまたあとで連絡するけど。あなた運転免許は持ってたっけ? うん。それならいい。じゃまた後で」
 
それで雨宮先生は千里に言った。
 
「あんたさ、ちょっとバイトしない?」
「どんなお仕事でしょう?」
「私と雷ちゃんの2人を東京から鹿児島まで車で送って欲しいのよ。合計でたぶん5日間拘束、25万円払うから」
「それはまた破格の報酬ですね。随分時給が高いようですが、何をすればいいんです?」
 
「さっき瞬間的に思いついたのよ。ちょっともう少し茉莉花さんと話を詰めてからまたあんたに頼むわ」
 
「ああ、今の電話の相手は春風アルトさんですか」
 
雨宮先生の話はこうであった。
 
実は上島先生と春風アルトさんの仲がここ数ヶ月ぎくしゃくしているらしい。ふたりは昨年秋に結婚したものの、年明けに上島さんの浮気発覚から、アルトさんが同衾拒否し、上島さんも何日も自宅に戻らず愛人の家に泊まるなど、最近は破綻寸前の状態になっているらしい。
 
「あのふたりお似合いだと思うんですけどね」
「私もそう思うんだよ。茉莉花さんも愛想が尽きた訳ではないので、やり直せるならやり直したいと言っているんだ。そのためには、雷ちゃんにも浮気をちょっとセーブしてもらいたいんだけどね」
 
浮気常習犯の雨宮先生が言うと全く説得力が無いものの、千里もアルトさんのためならできるだけのことはしたいと思った。
 
「それであのふたりに旅行をさせようと思う。でも雷ちゃんはスケジュールが厳しいから、旅行にでも行っておいでよと言っても無理だと言われる。ところが7月に日食があるんだよ」
「へー。それが奄美ですか」
「うん。奄美大島の北部でなら皆既日食が見られる」
「北部?」
「南部では見られない」
「微妙なんですね」
「いちばん観測条件のいいのは悪石島というところなんだけど、そこのツアーは既に満杯らしい。小さな島なんで収容能力に限度があるのよ」
 
「まあ島の面積を超える人間は入らないでしょうね」
「そうそう。それで奄美まで観測に行く。皆既日食を見て曲を書くためといえばレコード会社も雷ちゃんの旅行をOKしてくれる」
 
「そのついでにアルトさんとデートさせようという魂胆ですか」
 
「そうなのよ。それを思いついたのよ。だから車中泊できるようにゆったりした車を持っていく。何がいいかなあ。行く時は私と雷ちゃんが寝ないといけないけど、雷ちゃんと抱き合っては寝たくないから3列シートの車がいいな」
 
「エスティマとかですか?」
「ああ、それでもいいな。そしてそれを2人に押しつけて私たちは別途帰る」
「その行きの運転をすればいいんですね」
「うん。帰りは私と千里の2人になるけどね」
「車は上島さんに渡して帰るんでしょ?」
 
「そうそう。だから茉莉花さんに別のレンタカーを借りてきてもらってお互いの車を交換すればいい」
 
どうも雨宮先生も千里と会話しながら計画を練っている感じである。
 
「じゃ東京から鹿児島まで走るのもレンタカーですね」
「うん、そうなる」
 
日食が7月22日にあるらしく、前後5日間7月19日から23日まで空けておいてくれと言われたので千里は手帳のその日付の所に線を引いた。その時千里は7月23日から8月2日まで「U19世界選手権バンコク」という記述があるのを見て心に痛みを感じた。
 
高田コーチから何度も「U19世界選手権に招集したいので連絡が欲しい」というメールが来ている。しかし実は今千里はとても世界で戦えるような身体ではないのである。
 
今千里が使っているのは高2のインターハイに参加した時より半年も前の身体である。千里がこれから半年ほど身体を鍛えた結果、何とかインターハイで戦える程度の身体になるのである。そして実際問題として当時はまだ性転換手術の傷跡の痛みが結構あったのである。
 

千里と雨宮先生は、ふたりともレーマー広場で楽曲を2本書いた。それからフランクフルト空港に戻り、夕食を取ってから出国手続きに行った。しかしここで雨宮先生はパスポートも航空券も性別Mなのに本人がどう見ても女なのでトラブる。結局別室で検査されていたが
 
「なんで私だけ引っかかるのよ。あんたはふつうに男に見えたのかね?」
などと言っていた。
 
雨宮先生は千里のパスポートと航空券の性別がFであることに気づいていない。 
21:05(JST 5/18 4:05)の成田行きに乗り、翌日5月18日(月)15:25に成田に到着する。入国の時は自動化ゲートで入国したので雨宮先生も性別の件で咎められることは無かった。千里は日本までの機内ではほとんど寝ていたが、結果的に0泊3日の弾丸ツアーになった。
 
こうして千里のパスポートには昨年のオーストラリア・インドネシアに続いて2009年5月の日付でフランス入国・ドイツ出国のスタンプが押された。また、この後、千里はパスポートは免許証や学生証・保険証などと一緒にバッグに入れて常時持ち歩くようになった。
 
今回千里は現金を100万円(内40万円は三宅さんから預かったもの)持って行ったものの、居酒屋の支払いと雨宮先生が借りたベルリンからハンブルグまでの交通費の返却が大きく、その後の食事やフランクフルトの市内交通費等も使った残りは約12万円である。それを三宅さんに報告したところ、
 
「それは申し訳無かったね。じゃ鴨乃さんに借りた48万円はすぐ振り込むね。口座番号教えて」
というのでお伝えすると、即100万円が振り込まれていた。千里がびっくりして再度連絡すると
 
「差額52万円は無理言ってドイツまで行ってくれた御礼ということで」
 
と言うので、ありがたくもらっておくことにした。
 
しかしさすがに疲れたので火曜日は1日寝ていた。月曜と火曜の授業は他の女の子が代返してくれていたようである。
 

鍋島康平のレコード協会葬は5月24日(日)におこなわれ、千里は今度は自分で喪服を購入してそれを着て出て行った。雨宮先生は新島さんと一緒にあちこち挨拶してまわっていた。それを遠くからじっと三宅さんが見ているのを千里は認識した。千里は三宅先生の目に嫉妬の感情を感じた。
 
そういえば新島さんって彼氏とか居ないんだっけ??
 
そんなことを思いながら千里が三宅さんを見ていたら、こちらに気づいたようで、ニコっと笑う。そして寄ってきて言った。
 
「こないだは無理言ってごめんね」
「いえ。充分な報酬も頂きましたし」
 
正直香典に140万も出したのは結構辛かったので50万円ほどもらえたのは嬉しかったのである。蓮菜に連絡したら「20万円も無いからしばらく貸してて」と言っていたし!
 
「そうだ。君、バスケットするんだって?」
「あ、はい。趣味程度ですけど」
「だったらさ、バスケットのゴールもらってくれない?」
「ゴールですか?」
 
「いや、人からもらったんだけど、使い道がなくて困ってた」
 
それは使わない人にはどうにも困る代物だろう。
 
「でも私アパート暮らしだから、置き場所が」
「サイズは45cmx30cmなのよね。壁とかドアに掛けられる」
「小さいですね!」
 
本来のバスケットのゴールは180cmx105cmである。
 
「まあ子供のおもちゃだと思うんだけど、僕たち子供作れないから」
「そうですね」
「まあそのうち雨宮がどこかで作るだろうから、それを僕の子供と思うことにする」
 
千里は頷いた。
 
「じゃそちらに送るよ。住所教えて」
 
それで千里は自分のアパートの住所を書いて三宅さんに渡した。
 
この小さなおもちゃのバスケットゴールは2日後に届いた。ミニバス用の5号のボールもセットで入っていたが、ほんとに可愛いゴールで、千里はこれをアパートの居室の窓の真ん中に(ガラスの破損防止に)カーテンを引いた上で取り付けた。するとふだん千里が暮らしている台所側から4m弱の距離ということになる(千里のアパートの居室は雨漏りが酷くて居住不能なので千里は台所で暮らしている)。ここから「天井にぶつけずに」ボールをゴールに放り込むのは結構な要領が必要で、これは千里の格好の「暇つぶし」と「ストレス解消」になった。
 

6月中旬。桃香は九州での仕事に志願した。
 
福岡で7月中旬から9月にかけて「日米音と劇の博覧会」(略称音劇博)という大規模な博覧会が行われ、その中核イベントの劇場公演の電話予約を受け付けるのに九州の電話予約センターのスタッフだけでは足りないということで他の地区からもオペレータを20人くらいずつ派遣するというのである。予約作業は7月頭から9月末まで続くものの、応援が必要なのは発売開始当初の7月1-12日と夏休みに突入した後の、7月18日(土)〜8月2日(日)の合計28日間。その間報酬が1日2万というのが魅力的であった。しかも宿舎は無料で使えるし、その宿舎や会場付属のスタッフ食堂で食べる分には食費も実質無料である(チケットをもらえる)。結果的に1ヶ月近い勤務で50万円以上もらえる。桃香は8月3日から学校の期末試験が始まるのだが、試験勉強をするつもりは無いし試験直前の授業に出る気もないので前日の2日までフルで働くつもりである。
 
「佐藤さんも行く?」
「うん。あんた体力ありそうだから頼むと言われた」
「そうそう。報酬がいいだけあって、結構ハードな仕事っぽいね」
「うん。3ヶ月分、平日は音楽公演と劇場公演で2つ、土日祝はどちらも2回公演になって全202公演、約40万席を売るらしいから、オペレータも8時間交代の24時間体制で」
 
「深夜はさすがに若い子ばかりになるらしいね」
「40代のオペレータに徹夜はつらいよね」
 
「例の練習はどうすんの?」
「向こうに行っている間これをしなさいと言ってメニューをもらった」
「頑張るね!」
「ジョギングの自転車並走とか頼める?」
「OKOK」
 

「はなちゃん、背が高いね。ミニバスに入ってよ、って友だちから誘われたのがきっかけだったんですよ」
 
と中丸華香は高田裕人に語り始めた。
 
「それでミニバスでけっこう活躍したから、何となくそのまま中学のバスケ部に入って、それで全国BEST4になって、J学園に声掛けられて。僕って明確にバスケやりたいと思ってバスケやってた時期が無いんですよ。ずっと成り行きにすぎなかった」
 
「それでちょっと他のことをしてみたのね?」
「工事現場楽しいですよ。ここ2015年に新幹線が走るんですよ。新幹線は260km/hで走るんですよ。でもそれが通るトンネルを掘るのって1km進むのに1年掛かるんです」
と華香が言うと
 
「僕はよく佐藤や宮野と話してたよ。バスケって40分で試合終わるのにその40分のために400時間くらいの練習を重ねて試合に臨むってね」
 
「人間って、コンピュータとかネットとかできて高速に物事が動くみたいだけどその高速ネットだって、僕たちみたいなのが頑張って工事してケーブルを引いて初めて動くんですよ」
 
「まあ人間の文化ってそんなものだよな」
 
高田は華香を追って自分も作業員の中に入れてもらって2時間も山道を車にゆられてここまで辿り着いた。その日は1日華香と一緒に新幹線の工事現場で働いた。それで作業が終わった所で、ちょっとだけ他の作業員と別れて、飯場の外でふたりでワンカップ片手に!話していたのである。高田は華香がお酒に強いのでびっくりしたが、高校在学中は飲んだことは無かったと言っていた。 
「どう?そろそろバスケに戻る気は?」
「でも僕、入学手続きしなかった」
「お母さんが代理でしているよ。女子バスケ部の入部届も書いている」
「お母さん、僕がバスケやるの、いつも反対してたのに。女の子がたくましくなっても仕方ない。良い人のお嫁になるのが女の子の幸せなんだって」
「君が頑張ってるの見て、好きなようにやらせてもいいかと思ったんじゃない?」
「・・・・・」
 
「帰る?」
「お手数おかけしました」
と華香は高田に頭を下げた。
 

6月20日(土)。
 
千里は5月末に貴司に振られたことから、千里の女装姿を偶然目撃した紙屋君にデートに誘われ、6月7日、13日、20日と3回のデートをした。
 
7日は「東京ドイツ村」でデートをしたのだが、先日ドイツにほとんどトンボ返りしたので、少しドイツ情緒を楽しもうかと思ったものの、結果的には上総情緒!?にひたることになった。
 
そして東京でのデートを経て、20日のデートではTDLでデートした後、とうとうホテルに行ってしまった。この時、千里はこのまま紙屋君と恋人になっちゃってもいいかなあ、などと思っていた。
 
それでふたりでベッドに入る。
 
「あれ?千里ちゃん、おっぱいあるんだ?」
「うん」
 
それで紙屋君は千里の乳首を舐めてくれたが、千里は凄く気持ち良かった。あーん。私、入れられる前に逝っちゃうかも。
 
そして紙屋君は千里のお股のあたりに手を伸ばしたのだが
 
「千里ちゃん、おちんちんどこ?」
などと言う。
 
へ?そんなものある訳無いじゃんと思う。
 
「無いけど」
と答える。
 
「性転換手術しちゃったの?」
「うん」
 
「ごめん、僕、おちんちんのない子には性欲が湧かない」
「えーーー!?」
 
要するに彼は基本的には男性同性愛で、おちんちんの付いた女装っ娘がツボらしいのであった。
 
それで結局彼とはセックスはしないままになり、服を着た上で、お互い人生相談でもするかのような会話をその後は時間までした。千里は実はこないだ彼氏に振られたんだということを打ち明けたが、紙屋君は
 
「でも諦めてないんでしょ?」
と言った。
 
「かも知れない」
と千里は答える。
 
「だったら頑張ればいい。彼が結婚しちゃうまでは挽回のチャンスはあるよ」
「そうだよねー」
 
それで千里はちょっとだけやる気を出した。
 

紙屋君と別れてから千里は街に出てクッキーの材料を買い込んできた。それで4時間掛けて、バタークッキーとチョコクッキーをたくさん作る。そして箱にそれを並べて黄色と黒の色の違いを利用して文字を浮かび上がらせた。 
《20 TH》
 
という文字である。20は貴司がもうすぐ20歳の誕生日を迎えること。THはむろん細川貴司のイニシャルである。
 
千里はそれを少女趣味っぽい包装紙で包み、可愛いピンクのリボンを掛けた。更にそれをサンリオの袋に入れる。
 
「よし行ってこう」
と独り言を言うと、東西線の終電で駐車場の最寄り駅まで行き、駅からタクシーで駐車場の所まで到達した。それで《後部座席》に乗り込み、仮眠用の毛布を身体に掛けて
 
『じゃ、こうちゃんお願い』
と言った。
 
『俺が運転するのかよ!?』
『私、今日のデートとクッキー作りで疲れたもん』
『へいへい』
『きーちゃんも途中で交代してあげて』
『まあいいか。じゃ千里、おやすみ〜』
 
それで《こうちゃん》と《きーちゃん》が代わる代わる運転席に座って運転し、車は首都高・東名・名神・大阪中央環状線と走って千里(せんり)の貴司のマンションに到達する。
 
到着したのはもう6月21日、朝の6時である。
 
例によって暗証番号でエントランスをアンロックして中に入り、33階に上る。そして3331号室の新聞受けの中に、手作りクッキーの箱を放り込んだ。 
「貴司、おやすみ〜」
と言って千里はエレベータの方に戻る。
 
『千里、今貴司君、女連れ込んでるぞ』
と《りくちゃん》が注意する。
 
『そんなこと玄関の所で分かったよ。だからピンポン鳴らさなかったんだから』
『鳴らせば良かったのに』
『今日はまだ準備不足』
と言って千里は笑顔で伸びをすると車の後部座席に戻った。
 
『じゃ、きーちゃん、こうちゃん、また運転よろしくね〜』
『千里は運転せんのかい?』
『いいじゃん。こうちゃんって関西弁だったっけ?』
『関西に住んでたこともあるけど、俺は九州が長かったんだよ』
『へー』
 

その日貴司のマンションで初めての一夜を過ごした緋那は物凄く不満な顔で朝、ベッドから出てトイレに行った。
 
貴司と結合することはした。しかし貴司は逝けなかったのである。貴司ってセックス初めてだったのかなあ、などとも思う。緋那自身は以前の恋人・研二と高校時代に数回、高校を出た後も数回セックスの経験がある。それで久しぶりだったのだが、自分ではうまくやったつもりだった。充分貴司のを刺激してあげた。彼も頑張っていたように思う。しかし彼は逝けないまま20分くらい頑張り、そして頑張ったものの最後まで到達できなかった。
 
セックスが弱そうには見えないし、私の服を脱がせる時のボタンの外し方とか経験者のように感じたんだけどなあ。
 
そんなことを思いながら勝手にコーヒーをいれる。コーヒーメーカーか。これ就職祝いか何かにお母さんからでももらったのかな?こんなの自分で買うような人には見えないし。
 
(実は千里からの高校卒業プレゼントである)
 
付属のミルでレギュラーコーヒーを挽き、その粉をドリップ部分にセットしたペーパーフィルターの上に入れて水を入れスイッチを押す。
 
上等なペアのコーヒーカップがある。取り出してみると深川製磁である。凄!さすが実業団チームの中心選手などと思う。でもまさか、元カノと一緒に買ったりしたものじゃないよね?などと思いながらもそのカップをひとつ出して、できあがったコーヒーを注ぐ。
 
(実は千里が銀行で口座とカードを作った御礼にもらったものをここに置いて行ったものである) 
それでコーヒーを飲んでいた時、緋那はふと新聞受けに何かはさまっているのに気づいた。何だろう?ここはセキュリティ付きのマンションなので投げ込みチラシの業者などは部屋まで持ってくることはできない。それは1階の郵便受けに入れられるはずだ。宅配便関係も勝手にはエントランスを通ることはできない。ここまであがってこられるのは、マンションから特に許可を得ている新聞屋さんくらいのはずなのである。
 
それを取り出して緋那は顔をしかめた。
 
キティちゃんの紙袋!?
 
そしてその紙袋からは何か甘い感じの香りまでする(実は千里が食品用の香料を数滴垂らしておいたもの)。
 
そこに貴司が起きてきた。
 
「おはよう」
と貴司が笑顔で言う。しかし緋那は笑顔になれなかった。
 
「こんなのが新聞受けに入ってたんだけど」
「へ?何?これ」
と貴司が訊く。
 
「私も知らない。誰がここに入れたの?」
「うーん。宅急便屋さんかなあ」
「ここ宅急便屋さんは勝手に入って来られないよね?」
 
「うん。基本的には宅配ボックスに入れてくれる仕組み。ボックスに入らないような巨大なもの・重たいものは管理人さんから部屋に連絡が入る。新聞配達とヤクルト配達だけが特別扱い。新聞も日経だけ」
 
「そもそも、これ伝票とか付いてないよ」
 
「でも中身なんだろう」
 
貴司がそんなことを言いながら袋の中身を取り出すと可愛いリボンが掛けられた包装紙に包まれた箱である。
 
「デパートでラッピングしてくれたものかな?」
「そう?何か結び方が素人っぽいし、包装紙もこれお店のじゃなくてダイソーとかに売ってそうな女子中高生御用達っぽい紙だけど」
「そ、そう?」
 
このあたりで貴司はこれを持って来た(?)人物の心当たりが出来てきたので少し焦っている。
 
リボンを外して包装紙を外す。
 
「お店の物でないことは確定ね」
と緋那が厳しい視線で言う。
 
中に入っていた箱は元々は博多の「通りもん」の箱なのだが、それをカッターで切って切り詰めてあるのである。中身にサイズを合わせるためだろう。そして箱のふたを取ると、そこにはクッキーが敷き詰めてあった。
 
「手作りっぽいクッキーだ」
と緋那が言う。
 
「そ、そう?」
「そして20 TH って何?20周年?いや違う。THは Takashi Hosokawaだ」
「あ、そうか」
 
実は言われるまで貴司は気づかなかったのである。
 
「あ、貴司、もうすぐ20歳のお誕生日だよね?」
「えっと、まあそんなものかな」
「つまり、これお誕生日のプレゼントなんだ?」
 
「そうだったのか! 誰か僕のファンかなぁ」
「特別な関係のファンみたいね」
と緋那は貴司を鋭い視線で見つめながら皮肉るように言った。
 
「えっと、このクッキーどうしよう?」
と言いつつ貴司はかなり焦っている。
 
「食べましょう。きっと愛が込められたクッキーよ」
と言って緋那はクッキーの並びの中のTの字の中央のチョコクッキーを1個取ると自分の口に放り込んだ。
 
「美味しい、美味しい。これお菓子作りが好きな子だなあ」
 
と緋那は笑顔で言いつつ『くっそー、この子マジでうまいじゃん。負けるものか。今度私も渾身の1作を作ってやる』と闘志を燃え上がらせた。
 
一方の貴司はクッキーをやはり1個食べて、何度も食べた味であったことから贈り主が誰かが明確に分かった。千里〜。また爆弾投下して行ったな?僕に恋人作っていいよとか言いつつ、絶対それを許さない気だな?と考えていた。 
 
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