【娘たちの誕生日】(5)
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(C) Eriki Kawaguchi 2019-10-11
2016年11月中旬。
房総百貨店は結局破産処理をして精算されることになり、管財人の弁護士が選任された。千里とケイは各々の顧問弁護士2人の共同で、管財人に申し入れた。
・千城台の体育館と土地を適正価格で買い取りたい。
・買取り交渉中も体育館を使わせて欲しい。
「えっと、賃貸契約が継続中なら、使用には問題無いと思いますが」
「やくざまがいの男たちが出てロックアウトしているんですよ」
「それはいかん。すぐやめさせます」
管財人が最終的には警察を動かしてロックアウトしていたやくざを排除してくれたので、この時点でローキューツはまたこの体育館が使えるようになった。オールジャパンを前に、助かった!という声があがっていた。
常総プロも設備が新しくていいのだが、何しろ遠いので往復で疲れていたのである。
管財人はこの体育館を千葉ローキューツが結構な投資もして改修し6年間も使用していたのを確認し、売却には同意してくれたが、金額については管財人側の不動産鑑定士に鑑定させていいかと尋ねる。
ローキューツ側が同意したのでこの物件は鑑定に掛けられ、建物は無価値で、土地は1億8000万円という鑑定になった。千里は弁護士を通して2億円で買い取りたいと申し入れ、管財人の許可を取る。それで千里は個人でこれを買い取った。ケイと共同で買い取ることも考えたのだが、
「大した金額のものでもないし」
と言って、処理を単純化するために個人買い取りにした。今後はローキューツは毎月千里に家賃を払えばいいことになる。
千里とケイは房総百貨店の処理と管財人が決まる前の段階から
「あそこかなり傷んでいるし、買い取ったら体育館は建て替えない?」
「それがいい気がする」
などと話していた。実はフロア部分ではないので放置しておいたが、トイレで雨漏りが起きているし、用具庫の壁に、選手の1人が“うっかり”穴を開けてしまい、取り敢えずアクリル板を張っている所もある。
それでこの体育館を残したまま、付属の宿舎(現在合宿所として利用している)と体育館裏手の廃プール(むしろプール跡に近い)を取り壊し、その宿舎や駐車場の土地の所に新しい体育館を建て、完成後に旧体育館は取り壊して駐車場にする計画を進めていた。建築費は千里が“知り合いの建築業者”に見積り依頼したところ
「材料費で1億円くらいかなあ。PC工法の練習しておきたいし」
と南田兄は言った。
「とりあえずまともな見積り出してくれない?」
「んじゃ7億円くらいで」
とアバウトなことを言って、結局前橋さんがもっともらしい見積書を作ってくれた。千里はそれをケイに示して“これも大した金額じゃないし”1人で払うねと言っておいた。
千里は南田兄弟から、建て替えやるなら、材料の木材を調達するのにいっそ山を1つ買わない?と言われて栃木県奥地の檜が多数生えている山を買った。これが2016年夏のことである。ここは本当に山奥で、過去に存在した切り出し用の道が途中多数の倒木で通行不能になってアクセス手段が無く、長期間放置されていた。坪単価もわずか100円!だったが、木は良い物が生えていた。
この山を買ったのと同時に倒産寸前だった同県内の製材所に、借金を全部返してあげるし、従業員もそのまま残っていいからと言って資金提供し、実質買い取った。社長さんと息子の副社長さんも所長・副所長として残ってもらった。給料も上げて、辞めていた職人さん数人にも戻ってきてもらった。自分は年だからと言って息子さんを入れた職人さんもいた。また隣接していた潰れた町工場跡も所有していた不動産業者から買い取り、工場の屋根を修繕して雨漏りを塞いで、建物を自然乾燥のための材木置き場にし、乾燥用の部屋も設置した。
どんな山奥でも“播磨工務店”のメンバーには全く関係無い。ひょいと飛んで行って、木を4本くらい抱えて製材所まで運び込む。一応伐採した後2ヶ月間は現地に置いて“葉枯らし”をしてから持ってくるように言ってある。伐採や運搬の作業はとっても楽しいらしく、若い清川と万奈が競争するように運んでいくので、夜間にたくさん木が積み上げられているのを見た製材所の所長(元社長)は唖然としていた。
(危険なので夜間には製材所に人間は近寄らないよう言ってある)
なお、運搬は、途中で落とした子がいたので7本以上一度に運ぶのは禁止した!
冬季は葉枯らしの効果はあまり無いので、間伐・枝打ちなどの作業をかなり進め、春先には植林を行ったが、これもまた楽しいらしかった。
この製材所で生産する木材は天然乾燥と人工乾燥を組み合わせて、2017年春頃には利用可能な状態になっていた。多少?作りすぎたが、小浜のミューズシアターや熊谷の郷愁リゾートの建築に転用した。千城台体育館の床に使用するフローリング材は絶対に曲がってはいけないので、最も早い時期に伐採し約1年乾燥させた物を使用した(人工乾燥を組み合わせているので天然乾燥を20年程度やった品質になっている。ただし色合いは本当に20年乾燥させた物より落ちる)。
大量に出る樹皮・小枝・葉、また間伐材については「餅は餅屋」かなと考え、製紙会社を実質所有している“歓喜”さんに相談すると「どんどん持って来て」と言ったので、無償で引き取ってもらうことになった(普通は処分代が掛かる)。木材の人工乾燥燃料(樹皮は油分が多い)として自家消費する分を除いて、南田兄弟に運ばせたが、南田兄弟が彼を怖がっていた。
「君たちは私の配下にいるんだから、変なことはされないよ」
と言っておいたが、ライオンの前に餌を置いて来る気分だったらしい。
なお樹皮は状態の良いものは屋根材として利用し、他は堆肥や土質改良剤にしたり、ガーデニングなどに使うバークチップにしたり、また薬品の原料などにもなるらしいが、結構大規模な加工施設が必要らしい。むろん小枝や間伐材はパルプの原料に使える。どうも歓喜さん側からすると、樹皮の処分代とパルプ原料とのバーターのような感じだったようである。
2016年12月、千里は12月18日・大牟田市の試合で今年のWリーグの試合を終えた。次はオールジャパン(1/2-8)、オールスター(1/14)をはさんで、Wリーグは1月21日から再開される。
Wリーグが休止期間に入ったことから、千里は渡辺純子・鞠原江美子(Red Impulse)・湧見絵津子(Sandbeige)・高梁王子(Joyful Gold/ Kentucky Venuses)・佐藤玲央美(Joyful Gold)と6人で月山の神殿裏にある秘密コートで恒例の高地トレーニングをした。今回は12月20-22日の3日間みっちり練習をした。
千里・絵津子・王子 vs 江美子・純子・玲央美 という組み合わせで3×3ルールの試合も随分やった。
標高1984mの山の上(0.8気圧)で運動していて息苦しくないように鍛えれば試合中フル稼働しても倒れることはない。食事を作ったり洗濯をしたり、また試合の時の得点係などは、出羽の小天狗さんたち(大半が♀)と、京平のお友だちの小狐さんたち(♂♀半々)がやってくれた。
千里たちが休憩している間に、小天狗 vs 小狐 の試合もやっていたが、なかなか楽しかった。
「そちら空を飛ぶの禁止!」
「そちら4本足で走るの禁止!」
などと応酬していた。
練習は12月22日(木)の夕方終了。各々の住まいまで佳穂さんに転送してもらう。千里は大阪の貴司の会社前に転送してもらった。
貴司は12月20日までバスケ協会の強化選手合宿をしていたのだが、21日午前中に大阪に戻り、21日午後と22日フルに会社で仕事をしていた。
19時頃、貴司が会社のビルから出てくる。
「お疲れ様。食事に行こう」
「あ、うん」
それで2人で電車で移動して、いつものNホテルに行く。いつものレストランに入り、
「予約していた細川です」
と告げる。特上の席に案内される。お馴染みのソムリエさんが出てきて
「結婚記念日、おめでとうございます。本日はモエ・ドゥ・シャンドン、2012年のヴィンテージでございます」
と言って栓を開け、2人のグラスに注いでくれた。
「2人の愛に乾杯」
と千里が言ってグラスを当てる。貴司は笑顔だが何も言わなかった。でもいいことにした。
(2012年12月22日が“結婚式予定日”だったので2012年物のシャンパンを用意してもらった)
今年は“非結婚”4周年・花婚式なので千里は貴司にひまわり柄の万年筆を贈った。花柄ではあっても、男性でも使えるおとなしいデザインである。
「海外出張多いでしょ?これは飛行機の機内でも使える万年筆なんだよ」
「へー。それは凄い」
「普通の万年筆は飛行機の中ではインク漏れ起こしたりするけど、これはキャップをきちんと閉めている限り大丈夫。キャップを開ける時は念のため汚れてもいい場所で。たいていは大丈夫らしいんだけど」
「了解〜」
と言ってから貴司はバツが悪そうに
「ごめん。僕、ちゃんと用意していなくて。後でお花でも届けさせるから。でもどこに送ればいいかな」
と言った。
「直前まで合宿してたんだもん。仕方ないよ。じゃ市川ラボに」
「OKOK」
あそこに送れば千里が受け取れなくても、市川ドラゴンズの誰かが受け取ってくれだろう(この時期はまだ千城台体育館の建設は始まっていない)。
食事の後、今日はそのままNホテルの部屋で休み(純粋に休むだけでHなことはしない。貴司はまだ夏の浮気のおしおき中である)、夜中の10時頃、貴司を起こして「車内では寝てていいから」と言ってアテンザに乗せ、市川ラボに移動する。そして深夜0時から2時間ほど2人でバスケの練習をした。シャワーを浴びて2時半頃、一緒のベッドに入る(5cm空ける)。そして(12/23)朝4時頃千里は起きて、朝御飯の準備をし(御飯はタイマーで炊いている)4時半に貴司を起こして一緒に朝御飯を食べ、甘地駅まで送っていく。お弁当も渡し、5:11の列車に乗せて笑顔で別れた。
さて私も帰ろうかなと思っていたら、南田歓喜が居る。
「千里さん、僕らのアパートができたんだけど、見てもらえる?」
「すごーい!完成したんだ!」
それで彼をアテンザの後部座席に乗せて、アパートの場所まで行く。
「きれいにできたね〜」
鉄筋コンクリート3階建てのアパートがきれいに出来上がっていた。
1フロアに3部屋ずつだが、3階は女性フロアーで男子禁制とする。3階に住むのは前橋・七瀬・青池という話である。青池ちゃんは女性フロアーでいいのかね〜?と疑問は感じたが、まあ今更女を襲ったりはしないだろう。南田兄弟や九重などは、まだたくさん女と遊びたいお年頃だろうけど。
「今度は床をコンクリートにしたから、そう簡単には踏み抜いたりしないんじゃないかなあ」
と南田弟(鵜波)は言っている。
「あと鉄球は禁止にしなよ」
「じゃ千里さんが言っていたからと言って取り上げます」
「うん。そうしよう」
「でもアパート建てるの楽しかった。千城台の建築はまだ少し先になりそうだし、冬の間は林もメンテ程度だし、他にも建てるものない?1度、木造軸組構法とかもやってみたいなあ」
などと万奈が言っている。若い彼はきっとたくさん汗を流せて気持ち良かったろう。
「じゃ姫路付近に家を1軒建ててくんない?建坪20-30坪の小さなおうちでいいから」
と千里は言った。
「姫路で貴司さんと一緒に暮らすの?」
と南田兄が訊く。
「今私姫路って言ったね?姫路に何があるんだろう?」
と千里。
「自分で分からないんだ!」
「いつもの千里ちゃんだね」
それで彼らは取り敢えず50-80坪程度の土地を姫路市あるいはその近郊で探してくれることになった。むろん建築に使用する木材は栃木で切り出して製材した檜である。
12月23日から28日まで、東京体育館でウィンターカップが行われていた。旭川N高校は夏のインターハイで準優勝したので自動出場となり、2010年以来6年ぶりのウィンターカップ出場となった。同校バスケ部の全女子部員が12月21日(水)に旭川から出てきて、宿舎と練習場を提供してくれるV高校に入った。同校から宇田先生や朝日校長は
「今年はウィンターカップの方なんですね」
と言われていた。昨年はオールジャパンに出場するのに東京に出てきてやはりこの高校の宿舎と体育館を借りたのである。
N高校はインターハイは 1995-1996, 1999, 2001, 2003, 2007-2011, 2014-2016 と出場しているが、オールジャパンは 2007,2015 と2度出場。そしてウィンターカップに出たのは 1996, 2008-2010, 2016 と今回が5度目である。
この遠征期間中の食事の作成や練習相手に関東近辺のOGに声が掛かり、“バスケ部OG副会長”と誰からともなく呼ばれている若生暢子(40 minutes)を中心に、森田雪子・松崎由実(40 minutes), 白浜夏恋(BC運輸)、佐々木川南・横宮亜寿砂(JP運輸)、原口揚羽・紫・島田司紗・杉山蘭・水嶋ソフィア(Rocutes), 夏嶺夜梨子(Joyful Diamond), 越路永子(Joyful Gold)、志村美月(W大学)、などといった面々が応じた。
千里も声を掛けられたものの、あまりに多忙で断り「どこかで顔出すね」と言っておいたのである。もっとも今回のN高校の遠征費は例によって大半を千里が出している。
他に湧見絵津子(サンドベージュ)も顔を出せる範囲で出てくると言っていた。
12月23日早朝甘地駅で貴司を見送り、その後、完成した市川ドラゴンズの宿舎を見てから、千里は大阪の《げんちゃん》と入れ替わって貴司のマンションに行く。京平に朝御飯を食べさせながら、しばし母子のふれあいをする(阿倍子は寝室で寝ている)。
その後、9時頃にV高校に移動してもらっていた《わっちゃん》と入れ替わって旭川N高校のメンバーに会った。今日は夕方まで彼女たちに付き合う。特に千里を待ち構えていた福井英美とは何十本もマッチングをして「明日の試合に響かないか?」と心配されるほどであった(N高校は23日はシードで不戦勝)。
「千里さん、明日は?」
「明日は福岡で会議があるんだよ。だから今夜の最終便(羽田20:00-21:55福岡)で移動するから」
「大変ですね!」
「また25日に来るね」
と言って千里は18:30頃、V高校を出た。
先に羽田に移動してもらっていた《こうちゃん》と入れ替えで羽田に来る。チェックインはしてもらっていたので、そのまま搭乗して福岡に移動し、地下鉄で唐人町まで移動。シャトルバスでシーホーク・ホテルに入った。
アクア主演の『時のどこかで』は11月までは『ねらわれた学園』の監督も務めた河村監督の下、歴史ドラマ風で楽しく撮影していたのだが、12月からは田箸監督に代わり、脚本も花崎弥生さんから井山玲佳さんに交替して、やや勝手が違う感じになった。でもアクアは気にしないことにした。井山・田箸のコンビはむしろ学園ドラマとして楽しいものにしようという方針のようで、これまであまり描かれていなかった、学校内の出来事が多く描写された。
井山さんが脚本を書くのが速く、田箸さんはあまり何度も撮り直しをせずに、多少のセリフミスなどがあっても、そのまま活かしてハプニングを楽しむ方針のようで、それはそれなりにライブ感の強い映像になっている気がした。おかげで撮影はスイスイ進み、1月中には撮了になりそうな感じだった。
ただ最後の数回のストーリーを巡って、どうも揉めているようで、コスモス社長が「うちに任せると言われた」と言い、その件でアクアと、ライブツアーが終わった所で、相談したいと言われた。ボクが物語展開の好みとかを言っていいの?と疑問も感じた。(実際には主演俳優は結構自己主張することが多いし、その俳優のイメージ戦略との絡みで特定の設定や演技を拒否することも多い)
12月に入ると、忙しさが凄まじかった。『時のどこかで』の撮影は主演ということもあり、最優先でスケジューリングされているが、それ以外のドラマにも「1分でいいから出て」などという依頼があり、話の筋も分からないまま、台本通りの演技をするというのも度々あった。バラエティ番組のレギュラーに出て、ラジオ局の番組に出て、歌番組に出て、というので、平日(月〜金)は2日だけ稼働という約束は完全に反故(ほご)にされている。
リハーサル役が秋田利美だけでは足りず、本来はボディダブル役の今井葉月もこの頃からリハーサル役に駆り出されるようになった。姫路スピカも身長が近いので、かなり使われていた。
FM局に、たまたま川崎ゆりこ副社長と一緒に行った時、制作部長さんから言われた。
「今年度1年間 Times of JC の金曜日を担当して頂いていたのですが、3月で中学を卒業するのでJCは卒業ということで、Times of JK 本体の方に昇格して頂ければと思っているのですが」
「はい。ぜひお願いします。放送の曜日はどうなりますか?」
とゆりこが尋ねる。
「Times of JK の火曜日担当の遠上笑美子ちゃんが3月で高校を卒業するのでその後任ということでお願いしたいのです。実は遠上笑美子ちゃんと同じ事務所で今年秋にデビューした川井陽生(かわい・はるみ)ちゃんが来年中学3年生なので、彼女にアクアさんの後任のTimes of JC をやってもらおうかということになっておりまして」
「ああ。ζζプロさんと枠の交換なんですね」
「そうなんです。本当はその枠は&&エージェンシーの枠なんですが、そちらにトークのうまい女子中生タレントさんが居ないもので」
「なんか枠の貸し借りが複雑になってません!?」
「いや、実はもう、たいがい訳が分からなくなりつつあります」
と言って部長さんも頭を掻いている。
「でしょうね!」
しかしそういう訳でアクアはTimes of JC 金曜日から、 Time of JK 火曜日に移動することになったのである。
ちなみにJCが女子中学生、JKが女子高校生の略ということにアクアはいまだに気付いていない!
「ところでアクアさん、進学する高校は決まりました?」
「都内の私立高校にしようということまでは決めたのですが、まだ完全には絞っていません」
「なるほど。やはり都内に出てきますか?」
「熊谷との往復で結構体力使っているので」
「そうでしょうね!」
「最初は平日には日程を入れないという話だったのですが」
「ああ、それはさすがに無理」
と部長さんも言っていた。
その高校問題だが、龍虎(アクア)は12月10日に冬子(ケイ)と電話していて
「第1候補C学園(北区)、第2候補F学園(多摩市)、第3候補D高校(品川区)」と考えたのだが、冬子が途中で気付いて
「C学園もF学園も女子高なんだけど」
と言った。
え〜?と思ったものの、女子高では仕方ない。それで母とも話し合い、結局、芸能活動ができる主な高校の中で男子でも入れる学校として
「第1候補D高校(品川区)、第2候補J高校(世田谷区)」
と2つの候補に絞り、学校説明会があるので、コスモス社長に連絡してその日の日程を空けてもらい、聞きに行ってくることにした。2つの学校の説明会の日程は
D高校 12月17日(土)13時 品川マリンプラザ
J高校 12日18日(日)15時 渋谷メロンホール
ということになっていた。ところがここで龍虎は誤って、17日の13時に渋谷メロンホールに行ってしまったのである!
この日の13時に渋谷メロンホールでも学校説明会が行われていたので龍虎は全然間違いに気付かなかった。そして全体説明が終わり、個別ガイダンスを受ける段階になって、向こうは今大人気のアクアというので驚いたようだが
「ところでうちは女子高なのですが、田代さんは実は女性だったのでしょうか?」
と訊かれて仰天する!
「え?D高校って女子高だったんですか?」
「うちはC学園ですが」
と言われて、ここでやっと間違いに気付いたのであった!
それで龍虎が「お騒がせしました」と言って謝り、行けなかったD高校の方には何て連絡入れようかと思って帰り掛けた時、教頭先生が龍虎に訊いた。
「あなた、テレビとかで聴くとかなり歌が上手いけど、あれって生歌唱?」
「はい。私も含めて§§ミュージックの歌手は基本的に口パクはしません。下手でもいいかも生で歌えというのが社長の方針なんです」
「今ちょっとこの場で何か歌ってもらえないかしら?」
それで龍虎が1曲歌ってみせると、先生たちは驚いている様子だった。そして教頭先生が入試担当の先生と何か話しているようである。そして言った。
「これだけ歌唱力のある人なら、芸術コースで受け入れてもいいです」
「芸術コース? あのぉ、それ入学前に性転換手術受けてね、ということじゃないですよね?」
「そんなことは要求しません。実は来年度から芸術コースに限って、5名以内までは男子生徒も受け入れることになったんですよ」
「ほんとですか!」
元々龍虎はこのC学園を第1候補に考えていた。しかし女子高だからということで諦めていたのだが、男子を受け入れてもらえるということなら、ここに行きたいと思った。
「でも定員5名以下って厳しいですね」
「はい。ずっと女子高でやってきた学校なので、男子を受け入れる場合でも、かなりハイレベルな人に限ります。実は今2名内定しているのですが、1人は国際***音楽コンクールのヴァイオリン部門で昨年3位になった人、もう1人はピアノの**コンクールでここ3年連続で入賞した人」
「私とてもその人たちのレベルじゃないです!」
「いや、今の歌唱を聴いた限りでは、かなりハイレベルだと思った」
と音楽の菱見先生が言った。
「あなた楽器は何かする?」
「えっと。ピアノとヴァイオリンとフルート、あとはギターかな」
「色々するね!」
「今度愛用の楽器を持ってうちに来てくれない?親御さんも一緒に」
「分かりました・・・ピアノもですか?」
「ピアノを抱えてくるのは大変だから、うちの学校にあるピアノで」
「そうですよね!」
龍虎は後ろで《こうちゃんさん》がどこから持って来たのかグランドピアノを軽々と片手で抱えてアピールしているのは取り敢えず黙殺した!
そういう訳で、龍虎はいちばん魅力を感じていたC学園に入れるかも知れないということになった。すぐに母にメールしたが、龍虎から父、支香さん、それに上島さんにも連絡しなさいという返事だったので、母に送ったのとほぼ同じ文章を送った。すると上島さんが明日なら大丈夫ということで、支香さんも明後日までならOKということだった。それで母と父にその旨連絡すると、明日休みを取ってくれることになり、C学園側には直接電話してOKを取る。
それで明日12月18日(日)に北区C学園に、保護者4人!と一緒に行くことになった。
学校側からは、理事長・校長・教頭、芸術コース主任の窪田先生が出てくれた。窪田先生も音楽の先生だが、弦楽器と合唱指導をしているらしい。昨日説明会の会場で龍虎の歌を褒めてくれた菱見先生はピアノの担当である。この学校は音楽の先生だけでも5人いる。音楽教育に力を入れているとうたっているだけのことはある。
最初は歌を歌ってと言われたので、上島さんにピアノ伴奏してもらい鴨乃清見の『門出』を歌った。3オクターブの声域を使う上に、それまでの和音からは想像が付かないような音から、伴奏より先に歌い出す必要がある場所が数ヶ所ある難曲である。その難曲を正確に歌ったので、先生たちが思わず拍手をしてくれた。ただひとり窪田先生を除いては。
窪田先生は
「移調してますよね?」
と訊いた。
「はい。すみません。原曲は F3-E♭6 なんですが、私は下の方が G3 までしか出ないので、本来C-Majorなのを2度上げてD-Majorにして G3-F6 で歌わせて頂きました」
「いや F6 が出るのが凄い」
と言って窪田先生も結果的には褒めてくれた。しかしこういうポップス系の曲の原キーが分かるというのは凄いなと龍虎は思った。
続いて龍虎は教室に置かれたグランドピアノを使ってショパンのノクターン2番 E♭ Major Op 9-2 を弾いた。ここにあるピアノは Yamaha S4B なのだが、実は田代家にも同じシリーズの S6A があり、日常的に弾いているので安心感があった。
更に今度は田代母にピアノ伴奏してもらって E.H.Roth (Ernst Heinrich Roth, エルンスト・ハインリッヒ・ロート 現在は3代目) の工房のヴァイオリンで『ツィゴイネルワイゼン』を弾く。龍虎はYamahaのArtidaも持っているのだが、今日は量産品ではなく、工房の手作り品を使用して手作り品ならではの個性のある楽器を弾きこなしてみせた。
更に愛用のフルート Yamaha 'ideal' YFL-877 (offset AG925) でメンデルスゾーンの『歌の翼に』(Auf Fluegeln des Gesanges) を演奏する。
そして最後に愛用のアコスティックギター Yamaha LS-56 でホルストの『木星』を美しく弾いてみせて、また先生たちから大きな拍手をもらった。窪田先生は
「色々な楽器をこなすけど、やはり歌がいちばん凄かった」
と言った。
これらの演奏が実質入試代わりになったようで、その場で合格内定を告げられる。あとは、事務的な手続きや、入学にあわせて準備しておいてほしいことなどの連絡となった。
通学に関してはこの学校の近くにマンションでも借りて、そこに龍虎が1人で住み、通学してくることにしようということになる。また事務所の車で迎えにくる場合は、その車のナンバー、迎えにくる可能性のある人の名前などを届けて欲しいということだった。
制服については、男子の制服は定めていないので、学生らしい服であればよいということであった。教頭先生が「男の子に女子制服を着せる訳にもいきませんしね」と言った時、龍虎が微妙な顔をしたので、先生は
「女子制服を着たければ着てもいいですよ」
と言い、龍虎は
「どうしよう?」
と悩んでしまった!
「実は既に入学が決まっていた男子生徒の1人は女子制服で通学したいということだったので、認めたんですよ」
「へー!女の子になりたい男の子ですか?」
「そのあたりは個人情報なので明かせませんが、中学も3年間女子制服だったそうで、それなら高校も女子制服で全然問題無いですよと言ったんですよ」
「あんたも中学時代、けっこう女子制服を着てたね」
などと母が言うので
「ああ、だったら田代さんも、この学校でも女子制服で構いませんね」
と先生は笑顔で言った。。
学校での面談を終えてから、上島さんと別れ、田代夫妻・支香と4人で近くの不動産屋さんに行った。昨日の内にネットで検索して、目星を付けていたお店である。それでC学園高校に入るので、学校からあまり遠くないマンションを借りたいと言った。
「お母様かお姉様と一緒にお住まいなさいますか?」
と不動産屋さんが訊く。
どうも支香は龍虎の姉と思われているようである。実際の年齢は、田代涼太・幸恵・長野支香、全員1979年生れの37歳である!
「いえ、ひとり暮らしです」
「でしたらオートロックがいいですよね?」
「はい、それがいいです」
オートロックじゃなかったら、帰宅したら部屋の前にファンが立ってた、なんてことがあり得る気がした。
荷物が多いので最低2DKだが、あまり広すぎても持て余すので3LDKくらいまで、C学園から徒歩20分程度以内・赤羽駅から10分程度以内、そしてあまり古すぎない所、というので探してもらった所、学校まで15分、駅まで4分という場所で、築10年、2SLDK 12階で家賃16万円という所が見つかった。
「この場所でこの家賃は安い気がする」
と支香が言った。
「駐車場が無いのがネックでしょうかね」
「まあこれだけ駅が近ければあまり必要ないかもね」
支香は本人が芸術コースに入学するのでピアノを弾きたいので、そのSの部屋に防音板を貼り付けてもいいかと尋ねた(窓の無い部屋は防音化しやすい)。不動産屋さんは基本的には出る時に原状回復してもらえれば問題無いと言った。
「ただこの図面を見て頂ければ分かりますが、この部屋は偶然にも角部屋なので、Sの部屋は外壁に面しておりまして、お隣の部屋には響きにくいとは思いますけどね。それに最上階だから上の階に響く心配も無い」
「夜中に弾いても大丈夫なように防音材を貼りたいんですよ」
「ああ、それなら貼ったほうがいいかも知れませんね」
「床にはダンススタジオなどに使われている厚手の防音マットを敷いた上に毛の豊かなカーペットを敷こうと思っています」
「それはかなり防音効果ありそうですね!」
実際、龍虎が歌や楽器の練習をするのはたいてい夜中になってしまうだろう。
それでここを借りることにしたが、龍虎は未成年なので書類上の契約者は親権者である長野支香になった。家賃自体は長野龍虎名義の口座から引き落とす。
防音工事に関しては、事務所が経験豊かな業者を知っているので、そちらに頼むことにした。
12月19日(月).
龍虎が学校で担任の先生に東京北区のC学園に進学が決まったたことを報告し、昨日その場で書いてもらった合格内定証を見せると、担任は
「良かったね。行き先が決まって」
と言ってくれた。
しかし、そばに居た桐絵が
「龍、やはり女子高生になるんだ?C学園って女子高だよね?」
と言った。
「違うよ。C学園は来年度から芸術コースに限って男子を最大5名まで入れることになったんだよ。ボクはその3人目の合格者」
「そうだったんだ!でも龍ならふつうに女子高でも通るよね、なんて言ってたんだけどね」
などと桐絵は言っていた。
昼休みにランチルームで、龍虎がいつものように彩佳・桐絵・宏恵の仲良し4人組で給食を食べていたら彩佳が言った。
「各クラスの情報通の子に聞いてみたんだけどさ、うちからC学園に行く生徒は龍以外に居ないみたい」
龍虎は、それって今日の帰りまでには3年生の女子全員がボクの進学先を知ることになるな、と思った。
「まあ、そもそも県外に行く子自体が少数だよね」
「ミッション系では、さいたま市のL高校に行く子が1人」
「へー」
「L高校は制服が無いんだよ。だから龍、女子っぽい服で登校しても咎められないかもよ」
「別に女の子の服で登校する趣味は無いよ!」
3人は顔を見合わせる。
「龍、私たちの前で恥ずかしがる必要ないよ」
「女子制服で通学したいんでしょ?」
「したくないよぉ」
「素直じゃないなあ」
「今更隠したって意味無いのにね」
などといった話をしていた時、唐突に桐絵が言った。
「よし。私もC学園に進学しよう」
「え〜〜〜!?」
「だってうちの中学からC学園に行く女子生徒が居なかったら、龍1人で寂しいでしょ?」
「大丈夫だと思うけど」
「遠慮することないよ。小学2年の時以来の親友だし。それに私が近くに居れば、龍が女子トイレを使おうとして咎められても弁明してあげられるよ」
「別に女子トイレを使う趣味は無い!」
「だって龍、かなり女子トイレを使っている」
「みんながボクをそちらに連れ込むんだもん」
「実際、男子たちは龍が男子トイレに入ってくると、ちんちん出しておしっこするのが恥ずかしいらしいよ。だから龍には男子トイレ使ってほしくないって」
「ああ、そういう意見も強い」
そんな会話を聞きながら、少し嫉妬するような表情をしていた彩佳が言った。
「よし、私もC学園に行く」
「熊谷西じゃないの〜?」
「桐絵1人だと、風邪とかで休んだ時に心配じゃん。2人いれば安心だよ」
すると宏恵は呆れるように言った。
「あんたたちも、よくやるね〜。私はコーラスやりたいから熊女(熊谷女子高)に行くよ」
「うん、それでいい」
「結果的にはこの4人全員女子高に進学することになるね」
「ボクは共学だよぉ」
「男子が5人しか居ないのなら、ほぼ女子高ということでいいよね」
「でもあんたたちも学校の近くにマンション借りる訳?」
「高そうだしなぁ。自宅から頑張って通学するかな」
「定期券代でアパートくらいは借りられる気がする」
「龍は熊谷から東京までの定期持っていたよね?」
「これ?」
と言って龍虎が見せる定期の額面は3ヶ月で199,400円である。
「3ヶ月でこれだから1ヶ月あたり6万6千円くらいかな」
「これ新幹線定期だから、在来線だけでいいなら、確か3ヶ月で7万円くらいだよ」
(龍虎が使用しているのは通勤定期なので199,400円だが、通学定期なら155,820円。在来線なら熊谷−赤羽は51.5kmなので通勤70,670円・高校生の通学31,820円になる。金額的には庶民でも通学可能だが体力は無茶苦茶使う)
「そのくらいなら何とかなるかなあ」
「熊谷駅までの交通費も忘れないように」
などと言っていたら、スマホで何か見ていた桐絵が
「C学園は女子寮があるよ」
と言った。
(女子校にはたぶん男子寮は無い)
「よし、そこを狙おう」
「希望者多数の場合は成績順だって」
「じゃ上位で合格すればいいね」
「それに上位5名以内なら校納金全額免除、上位10名以内なら8割免除」
「よし、入試頑張ろう」
「そこ定員は?」
「高校から募集する分は進学コース30名・芸術コース10名。但し芸術コースは一般募集無しで自己推薦のみ。一定レベルに到達している生徒が少数の場合は10名まで採らない場合もある」
「30名の中の上位10名って厳しくない?」
と龍虎は心配したが
「冬休みは毎日一緒に勉強しようよ」
と彩佳が桐絵たちに提案する。宏恵は
「一緒にやるのはいいけど私教えないからね。勝手に勉強しててよね」
と言っている。熊女はレベルが高いから、頭のいい宏恵でも、ゆとりが無いのだろう。
しかしそういう訳で、彩佳・桐絵が一般入試でC学園を受けることになった。2人は親と話して、寮に入れば1ヶ月1万円で済むこと、学費も上位に入ればかなり減免されることを言って、結局その上位10位以内に入ったら進学を認め、熊谷商業との併願にすることで親の承諾を得た(彩佳は模試の結果も見た上で熊谷西は諦めて県立なら熊谷商業ということに変更したようである)。
今年は12月23日が祝日、24-25日が土日なので、龍虎の学校では12月22日(木)に終業式が行われた。これから1月10日に始業式があるまで学校が休みなので、アクアは東京足立区の寮に泊まり込むことになるが、実際にはその間ツアーがある。
22日に終業式が終わった後、新幹線で東京に出てきて、その日いっぱい仕事をし、23日も夕方近くまで様々な撮影・録音をこなして、18:00にお台場の放送局を出る。そして20:00の飛行機で川崎ゆりこと一緒に福岡に飛んだ。
HND 12/23 20:00 (7G55 A320) 21:55 FUK
(実は千里が乗ったのと同じ便なのだが、龍虎たちと千里は空港や機内では遭遇しなかった)
福岡空港からはタクシーでシーホークホテルに入り、案内された部屋に入ってシャワーも浴びずにひたすら眠った。
12月24日は朝8時に目を覚ます。朝食券がテーブルに置いてあり、4階かと思って部屋を出ようとした時、コスモス社長から電話が掛かってくる。アクアがラウンジに入って、ファンが騒いだりしてはいけないので、食事は部屋に持って行ってもらうようにしたということだった。
それで待っていると、鱒渕さん!が食事を持って来てくれた。
「ホテルの人が持って来てくれるのかと思った!」
「この時間帯はルームサービスの時間外だということだったから、レストランの人に許可をもらってテイクアウトしてきた。もし足りなかったら言ってね。また持ってくるから」
「これだけあれば充分だと思います!」
鱒渕は忙しいようで龍虎の部屋に置かれていた食事券を取るとすぐ出て行った。それでアクアは今日のライブの譜面を斜め読みしながら、のんびりと朝食を取った。食べ終わった所で連絡したら倉橋さんが取りに来てくれた。
昨夜シャワーも浴びずに眠ってしまったので、食事の後でシャワーを浴びる。鱒渕さんからメールが入っていて、テレビ局には11:30に入ればいいから、11時すぎにホテルを出るよということだった。
やがて愛心とハナちゃんが来てくれて、2人がギターとキーボードで伴奏をしてくれるので、龍虎は発声練習ぎみに今日の楽曲の練習をした。
11時前に
「じゃお着替えして出てきてね」
とハナちゃんが言い、部屋の鍵も持って2人は出ていった。それで精算するのだろう。龍虎は今日のテレビ出演用の服を着て、荷物をまとめ下まで降りて行った。
12時から福岡のテレビ局で、今日発売になるアクアの7枚目のシングル『モエレ山の一夜/希望の鼓動』の発売記者会見をするのである。
下に降りていくとゆりこと鱒渕が待っている。
「済みませーん。遅くなりました」
「私たちが早く来ていただけだよ」
という会話を交わして、ホテル前からタクシーに乗り、11:20くらいに天神北にある放送局に到着した。中に入っていくと、紅川会長とTKRの松前社長がいるので、びっくりする。
「何かあったんですか?」
「いや、ツアー初日だから来ただけだよ」
「ありがとうございます!」
しかし後ろで『こうちゃんさん』が笑っているので、どうも何かあったようだなと龍虎は思った。この時点では、桜野みちるさんの彼氏との交際がバレたとか?などと龍虎は考えていた。
少しして、コスモス社長、三田原課長、ケイさん、千里さんに、青葉さんまで来る。どうもこの5人は何か会議をしていたようである。表情が厳しいので、やはり何か事件が起きているなと思う。この時点で、自分に関する何かが起きているようだと判断した。きっとライブ前の自分を動揺させないように何も言わないことにしているのだろう。
チラッと《こうちゃんさん》を見たら
『龍の手とか足とか目とか耳とか、内臓全部にヴァギナとかも全部IPS細胞から作った予備があるから安心しろ』
などと言っていた。
もう!
つまり、ボクを襲撃するとかいう予告でも来ているのかな?しかし、ヴァギナの予備まであるの〜?作った女性器は1組だけじゃないわけ?
社長たちの様子を見ていたら、千里さんが持っていたバスケットボールを膨らませて、ドリブルしたり青葉さんにパスしたりしている。まあ千里さんたちもいるから大丈夫だよね?と龍虎は思った
やがて12:00になって番組が始まるが、自分の出番は12:10からである。最初の10分間は東京のスタジオから放送が行われる。
12:08.「スタンバイして下さい」の声があり、アクアは席を立つと後方にいるヤコさんたちとアイコンタクトする。今日はエレメントガードの4人だけではなく、ドームで伴奏に参加してくれるミュージシャンさんたちが5人加わり、9人編成である。女性4人と男性1人だが、サックスを持っている女性は男装している。その人は男声で話していたので、男声の発声法を習得したか、或いは男性ホルモンで声変わりを起こしたのかな?と思った。
12:10.
放送局のスタッフさんの手での合図とともに伴奏が始まり、8小節の前奏を聴いてから、アクアは『モエレ山の一夜』を歌い始めた。
記者さんたちが或いは驚いたような表情、あるいは感嘆するような顔をしている。アイドルなんて口パクが普通になっちゃってる人も多いから、生歌なのに驚いたのかなと思ったが、バックで演奏している追加ミュージシャンの人たちまで驚いているふうなのは、くすぐったい気分だった。
しかし・・・
何?このキーボード奏者さんの動揺の仕方は?
《こうちゃんさん》がOKサインをしている。ひょっとして、このキーボード奏者さんがボクを襲おうとしているんだっりして?でも《こうちゃんさん》がいれば取り敢えず死ぬことは無いよね?ボクの寿命までは死なないようにしてやると言ってたもん。その寿命がいつなのかは知らないけど。
『希望の鼓動』まで歌ってから席に着き、記者会見が始まる。アクアの左隣がコスモス社長、右隣がケイさんで、社長の隣が三田原さん、ケイさんの隣が千里さんである。青葉さんはこの席には座らないようだ。さっき千里さんが膨らませたバスケットボールを持ったまま、アクアから見て左側、出入口そばの壁際に立っている。
記者会見が始まって5分ほどした時だった。
突然その青葉さんが立っているそばの入口が開くと、何か黒い物を手にした男が入ってくる。男を放送局のスタッフさんが停めようとした。
次の瞬間、アクアは空中に浮いていた。
何?何?
空中で180度回転させられて床に置かれる。千里さんの「逃げて!」という声があった。向こうからヤコさんが駆けてくる。アクアも急いで走ってそちらに向かう。その時、ダーン!!!という銃声のようなものを聞いた。
今日はボクを襲おうとする人が何人もいる訳!?
アイドルって大変だなあ、とアクアは他人事(ひとごと)のように思った。
アクアがヤコの所に走り寄り、ヤコがアクアをハグするようにして、くるっと半回転させる。何だか何度も回転させられる日だ。
それで会見席の方に視線が行く。
コスモス社長が男に羽交い締めにされていた。コスモス社長は自分の左隣に座っていたから、きっとボクと犯人との間に立ちふさがって、結果的にボクの代わりに人質に取られたのだろう。それを千里さんが睨んでいる。
続いてケイさんと三田原さんが席を立った。男が「動くな!」と大きな声で言う。男が持っているのは本物の拳銃のようだ。
ここまで男が乱入してきてから5〜6秒だと思う。
ところがこの状況で青葉さんがバスケットボールを持ったまま、笑顔で男に近寄って来た。
「お兄さん、そんな、か弱い女の子を人質にしちゃダメだよ」
と男に笑顔で声を掛ける。
男の緊張が一瞬緩む。その瞬間、青葉さんがボールを千里さんにパスした。男が振り返る。が、その前に千里さんはボールを男の手首に当てていた。
男が拳銃を落とす。放送局の男性スタッフ数人が走り寄る。千里さんが自分の身体をコスモス社長と男の間に割り込ませて、社長を解放した。
放送局のスタッフは、1人が床に落ちた拳銃に飛びつくようにして確保。他の人たちが男を拘束した。次の瞬間には女性アナウンサーがマイクを握り
「犯人は無事取り押さえました。コスモスちゃんもアクアちゃんも無事のようです」
とカメラに向かって言った。
アクアは小さな声で「ありがとう」とヤコに言うと立ち上がり、会見席の方に歩み寄って、コスモス社長、そして千里さん、青葉さんとハグした。どうもここまでが全国に放送で流れたようだった。
チラッとキーボード奏者さんに目をやる。ああ、この人はもう犯意を失ったな、と龍虎は思った。
プロデューサーさん?が「警察が来るまで、誰もその場を動かないで下さい」と言って、取材したそうな記者たちを制止した。
警察はまだ来ていないが、ケイさんと青葉さんは大阪でのローズ+リリーのライブに行かなければならないというので、そのプロデューサーさんの許可を取って、すぐにスタジオを飛び出して行った。
やがて警察が駆けつけてくるが、プロデューサーさん、それに上の階から降りてきたテレビ局の社長さん?が警察の責任者っぽい40代の警察官に、簡単に事情を説明しているようである。乱入した男はその人が緊急逮捕して、別室に連行させていた。結局アクアたちはライブがあるからということで、名前を紙に自署して写真を撮られ、その上でライブ終了後にあらためて事情を聞きたいということになった。コスモス社長が最初に「秋風コスモス」と署名して写真に写っていたので、アクアも「アクア」と自署して写真を撮ってもらった。
続いてコスモス社長に言われて千里さん、そしてエレメントガードの4人、追加伴奏者の5人が名前を書き写真を撮られる。サックス奏者さんが、女名前を書くが、男装しているので身分証明書の提示を求められていた。ああ、まだ改名していないのねと思う。あるいは性別変更と一緒に改名するつもりなのか。
出演者とスタッフがそれで解放されてドームに向かう。タクシーにはコスモス社長・三田原さん・千里さんが一緒に乗った。三田原さんが助手席で、後部座席に、社長、アクア、千里さんと座る。どうもアクアを護衛するような態勢のようだ。しかし千里さんも一緒なのが心強い思いだった。千里さんに
『キーボード奏者の人、どう思います?』
と脳間通信してみると
『任せて。龍はライブのことだけに集中して』
とお返事があるので、任せることにして、アクアはその人のことは何も考えないことにした。気持ちを集中させていく。
車内で3人は今の乱入事件のことも、襲撃予告?のことも話さず、博多のラーメンはどこが美味しい?みたいな話をしている。ボクを緊張させないように、こういう話をしているんだろうなと思った。
三田原さんは新興勢力の一風堂、コスモス社長は濃厚な味の長浜・一心亭、千里さんはあっさり系の名代ラーメン亭を推していた。チェーン店の金龍と一蘭、それに独特の味付けの龍龍軒、なども話題に上がっていた。名代ラーメン亭のカレーライスセットは、ラーメン単独で食べるのより、よけいお腹が空く、ということで社長と千里さんの意見が一致していたが、三田原さんもアクアも意味が分からず首をひねっていた。
ドームにタクシーが到着する。
アクアたちは楽屋口から入るが、その楽屋口の所に制服警官が2人立っている。タクシーで通りがかりにチラッと見た玄関の方も物々しい雰囲気だ。やはり何かの犯行予告があったのだろう。アクアたちに続いて、紅川・松前・三田原の乗ったタクシー、レイと男性奏者2人の乗ったタクシー、エミとギター奏者・フルート奏者の乗った車、ヤコ・ハルとキーボード奏者の乗った車と到着する。
先に着いた車に乗っていた人が警官の立っている楽屋口を通過して待っている。最後にヤコ・ハル、そしてキーボード奏者が楽屋口の2人の警官の間を通過したのだが、その時、キーボード奏者が転んだ。
持っていた荷物が床にぶつかる。キーボードケースがゴツッといった鈍い音を立てる。ルイヴィトンの旅行バッグは軽い音。しかし大きな巾着袋は明らかに高い音がした。そして彼女は恐怖におののいたような表情をした。
『爆弾か何か?』
とアクアは《こうちゃんさん》に尋ねる。
『爆発しないように細工しといたから安心しろ』
というお返事。
なるほどね〜。それで転ばせた訳か。
彼女の様子がおかしいので三田原さんが「どうかなさいました?」と訊くと「いや割れ物が入っていたので」などという。
「だったら割れてないか見てみたほうがいいよ」
と三田原が言うと、彼女はわざわざ手袋!をして、おそるおそるバッグの中に手を入れる。もう完璧に怪しい人だ。
「それ落ちた時に金属性の音がしましたね」
と千里さんが言うと、警官が言った。
「金属ですか?念のため見せて頂けませんか?」
ところが彼女は突然走って逃げようとした。
「こら待て!」と言って警官が追いかけ彼女を確保する。もうひとりの警官が白い捜査用の手袋をしてから、バッグの中のものを取り出した。
時計のようなものが付いた金属製の缶が出てくる。
「向こうで任意で事情をお伺いしたいのですが、いいですか?」
という警官の言葉に、女は力無く頷いた。
コスモス社長がアクアとエレメントガードおよび他の伴奏者に
「楽屋で軽く練習してて」
と言ったので、ヤコに促されて全員控室に向かう。控室にゆりこ副社長、沢村と鱒渕がいる。ヤコがゆりこ副社長を部屋の隅に連れて行き、何かささやいている。ゆりこ社長は驚いていたが、別の控室にいた愛心とハナちゃんを呼んだ。2人とも1台ずつ電子キーボードを抱えてきている。しかし実際は2台とも愛心が弾くようで、愛心の前に2台置いた。
「米本さんがキーボード弾いて。それで少し練習しておいて」
とゆりこは言ってから部屋を出ていく。コスモス社長から呼ばれたようである。
愛心をわざわざ苗字で呼んだのは、身内の研修生ではなく外来演奏者かと思わせるためかもとアクアは思った。音楽の世界では中学生や、どうかすると小学生でも凄いプレイヤーがいる。実際愛心は、その付近のバンドでキーボード弾いている人よりは、ずっと上手い。
それでハナちゃん(貫禄があるので、ディレクターか何かには見える。実はただの女子高生なのに!)の指揮で、冒頭演奏する『モエレ山の一夜』を練習する。
「ドーム初体験の方もあるかと思いますが、こういうのは最初の1曲がうまく行けば後は何とかなるものですから」
などとハナちゃんは言っている。ほんとに偉い人みたいだ!
それでさっきの騒動があって、不安そうな顔をしていた演奏者たちも気持ちを切り替えて演奏に集中できるようになったようだ。むろんアクアもしっかり歌う。
演奏が終わるとハナちゃんはパチパチと笑顔で拍手をした。
「うん。うまく行った。次は『エメラルドの太陽』行ってみようか」
それで20分くらい練習していたのだが、やがてコスモス社長・ゆりこ副社長と千里さんが入って来た。
コスモス社長が
「醍醐春海先生が今日のキーボード奏者のパートを弾いてくださることになりました」
と告げると、ミュージシャンたちの中から歓声があがっていた。
「醍醐先生なら安心ですね!」
と今キーボードを弾いていた愛心が笑顔で言ったが、それを見て、千里さんは
『あ、私が弾かなくても、この子も弾けたじゃん』
といった顔をした。きっとコスモス社長がうまく乗せて千里さんに頼んだのだろう。でも確かに愛心が弾くより、“醍醐春海先生”が弾く方がミュージシャンたちは安心するかもね。ブランド効果だ!
それでハナちゃんが再度指揮して、愛心に代わって千里さんがキーボードの前に立ち、軽く練習をした。結局ハナちゃんはまるで今日の音楽監督でもあるかのように、色々指示を出しながら、14時くらいまで練習を続けた。
その後、休憩になるが、アクアはコスモス社長から
「少し寝ておいた方がいい」
と言われ、控室の隅のベッドに横になった。千里さんも
「ヒーリングしてあげるから寝ていて」
と言ったので、アクアは目を瞑ったらすぐ眠りに落ちてしまった。
45分ほど寝ていたようである。ヒーリングのおかげか身体がスッキリしている。トイレに行って来てから衣装に着替え、メイクもしてもらいながら気持ちを集中して行く。
さぁ、歌うぞ!
伴奏者たちに続いてアクアがステージに出て行くと物凄い歓声である。アクアは笑顔で観衆に手を振ると、伴奏者たちの前奏に続いて『モエレ山の一夜』を歌い始めた。
姫路スピカの幕間パフォーマンスをはさんで2時間半ほどの歌唱を終えると、アクアはくたくただった。再度千里さんに少しヒーリングしてもらった。
「昨日あたりから少しだるかったんですけど、やはり疲れが溜まっているせいですかね?」
などと言ったら
「うーん。ちょうど排卵期みたいだから、ただの排卵痛じゃない?あまり気にしない方がいいよ」
と千里さんは言っていた。
うーん・・・。
「排卵日だから、男の子とセックスしないようにね。妊娠するから」
ボクが妊娠!?
それは困る。
「セックスはしませんよぉ」
「自分ではしないつもりでも、レイプされることだってあるから。絶対1人にはならないようにね」
「はい。それは気をつけます」
「アクアが妊娠したなんていったら、事務所が倒産するから」
「あははは」
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【娘たちの誕生日】(5)