【娘たちの誕生日】(2)

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2016年5月17日(火)に崩壊した毛利五郎のアパートであるが、連絡を受けたケイと雨宮は、雨宮の弟子で女子(?)大生である奥原沙妃の友人の男子大学生4人にバイト代を払って来てもらうことにし、雨があがった翌日、瓦礫の中から毛利の荷物を掘りだした。
 
「割れた茶碗とか、コップとかは?」
「ゴミだな」
「布団らしき布きれは?」
「ゴミだな」
「ずぶ濡れの本とかの類いは?」
「廃棄してよいと思う」
 
ということで、掘りだしたほとんどのものがゴミに分類される。
 
結局回収したのは、パソコンとハードディスク類、CD/DVDの類い(但し大半を占めたアダルトビデオの類いは雨宮の指示で廃棄された:実際には掘り出し作業をした男子大学生たちが“お持ち帰り”した)、電子キーボード3台、MIDIキーボード(いづれも専門家に洗浄依頼することにする)、ケースに入っていたので無事だったエレキギター2本・トロンボーン、中高生時代に使用していたものと思われるリコーダー2本、奇跡的に無事だった常滑焼の黒い招き猫の貯金箱(中味は1円玉が13枚!)、などといったものであった。
 
衣類は泥まみれになっていることもあり、全廃棄とした。また本棚・こたつ・カラーボックスなどの類いは崩壊の際にかなり壊れていたのでやはり廃棄とした。
 
回収したものはいったん雨宮の自宅の空き部屋に置いておき、マンションが再建されたら運び込むことにする。
 
「あれ?雨宮先生、毛利さんに連絡しました?」
「してない」
「じゃ、私の方から電話しましょうか?」
「しなくていい。ちょっと面白いこと思いついた」
 
ケイは顔をしかめた。雨宮先生が“面白いこと”などというのは、ろくでもないことに違いない!
 
そして雨宮先生は、名古尾プロデューサーに電話する。
「名古尾さん、誤テロップの件の罰で、あそこ切られちゃったんだって?うん。奥さんに何か言われた?ああ、喜んでいたのならいいね。時代はレスビアンだよ」
 
などと言っているので、この話をまだ聞いていなかったケイは、どこを切ったんだ〜?と思っていた(名古尾の“あそこ切断”の様子が放送されるのは翌日の5月19日)。この件の詳細は↓
http://femine.net/j.pl/memories11/02/_hr018
 
そして雨宮は
「それでさ、ちょっといけないことしない?」
と言って、“悪だくみ”の相談を始めた。
 

このアパート跡は一週間で瓦礫撤去が終了し、すぐにマンション建設の基礎工事が始まる。6月中に完了して、そのあとPC工法による建設が始まった。約3週間で8階まで到達したので、7月下旬に連絡を受けた雨宮が建設業者を手配し、茨城県に建てたセットから螺旋階段を取り外して(結果的にセットをほぼ破壊する)、こちらの建設現場まで大型トレーラーで運んできた。それをこちらの建設業者がクレーンで8階まで揚げ、支柱をしっかり建物本体に取り付けてくれた。この後、8階の天井・屋上の床まで作った所で最後に階段室・エレベータの屋上部分とペントハウスを造ればマンションは完成となる。
 
8月上旬、雨宮と名古尾プロデューサー、それに不本意ながらも巻き込まれてしまったケイは大家さんの自宅を訪問し“どっきり企画”を打ち明けた。
 
大家さんは驚き、最初、家賃の支払い問題を危惧したが、雨宮が「取り敢えず2年分の家賃相当の保証金」と言って、480万円を大家さんの口座にその場で振り込むと、俄然乗り気になった。雨宮は「実際の家賃は口座引落しにしよう」と言って、勝手に!持って来た毛利の通帳と届印を使って口座振替依頼書を書いてしまった。ケイは“婚約者”として署名と押印を代行した(120%詐欺行為)。
 
それで名古尾が待機させていた2名のAD、佐藤と吉永を呼び、シナリオに添ってこういう演技をする。
 
「俺のアパートが無い!」
と毛利役の吉永ADが言った所に大家さんが出て行く。
 
「あれ?毛利さん、あんた生きてたの?」
「俺・・・たぶん生きてるよね?足はあるかな?」
と言って吉永は自分の足を見る。
 
「もう長いこと帰宅してないんで、おそらく亡くなったのだろうと思って、あのアパートは崩して、新しくマンションを建てたんだよ」
と大家さんは台本を見ながら言う。
 
「そんなぁ。だったら、俺どうすればいいんですか?」
「まだ空いてる部屋はあるけど、そこに入る?」
「入れてください!」
「じゃ契約書を書いて」
 
と言って、大家さんは書類を渡す。
 
「家賃は月20万円ね。このマンションの8階で4LDK」
「ちょっと待って、20万ですか?俺払えるかな?」
「敷金は余分にもらっていた家賃と前のアパートの敷金を振り替えるから1ヶ月分追加で入れてもらえたらいいよ。礼金も要らないし」
 
「えぇ?どうしよう?」
 
ここでもうひとりの佐藤ADがカバンの中から札束を取り出して大家さんに渡す。
 
「それではこれ敷金と12月までの家賃で100万円です」
 
「ありがとう。じゃ契約成立ね」
 
この演技の練習はこの日3回やり、実際の撮影の前日にも再度練習して完璧を期した!
 

マンションは8月8日に竣工して引き渡しが行われた。
 
8階の部屋にはアイランド・キッチンとIH調理システム、調光機能付きのシーリングライト、エアコン、遮光カーテン、防炎加工された絨毯などが設置され、お風呂は大人が2人入れる余裕のサイズの浴槽を設置している。光ファイバーが配線されているが、この光ファイバーはセキュリティの問題で、他の住民のものとは別系統で引いてもらった。
 
壁・床・天井は全て防音仕様。8階の床と7階の天井の間には吸音材も入っており、8階でバスケットをしても7階にはほとんど響かない。ペントハウスのフランス窓も二重になっていて、中で少々楽器を鳴らしても、他の住人・近隣の住人には迷惑が掛からないようになっている。この防音のための追加工事費(約1000万円)は最初から雨宮が出している。これは彼の音楽活動には必要と考えた雨宮からの事実上のプレゼントである。
 
雨宮先生は奥原沙妃と、友人の男子大学生・松浦君(回収作業をしてくれた人の1人)に依頼して、毛利五郎の“新居”に必要な家具・食器などの類いの買い出しをしてもらった。松浦君は沙妃のクラスメイトで、むろん彼女の性別も知っているし、お互い恋愛感情などもないが、まるで結婚予定のカップルででもあるかのように装ってニトリに行き、タンス、本棚、食器棚、ダブルベッド、応接セット、ドレッサー!?、ワーキングデスク、カラーボックス、電動ドライバー、また包丁・果物ナイフ・まな板・鍋を数種類・フライパン・中華鍋・卵焼き器、などを毛利の名前で!買った。鍋類は全てIH仕様である。このマンションはガスの使用不可である。
 
更にビックカメラを訪れて、大型テレビ、BS/CS受信設備、冷蔵庫、ドラム式の洗濯乾燥機、空気清浄機、掃除機、炊飯器、電子レンジ、オーブントースター、ケトル、スピードカッター、パン焼き器、食器洗浄機、ドライヤー、布団乾燥機、電話機、FAX、パソコン、ハードディスク、スタンドライト、無線LANの機器・配線用品などといったものを買う。いづれも大型のものは配送を頼み、細々としたものは沙妃の車で持ち帰って部屋に置く。
 
更にしまむらに行って、毛利の身体に合う下着類、靴下などを買い、アオキでスーツ、ワイシャツ、ネクタイ、靴なども買いそろえた。沙妃は
「ごめん。私、紳士服店には心理的に入れない」
と言って、アオキでの買い出しは松浦君1人でやってもらった。
 
「男が婦人服店には入りにくいのと似たようなもの?」
「それ半分と、男の子だった頃のことを思い出してしまうからかな」
「ああ、大変ネ」
 
またドラッグストアと100円ショップで、洗剤・シャンプーとコンディショナー、ティッシュペーパー、トイレットペーパー、キッチンペーパー、大量の食器類、箸・スプーン・フォーク、バターナイフ、チーズナイフ、しゃもじ、お玉、フライ返し、ピーラー、冷蔵庫用脱臭剤、たっぱ、米びつ、味噌入れ、鍋敷き、コースター、ストロー、割り箸、紙皿、プラスチックスプーン、ボウル、砂糖入れ・塩入れ、ゴミ箱、ほうき・ちりとり、傘、キッチンタイマー、入浴剤、台所用洗剤、お風呂用洗剤、歯磨き・歯ブラシなどを買う。
 
ついでに化粧水・乳液・ファンデーション、マスカラ・アイライナー・アイブロウ・アイカラー・ビューラー、チーク、化粧ブラシ、口紅、マニキュア、除光液と買う。
 
「なんでそんなものを買うの?」
「雨宮先生の指示」
と言ってメモ用紙を見せる。
 
「悪趣味ですね〜」
「全くね〜」
 
家具・電化製品が配送されてくる日にまた2人で行って受け取る。そして電気系統・信号系統の配線、パソコンの基本設定とオフィス、テキストエディタ、Cubaseなどのインストールと基本設定を松浦君がしてくれた。
 
更に雨宮の家に置いていた、元からの毛利の所持品も全部ここに運び込んだ。
 
8月13日に金沢で2.5万枚が売れたので翌日の福岡で全部売れるのは確実という情報が入った段階で、2人にまた来てもらい、スーパーで砂糖・塩・酢・醤油・味噌、みりん、マーガリン、ジャム、胡椒・大蒜・生姜・カレー粉などの様々な調味料、コシヒカリ10kg×3袋と米びつ、小麦粉・片栗粉・唐揚げ粉などと買い、更には鶏肉・豚肉・牛肉を適当な量買って冷凍室に放り込んだ。
 
そういう訳で、8月14日に毛利がここに来た時、マンションの部屋はすぐにも生活開始可能・音楽制作活動開始可能な状態になっていたのである。
 

「松浦君、色々ありがとうね。助かったよ」
と奥原沙妃は、一週間ほどにわたり買い出しと設置・配線作業をしてくれた彼に御礼を言った。
 
「いや、こちらはバイト代を充分もらったから」
 
「御礼にセックスさせてあげようか?」
「えっと・・・ふつうのセックスが可能なんだっけ?」
「できると思うけど」
 
彼は20-30秒考えてから言った。
「セックスしたら好きになってしまいそうだから、やめておく」
「好きになってもいいのに。別に結婚してとかは言わないよ」
 
「普通の友だちのままでいたいから」
「OKOK」
 
と言って「このくらいはいいよね?」と言って、彼の額にキスをした。彼は嬉しそうな顔をして、沙妃の額にお返しのキスをしてくれた。
 

8月14日の午前中、三つ葉の3人が福岡に出かけて博多ドーム前で販売会をし、CDを完売して「メジャーデビュー」と「性転換手術はキャンセル」が確定。お昼の飛行機で東京に戻って来る。午後、名古尾・毛利・金墨などと一緒に馬佳祥先生の御自宅を訪問して、“大先生”の正体を明かすと同時に、実はそれが影武者であったことも明らかにし、名古尾プロデューサーが視聴者に謝罪した。
 
その後、福岡まで往復して来た三つ葉の3人は
 
「お疲れ様でした。男の子になれなくて残念だったね」
などと言って開放し、金墨・デンチューと名古尾だけで、“視聴者を欺して大先生なるものをでっちあげた罰”と称して、名古尾に昔の映画とかにあったような縞々の囚人服を着せ、手品で使用する大根ギロチン?の大きな物に、大根・名古尾の首・名古尾の“大事な物”を入れてスイッチを押すという演出をする。
 
大根は切れて、名古尾の首と“大事な物”は切れなかった。
 
この件の詳細は↓
http://femine.net/j.pl/memories11/20/_hr036
 

“処刑”終了後、これで8月25日の放送分は終わりです、と高平ADが告げる。名古尾も
 
「これで一段落ですね。軽く祝杯をあげましょう」
と呼びかけ、サイダーで乾杯する。
 
参加したのは、名古尾、金墨、毛利、高平ADの4人である。デンチューの2人は明日大阪で仕事があるのでということで帰った。
 
実はこの場面を隠し撮りしていたのだが、そのことを知っているのは名古尾だけで、この時点では金墨も知らなかった。
 
この隠し撮りの中で、名古尾がうまく誘導して、番組の内情をかなり明かし、また金墨の本音もだいぶ引き出して、この番組では悪役に徹していた彼女に好感を持つ人が増える。そして毛利が実は4月下旬以来、全く帰宅していないことが語られた。
 
その後、毛利は3ヶ月半ぶりに帰宅する(雨宮の指示でこの日と翌日は毛利の予定が入らないようにしていた)。彼は長期間自宅に帰らず、着換えも適宜買っていたため、荷物が凄い。それで毛利の自宅と同じ区に住んでいる佐藤ADが荷物持ちを買って出た(そして隠し撮りをする!)。
 

電車を降りて結構歩き、角を曲がった所で、毛利が驚愕する。
 
「俺のアパートが無い」
 
そこには見慣れたボロアパートではなく、真新しいマンションが建っていたのである。
 
佐藤からの連絡でスタンバイしていた大家さんが出てきて
 
「あんたまだ生きてたの?」
と迫真の演技!
 
そして多少のやりとり(ほぼ台本通り)があってから、佐藤ADが100万円の札束(実は中味が白紙の小道具!)を大家さんに渡して“契約成立”となり、毛利は8月14日夕方以降、家賃1万円のボロアパートを卒業して、このマンションの8階の広々としたペントハウス付きの部屋に住むことになったのである。
 
家賃は今までの20倍である!
 

毛利が戸惑いながら、佐藤と一緒にエレベータで8階に登り、中に入る。
 
「広ーい!」
と言って中を見渡す。
 
「螺旋階段がある」
「雨宮さんが取り付けたらしいですよ」
「雨宮先生が犯人か! 家具も随分揃っているみたいだけど、ここ家具付き?」
「雨宮先生が人に頼んで買い出しさせたらしいです。代金は毛利さんのカードでボーナス払いにしたので12月引き落としらしいです」
「嘘!?」
 
「家電品とかも揃っているみたいですね」
と言って2人で見て回る。
 
「ドレッサーがある」
「化粧品も揃っているみたいですね」
「何のために?」
「CDが売れずに毛利さんが性転換することになった時のためじゃないですか?」
「性転換するのは三つ葉では?」
「責任を取って、三つ葉の前に毛利さんが性転換手術を受けるということになっていたようですよ」
「うっそー!?」
 

「シナリオ見せてもらいましたが、毛利さんの手術が終わった所で、視聴者投票を実施して、三つ葉に再挑戦を認めるということになったら、別の曲で4万枚手売り挑戦。それが成功したら三つ葉は性転換しなくてもいいということで」
 
「俺は?」
「性転換され損ですね」
「ひっでぇ!」
 
毛利は、雨宮先生ならそのくらい強引にやっちゃうかも、と一瞬思った。ケイも性転換するかどうか悩んでいたのを、航空券と手術のクーポン持たせてタイに無理矢理送り込んだとか聞いたし、醍醐ちゃんも手足を縛って手術台に載せて去勢手術を受けさせたと聞いたし、などと毛利は思った。
 
(ケイにしても千里にしても本人たちの主張がどうも信用できないせいか、周囲の人間がかなり無責任な噂を流している)
 
「良かったですね。3万枚売れて。三つ葉の3人に感謝ですね」
と佐藤ADは言う。
 
「あはは。あれ?この招き猫は見覚えがある」
「崩壊した元のアパートから回収できたものは全部運び入れたと言っていました。エレキギターとかキーボードとかトロンボーンとか」
「あのトロンボーンも無事か!実は亡くなった友人の遺品なんだよ」
「それは救出できて良かったですね。このあたりに置いてあった筈です」
と言って、楽器棚に案内した。
 
「リコーダーまである!」
「プラスチックなのに、よく壊れませんでしたね」
 
「あれ?待って。さっき崩壊したと言った?」
「大雨で崩れたんですよ」
「そうだったのか」
「でも毛利さんはきっと死んだのだろうと思って崩した、とか言った方が面白いですから」
「なるほど〜。台本か!あの爺さん、よくやるわ」
 
「冷蔵庫にも食材が入ってますね。親切ですね」
「インスタント食品が無い」
「健康のため、インスタント禁止らしいです」
 
毛利がタバコを取り出して火を付けようとしたら、佐藤が取り上げる。
 
「どうしたんです?」
 
「そこの貼り紙を見て下さい」
 
そこには「禁煙」という大きな文字で書いた貼り紙があり、その横に“健康のため”という小さな字の添え書きもあった。雨宮先生の字である。
 
「タバコやライターは回収するように言われましたので」
と言って佐藤はタバコとライターをバッグに入れてしまった。
 
「突然辞めろと言われても辛いよぉ」
「禁煙頑張りましょう。ちなみにライターの火をつけると火災警報器が鳴るそうです」
 
むろんこのやりとりは全て隠し撮りされていて後日大公開されて爆笑の嵐となる!
 

8月20日、アクアは23時すぎまで撮影をしてから、クタクタになって、足立区の寮に戻ってきた。そのまま寝ようと思ったら、部屋に品川ありさ・高崎ひろか・ハナちゃん・吉田和紗、それに彩佳!の5人がいる。
 
「なんでここにいるの?」
「鍵が掛かっていなかったし」
 
実際問題としてこの寮では、女子だけの気安さで鍵など掛けない子が多い。
 
「彩佳まで」
「お母さんのお使い。ケーキ買ってきたよ」
「わあ、ありがとう」
 
「私はチキン買ってきた」
とありさ。
 
「私は飲み物買ってきた」
とひろか。
 
「私たちは部屋の掃除をしてあげた」
とハナちゃん・和紗。
 
実はハナちゃんはこの誕生会に出るのに、自動車学校の寮からバイクでこちらに戻ってきたのだが、その時、和紗が「アクアさんのお誕生日?行く行く」と言って付いてきたのである。
 
なお他の寮生たちは深夜なのでもう寝ていた。それにハナちゃんが「あまり多人数で祝うよりも、少人数で祝ってあげた方が楽しい」と言ったので、他の子たちには言わず、この5人だけになった。
 

「みんなありがとう」
とアクアは嬉しそうに言う。
 
「お誕生日おめでとう」
 
それで6人で一緒に誕生日会をしたのだが、実際はアクアは途中1時間もしない内に眠ってしまった。
 
腕力のあるありさが、アクアを抱いて布団に寝せてあげた。残った料理は一部アクアの部屋の冷蔵庫に入れ、一部はハナちゃんの部屋!に運んで、残りの5人でおしゃべりの続きをした。
 
「君は今夜どうするの?」
とハナちゃんが彩佳に訊く。
 
「よかったら誰か泊めてください。ゴロ寝でいいですから。もう電車も無いし」
 
本当は終電で帰るつもりだったのだが、龍虎の帰宅が遅くなったので予定がくるってしまったのである。
 
「だったら、私の部屋に泊まるといいよ。二段ベッドがあるから」
とひろかが言う。
「ああ、詩恩さんが泊まる時用のですね」
 
「あるいは龍ちゃんと同じ布団に寝る?」
「それでもいいけど、コスモス社長に叱られそうだから自粛します」
「ふむふむ」
 
「いや、コスモス社長はむしろ、君を龍ちゃんにあてがうことで、性的欲求を満たして、ファンの女の子などからの誘惑を拒否できるようにしている気がする」
とひろかが鋭い指摘をする。
 
「実際、アクア様に私のバージンをプレゼントしたいので○○ホテルに来てください、なんて手紙も多い」
とありさ。
 
「ネオン君の所にも来るから、行ってみたい気分になる時もあるけど、あとが怖いから我慢したって言ってた」
「男の子タレントは、その気になったらやりたい放題かもね」
「見つかれば謹慎ものだけどね」
「最近その相手がインスタとかにあげてバレるケースも多い」
「まあ馬鹿だとしかいいようがない」
「ネットの無い時代はバレなかったろうけどね」
 
「でも、私は龍の性欲解消係でもいいですし、龍の赤ちゃん産んでもいいですよ。産んじゃった場合は噂になったりしないように外国で育ててもいいし。でも実際には一緒に寝ても、何かされることが無いですけどね」
と彩佳は言う。
 
「ああ、ちんちんが無くても、おっぱい揉むとか、あの辺いじるとか、してくれてもいいのにね」
とハナちゃんは大胆なことを言う。
 
「龍は本当に性欲が無いみたい」
「まあ睾丸が無いのなら性欲も無いよな」
 
そんな感じで5人は2時すぎまで龍虎の噂話をしていた。
 

8月20日は今井葉月(天月西湖)の誕生日でもある。彼はアクアより早く22時頃に撮影から開放されて、都内のホテルに泊まった。疲れているので取り敢えず寝て、夜中の2時頃に起き出す。お腹が空いたのでシャワーで汗を流した後、近所のコンビニに行った。
 
「あ、ケーキもいいな」
と思い、お弁当・お茶のほかにイチゴのショートケーキも買った。
 
「ハッピーバースデイ・トゥ・ミー」
などと言ってケーキを食べながらスマホのメールを見ていたら4件メールが入っている。
 
アクア、鱒渕マネージャー、コスモス社長、ハナちゃんの4人から
「葉月ちゃん、お誕生日おめでとう。いつもお疲れ様」
というメールだった。
 
西湖はつい泣いてしまった。
 
「ありがとうございます。僕がんばりますね」
と西湖は4人に返事を書きながら誓った。
 

8月21日朝、寮の自分の部屋で起きた龍虎は、何か気分がよくなかった。疲れているのかなあと思い、トイレに行く。するとパンティに血が付いているので、嘘?どこ怪我したのかな?と龍虎は思った。
 
そして取り敢えずおしっこをしようとして便器に座りながらパンティを下げたら、とんでもないことが起きて、龍虎は悲鳴をあげそうになった。
 

リオ五輪の女子バスケット競技は8月20日に決勝戦が行われ、アメリカがスペインを大差で破り優勝した。最終的な順位は下記のようになった。
 
1.USA 2.ESP 3.SRB 4.FRA 5.AUS 6.TUR 7.CAN 8.JPN 9.BLR 10.CHN 11.BRA 12.SEN
 
フランスには勝ったし、オーストラリアともいい勝負をして、もっと上位が狙える陣営だったのに、悔いが残る大会だった。トルコに大敗したのがとにかく全てだった。
 
千里はスリーポイント女王になり、賞状ももらったが、全然嬉しくなかった。他に玲央美がアシスト女王、王子は得点数第3位でいづれも賞状をもらった。玲央美はスティール数の3位でも賞状をもらった。
 
「佐藤君も、高梁君も、村山君もあんなにできるとは思わなかった。僕は陣容を把握できていなかった」
と監督は言ったが、Wリーグの試合ばかり見ていたのでは、この3人は全く把握できない。監督の能力の問題ではないよなという気はした。
 

日本選手団は次の乗り継ぎで帰国した。
 
GIG 8/22 21:05 (AA974 777-200) 8/23 6:10 JFK (10'05)
JFK 8/23 9:40 (AA495 787-8) 8/24 12:40 NRT (14'00)
 
GIG リオデジャネイロ:アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港
JFK ニューヨーク:ジョン・F・ケネディ国際空港
NRT 成田空港
 
ほぼ丸一日の空の旅だが、日付変更線を越えるので到着は翌々日になる。
 
千里は考えていた。
 
今回、結果的に主力になった選手達の年齢
 
花園亜津子 1989.04.07 27歳
佐藤玲央美 1990.12.28 25歳
村山千里_ 1991.03.03 25歳
高梁王子_ 1992.07.30 24歳
湧見絵津子 1992.07.01 24歳
 
今回千里たちより上の世代では武藤博美(1983)・広川妙子(1984)だけが選ばれている。1985年度生の馬田恵子は落選した。
 
しかし1986年組には(今回の代表には入らなかったが)石川美樹・月野英美などがいたものの、1987-88年度生にはあまり目立った選手が居ないなと思った。やはり当たり年・外れ年があるのだろう。
 
次の東京五輪では、王子が名実ともにエースになるだろうし、主力は現在の22-23歳前後の世代(水原由妃・小松日奈・永岡水穂付近)だろう。千里たちの世代(亜津子・玲央美・千里・鞠原江美子・大野百合絵・森下誠美・前田彰恵)の中で代表に残っていられるのは恐らく1人か2人程度・・・かな?
 
その時の監督や強化部の首脳がまともであれば!
 
これはサバイバルレースではなく、どれだけ4年後まで運動能力とゲーム感覚を“向上”できるかの勝負だと思った。同程度なら若い選手が選ばれる。
 
Wリーグは10月7日に開幕する。それまで1ヶ月半ほど何しようかな?と千里は思った。
 

8月24日はいったんNTCに泊まり、翌25日の午前中に解団式をして今年の日本代表の活動を終えた。
 
この日の夜、青葉から電話があり、今青葉が関与している金沢での交通事故に起因する“飴買い幽霊”事件で、はねた車のヒントがもらえないかと言ってきた。千里は自分を“受信モード”にすると、青葉にこんなことを言った。
 
「長野県**市の修理工場に8月11日頃、入庫した車を調べてごらんよ」
 
「ありがとう!すぐ刑事さんに連絡してみる」
 
しかし千里は青葉に忠告した。
 
「青葉さあ、あまり優秀な霊能者であることを見せると、青葉、このあと頻繁に警察から協力を求められて、自分の生活が成り立たなくなるよ」
 
「うっ・・・」
「だから匿名で密告しなよ」
「そうしようかな」
 
そんな会話をした時、青葉の思考の“隅”に“玉鬘”という名前が浮かんだのに千里は気付いた。
 
「だから、どこかの公衆電話から、玉鬘ちゃんに密告させればいい」
 
「ちー姉、どうして私の眷属の名前知ってるのさ?」
「さあ。今何故か思いついたから言ってみたけど、青葉の眷属の名前なの?お友達の名前かと思った」
 
自分の思考の中味が完全にオープンなんだから、青葉も脇が甘すぎるよね、と千里は思った。
 

翌日8月26日(金)。
 
東京に戻ってきていた和実が呼びかけて、千里のお疲れ様会をしてくれた。
 
「わあ、喫茶店を造る土地を買ったんだ!」
「うん。今月初めに買った。青葉に見てもらったんだよ」
と和実は言う。
 
「だったら万全だね」
「やはりいい土地?」
「ある意味最悪の土地」
「え〜〜!?」
「風水的によくないし、人の流れが無いし、幽霊はたくさん彷徨っているし」
「なんでまたそんな土地を」
 
「その彷徨っている霊を昇天させてあげたいんだよ」
「その前にお店が経営難で昇天したりして」
 
「土地の広さは、30-40坪くらい?」
「400坪」
「そんな広い土地、どうやって使うの?」
「まあ建物は100坪くらいで、残りは駐車場かな」
 
「ああ、人の流れから離れていても充分広い駐車場があれば、客は来てくれる可能性がある」
 
「でもその400坪の土地、幾らしたの?」
「1500万円」
「安い!」
「嘘みたい!」
 
「震災の時、周辺まるごと津波でやられた地区なんだよ。海水浴場もあったんだけど未だに再建中。いつ再オープンするか分からない。だから残っていた建物もどんどん撤去されているし、地価はどんどん下がっている」
 
「やはりその喫茶店、すぐ潰れるというのに1票」
 

「ここに住宅も一緒に建てて、希望美と一緒に暮らそうかと思っている」
「店舗兼住宅?」
「住宅は別棟にするつもり」
「1つの土地に2つの建物を建てられるんだっけ?」
「だから分筆する」
「ああ、それなら問題無いね」
「ただ分筆の比率は慎重に検討する。うまくやらないと、建蔽率か容積率かどちらかが制限を超える危険がある」
「そのあたりは設計を進めながらかな」
 
「でも今の所、東側が開けているからさ。朝日とともに、鳥の声とともに目が覚める、素敵な環境になるかもという気がしている」
 
と和実が言った時、政子が何かを思いついたような顔をした。
 
「政子ちゃん、何か?」
と小夜子が訊く。
 
「いや、何かあったなと思って。鳥の声とか、目覚めとか、東とか」
と言って政子はしばらく考えていたが、突然こんな短歌を暗誦した。
 
「鳥啼く声す夢覚せ。見よ明け渡る東(ひんがし)を。空色栄えて沖つ辺に、帆船群れ居ぬ靄の中(うち)」
 
「何?何?」
 
知っていたのは千里だけだった。
 
「とりな歌だね」
「何それ〜?」
 
「『いろは歌』と同様に、日本語のかな文字を48個1回ずつ使った歌なんだよ」
「おぉ!」
 
「たしか『乙女歌』とかもあったよね?」
と千里が言うと、政子はそれも覚えていたようで暗誦する。
 
「乙女花摘む野辺見えて、我待ち居たる夕風よ、鴬来けん大空に、音色も優し声ありぬ」
 

「何か美しい歌だね。本当に48文字1回ずつ使ってるの?」
と小夜子が尋ねるので、千里は《とりな歌》を仮名文字で紙に書いてみせた。
 
《とりなくこゑす、ゆめさませ。みよあけわたる、ひんがしを、そらいろはえて、おきつへに。ほふねむれゐぬ、もやのうち》
 
みんな、ずっと見ながらチェックしている。5分ほどで、その場にいる全員、確かに48文字を1つずつ使っていることを確認した。
 
「凄いね」
「よくこんなの思いつくね」
と歓声が上がった。
 
「こういうのをパングラムというんだよ。パンは、パン・ヨーロッパとか、パノラマとかのパン。これって作るだけなら、そんなに難しくない。ただ美しく作るのが難しい」
 
と千里は言う。
 
「そうなの?」
 
「いろは48文字を紙に書いて切り離して、並べて行くといいんだよ。最初は何かテーマを決めて適当に書き始めて、途中から使える単語が限られてくるから、あとはパズル。最後に微調整」
と千里は言ったが、淳が
 
「それプログラム組んで支援できると思う」
と言って、彼女は20分ほどでブラウザから利用できる、支援プログラムを作ってしまった。JavaScriptで書かれているので、WindowsマシンからでもMacintoshからでも、Android, iPhone, ガラケーからでも使えるので、みんなそれを利用して作ってみる。
 
30分くらいで何人かが作品を作り上げた。冬子はうまく行かないようで、かなり悩んでいて「やはり冬は忙しすぎで疲れている」とみんなから言われていた。
 
小夜子の作品。
 
女の子スカートひらり揺れ舞いて、洋服を見つめる私、添えろ気持ちへ、歩速さに消せぬ胸。
 
千里の作品。
 
春雨降りぬ。夕暮れに霞む細道、足迷わん。思い刹那聞こえたら、寝部屋の戸を広げて。
 
そして政子の作品はみんなから「非道い!」と言われて非難された。
 
秘密百合部屋、性を女の子に変えろ。朝胸膨らして玉抜き消す。夜は割れ目持ち、棒取るぞ。
 

その翌日、青葉と電話で話していたら、青葉も《とりな歌》のことを話題にしたので千里は昨日みんなが作った作品をメールしてあげたが、政子の作品には青葉も
 
「ひどい」
と言っていた。政子は例によって、この歌をアクアに歌ってくれない?とメールしたものの拒否されたらしい!(結局2014年10月に北海道で書いた『モエレ山の一夜』という作品を渡すことになる)
 

2016年8月29日(月)、ハナちゃんと吉田和紗は、江東運転免許試験場で学科試験に合格して、新しい運転免許証をもらった。和紗は緑の帯だが、ハナちゃんは既に自動二輪免許を持っていたので青い帯である。
 
「ハナちゃん、ほんとありがとう。お買い物とか行くのにバイクに乗せてくれたし、ゲームセンターに連れて行ってくれて一緒にシミュレーターで練習したりとか、おかげで仮免試験一発合格できたし。他にも卒業試験のコースの地図をゲットしてくれたりとか、あんなのその場で地図を渡されてもコース決めきれない」
 
「バイクに人を乗せるのはそれ自体が楽しみだしね〜」
 
ハナちゃんの愛車はカワサキZZR400である。真っ黒な塗装が格好いい。ちなみに黒いライダースーツのハナちゃんが蛍光イエローのライダースーツの和紗を乗せていると男の子が彼女を後ろに乗せているように見える!
 
「地図とかも、代々自動車学校の生徒の間で受け継がれていくから。そういう情報掴むのは任せて」
 
「ハナちゃんは車買うの?」
「買うよー。ランクルかエクストレイルにしようかなと思っているんだけどね」
「車種名聞いてもさっぱり分からない!」
「車に興味無いと全然そういうの分からないよね。かずちゃんも何か買いなよ。ずっと運転してないと、すぐペーパードライバーになっちゃうよ」
 
「お金無いよー」
「中古で買えばいいんだよ。このバイクなんて2万円で買ったよ」
「嘘!?」
 
「型式が古いからね。四輪も古いの探せば10万円以下で買えるのあるよ。一緒に見に行かない?とりあえずお金は貸しておくからさ」
「借金の額が増えてく!」
 

そんなことを言いながらも、和紗はハナちゃんのバイクのタンデムシートに乗って、一緒に中古車屋さんに行ってみた。
 
ハナちゃんはオフロードに耐えるような大きな車がいいと言って、ランクル、ハリアー、フォレスター、と見ていったが8万円!のエクストレイルがあるのを見て「これにします」と言った。
 
NISSAN XTRAIL-S TA-NT30 2000.11 1998cc 4WD 5MT SuperBlack
 
この車は幅が1.7mを越える(1765mm)ので3ナンバーである。
 
その後、和紗用の車も見る。和紗は軽にしようかなと言っていたのだが、ハナちゃんが「軽ばかり乗っていたら、軽しか運転できなくなるよ。最初は少々ぶつけてもいいから3ナンバーで慣れよう」と言い、大きな車を見せる。結局和紗が選んだのはシビック・タイプRであった。価格は15万円!である。
 
Honda CIVIC type-R LA-EP3 2001.12 1998cc FF 6MT Championship-White
 
この時代のシビックは車幅が狭かった。この個体は1695mmなので5ナンバーのサイズに収まっている。
 
「ぎりぎり5ナンバーだな」
とハナちゃんは言っている。
 
「でもハナちゃんが買うのの倍もするのは申し訳無い」
「いや、私が買うことにしたのの8万円は極めて異常に安い。この15万も無茶苦茶安い」
 
とハナちゃんが言うと、お店の人も頷いて
 
「普通は50万以下は“動けば儲けもの”と思った方がいいんですが、この2台は奇跡的に状態がいいですね。年式が古くて走行距離も長いので安くなってますけど」
と言っていた。
 
ハナちゃんは「2台まとめてカードで」と言ってクレカをお店の人に渡していたので「カードとか格好いい!」と思って和紗は見ていたが、実際にはVISAデビットである!(高校生はふつうクレカは持てない)
 
なお、駐車場だが、寮の前の空間に駐めておいてよいということで紅川さんの許可を得ている。それで紅川知世子さんに車庫証明も書いてもらえる予定である。
 

8月31日(水).
 
『ときめき病院物語II』の撮影がクランクアップした。最終日は21時で終わる、余裕の終了となった。アクアは今夜は0時すぎかもと思っていたので、思いがけず早く終わって良かったと思った。
 
「アクアちゃん、葉月ちゃん、お疲れ様。今日はどうする?都内に泊まる?」
と鱒渕マネージャーから訊かれる。
 
「自宅に帰ろうかな。明日から学校があるし」
「だったら駅まで送っていくね」
 
それでふたりを上野駅まで送っていき、それから鱒渕はそのまま車で自宅のある新百合ヶ丘まで戻る。到着したのは22時半頃である。近所のTimesに駐めてからアパートに辿り着き、そのまま倒れ込むように布団の上に横になった。エアコンのスイッチを入れ、タオルケットをお腹に掛けて、眠りに落ちていく。
 
「結構私もきついなあ。でもまだ中学生のアクアちゃんや葉月ちゃんが頑張っているんだから、私も頑張らなくちゃ」
と鱒渕は思った。
 

8月30日、テヘランで9月9-18日に行われる、男子のFIBAアジア・チャレンジに参加する代表12名が発表され、貴司はそのメンバーに入っていた。千里はすぐにおめでとうのメールを送った。貴司たちは9月1日から東京のNTCで合宿をし、9月6日にイランに渡る。
 
さて、この千里から貴司へのメールだが、実はこの日貴司は自分のスマホを自宅に忘れていっており、このメールの着メロ『365日の紙飛行機』に気付いたのは阿倍子であった。密かにスマホをアンロックしてメールを盗み見する。
 
《日本代表選出おめ。合宿は1日から?だったら31日に来るのかな?今回は私は大会で東京を離れていて手合わせできない。残念。ローズ+リリーのケイが貴司に頼みたいことがあるらしい。悪いけど合宿所に入る前に恵比寿のマンションに寄ってくれない?電話番号は***-****-****。じゃ、テヘランでの活躍を期待してる》
 
阿倍子は当惑した。
 
千里さんから貴司へのメールなら、もっと艶っぽいものだと思ったのに、何このビジネスメールみたいなのは?絵文字や顔文字でさえ使われていない。
 
貴司が千里と頻繁に会って、バスケットの手合わせをしているのは知っている。貴司は自分たちの関係はただの友人同士と主張しているが、一度阿倍子が2人のデートを尾行した時、確かに2人はキスもせずに、食事をして、プロバスケットの試合を観戦し、そのあと体育館で一緒に練習をしただけであった。
 
阿倍子はメールは見なかったことにして、スマホをオフにした。
 

翌8月31日、合宿のために東京に出てきた貴司は、東京駅まで行かず、新横浜で降りて、駅の真上にあるホテル・アソシアのフロントに行き
 
「連れが先に来ているはずなんですが。大阪の細川です」
と告げる。
 
「はい。2034号室にお越し下さい」
 
それで貴司は20階まで上がり、2034号室の前で千里の携帯を鳴らした。千里はドアを開けると、貴司に抱きついてキスをした。
 
ふたりは一息ついてから、まだ暖かい松花堂を食べながら話をした。
 
「あのメールは会えないと書いてはあったけど、実際には千里が出るような試合は存在しない。だから今日千里が東京にいないはずはない。それでこれはデートの要請だと判断した。関東でデートするならこのホテルだしね」
 
「まあそれが分かるのは愛の力だね」
 
それで千里は冬子(ケイ)から頼まれた絵はがきを2枚渡して、イランで切手を貼り投函してほしいと頼んだ。2枚の葉書は同じ内容なのだが、外国では日本のように出した郵便物が100%ちゃんと処理されるとは限らない。それで用心のため別の場所から投函して欲しいのだと説明した。
 
「了解。だったら空港とホテルから投函するよ」
 

貴司が本当に合宿所に向けて部屋を出た後、《いんちゃん》から阿倍子さんが買物に出たから、今なら京平とデートできるよという連絡があり、千里(ちさと)は千里(せんり)のマンションに転送してもらった。
 
それで京平にと買っておいたウエハウスなどもあげて、母子のふれあいをしていたのだが、京平は「これ、パパにわたしそこねた」と言って、クレヨンで描いた絵を見せた。貴司がシュートした所を描いたもののようである。1歳2月でこれだけ描けるのは凄いなと思った。
 
「だったらパパの合宿所に届けておくね」
「うん、ありがとう」
 
それでまだ色々おしゃべりしていたら、阿倍子を監視していた《びゃくちゃん》から、阿倍子が買物をしていたセルシーで倒れたという連絡が入る。放置するわけにもいかないので、千里はうまい具合にこちらの月極駐車場に駐めていたアテンザを運転してセルシーまで出かけた。千里と交換で横浜に行った《いんちゃん》には東京北区の合宿所に移動してもらう。
 
そして千里は偶然を装って阿倍子が介抱されている所に通りかかる。それで彼女を助けてアテンザに乗せ、マンションに連れ帰った。しかしここで阿倍子は“大阪にいる千里”を見たことで、やはり千里は東京不在で、貴司とはデートしなかったんだと信じてくれたのである。
 
千里は阿倍子と別れると、《いんちゃん》と入れ替わり、合宿所の受付で「細川貴司の忘れ物を息子さんから頼まれたので」と言って、京平が描いた絵を託した。
 

千里は9月3日には、秋田県横手市に行き、40 minutesのオーナーとして、全日本クラブバスケットボール選抜大会に出場する同チームを見守った。40 minutesはこの日勝ち残ったが、千里自身は夕方からJRで北海道に移動し、9月4日に札幌で行われたチェリーツインの桃川春美の結婚式に出席した。
 
春美(38)の結婚相手は彼女の兄でもある亜記宏(44)である。この結婚は極めて異例だった。
 
・春美は高校生時代に亜記宏の母の養女になっており、ふたりは血はつながっていないものの、兄妹の関係である。
 
・春美は元男性だが、高校時代の1993年に去勢し、2007年に陰茎切断、そして2014年に造膣手術を受けて完全な女性になり、同年女性の戸籍を獲得した。
 
・亜記宏と春美の間には既に3人の子供がいる!そしてその3人の内、理香子は札幌に住む亜記宏の従姉・美鈴の所に、しずかは美幌町に住む母・春美の所に、織羽は偶然保護してくれた旭川の海道天津子の所で暮らしている。
 
・理香子(中2)はFTMの傾向は無いが「男の子になりたい」と言って、学校でも“男の子に準じた”扱いを受けている。一応女子制服で通学しているが、男子サッカー部に入っていて大会にも出ており、女子の同級生からバレンタインをもらったりしている。しずか(中1)はMTFでホルモン療法も受けて女の子として暮らしており、戸籍上はまだ男ではあるが、女子制服で通学している。既にバストもかなり発達している。長年の女性ホルモン投与で男性器はかなり縮小しており、立って排尿はできない。陰毛の中に埋もれているので女湯に入っても、付いていることがバレない。
 
・そして織羽(小6)は半陰陽である。この子は性別認識が微妙なのだが、“ボク、ちんちんは無いから”と本人が言って、女の子の服を着て通学しているし、巫女さんの衣装を着けて神事などもしている。女子の中に溶け込んでいるが、この子は男装すると、ちゃんと男の子に見える(意識をスイッチするらしい)。実はこの子の戸籍性別欄は記載保留されている。
 
・春美は美幌町のマウンテンフット牧場で暮らす傍らチェリーツインの活動をしていて、ここからは離れられない。一方亜記宏は枝幸町でラーメン屋さんの店長をしており、そこから離れられない。そのため、2人は結婚しても同居できず、別居生活を続けるしかない。結局家族5人が道内の4ヶ所に分散して暮らしているし、今後も分散して暮らし続ける予定である。
 
なおこの日は亜記宏の誕生日でもあった。亜記宏はあまり記念日の類いを覚えないたちなので、彼の誕生日に結婚式をあげれば、結婚記念日を忘れないだろうということでこの日に式を挙げることにしたらしい。
 

結婚式にはチェリーツインと同じζζプロの何人ものアーティストや、チェリーツインと個人的な関わりのあるアーティストが多数出席していた。
 
KARIONの和泉、ローズ+リリーのケイ、それに丸山アイなども来ていたし、長く人前に出ていなかった作曲家の東城一星も出席して音楽関係者を驚かせた。春美は実は東城先生の連絡係もしているのである。
 

結婚式が終わった後、丸山アイが千里の所に来て言った。
 
「実はボク、フェイを妊娠させちゃったみたいで」
「はぁ!?」
 
話を聞くと、レインボウ・フルート・バンズのフェイが妊娠したらしいのだが(千里はフェイに妊娠能力があるとは思いも寄らなかった)、排卵期に3人の恋人(ハイライト・セブンスターズのヒロシ、丸山アイ、そして“雅希”)とセックスしていて、フェイ本人にも誰が父親か分からないらしい。
 
「でもアイちゃん、睾丸なんて無いくせに」
「いや、万一ということもあるし」
 
千里が実際、フェイのお腹の中の子供の父親が誰か占ってみると、“雅希”という結果が出る。
 
「あの人、男の娘だったんだっけ?」
「天然女性だよ。少なくとも戸籍上は女。でもちんちんはあるよ」
「ちんちんがある天然女性というのは珍しい。でもちんちんあるのなら妊娠させることは可能かもね」
 

この件に付いては、実は青葉も別途フェイに頼まれた射水市の松井医師から、フェイのお腹の中の赤ちゃんが出産に至るまで妊娠維持のサポートをしてくれないかと依頼され、結局青葉と千里の共同戦線でこの難しい作業をすることになった。なお、青葉の占いでも父親は“雅希”という結果が出た。
 
ちなみに3人の父親候補は話し合って
 
・3人ともフェイとセックスしていたから共同責任
・DNA鑑定はしない
 
というのを確認した上で誰がこの赤ちゃんを認知するか話し合った。それで結局、戸籍上男であるヒロシが代表で!認知することにし、出産費用や養育費などは3人で出し合うことにした。指輪も3人が1個ずつ贈り、“愛情の意味が分からない”と言うフェイも嬉しそうにして3つの指輪を全部左手薬指に付けて記念写真を撮っていた。
 
しかしこの後、法的な父親になれなかったアイと“雅希”は急接近して、同棲するようになっていく。一方法的な父親になったヒロシはフェイのお世話をよくするようになり、フェイは“恋とか愛とか分からない”と言いながらも、ヒロシのそのような態度を受け入れていくようになり“乱交関係”に近かったこの4人は、2人ずつのカップルへと落ち着いていくのである。
 

9月5日、千里と青葉がフェイの妊娠の件で色々な人と話し合い、くたくたになって帰宅すると、桃香が極上等な紅茶とケーキを用意して待っていた。そして千里に話があるというので、青葉は気を利かせてコンビニに行ってくると言って部屋を出た。
 
桃香は頭を床に付けて千里に謝った。
 
「実は、赤ちゃん作ったんだ」
「桃香、やはり誰か妊娠させたの?」
 
「誰かというより私が妊娠した」
「へー。別に謝る必要はないと思うけど。私たち別に恋人でもないし。でも桃香が妊娠するようなことをするって意外。相手は誰か私が知っている人?」
「まあ知っているかな」
「その人と結婚するの?」
「それが結婚はできないんだ」
 
「まさか不倫?」
「いや、そうではなくて、実は相手は女の子なので」
「なぜ女の子とセックスして妊娠する?」
「実はその子、元は男の子で、性転換前に保存しておいた精子で妊娠した」
 
千里は腕を組んで考えた。
 
「ねえ、まさかそれって私じゃないよね?」
「済まん。千里の冷凍精子を無断で使った」
 
「ひっどーい!それ使うなら、事前に言ってよ」
「いや、事前に言ったら絶対嫌だというと思ったから」
「うん。嫌だ。私は父親とかになりたくない」
 
千里が怒るのを必死に桃香はなだめて、結局次回桃香が産婦人科に行く時に千里も同伴することになった。ふたりは9月14日の夕方にあきる野市の大間産婦人科に行くことになった。千里は病院の名前を聞いてびっくりする。よりによってフェイの妊娠を管理する拠点になることになった病院とは!
 

9月1日(木).
 
ドラマ『時のどこかで』の撮影が始まった。映画と同じ、河村監督・花崎脚本で進めていくが、プロデューサーは逆池ではなくまだ30歳くらいの和田プロデューサーに交替している。
 
こういう中高生の俳優をたくさん使うドラマの撮影は普通土日に行うのだが、10月から放送開始なので、時間的な余裕が無く、この日は平日なのにお願いした。撮影は学校が終わった後、18時に始まり、21:59で終了の4時間コースである。実際問題として主演のアクアも、熊谷16:49-17:28 という新幹線で出てくるので、18時から始めるしかない。
 
撮影は映画でやったような高密度圧縮撮影ではなく、ふつうの撮影方法である。基本的には筋の順序に撮っていくが、俳優さんのスケジュールなどの都合で順序を入れ替えることはある。
 
今回のドラマでは、アクア演じる芳山和夫は、歴史上の様々な事件が起きた現場に飛び、本来は死亡したということになっている人物を救い出すという活躍をすることになっている。
 
・本能寺の変の織田信長(伊賀で落命!?した徳川家康になりかわって江戸幕府を開く!)
・藤原泰衡の兵に囲まれた源義経(大陸に渡ってチンギスハンになる)
・火刑にされそうになっていたジャンヌ・ダルク(彼女は元々生き延びたという説もある)
・蘇我入鹿の兵に囲まれた山背大兄(天武天皇になった!?−天武天皇はそもそも出自がはっきりしない)
・ロシア革命で処刑されそうになったアナスタシア王女(実は男の娘で、男の姿になって追っ手を逃れ、やがてブレジネフになった!??)
・劉邦の軍に囲まれた楚軍“四面楚歌”内の虞美人(脱出後、薄姫と称して劉邦の側室となる。劉邦没後の呂后恐怖政治時代を生き抜き、息子・劉恒が第3代皇帝・文帝となって漢は繁栄の時代へ)
 
他にも次のような事件に関わったというプロットが立てられていた。
 
・アラモ峠の籠城兵を支援する(彼らは脱出拒否したので最期を見届ける)
・持明院統・大覚寺統の対立時代に襲撃された伏見天皇を助け女装で脱出させる。
・長篠の戦いで、武田勢に包囲され落城寸前の長篠城から脱出し、家康の許へ伝令に走る鳥居強右衛門を支援する。
 

アラモ峠、ジャンヌ・ダルク、アナスタシア、虞美人の事件では、各々アメリカ人、フランス人、ロシア人、中国人の俳優さんが出演しており(アナスタシア役のロシア人美少年俳優が物凄く可愛くて、女装すると美少女にしか見えなかった)、その人たちとアクアは英語、フランス語、ロシア語、中国語で会話するシナリオになっている。放送の時は字幕が表示されるということである。
 
その部分の台本はカタカナで書かれた外国語!があまりに読みづらかったので、
 
「すみません。原語を併記して下さい」
と頼むと、外人俳優さん向けの台本を1冊渡された。
 
でもこの台本は日本語部分がアルファベットとかロシア文字で書かれていた!
 
『こうちゃんさん、これ読める?』
『もちろん』
『だったら発音指導してよ』
『OKOK』
 
それで練習したので、アクアが美しい発音で演技をすると、監督や共演の外人俳優さんたちも感心していた。でもこの体験でアクアはロシア文字の読み方をだいぶ覚えた!
 
 
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【娘たちの誕生日】(2)