【娘たちの1人歩き】(1)
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(C) Eriki Kawaguchi 2019-09-14
雨宮先生はだいたいいつも千里に無茶振りをする。その日唐突に先生は言った。
「今度ワンティスのメンバーでさ、各々の家族も連れて蔵王までスキーに行ってきたいのよ。あんたドライバーして」
“してくれない?”とか訊くのではなく、いきなり“して”である。
「まあいいですけど、家族まで乗るならマイクロバスですか?」
「大型バス。これはレンタルする」
「分かりました」
千里は大型免許を持っているので、大型バスの運転も問題無い。
「最初私が運転するよと言ったら、あんたは危ないと言われてさ。失礼しちゃうわ」
「先生、運転するなら飲めませんよ」
「その問題もあって、あんたに頼むことにした。国際C級ライセンスも持っているし、大型二種も持っているからと言ったら、だったら安心だと言われて」
「待って下さい。私は国際C級ライセンスは取りましたけど、大型二種は持ってません」
「・・・なんで持ってないのよ?」
「バス会社とかにでも勤めない限り必要のない免許なので」
「私があんたは大型二種持っていると言ったんだから、取ってきなさい」
「はいはい」
それで千里は忙しい中、2016年1月、まだWリーグが始まっていない時期を利用して、大型二種の教習を受けてきて免許を取得したのである。
大型一種を持っている場合の大型二種取得のための教習時間は、第1段階=学科7 技能8/第2段階=学科12 技能10 である。大型を持っている場合は仮免を取る必要が無い(現在の免許で路上教習が受けられるので)。また二種を受ける場合は第1段階でも1日に技能教習を3時間受けることができる。そのため18時間の技能教習を3時間ずつ6日間で受けると7日目に卒業検定を受け合格すれば卒業できる。
千里は実際、1月10,17日にスペインでの試合があったので、1月11-16日の6日間で教習を受け、1月18日(月)に卒業試験を受けて合格した。元々大型免許を持っているので、坂道発進も、S字・クランク・隘路・鋭角コースなども楽勝である。教官からも「うまいね。かなり運転しているね」と褒められた。千里は普通の人なら死角になるような場所が全部“見えて”しまうので、脱輪させないようにきれいに狭い道や曲がり角を進行することができるという特異体質がある。そのあたりの感覚はここ数年やっていたレースやラリーで更に鍛えられた。
そして卒業後の1月19日に鮫州の免許試験場に行き、学科試験と適性検査を受け、大型二種免許を手にした。むろんゴールド免許で、この免許の有効期限は2020年4月3日である。
でもワンティスご家族様の旅行は2月6-7日で、レッドインパルスの試合(徳島)とぶつかってしまったので、結局この運転は《こうちゃん》に代わってもらった!
せっかく二種免許取ったのにとは思ったが、後で《こうちゃん》に訊くと、現地は雪が崩れやすくなっており、大型運転経験がそれほど多くはない千里には厳しかったと言われた。実際この日はスリップ事故が5件もあったらしい。結果的には代わってもらってよかったようである。
2015年12月、アクアと今井葉月は秋風コスモス社長と共にΛΛテレビに呼ばれた。
「2月からクランクインする予定の『ときめき病院物語II』の件なんですが」
と橋元プロデューサーが言った時、最初アクアは、自分は降ろされるのかなと思った。ところが話は違った。
「昨年は神田ひとみさんの突然の降板から、アクアさんに兄妹の双方を演じてもらうということで乗り切ったのですが、今期は友利恵ちゃん役には別の女優さんを配して、アクアさんには佐斗志君だけを演じてもらうということにしていたのですが」
「はい」
「これを見て下さい」
と言って橋元プロデューサーは3人にこういう数字を見せた。
42,581 / 314,154 / 1,579,615
「昨日現在の数字です」
「何の数字ですか?」
「左から順に電話の数、葉書や封書の数、メールの数」
「何の?」
「アクアちゃんに友利恵役をやめさせないでという嘆願です」
アクアもコスモスも一瞬天を仰いだ。
「内容は2つに分かれます。アクアちゃんに引き続き佐斗志・友利恵の双方を演じて欲しいという意見と、アクアちゃんは友利恵役だけにして、佐斗志には別の男性俳優でもいいという意見と。まあ後者が7割ですね」
「あはは」
それって、ボク男性俳優としてはダメってこと〜?とアクアは悩んだ。
「そういう訳で、申し訳無いのですが、今期も引き続きアクアさんには佐斗志・友利恵の双方を演じていただけないでしょうか?そちらでスタンバイしてもらっていた女優さんには悪いのですが」
アクアとコスモスは顔を見合わせたが、コスモスは言った。
「分かりました。取り敢えず今期はアクアにその二役させてください」
「助かります。よろしくお願いします」
事務所に帰りがてら、コスモスは紅川会長のベンツを運転しながらリア座席に座るアクアと葉月に言った。
「でも正直助かった」
「できる人がいないですよね?」
とアクアが言う。
「そうなのよ。元々神田ひとみちゃんに当てていた役だから、新しい友利恵役は、うちの女性タレントで頼むと言われていた。ところが今空く人がいない」
「当てるとしたら祭梨ちゃんですか?」
「それが理想だけど、彼女とは1年間鍛えてから再度オーディション再挑戦という約束していたからね。春からのドラマに出演というのは、彼女が納得してくれない可能性があった」
「でもハナちゃんには無理ですよね?」
「あの子はアクアのお姉さん役ならできるけど、妹には見えないよね」
ハナちゃん(2015年3位)と大村祭梨(2015年2位)は1つしか年齢は違わないが、ハナちゃんは本来の年齢より2つくらい年上に見えてしまう。落ち着いた言動が多いので20歳前後と思っている人もあるが、実はまだ高校2年生である。しかし大人びて見えるのでアクアの妹役には無理がある。
「利美ちゃんは小学生で使えないし、アコちゃんやゆかちゃんはあまり演技ができないし」
「ことりちゃんが残っていたら彼女に頼む手もありましたよね?」
「うん。まだあの子は言えばやってくれたと思う。でも辞めちゃったし」
「ということは、結局私が2役するしか無かったんですね」
「ごめんねー」
「葉月ちゃんが女の子だったら、葉月ちゃんに友利恵役をしてもらう手もあるんですけどね」
などとアクアに言われて葉月はドキドキしている。
「うん。それもチラッと考えたけど、視聴者の要望ではアクアに友利恵を演じてほしいみたいだし」
とコスモス。
「ハナちゃんに男装して佐斗志を演じてもらって、アクアは友利恵というのも考えたんだけど」
「それ性別がおかしいです」
「だよね〜。ハナちゃんは男役もこなすだろうけどね。まあ西宮ネオンの日程調整をして佐斗志をやらせる手もあったけど」
「女の子役だけというのは勘弁して下さい」
2016年のアクア宛てのバレンタインのプレゼントはお正月明けてすぐの頃から入り出した。
昨年は大型トラック17台分ものプレゼントが送られてきて、処分するのに本当に苦労した。そのために大型倉庫を2つも借りる羽目になり費用も6000万円ほど掛かっている。
今回は蒲田のサテライトオフィスに置いていた過去のアーティストのCDや楽譜、歴代のアーティストがもらった様々な賞、過去に関わったドラマの台本など、またあまり使用しない楽器類などを、五反野の新しい寮の6階や1階楽器倉庫などに移動して場所を空け、蒲田の空いた場所にプレゼントを運び込んで、そちらで大量にバイトを雇って仕分け作業をした(寮は部外者立ち入り禁止)。1月の内に作業を始めたので、少し遅れて到着したものまで含めて2月20日までにはほぼ仕分けを完了した。今年は衣類やお菓子類を早めに全国の福祉施設に贈ることができて、福祉施設側からも衣類の購入費が節約できて助かるという御礼の手紙なども頂いた。
また今回は可能ならチョコの実物より商品券などにしてもらった方が助かるとファンクラブで呼びかけたこともあり、プレゼントの点数は昨年の倍あったものの、ボリューム的には昨年より少ない大型トラック12台分くらいで済んだ。仕分けや配分、一部の贈り物(個人発送のものなど)の廃棄処理のための費用も2000万円程度で済んだ。
昨年強引にアクアの性別検査をして揉めたテレビ局から、正式なルートで『アクアの性別を解明する!』という番組企画が提案され、コスモスはアクアに確認の上、この企画を承諾した。
・アクアに病院で性別検査を受けてもらう。カメラは検診中は撮影しない。廊下や待合室だけとする。
・検査する病院は中立な第三者に選定してもらう。
・病院での検査の後、アクアの“男度”を確認するため、空手をやってもらう。
最初はボクシングという案もあったらしいが、“アクアの上半身裸はひょっとすると映すとまずいかも”という意見があり、空手になったらしい!?どうも今回担当することになったプロデューサーは、昨年の撮影では何かトリック(相撲のシーンだけ顔が似た別人の少年を使うなど)があったのではと疑っているようである。実際昨年の映像を再確認すると相撲のシーンではアクアの顔がほとんどまともに映っていなかったのである。
病院の選定は、アクアと利害関係が全くない第三者として、大阪大学法学部教授の先生に選定をお願いした。この先生はアクアのことは知らず、写真を見て「可愛い女の子だね!」と言った。それで性別検査と聞いて本当に女の子なのかを検査するのだろうと思ったようである。
「こんな可愛い女の子が本当に女かどうかなんていちいち確認する必要もないと思うけど。性別の曖昧な人は外見が既に男っぽいよ」
などと言ったが、敢えて自分の大学も避けて名大病院を指定した。それで当日アクアは名古屋まで行くことになった。
この先生の発言に関するネットの反応。
「性別が曖昧な人は見た目が男っぽいって」
「アクアの場合は少しも男っぽさがないから、間違いなく女の子であることが明確」
撮影は、より中立になるようにという観点から、東京キー局ではなく名古屋の系列局のスタッフにお願いした。病院に入って行く所、採尿用のコップを持って(男子用)トイレに入って行く所。出てきて提出用の棚に置く所を撮影する。
採血されている所は検査室の入口から撮影した。泌尿器科のお医者さんの診察を受け、アクアに確かに男性器が存在することも確認してもらった。例によって、お医者さんは、龍虎の男性器が小さいことに疑問を持ったようだが、龍虎が小さい頃大病をして、その結果成長が遅れているということを言うと、その病名を聞いて、データベースで確認した上で、納得していた。
「だったら、ひょっとして治療薬の副作用で少し胸が膨らんだりしていない?」
と医師は尋ねた。
「そうなんですよ。微かに膨れていて、恥ずかしいんですけど」
とアクアも言うので診てもらう。
「ああ、確かに思春期の始まりの女子程度に膨らんでいるけど、これはいづれ男性器がもう少し発達すると自然と小さくなって普通の男の子のような胸になるだろうね」
と医師は言った。
「はい、主治医の先生からもそう言われています」
とアクア。
しかし、この部分のやりとりに関しては、放送局側は事前に§§ミュージック側に放送してよいか確認した。その結果、紅川会長の
「個人の病気治療に関わる問題なので、できたら放送しないでほしい」
という要請に基づき、放送しないことになった。病名もピー音で消した。
番組ではこの後、尿と血液の検査結果がアクア本人の許可も得てカメラに映しだされた。但し物凄い個人情報なので、特定の場所以外はモザイクが掛かっている
この検査結果で、アクアの性染色体がXYであること、女性ホルモン値・男性ホルモン値が、思春期前の男子の正常値の範囲であることが、医師免許を持つタレント・絹塚真さんによって解説され、アクアが言っているように、小さい頃の大病のせいで思春期の到来が遅れているというのが、この検査結果からも裏付けられるということであった。
「性染色体って、女性はXXと聞いたことがありますが、男性はYYで、彼はその中間で男女半々ということは?」
と司会者の吉原がわざわざ訊く。
「いえ男性はXYです。YYという人間は存在しません」
「居ないんですか?」
「女性はXXなので、卵子は全てXです。男性はXYなので精子はXかYです。それが結合して受精卵ができますから、受精卵はXXかXYになるという仕組みです」
「性転換して女になった人の卵子ならY卵子もできるなんてことは?」
「性転換した人は卵巣が無いので卵子も作れませんので、それはありえません」
「卵巣無いの?」
「卵巣を作る技術がないので」
「睾丸を女性ホルモンに漬けといたら卵巣に変わるなんてことない?なんか鮭かなんかでそういう実験が成功したという話を聞いたことあるけど(**)」
「でしたら吉原さんの睾丸で実験してみましょうか?」
「それはやめて〜〜!」
(**)鮭の卵巣を精巣に転換させる技術は存在する。メスの鮭に性ホルモンを投与してオスに性転換させ、この性転換したオスと普通のメスの鮭との間に子供を作らせると、子供は全てメスになる。この手法でイクラを量産するのである。実際にやっている所があるかどうかは不明。
病院が終わった後、龍虎は名古屋市内の大学の空手部に連れてこられた。
人気のアクアというので、部員たちが騒いでいた!
この日、タレントさんを連れてくるというのは事前に照会して承認を取っていたもののアクアだということは言っていなかった(言ってしまうと撮影不能になるほど見学者が押し寄せる)。
更衣室で空手の道衣に着換える。むろん着換え中は撮影しない。着替えはマネージャーも兼ねて付いてきてくれたハナちゃんが補助してくれることになった。ハナちゃんは剣道の有段者だが、柔道や空手も少し習ったことがある。
ジュニア(16-17歳)やカデット(14-15歳)の試合では義務付けられている安全具を着けさせる。これは空手になるということで、予めアクアに合うサイズのものを用意していた。
シンガード(すね当て)およびインステップガード(足の甲当て)、ボディ・プロテクター(胴の保護具)、拳サポーター(手袋)、メンホー(顔面防具)。これに男子の場合はセーフティカップ(睾丸ガード)を着けるのだが、ハナちゃんは
「龍ちゃんは睾丸とか無いから不要だよね」
と言って省略した!
その上にズボンを穿き、道衣を着て、帯を結んだ。
それで出て行くが、道衣姿のアクアにまた部員たちが騒いでいた。
アクアが空手のルールを知らないというので、部員が2人出て模範試合をしてくれた。
「相手にパンチかキックを当てればいいんですか?」
「そうそう。但し顔面攻撃、金的攻撃は無しね」
「キンテキって?」
とアクアがマジに訊くので部員が一瞬顔を見合わせていたので、アクアのそばに付いていたハナちゃんが
「金玉のことだよ」
と答えた。
「へー!」
試合の形式は原則として寸止めでジュニアカデットルール(顔面などには接触即反則。10cm以内で極めていればポイント獲得)だが、アクアは空手の経験が無いというので、アクアの攻撃は当たっても構わないことになった。実際、アクアの筋力で当ててもダメージがあるとは思えないと言われた。
最初はいきなり主将さんが出てくる。
強そう〜!と雰囲気だけで感じ取る。
見よう見まねで、いわゆるファイティングポーズを取り、腰でバランスを取りながらフットワークで相手と対峙する。アクアは、あ、これはバレエのステップと似てると思った。
一瞬相手が動いた。
と思ったら「1本」と言われた。
「キャプテンの勝ち」
と審判を務めてくれている副主将が言った。
どうも相手の蹴りがアクアの上半身に当たった?っぽい。
「今の当たったんですか?」
「接触したら反則だから、今のは2cmくらいの距離」
「へー!」
続いて2年生の人が出てくる。
「あ、この人はさっきの人ほどじゃない」とアクアにも分かった。
相手が1歩踏み込んでくるが、アクアはフェイントだと思った。その踏み込みにより出来た相手の隙を狙ってこちらからパンチを当てようとしたが、向こうは、すんでで回避した。
しかしそれで向こうの“マジ度”があがった気がした。こいつは結構できるぞと思ったのだろう。
また踏み込んでくるが今度は当てる気だと思った。逃げながらカウンターを打とうとしたのだが、相手の腕の動きだけ気をつけていたら蹴り技が来て、アクアはそれを更に避けようとして転倒した。そこに相手の技が決まり、1本が成立する。
「蹴り技で決めようと思ったんだけど、回避されるとは思わなかった」
「でも倒れた後、無防備になっちゃったからボクのアウトです」
「いや、今のは突きを回避しながら更に逃げようとしただけでも凄い」
とさっきアクアと組んだ主将が言っていた。
「うん。反射神経いいね」
と別の4年生も言っていた。
最後は1年生の部員が出てくる。
対峙していて、アクアは相手が隙だらけなのに気付く。これどこからでも攻撃ができる気がする!
その時部室のドアが開いた。相手が一瞬そちらに気を取られる。
瞬間アクアは1歩踏み込み、鮮やかに1発寸止めに近い感じで当てた。これが有効になる。
相手の攻撃が来るがアクアはそれを回避しながらカウンターを打つ。相手の身体に遠すぎたかな?と思ったが、それでも有効と判定されて2ポイント目。
最後は相手が一瞬気が抜けた感じの所に蹴りを入れてこれは技あり。
結局アクアが有効2つ技あり1つで合計4ポイント獲得して判定勝ちになった。
「おお、アクアちゃん1勝2敗。最後は一矢報いたね」
とレポーターさんが言ったが、実際これは放送された時も女性ファンが狂喜した。
男性ファンの間からも「アクアは結構運動神経いいよ」「反射神経がいいから、下手くそな奴はパンチを当てきれないと思う」という評価の声が出ていた。
「でもよくあの小さな身体でキックが相手上半身に当たるね」
「いや、アクアはバレエの経験者だから身体が柔らかい」
「そうだった!」
ともかくもそれで今年、アクアは
「性別の検査をしましたが、アクアちゃんは“今の所まだ”男の子でした」
という結果報告となった。
もっとも空手対決の時に、アクアがセーフティカップを着けていなかったことに気付いた視聴者もあり
「なんでアクアはファウルカップ着けてなかったの?」
「そりゃ不要だからじゃない?」
「金的が存在しなければそれを守る必要もないよな」
などと噂されていた。
「だけど空手とかしても全然性別の確認にならない気がするけど」
「うん。女で空手の強い奴もたくさんいる」
「病院の映像だけじゃつまらないから、ただの尺稼ぎでは?」
「それで・・・どうやって崩れたって?」
と千里は腕を組んで《南田歓喜》に尋ねた。
「いや、九重のやつがさ、夜中ねぼけててうっかり伸びをしたら床に穴開けちまって。その下が七瀬の部屋で、『女の部屋覗くな』って、近くにあった鉄の玉を投げつけたら、それが鵜波の部屋に飛び込んで、あいつに当たって。それで『何するんだ?』と投げ返したら、清川の部屋に飛び込んで・・・」
と歓喜は頭を掻きながら長々と説明したが、さっぱり分からない!
だいたい鉄の玉って何のためにそんなものがあるのさ?
ともかくも彼ら市川ドラゴンズのメンバーが住んでいたボロアパートは今無惨な姿になっているのである。
「まあ仕方ないね。元々建て替えようと言っていたし、建設会社に見積もり取って建て替えるか」
「ごめーん!」
その時、青池が言った。
「ね、ね、千里ちゃん。その建て替えるのって僕ら自身でやってもいい?」
「いいけど」
「だって建物建てるのって楽しそうじゃん」
「ああ、あんたたちにも娯楽が必要だね。でも物置とか作るのとは違うからさ。色々日本の法律に準拠して建てないといけないし、多分資格が必要な作業もあると思うよ」
「だったらそのあたり勉強しながら建てていい?」
「いいよ」
それで結局、青池と前橋が中心になって色々調べていったところ、建設会社を設立した方がいいということになり、千里が資金を提供して取り敢えず資本金1000万円で株式会社・播磨工務店を作ることになったのであった。
それでその播磨工務店の手で、彼らのアパートは再建されることになるのだが、それまでの仮の住まいも必要である。それでこのアパートを買った不動産屋さんに相談したら、空いている土地はいくらでもあるから、そこにプレハブのアパートを建てるといいかもということだった。そこで仮住まいを建てる場所として、少々不便な場所ではあったが駅から6km離れた山林内に100坪の住宅用地があったのを200万円で買った。そして不動産屋さんに紹介してもらった工務店に頼んで、ほんの2ヶ月で軽量鉄骨構造のアパートを建ててもらった(ここはアパート再建後は播磨工務店の本社になる)。この仮住まいの建設作業に頼み込んで市川ドラゴンズのメンバーを使ってもらったが、工務店の社長さんは
「あんたら凄い腕力あるね!」
と感心し、重宝に使ってもらった。実は仮住まいがわずか2ヶ月で完成したのも彼らの非常識なほどの腕力のおかげである。
それで自分たちの建設会社を作りたいと思っていると言うと、色々教えてくれて、許認可を得るコツとか、必要な免許・資格の類いについても指導してくれた。
2016年4月3日(日)、今期プレイオフ準決勝で敗退したレオパルダ・デ・グラナダの選手たちは試合後オーナーから突然チーム解散を宣告された。キャプテンが中心になって団体交渉を試みたが、会社側の方針は変わらなかった。会社の経営状況が厳しく、不動産の売却も進めているため、現在1軍・2軍が使用している体育館も土地を含めて売却したいらしい。選手たちへの処遇だが会社の提案はこのようであった。
・1軍選手全員の報酬を20%上げる。
・明日まで+30日の日割りの報酬を支払う(年俸×34/366)
・特別退職金として在籍年数に応じて下記の月数分の報酬を払う。
−1年目の選手は6ヶ月
−2年目の選手は9ヶ月
−3年以上の選手は12ヶ月
・育成選手はできるだけ国内他チームの育成チームへの斡旋をする。現在1軍の選手でも育成チームへの斡旋を希望する場合は対応する。移籍先あるいは就職先が見つかるまでの暫定生活費として一律1万ユーロ(128万円)支給。
・1軍選手が1年以内(2017年4月末まで)に新しいプロチーム(EEA域内に限る)に移動した場合、引越の費用が必要な場合、その距離に応じて標準的な引越費用を支払う。あるいは行き先未定でも先にもらっておきたい人には1万ユーロ(128万円)払う。
キャプテンをはじめ弁の立つ選手5名が会社と交渉し、下記の結果を勝ち取った。
・計算の基準となる報酬の上げ幅は25%とする。
・1年目の選手は9ヶ月、2年以上の選手は12ヶ月。
・育成選手の当座生活費の補助は一律2万ユーロ(256万円)
・引越費用は、実際に引っ越した時に請求するのではなく、最初に15,000ユーロ(192万円)支給し、後日引越した時に標準額を計算してその金額が15,000ユーロを越えていた場合は(1年以内に限り)差額を請求できる。
会社も不動産売却・遠征費の削減が主目的なので結果的に1年分の選手報酬程度は出してもよいという姿勢だったようである。
千里の場合は2014年春から1軍に入っていて2年目だったので25%増しの1年分(60,000×1.25×(400/366)+15,000=96,968EUR≒1241万円)もらえることになった(1年後の2017年4月にマルセイユのチームに入ったので追加で7000EUR≒84万円もらった)。
千里はシンユウ(Lin Xinyu 林心玉)から訊かれた。
「チェンリー(千里)は、どこに行く?」
「一応日本のチームにも籍はあるんだけどね。とりあえずオリンピックまでは日本代表での活動がひたすら続くから、秋になってから考えようかな」
「ああ、私も中国代表の活動で忙しい」
「6月の世界最終予選頑張ってね」
「うん。じゃリオで会おう」
と言って彼女とは握手をして別れた。
日本は昨年のアジア選手権で優勝したのでオリンピック切符を掴んでいるが、中国は世界最終予選で5位以内に入らないとオリンピックに出られない。
東京では、4月3日の夜、ケイが呼びかけて、千里・後藤正俊・田中晶星・上島雷太・雨宮三森の6者で“ドライバーチーム”解散の噂について緊急の協議をした。
これは6月の株主総会で社長に就任予定の村上氏が、自分は無駄を徹底的に省くと言い、費用ばかり掛かっている、作曲家のドライバーチームは解散させると言っているらしい、という情報があり、その問題への対処を協議したのである。千里はこの会議がまともにスペインの試合とぶつかっていたので、代わりに《いんちゃん》に出てもらった。これはすーちゃん・てんちゃんはあまり弁論ができず、びゃくちゃんは体育会系だし、きーちゃんは疲れていたからである。
この夜の協議の結果、村上氏が社長になってドライバーチームが解散ということになる前に、松前社長の支援が得られる間に、ドライバーチーム運用のための会社を設立することにし、★★レコードにも出資してもらい《★★情報サービス》という会社を設立することになった。
出資比率は★★レコード22%、後藤・田中・上島・雨宮・ケイ・千里の6人が13%ずつである。会社は★★レコードの社長が村上氏になっても納得してくれるように毎月ちゃんと黒字になり、配当も出せるように運用することにする。
★★情報サーヒスは取り敢えず事務所は★★レコードのオフィス内に1室借りて鶴見係長が社長に、染宮さんが専務に就任して、昨年から契約していたドライバーの大半がこの会社の社員となった(元々★★レコードの社員だったドライバーが一部退任して元の部署に戻った)。また上島が個人的に雇っていた2人のドライバーもこの会社に合流した。
千里(本人)は日本時刻の4月3日17:00-18:30(スペイン時刻10:00-11:30)くらいにレオパルダの最終戦に出場した後、(スペイン時刻で)その日いっぱい選手代表と会社側との団体交渉が行われる間、待機、というより実際には仮眠していた。
だいたい両者の話し合いがまとまったのがスペイン時刻の夕方20:00頃で、これは日本では4月4日3:00頃。それで選手の大半も21:00(日本時間4:00)すぎにはお互いの電話番号・メールアドレスを再確認してから解散した。
それで《いんちゃん》と連絡してみると、そちらもだいたい話はまとまったような感じでほぼみんなダウンしているということだった。ケイと“千里”は帰ろうということになったようなので、取り敢えず千里は《いんちゃん》と入れ替わって日本に戻る(いんちゃんはグラナダのアパートで寝る)。それでここに持って来ているアテンザにケイを載せて、彼女を恵比寿のマンションまで送って行った。
もう既に8時近いので、40 minutesの会社登記に行くことにする。運営会社の社長になってくれることになっている立川さん、および司法書士さんと一緒に法務局に行き、会社設立登記をした。手続きが終わってから、40 minutesの事務所に戻った。この間のドライバーは《きーちゃん》にお願いした。
この日はこのあと会社設立のお祝い会をしたのだが、人によって出て来られる時間帯が違うのでお昼からと夕方からの2回やって終了したのはもう24時近くである。千里は適宜《てんちゃん》、《すーちゃん》などと入れ替わりながら最後まで付き合ったが、途中けっこう葛西のマンションで仮眠していた。
全部終了した後で、経堂の桃香のアパートに戻ると、高知の祖父が亡くなったので葬儀に付き合ってくれと言われる。5年前に行った時も付き合ったしなあと思い、千里は4月5-6日、高知まで行ってくることになった。
それで千里と桃香は、翌日朝、羽田で彪志、千葉の洋彦夫妻と合流してから高知に飛ぶことにした。
それで取り敢えず寝てから5時に起きて、桃香がまだ寝ている中で旅支度をしていたら、電話がある。北海道に住む千里の祖母・天子であった。
「お早う、お祖母ちゃん。和彦(にぎひこ)さんの訃報は聞いた?」
「その件なんだけど、私もできたら葬儀に行きたい所だけど、とても高知まで行く体力の自信が無いからさ。香典持って行ってくれない?あと向こうの地元の業者さんに頼んでお花も贈ってくれると嬉しい」
天子と(和彦の奥さんの)咲子は“姉妹のようなもの”なのである。実際の関係としては“従姉妹くらい”だと言っていた(本人たちもよく分かっていない模様)。
「いいよ。香典もお花もやっておく。取り敢えず費用は私が立て替えておくね」
「すまないね」
それで千里は《きーちゃん》に
「悪いけど、村山天子の名前で、香典を速達で送っておいてくれない?」
と言った。
「お祖母ちゃん、香典を“持って行って”と言わなかった?」
「そうだっけ。でも郵送でもいいんじゃない?」
「まいっか。札幌の消印で送った方がいいよね?」
「うん。そうできたら完璧」
「いくら包むの?」
「うーん。。。いくらだろう?たった1人生き残っている妹の旦那さんだし、200万くらい入れておく?」
「それ絶対多すぎると思うけど」
「そうかな。まあ少ないよりマシだろうし、その金額で」
「いいけどね」
それで《きーちゃん》はわざわざ新千歳まで飛行機で飛び、北海道の郵便局から速達で香典袋に入れた200万円の小切手を送ったのであった。また千里は高知の地元の業者に電話し、天子の名前でお花を頼んだ。代金はカードで決済した。
(後日金額を訊かれた千里は「お花は10万円の贈っておいたよ」と言ったので天子は“香典とお花で”10万と思い込み、10万千里に払ってくれた。香典のことは、千里自身きれいさっぱり忘れていた!←千里は物忘れの天才)
高知空港まで来た所で、青葉・朋子と落ち合うが、ここで偶然、札幌から飛んできた花山月音(かやま・だいな)とも遭遇した。それでこの8人でエスティマ・ハイブリッドを借りて、土佐清水市に向かうことにした。
なお、月音は札幌に住んでいるのでここで合流したのだが、彼女の両親や妹の波歌(しれん)は稚内から出てくるので、もう少し遅い便になった。
和彦は宗教嫌いで無宗教だったのだが、今回の葬式は“世間体”もあって仏式で行われた。2日目の告別式が終わった後は、故人がカラオケ好きだったというのでカラオケ大会と化した。千里や桃香も歌ったが、千里は波歌がとても歌が上手いのに感心した。その波歌が千里に相談した。
彼女は歌手になりたいのだと言う。それで千里が音楽関係の仕事をしていると聞いて、自分は見込みがあると思うかと聞いたのである。千里は言った。
「波歌ちゃんは歌は上手い。でも目立たない」
「うっ・・・。それ結構友だちに言われます」
「ちょっとだけ改善してあげるよ」
と言って千里は波歌の手を握り、彼女のオーラの吹出を制御しているゲートが閉まったままになっているのを開けてあげた。こういう操作は青葉が上手いのだが、千里にもこの程度のことはできる。
「あ、雰囲気が変わった」
と近くに居た親族からも言われる。
「これでオーディションとかに出てごらんよ。波歌ちゃんの歌唱力があれば関心を持ってくれる事務所もあると思うよ」
「ほんとですか?でもオーディションといったら東京とかに出ていかないとダメですよね?」
千里は時間的に考えてこの情報はもう明かしてもいいと思った。
「明日の夕方からΨΨテレビ系で放送開始予定の『スター発掘し隊』という番組で全国規模のオーディションをやるんだよ。札幌でも一次審査するから行ってみるといい。詳細は明日の番組を見て」
「分かりました!ありがとうございます!」
それで波歌はオーディションを受けることになったのである。
今回の葬儀の中で、千里は岐阜の義肢製作所に勤める舞耶さんとも知り合った。彼女は和彦の長男・山彦の長男・春彦の長男・芳彦の婚約者(事実上内縁の妻)である。彼女との関わりが、この直後青葉が関わり合うことになる事件で重要な役割を果たすことになった。
青葉は4月7日が入学式なので、千里と桃香はそれに付いていくことにした。レンタルしているバスを千里が運転して高知空港まで行き、伊丹に飛び、最終のしらさぎで金沢まで行って金沢に泊まる。青葉は一足早く帰ったので高岡まで到達して家で寝た。
ところでここで青葉が入学式用に買っていた服を、誰も見ていなかったという問題が発生する。
桃香たちが青葉より遅れて会場に入り、初めて青葉の格好を見て全員絶句する。
「酷い」
と桃香は言った。
「千里、その青葉の、できそこないのオカマみたいなメイクを何とかしてやってくれ」
「うん。これが第1だね。青葉おいで」
と言って千里は青葉を連れてトイレに行き、あまりにも酷すぎるメイクをクレンジングで全部落とし、きれいにメイクしなおしてあげた。
「あ、可愛くなった気がする」
「さっきのは、痴漢目的の変態ではと思われて警官に職務質問されるレベルだね」
「そんなに?」
「この服、どうしよう?」
と朋子が困ったように言う。
「私や千里の服が入ればいいのだが、青葉は細すぎて私たちの服では無理だ」
と桃香が言った。
桃香は肥満気味だし、千里はスポーツ女子なので、ふたりともサイズが大きい。結局どうしようもないので、入学式は目を瞑ることにしたが、案の定青葉は「保護者の方はこちらにおいでください」と言われてしまった!
結局入学式の後、香林坊の109や金沢駅そばのフォーラスなどで、青葉の通学用の服を買うことにする。これに青葉の親友で一緒に入学した星衣良、たまたま遭遇した桃香の元恋人・優子(奏音の母だがこの時点ではまだ妊娠中)が協力してくれた。星衣良は自分のセンスでおしゃれな服を選ぶし、優子は「若い子はこういう可愛いの着なきゃ」といって物凄く可愛い服を選ぶので、青葉は「こんな服着るの〜?」と悲鳴をあげていた。
千里と桃香はその日の最終新幹線で東京に戻った。
そして千里は4月9-20日の日程でNTCで今期の女子日本代表第一次合宿に入った。
12月いっぱいで§§ミュージックの研修生を辞めて“普通の女子中生”に戻っていた月嶋優羽(つじま・ことり)は、3月に中学を卒業し、東京都品川区のD高校に進学した。優羽は今年の夏くらいにまたどこかのオーディションを受けて芸能界に復帰したいと思っていたので、芸能活動がやりやすい所を選んだのである。願書の特記事項にも芸能活動をしたい旨書いたし、面接の時も§§プロの研修生をして、ビデオに出演したり、ライブでバックダンサー・コーラスなどをしていたことを話した。
通学は川崎市内の自宅から電車を使い1時間半ほどの通学になる。
「あんた1時間半も掛けて通学するなら、どこかアパートでも借りたら?」
と親は言ったのだが
「都内は家賃高いし」
と言った。正直な所、もしどこかのオーディションに通った場合、どっちみち引っ越すことになる可能性があるので、それなら数ヶ月だけ、わざわざ敷金礼金など払ってどこかに住むのは不効率だという気持ちがあったのである。
D高校では4月6日に入学式をしたが、芸能関係で見知った顔がたくさんあり、ちょっと安心した。自分の出身中学からここに進学したのは優羽1人だけだが、これだけ知り合いが居たら安心感がある。
4月10日(日).
優羽は昨夜、D高校の同級生で雑誌のモデルをしているもののロックバンド志向もある典佳から
「今日バンドの大会あるんだけど、うちのバンドのギター担当が突き指しちゃって。ことりちゃん確かギター弾けたよね?代わりに弾いてくれない?」
とLINEがあった。それで朝から愛用のギター Yamaha Pacifica 510V -Candy Apple Red を持ち、横浜まで出て行った。実は§§プロ研修生時代に、ギター弾いたことないと言ったら、ヤコさんから「私の古いのをあげるから練習してみなよ」と言われ、もらった品である。優羽は研修所に住んでいた訳ではないが、そこに行くと借り賃とか無しで練習室が使えるので、一時期毎日のように通っては、かなり練習していた。
「短期間で随分うまくなったね」
とヤコさんからもハナちゃんからも褒められた。
実は、品川ありさのライブでギターの人が急病になった時、1ステージだけだが代行でギターを弾いたことがある。とてもいい想い出である。
みなとみらい21パシフィコ横浜で行われた大会は3位に入賞して、“チョコ1年分”という賞品をもらい、バンドメンバー4人で山分けした。何だか様々なメーカーの様々な種類が混じっているので、これを主催したレコード会社で、タレントの所に来たバレンタインの余ったやつの処分では?などと言い合った。
それで、どこかでお茶でも飲もうと4人でランドマークタワーを歩いていたら、何やら人だかりがある。やはりD高校の同級生・泰菜ちゃんが居る。こちらの4人と目が合った。
「何やってんの?」
「典佳ちゃんたちも参加するの?」
「何に?」
「オーディション」
「そんなのやってんだ?」
「でも機械の調子が悪いみたいで」
「機械?」
何だかプリクラくらいのサイズのブースがあり、そこにカラオケの機械があって、そこで歌ったのがビデオに撮られて採点されるらしい。事前申し込みとかも不要で、ここで1曲歌えば参加したことになるという、手軽な(安易な?)システムとのこと。
しかしそのカラオケのスイッチが入らないらしくて、係の人?があちこち懐中電灯で照らしたりしながら調べているようである。
優羽は見ていて、ブースの外側に出ている電気の線?がきちんとハマっていないことに気付いた。
「あのぉ、これ外れている気がするんですが」
「あ、ほんとだ!」
それで係の人がそこをしっかり差し込むと、カラオケのスイッチが入った。
「やったやった」
「君、ちょっとテストで歌ってみてよ」
と係の人から言われる。
「私がですか?」
と言いながらもブースの中に入り、どうせテストだからと思って適当な数字を打ち込んだ。するとアクアの『冬模様』が出てくる。あ、この曲は楽勝と思い、優羽は表示される歌詞を確認しながら歌った。
実をいうとこの曲の発売された音源には、優羽自身のギター演奏も含まれている。
演奏はジャスト3分で打ち切られることになっているらしく、中途半端な所でカラオケ伴奏が停まるので、ついその少し先まで優羽は歌ってしまった。
カラオケボックスに100という数字が表示されている。
「これ何ですか?」
「点数。君は100点」
「へー」
「いや、今の歌、ものすごく上手かった」
と典佳も言っている。
「後で連絡しますから、そこの10キーから、ご自分の携帯番号を入力して下さい」
と係の人が言う。
「もしかして私、このオーディションにエントリーしたことになっちゃった?」
「うん」
と典佳も泰菜も言った。
そしてその週の金曜日になって、優羽はΨΨテレビの森原プロデューサーから直接電話を受けた。
「あなたの歌唱を見たけど、今すぐデビューさせたいくらいに凄いと思った。今度の日曜に、東京の中野スターホールで観客も入れて2次予選をするので、出てもらえませんか?」
何か凄く評価されているっぽい。森原さんはΨΨテレビで『平成歌の祭典』という歌番組も担当している人である。そういう専門家から評価されたのが嬉しかったので、優羽は
「はい、参ります」
と即答した。
(森原から似たようなことを言われた子が7人もいたことを優羽は知らない)
森原さんからは、保護者が書いた芸能活動許可証を用意し、水着審査もあるので歌唱用の衣装のほかに水着を持って来てくれるよう言われた。
「ただ、私は今回偶然通りかかった所で『ちょっと歌ってみて』と言われて歌っただけで、ほんとに偶然参加する形になったのですが、以前芸能活動をしていたこともあるのですが」
ときちんと言っておく。
「デビューしてた?」
「それはしていません。§§プロの研修生になって、アクアとか品川ありさとかのバックで踊ったり、1度はギターの担当者が急病でピンチヒッターでライブのギターを弾いたこともあります」
「ああ、そのくらいは全然問題無い。オーディション受ける子にはその程度の活動歴のある子はけっこういるよ。最終的に合格した場合は、新しい事務所が移籍金を払えばいいことだけど、デビュー前の子の移籍金はそう高くないから」
「なるほどー」
そうか。移籍金か。私たちって商品なのねと思う。それがコスモス社長が言っていた業界上で必要な手続きという奴かな?
それで優羽は森原さんとの電話の後で、秋風コスモスに電話し、テレビ局主催のオーディションの一次審査に合格したことを伝えた。
「ああ、あのオーディション受けたんだ?」
「いやそれが・・・」
と言ってただの通りがかりだったのですが、と当日の経緯を話すとコスモスは笑っていた。
「でも案外そういう縁で受けたオーディションのほうがうまく行ったりするもんだよ」
とコスモスは言う。
「この業界、わりとそういうの多いですよね」
「うん。だから頑張ってね。通るといいね」
とコスモスは言ってくれた。
優羽は次の日曜日、母にも付き添ってもらい、東京中野のスターホールに出かけて行った。どうも参加者は40人くらい居るようである。
審査は全て観客のいる前でステージで行われるということだった。テレビ局の主催だから、このような手法になるのだろう。
最初にΨΨテレビの名古尾さんという人が挨拶してから“ステージオーディション”は開始された。審査は3ステップで、最初は1人ずつ普通の服でステージに登場して、30秒間の自己紹介の上で審査員の質問を受ける。審査員は最初に挨拶した名古尾さん、番組の司会役らしいデンチューの2人、番組アシスタントの金墨円香、★★レコードの社員証を首からかけている中年女性(後に滝口という人だと分かる)、同じく★★レコードの社員証をかけている若い女性(同様に明智という人と分かる)の6人である。もっともデンチューは2人で1人分という扱いのようだ。
確かラララグーンのソウ∽(そうじ)さんがプロデュースするとか言ってなかったっけ?と思ったが、ここには来ていないようだ。また先日優羽に直接電話を掛けてきてくれた森原プロデューサーも入って居ないようである。急病か何かで名古尾さんが代行しているのだろうか?この人は『開く胃の電動』とか『EXP-#♭運動会』などといったバラエティ番組を担当していた人のはずである。この辺りは§§プロの研修生を1年以上やったことで覚えた業界知識だ。
優羽はステージに立つのは慣れているので、無難に審査を通り、48点をもらった。審査員が5組なので50点満点である。
この第一次審査で参加者は42人から34人に絞られた。落とされたのは大半がステージ上であがってしまって、まともに応答ができなかった子たちだった。
二次審査は水着審査である。優羽はジル・スチュアートのとびっきり可愛い水着を着けて出て行った。会場から凄いざわめきがある。
「むっちゃくちゃ可愛いやん!」
とデンチューの殿山から言われる。
「ねぇ、あんたの写真付きで3万円でその水着売ってくれん?」
などと相棒の昼村。
「いいですけど、即警察に通報していいですか?」
と優羽は笑顔で答える。
会場からは爆笑の声がある。
金墨円香は笑顔ひとつ見せずに訊いた。
「君に真剣に尋ねたいことがある」
「はい?」
「その水着のフリルは全部で何個?」
「57個です」
と優羽は即答した。
「数えたの?」
「ガイドブックに書かれていましたよ」
「ガイドブックがあるんだ?」
「私が執筆します」
「だったら、できあがったら1冊私にちょうだい」
「価格は1億円ですけど、いいですか?」
「あんた、その水着はいくらよ?」
「8億7千万円ですが」
「よく買えたね!」
「『サンシャイン・ムーンライト』のCDを街頭で売って稼ぎました」
と優羽が言うと、会場から笑い声が起きる。
『サンシャイン・ムーンライト』というのは金墨がアイドル時代にヒットさせたCDである。金墨も無茶振りしたボールをこちらに返されてしまったので、参った!という表情だった。
水着審査で10人落とされ24人となる。正直この判定基準は分からんと思った。いよいよ最終審査は歌唱審査である。最初に最終審査はこの歌唱のみで行われ、一次審査の自己アピール、二次審査の水着審査の点数はいったんリセットするというのが宣言される。テレビ番組らしい演出である。
優羽は川崎ゆりこからもらったステージ衣装のドレスを着て、ももクロの『夢の浮世に咲いてみな』を格好よく熱唱した。観客も他の参加者たちも優羽の歌に聞きほれている。
満点の50点を取る。
この三次審査で50点を取ったのは実は5人いた。北海道から来た花山波歌(かやま・しれん)、長野県の種田広夢(おいだ・どりむ)、石川県の雪丘八島(すすぎ・やまと)、福岡から来た島田春都(しまだ・はると)、それに優羽である。
この5人は最終的には全員芸能界に来ることになる。控室では50点満点の5人は既に進出確定ということで、“金の椅子”に座らされ、その様子もカメラで撮影されたので、全員カメラに向かって手を振った。
「でもなんか皆さん名前の読み方が難しい」
と言ったのは春都である。
確かに月嶋優羽(つじま・ことり)を含めて難読氏名ばかりである。
「実は難読氏名コンテストだったりして」
と広夢が言う。
「だったら私、落ちた〜」
などと春都は言っている。
「はるとちゃんがいちばんマトモな名前だ」
と波歌(しれん)。
「私、自分の名前正しく読んでもらったことない」
と八島(やまと)。
「まあ私の場合は元々落選は確定しているんだけどね」
と春都が言うので
「まさか、これ既に合格者は決まっているとか?」
と波歌が訊く。
「違う違う。私は実は応募条件を満たしていないから失格なんだけど、面白いから私の失格は、私がもし最終審査まで行ったら、カメラの前で暴露していいかと言われたから了承した」
「応募条件を満たしてない?」
「もしかして年齢不足?」
「日本国籍ではないとか?」
このオーディションは14歳以上(上限無し)の、事務所と契約関係のない女子ということになっている。外国人の場合は、永住者、あるいは歌手としての就労許可が取れる人ということである。
春都は見た感じは高校1〜2年くらいに見えるが、ひょっとしたらまだ中学1年なのだろうか?
「いやぁ、実は私、女子じゃないから」
「は?」
と他の4人はしばらく意味が分からず考えていた。
「まさか、あんた男〜?」
と優羽が言った。
「正解」
「女の子にしか見えないのに!」
「うん。だから最終審査まで行く間はその問題は不問にする、と森原さんから言われたんだよ」
「それは最終審査前に性転換手術を受けて完全な女の子になってもらうパターンだな」
「え〜〜!?」
「そういう話はたまにあるよね」
「たまにあるの〜〜?」
「アクアもデビュー前に声変わりが来ないようにするために性転換手術を受けたという噂だし」
と波歌が言っているので優羽は笑いをこらえるのに苦労する。うん、あの子は世間的にはしばしばそう思われている。そもそも世間的には去勢手術と性転換手術の違いが分かっていない人も多い。むろん声変わり防止なら睾丸だけを取ればよいので、ペニスまで取って女の子の形に股間を変更する必要は無い。
「きっと春都ちゃん、今日の撮影が終わったら、バンコク行きの航空券を持たされて」
「ちょっと心の準備が・・・」
「でも森原さん、首になっちゃったからそのあたりもどうなるか分からないね」
と八島。
「うん。実はそれも不安がある」
と春都。
「え?森原さんが首?」
と優羽は驚いて言った。
「あれ?知らなかった?ΨΨテレビの社長と衝突して辞表を提出したんだよ。事実上の解雇。ニュースでも流れていたよ」
「うっそー!?」
「何で対立したの?」
「森原さんがメインで担当している『平成・歌の祭典』でさ、最近口パクする歌手とか、手の動きが音と合ってないギタリストとかが増えてきているのを憂慮して、4月以降、この番組は口パク・当て振り禁止にする、と記者会見で言ったんだけど、それを社長が撤回しろと言って、森原さんは一歩も引かず、結局辞表を提出した」
「なぜ社長は撤回を迫る?」
「森原さんの姿勢には局内にも結構異論があった。生演奏をするとどうしても放送事故が起きやすい。歌詞忘れたり演奏ミスったり、マイクが入っていなかったり、ケーブルが断線したり。それを嫌って最近はテレビ局側が口パク・当て振りを要求するケースも多い。だけど森原さんは、それなら歌手など呼ばずにCDやビデオを最初から流せばいいと言っていた」
「ああ、そういう対立があった訳か」
「でもそれ以上に、口パクとか当て振りでしか演奏できない歌手やミュージシャンを抱えたプロダクションかレコード会社からの圧力もあったんじゃないの?」
「アイドル系も酷いけど、かつての名歌手で歌唱力が衰えて、もうまともに歌えない人も多いよね」
「そういう歌手は政治力だけは持っているから」
「やだなあ、そういうの」
「森原さんも口パク・当て振り自体がそのミュージシャンのスタイルである場合は例外的に認めると言っていたんだけどね」
「どういうアーティストだっけ?」
「Perfumeみたいに音声を全てシステムで処理していて生演奏が不可能な場合、金爆みたいなエアバンド、チェリーツインやラララグーンみたいにバックで別のバンドメンバーが生演奏しているケース。これメンバーであることが大事」
「チェリーツインは分かるけど、ラララグーンもそんなことしてるんだっけ?」
「あ、それファンの間では常識となっているんだけど、一般には知られていない」
「そうそう。あのバンドには実は、ソウ∽が2人いるんだよ。パフォーマーのソウ∽と、実際に演奏しているソウ∽」
「そんなの初めて知った!」
だったらこの番組に関わるソウ∽さんって、どちらのソウ∽さんなんだろう?と優羽は考えた。
「まあそれでこの番組に関しては名古尾さんが後任プロデューサーだよ」
と春都は語る。
「名古尾さんは歌番組は未経験なのでは?」
と優羽が言った。
「だからどうも本人も苦労しているみたい」
「あぁ」
審査は実際かなり揉めていたようで1時間ほど待たされた。それで50点満点の5人を含む12名の名前が発表され、最終審査の前に5月3-5日に合宿をするということが伝えられた。
実際には30点しか取れなかった東北出身の参加者をめぐり、滝口が強く推したものの、あんな音痴を合格させたら、この番組の良識が問われて、以後まともな参加者が来なくなるとして名古尾が反対し、これに金墨も同調。最終的には立場上意見を出していなかった明智が、点数が全て公開されているのに得点の低い人を通すのは問題があるとして合格に反対。滝口も渋々同意してこの参加者は落選となった。それで、41点以上が10人おり、40点が4人いるので、その4人の内、誰と誰を通すかというのだけ、審査員の合議で通過者を決めた(こちらの議論は5分で終わった)。実際には一次審査と二次審査の合計点が高い2人を通すことになった。
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【娘たちの1人歩き】(1)