【娘たちのベイビー】(2)

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審査員は続いて3位の川内峰花(通称“ハナちゃん”)を呼び出した。
 
彼女は昨年のロックギャルコンテストで本選4位だった(1位アクア、2位高崎ひろか、3位月嶋優羽:後に《三つ葉》でデビュー)。歌も踊りもうまくて、可愛さもあり、普通のアイドルオーディションならトップ合格だったかも知れないが、ロックギャルコンテストはそういう路線ではないのである。
 
昨年審査員はトップの3人と面談して、そのまま帰ろうとしていたが、彼女は電話を掛けてきて自分の順位を尋ねた。そして面談を希望したので、取り敢えず紅川だけ残って話すことにしたら両親とともに来訪した。彼女は言った。自分はこのオーディションの中でトップだと思っていた。しかし4位だったというのはやはり自分に足りないものがあるということだと思うから、それを教えて欲しい。また可能だったら“給料安くてもいいから”こちらの歌手か、無理なら誰かのバックダンサーかコーラスにでもして欲しい、などと、ひじょうに積極的に自己アピールした。
 
彼女がひじょうにしっかりした性格で、しかも正直な評価を聞きたがっていると感じた紅川は説明した。
 
・君はアイドル性は高い。しかし個性が弱い。たぶん、集団アイドルのオーディションなら合格して、その集団の中でリーダーになれる。しかし現時点ではソロ歌手向きではない。
 
・ソロ歌手になるにはあと少し歌唱力も欲しい。特に音程が不正確で、耳の良い人にしか分からないが、楽器の音から数Hz低いことがしばしばある。そのためハモらない。
 
・そもそもこのオーディションでは、アイドル性より音楽的な能力や対応能力、パフォーマンス能力などを重視しているので、今回は残念ながら4位であった。
 
すると彼女は言った。
 
実は横居剣一さん主宰で新設予定のアイドル集団(ホワイト▽キャッツの名前で2015年4月に発足することになる)のオーディションも受けていて、そちらも三次選考に合格している。それがまさに社長がおっしゃる集団アイドル向きということなのだと思う。
 
しかし自分は集団アイドルの1人になってチヤホヤされるより、本格的に評価されるミュージシャンになりたい。
 
こちらのオーディションが本格派の歌手を求めているのなら、自分は横居剣一さんの方は辞退して、音楽的な力を付け来年またこのオーディションに挑戦したいと。
 
そこで紅川が彼女や両親としばらく話した結果、彼女は§§プロの研修生となって1年間、発声・歌唱・ダンス・楽器・演技・コントなどのレッスンを受け、今年再チャレンジすることになったのであった(この時期は“練習生”と“研修生”の区別が曖昧で、彼女はこの1年間は練習生に近かった)。
 

「昨年は4位で今年は3位(対象外の穂高充乃を除く)。でも今年は昨年に比べて参加者のレベルが高かった。数字は1つしか上がっていないけど、君はこの1年間でぐっと伸びた」
 
と紅川はハナに言った。
 
それで彼女には色々お仕事を紹介するから、取り敢えず研修生の身分のまま数年後のデビューを目指すという線ではどうか?と打診した。また桜野みちるのバックバンド“チェリーズ”のベーシストが9月いっぱいで退任することになっており、よかったら10月からその後任になってくれないかとも言った。
 
彼女は「自分はミュージシャン志向だしベースも得意なので、ベーシストの話、ぜひやりたい」と言った(*2)。それで彼女はこの後は毎月お給料をもらう形式で契約し、他の事務所のオーディションを受けたりもせず、§§プロのタレントとして、活動していくことになった。
 
(*2)実はこれはハッタリで彼女はこの時点でベースなど触ったこともなかった。しかし翌日すぐ楽器店に飛び込んで、お店の人にベースそのものについて種類や人気モデルなどを教えてもらった上で、店頭に置かれていた限定品のピンクのGibson USA SGベース(15万円)を買ってきて2ヶ月間猛練習し、10月にチェリーズに合流した時は
 
「へー、女子高生にしては結構弾くじゃん」
と20代の女性ギタリストから褒めてもらった。
 
「ちみなに“女子”高校生だよね?」
「昨日お風呂で見た時は男子ではなかった気がします」
 

なお、ハナちゃんは1年後にはチェリーズのベースと兼任で!品川ありさのバックバンド“フィフティースリー”のベースも担当することになる。また自作の曲を何曲か、みちるやありさに提供している。
 
「芸名も何か付けようか?」
「いえ。それはCDデビューする時でいいです」
 
といった会話を交わしたのだが、彼女(後の山下ルンバ)の歌手デビューは結局2019年までずれ込むことになる。しかし彼女の顔写真はこの年の秋から§§プロのホームページに“仮名ハナちゃん”の名前で掲載された。それで後に山下ルンバの芸名がついた後もライブなどで「ハナちゃーん!」という呼び声が結構掛かる。
 
“山下ルンバ”の芸名は彼女がラテン好きであること(ケーナとかサンポーニャも吹ける)と、掃除機のルンバに乗ってみせている写真をインスタグラムに公開して話題になったことがあったことに由来する(「寮では猫が飼えないので、猫の代わりに自分が乗ってみた」とコメントしていた)。
 
なお、ハナちゃんは昨年夏からずっと足立区の§§プロの寮に住んでいるが(彼女より早くから住んでいた米本愛心から“研修所の主”の称号を贈られた)、今回のオーディションの結果、秋田利美と大村祭梨も寮に入ることになり、利美はNo.201、祭梨はNo.202 を使用する。その他、今回8位の佐藤ゆかちゃんも東京に出てきて研修生になりたいと言ったので入寮することになる。結果、寮の部屋番号はこのようになった。
 
201.秋田利美(後の白鳥リズム)
202.大村祭梨(後の花咲ロンド)
203.佐藤ゆか
204.米本愛心
205.川内峰花(後の山下ルンバ)
206.(明智ヒバリの部屋だが2014夏以降本人不在で荷物だけある)
207.柴田邦江(高崎ひろか)
208.田代龍虎(アクア)
209.佐藤絢香(品川ありさ)
210.(空室だが海浜ひまわりが自分の物置代わりにしている)
 
部屋が満杯に近くなった(既に満杯という説もある)ので、紅川会長は敷地内に新しい寮を建築することにした。
 

元々は1996年に§§プロが設立された時に、当時の所属タレントである新宿信濃子と上野陸奥子が「日々練習する場所が欲しい」と言ったので、紅川さんと新宿信濃子がお金を半々出し合って(紅川さんは自宅マンションを売却して資金を作った)、ここに土地を買い、住宅と離れの練習室を建てたのが発端である。当時は母屋も離れも安価なユニット住宅で、離れは練習室のみ。この練習室には紅川さんが日曜大工!で吸音板を貼り付けたが、これが意外に遮音性がよく、夜中にピアノを弾いても周辺から苦情は来なかった。当時離れには寝室は無く、信濃子と陸奥子は紅川一家と一緒に母屋の2階(紅川自身も含めて男子禁制)で寝泊まりしていた。
 
2000年に看板スター新宿信濃子(当時28歳)の1年以上に及ぶ長期入院があり、同プロは経営危機に陥るが、起死回生を狙って実施したフレッシュガール・コンテストの優勝者・立川ピアノがカリスマ的な人気を得て、同プロは盛り返す。
 
信濃子が入院中なので取り敢えずピアノには信濃子の部屋を使ってもらったものの、信濃子が退院した時帰る部屋がないとまずい。また、紅川の長男・開治が中学生になり、年頃の男の子がいる家に若い女の子たちを同居させるのに紅川は問題を感じた。
 
紅川は“当時存在した”第二地銀から4億円の融資を受けることに成功(立川ピアノが好調なことから貸してくれたが、実は4億の担保になるようなものが存在しなかったので普通なら貸してくれない)し、これで新しい鉄骨構造の“研修所”を当時の練習室の前面側に建てた。これが今使用しているものである。
 
複数の楽器・歌唱練習室、CD・ビデオライブラリ、ダンス練習室(兼講義室)、お風呂、洗面所、などを装備し、居室は(防犯のため2階に)10個作った。しかしこの建築費は立川ピアノの稼ぎで2年で完済できた(その2年間に返済先の“銀行”は、めまぐるしく変わった!)。信濃子も翌年には無事退院して新しい寮に戻ってくることができて、立川ピアノと並ぶ§§プロの2枚看板として活躍することになる。
 
それで現在の研修所と母屋を結ぶ渡り廊下(これも紅川さんの日曜大工!厳密に言うと?違法建築)は斜めに走っているのである。
 
なおここは土地・建物ともに元々は紅川と信濃子の共有だったが、信濃子が引退して結婚し、田園調布に夫と共同で家を建てることになった時、紅川に自分の所有分の買い取りを打診し、紅川も快諾して買い取ったので、現在は100%紅川の所有になっている。また、母屋は2004年にこちらも鉄骨構造で建て替えた。
 
最初に建てた練習室の方はその後更地にしていたのだが、この場所に新しい寮を建てることにしたのである。
 

8月9日(日).
 
わざわざ東京で開かれたFIBA(国際バスケットボール連盟)の中央委員会で、日本の全面制裁解除が決定された。これで日本はアジア選手権(リオデジャネイロ五輪予選)に出場することができるようになった。
 
日本女子代表チームはまだニュージーランドで合宿中である。明後日帰国予定である。
 
なお、8月13-16日に日本国内で行われる壮行試合に出場する12名の選手名簿の中に千里の名前は無かった。それで千里は随分友人たちから「残念だったね」という気遣いの電話やメールを受けた。
 
しかし実はこれは、この壮行試合を長年日本代表を務めてきた三木エレンの引退試合にするためと、今回“秘密兵器”に近い位置づけになった、千里と鞠原江美子をあまり他国の偵察隊の前に曝さないようにするための作戦であった。
 
千里と江美子は11日には帰国せず、16日までニュージーランドで合宿を続け、17日成田に到着する便で帰国した。
 

2015年8月12日(水).
 
アクアの2枚目のシングル『ぼくのコーヒーカップ/貝殻売り』が発売された。記者会見には、アクアとコスモス社長、★★レコードの北川奏絵、それに作曲者のケイと東郷誠一さんが出席した。
 
『ぼくのコーヒーカップ』はマリ&ケイの作品、『貝殻売り』は加糖珈琲作詞・東郷誠一作曲である(ということになっている)。
 
実際には『ぼくのコーヒーカップ』はマリ&ケイ風に千里が冗談で!書いてみせた作品で、『貝殻売り』は加糖珈琲=葵照子の詩に醍醐春海(千里)が曲を付けた作品である。つまり実はこの2曲はどちらも千里の作品である。
 
デビューシングルの時は「おひな祭りのコスプレだよ」と言われて十二単(じゅうにひとえ)を着せられてしまったアクアだが、今回はイギリスのパブリックスクールの(男子)制服っぽいスーツで決めて登場。ゴールデンシックスをバックに発売する2曲をいづれもショートバージョンで演奏した。
 
演奏の後、コスモスからコンセプトの説明などがあったが、質疑応答になるとまたもや東郷誠一さんのお茶目な応答が記者たちの笑いを誘った。
 
「せっかくパブリックスクールの制服着るなら、女子制服にすればよかったのにね」
などと言って拍手をもらったりする。
 
今回も東郷先生が実は全く楽曲のことを知らなかったことがバレてしまうような応答もあったのだが、先生は開き直っている。
 
「今初めて歌詞を見たけど、貝殻売りって凄い意味深な歌詞だよね。でもアクアちゃんの貝殻は超高価だから誰も買えないね」
などと、放送する時に“ピー”で消された発言まであった。
 
(アクアは意味が分からず困惑したような顔をしていた)
 
ネットでは「初めて歌詞を見た」とはホントに正直な人だ、という書き込みが多数あった。
 
ケイは東郷先生の隣に座って、その暴走を抑えるのに、かなり苦労していたようであった。
 

8月17日、ニュージーランド合宿から帰国した千里はその日、和実が店長を務めているエヴォン銀座店で冬子と会った。ローズ+リリーの制作やアクアの件でも少し話があったのだが、京平のことにも話題が及んだ。
 
京平は体外受精であること。貴司は自分で射精できないので、千里が射精させてあげたこと。卵子は阿部子と同じAB型の女性から借りたことも語ったのだが、冬子はズバリ訊いた。
 
「その卵子も千里のなんでしょ?」
 
実は8月3日に冬子は貴司と偶然遭遇して少し話していて、卵子提供者について千里が仲介したこと、提供者本人の希望で名も明かさないし、自分たちとも会わないということだったことを話した上で、実際には千里が提供してくれたのだと思うと貴司が語っていたのである。
 
ちょうどその時、和実が手が空いたようで、コーヒーとオムレツを持ってふたりの席に来て座った。千里は和実の顔を見て、意味ありげに微笑むと言った。
 
「私、採卵台に寝たよ。部分麻酔打たれて、それでヴァギナから採卵用の針を刺すんだよ。麻酔打たれているのにこれが痛いんだ。あの痛さって様々な医療行為の痛みの中でも超横綱級って言うね。それもなかなかうまく行かなくて、何度もリトライした。でも最終的に採卵針の中には確かに卵子が入っていた」
 
和実が真剣な顔で千里を見ている。
 
千里は和実に言った。
 
「私でさえ採卵できるんだから、和実ならもっと確実に採卵できるよ」
 

千里は帰国したのも束の間、その日の夕方からNTCで日本代表の合宿に入ったのだが、8月24日には男子の日本代表の合宿で貴司が同じNTCにやってきた。
 
夕食の席で貴司は千里や玲央美たちのテーブルにやってくる。
 
「何か用事?」
「実は阿倍子が『分からない!』と言って音を上げてしまって」
「何が?」
「予防接種のスケジュール」
「あぁ!」
 
赤ちゃんの予防接種はひじょうにたくさんの種類がある。何週目までに受けなければならないというものがある一方、何週目以降でなければならないというのもある。これを受ける前にこれを受けておかなければならないというのもある。数回に分けて接種しなければならないものが多い。そして1度接種したら、その後一定期間空けなければならないものもある。
 
これをきちんと計画し、接種のスケジュールを組むのは、高度なパズルを解く問題に等しい。多くのお母さんたちが悩み、結果的に「あれを受けてない!」というのが出てしまうのも、よくあることである。
 
「でも28日で2ヶ月だよ。まずはロタとかヒブとか受けなきゃ」
「ロ・・・?」
「貴司何も勉強してないの〜?」
「ごめーん。僕は説明のパンフレット見ただけで頭が爆発した」
 
千里はその貴司が読んで分からなくなったというパンフレットを読む。そして言った。
 
「とりあえず28日はロタ、ヒブ、肺炎球菌、B型肝炎、この4つを同時接種したほうがいい」
と千里がメモに書きながら説明する。
 
「その後は、私ももう少し考えて、スケジュール表を作ってあげるよ」
「助かる」
と言って、貴司は千里が書いたメモをそのまま手帳にしまおうとする。
 
「私の字で書かれたメモを阿部子さんが見てもいいのかな〜?」
「あ、そうか!」
と言って、貴司は慌ててそれを自分で書き直していた。
 

「細川さん、おたくの会社のチームはどうなってるんですか?」
と玲央美が訊いた。
 
「悲惨です」
と言って、彼は状況を説明した。
 
貴司の会社は2006年に双日出身の丸正義邦(当時42)が社長に就任してから急速に成長し、バスケット部にも関東の大学で監督をしていたことのある船越涼太を監督として招聘し、どんどん強い選手を加入させて、3部から2部、1部と昇格していき、2012-13年の大阪リーグ戦では初優勝を成し遂げた。
 
しかし昨年夏、会社の急成長を主導した義邦社長が病気で倒れ、意識不明の状態が続いている。会社は叔父の丸正昌二副社長が経営を指揮しているものの大口の受注を逃し、顧客を怒らせて取引を切られ、下請けと揉めて結果的に納期遅れなども起こし、業績を急降下させた。それで12月には給料の遅配まで起こしてしまった。その後も給料はいつ出るのか不安定な状態が続いている。実は夏のボーナスはまだ支給されていない。本当に出るのかも分からない。
 
義邦社長の時代は全社がひとつにまとまっていたのに、昌二副社長が指揮するようになってから昔からの社員、義邦社長の時代に入社した社員、同社が吸収した他社出身の社員などの間に派閥争いが起きるようになり、指揮系統が混乱し、業務が滞るようになった。バスケ部を支えていた高倉部長も3月いっぱいで退職。有力選手が数人3月いっぱいで辞めて新リーグ移行予定のプロチームに移った。現在戦力はガタガタで、正直もうすぐ始まる今シーズンはどんな成績になるか全く読めない。
 
「細川さん、もうそこ辞めたら?何なら私がどこか適当なチーム紹介しますよ。私けっこう男子にもコネあるし」
と玲央美は言う。
 
「レオちゃん、男子チームにも勧誘されてたもんね」
「男子リーグでも活躍できるよとは言われた。ちょっと性転換すればいいじゃんとか」
「まあ貴司が性転換して女子リーグに行く手もある」
「ああ、それでもいいね」
「性転換は勘弁して」
 
「私ももうそこ辞めなよと数年前から言っているんだけどね」
と千里は言っている。
 
「しかしあれだけ人が辞めたら、僕まで辞めたら悪いみたいで」
と貴司。
 
「そんなチームのこと心配する前に自分のことを心配したほうがいいです。細川さんが路頭に迷ったら、奥さんや生まれたばかりの京平君はどうなるんです?今のままだときっと経済的にも困ったことになっていくと思いますよ」
と玲央美。
 
「私も全く同じ意見なんだけどね」
と千里も言った。
 

8月上旬、アクア、西湖、品川ありさ、コスモスがΛΛテレビから呼び出された。
 
小池プロデューサーと『ねらわれた学園』の河村監督がいる。
 
「実は高見沢みちるを演じることになっていた、榊森メミカさんなのですが」
と小池プロデューサーが話し始めた。
 
「もしかしてご病気か何かですか?」
とコスモスが尋ねた。
 
「それが実は声変わりが来てしまって、今男みたいな声しか出ない状況で」
 
「は!?」
 
「あのぉ、もしかして榊森さんって、男の子だったんですか?」
「僕も知らなかったけど、そうらしいんだよ」
「全然男の子には見えないのに!」
 
「今回は高見沢みちるはやはり長身の美女だよなと思って、174cmの榊森さんをアサインしたのですが。実は初回の出演者顔合わせをした6月の時、前日に唐突に声変わりが来てしまったらしいのです」
 
「それで欠席した訳ですか・・・」
 
「今ボイトレに通って女声が出るように練習しているらしいのですが、なかなかうまい具合に出ないらしくて」
 
「あれは元々の声質で女声の出やすい人と出にくい人があるらしいです」
と西湖が女声で言うと
 
「お、君はふつうに女の子に聞こえる声が出るようになったね」
と監督から褒められた。
 
「頑張りました!」
と西湖も笑顔で答える。
 
「それで私が呼び出された訳ですか」
と品川ありさが言う。
 
品川ありさは176cmである。174cmの榊森メミカの代役としては充分である。
 
「ところが電話でも申し上げましたように、困ったことに、品川はFHテレビさんで1月放送開始のドラマにヒロイン役が決まっているんですよ。主演は五条天人さんで、彼が198cmの身長があるので、背の低い女優さんでは2人の顔が同時にカメラに収まらなくて」
 
とコスモスが本当に困ったような顔で言う。
 
「なるほど!それは背の高い女性にしか務まらない!」
 
「芸能界に入る前はこの身長がコンプレックスだったんですけど、高身長の女の需要って結構あるもんだと認識しました。今回はハイヒール履いての演技で。自分がハイヒール履く場面なんて考えたこともなかったです」
とありさは言う。
 
「念のため訊きますけど、掛け持ちは無理ですよね?」
「さすがにドラマの主役級2本の掛け持ちは無理です」
とコスモスが言う。
 

「なかなか身長のある女子中高生で、演技力のある人というのがいなくてですね」
と小池は言う。
 
「高見沢みちるは大根役者には務まらないからね」
と監督。
 
「あれは主役以上に演技力が要求されるかも」
とアクア。
 
「そういう訳で品川さんも使えないとしたら、どうしようか?というので話しあっていたのですが、単刀直入に。アクア君に高見沢みちるをやってもらえませんか?」
 
と小池プロデューサーは言った。
 
「え〜〜〜!?」
とアクアが声をあげる。
 
「それって、関耕児と1人2役ということですか?」
とコスモスが確認する。
 
「そうです、そうです」
「そして、実はその1人2役を前半では隠していこうと思いついたんですよ」
「隠す?」
 
「高見沢みちるは後ろ姿だけ。顔を撮さない」
「へー!」
 
「この物語のクライマックスとなる学級会議での、関vs高見沢の名シーンがありますよね。そこで初公開。それまでは伏せておく」
 
「でも顔を撮さなくても声で分かるのでは?」
「ボイスチェンジャーを使おうかと」
「あぁ」
 
それでボイスチェンジャーの機械をプロデューサーが取り出す。
 
「アクア君、このマイクからこのセリフを読んでみて」
と小池が言う。アクアが台本のラインを引かれたセリフを読む。
 
「これは以後こんなことはしないようにと注意し、いわれたほうも、わかったといえばすむ程度の問題なんだ」
 
アクアの声が男声に変換されて響く。
 
「凄い」
と西湖が声をあげる。
 
小池さんが機械の設定を変えているようである。
 
「今度はこのセリフを読んでみて」
 
「このクラスが、学校全体に対して反逆したのは、よくわかりました。みんな、あとで泣きごとをいわないように」
 
アクアの声は柔らかいアルトボイスに変換されて響く。女声ではあってもアクアの地声とはかなり雰囲気が違う。
 
「これで関耕児と高見沢みちるの2役をやろうという訳ですか」
 
「そして主題歌を品川ありささんに歌ってもらいたいのですが、それは向こうのドラマの方の契約には反しませんか?」
と小池が訊く。
 
「ミスリードのためですか」
 
「実はそうなんです。10月に放送開始ですが、アクア君が高見沢みちるを演じている所は、ごく少数の役者さん以外には見せない。それで何とかクラス会での対決が放送されるまで情報を抑えておきたいんです」
 
「高見沢みちる役について多くの生徒役の役者さんたちは榊森さんだと思っている。でも撮影現場に本人が姿を見せないから疑問に思う人も出てくる。それで品川ありささんが主題歌を歌っているのに役が当てられていない。だったら、高見沢みちるは実は品川ありささんなのではと思う人たちが出る」
 
「でも実はアクアだと放送で初めてみんな知ることになる訳ですか」
とコスモスは言ってから、向こうのドラマの契約には反しないはずだが、念のため向こうにも話をしておくと言った。
 
「でもボクは身長が155cmしかないのですが」
「台に乗って演技したり、場合によっては高下駄を履いてもらって」
 
「あ、それでもしかして今日は私も呼ばれたんですか?」
と西湖。
 
「そうそう。アクア君が関と高見沢の2役をする場合、本格的にボディダブルが必要になる」
 
「天月は女生徒役も割り当てられているのですが」
とコスモスが訊く。
 
「それもやってもらう。女生徒3番だね。だから天月さんは1人3役かも」
「頑張ります!」
 
それで『ねらわれた学園』はアクアが1人2役することを秘匿したまま撮影に突入することになったのである。
 

翌週には、メインの配役を集めて
 
「一人二役が行われるが、このことは外にはもちろん、共演している他の役者さんにも言わないようにしてほしい」
 
と要請された。この時集まったのは、こういうメンツであった。
 
元原マミ(楠本和美役)、鈴本信彦(吉田一郎役)、松田理史(荻野誠二役)、横川れさと(西沢響子役)、馬仲敦美(青山玲子役)、大林亮平(京極役)、そしてアクア(関耕児・高見沢みちる役)と西湖(ボディダブル及び女生徒3役)である。
 
「特に元原さん(楠本和美)、横川さん(西沢響子)、大林さん(京極)は高見沢みちるとの絡みが多いので結果的に毎回2度撮りすることになって大変だと思いますが、よろしくお願いします」
 
大林から声でバレるのではという問題が指摘されたので、例によってボイスチェンジャーを出してアクアに男女2つの声を出してもらう。
 
「すごーい」
という声があがるが
 
「いや、これはアクア君だからできることだと思う。機械で周波数とかは変えることができるけど、話し方までは変えられない。アクア君はちゃんと男の子の話し方、女の子の話し方を切り替えている」
と大林が指摘する。
 
「そうそう。それができるからアクア君にこれをお願いしたんだよ」
と監督は言った。
 
「僕がやったら絶対女の声に聞こえないから」
と大林が言うので
「やってみよう」
と監督から言われる。
 
それで大林が頭を掻きながらボイスチェンジャーを通して高見沢みちるのセリフを発音してみたが
 
「ハイトーンの男性にしか聞こえない」
と驚きの声があがった。
 
「自分でしゃべってて、オカマみたいだと思った」
と本人も恥ずかしがりながら言っていた。
 

8月16日(日)博多海浜公園.
 
この日のこの会場は元々アクアのツアー用に押さえていたのだが、キャンセル料を払うのももったいないので、利用しようということになり、高崎ひろか・品川ありさのダブルコンサートを実施した。
 
イベントは冒頭2人が登場して“3番勝負”をした。
 
1回戦の懸垂対決はスポーツ少女・品川ありさの圧勝である。
2回戦のオセロ対決は高崎ひろかの勝ち。
3回戦のクイズ対決は3勝2敗で高崎ひろかの勝ち。
 
ということで、ひろかが後半を取ったので、前半の1時間は品川ありさ、後半の1時間は高崎ひろかが歌った。
 
このライブでは、いわゆる“最前管理”行為(前列の方に陣取り、お目当ての歌手以外の時間はスマホなどをいじっている行為)を防止するため、最前列ブロックは品川ありさと高崎ひろかで入れ替え制(抽選。料金+500円)にしている。それで冒頭の3番勝負の後、および前半と後半の間に、観客の大移動が行われた。
 
(3番勝負の時間帯の分は希望者に先着順で無料の先頭ブロック指定券を渡した)
 

8月17日(月)福岡市・博多ドーム。
 
アクアの初めての全国ツアーが始まった。
 
ドラマの撮影は『ときめき病院物語』は大詰めの段階。本来は週1回の撮影が現在週2回にしてラスト付近を撮影している。夏の特集番組でスポット出演の番組も多い。コスモスは、全国20ヶ所みたいなツアーにしなくてよかったと思っていた。それではアクアが倒れてしまう。
 
今回のツアーでは、これまでの経緯もあり、ゴールデンシックスが伴奏を務めてくれる。楽曲については、約2時間以上に及ぶライブなので、ここまで出した2枚のシングルの曲に加えて、秋に出す予定のアルバムの曲も一部使用することにした。アレンジが固まっておらず、リリースするバージョンと大幅に雰囲気が変わる曲もあり得るのだが。
 
幕間のゲストは、§§プロの歌手が日替わりで務めた。
 
8.17 福岡 桜野みちる
8.22 札幌 海浜ひまわり
8.23 大阪 秋風コスモス
8.29 愛知 川崎ゆりこ
8.30 東京 高崎ひろか
8.31 東京 品川ありさ
 
札幌に海浜ひまわりが登場したのには観客も驚いたし、その後ネットでもかなり騒がれていた。
 
「引退したはずなのに、出しゃばってすみません。実はアクアの公演は最初5公演の予定だったのが、あまりのチケット申し込みの多さに1公演追加されてしまいまして、それで§§プロの現役歌手が1回ずつちょうど5人登場するはずだったのが、1公演足りなくなってしまったので、あんた歌ってと言われまして」
 
とひまわりが、少し恥ずかしそうに言うと、観客が物凄い拍手を送ってくれた。
 
「今はフリースクールに通いながら、日野ソナタさんの弟子にしてもらって、作詞の勉強をしています。その内、私が書いた詩を誰かが歌ってくれたらいいなと夢見ています」
と言うと、「頑張ってねー」という声がする。ひまわりが声の来た方へお辞儀をする。
 
「私現役時代のライブツアーでは、一度も北海道に来ることができなかったので、そのお詫びも兼ねて」
と言って彼女は現役時代の最大のヒット曲『私は恋する人形』を熱唱した。
 

今回のセットリストは、公演ごとに微妙に順序を変えたり、一部楽曲を差し替えているのだが、最終の8月31日東京公演ではこのようになっていた。
 
前半
『ぼくのコーヒーカップ』最新シングル
『恋人たちの海』デビュービデオから
『白い情熱』デビューシングル
『朝食ラーメン娘』アルバム収録予定曲
『翼があったら』アルバム収録予定曲
『憧れのピーチガール』アルバム収録予定曲
『ウォータープルーフ』アルバム収録予定曲
『貝殻売り』最新シングルc/w
『テレパシー恋争』“ねらわれた学園”挿入曲
 
後半
『新宿港町』(新宿信濃子)
『衣川館炎上』(上野陸奥子)
『ピアノ』(立川ピアノ)
『恋するフルート』(大宮どれみ)
『いちごの想い』(日野ソナタ)
『キス・オン・ウォーター』(春風アルト)
『オペラ座の少女』(冬風オペラ)
『満月の伝説』(満月さやか)
『秋桜物語』(秋風コスモス)
『白い通学バス(川崎ゆりこ)
『nurses run』デビューシングル
 
アンコール
『琥珀色の侵襲』(小野寺イルザ)オーディション本番で歌った曲
『白い情熱』(再)デビュー曲
 
後半の構成をどうするかはかなり議論したのだが、結局§§プロのこれまでの歌手のヒット曲を並べた。アクアは演歌系の『新宿港町』にはじまり、本格派系の『ピアノ』、ラテン風の『キス・オン・ウォーター』、純アイドル歌謡の『いちごの想い』など、様々な曲をちゃんとその原曲のテイスト通りに歌って観客を魅了し、歌唱力の高さを見せ付けた。
 
『ピアノ』の伴奏のピアノパートは超絶難曲なので、ここは花野子にもとても弾けず、ちょうど帰国していた水野麻里愛にツアーに付き合ってもらい弾いてもらった。つまりこの曲だけ7人で演奏している。
 
『恋するフルート』の間奏のフルートはアクア自身が吹いた。『オペラ座の少女』にフィーチャーされているヴァイオリン・ソロもアクアが弾いた。
 

「でもなんか楽曲が全部女の子の立場の歌詞のものばかりなんですが」
とアクアは言った。
 
川崎ゆりこの『白い通学バス』の歌詞は震災イベントの時は「彼に私の純情を捧げたい」となっている所を、男の子のアクアが歌うからといって「彼女に僕の気持ちを捧げたい」などと改変していたのだが、その後、作詞者からクレームが入ったこともあり(*3)、今回は原詩通り歌うことにした。それで全歌詞が女の子が歌うような歌詞になっている。
 
「アクアのファンは女の子が多いから、その子たちが愛唱するのによいよ」
と川崎ゆりこなどは言っている。
 
「うーん・・・」
 
「まあそもそもアクアちゃん自身が実は女の子ではないのかという疑惑もあるし」
と今回コーラス隊(実はボディガード兼任)で入っているハナちゃん。
 
「うーん・・・・・」
 
(*3)事前連絡して承認を得るつもりだったが、作業が漏れていた。コスモスと紅川がレミー・マルタンを持って謝罪に行ったが、アクアちゃんにはぜひセーラー服を着て歌ってもらおう、というのを断るのに苦労した。
 

8月20日は龍虎の14歳の誕生日だった。§§プロではタレントのプライベートとパブリックを分けて考えるので、ファンを招いての誕生パーティーみたいなことをする制度はない。その代わりその日は原則としてお仕事はお休みにしてくれる(この年は休めた!)。ただし龍虎は18日に福岡公演から東京に戻った直後、またまた倉庫に連れて行かれて、プレゼントの山を見せられた。
 
「えっと、いつものようにお願いします」
「OKOK」
 
バレンタインの時は一時的に倉庫を借りたのだが、ここはもうアクア専用のプレゼント置き場になっている。ケーキなどは日持ちしないので受け取って検査を通ったものは即福祉施設などに配っている。プレゼント処理担当は常時5人だが、誕生日ということで20人に増員している。
 
龍虎がプレゼントの中の段ボール2個とケーキの箱1つを持って自宅まで小野さんの運転する車(白いアクア)で送ってもらったら、自宅には彩佳・宏恵・桐絵の3人、それに川南と夏恋まで来ていた。
 
「なんか大きなケーキがある。ボク、ファンの人からのプレゼントのケーキ1個持って来たのに」
「食べちゃう食べちゃう」
 
それで川南・夏恋・千里の3人でお金を出し合って買ってきたというケーキにローソクを14本立てて火をつけ、一気に吹き消して「ハッピーバースデー」を言ってもらい、その日は両親も一緒に楽しく夜を過ごした。
 

この日は西湖の13歳の誕生日でもある。西湖は沢村さんから、アクアに来たプレゼントが大量にあるから少し持って行きなよと言われ、半生菓子の段ボールをひとつ、お洋服の段ボールを3つ、それにバースデーケーキの箱を1つもらって鱒渕さんの運転する車(水色のミラココア)で桶川市の自宅まで送ってもらった。
 
「あれ?お母さんとかは?」
「公演中だから、父も母も7月の頭から全く帰宅してないです。9月いっぱいまでずっと劇団事務所に詰めていると思います」
「だったら、御飯は?」
「自分で作りますよ」
「だったら、今日は私が作ってあげるよ」
「いいんですか!?」
「お誕生日だもんね」
「わぁ」
 
鱒渕は川崎ゆりこに電話して西湖と一緒に夕食を取ると連絡した上で、一緒に近くのスーパーまで買物に出かけた。
 
それで鶏モモ肉、日清の唐揚げ粉(*3)、日清のキャノーラ油(*3)を買って帰り、鶏の唐揚げを500gほど揚げた。
 
「西湖ちゃん、ハッピーバースデー」
「ありがとうございます」
 
西湖が涙を流しているので
「どうしたの?」
と訊いた。
 
「僕、誕生日なんて祝ってもらったの初めて」
「あんた、なんか苦労してるみたいね!」
 
(*3)日清の唐揚げ粉は日清製粉、日清のキャノーラ油は日清オイリオ。ほかに日清のカップヌードルは日清食品。この3社は同じ「日清」の名前が付いているが、お互いに無関係の会社である。明治とか昭和とかが付いた会社や学校などがたくさんあるのと同じ。上皇后・美智子陛下は日清製粉の創業家の出身であり(よく「粉屋の娘」と呼ばれる)、美智子陛下がチキンラーメンの試食をしていた訳ではない(それは日清食品)。この3社はよく混同されている。
 

8月24日(月). 『ときめき病院物語』の撮影がクランクアップ。翌25日からは『ねらわれた学園』の撮影がクランクインした。
 
「そういえばクランクイン・クランクアップというのは和製英語なんだよね」
とどちらにも出演する倉橋礼次郎さんが言っていた。
 
「そうなんですか?英語では何ていうんですか?」
と馬仲敦美が尋ねる
 
「クランクアップのことは wrap up (ラップ・アップ)という」
「へー! フィルムを巻き終えるのかな?」
「かもね。クランクインというのは特に決まった表現はない。普通に start shootingとかいう」
 
「出た!不規則動詞!」
と大林亮平が言った。
 
「そうそう。撃つとか撮影するという意味の shoot(シュート)は、過去形・過去分詞は shot (ショット)。shotは「撃たれた」とか「撮された」という意味になる」
と倉橋さんも楽しそうに解説していた。
 

8月25日の『ねらわれた学園』の撮影は午後いちばんからの予定だった。ところが西湖とコスモスの2人が朝いちばんに放送局に呼び出された。
 
疲れた表情の小池プロデューサーと河村監督がいる。他に青山玲子役の馬仲敦美も呼び出されたようで事務所の副社長と一緒に来ている。
 
「実は、西沢響子役の横川れさとさんなのですが」
「どうかなさったんですか?」
「昨夜テレビ局からの帰宅途中に暴漢に襲われまして」
 
「え〜〜〜!?」
 
「エレベータ内に倒れているのを同じマンションに住む人が夜食を買いに行こうとして出たところで発見して119番しまして、病院に運ばれましたが全治6ヶ月の重傷です」
 
「助かったのなら良かった!」
とみんな声をあげる。
 
「まだニュースとかには流れていませんね」
「ずっと意識不明で身元がハッキリしなかったんですよ。バッグとかも持っていなくて」
「もしバッグが奪われたのなら強盗ですか?」
 
「その可能性もあるそうです。今朝やっと意識を回復しまして、それで両親は広島なので、今こちらに向かっていますが、事務所にも連絡が行って、そちらが先に病院に駆けつけたのですが、事務所からこちらに連絡があったのが1時間前でして。たぶんお昼までには速報で流れます」
 
「もしかして配役変更ですか?」
とコスモスが言った。
 
「そうです。横川さんの事務所に、ねらわれた学園で彼女の代役ができる人がいないか照会したのですが、中高生の女優さんで今空いている人がいないらしくて。10月になれば横川さんとも仲の良い白島もれあさんが空くらしいのですが、そこまで西沢響子抜きで撮影するのは困難なので」
 
「撮影は今日から始めなければいけないんです。実は『ときめき病院物語』の撮影がずれこんでしまったので、撮影開始が半月遅れていて、時間的な余裕がないのですよ」
 
「それで申し訳無いのですが、馬仲さん、青山玲子ではなく西沢響子をやってもらえませんか?」
 
馬仲は事務所の副社長と顔を見合わせたが、すぐに返事をした。
 
「やります。よろしくお願いします」
 
「よかった。それで馬仲さんがやるはずだった青山玲子ですが、天月さんにやってもらえませんか?」
 
「私はやりたいです」
と西湖は答えてから尋ねた。
 
「でもいいんですか?私は女子生徒3番の役で、序列的には1番の方、2番の方のほうが優先権がある気がするのですが」
 
「1番・2番はいづれも今日の撮影では出番が無い予定だったので、掛け持ちしている他の仕事で、2人とも東京に居ないらしいのです。それで3番の天月さんの予定を事務所に問い合わせたら、今日は東京におられるということでしたので」
 
実は西湖も今日は出番が無い予定だった。今日の撮影ではセリフのある女生徒役は無かったので、むしろセリフのない生徒役の役者さんを教室のセットに並べる予定だったのである。しかし西湖はアクアのライブに関する打合せでたまたま朝から事務所に出てきていた。
 
西湖は更にコスモスに尋ねる。
 
「うちの米本は?」
 
米本愛心もこの『ねらわれた学園』の女生徒役である。セリフがないので、“女生徒3”みたいな番号さえ付いていない。
 
「あの子は元々歌手志向で演技はあまり訓練受けてないし、青山玲子みたいにたくさんセリフのある役は無理だと思う」
とコスモスは言った。
 
それで西湖はしっかりと小池プロデューサーを見て言った。
 
「ぜひやらせて下さい。よろしくお願いします」
 
「うん、頼む」
 
それで撮影開始の数時間前になって、西沢響子役は馬仲敦美、青山玲子役は西湖に変更されたのであった。
 
2人とも急いで台本で自分の台詞を確認していた。
 
コスモスは「役名のある役をするなら西湖ちゃんにも芸名つけてあげなきゃ」と言っていた。
 

なお、馬仲と西湖、それにアクアや大林亮平などが翌日午前中に横川の入院している病院にお見舞いに行ったが、元気そうなので全員ホッとした。彼女は最初全治6ヶ月と言われたらしいが、驚異的な回復力で2ヶ月で退院し、実は『ねらわれた学園』でパトロール委員の副委員長役で仕事に復帰した!
 
犯人はエレベータのモニターカメラの録画映像から特定され逮捕されたが、横川に憧れて、マンション付近をうろうろしていた時に偶然見掛けて襲ったものらしい。騒がれたので持っていたナイフで刺したのだという。横川はゴミを出しに出ていたもので、バッグを奪ったりしたような事実はなかった。犯人は殺人未遂で起訴され懲役3年の刑に服した。拘置所内と刑務所内から横川に謝罪の手紙を書いた。本当に反省しているようだったので、横川はお返事を出してもいいかなと思ったらしいが、事務所の社長が、そんなの出したら受け入れられたと思い、また付け狙われると言って止めた。
 

8月26日(水).
 
千里たち女子日本代表の一行はアジア選手権(リオデジャネイロ五輪予選)が行われる中国の武漢(ウーハン)に渡航した。
 
アジア選手権は1部リーグ、2部リーグに別れており、1部リーグで優勝すればリオデジャネイロ五輪に出場できる。3位以上なら世界最終予選に出場する。1部リーグの下位と2部リーグの上位は入れ替え戦があり、2年後のアジア選手権に反映される。今回1部リーグで五輪切符を賭けて戦うのは次の6ヶ国である。
 
(前回順位) 1.日本 2.韓国 3.中国 4.台湾 5.インド(1部残留) 7.タイ(2部から昇格)
 
大会初日の8月29日日本は韓国と対戦する。接戦になったが、59-53で勝利する。30日のインド戦、31日の台湾戦は快勝して、9月1日、最大のライバルである中国と対戦した。
 
中国代表にはグラナダ・レオパルダのチームメイト・シンユウも入っていた。試合前あかるーく手を振り合ってから始める。前半、金子良美・玲央美などの近接攻撃、千里や花園亜津子の遠隔射撃と使い分けて中国を翻弄し、6点差を付けるが中国は強い。後半建て直してきて、千里を知り尽くしているシンユウがファウル覚悟で千里のスリーを防ぐ。千里が半分くらい止められているので一時亜津子が出て行ったが、シンユウに完全封鎖されて、結局千里に換えられる。シンユウが防御で頑張っている間に中国が誇る190cmコンビが良美や玲央美を凌駕して点を取る。いったんは中国が突き放す。
 
この試合は欧米レベルだ、と漏らしていた人もいた。
 
しかし第4クォーター途中で向こうのエースが5ファウルで退場になってしまい、勢力のバランスが崩れる。日本が追いつき、1点差のシーソーゲームから残り1分で同点の場面、シンユウが自ら2点を入れ、なおもバスケットカウントワンスローだったが、このフリースローをシンユウは外してしまう。彼女は頭を抱えて座り込んでしまった。そして、その後、妙子のシュートは外れたものの、玲央美のスティールから亜津子がスリーを放り込み、1点差で日本が辛勝した。
 
日本は2日のタイ戦にも快勝して予選リーグ1位で決勝トーナメントに進出した。
 

9月3日は休養日だったが、日本代表チームは朝から晩までずっと練習していた。
 
4日準決勝の台湾戦は快勝する。
 
そして韓国に快勝した中国と、9月5日再び対戦する。
 
この大会で獲得できる五輪切符は1枚なので、勝たなければ五輪は確定しない。
 
当然激しい戦いになるものと予想された。
 
ところが・・・中国選手が全体的に調子が悪かった。190cmコンビが2人ともゴールが入らない。シンユウも疲れているような顔をして冴えが無かった。序盤から日本が大量リードする。
 
前の中国戦で完全に抑えられてしまった亜津子もこの試合ではたくさんスリーを放り込み(この結果この大会のスリーポイント女王は亜津子が取った)、まさかの85-50という大差で日本が勝った。
 
これで日本女子はリオデジャネイロ五輪の切符を獲得した。団体競技の中では最も早い五輪確定であった。
 
中国(と3位決定戦に勝った韓国)は世界最終予選に出る。
 
シンユウに後で電話してみたら「前夜の練習を頑張りすぎたかも」などと言っていた!
 

「千里、中国のあのガードフォワードと日本語で話してたね」
と江美子が言う。
 
「彼女は福岡県で育ったんだよ。インターハイにも出てるよ」
「嘘!?」
 
「日本代表にならないかと勧誘されたこともあったらしいけど、より強いチームで頑張りたいと言って、なれるかどうか確率は低かったけど、中国代表を目指す道を選んだんだよ」
 
「いや、その選択は正しいと思う。より厳しい環境に自分を置くべき」
と玲央美は言った。
 
その言葉を聞いて亜津子が考えるようにしていた。
 
「あの子、“おっとっと、とっとってっていっとったとぉに、なんでおっとっととっとってくれなかったとぉっていっとったとぉ”を美しく発音できる」
 
「・・・」
「どうかした?」
「今の千里の発音は少しおかしかった」
「私は博多弁分からないし」
 

千里たち日本代表は9月6日に帰国。あちこちに優勝と五輪切符獲得の報告で回り、7日夕方に解放された。川淵会長もかなり強引な形で改革を進めているところで、このような立派な結果が出てほんとうにホッとしているようだった。
 
アジア選手権の終了で今年の女子日本代表の活動は終了したのだが、千里はこの時期にいくつかの事務的?な処理を進めた。
 
まずバスケット協会の方から、ジョイフルゴールド、ローキューツ、40 minutesの3チームにプロ化の打診があった。この3チームは関東で圧倒的に強い。それで3者とも各々運営会社を設立して数年後のプロ化を目指すことになった。雪子などはその話を聞いて、さっさと仕事先をやめてしまったので、会社が設立されるまでの期間、曖昧な強化費?を毎月渡すことにした。
 
40 minutesのキャプテンは秋葉夕子だったのだが、彼女が子供を産みたいのでキャプテンを辞任するから、千里に次のキャプテンをしてくれないかと言った。それで千里はキャプテンなんてやりたくいので逃げ出すことにした。
 
この春以降、Wリーグのレッドインパルスの練習にも参加していて、来年の4月以降正式加入しないかと誘われていたのをいいことに、そちらに加入することにして、40 minutesはやめさせてもらうことにしたのである。ただし40 minutesのオーナーとしては残ることになる。それで40 minutesのキャプテンは竹宮星乃が継承することになった。
 

アクアは8月31日でツアーを終えると、9月1日(火)から初めてのアルバムの制作に取りかかった。
 
このアルバムからアクアの伴奏はエレメントガードに交替した。これまで龍虎との個人的なつながりもあってゴールデンシックスが担当してくれていたのだが、アクアの音楽活動が今後活発化することが予想される中で、ゴールデンシックスも忙しいので、負荷の問題で新しいバンドを作ることになったのである。
 
龍虎は・・・これでスタジオに入る度に女装させられなくて済む!と思った。
 
これまでアクアのファンクラブ会報編集をしていたヤコとエミは、元々サイドライトというバンドをしていた仲間なので、この2人を中心に、エミの知り合いのバンドガールで、ハルという子を引き込んで彼女にキーボードを弾いてもらう。ヤコがギターでエミがベースである。この時点ではドラマーが居なかったので適当な人を探すことにしたが、取り敢えず、桜野みちるの妹の女子大生が赤羽ドラゴンというアマチュアバンドでドラムスを打っているということで、ヤコがわざわざ赤羽ドラゴンのライブに出かけて演奏技術を確認した上で勧誘した。
 
「もし可能だったら、うちに移籍しません?給料たぶん30万は出ますよ」
 
「いや、アクアのバックバンドなんかやったら、忙しすぎて大学やめるハメになる」
「だよね!」
 
それで彼女には取り敢えずアルバム制作中だけ頼むことにした。
 
「赤羽ドラゴンで“レイア”を名乗っているので、こちらでも同じ名前でいい?」
「はい、よろしく、レイア」
 
なお、ファンクラブの会報については、エミのゲーム仲間で40代のアマチュア小説家兼占いライター(タロットの達人らしい)の真田さんという(たぶん)女性と、以前イベンターの会報編集をしていてInDesignとIllustrator, Photoshopが使える水原という30代のママさんを沢村のコネで勧誘して入れた。
 
水原さんは2歳と4歳の子供が居て、保育所に預けて頑張りますと言っていたのだが、コスモス社長は「子連れで来るといいですよ」と言ったので、連れてきて事務所の一角で遊ばせたり昼寝させたりしながら編集作業をしていた。ここはおやつがたくさんあるので、食べ過ぎないように注意する必要があったが、結果的に夜遅くなっても保育所の時間とかを気にせず助かると言っていた。もっとも、彼女の夫はかなり放置されることになった!
 
 
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【娘たちのベイビー】(2)