【娘たちの始まり】(3)

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2014年6月19-22日に北見市で第67回北海道高等学校バスケットボール選手権大会が開かれ、旭川N高校は準優勝で2011年以来3年ぶりのインターハイ出場を決めた。
 
この大会で大活躍した1年生の福井英美は、リバウンド女王・得点女王を獲得してその存在感をアピールした。
 

6月16日(月).
 
貴司たちは6回目の体外受精をおこなった。今回は残っている3個の冷凍受精卵を全て解凍した。するとWHの1個だけが生きていたので、それを投入した。
 
今回も卵子採取・精液採取はおこなわれなかった。
 
貴司がまた「もう我慢できないよう」と情けない声で電話してきたので
 
「睾丸除去しちゃう?そしたら性欲も弱くなって、だいぶ過ごしやすくなると思うけど」
と言っておいた。
 
「それは嫌だよぉ」
「無い方が楽になるのに」
「まだ男やめたくないし」
「その内、男やめたいのかと思ってたけど」
「せめてあと30年くらいは男でいたい」
「睾丸無くなっても、私と結婚してくれるのなら、毎晩いじってあげるよ」
「・・・・」
 
「今一瞬迷った?」
「迷ってない、迷ってない」
 

6月10日から14日まで、17日から21日までは、男子代表候補の合宿がNTCで行われた。実は体外受精はこの合宿の合間を縫っておこなった。貴司たちは24日から7月1日までは韓国遠征もすることになっている。
 
貴司は短期間で合宿が連続するので、15-16日は体外受精の立ち会いのためいったん大阪に戻ったものの、22-23日は大阪には戻らないことにして、最初は都内のホテルに泊まろうかと思った。
 
しかし千里が
「常総で私と一緒に練習しない?」
と誘った。
 
「するする!」
と貴司は嬉しそうに答えた。
 
私と一緒に過ごせるのが嬉しいのか、バスケットができるのが嬉しいのかは微妙だなと千里は思った。
 

それで貴司が21日夕方に合宿を終えると、千里はインプレッサでNTCの選手村の前まで迎えに行った。本来は部外者は門の中に入れないのだが、千里はここには顔パスで入れてしまう。
 
ちょうど代表合宿をしている最中の女子代表の玲央美が見とがめて
 
「千里、こんな所で何してる?女子の合宿には参加しないの?」
と声を掛けてきた。
「召集されてないもんね〜。レオちゃんたち頑張ってね」
と答えておいた。
 
女子代表は下記の日程で合宿をしているが千里は召集されていない。
 
2014.06.05-15 日本女子代表Aチーム第1次合宿
2014.06.19-7.06 日本女子代表Aチーム第2次合宿
 
今年は女子は世界選手権とアジア競技大会の日程がぶつかるので2チーム編成しているが、千里は現在の強化部のスタッフには忘れられていることもあり、どちらにも参加していない。
 
千里はこの時期多くの協会関係者からは“行方不明”とみなされていて(協会からスペインに派遣されていて毎月支援費までもらっているのに!)この年の11月に篠原さんが千里と偶然遭遇するまで、日本代表から離れていた。
 
「今回、羽良口さんもきみちゃん(高梁王子)も召集されてないんだね」
「どうも国内にいる選手だけで組織しようということらしい」
「なんで〜?」
「協会自体が混乱の極致で、外部と交渉出来るような体制にない気がする」
「それは物凄く問題だな」
 
「千里は結局スペインのチームにまだいるんだよね?」
「うん。日本バスケ協会の強化部スタッフがごっそり入れ替わっていて、私の位置づけが曖昧になっているけど、身分的にはレオパルダの正式な選手」
 
と言って千里は4月に更新された選手証を玲央美に見せた。
 
実は3月で強化派遣は終了したはずなのに、その後も毎月協会からの送金が行われているのである。それを言うと、玲央美も
 
「日本バスケ協会はホントにもう組織としての体を為してない」
と怒ったような表情で言った。
 
「日本では登録無し?」
「登録したよ〜。40 minutesというクラブチームを作った。竹宮星乃とか、橋田桂華もいるよ〜」
「それは凄い。登録の都道府県は?」
「東京都」
「おぉ!」
「クラブと実業団だから、なかなか戦えないけどね」
「あ!もしかして東京都夏季選手権に出る?」
「うん。明日の試合には出るよ」
「私は出られない」
と玲央美。
 
「合宿頑張ってね。秋季選手権では対戦出来るかな」
 
「多分。だったら、秋季選手権を楽しみにしている」
 
それで玲央美とは握手した。
 

荷物をまとめてきた貴司を乗せ、腕を組んでいる玲央美に手を振り車を出す。そして常総ラボに行く。着いたらまず3時間練習する!
 
「千里また強くなってる。もう追い越されそう」
「貴司、日本女子代表から落ちないようにするには私には軽く勝てなきゃ」
「別に女子代表になりたくはないけど、男子代表に留まれるよう頑張る」
 
練習が終わった後は、シャワーを浴びてから、常総ラボの休憩室で布団を敷き、一緒に寝た。貴司は物凄く嬉しそうな顔をしていた。
 
「1cm開けで並んで寝ていいよね?」
「タッチ無しでね」
「もちろんもちろん」
 
とは言っているが、千里が先に眠ってしまったふりをしていると、千里の手を勝手にとって、快楽をむさぼっていた。翌朝、貴司がスッキリしたような顔をしているのを見て、千里は笑いをこらえていた。
 
「あ、そうそう。これ誕生日プレゼント」
と言って千里は包みを渡した。
 
「ありがとう!嬉しい!」
と言って開けているが困惑したような表情。
 
「これ何?」
「去勢ペンチ。これで睾丸を潰して去勢出来るんだよ。まあ家畜用だけどね」
「僕は家畜なの〜?」
「人間でも行けると思うけど。してあげようか?」
「嫌だ。それに潰されたら気絶する気がする」
 
「痛みは一瞬だよ。去勢したら貴司きっとバスケに集中出来るようになってもっと強くなるよ」
「睾丸は無くしたくない」
 
「あ。そうそう。こちらもおまけであげるね」
と言って、別の包みも渡す。
 
「おぉ!Lumixだ」
「貴司、こないだからコンデジが調子悪いと言ってたからと思って」
「うん。打合せの資料とか撮影するのに、スマホじゃうまく撮れない時もあってミラーレスにも心が動いていたけど、何が良いのか検討する時間が無くて」
「私もよく分からないからお店の人に売れ筋を聞いて買った。気に入ってもらえるかどうかは分からないけど」
 
「基本的には写真が写れば問題無い」
「まあネックレスの御礼も兼ねて」
「ありがとう」
 

22日は千里は40 minutesのメンバーとして東京都夏季選手権に出場する。貴司も見たいと言ったので・・・・
 
女装させて連れて行った!
 
「なんでここに僕の身体に合う女物の服や下着があるの〜?」
「男は細かいこと気にしない。ちなみにサービスで無痛の性転換してあげていいけど」
「遠慮する!」
 
それでも足の毛をきれいに剃ってあげたら、何だかうっとりした目で見ている。まあ、これは自分で自分の足に欲情してしまう人もいるみたいだしね〜。
 
パンティとブラジャー(ブラジャーは貴司の所有物C100を市川ラボから持って来ていた)を付けさせ、女物の服を着せて、ばっちりメイクまでさせると、結構な美人になる。視線が女の視線に切り替わっている。やはり1年間女のような身体で過ごしたせいでこんなに順応するのかな??
 
ここで貴司を女装させたのは、貴司が千里との婚約を破棄して別の女性と結婚したことを40 minutesのメンバーは知っているので、素顔のまま連れて行く訳にはいかなかったからである。しかも用心して、貴司をひとつ前の駅で降ろして、そこから電車で会場に入ってもらった。
 

この日朝一番に女子の準決勝が行われる。千里たちの相手はW大学である。伊香秋子や中久監督が驚いたように千里や橘花・麻依子・暢子などを見ていた。
 
試合は接戦で進む。4月の春季クラブ選手権の江戸娘戦と同様、技術ではこちらがやや上なのだが、体力では向こうが遙かに上である。
 
しかしこの日は千里が貴司に見られているというのもあり、無茶苦茶頑張ったし、春季選手権で体力の無さを痛感した星乃・桂華・橘花などが毎日8kmのジョギングをこなすなどして体力を付けてきていたこともあり、最後まで予断を許さない戦いとなった。
 
そして終了間際、かなり遠距離からの千里のスリーが決まり、40 minutesは1点差で勝利。決勝に進出した。
 
「君たち、全く衰えてないね。どこで練習してるの?」
と中久監督は訊いた。
 
「週に1回江東区の公共体育館で練習してるんですよ」
「それだけでは足りないでしょ。うちの体育館にきて、うちの学生たちと一緒に練習してもいいよ」
 
「それはありがたいです。行きたいかも」
「来る人は連絡して。入館証を発行するから」
「ありがとうございます。だったら、麻依子連絡頼んでいい?」
「秋子ちゃんに連絡すればいいかな?」
「はい。じゃメールアドレス交換しておきましょう」
 
伊香秋子は札幌P高校の出身で、旭川L女子校の麻依子とは旧知である。
 

そして午後からの決勝戦の相手はジョイフルゴールドである。準決勝では江戸娘にダブルスコアで勝ってあがってきている。
 
ここで王子はアメリカの大学に通っているので、普段は日本に居ないし、玲央美は日本代表で合宿中である。それで中心選手の2人が不在である。
 
それでもジョイフルゴールドは強い強い。
 
実質プロチームなので、そこら辺のクラブチームや実業団チームとはレベルが違う。
 
完敗であった。
 
「負けたぁ」
「しかしここまで完膚無きまで叩きのめされると気持ちいい」
 
ということでこの大会、40 minutesはまた準優勝に終わったのである。もっともジョイフルゴールド側も
 
「今日の試合で唯一マジになった」
と副主将の母賀ローザが言っていた(主将は玲央美)。
 
なお、この大会は国体東京都代表の選考会も兼ねていたので、40 minutesから麻依子、橘花、星乃、夕子の4人が代表に選ばれた。他の8人はジョイフルゴールドからの選出である。この2チームのレベルがあまりにも高すぎて、他のチームからは1人も入らなかった。40 minutesでは、桂華・渚紗・暢子などもいるものの、準優勝に終わったので、4人までに抑えられたようだ。
 

もっとも暢子は昨年北海道代表に選抜されているので、ジプシー選手除外規定のため、今年と来年は東京から国体に出場できない。
 
「千里もジプシー規定に引っかかるんだっけ?」
「私は国体の成人女子には出たことないよ〜」
 
実際問題として夏季はたいてい日本代表をしていたので、国体予選と日程がぶつかり、選考会にも出ていないのである。
 
「成人男子には出てないよね?」
「まさか」
 
「だったら参加資格あったのでは?」
「私、住所が千葉市だし」
 
「・・・・・」
 
「なぜ大学を出たところで東京に引っ越さん?」
 
大学を卒業したタイミングで他都道府県に移動した場合は、ジプシー除外規定の例外で、その年から即新しい住所のある都道府県で国体代表になれる。
 
「だって私、千葉市のC大の院生だもん」
「千里が大学に通っている所など見たことないのだが」
 
大学院を出た場合は例外規定の対象にならないので、(大学院でも国体代表になっていた場合)大学院の卒業者は2年間どちらの都道府県からも出場できなくなる。
 

試合が終わった後は恒例の打ち上げを17時頃までやって解散する。この時刻で解散するのは、何と言ってもメンバーの中に数人、主婦もいるからである。独身のメンバーは二次会をするようだったが、千里は「バイトがあるから帰るね〜」と言って離脱。インプレッサに乗って神保町まで行き、そこで古本屋さんを巡りながら待機していた貴司を拾って常総ラボに戻った。
 
「でも貴司お化粧すると美人だなあ。このままどこかレストランで食事でもする?」
「いやだ。もうお化粧落としていい?」
「今日はトイレはどうしたの?」
「この格好では男子トイレに入れないから女子トイレ使ってたけど、行列に並ぶの恥ずかしかった」
 
「今夜はそのままで過ごしていいよ」
「勘弁して〜」
「でも女の服で男の顔になると途中でトイレに行きたくなった時、困るよね?」
 
そういう訳で常総ラボに着くまで女装のまま、メイクしたままだった。ラボでクレンジングをもらってメイクを落とすとホッとしたようだ。最初にトイレ(ここのトイレは男女共用)に行って来た後、トレーニングウェアに着換えて練習した。
 
夜遅くまで練習するが、千里が大会の余韻で物凄く気合いが入っているので、貴司が「今日は負けそう」などと言っていた。
 
「貴司、私に勝てなかったら、私が貴司の代わりに男子代表になるからね」
「男子代表って、千里、女子なのに」
「その時は、貴司のちんちんを切り取って私にくっつけるから」
「無茶な」
「先に切り取るだけ切っておこうか?」
「やめて〜」
 
0時すぎまで練習して寝たが、千里は大会の後の激しい練習で完全に熟睡していた。貴司が朝起きた時にスッキリした顔をしているのは気にしないことにした。
 
23日も丸一日練習したが、この日は、女装ビーツの白鳥(びゃくちゃん)と林(こうちゃん)も加わって2対2での練習もたくさんした。しかし貴司は林には全く勝てないので、必死の表情で対抗していた。
 
もっとも、こうちゃんは2〜3割の力しか出していない。
 
「林さんは日本代表の誰よりも強い」
「まあ僕は日本国籍は無いからね」
「そうなんですか?でも本当に強い」
「細川君も、一昨年の頃からは、かなり強くなっているよ」
 
23日の夜は10時で練習を切り上げて早めに寝た。24日は貴司は成田集合だったのでまだほとんど寝ている状態のままインプレッサに乗せて、送っていった。男子日本代表のメンツは貴司と千里が結婚したと思っているので堂々と姿を見せることができる。
 
「機内のおやつにでもしてください」
と言って、チームにお菓子を差し入れたが、搭乗前に全部無くなったらしい。
 

貴司は、韓国に到着し入国してからまずはホテルの部屋に荷物を置いた。そしてさっそく練習場所に確保している体育館に行って、夜まで汗を流した。日本と韓国の間は所要時間もそう長くないので、国内移動と大差無い感覚である。
 
それで夕食の後、コーヒーを飲んでいたら、龍良が貴司に話しかけてきた。
 
「俺、細川君の女装を初めて見ちゃった」
「うっ。。。もしかして神保町ですか?」
「そうそう。凄い美人になってたからドキッとした」
「そ、そうですか?」
「声掛けてぜひホテルに誘おうと思ったら、君の奥さんが迎えに来たから」
「あはは」
「奥さん公認で女装してるんだ?」
「えっと・・・」
 
「細川君、ほんとうはバイなんだろ?今夜俺としない?」
「遠征中にセックスなんてしてたら、代表から追放になりますよ!」
「だったら帰国した後、ホテルにでも行って」
「結婚しているので、勘弁して下さい」
 
龍良さんは日本の男子バスケットのトップ選手なのに、浮いた話が無いよなあと思っていたのだが、普通の女の子には興味が無いのかもという気がした。
 

6月下旬、また政子から青葉に電話が掛かってきて
 
「今週末に、まねきん設置するから、青葉出てきてね」
と言った。
 
青葉は何がなにやら、さっぱり分からなかった。マネキンってマネキン人形???
 
それで冬子に電話してみた。
 
「先日頼んでいた招き猫ができてきたんで、今週末に設置することになったんだよ。青葉出て来られるよね?」
「ちょっと待って下さい。招き猫ってなんですか?」
「政子が・・・5月に青葉に電話して許可取った・・・よね?」
「聞いてません」
 
それで冬子が説明したことによると、5月11日の仙台公演の後の打ち上げの時、美空と政子が青葉の神社には狛犬がいないから、その代わりに招き猫を設置しようと盛り上がったらしい。
 
「黒ですか?白ですか?」
 
「右手を挙げた黒猫と、左手を挙げた白猫」
「じゃ、左右対にして置くんですね?」
「そうそう」
 
「サイズはどのくらいですか?」
「63cmだって」
「そんなに大きかったら、置く場所を何とかしなければなりませんね」
 
青葉は最初10cm程度のものを想像したので、祠の正面左右に置けばいいかと思ったのである。
 
「うん。だからそれを置く台座を作ってもらったんだけど、その件、政子から聞いてない?」
「全く聞いていません」
 
「でも仙台公演の翌日に政子が電話してたからその件話してたかと思ったのに」
「私が聞いたのは作曲依頼の件だけです」
 
実際には、いきなり大宮万葉と命名されただけである!
 
「じゃ悪いけど事後承認で。もう作っちゃったから」
「まあいいですよ」
 
「で、その設置を6月29日にやるんだけど、出てこれる?」
「出て行きます!」
 

2014年6月22日(日).
 
彩佳・桐絵・龍虎・宏恵の4人は朝から大宮に出た。
 
「オーディションなんだけど、私一人では不安だから、龍にも一緒に出てくれないかなあと思って、勝手に応募しちゃったのよ。ごめんね」
と彩佳は言っている。
 
「まあいいけどね」
と龍虎もその程度はいいだろうという所である。
 
応募するのに本誌の応募券が必要ということで、結局彩佳は自分でももう1冊シックスティーンを買ってきて、自分と龍虎と双方『ロックギャルコンテスト』に応募したのである。応募には歌唱を録音したCD,MD,あるいはカセットテープが必要だったが、彩佳は龍虎の歌唱録音もたくさん持っているので、ローズ+リリーの『花園の君』を歌っている録音を入れておいた。自分ではAKB48の『ヘビーローテーション』を歌って録音し、どちらもCDにライトして同封し送付した。
 
すると彩佳も龍虎も書類審査を通ったのである。それでこの日は県ごと(但し、北海道・東京・大阪は地域2分割)に二次審査が行われることになっていた。この審査は原則として上位2名、落とすには惜しい人がいた場合は特に3位までが、来月のブロック単位の三次審査に進出する(東京・大阪は地区ごとに5名、愛知・福岡は3〜4名)。つまり三次審査に進出するのは全国で最大120名ほどである。
 
会場に到着し受付をして番号札をもらう。彩佳も龍虎もそれを付ける。もらった番号は彩佳が121, 龍虎は183である。
 
「たくさん参加者がいるんだね〜」
「でもなんでこんなに番号が離れているんだろう?」
 
すると龍虎が
「もしかして男女で違うとか?」
と言った。
 
「なるほどー」
と桐絵。
 
「でも男子は少ないね」
と龍虎は言うが“ロックギャルコンテスト”なのだから参加者は全員女子である。そもそも応募用紙には性別欄が存在しなかった。
 

オーディションは1人ずつ1分間で歌を歌い、1分間で質疑応答があるのだが、歌の成績が悪いと、質疑応答まで行かない場合もあるということだった。実際始まってみると、最初の付近に出てきた人は、みんな歌だけで不合格になり、質疑応答に進まない。始まって1時間ほど後、61番の番号札を付けた人が初めて質疑応答を受けた。その人はかなり歌が上手かった。彼女は質疑応答のあと待機していて下さいといわれ、銀色のリボンをつけてもらった。
 
彩佳はその様子を見ていて、今日の参加者番号は、歌の上手い子、そして可愛い子を後ろの方に集めたのではという気がした。きっと61番さんは応募の写真写りが悪いか、録音の仕方が悪かったんだ。
 
その後はぼちぼちと質疑応答に進む人が出始める。ただし質疑応答しても、待機してと言われずに「お疲れ様でした。帰っていいですよ」と言われる子も多い。見ていると質疑応答された子の半分くらいが残されているようだ。
 
やがて彩佳の番になる。彩佳はその場で指定された、ももクロの『サラバ、愛しき悲しみたちよ』を歌ったが、合格したようで質疑応答に進む。彩佳はここまでの質疑応答で質問される事柄について全部自分でも回答を考えていたので、全てすらすらと答えることができた。それで待機していて下さいと言われ、銀色のリボンを付けてもらった。
 
そして龍虎が登場したのは最後だった。つまり龍虎が書類審査で最もハイスコアだったのだろうと彩佳は思う。
 
『私の龍なら当然よね』
などと考えている。
 
龍虎はその場でAKB48の『桜の栞』を指定されて歌ったが、歌唱後会場で思わず凄い拍手が起きた。それほど龍虎の歌唱は素晴らしかった。その後の質疑応答は敢えて優しい問題が出た気がした。
 
「星座は?」
「獅子座です」
「好きな科目は?」
「音楽です」
「好きな歌手は?」
「ローズ+リリーのケイさんです」
「好きな食べ物は?」
「ビーフシチューです」
 
などと龍虎がよどみなく答えるので、実際の応答は30秒ほどで終わった。それで待機していて下さいと言われ、銀色のリボンをつけてもらった。
 
結局合格して待機になったのは30名ほどである。
 
審査は10分ほどで終わった。
 
「それではブロック予選に進出する人を発表します」
と審査員さんは言い、
 
「183番、田代龍虎さん、176番、****さん、121番、南川彩佳さん」
と名前を呼んだ。
 
「嘘!?ボク、上位進出?」
と龍虎。
「それは当然かもね」
と桐絵。
「私まで上位進出しちゃった」
と彩佳。
「いや、彩佳は出来が良かった」
と宏恵は言った。
 
それで龍虎と彩佳はブロック大会の招請状をもらい、記念品も何だかたくさんもらって帰宅した。桜野みちる・明智ヒバリのCDとか、§§プロの歌手のアメニティ、そして洋菓子の引換券もあったので、それはすぐに大宮駅近くの菓子店で引き替え、4人で山分けした。
 

「あの子、やはり凄くいいね」
と別室でモニターしていた紅川社長は言った。
 
紅川は昨年のクリスマス・イベントで見かけた龍虎が応募してきているのに気付き、実際に見に来たのである。
 
「福岡の子、札幌の子と、この子が最有力候補ですかね」
と立川ピアノ。
 
「今日3位で通した子も面白いね」
と堂本正登。
 
「1位の子とお友だちみたいね」
「このふたりペアで合格させてもいいかも知れませんね」
「うん。今回はフレームとかもまだ決めてないから女の子2人のツインボーカルというのもありだと思うよ」
「いっそ4人選んでガールズバンドにする手もあるかもですね」
 
「ああ、それもあると思う。今日3位の子はピアノを習っていると言っていたから、彼女にピアノを弾いてもらって、1位の子はギターも弾くらしいから、ギター兼メインボーカルで」
 
なおこのオーディションは「第1回ロックギャル・コンテスト」である。ロックと銘打っているので、ロックシンガーの堂本正登も審査に加わっている。立川ピアノは§§プロの現役歌手の中では最年長である。
 

2014年6月22日(日).
 
田中成美は新幹線で仙台に行き、ブルーリーフ国際音楽コンクール本選に出場した。東京での二次審査の時はパンタロンスーツにしたのだが、今日は普通に?ドレスを着ることにした。セーラー服で会場まで行き、そこで着換える。
 
二次審査の時は弦楽四重奏をバックに協奏曲を弾いたのだが、今日はフルオーケストラがバックである。ふだん、オーケストラで演奏したマイナスワン音源で練習しているので、この方が自分としてはやりやすいと思った。
 
今回は予選で下位になった人から順番なので、最初は6位のケイが弾いた。
 
「凄い」
と思わず声が出る。
 
「この人、予選の時より随分よくなったね」
と付いてきている母も言った。
 
二次予選の時は「有名芸能人だから話題作りに通したのかも」という気もしたのだが、今日のケイの演奏は、ふつうにクラシック演奏家として、かなり上位の部類に入る演奏であった。
 

5位の人が演奏するが、この人は予選では1ページ飛ばしてしまったのだが、今日もミスを多発する。たぶんあがりやすい性格なのだろう。それでは演奏家になるには前途多難である。どんなに練習の時にうまく弾けていても、本番でちゃんと弾けないのはどうにもならない。
 
続いて成美が出て行く。かなり気分良く弾けたのだが、それでも今日は先頭に弾いたケイに負けたと思った。あんな演奏をされたら、とても勝てない。自分はまだまだだなあと思った。
 
成美の後に弾いた人は、二次審査でも思ったが、全く解釈ができていない。譜面の通りに単純に弾いているだけで、これなら自動演奏か何かでもいい気がした。
 
予選2位の人も出来がすばらしかった。この人もケイ同様予選の時より今回の方がぐっと良い。これなら最後に弾く竹野さんと良い勝負になると思った。
 
しかし最後に出てきた竹野さんはいきなり転んでしまう。しかもその時にヴァイオリンのネックが折れてしまったのである。
 
予備楽器は持って来ていないと言う。彼女は仙台市内に住んでいる友人からヴァイオリンを借りてきたいから少し待ってもらえないかと言ったが、審査員はそれは認められないと言った。すると竹野さんは会場に向かって言った。
 
「済みません。どなたかヴァイオリンを貸して頂けませんか?」
 
会場を見ると、みんな聞こえないふりか下を向いたりしている。
 
「なるちゃん、貸してあげる?」
「私もそうしようかなと思った所」
と母と会話したのだが、成美が名乗り出る前に、ケイが立ち上がって
 
「私のデル・ジェズもどきでよければ」
と言った。
 
へー!あれデル・ジェズの本物じゃなくて“もどき”だったのかと思った。物凄くいい音が出ていたから、きっと本物だろうと思ったのに!
 
母も同じように思ったようである。
「あれ、たぶん本物のデル・ジェズより、いい音がしていた」
「うん。私も思った。たまにそういう作品があるんだよ」
「本坂先生からお借りしているそのファニョーラのロッカ・コピーも、まるで本物のロッカみたいに鳴るもんね」
「ヴァイオリンはどうしても、個体差が出るからね〜」
 
竹野さんは御礼を言ってケイからヴァイオリンを借りると、すぐに演奏を始めた。時間を消費してしまったので、時間オーバーで失格にならないようにオーケストラも早めのテンポで演奏してくれた。
 
しかしやはり慣れない楽器で演奏したせいだろう。彼女は結構ミスをした。彼女の愛用のガダニーニと、ケイの楽器グァルネリでは、まるで音の鳴り方が違う。それで竹野さんはどうしても音量の調整に苦労しているようだった。
 
もっともそれを聴き分けられるのは、今回の参加者や審査員くらいで、一般の人の耳には、ミスしていること自体分からないだろうと成美は思った。母なども
 
「今初めて触った楽器で演奏するのに、こんなに上手く弾くって、この人凄いね」
と言っていた。
 

演奏が終わり審査が行われた。
 
やはり1位は溝上さん、2位が竹野さんだった。今日は溝上さんの出来があまりに素晴らしかったので、ミスのあった竹野さんの評価が下がったのだろう。そしてケイが3位に入った。あの演奏なら当然だろうと成美は思った。そして4位が成美だった。結局自分は二次審査の時と同じ順位だ!
 
自分も前より随分うまくなったつもりだったが、ケイはやはりここぞという所で物凄い力を発揮するのだろう。だてにトップアーティストをやってないと思った。溝上さんはたぶん弦楽四重奏の伴奏に慣れていなかったので二次審査はあまり良くなかったのではという気がした。
 

2014年6月29日(日).
 
千里はこの日はスペインでの練習はお休みなので、朝からミラを出して、まずは真利奈のアパートで桃香を拾い、それから彪志を彼のアパートで拾ってから、神社のある丘に登っていった。
 
結構暑いし、ヤブ蚊などもいるので車内で軽くエアコンを掛けて待機する。馬力の無いミラだが、停車中ならエアコンを掛けても大丈夫である(エアコンを掛けた状態ではここの坂は昇れない)。
 
「途中道路工事してたね」
「上下水道を神社まで引いていく工事みたいだよ」
「今そういうもの無かったんだっけ?」
 
「前建っていたボロ家は、まだ下水道とかの無かった時代みたいね。上水道の管はあったけど何十年も水を通してないから全交換が必要と判断されたらしい」
「それは錆が凄まじそうだ」
 
「しかしここは夏になると、かなり蚊が集まるよな?」
「超音波式の虫除けを設置しようと神社の人とは話している」
「ああ、それはいいかも」
「それ、どのくらいの範囲をカバーするんですか?」
「1台で半径10mをカバーする。だから2個置けば充分」
「それは凄い」
 

この土地は間口約7.2m(4間) 奥行き約14.4m(8間)の約32坪である。それで防虫器を、奥行きを3.6mずつに4分割した 1/4 3/4 の地点に設置すれば、土地全体をカバーできる計算になる。
 
(斜辺10m 底辺3.6mの三角形の高さは三平方の定理により9.3mなので充分間口幅をカバーできる)
 
実際には後に作られる駐車場との境付近に2個設置し、社務所の中にはアース・ノーマットを置くことになった。それで神社の土地のみでなく、駐車場まで守られるし、人が常時居る場所は別途守られる。
 

一方この日、青葉は朝一番の新幹線で東京に出てきた。
 
高岡6:32(はくたか1)8:41越後湯沢8:49(Maxとき310)9:55東京
 
そちらには招き猫を受け取った冬子と政子が迎えに行っている。冬子のカローラ・フィールダーに同乗させて千葉に向かう。3人は千里たちが到着してから30分ほどした所で到着した。
 
ここにいるメンツの中では唯一の男子!である彪志が、フィールダーの荷室から招き猫を1体ずつ抱えて出しては、既に作ってある台座の上に置いた。彪志は左手を挙げた白い招き猫を向かって左の台座、右手を挙げた黒い招き猫を向かって右の台座に置いた。
 
「取り敢えず適当に置いたけど、これどちらがどっち?」
と彪志が訊く。
 
「ちー姉、どっちだと思う?」
と青葉は千里に訊くが、
 
「そういうのは分からないから青葉が決めて」
と千里は言った。
 
冬子は「青葉、千里を試してみたのかな?」という気がした。実は青葉は千里が瞬嶽の一周忌に来ていて、しかも知らない内に「瞬里」などという名前を師匠からもらっていたというのを聞き、ひょっとしてちー姉って凄い人ということは?と初めて疑惑を感じたので少し試してみたのである。しかし千里は「分からない」と答えた。
 
ところが政子が言う。
 
「これは左側に右手を挙げた黒猫、右側に左手を挙げた白猫だよ。そうすると、各々外側の手を挙げる形になって門が広くなる。今置いてるみたいに内側を挙げたら狭くなっちゃう」
 
と言う。
 
青葉も頷いているので、彪志は左の白い招き猫を持ち上げ、
 
「桃香さん、黒い子を左に移してください」
と言った。それで桃香が
 
「千里も手伝って」
と言って、ふたりで黒い招き猫を左側の台座に移動する。それで彪志は抱えていた白い招き猫を右側の台座に置いた。
 
「うん。これでいい」
と政子。
 
「ああ、確かにこの方が雰囲気良くなるね」
と桃香も言っている。
 

そんなことをしていたら、近くにワゴン車が駐まり、そこからテレビカメラを持った人を含めた男女数人が降りてくる。関東不思議探訪のロケ班である。レポーターの谷崎潤子が
 
「おお、招き猫が座っている!」
と言った。
 
「おはようございます、潤子ちゃん」
と冬子も相好を崩して挨拶する。
 
「わぁ、洋子さんだ!おはようございます!って今日はケイさん?蘭子さん?」
 
「その洋子さんとか蘭子さんって知らないんだけど」
と冬子は困った表情で言う。
 
「あ、ケイさんですね。あ、マリさんもいる。おはようございまーす」
「おはようございまーす」
 
「でも可愛い招き猫ですね!」
「これを設置しに来たんですよ。もう少ししたら工務店の人が来るので固定してもらいます」
「だったら、そこまで取材していいですか?」
「いいですよ。って、これ生放送じゃないよね?」
「はい。生放送です。スタジオさん、いったんお返しします」
 
ということで潤子の「洋子さん?ケイさん?蘭子さん?」というのもしっかり放送されてしまった!
 

ほどなく工務店の人が来て、常滑焼の招き猫2体をその位置にセメントで固定してくれた。作業をテレビカメラが撮す。これは録画のようである。後でこちらからの中継に切り替わった所で流すのだろう。
 
やがてスタジオからこちらにコントロールが渡され、生中継が再開される。
 
「はーい。みなさーん。招き猫2体が今設置された所です。ほんとに可愛いですね。奉納のおやつもたくさん置かれてます。でも招き猫って、色の違いとか、左右の挙げている手とかで意味の違いが出るんでしたっけ?」
 
と言って、潤子は、近くに居た千里にマイクを向けた。
 
千里はびっくりしたようだが解説する。
 
「一般に左手を挙げた招き猫はメスで人を招き、右手を挙げた招き猫はオスでお金を招くと言います。また白い招き猫は開運の効果があり、黒い招き猫は厄除けの効果があります」
 
青葉も頷いている。
 
「あ、だったら、左手挙げた白い招き猫と、右手挙げた黒い招き猫でお金も人も呼んで、開運厄除けで何でも行けますねー」
 
「そうですね」
「じゃ、この右側にいる白い子がメスで、左側にいる黒い子がオスなんですね」
「そうです。陰陽で右は陰、左が陽ですから、その起き方が自然です」
 
ちー姉、ちゃんとそこまで分かってるじゃん!さっきは自分は素人だから分からないなんて言った癖に!と青葉は思っている。
 

ここで潤子はとんでもないことを言い出す。
 
「オスの招き猫を拝むと男の子の機能が強くなったり、メスの招き猫を拝むと女の魅力が上がったりします?」
 
すると千里は苦笑しながらも解説する。
 
「元々、猫というのは結構生殖のシンボルです。一度にたくさん子供を産むので多産を表し、それは豊穣につながるんですね。ですから、古くから農業や牧畜の守護神として、また子孫繁栄の守護神として信仰されてきたんですよ」
 
「でしたら男の精力・女の魅力を磨きたい人は、ここに来て招き猫ちゃんにお供えするといいかもですよ」
 
と潤子はカメラに向かって言っている。するとマリが口を出す。
 
「だったら女の子になりたい男の子は白いメスの子、男の子になりたい女の子は黒いオスの子にお参りすればいいかな?」
 
すると千里は笑って
 
「効果あるかも知れないですね」
と答えた。
 

生中継が終わった後で、潤子は千里に
 
「そちらの仮名C子さんもありがとうございました。今まで何度もここでお会いしましたけど」
と言った。
 
「妹がこの神社を設立したから、私は時々お掃除に来てるだけだけどね」
と千里は答えていた。
 
それでロケ班はケイたちにも挨拶して帰っていった。
 
青葉が千里に訊く。
 
「ちー姉、お掃除してくれてたんだ?」
 
「ここ結構ゴミが落ちてるんだよねー。だから週に1回くらいここに寄ってお掃除してたんだよ」
 
「ちー姉、ゴミ以外にも何か掃除してない?」
 
青葉は、千里がひょっとしてこの付近に溜まりがちな雑霊を“掃除”しているのではという気がしたのである。
 
「ゴミ以外? ああ。草とかもむしってるよ」
「ふーん。ありがとう」
 

それでみんな引き上げる。青葉は千里を試してみたくなった。千里がミラの方に戻る目の前に、自分の眷属の《海坊主》を不可視の状態で立たせた。
 
すると海坊主が立った瞬間、冬子がギョッとしたような顔をした。彪志もあれ?という顔をした。
 
しかし千里は何の反応もせず、桃香とおしゃべりしながら海坊主を通り抜けてしまった。
 
青葉は考えた。
 
ちー姉にある程度の霊感があるなら当然《海坊主》の気配に気付くはず。実際今、近くに居た冬子さんは明らかに気付いたような反応をした。政子さんも彪志もあれ?という顔をした。しかし桃姉もちー姉も何も反応しなかった。気付いたらそこを通り抜けようとは思わないはずだ。霊感のある人はこの手のものを避けて歩く。自分の霊感に無自覚な人も無意識に避ける。通り抜けられるのは、やはり霊感がまるで無い人だけだろう。
 
「やはり気のせいかな・・・・」
と青葉は小さな声で呟いたが、その言葉を聞いたのはいちばん近くに居た冬子だけであった。
 

さて・・・。
 
むろん千里は海坊主に気付いたが、気付いてもその手のものには一切反応しない習慣が付いている。霊的な能力を持っている人が、妖怪や精霊の類いに反応したり、そちらを見たりするのは、しばしば自分を危険にさらす。だからきちんと訓練を受けている人は、気付かないふりをする癖が付いているのである。千里は中高時代の巫女生活の中で、その手の「身を守る術」を叩き込まれている。
 
これが瞬醒とか天津子とかでも、多分千里と同様の“無反応”をしたであろう。
 
それが例えば佐竹真穂とか、工藤和実などのように、霊的な力はあっても、その手の訓練を受けていない人は、つい反応して、相手にも自分が認識されたことを認識させてしまう。
 
実は青葉もあまりその手の訓練を受けていない部類である!
 
これは能力が凄まじい人にはありがちである。
 

千里も青葉も、招き猫の設置が終わった後、《姫様》が、三毛猫っぽい子猫の霊と戯れているのを見た。あの子、どこから来たんだ?
 

招き猫の設置が終わった後は、6人で千葉市内のファミレスに入り、一緒に昼食を取った。
 
「4月から6月まで2ヶ月近いツアー、あらためてお疲れ様でした」
と彪志が冬子と政子に言った。
 
「確かにちょっと疲れたかな」
「綱渡り的なスケジュールもあったよね」
「ヘリコプターで次の会場へ移動したというんでしょ?凄いですね」
 
実は5月11日はお昼に福島でKARION、夕方から仙台でローズ+リリーのライブがあったので、冬子はその間をヘリコプターで移動したのである。ローズ+リリーのライブにはこの日幕間のゲストにKARIONが出たが、KARIONの他の3人は車で移動した。
 
「でも何とか終わったね」
「今はもうアルバム制作に入ったんですか?」
と彪志が訊くと
 
「まだ入ってないよね〜」
と政子が言う。
 
「間に合うんですか?」
と彪志が心配して訊く。ローズ+リリーの今年のアルバムは8月発売が告知されている。8月に発売するには7月には完成していなければならない。今日は6月29日である。1ヶ月しか残っていない。
 
「でもアルバムの前にシングルも出すんでしょう?」
「そちらはもう完成した」
と冬子は疲れたように言う。
 
「ホルスという楽器を使ったんだよ。面白かった」
と政子。
 
「どんな楽器ですか?」
と彪志が訊くと
 
「口琴だよ」
と千里が代わって答える。
 
「聴かせてもらったけど魂が震える思いだった」
「ちー姉、そこに居たの?」
「その人が日本の固有の楽器を聴きたいというので私が呼び出されたんだよ」
「千里の龍笛初めて聴いたけど凄かった」
と冬子が言う。
 
そういえばちー姉が龍笛を吹くというのは年末にも聞いた。冬子さんがそんなに凄いと言うのは、どんな演奏なんだろうと青葉は考えた。
 

7月1日(火)の夕方、貴司たち男子日本代表のメンバーが韓国遠征を終えて帰国した。次の合宿は7月4日(金)から始まり、9日には中国に渡って武漢(ウーハン)でアジアカップに出場することになっている。
 
千里は1日に成田空港で貴司を迎えた。
 
「今回は貴司が冷凍での対応になっちゃうね」
「その言い方は僕を冷凍するみたいだ」
 
「精子も卵子も冷凍できるのに人間は冷凍できないのが不思議ね」
「SFではけっこう人間の冷凍保存とかあるけどね」
「試しに貴司自身を冷凍してみる?」
「やだ」
 
実は次の体外受精は阿倍子の生理周期に合わせて7月13日に行うのだが、その時期、貴司は武漢(ウーハン)に居るのである。それで貴司の精液はこの2日間の休みの間に採取し、冷凍しておくことになったのである。
 
「今回は僕の精液と、従兄の武彦君の精液を使わせてもらうことになったから」
「武彦さんは生で行くのね」
「そうそう。彼は大阪まで来てくれる」
「それを私が迎えればいいのね」
「すまん。北海道の親戚はみんな僕の妻は千里だと思っているから」
「私も貴司の妻は私だと思っているけど」
 
「うん、まあそれはまた・・・」
などと貴司は言葉を濁している。
 

千葉市まで出てから一緒に食事をし、その後、インプで大阪方面に向かう。
 
「貴司は遠征で疲れたでしょ?寝てて。私が運転するから」
「そうしようかな。でも千里もちゃんと休憩取りながら運転してね」
「大丈夫。仮眠しながら運転するから」
「それは危ないよ!」
 
実際貴司はすぐに眠ってしまったので、千里も運転は《こうちゃん》に任せてスペインに転送してもらい、レオパルダの練習に参加した。
 
翌7月2日(水)朝、吹田SAで休憩する。千里も練習後スペインのアパートで1時間ほど仮眠してからこちらに戻してもらっている。
 
「ああ、セックスしたい」
と貴司は言うが
 
「明日精子を採取しないといけないから、それは無理ね」
と千里は言った。あまり辛くさせてもいけないので、今日は敢えてタッチしていない。
 
トイレに行ってから一緒に朝御飯を食べる。そして車に戻り、キスだけして貴司を会社の前まで送り届けた(千里がそばに居ない限り貴司は射精不能)。千里はそのまま市川町までインプレッサを回送する。
 

午前中は寝ていて、午後から地下の作曲作業室で仕事をした。
 
夕方、貴司が市川ラボに電車乗り継ぎでやってくる。軽食を用意していたので一緒に食べた後、貴司が2階にあがって市川ドラゴンズのメンバーと練習するので、千里もスペインに転送してもらいレオパルダのメンバーと練習する。
 
貴司は0時頃練習を終えて居室に戻り、シャワーを浴びて、千里が用意してくれていた夜食を食べてから寝る。4時すぎ、千里はスペインでの練習を終えてこちらに転送してもらい、シャワーを浴びて、貴司が寝ているベッドに潜り込み軽く仮眠する。
 
朝(7月3日木曜日)起きると千里がそばで寝ているので、つい千里の手を取って“して”しまいたくなるものの「だーめ」と言って、千里は射精を禁止する。貴司も分かっているので我慢する。
 
一緒に朝御飯を食べて、甘地駅で貴司を「いってらっしゃい」と言って送り出した。
 

この日は貴司は15時で会社の仕事をあがった後、チームの練習には行かず、明日からの合宿の準備をすることにする。
 
千里が着換えなどを全部用意してインプレッサに乗せてこちらに回送してきていたので、千里に拾ってもらい、取り敢えず豊中市内の公園の駐車場に駐めた。そしてしっかり目隠しをした上で、30分ほどイチャイチャした後で、射精させた。
 
「ほんとに気持ちいい」
と放心状態から回復した後で貴司は言う。
 
「将来、私たちが結婚した後も、射精は月に1度にしようか?」
「いやだ」
「だって凄く気持ち良さそうなんだもん」
「千里がいない時はできないから、その間が凄く辛いんだよ」
「でもそれでバスケに集中できるのかもよ」
「うーん・・・」
「そうだ。20-30個冷凍を作っておいたら本体は除去してもいいかも」
「それは物凄く嫌だ」
 
30分ほど仮眠した後で、千里がインプを運転して不妊治療をしている産婦人科に行き、貴司が精液を届けてきた。それで冷凍してもらえるはずである。
 

その後、車は千里中央駅近くの駐車場に駐めて、そのそばのHホテルに入り、一緒にディナーを食べた。
 
「うっかりしてた。A4 Avantを市川に回送しておけば、インプレッサをマンションに駐めることができた」
と貴司が言うが
 
「大丈夫だよ。明日にも取りに来るから。それに貴司んちの駐車枠に別の車が駐まっていることに阿倍子さんが気付いたら、マンションの管理者に通報するかも」
と千里は言う。
 
「阿倍子が駐車場にひとりで来ることはないと思うけどなあ」
「あの人、免許とかも持ってないんだっけ?」
「持ってない。原付も持っていないから、実は身分証明書で困ることもある」
「それは原付でも小特でもいいから取らせた方がいいと思うなあ」
 
「じゃ取り敢えず駐車代と往復の新幹線代」
と言って、貴司は1万円札を4枚くれた。
 
「じゃ余ったらもらっておくね」
と言って千里も受け取った。
 

食事の後は、一緒に千里中央駅に行き、北大阪急行(御堂筋線直行)で新大阪駅まで行く。そして新幹線で東京に移動した。道中はずっと今度のアジアカップで対戦するであろう相手国の選手の話をした。
 
「千里よくそんなに情報持ってるね!」
「普通このくらい下調べしておくものだと思うけど」
「でも凄く参考になる。そのあたりのトリックに引っかからないよう気をつけるよ」
 
東京に着いたのは夜10時頃である。予約しているホテルに一緒に入る。宿泊カードには“貴司が”《細川貴司・細川千里》と記入し、自分のカードで払った。貴司が《細川千里》と書いてくれたことで、千里は目が潤う気分だった。
 
それで、その夜はセックスこそしないものの、貴司を何度も逝かせてあげて、貴司は物凄く嬉しがっていた。
 
「明日があるからここまでね」
と言って0時半頃には寝たものの、名残惜しそうだった。
 

翌7月4日(金)は赤羽駅で「頑張ってきてね」と言って送り出した。もちろん別れ際にキスをした。
 
それで千里は新幹線で大阪に戻ってインプレッサを東京に回送しようと思ったのだが、電話が入る。テレビ局の人である。
 
「醍醐先生、今どちらにおられます?」
「東京都内ですが」
「助かった!実はハートライダーのロケをしていたのですが、実は今前橋でラリーの撮影をしていて試走中に事故が起きて尾崎さんが怪我をなさいまして」
「あらぁ。イルザちゃんは?」
「同乗していませんでした。ひとりで走行なさっていた時の事故なんですよ」
「それは不幸中の幸いというか。尾崎さんのお怪我は?」
 
「1週間程度の入院で済むそうです。でも今日はラリー本番前で道路が封鎖されているのを利用して撮影をさせてもらっていたので、日程がずらせないんですよ。それで大変申し訳無いのですが、今回だけで恐縮なのですが、小島秋枝(小野寺イルザが演じている役名)の教官役を醍醐先生に代わって頂けないかと思いまして」
 
「走る車はあるんですか?」
「予備を持って来ていたのであります」
「分かりました。行きます」
 

「千里、だったらインプは俺が大阪から回収してこようか?」
と《こうちゃん》は言ったのだが
 
「これは私がインプを取りに行けないように、運命の歯車が回っている気がする。だから放置しておく。たぶん一週間程度以内に、私は大阪から東京まで車を運転する必要が出るのだと思う」
と千里は答えた。
 
「駐車場代、高くなるけど」
「あそこは1日最大2000円だから、一週間放置しても14,000円だし」
「まあ駐車場代、だいぶ余分にもらっていたな」
「それもあるね〜」
 

ともかくも千里はすぐに高崎線で大宮に行き新幹線で高崎に移動。高崎駅まで番組スタッフの人が迎えに来てくれていたので、それで現場に入った。番組のプロデューサーは恐縮していたが、小野寺イルザも
「醍醐先生だったら私も安心です」
と言っていた。
 
「イルザちゃんの方が私より上位のライセンス持っているのに!」
 
番組の撮影の都合でイルザはたくさんレースやラリーに出たので、国際C級ライセンスを取得してしまっているのである。
 
「でも醍醐先生の方がうまいです。先生も国際C級お取りになればいいのに」
「なかなか時間無いからね〜」
「ああ、そうかもですね。私は番組の都合でたくさん運転しているけど」
 
そういう訳で千里はこの日はイルザと一緒にラリーコースを特別許可をもらって走行して、それをたくさん撮影した。
 

千里とイルザのペア、および他に2組の番組からの参加者が、7月5日(土)のレッキ(下見走行)、6日(日)の本番とラリーに実際に参加して、その様子を撮影した。また翌日、7日(月)にはロケおよびスタジオで撮影もおこなった。
 
千里がハートライダーに出演するのは過去に何度もあったので、実際問題として尾崎さんが怪我している事態では、自分が最も適切なピンチヒッターだったかもと千里は思った。ただ、これほど長時間の顔出しは初めてである。大抵はヘルメットをかぶっている状態で出ていて、顔は数回、短時間しか出していない。
 
千里がやっとフリーになったのは、7月7日(月)であった。
 
この日、南国花野子から電話があり、ゴールデンシックスはローズ+リリーのツアー中にCDの売上げが5000枚を越えたので、加藤課長との約束通り、メジャーデビューすることになったということだった。
 
「7月10日に★★レコードで打合せするんだけど、千里も来る?」
 
「いや、私が行ったら、話がよけい複雑になる気がする。ふたりだけで行ってきた方がいい気がするよ。どっちみち、私と蓮菜も近い内に加藤さんと話し合うことになるだろうけどね」
 
「分かった。じゃ行ってくるね」
 
花野子との電話を終えた後、千里は東京の帝国ホテルのレストランに電話し、7月10日のディナーコースを2人分予約した。
 
「花野子ちゃんたちと会うなら3人分、あるいは4人分では?」
と《りくちゃん》が言う。4人というのは蓮菜も入れた数である。
 
「たぶん2人でいい」
と千里は言った。
 
「7月10日は貴司君はまだ中国だし」
 
「誰か1人とディナーを食べることになりそうな気がするんだよ」
 
「大裳、分かる?」
「いや、私にも分からない」
 
「でも千里のその手の予感って、本当に当たるもんな」
と《せいちゃん》が言っていた。
 

7月9日には日本男子代表の一行が中国に旅立ったので、千里は成田で見送りをした。むろんギャラリーの中からの見送りなのでキスもしていなければ、言葉も交わしていない。視線で『頑張ってね』『頑張ってくる』と会話しただけである。
 

7月10日は平日(木曜日)なのでグラナダでも練習があるのだが、今日はゴールデンシックスの打合せの日である。途中で呼び出される可能性もあるし、そうでなくてもたぶん“彼女”から連絡がある。それで千里は
 
「すみませーん。今日は練習休んでいいですか?」
とキャプテンに訊いた。キャプテンは
「バレ。君はむしろ休みが少なすぎる」
と言った。
 
「特に女子は生理の日は休んでいいのに」
「みんな月に7日くらいは生理で休んでいる」
「それ少し多くないですか!?」
「私、毎週生理あるよ〜」
「それ卵巣が8つくらいありません?」
 
そういう訳で、この日は休むことにした。スペインでの練習時間帯はたぶん日本の芸能界では、普通の作業時間である。
 
それで葛西のマンションで楽譜の整理をしながら待機していたら、16時過ぎくらいに電話が掛かってくる。冬子(ケイ)である。千里が電話を取ると冬子は
 
「おはようございます、醍醐春海さん」
と言った。千里は“やっと気付いたか”と苦笑いして
 
「おはようございます、水沢歌月さん」
と答えた。
 
もっともこないだの『ハートライダー』の撮影したのが放送に流れたら、いやでも気付くだろうけどね!
 
それで冬子が少し話したいというので、日比谷駅で待ち合わせることにした。
 
「ところで歌月さん、どんな服着てる?」
「ペールピンクのビジネススーツだけど」
「だったら問題無いな」
「ん?」
 
 
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【娘たちの始まり】(3)