【娘たちの始まり】(2)
1 2 3 4
(C)Eriko Kawaguchi 2018-12-01
龍虎のトウシューズは4月下旬に出来てきた。
「ピッタリね」
と日出美が言う。
「まあピッタリでないと困るよね」
と先生。
「途中1回だけ微調整した。2度目は既にピッタリだった」
と龍虎は言う。
石膏で型を取っていても、足の「やわらかさ」は個人差があるので、1度ではうまく合わない。どうかすると3〜4回の調整が必要なのだが、龍虎は1回調整しただけで、きれいにフィットした。トウシューズは既製品ではなかなか合うものを見つけきれないバレエ学習者が多いので、この教室は初回いきなりオーダーで作るという方針を採っている。すると次に買う時はそのサイズをベースに既製品でも結構いけることが多いのである。むろん費用を厭わなければ次回もオーダーしてよい。オーダーのトウシューズは30-50万円ほどするが、バレエ学習者には元々裕福な家庭の娘が多い。なお既製品なら数千円からある。
トウシューズはきついからといって幅広のものを選択することはできない。幅が広すぎるトウシューズは、体重が爪先だけに掛かることになり、足の先が痛くなる。トウシューズの役割はその全体で体重を支えることなのである。
龍虎は結局このオーダーで作ってもらったトウシューズと同じサイズのものを個人的に費用を出してもう1足作ってもらい、片方は自宅で普段から履いておくようにした。これで早くトウシューズに慣れることができるのである。完全に足に合わせて作られているので履いていても全く痛くない。普通の靴より快適なくらいである。
「トウシューズに慣れるのの他にスカートに慣れる必要無い?」
と母から言われたが
「ボク、スカートは日常的に穿いている気がする」
と龍虎が言うと
「確かにそうだ!」
と言われた。
トウシューズでつま先立つことを「ポワント」というが、さすがにいきなりこれができる人は居ない。段階的にルルベ(Releve)を上げて訓練していく。
0/4 A terre 踵が床に着いている状態。
1/4 les quart de pointes 4分の1上がった状態。
2/4 Demi-pointe 半分上げて指の腹で立った状態。
3/4 les trois-quart de pointes 指の付け根と膝が一直線になる状態。
4/4 sur les pointes 完全な爪先立ち。
龍虎はこれまでバレエシューズで、本来はトウシューズで踊るような踊りを多数こなしてきているので、ドゥミ・ポワントは全然問題無くできていた。それでトロワカールを5月中はひたすら練習した。
「足の筋肉が疲れる〜」
「それお風呂とかで暖めてしっかりメンテしてね。筋を痛めたら立てなくなるから」
さて、2014年の春から夏に掛けてKARIONのメンバー4人の内の3人がお引っ越しをしている。
最初、4月3日に和泉が神田の賃貸マンションから、すぐ近くの分譲マンションに引っ越した。今まで住んでいた所が取り壊して建て替えになるということで、そのタイミングでの移動だった。お陰で敷金が全額返ってきたし、防音工事した部屋も原状回復させず放置で良いと言われた。
美空は国分寺駅から徒歩1分!というワンルームマンションに引っ越した。彼女は遅刻魔なので、実家から出てくるとどうしても1時間半掛かっていた所がここからなら中央特快で20分で新宿駅に着くので、家から事務所まで30分で来られるはずである。しかし美空は
「これで1時間余分に寝られる!」
と発言して、畠山社長にギロリと睨まれていた!
ちなみに引越は「大して荷物もないし」ということで、お父さんが軽トラで運んでくれた、と本人は言っていたのだが、あとで実際に美空の部屋に行ってみて、冬子たちは仰天した。
小風は実家住まいだが、引っ越さなかった。
そして冬子の引越の話は、和泉の引越のお祝いをしていた時に唐突に出てきた。和泉が買ったマンションが6000万円というので、そのくらいなら冬も買っていいんじゃない?と政子が言い出したのに対して冬子は
「探す時間が無いよぉ」
と言った。
すると政子と美空が
「私たちで探してあげるよ」
と言ったのである。
その組み合わせに冬子は大いに不安を感じた。
この時期、ローズ+リリーもKARIONもツアーをやっていたのだが、ローズ+リリーの公演には毎回ゴールデンシックスのカノンとリノンが出演していた。本割りが終わった後アンコールになった時、幕が上がってマリとケイが出てくるかと思ったら、出てきたのはカノンとリノンで、勝手に自分たちの持ち歌を歌い出すという趣旨である(こういう演出は過去にももクロのライブなどで行われたことがある)。そこにマリとケイが出ていき
「ちょっとちょっと君たちは誰?」
と言う。するとカノンとリノンは
「私たちはゴールデンシックスだ。私たちはローズ+リリーに挑戦するぞ」
と言う。
それでカノンとケイ、またはリノンとマリでカラオケ対決をして、勝った方がアンコールで2曲歌う権利を得るということになっている。
この勝負はガチである。
カラオケの採点システムは一切調整されない。
しかしカノンとケイ、リノンとマリの対決では、1度もカノン・リノンは勝てなかった。なお、リノンとケイで対決したこともあるが、カノンとマリは対決しないというのが“おとなの事情”である。
仙台公演(5.11)の後で、ローズ+リリーとKARIONのスタッフの合同打ち上げをしようとしていた時、ちょうど近くにカノンとリノンがいた。ふたりは今から車を交替で運転して東京に戻ると言っていたが、★★レコードの氷川さんが止めた。
「疲れているのに今から自分たちで車を運転するのは危ないよ。車は★★レコードのスタッフに回送させるから、君たち今夜はホテルに泊まって明日の朝の新幹線で帰るといいよ。ホテル代も新幹線代もうちで出すよ」
それでふたりは冬子や美空の誘いで、打ち上げに参加することになったのである。
この打ち上げでは、その後、重要なキーとなるような話題も出ていたのだが、打ち上げも中盤になった頃、政子と美空が唐突に
「そうだ。冬のマンション見つけたよ」
と言った。
見つけた後で、ふたりで焼肉を食べに行き、うっかり冬子に伝えるのを忘れていたらしい。
「場所は?」
「恵比寿駅の近く。築5年。歩いて8分。私たちが歩いての実測値」
「広さは?」
「4LDK+2S, 42坪。音源製作で遅くなった時に私たちが泊まれる部屋も確保出来る」
「それはいいけど、その広さならかなり高いでしょ?」
「新築時は2億円だったって」
「さすが・・・」
「それが中古で1億7千万円」
「それでも高い」
という声もあったのだが、リノンが
「いや、その場所でその広さなら、しますよ。むしろ安いかも」
と言った。すると美空が
「おお、専門家」
と言う。
「専門家?」
「ああ、リノンは###不動産に務めてるんですよ」
「あ、この物件も###不動産」
「おぉ!」
「美空さん、今度良かったらそこに私も連れてってください」
とリノンが言う。
「そうだね。専門家の目で確認してもらった方がいいかも」
と美空。
「同じ###不動産なら、それ仕事として出て来られるのでは?」
「どうでしょう。どっちみち聞いてみます」
「でも、梨乃ちゃん、他の人がいるからと言って『美空さん』なんて言わないで。敬語もやめて。気持ち悪い」
と美空は言った。
「じゃ、いつものように、みーちゃんで」
「あれ?知り合いですか?」
と氷川さんが訊く。
「そそ。もう8年近い付き合い」
と美空。
「へー!」
「いや、みーちゃんの従姉が私やカノンの親友なんです」
「ああ!そうだったんだ?」
それで冬子と政子に美空、それにリノン(矢嶋梨乃)で、5月13日にそのマンションを見に行ってみることになったのである。リノンは結局、有休を取って同行することにした。勤務中に行けば中立的な立場に立てないからである。
この席でKARIONの常連作詞家、櫛紀香さんが尋ねた。
「ローズ+リリーさんは、新しいアルバムはいつ頃出すんですか?」
「夏頃出すつもり。一応曲の選定は終わってアレンジもだいたい固めたんだけどね。ツアーが終わってから制作に入る」
と私は答える。
新しいアルバムのタイトルは『雪月花』にすることを昨年『Flower Garden』を発売した時に発表している。構想としては『Flower Garden』の製作に入る前から、次はこれと考え、敢えて『Flower Garden』に入れずにキープしておいた曲などもあった。
しかし昨年と違って今年冬子は忙しく、なかなかそちらの製作のための作業に入れずに居た。
「去年みたいに何ヶ月も掛けて収録ってのはやはり無理だよねー」
と政子が言う。
「うん。今年は忙しい。去年の前半はアルバム制作以外、ほとんど何もしてなかったからね」
「楽曲は、ほとんどマリ&ケイ?」
「上島先生から1曲頂いている。あとこないだのパーティーで東堂千一夜先生が僕にも書かせてよと言っていたので、1曲頂くことになりそう。他はマリ&ケイになるかな」
「すると12曲入りのアルバムとして10曲がマリ&ケイか」
「うん。そんな感じになるかも」
と冬子は言いながらも、けっこうきついなと内心思っていた。楽曲数としては揃えてあるのだが、昨年の『Flower Garden』ほどのレベルではない。しかし活動開始した以上、あまりアルバムの間隔を開ける訳にもいかないし。
ケイの引越の下見の件が打ち上げの席で出たので、翌日梨乃から千里に電話が掛かってきた。
「ああ。ローズ+リリーのケイが引っ越すのか」
「千里もお友だちなんでしょ?」
「そそ。クロスロードという集まりでのお付き合い。梨乃も入る?条件は女湯に入れることというのだけ」
「まあ確かに女湯に入れるけど」
「天然女性と、性転換して女になった人と、性転換してないけど女体偽装している人がいる」
「女体偽装で女湯に入るのは犯罪のような気がする」
「一応貸し切るけどね」
「それならいいか」
「他のメンツは、美容師さんと、ソフト技術者と、メイド喫茶のメイドと」
「バリエーションに富んでるね!」
「まあね」
「それで私は風水とか分からないからさ、千里、見てもらえない?」
「いいよ〜。私はその日行けないから、現場から電話して」
「電話がいいの?」
「うん。電話を通して現場の空気が読めるんだよ」
「なるほど〜」
ところでこの仙台公演の打ち上げの時、青葉が作った神社に招き猫を起きたいという話が美空と政子からあがった。
「神社のオーナーに許可を取らないと勝手には置けないよ」
と言うと
「私が連絡しとくよ」
と政子は言った。青葉はこの日の公演に出演していたのだが、学校があるので打ち上げには出席せずに既に帰っていたのである。
そして翌5月12日(月)、青葉が自宅で勉強していたら政子から電話が掛かってくる。
「昨日はお疲れ様でした」
「そちらもお疲れ〜」
「それでね、青葉の名前を決めてあげたよ」
と政子は言った。
「は?」
「私が岡崎天音になるから、青葉は大宮万葉ね」
「何ですか?それは」
「じゃ、後で歌詞を送るからよろしくー」
「あ、はい」
ということで青葉はさっぱり訳が分からないまま電話を切った。その夜9時頃に政子からFAXがあり何かの歌詞が書かれていて“岡崎天音作詞・大宮万葉作曲『黄金の琵琶』カリオン”と書かれていた。
要するに、この詩に曲を付けてね、ということのようである。青葉は首を振って曲を付け始めた。
この時点で青葉は招き猫のことなど、全く聞いていない!
でも政子は招き猫の設置の許可を青葉から取ったつもりになっている。それで招き猫制作の件は、政子から製造元に依頼され、作業が進むことになった。
5月中旬、龍虎の両親が居ない日を狙って、龍虎の家に来た彩佳は「メディカルチェック」と称して龍虎を裸に剥き身体をチェックした。
「胸は少し縮んだ気がする」
「やはり女性ホルモン飲むのやめた影響だと思う」
「ちんちんの長さが0cmくらいになっている」
「少し伸びたでしょ?」
「3月の時点ではマイナス5mmくらいだったから、これ伸びたと思う」
「男の子の身体に変わっていくのは寂しいけど仕方ない」
「・・・龍、やはり去勢しようよ」
「嫌だ」
龍虎は父から言われた。
「もしかしてお前、女性ホルモン飲まなくなったの?」
「あれは身長を伸ばすために飲んでたんだよ。155cm近くまで来たから、取り敢えず、これでいいことにする」
「ちんちん大きくするの?」
「縮めすぎたから回復させる」
「このクリームやるから毎日寝る前に塗るといい」
「男性ホルモン?」
「塗り薬だからローカルに利く。身体の他の部分には影響無い。お父さんも中学の頃これでちんちんを5mmくらいから2cmくらいまで伸ばしたけど、身体の他の部分は全然男性化しなかったぞ」
「・・・使ってみようかな」
「塗るときは指が男性化しないように使い捨て手袋して」
「それ怖いね!」
「睾丸にも塗ると大きくなるかも」
「睾丸はあまり大きくしたくない」
「いっそ取っちゃう?中学生でも去勢してくれる病院知ってるけど」
「それは取りたくないんだよね。働いては欲しくないけど」
「もし万が一にも声変わりしたくないなら、念のためエストロゲンを週に1錠くらいの微量飲むといいかも。体内を女性ホルモン優位に保っておけば声変わりは来ないよ」
と父は言う。
「そうしようかな」
と龍虎は素直に言った。
ゴールデンウィーク直前、中体連の地区大会があり、龍虎たちの中学の生徒で運動部に入っていない人は、どこかを応援に行くようにという指示があった。それで龍虎や彩佳たちは陸上競技場に行って陸上部の応援をした。
龍虎たちの中学はいくつかの種目で優勝する選手が出るなど、けっこう善戦しているようであった。
陸上を応援に来ている子は少ないので、選手たちのテントの近くで
「頑張ってぇ!」
などと声をあげて観戦していた。陸上部の人たちから飲み物までもらったりして、なかなか待遇が良かった。
お昼近くになって、応援部の人が1人やってきた。
「おお、女子が4人もいる。君たち、チアガールやって」
「は?」
ちなみに龍虎たちは4人とも体操服で来ている。
応援部の人からチアリーダーの衣裳を渡されたので、陸上部のテントの中で着換えさせてもらった。むろん龍虎もチアリーダーの衣裳を着るが、そのことを誰も問題にしない。龍虎自身も「ま、いっか」と思っている。
それで応援部の人が学生服で「フレー、フレー、QR中」とエールをあげ、更に手を前・横に出しながら校歌を歌う後ろで、龍虎や彩佳たち4人がチアの衣裳で適当に踊った。
するとQR中の2年女子が800mで3位からラストスパートで前の2人を抜き優勝したので
「おお!応援の効果あった!」
などと陸上部長さんが喜んでいた。
千里は、スペインのリーグがオフシーズンに入ったのをいいことに、大型免許を合宿で取りに行った。レオパルダには
「日本で用事を済ませてくるので半月ほど休みます」
と言って、わざわざ飛行機で帰国した上で、5月2日に自動車学校の合宿コースに入校した。
これは後で誰かが千里の日程を調べた時、免許を取るために自動車学校に行っていた時期は海外に居たはずということになり、身代わり受験を疑われたりしてはいけないからである。
普通免許(2009.3.30取得:中型創設後・準中型創設前)を持っている場合、第1段階11時間、第2段階15時間、学科1時間である。千里は5月2-7日に第1段階を終えて8日(木)に仮免試験を受けたものの、厳しい検定官で、僅かに減点が多くて落としてしまった。それで9日(金)に再戦して合格した。第2段階はこの日の午後から始まり、9-13日の5日間で終了。14日に卒業試験を受けて合格。自動車学校を無事卒業した。
そして5月15日に千葉県運転免許センターに行き学科試験を受ける。これに合格して、千里は大型免許を取得した。
そしてこれで千里の免許はゴールド免許になった。
5月13日に冬子や梨乃たちがマンションの下見に行った時は、千里はちょうど教習時間の合間で、自習室で学科試験のシミュレーションをしていた。梨乃はお部屋を一通り見て、彼女の観点からはほぼ問題無さそうと思った所で千里に掛けてきたらしい。
千里は彼女の電話の先の空間を「見た」。
物凄く大きなエネルギーに満ちている。ここは「安息の場」としては問題があるが「仕事の場」としてはとてもふさわしいと思った。これまで冬子が住んでいた早稲田のマンションも実質、ローズ+リリーの事務所のようなものだった。ここも住居より仕事場にするのだろう。それなら問題無いと千里は思った。
「ここは仕事場だよね?休息の場所じゃないよね?」
梨乃が確認すると冬子たちは休息したい時は政子の実家に行って休み、普段は都区内のマンションで仕事をしていて、色々な人たちと会っているということだった。
「うん。それなら問題無い。ここは安息の場にするにはエネルギーが高すぎるんだよ。仕事場としては最高」
梨乃はそれも伝え、冬子は感心しているようだった。
何か1本筋がある。
「梨乃、そこの近くにお寺か何かある?」
それで梨乃が不動産屋さんに尋ねると確かに近くにお寺があるという。
「よくない?」
「いや、お寺の筋はそのマンションを通ってないし、そこよりずっと低層階の高さだから、問題無い」
と千里は言った。
梨乃が「この階は問題無いと言ってます」と言ったら、冬子たちはここが何階なのか分かるのか?と驚いて訊く。それで梨乃が千里に尋ねると
「そこは35階くらいだと思ったけど」
と言った。
実際に梨乃たちがいる場所は32階なので冬子たちは
「その人、本物だね!」
と感心したようである。
千里は風水的なものもチェックした。冬子と政子はどちらも1991年生まれの女性で本命卦は乾(けん)で西四命である。冬子を男性命で見る必要があれば本命卦は離(り)になり、東四命でふたりの吉凶が変わってしまうのだが、冬子の場合は自分と同様、若い内に女子になっているので間違い無く女命でよいと考えた。同居する2人が同じ本命卦を持つ場合、とても考えやすい。
本命卦が乾の場合、
東北 天医(大吉)
東_ 五鬼(大凶)
東南 禍害(小凶)
南_ 絶命(最大凶)
西南 延年(中吉)
西_ 生気(最大吉)
西北 伏位(小吉)
北_ 六殺(中凶)
となる。実際のこのマンションの間取りを梨乃の電話を通して「見て」みると、玄関は東北にあり大吉である。キッチンのコンロは東に向いており、大凶である。大凶の方位にコンロを置くのが良いのである。コンロの火によって大凶の効果を塞いでくれる。コンロを万一吉方位に置いてしまうと吉の気が入って来ないのでよくない。
「寝室はどの部屋にするの?」
「西側の2つを、冬子さんたちの寝室と客用寝室にしようかって」
「客用寝室はそれでいいけど、冬子たちの寝室は居間の隣の6畳の方がいい」
西側は生気でエネルギーが強すぎるのである。それでは安眠出来ない。居間の隣の部屋なら、延年なので休みやすい。その趣旨を伝えると冬子も分かったと言った。それから千里はリビングの方位が絶命になるのが気になった。
「リビングの壁にね、本棚とかを置いて、CDをずらーっと並べたりできない?」
それで梨乃が言ってみると、冬子はCDは全てmp3にしてパソコンのファイルサーバーに放り込んでいるのでリビングにあっても仕方ないのだと言った。
「いや、だから並べたい。そこには凶方位の作用を塞ぐために、ほとんど動かさないものを置いた方がいいんだよ」
それで梨乃が伝えると冬子はそういうことであればCDラックを買ってきて並べると言っていた。これまでは大半を段ボール箱に詰めていたらしい。
そのほか、一連のチェックで千里も問題は無いと判断し、その趣旨を伝えると、それで冬子はここを買うことにしたようであった。
5月14日(水)日本バスケットボール協会は7月のアジアカップと8月のウィリアム・ジョーンズ・カップに出場する日本男子代表の候補者26名を発表した。貴司はここに入っていて、千里は発表されるとすぐに「おめでとう。頑張ってね」と電話を掛けた。
5月15日に大型免許を取った千里はすぐに雨宮先生にそのことを報告した。
「今どこに居る?」
「免許取り立てで連絡してますので、まだ幕張の運転免許センターです」
「だったら、そのまま幕張メッセに来て」
「はい?」
それで試験場まで乗って来たミラでそのまま幕張メッセに行くと
「ちょうど良かった。今ライブが終わって機材を積み込んだ所なのよ。このトラック動かして」
と言われる。
見ると巨大なトラックが居る。
「これ何ですか?」
と千里は念のため訊いた。
「ごく普通の15トントラックよ」
「これをここまで運転してきた人は?」
「四つ子を出産したんで病院に行っている」
「臨月なのに運転していたんですか!?」
「本人も自分が妊娠していることに気付いていなかったみたいで」
「妊娠に気付かない人ってたまにいますけど、4つ子でそれはありえないです」
「本人は去年まで男の子で手術しておちんちん取って、ヴァギナを造って女の子になったから、まさか妊娠するとは思っていなかったらしくて」
「はいはい」
千里は首を振った。
雨宮先生のことばをまともに取る方が間違っている。
「どこまで持って行けばいいんですか?」
「マルセイユまで」
「道路が無いですけど」
「じゃ仕方ないから、横浜のこの住所まで」
と言って地図をもらった。運送会社の営業所のようである。
千里は取り敢えず運転席に座ったがカーナビが付いていないようなので、自分の携帯のカーナビ機能を呼び出し、それでナビさせてそちらに向かうことにした。
「醍醐先生が運転してくださるのなら安心です。ハートライダーいつも見てますよ」
と同乗したレコード会社の人が言ったが、大型免許を今取って来たばかりと聞いたら、きっと仰天するだろう。
彼の話では、昨日このトラックを運転してきた人は、昨日だけの約束で今日はアサインされていなかったらしい。手配ミスがあったようだ。明日は大阪で公演だが、横浜からは運送会社の人が運んでくれる。ただ、そこまでのドライバーが居なかったということである。8トントラックくらいなら運転できる人はわりと居るのだが、大型免許を持っている人でも15トンはみんな尻込みしたらしく、運送会社に連絡して追加料金を払ってここから運んでもらおうか、などと言っていたところだったが、それではすぐにはドライバーの手配が付かず、結果的に予定時間までに大阪に着けない可能性もあるというので困っていたらしい。
千里は内心首を振っていた。
「醍醐先生が近くにおられてよかった」
とレコード会社の人は言っていたが、たぶんこういう予定調和を引き起こすのが自分の運命なのだろうという気もした。
ともかくも千里は長さが12mほどもある大型トラックを慎重に運転して横浜まで行き、運送会社の人に引き継いだ。レコード会社の人は
「さすが運転がうまいですね!」
などと言っていたが、こちらは、冷や汗である。特にこういう長い車を運転する場合、交差点で曲がるのがひじょうに難しい。自分で手に負えない気がしたら、こうちゃんに頼もうと思っていたのだが、何とか最後まで自分で運転出来たので、こうちゃんからは「千里、よくやった」と褒められた。
5月中旬、龍虎たちは遠足に行った。市街地にある学校なので、ひたすら道路を歩き、観音山(標高81m!)に登った。でもさんざん歩いた上で最後にこの登山になったので「きついー!」と言って何度も途中で停まっている子もいた。
龍虎・彩佳・宏恵・桐絵の4人はスイスイと登っていく。
「桐絵ちゃんは運動得意だからいいとして、龍ちゃんとか運動苦手そうなのに」
と、本人も運動苦手と言いながら、頑張って彩佳たちに付いてきた麻由美が言う。
「龍は筋力を使うようなものは苦手だけど、持久力はあるんだよ」
と彩佳が言う。
「龍のお父さんはマラソン選手だったと言ってたね」
と桐絵。
「マラソンという程ではないけど陸上部で長距離走っていたらしい。駅伝とかに出たらしいよ」
と龍虎。
これは遺伝子上の父・高岡猛獅のことである。
「へー。だったら基本的に運動神経いいのかな」
「まあ筋力が無さ過ぎるから、スポーツの大会とかに出るのは無茶だけどね」
「だけど正直な話さ、私は安心した」
と桐絵は言った。
「うん?」
「龍が学生服を着て通学してきたらと思うと、私たち、龍と今までみたいに普通に友だちとして付き合っていく自信が実は無かったんだけど」
「学生服着たってセーラー服着たって、中身はボクなのに」
セーラー服着たってって、やはり着たいのか?と宏恵は突っ込みたくなった。
「そうは言っても、やはり見た目って結構心を左右するもんね」
「そう?」
「だけど安心したんだよ」
と桐絵は言う。
「何に?」
「学生服着ていても、龍は女の子にしか見えないから、付き合っていくのに全く壁が無い」
そんなことを言うと、彩佳や宏恵だけでなく、麻由美まで頷いている。
「桐絵たちと付き合うのに壁なんて無いよ」
と龍虎。
「うん。だから壁が無いんで安心した」
と桐絵は言っていたが、龍虎は意味がよく分かっておらず、首をひねっていた。
5月18日(日).
貴司たちは5回目の体外受精を実施した。今回は前回冷凍保存していた受精卵のうち、WF群とWH群の受精卵を使用する。最初各々1個ずつ解凍したのだが、WFの分は死んでいるようだった。それでWFをもう1個解凍したら、これは生きていた。それでこの2つを投入した。
残る冷凍受精卵は、WF1個とWH2個である。
そういう訳で今回は新たな卵子採取や射精は必要無かった。
「寂しいよぉ。デートしようよぉ」
と貴司は電話してきたが
「合宿に向けて禁欲して練習に励みなよ」
と言っておいた。
冬子は新しいマンションに防音工事などを施した上で7月14日(月)に引っ越すことにしたのだが、本格的に引っ越す前に、楽器や楽譜、ハードディスクなどの大事なものを、信頼出来る友人に頼んで移動させることにした。これに和実やあきら、千里などが協力した。
千里は40 minutesの友人、麻依子や真知なども連れてきた。特に真知は仕事に就いておらず暇なので、大いに戦力になった。冬子のカローラフィールダーを運転して、たくさん運搬してくれた。
2014年5月28日(水).
その日も引越を手伝おうと、千里が桃香・和実・淳と一緒に冬子のマンションに行くと、雨宮先生がいるのでギョッとする。
「あら千里じゃん」
と先生が言うので
「おはようございます。雨宮先生、ご無沙汰しておりまして」
と千里は言った。
本当は昨日も一緒に新宿で飲んだ所である!
「千里、あんた結局性転換手術は済んでいるんだよね?」
「ええ。とっくに済んでいますけど」
「だったら、あんた今度出すアルバムのキャンペーンに出演しなさい」
「は?」
何でも"Rose Quats Plays"シリーズで次に『Rose Quarts Plays Sex Change』というアルバムを作るらしい。そんなの出していいのか?と千里は呆れた。
雨宮先生は和実も転換者だと見抜いてキャンペーンに勧誘する。そして先生は更に何ヶ所か電話をして性転換者を5人集めてしまった。
これが花村唯香、新田安芸那(後の桜クララ)、近藤うさぎである。それで千里、和実と5人でキャンペーンをすることを雨宮先生が決めてしまった。千里も基本的には顔出し無しということなので、同意した。
6月1日発売の女子高校生向け雑誌《シックスティーン》に「第1回ロックギャルコンテスト」開催のお知らせが出ていた。主宰は§§プロとこの雑誌を発行している誠英社である。
高校生のお姉さんがいるような子が学校にその雑誌を持ってくる。本当はこの手の雑誌を学校に持ってくるのは禁止だが、この学校は緩いので、授業中に見ていたりしない限り、うるさく言われない。
「あれ?毎年恒例のフレッシュガールコンテストじゃないの?」
「それはまた秋にやるらしい。これは春から夏に掛けてやって、要するに年2回オーディションをするということみたいね」
「少し趣旨が違うみたいだよ。フレッシュガールコンテストは、親しみやすい女子を求めるということで、可愛くてスタイルがよければいいみたいだけどこちらは音楽性のある子を求むということで、歌唱テストに合格しないと審査対象外みたい」
「へー」
「音痴な子は除外するということか」
「この事務所は、満月さやかとか、秋風コスモスとか、浦和みどりとか、酷いのが多いからなあ」
「やはり少し反省して、最低限歌える子を選ぼうということでは?」
その時、彩佳が言った。
「ヒロ、そのページ1枚コピーとってくれない?」
「え?彩佳応募するの?」
「応募するのは龍に決まってるじゃん」
「おぉ!!」
「龍の写真ならたくさんあるから1枚プリントしてくるよ」
「本人には言わない訳?」
「言えば、女の子のオーディションとかに出ないよぉと言うに決まっている」
「でも龍なら充分書類審査通るよね?」
「通る気がする」
「二次審査の通知が来たら、嫌だと言うのでは?」
「欺して連れて行けばよい」
「ふむふむ」
「龍が応募するのなら、別にコピーとらなくてもいいよ。このページあげるよ」
と宏恵は言い、その場で雑誌からページをハサミで切り取って、彩佳に渡した。
「よし。可愛い服を着ている写真をプリントして同封しよう」
と彩佳は言っていた。
「むしろ龍が男の子の服を着て写っている写真が存在しなかったりして」
「ああ、そうかも」
6月2日(月).
千里が葛西のマンションで作曲をしていると、雨宮先生から電話が掛かってきた。
「明日の午前中、ちょっと龍笛持って、青山の★★スタジオの青龍に来てくんない?」
千里は午前中は基本的に睡眠の時間である。スペインでの練習が日本時間の朝4時頃終わるので、それから日本時間の朝10時頃まで、グラナダのアパートか、葛西のマンションのどちらかで寝ている。
「すみません。午前中はあまり動きたくないのですが。午後からならいいですけど」
「来なかったらあんたの最初のCD、ラジオで流すわよ。あんたの下手くそなヴァイオリン演奏が全国に流れるよ」
別にそのくらいどうでもいいと思ったが、要するに何かで龍笛吹きが調達できないのであろう。
「まあいいですよ、行きますよ」
と言った。
それで翌6月3日、出て行くと、冬子・政子もいる。
「そういえば、千里の龍笛は凄いと聞いていた。聞いてみたい」
と冬子は言っていた。
冬子から話を聞くと、ローズ+リリーの音源製作で、サハ共和国から偶然来日していた口琴演奏者に協力してもらったのだが、その後昨日話が盛り上がり、ぜひ日本の民俗楽器を演奏できる人を集めようということになって、雨宮先生が数人を強引に呼び出したということのようであった。
冬子自身も三味線と胡弓に篠笛(囃子用と唄用)を持って来ている。
尺八、箏、篳篥、笙の人も来ていて、素敵な演奏をしてくれた。千里もこの人たち、上手〜いと思って聞いていた。冬子の三味線、胡弓もさすが名取りさんである。篠笛もまあまあよく吹けている。ただフルートっぽい篠笛の吹き方だなと思った。
そして千里が龍笛を吹く。今日持って来ているのは煤竹の龍笛である。
10分ほど自由な感じで演奏したが、みんな真剣な眼差しで自分を見つめているのが快感であった。例によって龍が数体やってきて、演奏の御礼に雷を落としていった。
演奏が終わってから氷川さんが言った。
「村山さんでした?CD出しません?」
「私よりもっとうまい人がたくさん居ますよ。私、うちの妹(青葉)にも全くかないませんから」
と千里は笑顔で答えた。
「千里。私の音源制作に参加しない?」
と冬子がマジな顔で言う。
「やめといた方がいいよ。私が龍笛吹くと、さっきみたいにしばしば雷が落ちるんだよ。それが音源に入っちゃうから」
「それって、ほんとに龍を呼んでない?」
「ああ、今も来てたみたいね」
この会話を通訳してもらったのを聞き、サハ共和国の口琴演奏者の人は
「日本って不思議がたくさん残っている国なんですね!」
と言った。
「サハからわざわざ来て下さったのでしたら、この篠笛もご覧に入れましょう」
と千里は、“例の”篠笛を取り出した。
「この篠笛は今の所、私以外に吹ける人がいないんです。誰か吹いてみますか?」
と言う。
最初に冬子が吹いてみるが全く音が出ない。雨宮先生はこの篠笛を過去に見ているのでニヤニヤしている。尺八吹きの人が吹いてみたがやはりダメである。サハ共和国の口琴演奏者も吹いてみたが、スースーと空気の通る音がするだけである。
「この篠笛は和楽器の専門家や横笛の名人などに吹いてもらっても全く音が出ないんです」
と千里は言う。
しかし千里自身が吹くと、世にも魅力的な音が出る。
「やはり日本は不思議の国なんですね!」
と彼女は感動していた。
6月8日(日).
東京都バスケットボール夏季選手権がの1回戦4試合が行われた。この大会に女子は20チームが出ているので、まず16チームに絞るのに4つだけ1回戦が行われたのである。40 minutesは新規登録チームなので当然これに出て行く。そして大学生チームに勝って2回戦に進出した。
6月14-15日(土日).
同大会の2回戦8試合、3回戦4試合が行われた。40 minutesは2回戦では雪子の古巣であるN大学と当たった(雪子は現在でもN大学の学生である)が、その雪子が異様にハイテンションで、トリックプレイがどんどん決まり、20点差をつけての勝利となった。
翌日の3回戦では東京地区でも実力トップクラスのひとつである東女会(教員連盟)と当たったが、接戦の末、最後は7点差で勝利した。
今週勝ち残ったのは、W大学、ジョイフルゴールド、江戸娘、40 minutesの4チームである。
6月中旬、『Rose Quarts Plays Sex change』のPV撮影を数日掛けておこなった。むろん主役は雨宮先生がかき集めた性転換者5人−千里・和実・近藤うさぎ・新田安芸那・花村唯香である。着衣での撮影が大半だが、水着撮影もある。
千里はスポーツウーマンで引き締まった身体をしている。近藤うさぎはモデルとしてダイエットに心がけている。花村唯香は現役歌手なのでスタイルにもかなり気をつけている。和実は「可愛い女の子でいたい」という指向が強いので、ボディラインも魅力的な状態をキープしている。
それで新田安芸那が「なんでそんなにみんなスタイルがいいの〜?」と叫んでいた。もっとも雨宮先生は
「あまりにも理想的な女の子ばかりだと、自分は体型が悪いから女の子にはなれないと思っている人が萎縮するから、あんたみたいなのが混じっているのは充分価値がある」
などと言っていた。
全員でローズクォーツの曲(メインボーカルはタカ)にコーラスも入れたが、和実と千里がソプラノで近藤うさぎ・花村唯香・新田安芸那はアルトである。
「あんたたち、よくそんな高い声出るね」
と新田安芸那は感心していたが
「このふたりは生まれてすぐ性転換しているから」
と雨宮先生が言うと、近藤うさぎなどは
「いや、それでなきゃ、ありえない」
と先生のことばを半ば信じていた。
「だってふたりとも、骨盤が女性型ですよ。だから遅くとも小学3〜4年生頃には去勢して、女性ホルモンを摂っていたはず」
と近藤うさぎ。
「私はそれ認めてもいいけど、和実は否定するだろうね」
と千里が言うと、和実は困ったような表情をしていた。
「でも5人とも歌がうまいですよ」
と氷川さんなどは言っていた。
「和実ちゃんと千里ちゃんはマリちゃんより上手い」
と花村唯香が言うと
「そりゃ、マリちゃんよりは上手くなきゃね」
と千里は笑って言っていた。
6月8日(日).
龍虎たちの中学で体育祭が行われた。全員走る競技のどれか1つに出ることと、集団演技がある。龍虎は「どっちみちビリだし」と言って(男子)100m走に出て6人で走り、他の子から大きく離された6位であった。
集団演技については1年生男子は騎馬戦だったのだが、龍虎はそんなものに出して怪我してはいけない、と男子たちから意見があり、1年女子のダンスに出場した。龍虎はダンスはうまいので、一番前のラインで踊る子の一人に選ばれ、楽しくダンスをしていた。
ちなみにこの学校の体操服にデザイン上男女の差は全く無い。但し女子用は胸の付近が透けにくくできており、龍虎はこの女子用を着ている!
2年生の男子は祭神輿で、上半身裸で下は半股引(半ダコ)を着ていたが、西山君が
「あの衣裳にはなりたくない・・・」
と言っていた。
「西山は来年は田代さんと一緒に女子の方に行く?」
などと言われる。その2年女子たちはオレンジ色の上着とスカートでマスゲームをしていた。
「スカートも穿きたくない!」
「西山はスカート穿きたいんだと思ってた」
「西山はふだんスカート穿いているという噂がある」
「スカート穿いている西山と出会ったという証言も多数ある」
「どこからそんな根も葉もない噂が!?」
「しかし裸になるかスカート穿くかというのは究極の選択だな」
「田代さんは平気でスカート穿くだろうけど」
「あいつは持っている服の大半が女の子用で、学生服以外ではズボンはほとんど持っていないらしい」
「家の中ではだいたいスカート穿いているらしいよ」
「2学期からは、やはり女子制服にするという話も聞いたけど」
「田代さんは男子更衣室で着換えるのやめて欲しい」
「ああ、あれ気になって仕方ない」
千里は∴∴ミュージックの畠山社長から連絡を受けた。
「醍醐先生、いつもお世話になっております。実はもしお時間が取れましたら、急ぎの曲を書いて頂けないかと思いまして」
「誰が歌う曲ですか?」
「KARIONなんですが」
「シングル用ですか?アルバム用ですか?」
「シングルです。7月23日発売予定なのですが」
それはかなりスケジュールが押している。恐らくは誰かが書けなくなって、その代替なのだろう。葵照子・醍醐春海のペアが「筆が速い」ことは知られているので、しばしばこの手の依頼はある。千里は念のため尋ねた。
「それをどのくらいの日数で」
「可能でしたら1週間ほどで」
これは厳しいと思った。普通の歌手の普通の曲なら1日あれば何とかなる。しかしKARIONは高品質を要求する。普通なら1ヶ月以上の余裕がないと辛い。それでも千里はこの時、何とかなる気がした。
「分かりました。何とかします」
「恩に着ます!」
千里はタロットを1枚引いた。
カップの9である。花に囲まれて、男女が手を取り合って恋を語り合っている図である。千里はその絵柄からローズ+リリー『女神の丘』のテレビ版PVを連想した。佐世保の烏帽子岳で 葉祥明っぽい雰囲気に撮影したものである。同時に、その曲の別版PVのことも考えた。青葉が今年春に建立した玉依姫神社で、青葉自身が巫女衣裳で舞を舞う前で、ケイとマリが歌うものである。
千里はあの神社に行ってみようと思った。
それでミラに乗って神社まで行くと女神様が千里に話しかけてきた。
『済まぬが、神社の右手30mほどの所に段ボールに入れられた猫が捨てられているのだ。何とかしてくれんか?』
『えっと・・・助ければいいんですか?』
『ニャーニャーうるさくて気になって仕方ない。今晩のおかずにしてもいいが』
『猫を食べる趣味はないので猫の保護をしている団体に連絡しますね』
それで千里はその段ボール箱の置かれた場所まで行く。ふたを開けて中の猫が生きているのを確認する。黒猫と白猫である。生まれて3ヶ月くらい。可愛いさかりだ。自分で飼いたいくらいに可愛いが、自分の生活ではペットを飼うのは不可能である。それでボランティア団体の人に連絡しようとしたのだが、そこに停まる車がある。
「醍醐先生、お早うございまーす」
と明るく声を掛けてくるのは谷崎潤子である。例の関東不思議探訪だろう。
「おはよう、潤子ちゃん」
「どうかしたんですか?」
「猫が捨てられていたのよ」
「へー」
と言って降りてきて
「きゃー!可愛い!」
と言う。
「可愛いよね。自分で飼いたいくらいだけど、私、忙しくてまともに家に居ないからさぁ。とても飼えないなと思って」
「あ、だったら私が引き取ってもいいですか?」
「潤子ちゃん、飼えるの?」
「妹(谷崎聡子)がルパンって名前の三毛猫を飼っていたんですけど、1年くらい前に死んじゃったんですよ」
ルパンで犬なら分かるが三毛猫はホームズではなかったのか、と千里はチラッと思った。
「すぐには新しい猫を飼う気にはなれなかったんですけど、一周忌も過ぎたし、飼ってもいいかなあと思っていたところで」
「飼育経験者なら安心かもね。じゃ潤子ちゃんに任せた」
「ありがとうございます」
「最初に病院に連れて行って、寄生虫検査とか予防接種とか受けさせて」
「はい。真っ先にします」
それで潤子は段ボール箱ごとテレビ局のワゴン車に乗せる。
「ちょうどさっき買ったおにぎりがあったのよね〜」
と言って、具を外してごはんを2つに分けて与えると、凄い勢いで食べている。かなりお腹が空いていたのだろう。
それを見てから「ちょっと暗くて御免ねー」と言ってふたを閉め、仕事の方に入る。ふたりで歩いて神社の所まで行った。カメラはその歩きながら話す様子を映す。
「それで今日来たのは、この神社に何か台座のようなものが設置されていると聞いたからなんですが」
「情報が早いですね。3日くらい前に設置されたばかりなんですよ」
「何ができるんですか?」
「6月29日に設置しますから、もし取材可能ならその日にまた来て頂けると」
「おお、当日公開ですか!やはり狛犬ですか?」
「当日公開ということで」
そういう訳でこの日のロケ隊は、祠の前方左右に作られたコンクリート製の台座だけを映していた。
潤子たちが帰った後で、姫神様が言った。
『ああ、ご苦労であった。これで静かになった』
『谷崎姉妹のおかげですけどね』
『あの子たちにも褒美をやろう』
『お姉さんはもう歌は諦めてしまってますから、妹さんにヒット曲でも』
『あの姉妹は姉の方が歌はうまい気がするが』
『うまい方が売れるとは限らないって原則ですね。秋風メロディー・秋風コスモスの姉妹も歌の上手いメロディは売れずに音痴のコスモスが売れている』
『世の中嘆かわしい』
『そうだ。千里、そなたにも御礼に何か授けるぞ』
『私は何もしてませんし、特に要りませんよ』
『欲が無いなあ。だったらこういう剣を鋳造せんか?』
と言って女神様は千里の視覚に金色の古い形の剣を提示した。千里が手持ちのスケッチブックに絵を描くと
『そうそう。そんな形』
と言った。
『こんなものを作ってどうするんです?』
『青葉の仕事に必要になる』
『青葉に直接教えてあげればいいのに』
『私は青葉の眷属ではないから、基本的に青葉の手助けはせん』
『まあいいですけどね。真鍮(=黄銅)でいいですか?』
『青銅がいいな。表面は金メッキで。長さは30cmくらい』
(黄銅=銅+亜鉛:五円玉、青銅=銅+錫:十円玉、白銅=銅+ニッケル:百円玉、洋銀=銅+亜鉛+ニッケル:五百円玉)
『結構製作費がかかりそうだ』
その大きさなら、たぶん30万円くらいかなぁ〜。刀身が長いが、確か銅剣は銃刀法にはひっかからないはず、と考える。
『製造費の100倍くらいは稼がせてやるぞ』
『私はここに作曲しにきたのですが』
『良い発想が得られるようにしてやろう』
『その印税で製造しろと?』
『赤字は出ないと思うぞ』
それで千里が神社の裏手の崖の所で、千葉市街地を見ていると、やがて日が沈んで夕焼けになるのだが、それを見ていて素敵な感じの詩とメロディーが浮かんできた。
急いで書き留める。
日が暮れると少し涼しくなるので、千里はその曲をミラの車内できちんとした形にまとめあげた。『夕映えの街』というタイトルをつける。あとは葛西に持って行って、調整しようと考え、女神様に御礼を言ってから引き上げた。
葛西のマンションで千里は一通り書き上げた上で、仮歌を自分で歌って録音し、その録音と譜面・歌詞をまとめて蓮菜に送った。これで彼女が添削してくれるはずである。それで千里はスペインに戻ってレオパルダの練習に参加した。
日本時間の明け方、スペインから戻ると蓮菜からFAXが送られて来ていた。
「でも眠い。たいちゃん、悪いけどCubaseに入れておいてくれない?」
「いいよ」
それで千里は取り敢えず寝た。
お昼頃起き出すと《たいちゃん》は既に入力を終えていた。
「ありがとう」
と言ってから、調整を始める。何度か試唱しては録音して聞き、それをまた調整していく。
結局その日の夜になってほぼ完成。レオパルダでの練習を経て、翌朝日本に戻ってきてから、再度歌ってみて調整。それで∴∴ミュージックに送信した。
それから千里はL神社の辛島さんに電話し、神棚などに置くような銅剣を制作している会社を教えて欲しいと言い、それでその会社を訪れ、青銅の剣の制作を依頼した。
「青銅にもいくつかの種類があるのですが」
「燐とかを混ぜない、純粋な錫青銅で作って欲しいんですが」
「古式に従うんですね」
「そうなんですよ」
千里が代金を現金で前払いすると、向こうはびっくりしてガラスケースをプレゼントすると言った。しかし千里は断った。
「この剣は御守りとしてある場所に埋めるんですよ。ですからケースは不要です。その代わり腐食防止で金メッキが必要なんです」
「なるほど、そういう用途でしたか」
龍虎は6月中旬くらいから、かなり安定してポワントで立てるようになって来た。先生からも、生徒で唯一トウシューズで踊れる蓮花からも「早ーい」と言われた。
「私なんて10月頃やっとできるようになったのに」
「うん。それが普通。龍ちゃん、凄く上達が早い」
「体重が軽いからかもー」
「ああ、それはあるかもね」
ある日、龍虎が部屋の中でボーっとしていたら母が入って来た。
「あんたさ、多分、しばしば彩佳ちゃんと一緒に寝てるよね?避妊はしてる?」
何か誤解されている気がする。確かにお互いの部屋に泊まったりはするけど性的なことは何もしていない。布団も別で相手の布団へは侵入禁止である。
「避妊も何も、ボクのは小さいからセックスは不能だよ」
「立つ?」
「少し大きくなる。小さい時は身体の表面から5mmくらいだけど、大きくすると1cmくらいにはなる」
「精液は?」
「何も出ないよ」
「それを彩佳ちゃんのあそこに当てたりしない?」
「断固拒否してる」
「・・・やはり避妊具持っていた方が良いよ。これあげるから」
と言って母は避妊具の箱を渡した。
龍虎は尋ねた。
「ボクの小さいけど、つけられる?」
「ちょっと見せてみて」
「うん」
それで龍虎はパンティを下げスカートをめくって母に性器を見せたが、母は
「取り付けは不可能な気がする」
と言った。
「でしょ?」
「いっそ睾丸取っちゃう?そしたら彩佳ちゃんを妊娠させる可能性は無くなるけど」
「やだ」
「そうだ。夏休みに尿路変更手術受けない?」
「何それ?」
「今おちんちんからおしっこ出てるから前に飛んで不便でしょ?この辺から」
と言って母は龍虎の身体に触る。
「この辺からおしっこが出るようにすれば、おしっこ楽になるよ」
「そんな後ろから?」
「ここが女の子のおしっこが出る位置。あんたどうせ立っておしっこしないし。それなら、ここから出るようにした方が便利。もっと女の子に近づけるし」
女の子と同じ場所からおしっこが出るようになれば“偽おちんちん”も取り付けやすくなる?と一瞬考えた。でも・・・
「お母ちゃん。ボク別に女の子に近づきたくないんだけど!?」
「そう?尿路変更しないなら睾丸だけ除去する?聞いてみたけど睾丸取るのはいつでもできるって。終業式の日7月18日の午後にでも予約入れようか?」
「睾丸は取りたくない」
「早く取らないと、あんた男性化しちゃうよ」
「男性化はしたくないけど」
「やはりそうだよね?じゃ思い切って取っちゃおう。手術は30分くらいで終わるし」
「・・・せめてあと1年考えさせて」
「じゃもうしばらくは女性ホルモンで男性化を抑えておくか」
「うん」
だったらやはり女性ホルモンもっと飲んだ方がいいのかなぁ。
「それと夏服作らなくていいの?」
「夏服って、男子はワイシャツになるだけだし。もっともボクはワイシャツは入らないからブラウスだけど」
「男子はそうかも知れないけど、女子は夏服セーラーになるんでしょ?」
「女子制服は着ないよ〜」
「着なくても作るだけ作らない?」
「必要無いよぉ!」
と言った所で目が覚めた。勉強している内にうとうとしていたようだ。
嘘!? 今の夢!??
と思って、龍虎はトイレに行った。おしっこしながら考える。
うちのお母ちゃんも結構暴走してる時あるけど、さすがに睾丸取れとは言わない気がする。まあボクが自分で取りたいと言ったら止めずにむしろ即病院に連れていきそうだけどね〜。
睾丸は・・・死んでるのかな?それでもできれば取りたくない気がする。
でもセーラー服の夏服・・・。欲しいなあ。川南さんとかでも買ってくれないかなあ。でも欲しいなんて言い出せないし。
基本的には川南が
「龍虎、セーラー服買ってやるぞ」
「要らないって」
とやりとりするのが常である。
それでトイレを出て台所で冷蔵庫からR-1を1本出して飲む。それから部屋に戻って、布団を片付けようとした時、ふと枕元に何かあることに気付く。
龍虎はその箱を手に取ってじっと見た。裏返してみる。何これ?と思ってしばらく見ていて、その正体に気付く。
ちょっと待って。今見たの夢じゃないんだっけ???
1 2 3 4
【娘たちの始まり】(2)