【娘たちのクランチ】(3)

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龍虎は悩んでいた。
 
先日、お父さん(田代涼太)からは「そろそろ立っておしっこする練習を始めるか?」などと言われたのだが、むしろそれが困難になってきつつある気がするのである。
 
龍虎のおちんちんは元々小さかった。それが幼稚園から小学1年に掛けての病気治療の際にますます小さくなった。あの時は髪も全部抜けてしまって、ずっとかつらをつけていたし、肌も荒れていて傷が治りにくかったし、身体全体に色々治療の負荷が掛かっていた感じである。一番ちんちんが縮んでいた時は1.8cmしかなく、しかもその大半が皮膚に埋もれているので外に出ている部分は0.5cm(5mm)程度。完全に女の子のクリちゃん状態だった。当然座っておしっこしなければならないし、かなり濡れるので、した後は拭く必要があった。
 
それが退院して1年後の2年生の12月に計ってもらった時は3.2cmほどになっていて、その内半分くらいの1.5cm程度が皮膚の外に出ていた。むろんこれでも握ることは不可能で、その時期まで龍虎はおしっこはほとんど女の子と同様だったのである。
 
これが3年生の定期検診の時は4.2cmまで伸びていて外に出ている部分が2.5cm近くになり、やっと何とか指3本で「握れる」(摘まめる?)状態になる。ところが4年生の12月の検診では4.1cmと言われた。
 
数字的には1年前より短くなっているのだが、測定誤差で、この1年間はあまり変化が無かったのでしょうと言われた。
 
一応この年齢で4cmというのは「正常値」の範囲らしい。この年代のペニスの平均値は6.4cmで、3.8〜9.0cmであれば異常では無いという話だった。この後、思春期が始まると男の子のおちんちんは急速に大きくなっていくのである。
 
しかし龍虎は4.1cmというのは測定誤差で3.8cmにもなる気がした。龍虎が不安そうにしているので、主治医の加藤先生は、何でしたら男性ホルモンを投与しましょうか?と訊いたが、そういう不自然なものはあまり身体に入れたくないと龍虎は正直な所を言った。
 
「まあ来年くらいになると思春期が始まるかも知れないし、そうしたらどんどん男らしい身体付きになって睾丸もペニスも大きくなるだろうから、この年齢ではあまり心配しなくてもいいだろうね」
 
と先生は言っていたが、龍虎はその「男らしい身体付きになる」というのが代わりに何かを失ってしまうような気がして、寂しいような思いがした。
 
「別に男になりたくないとかじゃないけどね〜」
と龍虎はつい独り言を言った。
 
でも男にならなかったら自分は何になるんだろう?と思うと分からない。川南からはよく「女の子になっちゃいなよ」と言われるけど、女になる気はさすがに無い。女の子の服を着るのは嫌いじゃないけど。可愛いし。
 
12月にバレエの発表会に出た時は、どっちみち4cm(外に出ている部分は2.5cm程度)のおちんちんは、普通の男子のように上に持ち上げて押さえるということができないので、お母さんにやってもらってちんちんもタマタマも体内に押し込み、接着剤で留めて落ちてこないようにしておいた。これはタックというらしく、そのままちゃんとおしっこもすることができるというすぐれものなのである。ただそのおしっこが凄く後ろの方から出るので、その感覚に戸惑う感じはあった。お母さんによると女の子のおしっこが出てくる位置に近いらしく、女の子ってこんな後ろの方からおしっこが出るのかと驚いた。
 
公演の際は念のためと言われて水着用のアンダーショーツも着けていたものの(龍虎は陰嚢も小さいので接着剤でしっかり留まらないらしい)、実際には公演が終わるまでタックは外れていなかった。
 

龍虎の定期検診は大きな検診を毎年12月に、小さな経過観察的な検診を毎年3〜4月(春休み期間中)と7〜8月(夏休み中)におこなっている。ところがこないだの3月の検診の時、他の患者さんと間違われて、何かよく分からない!?注射(ひょっとしたら女性ホルモン?)を打たれてしまったのだが、そのことを龍虎は誰にも言わなかった。この時のペニスサイズは4.0cmと言われた。
 
「うーん。12月の計測値より小さいな」
と今回海外出張中の加藤先生に代わって診察してくれた若い須和先生はつぶやいたが、龍虎は
「0.1cmというのは測定誤差だと思います」
と答える。
 
この計測は皮膚の中に埋もれている部分から計るので、計ってくれる看護師さんの力の入れ具合や定規の当てかたで結構な差が出ているような気もするのである。
 
しかし須和先生は
「念のためもう一度計ってみよう」
と言って、龍虎にベッドに寝てパンツを脱ぐように言い、自分で物差しを持って測定してくれた。
「僕の計測では4.3cmだな」
「ああ、だったらやはり誤差の範囲ですね」
と龍虎も言った。
 
ただ、須和先生は定規をかなり下の方に当て、しかもちんちんを定規に押さえつけるようにした。それでちんちん本体を触られたことで刺激されて少し伸びた気もした!
 

この3月の検診の時は、
 
「長野龍虎さん、お薬出ますから処方箋もらって下さいね」
 
と言われて引換券を渡されたので、それで処方箋をもらって薬局でお薬を購入した。毎日1錠飲むようにということだったので龍虎はそれを飲んでいたが、そのお薬は飲んで少しすると妙に「興奮」することがあるのを感じていた。どういう系統のお薬なのかなあとも思ったが、特に詮索はしなかった。
 
1年生の12月に退院してから3年生の12月の検診の時までの2年間など毎日凄い量のお薬を飲んでいた。その後4年生の12月の検診までは2種類だけのお薬を飲んでいた。その検診の後では「今回はお薬は無いです」と言われたので、あれ〜?もうお薬飲まなくていいのかな〜?と思っていたら3月の検診でお薬が復活したので、もしかして12月の時は処方忘れかな〜?などとも思っていた。
 

それで龍虎の悩みなのだが、実は最近、ちんちんが縮んで行っているような気がしてならないのである。
 
以前は指3本で摘まむことができていたのが、最近摘まむのが困難なのである。むろんちんちんは短くなっている時と長くなっている時との変動があるので、時には摘まめることもあるのだが、最近摘まめない時が多い。
 
「ボクのおちんちん、小さくなって行ってその内また小学1年生の時みたいに全部皮膚の中に埋もれてしまったりして」
などと考えたりする。
 
そんなの川南に知れたりしたら、
「龍、これはちんちん無いも同然だから、君はもう女の子だ。名前も女の子らしく龍子に改名しよう」
 
とか言われそうなどと想像すると、なぜかドキドキする気分だった。
 
「スカート穿いちゃおうかな」
 
などとつぶやいてその日は家の中でスカートで過ごしたが、龍虎がスカートを穿いていても両親は特に何も言わない。というよりほとんど龍虎の日常である!
 

バスケットボール女子、ロンドンオリンピック世界最終予選のシステムはこのようになっている。
 
参加国12チームが3チームずつ4つのグループに分かれ、その中で総当たり戦をする。ここで最下位になったチームは脱落である。2位以上のチームが決勝トーナメント(?)に進むが、出場できるのは5チームなので、実は準々決勝に勝てば即オリンピック出場決定である。
 
そして準々決勝に負けた4チームで「準決勝」を行い、負けたら脱落。勝てば最後の1つの席を巡って「決勝」を行う。
 
従って運が良ければ2勝で出場決定になる可能性もある(1勝1敗で予選リーグを通過して準々決勝に勝った場合)し、3勝しても行けない可能性もある(2勝で予選リーグ通過するも、準々決勝で敗れ、準決勝では勝っても決勝で敗れた場合)。しかし12チームの内5チームが行けるのだから、この最終予選を通過できる可能性は結構高かったのである。
 
日本がベストメンバーで臨めていたら。
 

参加国は次のようにグループ分けされた。
 
A トルコ 日本 プエルトリコ
B チェコ アルゼンティン ニュージーランド
C クロアチア 韓国 モザンビーク
D フランス カナダ マリ
 
大会は代表選手が発表された翌日6月25日から早速始まったが25日は日本は試合が無かったので、物凄く気合いが入っているエレンが主導して練習場所に割り当てられている体育館で朝8時から夜10時までみっちりと練習が行われた。この日のエレンは昨日千里たちの言葉に怒ったせいか、厳しい表情で、鬼軍曹と化していて、早船和子や吉野美夢が緩慢なプレイを見せると、ボールをぶつけるなどして激しい言葉を浴びせていた。
 
宮本睦美が「レン、キャラが変わってる!」と小さい声でつぶやいていた。
 
またエレンは中核戦力になると思われる武藤博美・広川妙子・黒江咲子に各々千里、亜津子、玲央美を練習相手に指名し、朝から晩まで1on1をやらせた。また馬田恵子も王子とたくさんマッチングさせた。石川美樹は自主的に吉野美夢と何本も1on1をやっていた。
 
エレンは知っているのである。
 
どんなにコンビネーション・プレイの練習をしようとも最後の最後は個人の能力で相手を圧倒できない限り、勝利はあり得ないことを。
 

貴司は何でこんなことになっちゃったんだろう?まずいぞ、まずいぞ、と思いながらも病室で阿倍子のお父さんの手を取っていた。
 
阿倍子は言った。自分の父がもう余命幾ばくもない。たぶん1ヶ月もたない。それで申し訳無いが、父の前で自分の婚約者のふりをしてくれないかと。貴司は自分は結婚予定なのでそんな話には応じられないと言ったのだが、阿倍子の巧みな口説きと泣き落としに負けてしまい、とりあえず阿倍子と一緒にお父さんが入院している病院に来てしまったのである。
 
しかしお父さんは貴司の手を取って
 
「阿倍子の前の旦那は酷い奴だった。阿倍子に辛い不妊治療をさせて、それで赤ん坊ができないのを責めて。赤ん坊ができないのは妻だけのせいではないのに、全部阿倍子に責任があるような言い方だった。あんたは赤ん坊なんかいいから、阿倍子を大事にしてやってくれ」
 
などと言う。それで貴司も
 
「大丈夫ですよ。子供ができなかったら養子を取ればいいんですよ。阿倍子さんを大事にしていきますから、お父さんも治療頑張ってください」
と笑顔で言った。
 

「でもお前たち、結婚式はいつあげるの?」
と阿倍子の父が訊く。
 
「えっと来年くらいに挙げようかと思っているんだけど」
と阿倍子。
 
「それでは俺がお前の花嫁姿を見られん。どうせ結婚するのなら来週くらいにでも式を挙げてくれんか?」
と父。
 
ちょっと待て〜〜〜!と貴司は思う。
 
「それは無茶だよ。式場も取れないよ」
と阿倍子も言う。
 
「じゃ結納だけでもしないか?」
「でも私たちまだ婚約指輪も作ってないし」
「すみません。今お金がなくて」
と貴司も言う。
 
すると阿倍子の父は言った。
 
「俺が持っている関西電力株を売りなさい。300株あったと思うから。震災でだいぶ値下がりしてしまったけど、全部売れば30万くらいになるはず。それで指輪を買いなさい」
 
「あ、うん・・・」
と阿倍子は貴司に視線をやりながら頷いた。
 

貴司が善美のジャガーに乗ったのが6月10日の夜で、デートの約束をしたのが15日(金)の夜だったのだが、実際には貴司はその夜、阿倍子と寝てしまった。阿倍子は翌16日、強引に貴司を阿倍子の父が入院している病院に連れて行き、自分の婚約者だと言って紹介した。すると父は今お金がなくて指輪が買えないという貴司に、自分の所有する株を売って資金を作りなさいと言った。
 
それで阿倍子はその日の内に貴司に「形だけだから」と言って貴司を宝石店に連れて行き、阿倍子自身のカードで0.3カラットのダイヤのエンゲージリングとペアの結婚指輪を買ってしまったのである。株の売却は18日(月)に売却した場合、代金は3日後の21日(水)に入金され、それを銀行などに移した場合、その翌日の22日(木)に利用できる状態になる。それでカードの方は決済すればいいし、その代金を貴司に請求したりはしないと阿倍子は貴司に説明した。
 
指輪の材質は阿倍子が金属アレルギーなので、アレルギーの起きにくいチタン製にしてもらった。特殊な素材なので翌日の受け取りになる。
 
それで17日(日)に阿倍子がそのダイヤのエンゲージリングを左手薬指にはめて嬉しそうにしているのを見て、貴司は内心、やばい、やばい、やばい、やばいと思っていた。ふたりはそのまま病院に向かい、指輪を填めた所を父に見せてあげた。
 
父は涙を流して喜んでいたが、貴司は内心ほんとに困っていた。
 
阿倍子はあちこちのホテルに電話しまくり、7月8日(日・大安)に結納をすることを決めた。
 
阿倍子が急いだのは実際問題として父がいつ死んでもおかしくない状態であったので、何とかその前に結納までは見せてあげたかったからである。
 
「阿倍子さん、僕はマジで他に婚約者がいるから、こんなことはできない」
と貴司は言ったのだが
 
「だから形だけ私の婚約者を演じて欲しいのよ。結納までしてくれたら後は別れましょう。父の顔色見たでしょ?明日死んでもおかしくない状態なのよ」
と阿倍子は言った。
 

和実は6月25日(月)の朝から新幹線と《はくたか》を乗り継いで射水市の病院まで行き、性転換手術前の最後の定期検診を受けた。今回は2日掛かりでの診察である。
 
「先月の写真を見て私はワクワクしたよ。こんな楽しい患者さんは初めて」
と言って、松井医師は先月の写真を見ていた。
 
しかし・・・この病院でMRIを取ると、全部男性の身体しか写らないのである。松井医師がとっても不機嫌である。
 
「性別が不安定になっていると聞いたから期待していたのに」
「実は除霊してもらったんです。それで私の身体に憑依していた女性の霊がいなくなったので、本来の身体の写真が写るようになったんだと思います」
 
「でも睾丸が写っているんだけど」
「存在しますから」
「それ取ったんじゃないの〜?」
「大間先生がそう思い込んでおられるようだったので、取り敢えず話を合わせておきました」
 
松井医師はしばらく考えていた。
 
「今から性転換手術してあげるから。今日の午後は手術室空いているんだよ」
「来月にしてください」
 

和実が退院して帰ってしまってからも松井医師はぶつぶつ言って不機嫌であった。相棒の鞠村医師がおかしさをこらえながら
「残念だったね」
と声を掛ける。
 
「誰か性転換したい。どこかに可愛い男の娘いない?今すぐ女の子に変えてあげたいんだけど」
 
「ほんとに絵理って性転換が好きなんだね〜?」
と半ば呆れるように言ってから、鞠村はふと、1枚の写真に目を留めた。
 
「ねえ、ここに写っている影みたいなもの何だろう?」
「ん?」
 
松井医師はその写真の番号を確認するとモニターに呼び出し、分かりやすいように大きく拡大した。
 
「これ・・・卵巣だよね?」
「凄く薄い影だけど、この形は卵巣に見える」
 
「やったぁ!!やはり和実ちゃんには卵巣が存在するんだよ」
と松井医師は嬉しそうに言った。
 
「やる気出た?」
「出た出た。ところで猛烈に今日性転換手術したいんだけど、この歳、男の娘でなくてもいいし、年食っててもいいから、誰かちんちん切っても構わない男いない?」
 
「いない、いない。くれぐれも犯罪行為だけは慎んでね」
と鞠村は松井に釘を刺した。
 

6月25日(月)仏滅。
 
桃香はその日のバイト勤務を終えて季里子と一緒に暮らすアパートへバスで帰った。このバイトもあと一週間で終わりである。バイトが生活の一部になっていたから、無くなると張り合いが無くなるかも知れないが、大学の方もゼミがけっこうきつくなってきているので、そちらに集中しないといけないなと考えていた。
 
またこの時期、桃香は大学院に進学するかどうかでも悩んでいた。理学部は修士課程までいく学生が多い。しかし正直、修士まで行く意義も分からない気がしていた。修士の学位が必要な職業に就く予定もない。とは言っても実は自分が大学を卒業した後、何をするのかというプランも無い。逆に言うと自分が何をしたいのか考えるモラトリアムとして修士の2年間を使う手はあるという気もしていた。
 
鍵を開けてドアを開け
「ただいまあ」
と言って中に入る。
 
そしてそこに居る人物を見てギョッとする。
 
「お父さん?」
 
「高園さん、お帰りなさい」
と言っているのは季里子の父である。
 

「まさか季里子さんに何かあったんですか?」
と桃香は尋ねた。
 
「季里子は取り敢えず親戚の家に預けました」
「はい?」
 
「この通りです」
と言って季里子の父は畳に頭を付けて土下座の姿勢を取った。
 
「何です?何です?」
「お願いします。季里子と別れてください」
 
それで桃香はここに季里子の父がいる理由(わけ)が分かった。季里子は父に自分と桃香の関係を打ち明けたのだろう。そして自分たちを夫婦として認めて欲しいと言ったのではなかろうか。それに父が激怒して、別れさせに来た??桃香はそういう展開を想像した。それもっと時間を掛けてから言いたかったのに。
 

父は言った。
 
「私はある程度同性愛や性同一性障害にも理解はあるつもりです」
「はい」
 
「お聞きになっていると思いますが、うちには3人の子供がいます」
「ええ」
 
「いちばん上の男の子は物心ついた頃から女の子のような傾向を見せていました。実際小さい頃からよく女装していました。高校生の内に親にも黙って去勢してしまって、高校卒業した後は性転換手術を受けて本当の女の子になってしまいました。そして戸籍の性別も変更し、正式に女になって男性と結婚して家庭を築いています」
 
その話は全く知らなかった。季里子から自分の上に兄と姉がいるとは聞いていたのだが、そのことについて季里子はあまり話そうとせず、また会わせようともしなかったのである。
 
「2番目の男の子は」
とお父さんが言った時点で季里子が言っていた「兄と姉」の内、姉というのは兄から姉に変わった人だったのかということを桃香は認識した。
 
「本人はふつうに男の子だったのですが、小さい頃から男の子が好きで中学や高校の時にも、ボーイフレンドを自宅に連れて来たこともありました」
 
桃香は思った。LGBTってわりときょうだい全員に現れることがあるんだよなと。親としてはたまらないのだが。兄弟そろって、あるいは姉妹そろって性転換してしまった人たちも何組か知っている。
 
「お前女の子には興味無いの?と聞いたのですが、女なんて触られただけで気分が悪くなると言っていました。ところがある日、今女性と付き合っていて結婚したいというので、私も妻も諦めていただけに喜んだのですが、その結婚相手というのを聞いてびっくりしました。実は生まれた時は女性だったものの、男の子になりたくて男性ホルモンを服用していて既に女性機能は停止して、ヒゲも生え、声変わりもした人だったんです」
 
「あぁ・・・」
 
「向こうはまだ性転換手術はしていないということでした。女から男に変わる性転換手術って異様に高いらしいですね」
「そうなんですよ。私も男になる手術受けようかなと思ったことありますが、あまりにも高くて手が出ない感じで」
 
「それでその人は手術するお金も無くて、それで戸籍上の性別も男に変更することができないでいたそうなのですが、でもかえって息子と結婚するには好都合だったんですよ」
 
「なるほどー」
「それでふたりは結婚しました。結婚式もごく内輪でやりましたが、ふたりともモーニングを着た式になりました」
 
桃香は思った。結果的に上の2人はどちらも法律的にも結婚しているんだ!と。
 

「まあいいんではないですか。でも上のふたりを認めてあげたのに、私と季里子さんとの間のことは認めてもらえないのですか?」
と桃香は純粋に訊いた。
 
「私は・・・私は・・・孫が欲しいのです」
「あぁ・・・」
 
「いちばん上の子は性転換手術をした時に生殖器は取ってしまったので、もう子供は作れません。2番目の所は相手の生殖機能が停止してしまっているので子供が産まれることはありません」
 
「それで季里子に」
 
「季里子にだけは普通の男性と結婚して欲しかったのです。桃香さん、私はあなたのことが気に入っている。季里子と実は夫婦になったと聞いて驚きましたが、桃香さんであったら季里子と結婚してもらってもいいと思いました。でもそれでは子供ができません」
 
「そうですね。私も精子は持ってないので」
 
「それで本当に申し訳無い。この通りなので、季里子と別れてもらえないでしょうか」
とお父さんは再度桃香の前に土下座した。
 
「季里子さんは何と言っているのですか?」
「手当たり次第物を投げつけられました」
「季里子らしい」
 
「ここに手切れ金を300万円用意してきました」
と言ってお父さんは分厚い札束を差し出した。
 
「こちらが桃香さんから頂いたエンゲージリング、そして結婚指輪です」
と言って2つのジュエリーケースを差し出した。
 

桃香はなぜか冷静だった。
 
こちらが泣き叫びたい気分だ。しかしなぜか桃香は静かに言った。
 
「エンゲージリングもマリッジリングも、季里子だけのために用意したものです。返されても困ります。もしよかったらエンゲージリングは、ファッションリングとしてでも持っていてもらえませんか?指につけるつけないは別として」
 
「分かりました。それでは別れてもらえますか?」
「手切れ金は、そのまま季里子の結婚祝いのご祝儀としてお父さん、受け取ってもらえませんか?お金をもらって季里子と別れたら、私は自分を許せなくなります」
 
お父さんはしばらく考えていた。そして言った。
 
「分かりました。それではこの結婚指輪だけを返却したいのですが、いいですか?」
「受け取ります」
と言って桃香はそれを受け取った。
 
これで離婚は成立してしまった。さすがに涙が一粒目からこぼれた。
 
そして桃香は言った。
 
「お父さん、少し飲みませんか?私はお酒を飲みたい気分です」
「そうですね。今夜は飲み明かしましょう」
 
こうして桃香と季里子の新婚生活は半年もせずに終わってしまったのであった。
 

6月26日10:00JST(4:00EEST) 日本バスケットボール協会は7月1日のゼビオ・チャレンジ(台湾との親善試合)に出場する日本男子代表17名を発表した。
 
この中には貴司の名前があったので、日本に残っている《すーちゃん》からの連絡を受け、貴司たちがお昼休みになった時刻12:10JST(6:10EEST)を見計らって、千里は貴司に電話した。
 
「おめでとう」
と明るく言う千里に対して貴司は
 
「あ、うん・・・」
と何やらはっきりしない雰囲気。
 
「どうかしたの?」
「いや、何でもない。せっかくのチャンスだし出してもらえたら頑張るよ」
「うん。愛してるから頑張ってね」
「ありがとう」
 
どうも様子のおかしい貴司に千里は首をひねった。
 

6月26日18:20JST(12:20EEST).
 
千里がお昼を食べていたら桃香から電話が入る。
「今夜千里どこに居るんだっけ?」
という桃香の声が物凄く暗い。
 
「何かあったの?」
「少し話したいことがあって」
 
千里はこれはただならぬ事態だと判断した。
「分かった。どこかで会おうよ。どこがいい?」
と千里が言うので、同じテーブルに居た玲央美が顔をしかめている。
 
「良かったらアパートに来れないかな?」
「いいよ。そちらに向かう」
 
それで千里は玲央美に
「ごめん。午後の練習サボるね」
と言うと、ちょっと席を立ってカーテンの陰に行く。そしてカーテンから出てきて玲央美のテーブルに来て
「どうもどうも」
と言っている人物を見て玲央美は腕を組んだ。
「あんた女だっけ?」
「すみませーん。試合には出ないから大目に見て」
「まあ試合に出たければ、取り敢えず手術受けてちんちん取って女にならないといけないね」
「手術は勘弁してください」
と千里に擬態している《こうちゃん》は言った。
 

玲央美はこの日の午後の練習では“千里”に黒江咲子の練習相手をしてもらったが、咲子が全く“千里”に勝てないので、咲子は物凄く闘志を燃やしていた。その様子を見ていた横山温美が
 
「ねぇ、ひょっとしてサン(千里)って今ここにいるメンツの中で最強ということは?」
とエレンに尋ねた。
 
「何を今更。サンとプリン(高梁王子)が2強。この2人のパワーは飛び抜けている。次がレオ(佐藤玲央美)、フラ(花園亜津子)、サイド(横山温美)、マー(馬田恵子)。この4人は優劣付けがたい」
 
「なぜそのサンとフラとレオが落とされたんだろう?」
と温美が訊くと
 
「日本に負けて欲しいとしか思えないね」
とエレンは吐き捨てるように言った。
 

緊急事態っぽいので《くうちゃん》に転送してもらって千葉に戻った千里は桃香のアパートに入った。
 
「千里、おかえり」
「どうしたの?このアパートには来ないという話だったのに」
「破談になった」
「え!?」
 
「こういう話なんだよ」
と言って桃香は季里子のお父さんとの会談内容を千里に話した。
 
「悲しいね」
と千里は涙を流して言った。
 
「今回ほど自分が男でないことが悲しかったことはない」
「諦めるの?」
 
「私はお父さんの心情が痛いほど分かるんだよ。自分の親にも同じ不孝を掛けているから」
「季里子ちゃん、だったら男の人と結婚するの?」
 
「友だちの優子が季里子と話してくれたんだけど、見合いを取り敢えずしたらしい。近い内に結納もすると」
 
「でも子供産むためだけに結婚しないといけないのかなあ。種だけもらったらいいじゃん」
「世間では結婚してから子供を作るもんだよ。むしろ私は自分と季里子が結婚しているのに他の男と季里子が寝て赤ちゃん産んだら、耐えられない気がする」
 
「私も耐えられないかも知れない」
と千里は言ったが、この時千里は自分も一週間後に桃香と似た立場に立つことになるとは知るよしもなかった。
 
「千里、添い寝して」
「セックスはしなくていいんだ?」
「しばらく自粛する」
「いいよ。季里子ちゃんに操を立てなよ。しばらくは」
「うん」
 
結局千里はこの日、朝までアパートに滞在して、朝御飯も一緒に食べたので、その間トルコではずっと《こうちゃん》が千里の代役を務めた。
 

6月26日25:00JST(19:00EEST).
 
バスケット日本女子代表は初陣でトルコと対戦したが、トルコの堅い守備に阻まれて、王子以外は全く中に入れてもらえず65-49で完敗した。エレンは3本しかスリーを入れることができなかった。コートから戻ってきた時、エレンは
 
「生卵とシュークリームは悪いけど付けといて」
と“千里”と亜津子に言うと、疲れたような表情で引き上げて行った。
 
翌27日。日本は格下のプエルトリコに苦戦する。前半リードを許す展開であったが、ハーフタイムに千里と亜津子の厳しい視線を見たエレンは立ち上がると持っていたコーヒーのスティール缶を握りつぶした。
 
そばに居た宮本睦美は、その握り潰されたコーヒー缶に入っていたコーヒーを浴びてぎゃっと声をあげたが、エレンはその悲鳴にも気付かず、千里・亜津子と睨み合っていた。
 
後半、そのエレンは超絶な活躍で7本もスリーを放り込んで試合をひっくり返す。そして日本は何とか70-79で勝利したのである。
 
これで日本は1勝1敗で決勝トーナメントに進出することができた。
 
但しエレンは試合が終わり控室に戻った途端倒れてしまい、医務室に運び込まれて、点滴まで受けた。
 

6月28日(木).
 
阿倍子は困惑していた。
 
実は25日頃に来るはずだった生理がまだ来ないのである。
 
「まさか・・・ってことないよね?」
阿倍子は薬局に行くと、早期妊娠判定薬を買ってきた。生理予定日から妊娠判定ができるタイプである。
 
結果は陽性である!
 
「うっそー!?」
 
しばらく考えていた阿倍子は貴司に電話した。
 

貴司は合宿中だったのだが、阿倍子からの驚くべき話に、外出許可をもらって都内のホテルで新幹線で東京に出てきた阿倍子と会った。
 
「どういうこと?妊娠したって?」
「だからこないだの晩ので妊娠したとしか考えられないのよ」
「だって僕たちセックスしてないよね?」
「セックスはしてないけど性器は接触させたし何度か柔らかいまま入れたよ。だから我慢汁の中に含まれる精子が私の膣内に進入して、子宮まで辿り着いて受精した可能性はあると思う」
 
「そんな馬鹿な」
「可能性はあるでしょ?」
 
(こういうトラブルを経験していたのに5年後に美映と同じトラブルを起こす貴司はほんとうに馬鹿である)
 
貴司は困ったような顔をしていたが、やがて言った。
 
「申し訳無い。費用は僕が出すから中絶して欲しい」
 
しかし阿倍子は言った。
「それは絶対嫌」
 
「どうして?」
 
「だってだって、私、前の旦那と何年も不妊治療して、一度も妊娠成立しなかったんだよ。初めてなんだよ、妊娠したのって。貴司さん以前言ってたよね。妊娠って相性があるから、他の人となら妊娠する可能性あるって。だから、私と貴司さんって凄く相性がいいんだと思う。でも相性がよくても妊娠の可能性って凄く低いと思うんだよ。こんなこと絶対二度と無い。だから産みたい」
 
と阿倍子は涙を流して訴えた。
 

「僕は認知しないよ」
「認知を求めて裁判起こすよ。遺伝子判定してもらったら間違い無いと思う」
 
貴司は考えた。ここまで阿倍子が頑張るというのは本当に自分以外とは性的な接触をしてないのだろう。それで言った。
 
「分かった。だったら出産費用と養育費は出すから」
 
千里から何と言われるかと考えたら恐ろしいが、ここを納めるにはこの選択しかないと貴司は思った。女性を妊娠させて裁判などということになると、不祥事を起こした選手ということになり、せっかく掴み掛けている代表の話も消えてしまうだろう。チームでも何か処分を受ける可能性もある。
 
「それならいっそ結婚してよ」
「それは無理だって」
「結婚してくれないなら私死んじゃう。そして遺書を残すの。細川貴司さんに欺されて妊娠して結婚もしてくれないから死にますって」
 
「それは全然事実と違う!」
と貴司は怒って言う。
 
「私、本当はお父ちゃんが死んだら自分も始末を付けようと思っていたの。お母ちゃんもずっと病気がちで、毎日食事前にインシュリンも打ってるし。医療費が凄くて、とても支えていけないけど、私が死んだら福祉施設とかにでも入れると思う。だけど赤ちゃんができたのなら頑張らなきゃと思った。でも結婚してもらえないなら、やはり死ぬしか無い」
 
と阿倍子は思い詰めたような顔で言った。
 
「君のことは気の毒とは思うが、僕は君と結婚することはできない」
と貴司は言った。
 
「だから私は死ぬから気にしないで。遺書を残すだけ」
「僕を脅迫するつもりか?」
 
その夜、ふたりの議論は夜遅くまで続いたが、さすがに23時になった時点で貴司は「お腹の赤ちゃんによくないから寝なさい」と言って、無理にベッドに寝せる。
 
「添い寝してよ」
と涙を流しながら言う阿倍子を見ると貴司はむげにはできない気がして、その横、毛布の“外側”に横になった。
 
「寒いよ。毛布に入りなよ」
「いやこのままでいい」
 
夜は更けていった。
 

世界最終予選を戦っている日本女子代表。
 
28日は休養日だが、1日練習で明け暮れる。エレンは鬼軍曹となってみんなに激しい練習をさせていた。早船が
 
「レンさん、こんなに練習してたら明日まで疲れが残ります」
と言ったら、エレンはギロリと彼女を睨み
 
「練習したくないのなら、今すぐ日本に帰れ」
と言った。
 
「そんな言い方無いでしょう?レンさんこそ力が衰えて足手まといなのに」
と言ってふたりは喧嘩になってしまう。
 
何とか黒江咲子がふたりを引き離し、羽良口英子が「センちゃん、言っていいことといけないことがある。謝りなさい」と言って、早船も渋々謝り、何とかその場を納めるというシーンもあった。
 

そしてむかえた6月29日の準々決勝。日本はこの試合に勝てばオリンピックに行くことができる。
 
しかし世界ランキング4位のチェコは無茶苦茶強かった。第1ピリオドなど17-4という一方的な展開になる。その後何とか挽回していったものも及ばず。53-47で敗れた。
 
この日勝ったクロアチア、チェコ、トルコ、フランスの4国はオリンピック出場決定である。残るたった1つの椅子をこの日敗れた、カナダ・日本・アルゼンチン・韓国で争うことになる。
 
30日の準決勝。日本は韓国と対戦したが51-79で勝った。昨日チェコ戦で4本しかスリーを入れられなかった三木エレンはこの日は8本もスリーを入れて“辻褄を合わせた”が、千里と亜津子に「昨日これをしなかったら意味無いですね」と言われるハメになる。
 
この日もうひとつの試合ではカナダがアルゼンチンを破り、最後の決勝戦は日本とカナダで争われることになった。
 

2012年7月1日16:00JST(10:00EEST).
 
大田区総合体育館で台湾との親善試合ゼビオチャレンジが行われた。
 
貴司は試合直前に目をつぶって少し瞑想し、精神を集中させる。今は試合のこと以外考えないことにしようと思い切る。
 
貴司はベンチスターチではあったが、第2ピリオドに3分、第3ピリオドに5分出してもらい、8分間の出場の間に2アシスト6得点とまずまずの活躍を見せた。
 
試合が終わってちょうど控室に戻ってきた所で千里から電話があり
「勝利おめでとう」
と言う千里に
「ありがとう。何とか頑張れたかな」
と貴司も明るく答えた。
 
この日は貴司としては阿倍子とのことで重大な局面にあったものの、勝利の後ということもあり、千里と明るく会話することができた。
 
「女子代表も今日勝てるといいね」
「うん。頑張って応援するよ」
 

2012年7月1日24:00JST(18:00EEST).
 
アンカラで日本とカナダの試合が始まる。勝てばオリンピックに行けるが負けたら行けない。どちらにとっても極めて単純な勝負である。
 
しかしカナダは最初から主力をぶつけ、第1ピリオド21-11と日本を圧倒した。日本代表チームには身体能力で遙かに勝るカナダを抑えるすべが無かった。体格的に対抗できるのが馬田恵子と高梁王子だけなので、他から突破されるとどうにもならないのである。
 
エレンはスリーがあると警戒されているので、早め早めに潰すようにしてくる。結果的にエレンはスリーポイントラインの所に立つことができなかった。
 
そしてこの試合は71-63で敗れ、日本はオリンピック切符を掴むことができなかったのであった。
 

沈んだ空気の選手控室で三木エレンが、バスケ協会の鰥臣理事に話しかけた。
 
「私はキャプテンとしてこの大会に臨みました。しかしオリンピックにみんなを連れていくことができなかった。それで考えていたんですが、私はこの大会をもって・・・」
 
そこまでエレンが言った時、生卵とシュークリームが飛んできてエレンに当たる。
 
「何をしてるんだ!?」
と鰥臣さんが怒った。
 
しかし千里は言った。
 
「レンさん、勝ち逃げは許しませんよ」
 
「勝ち逃げ?」
 
「この大会で私も花園も三木さんに負けて代表になれなかった。その中で三木さんが万一このまま引退してしまったら、私も花園も永久に負けたままです。私も花園も3年後のアジア選手権までに力を付けて、実力で三木さんを代表の座から引きずり降ろします。ですから、それまで三木さん、バリバリの現役でいてください」
 
すると三木エレンは泣き笑いのような表情になった。
 
「サン、フラ。ありがとう。分かったよ。こんな老いぼれさっさと引退した方がいいのかも知れないけど、憎まれっ子世にはばかるで頑張るから3年後にまた勝負しよう。って、来年もアジア選手権はあるんだけどね」
とエレンは言った。
 
アジア選手権は2年に1度であるが、来年のアジア選手権の上位は2014年の世界選手権に出る。3年後2015年のアジア選手権覇者は2016年のリオデジャネイロ五輪に出ることができる。
 
「それに3年後も私がまた私がサンとフラを蹴落とすから覚悟してなさい」
とエレンが挑戦的な顔で言うと、千里も亜津子も笑顔で頷いた。
 
そんなことをしていたら早船和子が
 
「サンたちにやられる前に私がレンさんには引導を渡してあげます」
と言っている。
 
「あんたは返り討ちにしてやるから」
とエレンは言った。
 
そういった対話を聞いて鰥臣理事も笑顔で頷いていた。
 

日本代表の一行は7月2日帰国した。
 
ESB 7/2(Mon)13:00 (TK2143) 14:05 IST (1h05m)
IST 16:55 (TK50) 7/3 10:10 NRT (11h15m)
 
日本到着後は都内のホテルでバスケ協会会長に結果を報告した後、記者会見を行って解散したが、記者会見ではキャプテンの三木と、帯同した鰥臣理事、それに日本国内に居て選手たちを出迎えた強化部長に厳しい質問がされていた。なお、ヘッドコーチもアシスタントコーチも日本には来なかった!最後まで責任の所在が全く分からない代表活動であった。
 
なお日本女子A代表の活動は今年はこれで終了であり、次は来年6月の国際親善試合、9月の東アジア大会、10月のアジア選手権(これが最も重要)に向けて来年の2月くらいからまた強化活動が始まる予定である。
 

千里はバスケ協会で解散してから、何人かのメンバーと一緒にお昼を食べ、その後、いったん葛西のマンションに戻って遠征の荷物を置いた後、普段着に着換えて千葉のアパートの方に行った。
 
桃香が何だかボーとしている。
 
「ただいまあ。牛丼買ってきたけど食べる?」
「食べる食べる」
 
それで一緒に食べていたが、やはり桃香はボーっとしたままである。季里子ちゃんと別れたのが本当に痛手だったんだろうなと思っていたら桃香は別のことを言った。
 
「いや、実は今朝までの勤務で、電話受付センターのバイトが終わったんだよ」
「ああ。辞めたんだ?」
「というかセンターが閉鎖になっちゃって」
「ありゃ」
 
本来は6月末で終わりの予定だったのだが、大きなイベントの受付の仕事が入り、その受付締切りが今朝10時だったらしい。
 
「でもバイトしながらゼミやるのが結構辛かったからこれでいいかも知れないという気はする」
 

「でも千里、大学院はどうするの?」
「行かない。行かない。12月に結婚するから、卒業した後は大阪で彼と暮らすよ」
「結婚かぁ。いいなあ」
「桃香も2〜3年後には結婚したいと思う子ができるかもね」
「そうだな。2〜3年後にはできるかもね」
と桃香は少し疲れたような顔で言った。
 
「桃香は大学院どうすんの?」
「実はまだ何も就職活動してないんだよね」
「ああ、それはやばい」
「就職するなら、会社回りとかしないといけないけど、なんか気力が足りない」
 
「まあバイト退職して今は疲れがどっと出ているだろうし。いっそ夏休みに突入してから就職活動してもいいかもね」
 
「そうだなあ」
と言ってから桃香はハッとして言った。
 

「千里、性転換手術受けるのいつだったっけ?」
「7月18日だよ」
「準備とかしてる?」
「別に準備も何もないと思うけど。7月14日にタイに渡って18日に手術受けて帰ってくるだけ」
「まるで観光旅行にでも行くようなノリだ」
「似たようなものだと思うけどね」
 
「以前言っていたように、私も付いて行くから」
「大変なのに!」
「青葉と同じ日だからさ。青葉には母ちゃんが付いているから、千里には私が付いている」
「ありがとう。助かるかも。旅費・滞在費は私に出させてね」
「出してもらおうかな。実はちょっときつい。退職金は通常の給料と一緒に7月末の支払いだから、それまでは余裕が無くて」
「うん。無理しないでね」
 
「タイはビザ要らなかったよね?」
「観光目的で短期間の滞在なら不要のはず」
「じゃそれで入国しよう」
「まあお仕事する訳じゃないからいいだろうね」
 
「でも彼氏は付いてってくれないの?」
「向こうは9月まで超忙しいんだよ」
「それは大変だな」
 
実際貴司の合宿は7月12日から15日まであり、続いて7月19日からまた合宿があるので千里の手術に付き添うのは無理である。そもそも千里は貴司にどう手術のことを説明すればいいのか分からなかった。
 
千里はアテンダント会社に連絡を取り、親友が一緒に行ってくれることになったこと、それでできたら航空券はこちらでその2人分を確保して並んでいきたいということを伝えた。
 
アテンダント会社では、それは可能だが、千里の航空券代相当の返金には応じかねると言う。千里がそれは構わないと言うと、了承してもらえた。なお桃香の分のホテルは格安で確保できるということだったので、追加料金を払って確保してもらうことにしたが、この追加料金から若干の割引をしてくれたようである。それが多分本来の千里の航空券代相当の一部だろうと千里は想像した。
 
結果的に千里と桃香が並びの席、アテンダントさんは離れた席になる。
 
しかし実を言うと千里はどっちみち航空券は自分で確保するつもりだったのである。そうしないと、アテンダント会社は当然千里の航空券を「男性」として手配するはずである。普通男→女の性転換手術を受ける人はパスポートは男性になっているはずだから。ところが千里のパスポートは元々女性になっており、これを合理的にアテンダント会社に説明することが困難と思われたのである。
 

7月4日は常総市の体育館建築現場に行き、作業をしてくれている人たちをねぎらうとともに、進行状況を確認した。早めに進んでいるようで、このままなら9月くらいに完成しそうということだった。
 
日中は銀座に出てティファニーで結婚指輪を受け取った。結局千里も貴司もお揃いのデザインのものを贈り合うことにしたのだが、貴司に贈る分は千里が銀座店で、千里に贈る分は貴司が大阪梅田店で受け取った。
 
先月留萌での結納式の時は、結婚指輪のデザインをカタログを見ながら確定させ、すぐに電話で注文を入れた。また双方の親がいるのをよい機会として婚姻届けを実際に記入して、望信と津気子の署名ももらっている。ただし、その婚姻届けは千里の性別が女に切り替わるまでは提出できない。書いた婚姻届は取り敢えず千里が保管している(貴司だと無くしそうなので)。
 

夕方からはローキューツの玉緒と会って、チームの状況を確認するとともにこの後の活動・遠征の方針を承認した。
 
「ほぼ主力が入れ替わる形になったけど、何か充実してるよ。これなら、全日本クラブ選抜も、あまり恥ずかしくない成績になるかも」
「オールジャパンにまた行けるといいね」
「うん。私もそれを期待してる」
と玉緒は明るく言っていた。
 
オールジャパンに行くためには全日本クラブ選抜(9/8 前橋市)で3位以内になり、全日本社会人選手権(11/3 秋田市)に出て2位以上にならなければならない。
 
「来月はまたBチームで北海道の時計台カップに行ってくるし」
「何か旅行クラブと化していたりして」
「そうそう。沙也加がこんなに旅行できるなら私また選手になろうかなとか言ってる」
「ああ、歓迎歓迎」
「うん。私や司紗もそう言っているところ」
 

7月6日(金)。運命の日。
 
千里が千葉のアパートで部屋に掃除機を掛けていたら、唐突に貴司が来訪した。
 
「いらっしゃーい」
と千里は明るく貴司を歓迎する。
 
「大事な話があったんだけど、電話も通じないしメールにも返事がないから直接やってきた」
と貴司は言っている。何やら深刻な顔をしている。
 
「ごめんねー。何か色々用事が溜まっていて」
 
実際長期間海外に出たり合宿したりしていたので、この2日間は色々な用事で飛び回っていたのである。
 
「それでしばらく会えないってメールしてきたの?」
「まあそれもあるかな。ビール飲む?」
「うん。もらう」
 
それで千里は冷蔵庫からヱビスビールを出して缶を開けて貴司に渡した。
 
貴司はそれを一口飲んでから何か言おうとしていたが、どうもなかなか言い出せないようである。
 
「どうかしたの?」
「あ、えっと、最終予選惜しかったね」
「チームについて?私について?」
「どちらも」
 
「全くね。今回は選手選考がおかしかったよ。実力のある層を落として、既にピークすぎている選手中心で。私や亜津子が出てたら、あんな惨めな結果にはしてないのに」
と千里は貴司の前なので、ハッキリと怒りを表に出す。
 
「その悔しさをバネにまた頑張りなよ。さすがに三木エレンとかも今回が最後だろうし」
 
「私三木さんに言ったんだよ」
「何て?」
「今回私が落ちて三木さんが代表になったのは絶対おかしい。でも上が三木さんの方が価値があると判断したのなら仕方ない。だから3年後にまた勝負しましょうよ。その時は私が誰が見てもこちらが上という評価を得て三木さんを蹴落としますから、それまでバリバリの現役で居てくださいよって。勝ち逃げは許さないからと」
 
「ひぇー。そんなこと言ったの?怒ったでしょ?」
「怒った怒った。だったら3年後も私があんたを蹴落としてやるから、せいぜい努力してなって言ってた。自分はあんたの10倍練習しているからって」
 
「凄い」
「だから3年後にまた勝負」
と千里は楽しそうに言う。
 

「まあでもそう言った手前、こちらも頑張らないといけないから、貴司、悪いけどベビーは次のリオデジャネイロ五輪が終わるまで待ってね。2015年に京平を産むつもりだったけど、今度のオリンピックが終わるまでは妊娠とかしてられないし。京平にも謝らないといけないなあ。出てくるの少し待ってって」
 
「やはり京平は千里が産むんだっけ?」
「そう京平と約束したからね。あ、それでさ、赤ちゃん産むのにおちんちんが付いてたら邪魔だから、今月18日にタイに行って性転換手術を受けて、おちんちん取って、ちゃんと女の形に改造してくるから」
 
「は?意味が解らないんだけど?千里、とっくの昔に女の形になってるじゃん」
「これから手術受けるんだよ」
 
「馬鹿な。だって千里が女でなかったら世界的な騒動になるよ。千里、2006年秋以来女子選手として活動してきているのに」
「今までは男の子だったけど、試合の時だけ、おちんちん取り外していたんだよ」
「そんな無茶な!」
 
「それで手術受けてくるから、しばらく貴司ともデートできないのごめんね。ってメールしたんだけど、言葉足りなかったかな」
 
と千里は言っているが、実際にはこの件が説明不能なので詳しいことを書かなかっただけである。実際今貴司に説明していても、自分で訳が分からない。
 

しかし貴司は突然畳に頭を付けて言った。
 
「ごめん」
 
千里は戸惑う。
「どうしたの?」
 
「申し訳無い。別れて欲しい」
「え?私が男の子だったのが嫌になった?」
「そんなことはない。千里のことは僕は女の子だと思っている。むしろ普通の女の子だと思っている。でも結婚できなくなったんだ」
 
「なんで?」
 
「実は別の女性と結婚の約束をしてしまった。この8日に結納するんだ」
「どういう意味よ?」
「どう謝っても謝りきれない」
 

貴司はそれで阿倍子とのことを説明したのだが、千里はあまりにも想定外のことで、呆然として貴司の話を聞いていた。しかし話を聞いてもさっぱり分からなかった。
 
「貴司って、そんなに簡単に結婚の約束するものなの?もしかして婚約者が10人くらいいるの?」
「そんなにはいない。でもどうにもならなくて。本当に何といって謝ったらいいのか分からない」
 
貴司はひたすら謝り続けた。
 

桃香はその日、タイに行くのなら少し「女らしい」服も買っておこうかなと思い、古着屋さんに行っていた。ここでイオンとかではなく古着屋さんなのが桃香である。
 
「ただいまあ、千里もうお昼食べた?」
と言いながら部屋に入ったのだが、千里が尋常ではない様子なのでギョッとする。放心状態で目が虚ろである。
 
「千里どうした?」
「桃香・・・・・・」
「何かあったの?」
「私・・・・何したらいいんだろう?」
 
桃香は千里が誰かにレイプでもされたのではと思った。それで千里をハグした。
 
「千里、私の愛で包んでやるから、取り敢えずシャワー浴びてこないか?」
「シャワー?」
「うん。浴びておいで。あのあたりも綺麗にしておいで」
「うん」
 
千里がシャワーを浴びている間に桃香は部屋のノブに『Do Not Disturrb』の札を下げた。そしてエアコンをつける。夏の2DKにエアコン無しでは熱中症になってしまう。やがて千里はバスルームから出てきたものの、まだ茫然自失の様子である。桃香は再度千里を抱きしめた。
 
そしてその日、桃香は千里を何度も何度も愛してあげた。
 

貴司は実は自分でもなぜこういうことになってしまったのかよく分かっていない中、何とか阿倍子とのことを千里に説明しようとしたのだが、千里は途中で放心状態になってしまい、何を話しても反応が無くなってしまった。
 
それで貴司は
「ほんとにごめんな」
と千里に再度謝り
 
「とりあえずこれ返すから。袴料は少し待って。必ず年内には返済する」
 
と千里からもらったタグホイヤーのクロノグラフを千里の前に置いてから部屋を出る。鍵を掛けないと不用心かもと思い、
 
「ちょっと鍵貸してね」
 
と言って千里の財布の中から鍵を取り出す。千里はあらぬ方角を見ていて何も反応が無い。再度「ごめんな」と言って千里の頬にキスする。そしてその鍵でアパートの玄関をロックした。鍵は新聞受けから部屋内に落とし込む。そして千葉駅への道をとぼとぼと歩いた。
 
「ほんとになぜこんなことになったんだろう?」
と自問するが、貴司自身頭の中が混乱している。元はといえば善美の浮気の誘いに応じた自分が馬鹿だったんだなどとも考えるが、本質を突いてないような気もする。
 
東京駅に着いてから新幹線に乗り換えるのに駅構内を歩いていたら、いきなり両脇からガシッと腕を押さえられた。
 

「何?何?」
「細川貴司、刑法246条の3、結婚詐欺罪の疑いで逮捕する」
「え?え?」
 
ガチャッと手錠を掛けられてしまい、連れて行かれる。
 
嘘!?これって逮捕されるものなの!??
 
それで貴司は手錠を掛けられたままパトカーに乗せられてしまった。そして警察に行くのかと思ったら、着いた所は裁判所である。
 
何だっけ?これ略式裁判とかいう奴???
 
と思っていたら、手錠を掛けられたまま法廷の被告席と書かれた所に座らされる。女性の裁判官が入って来て、裁判が始まった。
 
検察官(?)が貴司の罪状を読み上げる。その検察官の指摘があまりにも的確なので、貴司は自己嫌悪に陥るくらい
「俺って、なんて卑劣な奴なのだろう」
と再認識した。
 
「更に被告には多数の前科があります」
と検察官は言い、過去にした浮気の内容を読み上げ始めた。なかには貴司自身完璧に忘れていたものも多かったが、言われると確かに身に覚えのあるものばかりだ。
 
「俺ってこんなに浮気して、こんなに何度も千里を捨てたことがあったのか?」
と思うと、とめどもなく自分が悪い奴だと思い知らされた。
 
「以上を持ちまして、本検察官は被告に死刑を求刑致します」
と言って検察官は着席した。
 

死刑〜〜〜〜!?
うっそー!!!!
 
貴司は青くなった。
 
女性の裁判官はしかめっ面をして検察官の論告を聞いていたが、検察官が着席すると、おもむろに何か白い紙を広げた。
 
「判決を言い渡す」
 
嘘?もう判決なの??
 
「被告を死刑に処する」
 
ひぇー!?本当に俺死刑になるの???
 
「但し情状を酌量してその執行を3年間猶予し、その猶予の期間中被告人を保護観察に付する」
 
よかったぁ!執行猶予か!
 
つまり3年間罪をおかさなかったら死刑は免除になるということだろう。
 
裁判官は続ける。
 
「また保釈金として、被告の男性性を指定するので直ちに納付すること」
 
へ?保釈金って普通起訴されてから判決が出るまでの間の保証金じゃないの?判決が出た後で保釈金って何?
 
 
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【娘たちのクランチ】(3)