【娘たちのクランチ】(1)

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宇宙がいつか終焉を迎えるのか、あるいはずっと続いて行くのかについてはよく分からないがいくつかの終焉モデルは考えられている。
 
■全てが光になる
銀河系の中心には太陽の数百万倍の質量の大ブラックホールが存在する。どこの銀河にもこのような大ブラックホールはあって、それは長い年月の間には銀河の全ての星を呑み込んでしまう。およそ1030年(1000000000000000000000000000000年)後には宇宙の全ての星はブラックホールに呑み込まれ、ブラックホールだけの宇宙になる。この1030年(100億年の100億倍の更に100億倍)というのは、仏教の「劫」という時間にだいたい等しい。「じゅげむ・じゅげむ五劫のすりきれ」の「劫」である。阿弥陀如来が宝蔵菩薩として修行を重ねた時間が五劫らしい。
 
しかしそのブラックホールもホーキング放射を出していつかは蒸発してしまう。銀河系程度のブラックホールが蒸発するには10100年ほど掛かる。もっと大きなブラックホールの蒸発にはもっと時間が掛かるが、それでもいつかは全てのブラックホールが蒸発してしまい、宇宙にはブラックホールが蒸発してできた光子だけが残る。
 
■ビッグリップ
宇宙は膨張しているので、全ての物体間の相互距離はどんどん伸びていく。そのため、宇宙にある物体は遠くのものほど速く遠ざかっている。結果的には観測可能な宇宙(その遠ざかる速度が光速より小さい範囲)はどんどん小さくなっていくことになる。それが究極までいくと、やがては原子と原子の距離、素粒子と素粒子の距離も「観測可能な宇宙」より遠くなってしまい、素粒子同士を結びつける力(強い相互作用)が働くなってしまい、宇宙は全ての粒子が各々単独でひとつの「観測可能な宇宙」を作る状態になってしまう。
 
つまり宇宙は無数の小宇宙に分裂してしまうが、その小宇宙は粒子1個だけでできている。これをビッグリップという。ビッグリップの数ヶ月前には太陽系のような惑星系は維持できなくなり、数分前にはあるゆる構造物が形を保てなくなり、1秒前には全ての原子が破壊されるという。
 
■ビッグクランチ
宇宙の物質量が充分大きい場合、ビッグバン以降どんどん膨張し続ける宇宙はその自分自身の重力のために、どこかで膨張から収縮に転じる。そしてどんどん小さくなって行き、やがては全ての物質と時間は「無次元の特異点」に収束してしまう。
 
一時は宇宙の質量は収縮に転じるには軽すぎると言われたが、ダークマターの発見で、これが起きる可能性もあると言われるようになった。
 
ビッグクランチの後は、再度ビッグバンが起きてまた新しい宇宙の時空が始まるという説(宇宙リサイクル説)もある。もっとも「後」というのは時間的な概念なので、時間もビッグクランチで消滅することを考えれば、宇宙リサイクル説というのは、どうも意味の分からない説でもある。
 
「ネバーエンディングストーリー」で世界の女王ムンデキンド(Moon child)はバスチヤンに「世界はたったこれだけになってしまった」と言ってひとかけらの土を渡す。バスチヤンはそのひとかけらの土から自分の想像力で全ての世界を再生する。
 
太平洋戦争末期、徹底抗戦を訴える閣僚・軍部に対して、昭和天皇はこのようなことを言った。今のまま本土決戦に突入したりすれば、全ての日本人が死んでしまう。自分の任務は少しでも多くの日本人に生き残ってもらうことである。その人達が将来立ち上がって日本を再生してくれること以外に日本というものを子孫に伝えていく方法は無い。
 
この天皇の聖断により日本は無条件降伏し、戦争は終結した。
 

桃香は4月末から5月上旬の連休期間季里子の家に滞在していたのだが(夜はもちろんすべきことをしている)、その間にすっかり季里子のお父さんの《飲み友だち》になってしまった。
 
5月中旬のある日。桃香は日中のシフトで、夕方19時過ぎに勤務が終わって受付センターを出た。今日は季里子は夕方からのシフトに入っているのでひとりになる。それでどこかで外食でもして帰ろうと思っていたら、バッタリ季里子の父に会った。
 
「おお、高園さん」
「どうもどうもお父さん」
「お仕事ですか?」
「今終わった所で何か食べて帰ろうと思っていた所です」
「だったらご一緒しませんか?」
「ああ、いいですね」
 
ということで、その日桃香は季里子の父と一緒に居酒屋に行って1時間ほどお酒を飲みながら、歓談したのであった。
 
5月中にこのようなことが2度もあった。
 

武矢が千里の性別変更に怒った件であるが、千里は5月7日に戸籍の手続きをするのと同時に、留萌の警察署にも出頭して、武矢の処分を軽減する嘆願書を提出した。
 
「でも僕は千里ちゃんが女の子じゃなかったなんて、思いも寄らなかったよ」
とこの件を処理してくれている生活安全課の課長さん(警部)は言っていた。
 
本来なら刑法犯なので刑事課の担当のはずなのだが、刑事課はどうしても忙しいので、今回は生活安全課が、しかも千里たちの一家を知っていた課長さんが直接担当してくれたのである。
 
「要するに私の性別に関しては2種類の認識が周囲にあったみたいで」
と千里は説明する。
 
「私は男の子だけど、実質女の子同然と思っていた人たちと、私は元々女の子と思っていた人たち」
 
「ふむふむ」
 
「たぶん父は唯一、私を普通の男の子だと思っていたみたいで」
「それはなかなか面白い話だ」
と警部さんは笑っていた。
 
「こちらは実害無いですし、父も一時的に怒っただけだと思いますので、なにとぞ、穏便な処分をお願いします」
と千里は頭を下げて言った。
 
「了解了解。そういうことで検事さんにも伝えておくから」
「よろしくお願いします」
 

なお、玲羅が武矢に千里は性別を女性に変更した上で結婚する予定だというのも伝えてくれたのを受けて、津気子は武矢に
 
「結婚式は年末くらいにするから、ちゃんと花嫁のお父さんしてよね」
と言ったのだが、武矢は
 
「ふん。勘当した奴のことなど知らんから、勝手に結婚すれば?」
と答えた。
 
「勝手に結婚すれば?」というのは、つまり結婚に同意してくれたものと津気子は解釈した。それで津気子は保志絵に、武矢が千里の性別変更に激怒して親子の縁を切ると言っているが、それでも結婚自体には反対しないと言っていること、そして自分も玲羅も千里のことは娘であり姉であると思っていること。もしそちらがよければこのまま結納・結婚式を進めさせてもらいたいこと。武矢の説得は引き続き行うことを伝えた。
 
保志絵は念のため望信とも相談の上、それで構わないことを津気子に伝えた。それで結納は予定通り6月6日に行うことになった。
 

学資稼ぎのバイト先を探していた彪志は、5月中旬、ピザ屋さんの店舗スタッフを募集していることに気付き、電話して面接に行った。
 
「チェーン店とかのピザ屋さんはたいてい23時か24時でお店閉めてしまうんですが、このあたりは学生さん多いでしょう。それでうちは朝4時まで開けているんですよ。それで夜間のスタッフを募集していたんですよね」
と店長さんは説明した。
 
確かに深夜も開いているピザ屋さんというのは珍しいかも知れない。彪志は店舗スタッフの方を希望していたのだが、生憎そちらはもう埋まったという話であった。がどうも言葉の端々から感じ取ったのでは、店舗スタッフには女子を想定している感じだった。
 
「配達スタッフの方はまだ枠があるのですが、鈴江さん原付免許はお持ちでしたっけ?」
と言ってから彪志の履歴書を見て
「ああ、普通免許があれば大丈夫ですね」
と言った。
 
「ええ、そうですね」
「鈴江さん、スクーターは乗られます?」
「はい、乗ります」
と彪志は即答した。
 
実際には乗ったことなどない!
 
「だったらそちらでお願いできませんか。一応その時のスタッフの状況によっては、ピザを焼いたり、給仕したりという作業もあるということで」
 
「はい、ぜひやりたいです。よろしくお願いします」
 
それで彪志はピザ屋のバイトに採用されたのである。
 

しかしスクーターは何とか練習しないとやばいと思った。
 
そこで彪志は千里に電話して相談してみた。確か千里さんはスクーターにも乗っていたはずと思ったのである。すると千里は
 
「だったらスクーターも貸してあげるよ」
 
と言ってくれた。実際にはいつもの駐車場に駐めてあるハイゼットの車内にディオチェスタを入れておいてくれてあり、彪志はこちらにも乗ってたくさん練習したのである。
 
5月の後半はだいたいハイゼットで10kmか20kmくらい運転して、適当な場所に駐めてから、そこからディオチェスタを出して原付で走り回るということをして乗り方に慣れた。それで1週間くらい練習してから、町中にも出てたくさん車が走っている中を走行するのに感覚を慣らしておいた。
 
「しかし大きなトラックとか傍に来たらマジ怖いよ、これ!?」
と彪志は思った。
 
なお、彪志がディオチェスタを使っている間、すーちゃんは千里が合宿浸けで車を使わないことからインプレッサを通勤に使っていた。すーちゃんは玲央美に助けてもらって4月下旬から5月上旬に掛けて自動車学校に通い、取り敢えず普通免許と自動二輪免許を取得していた。
 

和実は4月下旬はゴールデンウィークで多忙ということで検診をパスしたものの、5月下旬はまた富山に行って診察を受けようと思っていたのだが、松井医師から電話が掛かってきた。
 
「今月の検診なんだけどね。考えていたんだけど、やはり4〜5日入院して受けてくれないかなあ。その間の休業補償もするから」
 
「でも先生、私が入院していたら、勝手に私を性転換してしまいません?」
「うん。和実ちゃんが病室にいたら、もう無意識の内にやっちゃうかも」
 
正直な先生だなあ、と和実は思う。
 
「だからさ、別の病院に入院しない?」
「はい?」
「東京のあきる野市に大間産婦人科という所があるのよ。そこに入院してくれたら和実ちゃんが入院中、私は絶対そこには行かないと約束する」
 
和実は考えた。そして答えた。
 
「それならいいですよ」
「良かった。お仕事の邪魔して申し訳無いけどね」
「まあ休業補償してもらえるのなら、のんびりとベッドに寝て身体休めてます」
「そうそう。その身体を休めてもらうことが大事だと思うのよ。人間ドックとかでも数値がちゃんと出だすのは2日目以降だからね」
「ああ、そういう話は聞きます」
 
それで和実は今月は富山には行かず、東京都内の病院に入院することになったのであった。
 

篠田阿倍子は無言で医者の説明を聞いた。
 
「手の施しようがありません。今は生きているのが奇跡のような状態です」
 
「でしたらあの人の命は・・・?」
と青ざめた表情の保子が訊く。
 
「最大持って2ヶ月だと思います」
と医師は言った。
 
「にかげつ!?」
と言ったまま保子は気を失ってその場に崩れる。慌てて看護婦さんが寄ってきて車椅子に乗せ連れ出す。
 
それを見送った後、阿倍子は医師と投薬その他の方針について話し合った。
 
その後父の病室に行く。
「母さんは?」
と父が訊く。
 
「何か売り出しに行きたいとか言って帰っちゃった」
「そうだったのか。医者、何て言ってた?」
「半年くらいの入院になりそうだけど、ちゃんとお薬飲んで、放射線も頑張っていたら退院できるって。だから頑張ろうね」
「そうか。分かった」
 
と言ってから父は言った。
 
「お前も、せっかく結婚したのにダメになっちゃったしなあ。孫までは見られなくても、もっとお前を大事にしてくれる新しい旦那の顔を見られたら良かったのだけど。草葉の陰から見守っておくからな」
 
ああ、やはり父は自分の病状を自分で把握しているなと阿倍子は思った。
 
「何言ってんの?お父ちゃん。半年もすれば退院できるんだから、その後で私の新しい彼氏を見てよ」
 
「新しい彼氏居るの?」
「これから作るんだよ」
「なんだ」
 
阿倍子は自分が「新しい彼氏」と言った時に、父が期待するような顔をしたことに気付いた。ほんと誰か今すぐ彼氏になってくれないかなあ。父が亡くなったら別れてもいいから、取り敢えず「この人と結婚します」と言ってあげたい。阿倍子はそう思った。
 

龍虎は通っているバレエ教室で、年末の公演についての説明を受けた。一昨年・昨年と『眠りの森の美女』をやったので、今年は『くるみ割り人形』をしようということであった。好評であれば来年もやる可能性が高い。登場人物が多いのでみんなに配役を割り振ることができる。むしろ明確な主役の無い物語である。主人公は一応クララなのだが、一座のプリマは二幕に出てくる金平糖の精を踊るのが一般的である。プリマなのにとても出番が少ない(クララと兼任にする劇団もある)。
 
龍虎はスペインの踊りを踊ってと言われた。
 
「最初アラビアの踊りをお願いしようかと思ったんだけど、あれ男の子が女の子をリフトしないといけない所が何カ所もあるのよね」
 
「龍ちゃんにリフトは無理っぽい気がする」
「むしろ龍ちゃんをリフトしたい」
という声がある。
 
「田代君にアラビアの女の子側を踊ってもらえたら、凄くリフトしやすい気がします」
と男の子側から意見が出る。
 
龍虎は体重23kgである。
 
龍虎は困ったような顔をしている。
 
「まあさすがに田代君に女の子の衣裳つけてもらうのは悪いかなと思って、ちょっと大変だけど、スペインの踊りをお願いね」
 
「はい、頑張ります」
と龍虎は答えつつも、本当にアラビアの女の子の方やってと言われたらどうしようと思ってドキドキしていた。
 
「龍ちゃんが女の子衣裳つけたら、凄く可愛くなる気がするのに」
「来年はぜひクララ役をしてもらおう」
などといった声が女の子たちからは出ていた。
 

19,21,22日の壮行試合を終えた本物の《千里》は23日、常総市内の工務店を訪れ、依頼していた詳細な建設内容を確認。建築作業開始をお願いした。
 
実は成り行き?で体育館を1個作ることになってしまったのである。
 
昨年秋から立て続けに雨宮先生から車やバイクをもらい、千里はその置き場所に困っていた。
 
取り敢えずは千葉市内の駐車場と葛西の駐車場。それにスーパーの駐車場!や大学構内の駐車場などを回して何とかやりくりしているものの、これ以上また雨宮先生の気まぐれで何かもらうと、どうにもならなくなる、というので「車の置き場」を買っちゃおうかと思ったのである。
 
それで土地の安い所がどこか無いか調べてもらって最初に候補にあがったのは九十九里町の50坪38万円という、超格安物件であった。しかしただ車を置くためだけに遙々九十九里まで行くのも大変である。少し単価があがってもいいから、もう少し近い所に無い?と《たいちゃん》に言ったら、長柄町で260坪400万円という土地が見つかったのである。
 
「さすがに広すぎる気がする」
「たぶんクラウンが50台近く置ける」
「さすがにそんなにもらうことは無いと思う」
「千里駐車場でも経営する?」
「260坪ってどのくらいの広さだっけ?」
「ここの土地は40m x 21.5m」
「なんかバスケットのコートがすっぽり入っちゃう広さだね」
と千里は言ってから、唐突に思いついた。
 
「バスケットのコート作っちゃおうか?」
「はあ?そんなの何にするの?」
「自分専用のコートがあったらいつでも自由に練習できるじゃん」
 
「千里、バスケットのコート建てるなら建蔽率があるから、その土地では無理だ」
と《げんちゃん》が指摘する。
 
「あ、そうか。だったらどのくらいの土地が必要なんだっけ?」
「バスケットのコートは28m x 15m だけど周囲に最低2mの余裕が必要だから32m x 19m で608m2.建蔽率は一般に60%くらいのことが多いから0.6で割って1013m2. つまり307坪以上だな」
 
「じゃそのくらいの広さの土地どこかで見つけてくれない?」
「まあいいけどね」
 

それで《たいちゃん》が見つけてくれたのが常総市の郊外で402坪(39m x 34m)700万円というこれもまた格安の土地だったのである。
 
「常総市ってどのくらい掛かるの?」
「千葉の桃香のアパートからなら1時間半、葛西のマンションからなら1時間」
「ああ。西の方にあるんだ?」
「そうそう。茨城県でも県西部」
 
「あれ?そのあたりに圏央道の常総ICができる?」
「まだ5年くらい先だけどな。ICの予定地から5kmくらい離れている」
「だったらいい場所かも」
「うん。ここは単に所有しておいても将来値上がりする可能性あるよ」
「土地転がしに興味は無いけどね〜」
 
それで実際に連れて行ってもらうと割といい雰囲気の場所である。
 
「すぐそばに体育館がある」
「野球場もあるよ。それで騒音があるから、ここは安いんだな」
「それ住宅地としては問題あるけど、個人的な体育館建てるなら最高じゃん」
「大きな大会の時にここも貸してと言われたりして」
「それは全然問題無い」
 
ということで千里はここが気に入ったのである。
 
「ここ体育館建てられる?都市計画とか大丈夫?」
「問題無いはず」
 

それでその土地を管理している不動産屋さんに行き、体育館が建てられることを確認してもらった上で、速攻で購入したのがアメリカ遠征に出かける直前の4月20日であった。すぐに建築業者と契約して、体育館を建ててもらうことにしたのである。
 
建蔽率が60%(容積率200%)なので、建てられるのは241坪(795m2)までになる。土地自体が39×34なので、ここにフロアサイズ 35 x 21 で建て面積 36 x 22(792m2)の建物を建てることができる。バスケットのコートは28m x 15m なので、前後左右に3m(+エレベータ用に1m)の余裕を持つことができる。
 
第一目的は車の駐め場所なので!、2階建てとし、1階が駐車場・トイレ・仮眠室・用具置き場・スリーポイント練習場、2階が体育館とした。1階と2階の間にはエレベータも設置して重たい用具を移動しやすいようにする。駐車場はおよそ21m x 25m 取れるので、6m x 3m の駐車ラインを16台分!引くことができる。
 
建築業者さんは、千里が詳細な建築設計図を持ち込んだのでびっくりしていた。これは《せいちゃん》が書いてくれたものである。念のため工務店側で耐震設計その他についても再度計算したいということだったのでお願いした。その詳細設計図が5月18日にできあがったという連絡はあっていたのだが、合宿中だったのでこの日に行って確認したのである。
 

5月23日(水).
 
青葉の誕生会を終えた桃香・“千里”・彪志はこの日の朝の便で千葉に戻ることにする。桃香と彪志は次の連絡で帰った。
 
高岡6:32(はくたか1)8:41越後湯沢8:49(Maxとき310)9:55東京10:16-10:55千葉
 
これで午後からの講義に出ることができる。
 
しかし“千里”は
「ちょっと大阪に寄って帰るね」
と言い、6:32発《はくたか》ではなく6:26発《サンダーバード》に乗った。
 
はくたか1号(越後湯沢行き)は5番線、サンダーバード6号(大阪行き)は4番線で、隣のホームなので、“千里”はサンダーバードが入線してくる時、向こう側の島にいる桃香と彪志に手を振った。
 
「大阪ってお仕事か何かですかね?」
と彪志が訊くと
「どうも千里は関西方面に彼氏がいるみたいなんだよ」
と桃香は答えた。
 
「え?彼氏とか居ても桃香さん、いいんですか?」
と彪志が驚いて訊く。
 
「別に構わないと思うけど」
と桃香。
 
「嫉妬しません?」
「私と千里はただの友だちであって別に恋人という訳でもないし」
「別れたんですか?」
「いや、そもそも恋人になったことがない」
「うっそー!?恋人だとばかり思ってました」
 
「私はレスビアンだが、あの子はストレートだし」
と桃香が言うと、彪志は少し考えていた。
 
「千里さんのストレートってのは恋愛対象は男性ということですか?」
「そうそう」
 
「でもおふたり指輪を贈ったとかもらったとか言ってませんでした?」
「私は自分の彼女に指輪を贈った。千里は彼氏から指輪をもらった」
「そういうことだったのか!あれ?でも昨夜同じ部屋で寝ましたよね?」
 
「女の友人同士が同じ部屋で寝るのは問題無いはず」
「あっそうか!」
「もちろん昨夜は私も千里も単に睡眠を取っただけで何もHなことは
してないよ」
と言いつつ、若干良心が痛む。
 
「いや、てっきりお二人はレスビアンの関係かと思っていたから」
「青葉はそう思っているみたいだけどね。まあ別に実害は無いから、そのままでいいよ。だから青葉にはこの件は特に言わないでね」
 
「誤解されたままでいいんですか〜?」
「将来私と千里と恋愛関係になる可能性もないことはないし」
「うーん・・・」
 

さて実際には“千里”に扮した早紀はサンダーバード車内から《ふーちゃん》に命じて大阪市内に所有しているマンションに即転送させた。そして“生命創造”の作業をする。
 
まずは桃香の卵巣から昨夜自分の卵管に転送した卵子を、無菌保管していたシャーレ内に再転送する。その上で先日貴司からゲットした精液を遠心分離機に掛けてX精子とY精子に分離して冷凍しておいたものの内、Y精子のアンプルを解凍。活性化液につけて元気な精子だけを選り抜く。そしてそれを7:30頃、シャーレに投入。まもなく精子の中でいちばん元気そうなのが卵子に進入したのを確認した。
 
生命の誕生の瞬間である。
 
早紀はあらためて時計を見て、時刻が7:33で、7:50より前であることを確認。ホッとした。
 
「7:50からボイドだからね。やはりボイドって当たるんだなあ」
などとつぶやく。
 
実は昨年8月に「魂のコピー作業」をした時はまともにボイドにぶつかっていたのである。
 
昨年8月のボイドカレンダーを確認すると8月15日17:21に魚座の月が木星とセクスタイルになり、8/17 9:01に月が牡羊座に抜けるまで長いボイドになっていた。魂のコピーをしたのは8月16日で、まともにボイド中だったのである。
 
今回は5/23 7:50に双子座の月が土星とトラインになり、本日20:31に月が蟹座に抜けるまでがボイドである。早紀が今回サンダーバードに最後まで乗らず、高岡駅で乗った直後に大阪に転送してもらったのは、サンダーバードで大阪に移動していたら、ボイド突入に間に合わなかったからであった。
 

早紀はそのままマンションで少し寝ると、お昼過ぎてから出発の準備を始めた。先日も使った保冷用ジュラルミンケースに受精卵の入ったシャーレを入れる。出発間際までこれはAC電源で保冷機能を動かしておく。
 
16時頃、楠本京華がキャミを運転して迎えに来る。山道は細い上に急である。小型SUVがいちばん使いやすい。
 
車のシガーソケットから電気を取り、保冷ボックスに通電した状態で高野山まで行く。高野町から★★院に行く途中の、普通の人には分からない登山口の所で停めてもらう。時計を見ると19時である。
 
「ありがとう。じゃ深夜1時に」
「了解〜。じゃ頑張ってHしてきてね」
「うん。ごめんね〜」
「一息ついたら私が抱いてあげるよ」
「また今度ね〜」
 
それで早紀は保冷ボックスと発電機(さすがに停めている)を背中に担ぎ、登山道を駆け上がっていく。一方、京華は少し先にある車を転回できるポイントまで行き、Uターンして高野町まで戻った。この付近で待機していてもいいのだが、万一この道を通る車があると迷惑である。
 

「光ちゃん生きてる〜?」
と早紀が瞬嶽の庵で声を掛けたのは20時半頃であった。
 
「待ってたよ」
「まあ私が登ってきているのは分かったろうからね」
「しかし、もう少し山登りに適した格好で来たらいいのに。寒かったろう?」
「うん。さすがに夜は冷えるね。楽しい楽しい子作りしようよ」
「はいはい」
 
それで早紀は自分の腕時計で20:31をすぎてボイドが終了していることを確認した上で、受精卵の入った細いガラスの容器を自分のヴァギナの中に入れた。そして光太郎(瞬嶽)と性的な行為をすることで、彼の「霊的遺伝子」の二重螺旋を天高くまで展開させる。
 
「感覚的に」1万mくらいの高さまで上がると二重螺旋がきれいにほどける。そこから光太郎を性的に逝かせることによって興奮度を急速に下げると、ちょうどPCRでもするかのように各々の霊的遺伝子列から「型取り」ができる(霊的な焼き鈍し spiritual anealing)ので、“後戯”で光太郎の性的な興奮度を再度あげて型とコピーを分離し、その後、再度興奮度を下げて各々の霊的遺伝子を元の状態に戻す。
 

作業が終わった後、光太郎は眠ってしまった。その寝顔を見ながら、こないだは充分逝ってなかったもんなあ。少し予行演習させるべきだったな、などと早紀は思っていた。
 
早紀もしばらく並んで寝たまま目を瞑って身体を休ませる。光太郎は30分ほどで目を覚ました。
 
「久米の仙人の気分だ」
と光太郎。
「セックスから逃げていては悟れないよ」
と早紀。
「だったら、さっちゃんはもう悟りまくっているな」
「うふふ」
 

「さっちゃん、いくつか頼まれてくれないか?」
と光太郎は言った。
 
「何?」
「青葉は有能な霊能者だけど、あまりにも脇が甘すぎる」
「うん。素材としては面白いけどね」
「一応青葉のサポートは千里に頼んでいるけど、千里の手にも余る場合は助けてやって欲しい」
「でもあの子たちをいつも見ている訳では無いよ」
「千里をいつも見ている奴がいるだろ?」
「そこまで知っているのなら分かった。気をつけておく」
 
「それと千里は今年と、多分2017年から2018年頃に掛けて大きな災厄に巻き込まれる。今年は何とかなると思うが、2017-18年のがきつい。それを助けてやって欲しい」
 
「災厄を助けるって、より酷い目に遭うようにするの?」
「逆!」
「なんだ。つまらない」
 
早紀には「善」と「悪」という概念が無い。「好き」か「嫌い」かで行動するタイプである。
 
光太郎は続ける。
 
「その千里ちゃんから電子レコーダーもらってたくさん口述してるんだけど、あまり細かい事までは話す時間が無い。僕が死んだ後、きっと瞬高あたりが中心になって、これを文章にまとめようとするだろうけど、本当に理解できるのは羽衣とさっちゃんくらいしか居ないと思う。だからさっちゃんの眷属か何かでも送り込んで、そのプロジェクトを手伝って欲しい」
 
「いいよ。だけどそういう作業は20年前から始めるべきだったね」
「インドのあいつからの遺書をもらって。それで気付いた」
「ああ、あの人はたくさん著作を残した」
 
「それと、僕たちで作った2人の子供だけど」
「うん?」
「普通に育てて欲しい。何も特別なことはせずに」
「いいよ。まあ本人たちがその内自分で目覚めるだろうしね。後から作った子が本体になるだろうけど、こないだ生まれた子も多分凄い子になると思う」
 
「それを特別扱いせずに」
「了解了解。ボク自身、親になってくれた人から、普通に自分の子供と同じように育ててもらった。だから、そこで道は誤らないよ」
 
「よろしく。基本的には、僕はこのまま消えて行くんだよ。だからクローンを作っても魂をコピーしても、その子たちは僕とは別の人だと思う。後のことは生き残った人たちで進めていってほしい」
「分かった」
 

早紀は結局庵に3時間ほど滞在したが、“作業”をおこなって仮眠した後、早紀は発電機を起動して保冷ボックスのバッテリーに充電した。
 
「この発電機ここに置いてっていい?結構重たくて」
「むしろよくこんな重たいもの持って普通の人より速い速度で登ってくるものだよ」
「まだ若いからね。17歳の身体は凄いよ」
「だろうな」
 
「Hするのも楽しい。男の子とするのも女の子とするのも楽しい。ふたなりの子ともしてみたいけど生憎そういう知り合いがいない」
 
「やはりさっちゃんは煩悩まみれのようだ」
「煩悩こそが悟りの境地って知ってる癖に」
「一休禅師の世界だな」
「一休は理趣経の世界に自力で到達したんだと思う。光ちゃんが一休ならボクは森女かな」
「・・・・一休は77歳で森女に出会い死ぬまで一緒に暮らした。僕は生まれてすぐ千鶴ちゃんに出会ったけど、結婚できなかった」
「まあ昔は好きな人と結婚できる時代じゃなかったしね。ボクもあの結婚は嫌だったけど仕方なかった」
「126年掛けて僕たちはやっと一緒になれたのかも知れない」
 
「・・・“借金を返す”のはまだ3年くらい先でいいと思うよ」
「取り立て人がそろそろ見逃してくれないのではという気がしている」
 
ふたりはその“借りている地水火風を返す”問題についてはそれ以上話さなかった。早紀は光太郎に深いキスをした。彼女の目から一筋の水滴が頬を伝わっていった。
 

「じゃね」
「うん」
「またね」
「そうだね。また」
 
それで早紀は発電機を停め、保冷ボックスを背負って山道を降りていった。光太郎の目にも涙が浮かんでいた。
 

5月23日、千葉に戻った桃香は午後の授業(2−3時限目)を受けた後、夕方からバイトに行ったが、この日センター長はみんなを集めて言った。
 
「実は○○が通販事業から撤退することになって、うちは2割が○○の電話受付受注だったので、こちらも事業規模を縮小せざるを得なくなったのです。それでこのセンターは6月一杯で閉鎖されることになりました」
 
みんなざわめく。
 
「仕事を続けたいという方は、他のセンターに転属してお仕事を続けてもらうことができます。ここから一番近いセンターは八王子ですが、それ以外に甲府、静岡、新潟、仙台などのセンターへの転属も希望なさる場合は受け入れます。実家や親戚の家がどこどこにあるんだけどという方はご相談下さい。一番近い所をご紹介します。ただし各センターのキャパを越えた場合は調整させて頂くかも知れません。なお他のセンターに異動なさる場合は引越代なども出させて頂きます。またこの機会に退職なさる場合は、退職金を規程の倍お支払いします」
 
「千葉から八王子までって、どのくらい時間掛かりましたっけ?」
「総武線と中央線を乗り継いで2時間弱かと思います。但し八王子駅からセンターまでバスで10分ほど掛かりますので合わせると2時間半見ていただいた方が良いかと思います」
 
みんな顔を見合わせている。答えは来月中旬くらいまでに各自希望を提出してくれと言われたが、八王子までの通勤はさすがに無理だと感じた。
 
「お金無いけどやめざるを得ないかなあ」
と桃香はひとりごとを言った。
 

取り敢えずその日の夜勤を済ませ、(5月24日)明け方西千葉のアパートに戻る。鍵を開けて中に入ると、
「あ、モモお帰り〜」
と布団の中から声を掛けるのは季里子である(季里子は当然このアパートの合い鍵を持っている)。
 
「ああ、こちらに来てたんだ」
「桃香一昨日からどこ行ってたの?」
「だから言ったじゃん。高岡の実家まで行ってきたんだよ。青葉の誕生日だったから」
「例の子か・・・でも桃香ひとりで?」
「青葉の彼氏が今年C大に入ったから、彼と一緒に」
「2人だけ?」
「あ、えっと千里も一緒だよ」
「その子と桃香浮気してないよね?」
「そんなのする訳ない」
 
「向こうではどこに寝たの?」
「えっと彪志君は青葉の部屋で寝たよ」
「千里ちゃんは?」
「私の部屋で寝たけど何もしてないよ」
 
「桃香が女の子と2人で一緒に夜を過ごして何もしないとは思えない」
「あの子はストレートだって。それに高岡から彼氏の住んでる大阪方面に移動してたし」
「ほんとに何も無かった?」
「何もしてないよー」
 
「荷物見せて」
「いいけど」
 
それで季里子は桃香の旅行用バッグを開けて見ていた。そして、それを発見する。桃香は嘘!?と思った。
 
「何これ?」
と季里子が厳しい顔で桃香を見る。
 
そんな馬鹿な〜!?それ机の引き出しに置いて来たはずなのに!
 
(早紀の悪戯である)
 
「これ私が知らないおちんちんだ」
「えーっと、それは予備で買っておいたものだよ」
 
季里子はだまってビニール袋から出して臭いを嗅いでいる。
 
「これ明らかに使用されている。女の子の臭いがする」
「えーっと・・・」
 
「正直に言えば今回だけは許してあげる。言わなかったら離婚」
 
それで桃香は季里子の前に土下座して謝った。
 
「ごめん。出来心だった。二度とこんなことはしない」
 
「千里ちゃんと一緒に暮らすのも解消して欲しい」
「分かった。荷物は全部そちらのアパートに移すから、キリと一緒に暮らそう」
「そしてこのアパートは解約して」
「ここ、みんなの溜まり場になってるから、私がここに来ないということでいい?」
「いいよ。誰か他の人の名義に変更して」
「そのあたりは調整する」
 
そう季里子に言いながら桃香は考えていた。女の子の臭いがするって・・何で!?(“ちんちん”はそのまま季里子が捨ててしまったので確認できない)まさか千里にはヴァギナがあるとか??? でもちんちんもあったぞ。
 
千里のちんちんに触るのは3度目である。1度目は2011.1.11に半ばレイプ的に千里の男性器を使って結合した。2度目は2011.7.19にお互いの合意のもとで千里が男役となるセックスした。そして昨夜が3度目であったが昨夜は千里の男性器に触りはしたものの、それは使わずに桃香が男役をした(睾丸が無いので男性器としては使用できないはず)。千里が寝ている間にしたので準強姦だ。
 

桃香はその場で千里に電話した。千里は葛西のマンションで寝ていたのだが、桃香からの着信を表す『リニアモーターガールズ』なので電話を取る。
 
「はい」
「朝早く御免ね」
「いいよ。そろそろ起きた方が良かったから」
 
「実はもう季里子の所で完全に生活しようと思ってさ。アパートは引き払おうかとも思ったんだけど、あそこみんなの宿舎と化してるじゃん」
「ああ。だったらさ。私がアパートは引き継ごうか?ただ不動産屋さんに言うと、絶対今の家賃では再契約できないだろうから、桃香の名義のまま私が払うようにするとかは?」
 
「あ、それでもいいかな」
 
「じゃ桃香、どこか適当な銀行、例えばC銀行とかに家賃引き落とし専用の口座を作ってくれない?私、そこと同じ銀行の同じ支店に口座作るから。そこからネットで振り込めば無料で振り込めるはずだから」
 
「それ面倒だから私の口座作って、その通帳を千里に預けてもいい?」
「桃香がいいなら、それでもいいよ」
「じゃそれで。引越は近い内にするから」
「OKOK」
 

電話を切ってから季里子は、桃香に
 
「一昨夜のセックスの件に付いては何も話さないの?」
と尋ねた。
 
「いや、あれは千里が眠っている間にやっちゃったから。朝起きてからの様子を見ても、セックスしちゃったことに気付いてないみたいだった」
 
「寝てる間に〜〜〜? 強姦犯として訴えてもいい?」
「勘弁してぇ」
 
「全く極悪犯だな。去勢が必要だ」
「季里子には既に4回くらい去勢されている気がする」
「次変なことしたら死刑ね。ちんちんじゃなくて首を切断するから」
「そりゃ季里子に殺されるのなら本望だけど」
「ふーん」
と言って、季里子は桃香を値踏みするように見た。
 

桃香は24日の午前中に千葉県内に本拠地を持つK銀行に新しい口座を作り、その口座と暗証番号のメモを千里に渡した。渡すのはその日のお昼に千葉市内で会って一緒にお昼を食べることにして、その時に渡したが、これには季里子も付いてきた!
 
「千里、例の結婚指輪と婚約指輪を季里子にも見せてやってよ」
「いいよ」
と言って千里は“プラスチーナ”製の結婚指輪と、ダイヤの婚約指輪を左手薬指に重ねて装着した。
 
「すごーい。巨大なダイヤだ」
「最初1.1カラットのにしようかと言っていたんだけど、もう少し余裕があるみたいな言い方だったから1.2カラットに釣り上げた。そしたら支払いにやや苦労したみたい」
 
「あはは、女の前で見栄を張りたかったんだよ」
「かもね〜」
「でも払えるような彼氏ならそれでいいと思うよ〜」
 
「でも目の保養、目の保養」
と季里子は言っていた。
 
先日のセックスについて千里本人が気付いていないみたいだったという話から季里子もその問題については敢えて何も言わなかった。それでこの日の3人の会話はとても平和的なものになった。千里も季里子から桃香が贈ったエンゲージリングを見せてもらった。
 
「これ色が凄くきれい。桃香これ高かったでしょ?」
「貯金も併用して何とか払った」
「まあ払えたなら良かったね」
 

千里たち日本代表候補は、5月25日朝成田空港に現地集合(王子は馬田恵子の家に泊めてもらい、一緒に出てきたらしい)してから、トルコ遠征に出発した。世界最終予選もトルコで行われるのだが、このまま最終予選まで向こうに居るわけではなく、一度帰ってくることになっている。わざわざ長旅で疲れるために帰国するようなものである。このあたりのスケジュールにも千里たちは首をひねっていた。
 
さて、今回の遠征の指揮に当たるのは、なんとWリーグ1位サンドベージュ監督のウィリアム・レッドベア、2位ブリッツ・レインディアの元監督・マイク・スミス、そして3位エレクトロ・ウィッカの村出監督という3人である。
 
これまで日本代表候補の臨時監督をしてくれていたメンツである。スミスさんは第2次合宿の指揮を執ってくれた。村出さんは第3次合宿(アメリカ遠征)の指揮を執ってくれて、レッドベアさんは先日18日から19日のお昼過ぎまで、まだ来日していなかったジーモン・ハイネンに代わって練習の指揮を執ってくれた。
 
ハイネン監督は実際問題として19日の試合直前に来て、試合中ベンチに座ってスターターを指名し、その後選手交代の指示だけしていた。そして試合が終わると「時差ぼけがきつい」と言って、さっさと宿舎に引き上げてしまった。20-22日の練習の時は練習場に来ていたが、ただ見ているだけで何も指示を出さなかった。仕方ないので三木エレン・羽良口英子・黒江咲子の3人が話し合って練習メニューを決めていた。そして監督は22日の試合が終わるとすぐ宿舎に引き上げ、23日の朝にはドイツに帰ってしまったのである!
 
壮行試合に合わせて来日したのであれば、当然その後の遠征にも同行するものと思っていた選手たちは拍子抜けである。さすがに主将のエレンがバスケ協会の強化部長に抗議したが、強化部長も「どうなっているんだろう」と焦って、監督の代理人に連絡を取ろうとしていたものの、うまく取れないようであった。それで結局この3人に今回の遠征の指揮をお願いしたいということになったようである。村出さんなどは呆れているようだったが、レッドベアさんなどは明らかに怒っていた!
 

さて、日本とトルコの間には直行便が1日1便運行されており、千里たちはこの便に乗った。
 
NRT 5/25(Fri) 11:40 (TK51 77W) 17:45 IST (12h05m)
IST 22:50 (TK2426 A320) 0:05 AYT (1h15m)
 
IST:イスタンブール(Istanbul)のアタテュルク(Atatuerk)国際空港に到着したのは現地時間では18:00であるが、トルコ(東ヨーロッパ時刻)の夏時間はUTC+3で日本時刻(UTC+9)とは6時間の時差があり、こちらの体調では真夜中のようなものである(*1).
 
イスタンブール空港で夕食を取ったのだが、みんな半分眠りながら食べていた。元気なのは王子くらいのものである。王子はこの日馬田恵子さんとなぜか英語で!?会話していた。
 
夕食を食べてすぐに国内便に乗り継ぎ、AYT:アンタルヤ(Antalya)空港に飛ぶ。この空港は実は目的地Kepez(ケペス)市の隣のAksu(アクス)市にあり、空港の北端を走る国道400号(D400)の向こう側がもうKepez市である。
 
用意されていたバスに乗って5分も走るとホテルに到着した。0時半くらいであるが、日本ではもう朝くらいの時間なので、みんな、ホテルに到着すると、そのままベッドに直行して熟睡した。
 
(*1)トルコは2016年秋以降夏時刻を通年使用することになった。つまり1年中UTC+3になったが、それ以前は夏時刻(UTC+2)・冬時刻(UTC+3)を切り替える方式が使用されていた。
 

トルコはアジアとヨーロッパの境界に位置する国で、イスタンブールの中央を貫くボスポラス(Bosporus)海峡でヨーロッパ(Europe=Occident)側(トラキアThracia)とアジア(Asia=Orient)側(アナトリアAnatolia=小アジアAsia Minor)に別れる。
 
イスタンブールの旧市街地はトラキア側南端の三角形の半島で、ここにかつての東ローマ帝国の首都・コンスタンティノープル(Constantinople)があった。南側はマルマラ海(Marmara Denizi)。そして北側の内陸奥まで入り込む湾が金角湾(Golden Horn, Altin Boynuz)である。
 
かつては、ヨーロッパ側からアジア各地へ行く人たちは鉄道でヨーロッパ側のターミナルであるシルケジ駅(Sirkeci Gari)まで来るとフェリーでボスポラス海峡の対岸に渡り、ハイデラパシャ駅(Haydarpasa Gari)から各地への国際路線に乗り継いでいた。当時の雰囲気が左能典代『ハイデラパシャの魔法』(1984)に少し記述されている。
 
現在は両岸は2つの橋と2つの海底トンネルで結ばれているが(鉄道トンネルは2018年開業予定:開通式は2013年に行われた)、この物語の時点では海底トンネルは2本ともまだ開通しておらず、2つの橋とフェリーに頼っていて、まさにボトルネックになっていた時代である。
 
アタテュルク国際空港(Istanbul Atatuerk Airport)はヨーロッパ側にあり、西側には湾が仕切られてできたキュチュクチェクメジェ湖(Kuechuekchekmece Goulue)が広がっている。イスタンブールの市街とは15kmほど離れている。
 

ところでトルコの首都というのも、クイズとかになると誤答の多い問題である。イスタンブールがあまりにも有名だしトルコ最大の都市なので、ここが首都と思っている人もあるが、首都はアンカラ(Ankara)である。イスタンブールの人口は1400万人、アンカラは450万人である。
 
(ちなみに少し似た名前の「アンマン」はヨルダンの首都である)
 
アンカラは中央アナトリア地方、塩湖として知られるトゥズ湖(Tuz Goelue)の130km北方に位置する。イスタンブールからは東南東350kmの位置である。
 
世界最終予選はそのアンカラで行われるのだが、今回の合宿は地中海地方のアンタルヤ県ケペスで行われる。
 
トルコは7つの地方(boelge)、81の県(il)に別れている。イスタンブールを含む西側のマルマラ海地方、エーゲ海地方、地中海地方、黒海地方、と各々が接する海の名前の付いた地方と、アンカラのある中央アナトリア、トルコ最大の湖ヴァン湖(Van Goelue)がありイランと国境を接する東アナトリア、そしてシリアと国境を接する南東アナトリアである。
 

 
地中海から入り込んだ、ギリシャとトルコに挟まれた領域がエーゲ海であり、そこからダーダネルス(Dardanelles)海峡を経てマルマラ海になり、そこからボスポラス海峡を経て黒海になる。
 
アンタルヤ県はロードス島とキプロス島のだいたい中間くらいにあり、大観光地であり、またリゾート地でもある。トルコに来る観光客の3割がこの県を訪れるといわれ、また夏になるとビーチは人でいっぱいになる。
 
しかし今はまだリゾート客が来るようなシーズンでは無い!
 

和実はメイドカフェのバイトが忙しくなる週末を避けて、5月22日(火)から24日(木)までの3日間、あきる野市の大間医院に入院した。それで和実は開き直った自分のそのままの状態で3日間過ごしたので、その間に撮影したMRI写真は物凄いことになった。
 
「僕はこれ機械が壊れているんじゃないかと思った」
と大間医師は言っていた。
 
「今回は開き直ったので」
 
「たくさん撮影した写真を僕は3つに分類した」
と医師は言う。
 
「完全な女性の身体の映像、完全な男性の身体の映像、そしてこれが数的には最も多い、去勢した男性の身体の映像。この去勢男性の映像が多分本来の君だよね」
 
「はい。多分そうです」
 
「まだ去勢してないみたいなことも言ってたけど、既にしてるんでしょ?」
 
「実は手術しています(ということにしておこう)。でもそれ家族とかにも内緒にしておいてください。実は姉との約束違反なんです」
 
「守秘義務があるから誰にも言いませんよ。ただ手術の都合があるから松井君には伝えてもいい?」
「はい。それは構いません」
 
そして和実は言った。
 
「私の友人で似たような状態になって東大病院の最新鋭の機器でも卵巣子宮が写っちゃったというMTFの子がいますよ。その子も一時期不安定だったみたいです」
 
「これは松井君が君に興味を持つ訳だ」
「性転換手術しちゃったら安定すると思うんですけどね」
「性転換手術しようとしたら、女の身体になっていたりして」
「その場合はやっかいですね」
「松井君なら男に性転換してしまうかも」
「それは嫌です」
と和実はマジで嫌そうな顔をして言った。
 
「自分の意識の持ち方でどちらかに固定できる場合もあるんです。ある程度の精神集中が必要ですが」
「これって生まれつき?」
「それが震災の後なんですよ」
「へー。やはり自然災害で何か刺激を受けたのかね」
 
「私迷っているたくさんの霊をいったん自分を依代にして吸収した上で成仏させていたから、その中の数人の霊が部分的に残存しているのかも」
 
「うむむむ」
と言って大間医師は少し考えていたが言った。
 
「だったら君、性転換手術を受ける前に除霊してもらった方がいい」
「やはり?」
 

5月26日(土).
 
トルコに来た千里たちの合宿が始まった。
 
この日は午前中、今回の遠征で参加する大会の会場になるKepez Arena Antalyaで2時間ほど練習した。座席数を大雑把に数えると3000人くらい入りそうである。午後からは市内のアナドル高校(*1)の体育館を借りて練習をおこなった。
 
(*1)トルコでは小学校4年・中学校4年・高校4年という学制になっている。但し高校入学前の予科に1年使い実質5年生の高校もある。公立高校は職業高校、普通高校、アナドル高校(Anadolu Lisesi)という3つに分けられていた。アナドル高校は私立高校に対抗して作られた公立高校で一般にハイレベルであり、人気が高い。アナドルの語源は先に説明した「アナトリア(Anatolia)」。つまり日本でいえば「やまと高校」あるいは「日本高校」のような感じ。
 
但し政府は2013年に普通高校とアナドル高校を制度上は統合した。公立普通高校は原則として男女共学なので、保守的で娘を男子生徒のいる学校に通わせたくない親は女子職業高校に進学させている状況がある。但しアナドル女子技術学校などという女子のみなのにハイレベルの学校もある。なお、トルコはイスラム教徒の多い国ではあるが、政教分離原則があり、男女平等も進んでいる。女性の服装も西洋的であり、大都会では髪を隠さずに出歩く女性も結構いるしタンクトップやショートパンツも見られる。女性の地位は一般に高く識字率も高い。結果的に外国人女性も(都会であれば)西洋と似た感覚で道を歩くことができる。
 

ケペス・アリーナでの練習は29日にも一度行われた。そして30日から大会に出る。これはInternational Kepez Tournamentという大会である。(Tournamentという言葉は日本語の「大会」に近い。決して日本語のトーナメントの意味ではない)
 
大会は5月30日から6月1日までで、日本は3つの国と戦った。
 
5/30 17:00 ベラルーシ(10位) ○57-50×日本(15位)
5/31 19:00 トルコ(21位)   ×53-63○日本
6/01 16:00 モンテネグロ(40位)○66-49×日本
 
時刻はいづれも現地時間である。
 
今回のコーチングスタッフは、第一戦と第二戦では昨年のアジア選手権の予選リーグを戦ったメンツに近い、若手中心で運用し、第三戦は逆にベテラン中心のメンツで運用した。それで千里・玲央美・亜津子・王子の4人は第一戦・第二戦でのびのびと戦った。ベラルーシが、かなり本気だったので第一戦を落としてしまったものの、感触は悪くなかった。第三戦では出番が無かった。
 

3日目の試合が終わった後、千里と玲央美は亜津子の部屋で密談をした。
 
「どうもハイネン監督はベテラン中心の起用を考えているみたいだからさ、それに対するレッドベアさんたちのアピールなんじゃないかね、今回の選手運用は」
と亜津子は言った。
 
「名前の通っているベテラン中心に起用しろというのは、“あの”あたりからの圧力だよね。多分ハイネンを選んだのは、そういう圧力に応じてくれる人だからということなんじゃないかと思う」
と玲央美は、政治的な話をする。
 
「いくらベテラン中心であっても、モンテネグロに大敗したのは痛いね」
と千里は玲央美の推測には敢えて反応せずに言った。
 
「試合終了後、エレンさんがかなり悩んでいるみたいだった。あの人、引退を考えていると思う。エレンさんが抜けると、今大会はシューター無しになるかも」
と亜津子が言う。
 
「今回は私は匙を投げている」
と諦め加減の玲央美は言う。
 
「まあ出番があったら、粛々とプレイするだけかな」
と千里は言った。
 
 
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【娘たちのクランチ】(1)