【娘たちのクランチ】(2)
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(C)Eriko Kawaguchi 2018-06-03
6月1日(金)の夜に青葉はいつもの岩手行きのため夜行バスで仙台まで行った。一方彪志も6月1日午後の新幹線で仙台に入り、ニッポンレンタカーの仙台本町店でトヨタ・ヴィッツを借りた。彪志がまだ免許取得後1ヶ月なので、保険関係には加入できないので万一車を破損した場合は全額弁償になることを説明される。それに同意して借りる。お店の人は事故防止などに関する説明をしてくれた。更にお店の人が同乗して、その付近を一周するということをしたが、彪志が結構しっかり運転するので
「免許取ってからか取る前からかかなり運転なさいました?」
と訊かれた。
「先輩の車を借りて、この1ヶ月で3000kmくらい走りました」
「だいぶ練習なさいましたね。でも安全運転で」
「はい。ありがとうございます」
それでその日は駐車場付きのホテルに泊まった。翌朝は5時に起き、コンビニで朝御飯を2人分買ってきてから、6時前にチェックアウト。広瀬通り近くの時間貸し駐車場に駐め、青葉に駐車場の場所をメールして後部座席で仮眠する。6:30頃、窓をトントンとする音で目を覚まし、ドアをアンロック。青葉が後部座席に乗り込んできてキスをした。バスは6:30到着予定だったが少し早く着いたようである。
「このままセックスしたい気分だけど、取り敢えず御飯食べない?お弁当買っておいた」
「さすがに目隠し無しでセックスするのは怖いね」
「夜中だったらできそうだけどなあ」
この日の宮城県地方の日出は4:14頃である。とっくに明るくなっている。
「ところで青葉、性転換手術を受ける覚悟はできた?」
「あまりそれ考えさせないで。結構ドキドキしてるんだから」
「逃げるなら今のうちだよ」
「逃げないよ。せっかく女の子になれるのに」
青葉は来月18日に性転換手術を受ける予定である。
お弁当を食べてから、彪志が運転席に座り、青葉が助手席に座って出発した。車は東北道を一ノ関まで走ってから国道284号で気仙沼に出て、その後国道45号を北上して大船渡に至る。
しかし彪志がやはりかなり消耗している感じだったので、(無免許の)青葉が284号の途中カーブの多い区間を少し運転した。
「青葉、ほんっとに運転うまいね!」
と彪志は感心していた。
「いや、彪志も免許取得1ヶ月であそこまで腕をあげたのは凄いと思うよー」
と青葉も運転しながら言った。
千里たちバスケット女子日本代表候補一行は翌6月2日の午前中にホテルをチェックアウトすると次の乗り継ぎでいったん帰国した。
AYT 6/2(Sat) 12:20 (TK2413 A321) 13:40 IST
IST 16:55 (TK50 77W) 6/3 10:10 NRT (11h15m)
日本時間の10:10はトルコ時間では朝4:10である。
一行は成田でバスケ協会の強化部長に遠征の報告をし、メディアの取材に応じた後、現地解散した。これが11:30頃である。
千里はいったん葛西のマンションに転送してもらい、ドレスに着換える。そして更に札幌に転送してもらい、某ホテルに入って行った。
今日はここで麻依子と河合大彦さんの結婚式・祝賀会が行われるのである。
「千里さん!間に合ったんだ!」
と受付をしていた馬飼凪子(旭川L女子高→ローキューツ)が嬉しそうに言った。
「今朝トルコから戻ったんだよ。そのまま新千歳に飛んできた」
「すごーい。お疲れ様」
祝賀会の会費を払い、領収書をもらって取り敢えずロビーに居たら、
「あ、間に合ったのね」
と言って、旭川L女子高バスケ部監督の瑞穂さんが寄ってくる。
「今朝帰国したんですよ」
「お疲れ様!」
13:00から結婚式が行われるが、千里はこれにも参列してと言われ、神殿の中に入って神式の結婚式に参列した。
祝賀会は少し時間を置いて14:00から始まった。
新郎新婦がどちらもバスケット選手なので、来客の多くがバスケット選手で、余興もバスケットのパフォーマンスが多く行われた。華麗なドリブルプレイを見せる人もあったし、即席のセッションまで起きていた。わざわざゴールまで持ち込まれており、千里もスリーポイントを3本連続で放り込むなどのプレイを見せて会場は大いに沸いていた。
6月2-3日に青葉と一緒に岩手まで往復してきた彪志は先月中に面接を受けて採用されていたバイトに6月4日(月)の夜から入った。
このピザ屋さんは宅配もするし、お店で食べて行くこともできる。お昼時には「ランチタイムサービス500円でピザ食べ放題」などということもやっており、お腹を空かせた大学生に人気となっている。
彪志は初日は5時間(23:00-4:00)の間に10件も宅配をこなした(近所だったので歩いて持って行った分を含む)。
最初の配達はかなり緊張したものの、何とかやりとげた。屋根付きのスクーターはディオチェスタとは走行感覚が違うし、横風を受けやすいので戸惑いはあったもののどうにかなった。2度目からは精神的にかなり楽になった。しかし2時頃までは全く休む暇が無かった。
作業的には注文を受け付けた時に住所のデータが小型端末に転送され、その端末にインストールされているカーナビに従って届けに行けばよいので、道に迷う心配は無い。このシステムはこのピザチェーンの社長さんの手作りアプリらしい。社長さんはソフトハウスに10年勤めてから辞めて、このピザ屋さんを始めたということだった。
千葉県内に3店舗と都内に2店舗あるが、どこも学生街である。
この千葉店の売上げは宅配6:イートイン4くらいらしいが、夜間は宅配の比率がかなり高くなる。彪志が入った初日は配達スタッフが5人と店舗スタッフ1人という6人体制だったが、1時過ぎると夕方からのシフトの人が帰って配達係は2人になったが、最後は3時半に入った注文もあった。結構夜食にピザを頼む人はいるようだ。
イートインスペースは客が途絶えない。朝4時の閉店まで10人程度の客がいたが、多くは深夜に来店して半分眠りながらレポートを書いている学生や、パソコンを持ったノマドっぽいラフな格好の中年男女である。ここは電源も自由に使っていいし、NTT Hotspotの無線LANも使えるので、ノマドの人にはありがたい場所だ。概して常連さんが多く、だいたい1〜2時間ごとに追加注文をしてくれるので長居していてもお店は何も言わない。かえってよく知っている客がいてくれることで、少ないスタッフで運用していても安心感がある。特に配達に複数出ている場合は、店に残っているスタッフ(多くは女性)は結構心細いのである。
彪志がシフトを入れているのは基本的には月水金の夜である。但し他の人の休みなどの都合で他の曜日を頼まれる場合もある。一緒になる同僚はその度に違うものの、彪志は水曜日に店舗でピザの調理と給仕をしている女性(?)が少し気になった。
「あのぉ、もしかして水野さんって・・・」
「あ?気付いた?私男の子だよ」
と彼女は明るく言った。
「男の娘のほう?」
「ううん。純粋な男の子」
「純粋な男の子に見えないんですが」
「私、背が低いし、こういう女の子っぽい声が出るから、女の子として雇ってくださいと言ったらOKしてもらった」
「へー!」
「だから給料も女の子の給料。男の子より安い!」
「あらら」
「私、将来は役者になりたいんだよ。だから女役の修行」
「修行で女の子してるのか!」
「ヒゲの処理とか体毛の処理とかは面倒くさいから、永久脱毛しちゃったし、喉仏も削っちゃったけどね」
「いいんですか!?」
「別に男として生活するのにもヒゲもすね毛も喉仏も不要だし」
「確かにそうかも」
「睾丸を取るつもりは無い」
「それ取ったらお婿さんになれなくなりますよ」
「うん。それは困る」
「水野さん、でも女子トイレ使ってますよね?」
「その方が混乱無いからそちら使ってと店長に言われた」
「それに賛成です」
「あ、そうそう。私のこと下の名前で呼んでいいよ。ソラって」
「『そら』はどう書くんですか?」
「『宇宙』の『宙』」
「かっこいい!」
「音で聞いても漢字で書いても、割と性別曖昧」
「女の子になりたいとかは無いんですか?」
「女装は好きだけど、女の子になるつもりは無いなあ。私、女の子が好きだし。そう言うとレスビアンですか?と言われるけど、わたし的にはストレートのつもりなんだよね〜」
「そういう男の子が好きな女の子もきっといますよ」
「うん。それを信じてる」
彼女(彼?)は千葉市内のJ大学の学生さんで現在2年生ということだった。
「ソラさん、成人式はどうするんですか?やはり振袖着ます?」
「実は振袖を着たいという誘惑に駆られている」
「着ちゃうといいですよ」
「うん。親は仰天するだろうけどね」
と言って彼女は悪戯(いたずら)でもするかのような表情をしていた。
貴司は6月1日(金)から3日(日)までNTCで男子日本代表候補の合宿をしていた。この時期は千里も貴司も物凄く日程が詰まっている。
5/25-6/03 千里合宿(トルコ遠征)
6/01-6/03 貴司合宿(NTC)
6/07-6/10 貴司合宿(NTC)
6/10-6/18 千里合宿(NTC)
6/19-6/24 千里合宿(トルコ遠征)
6/21-7/01 貴司合宿(NTC)
7/01_____ 大田区体育館でゼビオチャレンジ。男子代表が台湾チームと対戦
6/25-7/01 千里世界最終予選(トルコ・アンカラ)
7/12-7/15 貴司合宿(NTC)
この後、貴司の合宿は7.19-22 26-29 8.01-3 7-10 14-16と続く
8/18-8/26 男子William Jones Cup
6月3日の夕方、合宿の練習が終わる。次の合宿は7日からである。貴司は食堂で夕食を取ってから、味の素ナショナル・トレーニング・センターの門を出る。チラッと周囲を見たものの何も無いので「ふっ」と息をついて、赤羽駅への道を歩き始めた。千里は今北海道にいるはずである。
東京駅19:00の新幹線に乗り、21:36に新大阪に到着する。
そのままマンションに帰るのも寂しい気がして、駅近くの居酒屋に入る。それでビールとおでんを頼んで食べていたら
「あら」
という声がして
「もしかしてサウザンド・ケミストラーズの細川選手ですか?」
という20歳くらいの女の子の声。
「ええ。そうですよ」
「ファンなんです。握手してもらえませんか?」
「いいですよ」
と言って貴司は彼女と握手をした。
貴司は6月4-5日は普通に会社に勤務した。5日は夕方の練習を免除してもらい会社からまっすぐ伊丹に行く。そして新千歳行きに乗り込む。
伊丹19:50-21:35新千歳
新千歳には千里が迎えに来ていて、千里が借りておいたレンタカー・シルフィで札幌に移動する。
「お疲れ様。合宿、どうだった?」
「前回よりは少しマシかなあ。ひょっとしたら枠に残れる可能性もあるかもという気になってきた」
「自信がついてきたということだよね。それと代表チームにしかないテンポに慣れてきたでしょ?」
「ああ。テンポといわれたら、そうかも知れない」
「代表チームに慣れてしまうと普段のチーム練習がつまらなかったりするよね」
「千里は今代表合宿の隙間はどこで練習してるの?」
「秘密の場所で秘密の特訓をしてるよ」
「うーん・・・」
実際には松戸市内の廃校体育館で主として《こうちゃん》に相手になってもらって練習をしている。この場所を使っているのは実は千里と玲央美の2人なのだが、玲央美をそこに連れてきている《すーちゃん》は千里とかち合わないように気をつけているので、千里と玲央美はお互いに他にも利用者がいることを知らない。
松戸市は江戸川区のマンションからは直線距離で15kmほどである。ここを(勝手に)使っていることは見つかったらやばいので、交通機関も車やバイクも使わずに、だいたい《こうちゃん》に連れて行ってもらっている。
秋に自前の体育館(ここを千里は「常総ラボ」と呼ぶ。Joso laboと書くと女装ラボにも見える!?)ができたら、そちらに移る予定である。
6月6日は早朝、札幌に住んでいる玲羅・理歌をシルフィに乗せて4人で留萌へ移動した。
留萌市内のホテルに行くと、既に津気子と保志絵は来ていた。望信・美姫・淑子も追って来るということである。千里は成人式の時にも着た友禅風の振袖を着て、貴司はお父さんから借りた紋付き袴を着る。やがて望信たちも来たので、手順を打合せて10時半から結納の式を始めた。
お互いに定められた口上を述べて各々の結納を交換する。
なお「帯料」「袴料」について千里は、既に豪華な婚約指輪をもらっているので、帯料はそれで代えてもいいのではと言ったのだが、貴司の父が、指輪は指輪として、結納金はちゃんと納めるべきものだと言い、お父さんが半額の50万円を出してくれて貴司も新たに50万用意し(会社に頼んでボーナスの前借りをした)、100万円の帯料を納めてくれることになった。それでこちらでは結納返し(袴料)を50万することにした(この50万はお父さんが取り、それで親との貸し借りは無しにする)。
また結納返しとは別に、指輪の御礼に千里が貴司にタグホイヤーのクロノグラフの腕時計(約40万円)を贈ることにした。
この日も一通りの手順が終わった所で、千里が婚約指輪を左手薬指につけ、貴司がクロノグラフを左手首につけて記念写真も撮った。全員並んだ記念写真もホテルの人に撮ってもらった。
結婚式の日取りについては貴司が説明した。
「それで結婚式なのですが大阪近辺のホテルを色々探したのですが、大阪市内のNホテルに12月22日・土曜日が空いていたので予約しました。この日は友引だし、22日が夫婦の日なので、結婚式にはいいかなと思って」
と貴司は言う。
「その時期って忙しかったりはしないの?」
と淑子(貴司の祖母)から質問が出る。
「ちょうど僕はリーグ戦が終わった後なんだよ。年末で忙しくなるタイプの会社でもないし。千里の方は今年はオールジャパンには出ないということで。理学部は卒論も無いから時間が取れるんだよね」
と貴司は説明した。
「新婚旅行はそのあとアメリカに行ってNBAの試合を観戦してくる」
「ああ、そういうのいいかもね」
「お正月前に帰国するから、あまり混雑には巻き込まれなくて済むかなと」
全員各自のスケジュールを確認し、その日に日程を入れた。それで貴司はそのまま旅行会社にも正式にその日程の航空券とホテル予約をしてもらうことにした。現地では試合を追いかけてあちこち移動するので、とにかく往復の切符と当初の宿だけ確保しておく。
なお北海道在住の親戚のために年明けにでも旭川あたりで結婚報告会をしようという話も出て、その日程などはまた後日検討することにした。
ところでこの結納の式は留萌市内の割と駅の近くにあるホテルで、1階の中庭の見える和室でおこなっている。わざわざ部屋の障子も廊下の雨戸も開けて、こちらから中庭が直接見える状態にしている。
さて「今日千里の結納をするから一緒においでよ」という津気子の言葉に対して「ふん」とだけ答えてふて寝を決め込んだ武矢であるが、津気子が朝早く出かけてしまうと少し気になった。
それでバスに乗って町に出てみる。津気子が置いていったホテルの名前、それに部屋の位置図!まで印刷された紙(美姫が作ってプリントし渡してくれたものである)を持ち、ホテルのレストランにでも入るような顔をして建物の中に入ると、キョロキョロしながら中庭の方に行く(かなり怪しい人である)。
そして中庭に出るとすぐに、その結納が行われている部屋を見つけた。向こうから見えないように木の陰に隠れてそちらを見る。
千里の振袖姿が美しい。
「きれいじゃん。まるで女みたいだ」
などと小さな声でつぶやいた。
「あ、そうか。実際にはもう手術終わって完全な女になっているんだったな」
と更につぶやく。
この武矢を、津気子も保志絵も、また千里・理歌・美姫・淑子も気付いたが、気付かない振りをしておいた(貴司と望信は気付かなかった!)。
武矢が行った時は、実際には結納式は始まったばかりで、武矢はその大半を眺めることになる。持参したデジカメで数枚写真まで撮った(ここまでしている時点で部屋の中の者は気付かない方が不思議である。なお司会者さんにはあらかじめ、中庭から覗く人がいると思うが身内なので黙殺してくださいと言ってある)。
そして千里と貴司がエンゲージリングと腕時計をして記念写真を撮っている所を見た時、何か貴司への小さな反感のようなものが湧く。それが《嫉妬》であることに武矢は気付かなかった。先日“千里”とセックスしてしまったことで、自分の女を取られたような気分なのである。しかしその反感のようなものを除いては、何となく嬉しいような気持ちもあった。
「息子は居なくなったけど、代わりに娘が2人になったようなものですよ」
と誰かが後ろで囁く。
「あ、そうだよな」
と武矢は何気なく返事した。
「千里ちゃん、結婚して2〜3年もすれば元気な男の子を産みますから可愛がってあげてくださいね」
「へー。男の子を産むか」
「その後、女の子も産みますよ」
「ああ。1人ずつっていいよな」
と言ってから、武矢は少し顔を曇らせる。
「俺も男と女と1人ずつ作ったつもりだったのに」
「男の子の子供って手元に残らないけど、女の子の子供なら、わりと気軽るに会いに行けるし、いいんじゃないですか?村山の苗字は残らないけど」
「ああ。大した身分の家でもないし苗字なんて気にしないよ」
「だったら、千里ちゃんも、そのお孫さんたちも大事にしてやって下さいね」
「ああ。千里はこの際どうでもいいけど、孫は大事にするよ」
武矢は結納式、そしてその後の食事会の様子を見ながら背後から話しかけてきた人物と結局15分くらいしゃべっていた。そして唐突に思った。
「あんた誰だっけ?」
それで振り返ると誰も居ない。
武矢は5秒くらい考えると声に出した。
「帰ろう」
それで武矢はホテルを出るとバスに乗って自宅に戻り(やっと禁酒期間が終わり)買ってもらっていたスーパードライの缶を開けると飲みながら、じっと考えていた。
「千里ほんとにいい女だったなあ」
などとつい言ってしまってから、先日“千里とセックスしてしまった晩”の記憶が蘇り、罪悪感まで蘇る。
「でも俺は許すとは言わないからな」
などと言いながら、さっき撮った写真を嬉しそうな顔で眺めていた。
「これプリントする方法分からないから、忠行にプリントしてもらおう」
と言ってデジカメを自分の鞄の中に放り込んだ。(福居)忠行というのは、武矢と一緒にホタテの養殖の作業をしている人である。
津気子は13時頃、玲羅と一緒に自宅に戻った。
「お父ちゃん、祝いのお膳、折箱に詰めてもらったから」
と津気子が言うと
「腹減ったから食う」
とだけ言って、それを食べ始めた。津気子と玲羅は顔を見合わせて、笑いをこらえた。
結納式を終えた千里と貴司は、ふたりだけで新千歳までシルフィで走り、空港で車を返してから一緒に羽田行きに乗った。
新千歳15:20-16:55羽田
明日から貴司の合宿が始まるので、ふたりとも東京に行くのである。ふたりは東京に着くとまずはホテルに荷物を置き、予約していた体育館に行ってバスケを2時間ほどした。
「うん。貴司こないだよりかなり進歩してるよ」
「やはりそう?自分でもそんな気がしたんだよ」
「これならきっと代表枠に残れるよ。頑張ってね」
「うん。千里は代表枠確実だろ?」
と貴司が言うと、千里は珍しく暗い顔をした。
「今回はダメだと思う」
「なんで?凄い人が入った?」
「そういう訳じゃないんだけどね」
練習が終わった後は、着換えて近くにある焼き肉屋さんで夕食を取る。ホテルに戻ったのはもう23時頃で、シャワーを浴びてから、たっぷりと愛の確認をして、そのまま自然に眠ってしまった。
7日朝8時、千里は貴司を味の素ナショナル・トレーニング・センターのゲートの所までインプレッサで送って行った。
「じゃ頑張ってね」
「うん。またレベルアップしてくる」
それでキスして別れた後、千里は《こうちゃん》に運転を任せて後部座席で仮眠をした。《こうちゃん》の運転する車は、東名・名神・伊勢湾岸道・東名阪・名阪・R24などを走り、約7時間ほどで高野山の更に奥のあまり知られていない登山道の所まで到達した。
登山靴を履き、一応登山に適した装備をつけ、《せいちゃん》に用意してもらっていた荷物を背負い、普通の人の目にはそこが登山道であるとは気付かないような道を登り始めた。
この道を知っているのはリードしてくれている《こうちゃん》の他には虚空(早紀)のみである。実は瞬嶽も知らない。瞬嶽が知っているのは通常の登山道の途中からここに回り込むルートである。
《こうちゃん》としては、このルートを教えるのは厳密に言うと守秘義務違反になるのだが、千里の情報も少し向こうに流しているから、このくらいはいいだろうという判断であった。
このルートはひじょうに短時間で瞬嶽の庵まで到達することができる。青葉や菊枝が通るルートなら高野町から5時間、向こうの登山口(これも普通の人には分かりにくい)から3時間半ほど掛かるのだが、このルートは実は“早紀の足で”普通に歩いて2時間45分くらいで登ることができる。
但し物凄い急勾配であり、脚力の無い人なら逆に時間が掛かってしまう。
むろん千里の筋力があれば全然平気である。千里はここを2時間も掛けずに登り切った。 途中の崖登りの所も千里は的確に岩の突起を見て、いとも簡単に登ってしまったし、“蟻の門渡り”など、
「ここ落ちたらさすがに私でも死ぬよね?」
などと《びゃくちゃん》とおしゃべりしながら渡ってしまう。かえって《びゃくちゃん》が
「千里、足元見て、足元!」
と注意するくらいであった。
「でもここ青葉とかにも渡れるよね?」
「うん。青葉なら問題無い。瞬醒さんには無理」
「そりゃ年齢の問題でしょ」
「それもあるし、手術したばかりだから」
「何の手術したんだっけ?」
「千里が胃癌の手術した方がいいと言ったじゃん」
「私そんなこと言ったっけ?」
「ああ、やはりどこかから降りてきた言葉は記憶に残らないんだな」
「うん。そういうの全部忘れてしまう。あの年で性転換手術もないだろうしなどと思ったところで」
「あの人別に性転換する趣味はないと思うけど」
ということで千里は“蟻の門渡り”は与太話をしている内に渡り終えたのである。
登山道の終わりの所に岩がある。ここまで到達したのが17時前である。
「これ女の子のあそこの形してる」
と千里が言うと
「弁天岩と言うんだよ」
と《こうちゃん》は教えてくれた。
「もっとも青葉などはあわび岩と呼んでいるようだ」
「まああの子は性欲が無いから」
「千里は性欲あるよな?」
「当然。私女の子だもん」
「あとは回峰路を通れば瞬嶽の所に辿り着ける」
「うーんと、左?」
「千里、ほんとにいい勘をしてるよ」
それで千里は左手方向にジョギングで10分ほど走った。
「少し息苦しい」
「気圧が低いからな。そのままの状態だと倒れるけど」
「倒れる前に目的地に着けばいいよね」
「まあそうだけどね」
それで庵に辿り着く。
「こんにちは〜」
と、あっかるく挨拶する。
「今日は来るだろうと思って回峰は短めのルートで戻ってきた」
と瞬嶽は言った。
「しかし君はちゃんと登山の格好をしてきてるな」
「行者姿では寒い気がしましたので」
「うん。寒いと思うよ」
むろん瞬嶽が言ったのは行者服ではなく、女子高制服で登ってくる早紀のことだ。
「電池とメディアの補給に来ました」
「ありがとう。君の眷属さんに3回補給してもらったけど、また記憶容量がいっぱいになりつつあったし、電池も無くなりかけていたし」
「あれ?師匠、発電機なんてあるんですか?」
「こないだ来た友人が置いていった」
「だったら、後で充電池と燃料の・・・灯油を持って来させますよ。ね?こうちゃん持って来てくれるよね?」
と千里は《こうちゃん》に話しかける。
「ああ、いいよ。持ってくる」
瞬嶽は千里を呼んだのは、いくつか話したかったからだと言った。
「僕がこれから言うことの大半を君は山の下に降りたら忘れてしまうだろう。しかし無意識の下であっても、知っているのと知らないのとでは、君の対応能力に大きな違いが生じる。だから僕は君に言っておかなければならないと思ってここに呼んだ」
「はい」
それから瞬嶽が30分ほど掛けて語った内容は千里にとっては衝撃的なものであった。結納を終えて天国の気分だった千里を地獄の底に叩き落とした。眷属たちの中でこれを聞くことができたのは《くうちゃん》と《こうちゃん》だけであった。眷属たちのリーダー《とうちゃん》や千里の究極の守護神である《きーちゃん》もブロックされていて聞くことができなかった。
千里はその話の内容にショックを受け、顔色は青ざめ、涙をボロボロ流した。
「でもでも、私、最終的には貴司と結婚できるんですね?」
「そうだよ。貴司君と君、そして桃香ちゃんと大人3人、子供4人の生活をすることができる。8年後にね」
「だったらそのことだけを頼りに私は生きて行きます」
「うん。頑張りなさい」
「でもどうして師匠はそんな先のことが分かるんですか?」
「それは僕がもうすぐこの世のものではなくなってしまうからだと思う」
「ああ。人間をやめて神様になられるんですね。だから先のことも読めるように」
「違う違う。死んで消えてしまうからだよ」
「仏教では死んだら中有の世界に行って、輪廻転生してまた別の人になるんじゃないんですか?」
「どうなんだろうね。まあ死んでみれば分かるけど、僕の命はもう1年も残っていないと思う」
千里は結局瞬嶽と明け方まで話した。
「それと僕が死んだ後、青葉のことを頼む。これは菊枝ともうひとり別の友人にも頼んでいるんだけど、青葉の最も近くで見守ることができるのが君だと思うから」
「分かりました。青葉は私の能力に全く気付いていないようですけど、必要な時は必要なことをしていきますよ」
と千里は約束した。
ちなみに瞬嶽は何も飲み食いしていないが、千里は話しながら持って来ている食糧を大いに食べた。
「何も食事をなさらない師匠の前で失礼します。私は食べないともたないもので」
「うん。それでいいと思うよ。青葉には僕と同じものを食べさせたけど」
「それってEat nothingってことでしょ?」
「うん。千里君的にはそうかもね」
と言って瞬嶽は笑っていた。
千里は周囲が明るくなってから瞬嶽の庵を辞した。《こうちゃん》の案内で通常の登山道の方を降りる。
「こちらが女坂で登る時に通ったのが男坂って感じかな」
「でもこちらを大黒ルート、向こうを弁天ルートと言うんだよ」
「ああ。弁天岩があるからね」
「そうそう」
途中の大黒ルートから弁天ルートへ行く枝道も《こうちゃん》は教えてくれた。
「だけどこのあたり磁界がメチャクチャだね」
「うん。ここは休火山なんだよ。“地獄の釜”って所もあるぜ。行ってみる?」
「じゃ後学のために」
それは大黒ルートから弁天ルートに別れるポイントより少し下に分岐点があった。その道を30分も歩いて行くと、千里がさすがに緊張した“結界線”があった。
「この先は普通の人なら方角が分からなくなるよね?」
「そう。ここは地獄の一丁目なんだよ。進む?」
「もちろん」
それで千里は“事象の地平”と《こうちゃん》が呼んでいる結界線を越えて、そこに行った。
「活火山だったのか」
「ここはずっとこうやってマグマが煮え立っているよ」
「でもマグマの煮えたっている部分が輪になっているんだ?」
「そう。150年くらい前からここは、この状態。周囲から湧き上がってそれが冷えて中央から沈み込んでいく。対流を作っている。周囲は800度くらいだけど中心部分は冷やされて100度近くになっている。だから中心部に物を投げ込むと、燃えないでそのまま地中に沈み込んで行くんだよ」
「だったら、絶対に誰にも見られたくない恥ずかしい写真とかこの中央に放り込むといいかもね」
「ここには通常の方法では処分できない呪いの品とかを持ってくるのさ。いったん中に呑み込まれると呪いを伝える思念さえも脱出できないから事実上完全封印される。中に呑み込まれた物が熱で破壊されるのは数十年後。そもそもさっきの事象の地平を通過できる思念は存在しない。俺たちも実体でないとここには入れない」
実際今ここに居るのは千里と《こうちゃん》の他には緊急に実体化して千里の服を掴んだ状態でガードしている《きーちゃん》だけなのである。本来遍在してどこにでもいるはずの《くうちゃん》さえもいない。
「なるほどね〜。面白いものを見せてもらった。ありがとう」
それで千里は《きーちゃん》の手を取ると、ごく普通にその火口を離れて“事象の地平”の結界線の外側に出た。
「戻れたね」
と《こうちゃん》が言う。
「戻れない人結構いるの?」
と千里は訊く。千里が《きーちゃん》の手を取ったのは、彼女が自力では戻れないと判断したからである。
「まあ100万人に1人くらいだな。自力で戻れるのは」
「それなら戻れる人がこの国に120人くらいは居るんだ?」
「そう言われると結構いるような気もしてきた」
「もし私が戻れなかったら、どうしてた?」
「もちろんそんな奴は俺の主人にはできないから放置」
と《こうちゃん》が言うと《きーちゃん》が《こうちゃん》をキッと睨む。
「まあ、こうちゃんならそうだろうね」
と言って千里が笑って山道を戻っていくので、他の眷属たちは呆れていた。
結局大黒の登山口の所まで降りてきたのが6月8日の午前10時頃である。
「貴司んちで寝ていこう」
「なるほどそれは合理的だ」
貴司は東京で合宿中であり、マンションは留守である。
それで《きーちゃん》に運転してもらって豊中市の貴司のマンションまで行き、千里は夕方までぐっすりと眠った。
そして夜中にマンションを出て名神・東名を走り6月9日の朝、葛西のマンションに帰還した。
6月9日(土)。
千里は千葉L神社に和実を呼び出した。
和実がやってくると千里は辛島さんに断って和実を神社内の1室に案内した。
「何か久しぶりだね」
「うん。いつでも会えそうなのに会ってなかった」
2月24日は、青葉と和実は東京駅で別れ、桃香・千里は千葉駅で青葉をキャッチしたので、桃香と千里は和実に会っていない。それで結局1月23-24日に伊豆の温泉で会って以来なのである。
「ある人(瞬嶽)からの頼みで和実がおかしな状態になっているから、私に何とかしてあげて欲しいと言われた」
と千里は言った。
「実際、今和実とんでもない状態になってるね。私も気付かなかったよ」
と千里は言う。
「え、えーっと」
「和実、男の霊を21体、女の霊を53体、オカマさんの霊を34体、憑依させている」
「あはは、そんなに居た?」
と和実は焦ったような笑いをしている。
「いやぁ、成仏させるつもりがさせきれずに私の身体に残っちゃったのがいてさ。やはり素人が霊能者のまねごととかするもんじゃないね」
などと和実は言っている。
「それだけ憑依させていると、CTとかMRI撮った時に、自分の身体じゃなくて、その憑依している霊体の方が写っちゃうことあるでしょ」
と千里は心配するように言う。
「うん。だから先月下旬に3日間入院してMRIを撮られまくったら、無茶苦茶な状態になってた」
「そのままじゃ、性転換手術を受けるにしても、どの身体を性転換すればいいのか分からないよ」
「実は自分でもどれが自分なのか分からなくなって来つつあった。性別も不安定で、クリちゃんいじってたつもりがいつの間にかちんちん握ってるし」
「それだとおちんちん20本切ってもらわないと」
「痛そう〜」
「除霊していい?」
「千里、除霊とかできたんだ?」
「できない。でも除霊の能力を預かってきた」
「へー!」
「これ持ってて」
と言って千里は藤雲石の数珠を和実に握らせた。
「あ、これ青葉が持ってるのと色違いのお揃いだ」
「そうなんだよ。これ3つ組なんだよ」
「へー!もうひとつは桃香が持っているのか」
「さっすが、霊感が発達しているだけのことある」
「あ、それ。3月11日過ぎたので、ハイパー巫女状態は終わったんだけど、まだ結構勘が働くんだよ。これ除霊してもらったら収まる?」
「もっと強くなると思うよ。邪魔が無くなるから」
「あははは」
「じゃ行くよ」
「うん」
千里は和実に相対してあぐらをかいて座ると、目を瞑り、左足の中指を右手の中指と左手の薬指で両側から押さえた。
千里の身体から強烈な光の珠があふれ出し、それが千里の身体を離れて和実の身体を覆う。すると珠は炎のようになって、和実の“周囲”で悲鳴のような声が聞こえ、やがて燃えていくように消えて行った。
和実が呆然とした顔をしている。
「すっきりしたでしょ?」
と千里が訊く。
和実はしばらく自分の身体を触っていたが、やがて言った。
「これが本当の私だ」
しかし千里は顔をしかめて言った。
「和実、結局、まだタマタマも有ったんだ?」
「そうなんだよね〜。邪魔なんだけど」
「取ってあげようか?」
と千里が言うと、《こうちゃん》がワクワクした顔をしている。
「いい。ついでに性転換されてしまう気がするから」
「よく分かるね〜。人を性転換する法もあるんだよ」
「千里はそれで性転換したの?」
「ううん。7月に手術してもらって女の子の身体になる」
「女の子の身体になるって、千里今既に女の子の身体じゃん。青葉はうまく誤魔化されているみたいだけど私には分かるよ」
「うん。だから困っているんだよね〜」
と千里は本当に困っているような顔で言った。
その時廊下をバタバタと走ってくる音がある。障子を開けたのは宮司さんである。
「村山さんか!?今物凄い悲鳴が聞こえたから」
「すみませーん。108体ほどの霊をまとめて成仏させたので」
と千里は照れながら宮司に答えた。
この日千里はバイト先のファミレスに行き、かねてから言っていたように、しばらく日本代表の合宿に入り、その後“持病の治療のための手術”を受けるので8月末くらいまで休職させてもらいますということを改めて伝えて了承を得た。あわせて夜間店長も辞任させてもらう。
「でも持病の治療って何の病気?」
と店長さんから訊かれた。
「いよいよ性転換手術を受けます」
「え?村山さん男の子になっちゃうの?」
「いえ。今男だから女になるのですが」
「また冗談を。まあいいよ。病名は」
と店長は笑っていた。
むむむ。そういえば私がここに勤め始めた頃から残っている人、誰もいないから私が初期段階で性別問題でトラブったことを知る人も誰もいないかも!?と千里は思う。
この日話した店長さんも、この春に他の店から移ってきた人だ。入社してまだ2年くらいである。千里が日本代表の活動でしばしば休職することになるというのは前任の芳川さんから聞いて承認してくれている。
なおこの日の最後のバイトも、実際に勤務すると明日からの合宿に響くので、申し訳無かったが《すーちゃん》に代行してもらい、千里は葛西のマンションに帰って眠った。
千里は6月10日(日)の朝から合宿所に入り、オリンピック最終予選前の最後の合宿に入った。これを指揮したのはやっと退院して来日したシリル・デハーネであるが、相変わらず体力が無いようで、頻繁に休みはするものの、色々必要な指示は出していた。ただコーチのポリシーがよく分からず、みんな首をひねっていた。個々の技術的問題はけっこう的確に指示されるし、日本の審判と海外の審判の判定基準の違いなども説明してくれた。しかしチーム全体の戦い方をどう考えているのかが伝わってこないのである。
なお貴司の方の合宿は6月10日までで、この日一日、男子代表と女子代表が同時に合宿したのだが、対抗戦なども行われず、千里は貴司とは目は合わせたものの(人前では)話したりすることもなかった。男子代表が夕方解散して帰る時に
「お疲れ様。頑張ってね」
とお互いに声を掛けただけである。
「昼休みとかにセックスしなかったの?」
と玲央美から訊かれたが
「合宿所内でそんなことしないよ!」
と答えた。
貴司は6月7日から10日までの合宿でまた自分の力がレベルアップしてきたのを感じていた。10日には千里の方も女子の合宿でNTCに来たものの何度か視線を合わせただけで特に何も話していない。一度廊下ですれちがいざまにキスしたくらいである!
10日の夕方、食堂でチームメイトと話している千里に手を振って選手村を出る。そしてゲートを出て赤羽駅まで行き、新幹線で大阪に戻った。
自宅に戻ってから、食糧が何もなかったことに気付く。それでコンビニにでも行ってこようとマンションを出て道を歩いていたらそばで車が停まる音がする。
「ね?もしかして貴司君?」
「善美ちゃん?」
「久しぶりね〜」
彼女は中学時代のガールフレンドだが、デートしようとした所を千里に阻止されたことがある。
その場でふたりはしばし車の中と外とで話していたのだが、そこに駐車監視員がやってくる。この通りは駐停車禁止だ。
「すみません。すぐ出します」
と善美は言う。
「貴司君、乗ってよ」
「うん」
それで貴司は善美の運転するジャガーXFに乗ってしまったのであった。
千里たちの国内の合宿は一応20日までで、21日朝にはみんなでバスで移動して成田空港に向かった。21日から合宿の始まる貴司たち男子代表とは入れ違いになる。そしてイスタンブール行き飛行機に乗り込んだ
NRT 6/21(Thu) 13:30 (TK51) 19:30 IST (12h00m)
IST 23:00 (TK2186) 0:05 ESB (1h05m)
ESBはアンカラのエセンボーア国際空港(Esenbogha International Airport)である。ちなみに現代トルコ語のgh(ğ)は「ほぼ無音」である。末尾に置かれた時に直前の母音を長音化するだけである。
飛行機は本当は11:40発だったのが1時間50分遅れで13:30発になったので到着も17:45の予定が19:30になった。国内便も20:00のに乗る予定が23:00になり、到着したのは現地時刻で0:05. 半月前までいた時と同様に6時間の時差があるので到着時刻は日本では朝6時である。みんな眠いので、そのままベッドに直行する子が多かった。
翌6月22日から24日まで市内の中学校の体育館を借りて調整と練習をした。この練習もずっとアシスタントコーチのシリル・デハーネが指導していた。24日の夕方、やっとヘッドコーチのジーモン・ハイネンが現れる。そして最終的な日本代表12名を発表した。
PG 羽良口英子(1982) 武藤博美(1983) 富美山史織(1981)
SG 三木エレン(1975)
SF 広川妙子(1984) 早船和子(1982)
PF 横山温美(1983) 高梁王子(1992) 吉野美夢(1984) 宮本睦美(1981)
C 馬田恵子(1985) 黒江咲子(1981)
「メンバーに入らなかった花園さん、佐藤さん、村山さん、石川(美樹)さんも、練習相手としてこちらに留まってください」
とチームに同行しているバスケ協会理事の鰥臣さんが言うので、亜津子が代表して「はい、練習相手として少しでも力になりたいと思います」と言った。亜津子も玲央美も千里も予想していた選考なので、ショックではあったものの仕方ないという気分だが、美樹はかなりの衝撃を受けている感じだった。
多分王子も落とすはずだったのが、王子を外しては絶対に勝てないと言って、誰かが頑張ってくれたのではないかと千里は思った。その代わりに美樹が落とされたのだろう。
この発表の後で夕食になったのだが、亜津子が千里を捉まえて、話した。
「ね、エレンさんが完璧に思い詰めている気がしない」
「でももう代表は変更できないよね?」
「できない。だからさ」
と言って亜津子はわざわざ耳元に手を丸めて当てていかにも内緒話という感じでその提案をした。
「よし、行こう」
と千里も同意して、ふたりで三木エレンの部屋に行った。
「三木さん、お話があります」
「何?どうしたの?」
とエレンは戸惑うように訊いた。この時エレンは、千里たちが、もうやってられないからすぐ帰国したいとでも言うかと思ったらしい。
しかし亜津子と千里の話はそうではなかった。
「私も花園も、今回の選手選考に全く納得できません」
と千里は言った。
「私も納得していない」
とエレンは厳しい顔で答える。
「私も花園も、三木さんよりずっと力があると思っています」
と千里が言うと、エレンもさすがにムッとする。
「ひよっ子がよく言うね」
とエレンは言った。
「ですから、万が一にでも三木さんが恥ずかしいプレイをしたり、1試合に3本とかもスリーを入れられないようだったら、三木さんがコートから引き返してきた時に生卵ぶつけますから」
と千里は言う。
「私はシュークリーム投げつけようかな」
と亜津子も言った。実は亜津子はシュークリームが嫌いだ!
「ふん。そんな恥ずかしいプレイをする訳が無い。スリーも1試合に5本は入れてやる。それであんたたちが百年経っても私を追い抜けないということを見せつけてやるから、目の玉ひん剥いて、よく見てなよ」
と三木エレンは本当に怒ったような表情で言った。
「お話は以上です。では失礼します」
と千里は言った。
「ああ、おととい来やがれだよ」
とエレンも言った。
さて、一週間ほど前のこと。その日、貴司は善美と一緒に京都市内のシティホテルに来ていた。
しばらく浮気してないし・・・たまにはいいよね?などと勝手な理屈を考えている(先日ファンの女の子と食事したのは浮気にカウントしていない)。どっちみち、たぶん千里以外とはセックスできないだろうから、セックスに至らないことだけすればあまり浮気にならないし、などとまたおかしな理屈も考えている。
その善美だが、ホテルの部屋に入った後「おやつが欲しい」と言ってコンビニで何か買ってくると言い、出て行った。貴司は待っている間に眠ってしまうかもしれないからと言って彼女に鍵を預けた。そして実際問題としてシャワーを浴びてからベッドの上で横になっている内に眠くなってしまった。
阿倍子はその日用事があって京都に出てきた後、遅くなったので神戸まで戻るのもきついし(阿倍子は本当に体力が無い)、泊まっちゃおうと思い、京都駅の観光案内所でホテルを紹介してもらって(阿倍子は楽天トラベルとかの使い方が分からない)そのホテルにやってきた。
生憎シングルは一杯ということでツインのシングルユースで泊まることにする。
部屋に入った後で「あ、ごはん食べなきゃ」と思い、鍵を持って部屋を出た。1階のエレベータを出たところで22-23歳くらいの女性とぶつかる。
「あ、ごめんなさい」
ふたりとも手に鍵を持っていたのが落ちるので慌てて拾う。それで彼女はエレベータの中へ、阿倍子はレストラン街へ向かって歩いていった。
善美は先日路上で久しぶりに中学の時のボーイフレンド細川貴司に会った。彼は当時から“オカマ野郎”の村山千里と付き合っていたようで、貴司とのデートを阻止されたこともあったがメール交換だけは半年くらい続けていた。
しかし会ってドライブしながら、その後食事しながら話していたら結局その“オカマ野郎”と婚約したというので驚いた。
「貴司って本格的にホモだったのか」
と善美が言うと
「千里は女の子だよ」
と貴司は怒ったように言った。
「性転換とかするの?」
「あいつ少なくとも高校1年の時までには性転換済みだったよ」
「そんなに早く性転換したんだ?」
「戸籍もちゃんと女の子に変更するんだよ」
と貴司が“オカマ野郎”を弁護するように言うので、善美は悪戯心を起こした。言葉巧みに口説いて、貴司と一晩過ごすことを同意させてしまったのである。元々浮気性の性格だし、きっと誘いに乗るだろうと思ったら案の定だった。
それでホテルまで来たのだが、一晩「交戦」するなら腹ごしらえも必要だなと思い、鍵を持って食糧調達に出た。コンビニで色々買う。貴司が用意してくれてはいるだろうけど念のためと思い避妊具も買う。そしてホテルに戻る。エレベータの所で中から出てきた“おばちゃん”とぶつかり鍵を落としたがすぐ拾った。
それで自分たちの部屋がある14階まで戻る。えっと何号室だったっけ?と思い鍵を見ると1423と書かれている。
「こっちか」
とつぶやいて通路の右側に行き、1423号室の鍵を開けて中に入る。
「ただいまあ」
ところが返事が無い。
「シャワーかな?」
などと声を出しながらバスルームの戸を開けるが誰も居ない。
「あいつもどこか出かけたのかな?」
と思い、善美はしばらく待っていたものの、貴司は戻って来なかった。
「逃げたのかな?まあ度胸の無いあいつらしいかもね。まあいいや“オカマ野郎”とお幸せにね」
などとつぶやいたまま、善美はその晩、すやすやと寝心地のよいベッドで熟睡した。途中1度携帯の着メロが鳴ったのには気付かなかった。
阿倍子はホテルのレストランで夕食をのんびりと食べた後、自分の部屋に戻ることにした。自分が泊まった部屋のある14階までエレベータで戻る。
「えっと何号室だったっけ?」
と思い鍵を見ると1417と書いてある。それで案内に従って左手に行き、1417という表示のあるドアを鍵で開けて中に入る。
「ああ、疲れた」
と言ってベッドに腰掛けると、人間の感触があるので
「きゃっ」
と小さく声を揚げる。
「え!?」
と言って起き上がったのが裸の男なので、阿倍子は
「きゃー!人殺し!」
と悲鳴をあげた。
「ちょっと待って。君こそ誰?」
と男が言う。
「さっさと出て行って!」
と阿倍子は言うが
「君こそ何か間違っている。ここは僕の部屋だ」
と男。
「そんな馬鹿なこと無いわ。私、この部屋を借りて、ちょっと食事に行ってきただけなのに」
と阿倍子。
「僕はホテルでこの部屋を借りて1時間前から居るけど」
「嘘つかないで」
などと言い合っている内に阿倍子も男も相手を認識する。
「篠田さん!?」
「細川さん!?」
「なぜ細川さんが私の部屋に居るの?」
「だからここは僕の部屋だって。恋人とデートするのにこの部屋を借りていたんだけど」
と貴司は取り敢えずガウンを羽織って言った。
「・・・ほんとに?」
「篠田さん、本当にこの部屋だった?」
「そう言われると自信がなくなってきた」
そして「あっ」と気付く。
「さっき私、エレベータの所で女の人とぶつかって。お互いに鍵を落としたのよ」
「だったらその時、鍵が入れ替わっちゃったんだね」
「向こうも困っていたりして」
「元は何号室だったとか覚えてないよね?」
「ごめーん。分からない」
「いいよいいよ。彼女の携帯に掛けよう。向こうは僕がデート中に逃亡したかと思っているかも」
と言って貴司は笑いながら自分のスマホを取り出した。
その時、阿倍子は唐突に悪いことを思いついてしまった。
貴司のスマホを取って電話を切り、電源まで切ってしまう。
「何するの?」
「今晩、私と過ごしてくれない?」
「ちょっと待って」
しかし阿倍子は貴司にいきなりキスすると、ベッドの上に押し倒してしまった。
翌朝裸のままベッドの中で目を覚ました貴司はそばですやすやと幸せそうな顔で寝ている阿倍子の顔を見て、参ったなと思っていた。昨夜の阿倍子は物凄く積極的で、貴司が「僕は妻以外とはセックスできないから大きくもならない」と言って、本当に小さいままなのを口に含んで気持ち良くしてくれたし、柔らかいまま強引に中に入れようとしたりもした。実際には圧力の問題で入れてもすぐ押し出されてしまうし、射精もしないのだが、それでもかなりの快感を貴司は感じた。
善美は僕が逃げたと思っているだろうなあ。まあ善美は関わり続けると面倒な事になっていたかも知れないから、このままでいいかな、などとも考える。しかし篠田さんも離婚して1年くらいして寂しかったのかなとも思った。今夜のことはお互い忘れることにして、めげずに頑張ってねとでも言おうかなと貴司は考えていた。
やがて阿倍子が目を覚ました。
「おはよう」
「おはよう」
と笑顔で挨拶を交わす。
「朝御飯にでも行く?それで別れよう」
と貴司は言った。
しかし阿倍子は言った。
「私と結婚して」
「は!?」
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【娘たちのクランチ】(2)