【娘たちの震災後】(3)

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6月3-5日(金土日)、福井県でインターハイ予選が行われ、女子では城島監督が率いる福井W高校が優勝して秋田で行われるインターハイの切符を掴んだ。
 

さて、A代表のヨーロッパ遠征と同時期に、U24はオーストラリア遠征、U24(Univ)はトルコ遠征を実施しているが、千里と玲央美はA代表優先でヨーロッパ遠征の方に参加した。
 
6月12日のU20ギリシャとの試合で、今回のヨーロッパ遠征はひととおり終了する。翌日13日にパリのシャルルドゴール空港経由で帰国した。
 
ATH 6/13 15:00 (AF1533-A320) 17:25 CDG (3:25)
CDG 19:25 (JL406-B773) 6/14 14:15 NRT (11:50)
 
6月14日(火)は成田空港で報告会と解散式をした。
 
そしてこの場で、8月に大村市で行われるアジア選手権(オリンピック予選)は福井W高校監督の城島さんが指揮することが発表された。城島さんは昨年U17女子日本代表を率いて世界5位という素晴らしい成績を収めたが、今回の選手権では、アシスタント・コーチとチーム代表も昨年のU17のスタッフがそのまま務めることになる。
 
記者から城島さんは代表監督の専任になるのか?という質問があるが、バスケ協会の強化部長は、福井W高校監督の兼任であり、また城島さんが指揮するのは今回のみで、オリンピックの監督には別の人物と交渉中であると言明した。
 
城島さんたちは、今月下旬のA代表合宿から代表チームを指導することになる。
 

解散式が終わった後は、成田から自分の居住地方向に向かう飛行機に乗り継ぐ子も多数いた。
 
「千里はどうすんの?」
と玲央美から訊かれ
「ちょっと大阪に行ってくる」
と答えた。
 
「ああ、行ってらっしゃい、行ってらっしゃい」
と玲央美は笑顔で送ってくれた。
 

それで千里は次の連絡で貴司のマンションまで行った。
 
成田18:30-19:55伊丹20:23-20:35千里中央
 
千里中央で降りた後、実際にはセルシーでお肉などを買っていく。どうせ貴司は食材なんか置いてないだろうし、ホットプレートを出して焼肉でもしようと思ったのである。ついでにビールもヱビスビールを6缶1パック買う。
 
それで貴司のマンションに入ったのは、もう21時半すぎであった。貴司はもう練習が終わって自宅に戻っているだろう。
 
千里は自分の持っている鍵でエントランスを開けて33階に昇り、3331号室に行く。ドアを自分の鍵で開けて中に入る。
 
「貴司、ただいまあ」
と言って中に入っていくが返事が無い。
 
お風呂かな?とも思ったが、風呂場の電気は付いていない。しかし直前に使った跡があり、かなりの湿度があった。
 

「寝てるのかなあ?」
と言いながら寝室に入っていく。電気は消えている。
 
「あれ?千里?」
という声がする。
 
「あ、寝てたんだ?ごめんね。起こして」
「いや、今日の練習はなんかハードだったから、シャワー浴びたら、そのまま服も着ずに眠っちゃった。ヨーロッパ遠征お疲れ様。お帰り」
と貴司は言っている。ほんとに裸だったようである。
 
「とりあえずこれお誕生日のプレゼント」
と言って、マドリードで買ってきたレザージャケットの袋を渡す。
 
「さんきゅー!」
 
それで千里は電気を付けた。
 
そして絶句した。
 

「貴司、それ、どういうこと?」
と千里は怒りの目で言う。
 
「それ?」
と言って、貴司は千里の視線を追った。
 
「え!?」
と貴司が声をあげたが、その次の瞬間、貴司の隣に“裸で”寝ていた人物が大きく伸びをすると
 
「あ、千里さんお帰り。ごめんね。ちょっと貴司さん借りちゃった。気持ち良かったよ」
などと言っている。
 
「緋那!?」
と貴司が驚くように声をあげたが、千里は
 
「もう知らない!」
と言うと、持っていたヱビスビール6缶のパックを貴司に向かって投げつけ、自分の荷物だけ持って、部屋を飛び出した。
 

千里はマンションの外まで出ると《くうちゃん》に
 
『お願い、インプレッサをここに転送して』
と言った。
 
『千里、再度貴司君と話し合った方がいい』
と《くうちゃん》が珍しく千里に注意するが
 
『あったま来た。あんな奴のこと知らない』
と千里は怒りでいっぱいになった頭で言う。
 
『じゃ転送するけど、絶対にスピード違反はしないことを誓いなさい』
『分かった。誓う』
 
それで《くうちゃん》は車を転送してくれたので、千里はそれに飛び乗ると千里(せんり)ICへ車を向けた。
 
その頃、貴司のマンションでは千里のビール缶攻撃をまともにくらって気絶してしまった貴司を緋那が介抱していた。
 

千里は結局一睡もしないまま、夜通しインプレッサを中央道経由で東京まで運転し、明け方葛西ICを降りた。コンビニで金麦の500ml缶を2つ買うと、マンションに入り、2缶一気飲みしてベッドに潜り込む。
 
しかし眠れない。
 
『えーん。びゃくちゃん、私を眠らせてよ』
『千里、オナニーしたら眠れるよ』
『今は、したくない』
『しょうがないダダッ子だねぇ』
 
と《びゃくちゃん》は呆れるように言ったものの、千里を睡眠に導いてくれた。
 

目を覚ました時、千里は今、朝なのか夕方なのか判断に迷った。携帯を開いて確認すると、6月16日の朝4時である。
 
結局丸一日眠っていたようだ。
 
取り敢えずトイレに行く。
 
ギョッとする。
 
『なんでまた男の子になってるの〜?』
『千里、今日は精子を取る日だよ』
『あ、そうか。それなら仕方ないか』
 
と言ってから
 
『女の子の身体のまま精子は取れないの?』
などと言う。
『それはさすがに無茶。そもそも桃香が千里のちんちんを握れない』
『確かに』
 
しかし丸一日寝ていただけあって、凄い量のおしっこが出た。
 
ついでに頭も痛い!
 
『それは2日酔いだね。そのくらいは自分で解決しなさい』
『ごめんね』
 

貴司からは何度も着信したようで、メールもたくさん来ていたが、全部見ずに削除した。ついでに着信拒否を設定した。
 
コンビニに行って、アイスクリームとオレンジジュース、それにレトルトのカレーを買ってきて、冷凍している御飯をチンし、アイスクリームを食べ、カレーを食べてオレンジジュースも飲んだら、かなり頭痛は軽減された。
 
たくさん食べたり飲んだりしたのでまたトイレに行く。
 
「面倒くさいものが付いてるなあ。切り落としたい気分」
と言って千里は、それを指ではじいてみた。
 
男の子の身体になるのはいいとして、それは高校2年の時の身体なので、まだ筋肉などがあまり付いていない。千里はそれが物凄く頼りないような感じがした。
 
「男の子の身体って、なんか頼りなくて嫌だ」
と千里が呟くと、《りくちゃん》や《びゃくちゃん》が顔を見合わせていた。
 

東京を7:24の《あさま》に乗って長野に行く。元々並びの席を取っていたので千葉から来た桃香と並んで行くことができた。
 
「千里、なんか機嫌が悪い」
「ごめん。寝てていい?」
「うん。いいよ」
 
それで結局千里は長野に着くまでずっと寝ていた。丸一日寝ていたのに、更に眠れるって我ながら凄いと思った。
 
長野市内の水浦産婦人科で4回目の精子採取をおこなった。次は7月19日に行い、その採精が終わった後、去勢することにしている。
 
長野での採精を終えた桃香と千里はそのままJRで花巻まで移動した。17-20日にまた東北地方での炊き出しボランティアに参加することになっていたのである。
 
長野13:02-14:26大宮14:34-17:41新花巻
 
なお、JRは4月21日に東北本線の本線全線が、4月29日には東北新幹線全線が復旧している。但しこの時期は一部の区間で速度を落として運行されている。
 
その日は花巻市の協力会社の女子寮に入って泊まった。
 
なお、千里が海外遠征している間に《てんちゃん》が代わって桃香と一緒にボランティアに行ってくれているが、《てんちゃん》は千里より厳しいので、桃香が襲おうとすると、かなり手痛い目に遭わせているようである。
 
「こないだはちんちん切り落とされたし」
などと言っていた。
 

6月17日(金)は花巻市とその東側の遠野市でボランティア活動をし、遠野市内の旅館に泊まる。18日(土)は沿岸の釜石市に移動して、そちらの避難所を回った。
 
その間に17日の夕方、青葉のお姉さん・未雨の遺体が見つかったという連絡があった。青葉はどっちみちこの週末、大船渡に来る予定だったので、明日仮葬儀をすると言っていたのだが、18日の午前中には今度はお父さん・広宣の遺体が見つかったという連絡が入る。
 
お姉さんの遺体は数日前に見つかった彼女のボーイフレンドの遺体が見つかった場所に近い砂浜に打ち上げられていた。お父さんの遺体は山間いの崖崩れが起きていた現場の復旧工事中に発見された。
 
それで結局18日(先負)の夜に仮通夜、19日(仏滅)午前中に仮葬儀ということになった。
 
それで18日の午後は途中から他の人に代わってもらい、千里と桃香は先行して大船渡に入って、未雨と広宣の仮通夜に出席した(どっちみちボランティアも明日は大船渡でやる予定だった)。
 

今回の仮通夜の出席者は下記10人である。
 
青葉、佐竹慶子、桃香、千里、早紀、椿妃、彪志、それに未雨の同級生女子3人。
 
今回も発見時に遺体を確認してくれたのは慶子であるが、この遺体を青葉と彪志に千里も見た。実際問題として顔などは分からないのでDNA鑑定で未雨と広宣であることを確認したのである。
 
青葉が一瞬ふらっとしたのを今回は彪志が抱き留めてくれた。千里は動じずに見ていたので「千里さん凄いですね」と彪志が言ったが、千里は「彪志君こそ凄いと思う」と言った。なお、桃香は千里から「気絶されたら介抱するの大変だから、やめといた方がいい」と言われて見なかった(彪志は後で、青葉の前で気絶とかしたら振られると思い必死で気合いを入れていた、と言っていた)。
 
服装は青葉・桃香・千里は和服の喪服で、千里が青葉にも桃香にも着せてあげた。慶子は洋服の喪服。そして早紀・椿妃・彪志、未雨の同級生は学校の制服である。
 
出席者が10人なので先日の祖父母の仮通夜よりは時間が掛かったものの、それでも1時間も掛からずに仮通夜は終了した。夜も遅いので未雨の同級生3人、早紀と椿妃にはお弁当を渡して帰し、残りの5人で佐竹家に移動して精進料理を食べた。
 
桃香は「お肉が無い」などと文句を言っていたが「精進料理なんだから仕方ない」と千里は言っておいた。
 

その夜は、市内の旅館に千里・桃香・青葉、および彪志は泊まった。この時点で彪志はまだ青葉と“結ばれて”おらず、恋人未満の状態であったので、彪志は別室で、千里・桃香・青葉が同室である。実際、青葉はまだ嵐太郎と彪志の間で心が揺れていた。
 
8畳の部屋に布団を敷くが、並びの順序は窓側から青葉・千里・桃香とした。桃香は割とトイレが近いので出口に近い側を選び、青葉が万が一にも襲われないように間に千里が寝る。
 
青葉は
 
「私は聞こえないふりしてるから、あまり大きな音を立てない程度にね」
 
などと言って寝たが、夜中に桃香が千里の布団に侵入しようとして
 
「グゲッ」
という凄い声を挙げたので、青葉はビクッとして目が覚めてしまった。
 
桃香がお股を押さえて悶絶していて、千里はスヤスヤと眠っているようなので「一体何があったんだ?」と思った。
 
(実際には千里を襲おうとした桃香が《びゃくちゃん》に撃退されたのである。千里は連日の疲れがたまっていたのと、貴司のことでモヤモヤしていたのもあり、本当に熟睡していた)
 

6月19日(日)は4人で一緒に朝御飯を食べる。
 
「今日も昨日と同じ和服の喪服か?」
と桃香が訊く。
「青葉が喪主で、私たちは青葉の姉だから、そうなる」
と千里。
「和服って面倒だよな」
「去年は桃香が私に教えてくれたのに」
「あれは成人式で振袖着ないといけないということになってから、必死で勉強したのだ。付け刃だから、もう忘れつつある」
 
「付け刃だとは知らなかった」
「千里は物凄く上達したみたい」
 
「彪志君は今日も制服なのね?」
と千里。
「はい、慶子さんに相談したら、学生なんだから制服でいいよと言われたので」
と彪志。
「そういえば出席者の中で、彪志君が唯一男子なんだな」
と桃香。
 
「なんなら私のセーラー服でも着る?」
と青葉が悪戯っぽい表情で言う。
 
ほほぉ、こんな表情も出るようになったか、と千里は思った。
 
「青葉が身につけている服って、着てみたい気はするけど、どっちみち青葉の服が俺に入るわけないし」
「ふーん。サイズが入ったらセーラー服、着てみたいんだ?」
 
「ちなみに女装趣味がある訳じゃないよ。好きな人の服はフェティシズム的に関心がある」
 
と彪志が言うと『好きな人』と言われたことで青葉は頬を赤らめた。
 
「坊主好きなら、袈裟まで好きってやつだな」
と桃香が言う。
 
「この場合は尼さんだね」
と千里が訂正した。
 

それで朝食後、また千里が桃香と青葉に和服の喪服を着せてあげて、彪志と一緒に££寺に行く。
 
朝9時から仮葬儀を行った。
 
青葉・千里・桃香、彪志、そしてまた来てくれた佐竹慶子、早紀・椿妃の7人が参列した。££寺住職・川上法嶺の読経がおこなわれる。そして青葉、千里、桃香、彪志、早紀、椿妃、慶子の順に焼香をおこなった。
 
早紀・椿妃には今日もお弁当を渡して帰す。青葉はふたりから「たくさん泣いていいんだからね」「お母さんが見つかったらまた来るからね」と言われてハグされていた。青葉も「ありがとう」と言って涙を流していた。
 
2つの棺をまたお寺の車で2往復して火葬場に運び、再度御住職の読経が行われてふたは閉じられスイッチが入る。青葉は今日は何とか持ち堪えた。自分で舎利礼文をを暗誦するだけの余力が残っていたが、その後を千里がまたハグしてあげた。
 

御住職も入れた6人で待ち時間に会食をする。
 
「でも青葉のお父さんってお仕事は何してたの?」
と桃香が尋ねたが
「それ分からないんです」
と青葉は言う。
 
「しばしば何ヶ月も帰ってこないし。帰ってくると母にお金を渡して、溜まっている支払いをそれで払っておいてとか言うんですよ。でもだいたい1〜2日のうちに母と喧嘩して飛び出して、またしばらく戻って来ないんです」
 
「うーん」
 
「最初は旅行業をしていたんですけど、アメリカの同時多発テロと、SARS(重症急性呼吸器症候群)騒ぎで旅行客が激減したので倒産したらしいんです。その後は、父が何をしていたのか、母も知らなかったようです」
 
「お母さんは?」
「しばしばパートに出ていましたが、あまり長続きしてなかったみたいで。母もよく何日も家を留守にしていたし」
 
「うーん。。。。」
 
「だからこの子と未雨ちゃんは、おばあちゃんの保護下で暮らしていたのに近い状態だったと思うよ」
と遠縁でもある御住職が言う。
 
「ええ。おばあちゃんの家に居たりもしていましたけど、その内、母が引き取りに来て、しばらく一緒に暮らしていたら、またふいと居なくなってしまったり。でも母が居るからといって御飯がある訳ではないんです。母は自分だけ食べて、私と姉は放置とか普通だったし。だから私たちは食糧とかを隠しておいて、それを食べていたんですけど、見つかると母が取り上げちゃうんですよね」
 
「なんか“家庭”ではなかった感じだ」
と桃香が言う。
 
「私、高岡に来てから、初めて家庭というものを知った気がします」
と青葉は言っていた。
 

火葬が終わった後は、青葉と千里、青葉と桃香で骨を拾い、2つの骨壺に収めた。青葉は特に姉の骨壺を抱きしめて泣き出してしまったので、千里がまたハグしてあげて、そのままずっと泣かせておいた。
 
父にも母にも放置された中、きっと姉と2人で助け合って生きて来たのだろう。
 
お昼前に青葉はまたこの近辺で霊的な相談事に応じるというので慶子と一緒に出かける。千里と桃香はボランティア活動の方に戻る。彪志は気仙沼まで送ってもらった後、JRで一ノ関に戻る。この時期、彪志は一関市に住んでいた。
 
(面倒なのだが、市の名前は一関市、駅の名前は一ノ関駅である。どちらも「いちのせき」と読む。ついでに言うと原ノ町も住所は原町区(旧・原町市)だが駅の名前が原ノ町駅である。こちらは駅名は「はらのまち」だが、区名および旧市名は「はらまち」である)
 

この日の午後は、千里と桃香はキッチンカーで大船渡市内の避難所を回った。そして夕方18時くらいのことであった。
 
キッチンカーがその避難所に着くと、避難所前に大型トラックを駐めて多数の生活用品や食糧を降ろしている女性2人がいた。1人は27-28歳くらい、1人は18-19歳に見えた。
 
「こんにちは。救援物資ですか?お疲れ様です」
と亜衣華が言うと
「こんにちは。そちらは炊き出しですか?お疲れ様です」
と年上の方の女性が挨拶した。
 
最近はボランティア活動をする人も増えてきたので、しばしばあちこちで様々なボランティアグループの人たちと遭遇する。
 
「ボランティアの方たちにもお食事提供していますから、よかったら食べていってくださいね」
 
「いや、自分たちの食事は持参していますから」
と年上の女性は言ったが
「せっかくだから頂いていこうよ」
と年下の女性が言うので、結局荷下ろしが終わった後でカレーをもらうということになったようである。
 
ふたりの雰囲気から、桃香はこの2人は母娘かなと思ったらしいが、千里はその2人が恋人同士のようだということ、しかも2人とも女性に見えるが肉体的には男性であることを一瞬で見取っていた。但し年上の方は男性の骨格を持っているが、年下の方は女性骨格で骨盤なども安産型をしているので、おそらく小学生の頃から女性ホルモンを飲んでいたのだろう。睾丸も既に存在しないように見えた。多分去勢済みなのだろう。
 
しかし男の娘同士のレスビアンというのは結構レアかなという気もした。
 

避難所の人が来て、今、散髪・洗髪をする美容師さんたちのボランティア・グループも来ているので、その人たちにも食事あるいはデザートを提供してもらってもいいかと尋ねる。もちろんです、と言い、注文票を1冊渡した。
 
元気な人たちは避難所の外まで出てきて列に並んで御飯をもらっているが、足腰の不自由な人たちもいるので、その人たちに千里は食事をワゴンに積んで会場を回り、渡していた。
 
その時、突然
 
「みなさーん、元気ですか!」
 
という大きな声があり、見ると20歳くらいの女子と、男性3人のバンドがステージに上り、演奏を始めた。
 
どこかのアマチュアバンドでも、慰問に回ってきたのかと思ったのだが、よく見たらボーカルの女の子はローズ+リリーのケイである。そういえば雨宮先生が、ケイはマリが精神的に回復するまでの期間限定で男性数人と組んだバンドをやっていると言っていたので、それかと思い至る。確かローズクォーターとか言ったっけ??CDももらったな、などと思いながら千里は聞いていた。
 
バンドの構成はアコスティックギター、コントラバス、アコーディオンという不思議な構成だが、電気の使えない環境で演奏するのにこういう構成にしたのだろう。どうもギターの人がバンドリーダーっぽいなと思って千里は見ていた。曲の演奏開始タイミングはアコーディオンの人が決めているようだが、その前にギターの人がアコーディオンの人に指示している感じなのである。
 
それでバンド演奏が行われている中、千里は食事を配ったり、食器を回収したりしていたのだが、バッタリと青葉・慶子と遭遇する。
 
「青葉!こんなところで何してるの?」
と千里が言うと
「何って仕事。奇遇だね、ちー姉」
と青葉は言う。結構な笑顔である。たくさん泣いたので感情をブロックしていた壁が壊れてしまったのかもと千里は思った。
 
「またお会いしましたね。そちらは炊き出し活動ですか」
と慶子も言っている。
 
近くでおばあさんの髪を女性(?)美容師さんが洗ってあげていたが、その作業が終わって、次の人に移ろうとしたので、
 
「美容師さん、良かったらお食事もなさってください」
と言って、千里は牛丼セットのプレートを差し出した。
 
「すみません。頂きます」
という声は、明らかにメラニー法で発声している女声である。
 
ただ千里はこの人の性別を判断しかねた。むろん肉体的には男性、外見的には女性なのだが、どうもMTFでは無いようなのである。ひょっとしたらMTXかなという気もした。あるいはただの女装趣味またはクロスドレッサーなのかも。
 
彼女(彼?)の波動がけっこう男性的なのである。
 
しかしまあ随分MTF/MTX(CD?)がこの避難所に集まっているなとも思う。自分に青葉に、さっきの救援物資を運んで来た2人に、この美容師さん。そして考えてみるとステージで歌っているケイも元男子である。
 
ケイは高校時代に性転換手術を済ませていたはずだが(美空からも雨宮先生からもそう聞いている)、この4月に芸能関係のイベントが全て自粛状態になっている間に、性転換手術を受けて来ますと言ってタイに渡ったらしいことも聞いていた。とっくに手術など終わっていたケイがタイで何をしていたのかはよく分からない。だいたい2ヶ月前に性転換手術を受けた人が、こんなパフォーマンスができる訳ないので、4月に性転換したという話が真っ赤な嘘なのは間違い無い、と千里は思う。
 

でもそんなことを千里が考えていたら、青葉がそのことに言及する。
 
「でも奇遇といえばさ、これ凄い偶然ですよね、美容師さん」
 
と青葉は美容師さんに振った。
 
「え?何か?」
と虚を突かれた感じの美容師さんが、うっかり男声のまま返事してしまった。
 
「これだけ1ヶ所に、MTFが集まるのも凄いなと思って。しかもみんな
パス度が凄く高い人ばかり」
と青葉は言う。
 
「私でしょ、ちー姉でしょ、美容師さんでしょ、そしてあのステージの女の子」
 
青葉にしては軽率だなという気がした。美容師さんは充分女性としてパスしている。その性別をわざわざ言う必要は無かったはずだ。
 
しかし千里は“演技”を続ける。
 
「え?あなたもMTFでした?」
 
と千里と美容師さんは驚いたような顔で同時に言った。
 
「全然気付きませんでした」
「私も全然分からなかった」
 
「でステージの子もMTFだと思うの?」
 
と美容師さん。ああ、この人はローズ+リリーを知らないのかと千里は思った。
 
「私には一目で分かったよ」
と青葉も言っている。世俗的な常識を持っていない青葉がケイを認識できないのは仕方ないなと千里は思う。
 

その時、演奏していたバンドがリクエストを募ると『ふたりの愛ランド』という声が掛かった。
 
「ああ、あれをやるのか」
と千里が言うと、
 
「ちー姉、このバンドを知ってるの?」
と青葉は聞いた。
 
「ミリオン出した歌手くらいは分かるよ」
と千里が苦笑しながら言うので
「そんな凄い人だったんだ!」
と、青葉も美容師さんも驚いていた。
 
「まあ聞いててごらん。面白いことするから」
と千里は言った。
 
『ふたりの愛ランド』は、チャゲと石川優子のデュエット曲であるが、最初、石川優子(女声)が単独で歌う。ここをケイは普通にソプラノボイスで歌った。そしてその後、チャゲ(男声)のパートが続くのだが、ここをケイは男声に切り替えて歌った。
 
避難所内にどよめきが起きる。
 
「凄い、両声類なのか!」
と美容師さんが言う。
 
この『ふたりの愛ランド』の1人デュエットは、後にはケイは男声を人に聞かれたくないというので封印してしまったのだが、この避難所慰問の時は受け狙いで結構演奏したようである。『別れても好きな人』(ロスインディオスとシルビア)とか『渋谷で5時』(鈴木雅之と菊池桃子)などもかなり歌ったようである。
 
音源としても『萌える想い』ダウンロード版に公開後24時間だけボーナストラックとして入っていた(アルバムを丸ごとダウンロードした時だけ付いてきた)『ふたりの愛ランド・裏バージョン』だけで聴くことができる。このボーナストラックは公開翌日にはローズ+リリーが歌う『Sweet Memories』に差し替えられてしまった。
 
これは後で雨宮先生から聞いたのでは、この音源の公開をケイが嫌がっていたので、ローズクォーツのマキがレコード会社に申し入れて差し替えさせたらしい。あまり役に立っていないマキだが、たまには良いこともしているのである。
 
なお、千里はこのダウンロード版の初版をCDにプリントし、ケイの直筆サインまで入った超レアなCD(プロモーション用にごく少数作られたもの)を所持している。そのCDは(雨宮先生などは紛失しているので)恐らくこの世に5枚程度しか存在していないはずだ。
 
(おそらく、実質デビューの場になった東京のFM局、上島雷太・新島鈴世・松原珠妃と千里)
 

「美容師さん、袖振り合うも他生の縁といいますし、よかったらアドレス交換しませんか?」
と青葉が言い、彼女(彼?)も同意したので、青葉と美容師さんは携帯の番号とアドレスを交換していた。
 
ついでに千里の携帯とのアドレス交換も青葉に!してもらった(千里にできる訳が無い)。
 
「濱田晃(はまだ・あきら)さんか。男女どちらでも行ける名前ですね」
「そちらは川上青葉(かわかみ・あおば)さんに、村山千里(むらやま・ちさと)さん。ふたりとも男女どちらでも行ける名前ですね。学生さんですか?」
 
「ええ、そうです。それで性別のモラトリアムやってます。ちなみに妹と苗字が違うのは、複雑な事情があって、簡単には説明できないんですが」
 
と千里は青葉のことを“妹”と言ったのだが、
 
「へー、でも、お姉さんがデータ交換の操作したのは?」
とあきらに言われてしまう。
 
「私、深刻な機械音痴なので。カメラなどもまともな写真撮れたことないです」
 
と千里は答えた。青葉が“お姉さん”と言われてショックを受けているふうなのはスルーしておいた。この日の青葉は巫女の服を着ているので年齢が分かりにくい。
 
「ああ、それは大変だ。うちの美容室にもいますよ。その子には絶対機械類の操作をさせないんです」
「同類のようだ」
 

その時、千里は突然、近くのおばあさんがテーブルの端に置いていたお茶の入ったコップをさりげなくテーブルの中央付近に押して移動させた。それとほぼ同時に青葉が
 
「来る!気をつけて!」
と言った。
 
そして青葉の言葉の1秒後に物凄い揺れが来た。
 
「きゃー!」
という悲鳴が避難所内に響く。
 
千里も青葉も、近くに居た別々のお年寄りを守るようにしてしゃがみ込んだ。
 

震度5近くありそうな凄い余震であった。
 
「みなさん動かないで下さい!」
と避難所の人が言い、被害状況を見て回っている。
 
その時、さっき救援物資を降ろしていた男の娘2人組がこちらに回ってきた。どうも避難所内に怪我した人がいないか、チェックして回るのを頼まれたようであった。その2人組の若い方の子が「え!?」という顔をすると話しかけてきた。
 
「どなたかお怪我なさったりはしていませんか?」
 
「こちらは大丈夫です。あの、あなたもしかして?」
と青葉。
「え?まさか君も?」
とその子。
 
「これ、セクマイの集会か何かですか?」
「偶然の遭遇ですよ」
と青葉は苦笑する。どうもあまりの偶然に表情のロックが外れてしまっているようだ。
 
そこで少し立ち話をしている内に桃香までやってくる。
 
「何か異様な集団がいる気がする」
と桃香。
 
「まさかあなたもGIDさんですか?」
とあきらが尋ねたが
 
「いや、この人はただのビアンだと思う」
と荷運びをしていた若い方の子が言った。
 
「これ凄すぎるね。しかもレベルの高い人ばかり」
と千里が言う。
 
「ね、この場ではあれだし、後でこのメンツでまた1度集まりませんか」
と青葉が言った。
 
「私と、あなたが携帯メール交換すれば全員集まれそう?」
と荷運びをしていた若い方の子。
 
それで青葉と和実が携帯番号とメールアドレスを交換した。
 

その時、青葉が
「あっ」
と声を出した。
 
「あんまり凄い遭遇があったから避難所全体を見るの忘れてた。あの赤ちゃんやばくない?」
と青葉が言う。
 
「あれは応急処置が必要だね。私、冷たいおしぼりを取ってくる」
と言って千里はキッチンカーの方に走っていった。。
 
それで千里以外の5人、青葉・桃香・あきら・和実・淳が、青葉が気付いた赤ちゃんの所に行く。
 
「どうしましたか?」
と淳が尋ねた。
「私がスープをこぼしてしまって」
 
と赤ちゃんを抱えた20代の女性が言っている。炊き出しのランチを食べていて、そのスープがこぽれ、赤ちゃんの腕に掛かってしまったようだ。
 

「取り敢えずこれを」
と言って和実が持っていたウェットティッシュで赤ちゃんの腕をそっと拭く。拭くというより軽く叩いてスープをぬぐう。
 
「淳、救急箱の中にたしか馬油(マーユ)があったと思うから」
「取ってくる」
と言って、淳が駆けていく。
 
そこに
 
「大丈夫ですか?」
声を掛けてきたのはさきほどステージで歌っていたケイである。何か起きているようだと気付いて来てくれたのだろう。
 
「ウェットティッシュとか持ってます?」
と和実が訊く。
「ウェットティッシュなら」
といって、ケイもバッグから出してくれた。そのまま赤ちゃんの腕に当てる。
 
少ししたところで千里が冷たく冷やしたおしぼりを持って来たので、それを赤ちゃんの腕に当てた。スープの成分はウェットティッシュでもうきれいに取れている。
 
「お母さん、この赤ちゃんにヒーリングしてもいいですか?」
と巫女装束の青葉が訊く。
 
「効果のありそうなことなら何でもしてください」
 
というので青葉は赤ちゃんのそばに正座して座ると、目をつぶり左手で赤ちゃんの腕の少し上のほう数cmあけたところに手をかざすようにした。
 
やがて淳が馬油(マーユ)を取ってきてくれたので、それを火傷した部分に塗る。冷たいおしぼりはもうひとつ取ってきて交換する。青葉のヒーリングが続く。その青葉のヒーリングの様子をじっとケイが見ていた。
 

結局10分ほどの青葉のヒーリング、そして数回交換した冷たいおしぼりの効果とで、赤ちゃんの腕の火傷はかなり赤味が減った。
 
「冷たいおしぼり5〜6個置いておきますから、また交換してあげてください」
「すみません」
「でもこれなら跡は残りませんよ」
と青葉は言う。
 
「良かった」
「この子、女の子ですよね?」
「はい、そうです。こんな目立つ所にあざとか残ったらどうしようと思った」
とお母さんは言っている。
 

それで赤ちゃんが何とか無事で済みそうというので、集まっていた人たちも解散しようとするが、和実がケイに呼びかけた。
 
「済みません。お気づきになったかも知れませんが、今偶然にもここに何人もMTFさんが集まっていたんですよね。こんな遭遇ってめったにないから、後でもしよかったら再度どこかで集まりませんか?」
 
「何人いました?私も凄いと思った」
とケイは言っている。
 
それでケイと和実が電話番号とメールアドレスの交換をした。
 
「でもあなたは天然女性ですよね?MTFはあなたのお連れさんと、そこの巫女装束の子、美容師さん、メイドさんっぽい制服の人、それに私も入れて5人かな?」
とケイは言う。
 
ケイが「メイドさんっぽい制服の人」と言ったのは、もちろん桃香のことである!
 
「それが私もMTFなんですよね」
と和実。
 
「冗談でしょ?」
「これ私の保険証」
と言って和実は首から提げていた免許証入れの中から保険証を取りだしてみせる。
 
「うっそー!?」
とケイは驚いていた。
 

この集まりを後に『クロスロード』と呼ぶことになる。
 
この日遭遇したのは5つのグループだが、各々別の方面から大船渡に来ていた。
 
千里と桃香は炊き出しのボランティアで釜石市から国道45号を南下してきていた。
 
救援物資を運ぶボランティアをしていた和実と淳は気仙沼から国道45号を北上してきていた。
 
あきらたち美容師グループは一ノ関から県道19/国道343で陸前高田に来て大船渡に回ってきた。
 
ケイたちローズクォーツは盛岡・花巻から国道107号で大船渡に入っていた。
 
そして霊的な相談事や心のケアなどをしていた青葉は高岡から仙台まで夜行バスで来た後、一ノ関からJR大船渡線“ドラゴンレール”で気仙沼に来て慶子の車で大船渡に入っていた。
 
5組が各々別のルートで大船渡に来ていたので、クロスロードなのである。それは5組7人の人生が交わったポイントでもあった。
 
クロスロードの初期メンバーでここに来ていなかったのは、小夜子、政子、胡桃、の3人である。小夜子は妊娠中でさいたま市に居た。政子と胡桃は東京だった。(胡桃は2012年春に“新トワイライト”をオープンさせるまで東京の美容室に勤めていた)
 

炊き出しのボランティアは実は明日まであるのだが、千里は青葉と別れた後、《てんちゃん》に代わってもらって、自分は東京北区の合宿所に入った。
 
6月20日からA代表の第四次合宿、その後オーストラリア遠征があるのだが、千里たちU21にも出るメンバーはA代表の合宿を途中で離脱してU21の合宿に加わり、その後アメリカに飛んでU21世界選手権に出場する(つまり千里たちはオーストラリア遠征には参加しない)。
 
この付近はこのような凄いスケジュールになっていた。
 
6.20-7.01 A代表国内合宿(千里たちは途中で離脱)
7.02-7.11 A代表オーストラリア遠征
 
6.25-7.02 U21直前合宿(国内→サンフランシスコ)
7.03-7.13 U21世界選手権(アメリカ・ロサンゼルス)
 
7.03-7.05 U19国内合宿
7.06-7.14 U19ブラジル合宿
7.15-7.27 U19世界選手権(チリ・プエルトモント)
7.28-8.02 インターハイ(秋田)
 
U21/U19を兼ねている絵津子・純子・王子の3人は、ロサンゼルスからチリに直行である。王子はその後インターハイがあるので、チリから戻ったらすぐに秋田に行く。つまり王子はこの期間にフル代表合宿→U21世界選手権→U19世界選手権→インターハイと渡り歩く。恐ろしいスケジュールだ。
 
なお、王子は6月18-19日にインターハイの岡山県予選、準決勝・決勝に出場し、彼女が所属する岡山E女子高は圧倒的な破壊力で優勝。王子にとって最後のインターハイ出場を決めている。
 
彼女にとっては県予選からインターハイ本番までひたすら代表合宿と世界大会に参加する物凄いハードスケジュールであるが、岡山E女子高のチームメイトには「世界で鍛えて1回り大きくなって帰ってくるから」などと明るく言って岡山を後にしたらしい。
 
「ひとまわり大きくなるのはいいけど、帰国してきた時には、ちんちん生えていたりしないよね?」
 
「その場合、ちょん切ってからインターハイに出るから大丈夫」
 

6月20日は朝からミーティングが行われた。
 
城島HC・飯田AC・松本代表の3人が挨拶し、これまでA代表の合宿に出てこられなかったことを詫び、またこれまで代表チームを指揮してくれた篠原HC・高田AC・高居代表に感謝の意を表した。
 
その上で練習が始まるが、城島さんのチームは篠原さんのチームとは別の意味でハードであった。
 
とにかく走らされる!
 
練習が始まる前に10km走らされるし、その後、ドリブル走でコート50往復である。それから更にワンツーパスの練習で走らされ、速攻の練習で走らされる。
 
このひたすら走る練習にベテラン勢が付いていけず遅れる。しかし遅れると厳しい声が飛ぶ。
 
「武藤、お前遅れたからあと10往復追加」
「はい!頑張ります」
 
中心選手である武藤さんが叱られると、他の選手は自分も頑張らなければという気持ちになる。とにかく下半身の筋力を酷使する練習であった。
 
この練習で割と平気な顔をしていたのが、やはり若手3人(千里・玲央美・王子)と最年長の三木エレンである。エレンは伊達に自分より5-10歳くらい若い選手達に混じって代表を張っていない。身体能力が物凄い。普段から相当鍛えているのだろう。
 
結果的にシューター3人の中でこの練習に出遅れたのは花園亜津子である。
 
「だめだぁ。足が動かない。負けたかも」
などと初日は弱音を吐いていたが、
 
「花園、お前まだ若いんだから、頑張れ」
と飯田コーチが発破を掛けていた。
 
シューター3人は恐らく最後まで競わせる方針だろうから、こんな早々にギブアップされては困るのである。
 

6月20日の夕方、桃香がボランティア活動を終えて“千里”と一緒に着換えていた時、桃香は自分の携帯にメールが着信していたことに気付く。研二からである。
 
《助けて欲しい。今夜どんなに遅くでもいいから、電話がもらえないか?僕の人生に関わる大事なんだ》
 
と書かれていた。桃香がチラッと千里を見た。千里は察して席を外してくれた。
 
研二に電話する。
 
「電話ありがとう。実は訊きたいんだけど、桃香、性転換手術のコーディネーター会社のパンフレットをこないだ僕の車に中に落としたりしなかった?」
 
「え!?それ持っていたけど、そういえばどこにやったかな?」
「やはり桃香だったんだ! 何人かに訊いて、あと残っていたのが桃香くらいでさ」
 
「あんた、何人も車に乗せてるの?」
「性別の微妙な友人はわりと多い。でも桃香は性転換とかしそうにない気がしていたんだけど」
 
「私が友だちに渡そうと思っていたんだよ」
「そうだったのか。でも桃香だったら、わりと都合がいい。それで本当に申し訳無いんだけど、ちょっと大阪の堺市まで来てもらえないだろうか? 交通費は僕が出すから」
 
「何があったの?」
「実は・・・」
 
と言って、研二は事情を語り始めた。
 

それで6月21日(火)、桃香は新幹線で大阪に向かい、地下鉄と南海電車で堺市まで行った。堺駅で研二と落ち合う。桃香は研二に言われて、男っぽい服装をしていた(もっとも桃香はあまり女っぽい服を持っていない)。研二はこの日は(男性用)ビジネススーツを着ていた。
 
「男装の研二は久しぶりに見た気がする」
「こんなんで女装で行ったら、本気で破談になってしまうし」
 
研二のギャラン・フォルティスの“後部座席”に乗って、その家まで行った。藤原という表札がある。
 
「あ、あんただったのか!」
と緋那は桃香を見て言った。
 
「いつか千葉のファミレスで遭遇しましたね」
と桃香も言った。
 
それは2009年11月21日のことで、千里が勤めるファミレスに深夜偶然、桃香・緋那・研二が似たような時間に来て、混雑していたので相席になった。そこから緋那と研二の関係は復活し、1ヶ月後、緋那が貴司争奪戦から離脱することになるのである。(実際にはその間に、桃香が研二とデートしたり、緋那が貴司に毎朝朝御飯を作ってあげたりしていた時期もある)
 
桃香は緋那のご両親の前で、研二とは中学の同級生で、1月の成人式の時に高岡で遭遇したこと。その時、自分の恋人だった女性2人が喧嘩を始めてしまったのを研二が納めてくれたが、その件で「ありがとう」と言いそびれていたこと。それもあって、ちょうど千葉で偶然会ったことから、彼の車に乗って少しお話したことを語った。
 
「どうもその時に、私が性転換手術のコーディネーター会社のパンフレットを車内に落としてしまったみたいなんですよ」
と桃香は言った。
 
「あの時、ちょうど荷物が多くて後部座席がふさがっていたから、高園さんに助手席に乗ってもらったんだよね」
と研二が補足する。
 

「私と研二さんは同性の気安さがあるんですよ」
と桃香は言う。
 
「同性って、ふたりとも女性という意味?」
と緋那のお母さんが訊くが
 
「違いますよ。ふたりとも男だからです。私の友人に訊いてもらってもいいです。私はほとんど男と思われていますから」
と桃香は明快に答えた。
 
「女子トイレや女湯で悲鳴上げられたこともあるって言ってたね」
「ああ、それは数限りない」
 
「そういう訳で、私は性転換などするつもりは全くありませんので、どうかそれだけは信じてください」
と研二は緋那のご両親に言った。
 

緋那のお父さんが
 
「でも沢居さん、女装はなさるんですよね?」
と尋ねたのだが、
 
「あれは女装じゃなくてコスプレですね」
と桃香が答えた。
 
「コスプレ?」
 
「だって、女装する子って、どこか女の子になりたいみたいな気持ちがあったりするものなんですけど、研二君の場合は、そういう気持ちは全く無いんですよ。女の服を着ていても、役者さんが女の役をするのに女物の服を着るのと似たような感覚なんです。研二君は心理的には120%男ですよ」
 
と桃香が説明すると
 
「あ、確かに女装していても女らしさがまるで無い気はしていた」
と緋那も言う。
 
結局30分近い話し合いの末、緋那のご両親、そして緋那自身も、研二には、女になりたいような気持ちは無く、むろん性転換手術などする意思も無く、本当に男性として緋那と結婚し、緋那の夫になりたいのだということを理解してくれたようである。
 

「じゃこれもう一度受け取ってくれる?」
と言って、研二は指輪のケースを差し出す。
 
「うん。ごめんね、勘違いして」
と言って緋那はケースを受け取り、指輪を出して自分で左手薬指に填めた。
 
両親が笑顔で頷いている。
 
「じゃ、あらためて結納を交わしませんか?」
「そうですね。善は急げで、できるだけ早い時期に」
 
「では来月にでも」
「7月24日が大安ですね。その日にやりましょうか?」
「いいですね。そうしましょうか」
 
ということで、ふたりの結納の日取りがその場で決まってしまったのである。結婚式の日取りについては、あらためて会場の空きを調べてから決めることにした。
 
「でも高園さんも早く男の人になることができたらいいですね」
と緋那のお父さんは最後に言った。
 
もう話が面倒になるので、桃香自身が男になりたくてそういうパンフレットを持っていたことにしたのである。そうすることで、結果的に研二と桃香の恋愛関係をご両親には疑われなくても済む(実際桃香は研二と何度か過去にセックスをしているし、緋那はふたりの関係を少し疑っている)。
 
しかし桃香としては誰とも結婚する意思はないので、男になりたい人と思われても全く実害が無いことであった。
 
でもなんか疲れたなあ、と桃香は思った。
 
桃香はその日6月21日は夕方で藤原家を辞した。堺駅まで緋那の母が送ってくれたものの、研二はそのまま藤原家に泊まったようである。
 

6月22日(水)。夕方、合宿の練習が終わった千里は貴司の母・保志絵からメールが入っていることに気付く。
 
それで自分の部屋に入って電話してみた。
 
「あなたに緋那さんから謝りたいという連絡が入っているのよ」
「緋那さんから?」
と言って千里は少し不機嫌になる。
 
「直接連絡したかったけど、貴司も緋那さんも、千里ちゃんの携帯には着信拒否されているみたいと言って」
 
「そうですね」
 
「緋那さんが言っていた。貴司と寝たように見せたのは完全にフェイクで絶対に貴司とは何も無かったって。それでちゃんと謝りたいから、一度会ってくれないかと言っているんだけど」
 
「直接ですか・・・」
「それに緋那さん、他の男性と婚約したし、来月結納を取り交わして今年中くらいに結婚する予定なんだって」
 
「ほんとですか!?」
 

それで千里は緋那の電話番号・アドレスの着信拒否を解除した。設定は、びゃくちゃんにやってもらった。もっとも着信拒否した時は、頭に血が上っていたので自分でできてしまった。
 
緋那からの電話は5分後に掛かってきた。
 
「あれ、ほんとにごめんね。私もあの時はむしゃくしゃしていて。本当に貴司を誘惑するつもりだったんだけど、その前に千里さんが帰ってきたから、結局何もしていないのよ」
と緋那は謝った。
 
「鍵は?緋那さん、マンションの鍵持ってたんだっけ?」
「実は一昨年12月に千里さんに返したもの以外にもうひとつ隠し持っていたのよ。それ千里さんにあらためて返したいから、会ってもらえない?今東京に来てるの」
 
「分かった」
 

それで夜遅くなるが、千里は「大阪から女性の友人が来ているので」と言って外出の許可を取り、赤羽駅近くの個室のある居酒屋で緋那と会った。
 
「まずこれ返すね」
と言って緋那は鍵を千里に返した。
 
マンションの鍵は電子式なので、町の鍵屋さんなどではコピーできない。しかし元々5個くらい渡されているので、その中の1個を緋那はくすねていたらしい。確かに貴司は鍵の管理なんて、いい加減そうだよなあと千里は思った。
 
(実際にこの時点で貴司の鍵を持っていたのは、千里・緋那・保志絵が1つずつと貴司本人で、1個は貴司の机の引き出しに無造作に放り込まれていた。そして緋那が鍵を千里に渡したので千里は2個所有することになった!)
 
ふたりはビールと料理を注文したものの、何も飲みも食べもしないまま話し合った。
 
「実は、私直前に研二と喧嘩しちゃってさ。それでもう別れる!と思って、それでボーっとしていたんだけど、突然貴司のこと思い出してしまって。それでもし貴司が私を抱いてくれたら、乗り換えちゃおうかと思ったのよ」
 
と緋那が言う。
 
その言葉は真実っぽいなと千里は思った。
 
「それでびっくりさせてやろうと思って、持っていた鍵でマンションに入って、声を掛けたけど、返事無くて。探したら寝室で裸のまま寝ていたからさ。それで私も裸になって彼の横に潜り込んだのよ」
 
「触った?」
「触った。大きくなった。でも気持ち良くなったのか、貴司ったら『ああ、千里、もっと』とか言うのよ」
 
千里は思わず顔がほころんでしまった。
 
「ああ、こいつの頭の中には千里さんしか居ないのかって思っちゃった」
「それにしては浮気が多すぎるけどね」
「そういえば共同作戦で他の女を排除したりしたね」
「したした。ほんとにあいつ懲りないんだもん」
 
少しふたりの間に連帯感のようなものが生まれ、千里はますます緋那の言葉を信じる気になった。少なくとも貴司よりは信用できる!
 

「それで取り敢えず逝かせちゃえと思ってたら、そこに千里さんが帰ってきたからさ。それで私も寝ているふりして。だから未遂なんだよ」
と緋那は言うが
 
「かなり既遂って気はするけど、本人が寝ていたのなら許してやるか」
と千里は言った。
 
「私も研二とは仲直りしたからさ。千里さんも貴司と仲直りしてあげて」
 
「うん」
と千里は頷いて言うと、
 
「ちょっと電話するね」
と言って、貴司の着信拒否を解除してから、電話を掛けた。
 

「貴司、誤解してしまってごめんね」
「ああ、やっと分かってもらえた?」
「今緋那さんと話していた所。私てっきり貴司が浮気したかと思って」
 
「そんなことはしないよぉ」
「でも先月は**さんとデートしたし、4月にはファンの女の子とあんみつ屋さんに行ったし」
 
「なんでそんなの知ってるの〜?」
「貴司の行動は全部知ってるから」
 
「全部知ってるのなら、僕が緋那と何もなかったことを理解してよぉ」
 
「うん。あれは頭に血が上って、私も冷静さを失ってしまった。本当にごめんね。それとビール缶ぶつけたのもごめんね」
 
その場で千里は貴司と20分くらい話したが、それで千里も貴司もわだかまりは消えた。
 

《いんちゃん》が千里に苦言を呈する。
 
『千里、去年も似たようなこと緋那にやられたのに、少し学習しなさいよ』
『ごめん』
『その《ごめん》は私たちより貴司君にね』
『うん』
 

千里が電話を切った所で緋那は言った。
 
「お料理食べようか?」
「そうだね。ごめんね。冷めちゃったね」
「取り敢えず乾杯」
「うん。乾杯」
 
それでふたりでレーベンブロイのビール(開栓していたので気が抜けている)をグラスに注ぐと乾杯し、お料理を食べた。
 
ふたりは閉店間際まで、色々お話をして、楽しい気分になった。
 
「じゃ、緋那さん、お幸せにね」
「そちらも仲良くやってね」
 
と言って握手して別れた。
 

6月23日(木)。
 
その日の練習で千里が物凄く気合いが入っていたので、飯田コーチが千里に声を掛けた。
 
「村山、今日は昨日とは別人みたいだ」
「はい。1回り成長して別人になりました」
「よしよし」
 
その日は1on1で誰も千里に勝てない感じだった。
 
「サン、凄すぎる」
と三木エレンまで言った。
 
昨日まではエレンとの1on1では、7割くらい千里の勝ちだったのだが、今日エレンは1度も千里を抜けなかったし、千里の攻撃を1度も止めきれなかったのである。その日千里との1on1に勝てたのは、元々千里と相性がよい玲央美だけであった。それでも千里が6〜7割勝っていた。玲央美も普段より勝率が悪いので厳しい顔になった。
 
(千里・玲央美・亜津子の3人は、千里は玲央美に勝てず、玲央美は亜津子に勝てず、亜津子は千里に勝てない、という“3すくみ”になっている。これは高校時代以来、どうしても変わらない)
 
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【娘たちの震災後】(3)