【娘たち・各々の出発】(下)

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広子が入学式に出るためそろそろ出かけようかなと思っていたら、ドアをノックする音がある。
 
広子はドアホンに向かって「どなたですか?」と聞いた。
 
「私」
という声に広子はドアを開ける。
 
「入学式おめでとう」
と言って陽子が薔薇の花を1輪くれた。
 
「わあ、ありがとう」
 
「もう出かけるでしょ?根の方だけバケツか何かで水に浸けておくといいよ」
と陽子は言う。
 
「うん、そうする」
と言って広子は花を持って風呂場に行く。
 
「車で来てるから大学まで送るよ」
「さんきゅー。でも待って。お化粧しなくちゃ!」
 

それで広子が身支度するのを待って、陽子の車で一緒に大学まで行く。 
「わざわざ美幌から出てきてくれたんだ?」
「まあついでに用事も頼まれたけどね」
「なるほどー」
 
「でも陽子ちゃんも大学行けば良かったのに」
と広子が言うと
「私、そんな頭無いしね〜」
と陽子は言う。
 
「今の牧場での生活が気に入っているから、当面このまま行くよ。広子ちゃんは勉強頑張ってね」
「うん」
 

2010年4月。千里は1日から11日まで東京北区の合宿所で日本代表の合宿に参加していた。合宿開始前の3月31日夜の自主練習でベテラン組対ヤング組の試合をしたら、ヤング組が圧勝してしまったため、ベテラン組の顔色が変わった。そして4月1日朝、田原ヘッドコーチは
 
「当選確実は誰も居ない。落選確実も誰も居ない。Wリーグで活躍していようとWNBAに行っていようと関係無い。実力だけで選ぶ。今から最終メンバーを発表する9月1日まで生存確率50%の熾烈な戦いが始まる」
と言明。
 
常勝ビューティーマジックを長年指揮し、そのあと中位でくすぶっていたレッドインパルスをトップ争いをするチームに鍛え上げた名将の言葉に、24人のメンバーは厳しい顔で練習を開始した。
 
なお、昨日居なかった月野さんはこの日朝から参加した。また本来は頭数に入っていない王子が3日までは一緒に練習することになったが、田原さんは王子に「君も状況次第では追加招集するから、取り敢えずインターハイでBEST4になりなさい」と言ったが、王子は「優勝しますから招集して下さい」と言い、田原さんは笑顔で頷いていた。高校生で日本代表になるケースはこれまでも何度かあった。2005年には現在フラミンゴーズに所属していて今回も招集されている寺中月稀(東京T高校)が高校3年で日本代表になり、東アジア大会に出場している。
 

メンバーの中にはU24と兼任の人がいた。その寺中月稀、佐伯伶美、石川美樹、そして花園亜津子の4人で、彼女たちは3月15-25日のオーストラリア遠征を終えて一息ついたと思ったら今度はA代表の合宿というので忙しい。
 
「サンやレオはU20との兼任でしょ?忙しいね」
と亜津子は言っていた。
 
「だからA代表の方は今回はお試しみたいなものかなと思ってたけど、田原さんの言葉にちょっと燃えてるよ」
と千里は亜津子に言う。
 
「取り敢えずシューティングガード枠1つは確保できる気がしない?」
と亜津子は千里に意味ありげに言う。
「私は2枠空けて、あっちゃんと私とで世界選手権に行きたい」
と千里は言う。
 
「よし。頑張ろう。でも1人だけ行けた時も恨みっこ無しね」
と言って亜津子は千里と硬い握手をした。
 
また、千石一美と月野英美はU24(Univ)の方の代表候補に入れられている。実は月野さんがあやうく卒業しそこなう所だったのは、そちらの活動が忙しすぎたせいで、それ故に大学も考慮してくれたようである。彼女は「何とか卒業証書もらえた!」と言って笑顔で千里たちに見せていた。
 
千石さんは4月からステラトスラダ、月野さんはフラミンゴーズに加入した。卒業はしても、今年まではユニバーシアードに出る資格がある。
 

3日の夜の練習で王子は代表と一緒の練習を終えて合宿所を後にしたが、王子の実力を肌で感じた代表候補の特にフォワード陣は、かなりの危機感を感じていたようである。
 
「あの子、インターハイを終えた後、絶対正式招集されるよね?」
と月野さんは言っていた。
 
月野さんはパワーフォワードなので、まさに王子と枠を争うことになる。 
「でも9月1日には最終的なロースター発表だから、アピールの機会は1ヶ月しかない」
「でも逆に、マジでインターハイ優勝したりしたら、ロースター確実じゃない?」
「だからエミちゃんも頑張ろう」
と亜津子は言っていた。
 

「え?じゃ向こうの実家の所在が分からないんですか?」
と桃川は電話口で美鈴に訊いた。
 
理香子・しずか・織羽の三姉妹を預かっていること、ヤクザからの借金は清算されていることを亜記宏たちに伝えるため、美鈴は実音子の亡くなった兄嫁・有稀子の実家に実音子が連絡を取るケースも考えて、そちらに連絡しておこうとしたのだが、その連絡先が分からないらしいのである。
 

亜記宏たちの事情は美鈴の方でもつかんでいなかったのだが、亜記宏たちが理香子を置き去りにして姿を消したことから、美鈴は現地に行き、調査をした。 
その結果、亜記宏の妻・実音子の両親、騨亥介と洲真子の夫婦が経営していた飲食店が倒産し、亜記宏も含めて親族の行方が分からなくなっていることが判明した。手がかりを求めて近所の人たちに尋ねてまわった所、その店の従業員をしていた、加藤という老人を紹介してもらった。加藤さんは強烈な浜言葉を話す人で、一応浜言葉の言語圏に住んでいるものの札幌出身の美鈴にはなかなか聞き取りにくかったのだが、加藤さんの娘さんに「通訳」してもらって何とか聞き出したのは、このような内容であった。
 
・3年ほど前に「若社長と若奥様の乗った車が事故を起こしておふたりが死亡。相手にも大怪我をさせ、この補償で大将が個人的に大きな借金を抱えた」。若社長の娘・多津美は、お母さんの実家に預けられた。
 
・お店は「婿さんが継ぐことになり、大将の古い知人で稚内でラーメン屋をしている人の所にしばらく修行に行っていた」
 
・1年ほど後、お店でガス爆発が起きて、怪我人は無かったものの、設備が大破して結局店は閉めることになってしまった。
 
・「お店の負債、大将自身の負債が凄まじく、それを苦にして大将が首をつった」。 
・「ショックで女将さんが惚けてしまい、一時病院に入れられていたが、その後施設に移された」。
 
・「婿さんたちの行方が分からなくなり、従業員も最後数ヶ月の給料と退職金をもらっていない」
 
加藤さんは、店の関係者の固有名詞を認識しておらず、美鈴は彼の言うことを解釈するのに苦労したのだが、まず下記の家族関係を下敷きにして
 
・騨亥介(大将)と洲真子(女将)の子供が、駆志男(若社長)と実音子。

・駆志男の妻が有稀子(若奥様)でその間の子供が多津美(3歳)

・実音子の夫が亜記宏(婿さん)でその間の子供が理香子・和志・織羽(7,6,5歳)

 
起きた事件はこのようであったと推測された。
 
・駆志男とその妻の有稀子の乗る車が事故を起こして死亡。相手の車の人にも大怪我を負わせ、その補償金の支払いで、騨亥介は大きな借金を負った。

・店は亜記宏が継ぐことになった。

・ガス爆発事故で店は廃業することになった。

・騨亥介が自殺し、一連の事件のショックで洲真子は認知症になり、施設に入れられた。
・亜記宏と実音子の行方が分からない。
 
加藤さんは美鈴に、未払いの給与・退職金を払ってもらえないかと言ったものの、美鈴はこちらはお店とは無関係であるとして拒否した。感情的には少しくらい払ってあげたい気分ではあったものの、少しでも払った場合、債務を引き継いだとみなされて、巨額な債務を負うことになりかねないと美鈴は判断したのである。
 

美鈴は桃川の問いかけに対して答えた。
 
「そうなのよ。元々何も交流が無かったから、手がかりが無くて。実音子さんのお母さんの入っている施設に行って事情を話したんだけど、お母さん自身はもう惚けてしまって話せる状態ではないし、住所録か何か持ってませんかと職員さんに聞いたけど、個人情報保護法で直接の肉親以外には見せられないと言われて」
 
「うーん・・・・」
 
「仕方ないから、いったん亜記宏と実音子さんの捜索願いを出すことにしたのよ」
「出したんですか!」
 
「ミラさんの孫を探す、理香子の両親を探すということだから、正当な理由になるしね。それで警察に頼んで、お母さんの所持品を調べてもらって、やっと有稀子さんの実家の住所が書いてあるのを見つけた。それで取り敢えず手紙を出してみたんだけど、宛先不明で戻って来た」
 
「ということは、転居して郵便局には転居届けを出してないか、あるいは1年以上経ってしまったかですね」
 
「うん。そうだと思う。警察の方ではこれ以上は調べようがないと言われた。それで弁護士さんに依頼して、有稀子さんのお父さん川代竜太さんの住民票を取ってもらったら、住民票は移動していないことが分かった」
 
どうも美鈴もかなりの費用を掛けて調査しているようである。
 
「じゃ住民票はそのままにして、どこかに移動しちゃったんですか?」
「そういうことだと思う。弁護士さんの話では、ひとつはそちらも借金などを抱えていて、逃げ回っているケース。もうひとつは町内の小さな移動だったので、住民票を放置しているケース」
 
「でも住民票を移動していなかったら、町からの連絡も受け取れませんよね、それに子供の学校はどうしてるんだろう?」
 
「駆志男さんと有稀子さんの娘の多津美ちゃんはまだ3-4歳なんだよ」
 
「ああ。未就学ですか」
「それに今は借金から逃げたり、あるいは夫のDVから逃げたりで、住民票を移動させないまま、引っ越している人が結構居るから、就学年齢に達した場合、各々の現地の学校と話せば、就学させてもらえることも多いらしい。おそらくそういう扱いになるかも。まあこちらの三人も似たようなものだし」
 
「だったらいいですけど。じゃそちらには伝えようもないですね」
「うん。どうにもならないね、これ」
と美鈴は困ったように言った。
 

東京北区の合宿所。
 
4月5日の夕方、日中の練習が終わって夕食になった時、千里は携帯にメールが着信していることに気づく。赤坂司法書士からで、会社の登記が完了したことの連絡であった。すぐに会社印も登記し、提携している社会保険労務士・税理士に社会保険庁と税務署に行ってもらったことも付記してあった。これで千里の健康保険は国民健康保険から社会保険に切り替わることになる。国民健康保険は毎月5万円以上支払っていたので、これだけでも随分節約になる。健康保険証はこちらに送ってくれるということであった。
 
この日、母に頼んでいた戸籍謄本がこちらに届いていた。それで夜の練習を休ませてもらって、バスケ協会に行き、由里浜さんに渡してこようかと思ったのだが(本人が帰っていても、残っている人に由里浜さんの机の上に置いておいてもらえば事は足りるはずである)、ふとそこに記されている内容を見て、千里は眉をひそめる。
 
そこには「村山千里・続柄長女」という文字が印刷されていた。
 
ふっとため息をつくと、千里は出羽山のほうを正確に向いて、美鳳さんに話しかける。
 
「ちょっと物事の混乱を大きくするような悪戯はやめてもらえませんか?」
 
美鳳は目をそらしていたものの、頭を掻きながらこちらを見て言った。 
「女の戸籍になってた方がいろいろ便利じゃない?」
「混乱の元です」
 
「仕方ないなあ。こちらがお母ちゃんが役場でもらったもの」
と言って美鳳は本物の戸籍謄本を千里に渡してくれた。
 
「村山千里・続柄長男」と印刷されている。
 
千里はそれを封筒にしまった。
 
「でもそのちゃんと女になっている戸籍謄本も、使い道あると思うし、それはそれで持ってなよ」
と美鳳さんは言う。
 
「じゃもらっておきます」
と言って、そちらは合宿用バッグのポケットにしまい、美鳳が今渡してくれた「本物」を持って、千里はバスケ協会に向かった。
 

千里の健康保険証は合宿所に送ってもらったが、7日到着した。昼休みに受け取ったので、すぐに健康保険証が切り替わったことを事務局に届けておく。 
「村山千里、平成3年3月3日、性別女。記載事項は変わってませんね」
と両方の健康保険証を見比べて事務の人が言う。
 
「名前は結婚したら変わるかも知れませんが、ふつう生年月日や性別は変わりませんから」
と千里。
「だよねー。生年月日が変わったという人はまだ聞いたことない。最近はたまに性別が変わる人もいるみたいだけどね」
「ああ、最近はよく聞きますね−」
 
と言って笑っておいたが、内心は結構冷や汗を掻いていた。
 

7日の夕方、千里は朱音からメールが入っているのに気づき電話した。 
「千里、姿を見ないから今期の履修票出したかと心配になって」
と朱音は言う。
「ありがとう。実は華原先生に頼んで出してもらったんだよ」
「ああ、そうだったんだ!」
「こちら実は1日から11日まで都内某所で缶詰になっていて」
「へー。なんか公用と聞いたから」
「うん。今年の前期は多分、ほとんど講義に出席できないと思う。大量にレポート書くことになりそう」
 
「ああ。じゃ授業のノートとかそちらに送ろうか?」
「助かる。アパートに放り込んでくれると助かる。コピー代は次会った時に渡すよ」
 
「OKOK。でも何の用事でそんなに缶詰になってるの?」
「バスケの合宿なんだよね〜」
「ああ。やはりバスケだったんだ」
「今年はロシアとかリトアニアとかインドにも行ってくることになるし」
「何だか凄いね!」
 
と言ってから朱音は探るように訊いた。
 
「ね、千里が入っているのって男子バスケ部?女子バスケ部?」
 
すると千里は笑って答えた。
 
「私はC大の男子バスケ部には入ってないよ」
「じゃ女子バスケ部?」
「私が女子バスケ部に入れる訳ないじゃん」
 
「うーん・・・」
「じゃ、練習に戻らないといけないから、またねー」
と言って千里は電話を切った。
 

4月10日。美幌町の牧場。
 
「わぁ。大きなピアノ!」
と、しずかが歓声を上げた。
 
「ママが弾いてないときは、しずかが弾いてもいいよ」
と桃川は微笑んで言う。
 
「その大量の段ボールに入っているのは何?」
と八雲が尋ねる。
 
「CDとかLPとかDVDとか。レーザーディスクもあるみたいだけどこれは東京に持って行って、★★レコードの技術部の人に頼んで変換してもらうよ。でもこの箱の中身を本棚に並べるのに1年掛かりそう」
と桃川は言う。
 
「楽器ケースが色々あるね」
「うん。ヴァイオリン、フルート、ギター、エレキギター、ベース、ドラムス、クラリネット、トランペット、トロンボーン、サックス。他にもあったかな」
 
「音楽の先生ができる」
「うちのお母さん、音楽の先生だったから」
「そうだったんだ!」
「亡くなって以来、トランクルームに預けてあったのを持って来たんだよ」
 
「ここの部屋は完全にハルちゃんに占領されたな」
と大宅が楽しそうに言った。
 
弓恵の遺産はずっと札幌市内のトランクルームに預けてあったのを、桃川がオーナーの許可を取り、ここ10年近く使われていなかった旧宿舎を大掃除して引き取ってきたのである。掃除は素人には手に負えなかったので、業者に依頼した。カビの生えた壁板や床板などは張り替えたりもしている。これはカビが楽器に飛ばないようにするためである。掃除というよりリフォームに近い改造で、特にピアノを置いたラウンジや幾つかの小部屋は防音工事をして新しい空調も入れている。費用は全部で700万円ほど掛かり、むろん全額桃川が出しているが、そのようなことをしていたので、実は引き取るまで時間が掛かったのである。
 
「このグランドピアノとか、ドラムスとか、空いてる時は貸して下さい。私も練習したい」
と陽子が言うので
 
「うん。みんな好きに使って。ただ、持ち出す時はノート用意するから、それに書いてね」
と桃川は笑顔で言った。
 
「チェリーツインの曲に生ドラムス入れてもいいかも知れないなあ」
と秋月が言う。
 
これまではドラムスパートはMIDIで流したり、ライブの時はキーボードのリズム機能を使用していた。
 
「ドラムスって誰が打てるんだっけ?」
「みんな練習してみよう」
 

千里たちの合宿は11日に終わったが、最終日の最後にベテラン対ヤングの試合を行った。ベテラン組は前回と同じメンツだが、ヤング組は王子が抜けて月野英美が入っている。
 
試合は今回もまた大敗したらやばいという危機感を持ったベテラン組が必死になって頑張ったので、かなりの接戦になった。
 
千里も亜津子も川越美夏を圧倒したが、三木エレンには老獪さでやられてしまう。「あんたたちもまだ私の敵ではないね」とエレンはわざと千里や亜津子を燃え上がらせることばを放っていた。自分のライバルを強くして、更に自分自身を鍛えようということなのだろう。
 
佐藤玲央美や寺中月稀などの若手実力派がベテランのフォワード陣を翻弄し、ベテラン組の表情がどんどん険しくなっていった。
 
試合は最終的に同点の場面から亜津子のスリーがブザービーターで飛び込み、82-85でヤング組が勝った。
 
「では次はゴールデンウィークに。各自それまでにまた鍛え直してくること」
と夜明コーチは楽しそうに言った。
 

4月11日(日)。花野子はお店に入ってきた京子に手を挙げて自分の位置を報せた。 
京子が花野子の向かいに座る。
 
「久しぶり〜。どうかしたの?」
「うん。まあ好きなの頼んで。おごるから」
「なんか怖いな」
「心臓売ってくれなんて話じゃないから安心して」
「心臓売ったら死んじゃうじゃん!腎臓ならまだ分かるけど」
 
「人間の身体って全部売ると2000万くらいになるらしいね。捨てる所はほぼ無いらしいよ。借金返せなくなった人が東南アジアとか中国とかに連れていかれて解体して売りさばかれるんだって」
 
「恐ろしい話だ」
 
それで京子はフルーツパフェを注文する。
 
「まあそれで単刀直入に言うと、真乃が辞めちゃってさあ」
「もしかしてゴールデンセブンとかの?」
「ゴールデンシックスね」
「ああ。シックスだったか!」
 
「それで新しいCDを制作するつもりだったのに、どうにも演奏の頭数が足りないんだよ。多重録音で乗り切る手はあるけど、多重録音するにはそれだけ余分に長時間スタジオ借りないといけないから、お金が掛かるんだよね。私たち、ほぼ予算とか無いから」
 
「ああ。それで演奏者が必要なのか」
「京子、ピアノとかドラムスとかトランペットとかできるよね?」
「ピアノはあまりうまくないよ」
 
「じゃトランペットとかフルートとか吹いてくれない?真乃が担当していたピアノは私が弾くから」
 
「さりげなくフルートと言われた気がする」
「フルートは1本千里から巻き上げたから、それでよければ無償提供するから」
 
「ああ。楽器貸してくれるなら少し練習してもいいよ」
「トランペット吹けるんならフルートは吹けるはずと麻里愛が言ってた」
「うーん。麻里愛なら何でも吹ける気がする」
「でも麻里愛はギターが弾けない」
「それも不思議なんだが」
 

4月12日(月)。千里はこの日朝からC大医学部にひとりで行き、今年の健康診断を受けた。
 
昨年は男子と女子の「隙間」を巧みに使って、できるだけ怪しまれないようにしたのだが、それでも女子の時間帯に香奈に目撃されてしまっている。今年はひとりだけなので、気楽である。
 
実際に医学部の指定された棟に行くと、入口の所に「平成22年度健康診断(特)女子9:00-10:00, 男子10:00-12:00」と書かれている。恐らく急用や急病で受けられなかった人が今日受けるんだろうなと思った。
 
実際、受付の所に行くと受診票(兼問診票)が数枚置いてあり
「2年数理物理学科の村山千里です」
と言うと、その中から1枚取って渡してくれた。
 
まずはトイレ(むろん女子トイレ)に行き採尿してから、採血に行く。その後、レントゲンに行く。待っている間に問診票に記入する。既に《村山千里・女・H3.3.3生 Rh+AB》と印刷されているので、その後の病歴等についてだけ書いていく。
 

レントゲンの所では千里の前に2人並んでいて、千里が椅子に座った後も女子学生が3人来たので、結構今日受ける人いるんだな、などと思っていた。やがて自分の番になるので、中に入り服を脱ぐ。ワイヤーの入っているブラをしていると言うと、それも外して下さいと言われ、上半身完全に裸になって撮影機の所に立った。
 
レントゲンが終わると心電図の所にまた並ぶ。ここで問診票の後半を記入する。質問の最後に「妊娠したことがありますか?」「現在妊娠していますか?あるいは妊娠の可能性がありますか?」はいづれも「いいえ」を選ぶ。
 
この質問はよく見られる「女性の方へ」という注意書きが付いていないので、おそらくこれは女性用の問診票フォームなのだろう。男性用のフォームにはそもそもこれは印刷されていないのだろうと千里は思った。
 
視力・聴力・身長・体重を計り、最後に内科医の診察を受ける。
 
昨年は訊かれなかったのだが、今年の内科健診の先生は
 
「スポーツなさってますか?」
と訊いた。
 
「はい。バスケットしています」
と答える。
 
「ああ。それでかな。心臓が大きいので」
「スポーツ心臓だねと言われたことあります」
「うん。それそれ。スポーツしているのなら問題無いです」
 
それで今年は解放された。去年のドキドキしたのに比べると楽勝である。 

桃香は本来なら4月7日に健康診断を受けなければならなかったのだが、寝坊してしまった。それで学生課で相談したら「4月12日が予備日になっていますから、そこで受けて下さい。書類を回しておきます」と言われた。
 
「すみませーん」
「男子は10時から12時までですので、今度は遅れないようにしてください」
「えっと、私、女ですが」
 
学生課の窓口の若い女性は改めて桃香を見、額に手を当てた。
 
「えっと、性転換なさったんですか?」
 
「いえ、最初から女です。学籍簿も女になってるはずですが」
 
それで窓口の女性は再度モニターを見ている。
 
「ああ。ちゃんと女性になってますね。実際、他の女性と更衣室などで一緒になっても問題無いお身体ですか?」
「問題無いですよー」
 
「だったら性転換者でも問題無いかな。では女子は9時から10時までですので、どんなに遅くても9:20くらいまでには来て下さい」
「分かりました!」
 
結局性転換者と誤解されたままなのはもう気にしないことにした。
 

それで桃香は12日はちゃんと遅刻しないようにしなければ・・・と思っていたのだが、完璧に寝過ごした! 慌ててバスに飛び乗り、医学部に行く。バスを降りてからダッシュするが、受付の所にたどり着いたのはもう9:40である。それで
「2年数理物理学科の高園です」
と言ったのだが、受付の人は受診票を探しているものの、見つからない。 
「受診票が無いようですが、本当に今日来るように言われました?」
「はい。今日の9時から10時までだからと」
 
「え?あなた男性ですよね?」
「女ですー」
 
「女子学生の受付はもう終わっているのですが」
「そこを何とか」
 
それで受付の人は何か電話している。
 
「じゃ受診して下さい。最初に心電図に・・・あっと、あなた走ってきました?」
「はい」
「じゃ、内科健診行って、レントゲン行って、その後心電図行って下さい。そのあとで、視力・聴力、採血・採尿に進んでもらいますが、このあたりはもう男子学生と一緒になってしまいますが、構いませんか?」
 
「裸になって視力検査する訳ではないから大丈夫です」
「では2階の内科に行ってください」
「分かりました」
「あ。走らないで。走って行くと、正しく診察できないので」
「はい!」
 
それで桃香は歩いて医学部の診察棟に入ったのだが、そこでバッタリと千里に遭遇する。
 
「あれ?桃香、どうしたの?」
「7日に寝坊してしまって今日別途健診になっちゃったんだよ」
「ああ。そういえば去年もそんなことしてたね」
「面目ない。千里は?」
「うん。今年は用事があって7日休んだんだよね。それで今日別途になった」
「なるほど」
「でももう終わった所。桃香はこれから?」
「うん。内科に行ってくれと言われた」
「内科、私今行ってきた。そこ階段上がって、右手だから」
「ありがとう」
「じゃ、またね」
「うん。また」
 
それで千里と入れ替わるようにして桃香は建物の中に入り、階段を歩いて昇ったのだが、ふと疑問を感じた。
 
あれ〜。もう男子の早い子は終わったんだっけ?
 
しかしこないだ学生課で、男子は10時からと言われた気がする。今まだ9:45で、男子の健診は始まってないはずである。だったら千里は女子の健診時間に受診したとか?
 
とまで考えてから、まさかね〜と思い、この件はその後きれいさっぱり忘れてしまった。桃香は細かいことは気にしない性格なのである。
 

その日の午後、千里は今年やっと初めて大学の講義に出席できた。この日受けたのは、3時間目(12:50-14:20)の児童心理学(文学部での受講)と4時間目(14:30-16:00)の集合論3であったが、集合論の時間に朱音たちに捕まる。 
「さて、千里ありていに白状しろ」
「何何?」
「確かにC大男子バスケ部、女子バスケ部のホームページを見てみても千里の名前はなかった」
 
「私が女子バスケ部に入れる訳ないじゃん」
と千里は言っておく。
 
「ああ。確かにいくら女らしい子でも性別が男なら女子選手にはなれないよね」
と真帆。
 
「でもそれならバスケの合宿ってどうなってんのさ?」
と朱音。
 
「私はクラブチームに入っているんだよ」
「へー!」
「千葉周辺の大学生や会社員で作ってる自主的なクラブ」
 
「でも大学と無関係のクラブ活動が公用として認められるの?」
 
「うーん。。。。じゃ他の子には広めないでね。あまり騒がれたくないからさあ」
 
と言って千里は日本代表の招集状を見せてあげた。そこには
 
《村山千里・平成3年3月3日生。右の者をバスケットボール日本代表候補として招集する/日本バスケットボール協会・会長麻生太郎》
 
と書かれている。
 
「日本代表候補として招集するって書いてある」
「すげー!」
 
「千里ってそんな凄い選手だったのか?」
 
「去年もそれで国際大会でタイまで行ってきて。ちょうど前期の期末試験にぶつかったから、期末試験は全部レポートに代えてもらったんだよねー。今年も代えてもらうことになる。今年はインドとかチェコまで行ってこないといけない」
 
「この麻生太郎って、総理大臣やってた麻生太郎?」
「そうそう。総理はやめたけど、バスケ協会の会長はやめてない」
「麻生さんってバスケするの?」
「しない。あの人はクレー射撃の選手。でもバスケ協会の改革に強力な指導力を持つ人が必要だというので、総理大臣に就任する少し前にバスケ協会の会長に乞われて就任したんだよ。それでかなり強い改革を押し進めている」
 
「それは知らなかった」
「男子のトップリーグが5年前から分裂して大揉めしていたのを何とか1つにまとめる話し合いがまとまりそうな雰囲気」
「へー。総理大臣としてはどうも頼りなかったけど、そういう仕事もしてたのか」
 
招集状にはうまいことに「女子バスケット」とは書いてないので、千里はこの場は何とか切り抜けることができた。
 
なお、この時居たのは、朱音・玲奈・友紀・真帆の4人で、桃香と美緒はこの話を聞いていない。朱音たちは一応千里の説明で納得してくれたし「騒がれたくないから広めないで」という話を尊重してくれたので、この話は4人以外には広まらなかったようである。そもそも桃香と美緒は女子の噂話にあまり参加しないタイプである。
 
(この日桃香は健康診断を受けた後、バイト先に直行して講義には出てきていない)
 

同じ4月12日。旭川N高校女子バスケット部のメンバーは昨日入部したての1年生も含めて全員で、南野コーチに率いられ、スーパーカムイに乗って札幌に出た。そのあとバスで北広島市のナイキのショップに入る。
 
「こんにちは。旭川N高校ですが」
「はい。伺ってますよ。では全員測定して合わせましょう」
 
女性スタッフは南野コーチ自身を含め全員のバストサイズを正確に測り、また生理の前か後か、そしてきつい方が好みかゆるい方が好みかなども尋ねて、各人に合うブラを選定していった。
 
主力の数人については買い直しするケースも考えた上でジャストサイズのものを、それ以外のメンバーについてはサイズの調整ができるタイプのものを選ぶ。 
ひとり「とってもバストの小さな子」が恥ずかしがっていたが、ナイキのスタッフさんは、特に他の子と区別はせずに、ちゃんと彼女に合うサイズのものを選んであげていた。
 
「私に合うサイズがあるとは思わなかった!」
と感動しているのは、戸籍上は男子の部員、横田倫代である。
 
「みっちゃんも、ちゃんと納豆とか豆腐とか食べていたら、おっぱい大きくなるよ」
とソフィアが言ってあげると、また少し恥ずかしがっていた。
 
このスポーツブラジャーの代金、そして北広島市までの往復交通費は全て千里が出してあげたものである。
 

4月17-18日にはインターハイに向けての旭川地区大会が行われたが、この大会にメンバーはこの高機能スポーツプラを付けて臨んだ。
 
するとメンバーの動きが明らかに違っていた。
 
「なんか物凄く動きやすいです」
「胸がまるで無くなったかのように動ける」
「なんか小学生頃の感覚が戻ってきたみたいな感じ」
 
と各人は言っていた。それで、決勝戦のL女子校との試合までは主力が出なかったにも関わらず快勝快勝を続け、決勝戦でも
 
「N高校さん、何があったの?みんな見違えた」
とL女子校のキャプテン黒浜さんが尋ねてくるほど、みんなの動きが良かったのである。
 
絵津子は「実は全員に高機能のナイキのスポーツブラを買ってあげたんだよ」と黒浜さんに教えてあげる。
 
「すごーい!それ高いの?」
「実は千里先輩がお金出してくれたんだよね。1個7000円くらいみたい。札幌のナイキショップまで行って全員測ってもらって買ったんだよ」
 
「すごーい!12人分なら8万円くらい?」
「ベンチ枠関係無く、部員全員50人分2枚ずつで70万くらいかな」
 
「きゃー!でもそれ学校に相談してみる!」
と黒浜さんは言っていた。
 

一方千葉市。同じ4月17日(土)の朝、千葉市内の体育館に千葉ローキューツのメンバーが集まった。この日は初顔合わせのメンツがいた。今年加入した5人である。
 
16.PG.馬飼凪子(旭川L女子校)麻依子の後輩

20.SF.島田司紗(旭川N高校)千里の後輩

34.C.長門桃子(旭川A商業)国香の後輩

22.PF.五十嵐岬(高崎S高校−J大学)浩子が学内でナンパ!

24.PF.岸原元代(茨城M高校−S大学)夢香が学内でナンパ!

 
岬は中学高校とバスケをしていて高校時代は群馬県のベスト4までは行ったことがあるらしい。しかしもう高校まででバスケは辞めようと思っていた所を浩子にナンパされたらしい。元代は中学高校ではソフトボール部だったらしくバスケは中学時代に何度か助っ人で大会に出たものの、高校になってからは体育の時間しかしたことがないと言った。しかし173cmの長身なので、夢香がナンパしたのである。
 
「茨城M高校なら、向井亜耶さんって知らない?」
と千里は訊いた。
 
「あ、2つ上の学年のバスケ部主将ですよ。向こうはこちらを知らないかも」
「今ジョイフルゴールドという関東実業団1部のチームにいるよ。正確には昨年まで2部だったけど、今年1部に昇格したんだよ」
 
「すげー。あの人、そんな凄い所に行ったのか。でもうちのバスケ部は県BEST8までしか行ったことなかったのに」
「まあ卒業してから伸びたのかもね。それにバスケって1人だけ凄くても5人いないと、どうにもならないから」
「ですよねー」
 
これでローキューツの選手は17名となった。昨日できあがったきた新しいユニフォーム(濃淡2着セット)を配布する。
 
「もしサイズ合わない人居たらすぐ言って。作り直してもらうから」
「色合い変わったりしない?」
「念のため背番号と名前を染めてない予備を数枚確保してもらっているんだよ」
「なるほどー」
 
このあたりも予算が潤沢に使えたのでできたことである。
 
「リバーシブルじゃなくて、ちゃんと濃淡があるんですね」
と岬が言う。
 
岬は高校時代はホーム・アウェイの濃淡がリバーシブルになっているユニフォームを使っていたらしい。
 
「リバーシブルは協会の方から、公式戦ではできるだけ使わないでくれという通達が出ているんだよ」
「へー。でもお金が掛かりますね」
「まあスポンサーが出してくれるから自己負担が要らないし」
「それは助かります」
 
全員着てみて、お互いにチェックし合う。
 
「全員サイズ問題無いみたいね」
「良かった良かった」
「じゃ背番号変更の必要もないし、エントリーシート出してくる」
と言って浩子が走って事務局まで行った。
 

今日は千葉県春季クラブ選手権である。11チームが出場しており、トーナメントで試合をおこなう。ローキューツはシードされて1回戦不戦勝なので、午後からの2回戦から出て、それに勝てば明日、準決勝→決勝と進むことになる。 
全員そろった所で、長身の誠美を初めて見た元代が
「凄い背が高いですね」
と感心したように言う。元代だって173cmで女子としてはかなり背が高いのだが、誠美はその元代が見上げる感じである。
 
「186cmかな」
「すごーい!」
 
「その子はU18日本代表で、元プロだから」
と国香が言う。
 
「え〜〜!?ここそんな元プロとかのいるチームなんですか?」
と言ってから
 
「ちなみに女子ですよね?」
と小さい声で訊く。
 
「性別に疑問があるなら、試合終わってから、みんなで一緒にスパにでも行く?」
などと言って誠美は笑っている。
 
「誠美がスパの入口で男湯のロッカーの鍵を渡される確率は7割くらいある」
などと国香は言っている。
 
「ちなみにそちらのロングヘアの千里は、U18アジア選手権とU19世界選手権でスリーポイント女王になって、現在A代表候補で活動している」
と麻依子が言う。
 
「え〜!?そんな日本代表とかのいるチームなんですか?私、楽しくバスケしようよといわれて勧誘されたのに」
と元代。
 
「うん。だから楽しくバスケするチームだよ」
と浩子。
 
「ほんとに?」
と言って元代は不安そうである。
 
「試合に出なくても、テーブルオフィシャルとかいって試合の記録をするお仕事もあるよ」
などと玉緒が言う。
 
「ああ、私、その専門でもいい気がしてきた」
 

実際この日の午前中は、予定していたクルーが1組来られなくなったという話でローキューツのメンツが1試合テーブルオフィシャルを務めた。これは夏美・夢香・司紗・凪子の4人でやってきた。司紗は高校時代、公式戦には1度も出ていないもののテーブルオフィシャルは大得意で、この日も最も神経を使う24秒オペレーターをしっかりこなした。元代は許可を得て、その様子を見学していたが「これも大変そう!」と言っていた。
 
午後の2回戦の相手はブレッドマーガリンである。余暇にバスケをしているチームなので、主力は出るまでもないだろうということで、
 
玉緒/司紗/沙也加/茜/元代
 
というメンツで出たが、司紗と沙也加が20点ずつ取る活躍で快勝した。元代はまだルールもよくは分かってないようで、一度バックパスのバイオレーションを取られてしまったものの、出ている内にだいぶ感覚をつかんだようで、笑顔でプレイしていた。得点も6点取ってご機嫌であった。
 

大会は2日目に入る。
 
この日まで勝ち残っているのは、ローキューツ、フドウレディース、サクラニャン、暴走ギャルズの4チームである。フェアリードラコンはフドウレディースに、サザン・ウェイブスはサクラニャンに敗れて準決勝進出はならなかった。サクラニャンは今年入った現役女子大生の加納さんという人が卓越していて、それでレベルアップしたようである。
 
千里たちの準決勝の相手はそのサクラニャンであった。
 
“少しだけ”本気を出して、凪子/国香/夏美/夢香/桃子というメンツで出て行く。加納さんはなかなか凄かったが、国香の敵ではなかった。まだ本調子ではない国香でも充分押さえることができる。その間に夏美・夢香・桃子といったメンツがどんどん点を挙げていく。
 
玉緒・茜・沙也加・菜香子・岬・元代といった面々も交代で出して行くが、千里・麻依子・誠美という主力3人は最後まで出番が来なかった。
 
結局16点差で快勝して、ローキューツは決勝に進出する。
 

もうひとつの準決勝を勝ったのは暴走ギャルズである。
 
別に暴走族とかのチームではなく暴走は房総のシャレである。ここと当たるのは昨年の夏季選手権以来である。あの時はダブルスコアで勝っているが、ここも新規加入の選手に強い選手がいるようだ。フドウ・レディースに勝ったのは凄いと千里たちは思った。
 
浩子/司紗/薫/岬/桃子というメンツで出て行く。
 
“多少”本気の陣営である。そして試合では岬と桃子が序盤から点を取りまくる。その様子を見ていて千里と麻依子は
 
「私たち出る必要無いみたいね」
「じゃ今日はのんびりと見学で」
ということで、応援に徹していた。
 
試合はやはりダブルスコアでローキューツが勝った。
 
結局この大会では、千里・麻依子・誠美の3人は1度もコートには立たなかった。 

春季クラブ選手権が行われた翌日、4月19日(月)。バスケ協会からU20の日本代表が発表された。こちらはもう「代表候補」ではなく「代表」である。10月のU20アジア選手権に参加することになるが、その前の9月にA代表の世界選手権があるので、もし両方に出ることになったら、かなり忙しい。
 
メンツは昨年U19世界選手権に出たのと同じメンツであった。
 
4.PG.入野朋美(愛知J学園大学)

5.PG.鶴田早苗(山形D銀行)

6.SG.村山千里(ローキューツ)

7.SG.中折渚紗(茨城県TS大学)

8.SF.前田彰恵(茨城県TS大学)

9.PF.橋田桂華(茨城県TS大学)

10.SF.佐藤玲央美(ジョイフルゴールド)

11.PF.鞠原江美子(大阪M体育大学)

12.PF.大野百合絵(神奈川J大学)

13.PF.高梁王子(岡山E女子校)

14.C.中丸華香(愛知J学園大学)

15.C.熊野サクラ(ジョイフルゴールド)

 
発表にはなかったものの、実はこれに補欠として下記の3人が合宿には参加することになっている。
 
16.C.花和留実子(H教育大旭川校)

17.SF.竹宮星乃(神奈川J大学)

18.PG.森田雪子(東京N大学)

 

留実子はU19世界選手権の時はサクラが直前まで見つからなかったため、代わりに頼むと言われ、本人もその気になっていた。留実子は貧乏でパスポートを作るお金もないので、それを高田コーチが個人的に出してあげた。
 
しかし高田は代表発表の前日にとうとうサクラを見つけることができた。見つけたのは実は同じく補欠候補者であった海島斉江である。高田はサクラを説得して代表入りを承諾させた。それで高田は留実子に平謝りすることになる。留実子は「いやサクラが見つかって良かったです。僕は代表なんてガラじゃないし」と言った。
 
ところがそのサクラがタイに出発する直前になって「自信が無い」と言って、留実子に代表を代わってくれないかなどと言い出した。留実子は黙ってサクラの前で自分のパスポートを燃やしてしまう。
 
「ほら、僕のパスポート燃えちゃった。これで僕は海外に行けないから代表にはなれないね。仕方ないからクララ何とかしなよ」
と留実子は言った。
 
それを見たサクラはその場で泣き出した。そして泣き言を言わずに頑張ることを留実子に誓ったのである。
 

留実子はせっかく高田コーチが個人的にお金を出してくれて作ったパスポートを燃やしたことを謝罪したが、高田は
 
「いや、あれはナイスだった。あれでサクラは本気になった」
と言った。
 
高田は代わりのパスポートをすぐに再発行してもらうよう留実子に言い、この費用は実は千里が出してあげた。それで留実子はすぐに新しいパスポートを手にしたのである。
 
今回のU20の活動では、留実子はやっとそのパスポートを使用することになる。 

竹宮星乃は元々U18の時もほぼ代表当確であったのに、直前に骨折してしまい、おかげで代表を逃した。補欠組の中では実力もひときわ飛び抜けているのだが、既に12人のロースターが固まってしまっているために、何かアクシデントでもない限り出場の機会はない。しかし補欠としての招集の話には
 
「やります!やります!」
と言っての参加である。
 
森田雪子は昨年のインターハイ・ウィンターカップでもポイントガードとしての実力はナンバー1と評価が高かった。数字に表れた成績自体は札幌P高校の江森月絵の方が高かったのだが、安定性と信頼性を評価された。
 
大学進学志望ということで、有力大学の間でかなりの勧誘合戦があったのだが、関女1部の大学には入らず、わざわざ2部の東京N大学に入った。しかしお陰で1年生で入って即ベンチ枠に入ることができた。
 
雪子は内部競争があまり好きではないし、2部の方が試合の出場機会が多くなると思って、そこを選んだのである。
 
そして今回の代表の補欠での招集の話に「村山先輩がいるし、やりたいです」と言って応じた。孤立しやすい性格の彼女としては、千里がいることで身の置き場があると考えたのであろう。なおN大学にはN高校での同輩で、バスケ部でもいちばん仲が良かった杉山蘭も進学している。その蘭は近くに来たのをいいことに、しばしばジョイフルゴールドの練習場に顔を出して、湧見昭子をいじっているようである。
 
しかし結果的にはU20代表チームに旭川N高校の出身者が3人入ることになった。この補欠3人は全員U24(Univ)候補にも加えられ両者兼任となる。
 
今年はU17,U18,U20,U24,U24(Univ),A代表と、いくつもの代表チームが同時稼働しているため、兼任者が多い。
 
千里と玲央美がU20,Aの兼任、花園亜津子はU24とAの兼任である。
 
U20の第1次合宿は5月下旬に予定されている。
 

千里は毎週火木土にファミレスの夜勤のバイトをしている。もっとも今年の前半はバスケの合宿で出られない日も多い感じである。
 
4月20日(火)の夜は、夜中過ぎに桃香と朱音が来て、千里に位相幾何の分からないところを聞いたりしながら、2時間ほどおしゃべりして帰った。2人が帰った後で、ふとテーブルを見ると男物のバッグが残っている。
 
「こんなの持ってるのは桃香かな」
と独り言を言うと、《たいちゃん》が
『うん。桃香ちゃんが持ってたよ』
と言うので、学校で渡そうと思い、それを持って学校に出て行った。
 
「千里もそんな男っぽいバッグを使うんだ?」
などと友紀に言われるが
「これ桃香の忘れ物」
と千里は答える。
 
「ああ、そういえば桃香が持っていた気がする」
「桃香はかなり性別に疑惑がある」
「昨夜、うちのファミレスに来た時、忘れていったみたいでさ」
「ああ」
 
ところがその桃香が来ない。出席を取る授業は真帆が代返してあげていた。 
「昨夜、遅かったの?」
と朱音に尋ねる。
 
「桃香のアパートで朝6時近くまで話してたかな。それで私はガストで朝御飯食べてから出てきたんだけど。桃香は仮眠してから学校に行くと言っていたんだよね」
 
「まだ仮眠してるんだろうな」
「午後からは出てくるかなあ」
 
「桃香の仮眠はしばしば夕方まで続く」
「あぁぁ」
 

結局4時間目まで桃香は出てこなかったので、千里が持って行ってあげることにした。スクーターで学校を出て、桃香のアパートまで行く。
 
アパートの少し手前でスクーターを停め、そちらを眺める。
 
『えーっと・・・・とうちゃん、頼める?』
『よっしゃ、みんな来い』
 
と言って《とうちゃん》が《いんちゃん》《くうちゃん》以外の全員で桃香のアパートの周囲に集まっていたものを全部片付けてくれた。
 
『ここ、時々メンテが必要みたいだな』
『まあ空気の流れが悪いからなあ』
 
『餌場と考えると悪くない場所でもある』
と《こうちゃん》は言う。
『うん。ここに住んでいたら御飯には困らない』
と《せいちゃん》も言っている。
 
『それ住んでいる人間は、いわば餌箱の中に住んでいるみたいなものね?』
と千里が言うと
『まあ俺たちは人間を食ってはいけないと、美鳳さんから命じられているから』
と《こうちゃん》が答える。
 
命じられてないと人間でも食うのか!?
 

ともかくも、それでクリーンになったアパートに寄せてスクーターを駐め、桃香の部屋に行き、呼び鈴を鳴らす。反応は無いが、桃香がいるのはその「存在感」を感じるから確実である。10回くらい鳴らして、やっと桃香は起きてきた。
 
「ショック。もうこんな時間だ」
などと言っている。
 
「これ昨夜、うちのファミレスに忘れてあった」
「ありがとう!」
「何度かメロディーが鳴ってたけど」
「うん。ここに携帯も入れてあったんだよね」
「なるほどー」
 
「目覚ましのアラームも全部携帯にセットしてるし」
「なるほどねー」
 
「バイトに行かねば」
「何時から?」
「17:30からだけど17:20には入っておかないといけない」
「間に合う?」
「やばいかも」
 
今もう17:05である。
 
「私のスクーター貸そうか?」
「あ、貸して貸して」
 
それで桃香は千里のスクーターを使ってバイト先に行った。
 
千里は桃香も自動車の免許を持っていたはずだから、原付は大丈夫と思って貸したのだが、実は桃香は母から免許を取り上げられているので、この時は免許証不携帯であった。
 

桃香を見送った後、千里は歩いて表通りに出た。バスでいったん駅前に出ようかなと思ったのだが、少し行った所の歩道に花束が置いてあるのに気づく。 
何だろうと思って近寄ってみた。
 
金物屋さんの前の歩道にチョークの跡が少し残っており、そこに花束が5つも置かれているのである。げっ。これは交通事故で誰か亡くなったのか?と思う。 
すると近所の人らしきお婆さんが寄ってきた。
 
「あんたも亡くなった学生さんの友達?」
と訊く。
「誰か学生さんが亡くなったんですか?」
「C大学の経済学部の女子学生さんらしいよ」
「あらあ・・・」
 
「今朝方、バイト帰りで歩いていた所を暴走族の車にはねられたんだって」
「ひどい・・・」
 
夜勤のバイト明けなら、自分と同じ立場だ。千里はその女子大生の冥福を祈る気持ちになり、合掌して般若心経を唱えた。
 
お婆さんも一緒に合掌してくれていたが、千里の般若心経を聞いた後で 
「私は80年生きてきて、こんな心経は初めて聞いた」
と言って、笑っていた。
 
「私、巫女なんですよー」
「うんうん。神道流の般若心経だね」
とお婆さんは言った。
 
「犯人はまだ捕まってないらしいよ」
とお婆さんは言ったが
「すぐ捕まりますよ」
と千里は微笑んで答えた。
 
そして唐突にこんなことを言ったが、言った千里自身驚くことになる。 
「亡くなった子の冥福を祈ってここにお地蔵さんとか置いてもいいですかね?私も同じC大学の学生なんですよ」
 
お婆さんは驚いていたが、答えた。
「この部分の歩道は私有地なんだよ。この金物屋さんに私が話付けてあげるよ」
 
そう言って、お婆さんがお店の中に入っていく。千里もその後に続いた。 

4月21日(水)。バスケ協会, JBL, bj の三者は覚書調印式を行い、5年前の分裂以来の対立に終止符を打ち、『次世代型トップリーグの創設』について話し合っていくことになった。
 
チーム運営の方向性に関する対立からプロ化志向のチームがJBLを脱退してbjを創立して以来、両者はお互いを非難しあってきて、選手に「向こうのリーグの選手には年賀状も出すな」と命じるなど、おとなげない喧嘩をしてきていたのだが、やっと手打ちをすることになり、新リーグ(NBL)への統合について話し合っていくことになった。この成果は麻生太郎会長が就任以来、両者の説得に尽力してきた成果でもあり、国内のバスケット関係者も、ホッと胸をなで下ろしたのであった。
 

4月26日。旭川の赤坂司法書士が千葉に来訪した。
 
健康保険証はこちらに郵送してくれたものの、社印や銀行の通帳・カードなどはさすがに郵送する訳にはいかない。しかし千里が忙しくて旭川に行けないので、持って来てくれたのである。
 
「済みません。わざわざこちらまで」
「いえ。ちゃんと出張費も頂いていますから。それにたまには私も東京に出てきたいし」
と赤坂さんは笑顔で言った。
 
千里がアッサムのロイヤルミルクティーを入れて、香蘭社のティーカップに注いで渡すと、赤坂さんは飲んでから
「美味しいですね!」
と言った。
 
昨日焼いておいたパウンドケーキなども勧め、それを摘まみながら少し話していたのだが、千里が台所に衣装ケースやら本棚やら並べているのに気づくと、赤坂さんは不思議そうに
 
「居室のほうが随分空いているようなのに、どうしてこちらに荷物を並べておられるんですか?」
と尋ねる。
 
「向こうは雨漏りが酷いんで、荷物を置けないんですよ」
「それ改修とかできないんですか?」
「どっちみちこのアパートは近い内に崩すらしいんですよね。だからそれまでという約束で借りているんですよ。ここ家賃が1万円ですから」
 
「1万円!?それは凄い」
「私、安いの大好きだから」
「でも年収が億近くあるのに」
「それにですね」
「ええ」
「何となくですけど、このアパート、あと1年もしないうちに引き払うことになりそうで」
「ああ、やはりもっといい所に引っ越すんですね?」
「うーん・・・、それがもっと悪い所に引っ越しそうで」
「え〜〜〜!?」
 

多津美は少し寂しげな表情で、かなり融けかけている雪に穴を掘ったりして遊んでいた。
 
その時
「たぁちゃん」
という声が掛かる。多津美は顔をあげたが、そこにあった優しそうな眼差しに、多津美は涙があふれ出てきた。
 
「お母ちゃん!」
と叫ぶと走り寄る。
 
そして母娘はしっかりと抱き合った。多津美が泣いているが、母も涙を浮かべていた。
 
「あんた。戻って来たのかい?」
と家の中から出てきた多津美の祖母が声を掛けた。
 
「お母ちゃん。やったよ。30万、お金作ったから。これで弁護士に依頼して自己破産の申告ができる」
 
そう有稀子は言って微笑んだ。
 

ゴールデンウィーク。千里は再び東京北区の合宿所に向かった。4月29日から5月9日まで、A代表の第2次合宿が行われるのである。
 
また例によって合宿開始前の4月28日夜、ベテラン組対ヤング組で練習試合をしたが、今回はやはりベテラン組もかなり本気になって練習を重ねていたのだろう。ベテラン組が3点差で勝った。しかし三木さんや簑島さんたちに笑顔は無かった。
 
今回は同時期にU24の合宿もおこなわれるので、花園亜津子は日程が重なるのだが、重なる人は上位の合宿に出て下さいということで、A代表の方に参加である。
 
両者は合同合宿をするわけではなく、A代表は2階のバスケットコートを使用し、U24は同じ2階だが共用コートの方を使用する。しかし宿泊棟の方では顔を会わせるし、何度も練習試合をした。
 
お互いほぼ知っている顔同士なので、U24の選手たちからは
 
「来年はそっち行きますからよろしく〜」
「早く隠退してくださいね〜。隠退してなかったら蹴落としますよ」
 
という声がありA代表側からも
 
「返り討ちにするから、一昨日来てね」
 
などと返していた。
 
 
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