【女の子たちの卒業】(4)

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千里は4月1-5日は出羽の冬山修行に参加する傍ら、旭川で引越の荷物をまとめて送ったり、高校や中学の友人と会ったりして過ごし、5日は再度留萌の実家にも顔を出した。そして6日に旭川→羽田の飛行機で東京に出てきて、千葉市内の借りたアパートに入るが、まだ旭川から送った荷物が届いていない(引越シーズンなのでこの時期はどうしても到着に時間が掛かる)ので外食でもするかと思って出ていて雨宮先生に遭遇した。
 
そして雨宮先生に乗せられてインプレッサ・スポーツワゴンの中古を買ってしまった。先生はその後千里を高級ホテルのディナーに連れて行ってくれたが貴司とのことでもやもやしたものがあったこともあり、雨宮先生に乗せられてワインをかなり飲んだ。
 
4月8日にはC大学の入学式が行われる。これに千里はレディススーツを着て出席した。一緒になった鮎奈(C大学医学部)が
 
「おぉ、千里の普通の格好だ」
と言って喜んでいた。
 
彼女とも千里は中性的な声で会話しておいたのだが、入学式の中で国歌斉唱する時だけ、千里は女声で歌った。それで鮎奈は
「そういう声も出るのか?」
 
と言っていた。
 
「だいぶ練習したよ。でもまだ試運転中」
「声変わりする前の声と声質が違う」
「うん。あの声には多分戻れないと思う」
「でもちゃんと女の子の声に聞こえるよ」
「ありがとう」
 
実際問題としてこの時期はまだ、中性的な声(ささやき声を発展させたもの)はストレス無く使えるものの、女声の方はまだ長時間維持するのが辛かったのである。千里が女声を普通に使えるようになるのは、実は6月頃、吉子の結婚式の直前くらいである。
 

一方貴司は韓国での仕事が、相手企業の条件闘争のためけっこう手間取り、4月8日(水)になってやっと妥結して帰国することができた。
 
会社で報告をした後帰宅し、疲れたぁと思ってマンションでぐったりとしていたら芦耶から電話がある。
 
「聖道さん、こんばんは」
「・・・・。ね。貴司、私たち結構親しい仲だよね?」
「うん」
「私のこと、名前で呼んでくれないの?」
 
「いや、その・・・」
「それとも貴司、私以外に恋人いるんだっけ?」
「いないよぉ。僕が好きなのは君だけだよ」
 
と言いつつ、千里のことがとっても気に掛かる。
 
「例の3万円のバレンタインくれた子は?」
「いや、だからあれは男だって」
 
ということにしちゃったからなあ。千里も男装で来るから芦耶を紹介してくれなんて言ってたし。さすがにそれはできない気がするけど。
 
「その人、どこに住んでいるの?」
「あ、えっと。千葉だけど」
「遠いね!」
 
自分のライバルかも?と思う子がそんなに遠くに住んでいるというのは意外だった。確かに、それらしき子を見かけたのは、例のタクシーの中で消えた?という事件の時だけだ。遠くにいるからめったに見ないのか。
 
たぶんあの事件は、本人が乗ろうとしたものの直前で中断し、それに気づかずにタクシーのドライバーが発進してしまったか何かで起きた出来事なのだろう、と芦耶は解釈していた。
 
「でも出張お疲れ様」
「うん。疲れた。今週いっぱいは代休をもらえることになった」
「良かったね」
 
と言ってから芦耶は思いつく。
 
「ね、お休みならデートでもしない?」
「うん。そうだなあ」
「日帰りデートでいいよ。車で出て、香川まで行って讃岐うどん食べてこようよ」
「え?四国?フェリーで渡るんだっけ?」
「橋だよ!」
 
「あ、そうか。橋があったんだっけ?」
「行きは淡路島経由で行って、帰りは瀬戸大橋で岡山に戻ってくればいいよ」
 
あ、そうか!こないだ千里と一緒に淡路島まで行ったんだというのを貴司はやっと思い出した。
 
「でもそれかなり距離がない?」
「大丈夫だよ。充分日帰りできるよ」
 
と言って、ノンストップで走ればねと心の中で付け加える。日帰りということにしておいて、途中でたくさん休憩させて、一晩泊まることにすれば・・・・。車中泊でもいいなあ。狭い所でするのも楽しそうだし、などと芦耶は考えていた。 
(千里(せんり)から高松までは淡路島経由で200km, 岡山経由で250km程度である。往復450kmは「車の運転に慣れた人」なら楽勝で日帰りできる道のりだ。ちなみに先日の千里(ちさと)とのドライブは大阪→淡路が70km, 淡路→京都が100kmほどであるが、結局車中泊して丸一日かかっている) 
「うーん。じゃ明日梅田あたりで落ち合おうか?」
「高速に入りやすいように、私がそちらのマンションに行くよ」
 
と芦耶は言う。こないだはヨドバシ梅田店に行こうとして大阪駅周辺を3周もしたからなあ、などと思い起こす。
 
「うん。分かった」
と貴司も答えた。
 

なんかむしゃくしゃした気分だった佐藤玲央美は、偶然見かけたパチンコ屋に入ってみた。
 
なんか凄い所だなあ、と思ったものの実は玲央美はパチンコの仕方を知らない。それで素直にお店の人に「初めてなんですけど」と訊いてみたら、人の良さそうなおばちゃんが親切に教えてくれた。適当な空いている台の所に座らせ 
「ここにお金入れたら玉が出てくるから。それでハンドル回せば玉が打たれてここに入ったらまた玉が出てくるのよ」
と言われるのでやってみる。おばちゃんはしばらく付いていたが大丈夫そうだなと見て、入口の方に戻って行った。
 
すると玲央美がしばらくやっていた時、突然派手な音楽が鳴り始めたかと思うと、皿に物凄い数の玉が流れ出してきて「何だ?何だ?」と思う。
 
焦って隣で打っていた中年女性に
「すみません。これどうしたらいいんでしょう?壊れちゃったのかなあ」
と尋ねた。
 
「あんた、それ大当たり」
「え?どうすればいいんですか?」
「あんたもしかして初めて?」
「はい」
「ビギナーズラックかぁ! だったら悪いこと言わない。ここでやめて換金した方が良い」
と彼女は言った。
 
玲央美が換金も知らないというので、結局その女性は自分の打つのを中断して玲央美の手伝いをしてくれた。玉のたくさん入った箱を持って店の奥に行き、大量のケースに入った地金と交換する。
 
「その金属の板みたいなの、どうするんですか?」
「まあ、一緒に来てごらん」
 
それで彼女は玲央美を連れて店を出る。しばらく歩いて何か窓口だけがあって多数のおじさん・おばさんが並んでいる所に来た。前に並んでいたおじさんが「それ凄いね!」と驚いている。玲央美はさっぱり訳が分からない。
 
やがて玲央美の番が来る。付き添ってくれていた女性が大量の金地金を出すと、窓口の人は確認して、玲央美に8万6千円も渡してくれた。
 
「こんなにもらっていいの?」
と玲央美が戸惑っているので
「だってあんたが当てたんだろ?」
と女性は言った。
 

玲央美がシステムをさっぱり分かっていないようなので、
「じゃ御飯でも食べながら説明するよ」
と彼女は言う。
「ぜひ御飯代は私に出させてください」
「んー。じゃ、大当たりのお裾分けにあずかろうかな」
と彼女も言った。
 
それで結局近くの牛丼屋に入り、一緒に牛丼の大盛りを食べながら彼女はパチンコのシステムを詳しく説明してくれた。
 
「なんか面倒くさいことするんですね。それお店でそのまま現金をもらえるようにした方がシンプルなのに」
「それをやると賭博罪になるからさ」
「へー」
「日本で公的に賭博が許されているのは競馬や競輪などの公営ギャンブルと、みずほ銀行が運営している宝くじ、日本スポーツ振興センターがやってるtotoだけ。だからパチンコ屋ではあくまで景品を出す。その景品を景品交換所で現金に換える。その景品は景品問屋が買ってパチンコ屋に納入する。これを三店方式と言ってそれで賭博罪に問われないようにしているんだよ」
 
「実質賭博じゃないですか!」
 
「まあ、警察とパチンコ業界の妥協の産物だね。日本人って建前と本音の使い分けが甚だしいから」
「確かに」
 
「ところであんた一瞬オカマさんかと思ったけど、本物の女みたいだね」
と彼女は言う。
「私、よく誤解されるみたい」
と玲央美も答えて笑う。
 
「あ」
と彼女は突然言った。
「あんた、佐藤玲央美じゃん」
と彼女。
「わ、ご存じでしたか」
「私のこと知らないよね?」
と彼女が言う。
 
玲央美は少し考えてから言った。
「倉敷K高校のアシスタントコーチさんですよね?」
 
「凄いね。よく覚えてるね」
「なんか旭川N高校の村山千里が因縁ありそうな顔をしていました」
「あいつは私の弟子なんだよ」
「へー!」
 
「佐藤さんは、どこの大学に行ったんだっけ?」
「大学には入ってません。Wリーグのスカイ・スクイレルに入団したのですが」
「嘘!あそこ廃部になっちゃったね!」
「そうなんですよ。間が悪いというか」
「じゃどこに行くの?」
「今の所あてがないです。取り敢えず今、電話オペレータのバイトしてます」
 
「どこかの実業団にでも渡り付けてあげようか?私、けっこうコネあるよ」
と藍川真璃子は言った。
 
玲央美は少し考えた。
「実は私、ウィンターカップで燃え尽きてしまった気持ちで」
「あれ凄い試合だったもんね!」
「私だけでなく、村山千里も燃え尽きてしまったみたいで少し心配してるんです」
「ふーん・・・」
 
と藍川はしばらく考えていた。
 
「すっごく悪いこと考えちゃった」
と彼女は本当に悪戯っぽい笑顔で言った。
 
「は?」
 
「あんたと千里をふたりまとめて鍛え直してやるよ」
 
「えっと・・・K高校の方は?」
「クビ」
「あらら」
「監督が交代になっちゃってさ。だからスタッフも全員解雇された」
「そうだったんですか」
 
「それで私も暇もてあましてたしね。千里をちょっとからかってやろうかとも思ったんだけど、どうもあんたの方が面白そうだし。佐藤さん、あんた今すぐバスケやる気持ちになれなくても、一緒にジョギングとか、水泳とかやって少し基礎的な体力を鍛えない?」
 
「そうですね。実は今バスケットのボールを触るのにも少し抵抗感があったんですけど、そういう練習ならしてもいいかな」
「じゃ明日から、私と一緒に基礎練習」
 
「はい!」
と玲央美は明るく返事した。
 
「あ、すみません。お名前何でしたっけ?」
「あ、私は藍川真璃子」
「まりこさんですね。よろしくお願いします」
「うん、ゆるゆるとやっていこうね」
「あ、そのくらいが良いです。今私あまり頑張れないから」
 
藍川は微笑んで頷いていた。
 

9日(木)の朝、芦耶はしっかり着替えを持ち、念のため避妊具も用意して、浮き浮きした気分で千里中央駅まで出かけて行った。私、ちょっとおしゃれしすぎたかなあ。でもいいよね。私たちの初夜になるんだから。
 
そう思いながら電車を降りて少し歩き、貴司のマンションまで行ってインターホンで来たことを告げると、5分ほどで貴司は下まで降りてきてくれた。一緒に地下の駐車場に行く。アウディA4 Avantが駐まっている。貴司はドアをアンロックし、助手席のドアを開けて「どうぞどうぞ」と言う、芦耶は笑顔で乗り込もうとして、凄まじい匂いに顔をしかめた。
 
「どうしたの?」
「何?この匂い?」
「え? あ、1週間使ってなかったから臭いが籠もったかな。御免、全部ドアを開けよう」
と言って貴司は全てのドアを開けるとともに、エンジンを掛けてエアコンを最強で掛けた。
 
「どうかな? 少しはよくなったかな」
「うん」
 
それで芦耶は助手席に乗り込んだのだが・・・
 
え?
 
と思う。
 
これ。私より少し背の高い人がここに座っている。
 
座席が自分がいつも座っている位置より少し後ろにずらしてあるのだ。芦耶はこの席についこないだ、27日も乗った。その後で誰かがここに乗ったことになる。それ誰なの?
 
取り敢えず座席を自分の背丈に合わせて再調整する。
 
貴司が助手席のドアを閉めてくれて、向こう側に回り込んで運転席に座ってドアを閉める。
 
「うっ」
芦耶は再度むせ返りそうになった。
 
「何か?」
「降りる!」
と宣言して芦耶は助手席から降りてしまった。貴司も慌てて降りてくる。 
「どうしたの?」
「これ絶対、他の女がこの助手席に乗ってる。それも凄い香水のきっつい女」
 
「え?助手席には誰も乗せてないけど」
 
これは貴司が認識している範囲では本当だ。千里はあくまで後部座席に乗っていたのだから。
 
芦耶はじっと助手席を見つめていた。そしてそれを見付ける。シートと背もたれの間にはさまっていた、黒くて長い髪。指で拾い上げる。
 
「これ誰の髪?」
 
芦耶は栗色に髪を染めているし、こんなに長くもない。
 
「えっと・・・・・」
「やっぱり3万円のバレンタインくれた女の子とデートしたんでしょ?彼女をこの助手席に乗せて」
 
「いや、それは決してそんなことはしてない。だいたいあいつは男だし」
「そんな無意味も嘘つく貴司って嫌い」
 
あ、自分はとうとう貴司のこと、嫌いって言っちゃった、と芦耶は少しだけ後悔した。
 
「嘘ついてないよ」
「じゃ、その男だという千葉の友だちに会わせてよ」
 
「分かった。じゃ目的地変更して千葉まで走ろうか?」
「この匂いのきつい助手席には乗りたくない。新幹線で行こう」
「分かった。行こう」
 
それで貴司は芦耶と一緒に北大阪急行で新大阪駅に移動し、東京行きの新幹線に乗り込んだ。
 

『おい、どうするんだよ?これ』
『俺と青龍は貴司君に付いていく。玄武は助手席の匂いが抜けるように車の換気を頼む』
《せいちゃん》が車の合鍵を《げんちゃん》に渡す。
 
『おれは掃除係かよ?』
『後でお前もこっちに来てくれ』
『へいへい』
 

貴司は新幹線の中から何度か千里に電話を入れたのだが、つながらなかった。実はこの日千里は午前中に引越屋さんが来て、荷物の配置などの指示をしたりしていたので、電話の着信に気づかなかったのである。
 
貴司たちの乗る新幹線はやがて東京駅に着く。
 
2時間にわたって貴司とおしゃべりしたことで、芦耶も少しは機嫌が直った。それで東京駅構内のレストランで一緒に食事をする。それから総武線に乗って千葉駅に着いた。
 
さて貴司はもちろん千里の新しいアパートには行ったことがない。都会では住所だけではたどり着けないような場所がしばしばあるので、何とか千里にそのあたりを確認してからでないとタクシーにも乗れない。
 
それで千葉駅の出口で千里に再度電話を入れた所、やっとつながった。 
「はい、千里です」
と言って電話に出た声は女声であった。貴司はドキっとする。やはり千里、女の子の声が出るんだよね?
 
しかしそばに芦耶がいるので、うかつなことが言えない。
 
「あ、村山君。千葉まで来てるんだけど、少し時間取れる?」
 
すると千里は明らかに「村山君」という呼び方に怒ったようである。
 
「時間って・・・千葉に居るの?」
と男声で返事がかえってくる。あはは。そうか。もしかして千里って機嫌のいい時は女声で、機嫌の悪い時は男声で話すことにしたんだったりして!? 
「うん。今駅前。タクシーで村山君の住所言えば辿り着けるかな?」
「大丈夫だと思うけど」
と千里は明らかに怒ったような声で言っていた。
 
もうこの先は出た所勝負だな、と貴司は覚悟を決めた。
 

芦耶と一緒にタクシーに乗って、千里のアパートに辿り着いた、なんか凄くボロっちいアパートだ。これ、今にも崩れそうなんだけど大丈夫か?と心配したくなる。
 
1階の真ん中の部屋と言っていたなと思い、その部屋の呼び鈴を鳴らす。千里はすぐに出てきた。
「はーい」
と明らかな女声で返事がかえってきてドアが開いた。その女声を聞いた瞬間、芦耶の顔が凄まじく険しくなった。あははは。どっちみち修羅場になりそう。 
「村山君、こんにちは」
と貴司が言うと、千里は貴司のそばに芦耶が居るのを見て、明らかに怒った顔をした。
「遠い所、大変だったでしょ。あがって」
と千里は男声で言った。きゃー。怒ってるよ。
 

それで貴司は芦耶と一緒に千里のアパートにあがりこんだ。その芦耶が最初に見とがめたのが、部屋の隅に転がっていたオムツである。貴司もそれを見て驚くとともに戸惑った。先に芦耶が反応する。
 
「赤ちゃんがいるの? まさか貴司との間の赤ちゃん?」
 
そして貴司まで
「村山、いつ赤ちゃん産んだの?予定日は8月4日じゃなかったんだっけ?」
などと言った。
 
千里は内心苦笑しながら
「違いますよぉ!この部屋、雨漏りが酷いんで、その対策用に紙おむつ買ってきたんです。妊娠したことはないですよ」
と男声で芦耶に言う。
 
「ほんとに?」
「だいたいボク、男だし」
「えーーーー!?」
 
そのやりとりを見て貴司は冷や汗をかきながら
「だから言ったろ?」
と芦耶に言ったのだが、千里は更に言う。
 
「細川さんも焦って変なこと言いますね。男のボクが妊娠する訳ないじゃないですか。それとも8月4日が予定日って、それ他のガールフレンドを妊娠させたのと混同しているのでは?」
 
などと千里が言うと、芦耶はキッと貴司を睨む。
 
「違う。決して誰も妊娠させてない」
と貴司は言った。
 

この時点で、貴司としては実は「何も考えていない」。先日千里が男装してくるから芦耶を紹介してよ、などと言っていたので、その話に千里が合わせてくれたら、とりあえずこの場を乗り切られるかもと考えているだけである。その結果、今千里が内心激怒しながら、貴司の話に合わせて男の振りをしてあげているということまでは思い至っていない。
 
ただ千里としても、今回の遭遇があまりにも唐突すぎたので、ここで自分は貴司の妻であると名乗ってこの女と喧嘩した場合に、こちらが準備不足で負けてしまうことを恐れて、明確な衝突を避ける思惑も持っていた。
 
千里は基本的には平和主義者だが、戦う以上は勝たなければならない、というのも千里のポリシーだ。
 

取り敢えず千里がコーヒーを煎れてくれて3人で飲みながらお話するが、芦耶はすぐに千里が付けている香水に気付いた。
 
「あ、あなたの香り!」
「はい?」
「その香り、貴司の車に乗った時に感じた。あなた、貴司の車に乗った?」
「はい。こないだ先輩の車に乗せて頂きましたけど」
 
「これ女用の香水だよね?」
「母が使ってたのの古くなったのをもらってきたんですよ。汗掻いた時とかの臭い消し用です」
と千里は笑顔で言う。
 
「あんた、ほんとに男なんだっけ?」
「この髪にこの声を聞いて、男に見えませんか?」
「確かに男の声みたいに聞こえはするけど、それでもあんた女に見えるんだけど!」
「困ったなあ。ボク女装でもしようかな」
「うん。女装が凄く似合いそう!」
 

話し合いはその場では決着が付かず、近くの和食の店、更に居酒屋に移動して続く。芦耶の疑問は「千里が女ではないのか?」「そして貴司と浮気したのでは?」という2点に集約される。それを貴司は「千里は男である」「千里とはただの先輩後輩の関係」と主張し、千里は半ば呆れながらも貴司の主張に話を合わせてあげていた。
 
ところで、東京でこういうことが起きている間、車の掃除をしていた《げんちゃん》は最初『この香水の香り、落ちないぞ、千里いくらなんでも掛けすぎ〜』と文句言いながらも車の掃除をしていたが、午前中ずっとやっていても一向に臭いが取れないので、とうとう切れて一度東京に移動して、千里のサブ財布を持っている《きーちゃん》を連れて行き、車の洗浄専門業者にアウディを持ち込んで座席の洗浄を依頼した。業者には香水の瓶を割ってしまったんですよと説明したが、料金は5万円も掛かった!
 
洗浄は(乾燥が必要なため)3日掛かるので13日(月)のあがりですと言われたので、それまでは貴司に気づかれないよう、適当に誤魔化そうと思ったものの、実際には貴司が大阪に戻って来るのは12日(日)の夜で、その夜はそのまま千里とHなことをする夢を見ながら眠ってしまうし、平日は車を使わないので、結局貴司が車に次触るのは一週間後の18日(土)である。
 
貴司は
「あれ?何か車がきれいになってる気がする」
とは思ったものの、深くは考えずに練習試合のある神戸市まで運転していった。 

一方、9日の日、千里と貴司・芦耶は、和食の店・居酒屋でけっこう長時間話し合ったものの、結論は出ない感じであった。居酒屋も閉店時刻になってしまうので店を出ることにする。
 
貴司が結局3人分の支払いをする。千里と芦耶はそれを少し外側で待っていた。会計を済ませた貴司が「あっちょっとトイレ」と言って男子トイレに飛び込む。それを見てつられた芦耶が「あ、私も」と言って女子トイレに飛び込む。それを見て千里も「私も行こうかな」と独り言を言って女子トイレに入る。この時千里はこの数時間、自分が「千里は男」という貴司の主張に話を合わせてあげていたことを瞬間的に忘れてしまっていた。話し合いが長時間に及んで精神的に疲れていたことから一瞬思考が飛んでしまったのである。
 
女子トイレの中は個室が2つあり、片方に芦耶が入ったようだ。もうひとつの個室が空いているので千里はそこに入った。千里はいつも女子トイレを使っているから、こういう時に自分がここにいることに何の疑問も感じない。 
先に入った芦耶が先に出る。彼女が手を洗っている内に千里も個室を出た。芦耶がギョッとして千里を見た。
 
「あんた、男じゃなかったんだっけ?」
「へ?」
「あんた男なのに女子トイレに入って来たの? それともあんたやはり女なの?」
 
と芦耶に言われて、千里はやっと自分のミスに気づいた。
 
「ごめーん」
と千里は女声で言った。
 
「やっぱ、あんた女だよね。今、女の声出したね?」
「あははは」
と千里は一瞬どう答えていいか悩んで取り敢えず笑ってみた。
 
「今の『ごめーん』ってどっちの意味? あなたが男なのに女子トイレを使ってしまって御免という意味なら、私あなたを痴漢として通報する。自分が男だなんて嘘をついてごめーんという意味なら、女同士、ライバル宣言してふたりで貴司を争わない?」
と芦耶は言った。
 
千里はため息をついた。
 
「私、正直なんであいつが私は男なんて嘘つくのが意味が分からないんだけど。私のこと『村山君』なんて苗字呼びするからさ。ちょっと頭来たんで、はい私は男なんでしょうね、と言ってみた」
 
「あいつ普段はあんたのこと下の名前で呼ぶの?」
「苗字で呼ばれたのなんて、初めて会った時くらいだなあ」
「私は苗字でしか呼ばれたことない」
と芦耶は言って、悲しそうな目をした。
 
「3万円のバレンタインチョコ贈ったよね?」
「うん。5000円くらいのお返しのホワイトデーもらった」
「私は1万5千円くらいのバレンタイン贈ったんだけど、あれ見て負けたぁと思った。私はお返しは3000円くらいのかな」
「それって単純に比率計算だったりして。あいつって割と何も考えてないから」
と千里が言うと芦耶は吹き出した。
 
「あいつって実際なーんにも考えてないと思わない?」
と芦耶。
「言えてる言えてる」
と千里。
 
ふたりの間に一瞬だけ連帯感が芽生え掛かったが、すぐにお互い激しい視線の火花を散らす。
 
「あんた、秋頃貴司のマンションの周囲でよく見た女子高生とは違うよね?」
と芦耶が訊く。
「秋頃? そんな女子高生がいたの?私は貴司とはこないだ1年ぶりに会ったんだよ」
「・・・・したの?」
「さあ、どうかな」
 
ふたりは視線をぶつけ合う。
 
「妊娠は?」
「その内貴司の子供を産むつもりだよ」
 
激しい視線の火花が飛び散る。
 
ところがそこに従業員さんが入って来て
「済みません。もう閉めますので」
と言うので、ふたりはそのまま黙って女子トイレから出た。
 

千里と芦耶が一緒に女子トイレから出てきたのを見て、貴司がギクっとした顔をした。
 
千里は外を見て
「雨降ってますね」
と言った。
 
すると貴司は
「タクシーでどこかのホテルに行こう」
と言った。
 

この時、3人の位置関係は、入口そばに千里が居て、その左やや後方に貴司、そして千里の真後ろくらい、貴司の右やや後方くらいの場所に芦耶である。そして、この貴司の発言の意味を巡って微妙な誤解が生じていたのを、その時、3人とも気づかなかった。
 
貴司は「3人でビジネスホテルか何かに行きシングルを3つ取って休む」という意味で言った。
 
ところが千里と芦耶は各々別の解釈をした。
 
千里は、貴司が芦耶を見ながらそのセリフを言った気がしたので、貴司は芦耶と2人でホテルに行くつもりなのか?と解釈してしまった。それなら自分は、お邪魔な存在??
 
一方の芦耶は貴司が千里を見ながらそのセリフを言った気がしたので、何だと?ここまで引っ張っておいて、結局自分を無視してふたりでホテルに入るつもりか?と思った。
 
千里と芦耶の間に激しい緊張が走ったことにさすがの貴司も気づいて
「え?どうしたの?」
と訊いた。
 
その時千里は、なぜだかここは引くべき時という気がした。後から考えてもなぜそう思ったのか分からない。
 
「じゃ私はこれで」
と千里は言って立ち去ろうとする。
 
「村山、傘持ってないのでは?」
「あそこに見えるコンビニまで走って行って傘を買いますよ」
「そうか。じゃ、今日はこれで」
 
今日はこれでだと〜? 私を停めるかと思ったのに。やはりそいつとホテルに行くのか? 千里は今度は怒りが込み上げてきた。貴司のおちんちんなんて、もう2度と立たなきゃいいんだ!
 
「では失礼します、《先》《輩》」
と言って、本当に走り去ってしまう。
 
芦耶は拍子抜けした。一瞬、ここはこの娘と掴み合いの喧嘩になるかも、くらい覚悟したのに、あっけなく向こうが離脱してしまったので、驚きはしたものの、ここは貴司を自分のものにするチャンスと考える。
 
半ば強引に貴司と腕を組むと
 
「じゃ貴司、ホテルに行こうよ」
と笑顔で言った。
 

一方の千里は本当に雨の中を走って、コンビニに飛び込むと、ホットコーヒーと傘を買った。そしてコンビニの出口でじっと雨の降るのを見つめていた。 
『千里、何やってんのさ?』
と《いんちゃん》が言う。彼女は3人の間に一瞬生じた誤解に気づいていた。 
『俺、ちょっとあのふたりを邪魔してくる』
と《こうちゃん》が言う。《こうちゃん》は貴司にくっついていたので、貴司がアパートに来た時点で《せいちゃん》と一緒に千里の後ろに帰参している。 
『いいんだよ。私と貴司はお友だちなんだから、貴司が他の女の子とセックスしても別に構わないよ』
と千里は《こうちゃん》に言う。
 
『ほんとにいいの?あの女が貴司君とセックスしても? 俺は貴司君のこと気に入ってるから、あんな女と結ばれるの嫌なんだけど』
と《こうちゃん》は言ったが、千里はしばらく沈黙した後、こう言った。 
『あるべきやうは、だよ』
 
千里は、結局私と貴司の関係は本当に終わっちゃったのかな、と考えながらまだずっと雨を見つめていた。
 

一方貴司は芦耶と一緒に流しのタクシーに乗り、運転手に
「どこか休憩できるようなホテルに」
と言った。
 
貴司は「休憩できるような」というのは深い意味があって言った訳ではない。適当なビジネスホテルのことを考えていたのだが、運転手は深夜の男女客でもあるし、その言葉を「ご休憩」ができるようなホテルのことだと解釈し、郊外のその手のホテルが並んでいる地域に連れて行き、空室の表示のあるところで停めた。もっともこの時間帯に行くと、短時間の滞在でも休憩料金ではなく宿泊料金が取られる。
 
「ありがとう」
と言って貴司は降りたものの、なぜこんなホテルに連れて来られたのか戸惑う。僕何か言い間違ったっけ?と考える。しかし芦耶は何だかワクワクした表情だ。 
ありゃ〜、もしかしてこれってセックスコース?
 
と思い至って、やばぁと思う。
 

でもここまで来てしまっては仕方ない。雨も降っているので芦耶と一緒にホテルの玄関に駆け込む。
 
それで取り敢えず部屋を借りて、中に入った。
「お風呂入ろうよ」
「うん」
と言って芦耶は貴司を見る。
「一緒に入る?」
と貴司に訊いてみたものの、貴司は焦った様子で
「いや、君が先に入って」
と言った。
 
そうだなあ。私も前の彼とも結局一度も一緒にお風呂には入らなかったなあなどと少し甘酸っぱい思い出を脳内に再生していた。
 
元々お泊まりデートにしてしまうつもりで着替えは持って来ているが、ここは着替えを着る必要は無いよね?と考える。芦耶はシャワーを浴びて汗を流し、身体を拭くとバスタオルでバストから腰までを覆って出てきた。
 
その格好を見て貴司が焦ったような顔をしている。
 
「貴司も汗流してきなよ」
「あ、うん」
 
それで貴司がバスルームに消えたのを見て、芦耶はバスタオルを身体から外し、自分のお気に入りの香水を身体に少し振ってから裸でベッドに入った。 
彼「持ってる」かなあ?と少し不安だったので、自分が用意していた避妊具をポーチに入れて手の届く所に置いた。
 

結構な時間が経ってから貴司はバスルームから出てきた。貴司は裸である。 
が芦耶は戸惑った。
 
こういうシチュエーションでは、男はもうビンビンに立っているものと芦耶は思っていた。少なくとも前の彼氏とした時は、いつももう待ちきれないような顔をして、大きくなって上向きになった股間の物体を見せながら自分に近づいて来た。
 
しかし貴司のそれは全く立っていない。小さいまま下向きにぶら下がっている。 
それはまだいいのだが、芦耶がいちばん困惑したのが、貴司にほとんど陰毛が無かったことである。陰毛だけではない。下半身に体毛らしきものがあまり見られない。うっすらと毛が生えていることは生えているが目立たない。ごく最近1度剃ったのではないかという雰囲気。
 
しかし毛のあまり無いお肌に小さなおちんちんが付いているので、その時、芦耶は「まるで子供のおちんちんみたい」と思ってしまった。
 

「ねえ、なんで毛が無いの?」
「あ、えっと・・・・」
「19歳にもなって、いまだに発毛していないってことはないよね?」
「いや、毛はあることはあったんだけど・・・・」
「剃っちゃったの?」
「うん。まあ。剃られたというか」
「剃られたって誰に?」
「あっと・・・・」
 
「誰に?」
と芦耶が怖い顔で訊く。
 
「ごめん。千里に剃られた」
 
芦耶はその名前を聞いた瞬間、激しい怒りが込み上げてきた。
 
何なのさ?
 
あいつ、結局貴司といっしょに私を馬鹿にしてたの?
 
「だいたい何のためにあの子が男だなんて嘘ついたのさ? 嘘つくにしても、もう少しマシな嘘にしなよ」
 
「いやほんとに男なんだけど」
「その嘘はとっくにバレてるってのに。それにあの子が言ってた。貴司、他にも恋人がいて、その子を妊娠させてるんでしょ?」
 
「それは違う。あれは何かの誤解だって」
「じゃ、やはりあの子自身が妊娠してるの?」
「妊娠はしてないと思うんだけど」
 
「いい。私もう帰る」
 
と言って芦耶はベッドから出ると持参していた着替えを着始めた。
 
なんかもう気持ちが冷めてしまった気がした。
 
「聖道さん、待って」
「最後まで私を名前で呼んでくれなかったのね。とにかく私はもう冷めた。あの子が男だろうと女だろうと関係無い。そんな所を剃るようなことをする相手が居て、更に他にも子供まで作るような恋人が居て、更に私とも関係を結ぼうとするなんて、最低、最悪、卑怯者、無神経、浮気者、女たらし、二股野郎、いや三股野郎!」
 
もっと罵倒したい気がしたが、言葉が思いつかない。それで芦耶は荷物をまとめて出ていこうとしたのだが、貴司が停めた。
 
「今、出て行くとまだ雨がひどいよ」
「だからといって、もうこれ以上貴司と居たくない」
 
「分かった。だったら僕が出て行く」
「はあ!?」
「だって聖道さん、大阪からわざわざ千葉まで来て疲れているでしょ?それでこんな夜中に雨に打たれたりしたら風邪引くよ。僕は身体丈夫だから平気だから。僕が出て行く」
 
「ふーん」
「ごめんね。不愉快な思いさせてしまって。あ、そうだ。ここの宿代と、帰りの新幹線代も置いて行くね」
 
と言って貴司は財布から1万円札を3枚出した。そして自分の服を着ると 
「ほんとにごめんね。君のこと好きだったよ」
と言って、部屋を出て行った。
 
芦耶はその後ろ姿を見送り、どっと疲れてベッドに座り込んだ。
 
貴司、なんて優しいのよ。でも多分貴司ってその優しさが欠点なんだ。女に言い寄られた時、断れないから、結果的に多数の女との関係ができてしまう。きっと貴司と恋人になる人は、みんなその性格に苦労しそう。
 
秋頃付き合っていた女子高生もそんなんで怒って貴司と決裂したんじゃないかなあ。まあ私はもう貴司から卒業しちゃったけどね。考えてみたらそもそも私が貴司と知合った時もあれって女が切れて貴司を振った所だよね? きっとあの千里って女(?)も1ヶ月もすれば新たな恋人の登場で同じ目に遭うだろう。 
そして大きく息をついてから冷蔵庫の中にあるビールを開けて飲む。そして飲みながら考えた。
 
以前から疑惑があったけど、ひょっとして貴司ってホモなんじゃないのかな。スポーツ選手には結構ホモが多いって言うし(芦耶の単なる偏見)。
 
だいたい裸でベッドに入っている女を前に立たないなんてあり得ない。恋愛感情がもし無かったとしても普通の男なら立つでしょ?こちらが女でさえあるのなら。やはり貴司は男にしか反応しないとか。それであの女、男みたいな声も出せるから、貴司が好きになったとか?いや、マジであいつ実は男だったりして? 
しかし千里の姿を再度思い浮かべた芦耶はすぐに結論に至る。
 
「やっぱあいつ、女だよね。男だっていう主張にはかなり無理があったぞ。男っぽい声も出してはいたけど、声が男でも話し方は紛れもなく女だったもん。ひょっとして男装女子??」
 

貴司はホテルを出た後、向こうの方にコンビニが見えたのでそこまで走って行ってから傘を買った。
 
千里ごめんねー。千里もコンビニまで走って行ってたけど、濡れなかった? 
千里に電話してみたが
「電源が切れているか電波の届かない所に」
というメッセージが返ってくる。
 
貴司は取り敢えず今回の件で千里に謝らなければならないと思った。それで千里のアパートに行ってみようと思ったものの、タクシーに乗って昨日の住所に行ってもらったものの、なぜか千里のアパートを見付けることができなかった。 
「暗い中で探してもしかたないか」
そう思うと貴司はコンビニか何かでもないかなと思って、大きな通りのある方へ歩いて行った。
 

結局コンビニを3軒ハシゴして、やっと夜が明けてきた。ここまで来る途中で見かけたファミレスが朝6時オープンと書いてあったなと思い、そこに行って開店と同時に中に入りモーニングを食べる。ちょっと人心地する。
 
そのままテーブルに俯せになって30分くらい仮眠するが、店の中に人が多くなってきたのを感じて席を立ち、精算して外に出た。
 
あらためて昨日行ったアパートの所を探して行ってみる。それはなかなか見付からなかったが、かなり悩んだ末に自分が1丁目と2丁目を読み間違っていることに気づいた。タクシーに告げた時も間違って言ってる。あらぁ〜。それじゃ見付からない訳だ。
 
後で知ったのだが、大通りから小さな道に入る時、1丁目は角にセブンイレブンがあり、2丁目は角にファミリーマートがあった。どちらもコンビニがあったことで勘違いに気付きにくかったようである。
 
結局貴司が千里のアパートに辿り着いたのは(4月10日金曜日の)お昼過ぎである。 
そして千里は当然留守である。
 
貴司は千里が帰ってくるまで待つことにした。
 

同日、成田空港。
 
母華ローザはエールフランスのエアバス機から降りると大きく伸びをしてから入国審査の方に行った。1ヶ月ぶりの日本だ。
 
日本人用の自動化ゲートの所に並んでいたら、係員から声を掛けられる。 
「Excuse me, sir. This automated gate is for Japanese only. Would you move to the gate with officer overthere for foreigners, or if you don't register yet, would you go to the immigration counter?」
 
「あ、すみません。私、日本人です。ついでに私は女です」
「ごめんなさい!マダム。再入国ですか?」
「いえ。日本の国籍です」
と言ってローザは日本政府発行のパスポートを見せる。
 
「失礼しました!」
 
母華ローザは生まれたのはフランスのオルレアン近郊の町である。出生名はRosa Marie Vorga。父はフランス人、母はアルジェリア人とスーダン人のハーフであったが、彼女がまだ5歳の頃に3つ上の姉とともに一家4人で日本に移住。一家まるごと日本に帰化した。それでローザはフランスでの生活はほとんど覚えていないし、実はフランス語ができない!
 
今回は祖母が大きな病気をしていつまで生きていられるか分からず孫たちに逢いたがっているというので、実は18年ぶりの里帰りであった。両親と姉はまだフランスにいるのだが、フランス語ができないローザは向こうでの生活に疲れてひとりで先に帰国したのである。
 
自動化ゲートを通って手荷物受け取り所に行き、自分の荷物が出てくるのを待つが、さてこれから何をしようかなと考えていた。
 
スーダン人の母方の祖父の影響かローザも姉のクララも背が高い。クララが181cm, ローザは184cmである。母も179cmくらいある。それで今日みたいにズボンを穿いているとしばしば男性と誤認される場合もある。
 
ふたりは最初姉がその背の高さから中学時代に誘われてバスケ部に入り、全国大会で活躍したことから注目され、愛知J学園に入り、インターハイ優勝を成し遂げた。3つ年下のローザも姉と入れ替わる形でJ学園に入ってやはりインターハイで優勝。リバウンド女王も取った。卒業後、姉は大学を経て実業団に行ったが、ローザは高校を出てすぐにプロになり2004年と2005年の2年間Wリーグで大活躍した。しかし2006年の途中で怪我をして戦線離脱。結局解雇されてしまう。本人も治療とリハビリで半年苦しんだ。
 
2007年春の時点で元居た球団を含めていくつかの球団に接触したものの球団側は彼女の怪我の回復について懐疑的で、どこにも入団できなかった。その時、同じく元プロの堀江希優(札幌P高校出身)と出会い、ふたりで千葉ローキューツを結成したのである。
 
しかしこのチームは希優が勤めている会社の仕事が忙しくてなかなか出てこられず、ローザ自身も動きにキレが無くて怪我をする前のようなプレイが出来ずに悩んでしまう。結果的には自滅するような形で夏頃から幽霊部員と化してしまい、浩子たちに迷惑を掛けることとなった。
 
2007年の後半はハワイ、タヒチ、ニューカレドニアなどを放浪した。2008年の春に帰国し、姉が所属している実業団チームの練習にだけ参加させてもらったものの、やはり自分が思っているプレイができないことに悩む。姉からは基礎的な運動能力を鍛え直した方がいいと言われたが、元々あまり練習が好きな方ではないので、サボりがちで、結局は姉のアパートで居候しながらゲーム三昧の1年を送ってしまった。
 
しかし一度フランスに帰って祖母と(姉や母の通訳で)話したりもして、自分もまた頑張らなきゃという気持ちになりつつあった。
 
でも何から始めよう?
 
と思った時、自分の荷物が流れて来たので、それを取って出口の方に向かった。 

取り敢えず都心に出るのに地下の駅に行こうとエレベータに行く。やがて上からゴンドラが降りてきたが、その中に乗っていた人物がローザを見て「あっ」と言った。
 
「はい?」
エレベータに乗り込みながらローザは返事をする。
 
「あなた、母華ローザさんだっけ?」
「はい、そうです」
「今、どこのチームにおられるんでしたっけ?」
「実は浪人中なんですよ。2年前に怪我して以降、どうにも調子が出なくて」
「怪我は治ったんですか?」
「一応治ってます。でもなんかプレイに自分で自信が持てないんですよね」
 
ゴンドラは地下に到着する。ふたりはエレベータを出た所で立ち話をした。 
「ね、良かったら私と一緒にトレーニングしない?」
「済みません、あなたは?」
「ごめんなさい。私、元バスケ選手で藍川真璃子と言うの」
「元日本代表の?」
「よく知ってるわね。たぶんあなたが小さい頃に私もう引退しちゃってたのに」
「済みません。お名前だけ知ってました。その話、ちょっと興味あります」
「じゃ、どこかで牛丼でも食べながら話そうか?」
「私、牛丼大好き! 1ヶ月も外国に行っててお米が食べられなくて飢えてたんですよ」
「あんた、日本人だね〜」
「えへへ」
 

その4月10日は千里の登校初日であった。
 
朝千里は着替え用の服が、雨漏りのため全部ずぶ濡れになっていることに気づき絶句する。それで結局昨日着ていた男物の服を着たまま学校に出て行き、半ば冗談で「ボク男ですよ」などと言ってしまったのを真に取られ、誘われた男子のクラスメイトとの飲み会を終えてアパートに帰ってきたのは(4月10日金曜日)の夜10時すぎであった。
 
千里は飲み会の帰り洋服屋さんで調達した可愛いチュニックとプリーツスカートを穿き、長い髪を風に靡かせていた。
 
その姿を見て貴司は「やっぱり千里って可愛い!」と思った。
 
一方の千里はアパートの前で座り込んでいる貴司を見て
「どうしたの?」
と困惑したような顔で女声で呼びかけた。
 
貴司はドキッとした。
 
「振られた」
と答える。
 
「なんで?」
「いや。昨夜彼女と一緒にホテルに行ったんだけど、僕の陰毛が無いのを彼女に指摘されて」
「ああ。こないだ私をレイプした罰でおちんちん切っちゃった時についでに毛も切っちゃったからね」
「それでこれどうしたのかと言われて、千里に剃られたこと言っちゃって」
 
千里はおかしくなった。こういう時、適当な嘘を思いついたりできないのが貴司の欠点でもあり長所だよなあ。
 
「それで千里が男か女かは知らないけど、そういうことをしあう関係にあるなら、もう知らない、と言われてホテルから追い出された」
 
「ふーん」
「それで明るくなってからここを探してやってきて千里を待ってた」
「彼女に振られたから、その代わりに私を求めるの?」
と千里は厳しい表情で訊く。
 
「違う」
と貴司は言う。
 
「千里のことはずっと好きだった。去年の春に別れたことを後悔していた。留萌と旭川に別れて住んでいても交際できてたんだもん。大阪と北海道でも工夫次第では交際できたんじゃないかという気がして」
 
そう言う貴司は自分の携帯に付けた金色のリングが付いたストラップを見せる。それは千里と貴司のマリッジリング代わりであった。千里は心が暖まるような思いだった。
 
「でも私、もう恋人作っちゃったよ」
と千里は言った。なぜそんなことを言ってしまったのかは自分でも分からなかったがこの時はあまり素直になれない気分だったのである。
 
なお、千里は今日はずっと女声で離している。
 
「え?ほんと?」
「だから貴司とは恋人にはなれない。友だちとしてなら付き合えるけど」
 
貴司は少し考えた。
 
「分かった。でも今夜は泊めてよ」
「そのくらいいいよ。友だちだもん」
と千里は明るく言って、部屋の鍵を開けた。
 

部屋の中に入ってから千里はコーヒーを煎れて貴司に出し、台所の板張りに座って一緒に飲む。貴司は千里は僕を居室には入れないつもりなのだろうかと思った。そういえば昨日の日中芦耶を連れてきた時もずっとここで話していた。
 
「でも千里、女の子の声がまた出るようになったんだね。以前の声とは違うけど」
「え?私男だから女の子の声が出るわけないじゃん」
「今千里がしゃべっている声は女の子の声に聞こえるんだけど」
「貴司耳がおかしいんじゃない?耳鼻科行ったら?それとも私が女だという幻想に取り憑かれて男の声でしゃべっている私の声が女の声に聞こえるのならむしろ精神科かもね」
 
「千里のこと、男だとか言ってごめん」
と貴司は謝った。
 
「ううん。私は間違い無く男だから問題無いよ。おちんちんもあるし」
と千里。
 
「ほんとに?」
「今度一緒に連れションしようよ」
「うーん・・・・」
 
「でも今日は疲れたね。寝ようか」
と千里が言う。
 
「じゃ僕が台所で寝るから、千里は奥の部屋で寝るといいよ」
「あ、それが奥の部屋は使えないのよ」
「へ?なんで?」
「このアパート凄い雨漏りでさ。居室は完璧に水浸し。おかげで私の服が濡れて全滅。それで私、今日の大学初登校には、昨日貴司の愛しい彼女の前で私がわざわざ男装するのに着ていた服しか残ってなくてさ」
 
「ありゃー、それは困るだろ?」
貴司はかなりねちねちと言われたなと思いながらも、それは黙殺して、最も重要な問題にだけ反応した。
 
「おかげで、私大学では取り敢えず今日は男を装っておいたよ」
「千里の男装には無理があるけどなあ」
「あの子、なかなか信じてくれなかったね。私が男だってことを」
「まあ千里は女だから」
「取り敢えず私着替えが無いんだよねー。明日も何着て学校に行くべきか」
 
貴司は少し考えた。
 
「コインランドリーに持って行って、取り敢えず明日の分の着替えだけでも作ろうよ」
「やはりその手か。洗濯機に入れても朝までには乾かないなと思ってた」
「千里、夜中に女の子が出歩くのは不用心だし、良かったら僕がコインランドリーまで行ってくる。女の子の下着とか僕に触られるの嫌かも知れないけど」
 
「私は男だから全然構わないよ。下着も男物しか無いし」
「ほんとに〜?」
 
千里は声を殺して笑っていた。
 
それで千里は取り敢えず使いたい分のパンティ数枚、ブラジャー数枚、それにポロシャツ3枚とジーンズ1枚スカート1枚、それにバスタオルを2枚、貴司に渡した。貴司に渡す時、千里はブラジャーのことを猿股、パンティのことをトランクス、スカートのこともショートパンツと言った。
 
「これブラジャーとパンティに見えるけど」
「やはり本格的に貴司、おかしくなってるね。病院に行ってきなよ」
「僕がおかしくなっていて、これが本当に男物の下着なのに女物の下着に見えるのなら、そのままおかしいままでいい」
「ちなみに、貴司に男の下着に頬ずりする趣味があるのなら、それに頬ずりしてもいいよ。貴司って昔からホモ疑惑があったしなあ」
 
「いや、今日は自粛しておく」
 

それで貴司がコインランドリーに服を持って行き、洗濯乾燥を掛けている間に千里は御飯を炊いてカレーライスを作った。
 
「乾燥までさせてきたよ」
「ありがとう。こちらもカレーができたよ」
 
ふたりで一緒に洗濯物を台所内に張ったロープに掛ける。これで朝までに完全に乾くはずである。そして千里のブラジャーやパンティが目の前にぶらぶらしている状態で、ふたりはカレーライスを食べた。
 
「美味しい、美味しい。千里の作ったカレー久しぶりに食べたけど、やはり千里、料理がじょうずだよ」
 
「お腹空いてたからじゃないの?」
などと千里は言っているが、貴司の表情を見て嬉しそうである。
 
「明日はもっと頑張ってコインランドリーと往復して全部の服を洗濯乾燥させてくるよ」
「うん。でも一部クリーニングに出さないといけないのもある」
「それは分かると思うから、その分はえり出して、そちらはクリーニング屋さんに持って行くよ」
 

やがて寝ようかという話になる。交代でシャワーを浴びる。
 
千里が先にシャワーを浴びた。貴司はシャワールームから出ると身体を拭いて布団の中で目を瞑っている千里に言った。
 
「千里、もう寝た?」
「起きてるよ。布団が1組しかないから悪いけど私と一緒に寝てくれる?襲ったりしないから」
と千里は言ったが、貴司は
 
「セックスさせてよ」
と千里に言った。
 
「ダイレクトな言い方だなあ」
「婉曲的に言うとか苦手だから」
と貴司。
「友だちだし、セックスくらいしてもいいよね」
と千里は答えた。
 
それで貴司は裸のまま千里の寝ている布団の隣に潜り込んだ。千里も裸で寝ていた。貴司がキスをすると千里は貴司に抱きついてきた。千里の豊かなバストが貴司の胸を圧迫する。
 
「千里、ヴァギナあるよね?」
「まさか。私男の子なんだから、そんなのある訳無いじゃん。ちゃんとおちんちんがあるよ」
「いや、千里は女の子だ。ちんちんは無いはず」
「確かめてみる?」
と言って千里は貴司の顔を両手でつかんで唇にキスをした。
 
それで貴司はわざわざ布団を剥いで千里の股間を見つめた。豊かな茂みの中に何も突起物がないのを再確認して安心する。
 
「よかった。やはり千里にはちんちんは無い」
「おちんちん、あるってのに。それが見えないの?」
「少なくとも僕には見えない」
「ああ、やはり貴司は嘘つきだからね。正直者にしか私のおちんちんは見えないのよ」
「そういうことなら、僕は嘘つきでもいい」
「やはり嘘つきだってことを認めたか」
 

貴司はさすがに疲れていたのだろう。1回逝っただけで、すぐ眠ってしまった。千里は微笑んで眠っている貴司にキスをすると、起き上がってバッグの内ポケットから1年前に取り外した金色のリングを取り出し、自分の携帯に取り付けた。 
「貴司、これを取り付けたってことは私たち、また夫婦に戻ったってことなんだからね。1年間の別離生活からはもう卒業。私毎月2回は大阪に来るからね」
と言って、再度貴司にキスをする。
 
でも貴司って、昨日の子とは別れたものの、またすぐ別の彼女作るんだろうな、と思うと、千里は『何で私、こんな浮気男を好きになっちゃったんだろうね』と心の中でつぶやいた。《きーちゃん》が千里を優しく見守っていた。
 
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