【続・サクラな日々】(3)

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ゴールデンウィーク突入直前の4月27日金曜日、普段大阪に住んでいる風史兄が窓歌さんを連れて東京にやってきた。ゴールデンウィーク前半に窓歌さんの実家がある水戸に行くということで、その途中こちらに寄ったということだった。
 
その日は私も進平も午後の授業がなかったので、私達と一緒に少し遅めのお昼を食べようということになり、私が予約を入れて、都内の割烹料理店に行った。ここはバイト先の店長・茂木さんのコネで比較的融通が利くお店であった。
 
「あれ?この店、昔1度バイト先の店長に連れてこられたことがある」と進平。「そのコネで個室を押さえたの」と私。
「高くないのか?こういう場所で?」と風史兄。
「コネ割引で」と私は笑う。
 
最初に私は窓歌さんの指に光るエンゲージリングに目を留めた。
「わあ、素敵な指輪ですね」
「ありがとう。実は昨日もらったばかり」
「今月の給料がまるごと飛んだけどね」
「わあ、大丈夫?」
「まあ、飢え死にすることはあるまい」
「とりあえず、ここのお勘定は今日の所は私が全部持つからね。そのうち何かで返してもらえばいいから」
「ふだんなら、いや割り勘でというところだが、今日は甘えとこう」
 
「今日は風兄(かざにい)はJRだよね?」「うん」
「進ちゃんは今日はもう運転しないよね?」「うん」
「じゃ、アルコール行けるね」
ということで、私は生ビールを頼んでみんなで乾杯した。
 
「でも窓歌さん、水戸なら去年は震災の被害が凄かったんじゃないですか?」
「うん。もうおうちは無茶苦茶だった。家自体は何とか持ちこたえたんだけど家財道具とかほとんど全部買い直し。瓦直すのだけでもかなりお金掛かった」
「わあ、ほんとに大変でしたね」
「でもかなり落ち着いてきたよ」
「よかったですね」
 
「進平さんのご実家もここ数年、あのあたり地震続きで大変だったのでは?」
「本棚が倒れて壊れたりとかはしましたけど、そう大きな被害はなかったです。古い家だから柱とかも太いし、地震にも強いんでしょう」
「昭和30年代・40年代頃に建てた家がいちばん怖いよね」
 
話はやがて双方の「進行状況」に及ぶ。
 
「じゃ、そちらは2月に挙式なんだ」
「まだ確定じゃないけど、その方向で調整中。お前らはいつ頃なの?」
「最初、卒業してからと言ってたんだけどね・・・・今90%同棲状態なのよ。進ちゃんちの家電には全然電話が通じない状態で、向こうのお母さんから、あんたたちもうずっと一緒に暮らしてるなら早く入籍しなさい、なんて言われた」
「ま、いいんじゃないの?学生結婚も」
「ひょっとしたら私達も来年の1月か2月くらいに籍だけ入れちゃうかも」
 
「ということは、その前に手術しちゃうということか」
「そう。手術を終えてないと性別変更できないからね」
「進平君の前でこういうこと訊くのも何だけど、進平君のために手術するんじゃないよな?」
「違うよ。私は自分がやはり女の子だと思うようになったから、自分の本来の性別に自分の身体を合わせたいだけ。結果的に進ちゃんと法的に結婚できるようになるのは、その結果のご褒美かな、と思ってる」
「うん、それならいい」と風史兄。
 
「俺も晴音さんには、手術しないことにした場合は籍入れずに事実婚にしてもいいから、自分がありたいままの自分でいてくれと言ってます。でも、晴音さんはもう手術することを決断したので、俺はそれを応援してます」と進平。
「いい彼氏持ったな、ハル」
「ありがとう」
 
「そういえばこないだふと思ったんですが、天尚さん、風史さん、晴音って、全部同じパターンの読み方してるんですね。2文字目の最初の音を飛ばしてる」
 
「そうそう。『あまなお』じゃなくて『あまお』、『かざふみ』じゃなくて『かざみ』、『はるおと』じゃなくて『はると』。親父が当時姓名判断に凝ってたみたいで、なんか特殊な付け方をしたんだよ」
 
「でもお父さんが信奉していた姓名判断の流派がコロコロ変わってるのよね」
「そうなんだよ。はっきり言って無茶苦茶で迷惑」
 
「私の名前は最初『晴れる人』で『はると』と付けるつもりが、画数が悪いといって『晴れる音』に変えたらしいの」
「へー。しかし『晴れる人』で「はると」だったら、女の子の名前と誤解されることもなく、違う人生歩んでいたかもな」
 
「うん。それは思う。でも最近の理論で確認してみると『吉岡晴人』だと28画で凶数。『吉岡晴音』なら35画で吉数になる。だから『晴れる人』の名前だと私、もっと悪い人生歩んでいたかも」
「女の子として生きようとすると、性別曖昧な名前の方が便利で、はっきり男と分かる名前は不利だからな」
 
「そうそう。それも考えちゃった。性別曖昧な名前だから私は楽に生きてこれたんじゃないかって。だけどさ、28画が凶だというのなら『吉岡風史』も28画なんだよね」
 
「ああ。だから俺は姓名判断の占いサイトとかで鑑定すると最悪の運勢みたいなこと、いつも書かれているよ」
「人格はいいけどね。総格では天兄の画数も26画で微妙だよね」
「うん。だけど俺よりはマシ。人格は向こうが悪いけど」
「そもそもふたりとも地格が最悪だよね」
「まあ、要するに俺達の名前付けた頃は親父は画数は見てなかったんだな」
 
「私の画数にしても総格は確かに35でいいけど、人格が20で最悪なんだよね」
「たぶん親父は姓名判断の本を中途半端に読んで命名してたんだよ」
「でも私、寺元晴音になると31画で凄くいい画数になっちゃう。人格も16で吉だし」
「ということは、お前の場合は元々の名前は屈折した人生になりやすいが、寺元君と結婚することで運気が開けていくというパターンか」
 
「私もカザンと結婚すると運気良くなると言ってたね?」と窓歌さん。
「うん。マーちゃんも人格が20。ハルと同じで大凶なんだけど、俺と結婚すると人格が19に変わって、20よりは随分マシになる」
 
「でも姓名判断なんて当たるの?」
「当たってたら俺は最悪の人生歩んでるはずなんだが、一応有名大学出て一部上場の企業に勤めて3年目で主任の肩書きもらって、こんな可愛い嫁さんももらって、というのは、かなり良い人生歩いている気がするぞ」
「影響は受けるんだろうけど、名前以前のその人が持っている運気のほうが強いんじゃないかな。たぶん風兄は占星術とか四柱推命とかで出てくるような基礎運が物凄く強いんだよ」
「ああ、そうかも知れんな」
 

 
ゴールデンウィークは出会い系サイトの稼ぎ時でもあるので、私は前半たくさんバイトをした(デートもたくさんした)、連休後半に進平と一緒に、進平の実家へ行く予定にしていた。
 
29日も既に3件のデートをこなしていたが4件目の発生で、私はまた付き添い役の男性スタッフと一緒に待ち合わせ場所に向かった。
 
向こうは深緑のスーツに白い帽子をかぶっているといったなと思い、辺りを見回す。あの人かな?こちらの目印のヴィトンのセカンドバッグを確認した上で声を掛ける。「すみません、エーテルXBさんですか?」その人物はこちらを振り返り「あ、マンゴー21ちゃんかな?」と言ったがそのまま絶句した。私もその人の顔を見て絶句する。
 
「教授・・・・!?」
「吉岡さん・・・!?」
 
「えっと・・・・38歳の独身商社マン??」
「えっと・・・・27歳の人妻??」」
私達はお互いの顔を呆れるように見ていたが、やがて教授が大笑いし始めた。私も釣られて笑う。
 
携帯に着信。付き添い役の人からのメールだ。「トラブル?」
「知人だった。でも何とかなる」と返信。
 
「とりあえずどこかお店に入りましょう」
「そうだね」
と言って、私達は近くの喫茶店に入った。少し奥の方の席に着く。付き添い役の人は少し手前側の席に座った。
 
「でも教授、38歳というのは無理がありますよ」
「君も27歳には見えないよ。せいぜい24-25かなという感じだ。だいたい君は年齢より若く見えるから高校生でも通るんじゃない?」
「高校生は出会い系に登録できません」
「あ、そっか」
 
「でも教授が出会い系に登録してるとは思いませんでした。奥さんにいいんですか?」
「君こそ、彼氏がいるんじゃなかった?あ、そうか。君はサクラか」
「まあ、そうですね。うちはホンモノの女性会員は1%もいませんよ。そういう会員さんはガード硬いから、デートできたら宝くじに当たるくらいの確率ですね」
 
マニュアル上も、デートで会いに行った相手が偶然知り合いであった場合は、こちらがサクラであることをバラすように求めている。その方が余計なトラブルを避けやすいのである。
 
「参ったね。ま、僕もサクラかもな、くらいの気はしつつも、あわよくば若い人妻とひととき楽しい会話を交わせたら、なんて思ってノコノコ出て来たんだけどね」
「まあ、うちはいかがわしいサービスとかはしませんから。こちらも30分間、夫が出張中の人妻になりきっておしゃべりするつもりでやってきたのですが」
「ちなみに、サクラさんはいくらもらえるの? こちらはこのデートするのにゴールデンウィーク特別料金3万円払っている訳だけど」
「企業秘密なので言えません」
「ははは」
 
「でもこのサイトはある意味で良心的だよ。月に幾らまでなら使っていいかというのを最初に登録させるからね。それも最大5万円にしかできない」
「のめり込みすぎたお客様はこちらも対処がたいへんになるので歯止めを掛けているんです。それから返信が速すぎるお客様には、こちらからのお返事をわざとゆっくり出すように指導されています。お客様に楽しんでもらうのが基本なので、これで破産されたり離婚されたりしては困りますから」
 
「うん、なるほど。ほんとに良心的だね」
「ありがとうございます」
 
「いや正直ね、僕も今年58だからね。若い学生さんたちと話をしたりするのになかなか話題に付いていけないと思うことが多くてさ、それで若い人たちとの会話のウォーミングアップに、ここに登録してたんだ。ポイント制だから多分サクラが多いとこだと思ったんで、それなら家庭争議引き起こすようなことにもなるまいと思ってね」
「なるほどですね。だいたいこちらのスタッフは20代の人がほとんどですからそういう意味では正解な利用法かもです」
 
私達の会話は、この出会い系を使っていて起きた様々な面白いこととか、こういう話題があった、などという話から、いつの間にか私達の専門分野の話にまで至る。あの方程式で第4項をこれと入れ替えると、こういう式になり、この式が意味するところは、などと科学的な理論から更に逸脱して少し哲学的な話にまで到達していた。○○のゲノム配列は・・・なんて話もしたし、原子力発電所の安全対策を話したりしたかと思えば、連続体仮説がどうのとか、不確定性原理がどうの、なんて話もしているので、これは聞いている付き添い役の人も戸惑っているだろうな、などと思う。
 
「でも君、就職とかについてはどうするつもり?女の子として仕事先探すの?」
「男の子として探すのは不可能ですから」
「だよね。だけど女子としてでもかなり大変だろう?」
「ええ、覚悟してます。そもそも理系女子の就職先自体が厳しいですけど、それに性別が変わってますから」
 
「教員免許は取るつもり?」
「出身校の先生にこないだ電話して、今の自分の現状を説明した上で、まだ来年の話だけど、教育実習とか可能だろうかと打診してみたのですが、性別が変わってるのは別に学校としては気にしないと言われました。実は今の1年生にもGIDの子がいるらしくて。ちなみに先生からは『君の性別が変わったって、あの頃女の子だったのに男の子に目覚めちゃったの?それとも男の子の格好するのはもうやめてちゃんと女の子になったの?』なんて訊かれましたけど」
「うん。君の場合は、まさに本来の性別に戻ったということかもね」
「でも教員免許は取れても採用試験は厳しいかなという気もしています」
 
「かも知れないね。去年も理学研究科トップで修士課程を卒業した子が教員採用試験に落ちて、結局は日立の研究所に入った。コネ採用がひどすぎるよ。教員が難しいとなると他は、やはりソフトハウスとかかな」
「小さい所だと性別気にせず取ってくれる所がひょっとしたらあるかも知れないですね」
「うんうん。一応うちは国立だし水準的にも一流大学に分類されるているからね。ネームバリューは利く。なかなか見つからないような場合は言ってよ。OBとかに声を掛けてみるから」
「ありがとうございます」
 
いつの間にか約束の30分が過ぎ、もう45分くらい話している。
「あ、時間超過していたね、すまんすまん」
「教授、サクラであることがバレた場合、返金できるのですが、どうしましょう?」
「返金求めたら、君も報酬もらえないだろ?」
「それはいいですよ。ハプニングだもん」
 
「返金は求めないよ。僕は充分楽しんだから満足だよ」
「ありがとうございます」
「ヒッグス粒子の件、今度大学でももう少し話そう」
「ええ。先生のお考え、もう少しお聞きしたいです」
 

ゴールデンウィークの後半、5月3日、私は進平と一緒に進平の実家へ行った。
 
向こうの家に行くというのは母に連絡していたのだが、直前になってお土産をことづかってと言われて、クール宅急便でうちの地元の高級和菓子が送られてきたので、それを持って、進平の車で関越を走り、彼の実家まで行った。進平のお母さんからは振袖も持ってきてと言われていたので、セットを車に積んでいった。
 
実家には、彼の2人のお兄さんとお姉さんも帰省して来ていた。お姉さんの亜紀さんは彼氏を連れてきていた。まだ挙式とかは未定であるものの2〜3年以内に結婚しようかと言っているということであった。
 
私はちょっと緊張したが、みんな私を歓迎してくれたし、何といってもお母さんが私を優しくもてなしてくれたので、落ち着くことが出来た。うちの実家からのお土産を渡し「今度きちんと挨拶に来ますから」と言ってましたと伝えると、お母さんは「あら、こういうのは男の子の親が女の子の親の所に挨拶に行くものだわ」などと言い、今月か来月にでも私の実家の方に行きたいと伝えてくれと言われた。
 
進平のお父さんは漁師さんで、その日の夕食も、新鮮な獲れたてのお魚を使った握り寿司であった。お母さんがじゃんじゃん握っていたが「あ、私も手伝います」
と言って、やらせてもらう。「あら、あなた握り方うまいわね」と言われた。お魚はある程度の量をお母さんが既に3枚に下ろして刺身サイズに切っていたのだが、途中で足りないかな?ということになって追加でさばいたが、それを3枚に下ろすのも、私がやらせてもらった。
「お魚がちゃんとさばける女の子は素敵」などと言われる。
 
「お魚さばくのは子供の頃からやらされてました。うち、女のきょうだいが居ない中で私が一番下だったから、あれこれ母のお手伝いさせられてたんです。洗濯機回したり洗濯物干したりとか、お風呂とか玄関とか家の中のお掃除とか、お米研ぐのとかも私の担当だったし、カレーライスとか、玉子焼きとか、おでんとかは、よく私が作ってました」
「へー。いいお嫁さんになれるよう教育されてるのね」
 
「そうかもです」と私は笑って答える。
「握り寿司は、2月頃、進平さんが、握り寿司大量に食べたい、店で売ってる奴じゃなくて、私に握って欲しいと言い出して、それで私頑張って練習したんです。2週間くらい、ひたすら握り寿司作ってました。最初の頃はなかなかうまく握れなくて、進平さんも少し不満そうでしたけど、最後の方は結構満足してもらえたかな。でも、お母さんが握り寿司を作られるんで、手作りの握り寿司が食べたかったんですね、進平さん」
 
「男の子ってマザコンだからねえ」とお母さんは笑っている。
 
ふたりで握ったので、あっという間に大量のお寿司が出来たが、人数も両親とお父さんのご両親、2人のお兄さん、亜紀さんと彼氏、私達2人と合計10人なので消化も速かった。
「母ちゃんの作った寿司と、ハルちゃんが作った寿司の区別がつかなかった」
と進平。
「私の作ったものはお母さんのより、握り方が少し緩いです。私握力無いから」
「私も区別付かなかった」と亜紀さん。
「え?これ晴音さんが半分くらい握ったの?全部母ちゃんが握ったと思ってた」
とお父さん。
 
「区別が付いたのは私とハルちゃんだけかもね」とお母さんはニコニコ笑っていた。
 
翌日は親戚の人たちが来るからと言われ、私と亜紀さんは朝から振袖を着た。着付けは、朝早くから来てくれた、お母さんのお姉さんがやってくれた。近隣の町で美容師をしていて、花嫁さんもちゃんと作れるという人であった。
「もしこっちの方でも披露宴やるなら、私がふたりとも花嫁さんにしてあげるね」
などと伯母さんは言っていた。
 
「親戚の人への挨拶とかもあるんなら、前もって言っててよ」と私は進平に文句を言ったが、進平も「いや、俺も今聞いた」などと言う。進平はスーツを持ってきてなかったので、お父さんのスーツを借りていた。亜紀さんの彼氏も同様にスーツを借りていた。
 
午前中からぱらぱらと、これはどこどこの誰々さんでといわれて、たくさんの親戚さんがやってきたが、私はとても覚えきれなかった。「あとでちゃんと教えて」
と進平に言ったが「いや、実は俺も誰がどういうつながりか、さっぱり分からん」
などと言う。
 
お昼は仕出しが取られて、家の中の仏間とその隣の部屋、更にその隣の部屋との間の障子が撤去されて、合計20畳くらいになった広い部屋で、まるで披露宴みたいな感じで、私と進平、亜紀さんと彼氏が前に座らされて会食となった。
 
「もしかしてこれお披露目なの?」と進平にささやくと「そうかも知れんということに俺も今思い至った」などと言う。亜紀さんの方もかなり焦っている雰囲気であった。「私、まだこの人と婚約もしてないんだけど」などと小声で言う。「私達もですよ〜。結婚したいね、と言ってるだけだもん」と私は答えた。
「でも、晴音ちゃん、その指輪いいわね〜。進平も頑張るじゃん」
とお姉さんは私の左手薬指の指輪を褒めてくれた。
「ねえ、トモちゃん、私も安いのでいいから、左手薬指に付ける指輪欲しい」
「分かった、分かった。じゃ大阪に戻ってからね」
などと向こうも会話している。
 
進平の上のお兄さんが挨拶をして、私達2組のカップルを紹介してくれた。私も「晴音です。よろしくお願いします」などと挨拶する。しかし挨拶の後は何だかよく分からない宴会になっていった。親戚の人のひとりが歌を歌うと言って立ち上がると、演歌っぽいもの?を歌う。三味線と太鼓(持参!)を弾いて民謡を歌う親戚さんもいた。たぶんこれ氷川きよしの曲だったかな?と思うのを歌った親戚さんが「じゃ、進平ちゃんのお嫁さんも何か歌ってみよう」
などと言い出す。お酒もかなり入っているようだ。
 
私は頭を掻きながら立ち上がると、松田聖子の『赤いスイートピー』を歌った。これなら知ってる人も多いだろうかなということでの選曲だったが、けっこう受けていた。「では次は智和さん」と言って、私は亜紀さんの彼氏に振る。彼氏さんは次は自分に来そうと予想していたようで、照れながら立ち上がると福山雅治の『化身』を歌った。あまり歌がうまくないようで音程がとめどもなくずれていき、途中で少し可哀想になったが、何とか歌いきって拍手をもらった。
 
宴会はどんどん混沌となっていった後、午後3時過ぎに散会となった。私達は4人で挨拶しながら、親戚さんたちを送り出した。お兄さんたち2人も夕方には慌ただしくJRで帰って行った。智和さんたちがお兄さんたちを駅まで送っていってくれた。
 
「まあ、恋人のお披露目だから3時間で終わったね」とお母さん。
「あの・・・・結婚式の御披露とかはもっと凄くなるんですか?」
「うん。3日連チャンとかでやるよ」
「きゃー」
「葬式が一週間かかるのは知ってたけど、披露宴の3日は知らんかった」と進平。田舎の風習というのは凄いなと私は思った。
 
「だけど男の子3人もいて、ひとりも漁師を継いでくれないみたいなのよね」とお母さんは少し嘆くように言う。
 
「涼太は大学出てすぐに証券マンになっちゃって今は九州で勤務、忠良も大学出たあとソフト会社に入って名古屋で勤務、進平は腕力無いから漁師は無理と最初から諦めてる。亜紀の彼氏も大阪で塾の先生だしね」
 
「お兄さんはふたりともがっしりした体つきですよね。同じ兄弟でも体質違うんだなと思って見てました」
「俺、子供の頃から華奢だったから、よく女の子みたいって言われてたよ。遊ぶのも女の子と遊んでる方が多かったし。まともな男の子の友達ができたのは椎名たちが初めてだった。俺もひとつ間違えば晴音と同じ道に行ってたかも」
などと進平は言う。これは初耳だ、
 
「でも結果的には4人の中で俺がいちばん近くにいるから、何かあった時は真っ先に駆けつけるよ」
「しょうがないね。私もあんたを頼りにするかね。もっともあんたより晴音さんのほうが頼りになるかも知れないけど」
「ははは」と進平。
「私でできることなら、何でも言ってくださいね」
「うん、よろしくね」
 
3日目はせっかくこちらに来て、名所とかも見ないのもと言われ、智和さんの車(カローラ・フィールダー)に、亜紀さんと智和さん、私と進平、お母さんと5人で乗り込み、近隣の観光名所を見て回った。智和さんは道が分からないのでドライバーは進平が務めた。お母さんが「女3人でおしゃべりしよう」
などというので、智和さんが助手席に乗り、後部座席でお母さんが真ん中、私が右、亜紀さんが左に座って、ほんとにおしゃべりばかりしていた。
 
「えーっと、お前らおしゃべりが忙しいみたいだけど、ここは観光絵はがきにもよく載っている◇◇◇の滝だ」などと進平が解説してくれる。
 
この地域はけっこう古くから開拓されていた地のようで、1000年も前の大名主さんの家なんてのが残っていたりする。規模は小さいものの、よく信仰されている感じの、雰囲気の良い神社などもあった。私達はあちこちで5人であるいは私達カップル・亜紀さんカップルの記念写真を撮った。
 
そして私達は翌日、4日間の連休をほんとに慌ただしく過ごして、それぞれの普段暮らしている町に帰還した。
 
その翌週は私の21歳の誕生日だった。私達はケーキとワインを買ってきて、(私の)自宅でのんびりした夜を過ごした。この日は進平が今日くらいは自分が御飯を作るといって、いろいろメニューを考えていたようだったが、結局はホットプレートを使って焼きそばになった。
 
この誕生日の日から私はブレストフォームを外して実胸で生活するようにした。実胸だと、胸のサイズはBカップが少し余るくらいであったので、少し足りない分はウレタンパッドを入れておいた。進平はサイズが小さくなったのが寂しいなどと言っていたが、私は胸を揉まれる時、ダイレクトな感触になるので気持ち良かった。それにそろそろ夏が近づいてくるので、蒸れやすいブレストフォームは外しておきたいという気持ちもあったのであった。男の子に揉まれると胸って大きくなりやすいらしいよ、と言ったら、しょっちゅうマッサージ?してくれた。
 
その翌週、また椎名君たちとの深夜ドライブで、栃木県の方の温泉に深夜入浴したが、胸のサイズは当然花梨たちに指摘された。
 
「かなりおっぱい小さくなったね」
「えへへ。でも上げ底無しのリアル・バストだから」
「凄いね。半年弱でこれだけ成長したんだ」
「うん。私、ホルモンの利きがいいみたい」
「あと1年くらいしたらかなり大きくなるんじゃない?これなら」
「そうね。今はホントまだ成長期だから」
「ふつうの女の子なら、小学5〜6年生くらいの状態か」
「たぶん」
「外したブレストフォーム、彼氏をびっくりさせるのに使いたい人に貸します」
「貸して〜」と麻耶。
ということで、私は麻耶にブレストフォームの貼り付け方を説明した。
 
進平のご両親(+付き添いで大阪の亜紀さんとその彼氏)が5月の下旬に私の実家に挨拶に来てくれた。こちらも風史兄が都合を付けて窓歌さんと一緒に来てくれて母が仕出しを取って10人で会食して、両方の家の親睦を・・・などということをした。
 
進平のお母さんとうちの母は比較的似た性格だよなと思っていたが(ふたりともとにかくノリが良い)、きちんとした挨拶が終わった途端、あっという間に打ち解けてしまっていた。また、窓歌さんと亜紀さんが同い年であったことから、なんだか仲良くなっていた。同じ大阪在住なので連絡を取り合いましょうなどと言っていた。亜紀さんたちはこの時はじめて私の性別のことを知ったようであったが、これだけ女らしければ問題無しと笑っていた。
 
「私は実は進平自身がひょっとして性転換したりしないだろうかと思ってた時期もあったし、そういう進平が性転換した人と結婚するというのは、面白いね」
などと言う。
 
「進平って、よく中学生の頃とか、同級生の女の子に頼まれてラブレターの代筆してたんだよ。私、添削してくれと言われてよく見てたけどさ、ほんとに女の子が書くような文章を、女の子みたいな可愛い字で書くんだもん。この子実は女の子の心持ってるんじゃないかと思ったりした」
「へー、でもそれは才能ですね」
と私は答える。出会い系サイトの返信がいまやベテランとなった私から見ても進平の書いてた文章はやはりうまかったと思ったりもしていたが、元々そんなこともしていたのかと私は納得する。進平は少し照れていた。
 
「孫は私が5〜6人産むから大丈夫だよ、お母ちゃん」と言ったら智和さんが「え、5〜6人?」などといって焦っている。
「育てきれなくなったら、2〜3人、ハルちゃんとこに押しつけるかな」
などとも言う。
「その時はしっかり子育てしてね」
「はい、頑張ります」
 

7月、夏休みに入ってすぐに、私はタイに行き性転換手術を受けた。
 
その後1ヶ月くらいは静養が必要だったので、その間はずっと進平が買い物したり御飯を作ってくれたりもして、面倒を見てくれた。
 
出会い系サイトの方は、私にそんなに長期間休まれると困ると店長が言い(何せ常時メールのやりとりをしている男性会員が50人以上いる)、本来はあの事務所でしかメールの送受信ができないようにしてあるシステムを少し改造して、私の自宅でも処理できるようにしてくれた。技術的には私の自宅に置いた専用端末をVPNで接続したもので、要するに私の自宅があの会社の支店扱いになったようであるが、私はその端末で毎日せっせとメールの返信作業をしていた。専用端末にはセキュリティケーブルを取り付け、その鍵は店長だけが持っていた。ハードディスクパスワードも設定し、またUSB・PCMCIAなどの端子は全部殺してあった。もし火事や地震で避難する場合は可能ならハンマーで叩いて破壊して欲しいと言われていた。
 
私は外出も出来ないので毎日朝から晩まで返事を書いていたが、ほんとに気分が悪い時は進平が代理で私のIDでログインし返事を代筆してくれることもあった。結果的には、私は7〜8月の稼ぎだけで、性転換手術の費用をまかなえてしまった。
 
そして結局はこの手術の後、私達は完全に同棲状態になってしまった。
 
進平は手術後にずっと私のそばにいて面倒を見てくれたので、自分のアパートにいないから借りておくのもったいないといって向こうは解約し、荷物を全部こちらに持ち込んだ。とはいってもそれ以前から彼の荷物はほとんどこちらに来ていたのだが。駐車場もこちらのアパートの近くに借り直した。
 
手術の跡はホントに痛くて最初の頃、かなりの苦痛に耐えていたのだが、そういう私を心配して、店長が知り合い(正確には友人の友人の友人くらい)のヒーラーさんを自宅まで連れてきてくれた。中村さんと言って、性転換手術や腎臓移植手術・心臓移植手術・骨髄移植など、大きな手術を受けた人のヒーリングを過去に多数手がけた人ということだったが、まだ27〜28歳くらいかな?と思う若い女性だった。店長の弁では日本で五指に入る実力派のヒーラーさんで、過去には骨髄移植の後の状態が悪く死にかけていた人を回復させたこともあるなどと言っていた。店長は色々と不思議な人脈を持っているようであった。
 
彼女は部屋でインセンスを焚きながら、足ツボなどを押さえたり身体のあちこちに鍼を打ったりしてくれたが、もうひとつ、とても大事なことを教えてくれた。
 
「移植手術などもそうなのですが、この手の手術で痕が痛むひとつの原因は、新しい自分の臓器を自分の心がきちんと受け入れてないことにあることが多いのです。あなたも新しいヴァギナが、実はずっと前から自分に存在していたかのように思ってみましょう。それがちゃんとふつうに自分の身体の一部であることを受け入れることができると、それだけで痛みはぐっと減るはずです。逆にこれが自分に本来無かった物と思っていると、免疫システムが異物と認識して排除しようと攻撃するので、最悪壊死しちゃう可能性もあります」
 
「心に受け入れるって、もしかして洋服の着こなしに似た感じですか?」
 
「そうです。それに似ています。しばしば女装に慣れていない男性が女物の服を着ると、ものすごく変な感じになりますが、あれは女装している自分をちゃんと心に受け入れてないからなんですよね。あなたを見た時に、私は最初この人、生まれながらの女性なのでは?と一瞬思ってしまいましたが、あなたが女性の雰囲気を持っているし、女性の服をちゃんと受け入れて着こなしているからだな、と思い至りました。私は過去に性転換手術を受けた人を5人ヒーリングしましたが、今までの中であなたは最高に雰囲気が女性らしいです。あなたが女物の服を心に受け入れているのと同様に、ヴァギナを自分のものとして心にしっかり受け入れてみましょう」
 
彼女のヒーリング・セッションを私は8月だけで合計5回受けたのだが、その度に痛みが軽減していったし、ダイレーション(ヴァギナが縮まないように特殊な棒を挿入して広さを確保すること)が全然苦痛でなくなっていった。その後9〜10月は月2回、11月以降は月に1回のペースで継続してもらった。
 
また彼女に言われた通り、私は自分のヴァギナが生まれた時から自分に備わっていたかのように、自分に暗示を掛けていった。そのことで、ヴァギナの感触が初期の頃とはまるで違うものになっていった。
 
彼女はまた自分のヴァギナの形を頭の中で思い描き、その形に自分のエネルギーが流れていく様子を想像してくださいと言っていた。そして、できたらヴァギナだけでなく、その奥に子宮、更には卵巣もあるように想像してみましょう、などと言っていた。そんなことを言われて毎日寝る前にリラックスした状態でそれを想像していたら、ほんとに自分には卵巣まであるかのような気分になってきた。
 
私は国内の病院で手術後の経過観察をしてもらっていたが、病院の先生も「凄く回復がいいですし、ヴァギナの定着性が素晴らしいですね」と感心していた。先生は10月には「ダイレーションはもう時々でいいですよ。彼とある程度の頻度でセックスをするようになったら、ダイレーション自体しなくてもいいです」
と言った。先生はこれだけ傷が回復してるなら、もう温泉なども入っていいし、コンドームを付けて、(アクロバット的な体位などではなく)普通のセックスなら、してもいいですと言った。
 
私は9月に裁判所に行って、性別変更の申立書の書類をもらってきてすぐに提出した。私の性別変更は10月に認可され、1ヶ月ほどで戸籍や住民票が全部女性に切り替わった。運転免許証や国民健康保険、国民年金などの手続き、大学の学籍簿の登録、なども11月中には全部手続きを済ませた。
 
私は椎名グループの深夜ドライブを7月下旬から9月上旬までお休みしていて、体力が回復してきた9月下旬から再び参加したのだが、温泉などは入浴をパスさせてもらっていた。しかし11月の草津温泉行きで、温泉再デビューを果たした。ただし入浴後にきれいにビデで洗浄するように、心配した進平から言われたので、それは実行した。
 
「はーい。掛け値無し・誤魔化し無しの女体です。ちなみに既に法的にも女性になっております」と私は裸になった姿を花梨たちに見せた。
 
「完璧に女の子になったね・・・・と言いたいところだけど、ハルは1年前から完璧に女の子だったよね」と花梨が笑って言う。
「そうそう。基本は変わってないよね。ずっとハルは女の子なんだから」
と美沙。
「私も違いを見つけきれないなあ。ただバストは1年前より大きくなったね」
と麻耶。
 
「そ、そうね。今Dカップだから。手術のあとヒーリングしてもらった先生に、おっぱいも大きくなる暗示を掛けてもらったら、こちらも成長度が上がった気がする」
「じゃ、そのうちFくらいまで成長したりして」
「うーん。そこまでは無理かも知れないけど、なんか自分のおっぱい見るのが楽しい」
「夏はあせもが出来やすいから気をつけようね」と花梨。
「お、巨乳の先輩からのアドバイス」
「気をつける。ありがとう」
 
私の新しい性器を進平は早く試してみたくてたまらない感じであったが、最初手術をした先生からは半年間セックス禁止と言われていたので、お正月に解禁するつもりでいた。しかし国内で経過を見てくれていた先生から10月末には、コンドームを付けて、おとなしいセックスならしてもいいと言われたので、私達は11月の初旬、性転換後はじめてのセックスをした。
 
なにせ私も初体験だし、かなり不安があったが、私達はうまく結合することができた。
 
入れる前に彼は私のクリトリスをかなり揉んでくれた。その感覚自体が凄く新鮮だったが、それで私は濡れてしまった。私は人工のヴァギナは濡れないからローションが必要と聞いていたので用意していたのだが、こんなに濡れたら多分不要と思ったら実際そのままスムーズにインサートすることができた。
 
彼は物凄く嬉しそうにしていて、かなり短時間で到達した。私も凄く気持ち良かったし、彼が到達したというのがこんなによく分かるのかというのは発見だった。彼は到達した瞬間感激してよく分からないことばを叫んでいたが、私も彼が到達した瞬間、ちょっと感激して涙が出て来た。私達はその後、しばらくそのまま、つながったままの状態で、優しく抱き合っていた。
 
彼は2回目もやりたがっていたが、病院の先生からは当面は1晩に1回だけと言われていたので、2度目は以前と同じようにSを使ってした。しかしVの感覚を味わってしまうとSは少し物足りないようだった。「いっそA使う?」と言ったら、それでもいい、と進平がいうので私達は交際後はじめてAも使った。Vに比べると、私自身の快感は微妙だったが、彼は結構満足していたようだった。
「こんなに気持ちいいなら、ハルちゃんが性転換する前でも使えば良かったな」
などと彼は言っていた。
 
その後年内は私達は1回だけVを使ったら2回戦目以降はAを使って楽しんでいた。しかし年末頃には私自身の感触も凄くよくなっていたし、病院の先生に見てもらったのでも状態がとてもいいということだったので、クリスマスイブの夜に、とうとうVで4連戦した。すると彼は「やはりAよりVのほうがずっといいや」
などと言うので、それ以降、再びAは封印することとなった。
 
そして私達は年明けに、双方の親の許可をもらって、とりあえず入籍してしまった。一緒に貴金属店に行き、おそろいのプラチナのマリッジリングを買った。私のリングの分は進平が、彼のリングの分は私がお金を出した。エメラルドのリングを買ったほぼ1年後のことだった。
 
「御免。まだエンゲージリングを買えない。順序が後先になるけど、就職してから必ず買ってあげるから」などと彼は言う。
「いいよ、気長に待つから」と私は笑って答えた。
 
私は今度は苗字が変わったので、またまた免許証その他の書換えに奔走した。大学の学生課の人からは「こないだは性が変わって、今度は姓が変わったんですね」
などと言われた。
 
私達は入籍だけで済ますつもりだったのだが「あんたたち式は?」と双方の親から言われたので、急遽手配をして、神社で式を挙げ、神社に出入りの写真屋さんに記念写真を撮ってもらい、またホテルの部屋を借りて身内だけで会食をした。双方の両親と兄弟(+風史兄の婚約者の窓歌さんと亜紀さんの彼氏の智和さん)が出席してくれた(参列者は私の側が5人、進平側が6人で合計11人。亜紀さんが司会をしてくれた)。本格的な披露宴は大学を卒業してからあらためてすることにした。
 
マリッジリングを付けていたら、さすがにバイト先の「デート対応」はできないかと思ったのだが「夫が忙しくて放置されている若妻というシチュエーションは結構男性が萌えるんだ」と言われて、そういう役を演じることになった。レモンの方は相変わらず18-19歳の女子大生役をこなしているので「私達、演じる年齢が逆転しちゃったね」などと笑った。レモンは普段は24-25歳の雰囲気なのにメイクひとつで19歳の女子大生に見えてしまうから凄い。彼女の実年齢を知る同僚は私と店長のみである。セブンティーンやViVi,CanCamなどは愛読本らしい。
 
2月には風史兄が窓歌さんと結婚式を挙げた。私と進平は「妹夫婦」として式と披露宴に出席したが親戚から「あんたたちの披露宴をまだしてない」と指摘された。
「まだ学生なんで、大学を卒業してから、双方の田舎でそれぞれの親戚の前で披露宴しようかと思っています」と答えておいた。
 
私は就職活動はしないことにした。進平が「三食昼寝付きでいいよ」などと言ってくれたこともあるが、バイト先の店長からも「フルタイムの仕事とか入れられて、こちらをあまりしてくれなくなると困る。何ならマージン少し上げてもいいから」
などと言われたので、その出会い系の方を当面続けていくことにした。そして、就職しないのなら、ということで私は大学院に進学して、あと2年学生をすることにした。私達のクラスの女子では他に莉子も大学院に進学すると言っていた。
 
また大学院に進学するなら2年後には状況が変わっているかもということで教員免許は取ることにし、4年生の6月に出身校で教育実習をしてきた(私の戸籍が既に女性になっているので、学校側も受け入れやすかったようであった)。私を知っている先生達からは「どうせこうなるなら、在学中から女子として通学していてもよかったのに」などと言われた。
 
2年生にGIDの子がいて、戸籍上は男ではあるが女子の制服を着て就学していた。私はその子の相談に乗ってあげて欲しいと言われ、いろいろと話をした。何か困ったことがあった時や、単純に話し相手が欲しい時とかでも気軽に連絡してねと言って、私は彼女に自分の携帯番号を教えておいた。実際その後、時々彼女からは連絡があった。彼女には女声の出し方を教えて欲しいと言われ、教育実習の期間中にかなり指導した。おかげで彼女は教育実習を終える頃には女声で普通の会話ができるようになっていた。
 
進平は3年生の秋頃から盛んに就職活動をしていたが、4年生の夏休み直前に自動車メーカー△△△の東京本社に内々定が決まった。
「自動車だなんて、趣味と仕事が一致するのね」
「うん。でも車買い換えないとやばいかな」
「そうだね。さすがに他のメーカーの車では出勤できないよね・・・あ、それなら進ちゃんのRX-8、私にちょうだいよ」
「そうか。それで俺が新しく△△△の車を通勤用に買えばいんだ」
などと私達は話した。
 
「だけど、どう考えても、俺はハルちゃんの稼ぎを上回れないなあ」などと言うので
「でも10年先まで続けられる仕事でもないし。私の稼ぎは私のお小遣い分と、何かあった時の予備費。基本的には進ちゃんの稼ぎだけで生活して行こうよ」と私は言う。「そうだね。じゃ、そのつもりで頑張るか」と彼は張り切っていた。
「あ、でも・・・・△△△の車買うお金だけ出して」
「いいよ。RX-8を私がそれで買い取るということで。60万くらいでいいかな?」
「えー?それでは新しい車買えないからせめて90万」
「でも元々80万で買った車でしょ」
「そこを愛情査定で」
「仕方ないなあ。じゃ100万」
「おお、感謝、感謝」
(ちなみに椎名君のZは120万、深谷君のインプが60万、高梁君のGT-Rが200万だったらしい。みな多少の傷や事故歴・不具合は気にせず破格値で買っていた。走行距離もGT-R以外は軒並み15万kmを超えていた)
 
椎名君たちとのグループでのドライブは就職活動が忙しくなってきたこともあり、頻度は減ったが、それでも月に1回くらいは続いていた。「みんなが就職したらまた頻度が上げられるかなあ」などと椎名君は言っていた。椎名君と花梨も4年生の夏には婚約し、花梨は左手薬指にダイヤのプラチナリングをはめていた。「金が無いから虫眼鏡で見ないといけないようなダイヤで済まん」などと椎名君は言っていたが、花梨は嬉しそうだった。ふたりは大学を出たらすぐ結婚するんだと言っていた。麻耶と深谷君、美沙と高梁君は、もう少しゆっくりと付き合っていきたいと言っていた。
 
中村さんのヒーリングはその後もずっと毎月1回ずつ受けていたのだが、ある時、彼女はこんなことを言っていた。
「初めてお会いした時に、私、ふつうの男性が女装すると凄く変な感じになってしまって、まさに『女装した男』に見えてしまうという話をしたのですが、最近思うのですが、もしかしたらあなたが初めての女装でも凄く可愛い女の子になってしまったというのは、あなたが元々『女の子』だったからでは?という気がしてきました」
「元々ですか・・・」
 
「そう。だから、あなたが小学生の頃、男の子としてはふつうの容貌だったのに女の子の服を着たとたん美人になっちゃったという話は、元々女の子だから男の子の服を着ると『男装した少女』になっちゃって、男の子としての美の基準とは違うので、誰もそれほど美男子とは思っていなかった。ところが、女の子の服を着たら、本来の性別に戻ることで、美少女になってしまったということなのかも」
 
「あはは・・・そう言われたらそうかもという気がしてきました」
「でも、ほんとにその頃、女の子になりたいとか、思ってなかったんですか?」
「みんなから言われるんですけど、自分ではそう意識してなかったんですよね」
「不思議ですね」
「ひょっとしたら自分でも忘れちゃってる何かがあったのかも知れないですね」
「そうですね」
 

10年後。
 
椎名君たちのグループは各々が仕事で地方に分散してしまい、なかなか気軽に一緒に深夜のドライブという訳にはいかなくなってしまった。椎名君は東京にいたが高梁君はあちこち転勤して最近は名古屋、深谷君は地元の新潟に戻り、私達は金沢の関連会社に長期出向で移動していた。
 
しかし結果的には上信越道−長野道−中央道−東海環状道−東海北陸道−北陸道という「ループ」の路線に全員アクセスできるので、2ヶ月に1度くらい、このループのどこかに集まって、各々の子供まで連れて休日のドライブを楽しんでいた。男の子達4人の団結は固いようであった。なお、椎名君と花梨は予定を少し変えて大学を卒業して1年後の春に結婚したし、深谷君は麻耶と、高梁君は美沙と、そのまま順調に結婚していた。女組4人もずっと仲良くしていた。
 
私達が金沢に転勤になった翌年、亜紀さんたちも大阪から金沢に転勤になり、私達は「味噌汁の冷めない距離」に住むようになって、けっこう双方の家を訪問していっしょに御飯を食べたりもしていた。亜紀さんはこの10年間に双子2組を含めて7人の子供を産んでいた(内5人が金沢に来てから産んだ子)。進平達のお母さんは頻繁に新潟からJRでやってきては孫達と遊んでいた。
 
そして、この亜紀さんの子供7人の内の下の双子2人が私達夫婦に特になついていたので亜紀さんは「お前達、いっそハルさんとこの子供になる?」などと訊いた。その2人が「なる!」などと言ったので、その2人は私達が育てることになった。
 
なお、進平は就職して1年後に私にダイヤのプラチナリングのエンゲージリングを贈ってくれていた。私はマリッジリング、エメラルドのリング、エンゲージリングという3つの指輪を左手薬指に重ねてはめて、記念写真を撮った。
 
また亜紀さんの2人の子供を私達が育てるようになった頃、風史兄の一家(こちらは子供が3人)も高岡に転勤してきていたし、莉子が富山の大学の教官の職を得て、こちらに引っ越して来た。彼女も結婚し2人の子供がいた。
 
わたしたちはしばしば莉子たちも含めて4家族(私達夫婦・亜紀さん夫婦・風史兄夫婦・莉子夫婦)で会って、一緒に食事したり、遊園地に行ったり、夏だと一緒にプールに行ったり、などもしていた。親子総勢20人になるので、ちょっとした団体さんであった。実際団体割引で入場できることもよくあった。
 
なお妃冴は大阪で高校の先生をしていて結婚して子供が3人いた。涼世は大学卒業後都内でプログラマーをしていたのだが、結婚をして主婦になってこの時期は長野在住であった。子供は1人であった。私達4人も年に1度くらい、結果的に全員がいちばん集まりやすい、涼世のいる長野に子連れで集まって、カラオケなどしたりして楽しい時を過ごしていた。(たいてい私が亜紀さんちのエスティマを借りてうちの2人の子を乗せ、富山で莉子たちを拾って長野まで走っていた。妃冴も大阪から車で来ていた)私達女の子4人の団結も固く、ふだんはネットでお互いの日記にコメントしあって楽しんでいた。
 
あの出会い系サイトは私が金沢に来た翌年に残念ながら潰れてしまったが、店長の茂木さんは2年後に再起して、東京と名古屋にわりとまともなレストランをオープンした。その名古屋店の店長には清花が就任した(名古屋は清花の出身地で、彼女は当時、地元に帰って、コンビニの店員などのバイトをしていたのであった)。
 
実はこの会社の設立の時には私も400万だけ出資した。(出資の内訳は清花も400万、茂木さんが1200万で合計2000万の資本金。それで私と清花は20%の株主である)一応取締役にも名前を連ねているが(清花が専務・私が常務)、経営には実質的にタッチしていない。
 
「俺、最初メイド・キャバクラ作るつもりで準備してたんだけどさ、なぜか準備進めている内にまともなレストランになっちまってた」
などと茂木さんは言っていた。
「キャバクラなら私達出資してないよね」と私と清花は言った。
「うん。レモンとミュウミュウが出資してくれたおかげで株式会社にできた。出会い系は個人事業だったからなあ」
「売上年間2億の個人事業も凄いですよ」
「その2割くらいを君たちふたりで稼いでくれていたけどね」
「法律の改定が無かったらまだ続いていたでしょうね」
「政府も思いつきで法律作るよなあ。まあ、引き際だったかも知れないけど」
 
このレストランはウェイトレスさんの制服がメイドさん風で、ちゃんと頭にはホワイトブリムまで付けていたが「お帰りなさいませご主人様」みたいな特殊な言葉は使わないし、オムレツにテーブルで文字を描いたりもしない(オーダーの時に頼めば一応、厨房内で指定の文字は描く)という、基本的には普通のレストランということではあった。しかし、制服が似合うかどうかをウエイトレスさんの採用基準にしていたようであったし、その筋のマニアさんたちの間ではかなり評判になって、ファンサイトもいくつも立ち上がっていた。ウェイトレスさんの給料も通常のファミレスのホールスタッフの給料より結構高めであった。
 
「結局最初の企画の中で生き残ったのは『メイド』だけなんだ?」
 
「そうそう。メイド喫茶になりかけた時期もあったんだけど、最終的に東京店のシェフを引き受けてくれた広田君がうまい飯が食える所が良いって主張してさ。最近の外食産業は、うまいけど高い店と安いけど素人のバイトがチンするだけって店ばかりだったじゃん。ちゃんとした味が出せて高くない店を作りたくなった」
 
東京店・名古屋店とも本格的なレストランで調理を経験していたしっかりしたコックさんを雇い、料理の味にかなりこだわっていた。おかげでメディアにもよく取り上げてもらった。また両店のシェフさん同士は良い意味でのライバル意識を持ってくれていた。メニューは地域の特産食材を使うものなど一部を除きほぼ統一で、双方のシェフさんと茂木社長・清花・私の五者会談で季節毎に決めていたが、実際には東京店と名古屋店で同じメニューでも味が異なるので、両方の食べ比べレポートのような記事が季節毎に毎回ネットには出ていた。
 
ちなみにその東京店シェフの広田さんは学生時代、出会い系サクラを一時期していて、茂木さんとの面識が古くからあったのであった。出会い系サクラをやっていた人の中にはその後様々なジャンルで活動している人がいて、茂木さんは実に広い人脈を持っていたのである。
 
なお美味しいのに値段がファミレスとそんなに変わらない値段に抑えられたのは大手の食材卸業者に茂木さんが個人的なコネを持っていたのも大きかったが、基本的には(怪しくない範囲で)安い食材に徹底的にこだわったことと、農家と直接契約で野菜やお肉などを仕入れるシステムを作ったこともあった。牛肉や豚肉なども牛や豚をまるごと1頭買い上げるし、天災などで生産が充分できなかった場合も、ある程度支払う条件でその代わりふつうに市場に出回る価格よりかなり安く売ってもらっていた。
 
そのあたりも広田さんの意見がかなり入っていた。実際高い食材を使っても安い食材を使ってもそんなに味の違いは無い。調理方法や使う調味料など料理人の腕に関わる部分のほうがずっと大きい、と広田さんも名古屋店のシェフの森本さんも言っていた。御飯なども高い米など使っていないのに「この店は御飯が美味しい」
などと結構書かれていた。この店では炊飯器で御飯を炊いたりはせずちゃんとかまどを使っていたし、パンやうどん、ピザ生地、パスタなども自家製であった。ナンを焼くためのタンドールも設置されていた。
 
私は「金沢店作るから店長やってよ」とずっと言われているのだが、「いつまで金沢にいれるか分からないし」と言って断っている。
「引っ越した時は誰かに引き継いで、また君が引っ越した先に支店を作るから」
などとも口説かれているので、そのうち口説き落とされてしまいそうな気もする。金沢店を作るとしたら頼みたいシェフさんというのも候補者がいて内諾は取れているらしい。
 
実際、進平は「俺達も金沢にいれば子供達を産みの親から引き離さなくて済むし」
などといって、転勤命令が出たら会社を辞めるかもということも言っているので、それを考えると、私も金沢でビジネスをしていいのかもという気もしている。進平は金沢市内の独立系の自動車販売店から誘われているようだった。また、智和さんの方は金沢校の新規開校に伴ってこちらに異動してきたのだが、金沢校が潰れない限りは異動はないらしい。
 
「清花は結婚しないの?」
ある時、子供2人を連れて名古屋の清花の家に行った時、私は訊いた。
「1度離婚経験してるとさ、ダメな男とかすぐ分かっちゃうし、いい男は既に相手いるし」
「でもその気になって探せばいい人見つかるよ」
「面倒くさいもん」
「結局はそれか・・・・でも清花あと4-5年くらいならまだ子供産めるでしょ。今の時期はけっこうチャンスだと思うけどな」
「今から子供か・・・・子供だけ産んでもいいかなあ。結婚せずに」
「うん、それもいいけどね」
「でも可愛いね、晴音の子供たち」
「うん。大変なことも多いけど」
2人の子供はさっきから清花にもなついて、ジュースをもらったりしている。
 
「双子だよね?男女なのに顔が似てる」
「うん、よく似てるよね。こないだ入れ替わられていたのに1時間くらい気付かなかった」
「あはは、漫画みたい」
「弟君がスカート穿きたがっていたから穿かせてあげた、なんて言ってたけどね」
「うーん。さすが、晴音の息子だ。女の子になりたいって言い出したらどうする?」
「それはその時悩む」
「可愛ければ問題無いんじゃない?お姉ちゃんも美人に育ちそうだし、姉弟揃って成人式に振袖着せてあげられるかもよ」
「そんなことになったら産みの親の亜紀さんから何と言われるか・・・・」
「あはは」
 
「でもひょっとしたら、元々そういう子で、晴音母さんの所に来ればそういう自分の生き方を認めてもらえるかもと思って、晴音の子供になりたいって言ったのかもよ」
「うーん。。。。」
「子供って、けっこういろんな事よく考えてるから」
「あ。それは思うことある」
 
「でもこのふたり、顔は似てるけど、性格はけっこう違うのよね。お姉ちゃんはしっかりもので、弟君はちょっと甘えん坊。でも凄く仲良くて。喧嘩してるの見たこと無いし、悪戯した時とか、かばい合うから、ホントはどちらがしたのか、私にも分からないことがある」
 
「そういうのも面白いね」
子供たちの頭を撫でる清花の顔はとても優しい顔をしていた。
 
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【続・サクラな日々】(3)