【夏の日の想い出・新入生の初夏】(2)

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翌6月26日は朝から与論島行きなので6時に家を出て羽田に向かった。政子はお見送りで空港まで付いてきたのだが、「あ、私も与論島まで付いて行こうかな」
などと言い出した。
 
須藤さんが航空券の空きをチェックすると、まだ残席があったので確保。須藤さんが座るはずだった席を政子に譲ってくれて、須藤さんが新たに確保した席に座った。
 
朝9時の便で鹿児島まで行き、与論島行きに乗り継ぐ。与論島行きは1日1便なので、乗り遅れたらアウトである。鹿児島までの景色も良かったが、鹿児島から与論島までの青い海も美しかった。そして与論島はまるで天国の島のようであった。
 
「こんなきれいなところが日本にあったって私知らなかった」と政子。「みんなハワイとかグアムとか行くけど、ここは素晴らしいよね」と須藤さん。
「実は若い頃、私もここで写真集撮ったことあるんだ」
「えー?それは探してみなきゃ」
「ほとんど売れてないから無理だと思うよ」と須藤さんは笑って言った。
 
13時に与論空港に着き、取り敢えずホテルに入って旅の荷物を置くとともに、予め送っておいた、私の衣装の箱を開ける。ホテルは元々ツインのシングルユースで2部屋取っていたので、そのうちのひとつを私と政子で使うことにした。この時期はまだ私と須藤さんは同じ部屋に泊まれるまでの親密感は無かったのである。
 
「わあ、衣装、たくさんありますね」
「水着も大量ね」
「まあ、今日明日は冬ちゃんには着せ替え人形になってもらうから」と須藤さん。「じゃ、私は着せ替えのお手伝いということで」と政子。
「それ助かるかも。私はカメラマンの人と話してること多いと思うから」
 
14時にホテルのレストランで、遅い昼食を兼ねてカメラマンの人と打ち合わせをした。カメラマンさんは新庄幸司さんといって新進の人であるが、NHKの番組にも時々出ていて、私も名前を知っている人であった。
 
「君、顔の作りにしてもボディラインにしても女の子のバランスだね」
と新庄さんは言った。
「あ、それ高校の時の写真部の友人にも言われたことあります」
「僕さ、ニューハーフさんの写真集も何度か取ったことあるけど、みんな美人だけどやはり骨格的に男の子なんだよね。君は骨格が根本的に女の子だよ」
「ケイって骨盤も広いんですよね。赤ちゃん産めるかもよ、なんてからかうんですけど」と政子。
「うんうん、その骨盤なら産めると思う」とマジ顔で新庄さん。
 
新庄さんは、政子にもぜひ写真を撮らせてくれと熱心に言った。カメラマンの魂が絶好の被写体を前に奮い立つんだ、などとも言っていた。
 
「でもマリちゃんとの契約ではそういうのNGだからなあ」と須藤さん
は言ったが、政子があっさりOKを出す。
「撮っても出版しなきゃいいんですよね。私が20歳になるまで」
 
「うーん、確かに。ケイちゃんの写真集も来年18歳のと19歳のをまとめて発売しようかと思ってたのよね。マリちゃんのも来年以降発売すればいいのか」
と須藤さん。
「でも衣装、ケイちゃんの分しか用意してなかったな」
「私とケイはサイズ的に同じ服を共用できますよ」
「あ、そういえばそうだったね」
「それに、私たちお互いが着た下着とかでもそのまま着用するの平気ですから」
「えーっと、その手の発言はあまり人前でしないように」
「あ、大丈夫。僕は、いい写真を撮ること以外には興味無いから」
「じゃ、一緒に撮るかね・・・」
 
私たちはホテルのプールサイド、ビーチ、散歩道などでいろいろな衣装や水着に着換えて撮影をした。新庄さんは私たちを乗せるのがうまく、ひじょうに楽しく撮影をすることができた。この日は19:24が日の入りだったが、夕日が美しかったので、その中でもたくさん写真を撮った。ビデオも同時に動かしている。刻々と変わっていく光の中で、シャッター音が続いた。須藤さんも自分のカメラでけっこう私たちの写真を撮っていたし、撮影している新庄さんの姿までカメラに収めていた。
 
日が落ちてからも少し夜景の中での撮影をしていたが、その日の撮影は20時半で終了となった。
 
夕食の後、いったん須藤さんの部屋に入って3人でお茶など飲みながら話した。
 
私たちは一昨日、ハプニング的にライブハウスで飛び入りで歌ったことも報告しておいた。須藤さんはそういう状況なら構わないと言った。お勘定はいいですからとお店の人から言われたが、報酬を受け取った形になるとまずいのでということでちゃんと払ったということも言うと「うん、その対応でいい」と言う。
「まあ、状況によってはあまり硬いこと言わなくてもいいこともあるけどね。もし疑問がある場合は私に1本電話入れてくれたら、対応を指示するよ」
「ありがとうございます。お願いします」
 
30分ほど話してから、明日は朝早いからそろそろ寝ようかなどということになり、私たちが部屋に戻る時須藤さんが言う。
 
「えーっと、もう避妊具は渡さなくていいね」
「はい。私もう種無しになりましたし。でも避妊具は持ってきてます」
「・・・Aの方で使うの?」
「いえ、お守りなんです。あ・・・私たちAはお互い不可侵領域ということで合意してます」
 
私たちは一緒に寝る時にいつもコンちゃんを1枚、枕元に置いておくのが自分たちのお守りであるというのを説明した。一線を越える時はそれを開封するが、開封しない場合は、気持ち良くなりすぎたらストップのルールであることも。
 
「どのくらいの比率で開封するの?」
「開封したのは2度だけです。高校在学中は1度も開封しませんでした」
「へー。私はてっきり、いつもしてるとばかり思ってた」
 
「私たち、友だちという線を崩したくなかったから」
「でも高校卒業して開封したってことは、もう恋人になったのね。半月前にあなたたちに会った時、ふたりの親密度がもう何も遠慮の要らないものになってるな、と思ったのよね」
「いえ、友だちのままです」と政子。
「私たち、公式見解ではHしたこともないということで」と私。
「いつも一緒には寝るけどセックスはしないよね」と政子。
 
「どうも、あなたたちの関係は、いまいち良く分からないな」
と須藤さんは笑っていた。
 
そして私たちは部屋に戻るとキスして抱き合う。
「3日連続だね」
「冬とならいくらしても飽きない」
「私も」
「でも明日は夜明けと同時に撮影開始だから4時半には起きなくちゃ」
「何もせずに寝ちゃう?」
「ううん。した方が熟睡できるもん」
「じゃ11時までしようよ」
「今夜は1時間早いシンデレラか・・・・」
「グアム時刻なのよ」
 
ふたつのベッドをくっつける。シャワーを浴びて、裸でベッドに入り、抱き合いキスをして、私たちは睦み合った。
 
私たちがレスビアンセックスをするようになったのは翌年の秋からなのだけど、この時期私たちはかなりそれに近いことをしていた気もする。ただお互いにこの時期は「セックスをしている」意識はなくグルーミングに近い感覚だったし、正直恋愛感情は希薄だった。私は性欲自体無かったし、政子も平気で少し気になる男の子のことなど話していた。私たちがいつも一緒だったのは基本的には「仲良しだから」だった。政子とは喧嘩をした記憶が無い。でもそんなことを琴絵に言ったら要するにふたりは恋人じゃなくて枯れた夫婦だったのね、などと言われてしまった。
 
その日の日出は5:34だった。私たちは5時前にホテルを出て東側の海岸に行き、薄明の中から撮影を始め、やがて水平線から太陽が昇ってくるところで動画を撮影した。5台のピデオカメラを同時に回していて、私単独2つ、政子単独2つ、ふたり同時に入るアングル1つという5つの画像を撮る。それと別に新庄さんは私や政子の姿をせわしく普通の一眼レフで撮影していた。
 
やがて普通の明るさまでなると、朝のビーチで、着衣と水着で色々なパターンの撮影。歌ってみてと言われたので、私たちは『All the things she said』
を歌い、ついでにキス。新庄さんが喜んでいたが、須藤さんは
「済みません。今のキスシーンは使わないことにして頂けませんか?」
と言った。
 
「いや、キスの直後のふたりの表情が素晴らしく良かったんだけど」
「・・・・分かりました。じゃ、その直後の表情は使ってもいいです」
 
撮影は島内のあちこちに移動し、14時すぎまで続けられた。お昼は須藤さんが買ってきたサンドイッチとハンバーガーを交替で食べながら、私が食べている間は政子の撮影、政子が食べている間は私の撮影が行われた。新庄さんはおにぎりを食べながら撮影していた。
 
「いい絵が撮れました。ほんと君たちはいい素材だ」
と新庄さんは満足そうだった。この写真集に関しては、NGな写真は差し替えを求めるものの、基本的には新庄さんに写真の選択から構成まで任せる方針であるということだった。
「変にこちらが介入するより、写真家さんのセンスに任せた方がいい作品に仕上がると思うのよね」
と須藤さんは言っていた。
 

私たちは、与論空港16:10の便で那覇に行き、羽田行きに乗り継いで20時に羽田空港に帰着した。政子の自宅には22時頃戻る。私はあり合わせの冷凍挽肉とタマネギを使ってスパゲティ・ミートソースを作り、一緒に食べた。その後でシャワーを浴びて寝室に行き、愛し合った。
 
「これで4日連続」
「でも冬、3月にアパート借りてから、あそこで寝た日って、数えるくらいしか無かったりして」
「そんな気が少ししてたところ。何かここで一緒に寝てる日が多いよね。特に連休明け以降は荷物取りに行ったりしただけだし」
 

翌日からは私が突然新潟まで民謡教室に通うことになったため、政子の家に戻るのは毎晩0時過ぎになった。私は遅くなるし杉並区内のアパートに帰ろうと思っていたのだが、政子は「遅くなってもいいからうちに来て」というので、初日はタクシーで帰宅し、翌日からは大宮駅の近くの駐車場に車を置いておくことにして、それを使って帰宅することにした。
(須藤さんからは東京駅から自宅までのタクシー代相当として5000円もらうことになっていたが、私は駐車場代とガソリン代相当で2500円に変更してもらった)
 
しかし帰ってから政子が最初にいう言葉はだいたい決まっていた。
「冬〜、お腹空いたよ〜」
「はいはい」
 
私は笑うと、それから御飯を作り始め、だいたい1時か2時頃、一緒にとっても遅い晩御飯を食べるのが、その時期の私たちのパターンになっていた。夕食の材料は私がメモを書いて、政子が学校からの帰りに買っておいてくれることになっていた。
 
「しかし私歌手契約しなくて良かったな。毎日新潟まで往復なんて身体がもたないや」
「うん、でも新幹線の中って集中して勉強できるから、これはこれでいいよ。一応グリーン車の指定席だしね。楽チン」
 
「それって経費なんでしょ」
「もちろん。須藤さんはハードなスケジュールで動いてもらってるから座席くらい、楽なのにしておくね、なんて言ってた」
 
「うーん。でも須藤さん、よくお金あるね。だって今の段階で売れてるアーティストひとりもいないのに。こないだ与論島に行った時も少し思ったんだけど」
「新庄さんの報酬だって、数百万だよね。お金はね、たぶん△△社から資金が出てると思う」
「ああ・・・」
 
「甲斐さんが、私たちを獲得するための資金として5000万確保したなんて言ってたでしょ、2月頃」
「うんうん」
「おそらく、その資金の一部を転用してるんじゃないかな。大半はピューリーズのプロモーションに転用したと思うけど」
「確かに最近ピューリーズの宣伝激しいね。受検のための休養前のラストツアーってんで、凄まじい宣伝やってる。あれ凄い広告費だよね」
「うん。で、私たちの活動で出た利益は山分けくらいの約束じゃないかと想像してる」
「そっかー」
 
「だから、須藤さんの宇都宮プロジェクトは、おそらく△△社の別働隊扱いなんだよ。資本金上の関係は無くても」
「そうだったら私も気が楽だな。甲斐さんにはさんざんお世話になったのに、結局須藤さんと契約したからね」
「うん。私もそれは少し心に引っかかってたんだけどね」
 

民謡教室は金曜日がお休みの日なので、7月2日の金曜日、私と政子は午後の講義が終わった後、一緒に不動産会社を訪れた。
 
セキュリティ付きのマンションに引っ越してといわれたものの、その後が強烈に忙しくなって、ゆっくりと探している暇も無くなってしまった。取り敢えず私はネットで探していくつか候補を挙げ、不動産会社に電話して細かい条件などを訊いたり、政子や他の数人の友人に頼んでその近辺の雰囲気をレポートしてもらったりして、かなり候補を絞っていた。最終的に2つ候補が残ったので、この日一緒に実物を見に行くことにしたのであった。
 
「今日は契約なさる御本人さんは、ご都合が悪かったのですか?」と担当者さん。
「えっと、私ですが」
「・・・・・分かりました。失礼しました」
 
「それで、私、普段は『唐本冬子』の通称で生活しているので、その名義で契約できないかと思いまして」
「少しお待ち下さい」
担当者は上司の所に行ったが、やがてその上司と一緒に戻って来た。
 
「えっと、性同一性障害の方ですか?」と支店長の名刺を出したその人は言った。
「はい、そうです」
「最近、そのケースが結構発生しておりまして、確かにその性別で生活なさっているのであれば、どなたかその通称と戸籍名が同一人物であることを保証する人があれば通称での契約は構わないという通達が来ておりまして・・・・でも、あなたの場合は実態的には問題無さそうですね」
 
「1〜2年以内には戸籍上の性別と氏名も変更する予定ですので」と私。「一応学生証はその名前で作ってもらっています」といって大学の学生証を見せる。
「おお、性別も女で登録されているんですね」
「ええ」
「では契約の時に運転免許証か何かと一緒にコピーを取らせていただけますか?」
「はい」
 
「念のため、これを母に書いてもらいました」
と言って、私は『通称・唐本冬子は本名・唐本冬彦と同一人物です』旨の母の署名捺印付きの書類を見せた。
 
「はい、こういうものも用意してくださったのでしたら、全然問題無いです。しかし、あなたは実際問題として女性にしか見えませんね」
 
結局、その支店長さんも付き添って、候補にしているマンションに行ってみることになった。
 
ひとつのマンションは駅のそばにあって3LDK、家賃56万円ということであった。もうひとつは駅から歩いて5分ほど掛かるものの4LDKで家賃47万円であった。
 
「うーん。。。どちらも何となくピンと来ないです」と政子。
「あの・・・・赤い煉瓦貼りで、屋上の形がこんな風になってるマンションとかありませんか?」
といって政子はメモ帳にボールペンで簡単な絵を描いてみせた。
 
「あ、それはもしかして、あそこのマンションかも」と担当者さん。
「でも空き室があったかな・・・ちょっと問い合わせてみます」
 
ということで担当さんがお店に電話して確認してもらった所、先月末(つまり一昨日)で1部屋空いたばかりだということであった。
「今改装中、というか改装準備中で、今月20日以降でしたら入居可能です」
「見せて下さい」
 
連れて行ってもらうと、政子が「ああ、ここ良い」と言った。
「以前ここを見られたことあるんですか?」
「いえ、さっき突然、あのヴィジョンがひらめいたんです」
「へー」
 
まだ前の入居者が出たばかりでお見苦しいところがあるかも知れませんが、とは言われたものの、中を見せてもらった。エレベータで上り部屋に入る。
「あ・・・・」
「どうかした?冬」と政子
「なんか、ここ好き」
「ね、いいよね」
 
「ここはごらんの通り4LDKにウォークインクローゼット付きで広いのがいいですね。ただ、駅から少し距離があるのと少し古いのが難なのですが、お家賃は共益費・管理費こみで42万円です。この広さでこの家賃ですからお値段的にはお得だと思います。駐車場をお使いになる場合は月3万円が別途掛かります。現在駐車場には空きがあります。一応セキュリティは2年前に最新システムに交換しています。またキッチンはアイランド型に改装する予定だったのですが・・・アイランド型でいいでしょうか?」
「ここにします。キッチンはアイランド型嬉しいです。友人を呼ぶこと多いと思うので、調理しながらおしゃべりできますし」
 
ということで、お店に戻って契約を済ませた。家賃引落し用の口座を登録するので私が通帳を取り出すと
「ああ、銀行の口座も冬子さん名義なんですね」
「クレカもです」と私は笑って答える。
「冬彦名義のって運転免許証とか健康保険証くらいだよね」と政子。
 
「あの・・・つい聞きそびれてしまったのですが、お姉様ですか?」
「いえ、内縁関係です。女同士ですけど」と政子。
私は咳き込んだ。
 
「おお、そうでしたか」
「一緒に暮らすことにしたので」
「それは、おめでとうございます」
 
20日に鍵と暗証番号を渡してもらうことになった。引越業者にもすぐ手配をして28日にやってもらうことになった。政子が20日過ぎたら休憩などに使いたいというので、布団1セットと一部の調理器具、折りたたみの小型テーブル、筆記具、辞書類などを20日に自分の車で運び込むことにした。電話回線はすぐADSLの契約をした。そしてエレクトーンを政子の家からまた移動するのに専門の輸送業者を手配しようとしたのだが・・・・
 
「ねえ、冬、私の家にいること多いでしょ?今のエレクトーンはうちに置いておかない?」
「でもたぶん、創作活動は向こうでやることの方が多いと思うんだよね」
「だから、もう1台買えばいいじゃん」
「!!」
 
ということで、私はエレクトーンをもう1台買うことにした。昨年買って現在政子の家に置かせてもらっているのがSTAGEAスタンダードモデルの ELS-01(U) なのだが、今度買うことにしたのはプロフェッショナルモデルの ELS-01X(U) である。通っている教室の販売担当の人に連絡したところ、引越の前日の27日に納入してもらえることになった。
 
今住んでいる(?)アパートの方は7月いっぱいで解約することにした。マンションの方と同じ不動産屋さんの別の支店の契約なのだが、仕事の都合でセキュリティ付きの所に移動しなければならなくなったのでと言ったら、チェーン店で別の物件を契約なさったのでしたら違約金は不要ですよ、と言ってもらった。また、この部屋はほんとにほとんど使っていなかったため、敷金もほぼ全額戻って来た。
 
また政子のリクエストで、新居にはダブルベッドを入れることにした。また、政子の家のほうも、政子の部屋にあったベッドを来客用の寝室としている部屋に移動し、新たにダブルベッドを買って、政子の部屋に入れた。また政子がふわふわしたのがいいな、というので両方ともエアーベッドを敷いてみた。
 
新しいマンションは駅からは10分掛かるものの、学校には徒歩5分で行けるため、通学の便はよくなり、また結果的に友人のたまり場となることにもなった。しかし21階なので地上の騒音はほとんど感じなかった。政子などは鍵も持っているので、しばしば休講の時間に勝手にここに来て休んでいたりしていた。須藤さんは一応、家族(結果的には父)以外の男性をこのマンションには入れないよう要請した。写真を撮られて恋人か?などと報道されたりすると面倒だからということであった。またここには盗聴器の検出システムを入れた。
(政子の家と私の車にも同様のシステムを設置した)
 

7月31日土曜日の朝、政子、仁恵、琴絵、の3人が私のマンションに集合した。6月の政子の誕生日に私たちは翌月温泉に行こうという約束をしたのだが、その後、7月は私の新潟通いにローズクォーツの新曲録音などが続いて、下旬まで全く時間が取れず、そのあと引越もあったので、結局約束の月のギリギリになってしまった。礼美は例によってバイトで来れず、小春は長崎の実家に帰省していて不在、ということで4人だけでの温泉行きになった。
 
「3日前に引っ越してきたばかりだからね。実は引越の段ボールは奥の部屋に全部放り込んである。洋服取り出すのとか大変で」と私。
「部屋数いくつあるの?」
「このLDKのほかに洋室2つと和室2つ。それにウォークインクローゼット。洋室のひとつを寝室、ひとつを本やCDを置く部屋にする予定。和室2つは来客用寝室かな、と」
「子供ができたら、和室が子供部屋になるのかな」
「できないって」
「いや、冬はそのうち子供を産みそうな気がして」
「だって子宮ないのに!」
「私が自分の子供産み終わった後でよければ、私の卵巣1個と子宮を冬にあげようか?血液型は同じだしね」などと政子。
「そんな漫画みたいな話」
「いや20年後くらいの医療技術なら分からないよ」
 
「でもとりあえず引越の荷物が、書斎になる予定の部屋にあふれてるのよね。冬が忙しいから、片付け頼むっていわれてて、なかなか大変」と政子。
「ああ、お疲れ様」
「そうだ、コトも仁恵も、もしこちらに結構出てくるなら、ふたりの専用ロッカーとか置いておこうか?着替えとか少し置いておくとお泊まりの時楽だし」
「あ、それ便利かも」
 
「でもアイランド・キッチン、格好いいね」
「うん。でも散らかってたら目立つから、常にきちんとしてないといけないの」
「ああ、私には無理だな」と琴絵。
 
「わあ、Xがある。弾いていい?」とリビングに置いた ELS-01X に仁恵が目を付けた。
「いいよ」と言うと仁恵はエレクトーンの前に座ってポールモーリアのヒット曲『オリーブの首飾り』を弾き出す。ポップス系に疎い琴絵も「あ、これ知ってる」
と言っていた。
 
仁恵がエレクトーンを弾いている間に、私はローズヒップティーを入れ、ファンの方から頂いたクッキーを出してきた。
「適当につまんでね。食べちゃったらまた何か出してくるし」
 
「ファンからのプレゼントは私の家にまとめて置いてたんだけど、半分くらいこちらに持ってきた」と政子。
 
「なんかこういうマンションに住んでたら、セレブって感じね」と琴絵。
「セレブだと多分もっといい所に住んでるよ。ここ築後20年たってるから、いろいろ微妙な不具合あるし。ネットもADSLしか使えないのよね。光の導入は現在検討中で。それでも家賃払っていけるのかどうか正直不安」
「払っていけるくらい稼げばいいのよ」と政子。
 
私と政子はローズ+リリーのCDがいまだに毎月コンスタントに売れ続けているため、その印税で毎月の生活費も大学の授業料も楽に払えていた。しかしここのマンションの家賃を払うには足りなかった。当面は貯金を取り崩していけば払っていけるのだが、家賃を仮にCDの歌唱印税だけでまかなうとしたら、ローズクォーツで年間合計20万枚程度はセールスをあげる必要がある。実際にはその他にラジオの出演料、ライブの収入もあるし、楽曲に関しても、私は作曲印税ももらえるし、CDより率の良いダウンロードでの販売が多ければ恐らく10万枚程度でも行けるとは思ったが、私は正直まだ不安が大きかった。
 
仁恵も演奏を終えてテーブルの方にやって来、おやつを摘む。
「久しぶりに弾いたけど、気持ちいい。私もエレクトーン、実家からアパートに移動しちゃおうかなあ」などと言っている。
「ただアパートとか生で弾くには隣や下の住人に配慮が必要だよね」
「そうそう。実際にはほとんどヘッドホンでの演奏になると思う」
「このマンションは大丈夫なの?」
「かなり防音性は高い。でもさすがに夜中は弾けないから、防音室を入れようかなと思ってる。室内に設置できて、エレクトーンとクラビノーバくらいは入れられるやつ」
「へー」
 
「でも、この春から、冬かなりお金使ってない?」
「そうなのよね。。。脱毛、豊胸、去勢、入学金、授業料、アパートへの引越、このマンションへの引越、それに車買ってエレクトーン買って。700万くらい使ってしまった」
「きゃー」
 
「まあ、ヒット曲出せなくて、ここの家賃とかも払えない状況になったら歌手辞めてここも引き払って、安いアパートに住んでコンビニのバイトでもしながら学校行くかなあ」
「アパート借りなくても、私の家で暮らせばいいよ」と政子。
「あ、そうさせてもらうかも。政子が結婚するまでは」
「結婚した後は、家政婦で雇ってあげる」
 
「あ、それいいかもね。冬って料理得意だし」と仁恵。
「家政婦兼愛人だよね」と琴絵。
「うーん」
 
「実際、4月からずっと、冬が仕事で徹夜になったりする時以外は、ほぼ毎日、御飯作ってもらってるのよねー」と政子。
「たまに冬が帰って来ない日はカップ麺とか冬がストックしてくれてる冷凍の料理食べて飢えをしのいでる」
「まあ、シチューとか、ロールキャベツとか、いつでもチンすれば食べられるようにしてるから」と私。
 
「ほんとに同棲してるんだ」と琴絵。
「じゃ、そもそもマンション借りる必要無かったりして」と仁恵。
 
「いや、レスビアン疑惑があるから、実態がどうかは別として一応住居は別にしてくれと須藤さんからは言われてるのよね」
「疑惑というよりね・・・・」と琴絵と仁恵は顔を見合わせている。
 
「あまり勝手に想像しないように」と私は笑って言う。
 
「だけどここ冬たちの学校からすぐだよね」
「うん。歩いて5分くらいだよね。それでも21階だから、騒音はほとんど無いし」
「私、講義が休講になった時、ここに来て休んでる」
「へー。あっ。てことは、もしかして政子、ここの鍵持ってるの?」
「当然」と政子。
 
「須藤さんも、男子禁制にするんじゃなくて政子禁制にすべきだったかも」と仁恵。
 
私は苦笑いしてから言う。
「ここだけの話、須藤さんも私たちのレスビアン疑惑に関しては半ば意図的に放置している気もする」
「あ、私もそう思う」と政子。
「実態はただの友だちなのにね」と付け加えると、琴絵から「ダウト!」と言われた。
 

しばらくのんびりとした時間を過ごしてから、11時頃出発した。
「新車?」
「中古車だよ」
「へー。でもきれいだよね」
「前のオーナーが実質ほとんど乗ってなかったみたい。5年前のモデルなのに、距離計が6000kmしか無かったもん」
「よく分からない」
「買ってから1ヶ月半で既に2000km走ってるよ」
「わっ」
「けっこう深夜のドライブとかもしたからね」と政子。
「なるほどね。じゃ、今私たちが座ってるこの後部座席が普段はふたりの愛の巣なのね」と琴絵。
「いや、そんなことは・・・・・」
「してないの?」
「一度したけど」
「やはり」
 
途中所沢近くの和食屋さんでお昼を食べてから、私は車を埼玉県の山奥にある温泉へと進めた。温泉旅館付属の駐車場(というより旅館の前の雑木林を切って駐車場と主張してみた感じの場所)に駐め、旅館にチェックインした。まずは部屋に入ってくつろぐ。
 
「でも先月下旬から今月に掛けて無茶苦茶忙しかったみたいだけど、今日明日は休めたのね」
「それがね・・・私が今度組むことになったクォーツというバンドのメンバーが全員昼間の仕事持っていて兼業なもんで、まとまって動けないのよ」
「あぁ・・・」
 
「一応9月までの暫定給料として3人には月10万円ずつ払ってるんだけど、最初のCDが売れるまでは印税も入ってこないし。今の時点では須藤さんも専業になってくれとは言えない感じ。3日に発売する最初のシングルがどのくらい売れるか次第だね」
「売れるといいね」
 
「でもメンバーが動けないから、まともなキャンペーンも組めないんだよね。クォーツのメンバーが演奏したマイナスワン音源を作って、私だけ全国を飛び回らせる案もあったみたいだけど、それだと、ローズクォーツは実質私のソロプロジェクトでクォーツは私のバックバンドみたいな印象になっちゃうから、それは避けたいというのが、町添さんと須藤さんの意見の一致したところで」
「難しいんだね」
 
「一応全員そろえる日時に関東と関西のショッピングモールでライブとかやる予定だけど、それもあまり回数が取れない。で、私とクォーツの中の誰か最低2人以上で、あちこちのFM局に出ることにはなってるけど、今回けっこう厳しいかもという印象は持ってる。2万ダウンロード行ったら成功かな、なんて話をしてるんだけどね」
 
一息ついてから、みんなで温泉に入りに行く。
「私は冬の下着姿までしか見たこと無いんだよね〜」と琴絵。
「私、去年の夏に一度ヌード見たけど、当時は改造前だったからね」と仁恵。
 
脱衣場でそういう琴絵と仁恵の視線が来ているのを感じながら、私は服を脱いだ。早い時間帯なので脱衣場には他に客がいない。しかし念のため私たちは小声で話した。
 
「おお、立派な胸だね」と琴絵。
「へへへ。Dカップだよ」
「お股も女の子の形になってる」
「もう、お婿さんには行けないね」
「そんなの行きたくない」
 
「でも去年の夏に冬のヌード見た時も、既にお股には何も付いてなかったんだけどね」と仁恵。
「あれは接着剤を使った偽装工作」と私。
「今年のは?」
「筋力で隠してる」
「やっぱり付いてるんだ」
「その割れ目ちゃんの中に隠してるのよ」と政子。
「だから、絶対それを開けられないのよね」と笑っている。
「しっかり閉じておけるようになるまで結構掛かったよ」と私。
「高校時代に女装を始めて間もない頃に、座ってる時に絶対に膝頭が離れないようにしろって言われて必死で意識していたときと感覚が似てる」
 
「ああ・・・・私、座ってる時の膝頭、けっこう怪しい」と琴絵。
 
「よし、じゃ中に入って冬をくすぐって開門させちゃおう」
「あはは」
 
浴室に入ると、浴室内にも誰も客はいなかった。私たちは身体を洗ってから浴槽に身を沈め・・・・、ほんとにくすぐりごっこを始めた!
 
「ちょっとぉ、冬をくすぐるんじゃないの?」
「こうなったら乱戦よ」
「私逃げだそうかな」
「それは許さん」
 
10分くらいお互いにくすぐりあっていたら少し疲れてきたので、危険な遊びは中止して、ふつうにおしゃべりに転じる。
 
「でも冬、頑張ったね。開門しなかったね」
「だって開門したら通報ものだもん」
「まあ、冬のマンションの浴室でも、こんな感じのことしたんだけどね」と政子。「なるほど。予行演習済みだったのか」と琴絵。
「冬のうちでやった時は2度開門に成功した」
「えー?今のは少しぬるかったのかな?」
「さすがに勘弁して」
「ま、今日のところは許してあげるか」
 
「でも、冬もせっかくここまで改造するんだったら、一気にお嫁に行ける身体にしてもらえば良かったのに」
「それ、姉ちゃんからも政子からも言われた」
「ほんと、中途半端だよね〜、これ。だから責め立ててあげるんだ」と政子。
「その隠してる奴って立つの?」
「立つどころか無反応」と政子。
「なぜ政子が答える?」
 
「もうただの肉塊という感じだよ」と政子。
「じゃ、もうすっきり取っちゃえばいいのに」
「ねー」
「うーん、そのあたりはね。。。。」
「まだ男の子の身体に未練があるの?」
「そんなの無いよ。自分でも邪魔だなと思うし」
「ま、いつまでもそんなもの付けてたら私がスパッと切り落としてあげるよ」
 
「ねぇ、政子、立つかどうか実験してみたいから切り落とす前に冬を一晩貸して」
と琴絵。
「それはダメ。貸しません」
「貸し借りとか。冬ってもしかして政子の所有物?」と仁恵。
「冬の身も心も私のものだから」
「おお」
「じゃ政子の許可さえとれば冬本人の意志は関係無しね」
「当然。でも貸さない」
私はただ笑っていた。
 
しばらく危険な会話をしている内に、他の客がちらほら入ってきたので、私たちは安全な会話に切り替えておしゃべりを続けた。浴室内に設けられた数種類の浴槽を移動しながら結局2時間近く入って、あがった。
 
やがて食事の準備ができましたという案内があり、私たちは1階の広間に行って食事をする。ちょうど団体客が入ってきて少し騒がしくなった。私たちは気にせずに食事をしていたが、やがて団体さんがカラオケを始める。
 
どうも会社の社員旅行か何かのようである。部長さんと言われた人がステージに上がるがいきなり調子の外れた声を出して琴絵が吹き出した。
 
「コトにもあの音が外れてるのが分かるんだ?」
「さすがの私でも分かるよ。下には下がいるもんだなあ」と琴絵は笑っている。「でも楽しそうだね」と仁恵。
私は頷いた。
 
「やはりね、音楽って楽しくなければダメだと思うのよね。究極の音を求めて辛酸30年とかいうのは、私から見ればちょっと方向性が違う気がする。その努力を否定するわけじゃないけどさ。音で楽しむって書いて音楽じゃん」
「確かにね」
「そういう意味では、あの部長さんの歌もありだと思うよ。ま、できたら音は外さないほうがいいけど」
「まあ、本人外すつもりがあって外してる訳じゃないんだろうけどね」
 
「音痴にはね、耳が悪くて伴奏の音の高さをきちんと聴けないタイプと発声が悪くて自分で思ってる音の高さでちゃんと歌えないタイプがいるのよ」
「ああ」
「コトにしてもマーサにしても、発声に難があるタイプで、ふたりとも耳は悪くないと思うのよね。そのタイプの人は練習すれば上達するよ。マーサのここ1年半くらいの上達ぶりって凄いじゃん」
「あの部長さんは?」
「うーん。。。。。音痴以前の問題外かも」
「なんだ」
 
「でもさ、プロの歌手にもその問題外がいるよね」と政子。
「いるね、困ったもんだね」
「なんで、あんなのが売れるんだと」
「だから、あの部長さんの歌があり、なのと同じよ」
「ああ」と3人がひどく納得したような顔をした。
 
「結局ね」と私。
「そういう問題外の歌を歌う歌手でも、譜面通り正確に歌える歌手より、何か輝くものを持っていれば、売れておかしくない気もするわけ」
「うーん。。。」
「その何かってのが、私まだうまく言葉で表現できないんだけどね」
 
私たちはそんな会話をしながら、音もリズムも外しまくりながらも楽しそうに熱唱する部長さんを眺めていた。
 

私たちが食事から戻ると、部屋には布団が敷いてあった。布団は4つ並行に敷かれている。
「えーっと、誰がどこに寝る?」
「私は当然冬の隣」と政子。
「私も冬の隣がいい」と琴絵。
「お、冬、人気だね」と仁恵。
 
「えーっと・・・じゃ、マーサ・私・コトと並べばいいよね」と私。
「じゃ、私コトの隣にしよう」と仁恵。
 
ということで、いちばん奥から、仁恵・琴絵・私・政子の順に並ぶことにした。
 
しばらくおしゃべりしたり、じゃれあったりして、22時頃消灯にした。が、消灯してからも結構おしゃべりは続いた。結局は23時頃眠ってしまった感じだった。
 
夜中、私はふと目が覚めて、喉が渇いた気がしたので廊下の端にある自販機までウーロン茶を買いに行ってきた。自販機の所で飲んでから、部屋に戻る。そして自分の布団に寝ようとした時・・・・何か異変に気付く。
 
私は電気を点けた。
 
「えーっと、お嬢様方、そういう関係だったのかな?」と私は声を掛ける。「あ!」「え?」
 
私の布団の中で政子と琴絵が抱き合っていた。仁恵も騒がしいので起きたようで、そちらを見て
「あんたたち、何やってんの?」
と言う。
 
ふたりは慌てて離れた。
 
「いや、ちょっと遊ぼうと思って侵入して身体が触れたから抱き締めたんだけど、何かふだんと感触が違うから、変だぞと思った所だった」
と政子。
「冗談で侵入して手が触れたら、その後いきなりあそこ触られたから、冬って、実は私にも気があったのかしらと思った」
と琴絵。
 
「おふたりさん、私、ビアンには理解あるけど、するのは今度ふたりだけで泊まった時にでもしようね」
と私は笑って言った。
 
「そっかー。政子とコトって、レズの関係だったのか」と仁恵も笑いながら言った。
 

 
翌8月1日は朝起きてからみんなでまた温泉に入りに行った。さすがに朝からは危険な遊びはしなかった。しかし政子と琴絵は昨夜抱き合ってしまったショックか、お互いを見る時、少し微妙な表情をしていた。
 
「でも私たち、女の子の冬に慣れちゃったから何とも思わないけど、冬は最初女子更衣室とか女湯とかで、女の人の下着姿や裸を見たりした時、何も感じなかったの?」
「うーん。それは感じなかったな。女性の下着見て興奮したりしたこともないし、おっぱい出してる女の人見ても、一種の風景を見ているような感じだった」
「冬って、もしかして最初から心は女の子だったんじゃない?」
「そうかもという気はする」
 
私たちは、そのあと朝食に行ってきてしばしゆっくりした時間を過ごしてから、10時に宿を出発した。
 
関越に乗って南下、高坂SAで休憩して昼食を取る。更に関越を南下して大泉JCTから外環道に乗り、終点まで走ってから一般道を通って京葉道路に乗り、千葉まで走った。千葉に着いたのが2時だったが、私たちはファミレスでおやつを食べてから、琴絵と仁恵をアパートに送り届けた。
 

私と政子はそのあと通りがかりのスーパーで食料を調達した上で一緒に東京に戻り、私のマンションに入った。戻って来たのがもう夕方であった。一緒にお風呂に入り、ベッドに入って愛し合ってから、一息ついて夕飯を作っていた時、政子の携帯に須藤さんから電話が入った。
 
「あ・・・はい、ちょっと待って。ハンズフリーにする」
政子がリビングの棚においてあるハンズフリーのセットに携帯をつなぐ。
 
「冬も一緒なら好都合だわ」と須藤さんは言った。
「実はN*K FMからローズ+リリーの特集をやりたいという話が来てるのよ」
「え?」
 
「政子の方が限定的な活動になっているんで私はあまり気が進まなかったんだけど、町添さんは、結果的にはローズクォーツのプロモーションにもなるはずだということで積極的でね」
「はい」
 
「演奏する曲目は、明るい水, ふたりの愛ランド, その時, 遙かな夢, 甘い蜜, 涙の影, あの街角で, 天使に逢えたら, 影たちの夜, 私にもいつか, 夏祭り, Diamonds, Sweet Memories, カチューシャ日本語版, All the things She said英語版, そして長い道。以上 16曲」
 
「それって・・・・特集というより網羅してますね」
「うん。で、だいたいはCDから音源を取るのだけど、あの街角で, 天使に逢えたら, 影たちの夜, 私にもいつか の4曲はCDが無いんだよね」
「ええ」
「TFMが4月にやった番組の録音を持っているので、使わせてもらえないかと打診したらしいけど、演奏者の許可が無ければ出せない、ということで、結局こちらに話が回ってきた」
「なるほど」
「でもあれをそのまま出すのは気が進まないのよね」
「私も気が進みません」と私。「流すなら録り直しましょうよ」
 
「だよね。それで急な話で申し訳ないけど、時間の取れる時でいいから録音させてもらえない?」
「私はいいですけど、マーサは?」
「いいよ。明日でもいいよ」と政子。
「ありがとう。じゃスタジオを確保して、ミュージシャン手配して連絡する」
「はい」
 
須藤さんからの電話は20分後にあった。
「明日朝8時から★★スタジオの麒麟スタで」
「了解です。いつもの∴∴スタジオじゃないんですね」
「そ。今回★★レコードが全面的にバックアップしてくれるから。ミュージシャンも町添さんが手配してくれる。実はまだ誰が来るのか分からない。一応構成は、ギター・ベース・ドラムス・管楽器・ヴァイオリン・キーボードの6人というのを要求している。管楽器はサックスは絶対吹けることで他にフルートまたはリリコンができること」
 
「4月に公開した4曲、その構成でちょっとアレンジし直しますね」
「ありがとう。頼む。それとね、向こうはトークを交えて2時間楽曲を流し続けるということで15-16曲欲しいということで、さっき言ったラインナップになったんだけど、町添さんがさ、これだとベストアルバムの曲が全部入っているので、それはできれば勘弁してくれと言って。それで、シングルのタイトル曲6曲と4月に公開した新曲4つはどうしても流したいけど、他の曲は少し差し替えてもいいという話なのよ。何か差し替えられるのってあるかな?」
 
「それ私もさっき思ったことでした。興味持ってくれた人がベストアルバムを買ってくれると嬉しいから。それでですね。タイトル曲6曲と新曲4つ以外ですが、『長い道』はやはり残したいんですよね」
「うんうん」
「残りの5曲ですが、CD音源から、『その時』に入ってる『恋に落ちて』、『甘い蜜』に入ってる『せつなくて』(マリ&ケイの作品)と『終わり無き恋』
(ダイアナ・ロスとライオネル・リッチーの Endless Love のカバー,政子の詩)あたりはとりあえず使えると思うのですが」
「ああ、行ける行ける」
 
「それから『あの街角で』ですが、ローズクォーツ版を使ってはいけませんか?」
「ああ、交渉してみる」
「その代わりにですね、未公開曲を出せたらと思うのですが。『ふわふわ気分』
と『恋座流星群』を新録音で」
「なるほど。新録音予定のを1つ既存音源版に変えて、代わりに2つ入れる訳か」
「1日で5曲は行けますよね」
 
「うん。行ける。すると冬の案では流す楽曲は、明るい水, ふたりの愛ランド, その時, 遙かな夢, 甘い蜜, 涙の影, あの街角で, 天使に逢えたら, 影たちの夜, 私にもいつか, 恋に落ちて, せつなくて, 終わり無き恋, ふわふわ気分, 恋座流星群, 長い道、以上16曲」
「はい」
 
「その内、『あの街角で』はローズクォーツ版を使用して、新録音するのが、天使に逢えたら, 影たちの夜, 私にもいつか, ふわふわ気分, 恋座流星群, の5曲」
「そうなります」
「OK。町添さんと話してみる」
 
更に10分ほどしてまた須藤さんから電話がある。
「『あの街角で』のローズクォーツ版を使用する件はOKだって。それから、可能だったら、明るい水とふたりの愛ランドも新録音できないかと言われた」
 
「時間さえあれば、私もその方がいいです。シングル版は私も政子もまだ歌があまりうまくない時期だったし伴奏も打ち込みだったし。ベストアルバム版は伴奏は録り直してますが、歌はそのままだから。どちらかというとアルバム版の歌を差し替えたい気分ですが」
「あ、それで行こう。アルバム版の伴奏はしっかりできてるもん。歌を録るだけなら、明日それも行けるよね」
「ですね」
 

そういう訳で、翌日私たちは朝早くから★★レコードの付属スタジオに出かけて行った。ミュージシャンの人たちは10時に来るということで、それまで私たちは歌録りと、打ち合わせをすることにした。
 
「『明るい水』なんだけどね。今朝町添さんから連絡あって、4月の放送の時に聴いた、ケイのピアノ伴奏で歌ったバージョンが凄く良かったら、その形で音源作れないかと言われた」
「ああ、いいですね。それに良かったらヴァイオリンとフルートもフィーチャーしませんか?」
「そのパートすぐ書ける?」
 
「はい」と言うと、私は『明るい水』の譜面を取り出し、それを見つつ、他の打ち合わせをしながら、五線紙にヴァイオリンパートとフルートパートを5分ほどで書き出した。私が書いている最中に時々須藤さんは「ここはこうした方がいい」などと、譜面を指さしながら指摘するので、それにあわせて修正していく。政子が「ふたりとも何で楽器も使わずにそんなことできるのよ?」などと言っている。
 
そして私はあらためて信号音に合わせてピアノで『明るい水』を演奏した。そのピアノを聴きながら、次に私と政子で『明るい水』を歌う。
 
「OK。ふたりともホントに上手くなったよね。特に政子が2年前とは別人くらいに上達してる」
 
続けて『ふたりの愛ランド』の歌部分を録音した。元々は2年前に3時間で5曲などという録音で最初のCDを作った時のものであり、昨年夏にアルバムを作る時に、私があらためて編曲をして、伴奏部分だけスタジオ・ミュージシャンの人たちに演奏してもらって差し替えたものである。今回はその歌の方を差し替えることにした訳であった。
「最初の版から残るのはテンポだけだね」
と須藤さんは笑って言った。
 
私は昨夜のうちにあらためて調整しておいた、天使に逢えたら, 影たちの夜, 私にもいつか, ふわふわ気分, 恋座流星群 の5つの曲のスコア譜を見せる。(MIDI編集ツールからプリントしているので、MIDIはそのまま伴奏に使える)
 
「うん。これで問題無いと思う。でも『天使に逢えたら』と『影たちの夜』はいづれシングルカットして発売したいね。これクォリティが物凄く高いよ。ひょっとしたら『甘い蜜/涙の影』以上に売れるかも知れない。実はさ、5月にこの曲をラジオで聴いた時、ふたりが一緒に復帰してくれるなら、これを復帰第一段シングルにしようかって思ったのよね」
「わあ」
 
「じゃ、9月に録音する、ローズ+リリーのアルバムに入れますか?」
「この2曲は入れない。もったいない。『私にもいつか』,『ふわふわ気分』,『恋座流星群』はアルバムに入れたい。中核曲になるだろうしね」
「なるほど」
 
「ローズクォーツが早く立ち上がってくれないかなあ・・・そしたら早めにローズ+リリーのシングルも出せるんだけど」
 
町添さんから連絡があり、ミュージシャンさんたちの都合がうまくつかず12時頃になりそうだということであった。
 
「昨日の今日だもんね」
「町添さんは、適当にすぐ動ける人だけで構成したりする人じゃないもん。けっこう実力のある人に無理言って都合つけてもらってるんだと思う」
「妥協が無いですよね、町添部長って」
「私たちは歌だけ録っておきましょ」
 
そういう訳で、私たちは午前中にMIDIデータによる伴奏を聴きながら、今日録る予定の5つの曲の歌を吹き込んだ。
 
11時すぎから、ミュージシャンさんたちが到着しはじめた。町添さんも11時半にやってきたので、午前中に録った『明るい水』と『ふたりの愛ランド』を仮ミクシングしたものを聴いてもらう。(『明るい水』のヴァイオリンとフルートは私のエレクトーンで弾いたものを仮にオンしている)
 
「おお、いい感じだね」と町添さん。
「ヴァイオリンとフルートの音もいいね。この曲にはアコスティックが似合うよ」
「ですね。ちなみにこれは仮にエレクトーンの音で入れてますので、今日来ていただくヴァイオリンと管楽器の方に、あらためて演奏してもらって差し替えようと思っています」
「うんうん。『ふたりの愛ランド』の方は、やはり賑やかな伴奏が似合うね」
「ですね」
 
町添さんはその後、2時間に1回くらいのサイクルでこちらに顔を出してくれた。(スタジオは★★レコード本社の隣のビルにある)
 
12時すぎまでにミュージシャンの人たちが全員集合したので、全員にスコア譜のコピーを配って、まずは録音する楽曲の説明をし、打ち込みデータと午前中に吹き込んだ歌を仮ミクシングした、各5曲の音源を聴いてもらった。
 
「打ち込みは昨夜大急ぎで調整したので単調になってる部分も多々ありますので、あまりとらわれないようにお願いします。あくまで参考にということで」
と私が説明する。
「了解」とギターの小林さん。この人は『その時』の録音にも参加してくれた人である。今日来た時「久しぶり」と言って、私と政子と握手をしてくれた。
 
まずは弦楽器担当の松村さんと、管楽器担当の長谷部さんに『明るい水』のヴァイオリンとフルートのパートを演奏してもらった。長谷部さんはアルト・サックス、トランペット、フルート、クラリネットが吹けるということだった。
 
その後、1曲ずつ録音していく。制作はまず派手なディスコナンバーである『恋座流星群』から始め、フォーク系の『私にもいつか』、小気味良いテンポで歌も楽器パートも追いかけっこが入っている『天使に逢えたら』、少し大人っぽいダンス曲『影たちの夜』、そして最後に、少しアイドルっぽい感じの『ふわふわ気分』と進んだ。
 
『天使に逢えたら』は実は高2の時に書いた作品だが、政子がきちんと音程を取って歌えるようになったため追いかけっこ式歌唱が可能になったのであった。
 
みんなほんとに上手い人たちばかりであったので録音はほんとに順調に進んだ。ミュージシャンさんたちの録音作業が進む中、そちらの指示を須藤さんがしているので、それと並行して私がミキシングルームで、それらの録音の仮ミクシング作業を進めた。それを合間合間に須藤さんや時々来る町添さんに聴いてもらい、若干の録り直しが発生したので、それをまた演奏してもらう。政子はみんなにお茶を入れたり食事の買い出しなどをしたり、パソコンでスコア譜の修正作業をしたりしてくれた。
 
録音作業は23時頃終わり、打ち上げに行った。町添さんが手配して、しゃぶしゃぶのお店に行き、1時間ほど食事をしながら話をした。お店は普段は22時で閉めるのを、私たちの貸し切りとして店を開けてくれていたらしい。町添さんはお店で席につくと盗聴器の探知機をテーブルの下に置いていた。ところがミュージシャンさんのひとりがその探知機のそばにうっかり自分の携帯を置いたら警報が鳴り、慌てていた。
 
「ね、ね、須藤さん、今日録音した曲をCDにして発売しない?」と部長。「そうですね・・・年末くらいなら考えてもいいかなあ」と須藤さん。
 
ずっと後で聞いた所では、須藤さんは実際、『影たちの夜/天使に逢えたら』
はその年の12月くらいなら出してもいいと思っていたらしい。ところがローズクォーツの方で、ヴァーチャル・クリスマス、雅な気持ち、と予定より早めにレコーディングしなければならないものが出て来て、結果的に先延ばししていたところに東日本大震災が起きてあれこれ混乱、タイミングを逸したのだということだった。
 
「だけどふたりとも凄く歌が上手くなってましたね」と小林さん。
「マリは受検勉強やってる最中も自宅に入れたカラオケシステムで毎日歌ってたんです」と私。
「でも今日はなんか凄く刺激になりました」と政子。
「スタジオでの録音作業自体が1年9ヶ月ぶりで、私、正直な所、なしくずし的に引退しちゃおうかなとかも思ってたんですけど、少しだけやる気が出てきました。私、少しちゃんと1度、歌のレッスン受けてみようかな」
「やる気あるなら、いい所紹介するよ」と町添さん。
 
「それと、これは情報流してもらっていいですけど、ローズ+リリーはこの秋から新しいアルバムの制作を始めますので」と町添さん。
「ただ、発売がいつになるか未定なんですよね」と須藤さん。
「物凄く遅くなる可能性もあります。来年の春以降になる可能性も」
 
「随分ゆっくりした制作ですね。それとも色々おとなの事情かな?」
などと小林さんが笑う。
「ところで、ケイちゃん、もしかして性転換した?」
「まだ全部の手術は終わってません。でも7割くらい女の子になりました」
「おお」
「昨日は女の子の友だち数人で温泉行ってきたもんね」と政子。
「おお!!」
 
「私の身体の改造は別に隠してませんから、人に言ってもらっていいです。こないだ私は胸を大きくしたのかってスレッドが2chに出来てましたけど、胸は確かに大きくしました」
「ぜひ水着姿の写真集を」
 
「こないだ撮ったんですけどねー。これもおとなの事情で発売が先になりそうです」と私は笑って言った。
 
この日新録音された音源も利用したローズ+リリー特集は8月29日に放送され大きな反響を呼んだ。4月に公開した新曲4曲に続いて、ここでも新曲が2曲公開されたことで、ファンは沸いた。
 
 
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【夏の日の想い出・新入生の初夏】(2)