【夏の日の想い出・何てったってアイドル】(3)

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この日のスケジュールは15:00のハイライトセブンスターズを皮切りにこのようになっていた。
 
15:30 ゴールデンシックス、16:00 三蔵奈良白衣、16:30 緑のトマト、17:00 槇原愛とシレーナソニカ、17:30 ステラジオ、18:00 小野寺イルザ、18:30 川崎ゆりこ、19:00 貝瀬日南、19:30 XANFUS、20:00 ローズ+リリー、20:30 スイート・ヴァニラズ、21:00 サウザンズ、21:30 パライズム、22:00 バインディング・スクリュー、22:30 スカイヤーズ、
 
最後はスカイヤーズが締めて23時終了である。イベント修了後は、バスを大阪駅、難波駅、三宮駅、京都駅、和歌山駅など主な地域に向けて運行することになっている。うまく連絡のある人は公共交通機関だけで帰ることも可能である。バスは入場の時に帰宅予定先を書いてもらっており、それを集計して運行するので、主催者では観客の7−8割くらいは今夜中に帰宅可能と予測していた。
 

XANFUSの演奏が19:28に終了する。きれいに28分で終わるようにアレンジも作っているが、進行状況に合わせて演奏しながら若干の調整もしている。2分間のインターバルに放送ではCMが流れている。この会場は《夢》《舞》という2つのステージを持っており、交互に使用することで短時間のインターバルで連続して演奏できるようにしている。XANFUSが《夢》を使ったので私たちは《舞》を使用する。
 
ペットボトルの水を飲んで喉を湿らせた上で私たちとスターキッズがお互いに顔を見て頷く。タイムキーパーの人がスタートのプラカードを掲げると同時に酒向さんのドラムスが鳴り響き、七星さんのサックスが甘い旋律を歌う。新曲の『∞の後』である。先日の海外ロケハン(?)の際、ロシアのサンクトペテルブルクで政子が書いた詩に私がリトアニアのホテルで付けた曲を帰国後に再度整理しなおしたものである。
 
ローズ+リリーの基本である和音唱で歌は進行する。それに七星さんのサックスが絡むような旋律を奏でる。Aメロ、Bメロ、サビ、Aメロ、Bメロ、サビ、サビ、Aメロ、サビ、サビ、と演奏してサビをフェイドアウトしていく。そしてピアニッシモになり音が消えてまるで終わったかのような雰囲気。気の早い人が拍手をしかけた所で曲は突然新たなメロディー、Cメロに入る。それを3回繰り返した所で最後はオーケストラヒットで終了である。
 
本当に終わったのかな?と左右を見る客がけっこう出た所で数秒置いてやっと拍手が来た。
 

その後、『恋愛不等辺三角関係』『ガラスの靴』と3月に出したシングルの曲を演奏してから、昨年のアルバムから『月下会話:ムーンライト・トーク』、過去のヒット曲から盛り上がりやすい『影たちの夜』を演奏。そして最後には世界ツアーで紹介した新曲『仮想表面』を演奏して終えた。
 
大きな拍手に応えて笑顔で手を振る。歓声の中、タイムキーパーの人が「放送終了」のプラカードを掲げた。
 

私たちふたりも手伝って大急ぎで撤収する。《夢》ステージの方でスイート・ヴァニラズの演奏が始まる。氷川さんがステージ上に忘れ物が無いか確認した上でサウザンズにバトンタッチする。
 
がそこで樟南さんが言う。
「おい、初代チューニング係」
「はい?」
「俺たちの楽器をチューニングしてくれ」
「了解です!」
 
と私は言って私は彼らのギターやベースのチューニングをした。
 
「今チューニング係はどんな人がしてるんですか?」
「映子(あきこ)ちゃんっていう可愛い可愛い高校生の男の娘だよ」
「男の娘なんですか!?」
 
「今日はたぶん洋子が使えるだろうと思ってたから、連れて来なかった。でもどうも純粋な女の子より男の娘の方が俺たちの感性に合うみたいで、ここのところ3代男の娘のヴァイオリニストにやってもらってる」
 
「なるほどー。樟南さん自身が男の娘になっちゃうのは?」
「俺が女装したら、かなり気持ち悪くなるぞ」
「女装は開き直りですよ」
「どうもそうみたいだな」
 

楽屋に戻ったところで私は千里に電話をしてみた。
 
「貴司が9時に病院に到着したから、私はバトンタッチして私も新幹線で戻って午後1番に合宿に合流した。でもまだ向こうは産まれてないみたい」
「まだ産まれてないんだ!」
 
「凄い苦しんでいる。出てきそうなのに、なかなか出てこないんだよ。促進剤も入れたし、辛いと本人言っているのを励まして歩き回らせたりしてるけど、出てくるには産道の開き方が微妙に足りないんだ。陣痛が2〜3分おきにずっと続いているから、いつ出てくるか分からない状況なんで分娩室に入ったまま。お医者さんも促進剤を入れてもこんなに出てこないのは不思議だなんて言ってる。ずっと点滴しているし、青葉も付いててずっと気を送っているから、奥さんの命の方は心配無いと思うんだけど、赤ちゃんの方がやばいかも知れないから、帝王切開することを今検討中。本来は帝王切開を選択する状況ではないかも知れないけど、もう22時間になるからね」
 
「大変だね!」
「いろいろ手伝ってもらったし、動きがあったらそちらにも連絡入れるよ」
「うん。お大事に」
 
しかし旦那の愛人とその友人が奥さんの出産の心配するって、何だか変だ!
 
なお、矢鳴さんは千里と病院で行き違いになってしまったものの、その後、静岡まで走って福田さんにフリードスパイクを返却して東京に新幹線で戻ったらしい。矢鳴さんは眠ってて済みませんと謝っていたらしいが、ひとりでエルグランドを東京から大阪まで走らせてきたのだから今朝の段階では稼働不能だったろう。
 

政子も心配そうにしているので状況を簡単に説明した。
 
「お産って大変なんだね!」
「いや、この奥さん、生理的なリズムが怪しいらしいんだよ。ずっと生理不順だし、以前結婚していた時にもなかなか妊娠できなくて人工授精までしたけど流産したらしいし。今回も6回目の人工授精でやっと妊娠して、妊娠中も何度も流産の危機があったらしいんだよ」
 
その流産の危機を乗り越えたのも青葉のおかげである。そのことについて青葉は(守秘義務を守って)何も私には話していないが千里が話してくれた。
 
「男の娘ってわけじゃないよね?」
「男の娘はさすがに妊娠しないでしょ」
「あ、そうか。ケイなら分からないけど」
と言ってから政子は
「千里や和実も怪しい気がするけど」
と付け加えた。
 

夢舞メッセの女性用控室。
 
私たちはAYAのゆみ、XANFUSの音羽・光帆、貝瀬日南、小野寺イルザ、川崎ゆりこたちとおしゃべりしながらラストの方の実力派バンドの演奏を聴いていた。最初のほうの出番だったハイライトセブンスターズ、ステラジオなどのメンバーは既に帰っている。
 
お産の方は22時頃になってから《やっと赤ちゃんが出ようとし始めた》という連絡がありホッとしたのだが、ライブの終わりがけに《子宮に戻っちゃった》というメッセージが入り、私は「え〜〜!?」と思う。
 
その間に私はAYAに渡す『I can't Stop』のスコアの作り込みをしていた。私はまるで16歳の鈴鹿美里や17歳の品川ありさなどに渡すかのように可愛く可愛く作り込んでいった。
 
途中で覗き込んでいた川崎ゆりこが
「なんか凄く可愛くできてますねー」
と言う。ゆみも
「私、永遠の17歳ですとか宣言しようかな」
などと言っている。
 
「17歳じゃ車の運転とかできないよ」
「それがまた免許証取り上げられちゃった」
「どうしたの?」
「いやあ、カイエンを大破させちゃって」
「え〜〜〜!?」
「下り坂でブレーキ踏みすぎてさ。ベーパーロックやっちゃって」
「あぁぁ」
 
「それで停まらないから教習所で習った車の側面を崖で擦って停めるというのをやろうとしたのよ。ところが擦る前にそこに激突して。もう廃車以外の選択肢が無い状態。カイエンじゃ無かったら私死んでたかも」
とゆみは説明する。
 
「いや、あれは素人には無理ですよ。プロのドライバーのワザですよ」
とゆりこは言っている。
 
「でも報道とかされてないね」
と日南。
 
「誰も見てなかったし。田舎道だったから、JAF呼んで片付けてもらうまでの間、誰も通り掛からなかったし」
「逆にそういう所で死ぬか大怪我して倒れてたら一週間くらい発見されなかったかも」
「こわーい」
「でもJAF呼ぶのによく電波届いたね」
「通話できるほどまで電波が来ないのよ。でもメールの送受信はできるみたいだったから、井深さんにメールしてJAF呼んでもらった」
「なるほどー」
 
「取り敢えず私は無傷だったんだけど、井深さんが呼んだみたいで救急車も来てて。病院に搬送されたけどレントゲンやMRI撮っても骨とかに異常は出てないということで4時間くらいで解放された」
 
「良かった良かった」
 
「でも高崎さんが凄い怖い顔して来てさ、免許証預かります、と言われて。私のドライブライフは1年で終了」
「ふむふむ」
 
「下り坂でブレーキ踏みすぎるのって危ないんですよ」
などとゆりこは言っている。この子もなかなかの心臓だなと私は思う。
 
「私、そういうのきれいさっぱり忘れててさ。ブレーキ利かなーい。きゃー!って感じだったよ」
とゆみ。
「ちゃんとセカンドやローに落として減速しないといけないんですよ」
とゆりこ。
 
どうも言われたことはちゃんと記憶したようである。
 
「それ高崎さんにも言われたけど、セカンドとか使ったこと無かったのよね〜」
とゆみ。
 
「ゆみちゃん、そのブレーキが利かなくて停まらないー!って気持ちでこの曲歌うといいよ」
などと政子は言っている。
 
「あ、そういえばそんな感じにも読める歌詞だよね、これ」
とゆみは言っていた。
 
なお、ゆみはその場で上島先生に電話して、次のCDを上島先生の曲とマリ&ケイからもらった『停まらない!』をカップリングして出したいと言い、承諾を得た。ゆみは、上島先生の作品をタイトル曲にして、マリ&ケイの作品をc/wにと言っていたのだが、上島先生は「両A面にしなさい」と言ったようである。そしてかなり張り切っていたようであった!恐らくかなり力(りき)の入った作品を書くであろう。プロダクションの担当・井深さんと、★★レコードの担当・富永さんにも了承をもらった。
 

その晩は大阪市内のホテルに泊まった。翌朝まだ阿倍子さんに関する情報が来てないのに気付き千里にメールしてみた。すると、産まれそうで産まれない一進一退の状況が続いていて、名古屋で入院中のお母さんとも連絡を取りつつ、対処方法について議論している最中らしい。
 
「もうそれ帝王切開した方がいいのでは?」
と私は直接音声通話で掛けて千里に訊いてみた。
 
「本人はもうそれでいいと言っているらしいんだけど、名古屋のお母さんから異論が出て。以前阿倍子さん、盲腸の手術の時に急に血圧が下がって死にかけたことがあるらしい。それで手術に凄い不安があるんだって」
 
「でもこのままじゃまずいでしょ?」
「それで札幌に住んでいる貴司の妹の理歌ちゃんが今名古屋に向かっている。入院中のお母さんを連れて大阪に行ってもらって、それで医者が直接お母さんを説得しようという話」
 
「お母さん、何で入院しているの?」
「詳しい病名は聞いてないけど癌らしい。それも先月手術したばかりであまり体力が無いんだ。それで車椅子を借りていくし、看護婦の資格を持っている名古屋市内の知人にお願いして付き添ってもらうことにした」
 
「何か大変だね!」
 

昨日は民放FM局ネットワークの主催でアイドルフェスタ・ロックフェスタが幕張メッセ・夢舞メッセで開かれたのだが、この日は某テレビ局の主催で、集団アイドル・グループアイドルが大集合するイベントが、横浜エリーナで開かれていた。同局はこれを午前10時から16時まで全時間中継する。
 
ここに先日デビューしたばかりのホワイト▽キャッツ、松居さんの金平糖クラブ、などをはじめ、全部で18組の集団アイドル・グループアイドルが出演し20分単位でパフォーマンスをしていく。
 
私たちはレイト・チェックアウトにして昼12時まで滞在していたのでテレビでその最初の方を見ていたのだが、政子が言う。
 
「なんでみんな口パクなの〜?」
 
「まあ、リアルタイムでまともな歌になるほど歌えるメンバーが居ないんだな」
「それで歌手やってるわけ?」
「いや、彼女たちは純粋なアイドルであって、歌手では無いのだよ」
「うむむ」
「ファンと握手するのがお仕事」
「うーん・・・・」
 
「と、こないだ音羽が言ってたよ」
「でも何となく納得した」
 
「でも一部下手でもちゃんと歌うグループもいるよ。Dream Wavesなんかがそうだし。リュークガールズもテレビに出てた頃は口パクだったけど今はもう一切口パク無し。金平糖クラブは最初から口パク禁止」
 
「お、さすが松居さん」
「あそこはリアルでちゃんと歌えるようにするため、日々凄まじい歌のレッスンしているみたいだけどね。それで最低でもちゃんと音程通りに歌えない子は、そもそもステージに出さないし」
 
「出してもらえないんだったら頑張るだろうね」
「でもそれやると、誰も出られなくなる集団アイドルも多いから」
「むむむ」
「メンバーが30人いても50人いても全滅という所は多い」
「日本の歌謡界の将来を憂いたくなる」
「だからこそ松居さんは頑張ってるのさ」
「なるほど」
 
「私なんかもそうだけどさ。彼女も自分の遺伝子を直接残せないから、自分の心の遺伝子を残したいんだと思うんだよ」
 
「そっかー。男の娘ってたいへんね!」
と言ってから
 
「でもケイは私の赤ちゃん産んでね」
と政子は言った。
 

昨夜の事故の話を聞いて、秋風コスモス(社長)が急遽大阪に来て、私たちも一緒に話を聞きたいということだったので、私たちは午後から帰京する予定を延期して大阪に留まった。
 
私たちはホテルの一室で会って話した。コスモスと一緒に紅川会長も来ている。それで状況を説明する。ゆりこが消え入りそうな声で
 
「ほんとに申し訳ありませんでした」
と謝った。
 
「いや。それより誰も怪我が無くて良かったです」
とコスモスは言う。私も紅川さんも頷いている。
 
「車をかなり壊してしまったんですが、元はと言えば私が自分の車のバッテリーを上げてしまったことに端を発しているので、私と醍醐春海で折半して修理代は出しますので」
と私は言ったが
 
「いえ、その修理代はこちらで出します。むしろケイ先生マリ先生の所にも醍醐先生の所にもあらためてお詫びにお伺いしますね」
とコスモスが言い、紅川さんも頷いている。
 
「あ、何かもらえるなら食べ物がいいな」
と政子が言うので
 
「おやつ系がいいですか?お肉やお魚系?」
とコスモスが訊く。
 
「中華料理とかもいいなあ」
「じゃ、今度中華料理の美味しい所にご招待しますよ」
などといった話になっている。
 
「エルミには罰として、これをしてもらう」
と言ってコスモスは自分のスマホの画面を見せる。エルミはゆりこの本名である。
 
「国盗り?何ですか?」
「位置ゲーの草分けみたいなゲームだよ」
「ゲームなんですか?」
「全国各地に行って国盗りボタンを押すと、その地域を制覇したことになる。国は全国600国、更に細分化した空が6000空ある。これを2年以内に全制覇すること」
「それが罰なんですか?」
 
「国や空を制覇するためにはその場所に行かないといけない。たくさん車を使うことになる」
「じゃ、私、まだ運転していいんですか?」
「うん。でも仕事の予定はちゃんとこなさないといけないからね」
「そちらがけっこう大変だったりして」
 
「基本的にはお仕事で全国各地に行った時、空いてる時間を使ってその周辺の地域の国や空を制覇する。短時間に動き回る必要があるから、たくさん道路を走る必要がある。高速もかなり使うことになる。国盗りの空の中には凄い山の中まで入っていかないと盗れない所、半島の結構先の方まで行かないといけない所もある。山道・田舎道にも慣れてもらう」
 
「あはは」
「もちろん国盗りに夢中になりすぎて寝不足でステージに上がったりしたら、懲戒免職ものだから、ステージ絶対優先」
「それは徹底します」
 
「あくまで仕事の合間に出かけて、各地で風景や料理の写真を撮ってブログに上げてもらう。それをお仕事ということにするから、必要なガソリン代、高速代、フェリー代、レンタカー代などは全部会社で出す」
 
「わりと美味しいかも」
「あと多少はぶつけてもいいし、車の修理代も出してあげるけど、他人に怪我させないことと、自分の身体を大破させないように」
「はい」
 
「2年後には間違い無くベテランドライバーになってるよ。エルミ副社長」
「頑張ります!」
と川崎ゆりこ(本名蓮田エルミ)は敬礼した。
 
「んじゃ私からエルちゃんの携帯に招待状送っておこう」
と言ってコスモスは自分のスマホを操作していた。
 
私は確か桃香も国盗りをしてたなと思い起こしていた。
 

細川さんの妹さん、理歌さんが阿倍子さんのお母さんを連れて大阪に到着したのはもうお昼すぎであった。その間、阿倍子さんは産まれそうで産まれないという状況がずっと続いていた。それで医師はお母さんを1時間掛けて説得。それで15時すぎに帝王切開が行われ、(2015.6.28)15:30ジャスト、男の子が誕生した。
 
私たちもゆりことコスモスの話し合いに同席して遅くなったので、大阪にまだ居るついでに病院に行ってみることにした。千里はもう東京に戻って合宿をしているはずだが、理歌さんがいるし、理歌さんにくっつく形でその友人みたいな顔をして青葉も傍にいるようだからと思ったのもある。理歌さんが居なかったら、奥さんが出産している所に旦那の愛人の友人というのは、何ともお邪魔であろう。そして理歌さんは、どうも聞いていると千里の味方っぽいのである。
 
佐良さんの運転するエルグランドが病院の前に着く。ここで降ろしてもらい、佐良さんは車を駐車場に入れる。
 
それで私たちが入って行った時、廊下で千里が看護婦と話しているのに気づく。
 
あれ?千里、東京に帰ったんじゃなかったんだっけ?と思い、私たちはそちらに行ったのだが、千里は看護婦さんにお辞儀をすると、こちらには気づかない様子で近くにあったトイレの中に入って行ってしまった。
 
私は千里がまだこちらに居るのなら、また上に上がってくるだろうと思い、そのまま政子と一緒にエレベータに乗って理歌さんに教えてもらっていた病室のある階まであがる。
 
部屋の中に入ると、阿倍子さんが寝ていて、4月に東京で会った貴司さん、理歌さん、青葉、そして60歳代くらいに見える車椅子の女性とその傍に付いているスモッグを着た女性がいるので、これが阿倍子さんのお母さんと付き添ってくれた看護婦さんかなと思った。
 
「あ、唐本さん、さっき赤ちゃん産まれたんですよ」
と貴司さんが言う。お母さんが「こちらは?」と訊くので、彼が
「阿倍子さんが倒れていたのを発見して病院に連れて行ってくれたんですよ」
と説明すると
「そうでしたか。ありがとうございます」
と御礼をしていた。お母さんは私たちを阿倍子さんの友だちと思っているようであったが言わぬが花なので、そのあたりは曖昧にしておく。
 
青葉はずっと阿倍子さんに気を送り続けてかなり消耗している様子だった。それで「取り敢えず少し寝た方がいい」と私は言い、結局病院に駐めているエルグランドの中で少し仮眠することにした。なお、佐良さんには取り敢えず近くのホテルで休んでもらうことにして私がホテルを押さえ、青葉に伝言を頼んだ。
 
理歌さんが案内してくれて別室にいる赤ちゃんも見てきたが、長時間にわたるお産で心配していたものの、赤ちゃんはとても元気そうで私たちはホッとした。政子は「わあ、可愛い」と言っている。
 
「冬が赤ちゃん産んだら、私可愛がってあげるからね」
などと言っている。
 
病室に戻ってしばらく雑談していたのだが、お産から1時間ほど経った16時半くらい、私たちはそろそろ引き上げようかと思っていた時、突然、阿倍子さんが気分が悪くなったようであった。意識が朦朧として行くようで、貴司さんや理歌さんが呼びかけても反応しない。私はナースコールを押した。看護師が来たが、顔色を見てすぐに医師を呼ぶ。そして血圧・脈拍・体温を計るが、どれもかなり低下している。
 
医師が処置をしているが、医師はかなり焦っているようである。私は疲れているのに申し訳無いとは思ったが駐車場に行って青葉を起こしてきて、再度彼女に気を送り込んでもらった。するとそのおかげもあったか、18時すぎには阿倍子さんも安定した状態に回復した。しかしそれまでの1時間半ほどは病室にかなりの緊張が走っていた。
 
青葉がローズクォーツの数珠を持って何か唱えながら気を送り込んでいて、それが明らかに利いている様子だったので、お母さんは少し落ち着いてから
「すみません。どちらの宗派の方ですか。私、入信します」
などと言っていたが青葉は疲れきった表情の中
 
「うちは勧誘とかはしてないんですよ。御自宅の仏檀や神棚、あるいはどこかのお寺の檀家か神社の氏子になっておられましたら、そちらの寺で念仏なり祝詞でも唱えてきてください。自分とこの神様・仏様を敬うのがいちばん大事ですから」
 
と笑顔で言った。
 

私はこの時になって千里はどうしたんだっけ?と思い至った。それで病室の外に出てロビーから千里に電話してみた。
 
「わあ、阿倍子さん、やばかったのか。でも回復して良かった」
と千里は言う。
「千里、今どこに居るの?」
「え?東京の合宿所だけど」
「え?16時頃こちらに居なかった?」
「私は今日はずっとこちらで練習してるよ。赤ちゃん産まれたってメールを15時半すぎに理歌ちゃんからもらって、おめでとーと返信しておいただけ」
 
「あれ〜?じゃ似た人と間違えたのかな」
「ああ。そうかもね。私くらいの髪の長さの女性はみんな同じ顔に見えたりするみたいだよ」
「あ、それはあるかもね。千里みたいに長くしてる人は少ないもん」
 
そんな会話をしてから病室に戻ると、青葉と理歌さんだけが居た。貴司さんは少し仮眠してくると言って部屋を出て行ったらしい。恐らく待合室にでもいるのだろう。お母さんも空いている病室で休んでいてくださいということになって、病院が用意してくれた近くの病室に移動したらしい。政子はお腹が空いたと言って何か食べるのに出て行ったという。
 

その時、阿倍子さんは唐突に語り始めた。
 
「私、前結婚していた時もなかなか赤ちゃんできなくて。思えば生理の始まった小学6年生頃からずっと生理不順だったんですよね。私の生理って、3ヶ月くらい来ないかと思ったら、2週続けてきたりとか、酷かったんです。『最初の内は乱れるものだよ、その内安定するよ』と言われていたんですけど、全然安定しなくて。以前の結婚の時もそれで不妊治療してタイミング合わせとかやっても、私の生理のサイクル自体が不安定だから、全然タイミングが合わないんですよ。卵胞が成熟しても卵巣の外に出てこなかったり、逆に未成熟の卵胞が排出されたりするらしいんです」
 
「阿倍子さん、確かに生理のサイクルのコントロールが弱いみたい。産褥期間が終わって体力回復してきたら毎日ウォーキングとかするだけでも少しは違うと思いますよ」
と青葉が言う。
 
「ああ、やはり身体を動かすのがいいんですかね」
「マラソンとかエアロビみたいな激しい運動はむしろしない方がいいです。軽いお散歩とか、プールに行って水中ウォーキングとかもいいし」
 
「やってみようかなあ。。。。結局前の結婚も人工授精を何度も失敗してそれが最終的に流産で終わった後、お姑さんとの仲が険悪になってしまって、それで離婚になっちゃったんですよね」
 
理歌さんが言う。
 
「阿倍子さん、うちの母は阿倍子さんのこと、未だに認めてはいないけど、今回のことは凄く心配してましたよ。母子ともに無事だといいねと言ってたし、さっき赤ちゃん産まれたこと報告したら凄く喜んでいて、阿倍子さんに頑張ったね、ゆっくり休んでって言ってあげてと言ってました」
 
「ありがとうございます」
「あれ、きっと孫の顔見たさに今までのこと御免なさいとか言って出てきますよ」
「だったらいいなあ」
 
「そちらお母さんと対立してるの?」
と私は理歌さんに訊いた。
 
「兄貴がこちらにあまり話をしないまま突然阿倍子さんとの結婚を決めたんで母がごねてるんですよ。年上でバツ1というのも気に入らなかったみたい。それで結婚式にもうちの父は出席したんですが、母は参列しませんでした。私も行くなと言われたんですけど、千里さんが自分はさすがに遠慮するけど、私と美姫には出てあげて欲しいと直接私に電話してきたんで、妹と2人、出ることにしたんですよ」
 
ああ、やはり理歌さんは千里派のようだ。この話だとお母さんもそれっぽい。どうもここの家庭は複雑みたいだなと私は思う。私は千里は貴司さんの愛人という立場かと思っていたのだが、これだと「もうひとりの妻」という立場に近いのかもという気がした。
 
「しかもうちの父ったら、披露宴の席で『貴司、緋那さんおめでとう』なんて間違って言っちゃったし」
 
「誰それ?」
「兄貴の前の彼女なんですよ」
「うむむ」
 
「千里さんと緋那さんで数年間にわたって貴司を取り合っていたみたいなんです。そこに私が出てきて横取りして結婚しちゃったような形になったから」
と阿倍子さんは言う。
 
「それで父は兄貴が結婚した相手は千里さんのライバルだった緋那さんだと思い込んでいたらしくて。まあ要するに兄貴が浮気症なのが最大の問題」
と理歌さんは言う。
 
私はこの時、貴司さんって、そのうち更に新しい恋人作って阿倍子さんとも破綻したりしないか?と心配した。
 

「でも貴司と結婚した後、私、夢見たんですよ」
と阿倍子さんが言う。
 
「夢ですか?」
「何か凄く気高い女神様みたいな人が現れて『子供を産みたいか?』と言うんですよね。それで私が『はい』と答えると『だったら取引しないか?』と言うんです」
 
「取引ですか?」
「自分の子供ではない子を1人産んで欲しい。そしたら、自分自身の子供も産めるようにしてやると」
「うーん・・・・」
 
「でも私は答えたんです。私が産むのなら、その子は私の子供ですって」
 
青葉は難しい顔をして考えているようだ。
 
「するとその女神様は微笑んで、だったらその子も含めて私は3人子供を産むことになるだろうと」
 
「なんかちょっと面白い話ですね」
と理歌さんが言った。
 
「実は、今回産んだ子は私の子供じゃないんですよ」
「へ?」
 
「私の卵子と貴司の精子での人工授精がどうしてもうまく行かないんで、生殖細胞を借りたんです。私の卵子と別の人の精子を結合させた受精卵と、貴司の精子と他の人の卵子を結合させた受精卵を一緒に子宮に入れたんです。着床したのは1個だけだったけど、私はたぶん着床したのは、貴司の精子と他の人の卵子を結合させたものだと確信していました」
 
「その卵子って阿倍子さんの従姉妹か誰かのですか?」
と理歌さんが訊く。
 
「私、姉妹も居ないし、女の若い親戚ってのが全然居ないんですよ。実は今回の妊娠成功の前に1度うちの母の卵子でも試してみたんですが、そもそも受精卵が分裂を始めてくれなかったんです。さすがに年齢的に無理だったんだろうなと思いました。結局この卵子を提供してくれた人は誰か私は聞いてないんです」
 
私たちはそのあたりは阿倍子さんもあまり追及されたくない雰囲気だったので、敢えてそれ以上は訊かなかった。しかし私は貴司さんがかなりの浮気症ということで、愛人の誰かに頼んだのではという気がした。一瞬千里の顔が浮かんだものの、千里は卵子は持っていないはずだ。
 
「妊娠が不安定だったのは、中の子供と遺伝子的な共通点が無かったせいかも知れませんね」
と理歌さんが言う。
 
「ええ。でも妊娠中にトラブルが起きる度に『あんたは私の子供なんだからね。ちゃんと私のお腹の中ではおとなしくしてなさい』と中の子供に語りかけていましたよ」
 
「ああ、やはり子供の躾けは胎内からですね」
と青葉が笑顔で言う。
 
「ですです。この子、自分の遺伝子は受け継いでなくても私が産んだ子だもん。戸籍にもちゃんと私の実子として載るはずだし、私可愛がって育てていきます」
と阿倍子さんは言っていた。
 
私たちは微笑んで頷いていた。
 
「そして次は自然妊娠できるかも知れないなあ」
などと彼女は言っていた。
 

貴司さんが仮眠から醒めて20時半頃に病室に戻ってきたので、阿倍子さんも安定しているっぽいし、私と青葉は引き上げることにした。
 
「青葉は今から帰る?」
「もう最終サンダーバード(大阪20:54)には間に合わないんですよ」
「ありゃ。ごめーん。間に合うように帰ってもらえば良かったね」
「いえ、阿倍子さんの容体が心配だったから完全安定するまでは待つつもりでしたから」
 
「そういえば20時すぎくらいから、ずっと阿倍子さんの手を握ってたね」
「実はあの時間帯からやっと使えるようになるエネルギー源があったんですよ。実はあの人、精神的なものだけでなく肉体的なシステムもかなり弱っていたけど20時以降に入れたエネルギーで完全回復したんです」
「へー。時間限定で使えるリソースがあるんだ?」
「まあ、色々複雑な事情があって」
 
「じゃ明日の朝帰る?」
「そうします。さすがに疲れたから夜行バスは辛いし。今夜はネットカフェにでも泊まろうかな」
「いや、私たちもホテル取って休むから青葉も一緒に泊まろうよ。ホテル代は私が出すからさ」
 
などと言っていたところに政子が満腹したような顔をして戻って来る。政子はたこ焼きの包みを抱えていて、わざわざそれを1個病室にも届けてきた。その後、こちらでも開けて「冬も青葉もどぞー」などと言って真っ先に食べ始める。それで今日泊まって明日帰ろうという話をしたのだが
 
「母子ともに安定しているなら、もう用事は無いから、私たちは今から帰ろう」
などと言い出す。
 
「泊まらないの?」
「明日の朝の**テレビにアクアちゃんが出演するのよ。可愛い服を着せられそうで恥ずかしい、なんて言ってたから、どんな服を着せられるのか見なくちゃ」
などと政子は言っている。
 
「誰かに頼んで録画してもらったら?」
「いや、生で見たい」
「分かった。こちらに泊まって明日の朝はホテルのテレビで見ればいいんだよ」
「いや、あの番組は関東ローカルなんだよね」
 

それで政子は佐良さんを電話で呼び出してしまう。彼女はホテルで休んでいたのだが、すぐこちらに来るということであった。政子のわがままに付き合ってもらって申し訳無い!
 
「そうだ、青葉も一緒に東京まで乗って行きなよ」
などと政子は更に言い出す。
 
「私はできたら明日学校に行きたいんですけど」
「朝、間に合うんだっけ?」
 
青葉は時刻を調べている。
 
「6時の月曜朝限定サンダーバードに乗れば8:47に金沢に着いて、高岡は10:04ですね」
と青葉。
 
「それじゃ授業に間に合わないじゃん、東京を朝1番の新幹線に乗った方がよくない?」
と政子は無茶を言う。
「それだと新高岡到着は8:40です。一時間目に遅刻するくらいかな」
「やはり東京まで行った方が早い」
 
北陸新幹線の効果だが、凄いなと私は思った。やはり東京と富山・金沢の距離が物凄く短くなっている。
 
そこに佐良さんが到着する。話を聞いた佐良さんは
「長野経由で行きましょう」
と言った。
 
「あ、なるほど!」
と私と青葉は声をあげた。
 
「高岡経由で東京まで行く方法もありますが、それだとノンストップで走っても10時間かかります。何かあったら、8時から始まる、マリ先生の見たい番組に間に合わないかも知れない。でも中央道から長野に寄って東京までなら8時間半で到達できます。マリ先生が見たい番組にも間に合うし、大宮先生は朝1番の長野発の新幹線に乗ると7:24に新高岡に着きますので、これなら遅刻せずに学校に出られると思います」
 
と佐良さんはカーナビを操作しつつ時刻表も見ながら言う。
 
「よし、それで行こう」
「ノンストップ運転ということは、私と佐良さんの交代で運転ですよね?」
 
「いえ。大阪支社に居るドライバーを呼び出します。その人と交代で運転しますので、ケイ先生は寝ていてください。お疲れになってるケイ先生に運転させたら私が叱られます」
と佐良さん。
 
「うーん。。。また運転できないのか」
 
と私が言うと、青葉が「へ?」という顔をしていた。
 

佐良さんが運転席、最初は青葉が助手席に乗り、私は2列目に座った。政子は真っ先に乗り込むと、エルグランドの3列目に行き、シートベルトは付けた上で横になって寝てしまっている。
 
初めは下道を走り、途中茨木駅に寄ると、そこに連絡を受けてきてくれた、大阪支社の柴田さんという30代の女性が待っていた。営業部所属の名刺を頂いたが、国内A級ライセンスを持っているので、関西方面で急にドライバーが必要になった時に頼むと言われていたらしい。過去に何度か他の人の対応をしたことがあるということであった。
 
それで彼女が助手席に座って青葉は2列目に移動し、再出発。茨木ICから車は名神に乗る。私も青葉も取り敢えず仮眠した。
 
車はそのまま名神・東名を走って小牧JCTから中央道に分岐する。最初は急に呼び出された柴田さんが助手席で仮眠していて名神の養老SAで交代、更に中央道の駒ヶ岳SAでまた佐良さんに交代したようである。岡谷JCTで長野自動車道に入り、更埴JCTで更に上信越道に入る。長野ICで降りて長野駅に行く。駅近くのビジネスホテルの前に付ける。深夜到着ということを言った上で私が宿を取っておいたのである。そのくらいこちらでしておかないと青葉はその辺りの公園で野宿とかしかねない。
 
青葉を降ろしたのが深夜2時すぎくらいであった。
 
彼女が確かにホテルの中に入ってフロントに声を掛けるのを見送ってから私たちは再出発する。今度はドライバーは柴田さんに交代である。佐良さんが助手席に座って休む。
 
「中央道を通ってこのくらいの時間に長野に到達できるんだったら、高岡経由でも2時半くらいにこの付近まで到達できませんでしたかね」
と私は言ってみたのだが
「妙高高原が無ければ到達可能ですけどね」
と佐良さんは言う。
 
「あっそうか!」
「あそこは夜中は絶対濃霧が発生するんで、カーナビが表示する時刻では辿りつけないんですよ」
「そうでした。忘れてました。私もあそこの濃霧は3−4回通ってますよ。いつも霧が出てますね」
「関越を回れば妙高を回避できますが、距離的に遠くなるので1時間近く余分に掛かるんですよ」
「関越トンネルの近くでも濃霧に遭ったことありますよ」
「ええ。あの付近もけっこう霧が出ます」
 
「今日もちょっと小雨模様ですね。軽井沢付近降ってるかなあ」
と柴田さんも運転しながら言っていた。
 

車は長野ICで上信越道の上りに乗り、更埴JCTで関越方面へ走る。果たして関東に近づくにつれ雨脚が強くなってきたような感じであった。
 
「これ軽井沢は絶対道路の条件が悪いよ。疲れが出始めたあたりであそこに突っ込むとやばいから、佐久平PAで交代しようか」
と佐良さんが言う。
「分かりました」
と柴田さん。
 
それで軽井沢に掛かる直前の佐久平PAでドライバーは再度佐良さんに交代する。それで走って行くと、軽井沢付近は濃霧が出ている上に豪雨に近い。
 
「ああ、やはり速度制限が掛かってますね」
と言って佐良さんは60km/h程度までスピードを落としたようである。一応車の流れに合わせて走って行く。
 
それで碓氷軽井沢ICをすぎてすぐの奇岩が立ち並ぶ付近でのことであった。
 
一瞬、車が浮くような感覚がある。
 
私はうとうととしていたのだが、ビクっとして起きる。
 
「今何かありました?」
「済みません。起こさないようにと思って声を出さなかったのですが、大きな水たまりに突っ込んだんですよ」
 
「ハイドロプレーニング現象ってやつですか?」
「少々の水たまりなら、そうですが、今のはそれを越えて、単なる水面滑走でした」
と佐良さんは説明する。
 
「私も一度伊勢自動車道でやったことありますが、あれって何もできることないですね」
と私は言う。
 
「ですです。もう運を天に任せる以外無いです」
と佐良さん。
 
「まあ水たまりにまっすぐ突っ込んだら、まっすぐ通り抜けるだろうという慣性の法則に期待するしかないですね」
と柴田さんも言う。
 
「ですから豪雨の中では無理な追い越しとかしたらいけないんですよ」
「斜めに進行していたらそのまま壁に向かって直進なんてこともありますからね」
 

「取り敢えず少し速度を落とします」
と言って佐良さんは前の車から離されるのも構わず速度を50km/hくらいまで落としたようである。ハイドロプレーニング現象は当然速度が低いほど起きにくい。
 
私はその時急に新しいメロディーが頭の中に流れて来た。何か書くものが無いかなと思ってバッグの中を探すと、病院で待機していた時に政子が買って来た、たこ焼き屋さんの包み紙がある。包み紙を取っておいたというのは、よほど気に入ったのだろうが、私はその紙を借りてそのメロディーを書き留めた。『恋は運まかせ』というタイトルを記入した。たこ焼きの紙を使っているのでずっと昔に蔵田さんと一緒に作った『鯛焼きガール』という曲をふと思い出したりした。
 
車の方は、その後はそういう水面滑走をする羽目にはならず、やがて横川SAのそばを通り過ぎる。そのあたりから霧も晴れ、雨脚も弱くなってきた。私も安心して眠ってしまった。
 
目が覚めた時、ちょうど三芳PAのそばを通り過ぎるところであった。時計を見ると5時である。運転しているのは柴田さんだ。恐らくは高坂SAあたりで交代したのかなと思った。
 
「かなり来ましたね」
「ええ。今日はあまり混んでないのであと2時間程度で到着できると思います」
 

実際には車は6:40頃、恵比寿のマンションに辿り着いた。私はドライバーの2人によくよく御礼を言って別れた。そして政子はテレビを点けてアクアの「可愛い格好」に色々奇声をあげながら楽しそうに見ていた。
 
「女装は嫌ですと言ったらしいのよ。それでこの格好」
「うーん。確かに女装ではない。でも女の子にしか見えない」
 
「やっぱり、かぁいいなぁ」
「ここまで騒がれる男の子アイドルは久しぶりかもね」
「そうそう。男性アイドルはこれまでもたくさん居たんだけどね」
 
近年は女性アイドルのデビュー年齢は低年齢化、男性アイドルのデビュー年齢は高年齢化する傾向があるようである。
 
「ねえ、やっぱりアクアは強制的に去勢しちゃおうよ。男に育ってしまうのもったいないよ」
「本人は男として生きていきたいと思っているからそれはダメ。でも過去には小学生くらいの男の子アイドルが変声期が来てしまうと商品価値が下がるってんで、半ば強引に女性ホルモン打って変声期を遅らせたりした例はあるらしいね」
 
「あ、それいいな。アクアも女性ホルモン投与を」
「それやっちゃうと、男にはならないかも知れないけど、女の子になっちゃうから」
 
「アクアなら女の子になってもいいと思うなあ。実際男の子のままで居られないなら、いっそ女の子になればいいと思うよ」
 
「本人、別に女の子にもなりたくないから」
 
「やはり何とか口説き落として性転換手術の手術台に乗せて。あるいはやはり眠っているうちに麻酔打って病院に運び込んで」
 
「無茶言わない。私なんかは心が女なのに男であることを強要されて凄く苦しかったからさ。心が男であるのに女の子の格好させられるのも不快だと思うよ」
 
「あ、そーか。それはあるよねえ」
と政子は言ってから
 
「じゃ女の子になったら、こんなに楽しいよというのをアクアには教えてあげよう」
などと言っている。
 
全然分かってない!
 
でもまあ本人も結構自分の性別に関しては揺れている感じではあるけどね。彼も今はまだ「男」にはなりたくない。「男の子」というモラトリアムを貪っている。おそらく中学生の内くらいはそれを貪り続けるのだろう。
 
ただ私は彼を見ていて、一般的なMTFの人とは雰囲気が違うので恐らく彼は基本的には心は男の子なのだろうと判断していた。
 
自分は男の子。でも女装も好きという線かな?
 
ん?それってまさか雨宮先生の路線だったりして!?
 
彼には「セックスさせてあげる」なんて女の子はいくらでも寄ってくるだろうからなあ。その気になれば女の子はよりどりみどり。彼が女たらしに育ったりしないことを私は祈った。
 

阿倍子さんは半月も入院して7月中旬に退院した。赤ちゃんの方が先に退院許可が出たのだが、阿倍子さんのお母さんも入院中で貴司さんは日本代表で忙しいし、赤ちゃんの面倒を見られる人がいないので、結局阿倍子さんが退院するまで赤ちゃんも病院に留め置かれることになった。名前は京平と名付けられた。私はその名前に何だかデジュヴを感じたのだが、きっと気のせいだろう。
 
阿倍子さんが入院している間に、千里は合宿を終えて韓国へ旅だった。ユニバーシアードのバスケット競技が7月4-13日に光州で行われたのである。この大会で日本は鞠原江美子・前田彰恵や夢原円、そして千里たちの活躍で4位という立派な成績を納めた。メダルこそ取れなかったものの、バスケットの日本代表がアンダーチームとはいえ世界大会でこれほどの成績を上げたのは快挙であった。
 
恐らくこの中から2020年東京五輪で活躍する選手も出るのであろう。
 

ローズ+リリーは7月1日からアルバム制作作業を本格化させ、この日から年末まで麻布先生のスタジオの一室を6ヶ月間借りきって、ここでスターキッズや曲毎に特に頼んだ伴奏者とともに曲の制作を進めた。
 
この期間は基本的にライブには出ないし、テレビ出演などのお仕事も極力外してもらっている。しかし、活動が表に出ない期間があまり長く続くのも困ると言われて、シングルを1枚発表することにし、その音源制作を先行させた。
 
タイトル曲は先日のロックフェスタで公開した『∞の後』と、そのロックフェスタに行く途中の様々な!できごとの中で発想した『内なる敵』である。
 
彼との楽しい日々。何も不安は無いはずなのに、なぜか心に暗い影を感じる。気のせいだと思おうとしていたのだが、実は敵は意外な所に居て、気がついた時は自分は全てを失っていた。
 
私が書いたメロディーにマリが強烈にショッキングな歌詞を付けてくれてバッドエンドの歌になっている。カップリングする『∞の後』の方が純粋にハッピーな曲なので、どちらを先に聞くかによって随分印象が変わる。氷川さんはかなり悩んだ末『内なる敵』を先頭に置きましょうと言った。『内なる敵』で落ち込んだ人が『∞の後』で救われるはずという意見であった。
 
しかし『内なる敵』に関しては後から千里が「ひっどーい。これ私のことじゃん。だったら私も冬の秘密バラしてやる」などと言っていたのでなかなか怖い。ほとんど知る人のないような話をなぜか千里は知っているのである。千里の人脈も何だかよく分からない感じだ。
 
更にこの2曲の後に『黒と白の事情』というややコミカルな曲を置いた。これは政子がサンクトペテルブルクでバレエの『白鳥の湖』を見て、白鳥のオデットを踊る人が、そのライバルの黒鳥のオディールも踊ること、そして黒鳥の32回転のグランフェッテに引っかけて着想した詩に、私がパリの夜景を見ながら曲を付けたものである。
 
二股している男と、各々自分が唯一の恋人と思っている女2人のやりとりを、男の役を特別出演してくれた、ある若手女性歌手に歌ってもらい、女ふたりを私とマリが歌っている。むろんマリがオデット側で私がオディール側なのだが、歌っていて、貴司さんをめぐる阿倍子さんと千里のことを考えたりもした。この歌では、この三角関係が破綻せずに、何だか3人ともハッピーな状態で続いていくのである。
 
鮎川ゆまからは《3匹目のドジョウ》を狙う『虹を越えて』をもらった。『ファイト!白雪姫』『ガラスの靴』(シンデレラ)に続いて、今回は、オズの魔法使いということのようである。
 
「眠りの森の美女やらないんだっけ?」
「ローズ+リリーは既に『眠れる愛』を歌ってるから」
「そういえばそうだった!」
 
「虹を越えたら性別が変わるんじゃなかったっけ?」
「誰かがそれで男の娘小説書くかもね」
 

今回5曲目には今年度、ローズクォーツの「代理ボーカル」をしてくれているミルクチョコレート(ミルチョ)の2人から『ペパーミントキャンディ』という可愛い曲を頂いた。甘く切ない恋を歌ったものである。
 
「なんか女子高生が歌ってもいいような曲だね」
と私はミルチョの千夜子に言った。
 
「うん。だからこれのPVでは、マリちゃん・ケイちゃんが女子高生っぽい服とメイクで歌うってのは?」
 
「うーん・・・」
と私は一瞬悩んだのだが
 
「はいはいはい!やります」
と政子が楽しそうに答えた。
 

政子はここしばらく作った曲の「仕分けけ」を行った。
 
■ブレーキが利かなくなる現象を体験して書いた『停まらない』はAYAが「これちょうだい」と言って持って行ったのだが、■ハイドロプレーニング現象に遭った時に書いた『恋は運まかせ』を南さんから頼まれたムーン・サークルに、■ニューヨークで書いた『お風呂のブルース』をホワイト▽キャッツに、そして■シーサーの**紛失事件を聞いて書いた『おちんちんが無くなっちゃった』をアクアに渡すと言った。
 
しかしアクアは「この歌は嫌です」と言ってきたので政子は「贅沢言うなあ」と言いながらも代わりに『ボクのコーヒーカップ』を渡してしまった! この曲は醍醐春海(千里)が「まるでケイが書いたかのように」書いた作品である。私がよく使うフレーズが幾つも組み込まれている。彼女はケイの名前で出していいよ、と言っていた。醍醐春海はかなりマリっぽい感じの歌詞も入れていたのだが、歌詞に関してはマリが(千里の許可を取って)全面的に書き直していた。
 
しかしこの曲はとても可愛い作品なのでアクアにはピッタリな感じがした。
 
なお、過去に他の人が書いた曲をマリ&ケイの名前で出したものとしては、和泉が書いた『恋座流星群』、チェリーツインの桃川さんが書いた『ふわふわ気分』の例がある。
 

「ところでムーン・サークルのセレナちゃんとリリスちゃんって、どちらが男の娘だったっけ?」
と唐突に政子は言った。
 
「へ?どちらも女の子じゃないの?」
「あれ?片方は男の娘ですとか言ってなかった?」
「私は知らない。マーサ、誰か他のペアと間違えてるのでは?」
「あれ〜?そうだっけ」
 
と言って政子は考えている。
 
「鈴鹿美里は美里が男の娘だったっけ?」
「逆。男の娘なのは鈴鹿ちゃん。でもどちらが男の娘なのかは非公開だから気をつけて」
「はーい。ミルクチョコレートはどちらが男の娘?」
「ふたりとも女の子だと思うけど」
「あれ〜?」
 
「あ、チェリーツインの双子が片方は男の娘だっけ?」
「あのユニットには1人男の娘が入っているけど、誰かは非公開」
「うむむ」
「でもボーカルの2人は一卵性双生児だから、性別は同じだよ」
「うーん・・・あれ?鈴鹿美里って一卵性双生児じゃないんだっけ?」
「二卵性だよ」
「それにしてはよく似てるよね」
「うん。二卵性でも割と似ている子っているんだよ」
 
「結局、誰が男の娘だっけ?」
「さあ、男の娘の知り合いが多いからマーサがどこと勘違いしているのやら」
 

7月中旬、春に発足したばかりのホワイト▽キャッツから、5人の女子によるピックアップ・ユニット《キャッツ▽ファイブ》が発足することが発表された。浩佳(中3)・鞠枝(中2)・忍布(中1)・栗美(小5)・愛菜(小4)の5人で、つまり本坂伸輔さんの遺児・愛菜ちゃんがここに入れられたのである。私は最初からこのユニットを作るつもりで、この5人は選ばれていたのだろうなと思った。
 
そのキャッツ▽ファイブのデビュー曲を萌枝茜音さんが書いたということで、ちょっと制作現場を覗いてみられませんか?と萌枝さんから誘われたので、政子が「可愛い男の娘の愛菜ちゃんが歌っている所を見たい」というし、一緒に出かけて行った。
 
私たちが行った時、彼女たちはフィンガー5の往年のヒット曲『個人授業』を歌っていた。
 
「この曲とカップリングするんですか?」
「そうです。私が書いた『あなたのピアノ』とカップリングで出します」
 
「やはりファイブというのが、フィンガー5・ジャクソン5・マーメイド5を連想させるネーミングですよね?」
「まあ、そういうこともあるかも知れませんね」
 
「あれ?愛菜ちゃんがメインボーカルなんですか?」
「この5人の中でいちばん上手いんです。小学4年生でこの歌唱力というのは末恐ろしいですよ」
 
「でもいちばん若い子がメインボーカルというのは、過去の○○ファイブのパターンを踏襲していますね」
 
「それができる小学4年生か5年生くらいの女の子を探していたんですよ。本坂さんが亡くなった時のニュース映像の中に、愛菜ちゃんが歌を歌っているシーンがあって、何?この子の凄まじい歌唱力は?と思いましてね」
 
「それでスカウトしたんですか」
「です。だからこの子は本坂さんが世に出したようなものですよ」
 
私と萌枝さんがそんな話をしているそばで、政子は
「やはり男の娘は可愛いなあ」
などと言っている。それに萌枝さんがピクっとした。
 
「マリさん、彼女の性別問題は非公開なので、こういう内輪の制作現場であっても絶対に言及しないで欲しいんですが。誰が聞いているか分かりませんので」
と小声で言った。
 
「ごめんなさーい」
と政子素直に謝る。
 
「しかし松居夜詩子さんが、これ見たら、まるで40年前の自分を見ているかのように思うでしょうね」
「彼女も実はホワイト▽キャッツのスタッフなので、練習風景などは映像を届けていますが、まさにそうおっしゃってました。私はマーメイド5はVTRとかでしか見てないですけどね」
 
「私たちもですけど、映像で見るとほんとに可愛いですよね」
「まあこの子たちはこの年齢が魅力のひとつだから」
 
「でも考えてみたら、女の子アイドルは声変わりがほとんど無いのも営業しやすいのかも知れないですね」
「逆に男の子アイドルは大変なんですよ。マイケル・ジャクソンにしても、フィンガー5の晃にしても、声変わりが大きな転換点になっている」
 
「萌枝さんは女声の出し方はどうですか?」
「なかなか進展しないです。ケイさんが羨ましいです。私がもし男の子アイドルとしてデビューしてて、声変わり遅らせるのに女性ホルモンを飲まない?なんて言われてたら喜んで飲んでいたけどなあ」
 
「それは全ての男の娘の悩みですからね」
 
「まあ声変わりを遅らせたとしても、一定の年齢になったらアイドルは卒業せざるを得なくなる」
 
「それは男女ともそうですけどね」
「アイドルというのは短い旬を楽しむものなんですよ」
と萌枝さんは言った。
 
「特に男の子アイドルの旬は短いんですね」
「ですね」
などと私と萌枝さんが言っていたら、
 
「その短い旬を伸ばす技術が女性ホルモンや去勢なんですね」
などと政子は言った。
 
 
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【夏の日の想い出・何てったってアイドル】(3)