【夏の日の想い出・何てったってアイドル】(1)

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アイドルには主としてソロまたは5〜6人程度以下のユニットで売るケースと多人数のまとめ売りをするケースがある。
 
およそ「アイドル」という言葉が(今の意味で)使われ始めたのは1970年代で、天地真理や「花の中*トリオ」と言われた森昌子・桜田淳子・山口百恵に続き、アグネス・チャン、浅田美代子、大場久美子などがテレビ番組や雑誌などのメディアを通して、大いに売れまくる。そして1980年にデビューした松田聖子を頂点として、それに続く「花の82年組」と呼ばれた小泉今日子・中森明菜・早見優・石川秀美・堀ちえみ・原田知世・松居直美などは各々の強い個性で若い人たちの心を魅了した。
 
一方で集団アイドルの元祖としてはやはり1970年に始まったNHKのステージ101に出演した「ヤング101」を抜きにしては語れない(後継番組レッツゴーヤングではサンデーズを名乗る)。一方でそれに先行して1964年から東京音楽学院の選抜メンバーからなる「スクールメイツ」の活動が始まっており、両者を兼任している人たちも多い。スクールメイツは1970年の大阪万博のオープニング・イベントに出演した時、女子メンバーがテニスルックでボンボンを持って踊るというのをやり、これが好評を博したことから、以後このスタイルが定着した。
 
しかしサンデーズにしても、スクールメイツにしても、あくまで集団のパフォーマンスであり、そこをステップとしてソロデビューした人も多いものの、集団で出演している時に個々のメンバーにスポットライトが当たる機会は少なかった。
 
集団ではあるものの個々の個性も出させるという演出をしたものとして1977年に「欽ちゃんのドンとやってみよう!」に出演した「欽ドン劇団」は先駆的である。実質素人の集団ではあったものの、気仙沼ちゃんや小柳みゆき(後の小柳友貴美)・西山浩二らの演技はお茶の間の人気を呼んだ。
 
そして1985年に「夕焼けニャンニャン」が始まると、そこに出演したおニャン子クラブの面々は、中には元々タレントとしての訓練を受けている子もいたもののほぼ素人という子も混じっていて、それらの子が「会員番号」をもらって各々の個性を前面に出したパフォーマンスをすることで人気が出た。
 
更に1998年に「ASAYAN」から生まれたユニット「モーニング娘。」は頻繁に行われるオーディションによるメンバー追加や楽曲制作過程で自分の出番が増えたり減ったりするのに個々が一喜一憂する様子をそのまま番組で公開することで親近感を呼び、人気が盛り上っていった。
 
そしておニャン子クラブを仕掛けた秋元康が20年の時を経て2005年に再度送り出したのが「会いに行けるアイドル」AKB48で「地下アイドル」「ローカル・アイドル」を多数生み出すきっかけとなる。
 

「女の子になってくれと言われて、スカートとか穿かないといけないのかなあなんて考えてたのよ。それが『今から女の子になる手術するから』と言われて病院に連れて行かれて、具体的な手術内容とか何も説明されないまま手術室に運び込まれて。それで包帯が取れてから自分のお股を見た時は衝撃的だったよ。きゃー。全部無くなってるって」
 
彼女はむしろ懐かしむかのように、私たちに当時のことを語った。
 

ところで私は2010年からずっとカローラフィールダーに乗っていたのをこの1月にエルグランドに乗り換えた(同時に政子がリーフを買った)のだが、この新車を私は全然運転する機会が無かった。ここのところ忙しすぎたのもあって、たいていは私たちの専任ドライバーの佐良しのぶさんが運転するか、たまたま同行した雨宮先生、和泉、鮎川ゆま、千里、和実などが運転している。和実が何度か「東北まで物資運ぶのに貸して」と言って持って行ったし、千里も「震災復興イベントで出ている間使わないなら貸して」と言って富山・岩手と走ってきたようである。
 
そういう訳でエルグランドのオドメーターは私がまだ1度も運転しない内に5月には1万kmを越えてしまっていた!
 
更にはある日、川崎ゆりこちゃんまで来て言う。
 
「ケイ先生、エスティマ買ったんですか?」
「いや、エルグランドなんだけどね。それと《先生》はやめてよ」
「ごめんなさーい! うちの先輩がケイ先生のエスティマに乗せてもらったよ、なんて言ってたものですから」
 
ゆりこは特定の固有名詞を出してないが、そんなこと言った先輩というのは秋風コスモスのことだろう。
 
「今週末、私がキャプテンやってるソフトボールチームの試合が長野であるんですけど、メンバーと道具を運ぶのに貸してもらえません?」
「まあいいよ。今週末は空いているよ。ってあれ?ゆりこちゃん運転するんだっけ?」
 
「免許は18歳の時に取ってたんですけどね、事務所から一般道での運転は禁止されていたのが、この1月に、やっとお許し出たんですよー」
と川崎ゆりこは言う。
 
彼女は私たちより1つ下の1992年生まれで現在22歳である。
 
「へー。車も買ったの?」
「買いました。ダルセニアンのポンガDXです。可愛いんですよー」
「どこのメーカーだっけ?」
「どこでしたっけ?確かイタリアだったかスウェーデンだったか」
 
何だかアバウトな話だ。そういえばこの子方向音痴だったのではと思い至る。
 
「でもそんなに運転していなかったら、運転忘れてなかった?」
「私も自信なかったんで、教習所に行ってペーパードライバー講習を3日間受けてきたんです」
「3日もやればだいぶ思い出したでしょ?」
 
「ええ。最初は車線変更で方向指示器出すとか左折する時巻き込み確認するなんてのも忘れてました」
「ああ。それはベテランドライバーでも怪しい人がいる」
 
「でも3月までに2000km乗りましたよ」
「凄いね。それだけ走ったら随分自信付いたでしょ。どこかにぶつけたりはしなかった?」
「大丈夫です。ヘッドライトを2回壊して、ライトの消し忘れでバッテリーを3回あげただけです」
 
私は頭を抱えた。政子が笑っている。
 
「あと、初日に運転してて、テレビ局までたどり着けなかったので、カーナビ付けてもらいました!」
「ああ、それがいいと思う」
 

私がなかなか新車を運転できずにいる間、政子は初めて買ったリーフで随分運転の練習を兼ねて日々ドライブしているようであった。
 
がある日のこと。
 
「いやあ、焦った焦った」
と政子は玄関のドアを開けて入ってくるなり言った。
 
「何したの?」
と私が訊くと、政子の車に同乗していたドライバーの佐良さんが
 
「ブレーキの下に空き缶がハマっちゃったんですよ」
と説明した。
 
「マーサ、運転席にそんなもの転がしちゃ行けないよ」
と私は注意する。
 
「いや、運転しながらエメラルド・マウンテン・ブレンド飲んでいたんだけどね。脇道から強引に割り込んで来た車がいてさ。とっさにハンドル切ったんだけど、その時に缶コーヒーまで持ってる余裕が無いから手を離して。おかげでこのスカートも台無し。お気に入りだったのに」
 
「その缶がブレーキに挟まっちゃったのか」
「そうなのよ」
 
「済みません。私がその缶コーヒー受け取れば良かったのですが」
と佐良さんは謝るが
 
「いや、瞬間的にそこまではできないですよ。マリがちゃんとハンドル操作できただけでも進歩」
と私は言う。
 
「マリさんが『ブレーキが利かない!』とおっしゃるので、まずはパーキングブレーキを踏んでもらったのですが、60km/hで走っていたんで、さすがにそれだけでは停まらないんですよ。踏んだので少し減速したんですが。それでマリさんにはハンドルをしっかり持っていてもらって私がシフトをBに入れて更に減速させて。そのあと、助手席から手を伸ばして缶を取ろうとしたのですが、遠くてなかなか手が届かなくて。でもその内パーキングブレーキと回生ブレーキが効いてきたみたいで何とか停まり掛けたので、最後はPボタンを押してもらって完全停止しました」
 
「良かった良かった。でも佐良さん、お怪我は?」
 
その体勢で停止したら彼女は結構な衝撃を受けたはずである。
 
「大丈夫です。サロンパス貼っておけば治ります」
「じゃ貼りましょう」
 
と言って私は救急箱を開けて湿布薬を出すと佐良さんに渡した。
「すみませーん」
と言って彼女は女同士の気安さで服を脱ぎ肩の後ろあたりに湿布薬を貼っていた。
 
「停止するまではほんの3秒くらいだったと思うんですが、結構焦りましたね」
 
「私ひとりだったらどうにもできなかったと思う。しのぶちゃんが付いててくれて良かった」
と政子。
 
「うん。佐良さんのお陰ですね」
と私。
 
「やはり運転中はスティール缶のコーヒーじゃなくてアルミ缶かペットボトルのコーヒーの方がいいのかなあ」
「いや、ペットボトルでも挟まったらやばいよ」
 
「今度からは助手席の人のことは気にせず左側に放り投げて下さいとは言ったのですが」
「うん。その方がいいですね」
「そうだ。とっさに放り投げる練習したいから、今度冬つきあってよ」
「いいけど」
「エメラルドよりヨーロピアン・プレミアムの方が良かったかなあ」
「いや。それは関係ないけど、練習は空の缶か未開封の缶でやってよ」
 
「でも下り坂ではなかったのが幸いでした。今度から棒を持って乗車しますね」
と佐良さんが言う。
「助手席ドアポケットに1本竹の定規か孫の手でも入れておきましょうかね」
と私。
 
「私が眠りそうになったらそれで叩いて」
などと政子は言っていた。
 

昨年12月に作曲家の本坂伸輔さんが亡くなったが、その葬儀の様子がテレビの情報番組で報道された時、本坂さんの2人の娘(小3・小1)が可愛い喪服を着て献花する様子が視聴者の涙を誘った( もっとも番組は不酸卑惨の「狼藉」の様子を主として放映していたのだが)。
 
その娘のうち長女の愛菜ちゃんが4月に小学4年生になるのと同時に新しく立ち上げられたアイドル集団「ホワイト▽キャッツ」に加入するというのが報道されると、情報の確認を兼ねて記者が本坂家に多数押し寄せた。
 
玄関前でインタビューに応じた母親の歌手・里山美祢子は
「はい、確かに入れて頂くことになりました」
とその情報を認めた上で、
「あくまで多数の中の1人ですから、特別扱いなどはせずに見守って頂けると幸いです」
と笑顔で答えていた。
 
「里山さんのお母さん、松居夜詩子さんがプロデュースしている金平糖クラブじゃなくて良かったんですか?」
という質問が出る。
 
金平糖クラブは現在乱立している「集団アイドル」の一角である。
 
「母が愛菜や萌菜をタレントにするつもりがあっても、うちには来るなと言ってました」
と美祢子は笑いながら言う。
 
「それはどうしてですか?」
「だってプロデューサーの孫が入っていたら、スタッフさんがやりにくいじゃないですか」
「確かに変な気を遣ってしまいますよね」
 
「まだ小学生ですし、本人が自分もそのうち歌手とかになりたいと思ったらすればいいし、まあ楽しい課外活動だったなくらいに思ったら、高校大学と出てふつうの会社勤めとかすればいいと思いますよ」
 
と語る彼女の顔は、ごくふつうの母親の顔であった。
 

「結局、ふたりの親権ってどうなったんだっけ?」
とテレビの画面を見ながら政子は言った。
 
本坂伸輔さんと里山美祢子さんは入籍しておらず、内縁の夫婦という関係であった。それで私たちは本坂さんの遺産分与や親権、またそもそも彼女があの家に住み続けられるのかという問題で心配したのである。
 
「親権は里山美祢子さんが取得した。彼女は本名は片原峰子なんで、娘たちも片原愛菜・片原萌菜になっているんだよ」
と私は説明した。
 
「じゃ、美祢子さんが養女にしたの?」
 
「元々養女だったんだ」
「え?」
「要するに本坂伸輔さんと里山美祢子さんはどうしても入籍できないから、子供たちがどちらの遺産ももらえるようにするため、いったん美祢子さんが養子にした上で、更に本坂さんが養子にしていたんだ。そうすると、養子には最初の養親・次の養親、双方の相続権ができるんだよ」
 
「へー!」
「だから本坂さんの自宅・土地、預金や株式などの金融資産、膨大な音楽著作権はふたりの子供が相続した。まあ数億円の借金もだけどね」
 
「奥さんは?」
「美祢子さんは内縁の妻だから相続権は無い」
「お父さんとお母さんは?」
「子供が相続人となった場合は、直系尊属や兄弟には相続権は無い」
「いいの〜?」
 
「美祢子さんは内縁関係を維持する以上、遺産はもらえないものと割り切っていたと言っている」
 
「性別を変更しなくても結婚できたらいいのにね」
「全くだよね」
 
美祢子さんが本坂さんと結婚できなかったのは、彼女が戸籍上は男性であるからである。健康上の問題で性転換手術が受けられないので、戸籍も変更できないのである。もっとも彼女は11歳の時から女性ホルモンを摂っており、高校生の時に去勢もしているので、体付きも完璧に女性である。
 
「一応、奥さんに200万円、ご両親にも200万円、本坂さんと関わりの深かったレコード会社数社合同で、御見舞金の名目で払っている」
 
「じゃ美祢子さんやご両親も少しはもらえたのか」
「そうそう。それでご両親も子供たちの本坂さんとの死後離縁を認めてくれた」
 
「離縁したんだっけ?」
「うん。ふたりの子供は本坂さんと離縁したから、元々美祢子さんの養子であったことにより、そちらの籍に戻ることになった。それで親権もそちらに行ったんだよ」
 
「離縁したら相続権を失わないの?」
「相続が発生した時点で養子であった以上、その後で離縁しても相続権は失わない」
「へー。あれ?その離縁をする時の子供たちの法定代理人は?」
「離縁の結果、その子の法定代理人となるべき者が代行する。つまり美祢子さんが認めれば離縁できるんだよ(*1)」
「法律って面白いね〜」
 
(*1)民法811条2項。
 
「美祢子さんは自分は引き続きこの家に住み続けて、本坂さんの両親の世話もしていきたいと言ったので、この件について両親からの異論も出なかった」
「その家って子供たちの名義なんだよね?」
「そうそう。正確には不動産自体は妹の萌菜ちゃんが相続している。その分、金融資産については愛菜ちゃんの取り分が多い。借金も全額愛菜ちゃんが引き受ける形になっている。音楽著作権についてはほぼ半分こ。もっとも子供たちが成人するまでは全部美祢子さんが管理するし、数年以内に借金は全部返済する方向らしい」
 
「子供たちの実の母親には権利は無いんだっけ?」
「万一愛菜ちゃん、萌菜ちゃんが、結婚もせず子供も作らないまま死んだ場合は美祢子さん自身と実の母が相続権を持つ」
「ほほお」
 

この報道から数日後、私と政子はその里山美祢子さんのお母さんで作曲家で元歌手の松居夜詩子さんに「相談がしたい」ということで呼び出された。
 
「実はホワイト▽キャッツのデビューアルバムに、おふたりから曲を提供してもらえないかと思って」
 
「金平糖クラブじゃなくてホワイト▽キャッツにですか?」
と私は驚いた。
 
「ホワイト▽キャッツは名目上は横居剣一さんがプロデュースしているんだけど、実際の楽曲の選定は私を含めた数人のワークグループで管理することになっているんですよ」
 
「そうだったんですか!」
「特にデビューアルバムは、ライバルグループのプロデューサーだけど御祝儀代わりということにして、私も2曲提供することにしていたんですけどね。私も知らない間に愛菜のホワイト▽キャッツ入りが決まってしまって」
 
「ああ、それで遠慮しておこうということですか」
「そうなのよ」
 

「でもなぜ私たちに?」
と私は尋ねた。
 
これまで彼女と私たちはあまり交流が無かった。
 
「今回のデビューアルバムの楽曲提供者なんだけどね。一応メイン作曲家ということになる平原夢夏さんが3曲、萌枝茜音さんが2曲、城島ゆりあさんが2曲、私が2曲、佐保津希乃さん・花愛夢好芽さん・久保佐季さん各1曲」
と言って彼女は提供予定者と楽曲仮題のリストを見せてくれる。
 
私はその名前を見て少し考えた。
 
「もしかしてLGBTのクリエイターばかりですか?」
「実はそうなの。それで私の代わりにケイちゃんにお願いできないかと思って。まあ作曲家グループが今回全員LGBTというのは特に公開もしないんだけどね。ホワイト▽キャッツのメンバー自体にも実は男の娘が2人混じっていて、まあそれも非公開なんだけど」
 
「へー」
 
「男の娘もほんとに可愛い子がいますよね」
と政子が言う。政子はこういう話は大好きである。
 
平原夢夏さんは本人は肯定も否定もしていないが、レスビアンあるいはバイなのではという噂が以前からある。萌枝茜音さんは公開はしていないがMTFトランスセクシュアルである。城島ゆりあさんは一応女性のように見えるが、ラジオ番組で「私男なのよ」と発言したことがある。ただ友人たちは否定しているので真実は不明である。佐保津希乃・花愛夢好芽は私も知らないが、久保佐季は丸山アイちゃんの本名だ。アイちゃんの性別は結局の所、よく分からない。友人たちの中にも彼女(?)の裸を見たことのある人がいないらしい(*1)。
 
(*1)実は青葉と★★レコードの八雲礼朗さんの2人が丸山アイと女湯で遭遇したことがあったらしいのだが、この頃、私はその話を知らなかった。
 
「ちょっと待って下さい。だったらまさか、松居夜詩子さんもLGBTなんですか?」
「うん。私は生まれた時は男の子だったのよ」
 
「え〜〜〜!?」
 

「本当にオーディションに応募したのはうちのお姉ちゃんだったのよ」
と彼女は語り始めた。
 
「それでひとりでは不安だから、あんたでもいいから付いてきてって言われてさ、それが私の人生の躓きだったというか」
 
「歌謡史に残る大歌手の誕生のきっかけだった訳ですね」
と政子は言った。
 
「受付の所で姉が事前に郵送されてきていた書類審査の合格通知を出して名簿にチェックしてもらい参加章のリボンを胸に付けてもらって。それでスタジオに行こうとしたら、あれ?あんたは?と言われるのよね。私は姉の付き添いですと言ったんだけど、あんた可愛いね、あんたも一緒に二次審査受けなよと言われて、その場で追加の参加章を渡されて。だから私は一次審査を受けてないのに二次審査の参加者になったのよね」
 
「なんかそのパターンって多いですよね。この世界」
と私は言った。
 
「そうそう。姉や友だちの付き添いで来たとか。友だちが勝手に応募したとか」
「ひどいのになると、たまたまスタジオに掃除係とかで居たとか」
「あるある。オーディションに落選したけど居残りして見学していた所を目を付けられたなんてのもある」
 
「そういえばローズ+リリーも実は設営スタッフだったとか言ってたね」
と松居さんは言う。
 
「そうなんですよ。本番で歌うべき歌手がトンヅラしてしまって。私たちが代役をやらされたんです」
「たまにそういうのも聞くね」
「やはりたまにあるんですか!?」
 
「1970年代のフォークブームの頃、フォーク歌手のライブやらないといけないのにその歌手が来ない。それでたまたま近くを通り掛かった知り合いに『お前ギター弾けたよな?』とか言って代役をやらせたってのを聞いたことある」
「ひどい」
 
「まあ昔は適当だったのよ。私もそういう適当なマネージングの犠牲者」
と彼女は自嘲ぎみに言う。
 

「それでその時二次審査に参加した人は100人くらい居たと思う。1人ずつ審査員の前に出て行って挨拶して名前を言って60秒歌唱。挨拶して下がる」
 
「審査員も重労働だ」
「だと思う。それをひたすら3時間くらいやって30人ほどに絞られた。ここでは姉も私も残ったんだよね」
 
「そこに残るってのはお姉さんも優秀だったんですね」
「うん。今でもカラオケ大会荒しだからね」
「そういうのもいいですよね」
 
「それで三次審査は水着審査って言われてさ。私、水着なんて持って来てないのにと思ったら、姉が予備に持って来たのを貸してくれると言うのよね」
 
「ああ・・・」
 
『これって女水着じゃないの?』
『何言ってんの?そもそもこれは女の子アイドルのオーディションだよ』
『私男の子なのに』
『あんた可愛いから女の子でも通るって、と』
 
「うむむ・・・」
 
「それで女の子水着を着せられちゃった訳よ」
 
「おちんちんはどうしたんですか?」
と政子が興味津々という感じで訊く。
 
「姉がうまく処置してくれた。私のってそもそも小さかったから何とかなったんだと思うのよね」
「へー」
 
「まあそれで水着審査やって九州地区からの合格者6人が発表された。姉は落ちてて私は合格していた。でも困っちゃってさ」
「女の子アイドルになるには、ちょっと余計なものが付いてますよね」
と政子。
 
「そうなのよ。それで親も入れての契約の話になって。その段階で私が実は男だというのが事務所にも知れて、けっこうパニックになったみたい」
 
「なるでしょう」
「でも事務所の社長が言うわけ。この子は実はオーディション、全国でも断トツで1位だった。この子は凄いスター性がある。取り敢えず集団でのパフォーマンスに参加してもらうけど、遠くない内にソロデビューも可能だと思う。でも男の子のままでは売れない。だから女の子にしちゃいましょうよと」
 
「それで性転換しちゃったんですか?」
 
「当時まだ私11歳でさ。精通は来てたけど、声変わりはまだだった。両親はどちらかというと契約金300万円ってのに目がくらんじゃったと思う」
 
「当時のお金で契約金300万円ってのは無茶苦茶期待されてますよね」
「だと思うよ。まあそれで私はまだ小学生なのに性転換手術を受けさせられちゃったわけよ」
 
「すごーい」
 

「女の子になってくれと言われて、スカートとか穿かないといけないのかなあなんて考えてたのよ。それがそれが」
「無茶しますねぇ」
 
「手術終わって自分のお股を見た時はけっこう衝撃的だったよ。きゃー。おちんちんもタマタマも全部無くなってるって。縦に割れ目があるから、これって、おちんちんを切った傷跡で、治ったらくっつくのかなとか考えたり」
「割れ目ちゃんがくっついちゃったら困りますね」
「当時女の子の身体の構造に関する知識全然無かったからね」
 
「元々女の子になりたかったんですか?」
「女の子もいいなあとは思ってた。明確に女の子になりたいと思っていたわけではないと思うけどね。でも女の子になってくれと言われた時、別に嫌だとは思わなかったから、実は女の子になりたかったのかもね」
 
「へー」
「それでまさか手術して切られちゃうとまでは思ってなかったけど」
「ああ・・・」
 
「具体的な手術内容は説明されないまま、単に『今から女の子になる手術するから』とだけ言われて病院に連れて行かれて、手術って何するんだろ?と思っている内に麻酔掛けられて。それで意識回復してから医者が傷の様子を確認するのに包帯を取って。それで自分のお股を見た時は本当にびっくりした訳よ。もうお前は女の子だからこれを穿きなさいと言われて女の子パンティとスカート渡された時は何かすごく変な気分だった」
 
「それまでこっそり女装したりとかしてなかったんですか?」
「そういう経験は無いと思う。性転換手術されるまで私はスカートなんて穿いたことなかったよ」
「うむむ」
 
「手術の後、1日目は導尿されてたけど2日目からはトイレに行ってしなさいと言われて、うっかり男子トイレに入ろうとして『そっちは違う』と言われて女子トイレに連れ込まれて。小便器が無くて個室だけが並んでいる風景がまるで外国にでもきたかのような錯覚を覚えた」
 
「まあ男と女では異世界ですよね」
「どうやっておしっこするのかというのも分からなくてさ。女の子はたぶん座ってするはずだと思って、座ってみるけど、おしっこを出す要領が最初は分からないんだよ。5分以上悪戦苦闘して、やっと出た時は思わずやった!と叫びたい気分だった。でも飛び散るんだよね」
 
「ああ」
「それで最初は服を完璧に濡らしちゃってさ。次からは手でカバーして服にはつかないようにするワザを覚えて、その内おしっこの出る部分に指を当てて、飛び先をコントロールする方法を覚えた。それでも指は塗れるし割れ目ちゃんとか周囲にけっこう付くからさ。女の子って、何て大変なんだと思ったよ。ケイちゃんは、性転換した時、そのあたりどうだった?」
 
「まあ最初は大変でしたよ。でも手術の傷が落ち着くと、あまり飛び散らなくなったんですよ。私の場合」
「それはお医者さんが上手だったんだろうね」
 
政子はそのあたりの話も興味深そうに聞いている。
 

「それで3日入院してから退院して。家に帰ったら自分の部屋の様子が違うんだよね。部屋のカーテンとかベッドカバーがピンクの水玉とか花柄になってるし、プラモデルとか野球のボールとバットとかも無くなっていて、お人形さんとか手芸やお菓子作りの本とか置いてあるし、『今夜はこれを着て寝なさい』と言われてネグリジェ渡されるし」
 
「かなり衝撃的ですね」
「タンスの中を見ても、男物の下着は無くなっていて、女の子パンティやシュミーズとか、服も赤やピンクの服が多くてスカートしか無いし」
 
「徹底しているというか」
 
「最初はうまくボタンをはめきれなかったよ。逆に付いているだけでも変なのに女の子の服のボタンって小さいからはめにくいんだよ」
「あれは結構苦労する人多いみたいです」
 
「女の子として行動する練習と言われて、ちょうど夏休みだったのをいいことに、母と姉と一緒に毎日スカート穿いて外出して。女子トイレに入って、プールに行って女子更衣室で女の子水着に着替えて、それから女湯にも入って」
 
「おお」
と政子が何だか嬉しそうな声をあげている。
 
「最初無茶苦茶恥ずかしかったのを覚えているよ」
「でしょうね」
 
「名前も芳信だったのを芳子に改名しちゃったし」
「それよく改名が通りましたね」
「お医者さんが半陰陽だったのでちゃんと女の子にする手術をしたという診断書を書いたから、それで改名・性別変更したみたい」
 
「確かに昔は半陰陽だったことにして実は性転換しちゃった例って結構あったみたいですね」
 
「うん。そうみたい。1969年にブルーボーイ事件の判決が出て、そのあたりって当時はけっこう厳しくなりつつあったんだけど、やはりまだ田舎は緩かったのよ。でも私、裁判所とかに通った記憶が無いんだよね。たぶん姉が私の身代わりに裁判所に行ったんだと思う」
 
「あぁ・・・」
 

「学校も2学期から東京の私立校に転校。その時、転校先の学校ではもう女の子ということにして転入したんだよね」
「戸籍が女の子になっていれば女児として受け入れてくれるでしょうね」
「まあ、そういうことだと思う。若干お金も積んだんじゃないかという気がする。そのあたりの費用も全部事務所から出ているみたいなんだよね」
 
「じゃ、事務所はかなり初期投資してますね」
「うん。親に払った契約金、性転換手術代、改名・性別変更の費用、転校に伴う費用。それと私のレッスン代ね。たぶん500-600万円使ってる」
「わあ」
 
「まあそれでマーメイドクラブのメンバーとしてテレビに出るようになって。しかもかなりたくさん映してもらってる感じがあったのよね」
 
「ああいう集団アイドルでのえこひいきって露骨だから」
「だよねー。それで私も半年もしない内にマーメイド5のメンバーとしてレコードデビュー」
 
「それってフィンガー5の女の子版って感じだったんでしょ?」
 
「そうそう。フィンガー5はジャクソン5の日本版で。ジャクソン5も一番下のマイケルが人気を集めたし、フィンガー5も男の子4人の中の最年少の晃に人気が集中したけど、マーメイド5も最年少の私に人気が集まったのよね。凄かったよ、当時って」
 
「忙しかったでしょ?」
「マジで寝る暇が無かったよ。いつも睡眠不足で眠いーと思いながら歌を歌ってた。過労で倒れて1週間入院したこともあるけど、退院したらまた朝から晩まで仕事だし。少しでも時間があったら歌やダンスのレッスン。学校なんて全く行ってない。だから転校した先のクラスメイトの顔も先生の顔も全く覚えてない。実際ほとんど出席していないはず」
 
「ああ」
 
「でも初期投資はあっという間に回収してますよね」
と政子が言う。
 
「うん。1年で初期投資の100倍稼いだと思うよ」
「凄い」
 
「でも元男の子だってのが当時よくバレませんでしたね」
「今みたいにネットのある時代じゃないからね。その手の情報の伝達度は悪かったと思う」
「タレントの噂なんて色々なものがあるから、雑音的なものの中に埋没してしまったんでしょうね」
 

「でもだったら里山美祢子さんや片原元祐さんは松居夜詩子さんの実の子供じゃないんですね?」
と政子は尋ねた。
 
「うん。あのふたりはどちらも私の夫、片原正太郎が別の女との間に作った息子。それを出生証明書を誤魔化して、私が産んだ子供として入籍してしまった」
 
「あ、そうか!美祢子さんも男の娘だったんだ!」
 
「あの子はもう物心ついた頃から、女性指向があったよ」
「へー!」
「だからあの子が自分は女の子になりたいと言い出した時、私も片原もそれを認めてあげて女性ホルモンの投与を受けさせた。まあ正太郎も娘が欲しかったというのもあったみたいだし」
 
「へー。あれ?松居さんは片原さんと正式に結婚しているんでしたっけ?」
「してる。私は半陰陽ということにして戸籍を修正しちゃったから男性と結婚できるんだ」
「あっそうか」
「でも私が子供産めないから、片原には子供作るために愛人作ってもいいよと最初から言っていた」
 
「それって辛くなかったですか?」
「辛いけど仕方ないと割り切っていた」
「性転換して子供が産めたらいいのにね」
「50年後くらいには産めるようになるかもね」
「だけど、妾さんの子供を本妻の子供として入籍してしまうというのは実は昔からよくあったみたいですね」
 
「そうそう。でも峰子の時代にはその手の誤魔化しは効かなくなってたんだよ。性転換したい人を半陰陽だったことにして手術しちゃうなんてのも誤魔化せなくなってしまった。世の中、きちんとしすぎるのもよくないと思うんだけどね。多少はアバウトのほうがうまく行くんだよ」
 
「それは同感ですね」
 
「だから、あの子は戸籍も直せないし、子供たちも自分の実子としては入籍できなくて、辛い思いをさせてしまっている。名前だけは小学3年生の時に、浩樹を峰子に改名させたんだけどね」
 
「なるほどー」
 

「有名人の子供の性別移行というので騒がれたりはしなかったんですか?」
と政子が訊く。
 
「小学2年生の内に女の子の服を着て外出するのに慣れさせておいて、小学3年生の4月にうちの田舎の学校に転校させた。姉夫婦に預かってもらって。それで学籍簿上は片原浩樹ではなくて、大西峰子で登録してもらったんだよ。向こうの校長先生がトランスセクシュアルというのを理解してくれたんで、学籍簿上女の子名前にしてくれた。苗字も姉の夫の苗字を借りて。九州北部は朝鮮系の人が多くて学校も通称使用に慣れていたのもあったみたい。法的な改名も数ヶ月で認められたけど、当時はタックなんての知られていなかったから、水着になる時や身体検査の時とかはアンダーショーツでしっかり押さえたりして色々と苦労してたみたいだけどね」
 
「お姉さん所は子供は?」
「女の子が2人いた。その子たちに『女の子のこと』をたくさん教えてもらったみたい」
「おお」
「本当は母親の私が付いていくべきだったんだろうけど、それでは私の顔が売れていて性別が変わったことがバレちゃうから泣く泣く思い留まったんだよ」
 
「辛かったでしょうね」
「正太郎は自分に娘ができて、しかも《時々会える》というのでウキウキしていた雰囲気はある」
「まあ、男ってそんなものかも」
 
「歌手デビューする時にまた東京に戻ったんでしたっけ?」
 
「そうそう。だからあの子の男の子時代を覚えている人は居なかったんだよ。名前も男の子時代は片原浩樹、デビューした時は里山美祢子を名乗っているから関連性に気づきにくい。まあ私の性別問題よりは知っている人が多いみたいだけどね」
と松居さんは語る。
 
私は頷いた。
 

「でも私は小学5年生の時、峰子は小学3年生の時に男から女に移行して、それなりに苦労しちゃったからさ。愛菜はもう幼稚園に入る時から女の子で通しているんだよ」
と松居さんは言った。
 
私と政子は一瞬顔を見合わせた。
 
「あのぉ、愛菜ちゃんって?」
「うん。実はまだ戸籍上は男の子なんだよ」
 
「え〜〜〜〜!?」
 
「じゃホワイト▽キャッツの中の男の娘って」
「そう。ひとりはうちの愛菜」
「へー。でも凄く可愛いですね」
 
「ありがとう。あの子も明らかに物心ついた頃から女性指向だった。それで峰子は自分が苦労しているから、実母の承認も取って、5歳の時に睾丸を除去してあげた」
「わあ」
 
「ずっとタックしているから、お友達とかも、あの子が男の娘だなんて知ってる子は居ないはず」
「すごー」
 
「名前も幼稚園に入る前に、妹とお揃いに菜を付けた名前に改名して。元は猛雄という名前だったんだけどね」
「それはまた男らしい」
 
「でも松居夜詩子さん、里山美祢子さん、そして片原愛菜ちゃんと、親子孫3代にわたって性転換って、やはりこういうのって遺伝するんですかね〜」
と政子が言うので
 
「うん。結構遺伝傾向あると思うよ」
と松居さんも言うが
 
「ちょっと待って下さい。それ遺伝子は継承してないはずですが」
 
と私は突っ込んだ。松居さんは笑っていた。
 

「でも松居さんはアイドルから本格歌手、そして作曲家への転身も成功しましたよね」
と政子は言うが
 
「今から思えばそうなるよね。当時はけっこう浮き沈みも激しかったし、世間から忘れられていた時代もあるんだけどね」
と彼女は言う。
 
「結婚なさった前後ですよね?」
「そうそう」
「結婚なさったのがいつでしたっけ?」
 
「1983年、21歳の時に結婚して翌年1984年に峰子、その翌年1985年に元祐が生まれた」
「それって片原さんは松居さんと同時進行で愛人さんとの仲も進めていたってことですかね」
「そのふたりの母親は実は既婚者なんだよ」
 
「なんと」
 
「****さんですよね?」
と私が言うと、松居さんは
「それ、どこから聞いたのか知らないけど絶対に言わないで欲しいんだけど」
と厳しい顔で言う。
 
「誰にも言いませんよ。誰から聞いたかも言えませんけど」
と私は答えた。
 

「マーメイド5はデビューした時、姉妹になぞらえて17歳から11歳までの5人だった。それで6年ちょっと活動して。一番上のハルコちゃんが24歳になった年の夏に解散したんだけど、当時私はまだ17歳だからさ、すぐにソロデビューの話になったけど、この時は全く売れなかったんだよ」
 
「ヨシコの名前で出したレコードは多分『ヨシヨシ国』のみですよね?」
「そう。あれ1万枚も売れなかった。曲自体を見た時、私、ひっでーと思ったら案の定売れなかった」
と松居さんは苦笑している。
 
「吉里吉里国にひっかけてたんでしょ?」
「うん。当時ミニ独立国ブームだったからね」
 
「まあそれで私は引退して短大に進学した。実際には小学6年の時以来全く勉強なんてものをやってないからさ。私、英語もできないし、数学の一次方程式も解けないし。短大の入試は実際問題としてさっぱり分からないから名前を書いただけ。でも通してくれた」
 
「まあそういう大学は昔も今もありますけどね」
「基礎ができてないから短大の授業もさっぱり分からないんだよ。それでも何とか卒業させてもらえたからね。当時はもう私もマスコミとかに追いかけられることもなくなっていたし。でも鍋島康平先生の主宰のパーティーに呼んでもらった時に片原正太郎と知り合って、それでお付き合いして、私が赤ちゃんは産めない身体であることを承知で結婚してくれた」
 
「できちゃった婚だったんでしょ?」
「そうなのよ。既に正太郎は愛人のお腹の中に峰子がいたから、その母親が欲しかったんだな。だから子供が産めない私は結婚相手として好都合だったのよ」
 
「なんか複雑ですね」
「でも正太郎には私、可愛がってもらってるよ」
「ごちそうさまです」
 

「続けてその愛人さんとの間にもうひとり男の子・元祐を作って。まあ私も自分の子供のように可愛がってふたりを育てていたよ。子供を育てていて、やはり私って女なんだろうなと改めて思った。結構母親の意識になれたからさ。それまでは実は自分は本当は男なのか女なのかって迷いがあったんだよ」
 
「そりゃいきなり女の子になりなさいと言われて性転換手術されちゃったら自分のアイデンティティを見失いますよね」
 
「うん。だからマーメイド5をやってた時期、そのあと女子大生をしていた時期って、可愛い女の子を装いながらも、自分の心はずっと迷走してた。でもふたりの子供を育て始めてから、やっと自分は女でいいんだという気持ちになれたんだ」
 
「夜詩子さんって作品などを見ていても女性だと思いますよ」
と私は言った。
 
「ありがとう」
と言って彼女は微笑んだ。
 

「それで元祐が1歳になった年に、唐突に私に歌わないかって話が来たんだよね」
 
「それが『月のささやき』ですか」
 
「うん。ドラマの主題歌だったけど、プロデューサーさんがマーメイド5の熱心なファンだったんだよね。それで最初レイコの所に話を持って行ったけど、忙しくて無理と断られたらしい。それで私のところに話が来た。まあ私は子育て以外は暇だったからね」
 
「でそれが大ヒットになるわけですね」
と私は言う。
 
「いや、あれは私自身あんなに売れるとは思わなかったからびっくりした」
と松居さん。
 
「『月のささやき』いい曲ですね。私、音楽の時間に習ったけど好きだった」
と政子が言っている。
 
「そうか。あんたたちは音楽の時間に習ったのか」
と松居さんは感慨深げである。
 

「それがきっかけでまた歌手として活動するようになって。マーメイド5をやめてから5年半経っていたのに、ファンだったって人がたくさん居て、マジびっくりしたよ」
 
「タイミングも良かったんだと思います。マーメイド5の解散後、ハルコさんとミツコさんが作ったデュオ・ハルミツが1985年に解散してしまって、そのファンも松居さんの所に流れてきたんじゃないかって、いつか私の母が言ってました」
と私は言う。
 
「そうか。ケイのお母ちゃんたちが私たちのファンの世代かな」
「私の母は松居さんと同い年生まれですから」
「そっかぁ!」
 
「でも当時私は24歳で2児の母だしさ。でもアイドル並みの衣装を着せられて可愛く可愛く扱われたんだよ」
「いや24歳なら、まだその路線行けますよ」
「子供がいることも非公開になってた。おかげで私の性別問題も誰も気づかなかったんだと思う」
 
「なるほどー」
「図らずも、翌年歌手に復帰した松田聖子ちゃんの先輩ママドルだったんだよね。あの時の私って」
「松居さんってうまく時代の潮流に乗ってますね」
 
「うん。自分でも私って運がいいんじゃないかと思うことあるよ」
 

「まあそれで歌手として売る内に、アルバムの中に少しずつ自作の曲を入れさせてもらって。私が歌手として売れたのはだいたい1986年から1992年頃までだと思うけど、最後の方はもう仕事の半分は作曲の方になっていたんだよ」
 
「けっこういろんな歌手に楽曲を提供していましたよね」
「うん。歌手兼業時代はアイドル歌手への提供が多かったけど、自分がアイドル歌手をやってきているからさ。彼女たちの心情がけっこう分かるから、私の曲はこれまるで自分のことを歌った歌みたいです、と随分言ってもらえたよ」
 
「それで結局1994-5年頃からですかね。実質作曲家オンリーになっていくのは」
 
「うん。さすがに32-33歳になってミニスカ穿いて可愛く歌うのは無理があるから」
 
「私たち60歳でもミニスカ穿こうよなんて言ってるんですけど」
「マジ? その時、私がまだ生きてたら花束あげるね」
 
「それで2000年に美祢子さんがデビューして」
「あれびっくりした。ある日あの子の事務所の社長さんが来て、お嬢さんの契約のお話をしたいというから『は?』と」
 
「親に黙ってオーディションとかに出ていたんですか?」
「そうそう。母親代わりの私の姉にも言ってなかったらしい。それで本人も七光りで売れるのは嫌だから、母親のことも父親のことも非公開のまま歌手活動したいと言うから、そういう線で事務所とは契約したんだよね。だから片原の苗字を使わずに里山という苗字を作ったんだよ」
 
「でもしっかりしてますね」
「うん。あの子は私よりずっとしっかりしていると思う。まあ本坂さんの事故は不幸なことであったけど、あの子なら乗り越えていけると思うね。今度はあの子自身がタレントの親になっちゃったしね」
 

1970年に始まった「ステージ101」は天下のNHKならではの選曲基準で当時巷で大流行していたフォークなど「低俗な」曲は流さず、洋楽や番組のスタッフが作った「まともな」曲が中心であった。
 
これに対するアンチテーゼとして弱小局のΛΛテレビは1972年「ミュージック・ストリート」という番組を立ち上げ、足で歩いて街角で演奏している若いパフォーマーを見付け口説き落としてテレビに出演させて、彼らの曲をどんどん紹介させた。
 
そしてこの番組でストリート・ミュージシャンたちのバックで踊っていたのが、1973年に発足したマーメイドクラブで、10歳から18歳くらいまでの女の子たちで構成されていた。ここからはマーメイド5、スカイ&フラワー、トリプル16, シーサイドマーガレットなど、多数の派生ユニットが生まれた。この番組はフォークブームが終焉する1978年まで続いた。
 
私と政子は当時そのマーメイドクラブの中でも一番人気であった松居夜詩子(当時の芸名はヨシコ)から男の娘であったことを告白されてさすがに驚いたのだが、実は当時「あの子たちみんな女の子に見えるけど実は数人男の子が混じっているのでは?」という疑惑はしばしば囁かれていたと私は母から聞いている。
 
1980-1987年に◇◇テレビで毎週日曜14時に放送された「サンデースタジオ」は低視聴率時間帯ならではの局側の「やる気の無さ」を反映して事実上の司会役であった東堂千一夜(前期)や立川つとむ(後期)が好きなように番組を運営したことから、高校生以下の世代から異様な支持を集めた。この番組のアシスタントを務めた(主として)10代の女性たちが自然発生的に「サンデーシスターズ」と呼ばれるようになり、ここからもまた多数の歌手や作曲家、また音楽制作者を輩出することになる。
 
マーメイドクラブの出身者には歌手や女優になった人が多いのに対してサンデーシスターズの出身者にはシンガーソングライター・作曲者や音楽制作者になった人が多い。番組の傾向としては前者がフォーク番組、後者がポップス番組で、逆になりそうなのだが、これはマーメイドクラブのメンバーはみんなどこかの事務所と契約したタレントであり親主導のケースが多かったのに対して、サンデーシスターズは契約などもなく「来たい?おいで」というノリで連れてきた子が多く契約もしていなければギャラも払っていない。課外活動的な位置づけであったため、意識の高い子が多かったせいでは、と東堂千一夜さんは後に言っている。
 
このサンデースタジオ、またサンデーシスターズには特に明確な企画者は居なかったとされ、番組の名目上のプロデューサーも8年間にコロコロと変わっており(後に取締役となった響原恭平も一時期プロデューサーを務めている)、特に一貫した指針のようなものも無かった。
 
これに対して1989-1992年に放送されたバラエティ番組「みどりの森」とそれに出演したグリナーズの場合は、放送局の横居剣一プロデューサーと、作詞家の月村山斗のコンビが明確な指導原理を持っていたし、規律もひじょうに厳しかったという。サンデーシスターズの子たちが「彼氏とキスしちゃった」などと番組内で大胆告白したりする事件?もあったのに対して、グリナーズの子たちは恋愛禁止であり、門限破りで解雇された子もいる。しかし番組終了後、このユニットのメンバーで芸能界に生き残った子は無かった。
 
1999年にデビューした「色鉛筆」はオーディションによるメンバー追加と卒業システムが随分とモーニング娘。の二番煎じだと言われたものの、メンバーの歌唱力の高さが一部では評価され、メンバーは全員10代であるのに同世代より20代のファンに支持されたし、ソロデビューして色鉛筆から卒業した後で、むしろたくさん売れた子も多い。このユニットを世に送り出したのは、作曲家の近藤早智子だが、彼女自身がサンデーシスターズの出身である。
 
色鉛筆に似たコンセプトではあるものの、歌い手と踊り手を完全に分離して企画されたのが2003年にデビューしたマリンシスタである。このユニットはメンバーの入れ替わりが凄まじく激しかったことでも有名である。活動期間は2003-2006の約3年間しか無いのに、最初から最後まで在籍したメンバーが1人も居ない。多くの子が1年程度で脱退してしまっている。しかしその人気は高く、ドーム球場をいつも満杯にしていた。マリンシスタではメンバーは「部品」に徹することを求められたと初代リーダーの辰巳鈴子は後に語っている。マリンシスタは基本的に女声四部唱であったが、ひとつのパートを最低3人以上に覚えさせ、また1人1人が最低2パート以上歌えるようにしておくことを求められていたらしい。
 
「みどりの森」の制作者の一人・月村山斗は2006年再び集団アイドルFireFly20を世に送り出した。AKB48が専用劇場を持ち、そこでの公演を活動の主軸にしたのに対して、FireFly20の場合はインターネットの有料配信をそのホームとした。ネット上での決済能力があることが前提なのでファン層を敢えて20代メインに捉え、多くのAKBフォロワーたちとは一線を画している。楽曲の売上としては大したことがなくても、10代より経済力があることからグッズの売上が凄まじいと言われている。
 
松居夜詩子が2010年に始めた「金平糖クラブ」は「球ではなく金平糖な子たち」を集めた集団という性格付けでスタートしている。ここに参加しているメンバーたちは各々が強い個性を持っており、むしろAKBのような集団では生き残れないタイプである。そういう子たちを集めるために、松居さんは自ら様々なオーディションを見学させてもらい、最終選考の近くまで残ったものの落とされた子たちに声を掛けていったという。そのあたりで落とされる子は技術的には良いものを持っているが性格的に問題のある子が多い。そしてそういう子こそ、松居さんが求めていた子たちであった。この中には男の娘あり、ヤンママあり、風俗で働いていた経験のある子あり、とおよそ従来のアイドル像とは相容れない子たちも居るが、みんな実は素直なので熱心な指導をする松居さんの元、パフォーマンスをしているのである。
 
そして「みどりの森」の放送局側プロデューサーであった横居剣一さんが今年の春にまた新たなコンセプトで立ち上げることにしたのがホワイト▽キャッツであった。「ホワイト」というのは、どうにでも染められるという意味で、この集団をステップとして、何らかの形のアーティストとして巣立っていって欲しいという意図がある。従ってアイドルとして売るより、各々を鍛えていくことに主眼を置いているので、給料を払うどころか逆に参加費を毎月徴収するというとんでもない集団である(親の収入が低い場合は減額制度あり)。
 

「でもケイちゃん、マリちゃんはこの後、どういう形で売っていきたいの?」
と松居夜詩子さんは私たちに尋ねた。
 
「私たちは元々がニューフォークという感じだったので、その路線で行きたいんですけどね」
と私は言う。
 
「でもレコード会社はポップスを求めているでしょ?」
「まあ、そのあたりは常に妥協があります」
 
「あなたたちは最初からアイドルとはちょっと違っていたよね」
「08年組でアイドル路線を維持したのは結局AYAだけですね」
「それと引退しちゃったけど浦和ミドリちゃんだよね」
「そうなんです」
 
「KARIONは4作目の『秋風のサイクリング』から脱アイドル路線になりました。XANFUSも3作目の『Down Storm』からアイドル路線と決別しました。ローズ+リリーも休業中に出した実質3枚目のシングル『雪の恋人たち』でアイドル歌謡から離れてフォーク路線に舵を切ったんですよね」
 
「あんたたちの休業は、なんちゃって休業だからなあ」
と言って松居さんは笑っている。
 
「なんちゃって休業、なんちゃってアイドル、なんちゃって女の子」
と政子も悪ノリして言っている。
 
「そういやケイちゃんが実は男の子だったという報道があった時に、うっかりマリちゃんが男の子と思い込んだファンが随分いたらしいね」
 
「あれ、ネット見てて混乱しているのが結構面白かったですよ」
と政子は言っている。
 
「まあマリちゃんがアルトだからね」
「私、高い声が全然出ないんだよね〜」
と本人は言うが
 
「でも初期の頃と比べると随分音域も広がったでしょ?」
と松居さんは言う。
 

「しかしAYAちゃんはアイドルのままで行くんだね」
「いや、あの迷いの無いアイドルぶりが、けっこう高校生に受けているみたいですよ。あの子、もともと童顔だから、知らなかったらまだ17-18にも見えるんですよね」
「うんうん、あれはあれでお得」
 
今年の1月にAYAが出した復帰作『変奏曲』で、ゆみはまるで中高生アイドルのようなミニスカの可愛い衣装、髪も少し切ってまるで中学生の校則遵守したかのような髪型でPVでもテレビでも露出しているのである。
 
「昨年1年間休業している間にいろんな人が心配して訪ねてきてくれたようですが、ああいう路線で行こうというのは、秋風コスモスちゃんとの対話の中で思い立ったようですよ」
 
「コスモスちゃんはまた凄いね!」
 
「私正直言って、あの子がこんなに長く生き残るとは思ってもみませんでした」
と私。
「うんうん、私も。この子は1年で消えるだろうと思ってたよ」
と松居さん。
 
「AYAの場合、昨年春にヌード写真集を出して、それでもうアイドルは卒業するつもりなんだろうなと思ったのに、アイドルとして復帰した思い切りが凄いです」
 
「あの写真集、私思わず買っちゃったよ」
 
「うちも母と姉が買ってました」
 

「でも20代になってもアイドルを続けるってのは、松居さんとか、松田聖子さんとかの世代がたぶん嚆矢になりましたね」
 
「結果的にはそうだと思う。まあ私はうまく乗せられちゃってやっただけだけど、聖子ちゃんはスタイルとしてママドルというのを確立したからね。私は子供がいること非公開のままやってたのに」
 
「まああの時の事務所の事情もあったんでしょうけどね」
「そうそう。岡田有希子ちゃんが死んじゃったから、あそこは聖子ちゃんが頑張るしか無かったのよ」
 
 
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【夏の日の想い出・何てったってアイドル】(1)