【夏の日の想い出・鈴の音】(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2014-08-24
2007年7月22日(日)。高1の夏。
私はハンバーガー屋さんのバイトを13時に終えて、いつものようにハンバーガー屋さんの制服から学校の女子制服に着替え、お店を出た。
普段はこの後、同僚の和泉と一緒にカラオケ屋さんに行って歌うのだが、この日は和泉はふだん出入りしているプロダクション(∴∴ミュージック)で臨時の仕事を頼まれたということで、そちらに行ったので私はひとりで町を歩いていた。
でも女子制服で出歩くのにも随分慣れたなあと思う。
そういえば1年前はコーラス部の友人・倫代にうまく乗せられてかなりの日数セーラー服で学校に出て行ったなというのを思う。あの時はけっこう自分としてはおどおどしていたのだけど、高校に入ってから、こうやって女子制服を着ているのは自主的に始めたものなので、その分開き直りができたかなという気もする。
いっそ、和泉や詩津紅から唆されているように、学校にもこの制服で出て行っちゃおうかな、とも考えるが、まだその勇気は無い。
少しぼんやりとして歩いていたら、バッタリと蔵田さんと樹梨菜さんのカップルに遭遇した。樹梨菜さんは男装していてデート中のように見えたので、私は会釈だけして通り過ぎようしたのだが、
「こらこら」
と言って、蔵田さんに後ろから抱きとめられる。
「挨拶だけで通り過ぎるのは無しだぞ」
と蔵田さん。
「えっと、お邪魔かなと思ったので」
と私。
「うん。邪魔だ。あっち行けよ」
と樹梨菜さん。
「洋子、お前さぁ、ちょっとゴスロリの服とか着たくないか?」
「ゴスロリって、どんなのでしたっけ?」
「お前、デスノート読んでない?」
「何でしたっけ?」
「知らないの〜? 少年ジャンプ見てない?」
「少年誌は読まないので」
「デスノートに出てくる、弥海砂(あまね・みさ)って知らない?」
「あ、そういえば聞いたことあるような」
「その海砂ちゃんが着てるのがゴスロリだよ」
「へー」
「樹梨菜に着せようとしたらそんな女みたいな服着たくないというし」
と蔵田さん。
「孝治が着ればいいじゃん」
と樹梨菜。
「俺が着たら、俺が鑑賞できないじゃんか」
と蔵田さん。
そういえば蔵田さんも女装するみたいだけど、実際に女装している所は見たことないなと私は思った。182cm,98kgという元バレーボール選手でもある蔵田さんの体格・筋肉質の体形を考えるとあまり見たくない気もするのだが(但しバレーをしていた頃は80kgくらいだったらしいので、恐らく20kg分くらいは筋肉ではなく贅肉かもしれない)。
「まあ、そういう訳でちょっと来い」
「えー!?」
ということで、私は結局蔵田さんに連れられて都心に出て、ゴスロリの服を売っている店に連れていかれ、私のサイズに合う服を買って、その場で着替えさせられ、結局そのまま3人でスタジオに入った。
「なんでこんな服を着るんですか〜?」
「いや、お前、結構ゴスロリ似合ってるよ」
「そうですか?」
「(ζζプロの)観世専務が、今度の松原珠妃の曲は『ゴツィック・ロリータ』というタイトルにしよう、と言ってさ」
「はい」
「じゃ、後はよろしくと言われてしまったんだよ」
「あぁ」
「という訳で、お前のゴスロリ姿を鑑賞しながら俺は曲を書く」
と言って蔵田さんは私にその場で立たせたり、あれこれポーズを取らせて五線紙に何やら書き込み始めた。椅子に座ったり、歩けと言われたり、楽器を借りてきてギターやヴァイオリンを弾いている所、歌っている所を見せる。唐突に男装の樹梨菜さんが私をレイプしようとしているシーン!?とかまでやらされた。
「今ちょっとマジになりかけた」
と樹梨菜さん。
「今ちょっと怖かったです」
と私。
ヌードも見たいなどと言われるので、蔵田さんならまあいいかと思って裸になった。本当は15歳の女の子を裸にするなんて、マスコミに知られたら半年くらい謹慎をくらいそうだ。
「洋子、おっぱい小さい」
「男の子だから仕方無いですよ」
「小学生の頃からほとんど成長してない」
「だって男の子なんですから」
「だけどチンコ無いじゃん」
「隠してるんですよぉ」
「俺たちにまで嘘付かなくてもいいよ」
オナニーしてみろなんて言われる。
「私、セクハラで訴えようかなあ」
「いいじゃん、別に。俺たちの仲なんだから。樹梨菜とのセックスでもいいけど」
と言うと、樹梨菜さんが、絶対やだと言う。彼女はFTMだが、女性は恋愛対象ではないらしい。むしろ女の身体が嫌だから、その嫌な女の身体を持っている人には性的な関心も持てないらしい。
「じゃ、やはり洋子のオナニーで」
「ポーズだけじゃダメですか?」
「実際に恍惚の表情になっているところが見たい」
仕方無いので、椅子に座りタオルを掛けてその付近を隠した上で、あそこに右手の指を当て、グリグリと回転運動を掛ける。私のおちんちんは当時、往復運動を掛けると勃起するのだが、回転運動では熱くはなるものの堅くはならなかったし、大きくもならなかった。性的な興奮のチャンネルが違うのを感じていた。しかし、樹梨菜さんまでじっと見てる。やだなあ。でも見られていると思うと結構マジで興奮してしまった。
「今、逝ったよな?」
「逝っちゃいました」
「よし」
と言って、蔵田さんは歌詞とメロディーを同時に書いている。
でも私、今逝ったのに精液出なかった。何でだろ?と私は少し不思議に思っていた。女性ホルモンの摂取しすぎかなあ、などと不安になる。前回は女性型のオナニーをしても勃起しないまま射精したのに。(実際にはこの時は特殊な状況だったことからドライで逝ったのだと思う)
なお、この部分は松原珠妃が音源制作の時に歌うのを嫌がったものの、発売後は女性ファンたちの間から「子宮で感じる」という評価をされたところである。部分的にも「女の心」を持っている蔵田さんだから書けた歌詞だと思う。しかし歌詞自体に性的な描写は全く無いのでR18とかにはなっていないし中学や高校でも学校放送での禁止などの処置はとられていない。
「濡れただろ?」
と蔵田さんは一通り書き上げてから訊く。
「濡れるような器官がありません!」
「お前、ヴァギナはまだ作ってないの?」
「私男の子ですよー」
「今更そういう無意味な嘘は付くな」
と蔵田さん。
「この身体を見て男と思えってのは不可能だよね」
と樹梨菜さんまで言う。
「よし。結構いい感じのモチーフが出来たなあ」
「良かった。それで終了ですか?」
「いや。全部で12曲作らないといけないから。シングルとアルバムを同時発売するんだよ。アルバムにはシングルの曲を別テイクで収録する」
「いつまでにですか?」
「5日はドリームボーイズのライブだからさ。その前日、4日までに向こうに渡したい」
「かなり短期間ですね」
「それで最終的なスコア譜を作成させるのに3日くらいかかるからさ」
「えっと・・・」
「ピアノ譜のレベルまで今月中に仕上げたい」
「今月中って、10日しかないですよ」
「うん。だから頑張ろう」
「お疲れ様です。頑張ってください」
「まさか、洋子帰られると思ってないよな?」
「私、何するんですか〜?」
「試唱」
と蔵田さんと樹梨菜さんは言った。
それで母に電話し、しばらく松原珠妃絡みの蔵田さんの用事で帰宅できないことを連絡する。またバイト先にも急用で半月ほど休むことを伝えた。
結局樹梨菜さんも女装させられる。本人はブツブツ言っていたが、全部私がモデルになるのも、樹梨菜さんとしてはあまり面白くないようなので、微妙な線である。私と樹梨菜さんは交替で、あるいは絡む形で、いろんなシーンを再現して、蔵田さんの発想のお手伝いをし、またふたりで試唱もした。
キスシーンまでやらされた。キスは一応寸止めだったのだが「寸止め疲れる。やっちゃわない?」などと樹梨菜さんは言っていた。でも結局ふたりとも裸になって抱き合うところまでやらされた。セックスだけは樹梨菜さんが断固拒否したおかげで、しなくて済んだが、女の子同士のセックスってどうするんだろと私はちょっとだけ興味を持った。
試唱については、私にしても、樹梨菜さんにしても、男声・女声の両方を使えば結果的にかなり広い音域が出るので、とんでもない声域を持っている珠妃の曲の試唱ができるのである。でも樹梨菜さんの男声を聞いてるのは多分、蔵田さん以外では私だけなんだろうな、などと作業をしていて思った。
この蔵田さんの作曲作業は26日の木曜日まで掛かった。途中、ドリームボーイズの大守さん、珠妃の後輩の谷崎潤子ちゃんも手伝いに来てくれた。しかしそれでも、よく5日で12曲も書けるものである。蔵田さんのこういう集中力は凄いといつも思う。
「お疲れ様でした」
「何とかできたね」
「じゃ、洋子、後はよろしく」
「へ? 私何をするんですか?」
「だってこの譜面、アレンジャーにこのまま渡してスコアになると思う?」
「うーん。ちょっと厳しいかも。蔵田さん独特の省略記号が大量に入っているし、TT(『適当に展開して』という蔵田さん独自の記号)は意味が分かってもどう展開すればいいのか、アレンジャーさんには分かりませんよ」
「ということで、それを整理するの、洋子の仕事な」
「そんなあ」
「今月中に整理して俺の居る所に送って」
「居る所って御自宅じゃないんですか?」
と私。
「実は明日から樹梨菜の実家に行って、親父さんに会ってこないといけない」
と蔵田さん。
「僕も実家じゃ、女の振りしないといけないから面倒だけどね」
と樹梨菜。
「樹梨菜さん、実家はどこでしたっけ?」
「九州の武雄(たけお)ってとこなのよ」
「それ、有田の近くでしたっけ?」
「ピンポーン」
「住所は後で携帯に送っておく。8月1日まで滞在する予定だから、それまでによろしく」
「というか、1日にはアレンジャーに渡さないといけないですよね?」
「できたら7月31日までに」
「分かりました」
私は心の中で半ば悲鳴をあげながら返事をした。
その日は取り敢えず自宅に戻り、母に礼を言ってひたすら寝た。
翌日27日。楽譜の整理作業をするのにどこかで集中してやりたかったので私はまた外出し、取り敢えず麻布先生のスタジオに行き、空いている部屋を借りて無音状態の中で集中して、その日の午前中2曲の譜面をまとめあげた。気分を出すのに、蔵田さんと一緒に作業した時に着ていたゴスロリの服を着て、弥海砂みたいにしたツインテールのウィッグまで付けているので、途中でのぞきに来た麻布先生が一瞬「誰?」と訊いた。
蔵田さんの「作曲」した譜面というのは細かなモチーフの連続で、目的の曲が40小節程度であれば、実際には半分の20小節程度しかない。そのバリエーションを考えて曲としてまとめるのが私の役目である。蔵田さんと組んで作曲作業を始めた頃は40小節の内の32-36小節程度まで蔵田さんが書いていたのだが、私の「補間」作業がだいたい蔵田さんの意図通りにできているというので、少しずつ私が書く割合が増えてきている気がする。それで最近は「補間」というより、むしろ「補完」になってきているなというのも感じる。
取り敢えず2曲できた所で念のため蔵田さんに電話してみたら、まだ自宅を出る前ということだったので、スタジオのファックスを借りて譜面を送信した。
「いつもながら、よくできてるな」
と蔵田さんは電話してきて言った。
「ありがとうございます」
「洋子さ」
「はい」
「これだけ書けるなら、お前完全にゼロから自分の作品も書けるんじゃないの?」
と蔵田さん。
「それ何度か試してみたのですが、どうにも自分で納得のいくレベルに到達しないんですよね」
「それって、俺の作品を意識過ぎてるんじゃない? 俺の作品は俺の世界観。洋子は洋子なりの自分の世界観で曲を書けばいいんだよ」
「そうですね」
「何かきっかけがあればお前もブレイクするのかも知れないな」
「きっかけですね・・・」
「あのさ、洋子。お前のヌード見た感じは既に性転換手術済みにしか見えなかったんだけど、本当にまだ手術してないのなら、やっちゃったら? それで絶対感覚が変わるから」
「ああ・・・」
それも実は高校に入った頃から考えていたことである。さすがに中学生では無理だが、高校生なら、探せば手術してくれる病院はあるはずだ。
「お前、性転換手術なんて200-300回受けられるくらい、お金はあるだろ?」
「300回も性転換してどうするんです!?」
お昼を食べるのにスタジオを出て駅のそばにあるカフェに入り、窓際の席に座って、半分ぼーっとしながら、スパゲティ・カルボナーラを食べていたら、駅前に停まったバスから政子が降りるのを見た。
政子の自宅はこの駅からあまり遠くない距離にある。どこに行くのかな?と思って眺めていた時、唐突に私は彼女と話したい気分になった。
それで会計をして店を出て駅に入っていく。すると政子が駅員さんを捕まえて訊いている。
「羽田に行くには、お茶の水で乗り換えるんでしたっけ?」
なぜそんな所で乗り換える!?
「新宿か神田で山手線に乗り換えて、浜松町まで行ってください」
「あ、そーか。ありがとうございます!」
私は政子に声を掛けようとしたのだが、その時自分が女装していたことを寸手で思い出した!
やばー!
それで政子が切符を買って自販機を離れてから、自分も行って浜松町までの切符を買った。
どこかで男装に戻さないと会えないなと思いながら、政子から少し遅れて改札を通り、結局一緒の電車に乗る。割と近い距離に乗っているのだが、こちらがゴスロリ女装している上にツインテールのウィッグまで付けているので、政子は私が分からないようである。
携帯で盛んに何か打ち込んでいる。花見さんとメール交換しているのかなと思ったら、何だか少し嫉妬するような気分になった。私って彼女のこと好きになりつつあるのだろうかなどとも思う。私、女の子には興味無いはずなんだけどなあ。。。
それで新宿で山手線に乗り換え、浜松町まで行ったのだが、そこでモノレールの方へ歩いて行っていたら、飛行機のチェックインの機械が並んでいる所を何気なく眺めていた時、思わぬ人と目が合う。
その人はこちらに寄って来た。
「ね、ね、柊洋子ちゃんだよね?」
「ご無沙汰してます。白浜さん」
それは&&エージェンシーの白浜藍子さんであった。
「洋子ちゃん、どこか旅行にでも行くところ?」
「いえ。空港を見物に行こうかなと思っていたんですが」
「今日明日時間がある?」
「はい。何か?」
「実はさ、Parking Serviceの営業で、これから九州まで行くんだけど、ダンシングチームの**ちゃんが急病で来れないのよ。洋子ちゃん、良かったら付き合ってくれない? ギャラは色付けるからさ」
「九州ですか!?」
そんなことを白浜さんと話している内に政子はエスカレーターを登って行き、見失ってしまう。それで、白浜さんに付き合うのもいいかなという気分になってしまった。母に電話する。
「ごめーん。昨日までスタジオに籠もりっきりだったのに、急用で九州に行ってきたいんだけど」
「あんたも忙しいね!」
母はあまり無理しないようにねとだけ言って許してくれた。それで白浜さんに付いて行くと、旧知のParking ServiceとダンシングチームPatrol Girlsの面々が居る。
「お、冬子ちゃんじゃん!」
とParking Serviceのリーダー・マミカちゃん、Patrol Girlsのリーダー・逢鈴ちゃんから声を掛けられる。
「うまい具合に遭遇したから**ちゃんの代役」
「ああ、冬子ちゃんは代役の天才だから、行ける行ける」
「営業って聞いたけど、新譜のキャンペーンか何かですか?」
「いや実は私たちが今年のインターハイのバスケット競技のテーマ曲を歌っているんで、そのバスケットの開会式で歌うんだよ」
「へー!」
「雨宮三森さんの作詞作曲で『走れ!翔べ!撃て!』という曲なのよね」
「雨宮三森って言ったら、元ワンティスだっけ?」
「あ、それ絶対に『元ワンティス』と言っちゃいけないんだよ」
「へ?」
「ワンティスは解散した訳ではないから単に『ワンティス』と言わないといけない」
「え?そうだったんだ?」
「うっかり雨宮さんの前で『元ワンティス』と言っちゃった子が、罰といわれてホテルに連れ込まれたという話」
私は眉をひそめる。
「それってただのレイプでは?」
「しー!」
「そんなこと言ったら、お怒りくらうよ」
「干されちゃう。あの人、業界に影響力大きいから」
「うーん。困った人だなあ」
ちなみにこの時期、私は「モーリーさん」と既に知り合っていたのだが、その人がまさか雨宮三森先生とは、全然気付いていなかった。
Parking ServiceとPatrol Girlsは、インターハイの行われる佐賀に行くついでに、九州各地でキャンペーンをして回るということだった。でも、私にはバスケの開会式にだけ出てもらえばよいと言われた。
「ダンスのフォーメイションをバスケットっぽくまとめたんだけど、6人・6人でないと、うまくまとまらないのよね」
「でもバスケって5人なのでは?」
「Parking Serviceは6人だし」
「確かに」
「**ちゃんが行けないという連絡が入って、OGの**ちゃんに連絡したら、良いけど、明日は別件の仕事が入っていて出られないというのよね」
「でも明日が本番なんですね」
「そうなのよ! だからどうしよう?と思っていた所で洋子ちゃんに会ったのは千載一遇という感じ」
「その後は**ちゃんに入ってもらうから」
それで彼女たちと一緒に福岡空港行きに乗り込む。私は政子はどこに行ったのかなあなどと思いながら、逢鈴と機内でおしゃべりをしていた。
インターハイは佐賀と聞いたので、佐賀市に行くのかと思ったらバスケットは佐賀市ではなく唐津市だと言われる。それで福岡空港から唐津行きの電車に乗り継いだ。
「明日からの移動にはマイクロバスをチャーターしているんだけど、今日は電車で」
明日のバスケットの開会式は唐津市内の体育館で行われるのだが、その関係で唐津市街地のホテルはバスケットの選手で埋まっているということで、唐津から更に路線バスに乗り、朝市で有名な呼子の旅館にその日は投宿した。
「洋子ちゃんの帰りの航空券を手配するけど、明日帰る?」
「開会式は何時ですか?」
「午前中」
「だったらついでに寄る所があるので、オープンにしておいてもらえませんか?」
「いいよ」
その時私が思ったのは、このインターハイの陸上に出場する、中学の時の先輩・絵里香さんを激励しに行こうというのと、武雄まで行って、松原珠妃の楽曲の譜面を蔵田さんに渡さなきゃということであった。
白浜さんに頼んで宿を調べてもらったら、佐賀市内はインターハイの選手で埋まっているものの、武雄には宿の空きがあるということだったので、それを押さえてもらった。8月1日チェックアウトにしておく。それまで武雄で宿に籠もって楽譜を仕上げることにする。絵里香さんも確か1日に佐賀に入ると言っていたから、そちらが終わってから会いに行けばいい。
この27日の晩も私は譜面のとりまとめをしたかったのだが、ここ数日の作曲作業の疲れが出たようで、(部屋付きの)お風呂に入った後は、他の子とおしゃべりした記憶も定かでないくらい、すぐに眠ってしまい、起きたらもう朝であった。
明けた7月28日(土)。
新鮮な玄界灘の海の幸をたっぷり使った朝御飯に舌鼓を打ってからマイクロバスに乗り込み、唐津市街地に入る。ここで今回の九州キャンペーンに同行してくれるレコード会社の九州支店の担当者さん、及び補助スタッフさんたちと合流した。女性のユニットというのに配慮してスタッフも全員女性である。結果的に男性はマイクロバスの運転手さんだけである。
開会式の行われる体育館に入る。2階の事務室から選手入場を見る。
「凄いなあ。なんか格好いい。私たちと同年代の子たちだよね」
とマミカが言う。
「向こうから見るとマミカちゃんたちを凄いなあ、自分たちと同年代なのにと思っているかもよ」
と言って私は微笑んだ。
「そうかもね!」
「みんな、それぞれ自分の才能が与えられた分野で頑張ればいいんだよ。あの選手たちはバスケットの才能があるんだし、マミカちゃんは歌の才能があるんだし」
「私の歌が下手なのは分かってるくせに」
「そういうフォローのしようがない発言しないでよ」
「あははは」
開会式は、優勝旗の返還、偉い人のお言葉、そして選手宣誓、と進んでいく。そして一通り終わった所で、Parking Serviceのステージである。
私たちはステージに走り出して行き、マミカが「こんにちは! Parking Serviceです。ちゃんと聴いてくれないと逮捕しちゃうぞ!」と、決まり文句を言って歌い出す。伴奏はマイナスワン音源である。
Parking Serviceのダンスチームに参加するのは初めてではないのでたいていの曲は踊れる自信があったのだが、『走れ!翔べ!撃て!』は初めてなので、朝から逢鈴にビデオを見せてもらっていた。確かにバスケットのドリブルをしたり、シュートをしたりする動作が入っていて複雑である。Parking Servieの6人とPatrol Girlsの6人とで、各々1on1をやるような動作が間奏部分に入っていた。そして私は踊りながら思っていた。
この曲って凄くセンスが若い!
しかも何だか未熟な感じさえする。これって30歳近い?ベテランの雨宮さんの作品とは思えない。実は10代のゴーストライターではないかという気がした。そしてこのくらいの曲なら自分でも書けそうな気がしたのである。
私は踊りながら考えていた。
やはり蔵田さんみたいな凄い人の作品に並ぶような作品を自分が書ける訳無い。もっと等身大の歌を書けばいいのだということを。
それはこういう「若い曲」を自分でパフォーマンスしていて、初めて認識したことであった。
Parking Serviceの出番が終わって控室の方に下がる。次は地元の高校の吹奏楽部が出て、このインターハイ全体のテーマ曲『君色の風〜想〜』、ZARDの『マイ・フレンド』(スラムダンクのエンディングテーマ)、そして『走れ!翔べ!撃て!』
に最後は『若い力』を演奏した。
その吹奏楽部の演奏が行われている間、控室では次の出番になる、唐津くんちのお囃子の人たちが練習をしていた。私はその中の笛を吹いている人に耳を奪われた。
「なんか不思議な音がする笛ですね」
と私はついその人に語りかけてしまった。
「あ、興味ある?」
「ええ。私、横笛も大好きなので。去年京都に行った時も、横笛1つ買って来て練習してるんですよ」
「でも横笛って地域地域で全然違うでしょ?」
「そうなんですよね〜。なんかピッチとか音階も全然違うし」
「そうそう。その地域の音や節があるからね」
「この笛、不思議な音色がしますね。なんか格好良い」
「これ、この音が出るようになるまで、結構練習が必要なんだよ」
「へー! やはりお兄さん、小さい頃から吹いてたんですか?」
「うんうん。保育所の頃から吹いてたよ」
「すっごーい!」
笛の人は私が「お兄さん」などと言ったので結構気をよくしたようで、饒舌になる。この年代の人が実際問題としてParking Serviceなんて知っているとは思えないので、私のこともアイドルと思っているかも知れないなとチラっと思った。
それで色々話してたら
「何なら1本あげようか?」
と言われて、予備の?笛を頂いてしまった。
「わぁ!ありがとうございます!」
「それ練習して、そのうちあんたたちのCDにもフューチャーしてよ」
「はい、その内入れます!」
それでその人たちの出番が来て、ステージに出て行った後、試しにその笛を吹いてみたのだが・・・・
音が出ない!
うーん。帰ってから練習しよう、と思って私は笛を自分のバッグに入れた。
彼らのステージが行われている間に「そろそろ出ましょう」と言われ、会場の外に出た。開会式が終わると選手たちも出てくるので、混乱を避けるため先に出ようということである。
マイクロバスに乗り込む。
「じゃ、洋子ちゃんは唐津駅で降ろせばいいかな?」
「はい、済みません。よろしくお願いします。それで唐津線で久保田に出ます」
Parking Serviceのメンバーはこの後、取り敢えずマイクロバスで博多に戻り、夕方から天神地下街でパフォーマンスということであった。夕方なら応援で入ってくれることになってくれている**ちゃんが間に合うらしい。
それで駅の方に向かっていたら、途中で何か鈍い音がして、バスはスピードを落とし、脇に寄せて停まる。
「どうしました?」
「どうもパンクのようです」
「あらら。スペアタイヤはあるんですか?」
「あります。交換します。少しお待ち下さい。エンジン停めるので窓開けてもらえますか?」
エンジンを切ってエアコンが停まると、バスの車内は数秒で温室になる。
運転手さんが降りてタイヤの交換作業を始めたようであるが、時間が掛かっているので、前の方に座っていた私とマミカが降りて様子を見る。運転手さんはスペアタイヤは取り出したものの、どうもジャッキアップに苦労しているようだ。これ時間掛かるかな?などと言っていた時、
「パンクですか?」
と声を掛ける中年の男性があった。一緒にユニフォームを着た女子が15-16人ほどいる。バスケの選手だろうか?
「ええ。でもこのジャッキ弱いもんで、なかなかうまく持ち上がらなくて」
「貸してください。でも乗ってる人は降ろした方がいい」
とその男性は言った。
それは私も言おうと思っていたことだったので、白浜さんに言って全員降ろす。そして、声を掛けてくれた男性が運転手さんと協力して、タイヤ交換を始めた。
ユニフォームを着た女の子たちが騒ぐ。
「ファンなんですー」
などと声を掛けてくるので、メンバーは笑顔で握手をしている。
「サインもらえますか?」
などと言って、手帳にサインしてもらっている子もいる。
「冬子ちゃん、列車の時刻は大丈夫?」
とマミカが私に訊いた。
「まだ大丈夫だよ。それに時間が掛かるようだったら、最悪、ここから歩いて行っても間に合うと思うから」
と私は答える。
そのマミカも何人かのバスケガールと握手をしたりサインを書いてあげたりしていた。
「そうだ。冬子ちゃん、さっき何か笛を吹いてたね」
とマミカが言う。
「これでしょ?」
と言って、私はさっき頂いてしまった唐津くんちの笛を取り出す。
「素朴で良さそうな笛だね」
「いいですね、いいですね、と言ってたら、1本もらっちゃった」
「凄い、凄い」
「でも実は私は横笛は苦手なんだよね」
と言って実際吹いてみせる。あまりまともに音が出ない!
その時、バスケガールのひとりが
「あの、ちょっとその笛貸してもらえません?」
と声を掛けてきた。
「いいですよ」
と言って、私は笛の歌口をウェットティッシュで拭いて彼女に渡した。
すると彼女はその笛を構えて息を吹き込む。何とも言えぬ美しい音色が響く。あ!これさっきのお囃子の節じゃん。凄い記憶力だなと私は思った。でも何だろう。美しい音色だけど、さっきのお囃子の人が出した音色とは違う。笛は同じでも、吹き手によって音色は変わるんだな、というのを私はあらためて思った。
そうだ。だから私が自分自身で書く曲は、蔵田さんの曲とは違っていいんだ。
「ありがとうございました。これいい笛ですね」
と言って彼女は笛を返してくれた。
「あなた上手いですね! 笛、色々なさるんですか?」
「ええ。篠笛、龍笛、フルートと吹きます」
「それで!」
「今日は笛はどれも持って来てないので、吹いてみせられませんけど」
「バスケの選手さんですか」
「はい」
「頑張って下さいね」
「そちらはデビュー前夜くらいの方かな。そちらも頑張って下さい」
「はい、ありがとうございます」
それで私は彼女と握手した。その時、私の心の中のどこかで小さな鈴の音がしたような気がした。
やがてタイヤ交換が終わる。私たちはバスケガールたちに手を振りバスの中に戻った。それで私は唐津駅で降ろしてもらい、武雄温泉駅までの切符を買った。
列車の出発時刻まで30分ほどあったので、駅前の商店街で取り敢えずの着替えと手荷物を入れられそうなカバン、それに非常食を買ってきた。
列車に乗り込み、景色を見ながら揺られている内に、レールと車輪が作り出す「タタンタ・タン、タタンタ・タン」というリズムが、まるでドラムスの音のように思えてきた。そしてまるで空中のどこかから、そのリズムに合わせたメロディーが聞こえてくるような気がした。
私は五線紙を取り出すと、その聞こえてくるような気がしたメロディーを書き留めていった。
その曲は久保田のひとつ手前。小城(おぎ)駅に着いた時、ひととおりの完成を見た。小城羊羹で有名な町である。車窓から、田圃に多数の稲穂が見える。日本にはこういう美しい風景がまだまだ残っているんだなあと私はあらためて思った。
そして私はその五線紙のタイトルの所に「花の里」と書いた。
うーん。まだまだ楽曲として未熟! でももう少し頑張れば《ボーダーライン》を越えられるかも知れない。そんな気がした。
久保田で長崎本線の佐世保線直行の列車を待って乗り換え、30分ほどで武雄温泉に着く。龍宮城みたいな門が迎えてくれる。私は送迎のマイクロバスで予約していた旅館に入る。たくさん汗を掻いていたので、取り敢えず温泉に入りに行く。
着替えとタオルを持ち「→大浴場」の案内を見ながら廊下を歩いて行く。エレベーターに乗って6階まで上がる。そして暖簾が2つ並んでいる所で立ち止まり、しばし悩む。
むむむ。これはどちらに入ればいいんだ?
片方は「桐の湯」と書かれた白い暖簾、片方は「桜の湯」と書かれた黄色い暖簾である。
私が悩んでいたら、そこに浴衣を着た従業員さんらしき人が通りかかる。
「お客様、お客様は桜の湯でございます」
「ありがとうございます」
と私は笑顔で答えて、桜の湯の黄色い暖簾をくぐったが、その中が果たして男湯なのか女湯なのか、若干の不安があった。
しかし中に入ると、60代くらいの感じの女性(胸があるから多分女性)が3人ほど、上半身裸のままでおしゃべりしていたので、私は女湯に誘導されたんだなと認識した。
取り敢えず私は女に見えたんだなと安心するが、あらためて思う。
確かに桜と桐では桜の方が女性的なイメージかも知れないけど・・・分からないよう!これ。
私はその女性たちに一礼してから、ロッカーの戸を開けて、着替えを入れ、服を脱ぎ始める。全部脱いで浴室に行こうとした所で、そのおばちゃんたちから声を掛けられる。
「あんた、どこから来なさった?」
「こんばんは。東京から来ました」
「ああ、なんか垢抜けてると思った」
「あんた、ウェスト細いね」
「太らない体質みたいで」
「でも、おっぱい小さいね」
「お父さんに似たんです」
と言ったら、何だか大笑いしていたので、その間に一礼して中に入った。
身体を洗って浴槽に浸かるとほんとに身体の疲れが取れていく感じだ。
あれ?そういえば温泉に入るのは久しぶりかなと考えた。昨年の夏ドリームボーイズのキャンペーンとPV撮影で和倉温泉に泊まって以来だというのを認識する。でも高校に入ってからは初めての温泉だ!
でも温泉とか銭湯に入るといえば、もう女湯に入るのが普通の感覚になっちゃったなと思う。今更男湯には入られないけどね! おっぱい結構膨らんできてしまったし。
露天風呂もあるので、そちらにも行ってみる。ここは6階なので展望が良い。東の空から、まん丸に近い形のお月様が登ってきている。今夜は十五夜くらいだろうか、その少し前だろうかなどと考えている内に、どこからともなくメロディーが浮かんでたきた。
えーん。今書き留められるようなものがないぞ!? と焦る。
私はそのメロディーを忘れないように、ドレミで復唱しながら頭に刻みこんだ。
このくらい復唱しておけば何とかなるかなと思っていた時、露天風呂に若い女性が入って来た。月明かりでその顔が見える。私は「うっ」と声をあげそうになった。
政子だ!
きゃー。こんなところで、しかも女湯に入っているの見られたら、最悪警察に通報されるぞと焦る。
しかし私がいる所はちょっと陰になっているせいで、どうも向こうはこちらの顔までは判別できないようである。
「あれ? 他にも人がいたんですね。誰もいないかと思った」
「こんばんは。高校生さんですか?」
と私は焦りながら、声色を使って答える。
「ええ。こんばんは。諫早のお祖母ちゃんちに行くつもりだったんですけど、武雄温泉でホームに降りて自販機でジュース買ってたら、乗ってた特急が発車しちゃって」
ああ、政子らしいと思う。
「それは大変でしたね。最近の列車って停車時間が短いですもんね」
「そうなんですよねー。荷物は全部列車の中。駅で相談して連絡してもらって荷物や切符は確保してはもらったんですけど、小銭入れと携帯しか持ってないので、明日親戚の人に荷物を受け取ってこちらまで持って来てもらうことにして、今夜はここに泊まることにしたんですよ。だから宿代も明日にならないと払えない」
「いや、ほんとに大変でしたね」
と言いながら、私は何か違和感を感じていた。少し考えていて、そのことに気付く。
「あのぉ、諫早に行くとおっしゃいました?」
「はい」
「なんで、武雄温泉を通るんです?」
「ああ、それ親戚の人からも言われました。なんか博多を出る時、長崎行きと佐世保行きが連結してたみたいなんですよ」
長崎行きの「かもめ」と佐世保行きの「みどり」は《二階建て列車》として鉄道好きの人の間では有名である。これに更に「ハウステンボス」まで連結されて《三階建て列車》になっている場合もある。諫早に行くには長崎行きの「かもめ」に乗る必要がある。
「佐世保行きの方に乗っちゃった?」
「そうみたい。私、全然気付かなかった」
両者を分離する肥前山口では車内アナウンスがあるだろうから、たいていの人はそこで気付くと思うんだけどな。多分政子のことだから、ボーっとしていてそのアナウンスをちゃんと聞いていなかったのだろう。
政子とはその後は割とふつうの世間話もした。列車にユニフォーム着ている人がたくさん乗っていたというので、今インターハイをやっているんですよと言うと全然知らなかったと言う。
「誰か知り合いが出てます?」
「ああ、はい。陸上の1500mに先輩が出るんですよ」
「すごーい。1500mって、どのくらいの距離を走るんですか?」
1500mは1500mなんだけど!?
「あ、えっとトラック4周より少し短いくらいかな」
「へー。トラックって375mくらい?」
「あ、いえ400mですよ」
と答えながら、私は今1500÷4を一瞬で暗算したのか。凄いな、この子と思っていた。
結局政子とは20分近く話していたが、30代の女性グループが5-6人で露天風呂に来たタイミングで
「それじゃまた」
と言って、顔を見られないように気をつけながら出て、急いで脱衣場に抜け、服を着て部屋に戻った。
部屋に戻ってから露天風呂で月を見ながら思いついたメロディーを急いで書き留める。ついでにそこから展開していって、ABABCACという56小節の歌に仕上げた。こういうモチーフから曲を作り上げること自体は、蔵田さんの作曲のお手伝いで、いやというほどやっている。
その曲を仕上げた余韻に私はしばし酔っていたが、ハタと気付く。
大変だ!静花さん(松原珠妃)に渡す曲を10曲しあげないといけなかったんだった!!
それで私は近くのコンビニに行って、おやつと飲み物をたくさん買って来て、曲のまとめ作業を始めた。
その時、私は何か不思議な感覚を覚えていた。
なんか・・・・
普段より、スイスイ行くような気がする!?
私は月末までに10曲のとりまとめ作業をしなければならないのだが、その晩、深夜3時までに2曲のまとめが終了し、仮眠して起きた(29日)6時頃から作業再開して、お昼までに更に3曲まとめることが出来た。こんなハイペースで作業ができるとは思ってもいなかった。
旅館に付属している割烹料理店でランチを食べた後、また部屋に籠もって作業を続ける。さすがに疲れが出てきたので、1曲だけまとめてから仮眠する。目が覚めたら夕方だったので、またお風呂に入って来てから作業再開。深夜までに2曲まとめてこれで8曲である。
コンビニで食料を買ってきてから、朝まで頑張って残り2曲を書き上げた。日付は7月30日である。優秀優秀! 31日ぎりぎりまで掛かるかと思っていたのだが、1日半の余裕で仕上がってしまった。
そして私は悩んだ。
蔵田さんに電話する。
「お早うございます。実は残り10曲分の整理作業が終わったのですが」
「もう終わったの!?」
「なんか調子がいいんですよ。それで実は最初にお送りした曲をもう一度手直ししたい気分になって」
「ほぉ」
「『ゴツィック・ロリータ』をもう一度整理し直させて頂けませんか?」
「だったらあらためて整理して仕上がったら、こちらにファックスしてよ。それで前のと新しいのと、俺が判断して良い方を使う」
「分かりました。でも今武雄温泉にいるんですけど」
「こちらに来てるの!?」
「ちょうど別件で仕事があったもので」
「どこかホテルに泊まってる?」
「○○館です」
「いい所に泊まってるじゃん! じゃ仕上がったら連絡してよ。迎えに行くから」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
それで私は朝御飯を食べてきてから、ブラックコーヒーを飲んで眠気を覚まし、あらためて最初に書いた曲、『ゴツィック・ロリータ』の楽譜編集作業を始めた。
何かこの九州旅行で自分の感覚が変わったような気がした。それで東京のスタジオでまとめ作業をした時には「これで最高」と思っていたものが最高とは思えなくなってしまったのである。
自分で納得いくまで試唱しては調整し、また音符を修正しては歌ってみる。しかしどうも微妙な所が「かゆい所に手が届かない」ような感覚である。
私はフロントに電話してみた。
「この辺に大きな電器店とかありますか?」
「ベスト電器がございますが」
「ちょっと行ってきたいのでタクシー呼んでもらえます?」
「かしこまりました」
それで私はベスト電器まで行き、電子キーボードを1個買って来た。それで歌うだけでなく伴奏を弾いてみて、それで更に調整を掛ける。
結局その日の夕方まで掛けて、私は『ゴツィック・ロリータ』を自分でもかなり納得のいく線まで仕上げることができた。
蔵田さんが迎えに来てくれたので、念のためキーボードも持ち、一緒に樹梨菜さんの実家に行く。樹梨菜さんが同じドリームボーイズのバックダンサーでサブリーダーの洋子ちゃんと紹介してくれたので、樹梨菜さんのお母さんは
「樹梨菜の女の子の友だちがうちに来てくれたの初めて!」
などと言って、歓迎してくれた。
ああ。樹梨菜さんは実質男の子だから、友だちもみんな男の子だったんだろうなと私は思った。
晩御飯も頂き、それを食べながら、蔵田さんは私の書いた譜面を読んでいる。
「洋子」
「はい」
「お前、何があった?」
「あの・・・何か変ですか?」
「違う。お前、物凄く進化してる。もうお前は俺の助手じゃない」
「はい?」
「1本立ちしていい、プロのミュージシャンだよ」
「えっと・・・・つまり首でしょうか?」
「違う違う。こんな凄い弟子を手放さないよ。だけど、これからは自分の仕事を優先しろ。俺の助手よりな」
「自分の仕事と言われても・・・」
「すぐに仕事がもらえるようになるさ。取り敢えず、今後、お前の取り分は10%に上げるから」
「ありがとうございます」
「私は?」
と樹梨菜さんが言うが
「お前の分はそのまま。特に進化してないし」
とあっけなく蔵田さんは言った。樹梨菜さんは膨れっつらをしていた。
松原珠妃はこの年『ゴツィック・ロリータ』が『硝子の迷宮』以来2年ぶりのミリオンセラーとなりRC大賞の最優秀歌唱賞を受賞することになる。ちなみにこの年、津島瑤子も『See Again』で歌唱賞を受賞している。
松原珠妃と津島瑤子はどちらも木ノ下大吉先生の曲が出世作になった、いわば姉妹格の歌手同士である。この時、私はまだ『See Again』を書いた鴨乃清見という作曲家が、インターハイ・バスケットの開会式で自分がダンサーとして参加して演奏した『走れ!翔べ!撃て!』の本当の作曲家と同じ人であるとは、思いも寄らなかった。
その晩は結局夜通し蔵田さんと2人で楽曲の検討を続け、私は2日連続の完徹となった。それで31日は朝旅館に帰ると、夕方まで半日眠り続けた。旅館の人が生きてるかどうか心配になり、何度か部屋の中に入って、私が息しているのを確かめたらしい。
8月1日の朝。旅館をチェックアウトする。結局予定通り28日から4泊したことになる。
さすがに今回は疲れたなと思いながら旅館の送迎バスに乗って武雄温泉駅まで行った。JRで佐賀まで移動すると絵里香さんにメールする。この日、インターハイの陸上に出場する絵里香さんが佐賀入りすると聞いていたのである。
お昼すぎに佐賀駅に到着するということだったので、私は駅内のトイレで男装に変更して彼女の到着を待った。
ほんとに12時を過ぎてすぐ、絵里香さんは特急「かもめ・みどり」で到着した。
「お疲れ様です。おひとりですか?」
「うん。うちの高校からの参加者は私ひとりだけだから」
「でも凄いですよね。インターハイなんて。私には夢のまた夢って感じです」
「地区大会、都大会と勝ち抜いてやっとインターハイだからね。他の競技見た?」
「唐津のバスケットをちょっとだけ。開会式を見たんですけど、ここに集まった選手がみんな、各都道府県大会を勝ち抜いてきたのかと思うと、凄いなあと思いました」
「出て来ただけでも、みんな凄い選手ばかりだけど、その中で頂点を極める人たちがいるから」
「絵里香さんは頂点でしょ?」
「とてもとても。強敵がいっぱい居るよ」
「だって都大会で凄い記録出したんだから」
「あれはまぐれだからねぇ。ところで冬」
「はい?」
「男の子の格好で良かったの?」
「なんでですか〜?」
「だって知ってる人のいない所でなら、女装しちゃえば女で通るよ」
「私、女装して人前に出る勇気無いです」
「それは絶対嘘だ」
「なんで信じてくれないんだろう」
「君は絶対女の子の格好でたくさん出歩いているに決まっているからだよ」
「そんなことできたらいいんですけどねー」
「まあいいや。東京に戻ったら、また女装させてあげるね」
「あはは、お手柔らかに」
宿舎で食べて下さいと言って、小城羊羹と、嬉野茶のティーバッグを渡して、握手して別れた。
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【夏の日の想い出・鈴の音】(1)