【夏の日の想い出・花園の君】(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2013-06-07
それは高校1年の9月だった。土曜日なのでスタジオに行って麻布さんの助手をしつつ、その日は新人アイドル歌手・秋風コスモスちゃんの音源制作をしていたので、例によって仮歌を歌ってあげたり、歌唱指導などもしていたが、その日は作曲家さんが午後から用事があるということで、14時で作業終了となった。
スタジオを出てから、駅で電車を待っていたら、少し前の方に政子と花見さんが並んで待っているのに気付いた。やっべー、この姿(女子制服姿)を見られたらまずいと思い、移動しようかと思った時だった。
バチンという音がする。見るとどうも政子が花見さんを平手打ちしたようだ。やれやれ何だろう?花見さんが政子の服の下にでも手を入れようとしたのか、あるいは花見さんの浮気がバレたのか。その時、上り電車が入って来た。花見さんが政子に「一緒に乗ろう」という感じで促しているが、政子は乗りたくないようだ。乗車口で揉められるとハタ迷惑である。駅員さんが寄ってきて、あんたたち乗るの?乗らないの? と言うと、政子は「この人だけ乗ります」
と言って花見さんを電車に押し込む。それと同時にドアが閉まり、政子だけホームに残った。
私はちょっと微笑んだのだが、その政子が振り返ってこちらを見た。その瞬間目が合ってしまった。政子が寄ってくる。
「あの、すみません。勘違いだったらごめんなさい」と政子。
私は開き直った。
「中田さん、また花見さんと喧嘩したの?」と私。
「やっぱり唐本さんだ!」と政子は嬉しそうに言った。
「でもどうしたの?その制服?」
「友だちにハメられてこれ着せられた」
「あはは、やっぱり唐本さんって、そういう服を着せたくなるんだよ。でも凄く似合ってるよ。月曜からその服で学校に出ておいでよ」
「恥ずかしいよぉ」
「ね、ね、どこか行く所?」
「恥ずかしいから帰ろうと思ってた」
「せっかく可愛い格好してるのにもったいないよ。ね、植物園にでも行かない?『女の子同士』でさ」
「そうだね。今帰るとお母ちゃんいるから、お母ちゃんが買物に出かけたくらいのタイミングで帰ろうかな」
そういう訳で、私と政子は次に来た下り電車に乗り、植物園に出かけた。
「今日は女の子同士だから名前で呼び合おうよ」
「うん」
「でも冬子って、ほんとに女の子の服を着せた時に違和感が無いなあ。ね、ね、本当は女の子で、男子を装っているということはないの?」
「それはないと思うけどなあ」
「冬子、私が性別のこと訊くと、だいたいそんな感じで自信の無さそうな返事をするよね」
「そうかな?」
「おちんちんは付いてる?」
「あ、えっとどうだろう?」
「ほら、やはり自信無さそう」
「うーん」
政子はせっかく私が女子制服姿なら、自分も制服着てくれば良かったなあなどと言っていた。
電車を終点で降りて植物園に中高生料金300円を払って入る。
「今の時期だと何が咲いてるんだろう?」
「彼岸花とか金木犀とかかな」
「私、彼岸花ちょっと怖い」
「ああ、少し毒々しい雰囲気があるよね」
少し歩いて行くと金木犀の香りがしたので、もっぱらその香りを鑑賞する。その他、シュウメイギク、スイフヨウ、ムクゲ、キンロバイなどが咲いているのを見る。
「お花を見てるととても優しい気持ちになる」
と私が言うと
「ああ、私も」
と政子が言う。
「だけど、花って実は生殖器官だよね」
「そうだね。でも生殖器官って実は美しいのかもね」
「かもね」
「・・・私ね」
「うん」
「やはり自分はレスビアンかもと思う」と政子。
「ああ、それはそうだと思ってた」と私。
「やはりそうかなあ。男の子の器官ってあまり見たいと思わないけど、女の子の器官は見てもいいなと思う」
「ふーん。別にそれはそれでいいと思うよ」
「そっかー」
と言って政子はしばらく考えていたが訊く。
「冬には男の子の器官が付いてるの?女の子の器官が付いてるの?」
「えーっと、どっちだろ?」
「ああ、やっぱり自信が無い」
「う、うん」
「ね」
と言って政子は私の顔を覗き込むようにする。
「ん?」
「このあとホテル行ってみない?」
「へ?」
「ホテル代くらい、私持ってるよ」
「なんでそうなる?」
「冬に男の子の器官が付いてるか、女の子の器官が付いてるか確かめたい」
「でもやばいよー、そんな所に行くのは」
「じゃ、今触らせて」
「えー!?」
と私が言っている間に政子は私のお股の所に手を当てた。
「あっ」
「やっぱり、男の子の器官、無い」
「えーっと」
「まあいいや。今日は冬子は女の子だということにしておこう」
「うん」
「私、男の子より女の子の方が好きだしね」
「ふふふ」
一緒に温室に入る。蘭の花がたくさん咲いている。香りも強烈だ。
「インドネシアにでも来た気分」
「実際、その付近で咲いている花だろうね」
シンビジウム、デンドロビウム、パフィオペディルム、カトレア、ファレノプシス、・・・どれも強く自己主張しているかのようだ。
「日本の菊とかツツジとかとは、花の持つ空気そのものが違う感じ」
「そそ。お花ではなくて、蘭という別の種類の生物かと思いたくなる」
「菊や桜は集団咲きで映えるけど、カトレアにしてもファレノプシスでも、ただ一株だけで強い存在感がある」
様々な蘭に混じって、バナナとか、パイナップル、マンゴーなどの実もなっている。
「あ、果物が美味しそう」
「勝手に取らないように」
「うーん。あまり目の前にあると理性が・・・」
「じゃ、温室出よう」
促して温室の外に出る。きれいに剪定された、ヨーロッパの宮殿の庭園のようなところを散策する。政子は
「おっぱいは無いのかな?」
などと言って私の胸に触ったり、
「あ、ヒゲは無いんだね。ツルツル」
などと言って顔を触ったり
「あ、やはり脇毛は剃ってる」
と言って袖から手を突っ込んで確認したりしていた。
「よく見たら、冬子って眉を細くしてる」
「あ、えっとまあ眉は細いのが好きかな」
「ふーん」
と言って意味ありげな笑顔で私を見つめた。
「だいたい、冬子って、女子制服着せられて『恥ずかしい』とか言ってる割には全然恥ずかしがってるそぶりが無いんだけど」
「えーっと・・・」
「むしろ男子制服を着てる時より落ち着いてる感じ」
「そ、そうかな?」
やがて、庭園を抜ける。
「わあ」
私たちは一瞬見とれて無言になった。
「きれーい」
そこには一面のコスモスが赤・白・ピンクの花を咲かせ、視野いっぱいに広がっていた。
「ここすごいね」
「ちょっと座ろう」
他にも座って鑑賞しているカップルや家族連れなどがあった。私たちも並んで座り、しばし、その素敵なコスモスの風景に見とれていた。
「ね、ね、冬。何か紙持ってる?」
「うん」
私は今日スタジオでもらった秋風コスモスのレターセットを渡した。
「秋風コスモスか! この情景で詩を書くのにはピッタリだけど、冬ってこんな下手くそな子の歌も聴くんだ?」
「ああ、別にファンという訳じゃなくてバイトの関係でもらったんだよ」
「へー」
政子は珍しく詩を書きながらおしゃべりを続けた。
「私たいがい歌が下手だって言われるけど、秋風コスモスよりは上手い気がする」
「うん。政子の方がずっとうまいよ」
「あの子が歌手になれるなら、私も歌手になれるよね?」
「ああ、政子は歌手になれると思うよ」
と言ってから、政子がステージに立って歌を歌っている姿を想像した。何となく様になっている気がした。政子はどんなできごとにも超然としているから、舞台度胸はありそうな気がする。それまであまり考えたことは無かったが、政子って歌手向きの性格かも知れない気がした。
結局政子はおしゃべりしながら詩を書き続け、15分ほどで書き上げた。
「できたー!」
「可愛い詩だね」
「これに曲を付けられる?」
「うん。できると思う」
私は政子からレターセットの残りと愛用のボールペンを受け取ると、そのレターセットにフリーハンドで五線紙を描き、その上に音符を書き記していった。
「冬、フリーハンドでもかなりきれいな直線が描けるんだね」
「うん。わりとそういうの得意」
「もしかして絵も得意?」
「ああ、小さい頃から絵はわりと褒められていた。でもボクが描く絵はだいたい少女漫画になっちゃう」
「へー。私の似顔絵とか描ける?」
「うん。この曲を書き上げたら描いてあげるよ」
そういって、私も政子とおしゃべりしながら、30分ほどで曲を書き上げた。
「歌える?」
「うん」
私は出来たての譜面と政子が書いた詩を見ながら、とりあえず1フレーズだけ歌ってみせた。
「可愛い! なんか私のイメージにピッタリ。冬って、私が思い描いてた通りの曲を付けてくれるよね?」
「多分、政子とボクの相性がいいんだよ」
などと言いながら、政子の似顔絵を最後に残った1枚のレターセットに描く。
「おお、可愛く描いてくれたなあ」
と政子は嬉しそうであった。
植物園からの帰り、政子は駅前でもらった美容室のチラシの裏に何やら詩を書いていた。
「『お払い箱』?」
「うん。あんなに浮気ばかりする人とは、もう別れちゃおうかと思ってさ。私が把握している範囲でもう5回目だよ」
「ふーん、まあいいんじゃない。ハタから見てても破綻してる気がしてたよ」
「やっぱり? 今夜電話して別れようと言おう」
「頑張ってね。でも珍しいね。政子がこんなチラシの裏に詩を書くなんて」
「チラシ程度の価値しかない奴だから」
「ああ、もう完全に冷めてるみたいね」
しかし実際にはその日政子は花見さんに泣き付かれて交際は継続することになった。
翌年の2月。私はこの時植物園で書いた『花園の君』という曲を雨宮先生の前で披露した。先生は気に入ってくださって「編曲料100万円・出世払い」で編曲してくださり、もうひとつ雨宮先生の前で即興で作った曲『君がいない部屋』
という曲とペアでデモ音源を制作した。
先生はこれをあちこちのレコード会社に持ち込み、その中で★★レコードの加藤課長に聴いてもらったものが注目され、それが結果的にはローズ+リリーのメジャーデビューにつながっていくのである。
デモ音源はあの年、もうひとつ『雪の恋人たち』『坂道』というのも作った。
『花園の君』『君がいない部屋』は私がひとりで歌ったもの、『雪の恋人たち』
『坂道』は政子とふたりで歌ったものであり、加藤課長や町添部長は、両方を聴き比べて、ふたりで歌った方がよいと判断した。
実際ローズ+リリーは私と政子のデュオで活動することになった訳だが、この時のデモ音源のうち、ふたりで歌った『雪の恋人たち』『坂道』は2009年秋に私たちの休業期間中のファンサービスとして無料公開した。
しかし『花園の君』『君がいない部屋』の方は私がひとりで歌った音源なので一般公開されることはなく、ずっと眠ったままであった。
この2009年。騒動のショックで自信喪失した政子は「ステージで歌いたいけど歌う自信が無い」と言った。その微妙な心情の政子の、心のリハビリのため、私と町添さんと雨宮先生の3人で計画して、友人だけを招いた内輪のコンサートを、ローズ+リリーが最後にホールツアーで歌った東京中野のスターホールでわざわざ会場を借りて行なった。
そのコンサートの最後、アンコールされた私と政子は『花園の君』を歌ったのだが、その時私は「ローズ+リリーが完全に復活したら、この曲を先頭曲にしたアルバムを作りたい」と言った。
その時点で私はローズ+リリーの復活は1年後くらいのイメージだったのだが、政子の心のリハビリは結構な時間が掛かり、音源制作には2010年夏に復帰したものの、ライブステージへの復帰は結局3年後の2012年春になった。
しかし政子がステージに復帰したことから、私たちはあの時に約束した通り、『花園の君』を先頭に置いたアルバムを翌年夏発売をメドにして制作に取りかかることにした。そのアルバムのタイトルは企画スタートした2012年5月の段階で『Flower Garden』とすることを記者会見で告知していた。
私はこのアルバム制作では、演奏陣にもこだわりたいと考えていた。
2012年にローズ+リリー「メモリアルアルバム」の最後のアルバムとなる『Rose+Lily after 4 years, wake up』の制作に参加してくれた、七星さん、近藤さん、ヤス、サトには、『Flower Garden』の制作にも参加して欲しいということをその時点で伝えていた。この4人は実は最初のメモリアルアルバム『Rose + Lily after 2 years』にも参加してもらっていた。そしてこの『after 2 years』に参加していたアーティストで、もうひとり私が声を掛けたのが、ヴァイオリニストの松村さんだ。
「蘭子ちゃんってかケイちゃんのCDの制作に参加するのは久しぶりだね」
と言って、松村さんはその要請を快諾してくれた。
松村さんは『After 2 years』と『恋座流星群』に参加してもらっているが、実はそれより前にKARIONのデビューイベントで一緒になったことがある。
「その蘭子はこちらでは勘弁してください。蘭子とケイが同一人物というのは、一応内緒なので」
と私は笑って言う。
そのことを知っているのはKARIONの3人、畠山さんと津田さん、ゆきみすず先生、町添さんくらいであろうか。
「だけどあの美少女ヴァイオリニストがまさか男の子だったとは思いもよらかかったけどね」
「あはは、それも勘弁してください」
「でも私がヴァイオリン弾いていいの? スターキッズにもヴァイオリニストがいるし、だいたいケイちゃんは私より上手なのに」
「そんなことないですよー。それに実はヴァイオリン6台による演奏をするんです」
「へー!」
『花園の君』のアレンジは雨宮先生が行ったものであるがヴァイオリンの音を多層に重ねてサウンドが作られている。他にもフルート、クラリネット、トランペット、トロンボーン、サクソフォーンなど様々な楽器が登場するが、ベースとなるのは、このヴァイオリン多重奏で、デモ音源制作の時は私がひとりで6回弾いて音を録っているが、その6つのヴァイオリンを微妙なタイミングで重ねるのに、雨宮先生はかなり手間を掛けてミクシングをなさっていた。
それで今回はセッションセンスの良い6人で一斉に演奏することで微妙なタイミングのずれを避けることとし、ヴァイオリンを、私と政子、スターキッズの鷹野さんと七星さん、松村さん、そして私の従姉のアスカの6人で弾こうという計画を立てたのである。
この『Flower Garden』は、普通のアルバム制作のように、ミュージシャンをどーんと集めて次々と曲を演奏して収録するという作り方はしないつもりであった。まるで14個のシングルを作るかのように、ひとつひとつの曲をそれぞれに必要なアーティストに依頼して集まってもらい制作していくという方式である。そのため、実はこのアルバムの発売日は2013年7月と定めてはいたものの、音源制作は半年前の1月から開始したのであった。
様々な人を集めるので日程の調整が大変であったが、うまく集まれる日を選びつつ、全ての録音は麻布先生のスタジオで行い、麻布先生と有咲に録音その他の作業をお願いした。全ての録音の現場に立ち会ったのは、私と政子、麻布先生と有咲の他は、全体的なサウンドのチェックをお願いした七星さんだけである。
麻布先生とは数年ぶりの再会だった。私は高1の春から高2の夏に掛けて麻布先生の勤めておられたスタジオで有咲と一緒にバイトしていたのだが、先生はローズ+リリー結成直後にスタジオの倒産を機にアメリカに行ってしまわれて、この12月に帰国なさったということだった。有咲は昨年春に、麻布先生のツテで、麻布先生が帰国後入社する予定の録音スタジオに入社し、12月までは色々な音響技術者さんのお手伝いをしていたのだが、麻布先生の帰国と共に、先生の専属主任助手になったということだった。
私と政子は1月の新譜キャンペーンが終わった後、麻布先生のスタジオを訪問し、今回のアルバム制作の計画を説明して、その長丁場の制作の音響・録音をそちらのスタジオを使い、麻布先生と有咲にお願いできないかと依頼し、快諾してもらった。
「冬ちゃんは元々歌がうまい上に物凄く器用だったからね。実質僕の専任スタジオミュージシャンという感じだったね」
などと先生は当時を懐かしむように語った。
「アイドル歌手なんかには随分歌を教えていたし、作曲家が悩んでいたら旋律を提案してみたり、何度か作曲家さんがどうしても曲が浮かばないなどという時に、冬ちゃんが曲を丸ごと作ってあげたこともあったし」
「冬、凄い」と政子。
「だから『柊洋子』という名前がJASRACにたくさん登録されたはず」と麻布先生。
「あ、女の子名前だ!」
「ああ、その名前の件は後でね」
「楽器の伴奏とかもたくさんしてたよね。キーボード・ピアノはもちろん、ギター、ベース、ドラムス、とひとりで演奏して伴奏音源作っちゃったこともあったし」
と麻布先生。
「あ、そういうのは私も見たことある」
と政子。
「三味線とか胡弓とかも弾いてたね」と有咲。
「あれ?冬って三味線弾けるの?」と政子。
「名取りさんだよね?確か」と麻布先生。
「いや、学習者名なんです。教授免許は持ってないです」
「でも冬、三味線持ってたっけ?」
「冬は三味線をギブソンのギターケースに入れてる」と有咲。
「えー!? ギブソンのギターケースに入ってるのはギターじゃなかったの?」
「えっとね。うちにギブソンのケースが3つあるでしょ? 青いテープ貼ってるのがギター(Gibson-SG Standard)、黄色いテープ貼ってるのがベース(同じく SG Reissue)で、赤いテープ貼ってるのは三味線だよ」
「知らなかった!ギブソン製の三味線なんてあったのか」
「いや、ギブソンは三味線作ってない。単にケースを利用してるだけ」
「なーんだ」
「あと冬はヴァイオリンもよく弾いてた」と有咲。
「あ、そういえば冬ってヴァイオリンも弾けるよね。私が旅先にヴァイオリン持って行った時とか、調弦はだいたいいつも冬がやってくれるし」
と政子。
「中学の時に助っ人頼まれてアマチュア楽団で一度演奏したんだよ。それで覚えたの」と私は説明する。
「へー! それクラリネットを吹いたというのと同じ頃?」
「そそ。だいたい同じくらいの時期だよ。胡弓もね。私、胡弓とヴァイオリンはほとんど同時に覚えたから、相互に影響しあった感じ。だからついヴァイオリンで『越中おわら節』弾いたり、胡弓で『愛の喜び』弾いたりしてたよ。無意識に弾いてると頭の中が混線して混線して」
「面白いかも」
そんな話を技術者控室で話していた時、若い技術者さんが入って来て
「処分する楽器、だいたいまとめましたが、みなさん、ご確認頂けますか?」
などと言う。
「処分する楽器?」と政子が訊くと
「ああ、古くなった楽器を年末に更新したんだよ」と麻布先生が答える。
「捨てちゃうの?」
「中古楽器を取り扱う所に売却する」
「ああ、なるほど」
それで麻布先生を含めて何人かの技術者さんたちがスタジオの裏手に見に行った。私と政子も何となく雰囲気でそれにくっついて行った。トラックが横付けされていて、確認したらそのまま荷台に積んで搬出する態勢である。
「あ、ギターがたくさんある」と政子。
「どうしてもギターは使用率が高いし痛みやすいね」と麻布先生。
「あれ、そこにあるのは木琴かな?」
「うーんと、鉄琴だね」
「もしかしてグロッケンシュピール?」
「そそ」
「私何だかマリンバとかグロッケンとかシロフォンとか、そのあたりの区別がよく分からない」
「まず木で出来てるのが木琴で、金属で出来てるのが鉄琴。鉄とは限らないけどね。木琴で打つ板だけなのがシロフォンで下に円筒状の共鳴管があるのがマリンバ」と私は説明する。
「鉄琴で打つ板だけなのがグロッケンシュピールで、下に共鳴管が付いてて電気で羽を動かして音を揺らすことのできるのがヴィブラフォンだよ。実際にはヴィブラフォンはアルミニウム、グロッケンシュピールは本当に鉄で出来ている」
「この鉄琴は共鳴管が付いてるね」
「うん。共鳴管は付いてるけど、羽は付いてないからヴィブラフォンじゃなくてグロッケンシュピールだよ。音域の広いグロッケンは音量不足を補うために共鳴管が一部付いてるんだ」
「へー。メタルフォンとかいうのは?」
「グロッケンシュピールの商品名。ゾノア社の商標だね。似た名前でメタロフォンというのもあるけど、これはヤマハの共鳴管付きグロッケン」
「鼓笛隊が持ってるのもグロッケンだよね?」
「そうそう。ベルリラと言うけどグロッケンシュピールの一種。他に鍵盤型になっていてチェンバロみたいに弾けるタイプもある。音は少し違うんだけど、外見が似てるから、お互いに代用されることもあるね。それから鉄の板の代りに鐘を打つようになっているタイプがカリヨンというけど、これもグロッケンの仲間」
「カリオン?」
その言葉に政子がピクッとする。
「そそ。和泉たちのKARIONの語源だよ。カリヨンという場合、元々は4個の鐘を鳴らすようになっていたものが基本形。今は20個以上あるけどね」
「4個鳴らすからカリヨン?」
「そういうダジャレはあるけど、別にカリヨンは日本語じゃないから」
「何語?」
「ラテン語だと思う。マーサ、ラテン語はできなかったっけ?」
「今度覚えよう」
「マーサって一週間で新しい言語覚えちゃうよね」
「冬が一週間で新しい楽器覚えるのと同じだよ」
「そんな一週間じゃ無理だって」
「冬はできるはずだけどなあ。でもそうか。いづみちゃんが演奏しているのがこの楽器か」
「うんうん」
政子は「ふーん」という感じでそのグロッケンを見ていたが、唐突にこんなことを言い出した。
「麻布さん、このグロッケンシュピール、買い取れませんか?」
「え?これを?」
「処分するんなら私が買ってもいいですよね?」
「あ、それはいいけど。というか、マリちゃんにならあげるよ。ね?いいですよね?」
と言って麻布さんは近くに居た所長さんに確認する。
「3000万円の契約頂きましたし、何でしたら新品のグロッケンを1台差し上げましょうか?」
と所長さん。
「ううん。私、なんだかこの子が気に入ったから」
「じゃ、それプレゼントで」
「わーい。冬、これうちの車に乗るよね?」
「ああ、大丈夫だよ」
ということで政子は処分されかかっていたスタジオの古いグロッケンを引き取ったのであった。スタジオの若い人が車まで運んでくれた。スタンド一体型なので後部座席を倒して横にして収納する。また、おまけでマレットの割と新しいのを4本付けてくれた。
自宅に戻りながら助手席で政子が訊いた。
「でもカリヨンって4個の鐘という意味なのにKARIONは3人だよね」
「元々4人の予定だったんだよ。私もメンツに入れられてたから」
「あ、そういえば、秋にいづみちゃんと会った時、そんなこと言ってたね!」
「私が抜けちゃったから、仕方無く3人でデビューしたんだよ」
「そうだったのか」
「そのこと知ってるのは私とKARIONの3人と後は麻布先生くらい。他では言わないでね」
「そんなの言わないけど、でもなんで辞めたの?」
「それは私が男の子とバレたら大騒動になるから」
「うむむ。その代わりにローズ+リリーが大騒動になったのか」
「ごめんね」
「ううん。でもいづみちゃんに冬を取られなくて良かった」
「別に和泉とは恋愛関係は無いけど」
「水沢歌月も森之和泉と恋愛関係無い?」
と政子は唐突に訊いた。私はドキッとした。
「無いと思うよ。和泉に聞いてる範囲では」
と私は冷静に返事する。
「ふーん」
と政子は意味ありげに微笑んだ。
「でもさ、冬って恋愛関係は無いとかいいつつ、女の子の友だちとかなり際どいことしてるよね?」
「そ、そうかな?」
「有咲ちゃんとか、若葉ちゃんとか、奈緒ちゃんとか、詩津紅ちゃんとか、リナちゃんとか、あと聖子ちゃんとかも、何かすごーく怪しい気がするんだけど」
こういう名前のリストが上がるのが凄い勘だなと私は思った。
「聖子ちゃんの場合は、完全に向こうの片想い。私が女の子だということを認識してくれたら自然にそういう感情も解消した」
「他の5人とは?」
「詩津紅とは体育用具室やカラオケ屋さんでひたすら一緒に歌ってただけ」
「じゃ、他の4人とは?」
「リナとはお互いのあそこ見てるけど、幼稚園の時だから」
「ふーん。じゃ残りの3人とは?」
「マーサ、今夜たっぷりサービスしてあげるからさ」
「ふふふ。どういうサービスしてもらおうかなあ」
『Flower Garden』のアルバム制作の中で、最初に制作したのは『君待つ朝』
であった。1月頭のキャンペーンの時に公開した作品であるが、ローズ+リリーの「高校四部作」の延長上にあるフォーク系の曲なので、アコスティックギター3本で伴奏することにして、伴奏はスターキッズの近藤さん、ローズクォーツのタカ、そして私の3人で弾くことにした。
「ケイちゃんってギター弾けたんだ!」
といきなりタカに言われる。
「高校時代、ケイはひとりでギター、ベース、ドラムス、ピアノ、って弾いて音源制作してましたよ」
と政子が言うと
「へー!」
と言われる。
「そのギターはケイの自前?」とタカ。
「はい、そうです。ヤマハのFG730S。近藤さん(Gibson J-185)も星居さん(Martin D-28)も良いギター持っておられて、安いギターで申し訳ないですが」
「ケイ、東北には何度かそれ持って出かけたね」
「そうそう」
「でもケイ、エレキギターはギブソンだよね?」
「うん。SG Standard。でも使いこなせてない」
と言って笑う。
「ギブソンのエレキギターは高校時代に買ったんですけど、自分の技術が楽器に追いついてない気がして、震災後に東北にゲリラライブに出るのにアコギ買おうと思った時、自分の身の丈にあった楽器がいいなと思ってこれを買ったんですよね」
「ああ」
「でもギターのプロでも実はFGが好きって人は結構いるよ」と近藤さん。
「そういう話は聞きますね」
「ケイちゃん、そのギターで何か弾いてみてよ」とタカ。
「はい」
というので、私は『ルパン3世のテーマ』を弾いてみる。
「うまいじゃん!」
「充分、普通のバンドでギター担当になれるレベル」
「でも変わったピック使ってるね」
「鼈甲ピックです。ちょっと思い出の品なんですよね」
「へー」
「ケイ、思い出の品のピック使ってて折ったらどうするの?」と政子。
「ああ、オリジナルは大事にとってある。めったに使わない。これはそのオリジナルと同じものを自分で長崎で買ってきた品」
「なるほど」
次に作った作品は『間欠泉』という作品で上島先生から2008年12月に頂いた作品である。この作品はギター、ベース、ドラムス、ピアノ、サックス、トランペットという構成なので、ふつうにスターキッズに伴奏をお願いした。
「今回のケイちゃんの意図が少し分かってきた」
と近藤さんが言う。
「そうですか?」
「普通は編曲というのは、演奏するアーティストが存在していて、そのアーティストで演奏できるようにスコアを作る。ところが今回ケイちゃんがやろうとしているのは、まず曲が存在してその曲を活かすためのアレンジを考えて、それでスコアを書き、それに合わせてアーティストを招集するんだ」
「はい、そうです。毎回こんなことできないけど、今回はローズ+リリー5周年というのと、マリの完全復帰記念ですから」
「でもマリちゃんって、休養中ですとか言いながら、結構活動してたよね」
と七星さん。
「えへへ」
「でもこの曲、格好いいなあ」と鷹野さんが言う。
「2008年12月に頂いた作品なんです。『あの街角で』とカップリングして翌年春にリリースするつもりだったのですが、あの大騒動でリリースできなくなってしまって。返上するので他の方に回してくださいと言ったのですが、私たちのために書いたものなので、リリースまで何年かかってもいいと言われて」
「でも当時の私には歌えたかどうか怪しいな」と政子。
「この歌、けっこう難しい」
「うん、歌唱力を要求する歌だね」と七星さんも言う。
「これ、既に名声が確立しているような二大スターを共演させるために書いたような作品だよ。ケイちゃんもマリちゃんにも見せ場がある」
と近藤さん。
「あの時先生はそうおっしゃってました。ケイちゃんもマリちゃんもスターだから、それを活かす曲を書いたって」
「この曲を聴いたらマリファンが騒ぎそうだ」
スターキッズにはあと2曲『ひまわりの下で』『ファレノプシス・ドリーム』という曲をお願いした。
『ファレノプシス・ドリーム』はフュージョンっぽい音作りをした。酒向さんの電子ドラム、近藤さんのエレキギターと鷹野さんのエレキベース、七星さんのウィンドシンセ(YAMAHA WX5)。そして月丘さんにヴィブラフォンを演奏してもらった。月丘さんは普段はスターキッズのキーボード奏者だが、元々はマリンバ弾きである。
『ひまわりの下で』は同じスターキッズの演奏でもアコスティック系の音作りをした。酒向さんは普通のドラムスを打ち、近藤さんとそれに私もアコギを弾き、鷹野さんはウッドベース、七星さんはフラウト・トラヴェルソ、月丘さんはピアノを弾く。これにまた香月さんに加わってもらいトランペットを吹いてもらった。
ローズクォーツにも2曲演奏してもらった。
『薔薇のささやき』はエレキギター・エレキベース・ドラムスという構成なので、マキ・タカ・サトにふつうに伴奏をお願いした。ヤスが暇そうにしていたので、マラカスを振ってもらった。
『百合の純情』は、アコスティックギターの音を入れる。タカと私でアコギを弾き、マキのエレキベース、サトのドラムス、ヤスのピアノと合わせた。
なおローズクォーツに演奏してもらう際にも、七星さんには立ち会ってもらい、全体的なサウンドのチェックをしてもらった。今回、七星さんにはアルバムの「サウンドディレクター」をお願いした。
「サウンドディレクターって何するの?」
「副調で演奏を見ていて、気がついたら色々言って欲しいんです」
「好きなこと言っていいの?」
「はい、好きなこと言ってください。私たちの音楽をいちばん理解していて、それで私たちにいちばん遠慮無く言ってくれるのは七星さんだから」
「それはいいけど、それだけでこんな凄い金額もらっていいんだろうか?」
「今回は曲ごとに演奏者の構成がかなり変わります。それぞれの曲の良さを最高に弾き出すためにそういうことをする訳ですが、その場合、誰かひとり全曲を統一して見てくれる人がいないとせっかく作った各々の曲がバラバラで統一感の無いものになる危険があるんです。だから七星さんの感覚で、ここはこういう感じにした方がいいとか、こういう音色の方がいいと思ったらそれを遠慮無く言って欲しいんですよね。そういう意味で今回のアルバム作りではこの仕事がいちばん重要なんです」
と私は説明する。
「よし。分かった。じゃ好き勝手なこと言うから」と七星さん。
「はい、お願いします」と私。
「七星さん、その金額で結婚式の費用出ますよ」と政子。
「えー!? 私まだ結婚する気無いよお」
この付近の音源制作作業は、他のレコーディングやライブの合間を縫って進めている。
お正月のキャンペーンが終わった後、『Rose Quarts Plays Girls Sound』、『言葉は要らない』の音源制作が続き、ローズ+リリーの名古屋ライブがあってライブの前は演奏する楽曲の練習でかなり時間を取られている。
そしてそれらのスケジュールの合間に、『君待つ朝』『間欠泉』『ひまわりの下で』
『ファレノプシス・ドリーム』『薔薇のささやき』『百合の純情』と収録が続いた。Flower Gardenに収録する曲はひとつひとつがシングル1枚作るのに等しい手間と時間を掛けている。
「冬、訊きたいことがあるけど」と政子は言う。
「何?」
「あんたさ、今年に入ってから何回正望君とデートした?」
「あはは、1度もしてないよ」
「冬、あんた、そろそろ捨てられちゃうよ」
「えーん、どうしよう?」
ところで政子は1月に中古のグロッケンシュピールをもらって以来、マンションの居間にそれを置いて、よく叩いていた。
「なんかこの音きれいだね〜」
「凄い高音だけど、耳障りにならないよね。きれいな音だよ」
「KARIONのCDをこないだから聴いてたんだけどさ」
「うん」
「8種類の楽器が使われてるよね」
「ほほお」
「ギター、ベース、ドラムス、ピアノ、アルトサックス、トランペット、グロッケンシュピール、ヴァイオリン。但し初期の作品はトランペットが入ってなくて代わりにフルートが入っている」
「マーサ耳がいいね。ちゃんと楽器を聴き分けている」
「トランペットとヴァイオリンの音は区別付くよ」
「でもアルトサックスだと分かってる」
「サックスってアルトサックス以外にもあるんだっけ?」
「ソプラノサックスとかテナーサックスとかバリトンサックスとかあるけど」
「そうか。それは知らなかった」
「おっと」
「でもKARIONのホームページを見たらバックバンドの人って5人」
「うん。リーダーでギターのTAKAOさん、サブリーダーでサックスのSHINさん、ベースのHARUさん、ドラムスのDAIさん、トランペットのMINOさんだよ」
「よく知ってるな」
「旧知の仲だから」
「この他にグロッケンをいづみちゃんが弾くのね」
「そそ。いづみは自宅にマーサが使ってるのと同じシリーズのグロッケンを持ってて、それで練習してるよ」
「同じシリーズなんだ?」
「そうだよ」
「よし。いづみちゃんに負けないように頑張ろう」
「うん、頑張って」
「残りはサポート?」
「じゃないかな。毎回サポートの人入れてるんだろうね、ピアノとヴァイオリンは」
「ふーん。でも毎回同じ人がサポートで入ってるのかな?」
「さあ、最近は音源制作には関わってないから分からないけど」
「だって凄く音が溶け込んでるんだよ。何年も一緒にやっている人同士でないとこういう音にならないと思うんだよね」
「ああ」
「12月に招待券もらって冬と一緒にKARIONのライブ見に行った時は、グロッケンの人とキーボードの人とヴァイオリンの人に違和感があったし、ずっと以前に見に行った時も同じようなことを感じたけど、このCD音源でピアノ弾いてる人とヴァイオリン弾いてる人はずっと他のメンバーと一緒にやってる人だと思った」
政子は本当にこういう感覚が鋭いなと私はあらためて感心した。
「へー。もしかしたらスターキッズでの香月さんや宮本さんみたいな存在の人なのかもね」
「ああ!そういう感じの人か」
3月になってから『桜のときめき』『カトレアの太陽』といった曲を制作する。
『桜のときめき』はピアノ・ヴァイオリン・フルート・クラリネットという伴奏で、ピアノは高校の時の友人の美野里、政子のヴァイオリン、七星さんのフルート、私のクラリネットで演奏している。美野里はこの曲のピアノパートに指定したひじょうに複雑な音の進行を難なく弾きこなした。
「古城さんのピアノが凄い」
と七星さんが感嘆していた。
「美野里は今♪♪大学のピアノ科で1,2位を争う成績ですよ。コンクールの優勝経験も5度あるし」
「きゃー、誰かさんのピアノとは格が違うと思ったよ」
「個人名を出さない所が偉いです」
「いやー、差し障りがあるからさ」
「うふふ」
『カトレアの太陽』はピアノ2台による伴奏という形式を取っている。このピアノは私が1台と、もう1台は『謎の美少女ピアニスト』にお願いした。
彼女がスタジオに入って来た時、マリがびっくりして訊く。
「すみません、どなたでしょう?」
「謎の美少女ピアニストAです」
と彼女。
彼女はフェンシングのお面を付けていた。
「そのお面付けてここまで来たんですか?」
「それやると警察にちょっと来いと言われそうだから、このスタジオの建物の中に入ってから付けた」
「なるほど」
「私の古くからのお友だちなんだよ」
「メジャー・アーティスト?」
「そうだよ。たくさんヒット曲出してるユニットの人」
「へー」
ということで、私と『謎の美少女ピアニスト』穂津美さんとで2台のスタインウェイコンサートグランドD-274を弾き、伴奏を収録した。穂津美さんは「このピアノが2台並んでいる所初めて見た」などと言っていた。
演奏料はその場で現金でお渡しする。「サンキュー。じゃねー」と言って彼女は手を振ってお面を付けたまま出て行った。
3月20日に政子の実家に新しく買ったグランドピアノ(YAMAHA S6B)が納入され、政子は夢中で一日中ピアノの練習をしていた。それで私もずっと政子の実家の方で過ごしていた。
そんな23日土曜日、さいたま市に住んでいる従姉の友見から
「ちょっと相談事があるんだけど」
と連絡があったので、政子の実家の方にいるからと言って場所を教える。その場所なら電車で来るということだったので、駅まで私が車で迎えに行った。友見は娘(私の従姪)の三千花(槇原愛)を連れていた。
「近くに住んでるのにご無沙汰ばかりしてて済みません」
「いや、こちらこそ娘がずっとお世話になってるのに全然挨拶にも来なくて」
「うーん。その件では実は私も三千花ちゃんに何だか申し訳なくて。まだ1万枚を越えるヒットを1度しか出してないからね」
三千花は高校1年生の春に「槇原愛」の名前で歌手デビューし、ここ2年ほど活動してきた。楽曲はマリ&ケイが「鈴蘭杏梨」の名前で提供する曲(下川圭次編曲)と、他の作曲家の人の作品とをカップリングする形で制作されている。実際の編曲は下川工房のロック系が得意なアレンジャーの方が担当している。初代の方が最初の1年強を担当し、2代目の方が昨年夏以降担当している。デビュー曲は1.2万枚売れたのだが、その後はだいたい5000〜8000枚くらいのところをウロウロしていて、まだクリーンヒットという感じの曲が出ていない。
「実はその件なんですけどね。この子も4月から高校3年になるので、進路のこととか、今後の歌手活動のこととかで、娘と話し合ってたんですけど、なかなか話がまとまらなくて」
「あ、そういう話なら政子も呼びましょう」
と言って私は、ピアノ部屋のドアを開けて
「政子、ちょっと来て」
と言って呼ぶ。
「うん?」
「槇原愛ちゃんが来てるから、ご挨拶、ご挨拶」
「おお、愛ちゃん。可愛くて好きだなあ」
などと言って出てくる。
ピアノ部屋を覗き込んだ三千花が
「わあ、すごいグランドピアノ!」
と声を挙げる。
「今、マリ先生、ピアノ弾いておられたんですか?」と知見。
「ええ」
「全然音が聞こえなかった!」
「防音工事しっかりやってるから」
「すごーい」
「これやっておかないと、こういう住宅街でピアノは弾けないですよね」
「マンションの方もやはり防音工事したんですか?」
「マンションはですね、ヤマハの『防音室』って言って、部屋の中にポンと置けるタイプの防音ユニットを置いて、その中にエレクトーンとクラビノーバを入れてるんですよ」
「へー」
「お母ちゃん、うちも防音設備したら、夜中でもお母ちゃん三味線の練習できるんじゃない?」
「うん、そうかも。防音工事っていくらくらいかかりました?」
「ここは200万ですね」
「きゃーっ」
「この部屋でピアノ弾いても上の階で寝ている人に聞こえないようにというので完璧にやったからそのくらい掛かったけど、ふつうに隣の家に音が漏れない程度なら80万くらいでもけっこういい感じになると思いますよ」
「まあ、そのくらいなら考えてもいいかなあ」
政子と知見・三千花がしばらく話している間に、私はオレンジペコーの紅茶を入れ、ファンの方から頂いた『長崎物語』を開けて出した。
「ファンの方からの頂き物で、なんかおやつには事欠きません」
「私もけっこう頂くけど、事欠かないほどではないな」と三千花。
「それはやはり100万枚売れる歌手と1万枚しか売れてない歌手の差よ」と知見。
「いや、この業界では1万枚売れる歌手はトップクラスの歌手の扱いですよ」
と私は言う。
「まあ、トップとスーパートップの違いかも」と三千花。
「それで三千花の今後のことなんですけどね」と知見が切り出す。
「私はこのまま歌手を続けたいし、大学にも行かなくていいと言ってるんですけどね」
と三千花。
「私はこのあたりで歌手には見切りを付けて大学に進学して卒業後OLでもしたら、と言うんですけどね。民謡教室を手伝ってもらってもいいけど」
と知見。
「三千花ちゃん、もう民謡の教授免許持ってるんだっけ?」
「冬ちゃんと同じ状況。冬ちゃんほどのレベルじゃないけど。もう先生の免状あげてもいいけど、本人がその気が無いみたいなので授与保留している段階」
「なるほどー」
「それなら大学に進学して歌手も続ければいい」
と政子が言う。
政子がこんなに現実的な妥協案を提示するのは珍しい。
「ああ、でもそれって、高3の時の、政子とお父さんとの妥協案と似てるね」と私。「まあ私にはOLできないけどね」と政子。
「私もOLできないと思うなあ。3日で首になりそう」と三千花。
「でも取り敢えず大学に行ってみるのもいいんじゃない? この時期にお勉強するのは良いことだよ。40歳50歳になってから勉強しようとしても、なかなか頭が付いていかないからさ」
「そうだなあ」
「大学受験のため半年くらい休養させてくださいと言えば、津田さんも受け入れてくれると思うし」
「うーん、その線かなあ」と三千花。
「やはり、その線ですかねぇ」と知見。
両者とも落とし所はそのあたりかというのは考えてはいたのだろう。
「ねぇ、冬、愛ちゃんが休養する直前に出すCDにさ、渾身の曲を書いてあげたら? それが大ヒットすると、休養明けに復帰しやすいよ」
と政子が言う。
「それは確かにそうだね。私たちがすんなり復帰できたのも、休養前の最後の作品『甘い蜜』がミリオン売れたせいだし。事実上の復帰作『夏の日の想い出』
もミリオン行った」
「似たような例って割と多くない?」
「そうだね・・・たとえば薬師丸ひろ子は大学受験直前の『セーラー服と機関銃』
を86万枚売って、復帰作の『探偵物語』を84万枚売ってる。松田聖子は結婚前の『ボーイの季節』を35万枚売って、復帰作の『Strawberry Time』は31万枚。ゆきみすず先生とかもスノーベル時代の最後の曲『Ring Ring』は42万枚で、結婚出産後のソロ歌手としての復帰作『深窓』は38万枚売れてる」
と私は売上枚数データベースを確認しながら言った。
「休養後の曲って、休養直前の曲とだいたい同じくらい売れてる?」
「あ、そうかも知れないね。燃え尽きて引退した人や落ち目になってから休止した人は復帰しても全然売れてないけど、旬の状態で休養に突入してしまった人は復帰後もそれ以前のペースを保ってる気もするね」
「じゃ、冬、愛ちゃんにプラチナ売れるような曲を書いてあげなよ。そうしたら復帰後もプラチナ売れるよ」
「いや、プラチナにしたいと思って曲が作れたらそうしたいけどさ」
「そうだなあ・・・・」
と言って政子は少し考えていたが
「『灯りの舞』が使えない?」
と言い出す。
「いい曲だね。でもあんな静かな曲は愛ちゃんには合わない気がする」
「合うか合わないか、ちょっと歌ってもらったら?」
政子が強く言うので、私は譜面をプリントして三千花に見せてみた。
「きれーい。何か凄いきれいな曲ですね」
と三千花が感動したように言う。
「仮の伴奏音源作ってるから、歌ってみない?」
と言って全員をピアノ室に招き入れ、戸を閉めてから伴奏音源を流す。三千花が初見で歌う。知見がへーという顔をしている。
「これ気に入りました。これください!」
「いいよ」
「これ実は今ローズ+リリーで制作しているアルバムに入れるつもりで編曲して、仮の伴奏音源まで作ってたんだよ。でもやはり今回のアルバムのテーマからは離れすぎるかなと思って外したんだよね」
「今の音源に入ってた胡弓は冬ちゃん?」と知見が尋ねる。
「そうです」
「おわらの胡弓のモチーフが入ってた」
「諏訪町の石畳を見て書いた曲ですから。その後再構成してますけど」
「なるほど」
「冬って結構胡弓弾くのね」と政子は言ったが、「というか、私が習いに来たい」と知見。
「えー!? 冬ってそんなに胡弓うまいの?」
と政子が驚いたように言った。
「カップリング曲はどうする?今回2曲提供するよね?」と私は訊く。「うん。静かな曲と組み合わせるんだから、激しい曲がいいと思う」と政子。
「同感」
「『お払い箱』なんてどう?」と政子。
「は?」
「いいと思わない?」
「いや・・・・それは確かにあれロックンロールだし、愛ちゃんにはピッタリかも知れないけど、歌詞の内容が」
「問題ある?」
「だって休養しようとしている歌手に歌わせるにはジョークがきつい」
「だからいいじゃん」
「どんな曲なんですか?」と三千花が訊くのでMIDIを開いて流しながら歌ってみせる。
「面白いです! 気に入りました」と三千花。
「ほんとに〜〜!?」
それで津田社長に連絡して、4人で訪問する。津田さんの強い要請により、私と政子、知見と三千花は別行動で時間差まで付けて△△社に入った。鈴蘭杏梨とマリ&ケイが同じ人だというのは「公然の秘密」ではあるが、それでも鈴蘭杏梨から楽曲の提供を受けている槇原愛が、マリ・ケイと一緒に△△社に来訪するという図はあまり見られたくないものである。
「大学受験のために半年ほど休業というのは問題無いです。ピューリーズなどの例もありますし、ローズ+リリーも結果的にそれと似たようなものでしたしね」
と津田さんは受験準備のための活動休止については了承した。
しかしその休業前に出すCDの曲として提示したものについては「うーん」と声を出したまま、悩むように黙り込んでしまった。
槇原愛担当の飯田さんと、歌手部門を総括している甲斐さんとを呼ぶ。ふたりにも予定曲を聴かせる。
「『灯りの舞』は凄くきれいな曲でいいと思います。いつも大音量で掛けるような感じの曲が多いから、こんな歌も歌えるということをアピールしてみるのもいいと思います」
と甲斐さんは言った。飯田さんも組み合わせる曲次第では問題無いと思うと答える。
『お払い箱』に関してはふたりとも否定的な意見であった。
「こんな曲出したら冗談と思ってもらえません。うちが愛ちゃんをクビにしようとしていて、それで反発してこんな曲を歌ったんだと思われちゃいます」
「うん、普通そう思うよね。でもだからこそアリだと僕は思う」
と津田社長は言った。
部下から反対意見が出てきたので、安心して賛成意見を出してみたという感じだった。
レコード会社の担当の意見も訊いてみることにする。連絡して担当の竹岡さんに来てもらうことにし、それを待つ間、とりあえず昼食にすることになる。このメンツで外に食べに行く訳にはいかないので出前のお弁当を取った。マリ用には3人前を頼んである。
「でも私、マリ先生が作詞をしてケイ先生が作曲をなさっていると思ってたからマリ先生がピアノ弾いてるの見てびっくりしちゃった」
と三千花が言うので
「マリが作曲する時もあるよ。超大ヒット『神様お願い』はマリの曲」
と私が言うと「へー!」と驚いている。
「あれ?マリちゃん、ピアノ弾くの?」
と津田社長。
「マリは4日前にピアノを買って練習し始めたんです」
「えー!?」
「小さい頃やってたらしいんだけど、先生と合わなくてやめちゃったらしいのよね。だから12-13年ぶりくらいかな?」
「私が怖い先生に叱られて泣きながらピアノのレッスンしてた頃、ケイは優しい先生に女の子の服を着せてもらって楽しいピアノレッスンをしていたらしい」
「ちょっとちょっと」
「でもやはりグランドピアノで弾いてると何か感覚が違うんです。子供の頃、アップライトピアノで弾いてて、どうして自分が思ってる音が出ないんだろうってよく思ってたんですよね。それがグランドピアノだと自分の出したい音が出てくれる感じで」
「確かに三味線なんかも安い三味線と良く出来た三味線とで感覚が違うよ」
と知見さんが言う。
「まあ道具の問題プラス、マリの心の中で10年以上掛けて、ピアノを弾く回路が熟成されてきたのもあるだろうけどね。小学1年生がラブソングを弾いたって音符はラブソングでも中身は決してラブソングにはなり得ないから」
「ああ、そういうのはあるでしょうね」
「マリ先生が弾いておられたの、ヤマハのS6でしたね?」と三千花。
「S6Bですね」と私が答える。
「いいなあ。S6とまで言わないけど、C3くらい欲しい」
「愛ちゃん、プラチナディスク出せば、印税でC3Xが買える。ダブルプラチナ行けばS6B買える」
「うむむ。頑張りたいな」
「でもグランドピアノ買ってどこに置くの?」と知見。
「うーん。何とか置けると思うけどなあ」
「私の友人で4畳半にC3Bを置いてる人がいますよ」
と私は言う。
「置けるんですか〜!?」
「置けます。でもベッドに行くのにピアノの下をくぐり抜ける必要があります」
「なるほど〜」
「というか、C3を置いてベッドも置けるんだ!?」
「更に勉強机も置いてますね。大学生なので」
「すごい。よく入りますね」
「4畳半にC3が置けるなら、私の部屋でも大丈夫だな」
「愛ちゃんの部屋のサイズは?」と津田さん。
「5畳半なんです」
「それは変わった間取りだね」
「ええ。なんか変なサイズなんですよね。だから襖も窓も特注品みたいだし」
「以前あの家に住んでた人が、敷地ギリギリに建てようとして不思議な間取りになったみたいね」と知見。
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【夏の日の想い出・花園の君】(1)