【夏の日の想い出・胎動の日】(下)

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「あれ、蘭子ちゃんだ」
という声がする。びっくりして振り向くと、先月のKARIONのキャンペーンで一緒になったコーラス兼キーボードの穂津美さんだった。
「こんにちは。穂津美さんでしたね」
 
脱衣場で立ち話も何なので、浴室に入り、浴槽につかりながら話をする。
 
「KARIONは今週もキャンペーンで飛び回ってるみたいだけど、蘭子ちゃんは行かなくてよかったの?」
「いや、穂津美さんこそ」
「私は臨時参加だったからね。でも蘭子ちゃんは元々のバックバンドの人かと思ってた」
「ああ、元々メンバーにも勧誘されたんですけど、断ったので、じゃ音源制作にだけ参加してと言われて、それからなしくずし的に先日のキャンペーンにも」
 
「ああ、それはそのまま、なしくずし的に固定メンバーになるね」
と穂津美さんは笑っている。
 
「でも実を言うと、私、芸能活動に関する許可をすぐには親から取れない状況にあるんですよ。それで和泉たちに迷惑掛けてはいけないからというので辞退したんですよね。でも今年中には親の許可を取って、別途デビューを目指したいと思っています」
 
「ふーん。頑張ってね」
「穂津美さんはメジャーデビューを目指さないんですか? キーボードうまいし、いきなりベース弾けちゃったみたいに器用だし、歌もかなりうまいと思ったんですけど」
 
「うん。目指すよ。今回は∴∴ミュージックさんの仕事だったけど、別の事務所との付き合いもあってね。そちらから行っちゃうかも」
「ああ、みんな結構複数の事務所に関わっているもんなんですかね〜」
「ふーん。蘭子ちゃんも?」
 
「ええ。実は別の事務所とのつながりも以前からあって」
「この業界、デビュー予備軍の子に、そういうのは珍しくないよ。私も小学生の頃は◎◎レコードのスカウトの人から声掛けられて、そちらでレッスン受けてたんだけど、中学に入ってからは今度は★★レコードから声を掛けられて。実はマリンシスタのバックで踊ってたんだよ」
「すごーい!」
 
「あっという間に解散しちゃったから、こちらもあっという間に失職して。今は半分スタジオミュージシャン、半分歌手修業中・作曲修行中って感じかな。短大卒業するまでには、自分の方向性に決着付けたいんだけどね」
「作曲もなさるんですか?」
「あれ?蘭子ちゃんも?」
「ええ。まだまだ未熟ですけど」
 
「へー。作品聴いてみたいな」
「あ、じゃお風呂上がったあとカラオケにでも行きませんか? 穂津美さんがどんな曲を書かれるのか聴いてみたいです」
「ふふふ。私の作曲はすごーく非常識だよ」
「ますます興味を感じます」
 

私がお風呂をあがって部屋に戻ると
「長風呂だね〜」
と言われる。
 
「いや、お風呂から上がってから知り合いに2人も会っちゃって。ついつい長話になっちゃって」
「へー」
「ひとりとはカラオケに行く約束しちゃった」
 
「何?カラオケ?」
「お、私たちも行きたーい」
「うーん。。。いいのかなあ」
「いいじゃん、付き添い、付き添い」
 
ということで4人でぞろぞろと玄関の所に行ったら、向こうも二人連れだった。
「ごめーん。一緒に来た友だちもカラオケ行きたいと言って」
「こちらもですー」
 
ということで6人で一緒に旅館街にあるカラオケボックスに行った。
 
都会にあるシダックスとかビッグエコーのような洗練されたカラオケボックスではなく、30年くらい前に流行したような、コンテナタイプである。入口の小屋で料金を払い、中庭?に並べられたコンテナの中のひとつに入る。衛生的にもちょっと疑問がある感じだったが、幸いにも今回来たメンバーの中にはそういうのに神経質な子はいなかった。
 
取り敢えず自己紹介する。
「すみません。いろんな名前で呼ばれていて混乱していると思いますが、蘭子こと、柊洋子こと、唐本冬子でーす」
「冬子ちゃんってのが本名?」
「はい。蘭子は例のユニットでの名前、柊洋子は元々は小学生の頃に使っていた名前なんですけど、今はスタッフとして動く時に使ってます。おかげでJASRACにも作曲者とか編曲者として柊洋子が登録されているし。他に民謡の方の仕事をする時は、若山富雀娘(ふゆすずめ)というのも使っています」
「なるほど」
「なんか良く分からん」
 
「でも冬ちゃんって、そんな声も出るんだ?」
とその場に居た全員に言われる。私は笑って誤魔化しておいた。私はここでは男声も女声も使えない雰囲気だったので、中性ボイスを使っていた。
 
「橘理桜です」
「倉越圭子です」
と続いたが、政子は何だかボーっとしている。隣に座っている圭子がトントンと肩を叩く。
「あ、中田政子です」
 
ということで政子はこの時ボーっとしていたので、私が色々な名前の説明をしたのを聞いていなかったようであった。
 
「私は長丸穂津美。いろんな名前というと例の仕事してた時はLCと言ったのよね」
「LCですか?」
「長丸という苗字を英語に訳して Long Circle. その頭文字を取ってLC」
「へー。凝ってますね」
 
「私は、てらいりみすと」
「みすと?珍しい名前ですね」
「『霧』と1文字書いて『みすと』と読む」
「読めません」
「振り仮名を振らずに名前を書いて、正しく読んでもらったことないよ」
「でしょうね〜」
「私も穂津美ちゃんと一緒に例の仕事してたんだけど」
「あ、そうだったんですか?」
「その時は『ティリー』だった。寺入という苗字からテイリでティリー」
「なんか格好いい」
 
「あ、待って」
と理桜が言う。
 
「エルシーにティリーだったら、もうひとりレイシーさんが居れば例の3人ですね」
と理桜。
「そうなのよ。だから、レイシーってニックネームの子がいたら、仲間にしてドーアマイスとかいうユニット作ろうよ、なんて話をしてるんだけどね」
と霧。
 
「何?それ」と圭子が訊く。
「不思議の国のアリスに出てくる、ヤマネの三姉妹なんだけどね。実はアリスのモデルのリデル三姉妹の名前の変形なんだよね」
「へー」
「ヤマネのこと、英語でドーアマウスというんだよ。眠りネズミって意味だけどね」
 
「その名前がエルシー、ティリー、レイシーなんだけど、レイシー(Lacie)というのが Alice のアナグラムなんだよね」
「ほほお」
「だから、レイシーって子がいたら、その子をリーダーに据えちゃう」
「なるほどー」
 
「れいこさんとかなら、レイシーになるんじゃない?」
「そうそう。そういう名前の子で、私たちの音楽と融和性のありそうな子を物色している」
「見つかるといいですね」
 

お互いの曲を披露しあう。私は政子に許可を取って、これまでふたりで作った曲のいくつかを披露した。
 
『あの夏の日の想い出』(後に『あの夏の日』のタイトルでリリースしたもの。ただしこの当時は本来の譜面が行方不明になっていて、暫定楽譜を使用した)、『ギリギリ学園生活』、『ピンク色のクリスマス』、『盗まれたハート』、『渡り廊下の君』といった曲を荷物に入れて持って来ていた小型キーボードで伴奏しながらで歌ってみせる。
 
「でも冬ちゃんって、凄く素直な曲を書くね」
「詩を書いてくれる政子が、凝った詩を書くので、曲はとても単純に」
「ああ、それは良い創作方法だと思う」
 
「よし、今度は私たちの番だ」
と言って、霧さんがギターを弾き、それに合わせて穂津美さんが歌う。
 
彼女たちも5曲歌った。
 
「凄いです。こんなの私には書けません」
と私。
 
「ふふふ。こんな曲を書けるのは私みたいにクレイジーな頭脳の人間だけだよ」
と穂津美は得意そうに言う。
 
「和音の使い方がなんだか凄い。こんな使い方初めて聴いた」
と理桜も言っている。
 
「でもメタルとかじゃなくて確かにポップスですね」
「うん。だから、この音楽を理解してくれるプロダクションが存在するかどうかも問題なのさ」
「畠山さんの趣味には合わないかも」と私。
「うん、そんな気がする」
「もう1ヶ所、よく顔を出している事務所の社長さんにも聴いてもらったんだけど『うーん』と言ったきり悩んでいた」
「ああ、悩みそう」
 
「まあ最初は自主制作でCD作ってみようかね、なんて言っているんだけどね」
「でもこれ絶対買う人いますよ」
「多くはないかも知れないけどね」
 
「でも最後の曲」
「『愛の武闘会』?」
「ですかね。ラーララララッララーってやつ」
「よく歌えるね」
「うん。こんな無茶なメロディーラインなのに」
 
「それはヒット性があると思います」
「あ?そう思う。これ以前聴かせた友だちにも言われた」
 
「ポップスにもハードロックにも強い人にアレンジしてもらうと、凄く聴きやすい曲になりそうな気がします」
「うーん。聴きやすくするのはポリシーに反するのだが」
と穂津美さん。
「だけどたまには世間に迎合してもいいかもよ」
と霧さん。
 

カラオケ屋さんから戻って来たのはもう24時少し前だった。
 
「明日もスキーたっぷり滑りたいから寝なくちゃ」
「ごめんねー。ボクがカラオケに誘ったから遅くなっちゃって」
「いや、楽しいお姉さんたちとおしゃべりできたし」
「うん。あのふたり面白い人たちだと思った」
 
「そうだ。冬ちゃん、そういう中性的な声が出るなら、私たちともそれで話しなよ」
「うん。男の子の声で話されるより、その方が私たちも気楽」
「うん。そうだなあ。そうしようかな」
 
「ほんとに性別曖昧な声だよね」
「いつの間にそんな声を練習していた?」
「えへへ」
 
「その声、もう少し練習したら、もっと女の子っぽくできるよ」
「そうかな」
「練習してごらんよ」
「うん。頑張ってみようかなあ」
 
「ところで、どういう組合せで寝る?」
と圭子が訊くが
 
「私と圭子、政子と冬子でいい気がする」
と理桜が言う。
 
「たぶん、異論無さそうね?」
と政子も言う。
 
そういう組合せになるというのは、部屋をツイン2個にしてもらえないかと言われた時に、既に全員の頭の中にあった感じではあった。
 
「じゃ、私と冬は向こうの部屋に行くね」
「うん。じゃ、お休み〜」
 

ということで、私と政子は荷物を持って隣の816号室に移動した。
 
「ねえ、冬。セックスしない?」
といきなり政子は言った。
 
「なぜ〜!?」
「だって、誰にも分からないよ」
「そんなことない。ボクたちが今夜セックスしたら、明日の朝のボクたちの顔を見て、理桜たちには絶対バレる」
 
「ああ、それはそうかも知れないね。でも理桜たち言いふらしたりしないよ」
「それはそうだろうけど」
 
「ね、コンちゃん持ってたりしないよね?」
「その質問にはお答えできません」
 
「ふーん。持ってるんだ?」
 
ボクはきちんと説明することにした。
 
「実は何人かの友だちに言われたんだよ。ボクと政子が恋愛関係になってるんじゃないかって。それで念のため持っておきなさいと言われたんで、持ってはいる。でも使うようなことをするつもりはない。ボク、以前言ったように、女の子には恋愛的な関心が無いんだ。ボクの恋愛対象は男の子だよ」
 
「ふーん。じゃ、私のこと好きじゃない?」
と政子は問う。
 
「好きだよ。友だちとしてだけど。ボクにとって政子はとても大事な友だちだと思っている」
 
「ふーん。。。大事な友だちか。私がいなくなったら寂しい?」
「いなくなるって、どこか行っちゃうの?」
「もしよ」
「ショックだと思う」
「ふーん。じゃ、私とずっと一緒にいたい?」
「居たい」
 
「じゃキスして」
「なんで〜? キスなら花見さんとしなよ」
 
「啓介か・・・・そうだなあ。あんまり啓介とキスしたくないんだけどな」
「嫌いなの?」
「別に嫌いじゃないよ。まあ結婚してもいいかなという程度には」
「なんかハラハラするなあ。こないだ、卒業したらお別れみたいなこと言ってたし」
 
「うん。啓介が卒業したらそれでけじめつけようかなと思ってる」
「別れるつもりなんだ?」
「というか、自然消滅しちゃうかなという気がしてたんだけどね」
 
「そんなことないんじゃない? 学校が違った方が逆に緊張感持って付き合えるかもよ」
 
「どうだろうね。。。。ね、一緒のベッドに寝ない?」
「うん。セックス無しなら」
 
「ふふ。やはり冬って普通の男の子じゃないね」
「ボクは自分が男の子だと思ったことは一度も無い」
「じゃ、やはり女の子なんだ?」
「気持ちの上ではね」
 
政子はいきなり抱きついてきた。わっと思ったが、政子が抱きしめてくるのでこちらも抱き返す。
 
「私、寂しがり屋だから。いつも熊のぬいぐるみ抱いたりして寝てるんだけどね」
「じゃ、今夜はボクはぬいぐるみ代わり?」
「になってくれない?」
「まあ、いっか」
 
すると政子はいきなり私のお股に触る。
 
「あっ」
「やはり、おちんちん無い」
「そうだね。今夜は取り敢えずセックスに使えるようなものは無いということにしておこうかな」
「ふーん。そのあたりは何か怪しいなあ。以前何度か触った時も、やはりおちんちんが付いてるような感触は無かった」
「その付近は企業秘密ということで」
「その秘密をあばきたいけど、今日はまあいいや。寝ようか」
「そうだね」
 
ということで私たちはひとつのベッドに一緒に寝た。正確には下に落ちないようにベッドをくっつけて広くした上で一緒に寝た。私は単に並んで寝るだけのつもりだったのだが、政子は抱きついてきて、結局抱き合ったまま寝る形になった。
 
ただしこの夜は私たちはキスもしなかったし、むろんセックスやペッティングもしていない。性器や乳房への接触をしたのはこの年のゴールデンウィークが初めてであった。
 

翌朝はみんな疲れていたので、フロントから「朝食のご用意ができています」
という案内があるまで寝ていた。誘い合って私たちは部屋から出て、食堂に向かった。私たちの顔を見て理桜がにやにやしている。
 
「何かボクたちの顔についてる?」
「ううん。何でも無いよね〜」と理桜。
「うん。何でも無いね」
と言って圭子は理桜と見つめ合って、笑いを抑えられない雰囲気。
 
「なんか誤解されてないかなあ」
「大丈夫。ちゃんと理解してるから」
「誰にも言わないからね」
「やはり誤解されている気がする」と私は言うが
「私、凄く今気持ちが安定している」と政子が言うと
 
「うん。信頼関係が大事だよね」
と理桜は笑顔で言った。
「うん。私、冬との信頼関係が凄く深まった」
と政子は言う。私は困ったように頭を掻いた。
 
「私たち今夜は4人部屋で寝たってことでいいよね」
と圭子も言う。
 
「うん。そういうことにしようね」
「何も起きなかったよね」
「うん、起きなかった」
 
「ほんとに何も起きてないんだけど」
「私たち4人だけの秘密ね」
 

でもその日は私たち4人は夕方近くまでスキーを満喫した。そして送迎バスで駅まで行き、新幹線に乗り継いで東京に戻る。
 
新幹線の中で政子が唐突に私にレターパッドを渡す。
 
「冬〜、これに曲を付けて」
「いいけど。いつ書いたの?」
 
「うん。スキー場で唐突に思いついて。ヒュッテに売ってたレターパッドとボールペンで書いた」
「へー。でも何か政子らしくない詩だ。これけっこう時間掛かったでしょ?」
「うん。ふだんの倍くらい時間が掛かった。でもこれはこれなりにいい雰囲気」
 
政子の詩というのはほとんど書き直しや校正が無いのだが、この詩はかなりの校正跡があった。しかも、しばしば字の筆勢が途中で変わっている。その前後で数分間の時間経過があったことを思わせる。これも珍しい。政子はたいてい詩を一気に書いてしまい、途中で停まることはめったにない。
 
「でも赤い旋風じゃなくても、この程度の詩が書ける時があるのね」
 
と私は言った。政子が赤い旋風以外のペンで書いた詩は一般に物凄く暗いがこの曲は明るい恋を歌っていた。
 
「うん、このボールペンも割と好きかも」
 
と言って政子は金色のボールペンを見せる。
 
「キンキラキンだね」と理桜。
「ここの町、ふるさと創成一億円で金の延べ棒を買ったらしい」
「へー!」
「それで、金ピカ饅頭とか、金ピカ煎餅とか作ったらしいけど、これもその時に作られたお土産用の金ピカボールペンなんだって。3000円もしたよ」
 
「高い!」
「それしか売ってなかったの?」
「ううん。隣に100円のボールペンもあったけど、なんか面白そうだったから」
「へー。でも面白いかもね。きれいだし」
「うんうん、きれいだよね。田舎で作られたにしてはデザイン良いし持ちやすい」
 
「じゃ、そのボールペン貸して。ボクもそれ使って曲を付ける」
「おっけー」
 
ということで私は政子から金ピカのボールペンを受け取ると『雪の恋人たち』というタイトルが付けられたその詩に曲を付け始めた。
 

翌日はさすがに寝ておこうと思っていたのだが、昼前に政子から電話があった。
 
「ヴァレンタインのチョコ買いに行くから、書道部1年女子は13時半に○○駅前集合ね」
「えっと、なぜ女子の集合をボクにも電話してくる?」
「だって、冬は書道部で、1年生で、女子のはず」
「ボク男子だけど」
「嘘付くの良くない。昨日・一昨日も女子の合宿に参加したし」
「あれ合宿だったの?」
「そうだよ。ちゃんと女の子の服を着て来てよね」
 
ということで、私はお昼を食べた後、赤いセーターにウールのロングスカートを穿き、堂々と両親のいる居間を通って「行ってきまーす」と(女声で)言って出かけた。母は目をパチクリさせていたが、父は(多分)姉が出かけると思っている雰囲気もあった。この時期はだいたいこのパターンが多い。ちなみにこの日姉は夕方近くまで自分の部屋で寝ていたようであった。
 
集合場所に行く。
 
「おお、ちゃんとスカート穿いてきている」
「えっ?だって女の子の格好で来いと言われたから」
「あ、冬って言われたらそうする性格だったっけ?」と理桜。
「そうそう。だから冬に何かさせる時は『何何したくない?』とか誘うように言うのではなく『何何しなさい』と命令するように言うのがコツ」
と政子。
「冬ちゃんって、面白い性格〜」とカオル。
 
「じゃ、空を飛びなさい、と言ったら飛ぶかな?」と圭子。
「ああ、きっと飛んじゃうと思うよ」と理桜。
「すごーい」
 
「いや、無理なことはボクはできないと言う」
と私は笑いながら言う。
 
「なるほど〜。本人が出来ないと言わなかったことはちゃんと出来るんだね」
 
「でもちゃんとスカートを持ってたんだね。そのセーターも女物だし」
「お姉ちゃんがサイズの合わなかった服を押しつけてくるんだよ」
「冬のお姉ちゃんって女物の服を押しつけるの?」
「うん。スカートでもブラジャーでも押しつけられる」
「へー!」
「あ、それじゃ今ブラジャーしてたりして?」
「うん・・・」
 
「どれどれ、触らせろ」
と言って全員に触られた!
 
「何か胸もあるような感触なんですけどー」
「パッド入れてきたから」
「ふーん。パッドなんて持ってるんだ?」
「それもお姉ちゃんから押しつけられた」
 
「冬のお姉ちゃんって、冬を女の子に改造しようとしているのでは?」
「どうもそんな雰囲気ね」
「潔く、性転換しちゃったら?」
「いや、実は性転換済みだったりして」
「まさか」
 

ガヤガヤとおしゃべりしながら、電車に乗って新宿に出て、デパートのチョコ売場に向かう。
 
「本命チョコ買う人は誰?」
と理桜が尋ねるが誰も手を挙げない。
 
「政子、花見さんに本命チョコあげないの?」
「別にヴァレンタインにチョコあげたことはないな」
「えー? だってもう何年も付き合ってるんでしょ?」
「うん。でも渡したことはない」
「可哀想!」
「今年はあげなよ」
「要らない」
 
などというので、全員、友チョコ選びという感じになる。
 
しかしチョコ売場は若い女の子でいっぱいである。
 
「ほとんど女子高の雰囲気だね」
「元々チョコが好きな男の子とか、こういう所には珍しいチョコあるから買いに来たいかも知れないけど、この場には近寄る勇気が持てないかもね」
 
「冬ちゃんこういう場は平気?」
「あ、全然問題無いよ」
「もしかして、バレンタインのチョコを買いに来たこと以前にもあるとか?」
「去年は高校受験で忙しかったけど、中1や中2の時は買いに来たよ」
「えー?」
「誰にあげたの?」
「友チョコだよ〜」
 
「好きな男の子にあげたりしたことは?」
「あっと。。。友だちに唆されて渡したことはある。向こうは戸惑ってる感じだったけど、ありがとうと言って受け取ってくれたよ」
「それでその彼と付き合った?」
「それは無いよ〜」
 
「なんか冬ちゃんの過去は追求のし甲斐があるような気がする」
「どうも夏に私たちが女装させる前から、かなり女の子だったのではないかという疑惑が」
「そんなことないよー」
「怪しいなあ」
 

だいたい物色したところで、ハンバーガーショップに移動して100円のドリンクを頼んで休憩する。
 
「みんな最近、どんな音楽聴いてる?」と理桜が訊く。
「私は嵐だな」と圭子。
「私はキスマイ」とカオル。
「私何も買ってないなあ」と政子。
 
「理桜は洋楽派だったよね?」
「うん。The Donnas とか Lillix とか、女の子バンドの曲をよく聴いてるよ」
「冬ちゃんは?」
「うーんと。ボクは何でも聴くというか」
 
「ああ、うちのクラスの奈緒ちゃんってのが、冬と小学校の時の同級生らしくて言ってたけど、冬の部屋のCDって物凄いらしい」
「そうだね。人よりは多いかも。移動式書架2つに収納してるから」
「凄っ。それもしかして数千枚?」
「うーん。数えたこと無いけど4000枚くらいかなあ。もう少しあるかも」
「ひぇー」
 
「最近買ったCDは?」
「えっと・・・一番最近は先週買ったAYAの『ティンカーベル』かな」
「誰それ?」
「インディーズの女の子3人のユニットだよ。4月にメジャーデビューが決まってる」
「へー」
 
「その前はKARIONの『幸せな鐘の調べ』かな」
「それも知らん」
「こちらも女の子3人のユニットだけど、こちらは1月2日にメジャーデビューしたて」
「へー」
 
「どちらもボクたちと同じ学年の子たちだよ」
「わあ、凄いなあ。私も歌手とかやってみたいなあ」
「でも大変なんじゃない? 無茶苦茶忙しいだろうし」
「結構安月給でこき使われたりして」
「ありそう」
 
「あ、ちょっとカラオケ寄ってかない?」
「うん、行こう行こう」
 

ということで5人でカラオケに行くことになった。
 
「あっ。さっき冬が言ってたKARION、新着に入ってるよ」
「掛けてみよう」
 
前奏のオルガンの音が響く。自分が弾いた部分なのでちょっと面はゆい。私はマイクを取って中性ボイスで歌い出した。(音域的に男声ではこの曲は歌えない)
 
「なんかきれーい!」
「あの鐘のような音が美しいね」
「グロッケンシュピールの音だよ」
「へー。よく知ってるね」
「実はこの曲の録音は、ボクがバイトしているスタジオでしたんだよ。だから制作の現場を見ていたから」
 
「すごーい。じゃ、KARIONの子たちとも話したりした?」
「うん、まあね」
と言って私はそのあたりは曖昧に誤魔化しておく。
「お疲れ様〜、とか言って、ジュースやお弁当渡したりとかしたよ」
「あ、そういうのもいいな」
 
「でも冬ちゃん、さっきまで話していた声と違う」とカオル。
「ああ、冬は今みたいな声も出るんだよ」と理桜。
 
「ふつうのバリトンボイスでは、この曲は音域が高くて歌えないから」
と私は説明する。
 
「でも音域が分かってるって、かなり歌い込んでいる?」
「ああ、ボクは一度聴いた曲は歌えるから」
「へー」
 
というか、この曲は譜面も持ってるからね〜。大量の書き込み入りだけど。作詞家のゆきみすずさんが悩んで何度も歌詞を修正した部分がゆきさん本人の筆跡で書き込まれていたりもする。私は当時の音源制作の場面が記憶の中に蘇って少し気分が昂揚した。思えばあれは初めてスタッフではなく演奏者として参加した音源制作だ。またやりたいな。
 
「半年以内くらいに聴いた曲なら、歌詞見ないでも歌えるよ」
 
「試してみよう」
「誰か冬に目隠しして」
「よし」
 
というので、政子が掛けていたスカーフを私の頭からかぶせて目隠しをする。
 
「この曲行ってみよう」
と言って、理桜が掛けたのは KAT-TUNの『喜びの歌』である。私はバリトンボイスを使って余裕で歌ったが
 
「これ確か去年の6月に出た曲。半年以上前」
と文句を言う。
 
「アバウト半年だよ。じゃこれ」
と言って次に掛けたのはYUIの『LOVE&TRUTH』であった。私は今度は中性ボイスを使って歌った。
 
そのようにして更に3曲ほど理桜が最近の曲っぽいのを掛けたが私は目隠しされたまま全部完全に歌った。
 
「歌詞を全く間違えなかった」
「3番とかまで歌えるって凄い」
 
「でもさ、冬ってそもそも歌が凄くうまいね」
「うん。冬、これだけ歌えたらプロになれるよ」
「デモ音源作って、持ち込んだりしてみない?」
 
「あ、でも添える写真は女の子の格好した写真がいいよ」
「それって、女の子歌手としてデビューしろと?」
「当然」
 
まあ、そのつもりだったけどね!
 

3月3日の卒業式の後で、政子は実は、父がタイに転勤になるので、自分も一緒に付いてこいと言われているということを私に打ち明けた。こないだから政子の様子がおかしかったのはそれだったのか!と思い至ったが、それは私にとっても大きな衝撃だった。
 
しかし政子はせつない目をして私に言った。
「私にキスしてくれない?そしたら私、頑張って日本に留まる」
 
政子は唇にしてと言ったが、唇へのキスは花見さんとしなよと言ったら頬でもいいというので、私はそっと政子の頬にキスした。政子も私の頬に強くキスをした(キスマークが残るくらい!)。それが私と政子のファーストキスだった。
 
その時期、政子は本当に自分にとって欠くべからざる存在になっていたので、政子がタイに行ってしまうかも知れないという話は、かなりショックで、その週、私はクラスメイトの仁恵や紀美香に「唐本さん、どうかしたの?」などと言われるほどだった。
 
3月9日。私は少し沈んだ気分のまま、ヴァイオリンと三味線と胡弓を持ち渋谷に出かけた。雨宮先生と落ち合い、道玄坂を少し登った所にあるスタジオに入った。
 
「ケイちゃん、何かあったの? 心配事とかありそう」
「いえ、なんでもないです」
 
「今の気持ちを楽器にぶつけてみない?」
「そうですね」
 
私はヴァイオリンを取り出すと、ほんとうに自分の今の気持ちをぶつけるつもりで弓を動かした。
 
「凄くきれいな曲になった。今の曲、譜面に書いてあげるよ」
 
と言って、先生は私が今即興で弾いた曲を五線紙に書き出してくれた。凄い速筆である。音符の玉も線のみだ。しかし音符の位置はしっかり書かれているので、あとで清書する時に迷うこともないだろう。
 
「なんか譜面書いてる内に歌詞を思いついちゃった。付けちゃっていい?」
「はい、お願いします」
 
それで先生は20分ほどでその曲に詩を付けてしまった。私はリクエストされてその曲をヴァイオリンでずっとリピート演奏していた。
 
「しかしこれが例の600万円のヴァイオリンか」
「従姉は400万円でいいよと言っているのですが、400万ってことはないだろうと思うんです」
「うん。600万円か、ひょっとすると800万円くらいするかも」
と雨宮先生も言う。
「ああ、そのくらいしますか」
 
「その代金、来年には払えるようにしようよ」
などと先生はおっしゃった。
 
「そうですね」
「さて、歌詞完成。私がピアノで伴奏してあげるから歌ってみて」
「はい」
 
それで雨宮先生がピアノ伴奏する中、私は『あなたがいない部屋』というタイトルが付けられた、その曲を熱唱した。雨宮先生がピアノを弾くというのもひじょうに珍しいシチュエーションだったのだが、そのことを当時は特に何も思っていなかった。
 
「まるでもう何十回も歌っているかのように歌うね」と先生。
「ハッタリです」と私。
「そのハッタリが凄い才能だと思うよ、ケイちゃん」
 
この『あなたがいない部屋』について、先生は「モーリー作詞・柊洋子作曲」
のクレジットでJASRACに登録してしまった。柊洋子はJASRAC登録済の名義だがモーリーというのもJASRACに登録されているらしい。この時期、この人はやはりプロなんだろうな、しかも「先生」などと普通のアーティストから呼ばれるような、指導的立場にある人なのだろうというのは薄々感じていた。
 
その後、私は三味線で『黒田節』、胡弓で『越中おわら節』を演奏した。
 
「三味線の音はポップスにはうまく使えないなあ。でも胡弓は使えると思う。今の音の感じを考えて『花園の君』のアレンジしてあげるよ。それと今できた『あなたがいない部屋』も編曲しちゃおう。こちらは編曲料サービス」
「ありがとうございます」
 
「ベッドに付き合ってくれたら『花園の君』もタダにするけど」
「お断りします」
 
私は当時、雨宮先生を女性と思い込んでいたのだが(雨宮先生も私を女の子と思い込んでいたらしい)、レスビアンなのかなと思っていた。実際にはバイのようで、可愛い子は女の子でも男の子でも摘まみ食いしているようだ。
 
その日はその他、そのスタジオにある楽器を演奏してみせた。
 
「確かにギター、ベース、ドラムスはそんなにうまくないね。でもこれ以下の演奏技術で、ロックバンドとかで活動しているアーティストはたくさんいるよ」
 
「特にロック系は、弾ければいいやというノリでバンド作ってる人も多いから」
「それで人気出ちゃうとずっと下手なままってのもいるしね」
「ああ、いますねー。プロになったのなら、アマチュア以上に努力すべきだと思うのに」
「そうそう。プロはアマの3倍は練習すべきだよ」
 
と言ってから雨宮先生はふと私に訊いた。
 
「ケイちゃん、サウザンズとかはどう思う?」
「音が合ってたら、あの人たちうまいですね」
「うんうん。音が外れてるけど演奏技術はあるという不思議なバンドだよ、あれ」
と言って笑う。
 
「でもこないだ出たアルバムは全曲きれいに音が合ってた。ポリシーが変わったのか、あるいは良いサウンドスタッフが付いたのかなと思って聴いてたんだけどね」
 
「そのチューニングさせてもらったのは私です」
「へ?」
「私がバイトしているスタジオでサウザンズの録音をしたので、その時、チューナーとかで音を合わせるのを拒否するメンバーに困ったマネージャーさんが『そこにいる女子高生にチューニングさせるのはどう?』と訊いたら、『高校生の若い耳で合わせてくれるんならいい』と言ってくれて。それで毎日スタジオに通って、ギター、ベースのチューニングをして、ドラムスも皮の張り具合の調整をしました。次回も頼むと言われています」
 
「へー! それでか。あれは今まで音の外れ具合でサウザンズ買ってなかった人にも聴けるアルバムになってたよ」
 
と言ってから雨宮先生は更に付け加えた。
 
「ケイちゃん。君はもう既にプロだよ。KARIONに深く関わって。サウザンズにもそうやって関わって。だいたい『柊洋子』でJASRAC検索してみたら、けっこう作曲・編曲でヒットするじゃん」
「そうですね」
 
「だから人の3倍練習しない?」
 
「・・・私あそこ通おうかなあ・・・」
「ん?」
「○○プロの人から、授業料の要らない特待生にするから系列の○○スクールで少しレッスン受けてみない?と言われていて」
 
「ああ、せっかく授業料ただでいいっていうんなら通えばいい。別に特待生になったからといって、○○プロからデビューしなきゃいけないことないんでしょ?」
「ええ。それは拘束されたりしないと言っておられました」
 
「じゃ行ってご覧よ。ケイちゃんなら3〜4回レッスン受けただけでも凄く進歩すると思う」
「はい」
 

「ケイちゃん、次空いてるのは?」
「今週の週末から23日までの予定でKARIONの音源制作に入ります」
「君は何を演奏するの?」
「前回はピアノ弾いてコーラス入れて。実は1曲だけメインボーカルにも加わっていたんですが、今回はヴァイオリン弾けるのがバレちゃったんで、ヴァイオリンも弾いてと言われています」
 
「おお、頑張ってきてね。じゃ私たちの次のセッションは3月30日ということで」
「分かりました。よろしくお願いします」
 

雨宮先生とスタジオで過ごした翌日、私は政子からひとりで日本に残ることになっこと、そして花見さんと婚約したことを聞いた。
 
私は政子とまだ一緒にいられるようになったことが嬉しくてついハグしてしまった。また、花見さんとの関係についてもハラハラしていたので素直に婚約おめでとうと言った。その「おめでとう」という言葉に政子は少し不満があるかのような顔はしていたが。
 
「それでさ、冬。今週末どこか行かない?」
「ごめん。今週末から来週末まで、バイト先のスタジオで集中して音源制作の現場に入らないといけないから」
「えー。私用事があるからといって啓介とのデート断ったのにな」
 
「デートしたくないの?」
「うん・・・まあ・・・」
 
「じゃなんで婚約したのさ?」
「なりゆきかなあ・・・・」
 
「そんなんで結婚したら後悔するよ」
「そうだよねぇ・・・仕方無い。今週末はひとりでどこか行こう。何かお勧めの場所とかない?」
「うーん。ライブでも行ってくる? これ知り合いの社長さんからもらったんだけど」
 
と言って私は、丸花社長からもらった保坂早穂の30歳誕生日記念ライブのチケットを渡した。
 
「ね、このチケット凄く高いんじゃ?」
「買えば15000円」
「げっ」
「でも招待券だから。せっかくもらったけど音源制作の仕事は外せないから誰か適当な人にあげたいとおもってた」
「よし、聴いてこよう。私も保坂早穂は好きだよ。歌が本当にうまいよね、あの人」
 
「うん。それでさ、保坂早穂はね、デビューした時、16歳だったんだよ。ボクたちと同い年」
「へー」
 
と言った瞬間、私は政子と一度一緒に歌ってみたい気分になった。
 
「ね、今度さ、時間の取れる時にふたりでちょっと歌を歌ってみない?」
「へ?いいけど。私の歌が下手なのは知ってるよね?」
 
「うん。でも政子と歌ってみたい気がしてきた」
「ふーん。いいけど」
と言ってから政子は言う。
 
「その時、冬は女の子の格好で来てくれるよね?」
「もちろん女の子として行くよ」
「ほほお」
と言って政子は楽しそうな顔をした。
 

その週水曜日の放課後、私は事前に電話して紹介されてそちらの学校のレッスンに参加したいという旨を伝え、○○ミュージックスクールに出て行った。
 
以前ここのボイトレコースを受けていたので生徒番号は存在したが、以前の生徒証は持ってませんと告げる。それで丸花さんからもらった名刺を見せると、すぐに特待生を表す桜のマークの入った生徒証を再発行してくれた。そして最初のレッスンに参加する。
 
参加者は男女8人だったが、どうもその内私を含めて女子3人が特待生のようであった。授業では前半、声の出る仕組みを図式やCGなどを使って先生が説明した。後半はソルフェージュをした。ひとりずつ譜面を渡されてその場で歌う。最初の音がいきなり分かる子は半分で残りの子は「済みません。最初の音を下さい」と言い音をもらっていた。しかしこのクラスに出てきている子はみんなうまい! 恐らく全員デビュー予備軍なんだろうなと思った。
 
私の番になる。譜面を渡される。8小節の短い歌である。さっと譜面を斜め読みして概略をつかむ。最初の音は分かるので歌い出す。
 
先生が「え?」という顔をした。何か間違ったかな?とも思ったが、構わずそのまま最後まで歌った。
 
「君、それじゃこれ歌ってみて」
と言って別の譜面をもらう。今度は長い曲だ。普通の歌謡曲である。Aメロ・Bメロ・サビ・Aメロ・Bメロ・サビ・Cメロ・Aメロ・サピ・サピと80小節。歌うのに♪=100で歌って3分以上掛かる。
 
私は「1分下さい」と言って急いで譜面を読む。最高音と最低音を確認してこの曲では今使ったアルトボイスでは歌えないこと、メゾソプラノボイスを使う必要があることを認識する。歌い出す。
 
先ほどと違う声で歌い出したせいか先生が「へ?」という顔をしたが、静かに聴いてくれた。私が歌い終わった時、生徒たちの間から拍手が来た。
 
「君凄いね。よくこんなの初見で歌えるね」
「はい、初見演奏は得意です。スタジオミュージシャンしてるので、よく初見でキーボード弾き語りで歌ったりします」
 
「へー。じゃ、これピアノ弾き語りで歌える?」
と言ってまた別の譜面を渡される。
 
「はい。1分ください」
と言って、私は譜面を読んだ。やはりメゾソプラノボイスを使う必要がある。この声、可愛いすぎて、ぶりっ子みたいであまり使いたくないんだけど!
 
私は教室のピアノで即興で前奏を入れて、その後和音主体で弾きながら歌い出す。さきほどよりは少し短い、64小節の曲である。最後にコーダをまた即興で入れて演奏を終わった。また他の生徒さんから拍手をもらった。
 
「君はこのクラスの生徒じゃないよ。申し送りをしておくから、明日の夕方にまた来てくれる?」
「あ、はい」
 

という訳で、私は翌日も○○スクールに出て行った。受付で生徒証を出してと言われるので出すと、桜のマークをもう1枚貼ってくれた。「特別特待生」ということらしい。何が特別なんだろうと思いながら、教室に行くと、先生がひとりでいる。
 
「済みません、遅くなりました」
と言ったが、先生は
「いや、前のレッスンから引き続きここにいただけだから」
と先生は言った。
 
「じゃ少し早いけどレッスン始めましょう」
「あれ?他の生徒さんは?」
「このクラスは個人レッスン」
「えー!?」
 
特別特待生というのは、事実上○○プロのタレントさんと同格扱いらしい。逆に○○プロの歌手もこれと同等のレッスンを日常的に受けているということであった。○○プロでやる色々なイベントにも招待状出すから来てよね、などと言われた。あはは。何か、もうなしくずし的にこちらのプロダクションに填まりこんでいるような気がするよ。いいのかしら?
 
取り敢えず歌ってみてと言われて譜面を渡されたので、私は1分間の予習時間をもらった後、歌った。
 
「あなたの歌は直すべき所がない」
と先生から言われた。
 
「完璧すぎる。むしろ私が習いたいくらい。でも敢えて指導するとしたら、情緒表現かな」
「情緒表現ですか?」
 
「この歌の歌詞を読んでどう思った? この歌はどんな歌?」
「失恋の歌です」
「うん。失恋したらどんな気持ち?」
「悲しいです」
 
「そう。でもあなたの今の歌は全然悲しくなかったよ」
「そうですね」
「失恋したことある?」
「あります」
 
「じゃその時のこと思い出しながら歌ってみよう。古傷に触るのは辛いけどさ」
「はい」
 
私は中学3年の時のSとの恋愛のことを思い出しながら歌ってみた。考えてみるとあれからまだ1年ちょっとしか経っていないのに、自分の生活は随分変わってしまった。
 
あの時期は自分自身が男として生きるのか女として生きるのか迷いもあった。でも今はもう何も迷わない。女として生きるつもりだ。精子も保存したしもう男性機能は完全停止させてもいいし、こっそり去勢しちゃってもいいかなという気もしている。あの当時は趣味のひとつにすぎなかった音楽がもう既に自分にとって職業になりつつある。Sと別れて少しして知り合った和泉はもうプロになってしまった。和泉と一緒にカラオケで歌を歌った日々も思い起こされる。そして今自分もプロになりたいと思っている。モーリーさんは既に君はプロだなんて言ってたけどね。
 
そんなことを色々考えていたら歌いながら涙が出てきた。
 
歌い終わる。先生が拍手をしてくれた。
 
「あなたちょっと注意しただけで凄くよくなる。飲み込みが早い」
 
そんなことを言いながらも先生は細かい所を注意してくれる。私はそれをよく聴いた。
 
そんな感じで最初の「特別特待生」としてのレッスンは終わった。
 

翌日3月14日金曜日の午後はKARION音源制作のためスタジオに出て行った。私は畠山さんからさんざん、和泉はスターで私はただのスタッフだから身分も違うなどと言われていて、ちょっと気持ちの上で壁を感じてしまったのだが、和泉が「冬〜、久しぶり」と言ってハグを求めてきたので、ハグしたら何だか普通に話して構わない気がした。
 
実際の音源制作の作業は翌日からなのだが、今日は譜面を配って打ち合わせをする。来ているのもKARIONの3人、相沢さん・黒木さんと私の6人だけである。相沢さん・黒木さんも、今後可能な限り毎回音源制作やライブに参加してもらえないかと言われていた。
 
今回もまたゆきみすずさんの作品で『風の色』『丘の向こう』という曲と別の人が詩を書いた『トライアングル』という曲である。『風の色』だけが木ノ下大吉さんの作曲で、それをタイトル曲にする。
 
「この『トライアングル』ってメインボーカルが5人ですね」
「そそ。いずみちゃん、こかぜちゃん、みそらちゃん、らんこちゃんの4人に1月のイベントに参加してもらった、ほつみちゃんにも参加してもらう」
「わぁ!」
「彼女には月曜から水曜までの3日間来てもらうことにしているから、それまでにこの曲を仕上げよう」
 
「ライブではコーラス隊の子の2人が前面に出てきて5人で歌う演出にする」
「なるほど」
 

翌日土曜日は朝からスタジオに入り、最初に和泉たちが歌の練習をしやすいようにするための練習用音源を作る。ベースの木月さんという人とドラムスの山田さんという人が入り、相沢さんのギターと私のキーボードで軽く演奏し、それを収録した。
 
それで3人が練習している間に、こちらは本格的な伴奏音源の制作に入る。さきほどは軽く演奏した所を今度はきちんと譜面通り正確に演奏していく。ゆきみすずさんの指示で、微妙なシンコペーションなども入る。多少の譜面の修正なども入った。ゆきみすずさんは一応作詞者ではあるが、この2枚目のシングルまではKARIONのプロデューサーでもあった。
 
(3枚目のシングル制作の直前に病気で入院なさったため、結果的に4枚目のシングルからソングライター陣も一新して方向転換が図られることとなった)。
 
基本の4つの楽器の音がだいたい定まった所で黒木さんのサックス、私のヴァイオリン、そして歌の練習を中断してブースからセンターに出てきたいづみのグロッケンシュピールの演奏を収録する。和泉もここ数ヶ月自宅にもコンサート用グロッケンを買ってかなり練習したらしく、前回の音源制作に比べて随分うまくなっていた。3回でOKが出る。
 
そういう訳で、伴奏の方は土曜に1曲目、日曜に2曲目、月曜と火曜で3曲目の収録が終わり、木月さんと山田さんはそれでご苦労様でしたということにした。(ギャラは日曜日の分まで9日分が支払われる)
 
日曜日から、伴奏の1日遅れで歌の収録が始まる。実際には1曲目の収録は午前中で終わり、そのあとは2曲目の練習をして、月曜日に2曲目の収録、火曜日に3曲目の練習、そして水曜日に3曲目の収録をした。
 
この3曲目の収録には、私と穂津美さんも参加した。ポップスでは珍しいワルツの曲で、5つのボーカルが絡み合うように歌が進行していく。
 
「冬ちゃん、先月聴いた時より歌がうまくなってる」
と穂津美さんから言われる。
 
「うん。1月のイベントの時からも凄い進化している。去年暮れの音源制作の時からすると、別人くらいにうまくなってる」
と和泉も言う。
 
「私は全力で和泉たちを追いかけるから、追い抜かれないように和泉たちも頑張ってよ」
「よし、分かった」
と言って、私たちは硬い握手を交わした。
 

「蘭子ちゃん、マジでこの音源制作が終わった後、君のデビューについて話し合わない?」
と畠山さん。
 
「今デモ音源を制作中なんですよ。5月くらいまでにはできると思うので、それができたら聴いてください」
「うん」
「それと、実は○○プロの方からもかなり誘われていて、一応今向こうのスクールに出席して歌の指導を受けているんですけどね」
 
「やはり本格的競合かな。向こうは資本力あるだろうから厳しいけど、僕も契約金少々は頑張るよ」
「私は契約金の額で決めたりはしませんよ〜」
などと言ったら、和泉が
 
「社長〜、私たち契約金とかもらってない」
と言う。
 
「あっと、君たちには年末にボーナス出すからさ」
と言って畠山さんは頭を掻いていた。
 
 
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