【夏の日の想い出・セイシの行方】(1)

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それは2029年の夏であった。
 
小学5年生のあやめと夏絵は、学校の性教育で精子だの卵子だのといった話を聞いて、うちの8人の子供たちのことで、それぞれどういう形で生まれたのか、誰の精子と誰の卵子から生まれたのか、というのに興味津々で、質問して来た。
 
最初、この家で暮らす4人の「親」がみんな忙しいので、たまたまやってきた真央と敏春夫妻に「自分たちを作った精子と卵子」のことを尋ねたのだが、真央の説明と敏春の説明が食い違い、ふたりとも「あれ?」「あれ?」という感じになって、結局「分からん! ママに訊いて」ということになってしまった。ここで「お母ちゃんに訊いて」と言わないところはさすがである。政子が理解しているとは思えない。(だいたい自分が産んだ子が誰と誰かというのさえ時々勘違いしていることがある。子供たちの誕生日も覚えないし!)
 
それであらためてあやめと夏絵に訊かれて、私は8人の子供たちひとりひとりについて、どういう形で生まれてきたのかを丁寧に説明した。
 
「夏絵はお母さん(リンナ)とお母さんの前の旦那さん・大輔さんとの間の子供だよ。大輔さんがお母ちゃん(政子)と結婚する予定だったけど式を挙げる前に亡くなったから、お母ちゃんが育てることにして、夏絵はこの家に来た。だから、お母さんと新しい旦那さん・俊郎さんとの間の子供、敦子ちゃんは夏絵の妹なんだよね」
 
「その話、前にも聞いたけど何だか複雑でよく分からない。でも敦子が私の妹だというのは知ってる。でもあやめの妹にはならないの?」
「あやめとは関係無い・・・と思うけど」
私は一瞬考えてから答えた。
 
「あやめとかえでは私とお母ちゃん(政子)の間の子供、博史はお母ちゃん(政子)とお父ちゃん(貴昭)の子供、ももはママ(私)とパパ(正望)の子供、紗緒里と安貴穂は、お父ちゃんと亡くなった前の奥さん・露子さんとの子供、大輝はお母ちゃんと以前の彼氏・亮平さんとの子供だよ」
 
ふたりは「ふーん」などと言いながら聞いていた。
 
しかし。
 
「ねえ、あやめ、分かった?」と夏絵。
「なんかややこしいよね」とあやめ。
 
「でも、ももは柚や桜たちの妹だって言ってたよね?」
「そうだよ。私が赤ちゃん産めないから、麻央おばちゃんに代わりに産んでもらったからね。麻央おばちゃんの娘の柚や桜の妹でもある。それを私とパパが養子にもらったから、今は私とパパの子供なんだよ」
 
ふたりはかなり悩んでいる。そして見つめ合ってからこう言った。
 
「やっばり何だか話が難しいよぉ」
 
「柚や桜って、私たちの従姉妹なんだっけ?」
「えっとね。梨乃香・清代歌・南帆花が、ママのお姉ちゃんの萌依おばさんの娘だから、あやめ・かえでの従姉妹になる。麻央おばさんと和義(萌依の夫)おじさんが兄妹だから、柚・桜は、梨乃香・清代歌・南帆花の従姉妹だよ」
「従姉妹の従姉妹って、又従姉妹というんだっけ?」
 
「又従姉妹というのは、従姉妹の子供同士のことだね。従姉妹の従姉妹には特に呼び方は無いと思う」
 
「私とあやめは姉妹だよね?」と夏絵。
「そうだよ。夏絵はお母ちゃんの娘、あやめもお母ちゃんの娘だから姉妹」
「ああ、よかった」
 
「でもこないだ敏春おじさんが、大輝は私とは結婚できるけど、あやめとは結婚できないって言ってたよ」と夏絵。
 
「うん。ちょっと法律の規定が面倒でね。そういうことになってる」
 
法律の規定が面倒と言いながら、むしろ面倒なのはうちの方だよな、という気もした。
 
「それって苗字の問題? あやめと大輝は唐本で、私は中田だし」
「苗字は関係無いよ。でもあやめと大輝は卵子がどちらもお母ちゃん(政子)の卵子で産まれてるから、同じ人の卵子で産まれた同士は結婚できないんだよ。夏絵はお母さん(リンナ)の卵子で産まれてるから大輝とは結婚しようと思えばできる」
 
「大輝がもし性転換して女の子になってもあやめとは結婚できない?」
「女の子同士はそもそも結婚できないね」
「あ、そうか」
 
「あれ?でもママとお母ちゃんは女同士で結婚してるんだよね?」
「もしかしてママが元男の人だったから結婚できたの?」
「法律上は結婚できないよ。でもママとお母ちゃんはお互いの気持ちの上で結婚してるの。こういうの内縁関係と言うんだよ。法律上結婚してるのはママとパパ、お母ちゃんとお父ちゃんだけだよ」
 
「やっぱり難しいなあ」
 
「だったら、私とあやめもナイエン関係では結婚できる?」
「まあ、好きだったら結婚してもいいんじゃない? おとなになってからまたふたりで話し合ってごらん。でも男の子と結婚しなよ」
「男の子って何か付き合いにくいよね〜」
「ほんとほんと。たいしたことできないくせに偉そうにするし」
 

たまたまその週末、富山で暮らす青葉が「表の仕事」で上京してきたので、そんなことを娘たちに訊かれたから説明したけど、分からん!と言われたということを話した。
 
「複雑でも冬子さんとこはちゃんと科学的に生まれてるからなあ。うちのしおんはどうやってこの世に存在するようになったかを科学的に説明できないもん」
 
「和実がブール代数の古典論理では説明できないけど、ハイティング代数の直観論理では説明できると言ってたじゃん」
「あの説明、私分からなかった!」
 
「でも現実に存在してるから、いいじゃん。リアリティなんて沢山のポシビリティのひとつに過ぎないんだから。私たちは自分たちの思いで多数のパラレルワールドの中のひとつを選択している。科学なんて理屈付けのフレームのひとつに過ぎない」
 
青葉は頷いたが不安そうな顔で言う。
 
「でも時々、しおんがいるというのは夢で、明日起きてみたら居なくて、誰もしおんなんて子供のことは知らないと言われたりしないだろうかって、不安になることがある」
 
「そういうこと悩まない方がいいよ。そんなことが万一起きたら、その時悩めばいいんだから。それより来年の入学準備で悩みなよ。結構大変だよ」
「だよねー。和実にも同じようなこと言われた」
 

「だけど私もよく把握してないんだけど、あの8人ってそれぞれどうやって生まれたんだっけ?」
と青葉にまで訊かれてしまったので、あやめから始めて、ももまで8人それぞれ、うちにやってきた経緯を説明した。
 
するとメモを取りながら聞いていた青葉が不思議そうな顔をした。
 
「冬子さんの説明、だいたいは分かったんだけど、あやめちゃんの出生だけは納得いかない」
「へ?」
 
「あやめちゃんが生まれる前から、不思議な力を行使していたと冬子さん言ってたよね」
「うん」
「その始まりって、高校2年の時からでしょ?」
「うーん。。。。。『A Young Maiden』という大ヒット曲を書いたのが高2の6月なんだよね。そのタイトルの最初の音を取ると「ア・ヤ・メ」になっていることに気付いた時は衝撃を受けたね。だいたい赤ちゃん産む映画見て書いた曲だし」
 
「なるほど。ということはですね。その時点ではもう、あやめちゃんは存在してたんですよ。まだ生まれてはなくても」
「は?」
 
「だから、大学1年の時に冬子さんが最後の射精をした時の精子を保存していて、その冷凍精子を使って政子さんがあやめちゃん妊娠したというのはあり得ない。存在する前の時間にまで影響を及ぼすことはできないから。あやめちゃんを作った精子も卵子も、冬子さんたちが高2の6月の時点で存在していたんだ。まだ結合してなくても」
 
「うむむ」
「卵子は女の子が生まれた時から卵巣の中にあって成熟を待っている。だから卵子は確実にあったはずだけど、精子は日々生産されるもの。だからあやめちゃんを作った精子は少なくとも高2の6月より以前に生産されたものでなければおかしい」
 
私は大きくため息を付いた。
 

「青葉って本当に嘘をつけない相手だなあ」
と私は苦笑して、自分と若葉の2人だけが知っている秘密を話した。
 
「実はね。あやめを作った精子は高校1年の秋に採取して冷凍したものなんだよ」
「へー」
「当時、私は女性ホルモンを微量飲んで男性化を停めておくというのをもうやめて、もっとたくさん飲んで、ちゃんと女の子の身体にしてしまおうと思うようになって、それでそういうことをする前に精子を保存しておこうと思ったんだ。それに若葉が協力してくれたんだよね。夫婦かそれに準じる関係になければ冷凍の依頼ができないということだったから」
 
「若葉さんって。。。。なんか冬子さんの色々な裏を知ってますね」
「うん。私は冬の裏工作係って本人も言ってる」
 
「で、私は結局高校2年の頃から女性ホルモンを飲む量を増やしたし、夏からはローズ+リリーを始めたから、ほぼ常時タックしておくようになって、睾丸の機能はいったん完全停止してしまったんだ。精液の中に精子が含まれないようになった」
「ああ」
 
「でも、政子が私の男性機能を回復させようと色々してくれて。それでローズ+リリーの活動休止中の高3の夏に精子がいったん復活した」
「しぶといですね。私も睾丸の完全停止には苦労したけど」
「でも当時の精子は活動性が凄く悪くて、これはもし女の子とセックスしても妊娠させることはないかも知れないなと思ってた」
「なるほど」
 
「でも政子はそんな私の精子をまさに搾り取って冷凍保存してたんだよね」
「わあ」
「で、政子はその時の精液であやめを妊娠したつもりでいるんだよ」
「そこに何かあるんですね」
 
「その冷凍保存していた病院が数年後に倒産してね」
「はい」
「保管されていた冷凍精液は別の病院に移管されることになった。政子はその話をどうもニュースで知ったみたいで、病院に自分が冷凍依頼しておいた精液を確実に移管しておいて欲しいと連絡した」
「ええ」
 
「ところがさ。病院は照会されたから調べてみたものの、該当する精液が無い」
「へ?」
「それでこちらに電話があったんだけど、その時ちょうど政子が外出してて、私が電話を受けちゃって。向こうは女性が出たから、政子本人と思い込んでその件を私に言っちゃった」
「ほほお」
 
「その時の病院側の説明では、向こうも記憶が曖昧なのだけど、確かに冷凍保存を依頼はされたが、顕微鏡で調べてみたら、活動性のある精子がほとんど無いので、これでは妊娠不能ということで、冷凍しても仕方ないと伝えたのだと思うということで」
「ああ」
 
「それで私、政子が不憫に思えてさ。『私27歳になったら子供産むんだ』とか良く言ってたから。私の子供を産むつもりだったんだね。それで若葉に相談して高1の時に冷凍した精液を活用することにしたんだ」
 
「その精液を本来移転されるべき病院に持ち込んだんですね」
「そうそう。ところがさ」
 
と私は笑って説明する。
 
「私も何だか暗澹たる思いの中で、その冷凍精液の1本を保管していた病院から政子が移転依頼した病院に転送してもらった後で、連絡があったんだ」
「はい」
 
「こちらに中田冬彦さんの精子と唐本冬彦さんの精子というのがあるのだが、登録されている住所が同じなのだけど、もしかして同一人物ですか、と」
「は?」
 
「つまりだね。政子が冷凍保存を依頼した時、政子は『中田冬彦』の名前で保存を依頼していたんだ。そしてその精液は倒産した病院にあった他の精液と一緒に、その病院に転送された。ところが問い合わせた時、政子はうっかり『唐本冬彦』の名前で照会したんで、そういう名前の精液は無いってことになっちゃったんだね」
「なんとまあ」
 
「で、『中田冬彦』の精液の方は、妻の名前は中田政子、『唐本冬彦』の精液の方は、妻の名前は山吹若葉になってた。で、妻の名前が違うものの夫の下の名前と住所が同じだから、同一人物でパートナーが変わったのではないか。もしそうなら古い方を破棄する義務があるということで連絡してきた」
「うーん」
 
「で、私はその病院に行って、『中田冬彦』の精液は精子の活動性が悪い可能性があるので、どうしてもどちらか破棄しなければならないというのなら新しい方を捨てて古い方の『唐本冬彦』の精子の方を残して欲しいと言った」
「なるほど」
 
「それで病院では冷凍している両方の精液の一部を削り取って解凍して確認してくれた」
「わあ」
 
「結果、確かに私が言ったように『中田冬彦』の精液には活動性のある精子が含まれていなかった。でもこれは顕微鏡受精なら行けるはずと先生は言った」
「確かに」
「これは想像なんだけど、政子はこれでは妊娠不能だから冷凍しても意味無いと言われたものの、顕微鏡受精なら行けるから冷凍してと頑張ったんだと思う」
「ああ。で、結局どうしたんですか?」
 
「もう私が去勢して性転換もして、精子を生産できない身体であることを説明して、それでも中田政子とは事実上の夫婦関係を維持していることを説明した上で、将来子供を作りたいから、元気な方の精液を基本的に残したいけど、人工授精は失敗することもあるから、保険として可能なら活動性の悪い精子の方も一応保存しておいて欲しいとお願いした」
 
「それが認められたんですか」
「うん。物凄く特殊なケースなので、この問題に気付かなかったことにすると先生は言ってくれた」
「よかったですね。じゃ、両方残されたんですか」
 
「うん。でも出庫する場合は、『唐本冬彦』の精液を先に出して、それを使いきったら『中田冬彦』の精液を使うということにしてもらった。『唐本冬彦』
の精液は半分に分割できる容器に入っていたから、2回トライできた。だからその1回目で生まれたのがあやめ、2回目で生まれたのがかえでだよ」
「じゃ『中田冬彦』の精液は?」
「まだ残ってる。毎年保管料を払ってる。でも政子がこれを使うことはないだろうね。これだけ既に子供がいるから」
 

上島先生は春風アルトさんとの結婚後、11年も経ってからふたりの間に子供を作った。ちょうど、あやめ・かえでと同い年である。しかし結婚前に実は4人の恋人との間に各1人ずつ隠し子を作っていた。その4人のことを知っていたのは、先生本人、奥さんの春風アルトさん以外には、多分私と下川先生、雨宮先生だけだったと思う。
 
その中のひとりが2027年にロック歌手として「橘美晴」の名前で某レコード会社からデビューした時は驚いたものである。上島先生は多数のレコード会社の歌手に楽曲を提供しているが、このレコード会社とは取引が無かった。どうも本人が「七光り」にならないように、わざとそういう会社を選んだようであった。
 
しかし父親ゆずりの非凡な創作能力と歌唱力、それに歌手をしていた母親譲りの甘い声で、彼はすぐに人気アーティストとなり、その年の新人賞にもノミネートされた。ところが彼のお母さんが2029年春に病気で亡くなってしまった。上島先生はその人のため(春風アルトさんの了承も得て)病院代を全部出すなどサポートしていたが、回復はならなかった。
 
その直後から、一部のマスコミが彼の父親はどんな人だったのだろうと調べ始めた。本人は父親のことについては何も語らなかったのだが、周囲への取材から、どうも音楽家のようであるということになり、お母さんの病院代もその人が出していたようだということまで突き止め、それは誰なのかという「父親探し」
が始まってしまった。
 
随分いろいろな歌手や作曲家などが候補にあげられ、音声の分析比較などまでして、話題にされていたが、ついにその夏、ある雑誌社が亡くなった母親の歌手時代の元付き人の証言があったとして、父親は上島先生であると断定した。
 
それで「橘美晴は上島雷太の隠し子だった!」という題字が週刊誌の表紙に踊り、橘本人や上島先生へのインタビューも試みられたが、双方ともノーコメントを貫いた。
 
事実でなければ否定すればよいのであって、ノーコメントということはやはり事実なのではないか、とマスコミは憶測した。
 
それが大騒ぎになっていた時、唐突に「自分が橘美晴の父親」と名乗り出た人物がいた。
 
それは雨宮三森先生であった。
 

「あのお。。。雨宮先生は去勢なさってますよね。子供は作れないのでは?」
「子作りは気合いよ。私男の娘を孕ませたこともあるわよ」
「えー!?」
 
「あちこちの取材で雨宮先生は2006年初め頃に去勢手術をなさったというのを複数のご友人から証言を得ています。橘美晴君は2007年秋の生まれなのですが」
 
「あら。去勢前に精子を冷凍保存しておいたのよ。それを使って美晴を産んだの」
「産んだのって・・・雨宮先生が産んだ訳じゃないと思いますが・・・」
「あら、だって私、あの子の父親だもん。私が腹を痛めて産んだのよ」
 
マスコミは、どこまで本当でどこから嘘か、あるいは冗談か、さっぱり分からない雨宮先生の詭弁に惑わされた。実際問題として、記者やレポーターの見方も、雨宮先生が本当の父親なのかもという意見と、雨宮先生が上島先生をかばっているだけでやはり橘は上島先生の子供なのではという意見に、まっぷたつに別れた。
 
雨宮先生は更に自分と橘の母親が笑顔で恋人岬の鐘の前で並んで写っている写真を自分と彼女との交際の証拠として提示した。橘の古い友人が、その写真を小学生の時に橘の家で見たことがあるとし、彼は「お母ちゃんの友だち」と言っていたので女性の友人と思い込んでいたと言ったということであった。
 
また、ある雑誌が、雨宮先生の精液が某病院に数本保管されているという記事を、病院関係者の話として報道した。但し病院側はただちに記者会見を開き、誰の冷凍精液が保管されているかというのは、尋ねられても絶対答えることはないし、内部で無記名アンケートにより調査したが、そのようなことをマスコミに流した人物は存在しないというコメントを出した。
 
そういう訳で、結局この騒動はやがてうやむやのまま、収束していった。
 

その年の8月末、私と政子は雨宮先生にうまく乗せられて「30代最後かも」というヌード写真の撮影を東海地方の野外スタジオで撮影していた。
 
雨宮先生と私たちのヌード撮影も今回で何度目になるのだろうか。雨宮先生は50歳を過ぎているというのに、とても美しいプロポーションを維持しておられる。30歳くらいのヌードと言われても信じてしまうだろう。
 
「雨宮先生、年齢より20歳は若く見える」
「あら? 何歳に見えるの?」
「あ、えっと・・・・8歳かな」
「8歳でヌード写真撮ったら、ケイちゃん逮捕されるよ」
「ははは」
 
一息ついた時に政子が唐突に先生に尋ねた。
 
「結局、橘美晴って、どちらの子供なんですか?」
「ふーん。まああんたたちには言ってもいいか」
「そうですね。マリは聞いたことすぐ忘れるし」
「ケイちゃんは口が硬いもんね」
「恐れ入ります」
 
「橘の母親はね。基本的には上島の恋人だったんだけど、橘を妊娠した頃は上島との関係がかなりぎくしゃくしててね。それで私がその相談に乗ったりしてたんだよね」
「で、ベッドの上で相談に乗ってたんですか?」
「ケイちゃんもどぎついこと言うようになったなあ」
「37歳にもなれば、こんなものですよ〜」
「17歳のケイちゃんは可愛かったのに」
「今でもケイは可愛いと思うなあ」
 
「ごちそうさま。それで確かに私2006年1月に睾丸取ったんだけどさあ」
「はい」
「その時は1個だけ取ったのよ」
「へ?」
「男性化を止めたかったからね。1個取れば少し弱くなるかなと思ったんだけど、全然ダメで。それで2007年夏にもう1個も取っちゃって完全に種なしになったんだな」
「へー!」
「これ知ってるのは上島くらいだよ」
「なるほど。じゃもしかして橘君の父親って」
 
「そ、私にも上島にも分からない」
「DNA鑑定とかしなかったんですか?」
「敢えてそれは調べないことにしようよ、と上島と私とあれの母親の3人で話しあって決めた。だから養育費は私と上島が半分ずつ送金してたよ。あの子が20歳になるまで」
「わあ」
「血液型では分からないんだよね。私も上島もAB型だから」
「うーん」
 
「でもね」
「はい」
「橘の性格って上島に似てる気はする」
「上島先生も同じようなこと言ってたりして」
「あはは。でも別にいいじゃん。父親とか母親とか、便宜上のものだし。ケイちゃんとマリちゃんの家に暮らしてる子供たちも、父親2人・母親2人の子供ってことでいいんじゃない?」
「そうかも知れませんね」
 
と言って私は深く頷いた。
 

「あ、そうそう」
と雨宮先生は思い出したかのように言った。
 
「橘の父親は分からないんだけど、桜幸司は間違いなく私の息子だから」
「えーーーー!?」
 
「だって、桜幸司は確か2009年生」
「私が冷凍精子を使って産んだの」
「・・・・雨宮先生が産んだんですか?」
「もちろん。私が十月十日お腹の中に入れてて産んだのよ」
 
「でも雨宮先生子宮あるの??」
「先生の言葉って、どこまで本当でどこから冗談か分からないね」
「あら、真顔で嘘つくケイちゃんよりマシよ」
「うむむ」
 
「ちなみに冷凍精液は10本作った。うち3本を行使した」
「じゃ、雨宮先生の子供は3人いるんですか?」
「他の子は芸能人じゃないからね。でも3人とも私が産んだわよ」
 
「やはり先生って嘘つきだ」
 

「そういえば、冷凍精子っていえばさ」
と政子は雨宮先生と別れた後、帰りの車の中で唐突に言った。
 
「ん?」
「あやめ・かえでを産んだ時に使った冷凍精液なんだけどね」
「ああ、私の去勢前夜の精液を保存してたってやつね」
 
「あやめを産んだ時、精液の冷凍は2本ありますねと言われて」
「2分割されてたってやつでしょ」
「うん」
 
「かえでを妊娠した時も冷凍は2本ありますね、と言われたんだよね」
「へ?」
 
「だからどうも最初精液は3本あったみたい。最初2本ありますねと言われた時は、1本使ったから残り2本という意味だったんじゃないかなと」
「ああ。じゃ、3分割して保存されてたんだ?」
「そうみたい。だから実はもう1本残ってる」
「ふーん」
「あれ、いつ使おうかな?」
「まだ子供産む気?」
「産んじゃダメ?」
「もう8人も子供いるから、いいことにしようよ。それにもし産むにしても、私の精液使うんじゃなくて、貴昭さんとセックスして産みなよ」
「そうだなあ。でもあやめを妊娠した時、私ね」
「うん」
 
「優先順が書かれているから、おそらくこれがいちばん濃い部分だと思うので、これを解凍しますね、と言われた1番と書かれた冷凍アンプルを拒否して」
「へ?」
「優先順の低い方にしてくださいと言ったんだ。だって、失敗した時に、次は前のより妊娠確率の高いものを使えたほうがいいじゃん」
 
「うむむむ。でも政子って御飯は好きなものから食べるタイプなのに」
「うん。好きなものを最後に取っておくなんてことはしない。好きなものは確実に先に食べる」
「でも精液は弱い方から使ったんだ?」
 
「そう。これは他の人が使うことはないから安心だし。だからあやめ産んだ時の精子はほんとに元気なくてさ。体外受精だったから、お医者さんに顕微鏡操作で受精させてもらったんだよね。元気のない精子ばかりの中で少しでも元気そうなのあちこち探して見つけ出して捕まえて」
「う・・・」
「あ、何だか凄く元気なのが1匹いたいた。こいつ使おう、なんて先生が嬉しそうに言ってたよ」
「へ、へー」
 
「それがかえでを産んだ時は、解凍した精子が凄い元気で。これなら体外受精の必要はないです。ふつうに人工授精で産めますよと言われたから人工授精して」
「でもその晩、大輔さんともやっちゃって、父親がどちらか分からなくなったと」
 
「そうそう。でもあの時の精子にそんなに元気な精子の詰まってる部分と、元気ないのばかりの部分とがあったんだね。遠心分離機にでも掛けたのかな」
 
「さあ、ああいうの、どうやるんだろうね」
 

私は翌週、新潟まで用事があった出かけたついでに、富山まで足を伸ばし、青葉・彪志夫妻の家にお邪魔した。
 
「えーーーー!?」
と青葉は思わぬ話の展開に驚愕した。
 
「じゃ、あやめちゃんを産んだ時の精子は間違いなく、大学1年の時のもので、かえでちゃんを産んだ時の精子が高校1年の時のものなんですね?」
 
「たぶんそうだと思う。政子の話からすると」
「待って。そんな有り得ないことなのに・・・・」
 
と言って青葉は本気で悩んでいる。そして青葉はタロットを1枚引いた。
 
「審判・・・・・大天使ガブリエル・・・そういうことか」
 
「どういうこと?」
「つまりですね。かえでちゃんは(受胎告知をした)ガブリエルなんです。かえでちゃんがあやめちゃんの誕生を告知したんです」
「へ?」
「だから、産まれる前からあれこれ不思議なことを起こしていたのは、あやめちゃんじゃなくて、かえでちゃんの方だったんですね」
「え!?」
 
「かえでちゃんって、自分では表に立たないで、裏でこそこそ工作しちゃう子じゃない?」
「あ・・・・かえではそういうタイプかも。子供たち何人かで悪い事してる時だいたい見つかって叱られるのは大輝なんだけど、どうもかえでが裏で糸を引いてる感じで」
「なるほど」
 
「そうだ。思い出した。私さ、昔夢見たことあるんだよ。震災の時だったかな。赤ちゃんの入ったかごを持って右往左往してて、門番みたいな人に会って。ここは定員2名だから、通れないと言われて。その時、私は男と女の両方兼ねてるから、私だけで2名と言われたのよね」
「はい」
 
「それで男の私を捨てますと言って。それで女の私とかごの中の赤ちゃんのふたりでそこを通ったんだけど」
「ええ」
 
「でも外に出てからよくよく見たら、ひとりの赤ちゃんの影にもうひとりの赤ちゃんがいたんだ。それで、お前見つからなくて良かったね、と言ったんだけど」
 
「表に出てたのがあやめちゃん、後ろに隠れてたのがかえでちゃんですね」
「うん。要するにかえではフィクサーということか」
 
「それなら納得できます。かえでちゃんは自分の姉が確実にこの世に生まれるように行動してたんですよ。それで、あやめちゃんの幻をママに見せたりして積極的にアピールした。そして最後はたぶん去勢手術直前の冬子さんの身体に直接働きかけて、男性能力を超回復させたんじゃないかな」
 
「はぁ。。。」
 
「大学1年の時の精液は、活動性のある精子がほとんど無かったって言ってましたよね」
「うん」
「ほとんど無かったってことは、僅かながらあったんですよ。それがあやめちゃんだったんですね」
 
「ああ。そういえばそんな感じのこと言ってた。顕微鏡で見てあちこち探していちばん元気そうなのを捕まえて受精させたって」
「そういうのが全部かえでちゃんの仕業だったのかもね」
「じゃ、もしかしてかえでって凄い子?」
 
「あやめちゃんって天才肌ですよね。政子さん似。ぱっと目立つ。でもかえでちゃんはそういうお姉ちゃんを輝かせるのが好き。目立たない所で色々してる。冬子さん似かも」
「あはは」
「きっとその内、このふたり組んで何か始めますよ」
「ああ。面白いコンビになるかも知れないなあ」
「でも姉妹だから結婚できませんけどね」
「ふふふ」
 
「あとですね」
「うん」
「あやめちゃんで多分重要なのは、ローズ+リリーの活動を経た後で作られた精子だってことですよ」
「ん?」
「精子記憶仮説ってのがあって。精子はそれが生産された時点での父親の経験や記憶を反映しているっての」
「ほほお」
「だから、かえでちゃんにとっては、ローズ+リリーを経験したあやめちゃんが必要だったのかもね」
「ほほぉ!」
 

富山から戻ってきた私の所に、あやめが何だかまとわりつく。
 
「どうしたの?」
「ね、ね、ママ。見て欲しいものがあるの」
「ん?」
 
「1階のピアノ貸して」
「うん、いいよ」
 
私はあやめと一緒に1階の「仕事部屋」に入ると、グランドピアノのふたを開け、何やら手書きの譜面を立てて、ピアノを弾きながら歌を歌った。
 
「この曲は?」
「私が書いた」
「よく出来てるじゃん」
「売れる?」
「少し手直しすればあるいは」
「どこ直せばいい?」
 
私は楽典的な理論を説明し、その上で何ヶ所か和音の誤りを指摘した。
「似た響きの和音だから、理論が分かってないロックミュージシャンなんかにはこちらで代用してしまう人もよくあるけど、正しい和音はこちらなんだ」
「うーん。その辺ちゃんと勉強しないといけないなあ」
 
「マンションの方にたくさんその手の本は置いてるから、あちらに時々行って読むといいよ。合い鍵1個作って渡そうか?」
「うん」
 
「それから構成の問題だな。この曲サビが凄く魅力的なメロディーでしょ」
「うん。最初にこれを思いついたんだよ」
「そういう場合は、サビ始まりにすればいいんだ」
「あ。そうか」
 
「作品を作る時は出し惜しみしちゃいけないの。毎回最高のものを作る気持ちでやらないと、中途半端な作品になる。この作品はサビが絶対注目されるから、それなら最初にそれを聞かせる。人は未知のものを耳にした時、3秒か5秒で善し悪しを判断する。ずっとAメロBメロを聞いてその後でサビまで、という聴き方はしない。Aメロの最初4小節がそれほどでもなかったら、そこまでしか聴いてもらえない。売れる作品は、キャッチーでなきゃいけない」
 
私は他に歌詞上の問題もいくつか指摘した。文法的な誤りの問題。体言止めで余韻を残す方法、「馬から落馬」的な不要な修飾の問題。それから音韻的な問題。
 
「詩ってのは韻を踏むと心地良くなって落ち着くの。これ最初のフレーズが『こたえるあなた』で終わってて次のフレーズは『ことばをつづる』で終わる。これは例えば1行目を『あなたはこたえる』にするか逆に2行目を『つづるの、ことば』
にして韻を踏んだ方が美しい」
 
「韻を踏むって同じ母音で終わるということ?」
「そうそう」
 
あやめは私から指摘されたことを元に修正するといい、翌日その修正された歌を聴かせてくれた。
 
「うん、すごく良くなった。ここのメロディーラインは新たに作ったんだね?」
「そこ、実はそのラインを考えてたんだけど、素敵だからこの曲に使うのはもったいないかなあと思って別の曲で使おうと思ってたけど、ママが出し惜しみするなと言ってたから」
「そうそう。それでいい」
 
「この曲売れる?」
「今度のママとお母ちゃんのアルバムに入れてみようか。作詞作曲者名はペンネームでも使う?」
「じゃ快速紳士で」
「変わったペンネームだね」
 
「男っぽい名前を使ってみたい気分だったんだよね」
「ふーん。あやめ、男の子になりたい?」
「そうだなあ。おちんちんにちょっと興味はあるけど、男になったらスカート穿けないし」
「ああ、あやめって今時珍しいスカート派だもんね」
「うん。学校でもスカート穿いてる女の子は私とノリちゃんくらい」
「ふーん」
「あと、おちんちんあると毎日オナニーしないといけないんでしょ?なんだか面倒くさそう。女の子の生理も面倒で憂鬱だけど月に1回で済むから」
 
「いや。別にオナニーしなきゃいけないってことはないんだけどね」
「クラスの男の子たちと話してると、みんな毎日してるみたいだよ」
「まあそんな子が多いかもね」
「ママは私くらいの年の頃はまだ男の子だったんだよね? 毎日オナニーしてた?」
「ああ。ママの場合は特殊だと思うよ。男の子ではいたくなかったから、オナニーもほとんどしてない」
「ふーん。しなくても済むもんなんだ」
「その子次第でしょ」
 
「大輝は毎日してるみたい」
「見ちゃだめだよ。こっそりやるものなんだから」
「何度か見ちゃった。おちんちん凄く大きくなってた」
「まあ、12cmくらいから16cmくらいまで大きくなるからね」
「ママのおちんちんも大きくなってた?」
「私のは元々小さかったから10cmくらいかなあ」
 
「ふーん。あれって、どうやったら大きくなったり小さくなったりするの?」
「Hなこと考えると大きくなって、それ以外のこと考えてたら小さくなるんだよ。あと射精した後も小さくなるよ」
「へー。ちょっと試してみたい気分」
「高校生くらいになって彼氏作ったら、やらせてもらいなよ」
 
「高校生になったらいいの?」
「セックスとかする相手なら、そのくらいさせてくれるでしょ。セックスって分かる?」
「あ。何となく。ママとパパ、お母ちゃんとお父ちゃんでしてるよね」
「してるよ」
「でもママとお母ちゃんも多分セックスしてるよね」
「してるよ」
「おちんちんなくてもできるもの?」
「女の子同士ははまたやり方があるんだよ」
「へー。高校生になったらセックスしてもいい?」
 
「ちゃんと避妊するなら、してもいいよ」
「避妊って?」
「セックスしても精子がヴァギナに入らないように、おちんちんにコンドームってのをかぶせてセックスするんだよ」
「へー、うちにそのコンドームってある?」
「あるよ」
と言って私は1枚引き出しから取り出して封も開けて見せてあげた。
「きゃー。これをおちんちんにかぶせるのか」
「大輝のにかぶせてみようとかは考えないこと」
「なんでママ、私の考えたこと分かるの?」
「ふふ。まあ、これで試してごらん」
と言って私はマジックインキを渡してやった。
 
「これどっちをかぶせるのかな・・・あ、分かったこっちだ」
と言って、あやめはコンちゃんをマジックにかぶせる。
「へー。なんか面白い。でも中がスカスカ」
「本物のおちんちんならピタリ収まるよ。もっと太いから」
「そうだよね〜。大輝のずいぶん太い気がしたもん。じゃ、これかぶせたまま射精させるの?」
「そうそう。そうしたら精子はこの内側だけに留まってヴァギナには入らないでしょ?」
 
「ふーん。私ってママの精子とお母ちゃんの卵子から生まれたんだよね?」
「そうだよ。かえでもだよ」
「じゃ私やかえでが生まれる頃まで、ママはおちんちんあったの?」
「ううん。あやめが生まれるのより8年前にママは手術して女になったよ」
「じゃどうやって私やかえでは生まれたの?」
「精子を冷凍しておいたからね」
「へー。私って冷凍されてたのか!?」
「ふふ。寒くなかった?」
「凍えてたかも」
「ふふ」
「あ」
 
というと突然あやめは、そのあたりにあったボールペンと紙を取ると何か詩を書き始めた。このあたりの行動パターンは政子に似てるなあと私は思う。
 
「できた〜。また曲を付けてみよう」
「ふふ。頑張ってね」
 
「でも女の子になる手術って、おちんちんとか睾丸とか取っちゃうんだよね?」
「女の子にはおちんちんも睾丸も無いからね」
「取ったのは捨てちゃったの?」
「睾丸は捨てちゃったよ。でもおちんちんはヴァギナの材料にしたよ」
「へー。じゃ、ママのヴァギナって元はおちんちんだったんだ!?」
「そうだね」
 
「あれ? 私、ママから生まれたんだっけ?お母ちゃんから生まれたんだっけ?」
「お母ちゃんだよ。ママには子宮が無いから」
「ふーん。女の子になる手術で子宮は作らないの?」
「そうだね。卵巣も無いよ」
「じゃ、女の子になる手術しても赤ちゃん産めないのか」
「そうだね。ちょっと残念だね」
「じゃお嫁さんにもなれない?」
「お嫁さんにはなれるけど、お母さんにはなれないね。子供が産めないということを承知で結婚してくれる人はいると思うよ」
 
「そっかー。大輝に女の子になる手術受けさせたら、すごく可愛いお嫁さんになりそうな気がするのになあ」
「大輝は別に女の子にはなりたくないと思うよ」
「そう?こないだからスカート穿かせようとしてるんだけど、嫌だって言われる」
「ふつうの男の子はそんなものじゃない?」
 
「でも女の子になりたい男の子って結構いるよね?」
「そうだね」
「ママたちのおともだちの手術で女になった人たちとか凄いもん」
「あのメンツはちょっと凄すぎるけどね」
 
「マイちゃんの高校生のお兄さん、冬休みに女の子になる手術受けるんだって」
「へー」
「女の子になってから卒業したいからだって」
「ああ、そういうのはあるだろうね」
「女の子になったら、制服も女子の制服を着るのかな?」
「そうじゃない?」
 
「あれ? ママは中学や高校の時、男子の制服着てたの?女子の制服着てたの?」
「どちらも着てたよ」
「ふーん。まだその頃は女の子になってなかったんだよね?」
「身体はね。でも心は女の子だったから」
「心が女の子なら女子の制服着るの?」
「親とか先生が認めてくれたら、そちら着たいんじゃない?」
 
「ママ、女子の制服着たかった?」
「着たかったけど、恥ずかしいから、こっそり着てた」
「へー。それって恥ずかしいもの?」
「何か言われないだろうかとか不安になるよ」
「でも女の子なんだから、着てもいいんだよね?」
「うん。でも本人がそういう気持ちになれるまで時間が掛かるんだよ」
 
「ママ、大学の時は?」
「大学に入った後はもう男の子の服は着たことないよ」
「その時、ママは完全に女の子になったのか」
「そうそう。手術を受けたのは大学2年の時だけどね」
「身体より心が大事なのね?」
「そうだよ」
 
「あ、ママが中学や高校の頃に女子制服着てた時の写真とかある?」
「あるよ」
 
と言って私はパソコンで家のミラーサーバー(マンションにある親サーバーのミラー)の中の古いフォルダを開いて見せてあげた。
 
「ママ、可愛い!!」
「ありがとう」
「やはり、こんなに可愛かったら女子制服着て通学して、女の子になるべきだよ」
「ああ、お母ちゃんからもよく言われてたよ」
「よし、大輝もっと唆してみよう」
「あはは」
 
「だって大輝って可愛いから、男の子のままでいるの、もったいないもん。絶対女の子になるべきだよ。騙して性転換手術受けさせちゃおうかな」
「目が覚めておちんちん無くなってたら泣くと思うよ」
 

「でもね、何か私、昔夢見たような記憶があって」
「ふーん」
「私、何だか暗い所にいて、凄く不安だったの。近くにたくさん人がいるんだけどみんな座り込むか立っていても全然動かなくて、何だか怖かった」
「ふんふん」
「そしたら、かえでが来てさ。お姉ちゃん、こっちこっちって言って。明るい所に連れて行ってくれたの」
「ほほお」
「それが、何となく自分が生まれる前のことのような気がして」
「ふふ。そういうこともあるかもね」
 

私はちょっと試してみることにした。
 
リビングのテレビモニターの上、本棚の上、FAXの横、お人形さんケースの上に、全く同じボールペンケースを4つ置いた。
 
その日の夕食時、ちょうどトイレで中座して戻って来た、かえでに声を掛ける。
 
「あ、かえで。紫色のボディーのボールペンの入ってるケース取ってくれない?」
「ん?これ?」
と言って、かえでは迷いもせずにFAXの横に置かれていたボールペンケースを取って私に渡してくれた。
「ありがとう」
 
私はその箱を開けて中にある紫色のボールペンを取り出し、コピーしたバンドスコアに修正内容を記入していった。そしてとても楽しい気分になった。
 

「かえではさ、自分が産まれる前の記憶とか無い?」
「うーん。。。。あれかなあ」とかえでは遠くを見るようにして言う。
 
「私、お友だちと一緒に歩いてたの。そしたら、何か後ろから怖い人たちが来るって言われて」
「ふーん」
「それで、お友だちの何人かが、ここであいつらを食い止めるから、お前たち先に行けって言われて」
「わっ」
「それで3〜4人のお友だちと一緒に走って。私がめげそうになると手を引いたり押したりして助けてくれて。それで明るい所に辿り着いて、ほら、かえでちゃん頑張ってと言われて、私そこに飛び込んだんだよね」
「ほほお」
「それで私産まれた気がするんだ」
「へー」
 

「昔は、精子って、ひとつひとつが全部競争で卵子を目指す、マラソン競技みたいな形で受精に至るって思われてたんだけど、今ではチームを組んで受精を目指すことが分かってるんだよね」
と奈緒は言った。
 
「数個の精子でチーム組んで、ガード役とか露払い役とかがいて、中心になっている精子を助けてくれる。そしてそのチームで卵子の所まで辿り着くと、中心となった精子が受精する」
「なるほど」
 
「そのかえでちゃんの話って、まさにそういうチームプレイを表している気がするね」
と奈緒は楽しそうに言った。
 
「だけどかえでちゃんは勘の良い子だよ。冬んちに行って子供たちと遊んでいる時に時々思うことある。あの子、めったに叱られることないでしょ?」
「ああ。叱られるのはだいたい大輝だね」
 
「大輝ちゃん、特に要領が悪いんだもん。かえでちゃんはうまく逃げちゃう。そろそろ叱られるなというのが、分かるんだよ、あの子。そのあたりの勘はお姉ちゃんの、あやめちゃん以上だと思うよ」
「なるほどねぇ」
 
「ところでさ」
「うん」
「私、実は冬の精液持ってるんだよね」
「へ?」
「中学や高校の頃に何度かちょっと危ない遊びしたじゃん」
「うん、まあ」
「射精させたりもしたでしょ。冬って勃起しないからセックスはできなかったけど、柔らかいまま射精はしてたもん」
「まさか・・・」
「精子の冷凍っての一度やってみたくてさ。理科の実験気分でドライアイス使って瞬間冷凍して。野菜のフリーズドライ作る実験とか何度かやってたからその要領で」
「私の精子は野菜並みか?」
「うまく冷凍はできたと思ったけど、自分ちの冷蔵庫では保管は無理だから、後は医学部に行ってる従姉に頼んで、大学の設備で保管してもらった」
「うむむむ」
 
「適当な保管の仕方だし20年も経ってるから、たぶんもう死んでるかなあと思ってこないだ一部削り取って解凍してみたんだけどね」
「うん」
「元気に精子が泳いでたよ」
「あはは」
 
「精子って丈夫なんだね。もし隠し子とか作りたくなったら、あげるね」
「いや既に子供8人もいるから要らない」
 
「そう?じゃ、私が自分で使っちゃおうかなあ。私もそろそろ妊娠できる年齢の上限近づいてるし」
「ちょっと待って」
 

2029年12月。私は事務所からの緊急の連絡を受けた。
 
「何ですって? 分かった。すぐ行く。病院はどこ?」
 
上の階で寝ていた政子を起こし一緒に出かけようとしていたら、1階の作業部屋に入って一緒にピアノの練習をしていた、あやめとかえでが顔を出す。
 
「どうしたの?」
「ママたちの会社の社長が車に跳ねられたの。すぐ行かなくちゃ」
「どのくらいの怪我?」
「分からないけど、今緊急手術している」
 
あやめとかえでは顔を見合わせた。
「ママ、社長さんは大丈夫だよ。無事回復するよ」とかえでが言った。
 
「そう? ありがとう」
私はかえでの頭を撫でてあげた。
 

病院に行くとサト・タカと近藤さん・七星さん夫妻が来ていた。
 
「どうですか?」
「覚悟してくれとお医者さんから言われた」とタカ。
「でもうちのかえでが助かると言ったから大丈夫だよ」と政子。
「かえでちゃんか。。。。あの子、不思議な子だもんね」と七星さん。
「あの子が言うなら助かるかもね」
 
私たちはほとんど無言のまま手術の終わるのを待った。そのまま集中治療室に運び込まれる。多数の所属アーティストから連絡が入るのを副社長(*1)の花枝が
「病院に大量に集まっても他の患者さんに迷惑だし、待機しておきたいという人は事務所の方で待機して」
と伝えていた。
 
(*1.この時期、私と政子はUTPの経営からは離れており、社友・相談役の肩書きを持っていた。但し株式は各々17%を持っていて、ふたりが協力すれば総会での否決権を持つという立場にあった)
 
加害者の少年とその父親が土下座していたが、細かいことは後で話しましょうということにした。こういう場ではお互いにあまり話さない方が良い。変なことを言うと後でもめる元になるだけである。
 
私はロビーで富山の青葉に電話した。向こうはびっくりしていたが、祈祷すると言ってくれた。その青葉にかえでが「無事回復する」と言ったんだけどと言うと「かえでちゃんが言ったんなら間違いない」などとも言われた。
 
私は何か考えてしまうと、心が動揺するので、何も考えず、心を無にして控室で待機していた。時々ICUに様子を見に行くが、美智子はずっと眠っていた。頭を打っていて、そのため血腫が出来かかっていたのを開頭手術で血抜きしている。血腫がまた出来てしまうと、脳を圧迫して障害が出たり生命の維持に関わる事態もあり得る。
 
政子が何か書いていたので見ようとしたら「見たらダメ」というので離れる。政子は短冊のような紙に《青い清流》で何かを書いて、それを小さく折りたたんで、自分のブラの左側のカップの中に収めた。おまじないだろうか?
 

美智子は朝になっても意識を回復しなかった。私たちはいったん引き上げて休憩することにし、病院には管理部長の悠子が出てきて代わりに待機することになった。しかし、悠子が病院に来た時、その顔色が物凄く悪いのに驚く。
 
「悠子、大丈夫? 何だか悠子に付き添いを付けないといけない感じ」
「あ。大丈夫だよ。ただ昨夜は寝てないから」
「寝なきゃダメだよ! やはり誰かに一緒に居てもらおう。旦那さんは?」
「会社に行った」
「じゃ事務所から誰か出してもらおう」
 
と言って、私は徹夜待機していた副社長の花枝と交代で事務所に待機している制作部長・専務の夢花に連絡する。すると取締役営業部長の窓香に病院に行ってもらうということになったので、窓香が到着するまで私が悠子と一緒にいることにした(政子はタクシーで家に帰した)。夢花は最初若い子を誰か行かせようかと思ったものの、悠子に少し強いことが言える人でないとやばいと判断して窓香にしたようであった。
 
(UTPの社員番号が 1.美智子 2.花枝 3.悠子 4.夢花 5.窓香 である。この5人は若い社員たちからしばしば「Big5」とか「雲の上の五人」と呼ばれていて、UTPグループを大きく成長させた中核とみなされている)
 
「でもどうしたの? 朝から交替してもらうから寝ててって花枝から言われたんでしょ? それなのに徹夜しちゃうなんて、悠子らしくない」
 
「ケイさん、口が硬いよね?」
「ん?」
「あのね。私と社長だけの秘密だったんだけどね」
「うん」
「社長は私の実のお母ちゃんなの」
「え?」
 
「お母ちゃんがソロ歌手としてデビューしたものの全然売れなくて生活にも困っていたような時期に、若いロック歌手との間に出来たのが私だったの。でも貧乏で育てきれないから、子供の居なかった親戚の家に養女に出されて」
 
「そうだったんだ! 美智子ったら、私と一緒で自分も子供残せなかったとか言ってたのに。隠し子してたなんて。でもなんで内緒にしてたの? 堂々と母娘と名乗ってもいいのに」
 
「UTPを同族会社にしたくないからだよ。社内ではBig5の中で私だけが取締役になってないのは、社長から嫌われてるからではとか花枝と相性が悪いからでは、なんて噂もあるみたいけど、自分の子供を役員にすれば後継者と思われて、いちばん頑張ってる花枝に悪いから敢えて役員にしてないんだよね。そういうのもあって、苗字が違うのをいいことに、そもそも母娘であること自体を公表してない」
 
「そうだったのか。。。。ロック歌手と言ったけど、悠子のお父さんって有名な人?」
「百道良輔って言うんだけど」
 
「・・・・百道大輔の兄ちゃん!?」
「うん。認知はしてもらってたけど、お陰で死んだ時は速効で相続拒否の手続きしたよ。なんか莫大な借金あったみたいね」
 
「あの事件の後、百道のお母さんは破産する羽目になったしね。あれ?ちょっと待って。。。じゃ、悠子って、うちの夏絵の従姉なんだ!?」
と私は頭の中で情報を整理しながら言ってみた。
 
「えへへ。そうなるかな。親子ほど年は違うけど。マリさんが百道大輔と付き合い始めた時はびっくりしたよ。でも私、百道の家とは完全に縁が切れてて交流無いし。お母ちゃんはよく会いに来てくれてたんだけど、お父ちゃんは私、写真でしか見たことないの」
 
「そうだったのか。うちに来て夏絵と会ってあげてよ。自分の従姉だって聞いたら夏絵、すごく喜ぶよ」
「いいのかなあ・・・あれ?かえでちゃんは違うの?」
 
「かえでの父親も百道大輔と思ってる人多いよね。でもかえでの父親は私なんだよ。これ誰にも言わないでね」
「うっそー!」
 
「それとひとつ」
「はい」
「少し寝なさい。控室に布団があるから。お医者さんに睡眠薬出してもらう?」
「でも・・・」
「これUTPの大株主、そして義理の叔母からの命令」
「あはは」
 
私は医師に「他の見舞い・付き添いには話さないで欲しいが、この子は患者の娘で、眠れないでいるので睡眠薬を出して欲しい」と言った。医師はそういう個人情報は自分たちは話さないから大丈夫と言った上で、薬を出してくれたので、悠子は素直に薬を飲んで寝た。その後、窓香が到着したので交替して私は帰宅した。
 

美智子は一週間眠り続けた末、意識を回復した。青葉が北陸から駆けつけてきてくれてICUで「何か」していた感じだったので、それも効いたのではないかと思う。青葉は「私は何もしてないよ。祈祷しただけ」とは言っていたが。
 
幸いにも後遺症なども出ず、半年後には退院することができたし、その後は前より元気になってアーティスト発掘で全国飛び回るようになったが、入院中はUTPは「Big5」の残りの4人と私、および七星さんとで運営していた。美智子は病床から悠子を常務取締役に任命し、花枝を社長、夢花を副社長、窓香を専務にして自分は会長に就任するということを指示し、臨時株主総会で承認された。
 
美智子が意識を回復した夜、政子がブラの中から折りたたんだ紙を取りだした。
 
「何か願を掛けてたの?」
「うん」
と言って見せてくれた紙には『一週間御飯は毎食1杯しか食べないので美智子を回復させてください』と書かれていた。政子らしい!
 
「お腹空いたでしょ?」
「空いた! でも我慢したよ」
 
あやめと夏絵が、心配そうにこちらを見ていた。このふたりはいわば8人の子供たちのリーダーである。紗緒里の方がこのふたりより1つ年上だが、依存心の強い性格なので、男勝りな性格のあやめ・夏絵にむしろ頼っている。
 
「社長さん、無事だった?」と夏絵。
「うん。意識回復したから、もう大丈夫だよ」
「やっぱり。かえでが大丈夫と言ってたから、大丈夫とは思ったんだけど」
「あの子、勘が発達してるからね」
「物が見当たらない時とかも、かえでに聞くと、すぐ見つけてくれるんだよ」
「へー」
 
「そうだ。あやめ」と政子は声を掛けた。
「うん」
「あんた、最近随分詩を書いてるよね」
「うん。曲もね」
「これ、あげる」
と言って《青い清流》を渡すので、私はびっくりした。
 
「これ、大事なボールペンじゃないの?」
とあやめが心配して言う。
 
「社長が入院した時にね、願掛けをしたんだけど、その願掛けの文章をこのボールペンで書いたら、ボールペンが『自分の所有権を願掛けの代償にしろ』
と言ったのよね。だから、このボールペンはお母ちゃんの手を離れて、誰かの所にやらなければいけない。それで誰に渡すべきか考えてたんだけど、あやめがこのボールペンを持つのにふさわしいという気がしたから」
と政子は言った。
 
「うん。いいんじゃない? あやめって、ママやお母ちゃんより曲作りの才能あるっぽいし。きっと、この子もより優秀なソングライターの所に行きたいんじゃないのかな。高岡さんの手を離れて、私たちの所に来た時みたいにね」
と私も笑顔で言った。
 
あやめは緊張した顔で聞いていたが
「分かった。じゃもらいます」
と言って、《青い清流》を受け取った。この後、あやめはこのボールペンを使って、たくさんの名曲を紡ぎ出すことになる。
 
 
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1  2 
【夏の日の想い出・セイシの行方】(1)