【夏の日の想い出・南へ北へ】(上)

前頁次頁時間順目次

1  2  3 
 
彼女はじっとそれを見つめていたが、やがて思い切ったような表情でハサミでその物体をはさんだ。
 
「サヨナラ」
と言って彼女は指に力を入れた。
 

「切られると困ります!」
 
「そうか。困るか」
と言うと、彼はそれを切り落としてしまった。
 

2014年の9月上旬、私は千里、雨宮先生、長野龍虎(アクア)、上島先生と5人で宮崎まで「宮崎牛のステーキを食べに」1泊3日で行ってきた。行きは千里の運転で宮崎まで夜通しエスティマで走り(車中泊)、翌日鹿児島神宮と霧島神宮、青島・鵜戸神宮を回り、翌朝青島で太陽と月が同時に空にあるのを見て飛行機で帰ってきた。
 
その後、私はローズ+リリーとKARIONのアルバム制作(雪月花・四十二二十四)に没頭していたのだが、この時期、私たちと同じ08年組のAYAは何もアナウンスの無いまま休養中だったし、XANFUSは事務所のトラブルで消滅の危機にあった。
 
8月中旬、&&エージェンシーで斉藤邦明社長が突然解任され、新社長になった悠木朝道氏が「生バンドは金が掛かる」と言ってPurple Catsの契約を解除、更に「君たちの曲は詰まらない」と言って9月初旬、神崎美恩・浜名麻梨奈のソングライトペアとの契約も解除、今後XANFUSはガラクン・アルヒデトがプロデュースし、伴奏も打ち込みで行くと宣言した。
 
これまでのXANFUSの楽曲制作は、神崎・浜名ペアが書いた曲を、作詞作曲の2人とXANUS/Purple Catsの6人の合計8人で実際に演奏しながら何日も掛けて練り上げて行って、最終的に実際に通して演奏したものを収録するという方法を採っていた。つぎはぎ編集はしない方針で、ライブ演奏しないと、ダンスミュージックの「息」や「ノリ」のようなものが反映されないからというのが考え方だったのだが、ガラクン主導の制作は全く異なっていた。制作を始めるという話を聞いたので待機していたのだが、いつまでもスタジオに来てという話が来ない。
 
問い合わせても「もう少し待って」と言われるだけである。やがて呼び出しが来たので行くと、もう打ち込みによる伴奏ができあがっていて、それを聞きながら歌ってと言われる。ほぼ初見に近い状態で歌ったら、もうそれで「お疲れ様。帰っていいよ」と言われた。
 
「今のは初めてだったので、あまりうまく歌えなかったんですが」
「むしろその方がいい。アイドルは上手い必要は無いんだよ。音程のくるいとかはオートチューン(*1)で調整するから問題無い」
 
と言われ、ふたりのスタジオでの作業は、わずか1時間で終わってしまった。音羽と光帆は困惑する思いでスタジオを出た。
 

(*1)歌の音程を自動調整して平均律の音の高さに合わせ付けるソフト。Perfumeの歌などで使用されている。音程を正しくする犠牲で声質が機械的になるのでPerfumeの場合は、その効果狙いで、わざとやっている。あそこまで極端な変形が発生しない程度で、アイドルのCDなどでは多用されているのではという疑惑がささやかれている。
 
ミュージシャンの中には、少なくともプロの音楽制作の現場でAuto Tuneの類いのソフトは使うべきでは無いと主張する人たちもある。
 

10月17日、悠木朝道社長は突然事務所に音羽(織絵)を呼び出すと、君が光帆(美来)君と恋愛関係を持ち同棲しているのは、恋愛を禁止した契約に違反するとして、その日付けで解雇され、退職金として2000万円を口座に振り込み、更に光帆と共同で所有しているマンションも半額事務所が買い取り、後日代金を振り込むと通告された。その場で、マンションの鍵とスマホを取り上げられた。光帆に連絡する時間も無かった。
 
突然の解雇で、呆然として町を歩いていた織絵は、高校時代の恋人であった桃香と偶然遭遇。彼女に保護された。桃香は「まるで今にも自殺しそうな顔に見えた」と言っていた。そして翌日18日(土)の昼、今後のことを相談したいと言って、桃香が織絵を私のマンションに連れてきた。
 
その時、私は楽曲の収録でスターキッズと一緒に九州まで行ってきた所で、この収録作業には千里が明笛(みんてき)演奏のため同行してくれた。戻って来て17日夕方、羽田で千里と別れようとしていた時、自宅に電話していた千里が
 
「ごめーん。うちのアパートがふさがってるから冬たちの所に泊めて」
と言った。
 
「ふさがっている」というのは桃香が恋人を連れ込んでいるという意味で、これはよくあることのようである。当時、私はなぜ千里が、桃香が浮気していても平気なのか分からないと常々思っていた。ともかくもそれで千里を泊めたのだが、その桃香の浮気相手というのが織絵だったのである。
 

事務所からは今朝10時に「音羽が音楽の勉強のためにXANFUSを卒業しました」というメッセージが事務所のホームページに掲載され、ツイッターなどが騒然としていた。
 
私は美来(光帆)に電話してみたのだが、この番号は使われていませんというアナウンスである。どうも向こうも強制的に番号を変更させられたようである。
 
結局、私と政子、千里と桃香、そして織絵の5人で話し合うことになるのだが今後のことを考える前に、織絵が強い精神的なショックを受けているので、どこかでしばらく静養させた方がいいという結論になる。最初織絵は高岡の実家に帰るつもりでいたが、それではそちらに記者が押しかけてくるということで、織絵との接点が無かった千里が、自分の妹が札幌に住んでいるのでそこにしばらく滞在してはどうかと提案、それで千里が妹の玲羅さんに電話して了承を取り、織絵は札幌に行くことになった。
 
それで札幌への飛行機の時刻を調べ、予約しようとしていた時のことであった。だいたい14時頃だったと思う。
 
来客を告げるチャイムが鳴る。それで出てみると、何と蔵田さんである。室内に居るメンツを見回して特に問題は無いだろうと思ったのでエントランスを開け、32階まで上がってきた所で玄関のドアも開ける。
 
「おはよう、お嬢様方」
と言って蔵田さんが入ってくるが、リビングに結構人がいるので
「んん?」
と言ってメンツを見回す。蔵田さんが最初に目を付けたのは桃香である。
 
「ねね、君、凄いいい雰囲気。君って男?女?」
と訊くが、桃香は
「誰?あんた?」
と言った。
 
洋楽しか聴かない桃香は蔵田さんの顔を知らないのである。桃香は実は織絵が歌手になってXANFUSというユニットをしていたこと自体知らなかったらしい。
 
「おお!なんかストイックな感じでいいなあ。君って、たぶん女の子になりたい男の子だよね?僕と1度寝てみない?」
といきなりナンパする。
 
「私は男には興味は無い」
と桃香は、にべもない。
 

「蔵田さん、何か用事があったんですか?」
と私は訊いた。
 
「ああ。そうそう。ちょっとジンギスカンでも食べに行かないかと誘いに来た」
と蔵田さんが言うと
 
「行きます!」
と政子が言う。
 
「ああ、君は行くと言うと思った」
と蔵田さん。
 
「何か曲を作るんですか?」
と私が訊くと
 
「チェリーツインの曲を頼まれたんだけど、全然思いつかなくてさ。それでジンギスカンでも食べながら考えようと思って」
と蔵田さんが言うので、ため息をつく。
 
「それひょっとして札幌まで行くんですか?」
と私が訊くと
 
「札幌の近くなんだけど、滝川という所なんだよ」
と蔵田さん。
 
「もしかして松尾ですか?、蔵田先生」
と千里が訊いた。
 
「そうそう。よく知ってるね。その店のジンギスカンは札幌のジンギスカンとは作り方が違うらしいんだよ。ところで君誰だったっけ?どこかで見たことあるんだけど」
と蔵田さんが訊く。
 
「名も無き北海道人です」
「おお!道産娘(どさんこ)がいるなら、心強い。君も一緒に来てよ」
と蔵田さん。
 
「ちょうど今、北海道に行こうと行っていた所なんですよ」
と千里が言うと、蔵田さんは初めて部屋の中にいるメンツをしっかり把握するように見た。
 
「お、音羽ちゃんがいるじゃん。君大変だったね」
「いえ、すみません。ファンの方とかにも心配掛けてるみたいで」
 
「ところで君男装とかしない?男装が似合いそうな気がしていたんだけど」
とまたナンパしている。
 
「蔵田先生、お仕事なんでしょう?」
と織絵は苦笑しながら言う。
 
「まあいいや。で、誰々が北海道に行こうとしていたの?」
「私とそのロングヘアの千里さんです」
 
「じゃここにいる全員来る?」
と蔵田さんは訊いたのだが
 
「私は明日、就職先との打ち合わせがあるから申し訳ないが行けない。千里の妹さんとはまた会っておきたかったけど」
 
と桃香が言い、結局、私と政子、千里と織絵の4人が蔵田さんに同行して北海道に行くことにした。
 

「じゃ羽田に移動しますか?」
と私は訊いたが
「行くのは調布」
と蔵田さんが言う。
 
「は?」
「知り合いがプライベートジェット持ってるんだよ。10人ちょっと乗るから」
「それ何時に出るんですか?」
「16時に飛行許可取ってる」
「だったら急がなきゃ!」
 
ということで、私も政子も大急ぎで荷物をまとめる。織絵はまとめるような荷物を持っていない。バッグひとつである。千里は結局九州に持っていった旅行用バッグをそのまま持って行くことになる。それで出ようとしていたら、ピンポンとまた来客を告げるチャイム。見ると龍虎である。
 
「龍虎ちゃん、どうしたの?」
「上島のおじさんからお使いできたんですが」
「だったら、君も一緒に来る?土日は学校休みだよね?」
「あ、はい」
 
それで私は桃香にマンションの鍵を渡し、
 
「ごめーん。戸締まりしといてくれる?お酒とか適当に持ち帰ってもいいし」
 
と言って飛び出す。玄関前に居た龍虎も誘い、マンションそばにハザードを焚いて停車中だった蔵田さんのプレマシーに、政子・千里・織絵・蔵田さん、そして龍虎と一緒に乗り込んだ。運転席には樹梨菜さんがいたが、乗り込んできたのが多人数なので驚いている。
 
「じゃジュリー、出して」
「OK」
と言って、男装の樹梨菜さんは車を出した。
 

私は車が出ると、すぐに上島先生に電話した。
 
龍虎がうちのマンションを訪れて何か用事があるようだったが、こちらはちょうど北海道に行く所だったので、その機内で話を聞きたいと伝えた。
 
「それはいいんだけど、ちょっと一般の人に聞かれると困る内容なんだけど」
「それは大丈夫です。実は上島先生の前であれなのですが、蔵田さんのご友人が所有しているプライベート・ジェットで飛ぶんですよ」
 
「ああ、だったら問題無い。ちょっと龍虎出してくれる?」
「はい」
 
それで電話を龍虎に替わる。龍虎はいくつか指示をされているようで「はい」、「はい」と答えていた。やがてまた私に電話を替わり、先生は後でお金出すから、龍虎に北海道のうまいものなど食べさせてやってと言っていた。
 
「その点はこちらにはマリがいますから大丈夫です」
「なるほど!マリちゃんなら安心だね」
と言って、上島先生は笑っていた。
 
龍虎の里親の田代夫妻には、上島先生から伝えておくということだった。それで電話を切ったものの、あれ?蔵田さんとは話さないのかなと少し思った。蔵田さんも、この電話は聞こえないふりをしていたようなので、南藤由梨奈の件で共同作業することになったとはいえ、やはりこの2人はあまり接触を持ちたくないんだろうな、と私は思った。
 
私は氷川さんに電話した。織絵を保護していることを言うと、驚いていた。
 
「それで光帆と連絡が取れないんですよ。彼女との直接の連絡手段を何とかできないでしょうか?」
「だったら、こちらで携帯を1台確保して、それを洋服か何かの通販を装って彼女のマンションに投函してきます。その携帯番号をケイさんにお伝えします」
 
「ありがとうございます。助かります!」
 

「でも、これどういうメンツなんだっけ?」
と運転しながら樹梨菜が訊く。
 
「全員を説明できるのは多分私だけだよね」
と私は言い、席順に説明していく。
 
「まず助手席に座っているのがドリームボーイズのリーダーで作曲家の蔵田孝治大先生」
「ふむふむ」
「運転しているのはその奥様の樹梨菜さん、歌手名は高木倭文子(しづこ)」
「まあ、もう数年CD出してないけどね」
と樹梨菜。
 
「え?蔵田先生って男の方と結婚したんですか?」
と驚いたように龍虎が尋ねる。
 
「男装しているだけだよ。戸籍上も医学的にも女性だよ」
と私が言うと
「びっくりしたー」
と龍虎は言っていた。
 
「男になりたいんだけどねー。子供作るまでは性転換できない」
と樹梨菜は言っている。
 
「でも俺は女には興味ねー。樹梨菜は身体は女でも中身が男だから、将来的に性転換して男になるという前提で結婚した。結果的には合法的に男と結婚できたからな」
などと蔵田さんは言っている。
 
龍虎はそういう話は理解できないようで、首をひねっている。
 
「2列目に乗っているのは、私たち、ローズ+リリーのケイとマリ、そして私の隣に居る可愛い子は、アクアという名前で来年デビューする予定の子。楽曲はゆきみすず先生の詩に東郷誠一先生が曲を付けて歌わせる予定になっています」
と私が紹介する。
 
「アクアと申します。よろしくお願いします」
と龍虎は挨拶している。
 
樹梨菜は
「可愛い子だと思った。あんた売れるよ」
と言っているが、蔵田さんは
 
「女の子アイドルには興味ねー」
 
と言っているので、千里が苦笑している。龍虎は困ったような表情である。彼女、もとい、彼は今日は明らかに女物のチュニックにスリムジーンズを穿いている。スリムジーンズであってもお股の所に盛り上がりが無いのはガードルを穿いているのか、あるいは何かの処理をしているのか。政子も「ふーん」という感じなので、その様子を見て私は、政子もこの子を女の子と思ったなと思った。
 
しかし蔵田さんの“毒牙”から守るには女の子と思われていた方がいい!
 
なおプレマシーという車は、2列目が3席、3列目が2席で7人乗りの車である。但し2列目の中央の席は「からくりシート」と呼ばれてふつうは折りたたんで6人乗りとして使い、7人乗りたいときは座席にするもので、要するに補助席のようなものであり、あまり乗り心地は良くない!
 
「3列目の右側はXANFUSを解雇された音羽こと桂木織絵さん」
と私が言うと
 
「解雇されたの!?」
と樹梨菜が驚いている。
 
「その話で朝から★★レコードは騒然としていた」
と蔵田さんが厳しい顔で言う。
 
「すみません。私も何が起きたのかまだ事態を把握していなくて」
と織絵は言っている。
 
「そして3列目左側は、作曲家の醍醐春海さん」
と私は紹介した。
 
「あんたが醍醐春海か!」
と蔵田さんが声を掛ける。
 
「どうもお世話になっております」
と千里が挨拶する。
 
「阪元アミザが歌ってる『ラストコール』、俺気に入った」
「ありがとうございます。7万枚も売れたようで、事務所の社長から金一封まで頂きました」
「あれ、たぶん今年の新人賞にノミネートされるよ」
「だといいのですが」
 
「でもそれで見た記憶があったのか。どこかのパーティーか何かで顔を合わせたかな」
などと蔵田さんは言っている。
 
「お顔は何度か拝見しましたが、名刺などは交換しておりません。よろしかったら」
 
と言って千里が自分の醍醐春海の名刺を出すので、私はそれをリレーして助手席の蔵田さんに渡した。蔵田さんも自分の名刺を女物のバッグから出して渡すので千里にリレーしてあげた。
 
「確か、あんた何度かチェリーツインの曲を書いているよね?」
「はい。書かせて頂きました」
 
千里は2010年に出た『雪の光/命の光』というチェリーツインのCDでは鴨乃清見の名前をクレジットしているが、それ以外でも何度か醍醐春海の名前で曲を彼女らに提供している。またクレジットとしては出ていないものの『雪の光』と同時発売された『スクリーム』というアルバムの編曲は、半分が私で半分が千里である。
 
「だったら、あんたも1曲書いてくんない?俺2曲頼まれたんだけど、今松原珠妃のアルバム制作もしてて正直余力が無いと思ってた。1曲は俺が書くからさ。兼岩さんには話しておくから」
と蔵田さんが言う。
 
「いいですよ。1曲書きます」
と千里が答え、それで今回の北海道行きでは、蔵田さん(半分は私)と千里が1曲ずつ書くことになった。
 

30分ちょっとで調布飛行場に到着する。樹梨菜が車を近くの駐車場に駐め、全員降りて空港建物内に入る。
 
蔵田さんが
「こんにちは!」
と声を掛けた女性を見て、政子が
「あっ」
と声を出した。
 
「あら、また一緒かな」
と向こうの女性も笑顔である。
 
「あれ?知り合い?」
と蔵田さんが言う。
 
「江藤さんのジェット機には以前も乗せて頂いたことあるんですよ」
と私は言った。
 
「へー!」
 
実はこの8月に沖縄のKARIONライブ会場からから大宮のローズ+リリーライブ会場まで2時間半で移動するということをやった時に、江藤さん(の夫)が所有するビジネスジェット、ガルフストリームG650(定員11名)に乗せて頂いたのである。
 
「今回の乗客は?」
と江藤さん。
 
「この7人なんですが、いいですか?」
と蔵田さん。
 
「蔵田先生以外はみな女性ね。OKですよ。蔵田先生も女性には興味無いでしょうし」
 
「女の子には興味無いはずだし、万一色目使ったら私が即去勢しますよ」
と樹梨菜が言っている。
 
「あら、去勢したいの?牛の去勢器具なら飛行機に積んでるけど」
「なんでそんなのがあるんですか!?」
「俺は牛並みですか!?」
「このメンツで睾丸付いてるのはコーだけのようだし」
 
去勢と聞いて政子が興味津々な様子。龍虎は嫌そうな顔で、千里は苦笑している。
 
しかし江藤さんにも龍虎は女の子と思われているようだ。
 

江藤さんと空港スタッフの案内でセキュリティも通らずに空港内に入る。ここは小さな飛行場なので歩いて飛行機まで行く。8月に乗ったのと同じガルフストリームG650が駐機しており、既にエンジンは掛かっている。
 
「お邪魔しまーす」
と言って乗り込む。
 
「こんにちは〜」
とパイロットの森村さんが笑顔で挨拶する。
 
「またお世話になります」
 
「誰か特等席のコーパイ席とか座ってみません?」
などと森村さんが言う。
 
「ああ。じゃ、織絵ちゃん、座ってみない?結構気分転換になると思うよ」
と千里が言う。
 
「確かにコーパイ席なんてまず座る機会無いかも」
と言って織絵は副操縦士席に座った。
 
なお、飛行機の操縦席は左側が機長(キャプテン)席で、ここに森村さんが座っている。右側が副操縦士(コーパイ)席で、織絵はここに座った。
 

全員シートベルトを閉める。離陸許可が出るので滑走路に移動。16:10にGulfstream G650は快適に調布飛行場を離陸した。
 
水平飛行に移ったところで、席を立ちラウンジに集まる。江藤さんがワインとサイダーを出して来た。如才ない千里がさりげなくグラスを配り
 
「私が注いでもいいですか?」
と言って全員に注ぐ。
 
蔵田さん、江藤さん、政子、そして織絵にはワイン、私と龍虎、樹梨菜、そして千里自身にはサイダーを注いだ。それで乾杯する。
 
「美味しい!」
と織絵が声を挙げた。
 
「ボルドーのマルゴーワインの赤、2005年物よ」
と江藤さんが言う。
 
「歴史的な当たり年と言われた年のものですね」
と自分ではワインを飲んでいない千里が言う。
 
「そうなのよ。あなたはサイダーなの?少し飲んでみない?」
「済みません。私、この後運転しなければならない可能性があるので」
と言って千里は断ったのだが、後で思うと、千里はこの後起きることを予測していたのかも知れないという気もする。
 
「実は私もこの後運転しないといけないからサイダーにしてる」
と樹梨菜。
 
「あら残念。だったら1本ずつあげるから持って行かない?」
 
「では頂きます」
 
と言って千里はワインの瓶を受け取り、自分のバッグに横にして入れた。樹梨菜も受け取ったが、彼女は瓶を立ててバッグに入れてしまった。江藤さんは一瞬、あら?という顔をしたが、特に咎めたりはしなかった。まあ数時間後に飲むのであれば、縦でも問題ないだろうと私は思った。
 

「ちょうど蔵田先生と丸花社長とお会いしていた時に、札幌行きのお話が出たのよね。それでうちのジェット機で飛ぼうという話になって」
と江藤さんは言う。
 
「丸花さんが北海道行くなら美味しいジンギスカンの店あるよと言って松尾を紹介してくれたんだよ」
と蔵田さん。
 
「丸花社長ご自身は僕は男だから遠慮するけど、蔵田先生は、女性が着替えていても何も性的な関心を持たないから、乗せてあげてとおっしゃるし」
と江藤さん。
 
「ああ、このジェット機は基本的に女性専用なんですね?」
と私は尋ねる。
 
「そうそう。うちの旦那を乗せる時は女装させる。スカート穿かせてガードルも穿かせる」
「マジですか?」
と樹梨菜が驚いている。
 
例によって龍虎が困ったような顔をしているが、まあこの子も自分は男ですとは言い出さないだろう。
 
「去勢してもいいよ、と言って牛の去勢器具を乗せてるけど、まだ男は辞めたくないと言っている」
 
「それで去勢器具があるんですか!?」
 
「これなのよ」
と言って江藤さんはそれを持って来た。
 
「この先の鈎状になっている所を精索に引っかけて睾丸を取り出して切断するのよ。私、一度実際に牛でさせてもらったことあるよ」
 
「実体験済みですか!」
 
「それ痛くない?」
 
「牛の去勢するには、去勢ペンチとかゴムとかで睾丸へ行く血管を遮断して壊死させる無血去勢法もあるけど、牛はかなり辛いらしい。それよりスパッと切って、これで取り出して切り落とした方が身体への負担も小さいんだって」
 
「それ麻酔とかするんですよね?」
「しないしない。麻酔剤とか打ったら、肉質に影響するし」
「じゃ麻酔無しで切っちゃうんだ!」
「ゴムで締め付けて苦しむのよりはずっと楽」
 
「確かに睾丸をゴムで締め付けるのは、かなり痛そうだ」
と蔵田さんは言っている。
 
「小学生の頃やったことありますけど、数時間で痛さに我慢できなくなって解放しました」
と私は言う。
 
「ああ、ケイちゃんって小さい頃は男の子だったんっだっけ?」
「そうですよ。結局大学生になってから性転換しましたが」
 
「さりげなく嘘つかないように。ケイが小学生の内に性転換したのはもう確定済み」
と樹梨菜が言っている。
 
「小学生に性転換手術してくれる病院なんて無いよ!」
「おおっぴらにはしないだろうけど、こっそりならやってくれる所あるよ」
「半陰陽だったことにして、手術してくれる所はあるかもね」
「昔はそれが多かったと思う。それで半陰陽だったのでといって戸籍も直してしまう」
「うん。それで性別の変更にまんまと成功した人って結構居たと思う」
 
「日本での性転換手術の第一号は、陰茎癌という名目で手術したらしいよ」
「ほほお」
「陰茎を全部切断するんじゃなくて、一部はクリトリスにするために残したらしいけど、初めてのケースでどのくらい残したらいいか分からず、実際には残しすぎで、性的に興奮した時に大きくなりすぎて結構困ったらしい」
 
「加減は難しいだろうなあ」
 
「でも基本は女体で、性的に興奮すると大きくできるのは便利な気もする」
などと政子は言っている。
 
「普段は小さくてインサートできるくらいまで大きくできたら便利かもね」
などと織絵は言っている。こういう与太話で結構気が紛れているようだ。
 
「『逢魔がホラーショー』の菊千代みたいなのは一種の理想」
「そうそう。完璧女体だけど、性的に興奮すると栗ちゃんが、おちんちん並みに大きくなる」
 
「でも菊千代って女の子としてヴァギナでセックスする場合は栗ちゃん、大きくならないんだよね?」
と織絵が尋ねる。
 
「性的な興奮の仕方って、男モードで興奮する時と女モードで興奮する時は違う」
と蔵田さんが言う。
 
「ほほぉ!」
 
「確かにコーは入れられてる時はチンコ小さいままだよな」
と樹梨菜。
 
こらこら。
 
「入れられている時に前が興奮してしまうと後ろの快感が弱くなるし抜けにくくなる」
と蔵田さん。
 
「私は男の子に入れたことないな」
と織絵。
 
お前ら、ちょっと待て。
 
「でも入れるのって気持ちいいよね」
と樹梨菜。
「うん。あれは気持ちいい。入れられるのより入れる方が好き」
と織絵。
 
政子や江藤さんは興味津々な様子だが、龍虎が当惑したような顔をしていた。
 

「そういえば、もう出がけだったから連れてきちゃったけど、龍虎ちゃんの用事は何だったんだっけ?」
と私は訊いた。
 
龍虎をこの場に置いておいたら、どうも教育に良くないと私は判断した。
 
「私のお披露目の企画書が出来たらしいんですよ。それでケイ先生の意見を聞きたいと言われて」
と龍虎。
 
「じゃ、そちらで聞こうか」
と言って、私は龍虎を連れて前方の席に移動することにする。
 
「あ、よかったら醍醐先生もいいですか?実はケイ先生のあと、醍醐先生の所にもお伺いするつもりでした」
 
「OKOK」
 
結局3人で前の席に移った。私と千里が抜けると、後のメンツの会話はどんどん暴走していきそうだ。
 
龍虎をコーパイ席の真後ろの席(離陸の時にも座っていた席)に座らせ、それをはさむように、私はその後ろの席、千里はコーパイ席に座った。千里は何かを確かめるかのように計器を見て頷いたりしている。その様子を見て
 
「村山さんでしたっけ?コーパイ席に座られたことあります?」
とパイロットの森村さんが訊いたが
 
「550とあまり変わらないなと思って」
などと千里が言う。
 
「ええ。G650はG550の改良型なので。大きな違いは後退角が大きくなって浮力が大きいことと、このコックピットパネルが少し小さくなっていることで」と森村さんは説明している。他にも色々森村さんが説明するのを千里は頷きながら聞いている。更に幾つか専門用語を交えて質問して、その質問に森村さんはむしろ感心したように答えていた。
 

龍虎が企画書のコピーをリュックから取り出し、私と千里に1枚ずつ渡す。私も千里もそれを少し読んでいく。
 
「なるほど。アクアの名前の命名者は映画監督の荻田美佐子さんにするのか」
「アルトお姉さんの女子高の先輩らしいです。私はお会いしたことないのですが」
「へー。そういう縁があったのか」
 
“アクア”という名前を付けたのは、彼の父親代わりでもある上島先生なのだが、アクアの身元については成人する頃までは隠しておきたいという意向があり、直接実父=高岡猛獅さん(2003年死去)と関わりのある人物をあまり表に出さないようにしようというのが、上島先生・親権者の長野支香・紅川社長・加藤課長、そして里親の田代夫妻で話し合った結論なのである。それで上島先生の代わりに「名付け親の代理」をしてくれる人というので、荻田監督に白羽の矢が立ったということであった。TV番組の中で荻田監督がアクアと命名するシナリオにするらしい。
 
しかし龍虎は「アルトお姉さん」と言っている。上島先生のことは「上島のおじさん」と言っているから、それなら「アルトおばさん」でも良さそうだが、「おばさん」と言って叱られて「お姉さん」にしたのか?
 
「でもその番組の企画が微妙に嫌なんですけど」
と龍虎が言うので、ん?と思い、企画書を読み進める。
 
私と千里がほぼ同時に吹き出した。
 
「こんな番組作るんだ!」
「ローズクォーツの『Rose Quarts Plays Sex Change −性転換ノススメ』が大ヒットしちゃった影響らしいです」
 
「あれはあんなに売れるとは思わなかったよ」
と私は言う。
 
「龍ちゃん、もしかしてあのCDのキャンペーンに参加したりしてない?」
と千里が意味ありげに尋ねる。
 
「実は友達に騙されて一緒に見に行きました」
「ああ・・・」
 
そのローズクォーツのCD発売にあたって、非公開の“顔出し・水着版PV”の上映と、性転換に関するトークを含むキャンペーンを全国10ヶ所で行って、かなり生々しい性転換手術の実際の様子なども公開した(会場ではかなり悲鳴があがっていた)。本来は18歳未満は入場禁止だったのだが、当事者のみ高校生でも可ということにした。もっとも龍虎はまだ中学生である。
 
「高校生のふりして参加したの?」
と私が訊くと
「友達がボクを連れてって、ふたりともFTMの高校生ですーっと言って」
と龍虎が言う。
「まああれは世間的には高校生以上という建前にしたけど、実際には本当に当事者っぽかったら、中学生くらいまでは黙認で入れたみたいね」
と千里がコメントする。
 
「取り敢えず龍虎ちゃんはFTMには見えた訳か」
「MTFだと主張しても絶対信じてもらえないからと言って。でも別にボクMTFでもなくて、ふつうの男の子なんですけど」
 
「そうね、普通の男の子ね」
と言って私は笑いを噛み殺すのに苦労した。
 
「性転換手術の様子を納めたDVDとかも見た?」
「自由にお取り下さいになっていたのですよね?ボクは別に見たくもなかったんですが、一緒に行った友達が見てみようよと言って、帰ってから友達数人で見ました」
 
「どうだった?」
「きゃー!とか悲鳴あげながら最後まで見ました。でもまるで手品みたい。男の人の形が、きれいに女の人の形に作り変えられていくんだもん」
 
「みんな何か言ってた?」
「これボクの身体で実験してみようという声も出てましたが、麻酔薬が手に入らないから取り敢えず保留と言われました」
「どこまで冗談か分からない話だ」
 
「でもあの男性→女性の改造法は、多くの外科医がここ50年ほど色々と試行錯誤をしたあげく辿り着いた技法なんだよね。でも今後もまだ改良されていくかも知れない」
 
「性的に興奮した時にちゃんと湿潤するヴァギナなんてのは、ごく最近開発された手法だもんね」
 
「そうそう。多分私や千里たちの世代がその走りくらいじゃない?」
と私は半ば誘導尋問的に尋ねる。千里は
 
「そうそう。あれは多分2005-2006年頃から出てきた手法」
と言って平気で返してくる。
 
私たちは意味ありげに視線を交換した。
 

私は2011年4月、千里は2012年7月に性転換手術を受けたというのがお互いの「公式見解」だが、誰もそれを信じてくれない!私の性転換手術の時期については、多くのファンが2009年のローズ+リリー休養中だろうと思っているようだし、2007年にKARIONでデビューする前と思っている人もある。千里の性転換時期も、様々な状況証拠から、少なくとも2006年夏以前であることは間違い無い。
 
もっともふたりとも周囲からは「小学生の内に性転換したんでしょ?」とよく言われている。
 
和実は「冬子も千里も骨格が女の子だから、思春期前に性転換したのは確実」と言うが、実際にはクロスロードの仲間で最も女らしい体つきをしているのが和実である。小学4年生の時に自分で睾丸の機能を停めたと言っている青葉よりも女らしい体つきをしている。
 

それで本題に戻るのだが、その龍虎が「これ嫌ですー」と言った番組の企画が『性転の伝説Special』というもので、男性のタレントさんを10人か20人ほど女装させて、その美しさを競うという何とも昭和の香りさえ漂うものなのである。
 
「出演依頼予定者が、ウドゥン・フォーの本騨真樹、ハイライトセブンスターズのヒロシ、レインボウ・フルート・バンズのキャロル、ハルラノの慎也(優勝予定)、ローズクォーツのヤス?」
 
「ハルラノの慎也が優勝予定なのか!?」
「ジョークがきついなあ」
「あの人、どんなメイクの達人に女装させられても女に見えない気がする」
「それが何か秘密があるらしいです。プロデューサーさんから聞いたのですが」
「ほほぉ・・・」
「この話、おおっぴらには話して欲しくないけど、関係者には話してもいいと言われました」
「なるほどー」
 
実際私はプロデューサーから聞いた話を安易に話すのはどうかと一瞬思ったのだが、噂を立ててもいいということであれば問題無い。
 
「キャロルも無理があるね」
と私が言うと
 
「キャロルは断ると思う」
と千里が言う。
 
「だよねー」
「ポールなら笑って女装してくれるかも知れないけど」
「ああ、あの子はジョークが分かる」
 
レインボウ・フルート・バンズはメンバーが全員セクマイというバンドであるがキャロルは純粋なゲイで、どちらかというとハードゲイっぽい、物凄く男らしい人である。女なんてこの世から居なくなればいい、などという発言もあった。彼の女装というのは想像が付かない。彼のイメージ戦略にも合わない。一方、ポールは元々が「男装者」で、女装者のアリスとともに「オチ」担当なので、女装を披露してくれる可能性はある。実際彼がまだ女子中学生をしてた頃のセーラー服姿が週刊誌に載ったこともある(男の子が罰ゲームでセーラー服を着せられたようにしか見えなかった)。ただ彼は肉体的には女性であっても普段の格好はどこをどう見ても男性なので、今更女装させても男にしか見えない気がした。もっともバストはまだ除去してないらしいので、女を捨てたおばちゃん程度には見えるかも知れない。
 
「ローズクォーツのヤスってのは何故だろう?さんざんタカ子ちゃんキャラで売ってるタカなら分かるけど」
 
「それは女装者を今更女装させても無意味だからだと思うよ」
「うーん。。。。タカ子ちゃんは本人がああいうキャラと思われてる気もするね」
「するする。もう後戻りできない」
と言って千里は笑っている。
 
「サトは雨宮先生の命令で女装で歩いていて職務質問されたらしいね」
「サトが女装できるなら朝青龍だって女装できそう」
「まあ無理がありすぎるよね」
 
サトは元自衛官だし、スポーツ選手かと思うほどのがっしりした肉体の持ち主である。テレビ局で「どこの球団の選手でしたっけ?新人さん?」と阪神の藤川球児選手に訊かれたことがあるらしい。
 
「それで龍虎も女装させられちゃうんだ!」
「ボク、女装なんて嫌なのに」
「まあ芸能界って、可愛い男の子見たら女装させちゃう所だよ」
と私は言う。
 
「ウドゥン・フォーの本騨君もだけど、大林君もよく女装させられてる」
「ああ、させられてる。彼も結構美人になる」
「他の2人の女装は、あまり見たくない感じ」
「見たことあるけど、私もそう思った」
 
「龍ちゃん、映画とか撮る時に監督から女装してと言われたら女装しなきゃいけないし、これは割り切るしかないと思うよ」
と千里は龍虎に言う。
 
「そうですねー。仕方ないか」
と龍虎は言っているが、実際問題として今彼が着ている服は上下ともどう見ても女物である!
 

調布から丘珠への所要時間はビジネスジェットとしては高速のM0.925が出るG650では1時間半ほどである。
 
「もう少ししたら降下し始めますので、席に戻って下さい」
と森村さんが言うので、全員元の席に戻る。ラウンジでみんなと「女だけのおしゃべり」で盛り上がり、かなり気分が良くなったふうの織絵もコーパイ席に座る。
 
ここで座席配置は、コーパイ席の真後ろの席に千里、その後ろに私と龍虎、その後ろに政子と樹梨菜、最後尾に江藤さんと蔵田さんとなった。織絵がこちらに戻って来たので、千里がコーパイ席を立ち、龍虎がその千里に譲るように私の隣に移ったので、千里はその席に座った。そしてパイロットの森村さんと何やら航空用語を交えた会話をしていた。
 
やがて飛行機は高度を下げ始める。
 
「あと20分ほどで丘珠空港です」
と森村さんが言ったすぐ後のことであった。
 
「あ!」
と森村さんが声を揚げ、飛行機が突然進路を変えた。ゴツッという感じの大きな音もした。
 
床が大きく傾き、突然加速度が掛かって「きゃっ!」という悲鳴もあがる。しかし機はすぐに水平を回復し、安定飛行に戻る。
 
「どうしたの?」
と江藤さんが声を掛ける。
 
「何かが飛んできたんです。とっさに進路を変えましたが、機体のどこかに当たりました」
と森村さん。
 
「確かに何か大きな音がした」
「バードストライク?」
 
「かも知れませんが高度が高いので、ひょっとしたら隕石かも。国際便で727飛ばしていた頃にアラスカで一度似たようなことありましたから」
 
「みんな怪我無い?」
と江藤さんが立ち上がってみんなを見回している。
 
「大丈夫です」
と全員返事したのだが・・・・
 
「森村さん、どうかした?」
「今とっさに操縦桿動かした時に右手を打ってしまって・・・・」
 
「血が出てるじゃん!」
「このくらい大丈夫です」
と森村さんは言ったのだが、血の出方が強い。恐らく機内にあった何か、ひょっとしたら先ほどラウンジで飲んでいた時のグラス(一応片付けたはず)でも飛んできて当たったのかも知れない。
 
「それ動脈切ってる」
と席を立ってきた千里が言う。
 
「織絵さん、どいて。私がそこに座る」
と千里。
「うん」
と言って織絵が右側にあるコーパイ席を立ち、千里がそこに座った。千里は操縦桿を左手で握って計器を見回している。操縦桿は握っているだけで力は入れていないようだ。織絵は千里が座っていた席に移った。
 
「機長、私がしばらく操縦桿を握ってますから、どうか治療してください」
と千里。
 
千里の自信に満ちた様子を見て森村さんは
 
「うん。じゃお願いする」
と言い、操縦桿から右手を離す。
 
「江藤さん、脱脂綿とかありますか?」
と千里が訊く。
「ある」
と言って救急箱を取ってきてくれる。
 
「冬、その出血場所に脱脂綿を置いて圧迫止血5分してくれない?」
「OK」
 
それで私が脱脂綿を取り出すと
 
「あ、だったらこのビニール手袋使って」
 
と言って江藤さんが渡してくれるので、私はそれをはめててから、森村さんの制服の腕をまくり、出血箇所に脱脂綿を当てて、そのまま右手の指で強く押さえつける。江藤さんもビニール手袋を付けて、アルコール綿で血の付いた腕を拭いてあげていた。機器や床に付いた血もティッシュで拭いている。拭いた脱脂綿やアルコール綿、ティッシュなどはまとめてビニール袋に入れる。
 
「機長、着陸はリテイクした方がいいですか?」
と千里が森村さんに訊く。
 
「大丈夫です。機体にトラブルは起きていないようですから、このままやりましょう」
と森村さんは計器を確認しながら言う。
 
「だったら私がしばらく機体制御してますから、着陸の直前からお願いします」
「分かりました。それで行きましょう」
 
千里がコーパイ席で操縦桿を計器の指示通りに操作している間に私たちは森村さんの治療をした。その間に森村さんは空港の管制官に連絡し、降下中にバードストライクのようなものが起きたが、機器が正常に動作しているので、このまま着陸したいと伝え了承を得た。
 
やがて5分たったところで指を離して見てみると出血は止まっている。それで私は脱脂綿を交換して、その上に絆創膏を貼った。
 
「不手際でご迷惑掛けました。村山さん、ありがとうございます。後は私がやります」
と森村さんが言う。
 
「お願いします、機長」
と言って千里は操縦桿から手を離した。
 
それから10分後、G650は美しく丘珠空港に着陸した。
 
機体が指定された駐機場所で安全に停止した所で思わず機内で拍手が起きた。森村さんが立って全員に頭を下げた。
 
空港側にはバードストライクか何かがあったことを着陸前に報告していたので、駐機してすぐに、空港に詰めている整備士さんが来て一緒に機体を見てくれた。するとエンジンその他には異常は無かったものの、右操縦席(コーパイ席)そばに小さな傷が付いていることが分かった。
 
左操縦席に座る森村さんがとっさに飛行物を避けようとしたので、結果的に反対側の右側にぶつかったのであろう。反応が間に合わなければ正面にぶつかっていた可能性もある。
 
 
「凹んでもいないし、これは塗装直す程度で大丈夫でしょ」
「大したことなくて良かった」
 

「奥様、大変申し訳ありませんでした。コックピットはあらためてきちんと掃除しておきますので」
と森村さんが江藤さんに謝る。
 
「いや、あなただから良かったと思う。経験の浅いパイロットだったら大事に至ってたかも知れないし」
と江藤さん。
 
「村山さん、唐本さんにもお手数お掛けしました」
「私は止血しただけだし」
「私は操縦桿握ってただけだし」
 
「でもビジネスジェットの操縦のご経験があったんですね?」
と森村さんが千里に訊く。
 
「すみませーん。フライトシミュレータで遊んでいたことがあっただけで、実機を操縦したのは初めてです」
 
と千里は頭を掻きながら言う。
 
「なんと!」
 
「G450,550はシミュレータで操縦したことがあったので、たぶん同じ会社のだから行けるだろうと思って、やってみました。実際計器もほとんどG550と同じもののようだったし」
 
後で江藤さんに聞いた所によるとG650は昨年発売されたばかりの新型らしい。江藤さんの夫はその15機目を買うのに成功したということだった。江藤さんより先に買ったのはアラブの富豪とかハリウッドのスターとかのようである。現時点で日本国内に登録されているのはこれ1機、G650の免許を持っているパイロットも国内ではたぶん森村さん1人だけということだった(ガルフストリーム機は1機1機免許が違っている。但しG650の免許があれば550,450などの下位機も操縦できる)。
 
「いや、フライトシミュレータって結構リアルをきちんと再現してますよ。実は私も日々それで練習してますから」
と森村さん。
 
「でもまるで本物の操縦経験があるかのようだった」
と江藤さん。
 
「すみません。ハッタリです」
と千里。
 
「でも実際風で機体が進行方向からずれるのを、村山さんはきちんと制御して正しいルートに戻してました。今日みたいに横風の強い日は、あれけっこう大変なんですよ」
と森村さん。
 
「計器に指示が出ていた通り動かしただけですよ」
と千里。
 
「それをちゃんと読み取れて、ちゃんと操作できたのは偉い。あれはもう素人の腕ではないです」
と森村さん。
 
しかし千里は江藤さんに言った。
「江藤さん、私のハッタリに騙されて、無資格者に操縦桿を預けてしまった森村さんをどうか責めないでください」
 
「いや、あなたはちゃんと操縦できていたから全然問題ないよ」
と江藤さんは言ってから
 
「でも見事にそのハッタリに全員騙されたね」
と言って江藤さんは笑う。
 
「未経験の人が操縦していたなんて、俺たちは、知らぬが仏だったかもね」
と蔵田さんも笑っていた。
 
千里がG550のシミュレーターは持っているがG650のはまだ入手していないと言うと森村さんは、そちらに送ってあげますよと言ってメールアドレスを交換していた。
 
それで飛行機の整備をする森村さんを残して、私たちは歩いて空港のビルまで行き、そのまま外に出た。飛行機から離れる時に千里が小さな声で
 
「こうちゃん、ありがとね」
と言ったのを私は耳にした。
 
こうちゃん?蔵田さんは樹梨菜から「コー」と呼ばれているけど・・・・しかし千里がそれをつぶやくように言った時、蔵田さんはずっと前の方を歩いていた。私は、何だろう?と訝った。
 

日産レンタカーでスカイライン・ハイブリッドを2台予約していたので、1台は樹梨菜さんが運転して、蔵田さんと江藤さん、そして政子が乗り、もう1台は千里が運転して、私・織絵・龍虎が乗る。ここで席は助手席に龍虎を乗せて、後部座席に、私と織絵である。こうするのは、龍虎が男の子であるためというより、むしろ龍虎が織絵のおもちゃにされないためである!実際織絵はかなり龍虎のことが気になる雰囲気だ。
 
この段階で龍虎が男の子であることを知っているのは私と千里だけだったのだが、これは明かした方が平和のためだと思ったので、私は織絵に
 
「ちなみにこの龍虎ちゃんは男の子だからね」
と言った。
 
「うっそー!?」
と織絵はマジで驚いていた。
 
「女の子になりたい男の子?」
「別になりたくないですー。普通の男の子です」
「いや、絶対普通じゃない。だいたい《りゅうこ》って女名前じゃない」
「ボクの名前は空を飛ぶ龍に、吼える虎なんですよー」
「そういう字か!」
と言ってから
 
「でも性転換したいんでしょ?」
とまだ訊いてる。
 
「性転換はしたくないです。ボク男ですよー」
「恥ずかしがらなくてもいいよ」
 
「でさ。織絵、この子が男の子だということを蔵田さんには話さないようにしてよ」
と私が言う。
「ああ、それ知られると、貞操が危ないね」
と織絵。
 
「え〜〜!?」
と龍虎が戸惑うような声をあげた。
 
「蔵田さんは女の子には全く興味無いけど、可愛い美少年とかいたら、奥さんがそばに居たって、浮気のために万難を排して夜這いしてくるから」
と私。
 
「あははは」
と織絵は笑っているが、龍虎は嫌だぁという顔をしていた。
 
「でも男同士で、Hなこととかできるんですか?」
「男の子だって、ちゃんと穴があるじゃん」
「穴?」
と言って龍虎はしばし考えていたが
「まさか・・・」
と言う。
「まあ、あそこしかないよね」
「うっそー!?」
 
どうもそういう行為は龍虎の想像外だったようである。
 
「ちなみに、龍虎ちゃんって、まだちんちん付いてるんだっけ?」
「付いてます!取るつもりもないですー」
「ほんとかなあ」
 
 
前頁次頁時間順目次

1  2  3 
【夏の日の想い出・南へ北へ】(上)