【夏の日の想い出・生りし所】(上)

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「汝が身は如何にか成れる?」
「吾が身は成り成りて成り合わざる所、一所あり」
「我が身は成り成りて成り余れる所、一所あり」
 
そこまで読んだ時、先生は彼に言った。
「君の場合は、その成り余っている所を取った方がいいかもね。余っているって、つまり余計なんでしょ?」
 
彼は顔を真っ赤にした。
 

今から2年前の2014年夏、ローズ+リリーは2番目のオリジナル・アルバム『雪月花』の制作を進めていた。
 
その傍ら、私は8月から9月に掛けて、KARIONのツアーで全国を飛び回ったが、9月7日の横浜公演で全ての日程を終えた。今回のツアーには千里を含むゴールデンシックスのメンバーが幕間ゲストとして帯同してくれた。
 
7日の最終公演が終わった後、私たちは打ち上げをしてから各自帰宅したのだが、この打ち上げに、ゴールデンシックスのメンバーは花野子・梨乃を除いて全員欠席した。この時期、ゴールデンシックスのメンバーは修士の2年あるいは医学部の6年に在籍している人が多く、修士論文や医師国家試験の準備のためあまり時間が無いらしかった。
 
もっとも居ないのをいいことに、政子は花野子から千里の高校生時代の写真などを見せてもらい
 
「おお、女子高生の制服姿の千里、かぁいい!!」
などと言って、随分喜んでいたようである。
 

翌日8日からはKARIONの新しいアルバムの制作に入る予定だったのだが、さすがにツアーが終わった直後ではKARIONの4人だけでなく、トラベリングベルズのメンバーもみんなバテている。それで
 
「今日明日くらいは休もうよ」
という話になり、制作は10日からということになった。
 
それで8日は私も自宅マンション(私はこの7月に戸山の賃貸マンションから恵比寿の分譲マンションに引っ越した)で特に何も仕事はせず、政子と、ふたりでビデオを見たりおしゃべりしたりしながら、のんびりとした1日を過ごした。
 
夕方4時頃になって、唐突に政子が
「たまにはフルートの練習しようかなぁ」
などと言って、まだ混沌としていた荷物の中からフルートを取りだし吹こうとしたのだが、
 
「あれ?」
 
などと言っている。
 
「どうしたの?」
「このフルート、何だか持ちにくい」
「ん?」
 
それで見てみるとこのフルートは《インラインキィ》になっている。
 
政子が最近愛用していたフルートはヤマハのYFL-777という《オフセットキィ》モデルである。オフセットというのは左手薬指で押さえるGキィが他のキィの並びと少しずれていて、操作しやすいようになっているものである。ところがここにあるのは、全てのキィが一直線に並んでいる《インラインキィ》モデルなのである。
 
「これヤマハじゃなくてサンキョウのフルートじゃん」
 
と私はフルートに刻まれているブランド名を見て言った。
 
「あらぁ。誰か他の人のフルート間違えて持って来ちゃったのかな」
 
私は風花に電話してみた。
 
「ねね、昨日のKARIONのライブで、誰かサンキョウのフルート吹いてた人、いなかった?政子が間違えて持って来ちゃったみたいで」
 
「サンキョウなら千里さんが使ってたよ」
「わっ。あの子のはヤマハじゃなかったっけ?自分のは安物だからとか言ってた気がしたけど」
 
「そうそう。初日は準備が無くて普段作曲用に持ち歩いているヤマハの白銅フルートYFL-221を使っていたんだけど、2日目からは、こちらが本来の演奏用といってサンキョウの総銀フルートArtist-Eを使っていたんだよ」
 
「そうだったのか!」
 
「七星さんも初日はP.ハンミッヒのグラナディラ製フルートを使ってたけど、彼女もパワーが足りないと言って2日目以降はA.R.ハンミッヒの総銀フルートに変えてたから、千里さんもおそらくパワーの問題もあって、総銀フルートを取って来たんじゃないかなあ」
 
「なるほど」
「私はムラマツの総銀製フルートDSを使っていたし、サンキョウは千里さんだけだと思う」
 
「じゃ結局3人とも総銀フルートになったのか」
「そうそう。他にフルート持ってた人としては、神崎さんが持ってたけど、パールだったし、七星さんのバックアップ用のフルートはムラマツだったし」
「だったら間違い無いね。ありがとう!」
 

私は風花にお礼を言ってから、千里に電話してみた。
 
「おはよう。どうしたの?」
「実は昨日の横浜の公演のあとで、政子が間違って千里のフルートを持ってきちゃったみたいで」
「え?ほんと。ちょっと待って」
 
と言って、千里は自分の荷物を調べているようである。
 
「あ、ここには見慣れないYamaha YFL-777がある」
「それが政子のフルートだと思う」
 
「重さがあまり変わらないから気づかなかった。政子、今総銀フルートで練習してるんだ?」
「白銅より重い方が音も良く出る気がするとか言ってた」
「吹きこなせばね」
「言えてる、言えてる」
 

「でも千里こそ、これないと困るでしょ?今どこにいるの?持って行くよ」
 
「今日は高岡に寄って、今東京方面に向かっている最中なんだよ。あと1時間ちょっとで着くと思うんだけど」
「あ、だったらうちのマンションに寄らない?」
「OKOK。お邪魔するね」
 

それで政子には私のフルート(Pearl Cantabile F-CD925/RE offset)を貸してそれで防音室内で練習させておき、政子が練習している間に、私は『雪月花』の楽曲の譜面調整作業をしていた。
 
それで17時をすぎた頃、いきなり玄関が開くので私はびっくりする。
 
「千里?」
と言ってそちらを見ると、入って来たのは雨宮先生である。
 
「おっはー」
などと言って、雨宮先生は何だか明るい。
 
「先生、ここの鍵を持っておられましたっけ?」
「こないだタカ子ちゃんから借りて返すの忘れてた」
「うーん・・・タカは誰から借りたのだろう?」
 
取り敢えず鍵を返されるのを受け取る。先生はなんでも渋谷のスタジオで昨日の朝からぶっ通しで音源制作をしていて、疲れたのでここで少し仮眠させてくれという話である。
 
「じゃ、客用寝室を使って下さい。廊下をまっすぐ行った突き当たりですので」
「うん。でもその前にお酒無い?」
「先生、寝た方がいいのでは?」
「飲んでからでないと安眠できないのよ」
「完璧にアル中ですね」
 
と言いつつも、私は棚からカティサークを出してくる。
 
「私は仕事中なので、セルフサービスでよろしく」
「了解〜」
 

そして雨宮先生が来て10分もしない内に今度は携帯に着信がある。千里がマンションの入口まで来ているらしい。それで私はエントランスを開けた。やがて玄関がノックされるので、ドアを開けて中に入れる。
 
「ごめんねー、私も全然気づかなくて」
と言って入って来たが、雨宮先生を見て驚いて挨拶を交わしている。
 
「千里、あんたここ1〜2年、私を避けてない?」
と雨宮先生が言う。
 
「そんなことないと思いますけど。そもそも先生の居場所が私には分かりません。捕まえようとしても所在が分からないし、かと思うと思わぬ所にいらっしゃるし」
と千里は言う。
 
後から考えてみると千里は2013年の初め頃から2014年の夏頃まで、クロスロードの他の面々とも接触が減っていた。東京近辺のメンバーで集まってお茶でもという話の時にも、桃香は出てきていても千里は「ゼミの準備で忙しくて」とか「バイトのシフトが外せなくて」などと言って、あまり出てきていなかった。おそらくあの時期は音楽関係者との接触も減っていたのではないかという気がする。
 
千里の復活はゴールデンシックスのメジャーデビューとほぼシンクロしている。
 
「あんた不倫の方はどうなってるのさ?」
「普通に不倫してますよ。雨宮先生みたいに同時に3人も愛人作ったりはしませんから」
 
千里が細川さんという彼女の元婚約者と現在不倫状態にあるという話は私もつい先月本人から聞いたばかりである。雨宮先生の女性関係は今更だ。
 
「私に愛人が3人いると言うの?」
「****さんに、****さんに、****さんに」
「ちょっと待て〜〜!」
 
と言って先生は焦っている。ビッグネームが出てきてさすがの私も驚く。
 
「ケイ、今の聞かなかったことにして」
「ええ。今もう忘れました」
「よしよし」
 

私は千里にはローズヒップティーを入れてあげた。
 
「なんか扱いが違う」
などとセルフサービスでカティサークのロックを飲んでいる雨宮先生が言う。
 
「飲んべえは適当に」
と私は言っておいた。
 
「全く私の弟子は、誰ひとりとして私を大事にしない」
などと文句を言っている。
 
「そういう人は先生の弟子になってないですよ」
と千里は笑いながら言っている。
 
「そういえばあんたたち聞いてる?」
「はい?」
 
「高岡の息子がオーディションに合格した」
と雨宮先生は言った。
 
「高岡って、ワンティスの高岡猛獅さんですか?」
と私は驚いて尋ねる。
 
千里も驚いたような顔をしている。
 
「もちろん」
「息子さんがいたんですか?夕香さんの子供ですか?」
 
高岡猛獅は2003年12月、婚約者の夕香と一緒に愛車で中央道を走っている最中に事故を起こし、ふたりとも即死している。ふたりの間に子供がいたなどという話は私は全く聞いていなかった。
 
「むろん高岡と夕香の子供に決まってる。これ、誰にも言わないで」
「大丈夫ですよ」
 
と私は防音室内でフルートの練習に夢中になっている政子にチラッと視線をやりながら答えた。政子はこの手の話を聞いてもすぐ忘れるが唐突に思い出して変な人に言ってしまう危険もある。しかし私や千里は大丈夫だ。
 

「今何歳なんですか?」
「中学1年生」
 
私は頭の中で出生年を暗算する。2014-13=2001年ということはその子はワンティスがデビューした年に生まれた計算になる。
 
「このことを知っているのは、ワンティスでも今のところ、私と上島と三宅と支香の4人だけだよ。他には加藤課長や紅川さん」
 
私は唐突に紅川社長の名前が出てきたことで当惑する。
 
「紅川さんって、これ§§プロが関わっているんですか?」
「そうそう。彼は§§プロからデビューする」
 
「§§プロって女の子専門かと思ってました」
 
「これまで§§プロはフレッシュガールコンテストというのを毎年やっていたんだけど、ここ数年不作じゃん」
 
「確かに」
 
春風アルトや川崎ゆりこのようなビッグアイドルを生み出したフレッシュガールコンテストであるが、2010年の桜野みちる以降は、海浜ひまわり(昨年引退)、千葉りいな(今年引退)、神田ひとみ(来年2月引退予定)、と短期間で引退になってしまう子が相次いでいる。今年デビューした明智ヒバリもコンサートの最中に錯乱したような様子を見せた後、パッタリと動向が聞こえてこなくなっている。夏休みが終わっても、在籍していた高校にも出てきておらず死亡説まで流れていたので、私は個人的に心配して紅川社長に「彼女病気か何かですか?」と数日前に尋ねたのだが「済まん。ケイちゃんにも今は言えない」と社長は言っていた。
 
「それで新機軸を切り開こうというわけでもう少し音楽的な素養のある子を選ぶべく、ロックギャルコンテストというのを開いた。これは歌唱力重視。もちろん最低限度の可愛いさも必要だけどね」
 
「へー」
 
「その優勝者が高岡の息子だったのさ」
と言って雨宮先生は笑っている。
 
「むろん主催者側は高岡の息子とは知らなかった。優勝した後で契約の話をしようとして保護者に会いに行って分かって仰天」
 
「ちょっと待ってください。ロックギャルって女の子を選ぶコンテストじゃないんですか?」
 
「それがさ」
と言って雨宮先生は楽しそうに言う。
 
「友達が勝手に応募書類を書いて、その子の写真を貼り付けて応募して。それで書類審査に通っちゃって通知が来たから、まあ行くだけ行くかといってオーディションに出てきたらしい。ところが優勝しちゃったんだな」
 
「女装が好きな子?」
「いやいや。本人は普通の男の子だと主張している」
「でも女の子のオーディシヨンなら、スカートとか穿かせますよね?」
「スカート穿くことには抵抗感が無いらしい」
「じゃ、やはり女装が好きなのか、あるいは女の子になりたい男の子とか」
 
「本人は別に女の子になりたい気持ちはないと言っている。でも凄く可愛い子だから、小さい頃から、友だちとかに唆されてけっこうスカートは穿いていたらしい。それでスカート穿いてと言われたら、何の疑問もなく穿いちゃったと。本人はそもそもロックギャルコンテストというのが女の子のオーディションだとは知らなかったというんだな」
 
「え〜〜〜!?」
 
千里も話を聞いて呆れているようである。
 
「その子の名前は?」
 
「高岡と夕香は正式に結婚してないから、長野の籍に入っているんだよ。それで戸籍名は長野龍虎というんだけど、里親の元で育てられていて、里親の苗字・田代を名乗っているから、通常は田代龍虎で通っている」
 
と雨宮先生が言うと
 
「え〜〜〜!?」
と千里が声をあげた。
 
「どうかした?」
「それって埼玉県**市に住んでる田代龍虎ですか?」
 
「ああ、住所は覚えてないけど、埼玉県だったよ。まさかあんた知ってるの?」
 
「その子が小学1年生の時に知り合ったんです。その後も何度も会ってますよ。あの子、物凄く歌がうまいです」
「へー」
 
「奇遇だね。でもあんた、高岡の子供とは知らなかったんだ?」
と雨宮先生は言う。
 
「田代夫妻にも会ってますし、あの子が田代さんちに行く以前から知っていましたが、高岡さんと夕香さんの子供とは知りませんでした」
 
と千里は言っている。
 
「まああの子本人は自分は田代さんの子供だと思っていると、言っているようだからな」
「私も、私以上にあの子に関わっている友人(川南のこと)も、そういう気持ちでいた方がいいと言っているんですよ」
 
そして千里は悪戯っぽく付け加えた。
 
「まああの子を女装させたら、女の子にしか見えないでしょうね」
 
「女装させたらマジ可愛くなりそうだとは思ったけど、私もまだあの子の女装は見てないのよ」
と雨宮先生は言っている。
 

私は雨宮先生と千里の会話を聞きながら考えていた。
 
「じゃ、その子、女装でロックギャルとして売り出すんですか?リュウコというのも芸名ですか?」
と私は尋ねた。
 
「まさか。普通に男の子アイドルとして売り出す。龍虎は本名。空を飛ぶ龍に吠える虎で龍虎だよ」
 
「ああ。そういう字ですか。コが付くから女名前かと思っちゃった。じゃ、§§プロさんが男の子を手がけるんですか」
 
「ずっと以前にも男の子を売り出したことはあったものの全然売れなかったんだよ。でも今回は絶対売れると紅川さんは意気込んでいる」
 
「高岡さんの子供というのを公開するんですか?」
「それは表に出さない。テレビ局とかにも言わない。あくまで期待の新人として売り出す。それを本人も支香も望んでいるから」
 
「私もその方がいいと思います。七光りでデビューさせても潰れてしまいますよ」
「まあ公開するとしたら、あの子が少なくとも20歳すぎてからだな」
 
「今中学1年なら7年間情報をコントロールする訳ですね」
「そうそう。幸いにもあの子の実の両親については、あの子の友だちとかも全然知らない。みんな田代さんちの子供と思っている」
 
「それなら何とかなりそうですね。まあバレた時はバレた時だし」
「うん。そのくらいの気持ちでいるといいと思う」
 

「その里親の田代さん夫妻に実子とか他の里子は居ないんですか?」
と私は尋ねた。
 
「その件に付いては、古くからの知り合いなら千里が知ってるだろ?」
と雨宮先生は千里に振る。
 
「田代夫妻は医学的に子供が作れないんだよ」
と千里は言った。
 
「へー!」
 
「だからこそ、龍虎を本当に我が子のように育てている。決して甘やかしていないし、といってスパルタでもない。愛情豊かに育てているから、本当に性格のいい子に育っている。でも一方で本人はやはり自分の実の両親が死んでしまっていることを意識して育ってきている。その孤独感にずっと耐えてきた。だから凄く芯の強い子。まあこの厳しい芸能界でも生き延びていけるタイプだと思う」
 
と千里は言った。
 
「千里は田代夫妻が子供を作れない理由も知っているよね?」
と雨宮先生は言うが
 
「プライバシーをむやみに話すのはよくないです」
と千里は答えた。
 
「うん。私も特に聞かないことにするよ」
と私も言った。
 
「あんたたち硬いね」
と雨宮先生は言っているが、千里と私の反応に満足げな様子である。
 

この時、防音室内でフルートの練習をしていた政子に電話が掛かってきたようである。
 
何か楽しそうに話していたが、やがて防音室から出てくる。
 
「あ、雨宮先生、千里、いらっしゃーい。冬、私出かけてくる」
 
「今から出かけるの?」
 
今はもう19時近い。あまり夕方以降はひとり歩きさせたくない。付いていくべきか?などと私は考える。
 
「美空がさ、明日までKARIONお休みになったから、一緒にジンギスカン食べに行かないかって」
「ああ。美空と一緒か」
 
若干の不安がある組み合わせではあるが、まあ2人連れなら大丈夫であろう。
 
「いいんじゃない?行っておいでよ。新宿かどこか?」
「札幌だって」
 
「北海道の?」
「東京には札幌って無いと思う」
 
「飛行機あったっけ?」
「21時が最終らしい。美空のお姉ちゃんが車で迎えに来てくれるって」
 
「ああ、月夜さんならしっかりしているから大丈夫だよ」
と千里が言っている。
 
「じゃ泊まりになるね?」
「うん。今夜はもうお店しまっちゃうから、美空のお父ちゃんちに泊めてもらって、明日が本戦。明日の最終便で帰ってくる」
「了解〜」
 
それで政子はまもなく迎えに来た美空たちと一緒に出かけて行った。
 

「あ、忘れる所だった。フルート返しておくね」
と言って、私は千里に三響のフルートを返した。
 
「サンキュ、サンキュ。こちら政子のフルート」
と言って、彼女はヤマハのフルートを返してくれる。
 
「サンキョウのケースに入っていたから気づかなかった」
「どこかで入れ替わっちゃったんだろうね」
 
その時、何か考えていたふうの雨宮先生が言った。
 
「ケイ、醍醐、私たちも何か食べに出かけない?」
「それもいいですね。何食べますか?」
「復活した宮崎牛のステーキを食べに」
 
私は頭を抱えた。
 
「それって、まさか宮崎に行くんですか?」
「もちろん」
「でも飛行機ありましたっけ?」
 
「宮崎行きは19:05が最終です」
と千里が携帯を見ながら言う。千里はスマホにはしないんだろうか?などと思いながら私は彼女が左手で携帯を持ちながらその左手の指で高速にボタンを押しているのを見ていた。
 
「福岡行きは?」
「20:00です。今からでは間に合いません」
「新幹線は?」
「博多行きは18:50が最終です」
 
「明日にしますか?」
と私は訊いたのだが、雨宮先生は言った。
 
「よし。車で行こう」
「え〜〜〜!?」
 
「先生、音源制作でお疲れになっていたのでは?」
「私は疲れてるから寝ていく。だから千里運転して」
 
千里は悟りきったような顔で答えた。
「分かりました」
 

雨宮先生は
「あいつらも連れて行こう」
と言って、どこかに電話していた。
 
それで20:00に東京駅で待ち合わせようということになる。
 
広い車が欲しいという話になり、私はレンタカー屋さんに電話して予約を入れ、電車で東京駅に出て八重洲口のトヨレンでエスティマを借りた。そこで少し待つ内に、上島先生がまだ小学5〜6年生にも見える美少女を連れてやってきた。
 
「取り敢えず出発しよう」
ということになり、最初は千里が運転席、私が助手席、雨宮先生が3列目、上島先生と美少女が2列目に乗って、車は出発する。ナビの目的地は雨宮先生の指示に従って、霧島市(旧隼人町)の鹿児島神宮(別名:正八幡)にセットした。到着予定時刻は明日の朝10:30と表示されている。
 
「龍ちゃん、ご無沙汰」
と運転しながら千里が2列目に座っている美少女に言う。
 
「こんばんは、千里さん。上島のおじさんから何か作曲家関係の集まりと聞いたのですが、千里さんは誰かの関係者ですか?」
と美少女は返事している。
 
「うん。私は醍醐春海とか鴨乃清見の名前で作曲しているんだよ」
と千里が言うと
「え〜〜〜!? 鴨乃清見って千里さんだったんですか!?」
と彼女は驚いている。
 
「正確には鴨乃清見の一部だけどね。鴨乃清見は私を含めて数人の作曲家作詞家の集団なんだよ」
と千里が言うと
 
「もっとも千里は鴨乃清見の8割くらいだね」
と雨宮先生が言っている。
 
そして雨宮先生は3列目から助手席の私に向かって言った
 
「まあそういう訳で、ケイ、この子が高岡と夕香の遺児、長野龍虎だよ」
 

私は一瞬、額に掌を当てて考えた。
 
「高岡さんと夕香さんの子供って、今度デビューする息子さんだけじゃなくて、娘さんもいたんですか?」
 
「違う違う。この子がその息子だよ」
「ちょっと待ってください。女の子ですよね?」
「男の子だよ」
「え〜〜〜!?」
 
そんなやりとりをしていたら、美少女(?)は顔を真っ赤にして俯いている。
 
「まあ、この子がトイレの場所を訊いたら、普通女子トイレの場所を教えるよね」
などと運転席の千里は言っている。
 
「ごめーん。てっきり女の子だと思っちゃった」
 
「まあそういう訳で、龍虎、これがローズ+リリーのケイだよ」
 
「ケイさん、初めまして。長野龍虎と申します。よろしくお願いします」
と龍虎はきちんと挨拶してぺこりとこちらに頭を下げた。
 
「あ、はい。ローズ+リリーのケイです。龍虎ちゃん、こちらこそよろしくお願いします」
 

「芸名とかは考えておられるんですか?」
と私は尋ねた。
 
「それはまだ。名前は僕が付けてあげてと紅川さんからはこちらに投げられているんだけどね」
と上島先生が言う。
 
「この子が小さい内に高岡も夕香も死んじゃったから、雷ちゃんが父親代わりみたいにしてたんだよ」
と雨宮先生が言う。
 
「そうだったんですか」
「茉莉花(春風アルト)から僕の隠し子じゃないかと疑われて、最初なかなか信じてもらえなかったけどね」
と上島先生は笑っている。
 

「みなさん、晩ご飯は食べられましたか?」
と千里が尋ねる。
 
「いや。まだ」
と全員言っている。
 
「じゃ足柄SAあたりで御飯をゲットしよう」
と雨宮先生が言う。
 
それで千里は足柄SAに車を入れるが、雨宮先生は千里にお金を渡して
「御飯買ってきて」
と言っている。
 
「レストランに入るんじゃないんですか?」
「このメンツで入ると目立つからさ」
「確かに!」
 
それでみんなトイレにだけ行って来て、千里が食料を調達してきた。
 
「すぐ出発しよう」
「はい」
と言って千里が運転席に就こうとするので、私は
「運転代わるよ」
と言ったのだが
「平気平気。冬もライブツアーにアルバム制作で疲れてるでしょ?私は大丈夫だから」
というので、任せることにした。
 
千里はハンバーガーとかお弁当とかをたくさん買ってきていたので、車内でそれを食べる。千里自身もハンバーガーやサンドイッチを食べていた。運転しながら左手で包みをきれいに剥いてしまう。器用だなと思って見ていた。
 
「ところで質問です」
と雨宮先生がご自分は高級幕の内のようなものを食べながら言う。
 
「みんな男子トイレに入った?女子トイレに入った?」
「へ?」
 
「醍醐は?」
「もちろん女子トイレですけど」
「ケイは?」
「同じく女子トイレです」
「雷ちゃんは?」
「男子トイレだけど」
「じゃ龍虎は?」
「あ、えっと・・・・・」
 
「ん?」
 
見ると龍虎はまた顔を真っ赤にしている。
 
「いや、その男子トイレに入ろうとしたんですけど、『君、こちら違う』と言われて追い出されちゃって」
「あぁ・・・・」
「で、どうした?」
「ごめんなさい。女子トイレを使いました」
 
と言って龍虎は俯いている。
 
「まあ、それは龍ちゃんが小学1年の頃からの日常だね」
と言って千里は笑っていた。
 

「醍醐も小学1年生の頃から女子トイレ使ってたろ?」
と雨宮先生が訊く。
「もちろんです。幼稚園の頃からずっと女子トイレですよ」
と千里は答える。
 
「ケイも小学1年生の頃から女子トイレ使ってたよね?」
「男子トイレですけど」
「それは絶対嘘だ」
「うーん・・・・」
 

夜も遅いので、みなさん寝てて下さいと千里が言うので、最初に徹夜作業で疲れていた雨宮先生が寝付き、日々の作曲で疲労がたまっている上島先生も眠る。龍虎もじきに眠ったようである。私はしばらく小声で千里と会話していたのだが、いつの間にか眠ってしまったようである。
 
ふと目が覚めると空がもう明るくなりかけている。時計を見ると4:50である。
 
「今どこ?」
「さっき、えびのJCTを通過したから、あと20-30分くらいで目的地に到着すると思う」
「え?もう鹿児島県なの?」
「うん。鹿児島県内に入った」
「ごめーん。途中で運転代わるつもりだったんだけど」
「平気平気。長時間の運転は慣れてるから」
 
「千里、今到着予定は何時?」
とどうも目が覚めたらしい雨宮先生が訊く。
 
「カーナビは5:21と表示しています」
「今日の日出は何時か分かる?」
「夜中に確認しておきました。5:57です」
「だったら5:52くらいに鹿児島神宮に着きたいから、30分時間調整しよう。どこかお店のあるPAかSA無い?」
「もうお店のあるPA/SAは終わりました。でもさっき山江SAでみなさんの分のお弁当を買っておきましたので、次の溝辺PAで駐めて食べましょう」
 
「あんた、いつもながら用意がいいね!」
 

それで溝辺PAで駐める。ここは自販機とトイレしかないPAである。上島先生と龍虎も起こして、みんなでトイレに行く。龍虎は自粛して?男子トイレを使ったが、雨宮先生から「女子トイレに来ない?誰もいないから大丈夫だよ」と言われて「僕男ですー」と言っていた。むろん雨宮先生は女子トイレを使う。
 
車に戻ってから、千里がお弁当とお茶を配り、それで朝御飯にする。その後、「少しでも運転代わるよ」と言って、私が運転席に就き、千里が助手席に乗って出発。5:51に鹿児島神宮の駐車場に入った。
 
みんなで拝殿まで歩いて行き、5:57の日出と同時にお参りした。
 
「今日は宿題を果たしに来たのよ」
と雨宮先生は言った。
 
「宿題ですか?」
「7年前、大西典香のアルバムを作るのに『Blue Island』というタイトルがいいという意見が出た。それで『Blue Island』なら青島じゃん、ということで、醍醐に宮崎の青島まで行ってもらった。それでそこの日の出を見て曲を書いてもらった」
 
「あの大ヒット曲は、宮崎の青島で生まれたんですか!」
「あの曲をアメリカで発売した時に、シカゴ近郊のブルーアイランドでPVを撮影して、それが逆輸入されちゃったから、あちらのブルーアイランドを歌ったものかと思っている人もあるよね」
 
「でも青島で書いた曲は『恋のモーニングコール』になっちゃったんだよ」
と千里は言う。
 
「え!?」
「結局、その後、鵜戸神宮(うどじんぐう)で書いた曲が『Blue Island』という名前でリリースされた」
 
「面白い話だ」
 

「その時、青島も鵜戸神宮も親戚だからいいじゃんと言われたんだよね」
と千里は言う。
 
「そうそう。そのあたり千里説明しなさい」
 
「青島神社にお祭りされているのは天津日高彦火火出見命(あまつひこ・ひこほほでみのみこと)、別名山幸彦(やまさちひこ)。海彦山彦伝説の山彦だよね。それで鵜戸神宮にお祭りされているのは、その息子の日子波瀲武鵜草葺不合命(ひこなぎさたけ・うがやふきあえずのみこと)」
 
「名前が難しい!」
「一般には彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)くらいで呼ばれている。まあその前に付いているのはむしろ美称の類い。思いっきり略して『ふきあえず』なんて言う人もある」
 
「なるほど」
 
「まあそれで親子ならいいじゃんと言われたんだよ」
「その時、霧島神宮の話が出たんだよね」
「そうなんですよ。霧島神宮にお祭りされているのは天邇岐志・国邇岐志・天津日高・日子番能・邇邇芸命(あめにぎし・くににぎし・あまつひこ・ひこほの・ににぎのみこと)」
 
「長い!」
「一般には邇邇芸命(ににぎのみこと)と呼ばれている」
 
「そのくらいの長さがいいな」
「これは青島神社にお祭りされている山幸彦のお父さんだよ」
「なるほど。親子孫3代なんだ」
 
「そういうこと」
 
「まあそれで、じゃその霧島神宮にもお参りしてきなさいと私は言ったんだけどね」
と雨宮先生が言う。
 
「高校卒業してからにしてくださいと私は言った」
「それで私もすっかり忘れていてさ。ふと気づいたら、もう大学院卒業間近じゃん。だから、霧島に行ってもらおうというのを、昨夜ケイが眠ってしまった後、千里と話したのさ」
 
「なるほど、それで。でもここは霧島神宮じゃなくて鹿児島神宮ですよね?」
「うん。だから、これから霧島神宮に行く。そのあと、再度青島・鵜戸神宮に行って今日の日程は終了」
 
「雨宮先生にしては上品なルートだ」
「とんでもない」
「何か問題でも?」
「霧島神宮というのが6つあるから」
 
「え〜〜〜!?」
「そのうちの2つは現在合併していて実際には5ヶ所」
「どっちみち大変だ」
 
「まあ日没までには鵜戸神宮に到達できるはず」
「だったら帰りは最終の飛行機で東京に戻れますかね?」
 
「千里、宮崎空港発の最終は?」
「19:55ですね」
「今のところ鵜戸神宮到着予定は?」
「18時です。それからお参りして宮崎空港まで戻ると19時半くらいになると思うのでたぶん羽田行き最終には間に合いません」
「じゃ、帰りもエスティマで高速を走って」
「分かりました」
 
「え〜〜〜!?」
 

「ところで僕と龍虎が同行した理由は」
と上島先生が訊く。
「まあ、ついでだね」
と雨宮先生は言った。
 
鹿児島神宮を出たのが6:30くらいであったが、霧島神宮には40分ほど走って7:12に到着した。
 
参道を歩いていると、竹箒で掃除をしていた巫女さんがひとり寄ってくる。
 
「こんにちは」
と千里に声を掛ける。
 
「こんにちは。久しぶりですね」
と千里は言った。
 
「こちら、作曲家の上島雷太先生、雨宮三森先生、ローズ+リリーのケイさん、そして私の友人の龍虎ちゃんです」
 
みんな会釈する。
 
「こちらはこの神社の御祭神の霧島大神様です」
と千里は言った。
 
「え!?」
 
「それそういう言い方すると、みんなびっくりするよ」
と巫女さん(?)は言っている。
 
「じゃ、取り敢えず沙耶ちゃんで」
「うん。沙耶でいいよ。お参りだったら、私が祈祷やってあげるよ」
「じゃ、よろしく」
 
それで千里が「大神様」と呼んだその沙耶という女性に連れられて一行は昇殿する。彼女が昇殿したのを見て、巫女さんが3人やってきて、太鼓・笛・大幣を持つ。
 
大幣を持った巫女さんが、一同の上で振ってお祓いする。そして「大神様」がこの世の物とは思えないほど美しい声で祝詞を唱え始め、太鼓・笛がそれに合わせた。
 
それはとても気持ちいい時間であった。
 

昇殿しての祈祷の後
「まあまあ」
と言われて、社務所の中の座敷に通され、お茶とお菓子を頂いた。
 
「あ、かるかん饅頭だ」
と龍虎が嬉しそうな声をあげる。
 
「それ好き?」
と沙耶。
 
「ええ。何度かお土産にもらったことありますけど、美味しいですね」
 
「千里ちゃん、忘れる所だった。これを羽黒大神に」
と言って、沙耶は何か紙袋を渡す。
 
「じゃ預かっていくね」
「震災の後、原発があんなことになって。九州の神様たちもみんな心配している。これ微力ではあるけど、少しは役に立つかなと思って」
 
「ありがとうございます」
と千里はその時彼女に敬語で言った。
 

「そうだ。久しぶりに千里ちゃんの笛が聴きたいな」
と沙耶は言う。
 
「うーん・・・」
と言って千里はバッグの中から笛を取り出す。
 
「今日は龍笛を持って来てないんだよ。どれがいい?」
と言って取り出したのは、東京で政子のと交換した三響のフルート、古い篠笛、パンフルート(!?)である」
 
「そのパンフルート、久しぶりに見た」
「まあダーツの景品だけどね」
「篠笛は例の所でもらったものでしょ?」
「そうそう。私はもらい物、預かり物が多い」
 
「じゃ、そのフルートを聴こうかな」
「了解」
 

それで千里はフルートを構えて吹き始める。
 
滝廉太郎の『花』である。
 
私は「え?」と思った。
 
その音色があまりに美しかったからである。これはフルートがいいのか、千里の腕がいいのか、とにかく物凄く美しい音色である。
 
一昨日までのKARIONのライブでは、千里はもっと普通の音を出していた。もしかしたら合奏の時とソロの時では吹き方が違うのだろうか?
 
ワンフレーズ吹いた所で、千里が誘うように私を見る。それで私は歌い出す。
 
「春のうららの隅田川・・・・」
 
私が歌い出したのと同時に、龍虎も歌い始めていた。
 
物凄く伸びのある歌声である。
 
私は驚いた。この子、こんなに歌が上手いのか。
 
「櫂のしずくも花と散る」
 
の所で、龍虎は私の三度下を歌う。ハーモニーが美しく響く。彼は正確に私の声のピッチと共鳴するピッチで歌っている。私もノンビブラートで歌っているが、彼もノンビブラートだ。それで響き合うということは、彼は極めて精密な相対音感を持っているということになる。
 
千里のフルートに合わせて私と龍虎の歌は続く。やがて歌は三番まで行く。
 
「錦おりなす長堤に、暮るればのぼるおぼろ月」
 
そして「げに一刻も千金の」と歌っていた時のことである。
 
突然周囲に満開の桜のビジュアルが出現したような気がした。
 
え?え?
 
龍虎も驚いたような顔をしている。千里は何も表情を変えない。
 
私と龍虎は歌い続ける。
 
「ながめを何にたとうべき」
 
歌い終わった後、千里のフルートはコーダを吹いて終了した。
 
その演奏が終わるとともに桜のビジョンは消えた。
 

沙耶、上島先生、雨宮先生がパチパチと拍手をしてくれる。
 
私は今の桜のビジョンは何だったんだろう?と思った。どうも気づいたのは私と龍虎だけのようなのである。千里も見たのかも知れないが、あの子はそういうのを表情に出したりはしない。
 
「お粗末様でした」
と千里が言う。
「いや、粗末じゃない。素敵な演奏だった」
と上島先生。
 
「きれいだったね。ケイさんもそちらの美少女中学生も歌声が素敵」
と沙耶は言っている。
 
龍虎は『美少女中学生』と言われて「えーっと」という感じで手を額に当てている。
 
「そちらも歌手さんですか?」
と沙耶が尋ねる。
 
「まだデビュー前なんだよ。来年の春くらいにデビュー予定」
と千里が答える。
 
「名前は?」
「まだ芸名は決まってないけど、本名は田代龍虎ちゃんという子」
と千里は答えた。
 
「へー。リュウコか。そのまま芸名でもいい気がする。でもこれだけ可愛いくて歌も上手ければ売れるだろうね。国民的美少女って感じだよ」
と沙耶が言う。
 

「あ、いや、この子、女の子に見えるけど、男の子だから」
と千里が言うと
 
「うっそー!?」
と沙耶は驚いている。
 
龍虎はまた真っ赤になって、俯いている。
 
「女の子になりたい男の子?」
「いや、普通の男の子。別に女の子になりたくはないらしい」
「それ恥ずかしがってそう言っているだけでしょ?実は女の子だったら良かったのにと思ってるでしょ?」
「ちんちん取って女の子になったら、って小さい頃から言われているけど、絶対にちんちんは無くしたくないらしい」
 
「ふーん。女の子になりたいのなら、私がその子、女の子に変えてあげてもいいけどと思ったのに」
 
「よけいな親切はしないように」
 
「あれ?あんた小さい頃に大きな病気したでしょ?」
と沙耶は言った。
 
「はい。幼稚園から小学1年生に掛けて2年くらい入院していたんです。その入院中に千里さんと知り合ったんですよ」
と龍虎は答える。
 
「ふーん。。。。」
と言って沙耶は龍虎を見ていたが
 
「ちょっと貸して」
と言うと、龍虎のお腹の所に手を当てている。
 
龍虎は突然女の人に触られて少しドキドキしているようだ。
 
「これでいいと思う」
と沙耶は言って手を放した。
 
「ありがとう」
と千里。
 
「まあ特別サービス」
と沙耶。
 
「少し余計な親切までしなかった?」
と千里が言った。
 
「してない、してない」
と沙耶。
「まあ素敵な歌を聴かせてもらったお礼程度は」
 
「ふーん。まあいいか。じゃ、初穂料このくらい納めておくよ」
と言って千里はバッグの中から封筒を出して渡した。
 
何だか封筒が分厚い!
 
「こんなにもらっていいの?」
「奥宮の改修工事の奉賛金の足しにでも」
「了解〜」
「奉賛の名義はこの子の名前、埼玉県・田代龍虎で」
「あ、いいかもね」
 
と言ってから沙耶は紙に《埼玉県・田代》まで書いてから、少し考えるようにして言った。
 
「リュウコって降りるに似た字の隆に子供の子だっけ?」
「龍神の龍に白虎の虎で」
「まるで男みたいな名前だね。もっと女の子らしい名前にしておけばいいのに」
「僕、男です〜!」
 

車に戻ってから、私は千里に訊いた。
 
「巫女さんかと思ったけど、女性神職だったのかな?」
「違うよ。神様そのものだよ」
 
「どういうこと?」
「今は人間体で修行中なんだけどね」
「うーん・・・・」
 
「まあ、あまり深く考えない方がいいよ」
 
「千里、奉賛金いくら出したの?」
と雨宮先生が訊く。
 
「100万円ですけど」
と千里は軽く言う。龍虎がびっくりしている。
 
「じゃ、それあとでこちらから渡すよ」
「分かりました」
「凄い金額だね」
と上島先生。
 
「いえ、沙耶さんは400-500万円払ってもいいことをしてくれました」
と千里。
「もしかしてさっきの心霊治療か何か?」
「あまり深く考えない方がいいですよ」
 

「でも3人の演奏も素敵だったけど、その前の昇殿しての祝詞も物凄く気持ち良かったね」
と上島先生は言う。
 
「まあ神様は声自体美しい声を持っているからね」
と千里は言っていた。
 
上島先生はその感動が消えない内にと五線紙を取り出して音符を書き込んでいた。
 

霧島神宮を7:50頃出て、30分ほど国道を走った所で、車は唐突に物凄い山道に突入する。
 
「なんか急に凄い道に入ったね」
「これ道を知らない人はカーナビに表示されていても、この道に入るのをためらうと思うよ」
と千里は言っている。
 
私がカーナビの画面を見ていると、車は道路から外れた場所を走っている!?
 
「なんか道無き道を走っている気が」
「これは新しい道なんだよ。カーナビの情報が更新されていないみたいね」
「なるほどー」
 
やがて霧島東神社(きりしまひがしじんじゃ)に到達する。
 
車を降りて歩いて行くと、ずっと下の方に美しい湖が見えた。
 
「きれいな湖だね」
「御池(みいけ)というんだよ。この神社の象徴だね。直径1kmくらいあるよ」
「へー」
「じゃかなり距離あるんだ?」
「さっきの国道は実はこの池のそばを走っていたんだよ」
「え〜!気づかなかった」
「カルデラ湖だよね」
「だと思います」
 
「でも神秘的だね」
「龍でも住んでいるみたい」
「龍さん、いますよ」
「おっ」
 
「待って。これ曲書きたい」
と上島先生が言ったが
 
「先生、申し訳ありませんが、お参りするまではご遠慮ください」
と千里が注意する。
 
「分かった!」
 
それでお参りした後で、上島先生は大急ぎで曲を書き留めていた。
 

「あんたは書かなくていいの?」
と雨宮先生が千里に言っている。
 
「取り敢えず2曲書きましたが」
と言って千里は五線紙を2枚見せている。
 
「いつの間に!」
 

神社を出てさっきの山道を降りて行く。3-4分で国道に戻るだろうと思っていたのだが
 
「あ、道間違った」
と運転していた千里が言い出す。
 
「どこか分かれ道あったっけ?」
 
「うっかりカーナビに騙された。これは旧道の方だよ」
「旧道なら、いづれ元の道に戻れるのでは?」
「うん。少し遠回りになるけどね」
 
しかし確かにさっき通った道より細い気がする。
 
「ああ、ダメだ!倒木がある」
と言って千里は車を停めた。
 
降りてその倒木を見ている。私も降りる。他の3人も一緒に降りてきた。
 
「これは動かせないね」
と上島先生。
 
「あんたが道に迷うって珍しいね」
と雨宮先生が言っている。
 
「すみませーん。今来た道をバックで戻りますね」
「確かにここは転回は無理だなあ」
「細い道だけどバック大丈夫?」
「大丈夫ですよ」
「ああ。この子は後ろにも眼があるから問題無い」
 
それで車に戻ろうとしたのだが、
「待って」
と上島先生が言う。
 

「あそこ見て」
と上島先生が言って指さした先に、1本赤く染まった木があるのである。
 
「もう紅葉?」
「さすがに早すぎる気がするけど」
 
「千里、あれ何の木か分かる?」
と雨宮先生が訊く。
 
「葉とか枝の形が錦木(にしきぎ)っぽいですね。それとも小真弓(こまゆみ)かな。小真弓って早いものは8月下旬から色づくんですよ」
 
などと言って、千里は目を細くしてその木を見ていたが
 
「あ、やはり小真弓だそうです。今教えてもらいました」
と言う。
 
「教えてもらったって誰に?」
「え、えーっと、御本人は名乗るほどの者ではないとおっしゃってます」
 
「うーん・・・・」
 
上島先生と雨宮先生が大きなカメラを出して来て写真を撮っている。私と龍虎もスマホで写真を撮ったが、千里はただ眺めている。
 
「千里は写真撮らなくていいの?」
と私は訊く。
「私が写真を撮ると、まともに写らないから」
と千里。
「ああ、千里は機械音痴なんだよ」
と雨宮先生が言っている。
「私が撮ろうか?」
「じゃお願い」
と言って千里が携帯を私に渡すので、私がその携帯を操作して最大解像度で写真を撮っておいた。
 
「でも桜に紅葉にって今日は凄いですね」
と龍虎が言う。
 
「桜?どこかに桜咲いてた?」
と上島先生が言うのを聞いて、私はやはりあのヴィジョンは上島先生たちには見えてなかったんだなと思った。
 
「さっき瀧廉太郎の『花』を演奏した時に、演奏した3人にだけ満開の桜のヴィジョンが見えたんですよ」
と私は言った。
 
「へー、そんな不思議なことが」
と上島先生は言っているが
 
「まあ醍醐の周囲には不思議なことが多いから」
などと雨宮先生は言った。
 

車に戻って、バックで今来た道を戻る。千里はバックだというのにまるで前に向かって走っているかのような速度を出すのでこちらが不安になったが、一度もミスることなく、1分ほどで元の道に戻れたようである。そこから2分くらい走って国道に出ることができた。
 
「しかし季節外れの紅葉を見られたのは醍醐君の迷子のおかげだね。怪我の功名かな」
と上島先生は言うが
 
「そういえば思い出した。葵照子が、醍醐が道に迷う時は迷う理由がある時なんですよと言ってた」
と雨宮先生は言った。
 
千里はただ微笑んでいた。
 

そこを出て15分ほどで挟野神社(さのじんじゃ)に行く。凄い神社が2つ続いたので、ここは私はちょっとホッとした。
 
すると唐突にメロディーが浮かぶ。
 
「ちょっと待って。これ書き留める」
と言って私は頭の中に流れて来た曲を書き留めた。
 
「冬、それって霧島神社の祝詞を聞いた感動って感じ」
と千里が譜面を見ながら言う。
 
「うん。それが今出てきた」
 
「面白いね。時間差で感動が落ちてくるんだ?」
と雨宮先生が言っていた。
 
 
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【夏の日の想い出・生りし所】(上)