【夏の日の想い出・瑞々しい季節】(下)

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「佐斗志のアクアはこのあと、舞理奈の敦美ちゃんを押し倒すよね?」
と熱心にテレビを見ていた政子が私に訊く。
 
「押し倒さないでしょ。佐斗志くん、意気地なしだもん」
「ああ、確かに。あの子も思い切って去勢すればいいのに、意気地がないよね」
 
なぜそういう話に行く?
 
「純一の卓也と友利恵のアクアは、やっちゃうんでしょ?」
「それもしないと思うよ。たぶん着衣で抱き合うだけ。深夜番組じゃないもん。それに純一は佐斗志にセックスまではしないと約束したしね」
 
「言わなきゃバレないよ」
「そういうずるいおとなみたいなことはしないって」
 
「でもセックスするには、ヴァギナが無いと困るよね。アクアは来週の放送までにちゃんと手術してヴァギナ作っておかなきゃ」
 
どうも放送日程と現実とが混線しているようだ。
 
「よし。本人に直接言ってあげよう」
「ちょっとぉ!何時だと思ってるの?やめなよ」
と私は注意したのだが、政子はアクアに直接電話を掛けてしまう。つながらないのではと思ったのだが、つながってしまう。
 

「おはようございます。マリさん」
とアクアはきちんと挨拶する。
「おっはよー。アクア。今日の放送凄かったね」
「ボクのラインに友達から凄い数のメッセ入ってます」
「あれ、どちらもセックスするんでしょ?」
「来週のネタバレになってしまうから、マリさんといえどもお話しできません」
 
「あれ、佐斗志と舞理奈の方はキスくらいで終わるかもしれないけど、友利恵は純一とセックスするにはヴァギナが無いといけないじゃん」
 
「ポルノ映画じゃないんだから、もし物語上することになっても実際にはしませんよぉ」
「あれ?そういうもん?」
 
「物語上セックスしたことになる度に本当にセックスしないといけなかったら、女優さんの、なり手が無いですよ」
 
「あ、そうかもね」
 

「でも取り敢えず、アクアはヴァギナを作る手術をしようよ。私が予約してあげるね」
 
「そういう手術はしません!」
「無いと、男の人とセックスする時に困るよ」
「ボクは恋愛対象は女の子ですー!」
「レスビアンだったんだっけ?」
「ストレートですよぉ」
「ストレートな女の子は男の子が好きなんだよ」
「ボクは男の子です」
「男の娘だよね?」
 
政子がしつこくてアクアが困ってるようなので、私は政子から携帯を取り上げる。
 
「あ、ちょっと話し中」
と政子は文句を言うが
 
「ごめんねー。マリが無茶なこと言って。よく言い聞かせておくから」
と言って私は携帯を切ってしまう。
 
「ああん、勝手に切るってひどい」
「あれ以上無理強いしたら、酔ってると思われるよ」
「私酔ってないのに」
 
政子は懲りずに再度アクアに電話したものの、話し中でつながらなかった。おそらくは友人の誰かと話しているのかなと私は想像した。
 

この衝撃の放送の翌日、7月2日。青葉が久しぶりに東京に出てきた。この日はいつもうちのマンションの霊的なチェック(主として郵便物や宅配便などで送られて来たプレゼントの類のチェック)のために中村晃湖さんも来ていて、この2大霊能者が、うちのマンションで遭遇することになった。
 
実際には中村さんが来てチェックを始めようとしていた所に青葉が来訪したのである。
 
「久しぶり〜青葉ちゃん」
「晃湖さん、ご無沙汰しておりまして済みません」
 
「ここに竹田宗聖さんも来てたら日本三大霊能者の遭遇という感じかな」
と中村さん。
 
「私の家族の葬儀の時が凄かったですね」
「うん。あれはマジで凄かった。日本のハイレベルな霊能者が一堂に会していたからね」
 
「ついでだからあんたも手伝いなさい」
などと中村さんが言い、ふたりで郵便物やプレゼントをチェックしてDM2通とお菓子の贈物1個を見つけ出した。
 
「そのお菓子、製造元からの直送ですよね?」
「これはおそらく店頭でその場で詰めて、送られた物です。店員さんが詰める作業をしている最中に、カウンター越しに邪気を送り込んだんですよ」
 
「ひゃー」
 

中村さんは問題の品を持参の封印用バッグ(保冷用バッグに若干の霊的細工をしたもの)に入れて
 
「これは処分しておきますね」
と言った。
 
「久しぶりに青葉ちゃんと会ったし、少しおしゃべりしようよ」
「こちらもいろいろお話したかったです」
 
「青葉、インカレ(日本学生選手権)とか全国公(全国国公立大学選手権)とかはもう終わったんだっけ?」
と私が訊くと
 
「ああ。水泳部は辞めました」
と青葉は答えた。
 
「え〜〜!?」
「勉強しながら、アナウンサーの訓練も受けながら、霊能者のお仕事もしながら、水泳部の練習にまで出るのは無理と判断しました」
と青葉が言うと
 
「それは無理が過ぎる」
と中村さんも言う。
 
「高校時代は無茶苦茶だったね。受験勉強しながら、コーラス部と水泳部の練習に出て、アナウンサースクールにも行き、霊能者のお仕事をしながら、バンド活動と作曲活動もしていた」
と私が言うと
 
「それは青葉が5−6人居ないと無理だ」
と中村さんは言う。
 

「青葉のお姉ちゃんみたいに適度にサボっていれば何とかなるけど、青葉ってサボるのが下手くそだもん」
と中村さんが言うので、青葉は驚く。
 
「晃湖さん、私の姉をご存じですか?」
 
すると中村さんは腕を組んで意味ありげに笑顔を作ると言った。
 
「最近まで気づかなかったんだけど、千里ちゃんは私の又従姉妹なんだよ」
「え〜〜〜!?」
 
それは私も知らなかったので驚いた。
 
「私の祖母のサクラさんって人が、千里ちゃんのお祖父さんの十四春さんの姉に当たる」
 
「そんな話、聞いたこともなかった!」
 
「同じ旭川N高校バスケ部の先輩後輩でもあるし」
「ええ。その話は聞いていました」
 
「お正月に千里ちゃんの試合がテレビで放送されていた時にさ、ちらっと映った根付けに見覚えがあったんだよ。それ私が調整したものだったから」
 
「へー!」
「当時はあの子、まだ小学生だった」
と中村さんが言った時、政子が質問する。
 
「質問でーす!その時、千里は小学生男子でしたか?小学生女子でしたか?」
 
「千里が男装する訳無い」
「やはり!」
「波動まで完璧に女の子だったよ」
と中村さんが青葉を見ながら言うと、青葉は腕を組んで考えている。
 

「でもあの子、小さい頃から随分と印象変わった。小さい頃は凄く優秀な霊媒という感じだった。ところがあの子、いつしかその霊的な性質を隠すすべを覚えていたのね」
 
「そうなんです。普通の霊感のある人が姉を見ても、そんなに霊的なパワーがあるようには見えないんですよ」
 
「私も彼女の高校時代にバスケ部に顔を出して会っているからさ。その時、そんなに霊的に力のある子なら気づいていたと思うんだけど、自分の能力を隠していたから、私には分からなかったんだよ」
 

「でもやはり霊的な能力って遺伝の部分が大きいのね」
と興味深そうに政子が言う。
 
「うーん。遺伝より環境だと思わない?」
「ええ。育った環境の方が大きいです」
 
と中村さんと青葉は話している。
 
「まあそれであの子の正体に気づいて。私、こないだ合宿所まで訪ねていったんだよ。親戚と言って」
「積極的ですね!」
「そしたら、向こうはこちらが自分の又従姉妹だということは知っていたらしい」
 
「でも言わないんだ!」
 
「私たちって、自然に抑制的になるもんね?」
と中村さん。
「なります、なります。訊かれない限り話さない」
と青葉。
 
「うん。だから青葉は使えん」
などと政子は文句を言っている。
 

「それでその場で千里ちゃんと話していた時に出てきたんだけどさ」
「はい?」
 
「私や千里ちゃんと青葉ちゃんも親戚ではないかと」
「え〜〜〜!?」
 

「これは根拠は無い。もしかしたらDNAを調べたら何か証拠が出る可能性はある」
「ええ」
 
「うちの祖母や千里ちゃんのお祖父さんなどの兄弟は戸籍上は5人兄弟ということになっている」
 
と言って中村さんは手帳を見ながらその5人の名前を書き出した。
 
望郎・サクラ・啓次・庄造・十四春
 
「このサクラさんが私の祖母ちゃん。十四春が千里ちゃんのお祖父さん」
「はい」
 
「ところが、以前法事の時に話が出たことがあるんだけど、この望郎さんとサクラさんの間に1人女の子がいたというんだ」
 
「へー」
 
「その人は戸籍にも記載されていない。そもそも昔って子供が生まれてすぐには出生届けは出さなくて、3歳くらいまで育ってから届けを出してたんだよ。子供ってわりと簡単に死んじゃうものだったから」
 
「そういう話は聞きますね」
 
「この兄弟を産んだ私や千里ちゃんの曾祖母に当たるウメさんというのはイタコをしていたらしい。この家系には目の弱い人が多くて、ウメさんが全く目が見えなかったんだけど、うちの祖母さんのサクラさんも弱視だった。それでこの戸籍に残っていない女の子というのも、生まれつき目が全く見えなかったらしい」
 
「ああ」
 
「それでその人の消息に関しては誰も知らなかったんだけどね。この兄弟の中で最後に亡くなった啓次さんが死ぬ間際に唐突に言い出したのよ」
 
「死ぬ間際ですか?」
「モモが迎えに来たって」
「モモ?」
 
「それでお嫁さんの克子さんが『モモって誰ですか?』と訊いたら、どうもサクラさんのお姉さんということらしくて」
 
「その人がモモさんだったんですか?」
「それで啓次さんが言い残した話では、モモさんは目が見えなかったので、ウメさんが結婚前に所属していたイタコの集団と話を付けて、イタコにしたという話で。まあ完全に惚けていた年寄りが亡くなる寸前に言った戯言と片付けてしまってもいいんだけどさ」
 
「うーん・・・」
 
「実は千里ちゃんも小さい頃、自分の親戚っぽいお婆さん4人に取り囲まれる夢を何度か見たことがあるらしくて」
「はい」
「その時出てきたお婆さんたちが、ひとりは曾祖母のウメさん、ひとりが私の祖母のサクラさん、そして後2人の名前がモモさんとキクさんだったらしい」
 
「じゃ、やはりモモさんって人はいたんだ?」
「千里ちゃんの夢にも出てきたということは存在していた可能性が高いと思う。あと1人キクさんというのは私も分からない。うちの母にも訊いてみたけどそういう名前の人は知らないと言っていた」
 

青葉はその話を聞いて、腕を組んで考えた。
 
「青葉の家系に居たんでしょ?イタコ出身の人が」
と中村さんは訊いた。
 
「ええ。桃仙と名乗っていたんですけど、その人は戸籍が無かったんですよ。私の曾祖母にあたる人です」
 
「だから、うちの祖母さんの姉のモモさんがイタコ集団に入って、あちこち巡行していた時、たまたま岩手方面に行っていて、あんたの曾祖父さんと知り合い、集団から離脱して結婚したという可能性もあるよね」
 
「可能性としてはありますね」
 
「まあ、そんな話をこないだ千里ちゃんとしたんだよ」
 
「すごーい。中村さんも千里も青葉もお互いに親戚なんだ?」
と政子は浮かれたように言うが
 
「証拠も無いし。ひとつの可能性にすぎませんけどね」
と中村さんは言う。
 
「いやきっと親戚だ。男の娘が出るのもきっと遺伝なんだよ」
と政子は言っている。
 

「男の娘かぁ」
と言ったまま、中村さんは少し考えているふう。
 
「千里ちゃんは自分は男の娘だって言っているけどさ」
「はい?」
 
「あれ、嘘ってことは?」
「へ?」
 
「だってあの子、完璧に女の子だよ。さっきマリちゃんからも訊かれたけど、あの子が小さい頃に法事で見かけた時もふつうに女の子してたし、女児用の喪服を着て、故人に花束捧げたりとかしてるし」
 
「千里姉がそんなことしてたんですか?」
「うちの母ちゃんが、女湯で千里ちゃんと遭遇したみたいだし」
「うーん。。。それは物凄く完璧な人はうまく誤魔化して女湯に入っちゃう人あるんですよ」
 
「それに気のせいかなあ。私、千里ちゃんがオリンピックに出るというからさ。身体の調子の悪い所とかあったらサービスでヒーリングしといてあげようと思ったんだけど、その時、子宮や卵巣の波動も感じたんだよ。だからあの子、実は子宮と卵巣があるのでは?あれって性転換手術で移植したりするんだっけ?」
 
「卵巣や子宮の移植というのは聞いたことありません」
 

「中村さん、うちのケイも子宮の波動とか無いですか?」
と政子が訊く。
 
「ん?」
と言って中村さんは私を見ている。つい緊張してしまう。
 
「あんた、子宮があるよね?」
「え〜〜〜!?」
「最近、何かの治療をした跡がある。子宮筋腫か何かになった?」
と中村さんは訊いてくる。
 
「あの、こないだ奈良県でちょっと変わった巫女さんに、というか本職はお医者さんらしいんですけど、会いまして。その人が私は子宮癌だと言って『治療してあげるよ』と言われて、なんか治療されている感じがありました。青葉がよくしている霊的な治療に似ていましたが、やや違う雰囲気で」
 
政子は物凄くわくわくした目をしている。
 
「もしかしてケイって妊娠可能ですか?」
 
「うーん・・・。子宮だけあっても卵巣が無ければ妊娠は難しいな。ケイちゃんに卵巣の波動は感じないよ。これだけだと、病気か何かで卵巣を取った女性に近い波動なんだよね」
と中村さんは言っている。
 
「青葉は感じる?」
と政子は青葉にも尋ねるが
 
「改めて見てみましたが、私にはケイさんに子宮は見えません」
と言っている。
 
「まあ私のセンサーと青葉のセンサーはタイプが違うからなあ」
と中村さん。
 
「ちょっとお腹をメスで切ってみればハッキリするよね?」
「勘弁して〜」
 

青葉は手がけている案件の処理のため、東京付近に一週間くらいいるということであった。その間は、さいたま市内に住む婚約者・彪志君の所に泊まるということだった。
 
「ゴールデンウィークの頃に手がけていた案件?」
と私が訊くと
「あれは解決しました。本当に大変な案件で、千里姉の手も煩わせましたが」
と青葉は答える。
 
「まあそのあたりはお互いに助け合って行けば良い」
と中村さんも言っていた。
 

その千里は6月30日までヨーロッパで合宿を続け、7月1日に帰国するが翌日2日から都内のトレーニングセンターでそのまま国内合宿に入る。そして国内3ヶ所で、来日したセネガル代表との壮行試合が7月5,8,9日に行われることになっていた。
 
その千里から7月2日の夜、私の携帯に連絡がある。
 
「お疲れ〜。今日は昼間、青葉と中村晃湖さんが来てたんだよ」
「それはまた珍しい遭遇だ」
 
「千里と青葉と中村さんが実は3人とも親戚なのではという話で盛り上がった」
「ああ、早速その話をしたのか」
 
「青葉と千里が親戚かもというのは、千里いつ気づいたの?」
「最初から気づいていたけど」
 
うーん。。。。千里ってこういう奴なんだ!
 
「だからこそ保護したんだよ。まあ親戚なら保護する責任の一端はあるかなと思ったし」
 
「でも大船渡の避難所で会った時は、青葉から祖先の話とか聞いてないよね?」
「だって青葉が持っている固有の波動は、私の波動とも中村晃湖さんの波動とも似ている。これは師弟か親族でないとあり得ないんだよ」
 
うむむむ。
 

「だから、朋子さんが青葉の後見人になるという申請を出した時も、遠縁の親戚なのでというのを書き添えている。それですんなり認可されたんだと思うね。まあ当時はどういうつながりかと聞かれたら答えに窮していた。私は方便で親戚と書くといいと朋子さんを唆したんだけど、結果的には正しかった」
 
「ちょっと待って。千里と青葉が親戚というのは聞いたけど、千里と朋子さん、結果的には桃香も親戚なの?」
 
「そうだよ。あ、それは晃子さんから聞かなかった?」
「聞いてない」
 
「それも一緒にこないだ晃子さんと検討したんだよ。結論から言うと、青葉のお父さんのお母さん(梅子)のお母さんで、巫女をしていた麻杜鹿(まどか)さんという人がいるんだけどね」
 
「うん」
 
「その人のお姉さんに安紗呼(あきこ)さんという人がいて、この人の娘の敬子さんが、朋子さんのお母さん」
 
「待って」
 
と言って私は千里から聞いた内容を紙に書いてみた。
 
「じゃ青葉のお父さんと桃香のお母さんが又従姉弟になるんだ?」
「そうなる」
「ということは青葉と桃香は、えっと、またいとこの子供同士って何て言うんだっけ?」
「みいとこ(三従姉妹)だと思う」
 
「凄いね。そういう関わりがあったなんて。あれ?とすると千里と桃香もつながっているんだっけ?」
 
「青葉を介してつながっているだけだよ。青葉の父系統が桃香の母系統とつながっていて、青葉の母系統が私の父系統とつながっている」
 
「なるほどー」
 
「だから青葉はクロスロードなんだよ」
 
「確かにあの子は色々な意味で交差点だよね」
 

「あ、それで冬に頼みがあるんだけど」
「何だろう?」
 
「私も詳しいことは聞いてないんだけどね。近日デビュー予定の山森水絵なんだけど」
「あ、うん」
 
彼女は『鴨乃清見の曲を歌う歌手募集』オーディションの優勝者である。
 
「楽曲に緊急に調整の必要ができたらしいんだよ。でも私はさすがに作業する時間無いし。超忙しい冬に頼んで悪いんだけど、見てやってもらえないかと思って」
 
「いいよ。今の時期は時間の融通が利くし。誰に連絡すればいい?」
「毛利五郎さんに」
 
あの人か!
 
「分かった。連絡して対応するよ」
「助かる。どこかで埋め合わせするからね」
 
「いや、私と千里はお互いにいろいろ助け合っているし。あまり気にしないで」
「そうだね。こちらはとにかくオリンピックが終わるまではほとんど時間が無いから」
 
「だよねー」
 

それで私は毛利さんに連絡した所、向こうは都内のスタジオで半ばパニックになっていたようである。
 
彼は今、テレビ番組の企画で選ばれた女の子3人組のユニットのお世話をしているし、一方でアクアの新しいアルバムの企画も進めている。更に山森水絵のデビューにも関わっているらしい。
 
「いや、助かったよ。おかげで僕、しばらくアパートに帰ってなくてさ」
「大変ですね」
「ずっと都内のホテルで過ごしてるけど、来月のクレカの請求額が怖い」
「そんなの雨宮先生か誰かにでも一時的に肩代わりしてもらえば?」
 
「俺、雨宮先生には2000万円くらい借金があるから、なかなか言えなくて」
 
うーん。この人、お金の管理がまるで出来ないみたいだしなあ。
 

毛利さんと私が話している時に、スタジオに入って来た女性を見て私は驚いた。
 
「執行さん!」
「ケイちゃん、久しぶり」
 
それはローズ+リリーの★★レコード側の初代担当秋月花謡子さんであった。2010年3月で★★レコードを退職した後、福岡市在住のイベンター関係の男性と結婚して、執行(しぎょう)という苗字になっていた。
 
「執行さんは山森水絵と何か関わっているんですか?」
「うん。%%レコードの山森担当が私」
「%%レコードに入られたんですか!?」
 
「旦那のいたイベンターが去年倒産してね」
「あらあ」
「それでツテをたどって、東京のイベンターに移ってきた」
「知らなかった」
「その時、私のことを知っていた%%レコードの矢作部長が私にA&Rしないかと言ってきて」
「わあ。スカウトされたんだ!」
 
「山森水絵、じゃんじゃん売るからね。ローズ+リリーを吹き飛ばすかもしれないけど、よろしく」
 
「こちらも望む所です」
と言って私たちは執行さんと握手をした。
 

千里から連絡のあった修正箇所というのは、タイアップを組んでいる企業からの注文で、楽曲の歌詞を少し修正し、結果的にメロディーや伴奏などもいじる必要が出てくるという話であった。千里の相棒の作詞担当・蓮菜も今多忙で手が回らないらしい。
 
それで私は政子を呼んだ。政子は佐良さんの運転する車でスタジオにやってきた。政子も執行さんを見てびっくりしていた。
 
「このあたりの物語の展開が、タイアップしている企業の販売してる商品との兼ね合いでまずいんで、手直しして欲しいいんですよ。醍醐春海さんも葵照子さんも自由に修正していいと言ってますから」
と執行さん。
 
「ええ、私もそう聞きました」
と私。
 
「面倒くさいなあ」
と政子は言っているが
 
「まあ、そう言わずに。できるだけ葵照子っぽい歌詞で書き直して欲しいんだけど。しゃぶしゃぶにつれてってあげるからさ」
と私が言うと
「了解〜。やる」
と言って張り切った。
 
「ケイちゃん、僕もしゃぶしゃぶ食べたい」
などと毛利さんが言っているので
「じゃ後でサービス券でも買ってきて差し上げますよ」
「サンキュー!」
 

それで政子が歌詞を修正、というより1コーラス完全に書き直す形になるのだが、それを修正して、私もそれにあわせて楽曲の構成を一部修正する。特に歌詞に合わせて鳴らしている効果音的なサウンドや、歌詞の歌う情景に合わせて伴奏をチューニングしている部分の手直しが必要だった。歌詞が変わったからといって、ここまで伴奏をいじるというのは珍しい。プロダクション側がこの山森水絵という歌手に物凄い期待を掛けて、予算もふんだんに取られているのだろう。
 
結局明け方くらいまで掛けて作業した。単純作業で済むような所は執行さんも随分手伝ってくれた。
 
早朝ではあったが、だいたいできた所で千里に電話して聞いてもらい了承を得る。それで明日スポンサーの人に聞いてもらってOKが出ればすぐにも伴奏者と山森水絵を呼び、録り直すということにする。
 
「でもこれいつプレスするんですか?」
と私が執行さんに尋ねると
 
「昨夜からプレスする予定だったんですよ」
と聞いて驚く。
 
「じゃ最初からスケジュール違いですか」
「まあデビューなんて、いつもこんなものだよ」
と毛利さんが言っていた。
 

この時期、私はKARIONの方がミニアルバムを出して一段落しているのでローズ+リリーのアルバム『やまと』の制作準備を進めていた。現在準備できている楽曲は6曲なので、あと6曲を新たに書くか、誰かにもらうか、過去に書いてまだ使っていない曲のストックから取って調整する必要がある。
 
2日の夜が徹夜になったので、3日は昼過ぎまで寝ていて、そのあと政子を約束していた、しゃぶしゃぶ屋さんに連れていく。
 
政子は「美味しい美味しい」と言って嬉しそうに食べている。政子のこういう顔を見ると、私も日々頑張っている甲斐があるなと感じてしまう。
 
「これどこの牛のお肉ですか?」
と政子がお店の人に訊いた。
「産地ですか?」
「はい」
「当店の牛肉はメスの松阪牛(まつさかうし)とメスの神戸ビーフでございますが、お客様がお選びになった特選コースは松阪牛でございます」
とお店の人が説明した。
 
「やはり松阪牛(まつさかぎゅう)は美味しいですね!」
と政子が言う。
 
「そうですね。やはり手間暇掛けて育てた牛ですし」
とお店の人。
 
私はお店の人の発音と政子の発音が違うことに気づいて質問した。
 
「まつさかうし、というのが本来ですかね?」
と私は質問した。
 
「はい、それが正式の呼び名になっていますが、まつさかぎゅうでも通じますよ」
「そうだったのか。あ、どちらもメスといいました?」
 
「はい。松坂牛は全てメスです。神戸ビーフにはメスもオスの去勢牛もありますが、当店はメスだけを仕入れています」
 

「松坂牛がみんなメスなら、どうやって子供作るの?」
「但馬牛のメスの子供を買ってきて育てるんですよ」
「ああ、生まれは松阪じゃないのか」
「昔は但馬生まれだけだったのですが、最近は九州生まれの松阪牛も出回っております。しかし当店は但馬生まれの特選クラスのみを買っております」
 
「へー。でもオスは美味しくないの?」
「オスでも去勢牛でしたら、結構美味しいので、神戸ビーフには去勢牛も含まれているのですが、当店では神戸ビーフも契約牧場からメスだけを買っています」
 
「オスは肉が硬くなるんだよ」
と私が政子に説明すると
 
「そっかー。人間も男の人の肉は硬いもんね」
 
と納得している。
 
「やはり可愛い男の娘は早い時期に去勢してあげないと、肉が硬くなるよね」
などと言い出すので
 
「なぜ、そういう話になる。政子の頭の中が分からない」
と私は呆れて言う。お店の人も苦笑していた。
 

その時、唐突に政子が言う。
 
「松阪ってどこだっけ?」
「三重県だよ」
と私が答える。
 
「地図見せて」
 
私がスマホでその付近の地図を表示させる。
 
「あ、伊勢の神宮の近くじゃん」
「まあ近くかな」
 
「よし。お伊勢さんに行こう」
「まあ日本の美を歌うなら、お伊勢さんは行っておく価値があるね。いつ行く?」
「今から」
「え〜〜〜!?」
 

それで私たちはしゃぶしゃぶ屋さんを出ると、そのまま東京駅に行き新幹線に飛び乗る。名古屋で降りて、近鉄で伊勢市に入った。もう日が落ちてしまうので、駅近くのホテルに入り、その日は寝て翌朝からお参りすることにする。
 
翌日。私は政子を午前3時に起こした。
 
「まだ3時じゃーん」
と文句を言うが
 
「天文薄明が始まったよ。お参りに行くよ」
と言って連れ出す。
 
そのまま歩いてまずは外宮(げくう)に参拝する。
 
「あれ?前来た時と場所が違う」
「式年遷宮したから」
「へー」
 
外宮の境内にある各社を回ってから、タクシーで内宮(ないくう)に移動する。内宮の宇治橋の前に着いたのが4:20くらいで、もうかなり空は明るくなってきている。
 
「今日の夜明けは4:08だったからね」
「なんかもう普通に朝の空だよね、これ」
 
内宮の本宮でお参りをする。
 
「こちらもお引っ越ししたの?」
「そうそう。20年に1度引っ越しするんだよ」
「神様も大変だね」
 
そこから荒祭宮の方に行こうとしていた時、空の色が明らかに変わる。
 
「日出だね」
「でも静かで良かった。外宮にしてもここにしても昼間来た時とは雰囲気が違う」
 
「こういう早朝に見せる姿が本当の姿だよ。昼間はガードが堅いから」
「昼間はお化粧していて、今はまだ寝起き?」
「そういう意味ではないと思うけど」
 
細い道を歩いている時、政子が「あっ」と言って、道の端に寄る。
 
「どうしたの?」
「見て見て」
 
「わぁ」
 
そこからちょうど内宮本宮の建物がきれいに見えたのである。
 
私たちは朝日を受けて黄金に輝く内宮の美しさに、しばし見とれていた。
 

内宮を出た後は、おはらい町の方に行き、赤福で一休みする。お土産に赤福を10箱買ってタクシーで駅前に戻る。
 
「もう帰るの?」
「どこか行くの?」
「二見浦の日の出も見たい」
「うーん。だったらもう1泊する?」
「今日はもう日の出は無いの?」
「無茶言わないで」
 
それでホテルで尋ねるともう1泊可能ということだったので滞在を1日延ばすことにする。それでその日は松阪市まで出かけて、本場で松阪牛のステーキを食べたりして過ごした。
 
翌7月5日(火)。
 
この日は二見浦だけなので、朝4時前にホテルを出る。昨日の内に頼んでおいたタクシーで二見浦まで行く。着いたのが4時半くらいである。
 
タクシーには待っていてもらい、ふたりで二見興玉神社にお参りする。そして大勢の参拝客と一緒に夫婦岩近くからの日出を見た。
 
「きれーい」
 
政子は太陽がかなり上の方まで登ってからやっと声を発して言った。
 
「ほんとにきれいだったね」
 

蛙さんのお守りを買ってからタクシーに戻る。
 
「ありがとうございます。宇治山田駅まで行ってもらえますか?」
 
「お客さんたち、東京の人?」
「はい、そうです」
「伊勢神宮にはお参りした」
「ええ。昨日。外宮(げくう)から内宮(ないくう)へとお参りしました」
「お、偉いね。ちゃんとその順番知ってるね」
「はい。外宮にお参りした後、内宮にお参りするルールですよね」
 
「あんたたち瀧原には行った?」
「あ、行ってないです」
と私が答えると、政子が
「そこ何だっけ?」
と訊く。
 
「元々お伊勢さんがあった場所かもと言われている所。すごくきれいな所だよ。朝の内は」
と私が言うと、政子が行きたーいと言う。
 

本当はそこで見る朝日もいいんですけどね、とは言いつつ、タクシーは予定を変更して瀧原宮・瀧原竝宮(たきはらのみや・たきはらのならびのみや)まで行く。
 
内心はここまで来るのならレンタカー借りるべきだったなと思ったが、運転手さんは、今日は貸し切りということにしませんか?と提案。私もそれを了承して、この日は3万円で回ってくれることになり、メーターは起こしてしまう。私がその場で3万円を渡すと、喜んでいた。
 
瀧原の入口の所にある道の駅でタクシーを駐めると、運転手さん自らが案内して中に入る。
 
「凄い。ここ好きかも」
「なんかみずみずしいね。ここ」
 
「気持ちいい所でしょう?」
と運転手さんも言っている。
 
「確かにここも日出前に来たかったかも」
と政子。
 
「でも内宮と違ってここは日が高くなっても大きくは雰囲気変わらないみたい」
と私。
 
「やはり来る人が内宮ほど多くはないからですよ。ここは知る人ぞ知るスポットですからね」
と運転手さん。
 
「やはりこういう本当に美しいものを次世代に残していきたいですね」
と私。
 
「まさにその通りですよ。あなたたち歌い手さんなの?だったらぜひこの美しさを歌ってください」
「ええ。歌いたいです」
 
私たちは道の駅に戻ってから、その日見た二見浦での日の出の感動からここ瀧原での、まさに「やまとの心」のようなものに触れて得た感動を詩や曲にしていった。
 

貸し切りにしたら運転手さんは張り切って、更に知る人ぞ知るスポットというので、私たちを瀧原より更に先の伊雑宮(いざわのみや)まで連れて行ってくれた。
 
「だいぶ来たね。今どのあたり?」
と政子が言うので地図を見せると
 
「もう鳥羽の近くじゃん!」
と言う。
 
「うーん。まあ近くかもね」
「だったら鳥羽水族館に行って帰ろう」
 
と言うので、結局鳥羽市内のホテルを予約し、そこまでタクシーで連れて行ってもらった。
 

7月6日(水)。
 
私たちは朝から鳥羽水族館に行き、のんびりとお魚たちを見てまわって14時頃鳥羽駅に移動する。そして近鉄と新幹線を乗り継いで、19時頃、東京駅に戻ってきた。
 
昨日は晴れていておかげで二見浦の朝日を見ることができたのだが、今日は朝からぐずついた天気である。東京駅に着く頃には小雨が降り出していた。
 
政子が「お腹が空いた。お寿司食べたい」というので、駅構内で傘を買って歩いて近くの政子のお気に入りの店まで歩いていき、取り敢えず晩ご飯にする。そして21時過ぎにお店を出て、マンションに帰ろうというので駅に戻りかけたところで、車のクラクションを聞く。
 
「千里!?」
 
千里の赤いアテンザが停まって助手席から千里が顔を出している。運転席には千里担当ドライバーの矢鳴さんが座っている。
 
「どこか行くの?」
「マンションに戻る所」
「じゃ送っていくよ。乗って乗って」
 
それで私は政子に乗るように行って先に乗せてから、私も一緒にアテンザ・ワゴンの後部座席に乗り込んだ。
 

「ごめん。傘で車内が濡れちゃうけど」
「平気平気。そんなの全然気にしない」
 
「でも合宿やってたんじゃなかったんだっけ?」
「ちょっと出てきた。山森水絵の件、先日はありがとう。助かった」
「まあお互い様で」
 
「でも今日は私自身が行かないとどうにもならない件があって、ちょっと外出してきたんだよ」
 
「大変だね!」
「こちらは昨日、壮行試合の第1試合を川崎でやって、次は明後日小田原なんだよね。もちろんその間ずっと北区で合宿やってるんだけど、今日は早めに練習が終わったから、それで外出許可取って矢鳴さんに来てもらって。今行って用事を済ませてきた所。冬たちを送ったらまた合宿所に戻る」
 
「ほんとに大変だね!そんなに忙しいのに送ってもらってよかったの?」
「今日は4時で練習終わりだったからね。恵比寿は行く途中だし」
「うーん北区なら、うちのマンションとは逆方向の気もするけど」
 
北区のナショナルトレーニングセンターは東京駅の北にあるが、恵比寿は東京駅から南西にある。
 
「まあちょっとドライブということで」
 

「だけど、千里。だったら全然家に帰ってないのでは?」
と私は訊く。
 
「6月16日以来戻ってない。まあこういう長期間の不在は去年もユニバーシアードに続けてのアジア選手権でやってるけどね。桃香がまた食料ストック尽きた。カップ麺飽きたと連絡してきたから、都内にいる友達に頼んで、野菜とかお肉とかをどーんと持っていってもらった」
 
「わっ。大変だ」
 
「きっと桃香はお肉のパックをそのままレンジでチンして、キャベツには丸ごとかぶり付いている気がする」
と政子。
 
「ありそうだ」
と私も言う。
 
「この後、壮行試合が終わったら一度家に帰られる。でも7月14日からまた合宿に入ってあとはオリンピックが終わる8月20日すぎまで帰られない」
 
「ほんとにお疲れ様」
 
「私は醍醐先生が南米に行っておられる間、2週間のお休みを頂くことになっています」
と矢鳴さんが言っている。
 
「そういう時に休まないとですね。醍醐は移動距離がハンパ無いから」
 

「そういえば男子の方は苦しい展開になってるね」
と私は言った。
 
バスケットの男子はセルビアのベオグラードで開かれている世界最終予選に出ているのだが、7月4日夕方(日本時間5日早朝)に行われた第一戦でラトビアに敗れてしまい、重苦しいスタートとなった。
 
この大会は6ヶ国が参加しており、3国ずつの予選で1〜2位になったチームが決勝トーナメントに進出する。その決勝トーナメントで優勝すればオリンピックに出場できる。
 
しかし日本はグループBの第一戦で負けてしまったので、次の試合(7月6日)で勝って、予選2位で決勝トーナメントに行く道を目指すしかない。ただし2位で通過した場合、初戦の相手はグループA・1位の国ということになり、かなりきつい。
 
「貴司と話したけど、チームは気合い入りまくりみたい。まあ次の試合で勝てばオリンピックに行ける可能性あるからね」
と千里は言う。
 
「それにオリンピックに行けたらセックスさせてあげると言っているから、頑張るでしょう」
 
「ははは」
 

そんな話をしながら赤坂付近まで来た時、
 
「美里さん。ちょっと停めて」
と千里が言うので、矢鳴さんは車を脇に寄せて停める。
 
「淳!」
と千里が窓を開けて呼ぶ。
 
見ると淳が街路樹の下で雨宿りしている。が、街路樹なのであまり効果は無く、結構濡れている。
 
彼女が寄ってくる。私はドアを開けてから後部座席の中央に移動する。淳がそこに乗り込んでくる。
 
「ごめん。助かった。出る時は降ってなかったのに、客先を出たら降ってて。小降りになったらどこかコンビニまででも走ろうと思ってた。でも座席を濡らしちゃう」
 
「平気平気。どこに行くの? 送るよ」
と千里が言う。車はまだ停まったままでハザードランプを点けている。
 
「うん。実は子供が生まれそうで」
「ほんとに!?」
 
「客先で打ち合わせしてて、今夜は徹夜かなとか思っていたんだけど、和実から会社に連絡があって、会社から打ち合わせしていた客先に連絡が入って。私、打ち合わせ中はスマホの電源落としてるから。でもそれなら行ってあげてと客先の担当者さんも言うんで出てきた。でも雨が降っているのには気づかなかった」
 
都会で暮らしていると、しばしば天候に無頓着になりがちである。
 
「どこだっけ?仙台だった?」
「うん。だから東京駅まで送ってもらえば」
と淳は言ったのだが、矢鳴さんが
「今からでは仙台行きの最終に間に合いませんよ」
と言う。
 
今21:32である。仙台行き最終は確認すると21:44。微妙に間に合わない。
 
「じゃ、このまま仙台に走ろうよ」
と千里が言う。
 
「美里さん、ケイたちを恵比寿でおろしてから、仙台まで行ってもらえませんか?」
「いいですよ」
と矢鳴さんは答えたが
 
「私も赤ちゃんに会いに行く!」
と政子が言うので
 
「じゃこのまま5人で仙台まで行こうか」
ということになってしまった。
 

そのまま近くの入口から首都高に乗り、中央環状線から川口線、そして川口JCTから東北自動車道に進む。
 
淳に、雨に濡れているのは着替えた方がいいよと言って、東北道の最初のSAで私の着替えを貸して着替えさせた。
 
「仙台まで3時間くらい掛かりますので、皆さん寝ておられた方がいいです」
と矢鳴さんが言うので、遠慮無く寝せてもらった。
 

私は2時間くらい眠ったようだ。目を覚ますと千里が運転していて矢鳴さんは助手席で仮眠しているようだ。
 
「千里、合宿で疲れているだろうに、大丈夫?」
「平気平気。気分転換にもなるしね。それにここからは市内に降りるから、道を知っている人しかたどり着けないと思う」
 
「千里はその病院に行ったことあるの?」
「ううん。初めて。でも私、めったに道に迷うことないよ」
「そんなこと言ってたね!」
 

やがて千里の運転する車は高速を降りて仙台市内の道路を走る。私はこの付近にゲリラライブで来ていた頃のことを思い出していた。
 
そしてやがて車は小さな病院の駐車場に駐まった。
 
「着いたよ」
という声で、政子と淳が起きる。ふたりとも熟睡していたようである。
 
「あ、ごめん。道案内するつもりが完璧に寝てた」
と淳が謝っていた。
 
車内で仮眠しているという矢鳴さんを置いて4人で車を降りて病院内に入る。和実が廊下のソファに座っていた。
 
「お疲れ。動きがあったら呼ばれると思う」
 

到着したのが7月7日の午前2時半頃であった。
 
私たちは半分まどろみながら待っていた。
 
明け方4時過ぎ、そろそろ来ますよという声で和実が分娩室に入る。淳も入ろうとしたものの「男の方は遠慮して下さい」と看護師さんから言われて、中に入れなかった! スカート穿いてるのに。
 
そして4:20。代理母さんが女の子を出産した。
 
後で確認するとジャスト日の出の時刻であった。
 
産声を聞いて私と政子は手を取り合って喜んだ。淳は何だかおろおろしていた。
 
しばらく待つ内に赤ちゃんを乗せたベッド、そしてストレッチャーに乗せられた代理母さん、それにお医者さんや和実たちが出てきた。病室に移動する。
 
「和実、赤ちゃん抱いた?」
「最初に抱かせてもらった」
「良かったね」
 
淳は病室に移動してからやっと赤ちゃんを抱かせてもらった。
 
「男の子?女の子?」
「女の子だよ」
「だったら和実に似て美人に育つかな」
 
「でも残念だ。男の子なら性転換しようと思っていたのに」
などと和実は言っている。この子もどこまで冗談でどこから本気かどうもよく分からない。
 
「名前はどうするの?」
「それはふたりでもう決めてたんだ。『のぞみ』という名前。希望美」
 
淳がその子の名前を書いた紙を取り出して私たちに見せてくれた。
 
「これ、希だけでも望だけでも『のぞみ』と読める気がする」
「そのあたりは愛嬌で」
 
と和実は言っていた。
 

私と政子に千里の3人は朝1番の新幹線で東京に戻った。矢鳴さんは夜通し東北道を走っているので休ませることにしてアテンザは午後から回送してもらう。代わりに佐良さんに大宮駅(7:50着)まで迎えに来てもらい、千里を北区の味の素ナショナルトレーニングセンターに置いてから、私たちはマンションに帰還することにした。
 
「和実が言ってたね。自分の遺伝子を受け継ぐ子供ができたってのが、なんか凄く不思議な気分だって」
 
「ああ、それはこないだ、あきらさんも言っていたなあ」
 
「希望美ちゃんは間違い無く、和実の遺伝子を引き継いでいるの?」
 
「念のためDNA鑑定はすると言っていた。もし自分の遺伝子が無かったとしてもそれは構わない。自分の精神的な遺伝子は受け継いでいるはずだしと和実は言っていた」
 
「精子は淳さんの精子を使っている以上、淳さんの遺伝子は継いでいるだろうけど、正直あの卵子は科学的には出所を説明できないからなあ」
と千里は言う。
 
「そのあたりの経緯聞いたけど、さっぱり分からない」
と私は言う。
 
「でも私たちって性別を変更する代償として生殖能力を放棄しているから、本当に和実の遺伝子を継いでいたら、やはり奇跡だろうね。和実は小学生の頃に自分の身体を男性的には発達させないと決めた段階で、子供のことは諦めていたろうからね」
と千里。
 
「やはり和実って小学生の頃からホルモンやってたの?」
と政子が訊く。
 
「私はそう想像しているけど。それか密かに去勢していたか。あの子、身体の骨格が全く男性化してないもん」
と千里は言う。
 
「あの子、何か隠してるよなあ。淳さんでさえ、和実の男性器は1度も見ていないらしいし」
と私も言う。
 
「それはやはり、淳さんに出会った時点で、既に男性器は存在しなかったんだよ」
と政子はワクワクした目で言う。
 
「淳さんも2〜3年以内には仙台か石巻に移住して、あの子たちはあちらで暮らすようになるんだろうね」
と千里、
 
「和実は元々盛岡だし、淳さんも親戚が東北にたくさん居て、気分的にも楽だと思うよ。みんな東京に出てくるけど、東京って便利だけど消耗も激しいもん」
と私。
 

「でもバスケの男子は残念だったね」
と私は言った。
 
ちょうど私たちが仙台駅で新幹線を待っていた頃、バスケ男子日本代表が世界最終予選の予選ラウンド第2戦で敗戦し、決勝トーナメントに進出できないことになったという報が入って来た(ベオグラードまで試合を見に行っていた千里の友人から千里へのメッセージで知った。JBAのfacebookへの書き込みより早かった)。試合終了時刻は現地の7.6 22:45、日本時刻で7.7 5:45であった。
 
「まあこれであいつもあと4年くらいはセックスができないこと確定」
と千里は言う。
 
「4年後にセックスするの?」
と政子が訊くと
 
「4年後は東京で開催されるから、日本は開催国枠で無条件に出場できる。だから、その時に日本代表にあいつが選ばれたらセックスさせてあげるよ」
 
「彼がその時点で奥さんと結婚していても?」
 
「さすがに別れてると思うけどなあ。あいつがそもそも普通の女性と結婚を維持できる訳が無いんだよね。あの浮気にはたいてい我慢できないと思う。毎年4〜5回浮気されたら、ふつう切れるよ。もっとも、私の方が別の男と結婚してたりしてね」
 
「千里が他の人と結婚しててもセックスさせてあげるの?」
「まあ1回くらいは構わないんじゃない?」
 
政子は「ほほぉ」と言ったが、私は千里の道徳概念も崩壊しているなと思った。
 
「でも貴司さん、ずっと実業団にいるんでしょう?日本代表に選ばれるほどの選手なのに。プロにはならないの?」
と私は訊く。
 
「それ私も言っているんだよ。貴司は実業団やめて、思い切ってプロリーグに移籍すべきだと思うんだけどね。根性無いね」
と千里が言うと、政子が
 
「アクアは思い切って性転換すべきだと思うんだけどね。根性無いね」
などと言っていた。
 

千里をNTCで降ろした後マンションに戻ったら若葉が来ていた。
 
「お帰り〜。勝手に入って1晩泊めさせてもらってた」
「うん。自由に入っていいよ」
「御飯も適当に食材もらって作って食べてたけど」
「うん。そのあたりも適当に」
「あ、鍋の中に焼きそばの残りが」
と若葉が言うと
「食べる!」
と政子が言って、美味しそうに食べていた。
 
「昨夜はメイド時代の友達と会ってる内に遅くなったんだよね」
と若葉。
 
「そうだ。若葉にも言わなくちゃ。和実の所、今朝赤ちゃん産まれたんだよ」
 
「おお!凄い。電話しよう」
 
と言って若葉は和実に電話しておめでとうを言っていた。
 

「でも、しばらく籠もっていたから久しぶりの外出」
と若葉は電話を切ってから言った。
 
「仕事忙しかった?」
 
「例のレストランのプロジェクトは冬に紹介してもらった前山さんを中心に進めている。今良さそうな場所を探している所」
 
「予算がふんだんにあるから、妥協せずに良い場所を見つけられるかもね」
 
「うん。まあそれで私妊娠した」
 
「おめでとう。例の人工授精ね」
「うん。6月18日に人工授精した。まあその日記念にセックスもしたけどね」
「面白いことするねー」
 
「今の所順調。明後日で5週目に入る」
 
「それ人工的に投入した精子で受精したか、セックスで放出された精子が受精したか分からないよね」
 
「私は人工授精で妊娠したんだと信じてるけどね」
「ふーん」
「でも彼はセックスの方が有効かもと言っていた」
「まあお互い好きなように信じていればいいんじゃない?」
 
「名前も決めたよ」
「早いね!」
 
「若竹(なおたけ)というの」
と言って若葉は字を書いてみせる。
 
「また読めない名前を」
 
「自分の名前から1文字取るんだ?」
「こないだは冬から1文字もらったからね」
 
若葉の長女の名前は「冬葉(かずは)」である。
 
「もうひとり作って、その子の名前は政子から1文字取るから」
 
「まあいいけど」
と政子も言う。
 
「この若いという字を『なお』と読むの、どこかで見たことあると思って考えてたんだけど《なよたけのかぐや姫》がこの字だよね」
 
と政子は言って《若竹の赫夜姫》と書いてみせた。
 
「それを知っているのはさすが政子だね」
と若葉が言っている。
 
「なよたけのかぐやひめって、そういう字だったのか!」
と私は驚いた。
 
「予定日は3月11日。その日にレストラン・ムーランを開店させようかな」
「いいんじゃない?そのくらいまでには準備できるでしょう」
 
「建築間に合うの?まだ場所も決めてないんでしょ?」
と政子が心配する。
 
「どこか空き地に建てといて、当日トレーラーで運んでいってポンと置いてもいいかも」
 
「若葉の財力なら、それもできるかもね。でも保健所の検査もあるから数日前には設置する必要があるよ」
 
「面倒くさいなあ」
「法務関係は誰か専門家にさせた方がいい。飲食店開業って、結構面倒な問題があるから」
「じゃ、うちの顧問弁護士さんに誰か若い人を紹介してもらおうかな」
 
「スタッフはどうするの?」
「前山さんは店長兼フロア主任ということで、料理人さんたちは前山さんの人脈で2人確保できそうだから、後は募集で。フロア係は男の娘を募集しようかなあ」
 
「それレストランのコンセプトが変わってしまう気がする」
 
「そうかな。でもなんか普通のレストランにはしたくないんだよね」
「まあ個性は必要だろうけどね」
 
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