【夏の日の想い出・若葉の頃】(3)

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私たちはその後であらためて北川さんのお見舞いに行ったのだが、滝口さんに胃癌が見つかったというのに驚いていた。
 
「これって制作部のスタッフ全員強制的に健診を受けさせるべきかも」
と真っ暗な病室の中で北川さんは言う。
 
「そういう話になるかもですね。サボってる人多いでしょ?」
 
「うん。私もだいぶサボってたし、南君は今年も何とか逃げようとしてこないだから森元課長に何度も叱られてるよ」
「ああ。あの人は1週間くらい休ませた方がいいです」
 
「八雲君はセクシャリティの問題で受診したくないみたいだし」
「うーん。今更だと思いますけど」
「ね? もういいかげん女性社員になっちゃいなよと唆すんだけどね」
 
などと私と北川さんが話していると、八雲さんの性別問題を知らない政子が訊く。
 
「こないだから、何人かに八雲さんのこと訊くんだけど、誰も教えてくれない。八雲さんって男なの?女なの?」
 
「それが本人にも分からないみたいで」
と私が答えると
 
「え〜〜〜!?」
と言っていた。
 

北川さんは早々にPDT(光線力学療法)のレーザー照射が終わって光過敏な状態からの回復をひたすら待っている状態なので、暇をもてあましていたようで、私たちと3時間ほど話していた。
 
そろそろマリにご飯食べさせないといけないから失礼しますね、と言って18時頃病室を出る。それでエレベータで1階まで降りたら、そこに村上専務がいるのでびっくりする。
 
「ちょっと話せる?」
「はい」
 

それで私たちは村上専務のおごりで、都内の料亭に行くことになった。
 
ここは今まで来たことのないお店である。どうも社内でも松前・町添系と村上系では、こういうのに使うお店まで区分けされていたようだ。
 
取り敢えずマリは美味しいご飯が食べられてニコニコである。
 
「君たちが北川君のお見舞いをしていた間に、滝口君の検査をずっとやってて。彼女が取り敢えず当面仕事はさせられない感じで、組織もいったん見直す必要が出来てきたんだけど、実は製品開発室の中に、滝口君に代われそうな人材が居なくて困ってしまって」
 
滝口さんは自分の意見に反対されるのがあまり好きではない。それで正直彼女から「相談」を持ちかけられても悩んでしまったのだが、そういう性格だからどうしてもYESマンが周囲には多くなるだろう。KARIONの現在の担当の土居さんなどは、滝口派の中でも正面切って意見が言えるレアな存在である。
 
と思っていたら、村上さんからその土居さんの名前があがる。
 
「実は土居君をこちらに一時的にでも借りられないかと町添君に打診してみたのだけど、今彼女にKARIONから外れられるのは困ると言われて」
 
「KARIONはバックバンドのリーダーが脱退して少なからぬ動揺が起きていたので、担当者まで交代されると本当に困ります」
 
「みたいだね。辞めたバンドリーダーの相田君だったっけ? 彼がこれまでKARIONの楽曲を全て書いてきた水沢歌月の正体なんでしょ?なんでも性転換手術を受けるために辞めたんだって?」
 
私はどこをどう間違えばそういう話になるんだ?と悩んだ。マリは笑いをこらえるのに必死なようである。さすがにマリもここで笑ってはいけないと感じたようだ。
 
しかしこれだと、村上専務はもしかしたらケイ=蘭子を知らない人のひとりかも、という気がした。
 

「それで町添君も病院まで来てくれてね。さっきまで病院近くのレストランでふたりきりで腹を割って話し合ってたんだよ」
と村上専務が言う。
 
私は驚いた。わずか3時間の間にそれだけのことが起きていたとは。町添さんも本当にフットワークがいい。しかし今の時期に村上さんと町添さんが腹を割って話す機会ができたのは、もしかしたら良いことかもと私は思った。
 
「それで、今回のオーディションは制作部の方に引き取ってもらうことにした。これまで多数の新人をブレイクさせている、八雲礼江さんって女性担当さんがいるらしいね。なんでも作詞家の八雲春朗さんの双子の妹なんだって?」
 
マリの目がキラキラ輝いている。ワクワクテカテカという表情だ。私は村上専務って、情報を正しくキャッチできない性格なのではという気がしてきた。
 
「八雲さんは優秀ですよ。丸山アイも彼女のおかげでブレイクしましたし、ステラジオも丸口美虹も八雲さんが売り出したんですよ」
と私は言う。
 
「おお、それは凄い」
 
「ただ八雲君も来月くらいまでは抱えているアーティストの制作とかで時間が取れないらしくて。だから今回のオーディションには関われないということらしいんだよね」
 
「なるほど」
「だから八雲君には夏に始める第2弾のオーディションから担当してもらうことにした。しかし、今回のオーディションの合格者を来週には発表しなければならない」
 

私はやっと村上さんが私たちをここに誘った理由が分かった。
 
そういうことか!
 
「もしかしてその合格者を私に選んでくれとか?」
「実はそうなんだよ。優秀な子が3人いるということで、一応彼女からMP3は預かっているのだけど」
 
「でも滝口さんは数人のアーティストに聞いてみるとかおっしゃってましたが」
「ケイ君以外に聞くつもりは無かったと思う。何人かに聞くと言ったのは方便だと思うよ。彼女が人脈を持っているアーティストの中でケイちゃんに並ぶほどの人は居ない」
 
確かに滝口さんが売り出した歌手はほとんどがアイドル歌手で大半がもう引退しているか、タレントなどに転向して歌は歌っていない。
 
「彼女たちのビデオありますか?」
「すぐ持って来させる!」
 
それで村上さんは滝口さんの部下の人に電話して、ビデオを持って来させることにした。
 
それまでの間、私たちは別口の話をする。
 

「まあそれでここだけの話だけど、取り敢えず製品開発室はいったん解散させることにした」
 
「あら」
 
「それがオーディションを制作部で引き受ける条件だと町添君が頑張ってね。まあ僕も滝口君という存在があっての製品開発室だったんで、彼女が休んでいるのでは、どうにもならない。ここはいったん撤退することにした。正式には6月末で解散する」
 
「なるほどですね。現在居るスタッフはどうするんですか?」
 
「この4月に他の部署から異動してきた12人は原則として元の部署に戻す。新人として採用した8人は制作部の方で引き受けてもらう」
 
その8人の新人というのは助かると私は思った。今北川さんのダウンで制作部もかなり人手が足りない。単純なお使いとか文書作成とかでもしてくれる人がいると南さんや氷川さんたちが助かるはずだ。
 
「残りの10人については、半分は大阪支店の矢掛君の所に異動させる」
「ああ」
 
矢掛さんは先日の騒動で辞任した元MMレコード・オーナーの孫である無藤鴻勝営業部長の後任として大阪支店に転任した。彼も自分の手駒がいると助かるだろう。
 
「残りの5人は僕直属の戦略的音楽開発室を復活させてそこに置くよ」
「まあ解雇されなければいいでしょう」
 
「解雇しなくても、うちはブラック企業だから、自然と辞めていくけどね」
「まあ確かにこの業界はどこもブラックですね〜」
 

村上専務とは、最近の集団アイドルの話などを随分した。村上さんはCDのおまけで売り上げを伸ばす手法に興味を持っているようであったが、私はそういう手法は好きではないとハッキリ言った。
 
「私も方便でこういう言い方をしますけど、ファンは金の卵を産む鶏ですよ。ファンを消耗させてはいけないんです。彼らの心が豊かになるような製品を作っていくべきだと私は思いますけどね」
 
「うん。実は佐田も似たようなことを言っていた」
と村上さんは答えて、頷いている。
 
佐田さんは現在常務でMMレコード系の村上さんと並ぶ中心人物である。実際両者は★★レコードの創業者グループと対抗する時はまとまるものの、内面的には村上系と佐田系はあまり仲が良くないという噂もあるようだ。例の大騒動になった問題の宴会は、両者が団結しようということで催した宴会だったようであるが、ハメを外しすぎて写真が流出したことから、様々な怨恨を産むことになり、結果的に両者の溝は深まってしまったようである(音羽の話では)。
 
「まあそれで実は今回のオーディションに関する指揮は、八雲君に引き継ぐまで佐田が直接担当することにした」
 
「佐田さんもお忙しいでしょうに!」
 
「なにせテレビ局と共同でやっているプロジェクトだから、適当なことはできなくてね」
「大変ですね」
 
「大変ではあるけど、僕としては滝口を失う訳にはいかないから、彼女には治療に専念してもらった上で、オーディションも何とか乗り切る必要がある。テレビ局との関係を考えると、僕か佐田か町添君の誰かが直接指揮するしかないと思う。しかし町添君は多忙すぎるし、僕は音楽に対するセンスが欠如しているから」
 
村上さんも自分のセンスは把握しているんだなと思う。
 
しかし、『恋のブザービーター』のトラブルの時は、滝口さんを切り捨てるつもりだったようなのに、よく言うなあ。まあでも部下を大事にするのは良いことだよね?と私は思った。
 

そんなことも話している内に滝口さんの部下の明智さんという女性がビデオを持って来てくれた。彼女とは滝口さんがKARIONの担当をしていた時にも何度か会ったことがあるので、彼女は私を見てすぐに会釈した。こちらも会釈を返す。おそらく滝口さんの昔からの関係者なのだろう。
 
「彼女には復活する戦略的音楽開発室の室長になってもらうつもり」
と村上さんが言うと
 
「え?そうなんですか?」
と明智さん本人が驚いている。おそらく急な事態が起きて、しかも短期間に態勢を立て直す必要があるので、村上さんも今考えながら動いているのだろう。
 
「彼女は合宿にも参加していたんですよ。もし個々の子についての質問とかあったら彼女に聞いて下さい」
と村上さんは言う。
 
それでビデオを見る。現在滝口さんたちが有力候補としていたのは、波歌ちゃんという高校2年生、優羽ちゃんという高校1年生、そして八島ちゃんという中学3年生である。
 
ちなみに読み方は波歌が「しれん」、優羽が「ことり」、八島は「やまと」で、全く読めない!!
 
どうも村上さんはこのビデオも歌も初めて見聞きしたようである。彼としても突然の滝口さんの戦線離脱で、かなり焦っているのだろう。
 

ビデオを見てから私は頷くようにした。
 
「私の結論としては」
「うん」
 
「全員不合格ですね」
「え〜〜〜〜!?」
 
「これ3人の内の誰を合格させても半年で潰れますよ」
「うーん・・・・」
 
「その代わりですね。この3人をセットにして売る手があると思います」
「ほほぉ」
 
明智さんが頷いている所を見ると、おそらく、いっそまとめ売りしてはという意見も出ていたのだろう。
 
「しかしそれいいかも知れないね。全員不合格と最初に言った上で、落選者の中から3人ピックアップしてユニットを作りますと持って行くのはテレビ番組の演出としてありだよ」
と村上さんも言う。
 
「ですよね。それでこの3人をセットにするなら、最年少の八島(やまと)ちゃんがメインボーカルの方がいいです」
 
「そう? 波歌(しれん)ちゃんの方がうまくない?」
「歌自体はそうですけど、音だけ聴いた時に微妙な違和感があったんですよ。それでビデオを見せていただいたのですが、波歌(しれん)ちゃんの歌って、音程やリズムが正確ではあるんですが、個性に乏しいんです。むしろコーラス隊として優秀なんです」
 
「あぁ。。。」
 
「花があるのは八島(やまと)ちゃんだと思います。それに、この手の歌唱グループって、フィンガー5しかり、SPEEDしかりで、わりと最年少の子を中心に据えた方がうまく行きますよ。それで最年長の波歌(しれん)ちゃんはリーダーに任命すればいいんですよ」
 
「その手があるか!」
 

ここで明智さんが発言する。
 
「実は滝口などとも、そのあたりの個性の違いを話していたんですよ。歌は間違いなく波歌(しれん)ちゃんがうまい。でも花が無い。八島(やまと)ちゃんは歌唱力はまだまだなんだけど、アイドル性はいちばんあるのではないかと。優羽(ことり)ちゃんを推す人は彼女がアットホームだから親しみやすいのではという意見でした」
 
「たぶん彼女は温和な性格だと思います。ですから、歌のうまいリーダーの波歌(しれん)ちゃん、歌はまだまだだけどカリスマ性を持つメインボーカルの八島(やまと)ちゃん、そして調整役の優羽(ことり)ちゃんという構図にすればいいんですよ。優羽(ことり)ちゃん無しで、波歌(しれん)ちゃんと八島(やまと)ちゃんのデュオで売る手もありますが、たぶん1年以内に衝突して分裂します」
 
「女の子同士の感情的な対立って難しいよね」
と村上さんが言う。
 
「それ女の子を25年やってても苦労してます」
と私は答えた。
 

村上さんとの長い会談を終えて、深夜近くに帰宅する。
 
するとマンションに若葉が来ていた。
 
「あれ?鍵持ってたっけ?」
「こないだ奈緒と一緒に来たとき、冬たちが先に出かけたから、私が持って帰った」
「あっそうだったっけ」
「取り敢えず、鍵返しておくね」
「あ、いや。若葉なら鍵持っててもいいよ」
「うーん。じゃ預かっておこう」
 
と言って若葉は鍵を自分のバッグにしまう。COCO Milanoのバッグである。きわめて庶民的なブランドだ。1億や2億を簡単に動かせる人が高級ブランドの服やバッグを身につけている所をめったに見ない。本当のお金持ちってこうなのかも知れないと私は思う。彼女がメイドカフェに勤めていた時期も、彼女をお金持ちのお嬢様と知っている人は皆無であった。
 
若葉が持ち込んできたモエ・エ・シャンドンのシャンパンを開けて飲む。
 
「これ美味しいね!」
「こないだ千里ちゃんに教えてもらった」
「へー」
「あの子、ワインとかシャンパンに詳しいみたい」
「あれはどうも大学生の頃から、随分雨宮先生に連れ回されて覚えたみたいなんだよ」
「なるほどなるほど」
 
「でもこのシャンパンは彼女の大のお気に入りで、彼氏とデートする時、いつもこのシャンパンで乾杯するんだって」
「おお、その話は詳しく聞きたい」
と政子が興味津々の様子である。
 

「私と彼がさ、初めて出会った時、実は千里ちゃんの試合やってたんだよ」
と若葉は凄く嬉しそうな顔をして言った。
 
「へ?」
 
「あの日は年末近くで、私最初冬の家に遊びに来ててさ。ふたりで一緒に一汗ながしてから裸で抱き合っている時に、ウィンターカップやってるのに気づいて見に出掛けたのよね」
 
「ちょっと待って。私、そんなことした覚えないけど」
「ふふふ。そうだね。私と冬は結合まではしてないから」
「そのあたりを詳しく」
 
「まあそれでウィンターカップ見に行った時に、ちょうど試合やってたのが千里ちゃんたちで。その会場で私はデート中の吉博と遭遇したんだよ」
 
「複雑だね」
「ちなみに吉博は和実の元思い人だよ」
「へー!」
「和実は吉博に告白したけど、彼女がいるからと言って断られて和実は失恋した」
「色々絡み合っているね」
 
「その吉博の彼女が震災で亡くなっちゃったんだよ」
「そんな経緯が・・・」
 
「吉博は彼女を失ったショックが大きすぎて、自分はもう結婚しないと思っていたらしい」
「うん」
 
「でも私、今日とうとう吉博と寝ちゃった」
「ほぉ」
 
「子供も作る約束した」
「まあ、いいんじゃない。もう震災から5年だもん」
「でも私も結婚はしないけどね」
「すればいいのに」
 
これはおそらく若葉にとって初めての恋愛である。これまで彼女は何度も「恋愛に挑戦」してきた。冬葉の父親ともセックスまではしたようだが、恋愛ではなく単に「種」が欲しかっただけという感じであった。
 
「赤ちゃんは産むけど、結婚はしないの?」
「そうそう。同棲もしない。認知もしないでくれと言ってる」
「してもらえばいいのに!」
「男の人とそういう面倒な関係を作りたくないのよねー。やはり私は基本が男性恐怖症だし」
 
「でも寝られたんだ?」
「うん。やっちゃった」
「若葉にしては十分進歩していると思うよ」
「えへへ。褒めて褒めて」
「うん。頑張ってるね」
 
「もうベッドに寝てさ。目をつぶって。好きにしてと言ったら好きにしてくれた」
「逃げ出さずにちゃんとできたのは偉い」
「えへへ」
 
「取り敢えず来月人工授精することにした」
「セックスして妊娠する訳じゃ無いの?」
「セックスするのは、今更だから別にかまわないし、妊娠ももう2度目だからかまわないけど、セックスで妊娠するのは嫌だ。だからセックスの時は避妊具付けてもらってる」
 
「まあいいんじゃない」
 
「冬とした時も、冬には避妊具つけてもらったもんね」
「そこのところ詳しく」
「ちょっと待って。私、本当に若葉とはそこまでしてないって」
「車の中でした昆布巻きも興奮したね」
「もっと詳しく」
「それ若葉が誘惑したけど、私は断ったじゃん」
「ひどいわ、ひどいわ。私を傷物にしておいて」
「ふむふむ」
「無実だぁ!」
 
「まあ実際には高校時代、私が冬を誘惑して無理矢理服を脱がせてみたら、冬にはもうおちんちんが付いてなかったからセックスできなかったんだけどね」
と若葉は言う。
 
「やはり、当時既に手術済みであったか」
「おっぱいもかなり大きかったよ」
「やはりそうであったか」
 
「もういいや」
と私はサジを投げた。
 

翌日の7日は、さいたま市内に引っ越してきた田中美子・蘭親子に会ってきた。
 
「なんか色々親切にしてもらって。申し訳なくて」
「熊本のマンションの方の荷物はどうなったんですか?」
「マンションを管理している建築会社で元自衛隊員とかのチームを組んで荷物の大半を崩れかけたマンションから取り出してくれたんですよ」
「それは凄い」
 
「ただ冷蔵庫とか洗濯機みたいな大物は諦めてくれと言われました。高価なピアノとか持っていた家も、そんな重たいものを運び出すのは無理だから金銭で保障するから諦めてくれと言われてました」
「まあ仕方ないですね。小物の荷物を取り出すだけでも、半ば命掛けだったと思いますよ」
 
「それで着替えとか食器とかは取り出してもらったのをこちらに送ってもらうことにしたんですよ。パソコンはハードディスクを取り出してもらって、それを送ってもらうことになりました。その中にこの子の小さい時からの写真とかが入っているから、それが失われなくて済んでほっとしました」
 
「それは良かった」
 
「仕事の方は向こうの会社は退職することにして承諾を得て。ただ退職金は少し待ってくれと言われています」
「まあ今は厳しいですよね」
 
「それで加藤次長に紹介していただいた会社の面接受けてきて、採用が決まりました」
「良かった良かった」
 
「この子も東京のスクールでレッスンを受けるということで。でも競争が厳しいんじゃないかと心配ですが」
と母親は心配するものの
 
「私はそれだけ鍛えられるだろうからいいと思っているんですけどね」
と本人は言っていた。
 
「まあ福岡よりは厳しいかも知れませんね」
 

翌週、ΨΨテレビのオーディション番組で、第1回女性アイドル・オーディションの優勝者が発表された。
 
最初司会のデンチューが
「合格者はありません。全員落選です」
と言うと、スタジオに集まっている観客から
 
「え〜〜!?」
という声が出る(台本)。
 
思い思いの衣装で並んでいた12人の最終予選進出者たちもお互いに顔を見合わせている。
 
「そういう訳で皆さん退場してください」
と言われて12人はスタジオから出て行った。
 
全員退出したところでアシスタントの金墨円香が
 
「しかしここで重大発表があります」
と発言する。
 
「何があるの?」
とデンチューの2人が言うと
 
「詳細はCMの後で」
と円香は笑顔で言った。
 

CMの後、カメラが落選してスタジオから退出し、そのまま解散と言われて交通費の封筒をもらって参加者が出ていく所を映している。画像が不安定なので、どうも小型の隠しカメラのようである。
 
その中のひとり花山波歌(はなやま・しれん)を追っていたカメラは彼女が人混みを避けて近くの公園に行く所を映していく。どうも落選のショックを癒すのに少しひとりになりたかったようである。
 
が、彼女はハッとして振り返った。
 
「あのぉ、どなたですか」
とこちらに向かって訊く。
 
「バレましたか。放送局の者です。すみません。局に戻っていただけますか?」
「はい!」
 

月嶋優羽(つきしま・ことり)を追っていたカメラは彼女がウサ晴らしに近くのカラオケ屋さんに入ったのを映す。
 
「くっそー!絶対私が優勝と思ったのに」
と言っている。
 
見た目はほんわりした雰囲気なのに、実際にはかなり気が強いようである。
 
「お待たせしました。お部屋の用意ができました」
と言ってフロントの人が優羽に伝票を渡す。
 
ところが伝票を見て「え!?」と声を上げる。
 
キョロキョロしている。それでカメラが寄っていく。
 
「月嶋さん、どうかなさいました?」
「もしかしてテレビ局の方ですか?」
「はい、そうです」
と答えてカメラは彼女が手に取る伝票を映す。そこには
 
「お話があります。テレビ局に戻ってください」
という文字が印刷されていた。
 

雪丘八島(ゆきおか・やまと)は他の落選者2人とおしゃべりしながら地下鉄のホームまでやってきた。しかしその2人とは行く方向が違うようでバイバイして途中で別れる。それでホームに立ち、まもなく電車が参りますというアナウンスが流れた所で、カメラを持ったテレビ局スタッフが寄っていく。
 
その時、八島は振り返ってこちらを見るなり大声を上げた。
 
「きゃー!痴漢!!この人、盗撮してます!」
 
「あ?え?」
というスタッフの声の後、
「おい、こら」
という男性の声。そして乱れる画面。
 
テレビ画面には
「しばらくお待ちください」
の表示が流れる
 

3秒後、画面にはテレビ局内で
「ごめんなさい。小型カメラに気づいて、てっきり盗撮魔かと思っちゃって」
と謝る八島の姿が映る。
 
「いや、人生終わったかと思いました。すみません。こちらも無断撮影でしたので」
とテレビ局のスタッフが謝っている。
 
そして、花山波歌・月嶋優羽・雪丘八島の3人が神妙な顔で並んで座っている所に登場したのは背中だけを見せているスカートスーツの女性である。
 
3人はキョトンとしている。
 
「今回のオーディションは正直もう少し高いレベルを私は期待していたのだけど、その期待していたレベルには誰も到達していなかった。それで今回は全員不合格にさせてもらった。しかし、不合格になったメンバーの中でも特に君たち3人は見捨てるには惜しいと私は思ったんだよ。そこで、3人には再度チャンスを与えることにした」
 
「はい」
 
「君たち3人でユニットを組んでもらって、3ヶ月間一緒にレッスンに励んでもらう。それで8月下旬にCDを1枚作って、それを手売りしてもらう」
 
「手売りですか!?」
「それで発売してから1ヶ月以内に3万枚以上売れたら3人でデビュー決定。到達しなかったらユニットは解散で、3人とも普通の女の子に戻る」
 
「普通の女の子にですか」
「普通の男の子に戻りたい人がいたら、応相談」
 
「男の子も悪くないな」
と八島が発言する。
 
「じゃ、3万枚売れなかったら、君、性転換ね」
「いいですよ。でもじゃ3人でやるんですか?」
 
「うん。君たち1人ではとてもデビューさせられないけど3人寄せ集めたらまあアイドル1人分くらいの魅力があるかなというのが私の感想なんだ」
 
と背中だけ見せている人物は言うが、さっきから困惑した表情をしていた優羽が発言する。
 

「あのぉ、なぜ金墨さんが、このようなことを私たちに伝達なさるのでしょう?」
 
ここで、これまでずっと背中を見せていた人物がカメラの方を振り向く。
 
「いや、ガラでもないことするもんじゃないですねー」
などと頭を掻きながら言ったのは、番組アシスタントの金墨円香であった。
 
「実はデビューに至るまでのスケジュール等については、このオーディションのプロデュースをして下さることになっている大先生が提示する予定だったのですが、全員不合格となったので、放送局内で話合った結果、今の段階では先生にご足労いただくのもということになったので、私が今日の所は代行させてもらいました。でも今のメッセージはその先生から直接私がいただいてきたんですよ」
 
と円香は笑顔でカメラに向かって説明する。
 
「まあそういう訳だけど、あんたたち、それに挑戦してみる?」
「やります!」
と3人は声をそろえて言った。
 
「3万枚売れたら歌手デビュー。売れなかったら性転換ね」
「それ、雪丘さんだけじゃないんですか?」
「連帯責任で3人とも女をやめてもらう」
「え〜〜〜!?」
「おっぱい無くしたくなかったら頑張ろう」
 
「ユニット名とかあるんですか?」
「その内変更するかもしれないけど、とりあえずの仮の名前はドライで」
「乾燥?」
「ドイツ語で3の意味。3人だから」
「へー」
「3ってスリーかと思った」
「それは英語でしょ!」
 
最後のやりとりはジョークなのか天然なのか、ネットでも意見が割れていた。
 

3日ほど時を戻して、9日月曜日の午後、私は送ってもらった地図を頼りに横浜市内のあるアパートまで行った。が地図を再度見て、それから目の前にあるアパートを見て首をひねる。
 
私は自分のスマホから電話をかけた。
 
「お世話になっております。唐本冬子と申しますが」
「あ、こんにちは。毛利五郎です」
「頂いた地図を頼りにかなり近くまで来たつもりなのですが、どうしても場所がわからなくて」
「ああ、都会って難しいよね。今居る所から何が見える?」
「えっと左手に高いマンションが見えます。30階建てくらいかな。後ろには高速道路が通っていて、目の前に今にも崩壊しそうな廃屋っぽいアパートがあるのですが」
 
「あ、えっとその崩壊しそうなアパートが俺んち」
「え〜〜〜〜!? これ人が住めるんですか?」
「俺は住んでるんだけど。2階の真ん中の部屋ね」
「はあ・・・」
 

それで階段を登って2階に行くが、この階段崩れ落ちないよね?と私は不安であった。真ん中の部屋で呼び鈴を鳴らそうとしたらドアが開く。
 
「あ、いらっしゃい、散らかっているけど、どうぞ」
「失礼します」
 
と言って中に入るが「うっ」と思う。
 
入った所は台所であるが、シンクに山盛りの食器が重なっている。その付近にカップ麺のからが多数転がっている。一方の壁際には週刊誌をとりあえず紐で縛ったものが高く積まれている。目の前をゴキブリが数匹走っていった。
 
ひぇー!
 
男の人の家ってこんなもんだっけ?
 
私はそういえば男性の一人暮らしの家って行ったこと無いなと思った。正望はお母さんと一緒に暮らしているし、佐野君の所はいつも麻央が出入りしている。麻央もずいぶん男っぽい性格ではあるものの、まあ一応女の子の端くれだろう。雨宮先生の家は定期的に三宅先生が大掃除をしているようだ。中学時代にオーケストラの関係で訪問して、私をレイプしかけた男の子がいたけど、あの人もお母さんと一緒に暮らしていた。
 
-------------------^
できるだけその散らかった状態を見ないようにして奥の居室に入る。
 
「まあ適当に座って」
と言われる。
 
テーブルのそばに何だか灰色の物質?がうずたかく積まれている。
 
「あのぉ、これ何でしょうか?」
「あ、それ座布団の中身なんだよ」
「中身!?」
「座布団の皮が破けちゃってさ。それで中身が飛び出してしまったんで、仕方無く、その上に座っているんだよ」
 
「なるほどー」
 
それで私はやれやれと思いながらもその「かつて座布団であったもの」の上に腰を下ろす。
 
すると毛利さんは何だか感動したように言った。
 
「それに座ってくれたのは君が2人目だよ」
「へ?」
 
「みんなそれを避けて座るんだ。鮎川ゆまなんか、これを蹴散らかして、後でまとめ直すのに苦労して苦労して」
 
「あはは」
 

「前に座ったのって誰なんですか?」
 
入れてもらった(ほとんどコーヒーの味がしない)インスタントコーヒーを湯飲みで飲みながら尋ねる。
 
「醍醐春海君だよ。ユニークな座布団ですね、と言いつつ座ってくれた。もう結婚してもいいくらい感動したよ」
「へー」
 
「でも私は彼氏がいるからと断られちゃった」
「あはは。ちなみに私も婚約の約束をしている人がいますから」
 
「婚約の約束って、結婚の約束じゃなくて?」
「ええ。その内婚約しようと言ってます」
「よくわからん!」
 

「まあそれで、電話でお話したユニットの件、実質毛利さんに引き受けてもらえないだろうかという蔵田さんの要望なんですよ」
 
「なんで蔵田君が出てきて、そこからケイちゃんが出てくる訳?」
 
「今回のオーディションは★★レコード製品開発室の滝口さんがやっていたのですが、本人が癌で緊急入院させられて、明日手術なんです」
 
「あらま」
「それで合格者無し。不合格者の中から3人ピックアップしてユニットを組み、半年くらい鍛えてからメジャーデビューさせようという線で、滝口さんの上司の村上専務、このプロジェクトを統括することになった佐田常務、私、滝口さんの実質後任の明智室長代理、そして加藤次長の5人の会議で決めました。今週の番組で発表します」
 
「なんかモー娘。作った時っぽいね。ケイちゃんが関わった経緯は?」
「通りがかりです」
 
「何とまあ!」
「でもこの世界、割とこれあると思いません?」
 
「言えてる、言えてる」
 

「それで合格者の方はいいけど、実は誰がプロデュースするかとかも全く決まっていなかったんですよ」
 
「なんで?」
「当初の予定では、合格者を決めて卍卍プロに丸投げしてデビューさせる予定だったらしいです」
 
「なぜわざわざ、あんなプロダクションに」
「ね?」
 
私も全く毛利さんの意見に同意である。
 
「でも卍卍プロ側は、合格者なら引き受けるけど、不合格で半年鍛えてからというのでは引き受けられないと言ってきて。それと加藤次長が、卍卍プロには関わらない方がいいと主張して」
 
「それがいいよ。あそこのプロダクションに関わった人はろくな目に遭わない」
と毛利さんは言っている。
 
「それじゃ誰に任せようかという話をしていた時に、ちょうど蔵田さんが通り掛かりまして」
 
「また通りがかりかい!」
 
「それで蔵田さんが、こないだアクアのアルバムの制作をした、雨宮の弟子の毛利君にやらせるといい。あいつはこれまでたくさんのアイドルを手がけていると言いまして」
 
「へー。蔵田君が俺を覚えていてくれたんだ?」
 
「それでそんな人がいるならぜひと佐田常務が言って、加藤次長も毛利さんなら安心ですよと言って、それで私にその話をしてこいと蔵田さんから言われまして。雨宮先生にも連絡したら、ぜひ使ってやってということだったので」
 
「それでわざわざ俺のうちまで来てくれたの?いや、ありがたい」
 

「最初どこかレストランか何かででもと言っていたのですが、いろいろ内密の話をしないといけないから、毛利さんのご自宅に行って話した方がいいと言われまして」
 
「まあいいけどね」
 
「それで2つ課題があるんですよ」
「うん?」
 
「ひとつは3人の女の子、シオン・コトリ・ヤマトでユニットを構成することにしたのですが、制作側の意図としては、最年少のヤマト中心。彼女をメインボーカルにして、あとの2人はバックコーラス主体ということにするんですよ」
 
「うんうん」
「そのことを年長のシオンとコトリに通告して納得させる必要があります」
 
「その手の説得だったら任せて。俺、そういう話はこれまで何十件もしてきた」
「心強いです」
 
ここで毛利さんが実際のその子たちの映像か何か見たいと言うので自分のスマホで再生させてみた所、毛利さんも
 
「うん。この3人を組ませるなら、ヤマトを中心にすべき」
という意見であった。
 

「それともうひとつ、毛利さんのプライドを傷つけることは承知でなのですが」
「何?」
 
「毛利さんの実績は評価するという人が多数なのですが、何しろ一般の視聴者とかに知名度が無いので。あ、すみません」
 
「いやいや。知名度が無いのは認識してるし、気にしないよ。知名度があったら、こんなボロアパートに住んでないし」
 
「まあそれで、番組では名前の売れている作詞家の馬佳祥先生を名目上のプロデューサーに立てる方針を固めまして」
 
「あの人、もう引退したのかと思った」
 
「引退しています。それで午前中に馬佳祥先生とお話してきたのですが、自分は名前だけのプロデューサーでよいし、ギャラも要らないから、本当のプロデューサーになるであろう人に全部任せてあげてとおっしゃってました。何か交渉事とかには遠慮無く呼び出してくれたら出て行くからともおっしゃって」
 
「ああ、そういうのもかまわないよ。これまでもいくつもそういう仕事の仕方してるから」
 
「じゃとりあえず一度、馬佳祥先生と会っていただけますか? 意志の疎通はしておかないとまずいですし」
 
「OKOK」
 
「では都合の良い日の候補を打診してご連絡しますね」
「あ、俺の方はいつでもいいよ。今実質失業状態なんで」
「了解しました」
 

その時、アパートのドアをドンドンとやや乱暴にノックする音がある。
 
「あ、やばい。静かにしてて」
と毛利さんは言ったが、外にいた人物は合い鍵?を使ってドアを開けてしまった。
 
「毛利さん、あんたもう1年も家賃を滞納していて。困るんだけど」
「すみませーん、大家さん。もう少ししたら印税が少し入るはずなので、それで払いますから」
 
「あんた、そんなこと3月にも言っててって、あれお客さん?」
 
「あ、どうも。お初にお目に掛かります。毛利の婚約者です」
と私は笑顔で言った。
 
「あんた婚約したんだ!」
「ふつつかものですが、よろしくお願いします」
 
「毛利さん、あんた結婚するんなら、もっとしっかり仕事しなきゃ」
「すみませーん」
 
「でも婚約者さんなら、もし良かったら2〜3ヶ月分だけでも家賃入れてもらえないかね?」
「あ、おいくらたまってます?」
「今12ヶ月分、12万円溜まっているんだけど」
 
「でしたら溜まっている分と、このあと半年分で18万円お支払いしますね」
と言って私はバッグから現金を出して、大家さんに渡した。
 
「ありがとう! 毛利さん、良さそうな娘さんじゃん。ほんとにマジに仕事探しなよ」
「はい、すみません」
 
それで大家さんは領収証を書いて帰って行った。
 

「ケイちゃん、ごめーん」
「このくらいはいいですよ。この仕事の契約料の一部ということで」
 
「すまーん」
「でも家賃1万円って凄いですね」
「うん。なかなかこういうアパートは無い」
「でも毛利さん、実際毎年結構な印税収入がありません?」
「それ醍醐さんにも新島にも言われるんだけど、俺何でこんなにお金が無いのかなあ」
 
「ほんとに結婚して奥さんに財布の管理任せた方がいいかも」
「結婚してくれる女がいるかどうかが問題で」
「まあ女とは限りませんけどね」
「そうだなあ。実は俺、これまで惚れられた相手がみんな男の娘なんだ」
「男の娘でもいいと思いますよ」
「でも男の娘とうまくやっていく自信が無い」
「3日で慣れますよ」
「そういうもんかなあ」
「ちょっとあそこの形が違うだけですから大したことないですよ」
「いや、それは大したことある気がする」
 

このオーディション番組に関しては、番組に映される映像上では、いかにももったいぶっているかのように装っていて、実際の舞台裏では、私や加藤次長などがあちこち走り回り、大急ぎで態勢を整えていった。
 
そして、このユニットのレコード会社側の担当者としてプロジェクトを統括する佐田常務が起用した人の名前を聞いて私は驚いた。
 
「いや、社内では佐田さんやる〜って評価されたみたいだし、本人も物凄く張り切っているみたいね」
 
とその日マンションに遊びに来ていた織絵(XANFUSの音羽)は言った。
 
「村上さんは不愉快だろうけどね」
「佐田さんとしては自分は村上さんの手下ではないという線を打ち出したのかもね」
 
ドライの担当A&Rとして起用された日吉さんというのが、3月の騒動の時に村上専務との「女装結合写真」を撮られて、その後村上専務から100万円やるからと言われて辞表を書かされ、地方のイベンターに押しつけられていた人だったのである。村上専務はその写真がマスコミに掲載されないように個人的に数百万の金を使ったという噂も一部では流れていた。しかし、日吉さんはこれまで何人かのアイドルを売り出した実績があり、その実績を佐田さんが買って復職させたのである。
 
本人は当然佐田さんに恩義を感じ、必死でドライを売り出すのに努力するだろう。
 
しかも彼は以前毛利さんと組んでアイドルを1人売り出したこともあり、毛利さんも彼とならやりやすいと言った。
 
「まあ創業者グループ側にしても実際は松前派と町添派は必ずしも一体ではないけど、今は自分たちに不利な風が吹いているから団結している。それに対して取り敢えず次期社長確定として動いているMM系は村上派と佐田派が緊張を持った関係で進むことが確定という感じかな」
 

「しっかし、キャッツファイブも運が無いと思わない?」
と織絵は楽しそうに言った。
 
「織絵たちの後輩が頑張ったね」
「まあ妹分が元気なのはいいことだ」
 
5月11日にキャッツファイブの2枚目のシングルが発売された。昨年夏に結成されたキャッツファイブは、秋口にインディーズから1枚シングルを出した後番組でかなり前宣伝を盛り上げて12月にメジャーデビュー・シングルを出したものの、当日はローズ+リリー・福留彰・ラビット4と強力すぎるアーティストの発売と重なり、初日16万枚と十分な営業成績をあげたにも関わらずランキング4位であった。
 
そして今回発売した2枚目のシングルで、当日はそんなに大きなアーティストの発売は無いから今度こそ1位を獲れるだろうと言っていたら、この日に発売されたHanacleのシングルが30万枚を売る大健闘で、更にキャッツファイブと同じ◎◎レコードからこの日デビューした無名の新人奈川サフィーが23万枚を売る大誤算(?)で、20万枚のセールスをあげたキャッツファイブは3位に留まったのである。
 

「同じ◎◎レコード内のアーティストに抜かれたというのは、岩瀬部長も面目丸潰れだね」
 
「◎◎レコードって、第1営業部から第6営業部までがお互いに完全縦割り、全く情報も流さず、人事交流さえ無い、ほとんど別会社のような状態で競争しているからね。社内で顔を合わせてもお互い挨拶もしないくらい徹底しているというから。1970年代には第1営業部の小林江梨と第2営業部の柳沢恭子が熾烈な競争していた」
 
第1営業部は昭和初期の「流行歌」の時代から続いている伝統的な部門、第2営業部は戦前は(現代の演歌とは別物の当時の)演歌とか芸者さんの歌うお座敷歌のようなものに民謡などを取り扱っていたが、戦後はどちらも扱うジャンルがかなりダブるようになった。第3営業部はクラシックでここは特別。第4営業部はロックのために創設された部門だが現在はポップスやフォークも扱っている。第5営業部は洋楽が主だったが最近は韓流歌手などまで扱っていてボーダーレスになってきている。第6営業部は特殊なアーティストを売り出す部門で、お笑いタレントやスポーツ選手のCDなどを出したりしている。「色物」アーティストを得意としている。
 
岩瀬部長は第4営業部の部長で、キャッツファイブやその母体ユニットのホワイト▽キャッツはここの担当である。私も岩瀬さんやその部下の林葉課長とは昔からかなり関わり合いになっている。
 
これに対して奈川サフィーを売り出したのは第6営業部で、統括しているのは案ノ浦部長である。奈川は、実は「鴨乃清見の曲を歌う歌手募集」という事実上のオーディションの準優勝者で、鴨乃ではなく吉原揚巻さんの曲を歌うことになった。近い内にデビューさせるという話は聞いていたのだが彼女のデビューが明らかになったのは実際の発売日のわずか1週間前である。
 
その日発売された写真週刊誌に
 
「近々鮮烈デビュー予定の超美人《男の娘》4オクターブ歌手を激写」
 
などという記事が載り、扇動的なタイトルにこの週の雑誌は無茶苦茶売れたらしい。雑誌に掲載された写真は、自身もMTFというメイクアップアーティスト小林マユミさんが2時間掛けてメイクしたという、ナチュラルなのに物凄く可愛い写真であった。本人が当事者なので、男の娘の骨格や目鼻位置のカバーの仕方に熟知している感じでもあったようだ。
 
「俺、道を誤ることにした」
「男でもこれだけ可愛かったら結婚したい」
 
などという書き込みが大量にネットにあふれた。
 
そしてその週刊誌の出た翌日からテレビでPVがヘビーローテーションされる。ネットにも大量のバナーが貼られる。それで物凄い数の予約が入り、いきなりプラチナディスクになったのであった(初日が23万枚だが一週間で40万枚に達し、週間ランキングではHanacleを抜いて1位になった)。
 
案ノ浦部長の作戦勝ちという感じであった。
 
名前は売れているものの爆発的に売れたアーティストを持っていなかった吉原揚巻さんにとっても初のスマッシュヒットとなった。
 
どうも第6営業部では「あいつらに芸能界甘くないってことを思い知らせてやろうぜ」という感じで、極秘でプロジェクトを進めたらしい。
 

「まあそれでドライって名前はあまり良くないと思いましてね」
 
その日の会合で毛利さんは発言した。
 
この日集まっていたのは、佐田常務、日吉さん、加藤次長、私、毛利さん、それに番組側のプロデューサーの名古尾さんの6人である。
 
「どういう名前にするんです?」
 
「ドライは確かにドイツ語で3 drei ですけど、ドライと聞くと普通英語のドライ dry 乾燥を想像すると思うんです。それはアイドルユニットの名前にはふさわしくない。それで考えていたんですけど、彼女たちの名前って全部『は』と読める文字が入っているんですね」
 
「ほほお」
 
「波歌(しれん)の波、優羽(ことり)の羽、八島(やまと)の八の字が『は』と読めます。それで『三つ葉』、3つの葉っぱという名前はどうでしょう?」
 
「ああ、可愛いかも」
 
「ひらがなで『三つ葉』、カタカナで『三ツ葉』と悩んでみたのですが、占いのできる友人に聞いてみたら、ひらがなの『三つ葉』は16画で大吉、カタカナの『三ツ葉』は18画で中吉だから、ひらがなの方が良いと」
 
「なるほど」
 
「ちょっとエンブレムも描いてみました」
 
と言って毛利さんがケント紙に色鉛筆で描いたエンブレムを見せる。
 
「格好いいですね」
 
それは3つの葉っぱが放射状に配置され、外周部分でなびくように変形しているちょっと見には風車っぽいエンブレムである。
 
「緑色なんですね」
 
「そうです。若い女の子3人ですから、瑞々しい若葉でなければいけません。赤や黄色だと紅葉になってしまいます」
 
「だったら緑色がいいですね」
 
「このデザインの衣装を作って着せましょうよ」
 
「ああ、いいですね。たぶんグッズとしても売れますよ」
 
「成功するといいですね」
と加藤次長が言ったのに対して、日吉さんが
 
「絶対成功させますよ」
と自信満々の顔で言った。
 

「しかし男の娘歌手がずいぶん増えたね」
 
とその日うちのマンションに来た千里は言った。
 
「増えた気はするね。それよりオリンピック代表選出おめでとう」
 
「ありがとう。去年のユニバーシアードが出来過ぎだったからね。実際5月のオーストラリアとの3連戦は3タテくらった。あれが本当に世界のレベルだと思うし、もっともっと鍛えないといけないと思ってる」
 
「うん。頑張ってね」
 
昨年のユニバーシアードでは日本はオーストラリアを倒してBEST4に進出したのである。
 
「結局、今主な男の娘歌手って誰がいるんだっけ?」
と政子が言う。
 
「花村唯香でしょ、鈴鹿美里でしょ、アンミルでしょ、タカ子ちゃんでしょ、Rainbow Flute Bandsのアリスとモニカにフェイ、アクアにFlower Four, キャッツファイブの愛菜、丸山アイ、ローザ+リリン、雨宮先生に、今回出てきた奈川サフィー」
 
と政子は指折り名前を挙げていく。
 
「それかなり違うのが混じってる」
と私は言う。
 
「タカ子ちゃんやFlower Fourはただのおふざけの女装だし、丸山アイは実態がよくわからないけど、少なくとも『男の娘』という分類ではないと思う。雨宮先生も単に女の服を着ているだけで、ふつうの男性だし」
 
「絶対普通の男性じゃない!」
 
「Rainbow Flute Bandsで男の娘分類はアリスだけだと思う。モニカは早い時期に性転換手術を終えているから、普通の女の子に準じて扱ってあげて欲しい。フェイは正直ほんっとに実態がわからない。フェイと丸山アイが一番わからない」
 
「あとアクアも普通の男の子だよね」
と千里が言う。
 
「うん。私もそう思う」
と私も言う。
 
「うっそー!? あれこそ典型的な男の娘じゃないの?」
 
「少なくとも本人は自分は男だと思っているし、みんながおもしろがって女装させているけど、積極的に自分から女装している訳ではないし。可愛いからからかっているだけだよ。あれはセクハラだと思うんだけど、本人が寛容だから笑って受け入れているだけで。女物の下着を時々つけてるのだってただのフェチの類いだと思う。思春期の男の子は結構女の下着に興味持ちがちだよ」
 
と千里は言う。
 
「うん。実態はそんなものだと思うね」
 
「そうかなあ。絶対あの子、女の子になりたがっていると思うのに」
と政子は言う。
 
「それは無い。あの子はまだ男に進化することに不安を抱いているだけで、その程度の不安は思春期には男の子でも女の子でもありがちなんだよ。女の子は生理が来て胸が膨らんで、本人の意志と無関係に女になってしまうけど、男の子はそのあたりが曖昧なまま20歳頃まで行っちゃう子が結構いる」
 
と千里。
 
「まあ高校生にもなれば、いいかげん声変わりも来ちゃうだろうから、そうなると本人も諦めて男になっていくんじゃないかな。女装くらいは乗せられたらしちゃうだろうけど」
 
と私。
 
「よし、アクアの声変わり、絶対阻止しちゃる。取り敢えずエストロゲン、ネットで注文しちゃおう」
 
と政子は張り切って携帯を操作していた。
 
 
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【夏の日の想い出・若葉の頃】(3)