【寒松】(上)

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「ここに着替え置いとくよ」
母の声に彼はドキッとして《おいた》をやめた。
「うん、ありがとう」
 
お風呂の中でするのは気持ちいいけど、後で痛くなるんだよなあ、などと考える。再度湯船につかって、しばらくボーっとしている。唐突に詰め将棋の題が頭に浮かぶので、その問題を解いている内に身体が温まってきた。
 
でも将棋の駒は全部金将になるけど、チェスの駒はみな女王になるんだよな、というのをふと考えた。それって性転換??
 
そういえば姉貴が持ってたのをこないだチラッと見てしまった18禁小説が変な話だった。やおや小説とか言うんだっけ??あれ?やよい小説だっけ???チン説シンデレラ(*1)とかいうタイトルで、女装してお城のパーティーに行ってたら王子に見初められてしまう。結婚させられそうになって
「僕は男の子です」
と言ったら
「我が国にはいい医者がいる」
という王子のセリフで終わっていた。
 
つまり性転換手術を受けさせられて王子妃になってしまうという話だ。そんなのありか?などと思いつつも、性転換なんて《オトナの世界》をちょっと垣間見た気がしてドキドキした。まあ、俺は性転換とかしないだろうけどね。
 
でも性転換手術って、どういう手術するんだっけ??
 
(*1)「ハルナ♂ (^^;」さん作の実在作品です(nifty 1994.4.15)。
 

結構温まったのであがることにする。湯船からあがり、ふたをして、浴室を出、身体をバスタオルで拭く。それで母が置いてくれていた下着を手に取る。 
しかし彼は戸惑った。
 
何これ?
 
パンツのウェストのところが2cmくらいの幅のレースになっている。足を出す所にも小さなレース(ピコレース)が取り付けられている。変なデザインだなあと思う。股刳り(またぐり)のところは二重布(クロッチ)になっている。なによりチンコを出す穴が無い??
 
彼はそれを見ている内になぜかあそこが大きくなってきた。あれ〜?何で大きくなるかなとは思うが心臓がドキドキしているのも感じる。彼は何か違和感を感じながらも穿いてみた。
 
すると何だか凄く快い感触だ。いつも穿いているトランクスよりずっと優しく肌にフィットする。あ、こういうのもいいかなあ。でもパンツがピタリと肌に吸着している関係で、あの形とあの形がそのまま外側に見えている。
 
まあいいかと思いながらシャツを手に取る。
 
あれ〜? なんかこれも変なの?
 
袖のところが半袖でもないランニングでもない中途半端な長さ(フレンチ袖)だ。胸の所にはリボンが付いている。裾の所、それから袖の先もピコレースが付いている。なんでレースなんか付いてるんだろうと思いながら、彼はそれを身につけた。あれ?これもいつも着ているシャツより肌に優しくフィットするなと思う。 
それからパジャマを手に取る。ズボンを穿いたが、このズボンにもチンコを出す前開きが無い。困ったな。これおしっこする時どうすればいいんだ?と思うが、気を取り直してパジャマの上着を着る。前のボタンを留めようとして戸惑う。 
なんでこれ左右逆にボタンが付いてるの?
 
ふだんと左右の手の使い方が逆になるので彼はそれを留めるのに随分苦労した。 
変なボタンの付き方のパジャマもあるんだなあ。
 
彼はそう思いながらも脱衣場のドアを開け、台所を通り抜けて居間に入る。 
「お風呂あがったよ」
とコタツでリンゴを食べている姉に告げた。
 

これは「寒菊」(菊枝との再会)と「寒蘭」(嵐太郎との出会い)の間に入る物語である。
 
青葉は小学4年の秋に足に1本の黒い毛が生えているのに気付きショックを覚えた。自分が男の身体に生まれてしまったことは受け入れているが、何となく自分は女として生きていけないかなと思っていた。1本の毛は自分の身体が思春期を迎えて男性化を始めたことを意味する衝撃的な出来事だった。 
しかし以前何度か会ったことのある女子大生霊能者・菊枝は青葉の気持ちを察し、青葉の体内の「気の循環」を女性型に強引に変更すると共に、青葉に睾丸の機能を自分で停止させてしまうことを勧めた。青葉は難しい専門書を読解し、その秘術を実施。青葉の睾丸は機能を停止しつつあった。
 
青葉は5年生になる。
 
青葉たちの小学校では5−6年生ではクラブ活動が行われており、原則としてどこかのクラブに入らなければならない。
 
「早紀はどこに入るの?」
と咲良が訊く。
 
「私、美術部に入る」
「ああ、早紀は絵がうまいもんね」
 
「私、絵はダメだなあ」
と青葉が言うと
「青葉は図工の時間、絵はほとんど描いてないね」
と咲良に言われる。
 
「うん、何度も白紙で提出して先生に叱られた」
 
実はクレヨンとか絵具を貧乏で買ってもらえないので、描きようにも描けないという問題もある。ただ青葉自身、あまり絵を描くのは好きではない。写生などしていると、無意識におかしなもの、普通の人には見えないものまでつい描き込んでしまうというのもある。
 
「咲良はどうするの?」
「私、ブラスバンド部に入ろうと思ってる」
「へー。咲良、何か楽器できたっけ?」
「練習しようと思って。お母ちゃんにフルート買ってって言ってるの」
「すごーい」
「フルートって幾らくらいするの?」
「総銀のが欲しいんだけどねー。高すぎるから洋銀でもいいよと言ってるんだけど、最終的に白銅になるかも」
 
「それ、幾らするのよ?」
「総銀だと50万から100万円くらい」
「きゃー!」
「洋銀だと15万から20万円くらいで、白銅なら7-8万円かな」
 
「それ白銅製になる気がする」
 
「それにうちのブラスバンド部は女子限定だからさ」
と咲良。
「ああ、咲良って男嫌いだもんね」
と早紀。
 
咲良はむしろ男性恐怖症である。これは小学2年の時に男の人に怖い目にあわされたことがトラウマになっているのである。彼女は女の人のお嫁さんになりたいなどと良く言っているが、きっと意味が分かってないよなと青葉は思う。 

そういう訳で、結局青葉は将棋部に入ることにした。
 
これを選んだのは消去法による。
 
まず体育系のクラブに入ると、青葉がどんなに自分は女と主張しても男子の方に入れられてしまう。大会などに出る時に、生物学的に男である青葉が女子選手として出場することは認められないのである。
 
文化系で、ブラスバンドや美術・書道・家庭などは道具や材料にお金が掛かる。演劇も衣装代が掛かる。合唱も制服と靴・帽子を買わないといけないみたいだし、パソコンはそもそも家にパソコンが無いし(実は所有して佐竹さんの家に置いているのだが)、と考えていくと将棋がいちばんお金が掛からないという結論に達した。将棋の盤や駒は学校の備品を使えばいいし、服は普段着でいい。大会もせいぜい気仙地区大会くらいだろう。まさか県大会まで進出することはあるまいと青葉は踏んでいた。
 
しかし将棋部の部室に行くと「しまったー」と思う。
 
女子が全然居ないのである!
 
どうしよう?と思っていた時、ひとりの子が寄ってくる。
 
「わあい、青葉も将棋部?」
 
それは幼稚園の頃からの知り合いのひとり登夜香であった。彼女と青葉はお互いに少し壁のようなものがあって、あまり友達という感じではないのだが、男の子ばかりの中で女の子同士は、ちょっとだけ心強い。
 
「登夜香ちゃん! 良かった。私も男の子ばかり居るからどうしようと思った」
「私もー」
 
と言ってから登夜香は少しだけ悩む。
「あれ〜? 青葉ちゃん男の子だっけ?」
「自分では女の子のつもりだけど」
「そっかー。じゃ女の子ということにしとこ。うちの祖母ちゃんも青葉は女の子だと言っていたし」
 
登夜香の祖母の眞純子は拝み屋さんをしている。青葉の曾祖母が生きていた頃は商売敵だったのだが、今は大船渡近辺の霊的な相談をほとんど一手に引き受けている感もある。一応青葉の曾祖母の後継者である佐竹伶もいるのだが伶の祈祷は「効かない」というので有名である!
 

今回新しく入った5年生の部員は、男の子たちはみな将棋のルールは一通り知っているし、矢倉の組み方などまで知っている子もいるが、登夜香も青葉も実は将棋のルールがほとんど分かってない。かろうじて駒の動かし方が分かっている程度である。
 
最初対戦してて「打ち歩詰め(*1)は禁止!」とか、「飛車・角はどこまででも動けるけど他の駒は飛び越せない」とか「こら。四段では成れない!成れるのは一段から三段までに移動した時と、一段から三段までに打った駒をそこから移動させる時だけ」などと初歩的な問題で注意される。
 
(*1)歩を新たに盤に打って相手の玉を詰みにすること。既に盤上にある歩を動かして詰みにするのは構わない。
 
それで他の男の子たちと全く勝負にならないどころか試合にならないので「女は女だけで指してろ」と言われて、結局登夜香と青葉で指し始めるが、やはりルールがよく分かっていないので、状況を見に来てくれた部長の6年生宮坂君が 
「お前ら、それ二歩(*2)どころか三歩になってるじゃん」
などと指摘する有様であった。
 
(*2)ひとつの筋に(成ってない)歩は2つ置けない。歩を《と》に成らせたものであれば複数置いてもいいし《と》が存在する筋に新たに歩を打っても良い。 

ところで5年生になってクラブとは別にやることになったのが鼓笛である。青葉の小学校では毎年5年生が鼓笛隊を編成し、運動会や市のイベントなどで演奏し、卒業式でも6年生を送る音楽を演奏する。6年生に進級した後入学式で新一年生を迎える音楽を演奏した所で御役御免となり、次の学年に引き継ぐのである。
 
これのパート分けで、青葉はリコーダーでいいと思っていたのだが、パート分けをしていた時、メロディオンのパートが1人足りないという話になる。その時、唐突に咲良が
 
「川上さんがやりたいと言ってます」
と勝手に言う。
 
青葉は慌てたのだが、学級委員の元香は
 
「あ、それでは川上さん、お願いします」
と言ってしまった。
 
「メロディオンは女子で揃えたいんだげど」
と担任は言ったが元香は
「川上さんは女子です」
と言う。
 
すると担任も「まあいいか」と言う。
 
「でも川上さん、スカートのユニフォーム着れる?」
と担任。
「先生、川上さん今日もスカートです」
「あ、そういえばよくスカート穿いてるね」
 
ということで本人を無視して話は決まってしまう。
 
「咲良〜、私、メロディオン持ってない」
と青葉は咲良に文句を言う。
「小学1−2年の時に使ってたのは?」
「お母ちゃんがリサイクルショップに売っちゃった」
「なるほどー」
 
ほんとうはリサイクルショップではなく、青葉の写真付きでブルセラショップに売り飛ばしたものである。買った時の値段より高く売れたなどと母は言っていた。 
「じゃ私が使ってたのをあげるよ」
と咲良。
「助かる。ありがとう」
と青葉。
 
しかしここで青葉がこの1年鍵盤楽器を扱ったことが、翌年からピアノの練習を始めた時、その基礎となったのである。
 
ちなみに担任の先生はリコーダーを男子で揃える方針だったので、青葉はリコーダーに行かなくて良かったのである。結果的には咲良のファインプレイだ。 

4月の中旬。青葉と登夜香があまりに将棋の知識が無いようだということで、見かねた部長の宮坂君が2人を放課後に特別に指導してくれた。しかし本当に基本的なことから教えた。
 
「え? 桂馬ってここには行けないんですか?」
「それはチェスのナイトの動きだよ。将棋の桂馬は斜めひとつ前にしか行けない」
 
「あれ?歩って斜め前には進めないんですか?」
「前に進むだけ」
「横には行けますよね?」
「行けない! お前ら、ホントに将棋というゲームをしてたのか?」
 
宮坂君は2人の「勝手ルール」に呆れながらもひとつひとつ丁寧に教えてくれた。 
「あれ〜。王将って成れないんですか?」
「王将の駒の裏には何も書いてないだろ?」
「王将は皇帝にでもなるのかと」
「そんな話は聞いたことない」
 
「ひょっとして金将も成れないんですか?」
「何に成るのさ?」
「女王にでもなるのかと」
「チェスならどんな駒でも女王に昇格するけどな」
と宮坂君が言うと
 
「ほら、私が言った通りだよ。性転換して女王になるんだよ」
と登夜香。
「それはチェスの話だよ」
と青葉。
 
「将棋ではダメですか?」
と登夜香。
 
「そもそも女王なんて駒が無いし。ただ、チェスの女王と将棋の金将はゲーム上の起源としては同じ物なんだけどね」
と宮坂君。
 
「へー!」
 
「金が無くなって女になるのかもな」
と宮坂君は言ったが、女子2人が無言なので、今のはちとヤバかったかと思い 
「チェスと将棋の駒はだいたい対応してるんだよね。王が王将、ナイトが桂馬、ビショップが銀将、ルークが香車、ポーンが歩兵」
と宮坂君は説明する。
 
「角と飛車はチェスには無いんですか?」
「まあ女王が強すぎるから2つに分割したのかもな」
「なるほどー」
「いや、実際は角は銀将の強いの、飛車は金将の強いのだと思うよ」
 
「それで王将が取られたら、飛車と角のどちらが次の大将になるのかってので、私と登夜香ちゃんで揉めたのですが」
と青葉が言うと、宮坂君は一瞬「へ?」という顔をしたものの
 
「王将が取られたら、そこでゲーム終了!」
と言う。
 
「あれ〜?そうだったんですか?」
と二人。
 
「まあ実際には王将を取ることはない。王将が取られるぞ、というところでゲーム終了だよ。それを《詰み》というの」
「ああ、寸止めなんですね」
「そうそう」
「やはり日本人って平和主義なんだ」
「かもねー。ついでにもうすぐ詰みになっちゃいますよ、という状態を《詰めろ》と言う」
 
「へー」
「もうすぐ成りますという状態は《成れ》ですか?」
「そんな言葉は聞いたこと無い」
 

「あ、そうだ。宮坂さん、お兄さんは退院できたんでしたっけ?」
と登夜香が訊く。
 
「医者は3月くらいに退院できると言ってたんだけどさ。まだ許可が下りない」
と宮坂君。
 
「入院してたの?」
と青葉が訊く。
 
「うん。何かお腹にできものができてるとかでずっと入院してるんだよ。手術とかになるのかなと思ったんだけど、取り敢えず薬で散らそうとしてるみたい。最初はは軽いから1〜2ヶ月で退院できるという話だったんだけど、何か病院に留め置かれているんだよなあ。母ちゃんに訊いたんだけど、お前は心配しなくていいと言われて」
 
「お父さんの方は手術しましたよね?」
「うん。この春に手術した。そちらは経過いいみたいだから、遠くないうちに退院できるかも」
 
「お兄さんとお父さんと2人入院してるんだ!?」
と青葉は驚いたように言う。
 
「お不動さんとか薬師さんとかに母さんがお参りに行ったり、拝み屋さんも呼んだりしたんだけどね」
 
へー。拝み屋さんって、登夜香のお婆ちゃんかな?と青葉は思う。
 
「ただ、その拝み屋さんが言ってたらしいんだ」
と宮坂君が言う。
 
「なんて?」
「感覚が遠いって。どういう意味かな?」
 
登夜香と青葉は難しい表情で顔を見合わせた。
 

ゴールデンウィーク。
 
お金など無い青葉の家ではもちろんどこかに行くこともない。それどころか、青葉も未雨も学校に行かないから給食にもありつけない。つまり御飯が無い。 
「お母さん、おなかが空いたよ」
と未雨が言うが
 
「水でも飲んでなさい」
などと言われる。
 
「水道停まってるよ」
 
料金を払ってないので停められてしまっているのである。
 
「雪でもかじってなさい」
「このあたりの雪、汚れてて食べられない」
 
4月下旬ともなれば、根雪も融けかけだ。
 
「贅沢言うんじゃないよ。土も美味しいよ」
「土は美味しくないよぉ」
 
この家、次のお正月を迎えられるだろうか、いや夏を越せるだろうかと青葉は不安になる。とりあえず水道代だけでも払ってこようかな・・・と思っていた時のこと。
 

自動車の停まる音がする。
 
「未雨、青葉、何があっても絶対声を出しちゃいけないよ」
と母が言う。
 
借金取りが来たと思ったのだろう。でも青葉は立ち上がると玄関に出て行き、ドアを開けた。
 
「海藤さん、久しぶり」
 
来訪したのは北海道の旭川に住む海藤天津子である。青葉より2つ上、中学1年生の霊能者だ。
 
「また対決に来たよ」
と天津子。
「うん。じゃ、どこか周囲に迷惑の掛からない所に行こうか」
と青葉。
 
「今日は車で来たから乗って。あ、そうだ。これあんたにやるにはもったいないけど、お土産」
と言って天津子は旭川の銘菓《壺もなか》を渡す。
 
「わあ、ありがとう」
 
するとどうも借金取りではなさそうだと気付いた礼子が飛び出してくる。 
「あら、なんて素敵なものを。あなた美人ね」
と言う。
 
「ありがとうございます」
と天津子も笑顔で答える。それで早速お菓子を持って家の中に戻った。青葉はそのまま天津子と一緒に出かける。
 

天津子は青いモコを自分で運転してきていた。青葉が助手席に乗り込むと、天津子は車を出す。天津子の運転する車に乗ったのは初めてであるが菊枝さんよりずっと上手いなあと青葉は思った。
 
亡くなった青葉の曾祖母にしても菊枝さんにしても、また佐竹(伶)さんにしても運転が荒い。霊能者って運転が荒っぽいのだろうかなどと考えたこともあるが天津子の運転する車に乗って、運転が上手い霊能者もいるんだな、と青葉は思った。
 
「そうだ、中学進学おめでとう」
と青葉は天津子に言う。
「ありがとう。でも中学の女子制服ってセーラー服でスカートだからさあ。なんだか、かったるいよ」
「海藤さん、ズボンが好きみたいね。でも神社に奉仕してても巫女衣装は袴でしょ?」
 
今日も天津子はハーフサイズのダウンコートに下はジーンズである。
 
「袴はキュロットだからね」
「あ、そうだよね!」
 
「あんたは中学に入ったら学生服かな」
と天津子は訊く。
 
「それ考えると気が滅入る」
と青葉。
「女子制服を着たーい」
 
「それまでに女の子になれたらいいね。でもあんた、もう男じゃなくなったみたい」
と天津子。
 
「あ、分かる?」
「そりゃ分かるよ。玉抜いたの?」
「手術受けたいけど、小学生の去勢手術なんてしてくれる病院は無いもん。今自分で機能停止させようと術を掛けている所」
「ああ、まだ完成してないのね」
「うん。まだ数ヶ月かかると思う」
 
「でもさすがだね。そういう方法があるんだ?」
「うちの資料室に方法を書いてある本あるよ。海藤さんなら見てもいいよ」
「じゃ後で寄らせてもらおう。女を襲うような悪い男をこらしめるのに覚えておこう」
 
「ああ、それは世の中のためになりそう」
 

ふたりは国道107号を少し花巻方面に走ってから細い林道に入っていく。 
「このあたりでいいかな」
と言って天津子は車を駐めてふたりは車を降りた。
 
「さて、やろうか」
「こないだみたいに崖崩れ起こしちゃうのは無しね」
「そうだね。いちおう物は壊さないようにしようか」
 
ふたりは3〜4mの距離を取って対峙する。お互い空手か何かの試合でもするかのように両手を軽く握って胸付近に構え、動きやすい体勢を取った。 

10分後、ふたりともちょっと疲れて、背中合わせに座り込んでいる。
 
「物壊さない約束だったけど、唐松4本倒しちゃった」
「こちらも赤松2本倒した」
 
「私が倒した本数多いから、私の勝ちでいい?」
と天津子。
 
「それで決めるの〜?」
「だけど川上さん、何かパワーが足りない」
「ごめーん。実は連休に入った後、何も食べてないもんで」
「断食でもしてるの?」
「いや、うちにお金が無いもんだから」
「あんたどういう生活してるのよ?」
「うち貧乏だから」
 
天津子は「呆れた!」と言ったものの、腹ぺこに勝ったのでは不満だと言って車に積んでいたおにぎりと非常食のカロリーメイトを出す。
 
「これでも良かったら食べてよ」
「助かる!」
 
青葉が食べ終わるのを待って天津子は
 
「じゃ後半は龍笛対決行こうか」
と言って自分の龍笛を取り出す。
 
そして吹き始めた。
 
さっきのふたりの対決のせいで周辺の鳥たちが少し騒いでいたものの天津子の笛の音にみんな沈黙してしまう。いや、この音が鳴っている間はとても声などあげることができないだろう。青葉はじっと天津子の笛を聴いていた。 

天津子の演奏は10分くらい続いた。
 
青葉は笑顔で拍手する。
 
「あんた笑顔ができるの?」
 
青葉はふだん能面のように無表情である。天津子は青葉が感情のあるような顔をするのはほとんど見たことがない。
 
「なぜかね、今の海藤さんの演奏聴いてたら、表情の封印が解けかけた。どうしたんだろう。海藤さんの笛の中に私の心を融かす要素が入っていたのかも」
 
「もしかしたら私が使った『電池』にそういう作用があるのかもね。あんたそのくらい食べただけじゃ体力回復してないでしょ。あんたにもこのエネルギー源、分けてあげるよ」
と言って、天津子は青葉の左手掌に梵字を描いた。
 
「何これ!?」
「そのエネルギー源は生身の人間だから、使いすぎないようにね」
「分かった! 非常用電源に使わせてもらう。でも今日は少し借りよう」
 
そう言うと青葉は自分の龍笛を取り出す。そして吹き始めた。
 
天津子の演奏が終わって、ホッとするかのように鳴き始めた鳥たちがまた沈黙する。鳥たちも今日は大変だ。
 

青葉の演奏も10分ほど続いた。
 
天津子は涙を流していた。ついでに天津子のそばに控えている《チビ》は凄く心地よさそうな表情をしている。
 
「負けた!」
と天津子は言った。
 
「私この半年、かなり頑張ったつもりだったんだけどなあ。あんた、また進化してるんだもん」
 
「海藤さんの龍笛は凄いよ。全てを圧倒する」
「川上さんの龍笛は優しすぎるんだ。全てを包み込んでしまう。私泣いちゃったよ」
 
「お互いの性格の違いかもね」
「でも川上さん、その優しさが致命傷にならないよう気をつけなよ。凶悪な敵は何の容赦もなく私たちに襲いかかる」
と天津子は言う。
 
「うん。命を賭して対峙しなきゃいけない時があるって、亡くなった曾祖母ちゃんからよく言われてた。そして必要なら相手を1発で殺せって」
と青葉も答えた。
 
でもまだ人を殺したことは無いなあ、と青葉は思う。
 
今日の青葉はとても優しい表情をしていた。何だか海藤さんから分けてもらったエネルギーを使っていたら、心の封印がほとんど解けかかっている。どうしよう?もう解いちゃおうかなあ、などと青葉は考えていた。
 

ところでこの日、北海道に住む千里はバスケ部で合宿をしていた。
 
「千里、どうした? 何か今日は元気が無いぞ」
とキャプテンの暢子に言われる。
 
「うーん。どうしたんだろ? なんか凄く疲れるんだよね」
と千里。
 
「合宿の2日目ってたぶんいちばん疲労のピークになるんだよ。千里少し休んだ方がいいかも」
と寿絵が心配して言う。
 
「うん。じゃ悪いけど1時間休ませて。そのあとまた頑張るから」
「じゃ1時間くらい寝てるといい」
「そうする」
 
それで千里は体育館を出ると宿泊棟の方に戻り、下着を交換して仮眠した。 

青葉と天津子は町に戻ることにする。天津子がモコの運転席に座り、青葉は助手席に乗る。
 
「どこから車で走ってきたんだっけ?」
「昨夜《はまなす》で津軽海峡を越えて、盛岡までJRで来てから、知り合いの人のところで車を借りて走ってきたんだよ」
 
「じゃまた盛岡まで戻るんだ?」
「うん」
「運転気をつけてね」
「ありがとう」
 
しかし青葉は何かがおかしい気がしていた。
 
「この車って軽自動車だよね? 軽自動車の免許って中学生になったら取れるの?」
「まさか。車の免許取れるのは18歳から。バイクやスクーターは16歳で取れるけどね」
 
青葉は少し考えた。
 
「まさか無免許?」
「中学生が運転免許持ってる訳無い」
「えーーー!?」
 
「でも運転楽しいよ。あんたも覚えない?」
「教えて!」
「いいよ」
 
それで天津子は車を停めると、運転席を交代する。
 
「この車はATだからゴーカートと同じだよ。ゴーカート乗ったことある?」
「一度仙台で乗った」
「右がアクセル、左がブレーキ。あとハンドル回す感覚を覚えておけば何とかなるよ」
 
「右足をアクセルに置いて、左足をブレーキに置けばいいんだっけ?」
「そういう運転の仕方もあるけど、お勧めできない。左足ブレーキ方式と言って、山道や海外沿いの道みたいな急カーブの連続する道を走り抜ける時に使う技法なんだよ。上級者のテクニックだから、まずは両方とも右足で、踏み替える方法を覚えた方がいい。それが基本だから」
「了解!」
 
それで天津子が助手席に乗ったまま青葉が運転して道路を走る。
 
「何かこれ楽しい!!」
「でしょ?」
 
ふたりの「運転レッスン」は30分ほど続き、物覚えの良い青葉はすぐに運転の要領を覚えてしまった。
 
「じゃ、このあと佐竹さんちまで青葉が運転していきなよ」
「そうしようかな」
 

実際には大船渡の市街地近くまで青葉が運転し、そのあと車の量が増えたので天津子に運転を交代して、佐竹家まで行った。
 
「この本なんだよ」
と言って青葉は天津子に本を見せる。
 
「何これ? 何が『性魔術入門』よ。中身は超高等魔術ばかりじゃん」
と天津子。
 
「天津子ちゃん、ヘブライ語が読めるんだ?」
「そのくらい常識でしょ?」
「私、その本読めるようになるまでヘブライ語2ヶ月くらい掛けて勉強したよ」
「2ヶ月もかかるなんて川上さんらしくない。外国語なんて1週間でひとつ覚えられるでしょ」
「そんなにすぐ覚えられるって、海藤さん、外国語の天才だと思う」
 
天津子はその本を熱心に読んでいる。
 
「ね、これ借りていってもいい?」
「いいよ。その本は既にスキャンも終わっているし」
 
青葉は3年前から人を雇ってこの蔵書の電子化を進めているのである。 
「じゃ借りていこう。ついでにこの本とこの本も借りていい?」
「うん。それもいいよ」
「よし。ちょっとこういうの覚えちゃおう。この男性器を縮小させる方法というのも面白そうだなあ」
「他人で実験しないように」
「自分じゃ実験できないし」
「確かに」
「川上さんのはもう立たないみたいだし」
「さすがに立たないよ」
 
と青葉は笑って答えた。
 
「でもこれ、ザインを使うとペニスが縮小するみたいだけど、アレフとかギメルを使うのも面白そうね」
と天津子が言うと
 
「え?」
と青葉は驚く。
 
「そんなのどこかに書いてあった?」
「書いてないけど、容易に想像が付くでしょ? ザインは剣を表す。ペニスに対応するのは妥当」
「そういうのは考えなかった」
 
「おそらく立っているペニスはザインで立っていない時は蛇を表すテットだよ。呪文はただの音の羅列じゃない。ちゃんと意味がある。たぶん睾丸を縮小するのは牡牛を表すアレフ。ギメルは女性を表すから卵巣の縮小。ベートは家を表すから恐らく子宮。門を表すダレトが膣かな。ただ、男性器の縮小に金星を表すネツァクを使っているから女性器の縮小は火星を表すゲブラーかも」
 
「それって逆に増大にも使えるってこと?」
「だと思ったけど」
 
「試してみたーい」
「ね?」
 
「これって病気の治療にも使えるよね?」
「悪化させるのにも使える」
 
「何か悪いことしてみたくなる」
「私も−」
 

ふたりはしばらく「いけない想像」で盛り上がった。ふたりで人間の色々な臓器、また病変などについて、この場合はこの文字を使うのではとか、この臓器はこの文字とこの文字の組合せだよね、などという話もした。そのうちふたりが元の呪文を変形させていった、ある呪文が「あれ?それって見たことあるよ」という話になり、別の本を見ていたら、確かにそのふたりが変形させた呪文とほぼ同じものが載っていたのである。それでふたりは自分たちの検討の正しさを確信した。
 
ふたりで検討した内容はノートにまとめ、コピーを取って1部ずつ持った。 
そのあと天津子は青葉を自宅近くのコンビニまで送ってくれて、それで別れた。 
「気をつけてね。おまわりさんに捕まらないようにね」
「平気。平気。おまわりさんがいる所は2kmくらい手前から分かるからやり過ごす」
「さっすがー」
 

連休が終わるまで青葉の一家は何とか一家心中をする羽目になることなく生きながらえた(母もお腹が空きすぎて自殺まで考えきれなかったのではないかという気がする)。青葉は取り敢えず溜まっている水道代と電気代だけ払ったので、水道と電気が復活した。未雨は「水が出る!」と喜んでいた。母も電気コンロで肉無し鍋物など作ったりした。
 
学校が再開されるが、青葉と登夜香は将棋の基本的なルールを覚えるとその先はわりとぐいぐい上達していった。5月中旬には矢倉を教えてもらい、それでお互い戦うようになる。振り飛車・居飛車などというのも習うが、ふたりがどこまで理解したかは不明である。
 

5月下旬。
 
運動会が開かれる。青葉が出るのは、徒競走(100m)、四人五脚、マスゲーム、そして鼓笛隊である。
 
徒競走は男子のグループで出たが、青葉は身体を鍛えているので1着でゴールする。するとゴール近くに居た保護者が
 
「今の競争、女の子がトップだったね」
「うん、凄いね」
 
などと話していた。
 
四人五脚は先生は最初男子と同じ組に入れようとしたのだが、他の男子が嫌がる。 
「先生、川上は女だから、女子と組ませてくださいよ」
とクレームが付くし、女子の方からも
「川上さん、私たちと一緒でいいですよー」
という声が出たので、めでたく女子と一緒に走ることができた。
 

昼休みは青葉は当然お弁当など無いのだが、当然青葉は弁当無しと認識している早紀が呼んでくれて、一緒におにぎり・稲荷寿司・唐揚げなど食べた。青葉は無表情なので、他の子の親はしばしば気味悪く思ったりするものの、小さい頃から青葉を知っている早紀の母は、優しく青葉に接してくれた。
 
昼休み直後に行われる鼓笛は、指揮者、カラーガード4名の後、ベルリラ2名、マーチングキーボード6名、大太鼓1名、そして小太鼓・メロディオン・ファイフ・リコーダーが多数という構成である。
 
大太鼓・小太鼓およびリコーダーは男子で、青い衣装(もちろんズボン)を着ており、メロディオンとファイフは女子で白い衣装(膝上のスカート)を着ている。青葉が女子の衣装を着てメロディオンの所にいるのを見て担任は
 
「川上、そうしてるとほんとに女の子みたいに見える」
と言ってから
「あ、ごめん」
 
と言ったが、クラスメイトたちは
「先生、川上は女に見えるのが当然だから、そこ謝る必要無いです」
と言う。
「いや、女に見えるというより実際女だよな?」
とひとりの男子。
「女子たちの話ではチンコ無いらしいし」
と別の男子。
 
すると早紀が
「青葉におちんちんある訳ないじゃん」
と言った。
 
この時期、青葉はひとりだけ別室で着替えていたので、青葉の最近の下着姿を見たことのある子は咲良・早紀・登夜香などほんの数人に限られていた。 

運動会のラストは6年生のフォークダンスなのだが、そのひとつ前に行われた5年生のマスゲームは男子が中央で組み体操をして、女子は周囲で人文字を作るようになっていた。
 
青葉はここでも最初男子の方に入れられそうになったものの、男子・女子双方からの声で、無事女子たちと一緒に人文字の方に参加することができた。 
「だって女と組んでピラミッドとかできませんよ」
「俺、川上の身体に触ったらチンコ立っちまった」
 
などと男子は言っていた。
 
この時期、青葉はまだ胸は膨らんでいないものの、脂肪の付き方は女子のようになってきていたのである。
 

6月に入った頃、青葉と登夜香が何とか形になる将棋を指すようになったので、宮坂君は他の男子部員と何度かふたりを指させてみた。
 
すると高確率で青葉や登夜香が勝つのである。
 
「おい、お前ら、手抜きすぎだろ。こないだまで歩の動かし方も知らなかった初心者に負けるなよ」
と宮坂君が言うか
 
「いや、こいつら強いですよ」
と対戦した部員は言う。
 
それで宮坂君が青葉と指してみたのだが・・・・
 
「負けました」
と言って10分後宮坂君は頭を下げた。
 
「え? 勝負ついたんですか?」
と青葉。
 
「どうしてこれが詰みなんですか?」
と登夜香も訊く。
 
「いや、この状態になっていたら、これをこう指して、ここからこう来ると、もう僕の玉は逃げ道が無くなる。だから僕の負けなんだよ」
 
「えー、そういうのさっぱり分からない」
と青葉は言っているが
 
「将棋では、この展開からは自分の負けは確定と判断できたら、本当に詰みになるまでは指さずに『負けました』とか『ありません』と言って負けを認める。これを投了というんだよ。試合では基本的に負けたと分かった側は投了するのがマナー」
と対局を見ていた別の6年生・木嶋君が説明してくれる。
 
「ボクシングでセコンドがタオルを投げ入れるようなもの?」
と登夜香が訊く。
「そうそう。それに近い」
 
「でも川上、物凄く強いじゃん」
と宮坂君。
 
「いや木村の方も凄く強いですよ」
と木嶋君が言う。
 
「お前ら凄い上達してる。随分勉強したろ? 中盤の展開が凄いもん。定跡の本とかたくさん読んだの?」
 
「じょうせきって何ですか?」
 
宮坂君は目をぱちくりさせる。
 
「あのさ、中盤の展開で」
と言って宮坂君は今の青葉との対局で結果的に勝敗を決した場面の盤の状態を再現する。
 
「ここでふつうの奴ならこの飛車を飛び込ませて成ると思うんだ。ところが、川上はここでいきなり金を打ち込んだ。なんでここで金を打とうと思ったの?」
 
「それはねー」
と青葉は登夜香を見る。
 
「そっちの方が駒の勢いが強くなるからだよね」
と登夜香は言う。
 
「どういうこと?」
「私も登夜香ちゃんも、特に中盤ではどう指していいのやら全然分からないから駒の配置を見て、こちらの勢いがより強くなる手を選択しているんですよ」
 
「勢いって?」
「それは盤を見れば分かるよね?」
と登夜香。
「うん。目玉焼きを焼いていて色が変わってきたのを見て火の通り加減を判断するのと似た感覚かな」
 
宮坂君は少し考えると、教室内のパソコンで何かを検索し、それを見て盤上に駒を並べてみた。
 
「ここで先手は次、どういう手を指すのがいいと思う?」
 
青葉は即答で二段目にある馬を六段目まで下げた。
 
「凄い。正解! これは去年の大王戦七番勝負で勝敗の分かれ目になった1手なんだよ」
 
「でもこれ分かるよね?」
と青葉は登夜香に訊く。
「うん。私でもそこはそう指す」
 
「これ普通の奴なら五段目に下げるんだ」
「五段目に下げるのは敗着になると思う」
「うんそれは酷い手」
 
「お前たち天才なんじゃない!?」
 
ところがそこで、ふたりのことを知っている子が言う。
 
「こいつら霊感がハンパ無いから、霊感で指してるんですよ」
「霊感?」
と宮坂君が聞き直す。
 
「木村のお祖母さん、それから川上の曾祖母さんが、物凄い霊能者なんですよ」
「へー!!」
 
と言ってから、
「あ、そうか。うちの兄ちゃんの祈祷してくれた木村さんって、もしかして君のお祖母さんだったのかな」
と言う。
「木村って名前で祈祷するんなら、そうかも」
と登夜香。
 
「川上の曾叔母さんも凄いの?」
と宮坂君。
 
「凄かったらしいです。もう亡くなったんですけどね」
と登夜香。
 
「へー」
と宮坂君は感心するように言った。
 

6月上旬。ひさしぶりに青葉の父が帰宅した。
 
「これで色々溜まってるものを払っておいてくれ」
と言って母に100万円近くありそうな札束を渡す。
 
「父ちゃん、犯罪はしてないよね?」
と母。
「馬鹿。それは土地の取引で儲けたんだよ。高速道路の計画を偶然耳にしたからさ。そこに引っかかる土地を去年買っておいたら、それが倍の価格で売れたんだ。どうせなら、もう少し買っておけば良かったよ」
 
「いや、そういうのは儲けすぎたら警察が怪しいと思って調べると思う」
「そうだな。この程度なら警察も騒がんだろうし。さて、風呂入ってからまた出かけようかな」
 
「ごめん。ガスが止まってるからお風呂無理」
「あ、そうか。すまん。じゃ銭湯行こう」
「それもいいね」
 
そこで一家4人、父が乗ってきたセドリックに乗って市内の銭湯に出かける。 
「この車、大きーい」
と未雨がはしゃぐように言う。
 
「仕事上の取引はハッタリが大事だからさ。それでこういう車を乗り回しているんだよ」
と父は言った。
 
母に唐突に100万円(くらい)渡したし、お父さんの商売、うまく行っているのかな、と青葉は思った。
 
父は機嫌がいいようで、銭湯に行く途中、通りかかった公園でいったんみんなを降ろし、青葉と未雨が並んでいる所の写真を撮った。母にも入れと言ったものの母は「私はいい。お化粧してないし」などと言っていた。
 

やがて銭湯につく。ここで入口が別れている。母と姉は女湯の方に行く。青葉は、自分もそちらに行きたいよぉとは思ったものの、父に連れられて男湯の方の暖簾をくぐった。
 
入口で父が料金を払おうとした時、番台のおばちゃんから言われる。
 
「その子、小学生じゃないの?」
「ええ。小学3年生ですけど」
 
私、5年生なのに!?と青葉は思う。まあ最近ほとんど家に戻らないから子供の学年を覚えてないよね。
 
「小学生は混浴できませんよ。女の子は女湯に入れてください」
 
父は戸惑ったような顔をして
 
「こいつ男ですけど」
と言う。
 
「あれ?そうだった?ごめーん」
 
それで中に入る。脱衣場を見ると男の人ばかり!
 
いやだなあ、と思いながらも青葉は服を脱ぐ。
 
「なんだ。お前、女みたいな服を着てるな」
と父から言われる。
 
青葉は女物のスリーマーと女の子用のショーツを穿いている。
 
「私、こういうの好きだから」
「まあいいか」
 
しかし青葉が明らかに女の子の風体で、女の子の服を着ているのを見て、周囲の視線が凍り付いているのを青葉は認識していた。
 

取り敢えずお股の付近はタオルで隠して浴室に移動する。ここでもギョッとする視線が多数。きっとこれ小学生の女の子が男湯に入って来たと思われてるよなあと青葉は思った。
 
身体を洗うが、お風呂に入ったのは2週間ぶり(早紀の家で入れてもらった)だったので、髪は3回洗ってやっとまともになった。
 
湯船に入る。父は筋肉質の身体でむだな贅肉がまるで無い。まあ贅肉がつくほどまで御飯を食べられないのかも知れないけどな、などと青葉は思う。父の話を聞いていると、4−5日御飯が食べられないまま仕事をしていたりすることもあるようだ。
 
父はいきなり青葉のお股を触った。
 
「ふーん」
「どうしたの?」
「付いてるなと思って」
「これ手術して取りたい」
「女になりたいのか?」
「なりたい」
「まあ金は出してやれんけど、大人になったら自分で金貯めて手術すればいい。同意書くらいは書いてやるぞ」
「ありがとう。そうする」
 
「でも毛とかまだ生えてないみたいだな」
「私、そういう発達遅いのかも」
 
父は頷いていた。
 
「お父さん、左手の肘、どこかにぶつけた?」
「ああ。半月くらい前に倒れて来た鉄骨が当たったんだよ」
「よく無事だったね!」
「一瞬、気を入れたからな」
「気を入れておくと衝撃は小さいよね。でもちょっと貸して」
 
と言って青葉は父の左手のひじを出してもらうとそこに手を当てて《手当て》をした。
 
「ああ、なんだか痛みが少し取れた気がする」
「お風呂入っていれば速く良くなると思うよ」
「なかなか入れん。きょうは2ヶ月ぶりくらいだ」
「大変だね!」
「でもこういう治療は、お前、曾祖母ちゃんゆずりみたいだな」
「うん。曾祖母ちゃんに色々教わったんだよ」
「その体質をお前は引き継いでいるみたいだ」
「でもお父さんのお祖母ちゃんも巫女さんしてたんでしょ?」
 
「うんうん。俺の母さんの母さん・麻杜鹿さんが神がかりになる巫女だったらしい。俺の父さんの母さん・初子さんは歌手で若い頃はレコード結構吹き込んだらしいけど、霊感が強くてプロじゃないけど他の歌手とか作曲家とかに頼まれて占いをしてたというんだよな。どの曲が当たるかとかどの新人が売れるかとかピタリと当ててたらしい」
 
「すごーい」
 
「お前のお母さんの、母方の祖母ちゃん・賀壽子さんはご存じ凄い拝み屋さんだったし、父方の祖母ちゃん・桃仙さんはイタコをしていたんだよな」
 
「うん。そのあたりはお母さんから聞いた」
 
「青葉はたぶん4人の曾祖母ちゃんから、霊感体質を受け継いでいるんだよ」
 
と父は言った。
 

「だけど俺は霊感あまり無いし、お前の母ちゃんは全く無いし、未雨も霊感ゼロだよな」
と父は言う。
 
「霊感ってたぶん劣性遺伝なんだよ」
「うんうん。そうかもという気はする」
 
青葉の父に関する記憶というのは、その半分以上が殴られたり、殺され掛けたりという記憶なのだが(父は少なくとも5回以上青葉を殺し掛けている)、このお風呂で30分くらい話したのは、数少ない「優しい父の記憶」だ。おそらくは商売が思いの外うまく行って、とても機嫌が良かったのだろうという気もする。 
お風呂からあがって服を着ていた時、さっき入って来た時に番台に座っていたおばちゃんが男湯脱衣場の掃除をしていた。そのおぱちゃんが青葉を見て言う。 
「あんた、やはり女の子だよね?」
「え?」
「だっておちんちん無いじゃん」
 
青葉はちょうどあのあたりの《始末》をしたところであった。
 
「すみませーん。ごめんなさい」
と青葉は言う。
「あんた、娘さんはちゃんと女湯に入れてあげないといけないじゃん」
とおばちゃんは父にも言う。
 
「あ、済みません」
と父は謝った。言い訳するとよけい揉めそうなので取り敢えず謝った、と父はあとから言っていた。
 
「青葉、やはりお前もうチンコ無いんだっけ?」
と父は青葉に訊いたが
「えへへ。秘密」
と青葉は答えた。
 

父は翌朝、母と大喧嘩してまた飛び出して行った。
 
「なんかいつものことだねー」
と未雨が言うが青葉も同感である。
 
中旬。青葉たちの学校の将棋部は、将棋の気仙地区大会に参加した。大船渡市・陸前高田市・住田町という「旧気仙郡」から8つの小学校の12の将棋部チームが参加した(2006年までは気仙広域生活圏と呼ばれていた地域。この地域には当時28の小学校があった)。
 
青葉たちの小学校からは2チーム出たが、Aチームは大将宮坂(6)、副将木嶋(6)、三将大村(5)、四将登夜香(5)、五将青葉(5) というメンバーで臨んだ。この代表を決めるのには部内でランダムな組合せで4局ずつ対局し、4勝した宮坂部長と登夜香・青葉を確定として、3勝した6人で早指しのリーグ戦をし、成績上位の木嶋・大村をAチームに入れ、残りの4人と、もうひとりは宮坂君が指名して5人でBチームを編成した。宮坂君は4勝の登夜香と青葉を副将・三将にしようとしたのだが、ふたりが抵抗したので四将・五将にしている。
 
剣道や卓球の団体戦なら順番に出て行って1人ずつ対決するが、将棋や囲碁の場合は盤を5個並べて置いて同時進行である。登夜香と青葉がチェスクロックの使い方を知らないことが当日判明したので、慌てて宮坂君が使い方を教えていた。 
Aチームは1回戦が不戦勝で2回戦からであった。1回戦から勝ち上がった住田町のチームと当たったが、宮坂君・木嶋君・登夜香・青葉が勝って勝ち上がる。相手は全員男子だった。更に準決勝で同じ大船渡市内の学校と当たるが、これは5人とも勝った。向こうのチームは四将の登夜香の相手だけが女子で他4人は男子だった。
 
そして決勝戦になる。相手は2回戦で青葉達の学校のBチームを破っている陸前高田市の学校である。副将が女子の他は4人男子だ。
 
早々に登夜香と青葉が相手の四将・五将を倒す。そのあと三将戦が決着が付き大村君が敗れる。残り2つが接戦になっていた。木嶋君と対戦している女の子が凄く強そうなオーラを持っていた。やがてその子の1手を見て木嶋君が投了する。
 
「もしかして、あの女の子、大将の人より強くないですか?」
と青葉が大村君に小声で訊くと
「俺もそう思う。本当はあの子が大将になるべき所だけど女だから遠慮したんだろ」
と彼も答えた。
 
そして勝負は宮坂君と相手大将の対局次第となる。青葉が見た感じでは宮坂君が劣勢だ。青葉は、あくまで「駒の勢い」で判断しているので具体的な決着への道のりが見えている訳ではない。
 
しかしここで相手大将が明らかに間違った手を指した。青葉は思わず声を出したくなったが、宮坂君は冷静に正しい応手を指し、それを見て相手の大将が「あっ」と声を出す。おそらく将棋の分かる人にはかえって見えにくい筋だったのだろう。
 
そのあとお互いに1手ずつ指した所で相手が「負けました」と言った。 
登夜香が「これどうして投了なの?」と小声で聞くが、それは青葉も分からないので「分からなーい」と素直に答えた。でも周囲のギャラリーを見ていると、そこで見ている人の多くは投了の理由が分かっているようだった。
 
別の所で3位決定戦も行われていた。それで1−3位が表彰される。青葉たち5人と顧問の先生も並んで、記念写真もとってもらった。
 
「気仙大会で優勝したから来月盛岡で県大会な」
「えー? 私、交通費無い」
などと青葉が言ったら
「交通費くらい学校から出るよ」
と宮坂君は笑って言った。
 

7月。学校は夏休みに入る。青葉は今年の夏休みは生きて過ごせるかなあと少し不安になった。夏休みは1ヶ月にわたって学校が無いので、青葉も未雨もその間給食が食べられない。6月に父が母に渡した100万円は溜まっている公共料金や学校の納入金を支払ったら半分近く無くなり、その後一部の借金を返済したら数日で全部無くなってしまった。ただ母は7月からまたパートに出始めたので、とりあえず8月上旬にはお給料が入るはずである。しかしそれまでの生活費は無い! 青葉は「またお父さんの名前でお母さんの口座にお金振り込むかなあ。でも口座に入れると変な物が引き落とされてしまう可能性もあるし」などと悩む。 
ところが夏休みが始まってすぐの土曜日、祖母(母の母)市子がやってきて、「あんた、パートに出てるなら日中、未雨と青葉をうちで預かろうか?」と言ってくれた。それでふたりは取り敢えず毎日お昼御飯は食べられることが確定した!
 
青葉は母や姉が居ない時に祖母に尋ねた。
 
「私さあ、やはり霊的な相談事でもらった報酬、お母さんに渡した方がいいのかなあ」
「それはやめときなさい」
と市子は言う。
 
「あんたにそういう収入があると分かったら、あの子はあんたに頼りっきりになる。本当は親が子供たちを育てる義務がある。あの子、無責任すぎるんだよ。だからあんたが収入を得ていることは秘密。あんた自身もよけいな現金は持たないようにしておきなさい」
 
「そうだね。やはり今まで通りにする。お祖母ちゃんには毎月2万渡すね」
「まあそれで私もあの子に毎月4万渡しているんだけどね」
 
祖父が事実上寝たきりになっているので、年金暮らしの祖母の家も決して楽な状態ではない。
 
「それで私もお姉ちゃんも無理心中させられなくて済んでる」
「危ない親だなあ」
 
「お母さん、彼氏からも毎月いくらかもらってるみたい。彼氏の所に私たち連れて行ってもらって、一緒に御飯食べたこともある」
 
「お前たちのお父さんとはどうなってるの?」
「お父さん、最近は何ヶ月かに1度しか帰ってこないよ」
「離婚はしないのかね?」
「お互いに好きではあるみたいだよ。帰って来たら、ちゃんと一緒に寝てるもん」
 
「あんた、ませたこと言うね」
と祖母。
「私、小1の頃からおとなと話してるみたいだと言われてた」
 
「でもあんた寝るって意味分かってんの?」
「うーん。実はあまりよく分かってないかも。あのあたりとあのあたりで、ああするのかなあ、とかは思うけど」
「まあ、だいたいそういうことだよ」
と祖母は少し苦しそうに笑いながら言った。
 
「でもあんたはそういうおとなの夫婦のすることの、どちら側になりたい訳?」
「おちんちん使いたくないよ。私、入れられる方になりたいよ」
「そうなれたらいいね」
と祖母は優しく青葉に言った。
 
 
 
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