【春牛】(5)

前頁次頁目次

1  2  3  4  5 
 
仙台では、和実の新しいお店が入る、クレール青葉通り店のビルが4月6日(月)に竣工して、播磨工務店からCMPに引き渡された。コロナ対策でかなり追加の設備を作り込んでもらったのに、播磨工務店は工期を遅らせずに予定通りの日程で竣工させた。
 
CMPでは各テナントにビル側としてのコロナ対策の要点を提示した上で、各々の体制が整ったところでオープンしてほしいと伝え、取り敢えず6月までの家賃は無料にすると表明した。
 
CMP (Clair-Moulin-Phoenix) このビルと土地を所有し運営する会社
Clair メイド喫茶(店長・チーフはマキコ)
Moulin トレーラーレストラン(前庭に駐める)
TKR仙台スタジオ TKRアーティストのための貸しスタジオ(4-5F)
SC-Studio (Summer girl - Clair) スタジオの機器を所有し技師を雇用する会社
Phoenix Sports スポーツ用品販売会社
Phoenix Dream アクセサリー販売会社
Moulin Rouge ムーランのお菓子ショップ
ニューバンブーパン 竹西道佳(マキコの妹)が運営するパン屋さん
§§ Fan §§ミュージックのタレントグッズのお店
Twilight青葉通り店 美容室(店長は胡桃)
仙台楽器 楽器店
TKR Sounds 仙台店 CDショップ
 
CMPとクレールはどちらも和実(+淳)・若葉・千里の出資だが、出資比率が違う。
 
CMP 和実50% 若葉10% 千里40%
Clair 和実51% 淳21% 若葉19% 千里9%
 

ビルは既に各テナントの場所はパーティションなどで切ってあるので、必要な棚や設備、そして商品を搬入するだけである。レジに関してはCMP側で一括導入しており、クレカやスマホ決済が全ての店舗で使用できる。むしろできるだけ現金決済をしないで欲しいとテナント側に要望した。
 
駐車場は地下に26台、地上に3台の合計29台駐車可能である。
 

2020年4月1日(水).
 
上野美津穂は新たに借りた金沢市内のアパートから、市内のX電子の本社に出勤した。大会議室で入社式を終えた後、とりあえず勤務部署となるカウンセリングルームに行く。このあと2週間にわたり、白山市の研修所で新人研修を受けるのだが、その前に上司や同僚となる人たちに挨拶しておこうと思ったのである。
 
「おはようございます。新人の上野です」
と言って部屋に入って行ったのだが
「えっと、ごめんなさい。今日はカウンセラーさんお休みなのよ」
と中に居た30代の白衣を着た女性に言われる。
 
どうもクライアントと誤解されている気がする。
 
「あのぉ、私、相談とかに来たのではなく、このカウンセラー室に務めることになっているのですが」
「あんた、カウンセラー?」
「はい。一応、認定心理士と産業カウンセラーの資格は持っています」
 
ちなみに認定心理士というのは大学の心理系学科を卒業すれば自動的にもらえる資格である。産業カウンセラーは通信講座で取得できる(12日間の演習が必要だが、これは3年生の夏休みに受講した)。どちらもカウンセラーの入門資格のようなものである。
 
「助かったぁ! カウンセラー室の本山室長が今朝倒れて病院に運ばれてさ、もうひとりの相談員の高橋カウンセラーも3ヶ月前から精神不調でずっと休職してるし、どうしようと思っていたのよ。ここあなたにお願いする」
 
「私、午後から2週間の新人研修に行く予定なのですが」
「それはパスしていいよ。私が教育係の村里課長に連絡するね」
と言って早速電話している。名前を訊かれたので、入社書類を見せる。
 
それで話はまとまり、美津穂は新人研修はパスになって、いきなり初日からカウンセラー室を任されることになった。任されるというより、本来3人のカウンセラーがいるべき部署なのに2人ダウンしていて、自分1人だ。
 
美津穂は「じゃよろしく。困った時は私に連絡して」と言ってその女性が置いていった《医務室補佐・看護師・水村多恵》という名刺を見詰めながら1人でカウンセリングデスクの椅子に座って腕を組んで考え込んだ。
 
「逃げるは恥だが役に立つか・・・」
と美津穂は呟いた。
 

同じく4月1日、美由紀は入社することになった北陸造形の事務所に出て行った。
 
「おはようございます。こちらに入れて頂くことになった石井です」
と入口で挨拶したのだが、反応が無い。
 
しかし中で電話をしている人の声は複数ある。今受付の人全員ふさがっているのかな?と思い、しばらく待つ。
 
2-3分経過したところで、1人電話が終わったようだ。
「すみませーん」
と声を出すと、自分と似たような年齢の女性が出てくる。
 
「おはようございます。アポイントはございましたでしょうか?」
と疲れたような顔で尋ねる。
 
「あのぉ、今日こちらに入社することになっている石井と申しますが」
「新人さん?どこの出身?」
「G大学の芸術学科デザイン専攻です」
「だったらポスター描ける?イラレ(*1)使って?」
 
(*1)Adobe Illustrator(イラストレーター)のこと。
 

「はい。イラレはいつも使っています」
「よかった。こっち来て。明日までに納品しないといけないポスターがまだ20枚あるのよ。でもスタッフの大半が風邪で倒れちゃって」
 
その風邪って、まさかアレじゃないよな?と美由紀は不安を感じた。
 
「あ、そこにアルコールスプレーあるから手の消毒してね」
「はい!」
 
しっかりと手にスプレーをかける。
 
「じゃこの端末使って。id/passはそこに貼ってある通り」
 
待て。id/passを紙に書いて貼っておくなんて、あまりにも無防備すぎないか?
 
しかしともかくも、美由紀は挨拶も辞令もないまま、いきなり実戦に投入された。
 
美由紀は青葉からもらっていたマスクを1枚取り出すとしっかり装着し、持参のアルコール入りウェットティッシュでキーボードやマウス、液タブ、更にパソコン本体、最後はテーブルの上も拭いた。このアルコール入りウェットティッシュまた買っておかなきゃと美由紀は思った。
 

同じく4月1日。明日香は東京で全国一斉の入社式に臨んだ。
 
本来は大きな体育館に全国の支社の新入社員が集められ、社長その他の訓示がある予定だったのだが、時節柄大勢集まるのはまずいということになり、ホテルが会場になっていた。飛行機代金が振り込まれていて東京に出てくる手段は自由ということだったので、青葉に電話して先日まで通学に使用していた赤いアクアを借りて東京まで走って来た。青葉から聞いた江戸川区の駐車場に駐める(ここは乗り捨てでいいと言われた)、車中泊後、早朝の電車でホテルまで移動した。フロントで書類を見せるとキーをくれるので部屋に入る。部屋は1人1室である。どうもこのホテルを丸ごと一週間借り切っているようだ。
 
そして今朝は各部屋の中で各自のスマホで社長の挨拶などを聞いた。正直これは楽でいいやと思った。寝転がって聞いていられる。
 
午後からは、神奈川県の研修施設に移動して、1週間の新人研修を受けることになっている。夕方にはこのホテルに戻って来る。明日は朝からになる。普段の年なら研修施設の宿泊部屋に数人ずつ泊めるのが、今年はそれも避けたようだ。明日香は「お金かかってそう」などと思いながら、役員さんたちの挨拶など聞かずに、たくさん渡された資料を読んでいた。一週間の新人研修の後は2ヶ月掛けて全国の支社をまわり、この会社で販売している様々な製品についても学ぶ。その後で、やっと金沢支社に配属されて通常の勤務が始まる予定である。それで明日香はその時点で金沢市内にアパートを借りようと思っていた。
 
午前中で入社式が終わり(実は後半は眠っていた)、11時から12時半までの間にレストランでランチを食べて下さいという指示だったが、レストランに入る所に看護師さんが5人程居て、検温をしている!どうもその検温の列に並んでいる間に咳をしている人は排除しているようである。明日香が待っている間に1人肩を叩かれ、書類を渡されて帰宅するように言われていた。どうも風邪症状が出ている人はこの一週間の研修を免除するという趣旨のようである。かなりピリピリしているなと明日香は思った。
 
明日香は無事検温もパスして、ホテルのレストランでランチを食べた後、トイレに行ってから、玄関の前で研修施設に移動するためのバスを待っていた。
 
さっきスマホを通して訓示をしていた社長さんが出て来たので会釈をする。運転手さんらしき人がレクサスのドアを開けてその社長を中に入れる。それで運転手さんは反対側に回って運転席に行こうとした。
 
ところがそこで派手に転んでしまう。
 
びっくりして周囲の人が集まる。
 
運転手さんは気を失っている。どうも転んだ拍子に頭を打ったようだ。
 
ひとりの人が運転手さんの名前を呼んで身体を揺すろうとしたのを明日香は停めた。
 
「脳震盪を起こしているみたいです。揺らしたらいけません。静かに持って取り敢えず歩道に移しましょう」
 
それで数人の男性で抱えて、そっと歩道に移した。明日香はパンフレット類の入った紙袋を運転手さんの頭の下に敷いた。
 
「救急車を呼ぶよ」
と言って、1人の男性が119番した。レクサスに乗り込んでいた社長さんも降りてきて心配そうにしている。
 
「そうだ、社長のご予定は?」
と50代くらいの男性が尋ねた。福石という名札を付けている。
 
「みなとみらい21まで行かないといけないのだけど、誰か運転できる人?」
「若田に運転させますよ。呼んできます」
と言ってひとりの男性が走って行った。ところが4-5分経っても戻って来ない。
 
やがて救急車が来たので、倒れた運転手さんを救急車に乗せ、ひとりの男性社員が付き添って救急車は病院に向かった。5分も意識を失ったままというのはヤバいなと明日香は思った。
 
「佐藤君はどうなったんだ?」
と福石という名札を付けた男性が言う。
 
「若田を探しているのかも」
「私は時間が無いんだが」
と社長さん。
 
「困ったな。僕はここを離れられないし」
と福石さんが言っていたが、ふと明日香と目が合った。
 
「君運転できる?」
「はい」
「運転歴何年?」
「3年半です」
「だったら安心だ。君、社長をみなとみらい21まで送れる?カーナビはある」
「カーナビがあるなら大丈夫です」
「だったら頼む」
「分かりました」
それで明日香は急遽、社長を乗せたレクサスを運転して、横浜のみなとみらい21まで行くことになったのである。
 
そしてこの日明日香は結局社長の行程に付き添い、1日東京・神奈川の数ヶ所を巡ることになる。運転手役のみならず鞄持ち・秘書役も務めた。
 
明日香は社長から
「君、運転うまいし、気が利くね」
と褒められ、御礼にこれあげるよと言われて、帝国ホテルの御食事券までもらってしまった。
 
明日香の入社1日目はこのよう突発事項の対処から始まった。
 

同じく4月1日。
 
吉田邦生(よしだ・ほうせい)は入社することになっていたH銀行の入社式に出るため、紺色のビジネススーツを着て富山市の入社式会場に向かった。
 
この銀行は金沢市で創業したが、支店は石川・富山両県にまたがっており、本部は現在、富山市におかれている。吉田は金沢支店に勤務する予定である。支店とはいっても、実はH銀行創業の地に立つ支店で、石川県本部のような地位の大きな支店である。
 
会場は富山市内のホールの予定だったのだが、帝国紡績工場跡に変更になりましたという通知が来ていた。そして車を運転してこれる人は車のまま集まって下さいということであった。吉田は母のミラココアを借りて、カーナビにその住所をセットし、出かけて行った。母はこの車を通勤に使っているのだが、一週間はバスで通うよと言ってくれた。
 
会場入口で窓を開けて書類を見せると最初に体温計と紙を渡される。鼻をかんでくださいと言われたのでその紙で鼻をかんで差し出されたトレイに置いた。体温計は36.2度だった。
 
「それでは中に入って下さい。空いている駐車枠に前の方に詰めて駐めて下さい」
 
と言われたので進入して空いている所に駐めた。袋の中身を見ると、1つは様々な書類の類いと、もうひとつは制服のようである。制服があったんだっけ?普通のスーツでいいみたいに聞いていたけどなあと思う。書類入れの中にネックストラップのついた赤い縁取りの社員証があったので首に掛ける。タブレットが入っているので、吉田は(外光が少なく画面が見やすい)後部座席に移動して、タブレットのスイッチを入れた。
 
吉田のミラココアの隣にはラパンが駐まった。が、運転してきた人は降りて行ってしまう。どうも車で乗り入れなかった人は適当な車に乗せて駐車場内に駐めるということのようである。とにかく多人数が同じ閉鎖空間を共有しないようにという方針のようである。
 
ラパンの後部座席には女子が2人乗っている。こちらも向こうも窓を開けているのであちらの会話が聞こえる。どうもスカートの裙の長さを気にしているようである。
 
「あんた、それ短かすぎない?」
「立って膝がギリギリ出るくらいと言われたんだけど、これ以上長いと膝が隠れてしまうんだよね」
 
女子はそんな面倒なことまで言われるのか。大変だなあ、などと思った。
 
タブレットのスイッチをまだ入れてない人は入れて下さいという場内アナウンスがある。やがてタブレットの画面に頭取さんが登場し、入社式が始まった。
 
頭取の挨拶のあと、何とか部長とか課長とかが登場し、社会人としての心得、銀行員としての心の持ちようのような話が続き、H銀行の社歌が、伴奏の音に歌詞・楽譜まで表示されるので、それを歌って入社式は終了した。
 
その後、午後からは研修センターに移動して、このあと1週間新人研修と言われる。バスで移動するので、車はそのままここに駐めておいて下さいということだった。何台ものバスが来ている。車を降りて列に並ぶが、バスの乗り口の所で社員証をタッチする。すると時々連れ出されて何か言われている人がいる。どうもさっきの鼻かみ紙でウィルス検査をして陽性だった人を退去させているようだ。研修免除になるのだろう。実際にはインフルや普通の風邪が多いようだ。
 
吉田は何も言われないままバスに乗り込む。そして南砺市にある研修センターまで行った。入口で社員証をタッチすると部屋割の印刷された紙が出てくる。部屋で制服に着替えてきてくださいと書かれているので、その紙を持って吉田は408号室に行った。部屋に入ると、まだ誰も来ていないようである。それで制服に着替えるのに吉田はスーツの上着とズボンを脱いだ。
 
そして紙袋の中にある制服を取り出して、困惑した。
 
「これ女子用じゃん。間違って入れられているよ」
と吉田はつぶやく。
 
最近は女子でもズボンの制服という企業は時々あるが、男子にスカートの制服を着せようという企業はたぶん日本には無いだろう。
 
それで、いったん服を着て係の人に言いに行こうとした。ところが吉田がまだ服を着ない内に、ドアを開けて“女性”が2名入って来た。
 
そしてワイシャツと下は下着だけの姿の吉田を見るなり
「きゃー!」
と悲鳴をあげた。
 

同じく4月1日。
 
世梨奈は入社することになっている金沢市内のJ交易に向かった。初日なので女性用ビジネススーツを着て、新しく借りたアパートを出る。
 
バスに乗っていったん金沢駅まで出てから乗り換えて、会社のある所まで行く。もっと近くにアパートを確保できればよかったのだが、中心部にはあまり安いアパートが無かったのである。
 
会社はバスを降りてから5分ほどのビルの4階である。エントランスを入り、エレベータで4階まで上がる。J交易はエレベータを降りて右手に行った所にある・・・はずだった。
 
ところが、世梨奈がそちらに行ってもそれらしきオフィスが無い。
 
「あれ〜?階を間違えたっけ?」
と思い、会社から送られてきていた書類を取り出して見る。
 
確かに「**ビル4F」と印刷されている。
 
実は就職の面談とかは駅近くの貸し会議室で行われたので、会社に来るのは今日が初めてなのである。
 
まさかビルを間違えた?と思い、いったん1Fまで降りてエントランスでビルの名前を見る。確かに**ビルと書かれている。
 
世梨奈はエントランス入ってすぐの所にあるテナントの一覧表を見てみた。確かに4Fの所にJ交易の名前がある。世梨奈は再度エレベータで4Fまであがった。しかしJ交易の事務所は見つからない。
 
困っていたら、近くの##信販という看板のある事務所から出て来た女性が世梨奈に声を掛けた。
 
「何かお探しですか?」
「あのぉ、このビルにJ交易ってありませんか?」
「あなた債権者?」
「さいけん?」
 
「J交易は倒産したんだよ」
と女性は言った。
 
「え〜〜〜〜!?」
と世梨奈は驚いて声をあげた。
 

仙台のクレール青葉通り店のビル“クレール青葉通りビル”は4月6日(月)に竣工して引き渡しが行われたのだが、その時期青葉は東京で日本選手権をやっている最中で行くことが出来ない予定だった(結局日本選手権は中止されたが、どっちみち遠距離の移動は自粛になった)。
 
和実からは竣工した時点で変なもの(幽霊や妖怪など)が入ってこないように結界を作って欲しいと頼まれていたのだが、これをどうしようと悩んだあげく、結局和実にセルフサービスでやってもらうことにした。
 
3月7-8日は復興支援イベント(おりしも流行中の新型コロナウィルスの感染拡大を避けるため“無観客”の宮城ハイパーアリーナからリアルタイム中継という変則的なイベントになった)で仙台に行き、翌9日にはまだ建築中のクレール青葉通り店ビルに行ったので、この時、基礎的な仕掛けを作っておいたのである。
 
そして和実には遠刈田のこけしを4体とそれを入れるプラスチック製の筒に水晶玉を渡した。
 
「これを建物の引き渡しを受けてから、建物の最上階四隅に置いて欲しいんだよ。こけしは外側向きにして。その後でこの水晶玉を和実が建物の中心部分で握って「結果作動!」って心の中で言えば、それで作動するから」
 
「私がそれしていい訳?」
「和実だからできる。和実はまだ充分能力の高い巫女だからね」
「そうかな」
 
「置くって単に置けばいいの?固定しなくてもいい?」
「この人形は固定したらダメなんだよ」
「誰かが動かしたら?」
「できるだけ触られにくい場所に置いてほしいけど。そうだ。ムーラン建設さんに頼んでさ、追加料金は私が払っていいから、最上階の四隅に近い所にこれを載せられる籠みたいなのを取り付けてもらえないかな。普通の人の手が届かない高さに」
 
「ああ、それはできると思う。それでそこに載せればいいのね」
「うん。ただし載せるのは和実自身でやって」
「頑張る」
 
そういう訳で、ここの結界は和実自身の手で作動させたのである。竣工式には千里も来てくれたのだが「おお、凄い結界が作動した」と言ってくれたので、うまく行ったのだろう。和実自身にも強い結界ができたこと自体は分かった。
 
こけしを置いた6階は、警備員が巡回する以外はほとんど人が通らないので、こけしを誰かが悪戯するような恐れもない。
 

 
感染症対策だが、クレール青葉通り店のビル自体のエントランスの所にアルコール消毒器を置いている。感応式の水道蛇口みたいな仕組みで、手を差し出せばアルコールが噴出して手を消毒してくれる。またマスクをしていない客には無料でマスクを配布し、店内ではマスクを付けて過ごして欲しいということにした。実はマスク目的で来店している人も若干いるようだが、それは構わない。また入口に赤外線による体温チェックシステムを作り、熱のある人は入店拒否する(自動でゲートが閉まる)。このため、店の入口に警備員を立たせている。
 
クレールの店内には強制換気システムを作り込んでウィルスが室内に漂っている状態にならないようにしている。この仕組みは若林店にも作り込み、若林店でもマスクの無料配布をしている。飲食の際はマスクはつけられないが、飲食が終わって歓談したり、お勉強やお仕事などする人はマスク付けておいてねと案内している。
 
クレールの店内は青葉通り店の場合、本来4人掛けのテーブル70個で定員280人なのだが、各テーブルは最大2名とし、3人以上が席に着くのを禁止した(幼児連れの客を除く)。そしてテーブルの周囲に透明ビニールで仕切りを作り、店内は強制換気でかなり強い空気の流れがある。排気はボイラーの中を通すようにし、ウィルスが絶対ビル外に出ないようにすることで、周囲のビルの理解も得ている。そしてこのクレールを絶対安全空間にすることで、他の店舗の安全性も確保する戦術を採ったのである。
 
美容室トワイライト、§§グッズのお店、に関しては各々の店内で客を待たせないようにし、予約制とした上で、予約より少し前に来た人はクレール店内で待ってもらうことにする。そしてスマホで順番が来たことが表示されてから店内に入ってもらうことにした。美容室はセット席の数(かず)分の人数しか中に入れないし、§§グッズのお店も1度に店内に入れるのは1人だけとし(友人や恋人・家族は2人まで可)、買物は5分以内に済ませて次の人に譲ってもらうことにした。待っている人には店内商品のカタログを渡して見ておいてもらう(カタログは返還不可:不要ならゴミ箱に捨ててもらう)。
 
パン屋さんも店内に1度に入るのは1人だけとして外で待つ人も5人以内(列は“横向き”に並んでもらい2mの間隔をあける:床にテープで位置表示)。それ以上待ち行列ができる場合はクレール店内で待ってもらう。そのため整理券発行機を設置し、クレール店内に順番が来た人の番号を表示するようにした。パンは全て個包装で、ガラスケースの中におき、番号を伝票またはスマホで指定して店員に伝える。
 
クレールも、美容室・§§ショップも、パン屋さんも支払いは原則としてPayPay等のスマホ決済である。現金の受け渡しを無くすことで感染防止に努める。カードにしても客が自分で挿入あるいはタッチする方式で、店員は絶対にカードに触らない。
 
またクレール自身、パン屋さん、ムーランルージュも予約して先に商品を袋詰めしておき、来たらすぐ受け取れるようにするパターンを設定。繁忙時間帯以外ではデリバリーも積極的におこなう。クレールもテイクアウト用のランチセット、ティータイムセットなどを作った。カフェラテ自体、ミルクの注ぎ口を使用して模様を作るものだけとし、コーヒースティックでお絵描きするタイプは当面の間、使用しないことにした。
 

そしてメイドさんの衣装だが、和実がいうところの“プラスチックスタイル”に進化させた。
 
プラスチックスタイルというのは、元々永野護『ファイブスター物語』に出てくる“ファティマ”(巨大戦闘ロボット“モーターヘッド”の操縦補助をする人造人間。多くは女性)が着る服のスタイルである。物語当初に多くのファティマが着ていたのはデカダンスタイルと言って、女学生のような可愛い感じの衣装だったが、ある時点で、人間を惑わすような可愛い服は禁止という法律ができて、代わりにファティマが着るようになったのがこれである。無機質で未来的なデザイン。ファンにも不評だったが、魅力的でない衣装という設定だから仕方ない。
 
クレールで採用した“新メイド衣装”は、服の袖は、てのひらの途中までを覆い、シルクの手袋(実は内側はゴム)をしている。顔はフルフェイスヘルメット!だが、頭部はけっこうファッショナブルなデザインで、各メイドの好みで、王冠や動物・花・飛行機など様々な形が作られている。実は3Dプリンタで作ったものである。顔の部分は透明プラスチックになっており(それでプラスチックスタイルと称する)、普通のマスクよりはるかに感染防止効果が高い。外側と空気を遮断しても大丈夫なように実は服の中に空気ボンベが内蔵されている。いわば簡易宇宙服である!口元が見えるので、普通のマスクよりお客さんには好評だった。実は1着10万円製造費が掛かるのだが、若葉が「プレゼント」と言って、寄付してくれた。
 
ボトムはスカートではなくパンツであり、とにかく一切肌が露出しないようになっている。ただしパンツの上に白いミニフレアースカートをオーバースカートしている(実はエプロンを兼ねていてこまめに交換・洗濯)。
 

クレールのメイド以外のスタッフや、テナントのスタッフがしているマスク、また客に配布するマスクは、2月の段階では若葉がインドネシアに所有している工場で緊急に生産させたものを輸入していた。
 
実は“販売しない”のであれば衛生用品の輸入は手続きがとても簡単で関税も不要である。(輸入品を日本国内で“販売する”場合はかなり大変なので、その作業はしなかった。中国の友好企業からも頼まれてそちらには有料で大量にインドネシアから輸出したが、そちらも今回は特例で関税なしで輸出できた。その後もインドネシアの工場は交代制で24時間フル稼働させていると言っていた)
 
3月に自前のマスク工場(富山)が稼働すると、インドネシア分はインドネシア国内優先、一部をシンガポールなど困っている国向けの出荷に切り替えた(最終的には輸出を停止し、インドネシア国内専用になった)。若葉は富山の工場が稼働し始めた所で宮城県内にも(千里と共同出資で)第2マスク工場を建て始め、これは4月下旬に稼働開始した。富山工場と同様に副産物として、エタノールも生産する。
 

青葉通り店のビルのトイレは基本どこにも触らずに使えるようにしている。トイレのドアは自動ドアである。個室ドアは手をかざすだけで開き、中に人がいれば自動的にロックされる。個室から出る時も手かざしである(便器に座っている最中は反応しないようにロックされている)。便座のふたは自動開閉。流すのも自動あるいは手かざし。便座除菌クリーナーを置いている。トイレット・ペーパーホルダーのカバーは全部取り外してペーパーだけが露出している状態にした。
 
これらの改造は若林店も含めて1000万円ほどかかったようだが、若葉が「大した金額じゃないから出しとくね」と言っていた。
 
清掃員の人たちには講習まで受けさせた上でマスクと手袋・ゴーグルの完全防備で2時間毎に全館清掃してもらっている。ビル内の店員さん、スタッフは全員毎朝検温の上、簡易検査キット(若葉が調達してきたが厚生労働省未承認!らしい)によるウィルス・チェックをしている。美容師さんやスタジオ技術者、スポーツ洋品店やパン売場の人達も全員マスク・手袋着用である。ビル内自体が、強制換気で常に換気扇が動いていてわりとうるさいのだが苦情は出ていない。
 
若林店でも3月からこの体制にしている(若林店のトイレ改造は2月24日(月)に臨時休業しておこなった)。テーブルの数もぐっと減らして、青葉通り店同様透明ビニールによる仕切りを作った。若林店のメイドは3月上旬からプラスチックスタイルに進化した。
 
おかげで4月末時点では若林店も青葉通り店も感染者は出ていない。ふつうのインフルエンザの罹患者が2人出て、この人たちには治るまで休んでもらった(休業中も給料は普段と同額を出す)。
 
更に若林店には、ドライブスルーを設置した。千里が所有する“若林植物公園”の駐車場(450台駐車可能)が偶然にも若林店に隣接しているので、そこで順番に待ってもらい、待ってもらっている間にオーダーしてもらって、渡し口でどんどん渡していく。支払いは例によって原則としてスマホ決済である。予約しておいて、駐車場まで来たら連絡してもらい、そこにメイドが商品を持っていくパターンも採用した。(スマホ決済の端末を搭載したスクーターを使用)
 
(実を言うと、一部千里が所有する“端切れ”の土地と和実が所有する土地を等価交換して、クレールの駐車場と公園の駐車場が直接つながるようにした)
 
ちなみにフルフェイスヘルメットをしてスクーターに乗るのはむしろ適法なので“プラスチックスタイル”のメイド衣装のままスクーターに乗るのは全く問題が無い!
 
このやり方は広い駐車場が確保できるから成立した方式だが、結果的に若林店の売上はコロナ騒動の前の倍になった!
 

なお、青葉通り店をオープンさせるのにメイドさんを大量募集したが、男の娘が3人も混じっていた。可愛いし明るい子だったので全員採用した。男子トイレ・男子更衣室を使いたいか、女子トイレ・女子更衣室を使いたいかは本人の希望を聞いた。実際には3人ともトイレは女子トイレを希望し、更衣室については1人(ユリアちゃん)は女子更衣室、2人(バンビちゃんとサマンサちゃん)は男子更衣室を希望したので、マキコと伊藤君にも面談してもらった上で本人たちの希望どおりにした。
 
3月で高校を出る(大学や専門学校に入る)予定の子、大学を出る予定の子もあったことから、新しいメイドたちの住まいを提供することにして、千里が整備中の“若林植物公園”の一角に「クレール女子寮」を建てさせてもらった。ここには若林店のメイドでも入寮希望者がいたので全員受け入れた。
 
女子寮は6階建て48室・ワンルーム仕様(16m2の居室に7m2のキッチン、バス・トイレ・クローゼット付き)で、ユニット工法でほんの1ヶ月で完成している。クレール若林店まで歩いて1〜2分なのだが(若林店と青葉通り店の間はシャトルバスで移動できる)、深夜の出入りもあるので痴漢などの被害を心配した若葉がクレールの敷地との間に地下通路!を作ってしまった(違法構造物なのでは?と少し心配)。
 
それで女子寮とクレールの間を雨にも濡れず、痴漢などの心配もせずに行き来できる。女子寮に入るにもクレール側から地下通路に入るのにもIDカードが必要である。オートロックマンションに準じたセキュリティを確保している。通路には監視カメラも付けている。強制換気なので常に微風が吹いている。
 
女子寮はむろん女子限定だが、専門学校出たてのユリアちゃん(20)は去勢済みでバストはCカップということだったので、女子寮への入寮を認めた。若林店のチーフになったナタリーも彼女を見て「あんたなら女子寮に居ても苦情はこないよ」と言った。
 
地下通路付きなのでこの女子寮には地階が存在するが、地階には居室は無い。電源や空調などの制御室、コインランドリーを設置した洗濯室(洗濯物の出入れをしたらすぐ出るように言った)、コーヒーメーカーと自販機を置いたランチルーム・エアロバイクなどを置いたウェルネスルーム(どちらも作るには作ったがコロナ問題を考慮して閉鎖)、そして謎の部屋があった。この謎の部屋の鍵は和実と若葉だけが持っている。
 
「何の部屋なんですか?」
「秘密」
 
「麻薬の密売?」
「そんな悪いことはしないよ!」
「カジノ?」
「客がいないよ」
「男の娘改造ルーム?」
「改造されたい人がいたら考慮するけど」
「ちんちん付いてないから男の娘にはなれないなあ」
 

南砺市の新人研修施設で後から入って来た女性に悲鳴をあげられた吉田は、自分は指定された部屋に来て着替えようとしただけだと弁明して部屋番号を印刷された紙を見せた。すぐにズボンは穿いている。
 
「じゃ間違いだったのね。だけどなんで男子社員が着替える必要あるの?」
「制服渡されて着替えてと言われたんだけど」
「男子にも制服あったんだっけ?」
「これ渡されたんだよ」
「これ女子制服じゃん」
「だから間違えられたんだろうと思って交換してもらいに行こうとしてた」
「男子には制服は無いと思うなあ。普通のビジネススーツで勤務するんじゃないの?」
「僕もそう聞いてたから、制服渡されて、あれ〜、男子にも制服あったんだっけ?と思った」
「要するに最初から性別間違われていたのでは?」
「そうかも知れない気がしてきた」
 
「あんた、よく見たら社員証の縁取りが赤じゃん」
「縁取り?」
「社員証の縁取りは男子は青で女子は赤なんだよ」
「そんなのまでわざわざ性別で分けるんだ?」
「女子更衣室とかの女性制御エリアには、この赤い縁取りの社員証でタッチしないと立ち入れない」
「僕、別に女子更衣室に入る必要ないけど」
「男子更衣室や男子トイレに入れなかったりしてね」
「それは困る」
 

それでその女性、伊川さんも付き添い、研修センターの事務局まで行って状況を説明した。
 
「ごめーん。女子制服ではトイレに困るよね」
と言って吉田から制服を入れた紙袋を受けとってから、40代の森下という名札をつけた男性が端末を叩いている。
 
「よしだくにおさんだっけ?」
「よしだほうせい(吉田邦生)です」
 
「君、“くにお”の読みで女性として登録されている」
「僕は男です」
「性転換したんだっけ?」
「してません。最初から男です」
「待って。君を男性ということにしたら採用定員オーバーしないかな」
「え〜〜?」
「あ、それは大丈夫みたい。今年は採用者が男子は本来の枠より3人少なかったみたいだから、何とかなるはず」
「よかった」
 
「あ、でも性別や生年月日の訂正は僕の権限ではできないみたい。本社に連絡してやってもらうから。その時、ひょっとしたら、確かに男性だということを示す書類。パスポートかマイナンバーカード、無ければ住民票か何かとって提出してということになるかも」
 
「そのくらい、いいですよ」
 

「取り敢えず君は登録は女性となっているけど、研修センターでは男子扱いにするね。男子トイレも使っていいから」
 
「僕が女子トイレに入ったら痴漢と思われますよ」
 
なお女子の社員証でも、男子更衣室・男子トイレには入れるということだった。逆は不可である。
 
「それとも女子制服を着て研修受ける?君がよければそれでも構わないけど」
「嫌です」
 
「うちは性別には寛容で、現在でも戸籍上は男だけど社員登録は女という社員が2名いるんだよ」
などと言っているので、どうもまだ何か誤解されている気もする。
 
「社員登録も男にしてください」
 
「じゃ今着ているスーツのまま研修受けて」
「そうさせてもらいます」
「部屋は・・・210号室を使って。ここは2人しか入ってなかったから。布団は1個運び込むよ」
「分かりました」
 
本来は8人入る部屋に布団の距離を開けて敷いて3人だけ泊めるようにしているらしい。夜間も窓は開放である!(閉めるの禁止)
 
「でも性別の変更ができないから、グループの再編ができないんだよ。申し訳無いけど今回の研修は女子と一緒に受けてくれない?」
「そのくらいはいいですよ」
「教材も女子用を使って。別途、男子用の教材も渡すから、それは自分で読んでて」
「分かりました」
 
教材も男女の別があるんだ?やはり古い企業(明治10年創業)は男女差別があるんだろうな、などとも思う。
 

それで吉田は男子の服装のまま、女子社員と一緒にお客様の応対とか、お茶の出し方、電話の受け方などの研修を受けることになる。元々小さい頃から女子の友人が多いので、伊川さんも含めて同じグループの女子たちとは仲良く出来た。彼は、いわゆる女子に警戒されないタイプである。
 
(研修は講師1人と研修生3人の最大4人で、吉田は結局伊川さんたちと一緒である。講習室も窓とドアを開放している)
 
窓口業務の練習もたくさんしたが、元々人と話すのは好きなので、これは楽しかった。2日目にはお化粧の研修もあり、唆されて(資生堂の初心者用メイクセット5000円を買って)メイクしてみたら「美人になるじゃん」と言われる。3日目以降は、女子社員はメイクした状態で研修を受けてと言われたのだが、吉田はそれは免除してもらった。(お化粧すればいいのにと唆されるが辞退)
 
もっと可愛い声出ないよね?などと言われたので、大学のショー劇団時代に覚えた女声で対応したら物凄くうけて、「君その声で女性窓口係ができるよ。配属しようか」などといった冗談(と信じたい)まで言われる。
 
吉田はそういえば大学に入った時も学生証の性別が女になっていて苦労したなと思い出していた。俺、女には見えないと思うのになあ。
 
「吉田君ならほんとに女子制服着ても違和感無い気がする。それで誰も吉田君が男だということに気づかず、女子制服渡されたのかもね」
などと伊川さんは言っていた。
 
「女子制服もらったし着てみた?」
「着ない着ない」
 
いったん渡した制服は(感染症予防の問題もあり)返却されても廃棄になるということだったので、何ならもらっておく?と言われて伊川さんも「折角だからもらっておきなよ」と唆したのでもらってしまったのである。むろん制服は無料である。
 
「でもスカートくらいもってるんでしょ?(誘導尋問)」
「持ってないよ!」
 
本当はショー劇団時代に買ったスカートとか女性下着もまだ持ってはいるが、少なくとも普段それを着けたりはしない(公式見解)。女性用ショーツの数があの後増えていたりすることもない(ことにしておく)。
 

世梨奈は初日に出勤してみたら会社が存在していなかったというのに困惑し、取り敢えず友人の何人かにメールしてみた。するとちょうど時間が取れたという明日香が電話してきてくれた。(明日香は社長を車で横浜まで送った後、待ち時間にこのメールに気付いて電話を掛けてきた)
 
「要するに就活が振り出しに戻ったようなものだと思う。大学は卒業しちゃったし、ハローワークとかに行って仕事探しなよ。それか取り敢えずどこかのバイトに応募してそれで食いつなぐとか」
「そうだね。ハローワーク行ってみようかな」
 
それでハローワークに行き、入社するはずだった会社が行ってみたら無くなっていたと説明したら
「最近そういう話あるんですよね。事前に研修費とかを払ったりはしてませんか?」
と尋ねられる。中には高額の研修費を徴収しておいて、ドロンという明白な詐欺のケースもあるらしい。
 
「そういうのはなかったです」
 
それで係の人が探してくれたのだが、やはり長引く不況に加えて、昨年の消費税アップで経営が悪化しているところが多い上にコロナ騒動でそもそも営業困難になっている所、営業時間を短縮している所もあり、まともな仕事が全く無い。バイトなら、入力オペレータの仕事とか、食品工場の仕事とか、衣料品店の店舗スタッフとか、あるのだが、女性の事務職みたいな募集は皆無である。
 
「コンピュータのプログラムとかは組めます?」
「研修を受けたことありますけど、才能が無いと言われました」
 
「簿記2級、秘書検定、普通免許にMOSは持っておられるんですね。英語は?」
「あまり得意じゃないです」
 
結局あまり良い仕事が見つからないが、アパートを借りてしまったので、家賃程度は稼ぐ必要がある。結局ファミレスのバイトに応募してみることにして、世梨奈はハローワークから、市内のファミレスの店舗に行き、面接を受けた。結果は2〜3日中に郵便で報せるということだった。
 

美映は不満だった。貴司の転職にともなって、2月に姫路市から埼玉県の川口市に引っ越してきた。美映は尼崎市に生まれその町で高校まで出た。大学に行くのに大阪に出て来て吹田市に住み、卒業後は、一時期航空会社のグランドホステスもしたのだが、その後は服飾店や飲食店にも勤めた。2度引越しているが、いづれも大阪周辺である。恋愛は何度もしているが、セックスする所までは到達していない。2017年末にセックスしないまま!?妊娠して、貴司と結婚。豊中市のマンションに一緒に住んでいたが、住宅手当が打ち切られたので姫路市の一戸建てに引っ越した。
 
そういう訳で、美映は関西から出たことがなかった。
 
それで川口市に来てから、物凄い不満であり、また不安でもあった。小学校の5年生でミニバスに入って以来、ずっとバスケをしているので、こちらでも部員募集をしていた川口市内の女子バスケットチームに加入。Wリーグの2軍選手並みの実力を持つ美映なので、すぐにスターティング・メンバーにしてもらったものの、チームメイトとどうも話が合わないのである。
 
(もっともコロナ禍のせいでチームは3月以降活動を休止した)
 
関東と関西の価値観の違いで、美映は居心地の悪さを感じていた。
 
また関西から持って来た調味料が切れたので、地元のスーパーで買ったものの、味が違いすぎてうまく料理の味付けができない。青ネギが無い!おでんの材料が揃えられない。カップ麺の味付けが好きじゃない。玉子焼き(関東では明石焼きと呼ばれるらしい)が無い。フードコートでそばを食べたら汁が辛すぎ!だいたいタヌキと言ったら揚げじゃなくて天カスの入ったそばが出て来たけど、天カスごときに金取るのかよ!?信じられない。そんなの普通ダダでしょ?
 
だいたい関西弁が通じず首都圏弁(?)で話さなければならないこと自体に美映はストレスを感じていた。
 
「えーん。大阪に帰りたいよぉ」
と美映は緩菜に向かって泣き言を言ったりしていた。
 

でも緩菜は不思議な子だ。ストレスのあまり、つい叩いたり物を投げつけてしまうこともあるのだが、緩菜に物を投げても絶対にぶつからない。なぜか逸れてしまうのだ。バスケットのシュートは高確率で入る美映なのに。
 
「ママ、落ち着きなよ」
と緩菜が言うような気がする。1歳の子供がそんなこと言う訳がないから多分気のせい。
 
調味料については緩菜が「ママこちらにおいで」と言って誘導してくれた(気がする)お店に、関西系の調味料が置いてあり、おかげで何とかまともに料理をすることができるようになった。貴司の給料が安くて、やりくりが大変だなあと思っていたら、ナンバーズで緩菜が指で示してくれた通りの番号を買ったら20万円も当たって、おかげで楽になった。それで緩菜にはサンリオとかメゾピアノとかの可愛い服や下着を買ってあげた。その後も緩菜は2ヶ月に1度くらいナンバーズを当ててくれる。
 
「ママお願いがある」
とある日緩菜は美映に言った(気がする)。
 
「ママは今年11月には大阪に帰れると思う」
「そうなの?貴司が転勤になる?」
「パパとは離婚になると思う」
「まあそれでもいいかな。あまり何年も関東に住みたくない気分だし」
 
「その時、私はパパの所に残りたい」
「いいよ。そうしてあげる」
と美映は緩菜に言った。緩菜すごくしっかりしてるみたいだし、これなら自分がついてなくても大丈夫かなという気がした。
 
「宝くじはママがひとりになっても時々当たるようにしてあげるね」
「ああ、それは助かる。30代女の就職口ってあまり無いから」
 
(美映は1986年生で現在33歳。ちなみに阿倍子は1978年生で貴司より12歳年上)
 

ゴールデンウィークに予定されていたアクアのドームツアーはコロナの影響で中止が宣言され、全額払い戻しになった。実はこのツアーは3人のアクアで分担して歌うつもりで航空チケットなども3人が移動するように確保していたので2人になってどうしようと思ったのだが、中止になってホッとした。
 
中止のお詫びにチケットを買っていた人たちには、3月7日にアクアが震災イベントで都内のスタジオで歌った時の映像を記録したDVDが無償で配られた。
 
(3月7-8日のイベントについて“08年組”の人たちは宮城ハイパーアリーナまで、わざわざ行って現地で無観客演奏したものをチケットを買っていた人たちがスマホまたはパソコンでリアルタイムにストリーミング観覧できるようにしたのだが、アクアを含む§§ミュージックの歌手たちは東京のスタジオでの演奏に代えさせてもらった)
 

2020年5月13日(水)“小林芳雄”の初ミニアルバムと北里ナナの6枚目のシングルが同時発売され、§§スタジオからのライブネット中継で発売記者会見が行われた。
 
記者たちも各々自社の適当な部屋でZoomを使って§§スタジオとつながり、質問などができるようにしている。司会役は元★★レコード技術部の技師で現在はサマーガールズ出版に所属している則竹である。システムに強い人ということでコスモス社長から指名されて司会をすることになった。彼は3月の復興イベントのネット中継でもシステムの管理者として参加している。
 
アクアはマイナスワン音源をバックに、最初小林少年の扮装でミニアルバムの中から2曲を歌い、会見席で質疑応答をした。これは『少年探偵団』のこれまでの3シーズンの間に劇中で披露された小林芳雄名義で発表された曲をまとめたものである。各々ダウンロード販売はされていたのだが、CDの形で発売されるのは初めてである。
 
第1シーズン
小林芳雄『獅子が烏帽子をかぶる時』
小林芳雄『ゆんでゆんでと進むべし』
第2シーズン
小林芳雄『飛べ、ピッポちゃん』
小林芳雄『魔法の人形は良い人形』
第3シーズン
小林芳雄『ゴングゴングゴング』
小林芳雄『月世界旅行はお断り』
ボーナストラック
小林芳雄『女装したい訳じゃないんだよ。お仕事だよ』
 
ボーナストラックに新曲『女装したい訳じゃないんだよ。お仕事だよ』(醍醐春海作詞作曲)が入っていたが、この歌詞については多くのファンから「嘘つけ!好きなくせに」という非難の声があがることになる。
 
PVでは、小林少年が『大暗室』で北里ナナに変装しているシーンをはじめ、『魔法人形』、『魔人ゴング』、など多くの作品での女装シーン、更には『塔上の奇術師』での吉村菊雄(演:上田信貴)の女装など他の男子団員の女装まで入っていて、ファンからは「このPVだけでこのアルバムのDVD付きを買う価値がある」とまで言われた。
 

小林芳雄のアルバムの会見が1時間ほどで終わった後、10分間の休憩を置いて今度は北里ナナのシングルの発売記者会見をおこなう。さっきは男装だったアクアが今度は女装で登場するとZoomの会議に参加している記者からも、またネット中継で見ている全国のファンからも歓声があがっていた。明らかにさっきの男装での登場の時より歓声が大きい!
 
(10分間の休憩は“お着替えタイム”だろうと記者もファンも想像しているが、実際には小林少年の衣装で出たのはアクアMで、ナナの衣装で出て来たのはアクアFである)
 
今回ナナが歌った曲は
『少女の祈り』(加藤珈琲・琴沢幸穂)
『渚の鬼ごっこ』(マリ&ケイ)
 
の2曲である。
 
『少女の祈り』はテクラ・バダジェフスカ の『乙女の祈り』を彷彿させるような物悲しいヴァイオリンの響きの中、ナナ(実際に歌ったのはアクアF)が美しいハイソプラノ・ヴォイスで情緒あふれる歌声を聞かせてくれる。この曲のサビでは“ハイF”も出しており、そのことに気づいた記者やファンが「すげー」と思わず声を出した(ハイFはアクアFもアクアMも出せる。アクアFはその上のA音まで出せるが、アクアMはG音までしか出ない。しかしふたりともF音は安定して出せる)。
 
この曲のヴァイオリンを音源制作の時に弾いたのは今井葉月である。彼はピアノもヴァイオリンもうまい。アクアがライバル心を感じるほどである(*2)。
 
『渚の鬼ごっこ』はマリのコミカルな歌詞にケイがポップなメロディーを付けたまさにアイドル歌謡という感じの曲である。ナナ(アクア)は前曲とは打って変わって楽しくリズムに乗ってこの歌を歌った。
 

(*2)千里3は葉月の練習のために、ヤマハ・クラビノーバCLP-685 (38万円)をプレゼントし、ドイツで購入した300万円のヴァイオリンも“貸与”している(こちらもあげていいいのだが、それだと贈与税を取られるので)。
 
ちなみにアクアにも千里2がイタリア製の似たような値段のヴァイオリンをやはり貸与している。ピアノはアクアは代々木のマンションのLDKに“防音室”(*3)に入れた Yamaha S3X (460万円)を置いている。これはアクア自身が(田代の)母の勧めで購入したピアノである。
 
(*3)ヤマハのユニット型防音ボックスでマンションなどの室内に“置く”仕様である。外に音が漏れないだけでなく、内部ではホールなどで演奏しているのに近い反響を得られる。ピアニストやエレクトーン奏者の利用が多いが、楽器練習以外にオーディオルームとして使用する人もある。
 
葉月もS3X/S6Xを自分で買える程度の収入はあるが、1Kのアパートにグランドピアノを置くのは、さすがに不可能である。葉月は高校在学中はこのアパートに住み続けるつもりである。
 
彼(彼女?)の卒業後については、どうするか千里3も少し悩んでいる。あの場所には誰か男の娘に住んで居てほしいのである。西湖(聖子)自身も多数のおキツネさんたちと仲良くなったので、別れがたく感じている。
前頁次頁目次

1  2  3  4  5 
【春牛】(5)