【春牛】(2)

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若葉はその日、新宿のTKR本社を訪れ、松前社長に会って、相談を持ちかけた。
 
「店舗のレイアウトを書いてみたのですが、先日話し合った音源制作のできる部屋8個と練習部屋20個というのが、どうしても1フロアに入りきれないんですよ」
 
と言って若葉はいくつかの案を見せる。
 
「各部屋の面積をもっと小さくしたら入らないこともないのですが」
「いや、この図面見ると、これ以上小さくするのはまずい」
「トイレを無くすと、ギリギリ入るんですけどね」
「トイレはさすがに無いと困る。いちいち下の階に行くのは大変」
「エレベータを省略する手もありますが」
「重たい楽器があるから無いのは困る、というか法令違反にならない?」
 
「だとすると、部屋数を減らすか、フロアをあと1つ増やすかだと思うんですよ」
「部屋数は減らしたくないなあ。やはり『こんな広いスタジオがあります』とアピールしたいんだよ」
「だったら、フロアをもうひとつ増やしますかね」
「その線で頼む。レンタル料は少し増額してもいいから」
「どのくらいまで増額できます?」
「2億・・・2千万とかはどう?」
「2億3千万は厳しいですか?」
 
「無理言っているしなあ。分かった。2億3千万払うよ」
「ありがとうございます」
「ちなみに容積率は大丈夫?」
「はい。それは大丈夫です。5階を追加しても460%にしかなりません。ここは600%まで行けるんですよ」
 

千里は§§ミュージックを訪れて秋風コスモス社長と話した。
 
「TKRの方から聞いたかも知れないんだけど、今度仙台のクレールの青葉通り店を作るんだよ。クレール自体は月山和実の運営だけど、入居するビルは、月山さんと、ムーランの山吹若葉、そして私の3人共同で建てる。実はこの3人がクレールの株主なんだけどね。それでさ、宏美ちゃん、§§ミュージックのタレントさんのグッズを売るショップとかに興味無い?」
 
「そういえばそういうお店って考えた事なかったですね。青葉通りのどの付近?」
「仙台駅から歩いて5分だよ」
と言って、千里はMapionの地図を開き、“クレールビル”の場所を示した。
 
「いい場所ですね。通りから入り込んでいるけど、ファングッズのお店はむしろそういう所の方が隠れ家っぽくてファン心理を刺激するのよね」
「そうそう。こういうお店は銀座の表通りにどーんと出したらダメなんだよね。どう、興味無い?」
 
「作ってもいいかも」
「私が運営してもいいし、そちらで運営してもいいけど」
「こちらで運営する場合、家賃とロイヤリティは?」
「ロイヤリティとか要らないよ。家賃は9坪程度のミニショップの場合でこの付近の相場なら12-13万くらいだけど、出精価格で6万とかではどう?」
 
「安いね。充分採算取れると思うし、出していいよ。ロイヤリティも無しでは悪いから、8%くらいは払うよ」
 
「そう?じゃ売上100万円以上の場合は6%で」
 
「OKOK。じゃ直営で取り敢えず半年くらい運営して、続けるかどうかは状況を見て決めるというのでいい?」
「うん、いいよ」
 
それでクレールビルの2Fには“コア店舗”として§§ミュージックのタレントグッズ直営店が入居することになったのである。むろん千里が格安家賃を提示したのは、その集客力が物凄いと思われたからである。
 

「ところで今クレールの若林店で信濃町ガールズの定演しているけど、青葉通り店にも誰か出したりはしない?若林店より広いよ」
 
「それ完成間近になったあたりで一度実物を見せてくれない?リセエンヌ・ドオとか、あるいはデビュー1〜2年目の子に歌わせたい気もする」
とコスモスは言う。
 
「うん。場所柄、お客さんが多くなるかも知れないから、少しステージ度胸のある子のほうがいいかもね」
と千里も言った。
 
「でもリセエンヌ・ドオもそろそろCD出そうよ」
「書いて下さるのでしたら」
「松本花子でもいい?」
 

和実は千里と若葉に、当選した宝くじを買った時のエピソードを語り、南座の宝くじ売場で三連バラを買えといったスカートを穿いた男の子に御礼したいけど無理だよね、などと言った。千里はその男の子に大いに心当たりがあったものの、
 
「どこかのおキツネさんかも知れないから、お稲荷さんにでも御礼すればいいかもね」
と言っておいた。
 
それで和実は1月20日(月)に当選金が振り込まれると、京都の伏見稲荷に行ってくることにした。
 
まずは20日午前中に陸前銀行に連絡してローンの残金を一括返済したいと言う。銀行は驚いて、返済の資金源を尋ねたが、友人が融資してくれたのでと答えたら納得してもらった。それで、みずほ銀行仙台支店で陸前銀行に1億925万3480円の振り込みの手続きをし、また4000万円を###銀行の元から持っていた口座に振り込んだ上で、今度は###銀行の仙台支店に行く。そして4000万円の銀行振出小切手を作ってもらった。みずほ銀行でそのまま小切手を作ってもらえば手間が掛からないが、想像力の豊かな冬子は、みずほ銀行振出しなら、ひょっとして宝くじを当てたのではと思いつくかも知れないと考え、わざわざ別の銀行にしたのである。
 
その後、和実は新幹線の乗り継ぎで京都に行き、その日は京都市内に泊まった。4000万円の小切手を持って遠出するのはやや怖いものの、“線引き”にしてあるので、万一落としたりしても拾った人が勝手に換金するのはほぼ不可能である。
 
翌朝いちばんに伏見稲荷に行き、本殿でお参りした後、お山も一周して、三ノ峰、二ノ峰、一ノ峰とお参りしてきた。ちなみに本殿ではお賽銭を1万円入れて来た。
 
それから午後には東京に戻り、エヴォンの永井オーナーに青葉通り店を出すことを話した。永井は12月の集まりの時に和実が物凄く悩んでいる風だったのでこの急展開に驚いたが、
 
「イオンが来ても平気なように中心部にお店出して、その売り上げで若林店の借金もまとめて返していこうという魂胆なんですよ」
と和実が説明すると
 
「確かに中心部に引っ越したらと煽ったのは俺だからなあ」
と言っていた。
 
「でも資金は足りた?」
「銀行から6億借りましたから。若林店の建設の時の借金の残金と合わせて7億です。このあと30年間は奴隷奉公ですね」
 
「まあ人の人生なんてそもそも奴隷みたいなもんかもね」
と永井も言っていた。
 
永井は神田店・新宿店の新設の際の借金はもう完済しているが、銀座店の分はまだ数年かかるらしい。
 

和実は21日は東京で泊まり、翌日朝冬子のマンションに行き4000万円の小切手を渡し、クレールの新店の話をする。そしてテナントとして楽器店があればという話になり、23日に仙台に一緒に行って、仙台楽器の移転の話を決めた。
 
この日に建築確認が降りたという連絡があり、その日の内に土地に目隠しのシートが張られ。翌朝までには古いビルが撤去されていたので、和実は驚愕した。青葉に結界作りをお願いしたら25日(土)に来てくれて、わりと緩い感じの結界を張ってくれた。工事中はあまり強すぎる結界より、この程度の方が良いらしい。
 

千里は仙台に行って若葉・和実と打ち合わせた翌日の1月10日、京平に、お前が宝くじを買えと言った人が7億5千万当てた、と教えてあげたら、京平も驚いていた。結構高額が当たりそうな気はしたものの、1000万円くらいかもと思っていたらしい。
 
「1割の7500万円くらい京平にあげたい気分」
と千里が言うと
「代わりに、ボクと緩菜がお母ちゃんと一緒に暮らせるようにしてよ」
と京平は言った。
 
「ごめんね」
と言って、千里は京平を抱きしめる。
 
「でも今年は結構なんとかなるように気もするんだよね」
 
と千里は言ったのだが、京平・緩菜が千里と一緒に暮らせるようになるために7500万円を超える9000万円も今年使うことになることは、この時点では、さすがの千里にも想像できなかった。
 
(貴司と美映の離婚慰謝料5000万円+その話を聞いた阿倍子から要求された追加慰謝料4000万円:むろん本来は貴司が払うべきお金)
 

千里は横山春恵と都内のファミレスで会い、仙台青葉通りの近くにビルを建てるので、もし可能ならそこにプラスチーナ製品・ゴールディ製品を含むアクセサリーショップを出さないかと誘った。
 
「開店資金とか運転資金は私が提供する。給料も月20万を1年間は保証する。人手が足りなかったらパートさんとか雇ってもいい。その分のお給料も出すから。ただ仕入れとか運用とかをしてくれる人が欲しいんだよ。春恵ちゃんの知り合いで信頼できる人がいたら、その人でもいい」
 
「あ、だったら私と私の妹の2人でやってもいい?妹は私より商才があると思う。わりと調子がいいし」
「じゃその妹さんと会わせて」
「OKOK」
と言ってメールをしてみたらその日の夕方会えることになり、あらためてエヴォンの新宿店で会った。
 
「ここあまりメイド喫茶っぽくないね。いきなり『お帰りなさいませ、奥様』と言われた時はギョッとしたけど」
 
「メイド喫茶って初期の頃はこういう雰囲気のお店が多かったんだよ。後発でいかがわしいお店が増えて、変なイメージがついてしまったけどね。ここは風俗営業ではなく飲食店営業だから接待も禁止。お客様と3分以上会話するのも禁止。初期の頃は2分半経ったら点滅が始まるカラータイマー着けてたらしいけど、趣旨が違う気がするというのでやめたらしいけどね」
 
(カラータイマーは案があっただけで実際は使用されていない。永井は結構乗り気だったらしいが、初期のメイドで伝説的・女装美少年の渚さんが反対して不採用となった)
 
「へー。でもこういう感じのお店の仙台店なら、そこのビルで営業してもいい気がする」
と妹の横山映代は言った。
 
「今美容室と、お菓子ショップと§§ミュージック直営店が入居予定」
「§§ミュージックの直営店!?」
「全国でも初めてなんだよ。ここで様子を見て、好評なら他の都市にも作るかも」
「それアクアグッズを求めてファンが殺到すると思う」
「そこまで行けばいいけどね」
 
「でも女性向きのショップ構成なのね」
「基本的にそうだよ」
 
「だったらお店として成り立つと思います。ぜひやらせてください」
「よろしく」
 
それで妹さんが“店長”、お姉さんが“社長”ということにした。
 
千里は会長である!(Phoenix Dreamという会社を設立した)
 

なお、スポーツ用品店 Phoenix Sports の方は、横山姉や40 minutes所属の中折渚紗などの高校時代のチームメイトである、沼口花寿美に運営をお願いすることにした。彼女は2年前に現役引退した後、都内のスポーツ用品店に勤めていた。173cmの彼女はいかにもスポーツ選手というオーラを漂わせているし、2年間のスポーツ用品店勤務で、ノウハウも習得している。彼女は“店長”の肩書きで勤務し、3〜4人、バイトさんを雇う予定である。いい人がいれば正社員として採用してもよいと言ってある。
 
千里の古巣であるレオパルダ・デ・グラナダの親会社がスペインのスポーツ用品メーカー・ケルメ(Kelme)と契約していた関係で、そのコネがあり、ケルメのシューズやウェア、バッグなどを安価に仕入れることができた。犬の足跡のマークがシンボルになっているメーカーである。向こうは日本での販売ということでかなり興味を持ってくれた。書類上はケルメ・ジャパンを通すが、契約は本社との直であり、特例的な価格を実現できた。性能が良くて安価であることから、翌年は仙台市内の私立校の指定靴店になることもできて、売上が安定することになる。
 
また千里はインドにも多くのコネを持つ。インド代表をしていた子たちは、現在多くが大企業や行政機関の中核に入り込んでいる。市長夫人とかになっている子もいる。千里は彼女たちとヒンディー語やタミル語・マラヤーラム語などで直接会話できることもあり、コネがずっと持続している。他に実はインドの大賢人の教団とのコネもあり、その賢人の弟子だった人とはマラーティー語で直接会話している。それでインドから靴下・Tシャツ・タオルなどの綿製消耗品を安価に仕入れることができた。それらを中心に品揃えをしたのである。
 
むろん、アシックスやミズノ、ミカサなどの製品も並べる。国内のスポーツ用品メーカーにもわりとコネが多いのだが、ケルメ製品やインド直輸入品ほどは安くできない。
 
また店舗にも置いておくが、体育館のフロアに、スポーツドリンクやお茶などの自販機を置くことにした。自販機はヤフオク!で中古を30万円で買い、機械に強い《せいちゃん》に頼んで調整してもらった(何かぶつぶつ言ってた)。そして無名メーカーのドリンクを中心に並べたので、350ccの缶飲料を100円で販売することができ、わざわざ近所のオフィスなどから、これを買うため地下まで降りてくる人が出るほどだった。大手メーカーは絶対値引かないが、中小メーカーは交渉次第で結構安くしてくれるのである。
 

和実は“チーフ”のマキコを呼んで話し合った。
 
「マキコちゃんは3月で大学卒業だけど、ここ続けてくれるよね?」
「ええ。メイドの仕事に結構ハマっちゃったので、ぜひ続けさせてください。それに私、性別変更しているから、一般企業への就職は難しいんですよ」
「そんなのバッくれてれば、絶対バレないのに」
「そんな気もしますけどねー」
 
「それでさ、先日から色々動いていたんだけど、青葉通りに支店を出すことになったんだよ。もしよかったら、マキコちゃんに、青葉通り店の店長兼チーフをしてもらえないかな」
 
「こないだから、私とナタリー(サブチーフ)のどちらかが青葉通りに行くことになるよね、とか話していました。やります」
とマキコは力強く言った。
 
「ありがとう。店長はまた色々大変だろうけど、分からないことがあったらいつでも相談して」
と和実は言った。
 

それで和実はサブのナタリーも呼んだ。
 
そして青葉通り店を開設するので、マキコにそちらの店長兼チーフをしてもらうことになったことを説明する。
 
「それで、ナタリーちゃんにこちらの店のチーフを引き継いでもらえないだろうかと思っているんだけど」
と和実は言ったのだが
 
「すみません。私サブチーフはしてますけど、まだメイドになって1年も経ってなくて不安です」
などとナタリーは言う。
 
「いや、ナタリーちゃんはしっかりしているよ。判断力もあるし、みんなから頼りにされている」
とマキコ。
 
「でも私まだ19で若いし」
とナタリー。
 
「年齢は関係無いよ。年下の子に従うのは嫌だなんて子は誰もいないと思うよ」
「でもせめてあと1年くらい経験してからにしたいんです。それで考えていたんですけど、元チーフのライムさんが復帰なさるんでしょう?ライムさんにチーフはお願いできないでしょうか?」
 
「でも彼女は週3日、昼間に3時間くらいずつ入るだけだよ」
「それ以外の時間は私がチーフ代行で頑張ります」
などとナタリーは言っている。
 
「要するにチーフの仕事は何とかなりそうだけど、チーフという名前がまだ重たいんだな」
とマキコは解説する。
 
「うーん。だったらライムをシニアチーフ、ナタリーはジュニアチーフということで」
 
「あ、そのくらいなら何とかなるかな」
 

それで若林本店のチーフは当面は変則体制で行くことになったのであった。なお、リボンの色は、ライム・ナタリーともにチーフ色である青を使用する。
 
リボンは、チーフが青、サブチーフが黄色、チーフ・サブチーフ不在時のチーフ代行がグリーン、一般のメイドはペールピンク、店長は紫である。この配色はエヴォン、ショコラ、マベルとも共通の仕様。青葉通店の店長はマキコなので、紫をつけてもいいのだが、店長とチーフを兼ねる場合はチーフのリボンをつけるのが“エヴォン方式”である。
 
なおチーフを兼ねない女性店長はエヴォン・ショコラ・マベルには存在しないので実は紫を付けているのは和実のみだが「店長は紫」というのはエヴォンのオーナー・永井が言っていた話である。その永井に「メイド服着て紫のリボンつけます?」と尋ねたら、奥さんの麻衣(メイド名=もも)が「客が逃げて行くからやめろ」と言った。ショコラのオーナー・神田にも言ってみたことがある。神田は「楽しそうだなあ」などと言っていたけど、やめたほうがいいと和実は思う(お笑いには見えるかも?)。マベルの高畑は本気にしたら怖いので、そういう話はしないほうが良さそうな気がする。
 

「でも青葉通りにお店出すって凄いですね。ここ結構儲かってるんですか?」
などとナタリーは訊く。
 
「君たちが頑張っているからね」
と和実。
 
「そこはクレールだけの建物ですか?」
 
「地下2階・地上4階建てで、地下2階が体育館、地下1階は20-30台入る駐車場、2階と3階はテラス席とか、更衣室・倉庫・事務所の類い、4階はTKRの音楽スタジオ」
 
(和実はまだ5階ができるという話を聞いていない)
 
「色々入るんですね」
 
「テナントも募集中。まだ2階に少し空きがあるんだよ」
「どんなお店が入るんですか?」
 
「ムーランのお菓子屋さん、アクセサリーショップとスポーツ用品店、美容室、までは決まっている。あと、パン屋さんが欲しいなとか言っているんだけど、お店を出してくれそうなパン屋さんで美味しい所とか知らない?」
と和実が訊くと、マキコがなんか不思議な表情をした。どうしたんだろう?と思ったらナタリーが言った。
 
「佐織(マキコ)さんの実家がパン屋さんですよ」
 
「そうだったんだっけ!?」
 

そのパン屋さんは、マキコの両親がパン作りは巧いものの“商売のセンス”が無いため、マキコのお祖母さんと、マキコの妹を中心に運用しているらしい。和実は肩書きは専務であるものの実質的経営者である、マキコの妹・竹西友紀(20)と会ったのだが・・・・
 
和実はマキコたちの両親に同情した!
 
なるほど。こういう“妹”だったわけか。むろんその点については触れない。ビジネス的には性別など些細なことである。“彼女”は一応まだ女子大生(少なくとも男子大学生には見えない)だが、早朝からパンの仕込みをし、大学が終わった後の夕方から夜8時までお店に詰めているらしい。物凄い体力だなと思った。
 
友紀は最初にお店のパンの陳列を見せてくれて
「どれでも好きなものを何点かどうぞ」
と言うので、和実は食パンを取った。
 
「できますね」
と友紀は言う。
 
「味の誤魔化しがききませんからね」
と和実は言い、奥の部屋で出してもらったニルギリのミルクティーを頂きながら食パンを食べてみた。
 
「美味しいですね。ナチュラル系の生地だ」
「ありがとうございます」
「このパンはサワードウ(sourdough)発酵なんですね」
「それもよくおわかりで」
「イースト菌で膨らせませたものとは風味も食感も違うから分かりますよ。ずっと育てているんですか?」
「曾祖父の代からの種なんですよ。でもここの店のは震災で失われてしまって」
「ああ」
「祖父の妹の息子にあたる人が石川県の金沢の近くでパン屋さんをしていて、兄弟種を持っていたので、そちらから分けてもらいました」
「それは良かった。こういうものは失われたら復活は不可能ですからね」
「そうなんですよ。やはり子供は遠くにやるべきもんだとか、言ってました」
 

友紀さんの話では、名取市のスーパーに置かせてもらっていた分が、改装(というより売場面積縮小)でこちらのコーナーが無くなってしまったので生産余力はあるということだった。
 
今考えている広さは6坪くらいなんだけどと言って予定図を見せる。
 
「売場としてはそのくらいの方がやりやすいです。広くすると生産能力が追いつかなくなります。大きな工場でオートメーションでどんどん作るような所なら、面積は広くてもいいんでしょうけど、こちらは人海戦術なので」
 
「ここで製造して青葉通りまで運びますか?それとも現地で焼きますか?」
「厨房は作ってもいいんですか?」
「ビルの本体がそもそもカフェを運営するためのものなので排煙システムは完璧です。ちゃんと無害化してから外に出しますよ」
 
「だったら大丈夫ですね。鮮度を考えたら現地で焼きたいですね。ここで作ってから配送すると、どうかすると製造してから1時間以上経ったパンばかりになってしまう」
 
「確かに焼きたてが美味しいですからね。2階はもう空きが無いんですが、3階でもよければ厨房が作れる程度のスペースをお貸ししましょうか?」
「それやりたいです。家賃はいくらくらいですか?」
 
「厨房はどのくらいの面積があれば作れます?」
「そうだなあ。8坪くらいあれば」
「今3階になら9坪くらいの空きエリアがあるんですが、使います?」
「使いたいです。で家賃は?」
 
「売上額に応じて家賃を払ってもらう方式で、合計15坪なら売上100万円までは15万円くらいの線でどうでしょう?売上がそれ以上出る場合は
12%くらいの線。他に共益費は坪あたり3000円で」
「1日100万円ですか?」
「1ヶ月です」
「ですよね。さすがに1日に100万売る自信はないと思った」
「それはもうマクドナルドの旗艦店みたいな所の売上ですね」
 
「そちらのお店は妹に任せようかな。そしたら私と妹で競争になるし」
と竹西友紀が言うので
 
「ああ、もうひとり妹さんがおられるんですね?」
と和実は言った。
 
「私とひとつ違いで、昨年高校を出たばかりなんですけどね。私より商才がありそうで。今挨拶させますよ。道佳(みちか)、ちょっとおいで」
と友紀は妹を呼んだ。
 
「紹介します。私や佐織の妹で道佳です」
と友紀が紹介し、道佳も
「竹西道佳です。よろしくお願いします」
と挨拶した。
 
その“妹”を見て、和実は彼女たちの両親に本気で同情したくなった!
 

竹西道佳は現地を見たいと言ったので、和実はプリウスに竹西三姉妹を乗せて現地まで連れて行った。現在は目隠しがされているが、中で現在基礎工事をしているところだと説明した。
 
「佐織姉ちゃんがカフェの店長なのか。うちのパンを仕入れてよ」
などと道佳は言っている。
「だったら売価300円のパンを30円で」
「原価割れするよ!」
 
「まあサンドイッチ用のバゲットとか仕入れてもいいかもね。格安仕入れ値で」
などと和実まで言っている。
 
道佳は近所を結構歩き回り、雰囲気などを確認していたようである。和実が渡した概略図面のコピーもよく見ている。
 
道佳は言った。
 
「月山さん、厨房なんですが、何とか2階に店舗に隣接して確保できませんか?パンは作っている所を見せた方が絶対的に売上がよくなるんです。デリバリー型のショップより、厨房併設型の方が、お客様に大きくアピールするんですよ。その分、家賃の率が高くなっても構いませんから」
 
「そうですね。ちょっと調整してみようかな」
 
それで厨房も2階に併設する形で検討してみることにした。
 

和実は千里に電話した。
 
「申し訳無いけどさ、スポーツ用品店を3階に移動させてもらえない?レイアウトを考えていたんだけど、どうしても2階に入らないんだよ」
「うっそー!?」
 
それで和実は現時点で考えているレイアウトを千里にメールし、理解を求めた。
 
「確かにパン屋さんは厨房併設がいい。パン生地をこねている所が見えて、厨房から酵母の臭いがただよってくるのが客寄せになるんだよ」
「じゃスポーツ用品店、3階でも良い?」
「アクセサリーショップを2階に置いてもらえば。あ、待って。どうせなら4階にできない?4階に楽器店を作るんでしょ?その隣に並べてがいいな」
 
「楽器店は作るけど、スペース足りるかあ」
「スタジオの大半は5階に移動するんだから、そのくらい入らない?」
「5階!?何それ?」
「1フロア増設することになったって、若葉が言ってたよ」
「うっそー!?」
 
それで和実は若葉と連絡を取り、5階ができることになったことを聞いて仰天するのであった。
 
「建設費はほんの3000万円くらい上がるだけだよ」
 
あはは、こういう金銭感覚の人と一緒に仕事するのは色々大変な面もある、と和実は思った。
 

色々テナントが入ったため、当初の和実・若葉・千里の面積比率が変わることになったが、出資比率は変更しないことで3人は同意した。
 
なお、フロアが追加されたので、和実・若葉・千里の負担額も3人で合計3000万円追加されることになった。結局土地代・建設費の合計は6億9200万円となり、各々の出資額は和実が3億4600万、若葉が6920万、千里が2億7680万ということになった。
 

若葉はこまでの段階でだいたいテナントが固まったので、引き直したスタジオのレイアウトもあわせて、TKRの松前社長のところに行き、提示した。
 
「これだけ部屋があると壮観だね」
と松前はかなり気に入ったようである。しかし2階テラスのレイアウトを見ていて
 
「この§§グッズ・ショップって何?」
と尋ねる。
 
「§§ミュージックのタレントグッズを売るお店です。全国的にも1号店だそうですよ」
「それってアクア・グッズ?」
「アクアのもありますし、品川ありさ、高崎ひろか、白鳥リズム、姫路スピカ、まあ色々ですね。写真とかハンカチ、ボールペン、手鏡、クリアファイル、などなど。むろんCDとかも」
 
「うちの歌手のCDは?」
「§§ミュージック以外のものまでは扱いません」
 
「うちのミュージシャンのCDも売ってよ」
 
「そういうお店を作るのでしたら」
「ぜひ作って欲しい」
「もう場所が無いんですけど」
 
松前は店舗レイアウトを見ていて言った。
 
「4階のCスタジオを潰してそこに出店できない?楽器店の隣のCDショップって凄く説得力がある」
 
「社長がそれでいいのでしたら」
「それでいい」
 
「テナント料はどうしましょう?」
「もう予算が無いから、2億3千万の中に含めてよ」
「まあいいですよ」
 
それで録音作業のできるスタジオは7つに減ることになり、代わってTKR直営のレコード店“TKR Sounds仙台青葉通り店”ができることになる。TKR直営のCDショップというのも全国初になった。おかげで、このビルは本来は “Clair青葉通りビル”のはずが(カーナビにはそれで登録された)、多くの人が“TKR青葉通りビル”とか“TKR北ビル”と呼ぶようになる(仙台支社は南町通りにあり、こちらは“TKR南ビル”と呼ばれる)。
 
そしてここに“Cスタジオ”が無いのは、“死スタジオ”だから、とか、Cスタジオは冥界にあるのだとか、このビルが建て替えられる前には幽霊が出るという噂があったから、それを幻のCスタジオに封印したんだとか、色々変な噂が立つことになることを若葉や松前は知るよしも無い。
 

そういう訳で、和実・若葉・千里の(わりとお互い勝手な)奔走により、2階より上に入る店舗のラインアップが定まった。新しいレイアウトはこうなった。
 


 
4〜5階の“スタジオ階”は↓のようなレイアウトになることになった。スポーツ用品店は最低このくらいの面積は無いと「何も無いお店」と思われるよ、と若葉が言い、こういう広い面積を取ることになった。結局録音設備のあるスタジオが7部屋、練習部屋は4階に5個と5階に20個の合計25個である。
 


 
最初はスポーツショップの隣が仙台楽器だったのが、真ん中にCDショップを置いたほうが“収まりがいい”という冬子の意見でこのような並びになった。
 
4Fの《受付》というのはスタジオの受付である。またサロンというのは、部屋が空くのを待つ人や、予約時間より早く来て少し待つ人のために用意することになったものである。ここにはクレールから“出前”を取ることもできる。
 

そういう訳で、このビルは2階と4階にテナントが入り、3階は事務所などが並ぶという、少し変わった配置のビルになった。
 
(町中の雑居ビルでは1階にテナントを入れたお店の事務所が2階にできて、3階にまた別のお店が入って、4階は1階のお店の倉庫などという“ストライプ”型のビルも割とよくある)
 
TKR Sounds青葉通り店は、TKRアーティストの全CD(試聴可)と親会社の★★レコードの売れ筋アーティスト(ローズ+リリーやゴールデンシックス、三葉、トライン・バブルなど)のCDを並べる。また、CDを発売していないダウンロード販売のみのTKRアーティストの"CD"をその場でオーダーしてもらえばCD-Rに焼いて販売するという画期的なサービスもすることになった。
 
(これまでも実はネットショップでCD作成サービスはやっていたのだが、送料が掛かるので、必ずしも利用者は多くなかった)
 

その日、朋子の家に大阪に住む姉(戸籍上は従姉妹だがお互い姉妹という意識がある)の喜子(72)が久しぶりに遊びに来ていた。年齢が高くなると、なかなか自分の住んでいる所から動きたがらない高齢者も多いのだが、喜子は若い頃から旅が好きで、海外にもよく出ているし、このお正月はボーイフレンドと一緒に沖縄の宮古島まで行ってきたらしい。
 
「凄く優しい島だった。また行きたいなあ」
などと言っていた。
 
その喜子が仏檀の所に“画鋲で留めている”お遍路の納経軸に目を留めた。
 
「あら、お遍路行ってきたの?」
「私じゃなくて、義理の娘の千里ちゃんがね」
「ああ。青葉ちゃんの義理のお姉ちゃんか」
「そうそう。桃香よりよほど親孝行だわ」
「桃香ちゃんの性格に親孝行は期待しないほうがいい」
 
「その千里ちゃんが一昨年結婚したものの旦那が半年もしない内に死んじゃってさ」
「それは知らなかった」
「その菩提を弔うのにお遍路をしたのよ。歩いて四国一周」
「歩いて!?それは凄い」
「それで高野山まで入れて89の納経印をもらって、納経軸の本物はお姑さんとこに納めたんだけど、私もカラーコピーをもらったのよ」
 
「へー。カラーコピーか」
と言って喜子は見ていたものの
 
「いや、これはカラーコピーじゃない。本物だよ」
と言う。
 
「え?だったら、まさか間違ってこちらに本物持って来て、コピーをお姑さんの所に置いてきたのかしら」
 
「あるいはそもそも納経軸を2つ持って回ったのか」
「2枚掛軸出して2つ御朱印くださいとか言えるんだっけ?」
「そんなのはお寺は拒否する。やるとしたら、一度お寺の外に出てから、再度お参りしてから納経印くださいと言うか」
 
「それ、あんたさっきも押したじゃんと言われそう」
「かもね」
 

青葉が帰宅してから朋子はその件を聞いてみた。
 
「ああ、これも本物だと思っていたよ」
「だったら、お姑さんの所にカラーコピーを置いて来たのかしら」
 
「向こうがオリジナルでこちらはクローンだと思う」
「クローン?」
「説明困難だからカラーコピーという言い方をしただけで、これはオリジナルと全く同じ物なんだよ」
 
「そんなのどうやって作るの?」
「まあ人間には不可能だね」
「人間に不可能なら、誰ができる訳?」
「ちー姉は神様の知り合いが多いから」
「へ?」
 
「だから、これ画鋲で留めとくんじゃなくて、表装に出してちゃんと掛軸に加工したほうがいいと思ってた」
 
「そうする!」
 

金沢・富山近辺で出没している“幻のワゴン車”であるが、幸花が頑張ってニュース記事を検索したものの、ワゴン車が絡む交通事故があまりにもたくさんありすぎて、全く的を絞れないという結果になった。
 
またひとつ分かったことがあった。それはワゴン車は複数台いるのではということである。幸花と明恵、それに真珠やミステリーハンティング同好会のメンバーまで動員して、ツイッターへの書き込みを元にデータ集計していくと、同じ日の同じ時間帯に遠く離れた場所に出現しているケースが時々あることが判明した。
 
ただ車種については、どれもアルファード系のもののようである。若干、ハイエースかもという人や、エルグランドだったかも、などと言う人もあったが、アルファードとの見間違いが充分あり得る系統の車であった。
 

青葉はちょうど用事で東京に出たおり、千里(千里2)と会って相談してみた。
 
「どうにもしっぽがつかめなくてさ」
「それ実験してみたら?国道8号を10km/hオーバーくらいで走って」
「放送局でそんなことできないよ」
 
「だから、こっそりやるんだよ。神谷内さんとかも巻き込まずに、青葉ひとりで」
「白バイやパトカーに見つかったら?」
「その時は私がレースで鍛えたテクで無事逃走してみせるよ」
「やめて〜!手配されちゃう」
 
「まあ反則金くらいは私が出してあげるし」
「もう!」
 
「でも、ちー姉も付き合ってくれるの?」
「青葉ひとりではパトカーから逃げ切れないだろうからね」
 

そういう訳で、青葉と千里は2月23日(日)に津幡火牛アリーナでローズ+リリーのライブのため千里が高岡に来たものの、コロナ騒ぎでキャンセルになったので、この夜、一緒に夜の国道に出てみることにしたのである。
 
車は青葉のMarch NISMO Sを使用する。いつもの赤いアクアでは、目立ち過ぎるから警察に見つかった時、すぐ手配されて捕まるよ!?という千里の意見でそちらを使うことにした。まあ警察から逃走するようなことには、ならないことを祈るが!
 
夜10時すぎに高岡の自宅を出る。まずは県道32号を通り富大高岡キャンパスの北を通り、西海老坂交差点を右折。国道160号に入って能登半島東岸を北上する。
 
「幻のワゴン車、というか実際にはミニバンっぽいけど、それが同時に複数の場所に出没しているっぽいのは、どう思う?」
「ただの分身でしょ。本体を捕まえれば分身も消えるよ」
「クローンみたいな?」
「そうそう。例えば私が普段使っている携帯はこれ」
と言って、千里姉は赤いガラケーを見せる。
 
「Toshiba T-008. これのクローンを3番も所持しているから、私がこの端末で通話した内容は全部3番に筒抜けになる」
「へー!」
 
「だから内緒の通話は、こちらの別のスマホでやる」
と言って、千里姉(千里2)は別のスマホを見せてくれた。
 
「これはベークーのアクアリスX2. この端末は多分3番は知らない」
 
いやきっと知ってると青葉は思ったが、口には出さない。
 
「これは3番がメインに使っているスマホ、シャープ・アクオス・セリエのクローン。3番があの端末を使って通話した内容は全部私に筒抜け」
 
「だったら3番さんも2番さんが知らないスマホも使っているんじゃないの?」
 
「かも知れないと思って探ってるんだけど、なかなかしっぽ掴ませないんだよ」
「ああ」
 
「もっとも3番はしっぽ切っちゃってるからなあ」
「何の話をしてんのさ!?」
 

道の駅“いおり”で小休憩。そのまま160号を七尾まで行ってから23時半頃、“3国道の起点”川原町交差点を左折して国道159号に移る。国道159号は本来の制限速度は60km/hではあるものの80km/hで流れているのが通常で、夜中になると100km/hで飛ばしていく馬鹿もいるという道である。アルプラザ鹿島が見える付近で0時の時報を聞く。さすがに交通量が少なくなってくる。“宿”(という地名)のポケットパークでトイレ休憩する。
 
「この後、どっち行く?」
 
「河北縦断道路で」
「そちらが“出そう”だよね」
 
この先は国道249号(国道159号と重複路線)を南下するルートと、河北縦断道(石川県道59号)を南下するルートがある。カーナビは高速を通らない指定をすると国道249にナビするが、河北縦断道の方が国道より道も広いしまっすぐで走りやすい。それで道慣れたドライバーはこちらを通る。
 
青葉は制限速度を10km/hオーバーした70km/hで走って行く。後ろから何台もの車が追い越して行くが、“妖しい車”は見ない。途中のファミマで休憩して飲み物と肉まんを買う。食べながら運転を続ける。そのうち終端の加茂ICまで来てしまった。ここは国道8号津幡北バイパスとのインターチェンジである。
 

「右に行く?左に行く?」
「じゃ左で」
 
左は富山方面である。
 
それで富山方面のランプを上り、本線に合流する。ここは80km/hの道路なので、敢えて90km/hで走る。時刻はもう1時すぎで、車の量が少ない。今夜ライブをした、津幡“火牛”アリーナ方面への分かれ道もそのまま通過する。
 
「そうだ。あそこを“火牛アリーナ”って冬子さんに教えたの、ちー姉?」
「さあ、私は知らない。私だとしたら1番か3番かもね」
 
これ2人で責任の押し付け合いしたりしてないか?と青葉は疑問を感じた。(1番さんはまだ自分が3人に分裂していることに気づいていないはず)
 
やがて道路は刈安北ICを過ぎて、津幡北バイパスから“くりからバイパス”に移行する。速度制限が60km/hになるので青葉は速度を70km/hに落とす。
 
「青葉」
「うん。私も気づいた」
「70km/hをキープして」
「追い越されたら?」
「しばらく追随して観察。ただし5分以内」
「分かった」
 

その“白いワゴン車”は推定90km/hくらいの速度で後方から迫ってきて、鮮やかに青葉の車を追い越した。その追い越し方が美しいと思った。車線に戻る時も理想的な距離で前に入った。上手なドライバーだ。青葉は追随する。
 
「これ本体だよね?」
「うん。クローンじゃないと思う。ちなみにクローンが今金沢西インター付近にいる」
「よく分かるね!」
「あ、向こうの車を追随していたマジェスタが白バイに捕まった」
「そういう、ちー姉の感覚が不思議。遠くのものが手に取るように分かるんだね」
「え?誰でもこのくらい見えない?本体がここにいればクローンの位置も分かるし。位置が分かればそこの景色は普通に見えるじゃん」
「普通の人は見えないと思うけど」
 
「そうだっけ?こちらのは、車種はアルファードだね。ナンバーは・・・読めないや」
「私も読めない」
 
泥がはねたようにナンバープレートが汚れていて、読み取れないのである。車種も青葉にはよく分からない。しかし車に詳しい千里姉が言うのだから、アルファードで間違い無いのだろう。
 
何か文字も書いてあるが、よく分からない。
「ちー姉、あの文字分かる?」
「行盛。東京に行くの行くという字に、盛岡の盛」
「よく読めるね!」
 
その文字が書かれている所もやはり泥で汚れていてよく見えないのである。しかし異常?な視力の持ち主である千里姉が読んだのだから、きっとそう書かれているのだろう。千里姉は夜間追随している車の運転手の顔を見分けたりする。
 
「何とか代行と読んだ人もあったんだけど」
「ひょっとしたら、行という字の左側に“代”の字が隠れているのかも。泥の汚れが凄くて」
 
などと言っていた時、千里姉はハッとしたように言った。
 
「ブレーキ踏まずに速度落として。2.2km後方に白バイがいる」
「了解」
 
それで青葉はエンジンブレーキで速度を60km/hまで落とした。青葉の後方を走っていた白いプリウス、更には青いノートが、青葉の車を追い越して行く。そのまましばらく走っていたら、今度は白バイが青葉の車を追い越して行った。
 
「どうなると思う?」
「少し走っていけば分かるね」
 
それで5分も走っていたら、少し先の所にある道路脇の駐車帯に白バイとさっきのプリウスが停まっていた。
 

「ご愁傷様。でも大分(だいぶ)分かった。この先の道の駅でちょっと検討しない?」
「あ、うん」
 
それで青葉は道の駅“メルヘンおやべ”に車を入れた。むろん真夜中なので施設は閉まっているが、トイレに行った後、千里姉が自販機の缶コーヒーをおごってくれた。
 
「あのワゴン車見てて、何か感じなかった?」
と千里姉が訊く。
 
青葉は実は思っていたことを言ってみた。
 
「こんなこと言ったら笑われそうだけど、一瞬牛が走っているような気がした」
と青葉が言うと、千里も
「私も牛を感じた。これひょっとして火牛に関わってない?」
 
「それだと話がかなり変わってくるね」
 
「私が読み取った“行盛”だけど、たぶん平行盛だと思う」
「誰だっけ?」
「倶利伽羅峠の戦いで負けた平家方の武将だよ」
「ここで死んだの?」
「いやこの人は屋島の戦いにも参加している。壇ノ浦に参加したかどうかは不明。赤間神宮には祀られていないから、屋島で死んだか、屋島の後で自殺したんだと思う」
「平家方の武将って異様に自殺が多いよね」
「精神的にもろい人が多かったんだと思うよ。平家が負けた最大の要因だよ」
「でも倶利伽羅峠に絡んでいるわけか」
 
「あ、そうか」
と青葉は言った。
 
「平行盛ならさ、最初の2文字を見ると“平行”でしょ。それが“代行”に見えたという可能性は?」
 
「それはあり得るかもね。人間は何でも自分のよく知っているものに帰着させてしまうんだよ」
と千里姉は言った。それってこないだ世梨奈も言ってたなと思った。
 

その日、クレール(若林店)に隣接する和実の自宅居間で“企画会議”が開かれていた。出席者は、和実(社長)、店長予定者のマキコ、若林店チーフ就任予定のナタリー、盛岡から出て来てくれた、梓(社長代行) 照葉(若林店店長代行)、それに仙台市内に住む伊藤君(会長)、小野寺君(ライムの夫)、近藤君、江頭君、で、伊藤・小野寺・近藤・江頭は、しばしばクレールで力仕事が必要な時に呼び出されているメンツである。
 
なおライムも誘ったが「私は下っ端だから」と言って遠慮した。
 
むろん部屋の窓は開放している。
 
「でも青葉通りか。凄い所にお店出すね」
「ここ意外に儲かってたのね」
「まあ青葉通りから少し引っ込むんだけどね」
「他県にあるのに東京を名乗る某遊園地とか、隣の市にあるのに仙台を名乗る某空港よりはマシな気がする」
 
「メニューは若林店と同じでいいんだっけ?何か特徴を出す?」
「無理して変える必要はないと思う。ピザはどちらでも出せるんだっけ?」
「うん。若林店に入れたら今の所好評だし、青葉通り店もピザ用オーブンを入れるつもり」
 
「そうだ、ウィンナーコーヒーを作らない?」
と伊藤君が言った。
 
「そういうバリエーションはありかもね。生クリーム乗っけるのは、別に問題無いよ。ホイップさせるのは電動式の掻き混ぜ機でやっちゃうし」
「あれ、手でやれと言われたら辛い」
「味はほとんど変わらないし、電動でいいと思う」
 
「いや、そういうんじゃなくてさ、コーヒーにウィンナーを添えるんだよ」
と伊藤君は言う。
 
「ネットで“ウィンナーコーヒー”を検索すると、その画像が大量に見つかるよね」
「みんな冗談好きだよな」
 
「マジでウィンナーを添えたコーヒーを出す気?」
「面白いじゃん。きっと雑誌とかたくさん写真載せてくれるよ」
 
「まあ面白いかも知れないけどね」
「本来のウィンナーコーヒーはヴィエンナ・カフェとか書いておけばいいよ」
「まあもっともウィーンにウィンナーコーヒーは無いんだけどね」
「それはナポリにスパゲティ・ナポリタンは無いし、ハンブルグにハンバーグ・ステーキは無い、みたいな話?」
「そうそう。ウィーンの人たちは実際にはカプチーノとかを飲むらしいよ」
「生クリームではなくて、フォームミルクか」
「そんな感じ」
 
「そういえばさ、こないだテレビでウィンナ・コーヒーのネタやってたんだよ」
と伊藤君が話し始めた時、和実は絶対下ネタだなと思っていたら案の定だった。
 
「タレントの****がこないだオカマバーに行ったんだって。それでウィンナーコーヒーって注文したらさ」
 
「ハル、もう先は言わなくていい」
と和実は言ったのだが、彼は話し続ける。
 
「お待たせ〜、って持って来たの見ると、コーヒーの皿に、自分のウィンナーを乗せていたんだって」
 
そんなことだろうと思った。
 
「もうやめろよ」
と梓が不快そうな顔で言う。しかし伊藤君はやめない。
 
「それ見て同席してた友だちが怒ってさ。ふざけるな!と言って、ちょうど手に持っていたフォークをその“ウィンナー”にグサッと刺したんだって」
 
「エロだけで済まずにグロに来たか」
と照葉が呆れている。
 
「それヤバいんじゃないの?」
と近藤君。
 
「うん。刺されたホステスさん、ぎゃっと悲鳴をあげて、控室に走っていったらしいよ」
 
「それ無事なのかね?」
と小野寺君が嫌そうな顔で言う。
 
「その“ウィンナー”は廃棄処分になったかもね」
と伊藤君。
 
「そもそも廃棄したいんじゃないの?」
「いや、だいたい食品衛生法違反って気がする」
 
 
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【春牛】(2)