【春根】(4)

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映画『ヒカルの碁』の撮影は順調に続いていた。
 
撮影には2台のカメラを使用しており、片方にメイン監督の中村監督、片方に助監督の高原さんが付いている。2つのカメラは各々出演者がダブらないような場面を計画して撮影を進めている。このあたりは今回“撮影プラニング”のクレジットで参加することになった河村監督のチームが開発したソフトで計画をしている。
 
葉月は橘中ミナコの自宅でミナコと父が対局する場面の撮影をアクアの代理で撮影した後、次の出番まで(予定表では)30分ほど空くはずなので、トイレに行った後控室で少し休んでいようと思った。
 
ハードな撮影なので、休めそうな時は積極的に休んでいないと体力がもたない。アクアさん、ほんと体力あるよなあ。アクアさんって本当は4〜5人居るんじゃないかと思うほどだよ、などと思いながらトイレ(むろん女子トイレを使う)に入る。便器に座ったまま5分ほどボーっとしていてから、ハッと気付いたように意識を戻し、あそこを拭いてから立ち上がる。
 
拭くのって、まだ男の子だった頃もしてたけど、あの頃はタックだったから結構しっかり拭く必要があった。でも女の子になってしまった後は、タックしているのよりは濡れないので楽になったよなあ、などと考えていた。女の子の身体って割といいよね?
 

服を整え、流してから個室を出て、手を洗って女子トイレを出ると、ちょうど男子トイレにヒカルの衣装を着けたアクアが入って行く所だった。
 
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」
と声を交わす。アクアは男子衣装の時は男子トイレ、女子衣装の時は女子トイレを使用しているようである。でも葉月はどちらの衣装の時も女子トイレを使う。実際、男子トイレは使えない身体になってしまっている。
 
それで控室に戻る前に、念のため次の出番の棋院の場面の進行が遅れていないか確認しようと思い、棋院のセットの方に行ってみた。
 
え?と思った。
 
そこでは橘中ミナコ(アクア)が緒方精次九段(大林亮平)と打っているシーンが撮影されていたのである。この時間帯は、緒方九段と桑原本因坊(藤原中臣)の対局シーンが撮影されているものと思ったが、どうも進行が遅れているようだ。葉月がそれを見ていたら、河村さんが寄ってきて
 
「ごめん、今井さん。少しこちらの進行が遅れているから今井さんの出番は1時間半後になるから。これ新しいスケジュール表」
と言って、スケジュールを印刷した紙をもらう。
 
「ありがとうございます」
と言って、受け取ったが、葉月は混乱した。
 
だって、ボク、さっきトイレでアクアさんと遭遇しなかったっけ??ここにいるのがアクアさんなら、さっき会ったのは誰??
 
葉月はしばらく考えていたものの、どうも疲れているようだと思い、控室で寝てようと思った。それで控室(もちろん女性用控室)に戻ると、そこにいる女優さんたちに「お疲れ様です」と声を掛け、仮眠室に入り、空いている布団に潜り込んだ。
 

貴司と美映は(2019年)7月29日(月)に豊中のマンションから姫路の家に引っ越すことにしたので、プラドに乗って前日に下見をしてきた。姫路市内で名物の穴子飯を食べてから豊中のマンションに帰宅する。最後の帰宅である。途中、西宮名塩SAで休憩した時、ちょうどトイレに入っている時に千里からメールがあった。
 
《明日貴司が会社に行っている日中だけでいいからプラド貸して》
《明日は引越に使うんだけど》
《引越?どこかに引っ越すの?》
 
なぜ今更そんなこと訊く〜!?と思うが、この手の自分のしたこと・言ったことを全く覚えていないのは昔からの千里の通常営業である。
 
《千里(せんり)のマンションを出なきゃ行けなくなったけど、千里(ちさと)が姫路の家を貸してくれるというから、そこに引っ越すんだけど》
 
《ああ、じゃ美映さんと離婚したのね?》
《離婚はしてないよ。会社の住宅手当が打ち切られたから出なきゃいけなくなったんだよ。それで困っていたら千里があそこを貸してくれるというから》
 
《私があそこを貸すって言ったの?》
《そうだけど》
《ふーん。住宅手当が無くなったのなら仕方ないか。でも寝室では美映さんと寝ないでね》
 
《それは千里と話して、美映は1階南側のサービスルームを使って、東北のベッドルームは僕が使うことにしたんだけど》
 
《それならいいや。でも美映さんとまだ別れていないのなら、家賃30万円くらい払って。本当は月100万円取りたい所だけど、貴司だから特別》
 
《千里が2万円でいいて言ったんだけど》
《私がそんなこと言った?》
《言った》
 
《じゃまあいいや。だったら差額は身体で払って》
《それも千里が身体で払って言うから、そうすることにした》
《仕方ないなあ。だったら居住1ヶ月につき労働奉仕3ヶ月くらいで》
《身体で払うって、そっちの意味?》
 

《でも関西で6人乗る車が欲しいのよねー。あ、だったら引越に使うなら、もっと大きな車を代わりに貸すよ。貴司、大型免許持ってたよね?》
 
《仕事の都合で中型までは取ったけど、大型は取ってない》
《中型って8tトラック運転できたっけ?》
《できない》
 
《2トン・トレーラーは運転できるよね?》
《牽引免許持ってないから無理。ってか2トントレーラーなんて存在するの?》
《持ってるんだよね〜。友だちの引越とかによく貸してる。4トントラックは運転できる?》
《運転できるけど、大きすぎて困る。運送屋さんも頼んでいるし》
 
《軟弱だなあ。ハイエースは?》
《そのくらいなら大丈夫》
《じゃハイエース持って行くからプラド貸して》
《まあいいけどね》
 

それで千里(ちさと)はその日の夜の内に、市川ラボに駐めていた“キャラバン”(雨宮先生が“借金の形に取った”ものの使い道を思いつかないと言って常総ラボの前に放置していったもの。中にあったパン焼きの設備は取り外した)を運転して千里(せんり)のマンションまで行き、自分が持っている鍵で駐車場に勝手に入り、キャラバンを駐めてプラドを持ち出した。
 
千里が持っているマンションの鍵はキャラバンの座席に置いたが、結局自分はこのマンションで貴司と一緒に暮らせなかったなと思うと少し涙が出た。
 
(なお千里はこの車がハイエースではなくキャラバンであることに気付いていない。最初に勘違いしたのが、そのままになっている)
 
それで千里は7月29日は朝からプラドで敦賀駅まで走って、東京から来た冬子とコスモス、マネージャーの山村と鱒淵、TKRの三田原を迎え、小浜まで走っていく。実は5人乗せたかったのでプラド(7人乗り)を使いたかったのである。山村は助手席に乗せたのだが、こちらをじろじろ見ていた。どうも2番か3番が判断が付かないようだ。山村(こうちゃん)はアクアの3人も見分けが付かないみたいだからなあ、と千里は思った。
 

一方の貴司は美映に
「引越に便利なようにハイエース借りてきた」
と言って
「キャラバンに見えるけど」
と美映に突っ込まれ
 
「あれ〜〜?」
と実際驚いていた。
 
しかしキャラバンがあって良かったのである。
 
“運送屋さんには任せたくないもの”が意外に多く、キャラバンの荷室が半分くらい埋まった。プラドでは載りきれない所だった。
 

当日は朝から荷造り担当者が来て、どんどん荷物を箱詰めしてくれる。午後には4トントラックを持って来て、マンション敷地内に許可を取って駐め、そこに荷物を運び込んだ。微妙に入りきれなかったものも運送屋さんの事務の人が乗って来た車に積み、それでも乗らない分は結局キャラバンに積んだ。
 
それで姫路に持って行ってもらう。貴司たちはキャラバンで先に姫路に行き、それは家の横に駐めた。そして運送屋さんの4トントラックと、事務の人が乗る車を家の前の庭に駐めることができた。家具などを所定の位置(前日に紙に書いてテープでフロアに貼り付けておいた)に置いてもらい、段ボール類はLDKに積み上げてもらった。
 
「さて、この段ボールはどうやって片付けようか?」
「まあ年末くらいまでには片付くかな?」
 

実際は貴司は全くあてにならないので、美映が次の日曜に、お友だちをたくさん呼んで(数人は旦那付き)1日で片付けてしまった。お友だちがすぐ動員できるのが、阿倍子と美映の違いである。美映は高校の同級生とのつながりも卒業してから長いのに結構続いているし、バスケットの友人も多い。バスケットガールたちはみんな腕力も体力もあって大いに戦力になる。
 
片付けが終わった後は、ペントハウスで打ち上げパーティーをしたが、好評で
 
「ビバノン、ここで時々パーティーしようよ」
と言われていた。
 
もちろんBGMはアラベスク(Arabesque) の "Parties in a Penthouse"(*12) である!
 
パーティーの後は地下のバスケットコートで3×3をやって“腹ごなし”をした。
 

(*12) Jake Miller, Airbourne に各々 "Party in the Penthouse" という曲があるがどちらも別の曲。つまり似た名前の曲が3つあることになる。各々の歌い出し↓
 
Arabesque : I'm living on a mountain... ("Parties in a Penthouse"というサビが有名)
Airbourne : I make a getaway from the day to day...
Jake Miller: Tonight we gon Party in a Penthouse...
 

7月31日、青葉と千里(千里3)は、一緒に昼食を取って“千里1の暴走”の件を話し合った後、冬子から「もしよかったら見学しない?」と言われていたので、新宿のスタジオに行き、ローズ+リリーの『トロピカル・ホリデー』の音源製作に立ち会った。伴奏は Havai'i 99 のメンバーで、スターキッズはお休みなので、彼らも見学している。
 
「ほんとこの人たちノリがいいですね〜」
と青葉は七星さんたちと話していた。
 
「たくさん買ってきてもらったから、千里と青葉にも1本ずつあげるよ」
と冬子から言われて、タヒチの縦笛、ヴィヴォをもらった。
 
口ではなく鼻で吹くエアリード楽器なのだが、千里も青葉も一発で音を出すことができて、すぐメロディーも吹いてみせたので、Havai'i99の城野月さんが驚いていた。
 

収録が終わった後で、青葉と千里はその月さんと彼女のフィアンセ(というより内縁の夫)の村原宏紀さんから個人的なことなのだけど、といって相談を受けた。最初は冬子に相談したいと言われたものの、どうも青葉と千里の方が良さそうということで、冬子は同席しなかった。
 
それで村原宏紀・城野月、千里と青葉の4人でスタジオ内の小ブースに入って話を聞いたのだが、月が千里を見て
 
「あれ?醍醐先生、それはウィッグですか?」
と尋ねた。
 
それで青葉は彼女たちの“相談事”の内容が分かってしまった。千里も察したようで
 
「もしかして、髪の短い私にも会いました?」
と尋ねた。
 
「あ、はい。先週帰国してすぐに郷愁村の方に行ってケイ先生たちに帰国の報告をた時に醍醐先生もおられて、髪が短かったのですが・・・もしかして妹さんか何かですか?」
 
「実は双子の姉妹なんですよ」
と千里(千里3)は言った。
 
「そうだったんですか!」
 
確かにそうとでも説明しておかないと、説明不能だよね。
 
「ひょっとして姉に会った後、月さん体調がおかしくなったとかいうことは?」
と千里は尋ねる。
 
「もしかして何か関わりがあったのでしょうか?実はあの日、私唐突に身体が女の子に変わってしまって」
 
「ああ。また被害者が出ていたか」
と千里は言った。
 
「被害者!?」
 

「実は姉は昨年結婚したものの、半年もしない内に旦那が事故死してしまいまして」
「え〜〜!?」
「それで茫然自失状態になって。最初の頃は日常生活もまともにできない状態だったんですよ」
「それはお気の毒です」
「今は何とか回復してきたのですが、ちょっと霊的な力が暴走中で」
「暴走?」
 
「妖怪が棲んでいるような場所にあの子が行くと、視線をやっただけで妖怪が粉砕されてしまいますし、ゴーストスポットは封印されてしまうし、呪いは除去されてしまうし」
と千里が言った所で青葉が
 
「性別に不安を抱えている人が、あの髪の短い方の姉と握手したりすると、本人が心の中でなりたいと思っているほうの性別に変わってしまうんですよ」
 
「え〜〜!?」
 
「**の法という秘法なんですけどね。実は姉は霊媒で、6年前に亡くなったひじょうにパワーのある密教僧が、亡くなる直前、次世代に伝えるべき様々な秘法を姉の身体にまるでDVDレコーダーか何かのように単純に記録したんです。ふだんは本人は記録しているだけで使えないのですが、今姉はまだ昨年の夫の死によるショック状態から完全には復活していないので、管理が甘くなっていて、勝手に起動してしまうんですよ」
 
「それって、ものすごく危険な状態なのでは?」
 
「それで私がフォローに駆け回っている状態なんですけどね」
と千里は説明した。
 

「それで私たち古株の中堅社員がフォローに走り回っている所なんですけどね」
と貴司は大阪実業団リーグ2部に所属するHH交通の部長に説明した。
 
「あんたたちも大変だね〜」
と部長は同情的に言ってくれた。
 
6月下旬の株主総会で新たに社長になった高縄氏の下でMM化学が大混乱に陥っている状況はテレビや週刊誌でも報道され、高縄社長やその一派に批判が集まっている。株価は現在数十円まで落ち込んでおり、証券取引所は注意銘柄に指定している。
 
それで結局、HH交通は現在のMM化学バスケ部の貴司以外の7人を引き取ってくれることになった。HH交通のバスケ部員は現在11名しか居ないので7人をまとめて引き受けるだけの余裕があったのである。HH交通も数年前までは1部にいたものの2部に落ちてから有力部員が辞めてしまい、再浮上したいのにできない状況が続いていた。それで昨年2部で準優勝したMM化学の部員加入は中心選手の貴司抜きだとしても歓迎だったのである。
 
なお貴司はここに入らないことにしたのは、貴司まで入ると、事実上HH交通のバスケ部がMM化学のバスケ部に乗っ取られる形になり、現在の部員が反発することが予想されるからである。あくまで欲しいのは現在のスターターの交代要員になるレベルの選手であり、貴司はこのチームに入るには“強すぎる”のである。
 
貴司としては全員まとめては無理だろうから数社に分けてお願いしようと思っていたのだが、全員引き受けてもらったことで、本当に助かった。引き取りのタイミングは今シーズンのリーグ戦が終わった年末ということでお願いした。
 
MM化学が彼らに払う給料の原資となる、貴司からのスポンサー料は3月分まで払い込み済みであるものの、正直この会社は3月まで存続していないかも知れないと貴司も思っていた。
 
実はこの7月31日の時点で、本来は25日に出るはずだった7月分の給与がまだ支給されていない。それで引越代なども払わなければならなかったので、千里からお給料が出るまでの“つなぎ”と言って50万円(8月分の生活費20万円+引越費用概算20万円+養育費10万)借りている。千里は貴司に「養育費は確実に送ってあげて」と念を押し、貴司もその件は謝った。阿倍子は7月は宝くじが全く当たらず焦っていた所に送金があり、助かった!と思った。
 
「細川さんはBリーグに行く?」
「いや、さすがにこの年齢では今更採ってくれる所は無いかも」
「充分行けると思うけどなあ」
 

「そういう訳で城野さんが女性の身体になってしまったのは、姉の暴走のせいだと思います。私が元の男性の身体に戻すことができますが、もしよければ今すぐ戻しましょうか?」
と千里は言った。
 
「あっえっと・・・・」
と月は戸惑うような顔をしてから言った。
 
「私は女の身体になって、凄く嬉しいんですけど、このままにしておく訳にはいかないでしょうか?」
 
青葉と千里は顔を見合わせたが、千里は言った。
 
「もちろんそのままでも全然問題ないです」
「でも戸籍上の性別をどうすればいいか悩んでいて」
 
「それは病院で診察してもらえば、たぶん半陰陽だったのだろうという診断になると思いますので、その診断書をもとに性別の“変更”ではなく“訂正”をすればいいんですよ。そういうのに慣れている病院を紹介しましょうか?」
 
「お願いします!」
 
それで千里は都内の大間産婦人科を紹介したのである。
 

「でも性転換しちゃった原因が分かってホッとしました」
と月は本当に安心したように言う。
 
「突発的に女の子になってしまったから、また突発的に男に戻ったりしないか不安だったんですよ」
 
「まあ結果的に月の場合は、女になれてよかったんだよな」
と村原宏紀は言っている。
 
「ヒロちゃんはどうする?」
と月が訊く。
 
「村原さんもどうかなさったんですか?」
と青葉は訊いた。
 
「いや、実はボクも女になってしまったんですが」
と頭を掻いて言っている。
 
さすがにこれは青葉も驚いた。
 
きっと本人も性別意識が揺らいでいたので、性別が曖昧な月さんを好きになったのだろう。むろん青葉も千里も、その驚きを顔に出したりはしない。
 

「えっと・・・村原さんも女性のままでいいんですか?」
と千里が訊いた。
 
「実はどうしよう?と少し悩んでいるんですが」
と本人は言っている。
 
「私はレスビアンでもいいよ」
と月。
 
「あのぉ、男に戻すこともできるんですよね?」
「できますよ。ただし一度男に戻したら、もう女に変えることはできません。あとこのことは他言しないで欲しいのですが」
 
本当は1年後には再度性別変更できるらしいが、二度と変えられないことにしておいたほうがいいだろう。性別もコロコロ変えるべきものではない。
 
「まあ人に言っても誰も信じないでしょうけどね」
「確かに!」
 
「じゃ、やはりボクは男に戻してもらえませんか?正直、月を見ていて、自分は性別を移行するだけの根性が足りないという気がしていて」
 
「まあ周囲との軋轢が凄まじいからね」
と月も言った。
 
「じゃ男に戻りますか?」
「はい、お願いします」
 

それで千里は村原を男の身体に戻してあげた。変化はほんの10分ほどで起きた。
 
「あはは、ちんちんが復活しちゃった」
と村原。
「無いほうが良かったんじゃないの?」
 
「うん。でも女として生きて行くだけの勇気が無いから仕方ない」
「なんなら性転換手術受けるとか?」
「たぶんそれ一生悩んでいくかも」
「30歳になるまでに去勢手術しなよ」
「しちゃうかも」
 
「ところで、私、ひょっとして子供産めたりします?」
と月は訊いた。
 
「女性ですから当然産めますよ。たぶん1〜2ヶ月以内に生理も始まると思いますから、妊娠したくない場合はちゃんと避妊してくださいね」
 
「分かりました!」
 

千里1は《きーちゃん》から言われたように、秩父三十四箇所をミラで由美を連れて巡礼しようとした。ところが調べてみると秩父霊場はひじょうに狭い範囲に集中しており、車を持っていくと、むしろ邪魔になりそうな感じだった。とはいっても公共交通機関だけで動き回るのは辛いものがある。
 
そういう訳で、千里1はここをバイクと徒歩で行ってくることにしたのである。この時点で由美を連れて行くのは諦めた。
 
由美をおんぶしてバイクに乗れないことはないだろうが、あまりにも危険すぎる(道交法の想定外??)。
 
使用するバイクはYZF-R25である。大型バイクも乗れないことはないが邪魔になりそうな気がした。もっとも千里1はこのバイクがなぜ自分の手元にあるのか知らない。実は2番が青葉から借りたまま、返すのを忘れているのである。
 
バイク前提で日程を計算してみると2日で回れそうという計算になる。それでこのような計画を立てて8月1日(木)の早朝出発した。
 
●8月1日(木)
8:00 1 誦経山四萬部寺(妙音寺)
8:22 2 大棚山真福寺
8:41 - 光明寺(↑の納経所)
8:56 3 岩本山常泉寺
9:16 4 高谷山金昌寺(新木寺)
9:35 5 小川山語歌堂
9:50 - 長興寺(↑の本寺)
10:10 6 向陽山卜雲寺(荻野堂)
10:33 7 青苔山法長寺(牛伏堂)
11:02 8 清泰山西善寺
11:25 9 明星山明智寺
12:07 10 萬松山大慈寺
12:31 11 南石山常楽寺
12:57 12 仏道山野坂寺
13:18 13 旗下山慈眼寺(あめ薬師)
13:41 14 長岳山今宮坊
13:55 15 母巣山少林寺(福寿殿)
14:15 16 無量山西光寺
14:40 17 実正山定林寺(林寺)
15:05 18 白道山神門寺
15:24 19 飛渕山龍石寺
15:43 20 法王山岩之上堂
16:00 21 要光山観音寺(矢之堂)
16:17 22 華台山永福寺(童子堂)
 
この日はほとんど秩父市内(一部横瀬町)でちょこちょこと動き回る感じであった。札所と札所の間もほとんどが1km程度である。《たいちゃん》がナビしてくれたので、道に迷うこともなくスムーズに進行した。
 
巡礼している最中は生臭は食べないという方針で、お昼ごはんには塩おにぎりを作って持って行っている。これを明智寺に参拝した後で食べて少し休憩している。秩父霊場は歩いて巡っても5日というのだが、春に康子と太一が巡った場合、車を使っているのに5日掛かっている。これは狭い道で苦労し、結局広い駐車場に駐めて歩いて行くはめになった所が多数あったからと聞いた。しかし今回はバイクだったので、全ての札所のそばまでバイクで行くことができた。なお、納経する般若心経は出発前に4日がかりで34枚書いておいた。
 
16時半くらいにこの日の予定の最後の永福寺に到達する予定だったのだが、実際には15時半頃にここまで来てしまった。しかし予定は変えずにそのまま秩父市内の宿に泊まった。宿に泊まった後は“オフ”になるので夕飯は普通にお肉も食べている。
 
●8月2日(金)
8:00 23 松風山音楽寺
8:25 24 光智山法泉寺
8:45 25 岩谷山久昌寺(御手判寺)
9:10 26 萬松山圓融寺(岩井堂)
9:34 27 龍河山大渕寺(月影堂)
9:55 28 石龍山橋立堂
10:22 29 笹戸山長泉院(石札堂)
11:02 30 瑞龍山法雲寺
12:02 31 鷲窟山観音院
13:22 32 般若山法性寺(お船観音)
14:02 33 延命山菊水寺
14:52 34 日沢山水潜寺
 
朝御飯を精進料理にしてもらい、塩おにぎりも作ってもらって、それを持ち2日目の巡礼をした。
 
この日は昨日とはうって変わって札所と札所の間がかなり離れている。しかも急坂が多い。この行程は歩くと体力のある人でも3日掛かるかもと思った。しかしバイクなので順調に進行し(但し下り坂がわりと怖い)、この日はほぼ予定通り15時頃に結願の寺・水潜寺に到着することができた。
 
この結願にいちばんホッとしたのは千里2と千里3だったのだが・・・
 

「封印は掛からなかった」
と《くうちゃん》は言った。
 
「どうすれば掛かるんでしょう?」
「ちょっと僕も考えてみる」
 
《くうちゃん》がこんなに悩むのも珍しい。
 
「それとあの子が発動させているのは、ひょっとすると**の法ではないかも知れない」
 
「**の法以外にも、性別を変えてしまうものがあるんですか?」
「ひょっとすると、オリジナルの**の法かも」
「それは失われたのではなかったのですか?」
 
「瞬嶽さんなら密かに習得していたのかもね。瞬嶽さんが千里君の身体に記録したものの全容は君に教えてない。ただ学ぶ資格のある人には分かるはず」
 
「あ、それは感じていました。印の組み合わせに明らかに“空き”があるんですよ。でも何が発動するか分からないのでは怖くて使用できないし」
 
しかしこの日にまだ千里1に封印が掛からなかったおかげで、すぐに助かることが起きたのであった!
 

青葉は、8月1日から東京辰巳水泳場で、FINAスイミングワールドカップ2019東京大会に参加した。これは短水路(25m)の大会である。それで青葉たちはここ3日ほど、郷愁村ではなく深川アリーナの25mプールで練習していた。
 
8月1日は公式練習日なので辰巳に行ってきたが、混んでいるので、この日は短時間で切り上げ、また深川アリーナに戻った。ところが
 
「済みません。循環装置が故障して修理中なのですが、今日は無理かも」
と言われる。
 
仕方ないのでジャネ・筒石と3人で郷愁村に行き、50mプールでこの日は泳いだ。筒石は「大会前だから早めに上がる」と言って、午後には帰ってしまったが、青葉とジャネは翌朝まで休憩を取りながら泳ぐ。この日は映画撮影中のアクアも来ていた。きっと誰かが撮影している間に、空いている子が気分転換に泳ぎに来ているのだろう。冬子と政子が見学に来ていたが、集中して練習したいので、軽く会釈しただけで練習を続行させてもらった。。
 
夕方には、プールのロープを横向きに変更してもらい、25mプールの状態にして朝まで練習した。50mプールは2.5m×10レーンなので横向きに使うと25mプールになるのである。
 
「あんた朝まで泳いで、競技は大丈夫?」
とジャネから訊かれる。
 
「400m程度泳ぐ体力は新幹線で東京まで移動している間に回復しますよ。でもジャネさんは疲れないんですか?」
「交替で泳いでいるからね」
「ああ・・・」
 
つまりマラが練習した分もマソにプラスになる!?
 

ワールドカップ東京大会で、青葉が参加した競技は下記である。
 
8.2(金) 400自由形(予選・決勝)
8.3(土) 400iM(タイム決勝)青葉は夕方の決勝時間帯
8.4(日) 800自由形(タイム決勝)同上
 
結果はこのようであった。あまり波乱は無かった。
 
400自由形 1.ジャネ 2.青葉 3.金堂
400個人メドレー 1.青葉 2.金堂 3.竹下
800自由形 1.ジャネ 2.青葉 3.竹下
 
世界選手権に行けなかった竹下リルが800m自由形で金堂をかわして3位に入ったのは大健闘である。“ドルフィン少女”もだいぶ体力がついてきたようだ。身長を伸ばすため毎日牛乳飲んで牛肉食べています、とか言っていたが、お母さん(の財布)が大変そうだ。お父さんは「もうこれ以上背が伸びなくてもいいのに」などと、ぶつぶつ言っているらしいが!竹下リルは春の段階で身長175cmと言っていた。
 

4日の夕方、競技が終わって青葉とジャネ・金堂・竹下・南野・永井の6人で食事にでも行こうか?と言っていた時のことであった。
 
神谷内さんから電話が入る。
 
「金沢ドイルさん、今東京だっけ?」
「はい、そうですが?」
「緊急事態が起きていて、X町まで来られないよね?」
「もしかして今からですか?」
 
「どうも神様系のトラブルのようなんだよ。ご神木みたいなのを切ってしまった後、その切株の所が、人が近寄れない状態になっているようで。僕も簡単にしか話を聞いていないのだけど、取り敢えず今熊が1頭死んで、獣医さんが倒れて、近所の住人が避難している所なんだけどね」
 
ちょっと待って。そんなの私にもできないよぉと思う。しかし放置はできない。
 
「私にできるかどうかは分かりませんが、取り敢えずそちらに向かいます」
と青葉は答えた。
 

それで急用ができたから言ってジャネたちと別れる。
 
駅に向かいながら、千里たちのスケジュールをチェックする。
 
2番か3番か空いてないかな?
 
千里3は8月1-5日、日本代表の合宿中だ。31日に会った後、合宿所に入ったのだろう。2番は・・・LFBは10月5日から始まる。だから今は動けるかも。
 
それで青葉は新木場駅から千里2のガラケーに電話した。
「それは下手すると青葉死ぬよ」
「だから手伝ってくれない?」
「瞬法さんに頼みなよ」
「それは必要な気がする」
 
「それと私より1番の方が今は使える」
「1番さん、秩父三十四ヶ所をするとか言ってなかった?」
「8月2日に終わった」
 
「もう終わったんだ!封印は?1番さんの暴走の件、31日に3番さんから聞いた」
「あれは被害者多数なんだよね。巡礼に期待したんだけど封印は掛からなかった。だからまだ暴走中。しかも巡礼で更にパワーアップ」
 
「うーん。それなら使えるかも知れないね。それに私は1度1番さんに性転換させられちゃったから、1番さんと身体の接触が生じても、次は1年後までは大丈夫だよね?」
 
「ああ、それがどうも1番が発動させているのは**の法ではないかもしれないという話になってきた」
「嘘!?」
 
「違う法だったから青葉にもガードが掛からなかった。少なくとも回数制限は無いみたいなんだよね。ひょっとしたら桃香は既に性転換しちゃってるかも」
 
「桃姉(ももねえ)ならちんちんできたら喜んでいるかも」
「ああ、そうかもね。桃兄(ももにい)と呼んであげないといけないかも」
と2人は適当なことを言い合っている。
 

「でもそれなら、私、1番さんと接触したらまた性転換しちゃう?」
 
「大丈夫だよ。青葉が性転換しちゃったら、私が男に戻してあげるよ」
「男にするのはやめて〜!」
「ついでに2歳くらい若返るよ」
「いや、年齢は別にいい」
 
「でも青葉さ、今自分の性別に不安を持ってる?」
「ううん。本当の女になれたというので凄く満足している」
 
「だったら接触しても平気なはず」
 
青葉は考えた。
 
「そうかも!」
 
それで青葉は瞬法と千里1を呼び出すことにしたのである。
 

ワールドカップが終わってたのは20時頃だったのだが、長距離の決勝は早い時間帯に行われたので、青葉たち長距離組の6人が会場を出たのは19時過ぎであった。そこに神谷内さんから連絡が入ったのだが、それから千里2に連絡し、瞬法さんも呼んだ方がいいというのでそちらに連絡を取った。千里1も瞬法さんも金沢に行ってくれることになった。
 
「瞬法さんのお寺から金沢行き最終新幹線(21:04)に間に合わないけどどうしよう?」
「明日の朝1番の新幹線にする?」
 
「それが向こうで応急処置をしてくれた自称霊感人間の伊勢さんという女性と電話で話したのでは、取り敢えず抑えたけど朝までもつかどうか微妙らしいんだよ。元々この封印をした霊能者さんは今日はたまたま福岡に行ってたということで、向こうこそ明日の朝にしか間に合わない。今夜中に大阪に移動して、明日朝1番のサンダーバード(大阪6:30-9:13金沢)で金沢に入るから現地到着は10時前になるらしい」
 
「じゃ私の車で行こうよ」
「ちー姉、運転できる?」
「誰か眷属に運転させるから平気」
 
どうも千里1は霊的な能力を復活させた後、眷属使いが荒くなっているようだ。
 
千里1は今ミラで板橋区のバスケ練習場に来ているらしい。幸いにも今日は由美は桃香に預けておいたという。それで青葉に葛西まで行ってそこに駐めているアテンザを運転して三芳PAまで行って欲しいと言われた。千里1はミラで瞬法さんを拾ってから同じく三芳PAまで行き、そこでアテンザに3人で乗り込んで金沢に向かう。
 
「ミラはどうするの?」
 
高速道路は何日も経ってから降りようとするとETCのゲートが開かない。通行券で乗った場合も、日付を見たら不正乗車を疑われるだろう。
 
「ミラは眷属に移動させるから問題無い」
 
やはり眷属使いが荒いようだ。
 
しかし青葉は新木場駅に居たので葛西に行くのは好都合である。タクシーに乗って葛西の駐車場まで行く。ここからはほんの7km程度である。アテンザの鍵のコピーはいつも預かっている(青葉もアクアの鍵を千里たちに渡している)ので、それでドアを開け乗り込み、関越の三芳PAを目指した。高速に乗る前にコンビニに寄ってパンとお茶を買ったので運転しながら食べて夕食にする。少し混んでいたが21時すぎに到着し、青葉は車内で仮眠した。
 

窓がトントンとノックされる。千里1と瞬法さんである。ドアをアンロックする。取り敢えず瞬法さんには後部座席に乗ってもらう。
 
「取り敢えず私が運転するよ。ちー姉、妙高SAで交替して」
「それより、青葉はここまでずっと運転してきたんだよね?」
「うん。でも1時間くらい寝たから」
「それなら、その事件の詳細を向こうの人と連絡して聞いてくれない?」
「あ、それを先にしないといけなかったね。ごめん、寝てて」
「ワールドカップに出た後だもん。仮眠しなきゃ身体がもたないよ」
「まあそうだけどね」
 
それで青葉は助手席に座り、千里姉が運転席に座って、アテンザは出発する。
 
「そうだ、青葉、ワールドカップで金メダル1個、銀メダル2個おめでとう」
「ありがとう。なんかメダルとか賞状が増えて行って収拾がつかなくなりつつある」
「あれは段ボール箱に放り込んで乾燥剤入れておけばいいんだよ」
「それでいいんだっけ?」
「それともガラス窓の陳列棚でも買って飾る?」
「そういうの好きな人もいるだろうけど、私の趣味じゃない」
 

青葉は助手席から夕方少しだけ電話で話した伊勢さんという女性に再度電話をして、詳しい状況を聞いた。すると、このような経緯だったらしい。
 
●元々そこには大きな杉の木がある古い祠があった。いわれは不明だが、その界隈で数百年前(戦国時代?)に戦いがあり、たくさん死者が出たので鎮魂のために祠が作られたともいわれる。但し杉は実際には樹齢百年くらいと思われ、もしかしたら何代か代替わりしているのかも。
 
●近所のお年寄りが毎日祠に水と米と塩をあげ、お参りしていた。しかしそのお年寄りが3年前に亡くなった後、誰も世話する人がなくなり放置されていた。しかし元々祠自体がかなり傷んでおり、落書きされたり、小学生で小便を掛けたりするものまであり、子供が遊んでいる最中に崩れたら危険だから取り壊すべきではという声がずっとあった。
 
●この地区に下水道が来ることになり、工事するのに、その荒れた祠と杉の木が極めて邪魔な位置にあった。そこは町有地なので、町側と自治会で話し合った結果、祠は取り壊して更地にしようということになった。神主さんを呼んできて神上げと廃社の儀式を行った。それで祠を取り壊し、その後杉の木も切った。
 
●ところが、その木を切った作業員2名と現場監督さんがその日の夕方、急死した。儀式をした神主さんまで翌朝死亡しているのが発見された。祠の撤去を決めた自治会長さんは責任を感じたのか数日後自殺してしまった。
 
(つまり事実上犠牲者が5人も出ている)
 
●下水道工事は中断され、誰もその残った切り株の所には近づかない(正確には近づけない)状況になる。野良猫とかカラスとかがしばしば切り株の近くで死んでいるが、近寄れない。遺体はたいてい数日以内に消えているようだが、誰が(何が)持ち去っているのかは分からない。
 
●自治会では何とかしなければというので、最初近所のお坊さんに来てもらい、お経をあげてもらったが、効果は無かった。お坊さんも効果が無かったことが分かったようで「お経より祝詞が利くかも」と言う。それで、金沢の大きな神社の宮司さんに見てもらったら「私の手には負えない」と言われた。一応心当たりに聞いてみるとは言われたが、その後、連絡が無い。
 
●伊勢さんのお母さんの知り合いの風水師さんに相談したら、その風水師さんのお師匠さんで東京在住の風水師さんと、その風水師さんの知り合いで倉橋さんという霊能者さんが来た。そしてその倉橋さんが中心になって密教の護摩を焚き、どうも**明王の封印をした感じだった。締めに銅剣を地面に刺したのだが、確かにその剣の少し手前までは行けるようになった。
 
●自分(伊勢さん)の個人的な見解だが、封印は不完全だったと思う。そもそも悪霊とかが暴れていたのなら封印でよいが、神様系を封印しようとしたら更に怒る気がする。
 
●今日の昼間、熊がやってきてこの付近の民家を荒らした後、封印の剣を抜いてしまい、熊自身は死亡した。熊が出たので警察に通報したのだが、警察はここまでの事情を知らないので、猟友会や動物園の人なども呼び、獣医さんが熊の近くに寄って死んでいるかどうか確認しようとした。その獣医さんは熊の所まで行く前に倒れた。
 
●「ここまで来ちゃだめ!」という声を発して倒れたので、機動隊が出動し、鈎(かぎ)のついたロープを投げて獣医さんの服に引っかけてこちらに引き摺り、それで救出して病院に運んだ。幸いにも2週間くらいの入院で済みそうである。
 
●警察は有毒ガスが出ているか、何か地面に高圧電流でも流れているかと考えたようで、立入禁止にして対策を練ろうとしているようである。
 
●このままでは更に犠牲者が出かねないので、自分が倉橋さんから預かっていた予備の剣を封印の位置から1m手前に刺したら、何とか一時的に鎮まった。しかし自分は霊能者とかではないので、この封印はおそらく半日程度しかもたないと思う。
 
●倉橋さんに連絡したら今九州の福岡に居るので、すぐ向かうが明日のお昼くらいになるかもということだった。この事件を取材していたテレビ局の人の中に『金沢ドイルの北陸霊界探訪』の神谷内ディレクターがいるのに気付いたので、金沢ドイルさんに来てもらえませんか?と依頼した。
 

「ちなみにこの依頼料は誰が払うの?」
と瞬法さんは腕を組んで根本的な疑問を出した。
 
「自治会で緊急会議を開いて、自治会のアドバイザーになっている町会議員さんが個人的に300万円くらいまでは払ってもいいとおっしゃっているそうです」
と青葉が言う。
 
「それ公職選挙法は大丈夫?」
「議員さんが私たちに直接払うなら問題ないと思います」
「ああ、自治会に寄付して自治会がこちらに払うのだとアウトだよな」
「微妙ですよね」
 
「でもそれをその倉橋とかいう奴とシェアするわけ?俺は最低200万は請求するぞ、こんな危ない話」
と瞬法さんは言っている。青葉も同感だが、瞬法さんに協力してもらえないとこの件は怖い。
 
「どういう比率で分けるかは話し合いになると思いますが、不足したら私が個人的に瞬法さんに払います」
と青葉は言った。
 
「瞬葉ちゃんは、そういう自腹が多すぎる」
「菊枝さんからも注意されました」
 

甘楽PAに23時頃到着し、ここで少し休憩した。千里が
「みなさんどうぞ」
と言って“暖かい”ほっともっと弁当とお茶を配る。ちなみに甘楽PAのお店はとっくに営業時間が終わっている。自販機だけが動いている状態である。
 
しかしこの程度では青葉も瞬法も今更驚かない。おいしく頂いて出発する。今度こそ青葉が運転するよと言ったが
 
「私は大丈夫だからふたりとも“熟睡”してて」
と千里が言うので、寝ていることにした。それで青葉は再び助手席に座り、瞬法さんも後部座席に乗って、千里姉の運転で車は出発する。青葉は自分を深い眠りに導いた。
 
やがて車が停まった感覚で目を覚ます。
「ここは?」
「X町役場」
と千里1は答える。
 
時刻を見ると夜中の1時である。甘楽PAからは400km近いが時間は2時間も経っていない。あり得ない時間での到着だが、細かいことは気にしない!
 
町役場に緊急対策室が設置されていて、そこに神谷内さんも伊勢さんも居た。
 
「こんばんは。伊勢まこと、と申します」
と笑顔で挨拶するのは18-19歳の女性である。青葉は電話で話した時はもう少し年齢の高い人かと思ったので驚いた。
 
対策室には、幸花と明恵も来ている。更に、青葉が以前関わった事件の担当だった、金沢西警察署の橋本警部補まで来ていた。当時は巡査部長だったが、今年の春に警部補に昇進したらしい。
 

早速、青葉たちが現場に向かう。すると他の局のスタッフも一緒に付いてきた。
 
現場には灯りが灯っており、ロープが張られていて警官が1人立っている。夜中なのに全くお疲れ様である。
 
青葉も瞬法も闇夜の星明かりの中、その切株を見て一瞬声をあげそうになった。
 
“神様たち”?が、怒りくるってるよぉ!
 
こんなのどうしろというのさ?
 
これは2〜3年前からの話ではない。たぶん10年以上この状態にある。しかし祠と御神木があった間はその作用でギリギリ抑えられていたんだ。
 
しかし青葉と瞬法がそんなことを考えた次の瞬間。
 
唐突に巨大な存在が出現した。
 
龍なら見慣れているが、これは龍とかとは比較できないほどの凄い存在である。
 
青葉も瞬法も度肝を抜かれて呆然として見ている。その巨大な存在が何かとても優しい雨のようなものを降らせる。怒り狂っていた“神様たち”?の雰囲気が変わる。怒りのエネルギーが消えて行き、慈愛に満ちた存在に変化して行く。そして・・・
 
“神様たち”?は天に昇って行った。
 
巨大な存在がこちらにニコッと微笑みかけた気がした。
 
そして去って行った。
 

ハッとして振り返ると、千里(千里1)がじっとその切り株を見ていた。そして千里1は言った。
 
「その切り株に何かあるんですか?」
 
「まさか、今のは**菩薩の**大悲法か?瞬嶽師匠が40年くらい前に使ったのを1度だけ見たことがある。やはり荒れた祠の処理で」
と瞬法さんが小さな声で言った。
 
「私もこれを解決するにはあれを使うしかないと思いました。私は話に聞いていただけですが」
と青葉は言った。
 
「ああ、青葉と瞬法さんでその秘法を起動したのね?なんか切り株の所、きれいになってるよね?」
と千里1は言っている。
 
また無自覚に、師匠の秘法を勝手に起動している!
 
ひょっとして1番さんって今世界最強の霊能者だったりして!?
 

「なんか解決しちゃったような気がするんですけど」
と明恵が言った。
 
「あきちゃんもそう思った?私もそんな気がした」
と伊勢さんが言っている。
 
「あのぉ、お友だちですか?」
と青葉は尋ねた。
 
「高校の時に同じクラブにいたのよね」
と伊勢さん。
 
「そうだったの!?」
 
「私はあきちゃんの性別を知っている」
と伊勢さん。
「私もまこちゃんの性別を知っている」
と明恵。
 
「でも言わぬが花だよね〜」
と言って2人はおっぱいに触り合っている!
 
それで青葉もやっと気が付いた。伊勢さんって、男の娘だ!
 
凄く自然だから全然気付かなかった!
 
でもそれで声に高音成分が少なく、年齢を勘違いしたんだ!
 
(青葉は自分がよく年齢を勘違いされるのも、ひょっとして声のせいでは?と少し悩んでみた)
 

「じゃ解決したのね?良かった」
と言って千里1は瞬法さん、青葉、明恵、伊勢さん、神谷内さんと握手した。
 
青葉は1番が明恵や伊勢さんとも握手したので「あっ」と思ったものの、0.1秒ほど考えて「きっと問題無い」と思ったので、放置することにした。
 
でもハイテク・ブレストフォームの試用は近い内に終了かな?
 

「君たち、どんなクラブに入っていたの?」
と、俄然(がぜん)余裕が出た感じの瞬法さんが尋ねた。
 
「ミステリーハンティング同好会と言うんですけどね」
「色々な不思議現象を探求するクラブ」
「あちこちの幽霊屋敷とかゴーストスポット探訪もしたね」
「メンバーは5人。去年はあきちゃんが部長で、私が副部長だったんですよ。私たちが卒業したから残っているのは3人だけかな。新1年生が何人か入っているといいけど」
と伊勢さんは言っている。
 
「へー。知り合いだったのか。そういう怪しい所に行っているなら、君たちにも一度取材してみたいね」
と神谷内さんは言っている。
 
「解決したんですか?あの付近が普通の空間になっちゃってる気がするんですが」
 
と70歳くらいの体格の良い男性が言うが、この人は町会議員さんらしい。体格がいいのは漁船に長年乗っていたからというのを後で聞いた。隣に居る60歳くらいの男性が自治会の副会長さんということだった。こちらは長年トラックの運転手をしていたらしい。自治会長さんが自殺してしまったのでこの2人が事実上、自治会を動かしているという話だった。
 
「全く普通の空間です。もう工事を続行していいですよ」
と青葉は言った。
 
「あの切り株は?」
「邪魔になるようだったら、掘り起こしてから、お寺のお坊さんにお焚き上げしてもらってください。それで全て終わると思います」
 
「燃やすの?」
「木生火(*13)。木は燃えて火になることで、この世の循環は進むんです」
と青葉は言った。瞬法さんも頷いていた。
 
「なんなら、その掘り返す工事と燃やす儀式に私とドイルさんも付いてましょうか?」
と瞬法さんが言う。
 
「それはお願いします!でないと怖いです」
 
(*13)五行の“相生”では、木生火、火生土、土生金、金生水、水生木となる。
 

「ところで青葉、世界選手権の報告に文部科学省に行かないといけないのでは?なんなら今から車で送っていこうか?」
と千里(千里1)は言った。
 
「それはそうだけど、ここは放置できないよ」
「んじゃ、代役さんに向こうは行かせておくね」
 
ほんとに1番さんは大胆だ!
 
それで千里1はどこかに電話していた。
 

結局その晩は、町内の民宿に入り、青葉と瞬法、それに取材陣の多くも休んだ。
 
そして朝になってあらためて現場に行ってみると、ほんとに普通の空間になっており、切り株に近づいても、その上に乗っても、大丈夫であることを、明恵が実践してみせた。記者たちもおそるおそる近づいては触ったりしていた。
 
「あ、萌芽(ほうが)が出てる」
と明恵が切り株から小さな芽が出ているのを見付けた。
 
「金沢ドイルさん、この切り株掘り起こして燃やしてしまうんじゃなくて、この萌芽の成長を期待したらいけません?」
と明恵は言う。
 
青葉は瞬法と顔を見合わせた。
 
「それでもいいと思うよ。何ならここにまた祠を作っちゃう?」
と瞬法。
 
「祠を作るんなら、私が日々のお世話をしていい?」
と伊勢さん。
 
「いや、お前ひとりでは厳しいよ。休めないし。自治会で当番を決めてお世話しよう」
と自治会の副会長さんが言う。
 
青葉はその“言い方”が気になった。
 
「あれ?もしかして」
「お恥ずかしい。これはうちの馬鹿息子なんですが、自分は女になりたいとか言い出して。こんな女みたいな格好しているんですよ」
 
親子だったのか!
 
「私は男に戻ることはないから」
と“娘”の方は言っている。
 
でもお父さんは“娘”の主張を認めざるを得なくなるね、と青葉は思った。
 
多分数時間以内には本当の女の子になっちゃうし!性別が変わったと知ったら怒るかもしれないけど、赤ちゃんも産めると聞いたらきっと認めてくれるだろう。
 
それで結局、再度ここに祠を建てることになった。
 
「下水道はどうする?」
「何とかここを迂回して本管は通すようにしてもらおう」
と町会議員さんが言う。
 

伊勢さんは、杉の木を切り倒した時、密かにその若い枝を5本とっていて自宅のプランターに植えていたらしい。それを見ると3本は根付いていたので、それを切り株の近くに距離を置いて移植してみることになった。もしかしたら数十年後ここには数本の杉の木が並ぶかも知れない。
 
また祠は、切り倒してしまった杉の木から製材した材木で作ることになった。あの木は切り株の所で凄まじい祟り(たたり)が起きたことから、切り倒した木自体も、運び込まれた製材所では近づかないようにしていたのだが、いかにも高僧っぽい威厳のある瞬法がこれを製材しても絶対に祟りは起きないし、むしろ御神木だから運気が上がる、と保証したので、おそるおそる製材したようである。作業した人は肉食と性行為を控え水垢離してやったらしい!
 
しかしこういう時、瞬法の威厳は便利である!
 
半年間人工乾燥してから祠の制作に使用したが、乾燥はこの木のみで行い、他の木は同じ乾燥室には入れなかった。
 
そして、この製材所はその後、大手メーカーとの契約が取れて売上げも上昇した。
 
祠の組み立て作業は、亡くなった神主の息子さんと亡くなった自治会長の息子さんが「これは自分たちの仕事だと思う」と言って2人で行ったが、むろん霊障などもなく、この2人も運気が上昇した。息子さんは1年後父が宮司を務めていた神社の新宮司に就任することになり、ここの祠にも毎日やってくるようになった。
 
 
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【春根】(4)