【春根】(3)

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ジャネは検査から戻ってきたが、もう2人は話をしない。お互い集中している。彼女も青葉を見ないし、青葉も向こうを見ない。
 
30分前に水着に着替える。本番用の水着は物凄くきついので、長時間着けているのは辛い。
 
やがて時間になり、1人ずつ名前を紹介されて入場する。青葉は2コース、ジャネは6コースである。ハードスケジュールで日本まで往復して来たので身体には疲れが残る。しかし何よりも精神的に充足したのが大きかった。
 
スタート台に立つ。ジャネが義足を外すので観客のどよめきがある。心を真空にする。スタートのブザーが鳴る。一瞬置いてから飛び込む。こうしないと勘が良すぎる青葉は“うっかり”反応時間ゼロで飛び込んでしまうからである。
 
そして無心に泳いだ。
 
ペース配分とかは何も考えていない。他の選手がどの付近を泳いでいるかなんて全く考えていない。
 
1500mという距離は子供の頃日常的にやっていた大船渡湾往復よりはずっと短い。
 
最初から全力で泳いだって体力が足りなくなる訳が無い。スタミナ自体、あの頃よりずっと付いているはずである。
 
青葉はそう思って全力で泳いだ。
 
何も考えずに泳いでいる内に水中のカウンターがどんどん減っていく。
 
やがて数字が7になる。もう半分以上まで来たので、あとはどんどんスタミナを消費していいなと考える。6、5、4、と減っていくにつれ、どんどんスピードアップしていく。残り1となって、もうスタミナのことは考えずに短距離を泳ぐような気持ちで泳ぐ。
 
タッチ。
 

ゴールまでに全力出し切るように泳いだので一瞬気が遠くなったがすぐに回復させる。
 
時計を見る。
 
やっと物凄い歓声が聞こえる。
 
1.Kawakami 15:39.13 NR
2.Amelia__ 15:40.89 NR
3.Helmer__ 15:48.83 NR
4.Hatayama 15:50.89
 
あはは、金メダル取っちゃったよ。
 
2〜3日前の自分なら、どうしよう?とか思ったかも知れないけど、今の自分は素直にそれを喜ぶことができる。まあもらえるものはもらえばいいよね?どうせオリンピックの代表選考は来年の春だし。それまで頑張って3月で引退しちゃえばいいかな?
 
青葉からかなり離されてゴールしたジャネが首を振って寄ってきて、青葉に握手を求めた。青葉は笑顔で握手し、そのままジャネとハグした。
 
しかし上位3人が全員各自の国の新記録というのは、ほんとにハイレベルな戦いであった。ジャネも昨日自身が出した日本新記録を大きく上回っている。
 

そういう訳で今回の世界選手権で長距離陣は、
 
ジャネ:800mで金
青葉:1500mで金
金堂:400m個人メドレーで銀
 
と3人ともメダルを獲得したのであった。また日本記録はこの時点で400m, 800mはジャネ、1500mは青葉が所持する。400m個人メドレーの日本記録は実は金堂さんが所持している。
 

(*5) 元々水渓マソ(1969-1988)には2つの魂(仮に水泳好きのSと音楽好きのMと呼ぶ)が宿っていた。1988年にマソ(の身体)が死亡した後、Sは1993年に幡山ジャネとして生まれ変わった。一方、Mは1988年にマソを殺害して自殺した木倒サトギの身体に入り込んでしまい“生き返った”。そして魂は女だが身体が男なのに困り、木倒マラと改名してオカマバーに勤め、“スートラバンド”を結成した。しかし2010年に死亡してめでたく?女の幽霊になった。そして女に戻れたのをいいことに多数の男の子を“つまみ食い”していた(そこを悪霊につけこまれた)。
 
現在は青葉の介入の後、Mは結局元々の相棒であるSが使用している幡山ジャネの身体に同居しており、青葉や千里はSのことをマソ、Mのことをマラと呼んでいる。Mは確かにマラとして生きていた時期があるが、マソというのは元々2人が共用していた身体なので、Sのことをマソと呼ぶのは不満だと本人は主張している(でもマラも相棒のことを「マソ」と言ってる)。
 
なお、マラとマソはどちらも“マラソン”に由来する。マソとホップ(ステラジオのホシの母)姉妹の両親が陸上選手だったことからつけられた名前である。また、ジャネとマソは“三従姉違い”という遠い親戚である。
 
ちなみに水泳はマソもマラも好きだが、歌はマラは上手いもののマソは音痴である。しかし絵はマソは上手いがマラの絵は悲惨である。マラはセックスも大好きだが、マソは恋愛には興味がないらしい。マソはわりと常識人だが、マラはわりと変人だ!
 
もし幡山ジャネが筒石と結婚した場合、マソは永遠に処女のままになるかも?(水泳関係者はふたりの間の子供に期待を掛けるだろうけど)
 

(*6)『牡丹灯籠』は中国の明代の小説『牡丹燈記』をベースに江戸時代に浅井了意が書いた小説で『伽婢子(おとぎぼうこ)』(1666)という短編集に収録された。三遊亭圓朝(初代)の人情話など、多数の派生作品を生み、映画やドラマでも何度も取り上げられている。
 
ここで“伽婢子(おとぎぼうこ)”というのは子供の人形のことで、実は牡丹灯籠の話ではこの人形が重要な役割を果たすのである。
 
登場人物の名前は、圓朝版では男は萩原新三郎、女の幽霊はお露、侍女はお米になっているが、元の伽婢子では、男は荻原新之丞、女は弥子、侍女は浅茅である。また元となった中国の『牡丹燈記』では男は喬生、女は麗卿、侍女は金蓮である。
 
下記は『伽婢子』版の筋立てである。
 
盆の15日の晩、妻を亡くした荻原新之丞という男が、何気なく通りを眺めていたら、14-15歳の女童(めのわらわ)に牡丹の燈籠を持たせた20歳前後の美人が通り掛かり、新之丞はつい彼女をナンパしてしまう。そのまま付き合うようになった新之丞だが、女は万寿寺の傍の庵に住んでいると言ったものの、名前は名乗らなかった(弥子という名前であることを後に知る)。彼女はその後、毎晩女童に燈籠を持たせて新之丞の所に通ってくるようになり、2人は逢瀬を重ねた。
 
ところが隣人が壁の穴から新之丞の部屋を覗き見(出歯亀!)してみると、新之丞が骸骨と一緒に酒を飲み交わして楽しそうに話している。仰天した隣人は朝になってから新之丞にそのことを告げる。新之丞が気になって万寿寺の近くの庵というのを探すと、女の墓があり、牡丹の燈籠が掛かっているし、伽婢子(おとぎぼうこ)が置かれていた。女は生前の名前は弥子といい、人形には浅茅という名前が書かれていた。つまり、この庵に埋葬された女が毎晩、この伽婢子(おとぎぼうこ)に牡丹灯籠を持たせて、新之丞の所までやってきていたのだろう。
 
隣人は東寺の坊さんに相談することを勧め、坊さんが護符を書いてくれたので、それを門に貼ると、それ以降、女は来なくなった。
 
50日ほどの後、怪異はおさまったようだと思った新之丞は東寺に御礼に行った。しかしその帰り、弥子のことを忘れられない気持ちになった彼は、万寿寺の傍まで行ってみた。すると弥子が現れて新之丞をなじった。
 
「あなたって最初だけ熱心で、すぐ女に飽きてしまうの?ずっと一緒に過ごそうと思っていたのに、坊さんの御札なんか貼って、私が近寄れないようにしてしまうって酷い。でもわざわざここまで来てくれたって、私のこと嫌いになったんじゃないのね? もうあなたも一緒にここで暮らしましょう」
 
そう言って弥子は新之丞を強引に自分の庵に引き込んでしまったのである。
 
その後、夜中に女童が牡丹灯籠を持ち、弥子と新之丞が一緒にその後を歩く姿がしばしば見られるようになったという。
 
このラストをどう評価するかは意見が別れると思うが、私は個人的には一種のハッピーエンドではないかという気がする。
 

圓朝版では、お露が侍女に燈籠を持たせ「カラン・コロン」と駒下駄の音を立てて夜道を歩いて逢瀬に来る演出になっている。これがあまりにも有名になり、「カランコロン」といえばお露のイメージで、ゲゲゲの鬼太郎主題歌もここから取ったものである。また幽霊と逢瀬を重ねることが牡丹灯籠にたとえられるようになった。
 
1983年TBSの2時間ドラマ『私の愛した女』では、白骨死体を法医学教室で顔の復元作業をすることになったものの、助手(小野寺昭)が復元した顔があまりにも本来の顔と違っていたのに嘆いた本人!(伊藤かずえ)が助手の前に現れ復元作業を手伝うとともに、助手と愛し合う。物語のラストで「彼女幽霊だったんですか?だって僕は彼女とセックスまでしましたよ」と言う助手に対して、上司が「君は牡丹灯籠の話を知らないのかい?」と答えるオチになっている。
 
映画やドラマになったものの中には、上田秋成『雨月物語』(1776)の『吉備津の釜』のクライマックスのように、男が御札を貼って女が中に入れないようにして何日も籠もっているという筋になっているものも多い。
 
(『吉備津のオカマ』というのを書いてみたい気もしないではないが、ちょっと怖い)
 
この場合のラストは、本家の『吉備津の釜』では男が気が緩んで愚かにも隣人の所に行こうとして磯良の亡霊に惨殺されるのだが、映画やドラマの『牡丹灯籠』や『吉備津の釜』では、最後の日に月が昇ったのを夜が明けたと思って戸を開けたり、あるいは鶏の鳴き声を聞かせて朝と勘違いさせたりして、女が男を取り殺すというエンドになっているものもある。ちなみに圓朝版の場合は、侍女が新三郎の下男を買収!して封印を破らせる。
 
先日テレビで放送された、圓朝版を下敷きにした“令和版”のドラマでは、下男を買収して封印を破らせる所までは同じだが、新三郎がお露に本当は会いたかったと言い(この部分は伽婢子版に近い)、抱き合って仲良く昇天するという、新解釈になっていた。これも明確なハッピーエンド。
 

貴司が勤めている会社MM化学は2015年に社長に就任した田中が2018年7月に逮捕され解任。鈴木が新社長になったが、バスケ部については貴司自身が部員の給料相当の資金を出すという条件で活動が継続されていた。しかしその鈴木社長が2019年6月の株主総会で解任され、新しい社長が就任した。
 
7月中旬、貴司は新社長から呼ばれた。
 
「バスケット部は解散させてもらうから」
といきなり言われる。
 
しかし貴司は前社長が2019-2020シーズンの部の継続を約束していたこと、その費用は貴司自身が負担すると言って既に1年分のスポンサー料1600万円を払っていることを説明する。すると新社長は経理に確認した上で
 
「だったら仕方ないね。今シーズンまでは認めるけど来年3月いっぱいで解散」
と通告した。さすがに1600万円を返還するつもりはないのだろう。
 
貴司も、もうやむを得ないかなという気がした。実際のスポンサー料は千里に出してもらっているので、これ以上千里に負担を掛けるのも悪い。千里自身はもうこの会社を辞めるべきと言っている。それで解散を了承して、いったん部署に戻ったものの1時間後に再度呼び出される。
 
「君に毎月高額の住宅手当を払っているけど、なんでこれ払っているんだっけ?」
 
それで貴司は過去の経緯を説明したのだが
 
「さすがにこれは払えない。今まで払った分の返還までは求めないけど、今月の給料からはカットさせてもらうから」
と言われる。
 
「そんな突然言われても困ります。すぐには引越先を見付けられませんし、引越屋さんの手配も間に合いません。それに今解約を申し出ても8月分までは家賃を払う必要があります」
 
「だったら7月までは払うけど8月からは廃止で。8月分はボーナスで何とかしてよ」
「あのぉ、ボーナスはいつ出るのでしょうか?」
 
実は7月上旬に出るはずだったボーナスがまだ支給されていないのである。ローンを抱えた社員が悲鳴をあげている。
 
「じゃ譲って8月分まで出す。9月から廃止」
「分かりました」
 
どうもボーナスには触れて欲しくない雰囲気だ。
 
先月の突然の社長交代の後、会社は急激に成績が落ちている。順調に会社を建て直しつつあった鈴木社長が解任されたことにメインバンクが反発して今後一切融資をしないし、期限が来た借入金の借り換えも認めないと言っているらしい。
 
社員も次々に退職し、社員が居なくなって事実上蒸発!してしまった営業所まである。蒸発しなくても、従業員が足りなくて操業できずにいる工場もある。納期が全く守れない状態になって、取引先から強い抗議を受けている。輸入した荷物が届いたのに受け取りに誰もいかず、運んで来た船の船長から連絡が入る例まで相次いでいて、貴司はそういったもののフォローに飛び回っている。小切手の決済資金が不足していて銀行からの連絡で慌てて現金を掻き集めて走って行って入金した例まであったらしい。
 
わずか半月でここまで会社を傾けるというのは、ある種の天才かも知れない。(むしろ天災?)
 
正直、貴司としては、7月・8月の給料は出るのか?という不安もある。
 
しかしとにかくも貴司は急にマンションを出なければならなくなったのである。
 

「結果的には、貴司自身も3月で辞めないといけないということだよね?」
と貴司から電話で状況を聞いた千里は言った。
 
もっとも千里は話の雰囲気から、そもそもこの会社、3月までもつのか?その前に倒産しないか?と不安を感じた。
 
「僕も含めてバスケ部全員ね。だからみんなの来年春以降の就職先を見付けてあげないといけない」
 
「それは貴司の立場上仕方ないだろうね」
 
現在のバスケ部員は全員貴司が勧誘して入社させた人ばかりである。
 
「貴司はBリーグに行く?」
「日本代表からも落ちて久しいし、今更採ってくれるチームがあるとは思えない」
 
貴司は2017年2月に日本代表に選ばれたのが最後になっている。
 
「下位のチームなら充分行けると思うけどなあ」
 
「それと引越先も探さないといけないし」
「少し周辺部になれば、結構安い所あると思うよ」
「うん。頑張って探してみる」
 

ところが、大阪の都心部に通勤可能な範囲で家族3人(貴司・美映・緩菜)が暮らせそうなアパートを探すものの、安い所が全く見つからない。
 
千里(せんり)のマンションは家賃が35万円だったが、会社からの住宅手当のおかげでこういう高額マンションに住んでいることができた。住宅手当は当初25万円で10万円の個人負担だったのが、2016年に船越監督が退任して、貴司がコーチ兼任になった時、住宅手当が35万円に増額され、家賃の負担はゼロになっていた。
 
それでこれまでは実質住宅費ゼロで暮らしていたのだが、この35万円がカットされてしまうので、それ以外の給料の分から家賃を払わなければならない。しかしその給料自体がここ数年どんどん減らされており、できたら5万円程度の家賃の所に住みたいのだが、5万円のアパートというのをチェックすると駅から極端に遠いところばかりである。現実的に歩いて駅まで行けそうな所だとどうしても8-9万円してしまい、新社長のもとで更に給与カットになりそうな状況では、とても負担できない。
 
給料自体、残業手当のオールカットが続いていることもあり、現在30万円を割り込んでいる。貴司はとても生活が成り立たない気がした。それで昨年夏に緩菜が産まれて以来、阿倍子への養育費の送金も滞っていたのである。
 

貴司は千里に泣きついた。
 
「ね、一時的にでもいいから、市川ラボに引っ越したらダメかなあ」
 
千里は極めて不快に感じた。あそこは貴司と千里のプライベートスペース、愛の巣なのである。そこに美映を入れるのはさすがに千里としても受け入れられない。こんなことを言ってくる貴司の無神経さに少し腹が立った。
 
「美映さんと即離婚したら、貴司と緩菜ちゃんだけなら、入居してもいいよ」
「いやそれは・・・」
 
千里は考えた。貴司の給料はかなり減額されているようだ。しかも緩菜が生まれてまだ1年も経たない状況で、子育ての費用がかなり掛かっていると思った。そんな状況で阿倍子さんへの養育費の支払いも滞っているのだろう。
 
「分かった。仕方ないから姫路の家を貸すよ。本当はそこで私が貴司と一緒に暮らしたかったんだけど」
 
「姫路?姫路にアパートか何かあるの?」
「近い内に貴司は美映さんと離婚してくれるだろうと思っていたから、その後で私が結婚して、一緒に暮らせるようにと思って一戸建ての住宅を建てていたんだよ」
 
「そんなものがあったの!?」
「姫路から貴司の会社までは、定期券代がJRと地下鉄と合わせて4万5千円くらいだったと思う」
「うちは係長級は7万円まで通勤手当が出るんだよ」
 
「だったら問題無いね。あの家はまだ私と貴司の思い出が作られていないから、市川ラボよりはいいよ。格安の家賃月20万円で貸してあげるから」
 
「ごめん、今20万円は払えない」
「だったら月2万円で」
「そのくらいなら何とかなるかな」
「差額は身体で払って」
「考慮する」
 
「あと、来年春までに美映さんと離婚してね」
「ごめん、それは約束できない」
 
ふーん。“約束できない”ということは別れるつもりはある訳だ。千里は今はそれだけでいいことにした。
 
「じゃそちらの都合のいい時を教えて。現地案内するから」
「助かる」
 

それで貴司は7月24日(水)に有休を取って姫路に行き、千里と落ち合った。
 
千里はオーリスを持って来ていたので、それに乗って2017年に播磨工務店のメンバーに練習を兼ねて建ててもらった一戸建てに行った。スマホで門を開けガレージに車を入れる。やはりスマホで玄関を開けて中に入る。
 
「そういえば千里、いくつもスマホとかガラケーとか使ってるね」
「私も何個あるのか分からなくなって来てる。これアプリはアップストアなりグーグル・プレイからダウンロードしてね。起動用のid/passはこれ。最初に貴司の携帯を登録するのに2階段認証が必要だから」
と言ってメモを渡した。
 
「2段階認証のこと?」
「今私なんて言った?」
「2階段認証」
「うーん。なんかそういうものよ」
 
千里のコンピュータ音痴は今更なので貴司も気にしない。
 
「美映のスマホにも入れていい?」
「仕方ないね。こちらは美映さん用。これも最初は2段々認証が必要」
と言って、別のメモを渡す。
 

ともかくも中を見て回る。
 
「すごいきれいだ」
と貴司は言った。
 
「使ってないからね。2017年10月に完成したんだよ。さすがにそろそろ阿倍子さんと離婚してくれるだろうと思ったからさ」
「その件は、ほんとに申し訳無い」
 
「1階にLDKと洋室1個にサービスルーム、2階に洋室3個とクローゼットに私の作業用の防音室。他に地下もある」
 
と言って、千里は1階洋室の押し入れ?に見える襖(ふすま)を開けると、そこに出現した階段を下に降りていく。
 
「こんな所に階段があるの〜〜!?」
「設計者はここを設計する直前に忍者屋敷を見てきたらしい」
「確かに忍者屋敷だよ!」
 


 
地下には小さめながらも、バスケットのハーフコート(16m×10mなので、むしろ1/3コート)が作られているのである。天井の高さは7mあり、40段の階段を降りてコートまで降りて行く。実はこれを作りたかったので奥行きが最低17mある土地を見付けてもらった。実際にはこれほど広い地下室には階段付きのドライエリア(空堀り)が必要なので、その分も入れると20m以上必要になる。ここの土地の奥行きは20.33mである。
 
(ドライエリアを設置しない場合は地下室の床面積は全て容積率計算に算入しなければならない。そもそも何かあった時に危険である。ただしドライエリアが無い方が遮音性は当然高い。安全性と遮音性のどちらを取るか、設計時に青池さんと千里で話し合いの上、ドライエリアは作ることにした)
 
「電気は来ているんだね」
「どうしても地下水が出るから、それを排出するためのポンプを常時動かしておく必要があるんだよ」
「なるほどー」
 
「でも実際にはその程度の電気代は太陽光パネルが生みだしている電力より遥かに小さい」
「太陽光パネルがあるんだ?」
「毎月電力会社からお金をもらっている」
「いいね!」
「まあ入居したら家電品とかを使うから、さすがにこちらが払わないといけなくなるだろうけどね」
「ああ」
 
地下バスケットコートの床はフローリング、壁は怪我防止のためのクッション板だが、これが防音効果もある。天井には吸音板が貼り付けられている。実は床のフローリングの下にも吸音効果のある素材を敷いている。ドライエリアとの間は二重窓になっている。出入り口のドアは気密ドアである。ドライエリアの開口部は道路のそばで、実は門の真下である。
 
「なるほど上はグレーチング(*7)か」
 
「グレーチングが無いと転落するからね」
「それ怖い」
「7mから落ちたら死ぬよ。ただし防犯のため下からは容易に開けられるけど、上からはワイヤーを切らないと開けられないようになっている。消防の人なら切断できると思う」
 
「なるほど」
 
(*7)格子状の鋼材製のふた。よく側溝などにかぶせてあるもの。多くはSS400という鋼(はがね:スティール)の本体に亜鉛メッキを施したものである。
 
なお開口部は雨水が流れ込まないよう周囲に溝を作り、またハンプ状に盛り上げており、さらに上部に屋根を作って門のようにして、雨の降り込みを軽減している。そうしないと大雨の時に地下室が水没する危険がある。
 
なお地下水や雨水は全てタンクにいったん溜めて“中水”として使用するので、この家は大きさの割に水道の使用量も少なくて済む仕組みになっている。ひじょうにエコな住宅である。
 

「1階の洋室は私と貴司の寝室ね。だからそこから降りてくればいい」
「なるほど」
「2階は子供部屋とお客様を泊める時の予備」
「ああ、それでいいよね」
 
「それでお願いがあるんだけど」
と千里は貴司に言った。
 
「うん」
 
「寝室で美映さんと寝て欲しくない。あの寝室は私と貴司のものだから」
 
「分かった。だったらあの部屋は書斎にするよ。サービスルームの方にベッドを置くことにする」
 
「それならいい」
 
一応1階のサービスルームにも窓はあるので結構明るい。ただその窓の面積が床面積の7分の1に僅かに足りないのでサービスルームとしたものである。むろんそこに居住者が勝手にベッドを置いて寝室として使うのは何も問題無い。
 
なお、実際には貴司は美映と同衾していないのだが、貴司としてはそのことは現時点では千里にあまり言いたくない。たぶんサービスルームが美映の部屋(*8), こちらが自分の部屋になるかなと思った。同衾しない理由は貴司の“ちんちん”が立たないからだが、それはニセモノなので立つわけがない。本物は千里3に取り上げられたままである。貴司は2018年3月以来、1年以上去勢状態にある。
 
「バスケットの練習室を美映も使うのはいい?」
「うん。それはバスケットをする人全てが使っていい」
「了解」
 

(*8)1階の居室用洋室は東北方位にあり、サービスルームは南側にある。実を言うと貴司は1989年生男で坤、千里は1991年生女で乾、2人とも風水上“西四命”なので、東北は吉方位、南は凶方位になる。そこでわざと東北の吉の部屋は居室、南の凶の部屋はサービスルームになるようにしたのである。
 
ところがこのサービスルームには美映が住むことになるが、彼女は1986年生女で坎、“東四命”になり、貴司や千里とは吉凶が逆転する。彼女は東北の部屋が凶で、南の部屋が吉である。つまり美映本人は吉部屋に住むことになり、運気は上昇するのである。しかも彼女は南西にある玄関を使わずに東にある通用口から多く出入りしていた。
 
玄関のある南西は貴司・千里には吉、美映には凶。しかし通用口のある東は貴司・千里には凶で美映には吉なのである!
 
つまり姫路のこの家は、貴司・千里と美映は吉凶反転する物件なのに、各々の使い方がうまく行って3人ともに吉になる住宅となっていた。
 
ちなみに緩菜は女命で見れば乾で貴司や千里と同じ西四命、男命で見れば離で美映と同じ東四命になる。実際には美映は子供の世話などする気はほとんど無かったので、たいてい貴司の部屋(東北の居室)のベビーベッドに寝かされていて(悪く言えばネグレクト)、そのお世話はほぼ《てんちゃん》の日常のお仕事となっていた。それで緩菜は女命でうまく行っていたのである。
 

地下室を見た後、千里と貴司は、いったん1階に戻ることにする。
 
「あ!エレベータがある」
「よく見付けたね」
「これどこに出るの?」
「乗ってみれば分かるね」
 
それでエレベータに乗って1階のボタンを押す。着いた所には襖がある。それを開けると元の寝室である。
 
「この押し入れみたいに見えるものの、左側がエレベータで右側が階段だったのか」
「貴司は足を鍛えるのに毎回階段で上り下りしよう」
「考えておく」
 

それで更に2階に行こうとする。
 
千里はキョロキョロしている。
 
「どうしたの?」
「2階に行く階段はどこかなと思って」
 
「それもどこかの部屋の中にあるとか」
 
LDKにもサービスルームにも上に行く階段は見当たらない。隠し階段かもというので戸棚なども開けてみるが見当たらない。玄関付近にも無い。
 
「トイレの中に階段があるとか?」
「まさか」
 
念のため覗いてみるがそのようなものは無い。バスルームや洗面所も見たが、やはり階段は見当たらない。ちなみにエレベータは地階と1階を往復するだけである。
 

千里と貴司は10分くらい階段を探し回った。家の外周まで見たが外側にも階段は無い。
 
「やはり階段は無い気がする」
「建てた所に訊いてみる」
 
それで千里は南田兄に電話してみた。
 
「え?2階に行く階段ですか?ちょっと待って下さい」
と言って、彼は図面を確認しているようである。そして5分ほど待たされた上で聞いた返事に、さすがの千里も呆れた。
 
「済みません。階段作り忘れました」
 
横で聞いていた貴司も驚いている。
 
しかしまあよくそれで検査合格したものである!
 
「作ってくれる?」
「じゃ、清川と前橋を明日にも行かせて作りますので」
「清川君だけだと心配だけど、前橋さんも来るなら安心かな」
 
清川は何も考えずに突っ走るような所があるので、彼が作ったら階段の着いた先が壁になっているような、純粋階段(*9)にでもなりそうだ!
 
ともかくもそれで明日にも階段を増設してくれることになった!
 
(*9)純粋階段とは、階段の登った先あるいは降りた先に行きようがなく、役に立たない階段のこと。多くの事例は元々はふつうの階段だったものの、登った所にあった扉や通路が改築の際に撤去されてしまったものと思われる。通り道としての機能が無く、単純に階段としてだけ存在しているので“純粋階段”という。類似概念として純粋門、純粋トンネル、純粋シャッターなどもある
 
ちなみに純粋トンネルとは山が無いのにトンネルだけ残っているもので、JR牟岐線の町内トンネルは有名。
 

貴司は、階段を作ってもらえるという前提で、7月29日(月)に引越することにした。
 
引越屋さんが土日は全部埋まっていたので、平日の引越になった。近い日程なので料金が割高になるが、引越を遅くすれば遅くするだけ、マンションの日割り家賃(1日約1万円)をその分払わなければならない。
 
引越屋さんのお任せパックにしたので、荷造り・荷ほどきもしてもらい、当日は貴重品などだけ貴司が自分で運ぶことにした。
 

「広いおうちだね!本当に家賃2万円でいいの?」
と美映は引越前日に姫路の家に下見に来てから言った。
 
「うん。ここを建てた音楽家さんが、自分で住むつもりだったのが、都合が悪くなったとかでさ、空き屋にしておくと傷むから、誰かに住んでいてもらったほうが助かるということらしい」
 
「へー。音楽家さんかぁ」
と美映が言ったので貴司はドキッとした。まさか千里だとは思ってないよね?
 
1階にある2つの部屋を見せ、
 
「南側の部屋は明るいからビバちゃんが使えばいいよ。僕はどうせ夜中しか帰って来ないから、東北の部屋を使うよ」
と言うと、美映は頷いている。
 
その東北の部屋の階段(「時代劇みたい!」と面白がっていた)で10段くらい降りて地下のバスケット練習場を見せると
「ここで1日ずっと練習してようかな」
などと言っていた。
 
階段を戻ってから、キッチンの端に新設された、上に行く階段を登っていく。ちなみに緩菜は貴司がずっとだっこしている。
 
「あれ?更に上にも階段がある。3階もあるの?」
「聞いてなかった。行ってみようか?」
「3階にはそのオーナーさんが住んでいたりして」
「それはないと思うけどなあ」
「そしてそのオーナーさんというのは実は椅子に座った骸骨で(*10)」
 
「なんかそういう恐怖映画が昔あった気がする」
などと貴司は言っている。
 
(*10)愛人の音楽家とか死ねばいいのに、という意味で美映は言っているのだが、貴司はその皮肉に全く気付いていない。
 

↓概略図面。なお部屋は全てフローリングの洋室である。

 
「ちょっとオーナーに問い合わせてみる」
と言って貴司は階段を登りながら千里にメールを送ってみた。すると階段を登り切る前に返信があった。
 
「すごーい!広いサンルームがある。こちらはペントハウスっぽい」
と美映が喜んでいる。
 
「オーナーさんによると、物干し場と屋根裏部屋だって」
「うん。日本語で言うと物干し・屋根裏、英語でいうとサンルームにペントハウス(*11)」
 
「なんか言い方で物凄く印象が変わるね!」
 

「日本語ではお手伝いさん、英語ではメイド」
「ほほぉ」
 
「日本語ではオカマさん、英語ではレディボーイ」
「それ少し違うし、レディボーイはむしろ和製英語ならぬタイ製英語」
「なんか詳しいじゃん」
「えっと・・・」
 
「日本語では援助交際、英語ではセックス・フォー・セール」
「そう言っちゃうと身も蓋もない。それにあれって必ずしもセックスしないと思うけど」
「ふーん。女子高生とデートしてお小遣いあげたことあるの?」
「僕はロリコンの趣味は無い」
 
「日本語では籠球(ろうきゅう)、英語やフランス語やロシア語ではバスケットボール、ドイツ語ではバスケットバル、スペイン語ではバロンセスト、中国語ではランチュウ、韓国語ではノングー」
「そのあたりは分かる。だいぶ国際大会で覚えた」
「貴司もまた日本代表に復帰できるよう頑張ろう。専用の練習場もあるんだし。深夜でも練習できるじゃん」
 
「そうだね。そのくらい頑張ろうかな」
 
「日本語ではよだれかけ、英語ではビブ(bib)、複数形はビブス(bibs)」
「あれ?紅白戦とかの時にかける奴は?」
「同じ単語だよ」
「あれはよだれかけだったのかぁ!」
「似たような形だもんね。ちなみにスタイは商品名、ゼッケンは和製ドイツ語」
「本当のドイツ語じゃなかったの!?」
「ドイツ語では何だろう? Trikot Nummer トリコー・ヌマーかも。不確か」
「トリコーがユニフォームのことだっけ?」
「そうそう。ドイツ語で Uniform ウニフォームといえば日本語の“制服”に近い」
「ああ」
 
「日本語ではノマド、英語ではテレワーク(telework)」
「ノマドって日本語なの?野の窓?」
「和製英語だよ。アメリカ人には通じない。英語の nomad ノウマッドは遊牧民という意味」
「へー」
 
「日本語ではヴィジュアル系、英語ではグラムロック」
「違うような気がするけど?」
 

3階を見たあとで2階に戻って部屋を見ていたが、美映は家の中の仕掛けに喜んでいた。
 
2階の東北の寝室と隣のクローゼットの間は、掛け軸の裏にある抜け穴で通り抜けられるし、クローゼットと2階キッチンの間は、どんでん返しで行き来できる。また2階と1階の東北にある寝室は1階の天井と2階の床が開けられるようになっており、その間を隠し梯子で行き来することができる。1階と2階の間に高さ1mほどの狭い空間が存在して隠し部屋になっている。
 
「まだ他にも仕掛けがありそう。色々探検してみよう」
などと美映は言っていた。
 
なお先日貴司が千里と一緒に見に来た時は地階と1階を往復するだけだったエレベータが、3階まで行けるように改造されていた。2階のエレベータ乗降口も押入れに見える襖の向こうである。貴司はこの改造だけで100万くらい掛かってないか?という気がした。しかしよく1日で改造したものである。
 

(*11)屋根裏部屋はむしろロフトに近い。ロフトは屋根の“下”を有効利用したもの、ペントハウスは屋根の“上”にもう1個部屋を作ってしまったもの。この姫路の家の“3階”は屋根が斜めではなく平らで面積も広いので、ペントハウスに近い。ただし豪華な家具などは入れていない。現時点では何も無い空間である。床はフローリングの上に暫定的に100円ショップ!で買ってきた様々な色のクッションタイルを敷いている(接着はしていない)。ランダム模様に見えるが、実はグリーンのタイルだけ見ると、 TAKASHI NO BAKA! になっていることに、貴司も美映も全然気付かなかった!
 
なお、屋根には太陽光パネルが80枚載せてあり、これが生み出す年間電力量は26000kwh程度で、この家で消費されると予想される電力量をほぼカバーしてくれると思われた。またサンルームに置かれた集光器(太陽を自動追尾)から光ファイバーで、地下室も含めて各部屋に設置した照明灯に光を運んでいるので昼間はほとんど電気照明を点ける必要が無い。地下室の場合は空堀り部分からの採光もある。また冬はサンルームで発生した熱気を、夏は地下室の冷気を、主たる居住空間である1階の部屋に配熱するシステムも作られている。更に全室ともに人が居ない時は自動的に電気照明が落ちるシステムになっている。
 
そして美映は節約家だし、2階は通常ブレーカーを落としていたし、電気をじゃんじゃん使うような機械(パソコンとかテレビとか)も使わなかった。またスポーツウーマンの彼女はエレベータはほとんど使わずに階段ばかり使用した。
 
そういう訳で、家は大きいのに電力消費量は普通の家庭並みで、結果的に毎月電力会社から数万円もらえる状態が続いたので千里は貴司に電気代は一切請求しなかった。
 

世界水泳選手権が28日で終わったので、青葉たち日本代表一行は7月29日(月)の朝、帰国した。青葉もジャネも帰国したらすぐに深川アリーナに行き、25mプールで29-30日の2日間、ひたすら泳いだ。青葉は夜は深川アリーナの休憩室に泊まったのだが、ジャネは筒石さんのマンションに泊まったようである。たぶんセックスはマラに任せて、マソはぐっすりと熟睡しているだろう。
 
31日は日本水連から呼ばれたので出て行った。
 
日本水連は長年、他の競技の総括組織も入っている、代々木の岸記念体育会館に入っていたのだが、青葉は行く度に「このビル崩れないよね?」と不安を感じていた。そのせいか近年はここから出て行く組織もあったのだが、とうとう建て替えることになり、神宮外苑に新しく建てられたJAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE(2019年4月30日竣工・最寄駅=銀座線外苑前駅)に6月18日付けで移転したのである。日本水連はここの8階に入っている。
 
水連での話はやはりフライングの件だった。過去の競技会での青葉の反応も一般に速すぎると言われ、反射神経が良いのはいいが、今回のようにフライングとみなされると、もったいないので敢えて時間を置いてスタートして欲しいと注意された。青葉も気をつけるようにしますと答えた。なお世界水泳の文部科学省への報告は、ワールドカップもあるので、その後に世界水泳で入賞した選手全員で行くということであった(これは一応メールでも連絡を受けていた)。
 

水連を出た後、新宿で千里3と会って一緒にお昼を食べた。
 
青葉は日本往復を支援してくれた御礼を言い、航空券代と車代込みで20万円渡しておいた。
 
「でもドーピング検査のは、どうやったの?」
「青葉も、うかつだなあ。選手はいつでも抜き打ち検査があるのに。青葉は特にスタートが異様に速かったりしたから、覚醒剤系を使ってないか疑われていたと思うよ」
 
「実はさっき水連でもあらためて注意された。あれは気をつけるよ」
 
「ドーピング検査は代役さんに受けさせたから大丈夫。ちゃんと青葉の尿を使用したから問題無い」
「私のおしっこを取ったの〜〜!?」
 

「ところで本題なんだけど」
と千里3は言った。
 
「青葉、最近いつ生理あった?」
「えっと・・・7月20日、大会が始まる前日だった」
「ふだんより重くなかった?」
 
青葉は考えた。
「なぜ知ってるの?」
「それはその生理が本物になったからだよ」
「どういう意味?」
 
「青葉、今天然女子になっちゃったから」
「へ?」
「卵巣も子宮もあるし、膣も本物になってしまっている」
「嘘!?」
「なんなら病院に行ってMRI撮ってもらうといい」
「待って。そんなの撮らなくても自分で分かるはず」
 
と言って青葉は自分の体内をスキャンしてみる。
 
「ほんとにある」
と青葉は実際にそういう器官が存在しているのを確認できた。
 

「青葉、1番と握手か何かしたでしょ?7月20日に生理があったのなら今月の初めくらいに」
 
「握手?」
と言って考えてみると、握手はしていないものの、南米から帰国した日に空港で千里1が自分の手から荷物を取っていったことに思い至った。あの時千里1と手が接触している。あれも握手になるのだろうか?
 
「その日、お腹の付近が動き回っているような感覚にならなかった?」
「なった。その晩はずっと寝てた」
 
「その時に、女の子になっちゃったんだね」
「なんで?」
 
「瞬嶽さんが私たちの身体に記録した**の法が勝手に起動したんだよ」
「それって・・・羽衣さんが数年おきに使っているやつ?」
 
「そうそう。あの人は100歳越えているから使う度に10年くらい若返る。青葉もこの法で若返った。今歴史的には22歳だから、約2歳若返って20歳くらいの身体になっている。青葉って年齢を極端に勘違いされること多かったけど、少しは緩和されるかもね。世界水泳でメダル取れたのも20歳に若返ったのもあると思うよ。水泳って若い人絶対有利だもん。そして若返りと同時に性別も女になってしまった」
 

「待って。私、性転換手術していたのに」
「性転換手術してもベースは男の身体だったからね。だから完全な女の身体になったんだよ」
 
「え〜〜!?」
 
「男に戻りたいなら戻してあげるけど」
「要らない!男になんかなりたくない」
「だったら、女の身体のままでいい?」
「それでいい」
 
「世界水泳でメダル取れたのは、女になって卵巣が働き始めて、青葉のエネルギーが増えたのもあると思う。しかも生理が終わった後の卵胞期だったからね。女性の身体は、卵胞期(生理→排卵の時期)のほうが、黄体期(排卵→生理の時期)よりパワーが出やすい。但し生理直後はその影響で身体がきつい。1500mを泳いだ時はいちばんいい状態だったんだよ。そもそも、私自身の身体もそうだったけど、やはり性腺が無いとパワーがどうしても出にくいんだよね」
 
「自分もそうだった・・・って」
 
「うん。さりげなく千里1と握手してきて、自分を女の身体に変えちゃった。私も今は天然女になったよ。生理は面倒だけど」
 
「へー!それはおめでとうと言えばいいのかな」
「ありがとう。青葉も完全な女性になれて、おめでとう」
「ありがとう」
 

青葉は少し考えた。
 
「でも1番さん、その状態で放置するのはまずいのでは?」
 
「現時点で被害者は把握している範囲で既に10人」
「そんなに!?」
「1番は信次さんの菩提を弔うといって、霊場巡りしてたでしょ?」
「うん」
 
「それで封印は回復するのでは?と言っていた人もあったんだけど、停まらなかった。ともかくも2番とふたりでフォロー中。だけど、これまで男に戻りたいと言った人は2人しかいなかった。みんな女になれて嬉しいと言っている」
 
「1番さんと握手すると全員性転換しちゃうの?」
「自分の性別に不安を持っている人だけだよ」
「なるほどー」
「だから普通の人は何も変化が起きない」
「ああ」
 
「アクアなんかと、もし1番が握手すれば確実に女の子になっちゃうね」
「Nならでしょ?」
「そうそう。あの子はかなり女の子になりたいと思い始めている。MやFは握手しても平気」
「だけどNは女の子になっちゃっても問題無いのでは?」
「だと思うよー」
 

「あ、そうだ。桃香がさあ、性転換しちゃわないように気をつけてて」
「へ?」
 
「青葉は1番と接触しやすいだろうからと思って、1番と接触しても**の法が起動しないように密かにガードを掛けていたんだよ。それなのに発動しちゃったから。桃香にもガードは掛けているけどガードが効かないかも」
 
「桃姉は男になってもやっていける気がするけど」
「じゃ、放っとくか」
「桃姉の犠牲者は可哀相だけど」
「それは頑張って養育費を稼いでもらうということで」
 
と2人は無責任なことを言いあった。
 

千里2・千里3からの共同依頼にもとづき、その日《きーちゃん》は千里1に言った。
 
「千里さ、春に霊場巡りした時、川島のお母さんと分担して回ったでしょ?」
「あ、うん」
 
あの時、坂東三十三箇所は千里と康子で巡ったのだが、その後千里は由実をつれて西国三十三箇所を巡り、康子は太一と一緒に秩父三十四箇所を巡ったのである。
 
「あの時は一周忌の直前だったのもあって分担したけど、やはり霊場は基本的には全部巡った方がいいと思うんだよね。千里、あらためて秩父三十四箇所を巡らない?」
 
「それもいいかもね」
 
それで千里1は8月にミラを使って、由美を連れて秩父霊場を回ってくることにしたのである。
 
「お母さんにも西国三十三箇所を巡るの勧める?」
「西国三十三箇所はハードだから、病み上がりの康子さんには無理だと思うよ」
「そうだよね!じゃお母さんの方は、いいことにさせてもらおうかな」
 
あの時の巡礼が不完全だったために封印が掛からないのではないか?というのは実は、千里2・千里3・きーちゃん・くーちゃんの4人で話し合っていた時に出てきた、ひとつの仮説である。
 

その晩、桃香は夜中トイレに行きたくなったので、布団から抜け出すとトイレに入って座っておしっこをした。
 
おしっこが便器の外に飛び出すので慌てていったん停め、“ちんちん”を下に向け直してから再度、放出した。座ったまま汚れてしまった付近をトイレットペーパーで吹いて掃除する。
 
「あれ〜?気のせいかな。私、ちんちんが付いている気がする。確かにちんちん付いてたら、おしっこは前に飛ぶかもね」
などと考えた。
 
「でも私にちんちんがあるはずないから、これはきっと夢かな」
と言うと、ちんちんの先をペーパーで拭いてから立ち上がる。手を洗ってトイレを出ると、布団に戻り、千里にキスをした。
 
「千里、もう1回戦行くぞ」
 
「私、もう疲れた。寝てるから勝手にやって」
「OKOK」
と言って桃香は既に臨戦態勢である。“ちんちん”が大きく硬くなるのを感じる。桃香がそのまま入れようとしたら千里が手で遮る。
 
「待って。ちゃんと避妊具はつけてよ」
 
「私には精子が無いし、千里には卵子が無いんだから妊娠する可能性はない」
「それ絶対信用できない。桃香はたぶん5〜6人隠し子がいる」
 
それで桃香は“ちんちん”に避妊具を装着した上で、この日4回戦目に突入した。射精する感覚が物凄く気持ちいい感じで、男っていいなあ、などと思った。
 
桃香は朝になってから自分の股間を確認したが、ちんちんは付いておらず、ふつうに女の股間だった。。
 
「やはり、ちんちん付いている気がしたのは夢なんだろうな」
と桃香は思った。
 

「確認するけど、**の法って、1度掛けると次は1年間は使えないんだよね?」
と青葉は千里(千里3)に尋ねた。
 
「同じ術者と被術者の組み合わせではそう。別の術者なら掛けられるから、1番が性転換しちゃった人を、私や2番は救済して再度性転換させられるんだよ」
と千里は答える。
 
「なるほどー」
 
「天津子ちゃんから聞いたんだけど、昔はそういう制限は無かったという説もあるらしい。でも濫用して毎日性別を変える人もあったので、300年くらい前に、徳の高い人がこの術の一部を改変してロックがかかるようにしたらしい」
 
「なるほどねー。確かに毎日性別を変えられたら困るよね」
 
「その改変の時に、うっかり若返りの効果も混入したらしい」
「ということは、オリジナルの法だと、若返り効果は無かったんだ?」
 
「そうみたいだよ。毎日性転換しつつ若返っていたら、その内赤ちゃんになって更には受精卵まで戻っちゃうかもね」
「受精卵まで戻るのは困るなあ」
 

久保早紀(女性歌手名:丸山アイ、男性歌手名:高倉竜、作曲者名:寺内雛子)はその日、パートナーの宮田雅希(女優名:城崎綾香、小説家名:久美浜映月、フェイの子供の遺伝子上の父親)から甘えるような視線でせがまれた。
 
『ヒカルの碁』の撮影が順調なので、この日は1日オフになっていた。それで2人は久しぶりのデートをしていたのである。
 
「ね、ね、今夜はボクが男役したいから、竜、今夜は女の子になってよ」
 
雅希は男声を使っている。この声を知っているのは、早紀の他はフェイとヒロシだけである。そして雅希にちんちんがあるのを知っているのもその3人くらいである。雅希のちんちんは中学生の時に唐突に生えてきたので、このことは親も知らない。
 
当時は誰にも言えず、思い悩んで自殺しようとした所を助けて「ちんちんなんか付いてたって自分が女の子だと思っているのなら雅希は女の子だよ」と言ってくれたのが実は早紀で、それ以来10年くらいの付き合いである。当時は早紀のことを女の子だと思い込んでいたので、普通の友人時代が長く、恋愛感情を持つようになったのはここ数年のことである。実際雅希の性別意識は女ということで揺れていない。自分が男だと思ったことはないが、今ではちんちんは便利なものと思って“愛用”している。普段は陰裂の中に隠しているし、雅希は女性体型でバストもあるので、性別を疑われたことはない。
 
「もう。仕方ないなあ。でも避妊具ちゃんとつけてよ」
「生じゃだめ?」
「だめ!ボク、妊娠したら困るもん」
 
と言って早紀は**の法(オリジナル版−これを知っているのは自分だけのはずと早紀は思っている)を発動させて、自分の性別を男から女に変更した。肉体的性別が変わると、心の中でも“早紀F”が表に出てきて“早紀M”は裏側に回る感覚になる。表情や雰囲気も変わる。身体の変更と連動して別の人格が出てくるのは不思議だと本人も思っている。なお人格が変わっても記憶は継続している。
 
なお、これは術を途中で停めると“どちらもある”状態にもできる。それで早紀とセックスした経験のある人の多くが彼を“ふたなり”だと思い込んでいる(心はMF共存状態になる)。
 
「変えたよ〜」
「うふふ。早紀ちゃん、可愛いね。好きだよ」
と言って、雅希は早紀を押し倒した。
 

2019年8月4日(日).
 
真珠はこの日(女性の)友人たち数人と一緒にイオン金沢店に来ていた。3階のイオンシネマで映画を見た後、一緒にマクドナルドで軽食をとっていた。先週金曜日で前期の試験も終わり、夏休みに突入した所である。バイト探さなきゃね−、でもいい所なかなか無いよね、などという話をしていた時、母から電話がある。気易い友人ばかりなので、席は立たずにそのまま取る。
 
母は緊張したような声で言った。
 
「真珠、今日はおばあちゃんちに帰って」
 
「どうかしたの?」
「うちの近くに熊が出たのよ」
「熊!?」
 
真珠の声で友人たちも驚いている。
 
「ツキノモノグマとかいうんだって」
「ツキノワグマ?」
 
「あ、それかも。家の中に入って、冷蔵庫開けて中の食料品を食べていたみたい」
「ほとんど、こそ泥だね」
「私、帰ってきたら中に何か居るから、最初ほんとに空き巣かと思って悲鳴あげたら、なんか黒い動物なのよ。びっくりして、お隣の家に逃げ込んで」
 
「よく逃げ込めたね!」
「お隣んちのドアもガンガン叩かれて、お隣んちの奥さんと2人で震えていたけど、諦めたみたいで、どこかに行ったみたいだったのよ。すぐ119番して」
 
119番は違う気がする。
 
「でもうちは消防署ですよと言われて、とりあえず警察に連絡した方がいいといわれて、警察って何番か分からなかったから訊いたら110だと言われて」
 
110番が分からないなんて、よほど気が動転していたのだろう。
 

「それで警察の人たちが来たら、熊が例のあの切り株の所で倒れていたらしいのよ」
 
「切株の所?」
と答えて、真珠は『まずい!』と思った。熊が封印を壊したら・・・。いや?もしかして熊は封印を壊したので死んだのでは?
 
「気絶しているのか死んでいるのか分からなかったから、獣医さん呼んで、結局動物園の人とか猟友会の人とかも呼んで、ところがそれを確かめようと近づいた獣医さんも倒れて」
 
「その獣医さんどうなった?」
 
「病院に運び込まれたけど、電気ショックか何かでも受けたような状態とかで2週間くらい入院しなければって」
 
「助かったのならよかった。それで今、あの切株の所はどうなってる?」
 
「熊は全く動かないから多分死んでいるのではないかということらしいけど、ガスか何かが噴出しているか、あるいは漏電か何かしているかもというので周囲を立入禁止にしている。ロープを張って、ここには近寄らないで下さいと言われて、それで近所の家の人もみんな親戚の家とかに避難してる。念のため警官が1人立ってる。この後どうするかは専門家で話し合うとか」
 
「すぐ行く」
「行ったら危ないよ!」
 

真珠はお店の駐車場に駐めている Suzuki GSX250F (Triton Blue Metallic) に乗ると、すぐ自宅に戻った。机の中から“剣”を取り出すと、近所の切株の所に行く。報道陣っぽい人たちが居て、カメラを回している人もある。警官が1人立っている。
 
真珠が報道陣を掻き分けてロープに近づくと、警官が
 
「危険なのでここから先に入らないで下さい」
と言う。
 
「私に任せてください」
と真珠が自信満々に言ったので、警官は何かの専門家かと思ったようである。それでこちらを見守る態勢になる。
 
真珠が切株の所まで行くと、封印に使われた剣が抜かれていて、その傍に熊が倒れていた。きっと熊は餌か何かと思って剣を抜き、それで切株の作用で即死したのだろう。
 
真珠は、女性祈祷師さんに言われたように、その剣が刺さっていた所から手前1mほどの所に、預かっていた青銅の剣を刺した。
 
明らかに騒いでいたものが鎮まった。
 

「雰囲気が変わったね!」
という声が報道陣の中からある。報道陣はみんなロープを越えてこちらに来ている。真珠はその声を掛けた人の顔に見覚えがあった。
 
「〒〒テレビの神谷内さん?」
「あ、僕のこと知ってる?」
 
「神谷内さん、可能だったら金沢ドイルさんをここに呼べませんか?私もここの封印をした祈祷師さんを呼びますけど、たぶんこれは数人がかりでないと抑えきれない」
 
「これ霊障か何か?」
「その切株がとんでもない代物ですよ。祈祷師さんが来るまで、この剣を刺した場所より向こうには絶対に行かないでください。熊と同じ目に遭います」
 
「撮影はできる?」
「カメラに写るわけがないと思いますが」
 
実際にどこのテレビ局のカメラにもこの付近の映像は全く写っておらず、それどころか、カメラ自体が異常動作をするものが多数あって、高価なものだけに悲鳴があがっていた。
 
 
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【春根】(3)