【春順】(4)

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11時半頃、早めの昼食を取る。この様子をテレビ局が撮影している。千里はテーブルの端の方、カメラには映らない所に座ってお昼を食べた。
 
その後冬子はカメラに映っている所で防寒具を身につける。千里はカメラに映らない所で身につける。そして千里が先に1階に降りて行き、相沢さんからスノーモービルを受け取る。
 
エンジンを掛け待機している所に冬子がカメラと一緒に降りてきて、千里の後ろに座り、しっかりと抱きつく。冬子が見送りの和泉・小風・美空に手を振り、千里はスノーモービルを出発させた。
 

途中八川で旅館の非番の従業員さんと会い、除雪作業の状況などを聞いた上で大原まで走って相沢さんのお友達の所に寄り相沢さんからの手紙を渡してスノーモービルと防寒具等を預かってもらった。
 
それで少し前に大原に着いたばかりという矢鳴さんに連絡して迎えに来てもらう。それで矢鳴さんは五條市からここまで6時間ほど、ほぼ連続運転していたと聞き、千里は
 
「ここは取り敢えず冬が運転した方がいい」
と言った。
 
千里もここまでスノーモービルを運転してきている。それで冬子も確かにそれがいいと言ってプラドの運転席に座る。千里が助手席に座り、矢鳴さんには後部座席で毛布をかぶって仮眠してもらった。
 

千里と冬子に矢鳴さんの3人が乗った車が国道沿いの大原集落を出たのが13時半くらいであった。
 
千里は「何かあったら起こしてね」と後ろの子たちに言って、神経の95%くらいを眠らせた。
 
やがて《りくちゃん》が千里を起こす。
 
『唐本さんさっきから何度か瞬眠起こしてる。これ危険だから代わった方がいい。多分昨夜、心配で眠られなかったんじゃないの?』
 
車の時計を見ると14:24である。冬子は1時間ほど運転している。
 
それで千里は
 
「そろそろ代わろうか? 冬も疲れたでしょ。少し仮眠するといいよ」
と声を掛ける。
 
冬子もホッとした表情で
「うん。そうさせてもらおうかな」
と言って、車を脇に停め、運転席と助手席を交代した。
 

千里は運転席に就いて車を出発させると、すぐにまず《とうちゃん》に頼む。
 
『冬子と美里さんがしばらく起きないようにしといてくれる?』
『OKOK』
 
それから秋田に居る《きーちゃん》に声を掛ける。
 
『交代してくれる?ちょっと悪路での運転で悪いけど』
『雪道はたくさん運転してるから平気』
『じゃ荷物はそこに置いて、こちらに来てくれる?』
『おっけー』
 
それでいったん車を脇に停めた上で《きーちゃん》と入れ替わった。
 
千里がいるのは今日の試合会場である秋田県立体育館のそばである。荷物を持って駆け足ぎみに中に入っていくと、入口の所に旭川N高校の先輩でチームデスクの靖子さんがいる。
 
「遅くなりました!」
と声を掛ける。
 
「おお、何とか間に合ったね」
「すみませーん!」
 
レッドインパルスのロッカールームに行くと試合前のミーティングを始めようとしているところであった。
 
「残念だ。1000万円もらいそこねた」
と妙子キャプテンが言う。
 
「あれマジだったんですか?」
「マジマジ」
「怖いチームだ」
 
「他のメンバーも遅刻・欠席は罰金1000万円だからね」
 
「払えません!」
とみんな言っている。
 
「だけどサン、こういうのって本来試合に間に合えばいいというものではないよ」
とマミさんが厳しいことを言う。
 
「はい、大変申し訳ありませんでした」
と千里はペコリと頭を下げてチームのみんなに謝罪する。
 
「みんなも再度認識して欲しい」
とマミさん。
 
「私たちはプロスポーツ選手として、お客さんとの契約にもとづきこの場所に来ている。お客さんは自分たちの貴重な時間を使い、わざわざ交通費を掛けてこの会場まで来て入場料を払って試合を見てくれる。そこにお目当ての選手がいなかったらどうする?そして出場はしていたとしても緩慢なプレイをしていたらどう思う?これは試合に出る出ないとは関係無い。お客さんはその選手の姿を一目みたいから来ている。良いプレイを見たいから来ている。万一事前の予告無く欠席したり、酷いプレイを見せたら、そのお客さんひとりひとりに10万円くらいは補償しないと納得してくれないよ。お客さんが3000人いたら3億円だよ。1000万円の罰金なんて生やさしいくらいだ。そのあたりを甘く考えてもらっては困る」
 
とマミさんは全選手を前に語った。
 
千里は再度
「二度とこのようなことがないように肝に銘じます」
と答えた。
 
それは全選手を代弁する発言でもあった。みんな神妙にベテランのマミさんの話を聞いていた。
 
「じゃ、そのあたりのスケジュール管理はみんなちゃんとしてもらうことにして今日のミーティングを始めようか」
と小坂代表が言い、試合前のミーティングは始まった。
 
そのミーティングが終わった所で千里はユニフォームに着替える。
 
「なんか荷物が多いね」
「このあとちょっと妹と合流するものですから」
 
「あ、金萬3箱ある」
「空港の売店で買ったんです。1つここで開けちゃいます?」
「いいの?」
「どうぞー」
 
ということで千里は金萬の箱を1つ開けたが、ほとんど一瞬で無くなった。しかしマミさんが厳しいことを言った後で、まだ場の空気が硬かったのが、このお菓子配布で結構やわらいだ感もあった。マミさんも
 
「うん。これ美味しいね」
などと笑顔で言ってくれて、千里は心が融けるような思いだった。
 
マミさんは嫌われ役を敢えて買って出て引き締めを図ったのだろうが、言われた側としては、やはり自分が悪いと思っているだけに結構きつい。
 

この日千里は「あんた目当ての客もいるよきっと」と妙子キャプテンから言われて、試合開始前の練習に出た。千里が遠い所からどんどん正確にボールをゴールに放り込むと今日の相手チーム・ビューティーマジックのシューター萩尾月香が凄い視線でこちらを睨んでいたし、客席からも歓声があがっている雰囲気であった。
 
試合は15:00からである。これはWリーグ今期の準決勝3連戦の第1試合である。
 
ビューティーマジックはオールジャパンでは40 minutesと並んで3位であった。月香のほか、日吉紀美鹿・鈴木志麻子などがいる。
 
千里は試合は客席から見守ったが、コート上の月香や志麻子が時々チラッとこちらを見ていた。この日は僅差でビューティーマジックが勝ったが、千里は自分もコートに立ちたいという思いが募った。
 

試合終了後、ミーティングをしてから解散する。各自ホテルに帰るというところで千里は
 
「すみません。ちょっと頼まれたものがあるので、お先に失礼します。明日はちゃんと集合時間の30分前に来ます」
 
と声を掛けて会場から走り出し、取り敢えず公園内のトイレ裏手に行く。愛用の《スントの腕時計》で時刻を見ると17:30である。
 
荷物の中から金萬を1つ取り出した上で
 
『きーちゃん、ありがとう。交代しよう』
と声を掛けると
 
『千里、お疲れ。びっくりしないでね』
と《きーちゃん》は言う。
 
へ?
 
と思って交代してみると、千里は車の運転席におり、車はどこかに駐まっている。それはいいのだが、目の前に大きなホテルがある。
 
ここどこ?
 
と思って車のキーを回して電装品が使えるようにし、カーナビを見てみる。
 
福島市〜〜〜!?
 
なぜこんな所にいるんだ〜〜〜〜〜〜!????
 

《きーちゃん》に訊くと
『詳しく話せば長くなるけど、男の娘のおかげなんだよ。説明は明日でいい?』
などと言っている。
 
は?
 
『千里、2人を起こすからもう唐本さんは先に降ろした方がいい』
と《とうちゃん》が言うので、千里は自分の疑問は置いておいて、先に冬子を降ろすことにする。
 
車は福島市のRホテルのすぐ傍に駐まっているのだが、千里は車を少しだけ運転してホテルの玄関前につけた。
 
車が動いたことで冬子も矢鳴さんも起きたようである。
 
「着いたよ」
「え?もう五条?」
「福島だよ」
「福島って・・・大阪の?」
「まさか福島県福島市」
「なぜ、この時間で福島まで来ちゃう訳〜?」
 
千里は取り敢えず話をそらすことにする。
 
「歌手は歌が命だよ。最高の歌を歌うには最高の体調が必要。公演に間に合えばいいというものではないよ」
 
とさっき自分が餅原さんから言われたことを言う。
 
「冬はもう既に大物歌手だからさ、誰も冬には苦言は言わないだろうけど、本来直前に交通の不便な山奥の村まで行くようなスケジュールは入れてはいけなかったんだよ」
 
冬子は千里の言葉を聞いていて答えた。
 
「ありがとう。そういうきついことを言ってくれるのは千里だけだよ」
 
よし。取り敢えず誤魔化した!
 
「じゃ今夜はぐっすり休んで明日、いいステージをしてね」
と千里は笑顔で言う。
 
「うん。本当にありがとう。明日のステージ頑張るよ」
「じゃ青葉にもよろしく」
 
それで千里は冬子に大阪で矢鳴さんに買ってもらっていたタコ焼き4パックと《きーちゃん》に秋田で買ってもらっていた金萬の内の1箱を渡して車を降ろした。
 
その後、青葉に冬子を福島に送り届けたことを連絡し、少しメールのやりとりで会話した。町添さんには敢えて連絡しなかった。冬子が自分で適当な時間を見て連絡するはずである。
 
(金萬は4つ買って1つはきーちゃんが自分で取り−女の眷属で分け合って食べたようである−、1つはレッドインパルスの選手でシェアし、1つは冬子に渡して、1つ千里の手元に残っている)
 

4時間近く、ぐっすり睡眠を取っていた矢鳴さんの運転で千里は福島市から秋田市に移動し、22時頃に選手が泊まっているホテルに入る。車内で千里が同じホテルに部屋を1つ確保しておいたので、矢鳴さんにもそこに入って休んでもらった。
 
翌28日、千里は午前中の練習に参加し、13時からの準決勝第2試合を客席から応援した上で試合後のミーティングにも出る。次に行われるもうひとつの準決勝(サンドベージュ対エレクトロ・ウィッカ)もチームメイトと一緒に見てから彼女たちと一緒にホテルに戻った。夕食も一緒に取った。
 
その日千里は夕食後、彪志に電話を掛けた。
「どうもお世話になっております」
と彪志は緊張した感じで返事をする。
 
「彪志君、明日青葉と一緒にご実家に行くでしょ?」
「はい。ありがとうございます。チケット手配して頂いて」
「それでね。着ていく服なんだけど」
「はい?」
 

さて、その青葉である。
 
福島のローズ+リリーのライブに出るため27日夕方福島に向かおうとしていたところで、大雪のため奈良県の山奥の温泉に閉じ込められていたケイが千里と一緒に温泉を脱出し、わずか4時間後には「もう福島に着いちゃった」という報告を受け、呆れながらも安心して、新幹線の快適な座席に身を沈めた。
 
結構熟睡していたようで、大宮に着く少し前《雪娘》に起こしてもらい東北新幹線に乗り継ぐ。そして福島駅近くの予約されていたビジネスホテルに入り、またぐっすりと寝た。
 
翌日、ローズ+リリーのステージは16:00からなのだが、今回ケイは「午前中にリハーサルやろう」と言って出演者を集め、市内のスタジオで完全に本番通りの演奏をした。予定しているMCなども入れている。但し、マリはまだ寝ているということで、サマーガールズ出版の秋乃さんが代役を務めていた。
 
「まあ、マリちゃんはリハやらせたら、それで体力消耗しちゃって、本番で歌えなくなっちゃうから」
 
「それがローズ+リリーがあまりテレビ番組には出ないひとつの理由なんですよ」
 
「まあステージでは、周囲がしっかりしていればいいし、マリちゃんが無茶振りしてもケイは何とかしちゃうからね」
 
「とっさにうまい対応ができなかったらどうしよう?と不安になることもあります」
 
「でも最近はマリちゃんはケイちゃんの性別疑惑探求に燃えているよね」
「古い写真とか収集していましたよ。それで私が小さい頃から間違いなく女の子であったという証拠を集めているのだとか」
 
「実際、ケイって小学生の内から女児として通学してたんだよね?」
「私、高校生までは男子制服で通学してますよ」
 
「それはさすがに嘘が酷い」
「だって中学ではセーラー服で通学していたって、こないだ若葉ちゃんから聞いたよ」
「そんな馬鹿な」
 

青葉はこの日のステージで、龍笛を吹いたのは『振袖』『灯海』『門出』に『たまご』である。また『ダブル』『花園の君』『摩天楼』などでサックスを吹いた。『花園の君』は本来のサックス奏者である七星さんがヴァイオリンを弾いているので、代わりに青葉がサックスを吹いたのである。
 
また『コーンフレークの花』では今田七美花とふたりで振袖を着て日本舞踊を踊った。実際にはこの日の午前中のリハーサルの時に唐突に言われたので踊りの上手い七美花の真似をして踊っただけであるが、
 
「うまいうまい」
と氷川さんが言ってくれたので、まあまあの出来だったのだろう。
 

ライブが終わったのは予定を少しすぎた18:10頃である。
 
夕食を兼ねた打ち上げに出た後、20時すぎには同じ高校生である今田七美花(高1)・鈴木真知子(高3)・品川ありさ(高1)と一緒に宴会場を出る。何となく誘い合って近くのミスドに入り、
 
「おとなの相手するのも疲れるよね〜」
などと言いながら、女子高生4人でしばしおしゃべりした。4人は結構仲良くなり、お互いに携帯番号とメールアドレスの交換をした。
 
しかし民謡の一派代表継承候補者、ヴァイオリンの世界大会入賞経験者、人気アイドル歌手、ってここに居るのは凄いメンツだと青葉は思っていた。あ?自分も一応作曲家の端くれかな?あとそこそこの霊能者だし。
 
「絢香(品川ありさの本名)ちゃんのこの番号やアドレスって、マネージャーさんにも転送されるの?」
 
「こちらの携帯は大丈夫。営業用のこっちのスマホのはマネージャーに同報される」
 
なるほどー。
 
「携帯とスマホの2台持ちか」
「スマホ2台だとうっかり掛け間違ったりしかねないから、個人用はガラケーにしてるんだよ」
 
「なるほどね」
 
「そういえば、青葉ちゃんのお姉さんの醍醐春海さんも携帯とスマホの2台持ちだよね」
と鈴木真知子ちゃんが言った。
 
「あれ?そうだったっけ?」
「なんかスマホだと僻地に行った時に電波が使えないことあるからガラケーも持っているとか言っておられましたよ」
 
「ああ、それで2台持っている人はわりと居るよね」
 

青葉は内心「嘘〜!」と思っていた。ちー姉ってスマホは自分は静電体質だから相性悪いとか言って、私とかには携帯しか見せてないのに・・・・
 
と思って、ハッと気づいた。
 
浮気用だ。
 
たぶんちー姉は細川さんとのメールは全部スマホでやりとりしてるんだ。それでスマホは多分私や桃姉の目には触れないようにしているんだ。
 
青葉は千里姉の秘密をひとつ知ることができた気がして、ちょっと楽しくなった。
 

28日の夜、ホテルの部屋で千里は先に東京に戻っている《きーちゃん》に自分の携帯からメールした。
 
日曜の夜にもかかわらずJソフトに出勤していた《きーちゃん》は自分のスマホに千里の携帯からのメールが着信していることに気づき、トイレにでも行くような振りをしてさり気なくオフィスを出、地下のレストランに入った。ここはいつも音楽が流れているので、他の人に聞かれないようにビジネスの打ち合わせをするのにもいいが、実は社員がサボって個人的な電話を掛けたりするのにもいいのである。また、ここにノートパソコン(覗き見防止フィルターと盗難防止チェーンを使い、パスワードロックされていることを条件に社外持ち出しを許可している)を持ち込んで集中して難しいプログラムのコアを書いたりするSEも居る。
 
《きーちゃん》が持つスマホから千里の携帯に電話する。すると《きーちゃん》が持っている携帯にも着信の表示が出る。やがて千里が携帯を取る。千里が持っている携帯と《きーちゃん》が持っている携帯は「クローン携帯」なのでそちらも通話中の表示になる。
 
ふたりが持つ携帯は「同じ物」なので、ふたりが会話するには実は千里の携帯から《きーちゃん》のスマホに掛ける方法しかないのである。むろんふたりはテレパシーでも会話できるが、テレパシーでの会話は特に遠隔地ではエネルギーの消耗も激しいので、ある程度まとまった話をする時、千里はたいていこの方法を採っている。
 
「奈良から福島までの移動の件だよね?」
と《きーちゃん》は言う。
 
「うん。あれどうやったの?私、くうちゃんに頼んで移動してもらおうと思ったのに、その前に移動が済んでいるんだもん」
と千里。
 
「いや、あれは千里が百日祭の時に呼んでしまった龍神様のおかげなんだよ」
 
「あの人たちのしわざか!!」
 
「千里と交代して私が国道を運転していたらさ、窓をトントンとされるのよ」
「ああ」
 
「びっくりして見ると、若い龍神さんが居るのよね。これ誰〜?と思ったら天空さんが千里が霊祭の時に遭遇した龍神さんだと教えてくれたのよ。龍神さん、私を千里だと思ったみたいで。それで車を脇に寄せて停めてお話ししたらさ、その女歌手さん、急ぐのであれば自分が目的地まで運んであげようかと言うのよ」
 
「そういうことだったのか」
 
天空(くうちゃん)は他の眷属とは違い「遍在」しているので、千里および他の全ての眷属たちの動きを見守っている。それで千里が出席した霊祭も見ていたし《きーちゃん》が千里の身代わりになって車を運転しているのを見ていたのである。
 
「じゃお願いしますと言ったら、いったんその付近の雪を酷くして視界が効かないようにした上で、車ごと持ち上げてお空の旅」
 
「わぉ」
 
「奈良から福島まで、都会とかを避けて目立たない所を通りながら700kmくらいかな。自衛隊のレーダーに引っかからない程度の低空を飛んでる感じもした。結構雨雲の中も突っ切ったけど、あまり揺れないようにしてくれた。しかしあの龍神さん、凄い力なんだよね。2トンの車をひとりで抱えながらなのに飛行機並みの速度で1時間半くらいで着いちゃった」
 
「凄い。あとでお供え物とかしておかなくちゃ」
「どこの神様か知ってるの?」
「知らなかったけど見りゃ分かったよ。T村のお隣のE村のN神社の神様だよ」
「へー」
 
などと会話しつつ千里はなぜそういうのが分かるのか自分でも分からない。そういえば自分も「羽黒山大神によろしく」と言われたから、向こうもこちらの所属が分かったんただなと思い起こす。
 
「でもあの子を産んだお母さんにも会ったよ」
と《きーちゃん》が言う。
 
「へー」
「美人の人間の男の娘だった」
「やはり男の子なんだ!」
「女装してたけど、性転換はしてなかった」
「じゃ身体は男の子なの?」
「おっぱいはあったけど、下は完全に男だったよ。それにあの子、魂は普通の男の子だった。たぶん女装はただの趣味。おっぱいは多分子供産んじゃったから発達したんだよ」
 
「嘘!?そもそも男の子の身体で、どうやって子供産むのさ?」
「そのあたりはよく分からないなあ。まあ世の中には色々不思議な存在があるものだと思った」
 
「でも助かったね」
 

千里は翌29日朝、矢鳴さんと一緒にホテルのバイキングで朝食を食べてから「お着替え」した上で、荷物の大半は部屋にそのままにして、7時にホテルを出た。この日は試合が行われない。準決勝の3戦目は3月1日である。矢鳴さんのほうはホテルをチェックアウトした。
 
「美里さん、済みませんね。あちこち走ってもらって」
 
「いえ。昨日は丸一日ぐっすり寝ましたから。やはり雪道の運転でかなり消耗していましたね」
 
「あれは消耗しますよね〜。一瞬たりとも気を抜けないし」
 
矢鳴さんの運転する車は秋田自動車道方面に向かった。
 

青葉は29日朝、ホテルで朝食を食べたあとまたベッドの中で10時すぎ頃までうだうだしながら友人とメッセージの交換などしていたが、やがて出ることにする。彪志のお母さんに会うんだしと持って来ていた高校の女子制服に着替える。
 
それで部屋を出ようとしていたらドアをノックされる。あれ?ここチェックアウトは11時と思ってたけど、時間超過した?と思い
 
「済みません。もう時刻でしたっけ?」
とドアの所で声を掛けると
 
「青葉、私」
と千里の声である。びっくりして開けて中に入れる。千里は訪問着を着ている!?
 
「ちー姉?」
「私も同行するから」
「え?」
 
「心配しないで。私の席は別の車両だから、青葉は盛岡までイチャイチャしてていいからね」
 
「昼間の新幹線でイチャイチャできないよ! でも凄い服だね」
「青葉にも着せてあげるから」
 
と言って千里はルイヴィトンのバッグを開けて振袖を取り出した。
 
「わっ。凄い」
「商品は美味しく見せないとね」
「そうか。私って商品なのか」
「息子さんはいい品を買いましたよとアピールしておこう」
「うん」
 
それで千里は部屋の中で青葉に振袖を着せてあげた。千里自身が成人式の時に着た「友禅風」のものである。
 
「ひょっとしたら海外で作られたものかも。あそこの呉服屋さんは、かなりシステマティックに商売しているみたいだし」
「なるほどー」
 
「でも腕の良い職人さんの作品だよ。かえって本物の手書き友禅である私の訪問着の方が安物に見えるもん。実際値段もこの振袖のほうが、この訪問着の倍の値段したから」
 
などと千里は言っていた。
 

「すごーい。でも私、正直着物の善し悪しはよく分からない。洋服もだけど」
と青葉は言う。
 
「桃香も青葉も安い服しか着ないもんね」
「えへへ」
 
「去年の春に桃香に通勤用のスカートとか買わせたらスカートが1着3万円もするのか!?とか驚いていた」
 
「あー、桃姉はせいぜい3000円くらいの服しか着ないし」
「そもそもあの子、めったにスカートなんて穿かないもんね」
「まるで女装しているみたいだとかよく言ってるね」
「うん。あの子はスカート穿くと女装の感覚みたい。アクアとかスカート穿いても別に女装ではないと思っている感じなのに」
 
「えっと、ごめん。私、クライアントの噂話はできないから」
と青葉。
「うん、いいよ。たぶんあの子は振袖でも女装と思ってない」
と千里。
 
「うーん・・・・」
と言って青葉は少し悩んだ。
 
「ほら、これアクアの振袖写真」
と言って千里は携帯を開いて写真を1枚見せてくれる。
 
「いつの間に!? でもすごーい。かわいいー!」
 

30分ほどで振袖を着せてもらい、それからチェックアウトする。実際には1階のポストに部屋の鍵を放り込むだけである。
 
「ここチェックアウト何時だったっけ?」
「12時なんだよねー。チェックインも12時。ビジネス客の多い新しいホテルではたまにこういう所がある。どうせ部屋の掃除は時間がかかるから、空いた所から順に掃除していけばいいと割り切って、客に利便を提供してるんだろうね」
 
なるほど。
 
ホテル近くのレストランでお昼を食べる。福島牛のたたきが美味しかった。
 
あらためて大学合格おめでとうと言われ、桃香の字で表書きされた祝儀袋までもらった。
 
「私ちー姉たちに1400万円借りているのに」
「それはちゃんと返してもらうから問題無い。この中身は私と桃香が半分ずつ出した」
「ありがとう」
と言って素直に受け取っておく。
 
「結局通学は何人かで相乗りして行くんだ?」
「うん。免許を持っているのは今の時点で私だけだから、当面はひとりで運転する。誰かが免許取ったら少し交替できる」
 
「充分仮眠を取って事故起こさないようにね。青葉っていつも寝不足状態にあるから。少しでも眠気が来たら脇に寄せて仮眠。事故起こして他の子を怪我でもさせたら大変だからね」
 
「うん。そうする」
「もちろんクールミントガムと缶コーヒーと化粧水スプレーは常備しておいて」
「化粧水スプレー?」
「100円ショップに売ってるよ。これが結構スッキリするんだ」
 
「へー。探しとこう。でもガムは結局クールミントガムがいちばん効くよね?」
「そうそう。眠気防止をうたっている少し高いのとかもあるけど、そんなのよりクールミントがいい」
 
「私コーヒー飲み過ぎているのか、カフェインの強いガムは気持ち悪くなる」
と青葉は言う。
 
「ああ。私も。作曲とかしていると、ついついコーヒー飲むから」
と千里も言う。
 

「でも青葉も女子高生を卒業して女子大生か」
「あっという間の3年間だった」
「中学は最初の何日かだけ女子中生したけど性別バレちゃっていったん男子中学生になっちゃったと言ってたね」
 
「そうなんだよねー。実は小学校の時も最初は女子児童だったんだけどなあ。結局最初から最後まで女子で通したのは幼稚園の時以来ということになる」
 
「理解のある幼稚園だったんだね」
「今思えばそんな気がする」
 
「青葉見て男だと思う人はいないから。私も最初に青葉を避難所で見かけた時、男の子の服着てるけど、本当に男なんだっけ?と思ったよ」
 
「いや、あの時は参った。あの時期はけっこうなしくずし的に校内で女子制服も着ていたんだけど、よりによって学生服着ている状態で被災したから」
 
「でも青葉、私たちが行くまでの間、たぶん学生服を着たままで女子トイレ使ってたでしょ? 万一通報されたら全く言い訳できない状態で」
「そのあたりはノーコメント」
 

途中で駅のカフェに移動しておしゃべりを続け、15:17の《やまびこ》に乗る。千里は別の車両なので別れてひとりで自分の席に行くと、彪志はスーツを着て座っていた。
 
「青葉、可愛い!」
と彪志は本人が少し照れるような顔で言う。
 
「彪志もスーツ着て来たんだ?」
と青葉は言う。
 
「いや、お姉さんに言われて。でも服装のことは青葉には言うなと言われてたから」
などと彪志は言っている。
 

「そうだ。K大学合格、あらためておめでとう」
と彪志は言った。
 
「ありがとう。ここではイチャイチャできないけどキスくらいは受け付けるよ」
と青葉が言うので、彪志は周囲を見てから、さっと青葉の唇にキスした。
 
「それで、これお祝いにプレゼント。少し早めのホワイトデーも兼用で」
 
と言って彪志が青いジュエリーケースを出してくるので青葉はびっくりする。
 
「え!?」
「大丈夫、そんなに高いものじゃないから」
「うん」
 
それで受け取って開けて見ると、小さなエメラルドの指輪である。リングの材質は金、たぶん18金のようだ。
 
「わぁ・・・」
 
「ファッションリングということで。指輪のサイズは実はお母さんに電話して聞いた」
「あ、それで指のサイズ計られたのか!」
 
「とりあえず合うかどうか、青葉ちょっとハメてみて」
「うん」
 
それで青葉はその指輪を右手薬指に填めた。
 
「大丈夫。OKだよ。少し余裕あるから、これ左手薬指にも填まると思う。ね。確かめてみたいから、ちょっとだけ目を瞑ってて」
「いいよ」
 
それで青葉は彪志が目を瞑っている間に指輪を左手薬指に移してみた。青葉は左利きなので左手の方が少し大きい。しかし指輪はこちらにもきれいに填まった。それを確認して、また指輪を右手薬指に戻す。
 
「ありがとう。ちゃんと填まったよ。もう目を開けていいよ」
「良かった良かった」
 
「じゃ、これは指輪の御礼に」
と言って今度は青葉が彪志の唇にさっとキスをした。
 
「いや、合格のお祝いに何あげようかと思ってさ。指輪を思いついたんだけど、そんなのあげてもいいものかと思って、実は素直にお母さんに電話して相談してみたんだよ」
 
「へー!」
「青葉、インターハイではメダルに届かなかったから、今回は受験で頑張ったご褒美の金メダル代わりということにしたら、とお母さんが言うものだから」
「すごーい」
 
と言いつつ、青葉は考えていた。合格したら金メダルあげるって・・・えっとあれれ、確か桃姉かちー姉かどちらからか言われた気がする。もしかしたら、お母ちゃんからその話を聞いていたのかも知れないなと青葉は思った。そうか。金メダルのプレゼンターは彪志だったのか。うん。それは最高のプレゼンターだよ。
 
青葉はとても幸せな気分になった。
 

仙台で《やまびこ》から《はやぶさ》に乗り継ぎ、16時半すぎに盛岡に到着した。彪志が電話連絡の上、駅で少し時間調整してから3人でタクシーに乗り、17時すぎに彪志の実家に入った。
 
実家では彪志の父・宗司がちょうど帰ってきたところでジャージに着替えて文月にお茶を入れてもらい、それを飲みながらテレビを見ていたようである。
 
彪志が自分で鍵を開けて「ただいま」と入って行くと、文月が、ややだれた感じで「あ、お帰りー。青葉ちゃんもいらっしゃーい」と言ったのだが、ふと見ると彪志がスーツ、青葉が振袖、千里が訪問着を着ている。それで文月は
 
「きゃー。私、こんな格好!」
と言って奥の部屋に走り込んでしまう。
 
それでジャージ姿のお父さんが
「いや、遠い所いらっしゃい」
と言って3人をあげ、お茶を入れてくれた。ほどなくお母さんがビジネススーツを着て出てきた。
 

「青葉の家族の葬儀の時にはお目に掛かりましたが、その後。全然ご挨拶とかにも来てなくて申し訳ありませんでした」
と千里が彪志の両親に謝る。
 
「いえ、こちらの方こそ、一度富山までご挨拶に行かなければと思っていたのですが」
とお父さん。
 
「それと平日に押しかけてしまった失礼をお詫びします」
「いや、ちょうど日曜日に青葉ちゃんが福島の音楽のイベントに参加したんでしょ?そういうイベントの前に来る訳にもいかないし、仕方ないよね」
とお母さんが言ってくれた。
 
「そうそう。これ、うちの母から言付かったお土産です」
と言って、青葉は辻口博啓さんのお店の洋菓子を出した。
 
「これNHKの『まれ』にも関わっていた人よね?」
とお母さんが言う。
 
「ええ。監修をなさったようですね。能登半島は『まれ』ブームで結構あの時期観光客も増えたみたいですよ」
と青葉。
「何か物語の筋は、いつもの朝の連続テレビ小説だなあとは思ったけどね」
「私も思いました!」
 

「こちらはついでですが。私、今日は秋田から来たものですから」
と言って千里が金萬を出す。
 
「あ、これ私好きー」
とお母さんが言う。取り敢えずご機嫌は良いようである。
 
「お姉さんはお仕事だったんですか?」
と文月が訊く。
 
「そうなんですよ。ちょうどこの子がこちらを訪問するのとタイミングが合うみたいと思ったので、一緒に寄せて頂きました。青葉は置いて私は今日帰りますので、あとはよろしくお願いします」
 
「うん。OKOK。私は青葉ちゃんはもううちのお嫁さんのようなものと思っているから」
と笑顔で文月は言っている。
 
こないだそれを妨害しようとしたくせによく言うよ、と彪志は内心思いながら聞いていた。
 

「でも何のお仕事なさっているんですか?」
と母。
 
「バスケット選手なんですよ。実は秋田で試合があったんです」
と言って千里は名刺を出した。
 
へー!この名刺は初めて見た!と青葉は思った。
 
《舞通レッドインパルス 選手・村山千里》
 
と印刷されており、チームのエンブレムも大きく入っている。
 
「わっ、舞通に所属なさっているんですか」
と文月が驚いたように言いながら名刺を受け取る。
 
まあレッドインパルスなんてチーム名は知らなくても大企業の舞通は知っているであろう。
 
「はい。正式には4月からなんですけどね。今年度は趣味のクラブチームで活動していたのですが、スカウトされて移籍するんですよ」
 
「それは凄い」
「もう1月以降はチームに同行して、練習相手兼応援をしているんでけどね」
 
「なるほどですね」
 
「お母ちゃん、千里お姉さんは、お正月の皇后杯でスリーポイント女王とベストファイブになってるから」
と彪志がコメントする。
 
「そんなに凄い選手なんだ!」
「去年アジア選手権でも優勝したしね。オリンピックにも出るでしょ?」
「まあ何とか出場権を獲得しましたけど、オリンピックにも出してもらえるかはこれからの鍛錬次第ですけどね」
 
「すごーい!オリンピックに出るような選手なんだ!」
 
青葉はそういう会話を聞いていて、今回千里姉は、青葉自身の「商品価値」を高めるために付いてきてくれたんだなというのを感じていた。
 

そのあたりまで話した所で文月は青葉の右手薬指のエメラルドの指輪に気づく。
 
「あら、きれいな指輪」
「彪志さんから先ほど頂きました」
「へー」
「うん。大学の合格祝いにあげた」
「あんたにしては気の利いたものをあげたね」
 
「青葉、正式に婚約する時は今度は、今空いている左手の薬指用にダイヤのプラチナリングをあげるから」
と彪志は言う。
 
青葉は返事をせずに微笑んで唇に左手の指を当て、少しうつむくようにした。その仕草がすごく可愛いと彪志は思った。が実は父親の宗司まで可愛い!と思ってしまった。文月は一瞬ピクッとしたものの
 
「まあお金を貯めてからね」
と笑顔で言った。
 

文月は、自宅で焼きそばでもしようと思っていたようであるが、青葉の振袖のインパクトで、どこか外に出て食事でもしようということになる。
 
結局盛岡市内の割烹に出かける。そこの支払いは「突然押しかけてしまったので」と言って千里がしていた。千里はその夕食まで一緒にしたあと、また明日秋田で試合があるのでと言って帰っていった。
 

青葉はその夜は2階の彪志の部屋で一緒に寝た。翌朝は朝早く目を覚ます。文月が起きて朝御飯の準備を始めたなというのを感じ取って下に降りて行き、「お母さん手伝いますね」と言って朝御飯を一緒に作った。
 
「青葉ちゃん、前から思ってたけど料理の手際がいいね」
と文月は褒めてくれる。
 
「今のおうちに来てから習ったんですよ」
「そんなこと言ってたね」
 
「大船渡時代は親にネグレクトされてたから、料理とかも習ってないのを自分が食べる分だけ作るのに最低限のことだけ覚えてたから、お魚とかもおろせなかったし、揚げ物なんてしたことなかったし」
 
「いや、それは普通の女の子でもできない子が多い」
 
「私、常識とかも無いし、あまりいい娘じゃないかも知れないけど、彪志さんのために頑張りますね」
 
「うん。私も青葉ちゃんのことは好きだよ」
と言って文月は微笑んだ。
 

「私、基本的にはクライアントのこと話してはいけないんだけど、今凄い人気の男の子アイドル、アクアのセッションとかしているんですけどね」
 
「へー!」
 
「あの子、2歳の時に両親を交通事故で亡くしているんですよ」
「あらぁ」
「そのあとお友達の所に里子として預けられて、そこのお父さんも今度は崖から転落して亡くなって」
「きゃー」
 
「それで偶然知り合って仲良くなった今のお父さん・お母さんの所に来たんですけどね。今の御両親は実は医学的に子供が作れないんですよ」
「わぁ」
 
「それでかえって、アクアちゃんを本当に可愛がって育てたみたいで。あの子、すごくほんわりした柔らかい性格なのは、今の御両親の愛をたっぷり受けて育ったからなんでしょうね」
 
「へー。何かちょっと見るとちゃらちゃらしてるみたいに見えるけど、若いのに苦労しているんだね」
 
「芸能界にいる人には、けっこう家庭的に恵まれていない人って多いみたい」
 
「それは聞くね」
 
「まあ今日の話は内緒ということで」
「うん」
と文月は明るく言った。
 

アクアと親のことを文月に話してみようかというのは昨夜彪志と愛し合っている時に唐突に思いついた。
 
青葉は和実にも唆されて、結構子供を産む気になっているのだが、常識的には卵巣も子宮も無い青葉には子供を産む能力は無いはずである。それで、子供は養子や里子をもらう手もあるんだという道を提示しておこうと思ったのである。
 
先日桃香たちからも指摘された「常識に迎合した話」もしていかないといけないよなあというのを青葉は考えていた。
 
3月1日はむろん宗司は仕事に出て行くが、青葉は彪志と一緒に文月を連れてショッピングセンターに出かけ、買物をしたりお茶を飲んだりして過ごした。
 
そしてその日の夕方、彪志が就職予定の会社からメールが入った。
 
「お母ちゃん、青葉、俺の勤務地が決まった」
 
「どこになった?」
「東京支店だって」
 
「あぁ・・・・」
 
「結局今の行動パターンがそのままかな」
「まあ盛岡にも高岡にも、千葉よりは少しだけ近くなるかな」
と彪志。
 
「だったらあんた大宮の近くに住みなさいよ。少しでも近いから」
と文月が言う。
 
「そうだね。じゃ5月すぎに引越考えるよ」
 

「私毎月2回くらい車運転して会いに行くね」
「俺も車買って毎月2回青葉に会いに行こうかな」
 
「だったら毎週デートできるんだ?」
「まあ忙しかったら行けない時もあるだろうけど」
 
「むしろあんたたち、それ毎月1回ずつにして、そのお金を貯金した方がいい」
と文月が言う。
 
「そうだね」
「それがいいかもね」
「じゃ会いに行かない週はガソリン代・高速代分程度を貯金するということで」
 
「往復900km 燃費15km/Lの車を使ったらガソリン60L 140円/Lとして8400円。これに高速代14000円を足して22400円。45回。4年もあればエンゲージリング代が貯まるから、青葉が大学を出たらすぐ結婚できる」
 
などと彪志は言う。文月が「へ〜」という顔をしている。文月も今日は「まあいいか」という気分になっているようだ。
 
「彪志、車は何買うの?」
と青葉が訊くと
 
「そうだなあ。やはり親父の店で買わないと悪いかな」
と彪志。
 
「ごめーん。私、別メーカーの買っちゃった」
と青葉はマジで今気づいて謝った。
 
「いや、盛岡で買って富山で乗るのは手続きが面倒だし」
と文月は言ってくれた。
 

一方千里は2月29日の夜、青葉たちと別れると盛岡駅に行き、秋田新幹線の切符を買う(山形新幹線は福島から、秋田新幹線は盛岡から分岐している)。発車時刻まで少し余裕があったので、お酒売場で素直にお勧めの地酒を尋ね、勧められた銘柄の物を買ってから新幹線に乗った。
 
23時頃秋田駅に到着。自分の泊まっているホテルに戻った。妙子キャプテンには戻って来たことをメールで報告した。
 
翌日は午前中練習をした後、午後は試合に出る選手たちは試合に備えて休憩になりホテルに戻って寝ていた選手もあったようだが、同行している2軍選手・練習生は自主的に午後も練習を続けた。
 
19時から試合が行われ、レッドインパルスはビューティーマジックに勝利した。この結果、2月27,28日と3月1日の3試合でレッドインパルスは2勝1敗と勝ち越し決勝戦に駒を進めた。
 

その日はもう遅いのでもう1泊して、3月2日のお昼の新幹線で東京に戻った。秋田駅でまた金萬を2箱買っておいた。
 
いったん用賀のアパートに行き、荷物を整理する。東京→鹿児島→大阪→東京→奈良/秋田/福島→秋田→福島→盛岡→秋田→東京となかなか複雑な旅であった。
 
少し落ち着いてから用賀のアパート近くに駐めているアテンザに乗り、郊外のスーパーに行って食料品を買い出しする。それを経堂のアパートに置いてからいったんアテンザは用賀の方の駐車場に戻し、ジョギングして経堂のアパートに戻る。そして食料品のストックを作ったり晩御飯を作っている内に桃香が帰宅する。
 
「お帰り」
「ただいま」
 
と言ってキスする。
 
「青葉が盛岡の彪志君の実家に行くのに同行していって挨拶してきたよ。ついでに青葉に合格祝いも渡しといた」
 
「千里、ここ10日ほど、結局どこに行ってたんだっけ?」
「うーん。私も何だか分からなくなった。これお土産」
 
と言って鹿児島土産の芋焼酎《森伊蔵》と盛岡で買った《浜千鳥》純米吟醸を出す。
 
「おお、分かっているではないか」
と桃香は喜んでいた。
 
「千里、鹿児島に行ってきたの? あれ?でもこの日本酒の方は岩手だし。あっそうか。彪志君の実家に行ってきたからか」
 
「そうそう。2月20日から23日は鹿児島に試合で行ってたんだよ。その後いったん東京に戻ってきたと思ったら、改札出る前に友だちに捕まって奈良に行くはめになって。それから27日から3月1日までは秋田で試合で、その途中の試合の無い日29日に青葉と一緒に盛岡に行って、青葉は向こうに置いてきた。秋田はどんなお酒がいいか分からなかったから買わなかった。これ秋田のお菓子」
 
と行って金萬を1箱出す。取り敢えずお茶を入れて飲みながらお菓子の箱を開けて食べる。
 
「あ、これ好きかも」
「良かった良かった」
 
「お酒は秋田なら新政とかかなあ」
「ふーん。次行った時は買っておくね」
「分からない時はメールしてくれたら教えるぞ」
「うん。今度10日から12日は信州方面、松本と甲府に行ってくる」
 
今度はいよいよ決勝戦なのである。相手は三木エレンのいるサンドベージュである。
 
「忙しいね!松本なら大信州かなあ。甲府はうーん・・・七賢とか笹一とか」
「ふーん」
「まあ甲州はワインも美味い」
「ワインなら私も分かりそう。ワイン買って来ようかな。日本酒は飲んでみても美味しいのか美味しくないのか全然分からなくて」
 

その夜は桃香とたっぷりと愛し合ってから寝て、翌日3月3日は朝御飯を作り、桃香を会社に送り出してから、午前中は食料品の買い出しに出た。お昼過ぎに東急で川崎市に移動しレッドインパルスの練習に参加する。こちらは10日からの決勝戦に向けての練習である。夕方には東急/半蔵門線で40 minutesの練習場に行き、こちらでも練習をする。今の時期は全日本クラブ選手権に向けての練習だが、その大会が千里が40 minutesの選手として出る最後の大会になる。
 
この日、男子の日本代表候補が発表されたが貴司は入っていた。これから7月のオリンピック最終予選に向けて、また合宿に次ぐ合宿となる。
 
3日はひな祭りなので、川崎から江東区に移動する途中、お雛様ケーキと白酒を買っておいた。それで練習が終わると経堂のアパートに戻り、御飯を炊く。お刺身を切っていたら、桃香が9時頃帰ってきた。
 
「お帰り」
「ただいま」
と言ってキスする。
 
「お、今夜はお刺身?」
「一太郎買ってきたよ」
 
「もしかして、すし太郎?」
「あ、それそれ。一太郎はお絵かきソフトだった」
 
「・・・・」
「どうかした?」
「一太郎はワープロソフトだが」
「あれ〜〜〜〜?」
「お絵かきソフトは花子だ」
「そうだったっけ?」
 
「専門外の私でさえ知っていることをなぜSEの千里が知らん?」
「ごめーん。私、ソフトには弱くて」
「ハードにはもっと弱いよね?」
「あはは」
 
「やはり千里のソフト会社には絶対にソフトを頼まないことにしよう」
 

御飯が炊きあがるまでまだ少しあるので、白酒で乾杯して、お雛様ケーキを食べる。
 
「私は子供の頃、お雛様とかしたことなかった」
と桃香が言う。
 
「雛人形とか飾ってなかった?」
「実際問題としてそんなことする経済的余裕が無かったんだと思う」
「そっかー。女手ひとつで子供育てるって、昔は今よりもっと大変だったよね」
 
「うん。でも私も女みたいなことするのあまり好きじゃ無かったから良かったと思うけどね。ひな祭りに友だちんちに呼ばれていくと、あら男の子も来てるのねとか言われてたし」
と桃香。
 
「私の場合は男の子もおいでよと言われて行くと、あら今年は全員女の子ねと」
と千里。
 
「千里最近少しは自分が最初から女の子していたこと認めるようになったな」
「まあだいぶバレたしね」
 

3月4日(金)も似たような感じで1日過ごした。
 
5日(土)午前3時。桃香は寝ている。桃香は休日はお昼過ぎまで起きない。
 
それで千里はアパートを抜け出し、経堂のアパート近くに駐めているミラに乗って、用賀のアパート近くの駐車場まで行く。そこにアテンザが駐まっている。そこでアテンザを出庫してからミラを入れる。アテンザに乗って江戸川区内の駐車場まで走る。実はここが本来のアテンザを駐めている駐車場だが、今日はそこにはプラドが駐めてある。
 
実は2月29日の朝、矢鳴さんと一緒に秋田を出た後、千里と矢鳴さんで交代しながら運転して福島に移動したのだが、福島で千里は青葉が泊まっているホテルに行き、矢鳴さんにはそのままプラドを運転して東京に戻ってもらい、この駐車場に駐めてもらったのである。今回は矢鳴さんも25日から4日間連続で動いてもらった。お疲れ様である。
 
千里はプラドを出してアテンザを枠に駐め、そのあとプラドを運転して大阪に向かった。《こうちゃん》と交代で運転し、10時頃、千里ICを降りる。近くのGSで満タンにした上で洗車もし、貴司のマンションの駐車場に入れた。オドメーターは2000kmを示している。このうち1600kmほどが今回の旅で使った距離である。トリップメーターはリセットしておく。
 
ハンディ掃除機と超強力粘着シートを使って車内をきれいに掃除する。特に長い髪の毛には気をつける。阿倍子さんに長い髪の毛を見られたら千里が乗ったことがバレバレである。それで千里は貴司の車を自分がマンション駐車場に入れた時はしっかりチェックしているし、貴司が入れた場合も女の眷属にチェックしてもらっている。
 
千里は前席シートの裏側のポケットに阿倍子さんの読みかけの本があるのを取り出すとその本のページの間に1万円札を入れて戻した(先日貴司が583万円の所を数え間違って584万円千里に渡した分の返却である)。それからいったん外して荷室に置いていたベビーシートを後部座席にしっかりセットした。
 
そして先日矢鳴さんが貴司から預かった車とマンションの鍵、それに秋田で3月2日に買った金萬の1箱を助手席に置いてから車はロックせずにマンションを出た。このあと新幹線で東京に戻る予定である。
 

その頃貴司は焦っていた。7日からまた合宿に入るので、阿倍子がその前に買い出しに付き合ってくれと言ったのである。ところがプラドは先週千里に貸したまま、どうも返却までに時間が掛かっているようだ。
 
車を友人に貸したことを阿倍子に説明したら、誰に貸したのかと追及されそうで、どうしようと思っていた時、ふと貴司は何かを感じて、窓の所に行った。すると遙か階下の地上で千里がこちらを見上げて手を振っていた。
 
それで貴司は
「うん。じゃ出かけようか」
と阿倍子に言うと、自分が京平を抱っこして部屋を出た。
 
地下の駐車場まで降りると、自分の駐車枠の所にちゃんとプラドが駐まっているのでホッとする。車はロックされていない。しかし助手席にキーが置いてあるので安心してそれを取った。京平を後部座席のベビーシートに寝せて自分は運転席に座る。阿倍子が京平の隣に乗る。それで車を出した。
 
阿倍子はショッピングモールまで時間があるし、京平はスヤスヤ寝ているしで暇つぶしにポケットに入れていた本を取り出し先日の続きを読み始めた。少し読んでいる内に、ページの間に1万円札がはさまっているのに気づく。
 
きゃー!私ったらこんな所に1万円はさんでいたなんて。でも落としたりしなくて良かった。と思い、阿倍子は楽しい気分で1万円札を自分の財布に入れた。
 
 
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