【春泳】(3)
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(C)Eriko Kawaguchi 2015-11-23
青葉は6月26日(金)はいつものように放課後合唱の練習に出てから帰宅、ジョギングをしてきてから夕食を取って少し仮眠し、夜11時頃に起きて勉強をしていた。それで1時過ぎたので、そろそろ寝ようかなと思い、勉強の道具を片付け、コーヒーカップを台所に持っていって洗い、それで布団を敷いて寝間着に着替えようとしたところで千里から電話が掛かってきた。
「ああ、やはり今日産気づいたんだ?あれ?ちー姉合宿してたんだしゃないの?」
「そうなんだけど、阿倍子さんひとりでいるって言うからさ、様子を見に来たんだよ。それで今病院に運んでいる最中」
「様子を見るのに合宿の後、大阪まで行ったんだ!」
「それで青葉にサポートして欲しいんだけど、補習があるのに申し訳ないけど、明日の朝一番のサンダーバードでこちらに来てもらえない?これリモートでは済まないみたい」
「分かった」
と青葉は即答した。
それですぐに時刻を調べてみる。
朝一番のサンダーバードは金沢5:35発である。新大阪着は8:15だ。それだと朝のラッシュにも引っかかるので、多分その病院に辿り着くのは9時前後になる。しかしこれは1分でも早く到着した方がいいと思った。
青葉は時刻表のひとつ前のページに金沢5:00発のしらさぎが載っていることに気づいた。その米原到着は6:56である。新幹線の連絡を調べる。
6:59に米原を出て新大阪に7:33に到着する便がある。これなら道も混んでないから8時前に着ける。でも米原で3分で乗り換えられるか??
青葉は一度京都駅で在来線→新幹線を1分で乗り換えた経験があるのを思い出した。米原駅の構造は複雑だ。京都駅より大変かも知れない。しかし3分あれば行けるはずだ。よし。これを使おうと青葉は決断した。
それで母の寝室に行く。
「お母ちゃん、ごめん」
「どうしたの?青葉」
と母は目は覚ましたものの、半ばまだ眠った状態で訊く。
「ちー姉がヘルプを求めてるんだ。ちー姉の元彼の奥さんが難産で苦しんでいるらしくて。それで明日朝から大阪に行ってこないといけない」
「それは大変だね!」
「お母ちゃん、悪いけど、朝金沢駅まで送ってくれない?」
「いいよ。何時に出る?」
「5時ちょうど発のしらさぎに乗るから、4時前に家を出たいんだけど」
「それはいいけど、あんた今もう1時半なのに」
「うん。だから今から寝る」
「じゃ私も寝る。朝御飯まで作りきれないからあんた適当に調達して」
「そうする」
それで青葉は結局寝間着に着替えず、普段着のまま布団に入った。目を覚ましたのは3:40である。急いで着替えをスポーツバッグに詰めて母の部屋に行く。
「あ、ごめん。起ききれなかった」
と言いながら母は起きてきてくれた。しかしどうも半分寝ている感じだ。
「お母ちゃん、お母ちゃんの意識が明瞭になるまで私が運転するよ」
「あんた、それ無免許運転」
「今のお母ちゃんの状態なら事故が怖い」
「そうだね。じゃ高岡ICまで」
それで青葉がヴィッツの運転席に乗り、朋子が助手席に乗って出発する。朋子は助手席の窓を開けて風を顔に当て、ブラックの缶コーヒーを飲んでいた。高岡の道の駅(万葉の里高岡)まで行った所で運転交代する。ここは高岡ICのすぐそばにあるのである。正確にはその道の駅の隣のローソンにつけてトイレに行くとともにおにぎり・お茶などを買った。母が「これ暖かいよ」と言って肉まんも買って持たせてくれた。
「お母ちゃん、ありがとう」
と青葉は笑顔で言う。
その後は朋子が運転席、青葉は後部座席に乗って車は出発。朋子がそのまま高岡ICから高速に乗って能越道→北陸道と走って金沢東ICで降り、金沢駅西口に付けた。後部座席で仮眠していた青葉は母に御礼を行って車を降り金沢駅に走り込む。そして切符を買って《しらきざ52号》に飛び乗った。
そして《雪娘》に『着く少し前に起こしてね』と頼んで、青葉は座席で熟睡した。
米原に到着したのは予定より少し早い6:55であった。青葉は10分前に起こしてもらって荷物を持ちドアのそばに立っていた。ドアが開くのと同時に列車を降りて走り出す。階段を駆け上がり、ひたすら走って新幹線改札口を通り、更に新幹線ホームまで走る。無事到着して大きく息をついていた所に新幹線が到着した。乗り込んで空いている座席に座ると、その柔らかい座席が物凄く快適であった。
7:33、予定通りに新幹線は新大阪に到着した。青葉は北口から外に出てタクシーに乗り込むと、行き先の病院の名前を告げた。
青葉が病院に到着したのは7:55頃である。タクシーが病院の玄関に付けてくれたら、そこに千里が立っている。さーすが、ちー姉!
千里が助手席の窓をノックするので運転手さんが窓を開ける。すると千里は
「済みません、これお釣り要りませんから」
と言って5千円札を渡した。
「おおきに」
と運転手さんも笑顔で言って、それを受け取って後部座席のドアを開けた。千里は青葉の荷物も持ってくれた。一緒に病院の中に入っていく。
「ごめんねー。忙しいのに。水泳の北信越大会に出るんでしょ?」
「うん。まあ半月後だけどね。それよりちー姉こそ日本代表の合宿中なのに」
「これも何のお膳立てもせずに、合宿に行っちゃった貴司の馬鹿のせいよ」
実際青葉も、誰もヘルプできない状況なら病院に説明して入院させてもらっておけば良かったのにと思う。
「でもあらためて聞きたいけど、結局、ちー姉と貴司さんって今どういう関係な訳?」
「ただの友だちだよ」
「ただのね〜。でもセックスくらいするんでしょ?」
「あいつが阿倍子さんと婚約した後は1度もしてないよ」
ほんとかなぁ〜?
病室に入ると、阿倍子さんは目を覚ましているが辛そうである。千里は青葉を「友人のヒーリングの達人」と紹介した。
ここで自分の妹などと言うと、よけいな感情を持ちかねないので、ニュートラルな立場の人物ということにしておいた方がいいと判断したのだろうと青葉は解釈した。
「じゃ赤ちゃんが頑張れるように波動を送りますね」
と言って病室でヒーリングを始めた。
貴司が到着したのは千里の予想通り9時すぎであった。かなりの渋滞に引っかかってしまったらしい。
阿倍子さんの状態は一進一退である。今にも産まれそうなのに産まれない。しかし貴司が来たことで、本当に阿倍子さんは嬉しそうだった。それで千里はそれを見て、貴司と青葉に後事を託して東京に戻ることにした。青葉には色々お金がいるかも知れないからと言って50万円渡した。青葉も高額の現金に驚いたものの、確かにこういう時は何があるか分からないしと言って受け取った。
貴司には青葉のことを自分の義理の妹と打ち明けた上で、阿倍子さんには単に「友人のヒーリングの達人」と紹介しているから、変なこと言わないようにと釘を刺しておいた。一応貴司も巫女の息子だけあって青葉がかなりの力量の持ち主であることは気づいたらしい。
また冬子たちが大阪まで一緒に来てくれて、阿倍子さんを病院まで運ぶのを手伝ってくれた上で、今取り敢えず貴司のマンションで休ませていることを言い、了承をもらった。もっとも貴司もまさか4人も泊まり込んでいるとまでは思わなかったかも知れない。
それで千里は病室を出ると、東京のトレセンに置いて来た《きーちゃん》に呼びかける。
『よろしくー』
『じゃスイッチ』
それで千里はもうトレセンの自分の部屋にいる。すぐにユニフォームに着替えバッシュを履いて練習場に向かった。
「おお、来たか。15分遅れてきたからコート15周」
と篠原監督が笑顔で言うので、千里は
「はい」
と言って走り始めた。
一方千里と入れ替わりで大阪に来た《きーちゃん》は空いている病室で待機している《びゃくちゃん》《りくちゃん》と合流した。
千里はその日27日は練習を続けながら時々青葉とメール交換して様子を確認していた。産まれそうなのに産まれないという状態がずっと続いているらしい。なお千里の専任ドライバーの矢鳴さんは大阪までエルグランドを持って行った後、向こうで少し仮眠してからフリードスパイクで病院に行ってみたものの、千里が既に東京に戻ったことを知り、そのまま静岡まで走って福田さんに車を返却してから新幹線で東京に戻った。
「眠っていてすみません」と矢鳴さん。
「こちらこそ連絡してなくて済みません」と千里。
(大阪にはエルグランドと佐良さんが残っている)
その日の練習が20時すぎに終わり、部屋に戻って汗を流し少し休んでいたら冬子から電話が掛かってきた。千里は状況を説明した。その後、22時頃、青葉から《赤ちゃんがやっと産道に進み始めた》という連絡がある。千里はホッとして、それを冬子にもメールした。ところがその後青葉から《赤ちゃん子宮に戻っちゃった》という連絡がある。うっそ〜!?と思いながらも、それをまた冬子に連絡した。
23時すぎ、思わぬ人から電話が入る。
「理歌ちゃん、久しぶり!」
それは貴司の妹の理歌であった。彼女は玲羅と同学年で、今年の春札幌の大学を卒業し、そのまま札幌市内の企業に就職している。
「千里さんに訊くのは筋違いなのは承知なんだけど、阿倍子さんのお産、どうなっているか聞いてません? 兄貴に電話するんだけど、全然要領を得なくて」
「まあ男はお産のこと分からないよね」
「あ、そんな感じなんですよ!」
それで千里は自分の義理の妹の青葉という子が病院に詰めているので、詳細な状況は青葉に聞いて欲しいと言って電話番号を教えた。
「それどういうことで義理の妹になってるんですか?」
「この子、大船渡で被災した震災孤児なんだよ」
「わあ・・・」
「震災で両親、祖父母、お姉さんを一気に亡くした」
「きゃあ」
「それで途方に暮れていたのを、ちょっと縁があって私と親友の桃香って子で保護して。それで私と桃香がその子のお姉さんになってあげたんだよ」
「なるほどー」
「法的にも、桃香のお母さんが後見人になってくれて、それでそちらの実家の富山県で暮らしているんだ」
「へー」
「それで実はこの子、MTFなんだよね」
「あぁ」
「そして物凄い霊的なパワーの持ち主。たぶん日本で五指に入る霊能者」
「それ、二重の意味で千里さんと引かれ合ったんじゃないんですか?」
「そんな気もするんだよねー。ちなみに既に性転換手術済みだから」
「何歳なんですか?」
「18歳」
「それで手術済みって凄いですね」
「実は15歳の時に手術した」
「よくしてくれましたね!」
「特例中の特例の超特例で認可が下りたんだよ」
「へー」
「それでこの子、ヒーリングの達人でさ。死にかけた病人の自然快復力を刺激してこれまで何人も助けたことあるんだよ」
「それは凄い」
「それでそばに置いて阿倍子さんのサポートをさせている。あの人、そもそも妊娠維持能力も出産能力も皆無って感じでさ、ここだけの話」
「うーん・・・それ、もしかして帝王切開した方がよくないですか?」
「そうなんだよねぇ。もう丸1日だし。ただ、今にも出てきそうな雰囲気なんで現時点では帝王切開を選択する条件を満たしてないらしい」
「私、行った方がいいですかね?」
「来てくれると物凄く助かる。女性の若い親族が誰も居ないんだ。私は東京で日本代表の合宿中で行けないし。そもそも私がそばにいたら阿倍子さん不愉快だろうし」
「明日にも大阪に行くことにしますよ」
「ごめんねー」
0時を過ぎたところで動きがあった。
あまりにも状況が進まないので、とうとう医師が帝王切開を提案したのである。阿倍子さん本人も、もうそれでいいと言い、貴司も同意したのだが、そのことを名古屋で入院中の阿倍子さんのお母さんに連絡したら反対だというのである。
「あの子、以前盲腸の手術した時にも、単純な手術のはずなのに、血圧とかが急低下して死にかけたんです。盲腸より大変そうな帝王切開なんかしたら本当に死にかねません」
それで医者が電話で再度お母さんに状況を説明して説得しようとしたものの、お母さんは頑固である。それでいったん電話を切ってどうするか向こうで相談する。その件で青葉から電話が掛かってきたので、千里は貴司と直接電話で話した。
「理歌ちゃんがさ、サポートに明日そちらに行くってのは聞いた?」
「あ、そうなんだっけ?」
理歌は貴司に連絡したはずなのだが、ちゃんと話を聞いてないのだろう。
「今思いついたんだけど、理歌ちゃんに名古屋に行ってもらってお母さんをそちらに連れて行ってもらったらどうだろう? 電話ではなかなか伝わらないし、阿倍子さんの状況も実際に見せた方がいいと思うんだよ」
「でも動かせるんだっけ?」
「誰か知り合いの看護婦さんにでも付き添わせるよ」
「あ、だったら何とかなるかな」
それで千里は深夜申し訳無いとは思ったのだが、バスケ関係の知り合いで、看護師の資格を持っており、名古屋のクラブチームに所属している白子奈香さんという人にメールしてみた。幸いにもまだ起きていたようで電話してくれる。それで千里は再度こちらから電話を掛け直した上で、状況を話し、申し訳ないがその難産で苦しんでいる最中の自分の友人のお母さんが入院中の名古屋の病院から大阪の病院まで付き添ってもらえないかと頼んでみた。
「お母さんの病状は?」
「実は私も詳しく聞いてないんだよ。友人に聞いても要領を得なくて」
「ちょっとその病院の連絡先教えてくれない? 私が直接聞いてみる」
それで白子さんは直接、阿倍子さんのお母さんが入院している病院に電話してみた。それで千里に再度電話が掛かってくる。
「今の状態だったらひとりで外出しても大丈夫のはずと病院の説明」
「あ、そうなんだ!」
「実は退院してもいいくらいなんだけど、退院させた場合に、面倒を見られる人が居ないので退院させられないんだって」
「むむむ。何て困った親子なんだ」
名古屋の病院を選んだのは元々このお母さんの出身地で病院にも知り合いの医師がいたかららしい。ただ彼女の実家には70歳をすぎたお姉さんがいるだけで、その人は歩行にも困難があるので、とても病人の面倒は見られないという話であった。
「だから私が付いて大阪まで連れて行くのは問題無いと思う」
「ありがとう。それ明日というか、今日だけど頼める?」
「うん。休みだし試合も無いから大丈夫だよ」
それであらためて理歌に電話して、明日の飛び先を大阪ではなく名古屋にして欲しいと伝えた。
「分かりました。看護婦さんも付いてくれるなら安心。その看護婦さんの連絡先を教えて下さい」
ということで理歌と白子さんで直接話してもらい、その結果を貴司にあらためて伝えた。
ここまで終わったのは既に2時である!
むろん明日も厳しい合宿の練習が待っている。千里は「寝る!」と宣言してベッドに入り熟睡した。
そして6月28日朝、千里は7時に起きた。普段ならもっと早く起きるのだが、合宿がかなりハードな上にあれこれ交渉事をしているし、実は合宿終了後や休憩時間中には青葉にパワーを送ってあげているので、無茶苦茶消耗しているのである。
冬子からメールがあるので状況を簡単に説明するメールを送る。直接電話が掛かってくるので、貴司の妹がお母さんを大阪に連れて行って直接説得するために名古屋に向かっている最中であることを説明した。
理歌は新千歳を朝1番のセントレア行きに乗り、11時半頃に阿倍子さんのお母さんが入院している病院に辿り着いた。白子さんと合流し、外出の手続きを取って、レンタルした車椅子に乗せ、大阪に向かう。3人が阿倍子さんのいる病院に辿り着いたのはもう14時頃であった。
それでお母さんに、一進一退の状況が続いて疲れ果て、もう意識が半ば飛んでいる阿倍子さんを見せ、お医者さんがお母さんを説得する。お母さんはそれでもかなり抵抗したものの、1時間近い説得で、とうとう帝王切開を行うことに同意した。
同意書に貴司と連名でサインする。
それで病院では手術のための準備を始めた。
千里はこの日朝からかなりイライラしていた。京平には事前にちゃんと面倒を掛けずに出て来いと言っていたのに、既に産気づいてから1日半が経過している。いったい何やってんだ?出て来方が分からないわけでも無いだろうに。
それで15時で練習がいったん休憩になったところで《きーちゃん》に頼んで位置を交換してもらった。
それで千里は阿倍子さんの入院している病院に来る。じっと目を瞑って京平の気配を探す。あ、居るじゃん!
どうも京平は病院内をあちこち探訪して回っている感じなのである。何遊んでるんだ?こいつは。
千里は怒った顔をして、京平が居た1階別棟のMRI室ロビーに行った。京平はまるで患者の連れか何かのような顔をして、アンパンマンの本を見ていた。
「京平、何やってんの?」
「あ、お母ちゃん」
「あんた、泳次郎様から26日に出て行くように言われたんでしょ? もう28日だよ。なんで出て来ないのさ?」
「お母ちゃん、話が違うよー。お母ちゃんが僕を産んでくれると思ったのに、よく見たら知らない人なんだもん」
「阿倍子さんが産んでも京平は私の子供なんだよ」
「僕、お母ちゃんから産まれたいよ」
千里は悩んだ。確かに私が産んであげたかったけどね。私が産むと世間が大騒ぎになってしまうからなあ。自分の性別問題は常にバスケ協会のコントロール下にあり定期的な検査を受けている。ホルモンバランスなどにも常に気を配っている。しかしここは何とか京平を説得しなければならない。
そこで千里はとっておきの秘密を京平に教えた。これは本当は誰にも言ってはいけないと言われていたことなのである。
「え〜〜!? そうだったの?」
「だから安心して阿倍子さんから産まれておいでよ。それでも私が産んだことになるんだよ」
と千里は笑顔で言った。
「じゃ仕方ないな。出て行くか」
「うん」
「でも取り敢えず僕、阿倍子さんの子供ということになるんでしょ?」
「まあそれは日本の法律の上では仕方ないね」
「阿倍子さんのこともお母さんと呼ばないといけないの?」
「そうだねー。じゃ、私がお母さんだから、阿倍子さんのことはママと呼んであげたら」
「あ、それならいいな」
「じゃ、今すぐ産まれてきてよね。これ以上ぐずぐずしてたら、京平が産まれてきたところで、おちんちん切って女の子にしちゃうから」
などと言って千里は京平のお股に手をやっておちんちんを掴む。
「え〜?それ嫌だ〜」
と京平は言って、千里の手を振り払おうとするものの、シューターの握力には勝てない。そして掴まれているのでその刺激で京平のおちんちんは大きくなってしまう。うふふ。さすが貴司の息子だね。反応が早いのはそっくり、などと千里は思った。(別に親子でなくても、男の子のおちんちんはすぐ大きくなるものなのだが、そのあたりの知識が千里は弱い)
「じゃ約束する。でもお母ちゃん、お願い」
「何?」
「僕が産まれたら、お母ちゃん、最初に僕を抱いてよ」
「まあいいや、それは何とかするよ」
「うん」
「抱いたついでにおちんちん切ってあげてもいいけど」
「それは切らないでー」
それで千里が微笑んで京平のおちんちんから手を離すと、京平はバイバイをして走って産科の方に行った。千里はその背中を愛おしい表情で見守った。次、京平と普通に会話できるのは3−4年後かな。それまでいい子してろよ。
阿倍子さんが分娩室から手術室へ移動される。本人はもうほとんど意識が無いに近い。青葉が、そして青葉にも気づかれないように《びゃくちゃん》も必死で彼女の体調の維持を掛けているのだが、それでも体力的にはもう限界に近づいている。
麻酔科医が背中のやや下の方に注射針を刺して麻酔薬を投入する。やがてお腹の付近より下の感覚が無くなる。
数分待ってから医師が阿倍子に訊く。
「このあたり感覚ありますか?」
阿倍子は首を振る。
「じゃ大丈夫ですね」
それで医師がメスを入れようとした時のことであった。
「先生待ってください」
と付き添っている助産師が言った。
「あれ?」
「これは?」
「赤ちゃん、これ産道に移動し始めましたよ」
医師は焦った。帝王切開というのは、胎児が子宮内にいることが前提の施術である。しかし産道に移動してしまうと、子宮を切り開いても胎児を取り出すことはできない。
「これ少し様子を見よう」
ということになり、医師たちはとりあえず状況を見守る。助産師が母親の手を握り
「阿倍子さん、頑張って」
と励ます。
「誰か親族を呼んでこよう」
何かの時のために手術室の外に理歌が手術衣も着用して待機しているのである。
「ご親族の方、ちょっと入って下さい」
と看護師が言うので、理歌は緊張して中に入る。手術中に呼ばれるというのは概して良くない兆候だ。しかし理歌は自然分娩が始まってしまったと聞き、驚いた。
なおこの時、場が混乱していたので、手術衣を着た人物が2人入って来たことに誰も疑問を感じなかった。理歌は自分と一緒に入ったのは看護師か助産師だと思っているし、手術室内に居たスタッフは入って来たのは2人とも親族だと思ったのである。大きなマスクで顔を覆っているので人相などは分からないし、緊張した現場ではいちいちそこにいるのが誰かという吟味までしない。
それで今手術室に入ってきた2人が阿倍子の手を握り、助産師はお腹のマッサージをして出産をサポートする。
そして、赤ちゃんは、産道に移動し始めてから医師たちも驚くほどの速度で、あっという間に産まれてきたのである。会陰切開をする間もなかった。
「オギャー、オギャー」
という元気な声が聞こえる。
医師が時計を見ると15:30:00ジャストであった。
「阿倍子さん、産まれましたよ、男の子ですよ」
と助産師が声を掛ける。阿倍子は赤ちゃんの泣き声を聞き、嬉しそうな顔をして、そのまま気を失いそうな雰囲気である。へその緒にクリップを付け、その挟まれた場所を助産師が切断。泣いている赤ちゃんをまずは親族の女性(と助産師が思っていた人)に手渡した。彼女は赤ちゃんを愛おしそうに撫で、ついでに小さなおちんちんを人差し指と中指でチョキンとするような動作をする。赤ちゃんがギクッとしたような表情をした。それでその人物は赤ちゃんを更に理歌に手渡す。理歌も笑顔で赤ちゃんを撫でて、理歌までおちんちんを少しいじってから阿倍子に抱かせた。
もっとも阿倍子は赤ちゃんを抱く力が残っていないので抱くというより触っただけという感じ(赤ちゃんの身体は理歌が支えている)であったが、物凄く嬉しそうだ。看護師さんが写真撮影をしてくれる。そして阿倍子はそのまま気を失ってしまうので、医師たちは阿倍子のバイタルをチェックしながら、子宮収縮剤を投与し、胎盤が出てくるのを待って処置をした。
千里は京平が誕生した後、更に混乱している現場で人の出入りがあるのを利用して巧みに外に出て、別室で手術衣を脱ぎ、普段着に戻った。そしてそっと1階に降りて、トイレに行き、大きく息をついた。さすがに疲れたのでしばしボーっとしていた。やがて独り言を言う。
「疲れた〜。でも京平、ちゃんと約束を守ったぞ。あんたを最初に抱いたのは私だからね。あとは頑張って成長しろよ」
それで水を流して個室を出、手を洗って外に出る。玄関の方に行こうとしていたら、阿倍子さん担当の助産師さんとバッタリ遭遇する。へその緒を切ってくれた人である。きゃー。私が手術室に居たこと、この人、気づかなかったよね?と思ったのだが、彼女はそれには気づいてないようである。
「あ、細川さんのお友達でしたよね」
と彼女はニコニコと話しかけてきた。
「はい」
「今、阿倍子さん、赤ちゃん産んだんですよ」
「ほんとですか! いや時間が掛かっているみたいだからどうなってるんだろうと思って来てみた所だったんですよ」
「もうすぐ病室に戻るはずですから」
「ありがとうございます」
「いや帝王切開にしようと言って、手術室に運び込んで麻酔も掛けたんですが、その途端、突然、自然分娩が始まってしまって」
「へー」
「結果的にはあっという間に出てきました」
「男の子ですか?女の子ですか?」
「男の子でした。可愛いおちんちん付いてましたよ」
「じゃ事前の診断通りですね」
「ええ」
「じゃ病室の方に行ってみます。ありがとうございました」
と言った時、千里は目の端で冬子と政子がこちらにやってくるのを見た。やばい!
それで千里は助産師に御礼をして、そのままさっきのトイレの方に逆戻りする。そして冬子たちから死角になったところで《きーちゃん》とチェンジした。こちらは既に練習が始まっていて、本物の千里みたいな動きのできない《きーちゃん》が
「こら村山、どうした?疲れたのか?」
などと言われているところであった。
「頑張ります!」
と千里は答えてプレイを続けた。
一方の《きーちゃん》は「練習きつかった〜。千里、遅すぎ」と文句を言いながら、トイレのドアの前ですっと姿を消し、《びゃくちゃん》たちが待機している空き病室の方に移動した。
青葉は27日の朝病院に到着してから、28日の15時前に阿倍子さんが手術室に運ばれていくまで、何度かの仮眠をはさみはしたものの、ほぼ1日半にわたって彼女にパワーを送り続け、くたくたに疲れていた。
正直、彼女が手術室に運び込まれた後、さすがの疲労でウトウトとしていたのである。ところが15:45頃、手術室まで付き添うのに行っていた理歌さんが戻って来て
「生まれましたよ、母子共に元気」
と言うので、病室内に居た、貴司さんもお母さんも、付き添っていた白子さんも嬉しそうな歓声をあげた。
この時点で誰もまさか赤ちゃんが自然分娩で産まれたとは思いもしていない。青葉もどっとこれまでの疲れが出たものの、ホッとして心底「良かったぁ」と思った。そしてすぐ東京にいる千里にメールを送った。
阿倍子さん本人もすぐ戻って来ますよと理歌さんが言っていたので、それをみんなで待つ。やがて眠っている阿倍子さんがスタッフの押すストレッチャーで戻って来てベッドに寝せられる。
「じゃ赤ちゃん見に行こうか」
などと言っていた時、冬子と政子が入って来た。
「あ、唐本さん、さっき赤ちゃん産まれたんですよ」
と貴司さんが冬子たちに言った。お母さんが「どなた?」と訊くので、阿倍子さんが産気付いたまま動けずにいたのを発見して病院に連れて行ってくれた人と貴司さんは説明した。
まあ、ちー姉の友だちなんてのはさすがに言えないよね。
冬子は青葉がかなり消耗しているのを見て
「少しどこかで寝てなさい」
と言い、それで結局、青葉は病院の駐車場に駐めているエルグランドの車内で寝ることにし、また同様に疲れているはずの佐良さんが車内にいるはずなのでホテルに移って少し休んでくれるように伝言を頼まれた。
この時点で冬子は明日東京に戻るつもりだったのである。
それで青葉はエルグランドの車内で毛布をかぶって、ほんとに熟睡していたのだが、やがて窓をドンドンと強く打つ音に目を覚ます。冬子である。
「青葉ごめん。奥さんが突然血圧とか脈拍が低下して」
「え〜〜!?」
それで青葉はまだ疲れが全然取れていないものの、冬子と一緒に病室に行った。医師が懸命の手当をしているが、青葉の目では「ご臨終間近」という雰囲気に見える。これはものすごくまずい!
それで青葉はくたくたな身体に鞭打って阿倍子さんに気を送り始めた。時計を見る。今17時だ。18時くらいになったら、たぶんちー姉が小休憩するはず。そしたら話してパワーをもらおうと思いながら、それまでは何とかしなければと頑張る。
しかし状況は改善されない。
青葉はここ2日ほどは病院で目立たないように単純に阿倍子さんの傍に居て、そこからリモートヒーリングでもするかのように気を送っていたのだが、ここはもうなりふり構っていられなかった。ローズクォーツの数珠を持ち、小声で祝詞を唱えながら気を送り続ける。これはもう直接注入に近いやり方である。青葉が何か唱えてるので、医師がチラっと青葉を見たものの咎めなかった。医師もここで何か言う余裕も無いというところだろう。
17時半頃。青葉の脳内に『どうしたの?』というテレパシーの着信がある。ちー姉だ!それで青葉は『阿倍子さんが急変した。ちー姉、パワー貸してよ』と語りかける。『使って』という答えが返ってきたら、突然青葉の数珠を通して流れ出る気のパワーが上がった。
『わっ』
と思わず心の中で叫んだものの、それでパワーを送り続けていると阿倍子さんの様子が明らかに変わった。それまで死人のように青ざめた顔をしていたのが頬に赤みがさす。
「先生、脈拍が40まで上がりました」
「血圧が50まで上がりました」
「体温が35度まで上昇しました」
「よし、この処置続けるぞ」
と医師もやっと希望が出たという顔をする。
そして青葉がどんどんパワーを送り続ける内に、脈拍は50,60,70と回復し、血圧も60,70,80と回復する。体温も35.8度まで上がる。
「峠は越えた」
「ここまでくれば大丈夫だ」
と医師が言ったのは18時過ぎであった。
千里は18時過ぎになるとどうも練習を再開したようで流れてくるパワーが下がった。それで青葉は『練習再開したよね?後でまた貸して』と千里に語りかけると、数珠を通しての流入は停まった。しかしここまで来ればこちらも大丈夫なので、青葉は通常モードで、祝詞も声には出さず心の中で唱えるだけでヒーリングを続けた。そして医師たちも18時半には
「もう安定しましたね」
「もし様子が変だったらすぐナースコールして下さい」
と言って病室から引き上げた。
緊張の2時間であった。
その後で突然、阿倍子さんのお母さんが言った。
「すみません。どちらの宗派の方ですか。私、入信します」
青葉が数珠を握ってずっと何か唱えていたので、どこかの宗教をしているのかと思われたのだろう。それで青葉は無理矢理笑顔を作って答えた。
「うちは勧誘とかはしてないんですよ。御自宅の仏檀や神棚、あるいはどこかのお寺の檀家か神社の氏子になっておられましたら、そちらの寺で念仏なり祝詞でも唱えてきてください。自分とこの神様・仏様を敬うのがいちばん大事ですから」
もう大丈夫そうということで、その場にいた人の多くがホッとするとともに疲れが出たようである。
冬子がトイレにでもいくのか席を外し、政子は「何か食べてくる」と言って出ていく。阿倍子さんのお母さんは、病院が開いている病室で休んでもいいですよと言ってもらい、看護師さんが案内して白子さんと一緒に移動した。貴司さんも少し休んでくると言って出て行った。
やがて冬子が戻ってきたが、その時、唐突に阿倍子さんは語り始めた。前の結婚をした時も、どうにも妊娠しにくく、体外受精も試みたもののうまく行かなかったこと。そもそも中学生の頃からひどい生理不順であったこと。ところが貴司と結婚した時に夢を見たというのである。
「何か凄く気高い女神様みたいな人が現れて『子供を産みたいか?』と言うんですよね。それで私が『はい』と答えると『だったら取引しないか?』と言うんです」
「取引ですか?」
「自分の子供ではない子を1人産んで欲しい。そしたら、自分自身の子供も産めるようにしてやると。でも私は答えたんです。私が産むのなら、その子は私の子供ですって」
青葉はこれは本当に「誰か」がこの人に取引を持ちかけたんだと思った。それって・・・きっとちー姉の関係者だ!
「するとその女神様は微笑んで、だったらその子も含めて私は3人子供を産むことになるだろうと」
そして阿倍子さんは、今回産んだ子供の卵子は実は自分のものではないことを語った。それはむろん青葉の知るところである。貴司さんの精子と誰かの卵子を掛け合わせたものということだったが、もう青葉はほぼ確信的に、その卵子はちー姉のものだと思った。どうやってちー姉が卵子を作ることができたのかは分からないが。
「でもこの子、自分の遺伝子は受け継いでなくても私が産んだ子だもん。戸籍にもちゃんと私の実子として載るはずだし、私可愛がって育てていきます」
と阿倍子さんは言う。
青葉も冬子も笑顔で頷いた。
「そして次は自然妊娠できるかも知れないなあ」
などと彼女は言ったが、青葉はきっとそうなるだろうと思った。
でも今回帝王切開してしまった以上、この後もお産の度に帝王切開にならざるを得ない。その度にまた血圧急低下などしないかと少し心配になった(この時点でまだ青葉は京平が帝王切開で産まれてきたと思い込んでいる)。
この人ってたぶん妊娠機能もそうだけど、身体の基礎的な機能自体に問題があるのだろう。でも「女神様」はそのあたりも改良してくれるのかな?などと青葉は思った。
青葉はもう大阪でもう1泊してから帰るのでいいと思ったし、今夜はさすがにホテルで寝たいと思ったのだが、自分だけ食事して戻って来た政子が
「今夜帰りたい」
と言い出す。なんでも
「明日の朝の**テレビにアクアちゃんが出演するのよ。可愛い服を着せられそうで恥ずかしい、なんて言ってたから、どんな服を着せられるのか見なくちゃ」
という話なのである。そして政子は言い始めたら強引である。勝手に佐良さんを電話で呼び出して、東京まで送ってくれと言う。更に青葉も一緒に東京まで乗っていきなさいと言い出す。それで佐良さんは時刻表やカーナビなどをチェックして「長野経由で帰りましょう」と提案する。
東名を走って帰るのではなく中央道経由にして、青葉を長野駅前に置いて行くというのである。それで青葉は始発の新幹線で帰ると、なんと新高岡に7:24に着くというのである。青葉もそんな時刻に高岡に戻ることができるというのは驚きであった。北陸新幹線凄い!
青葉は千里と電話で連絡を取り、白子さんに渡す謝礼+交通費・諸経費の額を確認、千里から預かった現金からそれを封筒に取り分けて、阿倍子さんのお母さんが入っている病室に行き、仮眠用ベッドで横になっていた白子さんにその封筒を千里姉から頼まれましたと言って渡した。
その間に佐良さんは大阪支社から柴田さんというドライバーを呼び出していた。エルグランドに取り敢えず冬子・政子・青葉が乗って佐良さんが運転して出発するが、茨木駅で柴田さんと合流。その後はふたりで交代で運転していった。。青葉はさすがに車内で眠らせてもらっていた。
深夜2時過ぎに長野駅そばのホテルの前で車が停まる。冬子が予約してくれていたので、青葉はフロントで「予約していた川上」と名乗り、部屋の鍵をもらって中に入り、シャワーも浴びずにベッドに潜り込んで熟睡した。
(29日)朝5時半に目が覚める。本当は5時に起きたかったのだが、『雪娘』や『蟋蟀』に最後は『海坊主』なども一緒になって青葉を起こそうとしたものの起きなかったらしい。よほど疲れていたんだろうなと青葉は自分のことながら思う。それでホテルをチェックアウトして、コンビニでおにぎりとお茶を買い、新幹線に乗った。新幹線の中でもひたすら寝ていたが、新高岡では寝過ごさずにちゃんと下車することができた。
母が鞄を持って迎えに来てくれていたので、青葉はそのまま学校に出て行くことができた。
でも私、自分のスケジュールも無茶苦茶だけど、お母ちゃんにも随分負担掛けてるよなあ、などと思う。早く免許取らなくちゃ!
同じ6月29日(月)の朝、千里もさすがに疲れたなあ、と思いながらNTCの食堂で朝御飯を食べていた。そこに電話が掛かってくるが、見るとインプの車検を頼んだ車屋さんである。
「はい、雨宮です」
と言って千里が電話を取るので、隣に居た玲央美がギョッとしている。
「雨宮様、すみません。何度かお電話したのですが、なかなか通じなくて」
「こちらこそすみません。色々立て込んでいたもので」
と答えながら、もしかしたら修理代がかなり高額になりそうということなのだろうかなどと考える。
「実は車検用の点検をする前に、トラブルの多いというエンジン回りをチェックしていたのですが、これもうエンジンがほとんど寿命ですよ」
「あらぁ」
「エンジンを交換するという手はありますが、他にもいろいろ傷んでいる所があるようですので、それらも交換していると、おそらく100万円くらいになるのではないかと思います」
ちょっと待て。この車、そもそも50万円で買った車だぞ。
「それでこれはもう修理も車検もせずに、新しい車をお買いになった方がいいのではないかと思いまして」
「そうですね!そうしましょうか」
それで千里はここまで掛かった実費を払うことを伝え、大会が終わったら引き取りに行くと言った。
あぁ。。。さすがに寿命かなあ。30万kmも走ったら限界だよね。それで千里はインプは車検の切れる8月上旬まで乗って、その後は新しい車を買うことを決めたのである。
青葉が大阪での疲れをかなり抱えながら学校に出て行った6月29日(月)の昼休み、青葉は職員室に呼ばれた。それで「ちょっと話そう」と言われて教頭先生と一緒に面談室に入る。
ありゃ〜、霊能者としての活動のことで少し注意されるかなと思ったのだが、そうではなくて、話は1年生の篠崎希のことであった。
「そちらの1年生部員の篠崎希君のことなんだけど、あの子最近随分校内で女子制服を着ているようだという話を何人かの先生から聞いたのだけど」
と教頭先生は切り出す。
それで希が女子制服を着て参加している合唱軽音部の今鏡先生に尋ねてみたら今鏡先生は、逆に希のことをてっきり女子生徒と思い込んでいたということでかえってびっくりしていたというのである。
「あの子、性同一性障害なんですよ。女の子になりたがっているんです」
と青葉は言った。
「ああ、やはりそうなのか。でもそういう子って結構いるものなのかね」
と教頭先生。
「私の経験から言うと、そういう傾向のある子ってだいたい『クラスに1人はいた』と言う人が多いんです。でもそういうのに気づいた子自身もたいてい、そういう傾向があるので、実はクラスに2人くらい、つまり男子20人に2人ですから10人に1人はいるんですよ」
「そんなに居るのか!」
と教頭先生はさすがに驚いている。
「私も時々、一部の男子生徒から熱い視線を感じることあるんですよね。それが恋愛的な視線じゃなくて、羨ましがってるふうの視線なんです」
「自分も女の子になりたい、ということなんだ!」
「そうみたいなんですよ」
篠崎希の件は、本人やそのお姉さんの萌にも一度話を聞いてみたいとは思っていたものの、その前に周囲に少し話を聞いて情報を集めたいということで、部長の青葉に聞いてみたという趣旨であった。
「彼女の場合、中学時代は下着は男物着たり女物着たりしていたらしいです。でも高校に入ってからはもう女物の下着しか着けてないと言ってました。お年玉とかもらったのを全部そういうの買うのに注ぎ込んでいたみたいです。それで今あの子、朝自宅から女子制服で学校に出てきて、授業開始前に男子制服に着替え、授業が終わると女子制服に戻って部活に来てるんですよ。そしてその格好で帰宅してるんです」
「じゃ、ご両親にも認められているんだ?」
「いや、それがどうも微妙みたいで。お父さんは彼女の性別のこと知らないかもと言ってました。お母さんは何も言わずに現在は黙認あるいは黙殺している感じらしいんです」」
「うーん。。。僕も自分の息子がいつの間にか女の子になっていても、そんなこと思いもよらないかも知れないなあ」
「ただお姉さんがこの春にちょっとあった事件で彼女のことを明確に認識するようになったので、その後いろいろ協力してあげているみたいです。日曜日にスカート穿かせて一緒に姉妹として外出したりしてるみたいですよ」
「お姉さんって3年生の萌君だよね?」
「そうです」
「やはり萌君と先に話してみるか」
「それはいいと思います。でも親御さんと話をするのはもう少し待ってあげたほうがいいと私は思います。今の段階で親を学校に呼んだら、お父さんから女装禁止とか言われかねないですよ」
「分かった。じゃ、その付近はしばらくは学校側も黙認体制で行こうかね」
と教頭先生は言ったあとで、ふと気づいたように言った。
「この子、下着は女の子のをつけてるの?」
「はい、そうです。男物の下着はもう捨てちゃったと言ってました」
「だったら体育の時間の着替えとかまずいんじゃない?」
「男子更衣室の隅で急いで着替えてるそうですよ。他の男子も彼女の方は見ないように気をつけてあげているみたいです」
「その状況はやばいよね?」
「もし良かったら何か配慮してあげられましたら」
「ラグビーとかもひょっとしてまずい?」
「春から体育の授業ではバスケットしていたようですが、うちの部の1年生男子に聞くと、彼女と身体の接触が生じないようにみんな気をつけてると言ってました。ファウルした時に触った感触がまるで女の子だったというんですよ。今のままだと身体の接触を避けようとして逆に怪我とかしたらまずいと思います」
「それはちょっと体育の授業自体考える必要があるかも知れないね。取り敢えず着替えについては、個室で着替えさせるか何か、ちょっと担任の先生や体育の先生と話してみるよ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
千里たちユニバーシアード代表のNTCでの合宿は7月1日まで続き、2日朝には成田から韓国に旅出った。成田から仁川(インチョン)まで飛行機で飛んだ後、韓国の高速鉄道KTXで光州(クァンジュ)に入る。宿舎に入った後、午後からは現地の指定された練習場所で汗を流した。
そして7月3日には同じくユニバーシアードに参加するカナダチームと練習試合をおこなった。一応日本は予選Cグループ、カナダはAグループで決勝トーナメントでしか当たらないのだが、カナダの決勝トーナメント進出は確実だし、日本が最近かなり力を付けてきていることはカナダ側も意識しているので、実際にトーナメントで当たるかも知れないという思惑から、お互い様子見という感じの試合になった。
ただ体格的に優位に立つはずのカナダ選手たちにも、王子は全くひけをとらない活躍をしたし、この試合に敢えて欠場した千里に代わってシューターを務めた晴鹿も巧みに相手ブロックをかいくぐってスリーを大量に放り込み、日本側のスタッフを安心させた(当然このふたりはカナダ側には要注意とマークされたはずである)。逆に絵津子・純子・絵理の中核フォワード・トリオはカナダの体格の良いフォワード陣に全く歯が立たず、大きな課題を残した。3人はその日かなり遅くまで3人だけで練習をしていたようである。
さてこの光州では昨年夏、アジア大会が行われたが凄まじい不手際の連続で2018年に予定されている平昌(ピョンチャン)冬季五輪は大丈夫か?という不安の声があがった。弁当からサルモネラ菌が検出されるわ、会場で着替える場所がなく選手たちが衆人の前で着替えることになるわ、宿舎のエアコンは作動しないわ、エレベータが停まっていて選手が22階まで階段で往復するハメになるわ、ほんとうに酷かったのである。バドミントンの試合で空調が不調でオンオフを繰り返した(韓国側談)のが韓国に有利になるように風を調整していたのではという疑惑を呼んだりもした。
それでさすがに韓国側も今回のユニバーシアードでは頑張ったようであった。また韓国は現在MERS(中東呼吸器症候群)の患者が拡大して政治問題化していたこともあり、ユニバーシアードで感染者が出てはと韓国側もかなり神経を使い医療スタッフを大量に動員していたようであったし、また各国選手団も韓国側の対応を信用せず各々自己防衛にも務めていたようである。
日本選手団も生水・生ものの飲食禁止の他、外出禁止令、他国選手との交流も最小限にすることなどが通達された。食事も少しでも変に思ったら食べないことと、それをすぐ言って、他の選手が気づかずに食べてしまう事故を防ごうなどとチーム代表から言われた。
なおバスケットの女子チームは開幕直前の2日に韓国に来たのであるが男子は実は千里たちの合宿が始まる直前に先にNTCの合宿をした上で6月19日に海外合宿が解禁された直後韓国に渡り、他国とのプレマッチをしていた。結果的にはその男子チームのスタッフから色々と情報をもらって、選手の安全管理に関する対策を取ったようであった。
一方、青葉は7月1日(水)から期末試験が始まっていた。
青葉は中学時代はどちらかというと学校の日程より霊能者の仕事の方を優先するかのような生活を送っていたのだが、高校に入った時に桃香が大船渡で青葉の仕事を取りまとめてくれている佐竹慶子、高岡で仕事をとりまとめてくれている水口詩子さんと話し合い、少なくとも高校在学中は学業絶対優先にさせてくれと申し入れた。それで基本的に相談事についてもお断りすることになってはいたものの、まあ結構いろいろしたよなと青葉は思った。
それでも中学時代は月に2回大船渡に行っていたのが、高校に入ってからはかなり頻度を落としている。ただ、その分処理した案件は、やたらと大物が多かった気もするのである。
最近では、源義経さん、七尾城攻防戦、ノロの継承式とやってキリストさんにモーゼさんにお釈迦様とやったからなあと苦笑する。
さすがにそのあたりまでやったら、その路線は終わりじゃないかという気もする。こちらも身が持たない!
期末試験の間は部活も禁止なので、青葉が合唱軽音部の練習に出て行ったのは7月7日(火)であった。すると希が何だか嬉しそうな顔で他の1年生女子たちと話しているので
「どうかしたの?」
と聞くと
「先生から授業中も女子制服着てていいよと言ってもらったんです」
と希は言っている。
「良かったね!」
「それで期末試験中はずっと女子制服でテスト受けたんですよ。トイレも女子制服とか体操服とか着ている時は女子トイレ使ってもいいよと言われました」
うちの高校の体操服は基本的に男女の差は無い。ジャージの下に穿く短パンが、男子はショートパンツ、女子はハーフパンツであるくらいだ。ただ希は実は入学の時に誤魔化して女子用のハーフパンツを買ってもらい、これまでも体育の時間はずっとそれを穿いていたらしい。
「でもトイレはこれまでも女子トイレを使ってたんじゃないの?」
と青葉が言うと
「私たちが連れ込まないと恥ずかしがって使ってなかったんですよ」
と1年生女子。
「だけど女子制服を着て男子トイレは使えないでしょ?」
「痴漢は出て行けと言って追い出されました」
「当然」
「それで金曜日に実は母と話したんです」
「おお」
「母からは早まったことはしないようにというのと、自分の性別については高校在学中くらいゆっくりと考えればいいと言われました」
「うん、私もそうするといいと思うよ」
「男の子に戻りたくなったらいつでも遠慮せずに戻りなさいと言われたけど、絶対男の子になんか戻りたくないです」
「うん。まあ頑張りなよ」
「はい」
と希は嬉しそうに答えた。
なお希は頭髪検査も2学期からは女子の基準で検査すると言われたらしく、夏休みの間、髪を伸ばしますとも言っていた。彼女はこれまで「男子としては少し長すぎ」くらいの長さだったのだが、それでも女子制服を着ているとふつうに女子に見えてしまう。髪を伸ばすと、より自然になるだろうなと青葉は思った。
ユニバーシアード、初日の4日は男子のみ試合があり、男子はフィンランドに負けて黒星スタートとなった。
女子は5日が初戦であった。強豪のスウェーデンと対戦したが、千里や王子の活躍で51-71で勝利。女子は白星スタートとなった。5日は男子も台湾に勝ち、1勝1敗と星を戻した。
6日、女子は超強豪のロシアと対戦する。千里はU19の時ロシアと接戦を演じたことを思い出していた。あの時戦った選手も向こうには残っていた。それでロシアは徹底的に千里を封じる作戦で来た。千里もこれほど体格も技術もある選手とやるのは経験不足で、この試合では完璧にやられてしまった。もっともロシアは千里を封じるのに向こうのエースを使っていたので、結果的に4対4で試合をしていたようなものであった。
王子・彰恵・江美子などがかなり頑張ったものの、最終的に71-65で敗れてしまう。どちらも試合後座り込む選手が多数出る、本当に激しい試合であった。これで日本女子は1勝1敗である。
7日は女子はメキシコと対戦した。千里や彰恵たちの学年は昨日の疲れが完全には取れていないため、この日は絵津子・純子・絵理を中心とする運用をした。それでかなり競ったものの、最後は千里のスリーで逆転した後、彰恵のスティールから江美子が2点取って突き放し、64-68で勝利した。
この結果日本女子はグループCで2勝1敗、3勝のロシアに次ぐ2位で予選リーグを突破、決勝トーナメントに進出した。
なお男子は7日にオーストラリアに負け、8日にリトアニアに負け、9日にはフランスに負けてグループCで1勝4敗の5位、17-24位決定戦に回ることとなった。
7月8日(水)。昼休み。
プールそばの女子更衣室で
「おお、可愛い!」
という声があがり、希は恥ずかしそうに俯いた。
青葉が「監修」して、希に女子スクール水着を着せてあげたのである。
「質問!」
とひとりの女子が手をあげる。
「おっぱいがあるように見えるのですが」
「パッド入れてもらった」
「それ、泳いでいるうちに外れない?」
「水着用のパッドなんだよ。粘着式だから大丈夫」
と青葉は解説する。
「お股におちんちんが無いように見えるのですが」
「むしろ縦筋が見えるのですが」
「一時的に取り外しました。割れ目ちゃんはおまけです。おちんちんは冷凍保存しているから、放課後戻してあげます」
と青葉は言う。
実際には保健室のベッドを借りて接着剤タックをしてあげたのである。希はタックというもの自体は知っていたものの、何度かテープタックにトライしてもうまくできなかったということで、青葉がきれいに男性器を体内に「折りたたんで収納」してあげたのを見て「すごーい」と言って感動しているようであった。
「それ一時的じゃなくて、ずっと取り外しておけばいいのでは?」
という意見も出るが
「まだ完全な女の子になるのは、お母様の許可が下りないそうです」
と青葉は言っておいた。
そういう訳で、この日午後の水泳の授業に希は女子用スクール水着で参加したのである。体育の先生は希の女子水着姿にちょっと慌てたようであったが、急遽女子の体育の先生と話し合い、この日、希は女子たちと一緒のメニューをこなした。希は凄く嬉しそうに他の女子たちと一緒に練習していたそうである。
逆に男子の方からは、
「篠崎が男子用水泳パンツなんか穿いて出てきたら、俺、胸とかまともに見れないと思ってたから安心した」
などという声があがっていた。
結局希は夏休み突入までの水泳の授業をずっと女子として参加した。また随分と他の女子から「あちこち」触られていたようだが
「胸柔らかいね〜。本物みたい」
とか
「お股、ほんとにおちんちん付いてないね。やっぱり手術して取っちゃったの?」
などと言われていたようである。
しかし希は何を聞かれても恥ずかしそうに俯いていて「乙女みたいだ」などと言われていた。
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【春泳】(3)