【春泳】(2)

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病院の駐車場に冬子のリーフを駐め、5人で上の階にあがっていく。面接時間は過ぎているのだが、元々遅い時間に産まれたので、12時までなら御見舞いいいですよと言ってもらった。
 
小夜子はベッドに横になっていて、隣の小さなベッドで生まれたての赤ちゃんがスヤスヤと寝ている。
 
「可愛い!」
と政子が真っ先に声をあげた。
 
「自分で産みたい気分だったんだけどね。小夜子が私の分まで産んでくれると言うから」
などと、まだ色留袖を着たままの、あきらはよく分からないことを言っている。
 
「結局性別はどっちなんだっけ?」
と五十鈴が訊く。
 
「ちんちんは見当たらないから、そのあたりに落ちてなかったら女の子だと思う」
と小夜子は言っている。
 
「おちんちんって落ちてるもんなんだっけ?」
と政子が訊く。
 
「ああ、落ちてるの見たことはあるよ」
と小夜子。
 
「嘘!?」
 
「我が家にもよく落ちてるなあ」
と桃香が言うと、千里からド突かれていた。
 

「名前は決めた?」
「うん。ほたるにしようかと」
「可愛いね!」
「ひらがなね」
 
「名前はひらがな3文字で付けるのが、浜田家の流儀か」
「みなみ、ともか、ほたる」
 
「4人目はどうしようかな?」
と小夜子が言っている。
 
「やはりまだ子供作るんだ?」
 
「あきらがまだ射精能力残っているから、射精できる間は作るよ。まあ1年後くらいまで残っていたらの話だけど」
と小夜子。
 
「それかなり怪しい気がする」
「1年後にはもうおちんちん無くなってたりして」
「おちんちんは微妙だけど、タマタマは確実に無くなっていると思う」
とギャラリーからは声が出る。
 
「まあその時はこの子で打ち止めかな」
 
「何なら精液冷凍保存しておいたら?」
「それやると10人くらい欲しくなるから、自然の摂理に任せるよ」
「ふむふむ」
 

30分ほど病室で話していて、青葉はトイレに行きたくなったので病室を出る。青葉も既に振袖を脱いで高校の制服(セーラー服)に着替えている。それでトイレを探しながら廊下を歩いていたら、向こうから10歳くらいの男の子が走ってくるのを見る。
 
「君、廊下を走ってはいけないよ」
と注意してから、青葉は、あれ?この子、どこかで見たことがあると思った。
 
「ごめんなさい!おばちゃん」
 
おばちゃん!?? それって、それって、私のこと〜〜〜!????
 
青葉はあまりのショックでしばらく口が聞けなかった。
 
「あのねぇ、私高校生なんだよ。この制服が見えない?」
「あ、そういえば女子中学生みたいな服を着てるね」
「まあ女子高校生だけどね。まだ10代なんだから、おねえちゃんと言いなさい」
「はーい」
 
と男の子は無邪気に返事をする。青葉は気を取り直して訊く。
 
「君、でもかなり遅い時間だよ。お母さんか誰かと来たの?」
 
その子が病院着ではなくふつうの服を着ているので、青葉は入院患者ではなく見舞客なのだろうと判断した。
 
「お母さんがこの辺にいるみたいだから探してたの」
「お母さん、入院してるの?」
「入院ってよく分からないけど、さっきこの階に行ったよって泳次郎様が言ってたんだよ」
 
じゃ見舞客か? でもこの時間に見舞客って・・・・自分たちだったりして!?と考えた時に、青葉は唐突にこの子をどこで見たのか思い出した。
 
この子って・・・・春にちー姉のアパートを留守の時に勝手に訪問した時、『開けちゃダメよ〜ダメダメ』と書かれていた箱の中にあったアルバムに入っていた写真に写っていた男の子だ! それって多分・・・・
 
「坊やのお母さんって、千里さんでしょ?」
「うん! どうしてお姉ちゃん、知ってるの?」
「私、千里さんの妹なんだよ」
「へー!そうだったのか。あれ?だったら、お母さんの妹なら、僕のおばちゃん?」
 
ぐっ・・・・
 
それは確かにそうだ!
 
「そういうことになるかな」
「じゃ、やはりおばちゃんと言った方がいいの?」
「関係上は君のおばちゃんかも知れないけど、呼ぶ時はおねえさんとかおねえちゃんと呼びなさい」
「はーい」
 
まあ素直な子のようだ。
 
「ちなみに私は青葉。君の名前は?」
「僕は京平。青葉って可愛い名前だね、おねえちゃん」
「京平というのも格好いい名前だね」
「えへへ。お母ちゃんが付けてくれたんだよ」
 
青葉は目の前にいる京平を観察した。この子、おそらく精霊の類いなのだろうけど、存在感がかなり強烈である。この子の正体を知って初めて青葉はこの子が人間ではないことに気づいた。ひょっとしてちー姉が近くにいるから、それで更に存在感が強くなっているのだろうか? ちー姉って巨大なバッテリーだからなあ。
 
「でも君、もうすぐ産まれてくるんじゃないの? こんな所で何してるの?」
 
「なんかお母ちゃんが結婚式に出てたから、お母ちゃん結婚するのかなあと思って、ちょっと出てきた。でもお母ちゃん、巫女さんしてた」
 
「うん。千里姉ちゃんはとってもえらい巫女さんなんだよ」
「うんうん。泳次郎様も、この人すごいって褒めてたよ」
 
えいじろう・・・って誰だろう?? 先輩の精霊か何か??
 
「じゃ、ちょっとそこの自販機のある所で待っててくれる?お母さんを連れてくるから」
「ほんと? ありがとう、青葉お姉ちゃん」
 

それで青葉は病室に戻り、千里に声を掛けた。
 
「ちー姉、京平君が来てるよ。ロビーの所で待っているって」
 
すると千里は顔色ひとつ変えずに答えた。
「ありがとう、青葉。ちょっと行ってくるね」
 
それで千里は病室を出て行った。
 
「京平君って、千里のボーイフレンド?」
などと政子が訊く。
 
「違うよ。知り合いの子なんだよ。まだ小学生くらいだよ」
と青葉は答えた。もっとも心の中で「10年くらい先にはね」と付け加えた。
 
冬子や若葉が「ふーん」という感じの顔をしていた。
 

千里は病室を出るとロビーに行った。京平が自販機を眺めている。
 
「京平、今から帰るの?」
「うん。帰る前にお母ちゃんに会っていこうと思って。ね、ね、ここのジハンキって言うの? 中に並んでいるの、美味しそう」
 
「じゃ、どれか買ってあげるよ。どれがいい?」
「じゃ、これ」
 
と言って京平が指したのはQOOのオレンジである。それで千里はお金を入れて1個買ってあげた。
 
「これ甘くて美味しい!」
「まあ今度生まれて来てから、幼稚園か小学生くらいになったら、お母ちゃんに買ってもらうといいよ」
「うん、そーするー」
 
と言って京平はほんとに美味しそうにQOOを飲んだ。
 
「飲み終わったら、そこのゴミ箱に入れてね」
「はーい」
 
と言ってペットボトル入れに放り込む。
 
「そうそう。泳次郎様がお母ちゃんに会ってもいいって」
「ありがとう。どこで会える?」
 
「304号室が空いてたから、そこで待ってると言ってた」
「了解。京平はここで待ってて」
 
そう言ってから千里は心を引き締めて、304号室に向かった。
 

ノックをする。
 
「入って来られよ。ただし目は瞑っておいた方がよいと思うぞ」
「ありがとうございます。入ります」
 
と言って千里は目を瞑って部屋の中に入った。
 
「麿(まろ)に何か用か?」
 
それで千里は妹の知り合いの霊能者が稲荷神社のトラブルに関わっているということを言った上で、青葉から聞いた細かい経緯を話した。
 
「なるほど。その狐は麿が連れて帰ろう。伏見に戻れば次第に心も穏やかになっていくであろう」
「ありがとうございます」
 
「いつそこに行く?」
「そちら様のご都合の良い日に合わせます」
「では明日行こうか?」
 
「はい、それは助かります」
 
「これを渡しておく」
と言って泳次郎は千里の手に何か紙のようなものを握らせた。
 
「その場所でこの紙を使って麿を呼ぶが良い」
「ありがとうございます。よろしくお願いします。あのぉ」
「ん?」
 
「その場所には小さな物でもよいのでお稲荷さんを建てた方がよいのでしょうか?」
 
「必要無い。ただ、作った方がそこに居る者たちの心が落ち着くなら作ってもよい。あらためて伏見より勧請するがよい」
「分かりました。そう申し伝えます」
 
「ところでそなた、麿の尾は何本に見える?」
「え?9本あるように見えますが」
「あはは。やはり、そなた目を瞑っていてもちゃんと麿が見えているではないか」
「目を開けていても閉じていても、私の視界はそんなに変わりません」
 
「そんな気がした。じゃ、また明日」
「はい、よろしくお願いします」
 
「あ、そうそう。京平は26日にそちらに送るから、お世話よろしく」
「はい。頑張って育てます」
 
と答えてから千里は「へ?」と思う。26日〜? 予定日より2日早いのか!
 

それで304号室を出た千里は、ロビーにまだ居た京平に泳次郎様の所に戻るように言い、京平が向こうに走って行くのを見送ってから小夜子の病室に戻った。
 
そして青葉に、今泳次郎からもらった紙を渡した。
 
「お偉いさんに話が付いたから。明日、この紙を持って例の場所に行って」
「明日!?」
「私も付いて行くよ」
「うん。お願い!」
 
それで青葉はもう時刻は23時過ぎではあるが、火喜多高胤さんに電話をした。向こうは驚いていたが、明日現地に駆け付けると言い、明日の午後、F駅で落ち合うことにした。
 
「でも青葉、大会の直前なんでしょ?」
「うん。大会、頑張らないと何と言われるか分からない」
「まあどっちみち放課後は合唱の方の練習じゃないの?」
「本来はそうなんだけど、今週いっぱいは水泳部の方に放課後も顔出すことにしてたんだよ。今日だけが例外で」
「じゃ明日も例外で」
「仕方ないね。お偉いさんが動いてくれるなら、それに合わせなきゃ」
 

結局0時過ぎに全員で病院を退出した。遠くまで帰らなければならないのが千里・桃香・青葉(世田谷区)、冬子・政子・若葉(東京都H市)なので、話し合いの結果、小夜子のウィングロードを千里が借りることにして、あきらと五十鈴はタクシーで帰宅した。冬子・政子・若葉はリーフを冬子が運転して若葉を自宅に送り届けた後、政子の実家に入って泊まったらしい。都心の恵比寿まで行くよりは随分距離が近い。
 
そして千里は助手席に桃香・後部座席に青葉を乗せてウィングロードを運転して経堂の桃香のアパートまで帰った。
 
「眠い、もう寝よう寝よう」
と言ってそのまま3人とも布団を敷いて潜り込んだ。
 
翌6月18日。青葉が5時に目を覚ますと、既に千里が起きていて朝御飯を作っていたので青葉も手伝う。
 
「京平君も何とかここまで無事辿り着いたね。予定日は28日だったっけ?」
と青葉が言うと
「うん。ほんとにやっと、という感じだね。ただ予定日はあくまで予定だから少しずれるかも」
「確かにそれはあるね」
 
「でもほんと青葉に助けてもらわなかったらここまで来れなかったよ」
と千里は言う。
「けっこう何度かヒヤヒヤしたよね」
 
「出産の時も青葉のサポートが必要だと思うんだ。遠隔でもいいから協力してもらえないかな?26-28の週末って青葉予定ある?」
「補習が入っているけど、遠隔でのサポートくらいなら大丈夫だよ」
「ありがとう。ごめんね」
 
「いいよ。でも京平君って、いつちー姉の子供になったの?」
 
「まだ私が高校生だった頃なんだよ。あの子と偶然某所で会ってさ。それであの子のお母さんになってあげる約束をしたんだよ」
 
「そうだったのか。でも素直でいい子だね」
「うん。私に似ていい子だよ」
 
「結局、物理的に京平君の身体を作った卵子って、やはりちー姉の卵子?」
と青葉は訊いたのだが、千里は困ったような顔をした。そして
 
「その件、私も教えてもらってないんだよ。聞いても何かはぐらかされてさ」
と千里は言った。
 
そして千里は青葉に重大な示唆をした。
 
「青葉もさ、私もさ、生理があるじゃん」
「うん」
「女の子に生理があるってことはね。赤ちゃんを産めるってことなんだよ」
 
その千里の言葉を青葉はあらためて深く考えた。
 

青葉は母に、守秘義務絡みで詳しいことが言えないが、やむを得ない状況で今日は学校を休む旨連絡した。母は千里ちゃんが一緒ならいいよと言ってくれた。
 
桃香が起きないので「寝ててもいいから着替えて」と言って着替えさせ、ウィングロードの後部座席に乗せる。そして青葉が助手席に乗って千里の運転で、桃香をお茶の水の会社そばまで輸送した。その後、さいたま市に向かって、9時頃、小夜子の実家にウィングロードを返却する。五十鈴さんもあきらさんも、朝、小夜子さんと電話で話したが順調なようだということである。やはりお産も3度目になると母親もかなり慣れてきているようだ。
 
五十鈴さんとあきらさんが病院に行くがてら、千里と青葉を大宮駅まで送ってもらった。そして千里と青葉は9時半の新幹線に乗って12時に金沢に到着。更にサンダーバードに乗り継いで、1時過ぎにF市に到着した。火喜多さんが依頼主らしき30代の男性と一緒に待っていた。
 
この男性は元々その稲荷神社を管理していたおばあさんの孫、神社を潰した後急死した人の子供らしい。
 
「親父は唯物論者というか、神とか仏とかは、デタラメ言って人の心を惑わせる有害な連中が勝手に造り上げたものだとかいつも言っていたんですよ。うちには神棚も仏壇もありませんでしたし、父は墓参りもしたこと無かったんですよ。ひな祭りとか子供の日とかでお祝いしたこともないし、クリスマスも禁止で」
 
「なるほど」
 
「それで私も妹や弟もそれに反発して、友だちのひな祭りやクリスマス会とかに出ていたし、密かに初詣とか行ってたし、母と一緒に墓参りもしていたんですけどね。神社やお寺にお参りしたなんてバレたら、変なものにたぶらかされるなって叱られてたので、あくまでこっそりと」
 
「なんかそれも大変ですね!」
 
「いや、その世代には精神世界的なものを全否定する層がわりと多いんですよ。科学万能主義みたいな感じで」
と千里が言う。
 
「そうそう。科学的に証明できない以上、神とか仏とか存在しないってよく言ってました」
 

それで火喜多さんのクラウンに乗って現場まで行った。
 
「ここなんですが」
と言って依頼者さんが言い、4人は車を降りたが、青葉は
「わぁ・・・」
と思った。千里も厳しい顔をしている。
 
千里が目配せをする。それで青葉は昨日もらった紙を取り出すと、目を瞑って念を注ぎ込む。
 
すると突然大きな風が吹いた。天気は良かったのに少し霧雨も舞う。そして物凄く大きな存在がやってきたのを青葉は感じた。霊圧が凄まじい!!
 
「わっ」
と依頼主さんが思わず声をあげて目を瞑り、手で顔を覆った。火喜多さんは驚いたような顔をしてひざまずくと、手を合わせて合掌するようにした。青葉は呆然としてその様を見ていたが、千里は無表情でじっと事態を見ていた。
 
「話し合い」は20-30秒で終わったようである。ふたたび大きな風ととともに、その巨大な気配は去って行った。
 
顔に水滴が付いているのをぬぐう。ミストでも浴びたような感じだ。しかし青葉は場の空気がとてもきれいになっているのを確認して笑顔で言う。
 
「終わりました。もう大丈夫です」
 
「なんか凄いのが来たような気がしたんですか?」
「お狐さんは伏見に帰っていきましたよ」
「じゃ、ここは?」
「もう祟りなどは起きません」
 
「やはり改めてお稲荷さんを祭った方がいいんでしょうか?」
「その方が気持ちが落ち着くのであったら作ってもいいです。伏見から再度勧請してください。でも建てる以上はきちんとお祭りしてください。それをする自信が無かったらおやめ下さい」
 
「やめとこう。僕はずっと死ぬまでお祭りしていく自信がない。僕が頑張ってお祭りしても、僕の息子とかがしてくれるか分からないし。息子が不信心で放置したりしたり、また災厄の繰り返しになるし」
 
「そうですね」
 

だいたい話がまとまった所で、青葉はすぐ近くに京平がいるのを見てびっくりする。
 
「京平君、なんでここに残ってるの?」
「あ、青葉お姉ちゃん。ちょっと暴れん坊を連れて行くから、一緒に連れて行って怪我したらいけないから、お前はお母ちゃんに送ってもらえと言われた」
と京平は言っている。
 
千里は微笑んで
「じゃお母ちゃんが送って行くよ」
と言った。
 
それで火喜多さんは依頼主さんの自宅に行って霊的な防御などの仕上げをし、青葉はJRと第3セクターを乗り継いで高岡に戻ることにし、千里は京平を送って京都に行くことにして、F駅で別れた。
 

6月21日(日)。
 
青羽たちT高校水泳部の部員は早朝高岡駅に集合。バスで富山空港そばにある富山県総合体育センターまで行った。今日ここで富山県高校選手権水泳競技大会要するにインターハイの県予選が行われるのである。
 
青葉が出る種目は自由形の400m,800m,400m個人メドレー,そしてリレーとメドレーリレーと5種目である。実施される競技は30種目以上あり、それを1日でやるのだから結構慌ただしい。
 
朝9時開始であるが、いきなり女子400mメドレーリレーから始まる。泳ぐ順序は背泳(多恵)→平泳ぎ(才花)→バタフライ(青葉)→自由形(杏梨)である。
 
号砲が鳴り泳ぎ出す。多恵はけっこういい感じで飛び出した。ターンまでは2位に付けて頑張り、ターンの所でトップの人がもたついた所でかなり追いつく。復路は両者競り合い、ほぼ同時に壁タッチ。第2泳者に引き継ぐ。
 
ここで才花が結構遅れてしまう。1位の泳者に離され、3位の泳者・4位の泳者にも抜かれて4位に落ちてしまう。そして青葉に引き継ぐ。青葉はバタフライはあまり得意ではないのだが、実際問題としてそもそもバタフライの得意な選手というのがそんなに多くないので、結構いい勝負になる。何とか1つ順位をあげて3位で最終泳者の杏梨に引き継ぐ。
 
最後は激しい戦いになる。1位の泳者は遙か先を行っていて、2〜4位が競り合って泳ぐ感じになった。結局最後ギリギリで前の泳者を抜いて2位でゴールした。
 
「お疲れ様〜」
と杏梨に声を掛ける。
 
「みんなごめ〜ん」
と途中で順位を落とした才花は言うが、背泳や平泳ぎはそれが得意な泳者の多い競技で仕方ない。
 
「これ何位まで北信越大会に行けるんですか?」
「8位以内」
「え!?」
 
メドレーリレーの出場校がそもそも7校しかないのである。
 
「じゃ全校行けるの?」
「うん」
「なーんだ!」
「でも3位以内は賞状をもらえる」
「それはいいことだ」
 

男子のメドレーリレーの後、女子の自由形400mになるので青葉はこれに出場する。さっきパタフライで100mおよいだばかりで疲れは軽く残るが気合いを入れて出て行く。さっきは4人で400m泳いだのだが、今度は1人で泳がなければならない。
 
出場者は何と2人である!
 
つまり最初からふたりとも北信越大会に行けること確定だが、手抜きな泳ぎでもしたら絶対お叱りを受けるから全力で行かなければならない。それはやはりスポーツマンシップである。
 
スタートする。全力で泳ぎ始めるが、やはり向こうが速い。400mに出るだけあって、かなり泳力のある子なのであろう。青葉はできるだけ離されないように頑張って泳いでいった。
 
しかし300mをすぎた所で相手の速度が突然落ちる。あら?と思いながらも青葉は頑張って泳ぐ。すると最後のターンの直前あたりで何と青葉がその泳者を抜いてしまった。ターンをして残り50mラストスパートを掛ける。相手がどんどん後ろに行ってしまうのを感じる。そしてゴール。
 
美事に1着でゴールした。
 

男子400m自由形の後、女子100m平泳ぎで才花が出たが、出場者が多いだけに才花は8位以内に残れなかった(この大会はタイム決勝なので数組に分かれて泳いだ場合もタイムで順位が決定され、決勝戦は行われない)。次に100m背泳があるが多恵は9位で残念ながら北信越を逃した。続いて100m自由形であるが杏梨は6位に入賞して北信越の切符を取った。
 
青葉はお昼前に400m個人メドレーに出た。個人メドレーとメドレーリレーは似ているが泳ぐ順番が違う。個人メドレーはバタフライ→背泳ぎ→平泳ぎ→自由形となる。メドレーリレーで背泳が先頭なのは、他の泳者から背泳の泳者にはリレーが不可能だからである!ひとりで泳ぐ場合は逆にリレーの必要がないので飛び込みでスタートできる泳法から始めるのである。
 
400m個人メドレーの参加者は4人であった。さっき400m自由形に出た子も出ている。むろん8人以下なので全員(途中棄権しない限り)北信越大会に行ける。
 
この競技では青葉は八分程度の力で泳がせてもらった。しかし背泳ぎの段階で既に青葉とさっきの自由形に出ていた子の2人の勝負になってしまう。結構競りながら背泳を進め、平泳ぎでは青葉の方がリードを奪う。青葉がいちばん得意な泳法は古式泳法でいわばクロールと平泳ぎの中間のような泳ぎ方である。それで平泳ぎは割と得意なのである。
 
しかし最後の自由形になると向こうの方がうまい。さっきの400m自由形と違ってメドレーは体力を温存することができていたので、相手がスパートを掛けると青葉は簡単に抜かれてしまい、かなりの水を開けられた。
 
結果青葉は2位でゴールしたが、彼女(四辻さんと言った)から握手を求められ、青葉も笑顔で応じた。
 

800mは午後2時頃に行われた。
 
が参加者は青葉ひとりであった!
 
粛々と、青葉はプールを8往復し、泳ぎ終えた所で拍手してくれたギャラリーに笑顔で手を振った。
 
そして大会の最後に400mフリーリレーが行われる(そのあと男子の800mフリーリレーで今日の日程終了となる)。参加校は12校だったので2組に分けて行われた。青葉たちは1組で、泳ぐ順序はメドレーリレーの時と同じ、多恵→才花→青葉→杏梨の順である。実は1年生→2年生→3年生という順番なのである。
 
競技はその1年生の多恵がいきなり遅れる。更に才花が遅れてこの段階で泳いでいる6チーム中6位になってしまう。しかし青葉は才花が壁にタッチしたのを見ると勢いよく飛び込む(水泳のリレーで第2泳者以降はスタートする際に静止する必要はなく、ちゃんと前泳者がタッチした後でスタート台から離れさえすれば勢いを付ける動作をしてもよい)。
 
必死で泳いでまずは5位の泳者を捉える。プールの中央を少しすぎたあたりで抜き去る。更に向こうの壁にタッチしてターンした勢いでもうひとり抜いて4位に上がる。
 
しかしその先の泳者には遠かった。青葉は必死で泳ぐもどうしても前の泳者に近づけない。むしろ離されていく。そして4位のまま杏梨に引き継ぐ。杏梨は3位の泳者に向こうの壁付近で追いつき、その後かなりのデッドヒートを繰り広げた。しかしわずかに及ばず、結局1組4位のままのゴールとなった。
 
タイム決勝なので2組の結果を待つ。T高校の成績は5:30で、何とも微妙な線である。
 
時計とプールの泳者たちの両方をにらみながら見守っていたが、向こうの5位が5:28でゴールした。この結果、青葉たちは9位で北信越大会進出はならなかった。
 
「残念!」
「あとちょっとだったね」
「2秒差だもんね〜」
「まあまた頑張ろう」
 

結局北信越大会に進出したのは女子では、メドレーリレー、青葉が400m,800m,400mメドレー、杏梨が100mと200m、才花は全部アウト、多恵は200m背泳である。才花は個人では行けなかったが、メドレーリレーに出るので一緒に北信越大会に行くことになる。
 
それで部長の杏梨が成績表と3位以内に入った分の賞状、青葉の400mと800mの優勝楯をまとめてもらってきて、そのあと更衣室で水着を脱ぎ、ジャージに着替え帰ろうとしていたら、高体連の事務の女性が入って来た。
 
「高岡T高校さんですか?」
「はい、そうです」
「400mフリーリレーで失格チームで出たので繰り上げで8位になりました。これ訂正した成績表です」
と言って新しい成績表を渡される。
 
「8位になったんですか?だったら北信越大会に行けるんですか?」
「はい。出場できます」
「わあ、ありがとうございます!」
 
「やったね!」
という声があがるが
 
「でも失格って何したんですか?引き継ぎ違反ですか?」
と質問が出る。
 
リレーでは前泳者が壁のタッチ板にタッチした後で、次泳者の足がスタート台から離れる必要がある。電子計時では0.03秒の誤差まで認められるがそれ以上早いと失格になる。
 
「いえ、失格の理由は公表しないことになっていますので、済みません」
と言って事務の人は更衣室から出て行った。
 
「引き継ぎ違反やフライイングじゃなかったら何だろう?」
「転校生規約とか」
「留年してたとか」
 
高体連の公式大会には転校して半年以内の選手は出場できない。また1学年に1度しかひとつの大会には出られないので、留年した年は出場できない。
 
「男だったとか」
「まさか!?」
「男子の種目に出るつもりが間違って女子の方に出ちゃったとか」
「それもっとあり得ない」
 
「男子なら男子水着を着てるでしょ?」
「男が女子水着を着てたら、おっぱいが無さ過ぎてバレるよ」
「おっぱいのこと言われたら、私やばい」
「あんたマジで男じゃないよね?」
などとやっている。
 
しかし
「男だったらちんちんが盛り上がってて分かるんじゃない?」
という意見が出ると
 
「あ、そちらでバレるか!」
とみんな納得してしまう。
 
青葉はポーカーフェイスを保つのに少し苦労した。
 

千里は18日にF駅で青葉たちと別れた後、サンダーバードに京平と一緒に乗って京都駅まで行った。特急列車などというものに乗るのは初体験の京平は物凄く喜んでいた。更に奈良線に乗り継いで稲荷駅まで行くが、これもまた趣きが違うので楽しそうにしていた。
 
拝殿まで連れて行き、一緒にお参りする。お腹が空いたというので境内のうどん屋さんに入り、うどんといなり寿司の8個セットを頼むと、いなり寿司をひとりで7個食べてしまった。
 
「京平、稲荷寿司好き?」
「うん。これ大好き!美味しいね」
「京平の大好物になるかもね」
「今度お母ちゃんの子供に生まれたら、僕これたくさん食べたい」
「うん。たくさん作ってあげるよ」
 
「でも僕男の子に生まれるんだっけ?」
「そうだけど」
「いや、生まれてみたら女の子だったらどうしようと思ってた」
「女の子も楽しいよ」
「女の子っておしっこする時、座ってするんでしょ?」
「そうだよ」
「なんか変な感じ。おちんちんも無いんだっけ?」
「無いよ。代わりに割れ目ちゃんがあるんだよ。京平、女の子になりたい?」
「うーん。可愛い服とか着れるのはちょっと楽しそうだけど、おちんちん無いのは困るなあ」
「でも取り敢えず男の子みたいだよ」
「よかったぁ」
 
お店を出たあと、千本鳥居のところで別れた。京平は元気に鳥居の坂道を登って行った。
 
「じゃ、京平、26日は頑張れよ」
と千里はその後ろ姿に向かってつぶやいた。
 

翌6月19日(金)、FIBAの委員会で日本バスケ協会に対する制裁の「部分解除」が行われたことが発表された。これで日本は外国での試合、外国での合宿、国内外を問わず外国チームとの試合や交流などができるようになった。U19世界選手権は先日の決定通り出場不可(台湾の代理出場が決まっている)であるが、ユニバーシアードは出場することができると通達された。千里は江美子や彰恵たちと電話して喜びを分かち合った。
 

6月23日(火)。千里はいつものようにに午前中は体育館で自主練習に参加して玲央美たちと汗を流し、午後からはまたレッドインパルスの練習に出る。それが終わったあと、普通は矢鳴さんに車を事前に回送してもらっておいて電車で40minutesの練習に行くのだが、今日は矢鳴さんはお休みで、千里自らインプレッサを運転して世田谷区内の自動車屋さんに乗り入れた。
 
「お電話していた雨宮です」
「あ、はい、車検でしたね」
 
この車は雨宮先生の所有車として登録しているので、話を複雑にしないため千里はここでは雨宮を名乗っている。一応車内に忘れ物がないかだけ確認して車を預ける。
 
「はい。ついでに点検をしてもらいたいのですが」
「ええ。伺っております。念のため再度状況をお伺いできますか?」
 
「ええ。エンジンが掛かりにくいのと、走り出してすぐくらいに時々異常音が出ることがあるんです。少し走っている内に正常な音になるのですが。何度か坂道を走っている最中にエンストしましたし」
 
「分かりました。そのあたり見ておきます。代車は不要ということでしたね?」
「ええ、私、今夜から合宿に入るんですよ。それでその間にやってもらおうと思って」
 
このインプの車検の期限は実は8月上旬まである。しかし最近どうも調子が悪いので少し早めに車検に出し、ついでに色々とエンジン回りを中心に見てもらおうということにしたのである。
 

千里はそれで車を預けた上で、呼んでもらったタクシーで最寄りの駅まで行き、その後は鉄道路線を乗り換えて都営三田線の本蓮沼駅まで行った。
 
「さて頑張るか」
と千里は自分に声を掛けて、スポーツバッグ2個、旅行用バッグ2個の荷物を抱えたまま、味の素トレセンまでジョギングを始めた。
 

今回のユニバーシアード代表の合宿は6月24日から7月3日までである。この時期のトレセンは何だか混んでいて、女子フル代表の合宿が6月25日から7月3日まで。つまりユニバ代表とほぼ重なる日程で行われている。更に男子フル代表の合宿が6月26日から7月2日までで、これもまたほとんど日程が重なっているのである。
 
それで24日は千里たちもユニバ代表の12名だけで練習していたのだが、その日の夕方には、フル代表の玲央美や妙子さん、亜津子さん、三木エレンさんたちがやってくる。
 
「おーい。少しは代表の覚悟ができてきたか?」
と玲央美。玲央美とは実は23日の午前中も世田谷区内の体育館で一緒に練習している。
 
「元気してるか〜?」
などと言っている妙子さんとは23日午後にレッドインパルスの練習で一緒であった。
 
「千里〜。またスリーポイント競争しようよ」
と亜津子さんが言うと
「私もそれに混ぜて」
と三木さんまで言った。
 

そして実際、25日の午後にはフル代表vsユニバ代表で練習試合をした。スターターはこのようになっていた。
 
Full. PG武藤博美(EW)/SG三木エレン(SB)/SF広川妙子(RI)/SF佐藤玲央美(JG)/C金子良美(FM)
Univ. PG森田雪子(4m)/SG村山千里(4m)/SF前田彰恵(JG)/PF高梁王子(JG)/C夢原円(SB)
 
EW=エレクトロ・ウィッカ、RI=レッドインパルス、JG=ジョイフルゴールド、FM=フラミンゴーズ、4m=40 minutes, BM=ビューティマジック、SB=サンドベージュ
 
どちらもマジ100%の陣容である。しかし知り合いばっかりだ!相手選手の中で対戦したことがないのは、センターの金子さんだけである。妙子さん・玲央美とは毎日練習をしている。
 
ティップオフは円が勝って雪子がボールを確保し、走り込んでいる千里に矢のようなボールを送る。普通のチームならここで千里にまんまとスリーを撃ち込まれてしまうのだが、相手はさすがフル代表だし、千里を熟知している妙子さんと玲央美がいるので、そう簡単には撃たせてくれない。
 
玲央美が千里の前に立ち、万全のガードをする。それで千里は王子にボールを送る。玲央美が左側に来ているので、反対側は妙子さんが守っている。しかし王子は妙子さんをパワーで振り切って中に進入。金子さんのガードもほとんど無視して豪快にボールをダンクでゴールに叩き込んだ。
 
「何この子〜?」
という顔を金子さんがしている。王子は玲央美と同じジョイフルゴールドの選手である。実業団なので、Wリーグ・フラミンゴーズの金子さんは王子との対戦経験が無いのである。両者はオールジャパンでも当たったことがない。
 

最初マッチアップは千里に玲央美が付いていたのだが、三木さんが自分にやらせろと言ったようで交代する。それまで玲央美は千里のスリーをわずか1本に押さえていたのだが、千里はこのピリオドで三木さんと4回マッチアップし、4回とも彼女を抜くか、あるいは抜くと見せてシュートを放り込んだ。結局千里はこのピリオド3本のスリーを放り込み9点を奪う。王子も3本のダンクを決めたほかフリースローを4本全部決めて10点取っている。彰恵も2本ゴールを決めてこのピリオドのユニバ代表の得点は23点。一方のフル代表側は16点に留まる。三木さんはスリーを1本も撃てなかった。
 
第2ピリオドでは三木さんに代わって亜津子さんが出てくる。しかし亜津子さんが千里を完全には停めきれないのは昔からである。それでも彼女は千里を8割くらいは停めた。かなり気合い入ってるなと千里は思い、心を奮い立たせるため自分の頬を数回叩いた。結局このピリオド、千里はスリーを2本とツーを1本で合計8点取る。亜津子さんの方はスリーを1本だけ入れた。
 
後半はどちらも選手を完全に入れ替えて戦う。この試合はあくまで勝負より様々な相手との経験を積むことが第一目的である。
 
それでも試合は結局78-86でユニバ代表が勝った。
 
「お前らこれから地獄の合宿が始まると思え」
とこの結果を見てフル代表監督の山野さんが言った。
 
玲央美も妙子さんも亜津子さんも厳しい表情をしていた。三木さんはじっと千里の顔を見ていた。
 

この25日の夕方には男子のフル代表がやってきた。千里は食堂で貴司と目があったものの、向こうが手を振るのを黙殺。江美子たちとおしゃべりしながら食事のプレートをテーブルに持って行き、御飯を食べた。
 
24-25日の練習は2階のバスケット専用コートを使用していたのだが、26日はそれを男子フル代表に譲り、女子のユニバ代表、フル代表は同じ階にある共用コートの方に移動した。バスケット・バレーからハンドボールなど様々な競技に使用することができる。
 
26日の19時すぎ。この日は疲れがピークに達している選手が多いので早めに打ち切ろうということになり、着替えたあと彰恵・江美子・玲央美と4人で夕食を食べていたら、貴司が食堂に入って来て千里の横に立った。
 
「あ、遠慮しようか?」
と玲央美が言うが
「別にいいよ。結婚している男性に私は別に何の感情も無いから」
と千里は言う。
 
それで3人は顔を見合わせたものの、そのままテーブルに留まる。江美子と玲央美は千里と貴司の関係を知っている。彰恵は知らないようだが、雰囲気から元恋人なのだろうと察したようだ。
 
「千里、子供いつ生まれるか占えない?」
と貴司は言った。
「男子も今日はもう練習終わったの?」
と千里は逆に訊き直す。
 
「今小休憩中。練習は21時まで。でも女子フル代表の中塚さんがこちらの見学に来てたんで、女子の練習が終わったのを知って」
 
ふーん。
 
「料金3000円取るよ」
と千里が言うと
 
「分かった」
と言って貴司は千里に千円札を3枚渡す。すると千里はスポーツバッグから筮竹を取り出した。
 
「千里、そんなのいつも持ってる訳?」
と彰恵が呆れたように言う。
「まあ千里はそういうもんだね」
と玲央美。
「用意が良すぎるんだよねー。千里って」
と江美子も言う。
 
千里はだまって筮竹をさばく。
 
「産気づくのは酉の日だと思う」
と千里は言った。
 
「酉の日っていつだっけ?」
 
それで千里は手帳を開いて確認する。
「あ、今日だね」
 
「今日なの?」
と貴司が驚いたように言う。
 
「阿倍子さん、神戸の実家に戻ってるんだっけ?」
「いや。実は実家は親戚とちょっと揉めてて今使えないんだよ。それで豊中のマンションにそのままいる」
「じゃお母さんがこちらに出てきてるの?」
「それが阿倍子のお母さんは先月、癌の手術をしたばかりで、まだ名古屋の病院に入院中なんだよ」
 
「じゃ、妊婦がひとりでマンションにいる訳?」
千里は驚いて言う。
 
「うん」
「それで産気づいたらどうするのさ? 誰か呼び出せるお友達とかいる?」
「いや、それがあいつ友だちとか全然居なくて」
 
千里は考えた。26日に送り出すというのは泳次郎様も言っていた。千里の占いにもそう出ている以上、出産は間違いなく今日だ。
 
「ね、私の占い絶対当たる自信ある。貴司、ちょっと今夜は奥さんに付いてあげなよ」
「でも合宿が」
「今夜、向こうに行ってとりあえず阿倍子さん病院に連れて行って、明日の朝までに戻って来ればいいじゃん」
 
「そんなのできるんだっけ?」
と彰恵が横から言う。
 
「合宿は昼間なんだから、許可さえ取れば夜間外出してくるのは大丈夫だと思うよ」
と江美子は言う。
 
「交通手段は?」
と玲央美が言うので、千里は新幹線の時刻を確認した。
 
「大阪に行く最終連絡は赤羽20:43-21:00東京21:23-23:45新大阪。明日朝の帰りは新大阪6:00-8:23東京8:43-9:07赤羽」
 
「それ練習終わってからでは間に合わないし、明日の練習開始にも間に合わない」
 
ふーん。奥さんの出産より練習優先か。まあそういう男だろうけどね、と千里は思う。それとも私の占いが信用されていないか?
 
「今まだ奥さんは産気づいてない訳?」
「さっき電話で話したのでは、赤ちゃんは元気っぽいけど、まだ出てくる気配は無いということだった」
 
じゃ、やはりこれから始まるのだろう。
 
「じゃ、練習終わってからレンタカー借りて大阪まで走って、奥さんを病院に連れていき、あるいは先にひとりで行ってたら顔見て来て、それからまた車を運転して帰ってくればいい。24時間開いてるレンタカー屋さんはあるよ」
 
「それで明日の合宿の練習をする自信が無い」
 
と貴司が言った時、唐突に玲央美が言った。
 
「千里さ、あんたが代わりに見て来てあげたら」
 
「ああ、確かに出産の時って男はあまり役に立たないよね」
と江美子まで言う。
 
うーん。。。。私が行ったらさすがに阿倍子さん怒ると思うぞ、とは思うものの、千里はここはその方がいいかも知れないと思った。そもそも玲央美も結構な巫女体質だ。彼女がそう自分に言ったということは、自分が行く必要があるのかも知れないと千里は思った。
 
「しょうがないな。じゃ私が見て来てあげるよ」
「すまん」
 
それで貴司はマンションの鍵を千里に渡した。うーん、別にもらわなくても1本持っているんだけどなあとは思ったが、取り敢えず預かった。
 

それで千里は食事を終えた後、篠原監督の所に行き、友人女性が産気づいて苦しんでおり、他に頼る人がいないというのでヘルプを求めているのでちょっと外出してきたいと言った。
 
「明日の朝までには戻りますので」
「分かった。あまり無理しないようにね」
「はい」
 
監督にはその「友人」というのが大阪にいるとまでは言っていない。言ったらさすがに呆れられるだろう。
 

それで部屋に戻って簡単に旅の荷物をまとめてから、さて、と思う。
 
こんなことならインプを車検に出すの、もうちょっと待ってたら良かったなと思った。レンタカーを借りるかなとも思ったのだが、唐突に冬子に車を借りることを思いついた。なぜそう考えたのかは千里にも良く分からない。
 
それでこういう長距離を運転する時は矢鳴さんを呼び出しておかないと叱られるなと思い電話して出てきてもらうことにした上で、自身はタクシーを呼んで恵比寿の冬子のマンションまで行った。すると秋風コスモスと川崎ゆりこが来ていて、冬子たちもちょうど大阪に移動する所だったので一緒に行こうということになる。
 
ところが先に帰るコスモスたちを駐車場まで送って行った冬子が、エルグランドがライトの消し忘れでバッテリーが上がっていると連絡してきた。千里は誰かヘルプを呼ぼうと思い、まず和実に連絡してみた。わりとアパートが近いし、新婚さんだからこの週末はきっと家に居るだろうと思ったのだが、何とボランティアで東北まで走っている最中だと言う。全く頑張るなあ!と思う。
 
桃香に電話してみたら今ビールを飲んでいる所だと言う。うむむ。
 
それで他にも何人か電話してみたものの、使えそうな人が捕まらない。すると川崎ゆりこが、自分の車・ポンガDXで大阪まで行きませんかと提案した。結局、彼女の車に、千里・冬子・政子、そして冬子担当ドライバーの佐良さんが乗って大阪に行き、冬子のエルグランドは千里の担当ドライバー矢鳴が適当な車を持って来てバッテリーをつなぎ再起動してから、衣装や楽器などを乗せて追ってひとりで大阪まで走ることになった。
 

それでポンガDXを最初は佐良さんが運転していたのだが、川崎ゆりこが自分が運転したいというのでやらせる。この時、途中まで運転してきた佐良さんは後部座席に行って仮眠してもらい、千里が助手席に乗った。
 
ところがここでゆりこはブレーキの踏みすぎでフェード現象を起こしてしまう。それで千里は運転中に運転席と助手席を交代するというワザでゆりこと入れ替わり自分が運転席に就いた上で、車の左側を防護壁に微かに擦って減速するという方法で何とかこの車を停止させた。
 
正直、こういう停め方は初心者のゆりこには無理だったろうなと千里は思った。自分がこの車に乗っていてしかも助手席に居たというのが重要だったんだと思う。しかしこの時、千里もさすがに、この事故からとんでもない大ヒット曲が生まれることになるとは知るよしも無かった。
 
さてこの事故が起きたのが夜11時すぎであったが、先行して大阪に行ってくれていた《びゃくちゃん》と《りくちゃん》から連絡がある。
 
『千里、奥さん産気づいたけど自分では動けなくて台所に倒れて苦しんでる』
『すぐにも産まれそう?』
『産まれそうにも見えるけど、まだ半日以上かかると思う』
『びゃくちゃんのできる範囲でサポートしてあげて』
『了解』
 
それで《びゃくちゃん》は阿倍子さんに毛布を掛けてあげて、その後体調管理をしていてくれるようだ。彼女に119番してもらう手もあるのだが、その場合、彼女の身元を説明できないので話がややこしくなるおそれがある。それはどうにもならなくなった時の最後の手段だ。千里は一刻も早く大阪に行かねばならないと判断した。
 
なお貴司からは『阿倍子が電話に出ない。メール送っても返事が無い』というメールが来ている。まあ電話にも出られないくらい苦しんでいるんだろうな。しっかし・・・京平の奴何やってんだ!?
 
千里は静岡在住の雨宮先生の弟子・福田さんに電話し、事情を話して彼女の車を貸してもらえないかと頼んだ。彼女を選んだのは、音楽関係者ならこの時間帯は「宵の口」の感覚であること、彼女がフリードスパイクを持っているからである。
 
そこで彼女と次のSAで落ち合い、彼女の車を貸してもらう。傷だらけになったポンガDXは福田さんがそのまま静岡市内の工場に持ち込んで修理してもらうことにした。
 

千里がフリードスパイクの運転席に座り、佐良さんが助手席、後部座席に左から冬子・政子・ゆりこと乗って出発する。千里は《とうちゃん》にお願いした。
 
『みんなを眠らせてくれる?』
『了解』
 
それで全員深く眠ったところで千里は近くの非常駐車帯に車を停める。そして《くうちゃん》に頼んで車を豊中市の貴司のマンションの前に移動してもらった。
 
千里がエンジンを停めると、そのエンジン音が停まったことで冬子が目を覚ました。
 
「ここどこ?」
と冬子が訊くので千里は
 
「大阪府内某所。冬、悪いけど運転席にちょっと座っててくれる?」
と言って、車を降りマンションの玄関に歩いて行った。
 

貴司から預かった鍵でエントランスを開け、33階に上がる。3331号室に行き、『細川貴司・阿倍子』という表札にちょっと嫉妬を覚える。しかし気を取り直してドアを鍵で開けて中に入り、倒れている阿倍子さんに声を掛けた。
 
「阿倍子さん、阿倍子さん、大丈夫?」
それで意識がもうろうとしていた阿倍子さんは少し意識を取り戻したようである。
「千里さん?」
「今、病院に連れて行くから待ってて」
 
「何しに来たの?」
と苦しそうな顔の中から不快な表情を作って訊く。
 
「貴司に頼まれたのよ。様子見てきてくれないかって。本人が来たかったみたいだけど、合宿初日でどうしても抜ける訳にはいかないっていって」
 
「大阪近辺に居たの?」
「私もあいつと同じ味の素トレセンで合宿中なのよ」
「同じ場所なの!?」
 
きっと睨むような表情をする。怒りで意識がかなり明瞭になった気がした。
 
「お互い日本代表の合宿中だし、そもそも阿倍子さんがこんな時にあいつと寝たりはしないから。私もそこまで無節操じゃないからね」
 
「うん・・・それは信じることにする。貴司は信じられないけど、千里さんは信じてもいい気が最近してきた」
 
と彼女は脱力したように言う。やはり物凄く苦しい状態なので、怒りを維持するだけのエネルギーが無いのかも知れない。
 
「まあ、あいつはほんとに無節操な奴だけどね」
「ほんとになんであんな人を好きになったんだろう?」
「ああ、それは私も何百回思ったか分からない」
 
苦しそうな表情の中、阿倍子さんは少しだけ笑った。
 

それで千里は冬子に電話して阿倍子さんを病院に運びたいので手伝って欲しいと言った。冬子と佐良さんが登ってきてくれた。
 
それで3人で協力して阿倍子さんを下まで降ろし、代わりに貴司のマンションでゆりこと政子には休んでいてもらうことにし、鍵をひとつゆりこに渡した。この鍵は昨夜貴司から預かった鍵である。
 
佐良さんに運転してもらい、千里は後部座席に寝せた阿倍子さんに付き添ってしゃがむようにして乗っている。冬子が助手席である。
 
千里はその車内からまず貴司に電話した。貴司はさすがに練習を休ませてもらって明日朝いちばんの新幹線で大阪に来ると言った。それを伝え、千里の携帯で貴司と阿倍子さんに少し会話させると、彼女は少しホッとしたような表情をした。
 
それから千里は青葉に電話した。
 
「補習があるのに申し訳ないけど、明日の朝いちばんのサンダーバードでこちらに来てもらえない?これリモートでは済まないみたい」
「分かった」
と青葉は返事した。
 

結局阿倍子さんを病院に運び込んだのは1時半頃である。医師は阿倍子の様子を見てすぐに分娩室に運び込ませた。
 
千里だけが付いていることにして、冬子と佐良さんには貴司のマンションに行って朝まで寝ていてくれるように言った。
 
「マンションの合い鍵、冬に渡しておくね」
 
と言って千里は自分のバッグから鍵を出して冬子に渡した。冬子はそれを受け取ってから変な顔をした。
 
「ね、この合い鍵ってまさか普段から千里持ってるの?」
「うん。その件はあまり突っ込まないで」
「大いに突っ込みたいんだけど!?」
 

阿倍子が分娩室で頑張っている間に入院の手続きをする。それで病室を割り当ててもらったので、千里はその病室で待機することにした。千里も1日合宿の練習をした後大阪まで移動し、阿倍子さんを病院に運び込んでと、さすがに疲れているので、分娩室の方の様子を見てきてから病室に戻り、ベッドの下に置いてある仮眠用簡易ベッドを出してそこで寝た。『動きがあったら起こしてね』と後ろの子たちに頼んでおいた。
 
千里は夢を見ていた。
 
夢の中で千里はまだ小学1−2年生くらいの感じだ。あの頃は・・・自分が男だなんて思っても見なかったなあ、などと思っていた。誰かおとなの女の人がいて、女の子が何人も並んでいてあめ玉をもらっている。千里もそのあめ玉をもらって食べた。
 
美味しい〜!
 
と思っていた時、千里たちにあめ玉をくれた女の人が今気づいたように言う。
 
「ねぇ、まさか君、男の子?」
「よく分からなーい」
 
すると友だちの女の子が言う。
「ちさとちゃんは女の子ですよ」
 
すると女の人は安心したように言った。
「良かった。赤ちゃんを産めるようになる素だから。男の子が赤ちゃん産もうとしても産む穴が無いもんね」
「千里ちゃんはきっと赤ちゃんを産むよ」
 
と友だちが言ってくれた。
 

千里が目を覚ましたのは7時である。4時間ほど寝たようだ。《びゃくちゃん》が『まだ産まれそうにないよ』と教えてくれた。
 
取り敢えず篠原監督に電話する。親族の人が今急行しているので、その人が来るまで留まっていたいので、申し訳ないが今日の練習は遅刻しますと言い、了承してもらった。貴司からは朝6時の新幹線に乗ったとメールが入っていた。これは新大阪に8:22に到着するので、病院に到着するのは9時頃だろう。青葉からも金沢を朝5:00のしらさぎに乗ったというメールが入っていた。
 
しらさぎ!その手は考えなかったなと千里は思った。
 
分娩室の様子を見てきたのだが、今にも産まれそうなのに産まれないので医師もこのまま分娩室に置いておくべきか病室にいったん戻すべきか悩んでいるということであった。千里は分娩室の中に入って阿倍子さんの手を握り元気づけてあげた。30分ほどしていても状況が変わらないので結局いったん病室に戻すことにした。
 
阿倍子さんのスマフォはダウンしたままなので(機械音痴の千里にはこれをリブートさせるなんてのは無理)、千里の携帯で貴司に電話を掛け少し話をさせたら、また阿倍子さんは安心するような顔をしていた。
 
 
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【春泳】(2)