【春輪】(1)

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絢人は中の様子をうかがって何も音がしないことから、中には誰もいないと判断する。
 
そっとドアを開ける。もし誰かいたら「済みません!間違いました!」と言うつもりだったが、誰も居ないのでそっと中に入った。
 
そこには手洗い場の向こうにドアが4つ並んでいる。男子トイレにあるような小便器は無い。この風景が絢人にはシュールな感じに思えた。ドアの内いちばん向こうのは掃除用具入れのようで小さなドアである。残りの3つが個室のドアだ。絢人はその中の最も手前のドアをそっと開ける。むろん中には誰もいない。
 
ドキドキしながら絢人は中に入ってドアを閉めロックする。便器を軽くトイレットペーパーで拭いた上で、ズボンを降ろす。するとズボンの中にはこっそりとシフォンスカートを穿いている。そのスカートをめくり、パンティを降ろして便器に座った。
 
おしっこをする間もドキドキしているし、万が一にも誰か入ってこないだろうかと不安な気持ちでいっぱいだった。
 
おしっこを出し終わるとトイレットペーパーでそこを拭く。そしてパンティをあげ、スカートを降ろし、ズボンをあげてファスナーを閉めると、水を流して個室の外に出る。そして手を洗うと、外の様子を伺ってから、そっとドアを開けて廊下に出た。
 

6月中旬、桃香は上司の課長に「ちょっと」と呼ばれて一緒に会議室に入った。
 
「高園君、君さ、僕ちょっと誤解していたような気がして」
「はい?」
「もしかして君って女性だっけ?」
 
は!?
 
「私は女ですけど」
「戸籍上も女なの?」
「そうですが」
「生まれた時から?」
「ええ」
「じゃ性転換とかもしてないんだ?」
「してません」
 
「ごめーん!」
 
何だ?何だ?
 
「いや、実は僕も部長も君のこと、てっきり男性と思い込んでいた」
「男だったら、なぜ女子制服なんです?」
「いや、女になりたい男なのかと思い込んで」
「入社式の日は振袖着るように言われましたし」
「本人の精神的な性別志向に合わせてあげるべきだと思って」
「お茶汲みとかもしてますし」
「うん。女性にお願いしている仕事もしてもらった方が落ち着くかなと思って」
 
「まあ私は男とか女とか関係無く頑張って仕事するだけですし、女ではありますけど、男に負けずに頑張るつもりです」
と桃香は言う。
 
「うんうん。君、結構交渉事うまいし、春から既に3件、契約を取ってくれたから、僕たちも評価しているんだよ」
 
「ありがとうございます」
 
「それでやはり女みたいな格好してるけど、さすが男性だなあ、なんて言ってたら、ひとり高園さんってひょっとして本当に女だということは?と言い出して」
 
桃香は何と返事していいのかリアクションに困った。
 
「それで君が本当に女性だったのなら、実は君の性別を社内データベースでは男として登録していたんだけど、女に訂正していい?」
「訂正というか、私は元々女ですから」
 
「じゃ、すまないけど、これ書いてくれる?」
 
などと言って「性別変更届」なる紙を渡される。
 
「これこそ性転換でもしたみたいですね」
「ごめーん。事務手続き上、本人が女性であることを認めているという書類が欲しくて」
 
「まあいいですよ」
 
と言って桃香はその場で性別変更届に氏名:高園桃香、旧性別:男、新性別:女と記入し、認め印を捺して課長に渡した。
 
「面倒掛けて済まないね」
「いえ」
 
「それでちょっと言いにくいんだけど」
「はい?」
「実はここまでの君の給料を男性として計算していたんだよ」
「この会社って男性と女性で給料が違うんですか?」
「いや、基本的には同じなんだけどね。してもらう仕事の内容に差があるから、それに伴う差なんだけどね」
 
「私は男並みに仕事するつもりですけど」
「うん。もちろん業績をあげて行けば、それはちゃんと評価するから。ただ、4月からの給料を女性基準で計算すると、4月5月は払いすぎていたんだよね。それを6月で調整してもいい?」
 
「まあいいですよ」
「すまない。それでちょっと6月の給料は少し減ると思うから」
 

そんな話を課長とした桃香であったが、数日して給料が出た時、その額を見て桃香は「なぜだ〜〜!?」と言って絶句することになる。
 
それで桃香はバスケットの合宿で味の素ナショナルトレーニングセンターに行っている千里に電話した。
 
「ごめーん。千里。今月ちょっと思ったより給料が少なくて。このままだとクレジットが払えないんだ。少し貸してくれない?」
「いいよ。幾らくらい」
「そのぉ・・・・5万くらい貸してくれると嬉しい。10万あったらもっと嬉しい」
 
「じゃ取り敢えず15万振り込んでおくよ」
「そんなに借りていい? 来月ボーナス出たら返すから」
「気にしないで。出世払いってことにしようよ。お互い様だし」
「じゃ出世払いで」
 

優子は友人でマツダのお店に勤めている季里子に誘われて車を見に来ていた。優子も季里子もレスビアンで、実は同じ恋人(女性)を取り合ったこともあるのだが、今ではどちらもその子とは切れていて「穴姉妹」同士ということで逆に純粋な友人関係にある。
 
実は優子が先日、自分の乗っていた年代物のモビリオスパイクで事故を起こしてしまい、車は全損になってしまったのである。元々の評価額が低かったし、車両保険を使うと保険料が上がってしまうので、保険は使わず自費で次の車を買うことにした。来月にはボーナスが出るしと思って、適当な車を探していた時、それを聞いた季里子が「良かったらうちの車を買わない?」と言ってきたので見に来たのである。
 
お店は千葉市郊外にあった。
 
「どういう車がいいの?キャロルとか?」
「軽は嫌い。私絶対また事故起こすから、その時自分を守ってくれる車でないと困る」
「うーん。じゃデミオとか?」
「もっと大きいのがいいな」
「じゃ、プレマシーとか」
「さすがに大きすぎるかな」
「だったらアクセラかアテンザかCX-3,CX-5か?」
「うん。その付近が落とし所かなあ」
 
それで結局、アクセラスポーツ、アテンザワゴン、CX-3,CX-5を試乗してみることにする。
 
「あれ〜、ATなの?」
「あ、CVTが好き?」
「違う。MTだよ」
「ごめーん。MTの試乗車は置いてないんだよ」
「これMTのモデルある?」
「アクセラスポーツ、アテンザワゴン、CX-3にはある。CX-5には無い」
「じゃCX-5はボツ」
 
「了解〜。でもMTが好きなのね」
「ATなんて女の車だよ。男はMTでなきゃ」
「優子、あんた男なんだっけ?」
「確認するのに寝てみる?」
「いいや。あんた激しそうだから、私の身体が持たない気がする」
 
「季里子ってネコなんだっけ?」
「そうだけど。優子はリバなの?」
「基本的にはタチ。入れる方が好き。でも桃香との間では私がネコになった」
「ふむふむ」
 

ともかくもAT車というのは不満であったものの、その3車種を全部試乗してみたところ、優子はアテンザ・ワゴンが気に入った。
 
「これ気に入ったぁ。いくら?」
「うーん。きちんとした見積もりは作らせるけど、360万くらいだと思う」
「5年ローンにできる?」
「いいよ」
 
それで事務所に入ってローンのシミュレーションをする。
 
「じゃアテンザワゴンのMTでいいね」
「うん」
「これディーゼルしかないけどいい?」
「あ、ディーゼル割と好きかも」
「色は?」
「赤で」
 
「残価設定型ローンでいいよね?」
「いや、それだと制約が面倒だし、途中で全損するかも知れないから普通のローンで」
「ああ、あんたはそれがいいかもね。毎月の支払いは?」
「2万くらい」
「頭金どうする?」
「今貯金80万あるから、それ使う」
「するとボーナス月が22万になるけど」
「OKOK」
 
「じゃ正確な見積もり作って、ローンの計算結果も付けてそちらに送るね」
「よろしく〜」
 

2015年6月28日(日)。細川阿倍子は男の子を出産した。産気づいた後、足かけ3日に及ぶ難産の末であったし、出産直後に血圧や脈拍が急低下して死にかけるというオマケ付きであった。
 
しかし翌日には阿倍子自身もかなり体力を回復し、何とか歩いて赤ちゃんを見に行くことができた(この病院は赤ちゃん別室)。抱いて乳房に赤ちゃんの口を咥えさせるものの、まだお乳は出ない。助産師さんは初乳は個人差もありますが、だいたい一週間後くらいまでには出ますよと言っていた。
 
それでおっぱいが出やすくなるようにマッサージなどもしてもらい、また自分でもやりましょうと言われてやり方を習う。そしてお乳が出そうな時にはこれで取ってと言われて搾乳器を渡された。
 
「でも私、お産無茶苦茶きつかったから遅いかも知れないなあ」
と思い、本人としては割とのんびり構えていた。
 

阿倍子は急に寂しくなった病室を見回した。
 
貴司は合宿があるからと言って、29日の朝1番の新幹線で東京に戻った。母は付き添ってくれていた看護婦さんと一緒に名古屋に戻って行った。千里さんが連れてきてくれた若いヒーラーさんも28日の夜に帰って行った。
 
貴司の妹の理歌さんだけが、とりあえず一週間は付いてますよと言って付いていてくれる。もっとも阿倍子は本当は彼女を必ずしも信頼していない。普段の言動から見て、どう考えても彼女は「千里派」なのである。ただ、千里さん自身も今回はいろいろサポートしてくれたし、取り敢えずあれこれ親切にしてくれるし、今阿倍子は理歌さんを頼る以外の選択肢が無い。
 
なお入院が長引いたら、彼女も仕事があるので、もうひとりの妹の美姫さん(女子大生)と交代すると言っていたが、美姫さんは理歌さん以上にあからさまな「千里派」のようなので、気が重かった。それでもそもそも自分をいまだに嫁と認めてくれていなかったふうの保志絵(貴司の母)さんよりはマシなんだけどね。でも保志絵さんも今朝は「おめでとう。お疲れ様」という電話をくれた。出産を機会に少し空気が変わればいいなとも思う。
 
その理歌さんが戻って来た。出生届を出しに行ってもらったのである。名前については貴司が「京平にする」と言って譲らなかったので、阿倍子は本当は別の名前を考えていたのだが、まあいいかと思い、容認した。
 
「体調どうですか?」
「何とか」
「取り敢えずお茶買ってきました。お乳出るように水分たくさん取った方がいいらしいですよ」
「助かります。なんか陣痛で苦しんでいた間、何も飲食できなかったから、何か飲みたい気分で」
「点滴されていても、身体は口から取るものを求めますよね〜」
 
と理歌さんは笑顔で言っていた。
 
「それとこれカロリー補給にシュークリーム」
「わあ、美味しそう!」
 

助産師が阿倍子の部屋に入っていった時、阿倍子はベッドで熟睡しているようであった。
 
「あら、さすがに疲れが出てきたのね。お疲れ様〜」
と眠っている彼女に声を掛けるが、ふと搾乳機を見ると、僅かながら黄色いお乳が入っている。
 
「あら、もう出たんだ。すごーい」
と言うと、そのお乳を新生児室に持って行き、京平に飲ませてあげた。
 
「京平ちゃん、あなたのお母さんの最初のお乳だよ」
と助産師が声を掛けると、京平は何だか嬉しそうな顔をした気がした。
 

この時期、青葉は水泳のほうの北信越大会が迫っているので、合唱の練習は放課後最初の1時間であがらせてもらって、そのあと水泳部の方に行きたくさん泳いでいた。身体の姿勢にムダがあるというのを魚さんが指摘するので、そこを改善してスピードを上げられるよう練習を重ねていた。
 
その日はその水泳の練習も18時で切り上げて帰宅した。
 
「お邪魔してます」
と可愛い声で、可愛い服を着た長野龍虎(芸名アクア)が来ている。北陸方面の仕事があったついでに高岡まで足を伸ばして青葉のセッションを受けに来たのである。
 
「可愛い服着てるね!」
と青葉は正直に言ってしまった。
 
「こないだうっかり安物のTシャツと穴の開いたジーンズで近くのコンビニまで行った所を週刊誌に撮られちゃって、そのあと田所さんがうちに来てですね、ああいうあまりに安っぽい服を着られるのは困ると言って、私のタンスをチェックして安物のとかデザインに難のあるのとかの服を全部持ってっちゃったんですよ。そしたら、何か可愛い服しか残ってなくて。ズボンとかも、学生ズボン以外何も残ってなかったんですよ。だからここ数日、家の中ではずっとスカートで」
 
「それで今日もスカートなんだ!」
 
「今フェリシモで新しいズボンいくつか頼んでます」
 
フェリシモって・・・それ女性用なのでは?と青葉は思わず突っ込みたくなった。
 
「スカートで外出するのは構わないの?」
「それは別にいいよと言われました。こないだ『男の証明』やらされたから、しばらくは男の娘疑惑は出ないだろうと言われて」
 
「あれは災難だったね!」
 
アクアがあまりに可愛いし、声変わりもしていないので、実は去勢もしていて、おっぱいとかも大きくしているのでは?と疑われ、先日テレビ番組の企画で病院で検査を受けさせられて、男性器が確かに存在することを確認され、その後、まわしを付けて相撲まで取らされたのである。
 
もっとも対戦した力士はアクアを男の子とは思っていなかったようで
「え?うそ! まだ胸が無いから小学生の女の子かと思った」
などと言っていた。
 
そしてこの番組に対して、テレビ局にアクアのファンの女の子たちから凄まじい抗議の電話が入り、プロデューサーが企画は行きすぎだったと謝罪するハメになった。
 
ただネットでは
「やはりアクアちゃん、男の子なのね」
「ちょっと安心した」
「男の子だったら結婚したい」
などといった女の子たちの書き込みも大量に入っていた。
 

龍虎本人がまだしばらく声変わりはしたくないと言っているので男性ホルモンが上半身には効かないような流れを作っている。彼の男性機能はやはり小さい頃に大病をしたせいか、元々かなり弱い。それについては逆に活性化するようにしたので、龍虎は
「最近すごくオナニーしたくなるんです」
と言っていた。
 
もっとも詳しく聞いてみると、今まで月に1度くらいオナニーしていたのを最近週に1回くらいしてしまうということなので、性衝動も普通の男の子よりかなり弱いもののようである。
 
「男性ホルモンの量がやはり増えているみたいだから、バランス取るのに女性ホルモンの量も少し増やすね」
「はい」
と言ってから龍虎は
「それでおっぱい大きくなりますか?」
などと訊く。
 
青葉は彼の言葉に「不安」ではなく「期待」を感じ取ったので訊いてみた。
 
「おっぱい大きくなった方がいい?」
「いえ。まだ今のままでいいです」
「じゃ、胸には女性ホルモンが効き過ぎないようにしてるから大丈夫だよ」
 
と青葉は言ったが、彼は少し迷っている風。おっぱい大きくしようかどうか本人も悩んでいるふうだ。
 
「大きくするのはいつでもできるから。でもいったん大きくしちゃったら、元には戻せないからね」
「じゃ、しばらくはまだ男の子みたいな胸でもいいです」
 
龍虎は言った。
 
ふ〜ん。「まだ」「男の子みたいな」胸ね〜。
 

ユニバーシアード女子日本代表は6月24日から7月1日まで東京の味の素トレセンで練習を行い、2日に渡韓、3日にカナダとの練習試合をした後、5日から本戦に入った。千里はその途中、26日夜から27日朝まで外出して大阪まで往復してきて阿倍子の出産をサポートした。ただし実際に阿倍子が出産したのは28日の午後であった。
 
まだ東京で合宿をしていた6月30日のことである。同時期に行われていたフル代表の合宿に参加していた玲央美は千里を誘って夕食に行こうと思い、千里の部屋まで行った。トントンとノックするが返事が無い。
 
「千里〜、寝てる?」
と言ってドアを開けて中に入ると不在である。
 
ベッドはきちんと整えてある。千里にしても玲央美にしても、ベッドから出たらすぐ布団をきちんと直す癖があり、一度4人部屋で江美子・彰恵と泊まった時に「あんたら行儀いいー」と言われた。江美子などは抜け殻にするタイプだ。
 
「トイレでも無いよね?」
と言いながらユニットバスのドアを開けるが不在である。
 
「ちょっと席を外しているのかな」
などと独り言を言いながら、机の上をふと見ると、何とも不思議な小型の蓄音機??のような物が置いてある。
 
「何だ、これ?」
と言いながら手に取る。
 
玲央美はしばらくそれを見ていたが、たっぷり1分くらい眺めてやっとその正体が分かった。
 
「搾乳器じゃん」
 
玲央美はしばし悩む。あの子、随分以前に腹帯を持っているのを見たこともある。「ごめーん。妊婦ごっこ」と言っていたが、これは「授乳ごっこ」か?まあ、他人のことは言えないけど、あの子も変態だからなあ。あの子、実際には子供を産むことができないから、たまにこういう遊びをしたくなるのだろうか。
 
などと考えてから玲央美はふと、自分自身は結婚して(しなくてもいいけど)子供を産むのって、いつ頃になるんだろうと思った。バスケずっとしてたら産むチャンスが全然無い気もする。そもそも今まで恋愛なんてしたことも無かったからなあ。中学生の頃から、バスケしかしてないもん。でも千里って高校の時に出会った時に、既に細川さんと恋愛してたんだよな、と思ってハッと気づく。
 
そうだ! 細川さんの奥さんが一昨日だったか子供を産んだんだった。
 
ああそれで急に寂しくなって、こんなもので自分も子供を産んだような気分を味わっているのかなあ。奥さんが産気づいて動けずに苦しんでいたのを病院に運んであげたと言っていたし、その時、病院の売店で買ってきたのかも。
 
玲央美はそんなことを考えていた。
 
その時、ドアがバタンと開いて千里が入ってくる。
 
「あ、レオ」
「千里、食事行こう」
「うん、行こう行こう」
 
と言って千里は笑顔で玲央美と一緒に1階の食堂に向かった。
 

「ディーゼルのパワー、すげー!」
 
新車を買ったので取り敢えず記念走行で千葉から青森まで「ひとっ走り」した優子はアテンザ・ワゴンXD(2.2L Diesel 6MT)の走りに大満足であった。
 
彼女が津軽SAで休憩していたら、今到着したっぽい若い男の子3人組が中に入ってくる。そして優子が1人なのを見て声を掛けてきた。
 
「ね、ね、君、ひとり」
「ひとりだけど?」
「彼氏居ないの?」
「私レズだから」
「おっすげー」
「だから男の子とは付き合えないよ」
 
「でも君、この付近の子じゃないみたい」
「うん。北陸の方だけどね」
「車何?」
「赤いアテンザ」
「あ、何か走りそうな車だなあと言ってた所」
 
「ね、ね、福島あたりまで一緒に走らない?」
「走るだけならいいよ」
「じゃ飯食うまで待っててよ。あ、君は御飯は?」
「まだ」
「じゃ何かおごってあげるよ」
「まあ、そのくらいはおごられてもいいかな」
 

その日龍虎は(もちろん学生服を着て)学校に出て行くと、クラスの女子たちにつかまる。
 
「ね、ね、龍ちゃん、昨日のテレビ凄かったね」
「ああ、言われると思った」
「あのキスって本当にしたの?」
「寸止めだよ」
「やはりそうかぁ」
「それ議論してたんだよ」
 
昨日アクア(龍虎)が出演したドラマで、女子中学生役のアクアが友人の兄の男子大学生にキスされるシーンがあったのである。ここでアクアが同時に演じている男子中学生(女子中学生の兄)の方は、その妹の友人と割と良い仲という複雑な状況である。
 
「監督さんがやっちゃわない?と言ったんだけど、僕がまだ女の子ともキスしたことないのに、男の人とキスするの嫌ですと言ったら寸止めにしてくれた」
 
「やっぱり龍ちゃんって、女の子とキスしたいんだっけ?」
「ボクはノーマルだよぉ」
 
「ノーマルって普通に男の子が好きって意味?」
「女の子が好きだよ!」
「自分自身が女の子の格好をするのが好きだとか」
「違うよ!」
 
「でもこないだの夕方、龍ちゃんスカート穿いてコンビニに居た」
 
「それ困ってるんだよ。こないだ、ボクが破れたジーンズ穿いて歩いてたの週刊誌に撮られちゃったでしょ。そしたら事務所の人が来て『写真に撮られたら困るような衣類は撤去します』と言ってさ、古い服とか破れてるのとか、デザインに難がある服とか、全部持ってっちゃって。それで今ズボンが1本も無いんだよ。だから家ではスカート穿いてるんだよね。今通販でズボン何本か頼んでるから、それが来たらやっとズボンで外出できる」
 
「なるほどー」
「でもそれでスカートで出歩ける所が龍ちゃんだな」
 
「ボクの部屋、スカートとかワンピースとか可愛いのがあふれてんだよ。古くからの知り合いのお姉さんがよく送ってくるし、ファンの人たちから贈られてくる服が全部女の子のだし」
「ああ、女物の服を贈りたくなる気持ちは分かる」
 
「スカート姿は週刊誌とかに撮られてもいいの?」
「別に構わないと言われた。今時男の子がスカート穿いても変態じゃ無いしと」
「ふむふむ」
 
「お父さんのズボンとか穿けなかったの?」
「ウェストが違いすぎて無理」
「龍ちゃん細いもんねー」
 
「でも龍ちゃんのスカート姿って何も違和感無いもんね」
「ドラマで見せてる女子制服姿も全く違和感無いよね」
「そうそう。ふつうに女子中学生にしか見えない」
「あの制服、撮影が終わったらもらえないの?」
「そんなのもらっても困るよ!」
 
などと言っていたら、龍虎と小学2年生の時以来の親友の彩佳がバラしてしまう。
 
「龍はうちの学校の女子制服も持ってる」
 
「え〜〜〜!?」
 
「やっぱり女の子の制服着たいんだ?」
「だったら、それ着て学校に出ておいでよ」
 
「いやだからボクは別に女の子になりたい訳じゃないから」
 
「それならなんで女子制服持ってるのよ」
「要らないというのに、知り合いのお姉さんがボクのサイズに合わせて作って送って来たんだよ」
 
「何て親切な」
「着てみた?」
「着るだけは着てみた。サイズがちゃんと合うかどうか確認してと言われたし」
と龍虎。
「その試着を私見たんだよね。リボンの結び方が分からないと言うから教えてあげた」
と彩佳。
 
「私もその女子制服姿を見たい」
「今度1度それで出てきてよ」
「やだよー」
「じゃ、学校に持って来て、ここでちょっと着てみるとか」
「なんで〜?」
 
すると彩佳がまた言う。
「じゃ、私が龍のお母さんから預かって持って来て、学校でみんなで着せて鑑賞しよう」
「え〜〜〜!?」
 
「写真は禁止で。万一流出したらまずいから」
と彩佳は付け加えた。
 

ユニバーシアード本戦。
 
予選リーグC組を2勝1敗の2位で通過した日本女子は9日準々決勝に臨んだ。相手はD組1位のオーストラリアである。この日の対戦はこのようになっていた。
 
カナダ(A1)−チェコ(B2)
アメリカ(B1)−ハンガリー(A2)
ロシア(C1)−台湾(D2)
オーストラリア(D1)−日本(C2)
 
今回の日本代表のメンツは全員過去に何かの大会や練習試合でオーストラリアと対戦した経験がある。実際今回の相手チームの顔ぶれを見ても、千里が見覚えのある選手が何人も居た。しかしそれは向こうも同じである。お互いの手の内はだいたい分かっているので、真っ向勝負になると千里たちは思っていた。一応前夜に相手の中心選手の最近のプレイ映像を見て研究した。
 

試合は夕方20:30から始まる(韓国は日本と時差が無い)。
 
この試合に篠原監督は中核トリオ(絵津子・純子・絵理)を先発させた。SGを入れない構成である。彼女たちには前半で全部エネルギーを使い切るつもりで行けと言っている。実際彼女は頑張った。
 
先日のカナダとの練習試合では背の高さに負けた彼女たちだが、カナダ以上に長身のオーストラリア・チームにスピードとコンビネーションで対抗していく。3人を時々休ませるために出した王子や晴鹿も出て行く度に良い動きを見せた。それで前半は21-20, 16-15と接戦で進んだ。
 
後半、千里・江美子・彰恵の修士OG組を出す。向こうは千里を超危険人物と見て徹底的に千里をマークする作戦で来る。それでもその分手薄になった防御をやぶって江美子・彰恵が得点を重ねていく。それで第3ピリオドは20-21として合計でも57-56と1点差に迫る。
 
最終ピリオドはいったん彰恵を休ませて王子を出す。更に途中からセンターを下げて彰恵を戻し、ポイントゲッター4人による猛攻を掛ける。
 
これで相手を突き放すことに成功。このピリオドを14-27で大量リード。合計で71-83で快勝した。
 
これで日本はBEST4となり、準決勝に進出した。
 

準決勝、他の試合はカナダ・ロシア・アメリカが勝っている。つまり予選リーグを2位通過したチームで準々決勝に勝ったのは日本だけである。そして残る3つの国は無茶苦茶強いところばかりである。
 

絢人はドキドキしながら左右を見渡した。誰も居ない。耳を澄ます。中にも誰も居ないようだ。絢人はそっとドアを開けて中に入った。
 
スポーツバッグの中から学生服とブラウス、ズボンにスカートを出す。そしてドキドキしながら着ていたジャージを脱ぐ。汗を掻いているのでパンティとアンダーシャツをすばやく交換。その上にブラウスを着て、スカートを穿く。
 
ふと見たら大きな鏡がある。こんなの男子更衣室には無いなあと思った。自分を鏡に映してみる。ブラウスを着てスカート穿いている。これで女の子に見えないかなあなどと思う。でも髪が短すぎだよな。髪伸ばしたいなあ。
 
ふっとため息をつくと絢人はスカートの上にズボンを穿き、ブラウスの上に学生服を着た。
 
長居して誰かが入って来たらやばい。
 
絢人は忘れ物がないことを確認してから、またそっと戸を開け外に出て戸を閉め、素早く立ち去った。
 
絢人は女子更衣室を出たあとは左右も見ずに一目散に自分の教室の方へ足早に歩いて行ったので、その後ろ姿を見て首をかしげる女の子の姿があったことに、彼は気づかなかった。
 

優子は実家の母からの電話に困惑した。
 
叔父が連鎖倒産に巻き込まれて破産したというのである。それで父が保証人になっていた800万円の借金がこちらに掛かってきたのだという。
 
「持っている株を全部売って、銀行からも何とか300万円借りて、取り敢えず600万円は返す目処が付いたんだよ。あんたさ、200万円か、せめて100万円くらい、融通できない?」
 
「私も安月給だよぉ。貯金も無いし」
 
優子は株も含めて80万円ほど預金があったものの、全部新車の頭金にしてしまっている。
 
「今度のボーナスは?」
「全部行き先が決まってる」
「じゃせめて50万円くらいでも」
「無理だよぉ」
「サラ金とかは?」
「娘をサラ金に行かせるの?」
 
最後はやや喧嘩気味に電話を終えた。
 

それでもやもやした気分で会社に出ていった優子はそこで更に衝撃的な話を聞くことになる。社員全員、食堂に集まってくれというのである。何だ何だと思いながら行くと、社長が前に出てきたかと思うといきなり土下座する。
 
「社員諸君、申し訳無い。我が社は倒産した」
 
はぁ〜〜!?
 
ちょっと待ってよ。だったらボーナスは? いや、その前に今月のお給料出るんだよね?
 
優子は呆然として社長の説明を聞いていた。
 

桃香は優子から電話があった時無視していた。それでメールが送られてくる。
「恋愛関係の話じゃないから、ちょっとだけ相談に乗って欲しい」
 
それであまり気は進まなかったものの、結局居酒屋で優子と会うことにした。
 
「実はお金の話でさ」
と優子が切り出すので
「私、貧乏だよ。貯金も無いし」
と桃香は釘を刺しておく。
 
「まあ桃香はあまり貯金の出来ない女だというのは分かっている」
「優子に勧められて買った株とかも、もう全部手放してしまったんだよ」
「だろうとは思ってた。それでね」
 
と言って優子は自分の状況を説明する。
 
前の車が壊れてしまったので貯金をはたいて5年ローンを組んで新車を買った。初回の支払いは済ませたものの、8月にはボーナス払いで22万円ほど払わなければならない。そんな時、実家の父が保証かぶりをして800万円の返済義務を負ってしまった。600万円までは目処が付いたものの、あと200万円こちらで融通できないかと言われている。そんな時、優子自身が勤めていた会社が倒産してしまい、ボーナスが出ないどころか今月の給料も少し待ってくれと言われている。
 
「どうしたらいいかと思ってさ。サラ金には手を出したくない。そもそも今、サラ金から借りようとしても在確できないから借りられない」
「会社は営業停止してるんだ?」
「債権者からロックアウトされてる」
「ああ」
 
桃香は考えたが結論はひとつである。
 
「優子、その車を売りなよ」
「やはりそれしか無いか!」
 
「どっちみちそれボーナス払いを払えないでしょ?」
「うん」
「返済が滞ったら期限の利益を喪失するから、残額一括返済を求められる。結果的に車は手放さなければならない」
「そうなんだよねー」
「だったら売っちゃっても同じ。優子、その車の名義は誰になってるの?」
「ディーラー系のローン会社。実は季里子が勤めているお店で買ったんだよ。だから季里子には言えなくてさ」
「なるほどねー」
 
「ディーラー名義の車って売れるんだっけ?」
「売れる。ただし販売代金の内ローン残高はディーラーに支払われて残りをこちらが受け取ることになる」
「ローン残高の方が売却代金より高かったりして」
「幾ら払ってるの?」
「頭金80万円、初回の支払い2万で合計82万円」
「いくらの車だっけ?」
「360万円」
「だったら残債は320万円くらいかなあ」
「そんなに残ってるんだっけ?」
「繰り上げ返済で利子が軽減されるから、もしかしたら300万円くらいになるかも」
 
「うーん。でも売却する場合、いくらで売れるかな」
「どのくらい走った?」
「2000kmくらい」
「それいつ買ったのさ?」
「先月」
「相変わらず激しいなあ」
 
と言って桃香は大きく伸びをする。
 
「まあ250万円くらいかなあ」
「え〜〜!?」
「車はいったん個人の手に渡った途端、価値は7割になるんだよ」
「うう」
「それでも放置しておいて督促来てとか考えるよりはマシ。それに車を売るにしても、できるだけ早く売った方が高く売れる。ローンは放置すると延滞金が掛かる」
「ぐう」
 
優子も悩んだものの、桃香の言う通りだと思う。
 
「仕方ない。売ろう。どこなら高く買ってくれると思う?」
「まあ***かな」
「そこかぁ」
 

雨宮三森はぶつぶつ言っていた。
 
6年前、千里が北海道から千葉に引っ越してきた時、うまく乗せて中古のインプレッサを買わせた。当時千里がまだ未成年で車の法的な所有者になれなかったので、雨宮が名目上の所有者になった。実際にはその車に関する費用は全て千里が払っている。ところがそのインプが最近不調で、見てもらったらもう寿命だというので買い換えたいと言ってきたので了承した。
 
「私、日本代表の合宿と大会とで全然車屋さんに行く時間が無いんですよ。申し訳ないのですが、先生適当な車を見繕ってもらえないでしょうか?」
「そうねぇ。フェラーリ・カリフォルニアTとかどう?」
「2シーターは困ります」
「あら、これ4人乗りよ」
「国産がいいです」
「NSXとか」
「予算300万円以内で」
「それなら詰まんない車しか無いと思うなあ」
「ステーションワゴンかハッチバックで。2000cc程度以上で」
 
などと会話している内に雨宮は、いつの間にか千里の代わりに車を探してやることをなしくずし的に同意したも同然になっていることに気づく。ちょっと不愉快だ。あんにゃろ。帰国したら作曲30曲くらい押しつけてやる。嫌がったら恥ずかしい格好した写真をバラまくぞと脅してもいいかな。
 
「でもその予算でそのスペックは結構限られるよ」
「中古車でいいですよー」
「まあそれなら何とかなるかもね。MTだよね?」
「当然です。ゴーカートなんて女の乗り物ですよ」
「あんた男だっけ?」
「秘密です」
 
それでぶつぶつ言いながらオークションを見ていたら、アテンザワゴン2015年式2.2L Diesel 6MT 走行距離1800km、320万円というのが出ているのに気づく。
 
「いやに強気の値段設定じゃん」
 
と思って詳細を見てみると、買ったばかりの車でむろん無傷・未改造だし、まだ半月しか乗ってないものの、会社が倒産してローンを払えなくなったので売りたいと書かれている。購入価格は360万円らしい。
 
ふーん。。。。
 
雨宮はそれで出品者と何度かやりとりをした末、実物を確認できるかと尋ねる。いいですよということだったので見に行くことにした。
 

韓国光州でのユニバーシアード。準々決勝から1日置いて11日には準決勝が行われた。組合せはロシア−カナダ、アメリカ−日本である。
 
アメリカはもちろんメチャクチャ強い。千里たちは勝敗は考えずにとにかく全力で行こうと話し合った。
 
日本は雪子/千里/江美子/彰恵/王子というオーダーで出て行った。実はセンターが居ないのだが、王子が長身なので、向こうは彼女がセンターなのだろうと思った感じもあった。
 
実際ティップオフは王子がセンターサークルに立ちジャンプする、190cmの長身のアメリカ人センターに勝ってボールを江美子の所に飛ばす。江美子から千里に速いボールが送られ、無警戒だった所でいきなりスリーを撃つ。
 
あっという間に3点取った所から試合は始まった。
 

向こうはこちらをあまり研究していないのが明らかだった。王子は体格がいいので、アメリカのフォワードにも全く当たり負けない。そして千里がどんどんスリーを放り込む。そういう「大砲」系に気を取られていると江美子や彰恵が相手のちょっとした隙間から進入しては素早い動きでゴールを奪う。そしてこの4人は、みんなファウルで停められてもフリースローを全部入れる。
 
ということで第1ピリオドは向こうが何もできない内に大量リードを奪い、16-30とダブルスコアにしてしまったのであった。インターバルで引き上げるアメリカの選手の顔がこわばっていた。
 

第2ピリオドは向こうは気合いを入れ直して出てきた。特に千里と王子には守備のうまい選手を付けて、この2人を封じる作戦で来る。そして向こうもこのピリオドはセンターを入れずにひたすら点を取る方式で来た。こちらが前ピリオドで頑張りすぎてやや疲れが出たこともあり、このピリオドは20-13と向こうがダブルスコアに近い得点。前半の合計は36-43と7点差まで迫られた。
 
後半最初は千里・江美子・彰恵を下げて絵津子・純子・絵理のトリオを投入する。前半のパワー勝負の陣営とはまるで性格の違う攻撃に相手はかなり戸惑う。それでも地力に勝るアメリカはじわじわと得点を重ねて21-15とし、ここまでの合計で57-58とわずか1点差まで詰め寄った。
 
第4ビリオド。相手は全力で猛攻を掛けてきた。さすがにこちらは防戦一方になる。逆転されて73-68となったところで篠原監督がタイムを取る。しかし特にお話は無い。
 
「まあお前ら、あの相手に勝てるとは思うな。楽しくやろうじゃないか」
とだけ監督は言った。
 
「うん、楽しくやろう」
と江美子も言うと
 
「韓国のお土産は何がいいかなあ」
などと千里も言う。
 
それでも雪子がかなり精神的なゆとりを無くしている感じなので由姫を入れる。あとは千里/江美子/純子/王子というメンバーで出て行く。王子はそもそも空気を読めない性格なので、焦ったりすることもない。こういう場面では貴重な駒である。
 

それで日本側が笑顔で出て行くので、むしろアメリカが戸惑っている感じ。しかしここから日本は頑張った。純子がサポート役に徹して、千里や江美子とのコンビネーションプレイでうまくフリーにしてやる。その一方で王子は相手フォワードと対等に渡り合い、向こうがダンクしようとしたのをブロックしてみたり、逆に相手を押しのけてこちらがダンクを決めたりする。じわじわと追い上げて残り20秒で77-74と3点差。日本の攻撃。
 
相手が物凄いプレスに来たものの、純子と交代で入っていた絵理が細かく動きまわり、うまくフロントコートにボールを運ぶ。千里がスリーを撃つ構えなのを見て2人がかり、ファウル覚悟で停めに来た感じであったものの、千里は先に反対側に居る王子に送る。王子がそのままスリーを撃つ構え。それでそちらに相手のセンターが寄って行く。王子はジャンプしたもののシュートせずに空中で体勢を変えて由姫にボールを送り、由姫はそのまま千里にボールを回す。
 
千里はこの時エンドラインぎりぎりのコーナーまで走って行っていた。そこからほぼ真横に撃つスリー。
 
これが入って日本はギリギリで77-77に追いつく。
 
そしてその後アメリカが攻めて来るもののブザー。
 
試合は延長戦に入った。
 

延長戦、こちらは由姫/晴鹿/絵津子/彰恵/路子というメンツで出て行く。全員かなり消耗しているので、ここまで比較的消耗の少なかったメンバーを使う。それで向こうの消耗が激しかったこともあり、一時はこちらが4点リードする。しかしそこから向こうが必死に食い下がり、いったんは相手が逆転。しかし最後残り5秒から路子の取ったリバウンドを絵津子→晴鹿とリレーして晴鹿がブザービーターでゴールを決め、ギリギリでまたまた追いつく。
 
それでダブル・オーバータイムとなる。
 
第6ピリオドはお互いに総力戦となった。どちらもクタクタに疲れているものの序盤は何とか対等に進む。しかし途中でとうとう日本側が力尽きるような感じになり8点差を付けられてしまった。
 
しかしここでまた日本はタイムを取って気合いを入れ直す。必死に追いすがり、逆にこちらの猛攻で2点差まで詰め寄った。
 
しかし最後は絵津子のシュートが入ったかと思ったのが跳ね返って飛び出してきたところを相手フォワードが確保。そのまま自分でドリブルして反対側のゴールまで走って行き、そのままボールをゴールに叩き込んだ。もう残り12秒でのプレイであった。ゴールを決めた選手と必死で追いかけた雪子とがはあはあ大きな息をして見つめ合っていた。
 
そこから最後日本も必死の攻撃を試みるも、及ばず。結局4点差のまま終了のブザーが鳴る。
 
102-98.
 
激戦を制したアメリカが決勝に進出した。
 
終了後、握手し、ハグし合う選手も多くあった。
 

「きれいね」
と雨宮は言った。
 
「車は大事に扱いますから」
と優子は答える。
 
「確かに登録日が先月だ」
と言って車検証を確認する。
 
「じゃこの車が売れたら、それでローンを一括返済する訳ね」
「はい。そうです。それで名義を書き換えて、そちら様に引き継ぎますので」
 
「半月で1800km走ったのか」
「その内の1500kmは買った直後に青森まで試走した距離なんです」
「じゃ、ほんとに大して乗ってないんだね」
「それで手放すのは悔しいんですけどね」
 
雨宮は考えた。
 
「でもその段取りだと私がお金払ってから、こちらに引き取れるまで時間がかかるよね」
「できるだけ迅速に処理しますので」
 
「だったらその時間の掛かる分を引いて300万円にできない?」
「うーん。それだとローンの残高を払いきれないんですよ」
「じゃ308万」
「うーん。。。316では?」
「310」
「314」
「310万5千円」
「うーん。分かりました。310万5千円でいいです」
と優子は妥協した。それではお金は残らない。できたらいつ入るか分からないお給料が出るまでの生活費を確保したかったのだが。それでもローンはたぶんぎりぎりクリアできる。
 
それで優子がこの取引に関する念書を書き、雨宮はその場で310万5千円の現金を手渡した。
 
「わ、ありがとうございます。現金で即もらえるとは思わなかった」
と優子は感激している。
 
「私と寝てくれたら10万円足してもいいけど」
「あ、寝るくらい全然平気です」
「ほんとに!?」
「ベッドの上でサービスしますから、ぜひ10万足してください。今月生活費も無くてどうしようと思ってたんですよ」
「寝るって意味分かってるよね?」
「そりゃ分かりますよ。それに私レズだもん」
 
「・・・・私男だけど」
「うっそー!?」
 

季里子は優子から話を聞いてびっくりした。
 
「それは大変だったね」
と最初に優子自身のことを心配してくれる。ああ、友だちっていいなあと優子は思った。
 
「それで車を勝手に320万円で売っちゃったのよ」
「それ先にこちらに一報して欲しかったけどね」
「ごめーん。それで残額を一括返済したいんだけど」
「分かった。今計算させるね」
 
それで季里子が計算してくれた所、残債は290万円支払えばよいということであった。
 
「助かる〜。残債の方が多かったらどうしようと思ってたんだよ」
 
それで優子がその場で現金で290万円払う。経理の人が金額を確認して領収書とローン完済の書類を作ってくれた。名義変更はすぐに手続きをするということであった。
 

「あ、お母ちゃん。私、車売ったから」
と優子は実家の母に電話して言った。
 
「あんたかなり年代物の車に乗ってなかった?」
「うん。でも40万円で売れたから、その代金そちらに送るね」
「ほんと!?助かる。ごめんね。負担掛けて」
「ううん。東京に出てくる費用とか出してもらったしね」
「でも車無いと不便じゃ無いの?」
 
優子の実家の地域なら、車無しでは生活が不可能である。
 
「当面は自転車で走り回るよ。また貯金して中古車の安いのでも買うよ」
「うん。でも気をつけてね」
「ありがとう」
 

電話を切った優子はそばに居た桃香に言った。
 
「ありがとね。じゃ次の仕事先が決まってお給料出たら少しずつ返すから」
「困った時はお互い様だよ」
と桃香は言う。
 
車の売却差額は30万円(一晩変な男の人?と寝た報酬を含む)だったのだが、桃香が少し貸してくれたのである。桃香も「もうすぐボーナスだし何とかなるから」と言っていた。
 
「ところで桃香、今誰と付き合ってるんだっけ?」
「私は千里ひとすじだよ。同棲してるし」
「その子はあくまでホームグラウンドなんでしょ」
「うーん。。。まあ燐子なんだけどね」
 
「あれ?燐子、こないだ会ったけど、あの子結婚したんじゃないの?」
「いや、してないはずだが」
「だってあの子、妊娠してたよ」
「何〜〜〜〜!?」
 
「父親は桃香?」
「え〜?ちゃんと毎回付けてたつもりだけどなあ。。。。ってちょっと待ってくれ。私には精子は無いと思うんだけど」
「いや、桃香ならあり得る」
 

7月12日。光州では各順位決定戦が行われ、その最後に21:00から3位決定戦が行われた。準決勝のもうひとつの試合ではカナダがロシアを倒したので日本の相手はロシアである。結局練習試合で対戦したカナダとは本戦では戦わないこととなった。
 
ロシアとは予選リーグでも戦っている。お互いの強さは充分分かっている。厳しい戦いになることが予想された。
 
実際試合が始まると、向こうは予選リーグの時と同様、千里を封じる作戦で来るが、千里もそう毎回毎回はやられていない。この日の千里はかなり相手のマークを外して動き回り、第1ピリオドで2本のスリーを放り込んだ。それで第1ピリオドは20-18と1ゴール差の接戦となる。
 
すると第2ピリオド、向こうは千里をダブルチームで停めに来た。残りの3人でこちらの4人を相手にするリスキーな戦略だが、第2ピリオドに投入された向こうの選手はもう前半だけでエネルギーを使い切るくらいのつもりでこちらと対峙していた。結局このピリオド20-9と大きく水を開けられる。
 
第3ピリオドでは、こちらは千里・晴鹿のダブルシューターの方式で出て行く。千里を封じていても晴鹿がけっこうなスリーを放り込むので、このピリオドを16-15と接戦で乗り切る。
 
そして最終ピリオド。日本は無理な戦術で疲労が目立つロシアに対して千里の他はフォワード4人という超攻撃的布陣で猛攻を掛ける。これで一時は64-58と相手を射程距離に捉える。しかしここからロシアも必死の反撃をして突き放しに掛かる。
 
終わってみれば71-60と11点差が付いていた。
 
どちらも試合が終わった時は力尽きて立てない選手が多数居た。ロシアとの試合は予選リーグの時も終わった途端座り込む選手がいたのだが、この3位決定戦では、審判が整列を促しても「Wait a moment」と言って、立ち上がるのにかなり時間を要する選手が何人も居た。
 
こうして日本は3位決定戦に敗れ、今大会は4位に終わったのであった。
 

桃香は燐子を呼び出して妊娠の件について問い糾してみた。すると燐子は泣きだして、レイプされ妊娠していることを桃香に打ち明けたのである。
 
「それいつやられたのさ?」
「3月中旬なの」
 
桃香は暦計算サイトで日数を計算してみる。
 
「ちょっと待て。これもう19週だぞ」
「うん。どうしようかと思ってた」
「どうしようって産むのか?」
「産みたくない。産んじゃったら、あいつと結婚せざるを得なくなると思う。あんな奴と結婚したくない」
「だったら中絶する?」
「したいけど、できるんだっけ? 私流産しないかなと思って水風呂に入ってみたり重い物持って階段上り下りしたり」
「それ燐子が死ぬぞ」
 
それで燐子に強く言って産科に電話させる。ところが最初の病院ではそんなに週数の進んだ中絶はできないと断られてしまう。2番目の病院は少しは話が分かりそうだった。『一応法的には21週6日までは中絶できることはできるのですが』などと言っているので途中で桃香が変わり、レイプされて、妊娠が知れると結婚を迫られるのは確実だが、暴力男なので結婚すれば不幸になるのは確実だから結婚したくない。それで子供も産みたくないのだということを強く主張する。それで向こうも途中で先生自身が電話に出てくれて『取り敢えず来てごらん』と言ってもらったのである。それで費用を尋ねると、30万円+諸費用と言われる。
 
「分かりました。取り敢えず30万持ってそちらにお伺いします」
と桃香は電話で言った。
 
「私、30万円も無いよぉ」
と燐子は情けない声で言う。
 
「友だちに借りる」
と言って桃香は冬子に電話した。
 

冬子は幸いにもお金を貸すことを快諾してくれて、取り敢えずこちらにおいでと言う。それで燐子と一緒に冬子のマンションを訪問。冬子は現金でお金を渡してくれた。そして政子が自分の車でふたりを病院まで運んでくれた。先生はあらためて燐子の話を聞き、そういう事情なら中絶しましょうと言ってくれる。手術は明日行うことにして、その日は入院していろいろ検査を受けた。
 

ユニバーシアードに出場していた千里は13日の決勝戦・表彰式を客席から見学した後、14日に帰国した。その日はバスケ協会や文科省などにも報告に行き、14日夕方に解散式をおこなった。
 
千里はその足で車屋さんに行き、修理不能と言われたインプレッサを引き取った。雨宮先生からはほとんど新品同然のアテンザワゴンが定価の2割安くらいの価格で手に入ったという連絡を受けていた。ただ名義が最初ローン会社の名義になっていたのをいったん、前オーナーの名義に書き換え、更にそれを雨宮先生の名義に再変更するというので(なぜ私の名義じゃないんだ?とは思ったがいいことにした)千里に引き渡すのにあと少し待ってくれと言われた。一応14日のうちに代金+雨宮先生への御礼で320万円を振り込んでおいた。結果的には雨宮先生はタダで優子を1晩抱いたようなものであるが、そのような出来事が起きていたとは、千里は知るよしも無い。
 
14日の夜は千里と桃香は久しぶりに一緒に寝た。
 
ここで千里はユニバーシアードで3位決定戦にも敗れてメダルを取れなかったのが悔しい気持ちでいた上に6年間乗ったインプをもうすぐ手放すことになるのもあって色々複雑な心情だった。一方の桃香はこの日の日中に燐子の中絶手術に立ち会い、おとなの事情で小さな命を消したことに罪悪感を感じていた。
 
それでこの日はお互いをかなり激しく求め合い、睦みごとは長時間に及んだ。
 
「千里今日は疲れているみたい?」
「うん。まあメダル取れなかったしね。桃香こそ何かあったの?」
「うん。まあ聞かないでくれ」
 
千里は最近付き合っていた燐子ちゃんと破局したのかな、などと想像した。
 
「あ、それで千里が折角戻って来たのに、私は明日から泊まり込みの研修なのだよ」
「大変だね!どこで?」
「熱海に6泊7日。帰りは21日になる」
「分かった。行ってらっしゃい」
「女子のみの研修なんで、最初私は対象になっていなかったらしい。でも私が女だというのが分かって急遽対象になったんだよ」
 
千里は考えた。
 
「桃香最近性転換したんだっけ?」
「性別変更届って書いたぞ」
「はぁ!?」
 
「それですまんが」
「ん?」
「実はお金を使い果たしてしまって、少し貸してくれない?」
「え〜〜!?こないだ15万貸して、まだ月半ばなのに」
「ごめーん」
「まあいいけどね。5万くらいでいい?」
「うん」
「じゃ明日の朝、桃香の口座に振り込んでおくから、現地のATMで引き出してよ」
「助かる」
 
 
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