【春輪】(下)

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15日(水)朝、桃香を送り出してから千里はさすがに今日は休ませてもらおうと思い、40minutesの麻依子、レッドインパルスの靖子さん、そして午前中の体育館での練習仲間である玲央美に連絡した。ところが玲央美は
 
「私も今日まで休み。今日までフル代表の合宿をNTCでやってるんだよ」
と言う。
「ごめーん。じゃ他の誰かに連絡しておくか」
「あれ、メーリングリストか何か作ろうよ」
「うう。そのあたり私、さっぱり分からない」
「千里、確かSEだったよね」
「それはそうなんだけどねー」
 
「あ、そうそう。ユニバーシアードBEST4おめでとう」
「ありがとう。メダルが欲しかったんだけどね」
「あ、それでうちの山野さん(女子フル代表監督)が千里に話があるらしい」
「山野さんが?何だろう」
「私も内容は聞いてないんだけどね(ということにしておこう)」
 

この時点で千里は何か情報が欲しいのかと思っていた。女子フル代表は8月末から9月上旬に掛けて、アジア選手権(兼オリンピック予選)に出場する。そこで中国・台湾・韓国と対戦するが、この3チームは今回のユニバーシアードにも出場していた。選手は違うだろうが戦術などは似たものである可能性もある。ただしどのチームとも対戦していないので、あまり提供できそうな情報は持っていない。そもそもそういう話を聞くなら、自分よりもっと物事を冷静に見られる彰恵か雪子あたりに聞いた方がいいと思うのである。千里の分析はよく言えばアナログ、ハッキリ言えばアバウトである。
 
それで千里が首をひねりながらもインプを走らせてフル代表の合宿が行われている北区の味の素NTCに行く。入口で千里はフル代表監督の山野さんに呼ばれたのでと言おうとしたのだが、それより前に
 
「あ、村山さん、どうぞどうぞ」
と言われて通してくれた。確かにここも常連になってるからなあ〜、などと思う。 
それで受付で来訪の趣旨を言うと応接室に通される。そして出してもらったコーヒーを飲みながら待っていると5分ほどで山野監督と、フル代表のチーム・リーダー坂口さんが来る。何だ何だ?と思う。
 
「村山君、僕たちと面識あったよね?」
「はい。過去に色々な機会でお目に掛かっています」
 
「まあそういう訳で、これ君のスケジュールね」
と言って山野さんは千里に7−9月のカレンダーに色々書き込みのあるものを渡した。
 
「えっと。何でしょうか?」
「君をフル代表に招集するから」
 
「え?でもフル代表って既に12名決まっているのでは?」
「それは現時点での12名だから。その12名が安寧にそのままアジア選手権の代表になれると思ってもらっては困る。競争を生き抜いたものだけが最終的に代表になれる」
 
「え〜?入れ替えアリですか」
「うん。君の他に、ユニバ代表の中では鞠原(江美子)君、あと千鳥君・大高君も追加招集することになった。千鳥君と大高君には先週通達して既に今日までの合宿にも参加してもらっている。鞠原君にはユニバに行く前の段階で話していたのだけど、村山君の場合、一時的なブランクがあったので大会まで様子を見ようということになっていた。大会で体格の大きな欧米の選手にも全く負けずにプレイしていたので確定」
 
「ちょっと待って下さい」
 
千里はスケジュールを見る。
 
7.21-23 合宿(NTC)

7.24-31 オーストラリア遠征

8.01-10 ニュージーランド遠征

8.13-16 代表強化試合(東京)

8.18-28 合宿(NTC)

8.29-9.5 アジア選手権(オリンピック予選)中国・武漢

 
「全然空きが無いじゃないですか!」
「うん。この後、オリンピック予選まではずっと代表チームで活動してもらうことになる」
 
このスケジュール表の空きは今日から20日までの5日間と、ニュージーランド遠征と強化試合の間の8.11-12,17の3日くらいである。しかし海外遠征から帰ったあとの2日間というのは実際問題として身体を休めている以外のことはできないだろう。
 
「悪いけど、その間、所属チームの方は村山君抜きで頑張ってもらわないといけない」
 
この日程だと全日本クラブバスケット選抜とぶつかる。まあ選手権じゃないし「ごめーん」と言っておくかと千里は思う。そもそも40 minutesはみんな仕事や家の用事で平気で大会を欠席したりする。気楽さが基本だ。
 
「それと同じチームから申し訳無いけど森田(雪子)君をヤング代表の方に招集するから」
 
ヤング代表は今月下旬のウィリアム・ジョーンズ・カップに出場する。基本的には次世代のフル代表を育てるためのチームである。ユニバ代表の中では雪子と王子の2人がヤング代表の方に横滑りらしい。そちらの日程は全日本クラブ選抜とはぶつかっていないので、雪子は選抜には出られそうだ。
 
「本当に急で申し訳無いのだけど、日本がオリンピックの切符を掴むためには君の力がぜひとも必要なんだ。頼む」
と坂口リーダーが頭を下げる。
 
「でも私・・・仕事どうしよう」
 
ここで千里が「仕事」と言ったのは実は作曲の仕事の方である。雨宮先生からはしばらく合宿とかで書けなかった分、8月までに30曲書いてなどと言われたのである(10月末までに延ばしてもらった)。
 
しかし山野さんは千里のSEの方の仕事と取ったようである。
 
「その件だけどさ、僕の個人的な意見なんだけど、君、そこのソフト会社辞めたら? そして君、どこかのWリーグのチームに入るか、あるいは40minutes自体をプロ化しない? スポンサーになってくれそうな企業や社長やれそうな人を紹介してもいいよ」
 
と山野さんは言う。
 
あはは・・・私もあの会社辞めたーい。
 
「君がWリーグのチームに入りたいと言ったらたぶんみんな700万円くらいは年俸を出すと思うよ。SEも高給かも知れないけど、ほぼ見合うくらいの収入が得られると思う」
 
いや、あの会社給料はあまり高くないです!
 

そこで千里は16日、自ら会社に出て行き、専務にお話がしたいと言った。そしてユニバーシアード代表が終わったと思ったら、そのままフル代表に招集されてしまったことを話す。
 
「え〜〜〜!?」
 
「それで本当にこれ以上、ご迷惑掛けられないので、大変申し訳ないのですが、会社を辞めさせて下さい」
 
と言って千里はあらためて昨夜毛筆で書いた退職願を専務に差し出した。 
「うーん・・・」
と言って専務はしばらく目を瞑って悩んでいた。
 
「代表の日程はこの9月5日まで?」
「はい。ここで優勝することができたら、次はオリンピックまではあまり大したものは無いと思います。優勝できなかった場合は来年6月くらいの世界最終予選に出ることになります」
 
「じゃどっちみちその後はここまで連続ではないよね?」
「えーっとオリンピックの前にはたぶん長期間の合宿が」
 
「じゃそれは後日また考えよう」
 
あれ〜?辞めさせてくれないの〜? でも有休は使い切ったぞ。
 
「9月5日は土曜日だね。だから7月21日から9月4日までの間は休職ということで」
「あはは。休職ですか」
 
「休職中は給料は基本給の1割+社会保険料相当額を払うから」
と専務は言ったのだが
「いえ、それは申し訳無いので返上します」
と千里は言う。
 
「でも社会保険料は給与がゼロでも払わないといけないよ」
「じゃ、その分は会社の口座に振り込みますので口座番号を教えて下さい」
 
専務は更に考えていたが
「じゃ給料はゼロ、社会保険料相当額は会社で取り敢えず立て替えておいて8月のボーナスで精算」
 
「私、こんなに休んでいるのにボーナスとか出るんですか?」
「まあ大した金額ではないとは思うけど、社会保険料相当額くらいには充当できると思うよ。残金を君の給与受取口座に振り込むから」
 
そういう訳で千里はまたこの会社を辞めそこなったのである。
 

7月17日(金)。この日やっと阿倍子は退院の許可が出て、荷物をまとめていた。しかし・・・・結構量がある!
 
貴司は9日から19日まで東京で合宿中である。千里は14日まで韓国にいたはずで帰国はしているものの、次の合宿は21日からと聞いた。だから今回の合宿では貴司と千里は会っていないはずだ。千里本人は決して合宿所内で変なことはしていないと言っていたし、阿倍子としても信じていい気はするのだが、それでも同じ場所で合宿しているというのは、どうにもイライラする。
 
貴司は先月も6月15-22日、26日-7月2日と合宿をしているが、9日からまた合宿に行ってしまった。3-8日の間は大阪に居たものの、朝ちょっと病院に顔を出して京平を見るだけで、仕事と練習があるからと言って帰ってしまっていた。実質何の役にも立っていない!
 
阿倍子はできたら貴司が大阪にいる間に退院したかったのだが、自らの体調回復が思わしくなかったのである。ただ先生からは出産時の傷などはほとんど無いですねと言われた。実際阿倍子はふつうの出産婦が愛用するドーナツ座布団のお世話にはならずに済んだ。
 
貴司が全然頼りにならない中、貴司の妹さんたちはサポートしてくれた。理歌さんも7月4日夕方まで居てくれて、その後代りに同日昼から美姫さんが来てくれ10日まで付き添ってくれた。しかし阿倍子自身が「安定しているので、もう大丈夫ですよ」と言って帰ってもらった。正直美姫さんとは性格的にもあまり合わない感じで精神的に辛かった。
 

さて、看護婦さんにお願いして荷物をタクシーまで運んでもらえないかな?などと思っていた時
 
「こんにちは〜」
と言って、背の高い女子が2人入って来た。
 
「細川阿倍子さん?」
「あ、はい」
 
「私ら、村山千里のバスケ関係の友人なんですが」
「え?」
 
「今日、細川さんが退院するさかい、申し訳ないけど、退院の荷物とかあると思うし、手伝ってやってくれへんかと言われて。本人は今、日本代表関係のスケジュールが忙しゅうて、大阪まで来られへんらしくて」
 
どうもこの2人は千里さんと自分が友人と思っている雰囲気だ。千里さんから頼まれたというのは何か不愉快だけど、でも切実な問題として阿倍子は助けを必要としていた。
 
「済みません。お手数おかけします」
「荷物は私らが持つさかい、赤ちゃん連れてくるとええよ」
 
と2人の女性は笑顔で言った。
 
「はい、そうします」
と言って阿倍子が京平を抱っこしてくると
 
「わあ、可愛い!」
とふたりは声をあげ、阿倍子も嬉しくなった。
 
「めっちゃ可愛い。女の子やよね?」
「いや。男の子なんです」
「へー。男の子にするのもったいないくらい可愛い顔しとるね」
「こっそりちんちん切っちゃいまへん?」
 
そんなことを言われて、阿倍子もつい
「ほんと。この子女の子でも良かったのに」
と思ってしまった。京平が嫌そうな顔をした気がした。
 

千里の友人2人が手伝ってくれたお陰で、何とかマンションまで辿り着く。3週間留守にした割には、マンション内はあまり散らかってなかった。 
「ふーん。洗濯物は大してたまってないな。山盛りの洗濯物とシンクに積み上げられた食器群を想像していたのだけど。美姫さんがしてくれたのかな?」
 
などと独り言を言って、取り敢えず水道を出して見る。サビとかも来ていないようだ。冷蔵庫の中にも適度に食料がある。やはり美姫さんが買い込んでくれたのだろう。これなら1週間くらい買物に行かなくて良さそう。
 
お湯を沸かしてミルクを作る用意をする。
 
阿倍子はほとんどお乳が出ないのである。正確には自分では全くお乳が出た記憶が無い。それで直接乳首を京平に吸わせても、全然出て来ないので京平が泣いてしまう。ただ夜間に搾乳器を付けておっぱいマッサージなどしていると、いつの間にか自分が眠ってしまうことがよくあるのだが、その時はふと目を覚ました時、少量ながら乳は搾乳器の中にあるのである。それで何とか京平に母乳を飲ませることはできたものの、量的には全然足りない。どうしてもミルク主体になるよなあ、と阿倍子は思っていた。
 

7月18日(土)。
 
青葉たち水泳部の一行はインターハイの北信越予選(第48回北信越高等学校選手権水泳選手権大会)に出場するため福井県敦賀市までやってきた。今回の遠征チームは男子が魚君など3名、女子はメドレーリレーに出場するため4人全員である。
 
大会は20日まで3日間掛けて行われ、各種目で3位までに入るか全国標準記録を突破すれば、全国大会つまりインターハイに出場することができる。 
青葉が出場するのは400m,800m,400mメドレー、メドレーリレー、フリーリレーの5種目である。
 
まず初日に400mフリーリレーの予選が行われたのだが、T高校は決勝に残ることはできなかった。2日目には800mが行われた。富山県大会では1人で泳いで優勝だったのだが、北信越大会では7人である! どうも福井・石川・富山・長野・新潟の各県から1〜2人ずつ出てきたもようである。人数が多ければタイム決勝ということだったのだが7人しかいないので一緒に泳ぐ。ここで青葉は3位に入り、インターハイの切符を手にした。
 
3日目には残りの競技が全部行われる。最初に400mメドレーリレーの予選が行われたがここでT高校は予選落ちしてしまった。次にわずかな休憩をはさんで400m個人メドレーが行われる。この競技では青葉は4着で惜しくもインターハイの切符を逃した。
 
と思ったのだが、全国標準記録を実はギリギリでクリアしていたことを後で言われた。それで青葉はこの競技でもインターハイに行けることになった。 
その後、更にわずかな休憩をはさんで400m自由形が行われる。しかし青葉はさすがに個人メドレーの疲れが残っていて全力を出し切れなかった。6着でアウト(こちらは標準記録にも届かなかった)。
 
それで結局青葉は400m個人メドレーと800m自由形でインターハイに出場することになったのである。女子では他に杏梨が200m自由形でやはり3位に入ってインターハイの切符を手にした。男子では魚君が200m,400m平泳ぎでインターハイに行けることになった。インターハイに行けるのはこの3人である。 

7月20日(月)。
 
千里は経堂の桃香のアパートで目を覚ました。実を言うと用賀の自分のアパートにはあまり生活に必要な道具が揃っていない。あそこは単に寝るためだけに借りているようなものである。
 
それでここ数日千里は桃香のアパートで暮らしていたのだが、当の桃香は泊まりがけの研修に出ていて明日まで帰って来ない。しかし千里は明日から合宿なので完璧にすれ違いになってしまう。千里が桃香と次に会えそうなのは8月11日である。 
それで洗濯機を回し、トイレに行ってナプキンを交換する。やっとふつうの夜用ナプキンで済むようになったなあと思う。しばらくは結構辛かった。《びゃくちゃん》が神経ブロックをしてくれてなかったら、私とても試合どころか練習にも耐えられなかったよと思う。座るのもずっとドーナツ座布団を使っているので「痔?」などとチームメイトから言われていた。とにかく血が足りない感じで、ここ3週間ほどは無茶苦茶食べたし。
 
昨夜結局テーブルの上に放置してしまった「2人分」の茶碗をシンクに取り敢えず放り込む。その後朝御飯を作って食べてから昨夜の分の茶碗と一緒に洗って拭いて片付ける。洗濯機が終わったので出して干す。
 
「秘密の作業」をした後で、午前中のバスケ練習に出かけようかと思っていたら、訪問者があった。
 
50代くらいの女性とその娘かと思われるやや青白い顔をした20代女性である。千里はその若いの方の女性の顔を知っていた。桃香の最近の恋人、燐子である。もっとも向こうはこちらの顔は知らないだろう。
 
「高園桃香さんでいらっしゃいますか?」
と母親の方が言う。
 
「あ、いえ。私はその・・・妹です。姉は出張中なんですよ」
と千里は言う。レスビアンの夫婦と言うのは、説明しにくい話である。 
「でしたら、妹さんにこれをお預けします」
と言って分厚い封筒を渡す。中を見ると1万円札が詰まっている。
 
「これは?」
「先日、うちの娘が桃香さんにお金を借りたので」
 
「あの、もし良かったら少し事情を聞かせていただけませんか?」
 

それで2人をとにかく中にあげてお茶を入れる。お菓子も出す。
 
「あれ?お乳の匂い。赤ちゃんがおられるんですか?」
などと母親が訊いた。
「いえ。さっきシスコーンに牛乳掛けて食べたから、その匂いでは。済みません。それで牛乳使い切ったからミルク無しの紅茶で」
「いえ、何か美味しい紅茶を出して頂いてありがたいです」
「これ実際にインドで買って来たアッサムなんですよ。友人からもらって」
「それで!ほんとに美味しいと思った」
 
それで話を聞くと、娘さんがレイプされて妊娠し、中絶手術の費用を桃香に借りたのだという。実際には桃香は「恵比寿の立派なマンションに住んでいるお友だち」から借りて彼女にお金を渡してくれたらしい。
 
まあそれは冬子のことであろう。桃香ってほとんど貯金無いし。しかしそんなことしてたのでお金が無いと言っていたのかと思い至る。
 
燐子をレイプしたのは会社の同僚ということで、追いかけられたくないので上司に事情を話し、事前告知も送別会なども無しで会社を辞め、実家に戻ってしばらく静養することにしたらしい。
 
「週数が進んでいたので、中絶といっても死産扱いで。ちゃんとお葬式もしたんですよ。実家に帰ったら水子供養もするつもりです」
とお母さんは言う。
 
「それは無茶苦茶お金が掛かっているでしょう」
「でも幸いにもボーナスの支給日まで在籍したことにしてもらって、早めのボーナスと退職金まで頂いたんです。更に部長さんから御見舞い金に5万円も頂いて」
 
千里はその「5万円の御見舞い金」というのに不快感を感じた。普通の見舞金としては高すぎる。お金を出すから騒ぎ立てるなという意味なのでは? 
「でもそれって中絶手術代自体が高いですよね」
「ええ」
 
「だったら、こういうの女同士助け合いましょうよ」
と千里は笑顔で言うと、自分の旅行用バッグの中からポーチを取り出すと、そこからお金を20万円取り出し、お母さんに差し出した。
 
「私と桃香とで10万円ずつ寄付します」
「そんなに頂く訳には」
 
「こういうの、いつ私や桃香が被害者にならないとも限りません。その男に天罰でも与えてやりたいですけど、取り敢えず女同士の相互扶助ですよ。一応私も桃香も何とか多少のゆとりはある暮らしをしてますから」
 
お母さんと娘さんは千里に深く頭を下げて帰って行った。誰にも実家の住所は教えてないけど、桃香さんだけにはと言って住所を書いた紙を千里に渡した。 

『おい、千里』
と《こうちゃん》が言う。
 
『何かしたいの?』
『その男に天罰与えたいんだろ?』
『女の敵だもんね』
『天罰与えてこようか?』
『まあ好きにしていいよ。ただし殺したり大怪我させたらダメ。でも二度とこういうことできないようにしてやりなよ。あの子にもつきまとったりしないようにね』
 
『よし、任せとけ』
 
と《こうちゃん》は言ったのだが
 
『こういうのは女にもやらせてよ』
 
と《いんちゃん》が言うので、千里はくれぐれも殺したりしないようにと念を押した上で、ふたりに《天に代わっておしおき》してくることを許可した。《こうちゃん》は楽しそうな顔、《いんちゃん》はマジで怒った顔をして、2人で飛んで行った。
 
『あの2人何するつもりかね』
と千里が独り言を言うと
 
『男を辞めることにはなるんじゃない?』
と《せいちゃん》が言う。
『女にしちゃうの?』
 
『そんな親切はしないだろ。そいつの顔、俺もさっき確認してきたが、たとえ性転換したって女子トイレで通報されるレベルだな』
『ふむふむ』
 

優子は降りしきる雨を見ながら、参ったなあと思っていた。車を売ってしまったので仕方なくバスで買い物に出たのだが、うっかり傘の用意をしていなかった。車を使っていれば雨など関係無いので、少々空模様が怪しくてもいちいち傘など持たない習慣になっていたのである。
 
しかし今雨はかなり降っている。バス停から自宅アパートまでは結構な距離があるので傘を差していてもかなり濡れそうだ。それともうひとつの問題は荷物が重いことである。これも車で買物に来たらそんなの関係無いので、重さとか考えずに買物をする習慣になっていたのである。
 
「仕方ない。取り敢えず傘を買ってくるか」
と独り言を言い、優子はお店に引き返そうとした。その時のこと。
 
「ね、ね、君可愛いね」
と声を掛けてきた男が居る。
 
「私、男の人に可愛いなんて言われたことない」
と優子は答える。
 
「いや、君は行けるよ。それにこの君の腕」
「腕?」
「凄く太くて魅力的」
とその男は言う。
 
「太くて魅力的なんて(男性には)初めて言われた。私、中学の時、柔道してたから」
「へー、それは格好良いね」
 
「あなた何か女性の好みが変じゃない?」
「ああ。僕の好みは特殊だと言われたことある。体格のがっちりした女性が僕の好みなんだよ」
 
「ふーん。でも悪かったね。私、レズだから」
「あ、レズっ娘も好きだよ」
 
優子は顔をしかめる。こいつレズの意味分かってんのか?
 
「何なら僕がネコになってもいいし」
「はぁ〜〜〜!?」
 
こないだ一晩寝た男(?)も変な奴だったが(まあ気持ち良かったけど)、こいつもまた変な奴なのか?私、変な男に好かれる運命なの??
 
「あ、そうだ。それより君荷物重そうだね。持ってあげるよ」
と言って彼は優子が抱えているエコバッグの1つを手に取った。焼酎の紙パックとかジャガイモの大袋とかが入っていて凄く重たかったので助かった。 
「私もう帰ろうと思ってたんだけど」
「雨だし大変でしょ。おうちまで送って行くよ。そうだこの荷物は取り敢えず僕の車に積んじゃおう。それから一緒に御飯でも食べない?」
 
「ふーん。まあいいけどね」
 
それで彼は優子の荷物を駐車場に駐めていたムラーノの荷室に積み込んでくれた。 
「さて、何食べる?洋食?和食?」
「そうだなあ。じゃ鯛焼きで」
 
「ああ、そういう甘い物もいいよね。僕って両刀遣いだから」
「それって別の意味でもじゃないの?」
「どうかなあ。ニューハーフの子とは寝たことあるし、それでネコも経験してるんだけどね。でも普通の男とは寝たことないし、少なくとも見た目が女でないと食指が動かない。だから自分ではホモではないと思ってる」
 
「ふーん。あ、私優子」
「僕は信次」
 
「じゃ取り敢えずうちまで送ってくれるまで、短い間だけどよろしく」
「うん。よろしくー。このまま何ヶ月がずっとでもいいよ。君は運転とかするの?」
 
「車好きなんだけどね。事情があって車売っちゃったんだよ」
「あ、だったらしばらく僕が君の足代わりになってあげようか。僕の車を君が運転してもいいよ」
 
「それもいいかな。今夜私を楽しませてくれたらね」
「大丈夫。ちゃんと満足させるから」
 
それで信次と優子は一緒に甘味コーナーの方に歩いて行った。
 

絢人は部活の途中で「トイレ行ってきます」と言って体育館を出ると、わざわざ校舎の方まで歩いて行き、1階の向こうの端のトイレの前まで来た。今の時期は夏休みに入ったので、午前中は補習があるものの午後は部活をする子だけになるので人が少ない。部活の終わりくらいの時間になると混むのだが、この時間帯は校舎側に残っている子も少ないし、めったにトイレに人が来ないのは経験済みなのである。
 
絢人は中の様子をうかがってからドアを開けた。こうやって女子トイレに入るのはまだ4回目だ。入る度にドキドキする。絢人はいつものように一番手前の個室のドアを開けて中に入った。
 
この日は練習疲れでちょっとボーっとしてしまった。ハッと気づいてトイレットペーパーを取りあそこを拭く。この拭くという動作で少しだけ女の子の気分になれる。そしてパンティをあげ、ジャージのズボンをあげて水を流そうとした時のことだった。
 
女の子の声が聞こえる!
 
2人・・・3人居る!
 
きゃー。2人であれば今空いている個室に入ってくれるだろう。そして彼女たちが個室内に居る間に自分は出て立ち去ればいい。しかし3人ということは2人が中に入り1人は待つことになる。たぶん自分が入っている個室の前で。絢人は顔面蒼白になった。
 

トイレのドアが開いて3人の女の子が入ってくる。そして実際2人は隣とその隣の個室に入ったようである。そしてあまり気配は感じないが、もう一人が待っている感じ。絢人はどうしよう?と思ったものの、このままじっと待っているしかないと思った。
 
自分がずっと個室に入っていれば、先に入った2人の内どちらかが出た後、今待っている子はそちらの個室に入るだろう。それでその子が終わって3人とも立ち去るまでじっと待っていればいいんだ。
 
でもその後更に他の子が来たらどうする?
 
そんなことを悩んでいた時、絢人は個室のドアの下からメモ用紙が差し入れられたのを見た。
 
「今なら大丈夫だよ。出ておいでよ」
 
へ?
 
しかし絢人は「よし」と決断すると水を流して個室の外に出た。前で待っている女の子はこちらに背中を見せていた。絢人は急いで手洗い場に行くと手を洗って女子トイレを出た。
 
その様子を青葉は優しい笑顔で見送ってから空いた個室に入った。
 

千里は7月20日の夕方、冬子のマンションを訪問して燐子が借りたお金を返し、ついでに冬子のマンション内をチェックして、いかにも怪しいプレゼントの類いやDMなどを7つも回収した上で、北区のNTCに入り、今度はフル代表の合宿に入った。 
なお、怪しいグッズの処分は《とうちゃん》たちに任せたが、千里が回収した怪しいお酒は結局《とうちゃん》《せいちゃん》《げんちゃん》の3人で飲んでしまったようである。後で「おしおき」から戻った《こうちゃん》が『俺の分が残ってない』と文句を言っていた。この子たちはこういうネガティブな気をまとったものが、かえって栄養になるらしい。
 
さて、千里がフル代表の活動に参加するのは2度目である。2012年4月から6月に掛けても「代表候補」として、ほとんど学校に出て行けないほど忙しい活動を続けたものの、トルコで行われたロンドン・オリンピック最終予選の前日、代表から落とされた。それでも最終予選の期間中は代表に入った人たちの練習相手を続けた。この時は結果的に日本はプレーオフの決勝戦まで行ったもののカナダに敗れて本戦出場はならなかった。
 
キャプテンの三木エレン(当時35歳)は
「自分の責任です。このまま引退したい」
と監督に申し出た。しかし千里は
「レンさん、勝ち逃げなんて許しませんよ」
と彼女に言い、それで彼女は
 
「サンちゃん、4年後にまた代表枠を争おうか」
と言って引退を撤回。その後も4年間Wリーグで20代の選手に混じってまだ22-23歳かと思うほどの若いプレイで観客を魅了し続けてきた。
 
それで今回千里が体育館で三木さんに会うと
 
「よし。来たね。まあ折角追加招集で来てくれたのに悪いけど、サンちゃんには、また本戦前に帰ってもらうことになるから」
などと三木さんは笑顔で言っている。
 
「私とレンさんで争って、フラちゃんが落ちたりしてね」
と千里も笑顔で応じる。
 
「おお。そのくらい激しく争おうよ」
と花園亜津子も楽しそうに言った。
 
なお今回キャプテンは三木エレンが「さすがにこんなおばあちゃんにキャプテンは無理。代表から漏れるかも知れないし」と言ったので、レッドインパルスの広川妙子(31)がキャプテンを務めている。広川さんこそ今回のオリンピックで代表は引退かなあなどと言っている。
 
千里は高校生の時から広川さんを知っていて、広川さんも随分千里を可愛がってくれた。千里が今年春からレッドインパルスの練習に参加できたのは、高校の先輩・靖子さんや長年の友人・入野朋美のツテもあるが、レッドインパルス主将の広川さんから見込まれているのもあるのである。
 

千里たちは21-22日の2日間東京NTCで練習したあと23日にオーストラリアに渡り、現地の様々なチームと練習試合。そして8月1日にはニュージーランドに移動して、またそちらで現地の様々なチームと練習試合をした。
 
やはりこういう海外のチームと練習試合をするいちばんのメリットは体格の良い選手との戦いを経験することである。
 
千里は日本代表のメンバーに混じって向こうの選手と戦っていて、どんどん自分の感覚が研ぎ澄まされていくのを感じていた。これほんっとに最高! やはり私、もっともっとバスケをしたいな。千里はそんな思いで胸がいっぱいになってきつつあった。
 

7月23日(木)。青葉は親友の世梨奈、および合唱軽音部の1年生・久本照香と一緒に朝から新高岡駅から北陸新幹線に乗り、いったん高崎まで行く。そして上越新幹線に乗り継いで越後湯沢まで行った。
 
24-26日の間、苗場で開かれるロックフェスティバルでローズ+リリーの演奏に参加するのである。青葉はサックス、世梨奈と照香はフルートを吹く。行きの切符は郵送してもらっており、帰りはどこか寄り道などしても帰られるようにということで往路と同額を現金でもらっている。
 
ところが世梨奈は前日までの段階で「折角苗場に行くなら予習しなくちゃ」などと言って今回のフェスに出演するアーティストのCDを結構買い込んでいたようである。更に新幹線に乗り込んでくる時、山のようにおやつを持ち込んでいた。 
「随分買い込んだね。お母さんからお小遣いもらったの?」
などと訊くと、世梨奈は突然心配そうな顔で
 
「ギャラってその場でもらえるよね?」
などと訊く。どうも帰りの交通費を使い込んでしまっているようだ。
 
「まあ、ケイさんに訊いてみたら」
と青葉は言いながら苦笑した。
 

「去年は青葉のお姉さんが出たんでしょ?」
と世梨奈が訊く。
 
「うん。KARIONのステージでフルートを吹いたんだよ。出る予定は無くて、ちょっと陣中見舞いに行っただけだったのが、うまく乗せられて出ることになったと言ってた」
 
「お姉さん、フルート上手いの?」
「上手い。フルートでも龍笛でも、私はちー姉にかなわないよ」
 
本人は青葉にかなわないと言ってるけど、その「かなわない」というのは演奏の「破壊力」だからなあと青葉は思う。純粋な演奏では千里の演奏は情緒性が豊かで、青葉はいったいどれだけの人生経験を積んだら、あんな音が出せるのだろうと思っていた。
 
「今年もお姉さん出るんですか?」
と照香が訊く。
 
「ううん。今年はバスケの合宿でオーストラリアに行ってるんだよ」
「すごーい。海外合宿ですか? どこかの大学か何か?」
「ちー姉は今年の春に大学院を出て。それでこないだまでユニバーシアードの日本代表だったんだけど、その後今度はA代表の方に招集されたんだ。会社は休職にしてもらったと言ってた」
 
「今年の春卒業したということは入社して数ヶ月でしょ?首にならないんですか?」
「退職願を出したけど却下されたらしい」
「あらら」
「なんか、ちー姉が凄い良いプログラム書いているらしくて」
 
「すごーい。バスケがうまくてフルートがうまくて、プログラムも書けるって天才ですね」
 
そんな会話をしつつ、青葉は色々と疑問を感じていた。
 

お昼くらいに越後湯沢に着き、指定されていたホテルに行く。今回の取りまとめをしてくれている★★レコードの氷川主任と連絡を取り、部屋の鍵をもらって、取り敢えず荷物を置く。その後、ロビーに出てみたら、顔見知りの高校生でやはりローズ+リリーの伴奏に参加する鈴木真知子ちゃんがいたので一緒に近くの甘味処に行き、おやつを食べながらおしゃべりをした。
 
「真知子ちゃんはケイさんの先生なんだよね」
と青葉が言うと
「それ、どうなってんですか?」
と照香が尋ねる。
 
「ケイさんが中学生の頃、当時小学生だった真知子ちゃんにヴァイオリンを習っていたんだよ」
「すごーい。真知子さん、そんなに小さな頃からヴァイオリン上手かったんですか?」
 
「うーん。まあヴァイオリンって上手い子はほんっとに小さい頃から上手いんだよね」
などと本人も言っている。
 
「だけど私、ケイさんが男の子だなんて思ったこと1度も無かったのよね」
などと真知子ちゃんは言う。
 
「ああ」
「私がヴァイオリン教えていた時期も、いつもセーラー服を着て習いに来てたもんね」
 
「まあケイさんが主張している学生服を着て中学には通っていたという話は怪しいよね」
と青葉も笑いながら言った。
 

「青葉ちゃんは、ヴァイオリン練習してる?」
と真知子ちゃんに訊かれる。
 
「ごめんなさい。全然してない。ちー姉とどっこいどっこい」
「千里さんはたぶん忙しすぎて、ヴァイオリンまで練習できないんだろうね」
「たぶんそうだと思う」
「青葉も忙しいもんなあ」
「今、水泳部と合唱軽音部を掛け持ちして、受験勉強もしないといけないし。それで霊能者の仕事も忙しいみたいだし」
 
「霊的な相談ごとはほとんど断っているんだけどね」
「でもこないだ火喜多高胤さんと話してた」
「まああれは私は仲介しただけで、凄い人が解決してくれたんだよ」
「へー」
 
「青葉って何か様々なジャンルの人間関係のクロスポイントに居るみたい」
と世梨奈が言う。
 
「うん。私はクロスロードなんだって言われたことあるよ」
「天皇陛下ともつながっていたりして」
「うーん・・・・知り合いの知り合いに秋篠宮妃殿下といつでも話せる人がいる」
「すごっ!」
 

16時になってからローズ+リリーの演奏者が全員集まり、演奏曲目・譜面の確認と楽器のチェックなどをした。この段階で楽器が無いなどという人がいたらさすがにまずい。
 
世梨奈と照香は「ちょっと吹いてみて」と言われてフルートで適当な曲を吹いたが「うまーい」と褒められた。とりあえず合格ということのようである。 
打ち合わせが終わった後で、世梨奈はケイにギャラを演奏後すぐもらえないかと話した。すると交通費を使い込んでしまったという話にケイは笑いながらもギャラをその場で前払いしてくれた。しかし世梨奈は結局ここでもらったギャラまで苗場の会場内でグッズを買うのに使い込んでしまい、最終的に帰りの切符は青葉が買ってあげた。
 

ローズ+リリーの演奏は26日 15:00 に始まった。会場は一応定員が4万人なのだが、明らかに5万人は入っていた。
 
青葉は氷川さんと先日のマリの「熱愛報道」のことで話した。ああいうトラブルが起きないようにするにはどうしたらいいんでしょうね、と氷川さんも悩んでいたが、青葉は「マリさんとケイさんの霊的な防御が弱いのでは」ということを言った。
 
20日の日に姉の醍醐春海がバスケの合宿に入る前にケイのマンションに行き、怪しげなプレゼントやDMの類いを7つも回収したという話をすると、氷川さんは驚いていた。
 
「恐らくですね。ふたりの人気が凄いから、色々妬みを持っている人たちも多いんですよ。そういうマイナスの気を跳ね返す仕組みを作っておかないと、またこういう恋愛問題、あるいは金銭面などで致命傷になりかねないような揉め事が起きる可能性もあると思います」
と青葉は答えた。
 
「それ川上さんの方で防御を強める何か仕掛けとか作れません? 予算取りますよ」
と氷川さんは言う。
 
「その件では、ケイさん自身からも相談を受けているので、フェスが終わったら東京に出て、ケイさんのマンションをチェックするつもりです」
と青葉は答えた。
 

演奏はひじょうに盛り上がった。近年のローズ+リリーの音楽はアコスティック楽器を多用し、重厚なサウンドにまとめあげる傾向が強い。そのため伴奏者の人数もかなり多い。そのスコアはケイ自身がだいたいの所を書いて最後は最近ローズ+リリーの実質的なディレクター役になっている秋乃風花さんがまとめあげているようである(実質的なプロデューサーはスターキッズの近藤七星さんである)。ケイは一時期「ローズクォーツ・グランドオーケストラ」などというのもやっていたが、元々大規模なオーケストレーションが好きなようである。 
当初予定になかったMixtory Anglesのサックス奏者バーバラ・スクウォドフスカさんも飛び入り、七星さん・青葉と3人でトリプル・サックスの競演もした。 
ステージ終了後も青葉たちは最後まで苗場のステージを見てからホテルに戻った。青葉は七星さんから声を掛けられる。
 
「青葉ちゃん、ほんっとに良い演奏をするようになったなあ。明日からローズ+リリーのアルバム用の曲で『摩天楼』というのの制作をするのよ。ツイン・サックスがフィーチャーされてるから、私とケイで吹くつもりだったんだけど、青葉ちゃん吹いてくれない? ケイの負荷がハンパ無いから、できるだけ彼女の負担を減らしたいのよ」
 
「まあいいですよ。どっちみち、ケイさんのマンションを訪問して呪術的に怪しげなものがないかチェックすることになっていたんです」
 
「じゃ、東京に行くついでに」
「はい」
 

ホテルに着いてから、ローズ+リリー関係とKARION関係の合同打ち上げをした。もっとも時間が遅いので、青葉・世梨奈・照香と真知子ちゃんという高校生4人は乾杯にだけ参加して、部屋に戻り寝た。世梨奈がパーティー会場からローストビーフやフライドチキンなどをフードパックに取らせてもらっているのを見て青葉は微笑んだ。
 
翌朝7月27日。起きて世梨奈・照香と3人で朝食を取っていたら、七星さんが寄ってきて思いがけないことを言う。
 
「ケイちゃんとマリちゃんがさ、雨宮先生のお父さんの葬儀に出るというので、昨夜の内に京都に行っちゃったのよ」
 
「夜中にですか!?」
と青葉は驚く。
 
「なんでも葬儀の時間が早まったから今朝いちばんの新幹線では間に合わないという話で。それで車を手配してくれたのに乗って向かったって」
 
「大変ですね!」
 
「まあそれで『摩天楼』の制作はケイちゃんたちが戻って来るまで進められないけど、私と一緒に東京に行って、とりあえず練習してない?」
 
「分かりました。ご一緒します」
 
それで青葉は世梨奈・照香と高崎駅で別れ、七星さんと一緒に東京に出て、スタジオで練習をしていた。
 

今日お葬式なら、ケイさんたちは明日のお昼過ぎに戻るかなと思っていたのだが、ケイたちは何とその日の夕方戻って来た。
 
「早いですね」
と声を掛けたのだが、ケイと一緒にスタジオに入ってきた人物に青葉はまた驚く。
 
「ちー姉!?」
「私たちを車でここまで送ってくれたんだよ」
とケイが言う。
 
「青葉、音源制作頑張ってね」
と千里。
 
「代表合宿は?」
「雨宮先生が強引でさ。私の親の葬儀に欠席するなんて、あんたそれでも私の弟子なの?とか言うから、昨日オーストラリアから飛んできた。今夜の便で戻る」
 
「うっそー!?」
「じゃね」
と言って千里は帰っていった。
 
「雨宮先生も無茶振りするよね」
とケイは笑っていた。
 

青葉は結局その日遅くまで楽曲制作の作業をした後、冬子のマンションに泊まった。それで翌7月28日、青葉は朝食を頂いたあと、マンション内で怪しいグッズの類いか無いかチェックした。そして怪しいDMを2通見つけ出す。どちらも巧妙で、これならちー姉には分からなかったろうなと思った。要するにかなりハイレベルの呪者のしわざである。
 
ケイと青葉は話し合い、やはりこれはこの手のものが分かる人が定期的にチェックした方がいいという結論に達する。それで青葉は関東在住の霊能者・中村晃湖さんに依頼することにした。中村さんはすぐに来てくれて、冬子のマンションを彼女自身とお弟子さんとで週に2回程度チェックしてくれることになった。
 

音源制作は29日深夜まで続き、何とか『摩天楼』は完成した。30日の朝、冬子のマンションで朝御飯を冬子とふたりで作りながら話していたら、冬子は唐突に言った。
 
「アクアの秋くらいに作るCDに曲を提供してくれない?」
 
アクアの最初のCDは上島先生と東郷誠一さんが楽曲を提供した。そして制作中の2枚目のCDは上島先生に代わってケイが書いたのだと言う。それで3作目はケイに代わって青葉が書いて欲しいというのである。
 
「まるでリレーですね!」
「まあ私も上島先生も手が回らないというのもあるんだよ」
「私も秋以降になると受験で忙しくなりますけど、それまでなら何とかしますよ」
 
青葉も常々ケイの負荷が大きすぎると言っていたので、これを受けることにした。
 
「うん、よろしく」
と冬子は笑顔で言った。
 

時を少し巻き戻して7月25日夜。シドニー市内のホテル。千里がその日の練習を終えて部屋でくつろいでいたら、雨宮先生から電話が入る。
 
「おはようございます。どうなさいました?」
「おはよう。実はうちの父が死んだんだ」
「それはご愁傷様です。大変でしたね」
「まあ大変になるのはこれからなんだけどね。それで今夜はもう遅いから明日26日に通夜で、27日葬式だから」
「分かりました。取り敢えず弔電を打ちます」
 
千里は阿倍子さんに何かあった場合と「秘密の作戦」のため《びゃくちゃん》を大阪に置いてきている。それで彼女に頼んで電報を打ってもらおうと思った。 
「弔電だけじゃなくて、あんた通夜・葬式に顔出してよ」
「すみません。言ってたと思うのですが、今オーストラリアで合宿中なんですよ」
「オーストラリアのどこ?」
「今シドニーです」
「シドニーから成田までは10時間で飛べるはず」
 
「私に一時帰国しろと言うんですかぁ〜?」
「あんた、これまでの私の恩を忘れたわけじゃないよね? それにこないだは新しい車を探してあげたよ」
 
う・・・そのあたりを言われると辛い。
 
「ちょっと待って下さい。時刻を確認してご連絡します」
「うん。通夜・葬式は舞鶴だから」
 

それで千里は飛行機の便を確認した。
 
シドニーから成田へは朝8:15に出て成田に17:05に到着する便がある(時差は現在シドニーは冬なので1時間である)。帰りは成田19:30→6:15Sydneyという便と、羽田22:00→8:35Sydney という便がある。葬儀が終わったその日には東京にたどり着けないので多分こういう行動になりそうだ。
 
7.26 Sydney8:15-17:05成田19:12-(東海道新幹線など) 23:54敦賀

7.28 敦賀13:10-17:29成田19:30- 7.29 6:15Sydney

 
26-28日の3日間練習を休む必要がある。それでもどっちみち通夜には間に合わない。雨宮先生に連絡する。
 
「明日朝いちばんの飛行機に乗っても敦賀到着が23:54になるんですよ。それでどうしてもお通夜には間に合いません」
「関空に飛ぶ便は無いの?」
「今無いようです」
「仕方ない。じゃ葬式だけでも出てよ」
「分かりました。お葬式は何時からですか?」
「午後いちばんくらいになると思う」
「だったら大丈夫ですね」
 
ところがそれから30分ほどしてからまた電話がある。
 
「済まん。葬式は27日の朝1番になった」
「あらら」
「27日中に帰り着かないとまずい人が結構いるらしくて」
「私もその方が助かりますが」
 
「それでさ、千里」
「はい」
「雷ちゃんが今苗場ロックフェスティバルに行ってるんだよ」
「ああ」
「それで千里、車で雷ちゃん夫妻と、ついでにケイも拾って舞鶴まで来てくれない?」
「オーストラリアから緊急帰国して、疲れた身体で車で苗場から舞鶴まで走れとおっしゃるんですか?」
「飛行機の中で寝てればいいじゃん」
 
うっうっ・・・。
 
「あのぉ、アテンザは使えます?」
「売り主の責任で車両点検させてるから、もう2〜3日待って」
「じゃ、インプの最後のお務めになるかな」
「ああ、そうなるかもね」
 
インプの車検は8月12日で期限が切れる。それでニュージーランドからの帰国後最後のドライブをしてから、廃車の処理をしてもらう車屋さんに持ち込むつもりであった。
 

しかし車で走るとなると予定がまた変わる。成田から越後湯沢を通って舞鶴までだが、帰りは舞鶴から東名を走って成田あるいは羽田に戻ればいい。
 
成田−越後湯沢 270km 3時間

越後湯沢−舞鶴 540km 7時間

舞鶴−羽田空港 560km 7時間

 
7.26 Sydney8:15-17:05成田19:00-22:00越後湯沢23:00- 7.27 6:00舞鶴

7.27 舞鶴13:00-20:00羽田22:00- 7.28 8:35Sydney

 
となるだろうか?つまりこちらは26-27日の2日間だけ休めばよい。それで雨宮先生に連絡したのだが、上島さんの予定が終わるのが深夜1時くらいになりそうだから、それまで待機してから舞鶴まで来てくれということであった。その方がこちらも少しは仮眠できるから助かる。すると越後湯沢を深夜2:00に出たとして舞鶴到着は朝9:00頃になる。それでお葬式に出て、お昼には東京に向けて出発。なんてハードスケジュール!
 
千里は取り敢えず航空会社に電話してそのチケットを確保した。幸いにも往復とも取れた。そして、そのスケジュールを再度雨宮先生に連絡して了承を得る。 

『ということでさ、きーちゃん』
『へ?』
 
《きーちゃん》は突然呼びかけられてびっくりしている。
 
『私の代わりに日本まで往復してきて欲しいんだけど』
『このハードスケジュールを私がこなすの!?』
『それとも私の代わりに2日間合宿をする?』
『それは絶対無理!』
『じゃよろしくー。交代のドライバー必要だし、こうちゃんもお願いね』
 
『じゃ俺は貴人にくっついて日本まで行って、交代で車を運転すればいい訳か』
 
『でも私、上島さんとかケイさんとお話できないよ。それに千里自身、葬儀に出なくてもいいの?』
と《きーちゃん》は言う。
 
『上島さんとケイを拾うところ、それから現地での3時間ほどは私自身がするよ。27日の午前中の練習は体調が良くないとか言って休ませてもらう。きーちゃんには《中抜き》をして欲しいんだ』
 
『なるほど、そういうことか』
『私が行けたらいいんだけど、代表合宿も休む訳にはいかないから』
『分かった。じゃ頑張るよ』
 
と《きーちゃん》は言ってくれた。
 

それで千里は結局、26-27日の合宿も通常通り参加することにしたが、26日の朝から《きーちゃん》は千里の格好をしてパスポートを持ち、シドニー空港に出かけた。成田行きの便に乗り、27日の夕方成田に到着する。入国手続きなどをしている間に《こうちゃん》がインプを駐めている駐車場まで飛んで行き、成田空港に回送する。それで《きーちゃん》が運転して22:00頃に越後湯沢に到着した。《きーちゃん》は本当に車内で仮眠したようであるが、《こうちゃん》はその付近で地元のメスの龍?をナンパしたりしていたようである。 
27日1:30頃、千里は《きーちゃん》と入れ替わって越後湯沢に来る。それで上島さんと落ち合って拾う。そして冬子に連絡したが、冬子は政子と一緒に行くということだったので、結局4人乗せて出発することになった。
 
夜遅いこともあり、すぐに4人とも寝てしまう。それで千里は《こうちゃん》に運転を代わってもらい、自分自身の精神は眠らせた。但し途中越中境PAから不動寺PAまでの1時間半ほどは《こうちゃん》を仮眠させて千里が運転した。 
明け方三方五湖PAまで来たところで再度千里と交代する。ここでは同乗していた4人も起きて、みんなトイレに行ってきた。
 

明け方、オーストラリアにいる《きーちゃん》から、この日の練習は体育館の電気系統のトラブルのため中止になったという連絡が入る。ホテルの会議室で今日1日、アジア選手権で対戦するチームの選手の分析や、作戦関係の打合せをすることになったということだったので、『録音しといてねー』と言っておいた。それで当初は午前中だけ舞鶴に居て、午後はオーストラリアの《きーちゃん》と交代するつもりが、帰りの東京までの運転も千里がすることにした。 
それで千里はこの日の午前中、雨宮先生のお父さんの葬儀に参加した。受付の所に立ったり、音楽関係者などの応対をしたりなど、忙しく駆け回った。龍虎も葬儀には参加していた。要するに(実の父でワンティスのリーダーだった)高岡さんの名代として出席したようである。里親の田代夫妻も付き添っていた。 
なお龍虎は中学生なので学生服で参列していたのだが、政子が「セーラー服着ればいいのに」などとからかっていて、本人も心が揺れていたようである。 
お棺は雨宮先生のお兄さん、お姉さんの夫、雨宮先生の妻(事実上の夫)である三宅さん、そして従兄の人の4人で持っていた。ごく自然な人選だと思ったが、この件はあとで冬子に尋ねられ、まあそろそろ言ってもいいだろうと思ったので、千里は冬子に、雨宮先生と三宅さんが夫婦であることを教えてあげた。
 

葬儀は12時前に終わったので帰ることにする。上島さん夫妻は今夜1泊してから帰るということだったが(飲み会もあるようでアルトさんが渋い顔をしていた)、冬子たちは東京のスタジオに青葉を含むローズ+リリーの音源制作スタッフを残してきていたので早く帰らなければということで千里の車に同乗していくことになる。
 
結果的にこの冬子・政子とのドライブが、6年間乗ったインプレッサ・スポーツワゴンの最後のお務めになった。千里は最後に乗せる人としては最高だなと思って車を運転した。貴司はどうせ他人の夫だしね〜。
 
(人妻という言葉はあるのに、なぜ人夫という言葉はないのだろう?と千里はふと疑問を感じた) 
途中冬子が運転を少し代わってくれたので、その間千里は熟睡していた。意識が完全に沈黙していたので、冬子にかなり強く揺り起こされて、やっと起きられた。合宿の疲れも出ているよなあ、と思う。
 
それで夕方冬子たちをスタジオに置いてから羽田に向かった。スタジオに居た青葉が千里の顔を見てびっくりしていた。
 

羽田で千里は《こうちゃん》に車を任せて降りた。《こうちゃん》に車を用賀のアパート近くの駐車場に回送してもらう(千里のミラは経堂の方の駐車場に駐めていて、桃香が日常的に使用している)。そしてオーストラリアに居る《きーちゃん》とチェンジする。それで《きーちゃん》は丸一日に亘る会議で眠気と戦っていた頭を振ってから、出国手続きをしてシドニー行きの飛行機に搭乗し、機内でスヤスヤと眠った。
 
千里がオーストラリアの合宿の会議室に来てみると、コーチがビデオを上映しながら色々説明しているものの、実際には半数近くのメンツがこちらもすやすやと眠っていた。
 
まあ合宿で疲れているのに灯りを落としたら「おやすみなさい」って感じだよね〜。 

7月30日。青葉は冬子のマンションを出た後、日暮里で彪志と落ち合った。 
「何時までいいの?」
「最終の新幹線は東京駅21:04」
「じゃ20時までには東京駅に行くことにしておこうよ」
 
「そうだね。でもごめんねー。なかなかデートできなくて」
「いや、ほんとに青葉忙しそうだもん」
 
そう言って彪志は青葉の腕に触る。
 
「春から3ヶ月くらいだけど、握力が25kgから30kgに上がった」
「前から青葉は少々細すぎると思ってた。握力、スポーツ選手なら握力は女子でも50kgあっていいと思う」
「うちのちー姉の握力は70kgと言ってた」
 
「さっすが日本代表!」
「でもちー姉の高校の時のチームメイトの人は握力90kgだって」
「凄いね!」
「その人はセンターだから。ちー姉はガードだもん」
「それでも70kgあるのか・・・」
 
「私がたくましくなってもいい?」
「青葉のこと俺は好きだよ」
 
青葉は微笑んで素早く彪志にキスをした。
 
「女の子らしくなくなっちゃうかも知れないけど」
「俺は青葉が女の子だってこと知ってるから」
 
「それHな意味じゃないよね?」
 
すると彪志は思わず咳き込んだ。
 
「あ、えっとホテルとかにでも行く?」
「一緒にお散歩とかしようと思ってたけど、彪志がそちらの方がいいなら」
「それかレンタカー借りて一緒にドライブでもいいけど」
「うん。それも楽しいよね」
「いっそ北陸新幹線方面にドライブする?」
「そういう手もあるか」
と言って青葉は時刻表を確認する。
 
「長野なら22:29」
「じゃ中央道か上信越道方面に」
 
ふたりは微笑んで、手をつないで歩き始めた。
 
 
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