【春演】(3)

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「きれいな絵を描いてますね」
と青葉は思わず言った。それは一面のコスモス畑の中に何か尖った岩が描かれている絵だった。青葉はその情景に性的なものを感じたが、その絵はこの子のかなりの回復を表している。この絵はふつうの人が見たら絵を趣味にしている人が描いたふつうの風景画である。もっと精神を病んでいる人の絵は鬼気迫るものがあったりする。この絵にはその手の緊張感が無い。
 
「失礼しました。川上青葉と申します。鈴蘭杏梨絵斗の名前で、槇原愛ちゃんの曲を書いています」
と青葉は自己紹介する。
 
「わあ、作曲家さんでしたか。でも巫女さんみたいな服」
「巫女なんですよ。こちらは私の姉の千里です」
と言うので、千里も笑顔で会釈する。
 
「姉妹で巫女さんなんですか?」
「そうです。私たち姉妹ともローズ+リリーのケイさんの友人で、清子さんのことを心配して、様子を見て来てくれと頼まれたんです」
 
「わあ、ケイさんから!」
「ケイさんも§§プロには随分お世話になっていて、§§プロからデビューする話もあったらしいんですよね」
「あ、聞きました! 川崎ゆり子の名前でデビューの予定だったとか」
「そうなんですよ。それをケイさん断ったから、その名前はその次にデビューすることになった、蓮田エルミさんに行っちゃったんです」
「この世界って、時々そういう芸名の流用ってあるみたいですね」
「そうそう」
 
「でも今日は何でいらしたんですか?」
「ケイさんからはたくさんおしゃべりしてきてと言われています」
「でも私、ほんとうはあまりおしゃべり得意じゃないの。アイドルしてる時は元気な子を演じて、たくさんお話できる振りしてたけど。ライブとかもフリーで話してるような振りして全部台本だったんですよ」
 
「いいんですよ。話が途切れたら沈黙のままでもいいし、何か思いついたら話せばいいし」
「それならいいかな」
「おやつでも食べながら、お話ししましょ」
「あ、でも私カロリー制限が」
「1日くらい、いいでしょ?」
と言って青葉がヒバリのお母さんを見ると頷いている。
 

向こうも夕食は終わっているが、冬子から託された東京ばな奈の箱を開けて、一緒に摘まみながらおしゃべりする。お母さんや紅川社長の娘さん・奥さんにも勧める。
 
「私も地方に行く時に、けっこうこれをお土産にしたなあ」
などとヒバリは言っている。
 
「これケイちゃんからの手紙」
と言ってヒバリに渡す。
 
「わあ、美しい字」
と言って手紙を読んでいる。ケイは確か書道の段を持っていたはずである。
 
「ケイさんの相棒のマリさんとかは、地方に行って美味しいもの食べられるから歌手やってる、みたいなこと言ってますね」
「マリさんって凄いですよね。何か全てに達観しているみたいで。私もああなれたらなあって思ってました。私、すぐくよくよしちゃうんですよ」
 
「そんなマリちゃんも精神的に破綻して自殺でもするんじゃないかと周囲が絶対に目を離さずにいた時期もあったんですよ。家の中の刃物も全部鍵の掛かる引き出しにしまって」
 
「あの休業していた時期ですよね?マリさんの詩集読みましたよ。私読んでて涙が止まらなかった」
 
「心が疲れている人ほど、あの詩集は効くみたいね」
「あの3年間はマリちゃんの回復を待つ3年間だったんですよ」
「でも復活したのが凄いなあ」
「実際には半年ほどした所でロリータ・スプラウトの名前で復帰していたんだけど、ずっと正体を隠していたし、その間人前で歌ったのは数えるくらいしかなかったし」
「やはり色々苦悩してたんでしょうね」
 
「繊細でなきゃ人の心を動かすような歌は歌えないけど、ある程度図太くないと、歌手を続けて行くことはできないって、あるベテラン歌手さんが言ってましたよ」
 
「そうかも。私にはその図太さが欠けているんだろうな」
 
「秋風コスモスちゃんなんかはある意味凄いよね」
と千里が言う。
 
「コスモス先輩、いつも明るく元気だから凄いと思ってます」
とヒバリは言うが
 
「知らない?コスモスちゃんって本当は物凄く内気なの。ステージに立つ前はいつも足が震えるなんて言ってるよ」
と千里が言う。
 
「嘘!?」
 
「あのあたりの実態を知っている人は少ないよね。コスモスさんの中学時代の同級生とかに聞くと、あんな内向的な子がアイドルを何年も続けていられるなんて信じられないって言いますよ」
と青葉も言う。
 
「全然知らなかった」
 
「コスモスさんのお姉さんの方が、アイドル歌手としての才能自体は高かったみたいね」
「そうそう。でもお姉さんはデビューできなかったんだよ。歌も上手いし、本当に明るく元気な子だったんだけど。一時期自主制作でCD出してたけど全く売れなかったね」
 
「コスモスちゃんは、歌も下手だし、学校で友だち同士でおしゃべりしている時とかも、ひとこともしゃべらずに、ただみんなの会話を聞いているような子だったらしい」
 
「それがどうしてあんなに元気になれるんですか?」
「あの子は、元気なアイドルを演じているんだよ」
 
「そうだったのか!」
「清子ちゃんもそうじゃない?」
「それはそうだけど、私はそこまで徹底できなかったかも」
 
「自分が内向的なゆえに明るいアイドルという存在への憧れがあった。その憧れの存在を演技しているのが彼女なんですよ」
と青葉は言う。
 
「いや、あの子、事務所に最初に来た時って、何を聞かれても恥ずかしそうにして俯いているだけの、ほんとにはかない感じの少女だったんですよ」
と紅川さんの奥さんも言っている。
 
「アイドルなんて虚像だもん。だからコスモスちゃんってアイドル歌手を演じている女優なんだよね。あの子、内気な性格だけに、小さい頃から自分で色々と物語を作って遊んでいた。だから天性の女優・小説家の才能があったんだよね」
と千里。
 
「アイドルって実像と虚像が大きく異なることはよくあるけど、彼女の場合はふだんファンに見せている姿が100%虚像だから、いい意味で開き直って居るんだよね」
と青葉。
 
「それってなんか凄い気がする。あれ?でもコスモスさんってドラマとか映画には絶対出ませんよね?」
 
「多分女優やると、うますぎて、秋風コスモスというブランドのイメージにそぐわないからだと思う」
「え〜〜〜!?」
 
「セリフを覚えたくないからと言い訳してるよね。友だちを作らない・努力しない・敗北する、というのが秋風コスモスのテーゼとか言っているからそれでみんな納得しちゃうし」
 
「わぁ・・・」
 
「うん、あの子はだから100歳まででも《下手くそなアイドル》を続ける以外の選択肢が無い。他のアイドルみたいに20歳過ぎたらポップス歌手とかに脱皮なんてことはできないんだよね。伊藤宏美という人物と秋風コスモスというキャラは全く別人だから」
 
「そういう生き方もあったのか・・・」
とヒバリは何か考えているようであった。
 

青葉と千里は紅川社長の実家に泊めてもらい、翌5月17日(日)も1日ヒバリの話し相手になった。それは半ばセッション、半ばただのおしゃべりという感じであった。しかし青葉はこの子、ほんとに元気になってるじゃんと思った。恐らくはこの宮古島の空気が彼女が本来持っていたパワーを呼び起こしているのだろう。
 
青葉は18,19日(月火)は学校を休むことにして母に連絡を入れ、その日はお散歩などもして、ずっと彼女と楽しい時をすごした。千里も月火は休むと桃香と会社に連絡を入れていた・・・と青葉は思ったのだが、実際に連絡したのは溝口麻依子(40minutes)と靖子さん(レッドインパルス)である。麻依子から佐藤玲央美にも連絡してもらっている。
 
その17日の日は紅川さんの娘さんの車に乗せてもらい、ひまわりを見に行った。
 
「すごーい。きれいに咲いている」
と青葉は感動する。
 
「宮古島では1〜3月にコスモスが咲くんです。私それを毎日見に行っていたの」
とヒバリは言う。
 
「その後、でいごとかテッポウユリとか見てたんだけど、5月に入るとひまわりが見られるようになって」
 
「季節感が本土とは随分違いますね」
「そうなんですよね。人間の常識なんて、割とローカルな見識に過ぎないのかもと思うようになった」
 
「そうだね。春に桜が咲いて、夏にひまわりが咲き、秋にコスモスや菊ってのは東京や京都・福岡などの北緯35度付近の季節感に過ぎない。私が育った北海道の留萌とか旭川じゃ、ソメイヨシノなんて無かったし」
と千里が言う。
 
「わあ、ソメイヨシノって北海道には無いんですか?」
「札幌にはあるんだよね。あのあたりが北限なんだと思う」
「なるほどー」
 
「私は北海道というと芝桜のイメージが強い」
と青葉は言う。青葉も札幌の越智さんの招きで小さい頃から何度も北海道を訪れている。
 
「うん。芝桜はきれいだよ」
と千里。
「それが宮古だと、でいごかなあ」
などとヒバリは言っている。
 
「でもひまわりというと、ヒバリちゃんの先輩の海浜ひまわりちゃんも早く引退しちゃったね」
 
「そうなんですよね。立川ピアノさんから桜野みちるさんまでは良かったんだけど、その後、海浜ひまわり・千葉りいな・神田ひとみ・明智ヒバリと連続してハズレだったと世間では言っているみたい」
などと彼女は明るく話す。
 
「まあ歌手なんて当たりは宝くじ並みに少ないから」
と千里。
「そうそう。私はハズレくじ」
とヒバリ。
 
「でもうちの事務所も大胆ですね。女の子で詰まったら男の娘を売り出すとか。アクアが選ばれたロックギャルコンテスト、今年の応募者も可愛い男の娘がたくさん応募してきているらしいですね」
 
「えっと、アクアは別に男の娘ではなくて普通の男の子だと思うけど」
と青葉。
 
「え?うそ?女の子になりたい男の子じゃないの?」
「別に女になる気は無いと思うよ」
「でもひな祭りでは十二単(じゅうにひとえ)着てたし、ドラマでは女子中生を演じてるし」
「十二単はジョークだと思うけど。ドラマはプロデューサーにうまく乗せられちゃったみたいね」
 
「てっきりアクアってそのうち性転換するのかと思ってた」
「いや、そういう傾向は無いはず」
「でもあんなに可愛いとおとなの男にしちゃうのもったいないよね?」
「それ周囲から随分言われて困っているみたい」
「へー」
 
「女の子の服とかたくさんファンから送られてくるみたいだよ」
「あはは。女装に目覚めたりして」
「あの子はたくさん女装させられるだろうね。でも一応普通の男の子のはず」
「私も可愛い女の子の服を贈ってあげようかな」
「いいかもね」
 
青葉たちは、ひまわり畑の前で2時間くらいおしゃべりを楽しんだ。ヒバリに気づいた高校生くらいの女の子(福岡から来た観光客らしかった)がサインをねだったら、ヒバリは快く応じていた。
 

そしてその17日(日)の深夜。
 
日付が18日(月)に変わってすぐ、0時過ぎ。
 
青葉は何かが部屋に近づいてくる気配に意識を覚醒させた。ちー姉は?と思って隣の布団の様子をうかがうと熟睡しているようだ。青葉も取り敢えず目を瞑って寝ているふりをする。
 
障子を開けて入って来たのは、なんと明智ヒバリだ。
 
それも尋常の状態には見えない!?
 
彼女は豪華な振袖を着流ししている。赤白黄の原色が豊かな品だ。そして頭に白い鉢巻きを巻いている。
 
「****」
彼女の言った言葉が聞き取れなかった。しかしその言葉に反応して青葉の後ろに居たシーサーの兄弟が飛び出して、彼女に従った。
 
嘘!?
 
彼女はそのまま2匹のシーサーを引き連れて出て行こうとしたが、こちらに気づいたようで言った。
 
「青葉さんとお姉さんも付いてきてください」
「分かった」
と言って青葉は起き上がったが、隣で千里も起き上がる。いつからちー姉は起きていたのだろう。
 

神がかりになったかのようなヒバリが歩き、その後を2頭のシーサーが歩く。その更に後を青葉と千里が歩く。青葉も千里も着替える時間は無かった。寝間着代わりのTシャツとハーフパンツなどという軽装である。青葉は財布や携帯などの入ったミニトートのみだが、千里はデイパックを持っている。
 
やがてヒバリは何かの遺跡のような所に来た。
 
「ん?」
と言ってヒバリが千里と青葉の方を振り向いた。
 
「ここは男子禁制なのですが、あなたたちまさか男ですか?」
「ふたりとも生まれた時は男でした。でも性転換手術を終えています」
と千里が答えた。
「ふーん。じゃちんちん無いの?」
「もう取っちゃいましたよ」
「だったら許してやるか」
などとヒバリは言っている。
 
彼女はまるで女王様のようで、夕方までの少しはかなげな少女の姿ではない。
 
ヒバリはその遺跡のような所で前に進むと、なにか青葉には聞き取れない言葉を大きな声で唱えている。
 
「*****、*****、*****、*****、*****」
 
宮古の言葉なのだろうか、あるいは何かの呪文なのだろうか。青葉には判断がつかなかった。
 
彼女はたっぷり30分くらい言葉を唱えていて、その間青葉と千里はずっと待っていたが、その場の空気が神々しいものになっているのを青葉は感じていた。その30分ほどの言葉が終わったと思った時、突然の落雷がある。その雷は確かにヒバリの身体に落ちたように見えた。
 
しかしヒバリは平気な顔でこちらを向いて言った。そのヒバリの身体は光り輝いているように見えた。
 
「私は今すぐ沖縄本島に行かなければなりません」
とヒバリは言った。
 
「行く手段を用意してもらえませんか?」
 
「朝一番の飛行機は8:50だったかな。すぐ予約を入れましょう」
と青葉が言うが
「それでは遅すぎます。夜明け前に到着しなければならないのです。これはノロの指示です」
とヒバリは言った。
 
ノロ?彼女はもしかして今ノロになっている?
 
「ヘリコプターが飛べないか聞いてみます」
と言って千里がどこかに電話していた。
 
千里は電話でしばらく話していたが、
「来てくれるそうです。沖縄本島の会社なので宮古島空港に到着するのは手続きなどもして午前3時頃になるそうです」
 
「分かりました。それでは宮古島空港に行きましょう」
 
千里はヒバリや自分達が居なくなっているので騒ぎになっているのではと考えて紅川さんの奥さんにメールを入れたようである。そしてヒバリとシーサーと青葉・千里の道行きは進む。
 
ヒバリは、か弱いアイドル歌手とは思えない速度で歩いている。青葉は付いていくのだけでも大変だが、千里は平気そうである。くっそー。負けるものかと青葉は頑張った。
 

一行が宮古島空港に着いたのがもう2:50くらいである。空港の警備員に停められるが「チャーターしているヘリコプターが来るので」というと、空港の管制に確認した上で通してくれた。
 
空港スタッフの指示で、出発ロビーで待機した。3:15頃、ヘリコプターが到着する。これにヒバリ、シーサー兄弟、青葉と千里が乗り込むが、他の人たちには2頭のシーサーは見えないであろう。
 
「夜分遅く済みません」
と千里がヘリコプターの操縦士に言うが
 
「いや、ノロさんの指示だというから、うちも動くことにしました。普通なら急病人とかででもない限り、夜間は飛ばないのですが」
と操縦士さんは言っている。
 
ノロという存在に恐らく大きな尊敬の念を持たれているのだろう。
 
その「ノロ」を自称したヒバリは無言で闇夜の空を見つめている。青葉が確認すると今日は旧4月1日。朔日である。もしかしたら「朔」というのがノロの儀式に重要なのかもという気がした。あとで再確認すると木ノ下先生が神がかりになった2月4日は満月であった。
 
ヘリコプターはかなり高速な機体のようである。約1時間で沖縄本島の那覇空港に着陸した。千里が「ありがとうございます」と笑顔で言ってヘリの操縦士に分厚い札束を渡している。ちー姉の得意な「予定調和」で現金の用意をしていたのかな、と青葉は思った。おそらくヘリコプターの会社の電話番号もそれで事前に調べていたんだ!
 
「確かに80万円受け取りました」
と操縦士が言って、領収証をくれた。あはは。さすがに凄い料金だ。
 
「でも助かりました。これ、ノロさんからの心付けです」
と言って千里はポチ袋も渡す。
 
「あ、どうもありがとうございます」
と操縦士。
 
「松前社長から概略費用で200万円預かっていたんだよ」
と千里は空港のビルに入ってから青葉に言った。へー!
 

那覇空港の外に出たところで千里が
 
「ノロさんの行き先が多分分かると思います。車で移動しませんか?」
と言うので
 
「うん。案内して」
とヒバリは言う。
 
それで空港の駐車場に駐めっぱなしにしていたライフに乗り込む。帰りの日程が不明だったのでレンタカーはいったん返せばいいのにと思っていたのだが、こういう使い方をするために、使わない日のレンタル料金と駐車料金まで払ってここに駐めておいたのだろう。こういうのもちー姉の得意な「予定調和」だ。
 
千里が運転席に乗ると、ヒバリとシーサーが後部座席に乗り込むので青葉は助手席に座った。
 
車は国道58号を北上し、やがて恩納村の木ノ下先生の自宅前に泊まった。時刻は5:30くらいである。
 
ヒバリはその玄関の前で何かを大きな声で叫んだ。
 
すると、1分もしない内に家の中から白い装束に白い鉢巻きをした木ノ下先生が出てくる。恐らくこれを待っていたのだろう。向こうも神がかり状態のようである。心配そうにその後ろに奥さんがいたが、青葉たちを見てびっくりしている。
 
ヒバリがじっと立っている。木ノ下先生がヒバリに向かって何かよく分からない言葉を掛けた。それをヒバリはじっと聞いている。そして木ノ下先生は、予め用意していたのであろうか。緑の葉で作った冠をヒバリの頭にかぶせ、頬に何かの印を押した。
 
これはノロの継承式だ!
 
青葉はそう思った。
 

「われはニライ村のノロなり。これより祭祀を復活させる。村人たちを起こすがよい」
とヒバリが言う。
 
すると木ノ下先生は家の中からエレキギター!を持ってくると、それを掻き鳴らし始めた。
 
たちまち近所の人たちが、何事かという様子で起きてくる。しかし起きてきた人達はみな一様に、そこに神々しい雰囲気の少女が、赤白黄色の模様の振袖を着流しにし、緑の葉の冠を付けているのを見て、圧倒される。
 
ヒバリが歩き出すと、そこに集まった人たちはみなその後に付いて歩いた。
 
例の別荘地の所まで来る。するとそのヒバリの前に立つ人物がある。
 
その人物は長い剣を抜くといきなりヒバリに斬りかかってきた。ヒバリがさっと身をかわす。その時千里が「これを使って」と言って、独鈷杵(?)を彼女に渡した。
 
ちょうどその時、東の空から太陽が昇ってくる。するとその太陽が突然ふたつに分裂すると、片方の太陽が全てヒバリが手にした独鈷杵に吸収されてしまった。そしてその太陽を半分吸収した独鈷杵から物凄い光が飛び出すと、ヒバリに剣を振るった人物に当たる。ぎゃーっという声をあげて、その人物は消滅してしまった。
 
この不思議な戦闘はその場に居た多くの人が目撃した。
 
そして独鈷杵を手に持つヒバリの姿は青い炎のようなものに包まれているように青葉は思えた。
 
この時、ここにいる全ての人が彼女がノロであることに納得したであろう。
 
ヒバリはそのまま別荘地を少し歩き回っていたが、やがて中央付近のある場所に立ち止まった。例のサトウキビ畑が残っている場所のすぐ近くである。
 
「ここは神の降りる場所なり。ここにて祭祀を行う」
と彼女は言う。
 
「ここは誰の土地ぞ?」
「それは不動産会社が持っているのですが」
 
とひとりの人が言った時、青葉たちが昼間見た不動産会社の社長が、数人の武闘派?っぽい部下を連れて駆け寄ってきた。おそらく「反対派が何か実力行使に出たようだ」と警備員から知らせを聞き、飛んできたのだろう。
 
「あなたたち何ですか? ここはうちの私有地ですよ。勝手に立ち入らないでください」
と社長が言った。強面の男達がその後ろに居る。
 
しかしそれに対してヒバリはその社長の前に出て言った。
 
「我はこのウタキを祭るノロなり。そなたが、ここの土地の持ち主か?」
 
すると社長はヒバリのあまりにも神々しい雰囲気に飲まれてしまったようである。ヒバリは相変わらず青い炎に包まれている。
 
「あ、はい・・・そうなのですけど・・・何か?」
 
と突然トーンダウンしている。
 
「ここは神が降りる神聖な場所なり、そなたの土地を祭祀のため、わらわに貸してもらえぬか?」
とヒバリが言う。
 
「はい、お貸しします!」
と社長は言った。
 
これには青葉もびっくりしたが、住民達も驚いていたようである。
 

「木ノ下先生、御自宅から香炉と香炉台にシーサーの置物を持って来てくださいませんか?」
とヒバリが笑顔で言う。
 
「分かった。誰か手伝って」
と木ノ下先生が言うと、不動産会社の社長が部下たちに
 
「お前たち手伝ってやれ」
と言った。それで腕力のありそうな男たちが4人、木ノ下先生に付いていく。そして10分ほどでそのシーサーの置物を2人で1つずつ抱えてきた。香炉を木ノ下先生の奥さんが、香炉台を木ノ下先生が持って来た。
 
「まず香炉台はここに」
と言って、それを置いてもらい、ヒバリは自分の懐から何かのお香を取り出すと、千里がヒバリに渡したライターで火を点けた。とても良い香りが周囲に広がり始める。
 
「シーサーの黄色い子はここ、白い子はここに」
とヒバリが指示する場所にシーサーを置く。するとずっとヒバリに付き従っていたシーサーの兄弟が喜んで、その中に飛び込んで行った。
 
「あ、そうだ。おちんちんが無かったんだった」
と黄色い子が言うので青葉はそばに寄って
 
「少し待てば君のおちんちん、ちゃんと出来てくるから、すぐくっつけてもらおうね」
と言う。
 
「ありがとう。青葉さん。おちんちん無いと、僕おしっこもどうしてすればいいのか分からないや」
などと黄色い子は言っている。
 
そしてヒバリはその2体のシーサーが守る場所の少し奥、香炉台の下に、千里が渡してあげたスコップで少し穴を掘り、手に持っていた金剛杵を埋めた。
 
しかし・・・ちー姉ってライター持ってるし、スコップ持ってるし。本当に用意が良すぎる!
 
ここまで終わった所で、ヒバリはふっと緊張の糸が途切れたかのように倒れ気を失った。
 

木ノ下先生の自宅で彼女を青葉と先生の奥さんとで介抱したが、彼女はすぐに意識を取り戻した。
 
「えへへ。私のノロ、上出来でした?」
 
とヒバリが言う。
 
青葉は目をぱちくりする。
 
「ね?今のまさか演技?」
 
「半分はね」
「へー!」
「コスモス社長にならって私もノロを演じてみるのもいいかなって思って。でも何かが降りてきたのは確か。そしてこれはノロの魂だと思った。だから私はきっとノロになれということだと思ったの。私がしゃべっていたのは半分は私に降りてきた魂のことば、半分は私の演技」
 
「やるじゃん!」
「えへへ。でも沖縄本島に移動するというのは自分で言ってびっくりしました」
とヒバリ。
 
「移動できるとは思わなかった!」
と青葉。
 
「戦闘もまるでRPGみたいで。あれ、何だったんでしょうね」
「多分闇の存在。あれが不動産屋さんの社長を操っていたんだよ」
と青葉は言った。
 
「でもなんで私あんな派手な振袖を着流ししたんだろう?」
「たぶん祭祀に使うアガサ(別名:長実母丁字ナガミボチョウジ)の白い花、赤や黄色の実を表しているんだと思う」
 
「ああ、その代用だったんだ? 本来は白い服ですよね」
「そうそう。木ノ下先生が着ているみたいな」
 
「木ノ下先生、木ノ下先生がノロを臨時代行なさっていたんですか?」
とヒバリが訊く。
 
「うん」
と少し恥ずかしげに答える木ノ下先生はまだ白い服を着てお化粧もしている。
 
「男の人なのに?」
「きっと君につながる人物として選ばれたんだよ。おかげで僕はこの3ヶ月、ずっと女装していた」
 
「女装楽しかったでしょ?」
「いや、楽しいの半分、恥ずかしいの半分かな。でもこいつに泣かれちゃうから、早く後継者さん来てよと思ってた」
と言って奥さんを見る。奥さんは先生にそんなことを言われて涙を浮かべている。
 
「私がノロを継ぐことになったみたいだから、先生はお疲れ様でしたということで」
とヒバリは言った。
 

不動産会社の社長は、これまでの非礼を住民に詫び、ヒバリが指定した場所にウタキを再構築することを認めてくれた。その社長の姿勢に、最後まで土地の売却を拒否していた玉城さんが売却に応じてくれることになり、結果的に別荘地計画は進行することになった。しかし社長は玉城さんが売ってくれる土地は新しいウタキに隣接することになるので、そこを地域住民の集会所にしたいと言った。
 
やはり別荘地の中央にウタキがあるのは、逆に沖縄らしくてよいと社長も考え直したのもあったようである。そのウタキを管理するのが元アイドル歌手のノロというのは話題性があるという計算もあったと思う。そこには新しい拝殿を住民の寄進で建築することにした。多分何十年も半ば放置された草ぼうぼうのきたなくも見えるウタキは景観上問題があっても、真新しく整備されたウタキなら問題無いという読みもありそうである。その寄進には木ノ下先生が大いに寄付したし、不動産会社の社長も寄付した。
 
「でもノロって結婚できるのかなあ」
「それは構わないみたいよ」
「そっかー。じゃ私、ここに住んで、祭祀をしながら、いい男見付けよっと」
 
ヒバリは当面木ノ下先生の御自宅に住まわせてもらうことになっている。
 
「ここだけの話。清子ちゃんって処女?」
「えへへ。惜しいのはあったけど、残念ながら未開通なんです」
「へー」
 
そんなことを言うヒバリはもう鬱を完全に克服したように見えた。
 
「でもさすがに歌手は引退かな。コスモス社長と紅川会長には悪いけど」
「まあそれもいいんじゃない?」
 
「ふと思ったけど、清子ちゃんの照屋という苗字は沖縄によくある苗字だよね。元々沖縄の出身なんてことはないの?」
 
「何代か前は沖縄だったらしいですよ」
「やはりそうなんだ!」
 
「沖縄本島のすぐ近くの、何ていったかなあ。。。確かクダカ島とかいう所の出身なんだって。私の祖母も祖父も」
 
「それって・・・」
「まさか・・・」
「清子ちゃんの、おばあちゃんってイザイホーの経験者だったりして」
「何ですか?そのイザなんとかって」
 
「じゃ、そのあたり僕が色々教えてあげるよ」
と数ヶ月ぶりに男装に戻っている木ノ下先生は言った。
 

「清子ちゃんって小さい頃からこの世にあらざるものが見えたりとはかしてなかったんだっけ?」
「私は見えないみたい。感じることはあったんだけど」
 
とヒバリが言うと、千里が
「だったら私と似た傾向かも」
 
などと言う。確かに千里は幽霊や精霊などは「見えない」と言っている。
 
「うちの母は霊感まるで無いリアリストなんだけど、お祖母ちゃんは子供の頃は色々見えていたとは聞いてるんです。大人になるとあまり見えなくなったらしい」
 
「ノロの霊的な素質はしばしば1世代飛びで継承されるんだよ。だから、祖母から孫娘へという継承は割と多い」
「へー」
 

5月19日(火)、帰りの羽田行き飛行機の中で、青葉は千里に言った。
 
「まさかこんな難問が数日で解決してしまうとは思いも寄らなかった」
「うん。どうかすると数年掛けても解決しないよね」
 
「結局、ヒバリちゃんはお薬サボってたんだね?」
「だと思う。コスモス見たいとか言って病院から出て、たぶんその後は全く飲んでなかったんじゃないかな。飲んでるような振りだけして。そもそも病院から逃げ出したかったのかも」
 
「でも結局私たちってあまり大したことしてない気がする」
「まあヘリコプターのチャーターとレンタカーでノロ様を宮古島から本島までお連れしただけだね」
「あの金剛杵は?」
「瞬嶽師匠の三回忌の時に∽∽寺の導覚さんにもらったんだよ」
「なんで?」
「あんた面白そうだからやると言われた。私は多分媒介者だと思うから預かると言った。正しい管理者の所に行ったんだと思う」
 
「ちー姉って、確かに媒体、メディアだよね?」
「私ってバッテリーであり、ハードディスクなんだよ。そうそう、ノロ様からこれをもらったよ」
 
と言って千里は小さなシーサーのストラップのペアを青葉に渡した。
 
「わっ!」
 
と言って青葉はびっくりしてシーサーを落としそうになった。
 
「気をつけてね。生物(なまもの)だから」
「これ中身が入ってるじゃん!」
 
「御礼にあげるから飼ってあげてだって」
「こんなのどこに居たのさ?」
「あのシーサー兄弟の子供だって」
「誰が産んだの!?」
「弟君じゃない? 今一時的に妹ちゃんになってるし」
「兄弟で男同士で子供ができるの〜?」
「まあ世の中にはいろんなことがあるさ」
 
「・・・・・」
「ん?」
「ね。阿倍子さんのお腹の中にいる子の遺伝上の母親って、ちー姉?」
「まさか。私、卵巣無いし」
 
この件はどうも追及しても何も話さないつもりのようだ。千里に本当に卵巣が無いのかどうかについても、青葉は疑惑を感じている。
 
「でこのシーサーの赤ちゃんたち、どこで飼うの?」
「マリちゃんに言うと、きっとあの神社に立派なシーサーの置物を作ってくれるよ」
 
と千里が言うと、青葉は頭が痛くなる気がした。
 

千里たちが羽田に降りて、携帯の電源をオンにしたらユニバーシアード代表の篠原監督からの「至急連絡乞う」というメールがあった。それで電話してみると思いがけないことを言われる。
 
「村山君、緊急事態が発生したんだ。今度こそは逃げずに受けてくれない?」
「はい?」
「伊香君が昨日通学中に駅の階段を踏み外してしまってね」
「え?」
「大事には至らなかったものの、W大学の監督の話では1ヶ月くらい安静にしていなければならないらしい」
「・・・」
 
千里は何だか嘘っぽい話だなと思った。秋子の演技なのでは?しかし彼女がそこまでして自分に譲ろうというのであれば、受けるべきだと千里は思った。
 
「代わりに代表に入ってくれるよね?」
と監督が言うので
 
「はい。やらせてください」
と千里は答えた。
 
「よし」
「3月末の時点では実際自信が無かったんです。あれからかなり鍛え直して、3年ぶりの代表、やる自信が回復しました」
「おお、そうこなくちゃ。数日中に公表するから」
 

「ちー姉、日本代表になるの?」
「自信が無いから逃げてたんだけどね。ただ春先の合宿に参加して本当に自分がなまっているのを私は凄く感じたんだよ。だからこの春から、今までの倍くらい練習するようになった。まあ3月末の頃よりは私も0.5歩くらいは進歩したかな」
と千里は言う。
 
その言葉に青葉も顔を引き締める。やはりちー姉も菊枝さんも、みんな各々自分の力不足をどこかで感じてそれぞれの道で日々鍛錬しているんだ。私ももっと頑張らないといけない。
 
その表情を見透かしたように千里は言った。
 
「青葉、私はこれからバスケの練習に出ようと思うけど見学する?本当は部外者立入禁止なんだけど私の妹ならいいんじゃないかな」
「そうだね。見せてもらおうかな」
 
青葉は旅疲れもあるだろうに、それでも練習するのかと正直驚きながら答えた。
 
千里に★★レコードが付けてくれているドライバーの矢鳴さんが既に空港玄関まで迎えに来てくれているのでふたりはミラの後部座席に一緒に乗り込んだ。矢鳴さんは千里を経堂のアパートまで送るために来ていたようであるが、千里が「Rの練習場所からFの練習場所経由で経堂まで」と言うと「了解しました」と言って車を出す。
 
「いつもの火曜・木曜のパターンですよね?」
と矢鳴さん。
「そうそう。それで」
と千里。
 
一方青葉は本当は東京から今夜の新幹線で帰還するつもりだったのだが、千里に付き合うことにして母に電話を入れ、今夜は桃香のアパートに泊まり、明日帰ることにしたのでもう1日学校を休みたいと伝えた。すると母は
 
「桃香の所?彪志君の所じゃなくて?」
などと訊く。
「彪志の所に泊まる時はちゃんとそう言うよ」
と青葉は答えた。
 
電話を切ってから千里が言う。
「彪志君とこに泊まってもいいのに」
「自粛する」
 
「青葉、実は睾丸が無くなった後、性欲も無くなったということは?」
「ちー姉こそどうなのさ?」
「オナニーを我慢しなくてもよくなったのが精神的に楽になったと思わない?」
「それ、私に同意を求める訳?」
 
そのあたりは「男の娘の秘密」ということで、お互いあまり追及しないことにした。
 

しかし荷物がある時は車は楽だ。今回は荷物が多いのでモノレールでの移動は少し気が重かったのである。羽田空港は実は川崎市のそばにある。550mの長さの大師橋で多摩川を渡って市内に入り、多摩川沿いに北上して市内某所まで行く。
 
「では私は《あちらの方で》待機しています」
という矢鳴さんを置いて、青葉と千里は門の前で降りる。荷物は大半を車の中に置いたままである。
 
千里が入口でIDカードを通して構内に入り、体育館に行く。窓口の所で千里と同世代くらいの女性に何か話している。
 
「あら妹さん? いいですよ。妹さんもスポーツウーマンっぽい体型ね。やはりバスケするの?」
と彼女が訊く。
 
「いえ。スポーツは全然してなくて。最近ずっと水泳はしているのですが」
と青葉は答える。
「へー。若い内はそういう基礎体力を付けるものをするのもいいわよね。中学生かしら?」
「済みません。高校3年生です」
「あら、ごめんねー」
 
うーん。私背が低いから幼く見られたかなとも思った。バスケ選手って背が高い人ばかりだろうしな。
 

青葉が体育館の客席に座っていると千里が赤い練習用ユニフォームに着替えてきて他の選手と練習を始めた。ユニフォームのロゴが筆記体なので読みにくい。Red Impulse かなと青葉は思った。
 
それで見学していたのだが、青葉は凄いと思った。
 
練習している選手は30人ほどだが、プロの人が多いように見える。青葉は小学校で将棋部、中学でコーラス部、高校でも合唱軽音部と文化系の部活をしてきていて、どれものんびりした雰囲気の部であった。しかしここのバスケットの練習は激しい。青葉はこのチームが日本でもトップクラスのチームであるなどということは全く知らないままここに来ているのだが、闘志あふれるプレイにまさに血湧き肉躍る思いであった。プロ野球中継とかより面白いじゃん!
 
練習は2時間ほど基礎的な練習をした後、紅白戦になった。千里はビブスを着用していて、どうもそちらがBチームのようである。Aチームがレギュラー組のようであるが、これが物凄い接戦なのである。
 
Aチームの1桁の背番号の付いたユニフォームを着けた人たちがどんどん得点を奪うものの、Bチームでも16番の背番号を付けていて千里と特に親しい感じだった人(入野朋美)が巧みに選手を動かし、ちょっとでも相手に隙があると千里にパス。千里が少々妨害されても高確率でスリーを放り込むので、点数は完璧なシーソーゲームになっていた。
 
最後はAチームで1番の背番号を付けた選手(キャプテンの広川妙子)がゴールを決めたのが決勝点となり1点差で決着した。
 
18時で練習が終わった後、千里は赤いユニフォームを脱ぐと普段着に着替えてきて「電車で移動するよ」と言った。
 

JRで溝の口まで行き、東急に乗り換えて渋谷を通過し、江東区の某駅まで到達する。
 
「夕方の時間帯に都心を車で移動するなんて無茶だから」
と千里は言った。
 
地下鉄の駅を出て少し歩いた所にある体育館に行くと、横に千里のミラが駐まっている。なるほどー。夕方の渋滞時間帯を避けて先にこちらに回送してきていた訳かと青葉は納得した。
 
体育館に入ると、千里は今度は黄色いユニフォームを着るが時計のマークが入っている。この時計の文字盤がよく見ると数字が8までしか無い。つまり40minutesということのようである。
 
そして今度の練習は何だかとってものんびりした雰囲気である。さっきの川崎での練習はどちらかというとピリピリしたムードだった。こちらはいかにもみんな楽しんでやっているという雰囲気だ。
 
そういえば誰かが、音楽には楽しむ音楽と究める音楽があると言っていた。やはりスポーツにも自分を向上させていく部分と、楽しんでやる部分とがあるのだろう。楽しさが無ければただの苦役だし、厳しさが無ければただの遊びだ。たぶんスポーツも音楽も、その両面があって初めて良いものになるのだろう。
 
こちらの練習には、青葉も会ったことのある溝口さんが参加していた。ベビーカーを持って来ていて、小さい子供を乗せている。子連れで練習とか大変だななどと思いつつ青葉は見学していた。ベビーカーの近くに寄って青葉もその子と少し遊んであげた。
 

練習は21時に終了した。
 
「さあお腹空いたでしょ。家に戻ろう」
と千里は言って、青葉と一緒にミラに乗り込み、矢鳴さんの運転で経堂に向かう。車内で千里はぐっすりと寝ていた。青葉も少しうとうととしていた。
 
1時間で経堂に到着し、コルティの駐車場に駐める。1階のOdakyu OXで豚肉・ウィンナー・焼きそば麺・野菜炒めセットにビールとお茶のペットボトル、朝御飯用に塩鮭、常備品の卵や焼き海苔に牛乳、それにおやつを少々買った。
 
車に戻り桃香のアパートのそばに付けてもらう。
「じゃミラは用賀の方の駐車場に入れておきます」
「ありがとうございました。また明日もよろしく〜」
と言って矢鳴さんと別れる。
 
「さて桃香が変な格好してなきゃいいけど」
などと言って荷物を持ってアパートの階段を4階まで上がる。千里
が荷物をたくさん持っているので青葉が鍵を開けてドアを開け、
「ただいま」
と言って中に入る。
 
すると「おかえり」と言って桃香が青葉に飛び付いてきてそのまま玄関で押し倒してしまう。濃厚なキスをされ、スカートをめくられ、パンティまで下げられる!?
 
「ちょっと桃姉!私だよ!」
と青葉は焦って叫ぶ。
 
「え?」
と言って桃香は自分が押し倒した人物の顔を見る。
 
「青葉?」
 
「私はこっちだけど」
とまだ玄関の外に居る千里。
 
「ごめーん」
と言うと、裸の桃香は慌てて居室の方に飛んで行った。
 

千里と青葉が協力してスーパーで買って来たものを冷蔵庫に入れたりテーブルに置いたりしていると、桃香が服を着て出てくる。
 
「済まん、済まん」
と桃香。
「レイプされるかと思った」
と青葉。
 
「ごめーん。しかし参った。青葉にちんちんを見られてしまった」
などと桃香は言っている。
 
「まあ、そのちんちんを入れる相手の裸までは転がってなかったから今日はいいことにしておこうかな」
と千里。
 
「千里に入れようと思って待機していたんだよ」
「それはいいけど無理矢理ってのは勘弁して欲しい。ところで御飯何か食べた?」
「食べてない。お腹空いた」
 
既に22時すぎであるが、桃香はむろん夕ご飯など作っていないので今スーパーで買って来た材料をホットプレートで焼いて焼きそばにして食べる。
 
「やはり焼きそばは豚コマがいい」
などと桃香は言っている。
 
「まあ安いからね」
「牛肉も美味しいが高いのが問題だ」
「午前中にお買物に行けばシールの貼ってあるのもゲットできるんだけどね。さすがにこの時間帯は残っているものを買うしかない」
 
「私、レスビアンってよく分からないんだけど、あれ入れる側も気持ちいいものなの?」
などと青葉が訊くと
「栗の所に当たるようになっているんだよ」
と桃香が答える。
 
千里は渋い顔をしている。高校生とする会話では無いという表情だが、青葉から切り出したので取り敢えず容認しているようだ。
 
「あ、そういうことか」
「今日のは違うがダブルヘッダーもある」
「あ、それは写真で見たことある」
「でも正直私は入れられるのはあまり好きではないので、シングルヘッダーの方が好きだ」
「あぁ、入れられたくないんだ?」
「入れられるんじゃ男とするのと変わらないし。実はトリバディ、いわゆる貝合せがいちばん気持ちいい」
「まあ、あれがビアンの醍醐味だよね」
などと千里も言っている。
 
「道具は千里を虐めて精神的にいたぶるお遊びだよ。だから千里以外には使ったことない」
と桃香は言うが
「それ、全然信用できない」
と千里は言っている。
 
なんか桃姉も浮気を開き直ってる!?
 
「ちなみにさっき付けていたのはバイブ付きだから電動でも気持ち良くなれる」
と桃香。
「今は付けてないよね?」
と青葉が訊くと
 
「うん。あのサイズのは付けたままは服を着られない。男物のブリーフとズボンを穿いた状態で装着することは可能だけど、出しっ放しの状態になる」
などと桃香は言っている。
 
「それで外は歩けないね」
と千里が突っ込む。
 
「まあ、おまわりさんに捕まるな。本物は小さくして収納できるから便利だ」
と桃香は言うが
 
「本物は取り外せないのが不便」
と千里は言う。
 
「ああ君たちはふたりとも自分で取り外せなくて困っていたんで、お医者さんに取り外してもらったんだな」
と桃香は言う。
 
「うん。無茶苦茶痛い手術だったけどね」
「大変だな。たまにまた欲しくなることないの?」
と桃香は訊くが
「要らない!」
と千里も青葉も即答する。
 
「だって立っておしっこするのとか便利なのに」
「立ってしたことは無いなあ」
と千里が答える。
 
「幼稚園とか小学校とかのトイレで立ってしてないの?」
「私は個室しか使ったことないよ」
「ほほお」
 
へー。やはりちー姉って「男の子生活」をしたことが無いんだろうな、とその返事を聞いて青葉は思った。きっと自分と同様に小さい頃から「女の子」していたのではと想像する。
 
「でもちー姉は、たぶん小学生の頃は男子トイレ使ってるよね?」
「まあ20歳頃までは男の子の格好の時は男子トイレを使ってたね」
 
「そこが問題なのだが、本当に男の子の格好してたのか?」
「私は中学高校は男子制服を着て通ってるし、大学でも2年の時までは男装だったじゃん」
「それが嘘だというのは既にバレバレなのだが」
「本当なのに」
「いや千里は嘘つきだ」
 
と言い
「今夜はこのネタで責めようと思っていたのに」
などと言って数枚の写真を出す。千里が頭を抱えている。
 
「わあ、凄い!」
 
と青葉が声を挙げる。
 
それは桃香が出した順に、大学の入学式?でスカートスーツを着ている千里、高校の女子制服を着て何かの賞状をもらっている所の千里、そしてセーラー服を着て学生服を着た細川さんと並んでいるスナップまである。
 
「個人的には細川君との最近の関係についても色々追及したいのだが」
「それはまた今度ね。今日は青葉もいることだし」
「そうだなあ。さすがに高校生の前でレイプはできん」
 

翌日朝御飯を食べて桃香を会社に送り出した後、千里は青葉を今日はインプレッサに乗せて東名・名神・北陸道を走って福井県の∽∽寺まで行った。
 
「このインプってよく借り出しているみたいだけど、実は借り物ではなくてちー姉の所有品ってことは?」
と青葉が訊くと
「少なくとも法的な所有者は私ではない」
などと千里は言う。
 
なんか微妙な表現だなあ。
 
「まあ都内程度を走り回る時はミラの方が小回りが利いていい。インプは主として遠出する時に使わせてもらうんだよ」
と千里は更に言っている。
 
確かに合理的な使い分けである。特にインプは走りは良いものの燃費は軽やエコカーと比較すればずっと落ちる。しかも千里は燃費を犠牲にしてグリップのいいタイヤを履いていると言っていた。
 
「ちー姉、ドリフトとかもするの?」
「できるけど一般道じゃしないよ」
「なるほどねー」
 
この日は交代ドライバーとして矢鳴さんが同乗してくれて、実際には最初矢鳴さん、新東名の掛川PAから名神の養老SAまでを千里、その後を矢鳴さんが運転した。朝8時に桃香のアパートを出たのだが、∽∽寺に着いたのは13時半くらいであった。
 
千里が入口の所で
「長谷川一門の瞬里と申します。独鈷杵の行方について導覚猊下にご報告に参りました」
と言うと、少し待たされただけで寺院奥の貫首の居る浮楼閣に案内される。檜造りの明るい雰囲気の建物である。導覚はにこやかな表情でふたりを迎えた。
 
「こんにちは。こちらは私の妹で瞬葉と申します」
と青葉を紹介する。
 
「ああ、君たち姉妹だったのか。いや、あの法事の時に、前に並んでいる人の中にいやに強烈なオーラを持っている若い子が居るなと思っていた」
と導覚は言った。
 
千里が今回の事件について自分たちが関わることになった経緯から順を追って話すと
「僕もその大きな流れの中に組み込まれていたようだね」
と導覚は語った。
 
「それじゃ君の般若心経を聞かせてよ」
と導覚が言うので
 
「それでは失礼して」
と言い、千里が
 
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空度一切苦厄。舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是・・・・」
 
と唱えると
 
「これは面白い。ほんとに祝詞(のりと)に聞こえる」
とひじょうに喜び
「これはみんなに聞かせなくては」
などと言ってお堂に寺の僧を大集合掛ける。
 
千里は苦笑していたが、半ばやけくそで、300人あまりの僧の前で「祝詞風般若心経」を奏上した。
 
「観音経はできませんか?」
などと声が掛かる。それで千里は唱える。
 
「爾時無尽意菩薩、即従座起偏袒右肩合掌向仏、而作是言。世尊、観世音菩薩、以何因縁名観世音。仏告無尽意菩薩。善男子、若有無量百千万億衆生・・・・」
 
へ〜、ちー姉、観音経もそらで唱えられるんだ! でもやっぱりこれ祝詞だ!
 
若い修行僧たちが、かなり面白がっていたようである。導覚さんは笑顔で頷きながら聴いている。娯楽と話題の少ない修行場では、この話がたぶん3ヶ月はネタにされるなと青葉は思った。
 

お堂でのイベントの後で浮楼閣に戻るが、導覚は
「ところで君たち、印可はもらったの?」
と訊く。
 
「妹はもらいました。私は仏教とは無縁なので」
と千里。
「いや、ふたりともうちの寺に欲しい感じだ」
と導覚。
 
「こちらのお寺は男性の修行僧だけでは?」
「そうだなあ。君たち変成男子(へんじょうなんし)するつもりは?」
「遠慮しておきます」
「マラがあると便利だよ。煩悩付きだけど」
「実はあったんですけど、取っちゃったんですよ」
 
「へー、そうだったの?」
「ですから変成女子(へんじょうにょし)なんですよ、私は」
「なるほどね。煩悩は消えた?」
「今でも煩悩だらけです」
 
「だろうな。あれを取るだけで煩悩が消えるなら、修行僧のマラは全部切り取りたいところだけど」
「そういう修行場もありかも知れませんが」
「やってくる修行僧のタイプが変わりそうな気がします」
 

∽∽寺を出たのは16時くらいであった。それから矢鳴さんの運転するインプで17時半頃青葉と千里は高岡に帰還した。
 
「そういえば今日はバスケの練習は良かったの?」
と青葉が訊いたら
「水曜日はレッドインパルスの練習が休みなんだよ」
と千里は言っていた。
 
「ねえ、ちー姉、ひょっとして会社には全然行ってないなんてことは?」
と青葉が言うと
「行ってるよ。先週は専務と一緒に国土交通省まで行って打ち合わせしてきたしね」
などと千里は言っている。
 
なんか怪しいなあ。
 
どうも千里は毎日あのプロチームの練習(15-18時)に参加しているようである。しかしその時間帯は本来、ふつうの会社の勤務時間帯のはずだ。
 

その日は高岡で青葉・千里・朋子の3人で夕食の卓を囲んだ。矢鳴さんも一緒にどうですか?と誘ったのだが、遠慮すると言ったので「心付け」と称して、きときと寿しの食事券を渡したら「ここ好きなんですよ」と喜んでいたようである。
 
「まあ1人で食べた方が気疲れしなくていいんじゃない?」
などと朋子も言っていた。
「後藤先生担当のドライバー、金子さんは日々後藤先生の食事や接待に付き合わされて、体重が増えちゃうというので毎日5kmジョギングしているらしいよ」
と千里。
「それは大変そう」
「そのあたりは女性作曲家の担当者の方が気楽っぽいね」
 
「だけど青葉も最近随分曲を書いているみたいだもんね。年間何曲くらい書いているんだっけ?」
と朋子が訊く。
 
へ?
 
と青葉は思う。
 
あ、そーか。
 
母は矢鳴さんは★★レコードが青葉に付けてくれたドライバーと思い込んでるんだ!? ま、いいか。
 
「去年はなんだかんだで30曲くらい書いているよ」
 
冬子さんから随分押しつけられたからなあ、と青葉は思う。
 
「多いのか少ないのか分からない」
「だいたい多くの職業作曲家が書く曲数は年間20曲くらいだと思う。中には量産型で50曲とか100曲とか書く人もいるけど、そういう人の多くは粗製濫造になりがちなんだよね」
と青葉。
 
このあたりあまり言うと年間120曲くらい書いている冬子の批判になるので、青葉としても言葉が慎重である。ただ冬子の場合、政子・和泉という優秀な作詞家に恵まれて、そのイメージを借りて作曲しているからこそ書ける曲数である。またローズ+リリーあるいはKARIONが歌う以外の曲のアレンジは全て下川工房に委託しているのもある。
 
「木ノ下大吉さんも年間100曲くらい書いていたんでしょ?」
「あの人の場合は最後はもうほとんどがゴーストライターの作品になってたね」
「うん。もう最後は単に作曲家を演じているだけの人になっていた」
 
「松原珠妃の『黒潮』は本人の作品だよね?」
 
「だと思う。翌年の『哀しい峠』もね。『黒潮』はいい出来だったけど『悲しい峠』は駄作。津島瑤子の『出発』が恐らく売れた作品の中では最後の本人作品。世間的に最後のヒット作と言われている粟島宇美子の『雨の中の告白』は本当に書いたのは、たぶん弟の藤吉真澄さんだと思う」
と千里。
 
「そうだったの!?」
と朋子が言うが
 
「私もその意見に賛成。サビとAメロは木ノ下さんだけど、Bメロと全体の仕上げは藤吉さんだと思う。たぶん木ノ下さんの作品に藤吉さんが補作したんだよ。サビの着想は天才的だけどBメロはありがちなんだ」
と青葉。
 
「ああ、その可能性はあるかもね。木ノ下さんの波動と藤吉さんの波動は似ているから、見分けにくいんだけどね」
「うんうん。似てるよね」
 
「あんたたち、よく波動とか言ってるけど、それ何?」
「作品を聴いたら感じられる一種のイメージだよね」
「うん。美術作品とかでも、どのくらい本人の手で描かれているかが分かる」
「漫画とかも、これ作者本人はほとんど何も描いてないよね?というのがよくあるよね」
「まあ、あれはアシスタントさんたちとの共作みたいなものだから」
「『アシスタントさんたちとの共作』ならいいけど『アシスタントさんたちの共作』になってたりしてね」
 

千里は22時頃、矢鳴さんに迎えに来てもらい、ふたりで交代で運転して東京に帰還したようである。
 
翌日6日ぶりに学校に出て行った青葉は水泳部の朝練で
「今日の青葉は気合いが凄い」
と杏里から言われた。
 
昼休みに青葉がチンスコウの箱を開けると、みんなが群がってきた。
 
「青葉、沖縄に行ってたんだ」
「うん。今回は大きな物事の進行をただ見守るだけという感じになったけどね」
「へー」
 
「なんか剣と魔法の世界という感じのものを見たよ」
「テーマパークか何かに行ったの?」
「そうだなあ。あそこテーマパークになっちゃったりしてね」
 
昨夜木ノ下先生の奥さんと電話で話したのだが、あの不動産会社の社長は別荘の付加価値を高めるのと地域住民へのサービスを兼ねて屋内型のレジャープールを作ろうかとか(屋内型にするのは沖縄の強い日差しを避けるのと騒音防止を兼ねる)、ウタキのそばにイザイホーの資料館でも作ろうかなあ、などと言っていたらしい。
 
 
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【春演】(3)