【春演】(1)

前頁次頁目次

1  2  3 
 
4月15日(水)の深夜。青葉が自室で勉強をしていたら東京の政子(マリ)から電話が掛かってくる。
 
「おはようございます。政子さん」
と青葉が言うと
 
「おはよー。それでさ、猫ちゃんたちお社のすぐそばに居るじゃん」
「はい?」
 
青葉は何の話か分からなかった。
 
「鳥居のそばにも何かあった方がいいと思うのよねー」
「えっと何のことですか?」
「神社よ。それで狛犬だと普通すぎるからさ。ゴジラとモスラを並べたらどうかなと言ったら、冬がそれ著作権料を払わないといけないからダメって言うのよ」
「えーっと・・・」
 
「青葉何かいいアイデア無い? でもゴジラがオスでモスラがメスかなあ」
「さあ、ちょっとそちらの性別はよく分かりませんが、有性生殖ならゴジラにもモスラにもオスとメスがいるかも」
「なるほど。きっとゴジラにも男の娘がいたりして」
「へ?」
「あっ、カツ丼できたみたい。じゃ、また後でね」
 
それで政子の電話は切れてしまった。
 
何の話だったんだ!???
 

4月13日(月)。
 
千里は午前中世田谷区の体育館でバスケの「自主練習」をした後、その日は練習仲間の入野朋美と一緒に川崎市内の某所に出かけた。
 
「こんにちは、来ていいよということだったのでお邪魔しました」
と言って中に入っていく。
 
「おお、話題の人が来た」
と千里を高校生時代から知っているキャプテンの広川妙子さんが言う。
 
実は朋美に誘われて、彼女が所属するWリーグの上位チーム、レッドインパルスの練習に非公式参加させてもらうことになっていたのである。
 
「実は2月からユニバ代表候補になって合宿に参加していて自分の練習不足を痛感していたので、参加させてもらえると嬉しいです」
と千里。
 
実を言うとそれが千里が代表を辞退した最大の理由だった。ユニバ代表の合宿に参加していて自分の身体が自分の思う通りに動かないことを再認識し、このままではダメだと思ったのである。
 
「まあ強い練習相手は貴重だから」
と広川さん。
 
「それなんだけど、ほんとに練習相手として使えるかどうか最初にテストさせて欲しい」
と練習の指揮をしている松山コーチが言った。
 
それで最初今年(1軍に)加入したばかりの入野さんや長原さんなど若いメンバーと1on1をやる。千里が8割くらい勝つ。またスリーを撃つと今日はフリーで撃ったので、撃った分を全部入れて、千里のプレイを初めて生で見た餅原さんが「凄い」と言っていた。
 
その後、中核選手である広川さんや餅原さんと1on1をやったのだが、この日千里は彼女たちには全敗であった。
 
「うーん。さすがに広川や餅原には勝てないか」
と松山コーチがいうので
 
「では不合格でしょうか?」
と訊くと
 
「とんでもない。合格、合格。ロースターに枠があったら1軍に入れたいくらい」
などとコーチは言う。
 
「たぶんこの子、強い選手との対戦経験が絶対的に不足しているんですよ」
と広川さんが言う。
 
「僕もそう思った。だからうちで鍛えていたらどんどんうまくなりそう。君は今どこかのチームに入っているの? なんならうちの2軍でもよければ正式加入しない?」
とコーチ。
 
レッドインパルスの1軍はプロリーグだが、2軍は実業団所属ということになっている。
 
「済みません。一応自分のクラブチームを持っているので」
「この子のチーム、先日の全日本クラブバスケット選手権で優勝したんですよ」
「おお、すごい」
「あくまで練習にだけ参加させてもらえたら嬉しいのですが。レッスン料払いますので」
 
「うーん。じゃ一応レッドインパルスのユニフォームだけ作って。そのユニフォーム代だけ払ってもらおうかな。レッスン料とかは要らないよ。2軍の練習生扱いということでいいと思う。その資格でIDカードも発行してあげるよ」
「ありがとうございます」
 
「よし。じゃ千里ちゃん、ユニフォーム作るのに採寸しようか。ちょっと来て」
と練習を見守っていた事務局の靖子さんが言い、千里は体育館の端でメジャーで身体の寸法を靖子さんに測ってもらってからその日の練習に参加した。IDカードもその日の練習が終わった時に渡された。
 
そういう訳で千里はこの年、レッドインパルスの練習に毎日参加させてもらえることになったのであった。レッドインパルスの練習は基本的には月曜から金曜の15-18時であるが、月曜あるいは水曜は休みになることもある。但し公式には休みであっても結構勝手に練習に出てきている選手は居る。実は朝9時頃からずっと練習している選手もいたりする(このあたりが実業団との違い)。これに秋から冬にかけてのシーズン中は土日に試合が入るのだが、春から夏に掛けては公式戦が無いので土日に公開練習や練習試合を入れるケースもある。
 
結局、この春からの千里(千里A)の一週間のスケジュールはこうなったのである(♪=音楽活動)。
 
月 9-12 自主練習 12-14 ♪♪ 15-18 Red Impulse 19-21 ♪♪
火 9-12 自主練習 12-14 ♪♪ 15-18 Red Impulse 19-21 40minutes
水 9-12 自主練習 12-14 ♪♪ 15-18 Red Impulse 19-21 ♪♪
木 9-12 自主練習 12-14 ♪♪ 15-18 Red Impulse 19-21 40minutes
金 9-12 自主練習 12-14 ♪♪ 15-18 Red Impulse 19-21 W大学の練習
土 9-12 ♪♪ 12-16 40minutes
 
特に火曜と木曜は完璧にバスケ漬けである。なお、火曜・木曜にレッドインパルスの練習場所(川崎市内)から40minutesの練習場所(江東区)への移動は、南武線で溝の口まで行き、東急田園都市線−半蔵門線のラインを使う。千里Bがお仕事をしているJソフトの最寄り駅・二子玉川駅や、自分のアパートの最寄り駅・用賀駅を通過しての移動である。通勤時間帯だが混雑する方向とほぼ逆方向なので比較的楽に移動することができる。
 

4月18日(土)。
 
青葉は土曜日ではあるものの合唱軽音部の練習で学校に出た後帰ろうとして学校の最寄り駅まで行き、氷見線の下り列車を待っていたら、突然自分は出羽に行かなければならないのではないかという気がした。
 
ちょうどそこに高岡行きの上り列車が到着する。青葉は反射的に飛び乗った。それで乗換案内で鶴岡への連絡を確認する。
 
今日中に鶴岡に到着できる!
 
それで母に連絡する。
 
「お母ちゃんごめーん。急用でちょっと山形まで行ってくる」
「あらあら。忙しいね。お金は持ってる?」
「高岡駅か新高岡駅のATMで降ろすよ」
「なるほどね。気をつけてね。いつ戻る?」
「分からない。もしかしたら月曜日は休むかも」
「じゃ、その時は連絡して」
「うん」
 
青葉は心の中で「生きてたらね」と付け加えるが、さすがにそれは母には言えない。
 
乗継ぎ時間を確認すると高岡駅は9分、新高岡駅は14分である。なんとも微妙だが青葉は新高岡駅の方が少し余裕があると見た。それにそもそも新高岡駅ではどっちみち一度改札外に出ないといけない。城端線の新高岡駅と新幹線の新高岡駅は駅舎が別れているのである。
 
列車はすぐ高岡駅7番ホームに到着するので、階段を駆け上がり駆け下りて1番ホームに行き城端線下りに乗り継ぐ。JR氷見(ひみ)線とJR城端(じょうはな)線は路線図で見るとまるで一続きの線のように見えるが、実際にはつながっておらず、どちらも高岡駅を出る列車が下りである。そして実はこの2つの路線は新高岡駅でJR西日本の新幹線と接続する以外は他のJRの線とはつながらない「孤立路線」である。高岡駅を発着する旧北陸本線の電車は3月14日から「あいの風とやま鉄道」に移管されている。
 
実際には城端線の列車は青葉が駆け込んでから結構な時間経ってから発車した。こちらでATMに行っておくべきだったかなと少し後悔したが仕方ない。列車はわずか3分で新高岡駅に到着するが、さっき高岡駅では通学用ローファーで走ったのが結構大変だったので運動靴に履き替え、また運賃の小銭を用意する。
 
列車が新高岡に到着するとすぐ運賃箱に料金を入れて飛び出し、城端線の駅舎を出て新幹線の駅舎まで走る。ATMの所に人が居ない!ラッキー!青葉はそこに飛び込むと余裕を見て10万円下ろし、すぐにみどりの窓口に並ぶ。
 
発車までの時間は残り9分だ。前に並んでいるのは2人。その窓口の所にいる人があれこれ悩んだりしているので青葉はかなり焦ったが、青葉はその待ち時間を利用して自分が乗るべき列車のリストをメモ用紙に書き出した。
 
その人が終わった後、次の人は東京までの往復チケットという単純なオーダーだったので、残り4分の状態で青葉の番になった。
 
「鶴岡までの乗車券、上越妙高−直江津間は、えちごトキめき鉄道・妙高はねうまライン経由で。新高岡から上越妙高までの新幹線特急券自由席、しらゆき7号の上越妙高から新潟までの特急券自由席、いなほ13号の新潟から鶴岡までの特急券自由席下さい」
 
と言って、さっき書いておいたメモを見せる。
 
メモが無かったら結構悩むようなオーダーである。
 
しかしきれいにまとめられているので、それを見てすぐに係の人が券を発行してくれて、それを持って2階の2番ホームに駆け上がる。駆け上がって、はあはあと大きく息をしていたら、もう列車が到着する。青葉は飛び乗って安堵した。
 
実際には《新幹線はくたか572号》はわりと空いていて、青葉は息が落ち着くと富山駅に到着する前に空いている座席に座ることができた。しかし随分走った!!特に階段の上り下りは身体を鍛えている青葉でも結構きつい。そして席に座ってからあらためてチケットを見ると、しらゆき7号・いなほ13号は指定席で発行されていた!もっともこれは、わざわざ《7号》《13号》と列車名を書いた青葉も悪い。自由席なら単に《しらゆき》《いなほ》とだけ書いた方が混乱は無かった。
 
新幹線の中で青葉はいつの間にか眠ってしまっていたが、眷属の《雪娘》が『青葉、そろそろ起きて』と言って起こしてくれた。それで上越妙高で降りて信越本線の特急に乗り継ぐ。ここでの乗換時間は8分であるが、小さな駅なので楽勝である。新幹線は3階に到着するが、エスカレーターで2階に降りて改札を通り、更に1階に降りて《えちごトキめき鉄道》の乗場に行く。
 
《しらゆき7号》は当駅始発列車なので既に列車は入っている。わりと混んでいたが指定席なので安心して座ることができた。結果的には指定席で発行してもらって良かったようである。
 
3月13日まで越後湯沢から北越急行経由の《特急はくたか》で直江津−富山・金沢方面が結ばれていたのが、北陸新幹線の金沢延伸で《特急はくたか》が廃止され、《はくたか》という名前自体も北陸新幹線の列車名に転用された。結果的に直江津付近(上越地区)から長岡・新潟方面(中越地区)へのアクセスが不便になったので新設されたのがこの《特急しらゆき》で、《えちごトキめき鉄道》の上越妙高−直江津からJR信越本線の新潟までを結んでいる。車両は常磐線を走っていた《フレッシュひたち》のE653系が使用されている。「しらゆき」という名前は以前金沢−青森間のディーゼル急行(全線電化区間を走るのにディーゼル列車で運用されていた)に使用されていたもので、その列車は後に特急に昇格して「白鳥」の増発便になった。雪が鳥に変身したのである。
 
青葉はこの《しらゆき》の車内でもひたすら眠っていた。
 
終点の新潟で降りて1時間半の待ち合わせでJR羽越本線の《特急いなほ13号》に乗り継ぐ。時間があるのでいったん外に出てコンビニでお弁当とおにぎりにお茶2本、懐中電灯と電池を買った。
 
懐中電灯はすぐに電池を入れ、ちゃんと点くことを確認しておく。駅のホームでお弁当を食べ、お茶を1本飲む。もう1本のお茶とおにぎりは予備に取っておく。やがて《いなほ》が入線してきたので乗り込み、またひたすら車内では寝ておく。これもE653系の電車である。
 
鶴岡に到着したのは23:20であった。青葉は駅前からタクシーに乗り、羽黒山の麓の「いでは文化記念館」のところまで行ってもらった。
 
以前来た時にちゃんと下から登って来いと叱られたからなあと思う。懐中電灯を点け、随神門のところから遊歩道を登っていった。夜間でもあり慎重に歩いたので、蜂子神社の所まで辿り着いたのはもう夜1時過ぎである。結構息がきつい。ああ、修行不足だと言われそう、などと思いながら三神合祭殿でお参りをした。
 
青葉はその付近をキョロキョロする。過去にここに来た時はこのあたりで美鳳さんか佳穂さんが出てきてくれた気がするのだけど・・・。
 
うーん。どうしよう?
 

その時
「青葉? 夜中にこんな所で何してんの?」
という声が聞こえる。
 
振り返ると、菊枝さんである!
 
「こんばんは。菊枝さんはどうなさったんですか?」
「ああ、ちょっとここの所ずっと籠もって山駆けしてるんだよ」
「凄いですね!どのあたりを歩いておられるんですか?」
「その日による。羽黒山から黒森山・虚空蔵岳、月山・湯殿山・姥ヶ岳。登山道も存在しないような道無き道を歩く」
「なんか壮絶ですね」
「でも私は主として夏にしか参加しないから」
「今夏なんでしたっけ?」
「今はまだ冬山の終わりかけ。けっこう雪があるよ。冬に歩く人達は凄まじい。あちらは毎年10人単位の行方不明者が出るから」
「いいんですか〜?」
「それを覚悟してやっている人達だから。私は1度だけ冬に参加したけど、30分でクビになった。あんた死ぬから辞めろと言われて」
「きゃー」
 
「こちらはそれよりは易しいけどそれでも生命の保証はできない。青葉もやる?」
「行きます!」
 

夜中ではあるが、菊枝さんが話してくれて神社で荷物を預かってもらった。服は青葉が着ていた体操服でも良いと言われたが、靴はそんなのでは無理と言われ、登山靴の在庫があるのを1足売ってもらい履き替える。それで菊枝さんやその同行者数人と一緒に歩き始めた。
 
しかし・・・
 
これはきつい!!
 
あっという間に遅れそうになるが、1度だけみんなが待っていてくれて
 
「次遅れたら置いて行くから。行き倒れて死んでも自己責任だからね」
と菊枝さんから言われる。
 
「頑張ります」
と言って、そのあとは必死で付いていった。
 
青葉は大船渡でもしばしば付近の山を歩き回っていたし、高岡に来てからは山が近くに無いので早朝の海岸線などを走っていたのだが、この出羽の山駆けは別世界であると思った。
 
そして青葉は思い知らされていた。
 
私、充分足は早いと思ってた。
 
でも私って遅かったんだ!!
 
一緒に歩いている人たちを見ると、40-50代くらいの人が多い。しかも半分は女性だ。その人たちがこんな真夜中の山の中を凄いペースで歩いている。自分はいつも凄いと褒められていた。高野山での回峰行でも瞬嶽師匠からしっかり付いてくるようになったと褒められた。
 
でも自分の歩く力なんて大したこと無かったんだ!
 
青葉はショックを受けながらも、自分を鍛え直さなければならないことを再認識しつつあった。
 

山駆けは午前2時頃から始まり午後5時頃終了。ちょうど終わったところで日出を迎えた。羽黒山近くにある秘湯で疲れを癒やした。男女混浴だが、ここにはこんなところで性欲を表に出してしまうような未熟者はいない。男も女もお互い平気で裸体を曝している。
 
「今日はかなりゆっくりしたペースだったね」
などと言っている40代くらいの女性がいる。
 
「今日は初心者が数人混じっていたから少し遅めに歩いた」
とリーダー格っぽい男性が言っている。その人は70歳くらいに見える。
 
「まあ初心者の人たちは出羽の修行の一端を感じられたろうから、各自しっかり鍛えて、また挑戦してもらえるといいかな」
などとベテランっぽい60代くらいの女性が言っている。
 
そうか。私って初心者だったのか。
 

「菊枝さんはここでの修行は長いんですか?」
と青葉は温泉につかりながら菊枝に訊く。
 
「最初2007年の冬に冬の修行に参加させてもらったんだよ。でもさっき言ったように30分で首になって、冬山に放置されて死にたくなかったら自力で出発点まで戻れと言われた。それで必死になって戻ったけど、戻るのに2時間掛かったよ」
 
「まあ冬の修行は死者が出ること前提。私もとても向こうには行けん」
などと近くで言っている人がいる。
 
「向こうにいる人たちは肉体が無くなっても別に気にしないレベルの人たちだから」
などと言っている人もいる。
 
「いや、あちらの参加者の半数は実際問題として既に肉体を捨ててると思う」
と言う人も。
 
何それ〜!?
 
そういえば以前美鳳さんと一緒に羽黒山を歩いた時「その身体を捨てない?」と言われたけど、あれって冗談じゃなかったのか??
 
「それで2008年夏の修行に参加させてもらったけど、これも1日でクビになった。鍛え直してこいと言われた。それで四国の山の中を自分でひたすら走って2009年の夏にやっとメンバーに入れてもらった。それから毎年1ヶ月くらいここに籠もって山駆けしてるよ」
と菊枝さんは言う。
 
「菊枝さんでさえ、そのレベルなのか・・・」
 
青葉は上が全く見えない気分だ。じゃ冬の山駆けしている人たちって、どんな凄いレベルなんだろう。
 
「私もその内冬の修行に参加したいんだけどね。あんたにはまだ無理って言われてる」
と菊枝さん。
 
「速攻で肉体を捨てていいなら参加出来るかもね」
などと言ってる人もいる。
 
「でも私、今日1日で自分の修行不足を痛感しました。鍛え直さないといけない」
と青葉は言う。
 
「あんた学生さんなら部活でスポーツ系のに入ったら、結構鍛えられるよ」
「走り回る系統のがいいよね」
「そうそう。スポーツにも瞬発力を使う系統と持久力を使う系統がある。後者がいい」
「野球とかゴルフとか卓球とかは瞬発力を使うスポーツ」
「陸上の長距離とか水泳とかサッカーとかバスケとかが持久力を使う」
 
バスケか・・・・。ちー姉の試合って一度見てみたいな。
 
「今、冬山の修行にはバスケ選手が何人か入っているらしいね」
「うん。大したもんだよね。女組の方だよ」
 
へ〜!凄い。
 
「この集団は男女混合ですけど、冬山は男女別なんですか?」
とひとりの初心者っぽい20歳くらいの男性が訊く。
 
「うん。男組は湯殿山大神(大山祇神)を奉り荒行という感じ。女組の方は羽黒山大神(稲倉魂命)を奉りひたすら歩く。どちらが本当に厳しい修行なのかは何ともいえん」
 
「へー」
「但し性別は自己申告だから」
「へ?」
 
「肉体的に男でも女の方に参加したければ参加してもいい」
「肉体的に女だけど男の方に参加したいと言って参加してる人は数人居る」
「あれは髪を男並みに短くすることが条件」
「へー」
「小便も立ってしなければならない」
「え〜!?」
「女の方に参加する場合は座ってしないといけないらしい」
「ほほお」
「要するに男組に参加するなら男を演じ、女組に参加するなら女を演じるんだな」
「なるほどー」
 
「女を演じる時はもちろん絶対に参加者に対して欲情しないことも必須条件」
「女と一緒に温泉に入って万が一にも立ったりしたら即去勢されるから」
「おお、怖い」
「男組の方に女の身で参加していて恥ずかしがっていたりしたら、チンコをくっつけられるという噂もある」
「性転換したい人にはいいですね」
 
「まあ性欲程度コントロールできないのは修行がなってないよ」
と女性の修行者が言うが
「いや、あれ性欲というよりただの生理的な反射なんだけど」
と男性の修行者は言っている。
 
「夏の集団は緩いから、立っても蹴られる程度で済む」
「俺何度か蹴られた」
「俺も蹴られた。潰されたかと思った」
「今度潰してあげようか?」
「俺人間は卒業してもいい覚悟でこの修行に参加しているけど、まだ男は卒業したくないから勘弁して」
「へ〜。命よりあれが大事なんだ?」
 
「でもバスケ選手って何歳くらいの方なんですか?」
と27-28歳くらいの女性が訊く。彼女も初心者っぽい。今日は最後尾を彼女と争う感じであった。
 
「年齢不詳のお姉様が1人であんたより少し若い子が3人」
「私より若いのか!すごーい」
「あんたも頑張りなよ」
「私はこちらに付いてくので精一杯だからなあ」
 
「俺、あのお姉様に年を聞いたら蹴られた」
「あの人、1970年代に日本代表として世界選手権に出たらしいよ。バスケ界では有名な人らしい。もう現役を辞めて久しいし、指導者とかも今はやってないから伝説の選手と言われてるって」
 
「冬山の修行に付いていけるのなら日本代表くらいにはなれるだろう」
「若い子3人はまだフル代表じゃないらしいね。ユニバーシアード代表とか言ってたよ」
 
ユニバーシアード〜〜〜!?
 
まさか・・・・。
 

温泉で1時間ほど休んだ後、みんなで下山し解散した。
 
「その後ろに居る子たちって狛犬ちゃん?」
と菊枝さんから訊かれた。
 
「どうも沖縄のシーサーみたいなんです。迷子になっていたのを取り敢えず保護したんですけどね」
 
「まあ青葉の所に来たのは何か必然性があるんだろうね」
「そうかも知れないという気がします。私今度沖縄に行くんですよね。もしかしたらそれに関わることなのかも知れないです」
 
「ああ、仕組まれているってやつだよね」
「なんかよくあるんですよねー」
 
「だけど青葉ちょっとなまってるじゃん」
「認識しました。鍛え直さないといけないです」
「まあ瞬嶽師匠や瞬嶺さんの回峰は、師匠の年が年だったから、ゆっくりしたもんだったけどね」
「そうだったのか・・・」
 
「出羽の夏の修行は4月から10月まで。冬の修行は9月から5月まで行われる」
「へー」
「結果的に夏の修行者と冬の修行者が4−5月と9−10月で交錯する。もっともルートがまるで違うから顔を合わせることはめったにないんだけどね」
「はい」
 
「ずっと前だけど、あんたの姉ちゃんが冬山の女組にいるのを一度見たよ」
と菊枝が言った。
 
青葉は引き締まった。
 
ちー姉って、そんな凄い所で修行していたのか・・・・。
 
「ただ向こうは私が分からないようだった」
「そうですか」
「夏山の修行はみんな人間だから、お互いの顔が全部見える」
「はい?」
「でも冬山の修行はそもそも修行の場が、この世にあらざる領域で行われる」
「へ?」
 
「参加者も、生身の人間、人間辞めた人、そもそも人間では無い存在、既に死んでいる人、精霊、神様、大神様とバリエーション豊か。そして冬山では自分よりレベルの高い人の顔は見えない」
 
「へー!」
 
「自分と同レベルあるいは下のレベルの者の顔しか見えない」
「面白いですね」
 
「だから私が一度だけ冬山に入った時は、全員のっぺらぼうに見えた」
「わぁ」
 
「あの時、冬山組と遭遇した時も、私に見えたのは青葉の姉ちゃん以外には2-3人程度。でも向こうはこちらの顔が見えてない感じだった」
 
「それって・・・」
「私の方が一応、青葉の姉ちゃんよりは上だったみたいね、少なくともその当時は」
 
「それでも菊枝さんは冬山に行けなくて、姉は行けるんですか?」
「あの人の体力が凄まじいからだと思う」
 
青葉はまた顔を引き締めた。
 
「霊的な仕事をしていても、体力勝負というのはわりとある。青葉は霊的な才能は本当に凄い。私はいづれ青葉に抜かれると思っている。だけど体力や腕力が無いと、ほんとにとんでもない悪霊には対抗できないよ。力でねじ伏せないといけない奴もいるからさ」
 
と菊枝は言い、青葉の手足を触った。
 
「あんた細すぎるんだよ。モデルさんとかにでもなりたいというなら別だけど、こんなに細かったらとてももたない。アナウンサー志望って言ってたよね?」
「はい」
「アナウンサーも激務だよ。そしてどんなに疲れていてもカメラの前では満面の笑みを見せなければならない。疲れているようなそぶりは一切見せてはいけない」
「それって霊能者もですよね?」
「当然。フルマラソン走った後でも、平気な顔して笑顔でクライアントに接することができなきゃ霊能者はできない。あんた体重何キロ?」
「48kgくらいかなあ」
「最低でも58kgにはしなさい」
「ひゃー」
「身長は159くらいあるでしょ?」
「はい」
「身長159cmなら標準体重が56kgくらいだと思う。筋肉を発達させるという条件で60kgくらいまではありだよ。あんたの姉ちゃんに身長と体重を訊いてごらんよ」
 
菊枝さんはせっかく出羽まで来たからと言って、羽黒山の奥地をあれこれ案内し秘滝や美しい山桜などのある場所なども教えてくれた。どれも深い谷を飛び越えたり、垂直な崖を登ったり、いわゆる「蟻の門渡り」を歩いたりしないと到達できない所にあるもので、普通はベテランの登山者でないと行けないものである。青葉もこの日連れて行ってもらった所は何とかなった。
 
恐らく菊枝さんは自分の体力を再確認していると青葉は思った。
 
「今回の修行参加記念品にこれでも持って行くといい」
などと言って、菊枝さんはミニチュアのヤタガラスのストラップをくれた。
 
出羽三山を開いた蜂子皇子は由良の浜からヤタガラスに導かれて羽黒山に辿りついたと言われている。
 
「まあ鶴岡の土産物屋さんに売ってたものだけどね」
「わぁ」
「私が初めて夏の修行に参加させてもらった時に買ったもの」
「それを私に?」
「まあ私はもっと先に行くから。青葉、うかうかしてたら置いてくぞ」
「頑張って追い抜きます」
「そうこなくちゃね」
 
それで菊枝さんと握手して別れた。菊枝さんはまだ籠もっている最中なので、まだしばらく出羽にいるということだった。
 

青葉がマジメに遊歩道を歩いて随神門の方に降りて行くのを菊枝が見送っていたら、美鳳が菊枝に声を掛けた。
 
「あんたも結構きついこと言うね。あの子は私、今すぐ冬の山駆けに欲しいけど」
「美鳳さんこそ、今回はあの子に会わなくて良かったんですか?」
 
「あの子は基本的に孤独を好む性格もあって。ひとりで修行しているのはいいんだけど、それでしばしば自分の位置づけを見失う。もっともっと努力が必要ということを認識してもらった方がいい。凄い素材ゆえにね」
 
「それで今日の山駆けはいつもよりもかなりのハイペースだったんですね」
と菊枝は言う。
 
「ふふふ。あんたは冬山には来ないの?」
と美鳳。
 
「まだ命が惜しいので」
と菊枝は答えた。
 

青葉は『いでは記念館』の所からバスで鶴岡に出ると、朋子に今晩帰ることを連絡した上で、新高岡までの切符を買った。
 
鶴岡1636(きらきらうえつ)1832新潟2002(しらゆき10)2159上越妙高2207(はくたか577)2256新高岡
 
というルートで帰還した。なお《きらきらうえつ》は金土日限定運行の快速である。連絡していたので母が新高岡駅まで迎えにきてくれていて、母の車で自宅に戻った。
 

月曜日、青葉は朝早くから学校に出て行き、校内のプールに行ってちょうど朝練のため更衣室で着替えていた水泳部の杏梨に言った。
 
「ちょっと私、身体を鍛えたくて。もしよかったら朝練だけでも水泳部の朝練に参加させてもらえない?」
「おお。歓迎歓迎。競泳用水着は持って来てる?」
「もちろん」
「青葉結構遠泳ができたよね?」
「距離だけなら海で5-6kmは泳ぐ自信ある。でもスピードが大したことないと思う」
「取り敢えず一緒に泳いでみよう」
「うん」
 
それで水着に着替えてプールに行き、他の水泳部朝練組と一緒に準備運動してから水に入った。
 
「何がスピード無いよ!速いじゃん」
と杏梨から言われるが、男子の部長・魚君は
 
「確かに速い。でも県大会では決勝に残れないレベル」
と言う。
 
魚という苗字はこの近辺では時々見る苗字なのだが、水泳選手で魚というのはインターハイに行った時に注目されて、新聞に載ったこともある。彼もインターハイまでは行けてもその決勝には残ることができない。
 
「インターハイの水泳で優勝できるくらい頑張りたいです」
と青葉。
「それってオリンピックレベルってことじゃん!」
と杏梨。
 
「だったらたくさん練習しなきゃね。それと川上君、その手足が細すぎるんだよ。見た感じ、皮下脂肪も少なすぎると思う。それでは長時間水の中にいるとどんどん体温を奪われてしまう。もっと皮下脂肪をつけないといけない。体重いくら?」
と魚君。
 
「48kgです」
「少なすぎるね。最低54kgにしよう」
「やはり? 実は昨日も別の所で言われました」
と青葉。
「青葉少食だもん。もっとお肉食べなきゃダメ」
と杏梨。
 
「頑張る」
 

その日、青葉は彪志に電話して言った。
 
「彪志ってさ、細い子と太った子とどちらが好き?」
「え? うーん。どちらかというと細い子かな」
「そうか。ごめんね。じゃ別れて」
「なんで〜〜!?」
「私、太ることにするから」
「いや、青葉であればたとえ100kgになっても青葉のこと好きだ」
 
「さすがに100kgになるつもりはない!」
 
それで青葉は自分はもっと身体を鍛えなければならないことを認識したからもっと体重がつくように、よく食べてよく運動することにするという話をした。
 
「いや、青葉は細すぎると思ってたから少しお肉をつけるのはいいことだと思う。頑張りなよ。体重70kgくらいまでは個人的にはたぶん許容範囲」
「70は重たすぎると思う。でも実際57-58kgくらいまでは体重増やした方がいいと言われてるんだよね」
 
「青葉霊的な仕事でけっこうハードなことしてるでしょ。それからこれから受験もあるし、もう少し身体を鍛えた方がいいよ」
「うん、私頑張るね」
「俺をお姫様だっこできるくらい筋力つけてもいいよ」
「そうだなあ。じゃその時は彪志はベビードールでも着てもらって」
「いいよ。だっこしてくれるんなら」
「よし、彪志にベビードール着せるように頑張ろう」
「あはは」
 

4月24日(金)。細川阿倍子(旧姓篠田)は夫と一緒に産婦人科を訪れていた。
 
「順調ですね」
というお医者さんの言葉に阿倍子はホッとする。
 
「何とかここまで来ましたね」
「ええ。一時は私もはらはらしましたが、ここまで来ればもう大丈夫でしょう。もう来月3日で9ヶ月目に入ります。でも少しでも何か異変があったら連絡してくださいね」
 
病院を出てから会話する。
 
「じゃこんな時に悪いけど出張行ってくるから」
「お疲れ様。こんな時期に沖縄とか人が多そう」
「そうそう。早めにゴールデンウィークに突入しちゃう人があるみたいだから。じゃもし何かあったらタクシーで病院に駆け付けるんだよ」
 
「うん」
 
それで貴司は阿倍子と一緒に自宅に戻ると、伊丹に向かうモノレールの駅ではなく、北大阪急行の駅に行き《新大阪》に向かった。
 

26日(日)。阿倍子が千里(せんり)の自宅マンションで《たまごクラブ》を読んでいたら家電に着信がある。何だろうと思って取ると財テク商品の勧誘のようである。普段なら「要りません」と言って電話を切るのだが、この日は少し暇していたこともあり、しばらく相手のセールストークに付き合う。
 
友だちの無い阿倍子は暇をもてあました時に電話する相手がおらず、セールスのオペレーターをかっこうの話し相手に使わせてもらった。ずっとおしゃべりしながら何気なくそばに置いてあったシャープペンシルでメモ帳に意味も無い円を沢山書いていた。
 
その時、阿倍子はふとそこに何か文字が浮かび上がってきたことに気づく。
 
ん?と思い、阿倍子は「じゃ要りませんから。サヨナラ」と言って電話を切ってから、シャープペンシルの芯を横に使ってメモ帳の上を軽くなぞるように塗ってみる。すると 03-****-**** という電話番号が浮かび上がった。26日という日付も出てくるがその先の時刻らしきものは読めない。
 
ピーンと来る。
 
浮気だ。
 
しかも東京!?
 
阿倍子はしばし考えた。
 
貴司は本当に沖縄に出張に行ったの?
 
阿倍子は貴司の会社に電話してみた。休日でも直通番号には誰か出るはずだ。
 
「どうもお世話になります。細川の妻でございます。実は細川の知人が出張先で会いに行きたいと言って連絡してきたのですが、あいにくホテルの名前とかを聞いてなくて。さっき電話してみたら仕事中のようで携帯の電源が切ってあるようなんですよ。そちらでホテルの名前と電話番号が分からないかと思いまして。はい。。。。ありがとうございます。渋谷の**ホテル、03-****-****ですね。ありがとうございました。お手数おかけしました」
 
やはり貴司は東京に行ったんだ!
 
それで先ほど電話メモに浮かび上がった電話番号をネットで検索してみると銀座の超高級レストランであることが分かる。ディナーが「5万円から」などと書いてある。うっそー。もしかして浮気相手とここに行く気? こんな豪華な所、私におごってよ。
 

そんなことを考えていたら、次第に怒りの心が湧き上がってくる。
 
思わず、阿倍子は千里の携帯に電話していた。
 
「こんにちは、阿倍子さん。どうかしました?」
と電話の向こうの千里の声は明るい。
 
「あんた、うちの貴司と浮気するとか、どういう了見よ?」
と阿倍子は最初から喧嘩腰である。
 
「へ? 何?私、貴司と別に何もしてないけど?」
「今夜するつもりなんでしょ?昨夜もあんたあの人と一緒だったんじゃないの?」
 
「ちょっと待って。貴司が東京方面に来てるの?」
 
千里の戸惑うような声に阿倍子は不安になった。
 
「あの・・・・貴司と高級レストランに行くんじゃないの?」
「私、貴司とはここ数ヶ月会ってないけど」
 
数ヶ月?つまり数ヶ月前には会ったのか。くっそー。しかし今回の浮気相手は千里ではないのか??
 
「もしかして貴司が誰かと浮気しようとしてるの?」
と千里が訊く。
 
「だと思う。高級レストランの電話番号のメモが見付かって。26日という日付と。そもそも貴司、沖縄に出張に行くと私には言ってたのに、会社に確認したら出張先は東京だったみたいなのよ」
 
「あいつのやりそうな手段だね。でも阿倍子さんがもうすぐ臨月って時に浮気とか全くひどい奴だ」
「なんか私・・・悲しくなってきた」
「阿倍子さん、その浮気私が阻止してあげるから」
「え?」
「大丈夫。私に任せて。そのレストランの電話番号を教えてくれない?」
「あ、うん。03-****-**** リストラン****というの」
「そこ知ってる。すっごく高い店。一見さんお断り」
「私、あの人とそんな所に結婚以来行ったこともないのに」
「日付は今日なの?」
「うん。26という数字が残ってたから。時刻はよく分からないんだけど」
 
「分かった。じゃ、確実にその浮気私が潰して、あとで報告するから」
「ほんとに?」
「赤ちゃんは順調?」
「あ、うん。安定してるって先生が言ってた」
「良かった。阿倍子さんは赤ちゃんのことだけ考えてて」
「うん。ありがとう」
 
それで電話を切った。
 

千里は阿倍子との電話を切ると、そのレストランに電話をした。
 
「こんにちは。細川と申しますが、今日の予約何時に入れてましたっけ?」
「少々お待ち下さい」
と言って向こうは確認している。
 
「細川様は20時半にご予約を頂いております」
「あ、20時半だったのね。20時か20時半かあやふやになっちゃって。ありがとう」
「いえ。お待ちしております。もしお時間の変更をご希望の場合は早めにご連絡ください」
「うん。ありがとう」
 
それで千里はその日のバスケットの練習を16時に切り上げるといったん帰宅する。桃香は出かけているようである。浮気かな〜?などと思いつつもそちらは放置で貴司の浮気を潰しに行くことにする。
 
以前∞∞プロの鈴木社長の奥様から頂いた品の良いワンピース着て、上品なメイクをし、旭川の斎藤巫女長から高校卒業記念に頂いた本真珠のイヤリングを付ける。
 
『千里これも持って行きなよ』
と《たいちゃん》が言った。
 
千里はじーっとそれを見たが
『じゃ、たいちゃんが持ってて』
と言って出かけた。
 
それで問題のレストランの前まで行く。しばらく待っていたらレストランの中からボーイが出てくる。
 
「ご予約頂いておりましたでしょうか?」
「はい。この店の前で待ち合わせしてから中に入ろうと言っていたんですよ。すぐ来ると思いますので、待たせて頂けませんか?」
「分かりました」
 
それでボーイは店の中に戻った。なお、千里が高級ワンピースを着てきたのはここで怪しまれないためである。
 
やがて浮気相手の女性がやってくる。千里は彼女に声を掛けた。
 
「済みません」
「はい?」
「私、細川の妻の姉です」
「え!?」
「帰ってもらえませんか。細川と会わせる訳にはいきません」
 
と千里が強い気合いを入れて彼女を見る。すると彼女は何か言おうとしたものの千里の雰囲気に気合い負けしてしまったようである。
 
「分かった」
 
それで彼女は帰って行った。
 
5分もしない内に貴司が来る。
 
「え?千里?」
「彼女は帰っていったよ」
「え〜〜〜?」
「阿倍子さんを欺して、沖縄に出張に行くとか言って東京で浮気しようなんて、とんでもない奴だ。しかも阿倍子さん、もうすぐ臨月だというのに」
 
「済まん!」
「じゃレストランはキャンセルしておいてね。私は帰るね。じゃ」
 
それで千里は帰ろうとしたのだが、その時ちょうどレストランのボーイが出てきた。
 
「細川様でいらっしゃいますか? お待ちしておりました」
などとボーイが言う。
 
千里は貴司と顔を見合わせた。
 
「千里、ちょっと食べて行かない? キャンセル料払うのはもったいないよ」
「うーん。そうだなあ。じゃ、食事だけしていくか」
 
それで千里は貴司と一緒にレストランの中に入った。
 

席に着くと千里は
「じゃ阿倍子さんには浮気阻止成功ってメール送っておくね」
と言う。
「ちょっと待って。阿倍子に言っちゃうの?」
「そりゃ当然。私は今日は阿倍子さんの代理でここに来たんだから」
 
と言って千里はメールを送信してしまう。貴司が「やばぁ」という感じの顔をしていた。千里は先日新島さんからもらった帝国ホテル大阪でも使えるはずの御食事券を貴司に渡し「今日の食事の代わりに阿倍子さんを連れて行ってあげなよ」と言った。貴司も少しは反省しているようであった。
 
食事については千里は「少しだけ味見」した感じでは確かに美味しいけどお1人様5万円も払うのはどうかなという気がした。ワインを貴司が頼むのでこちらは飲んだが、明らかに保存状態が悪いのを千里の舌は認識した。雨宮先生に随分付き合わされたおかげで良いワインは18歳の頃から結構飲み慣れている。このワインは恐らく夏の高温にさらされている。これってちゃんと温度管理した倉庫に保管していないのではなかろうか。それに従業員の教育が微妙になってない。意外に安月給でこき使われているのかも。この店、あまり長持ちしないかもという気がする。
 
しかし貴司はどうも千里と2ヶ月ぶりに会ったのが嬉しいようで最近の話題をたくさん話す。千里も阿倍子さんの手前、抑制的ではあるものの、彼の話に色々相槌を打ってあげていた。
 
「ね、千里今夜また一緒に過ごしたりできないよね?」
「私は貴司の浮気阻止のためにここに来たからさ、私が貴司と今夜浮気する訳にはいかないよ」
「そうか」
 
貴司は残念そうだ。しっかし、こいつ本当に懲りない奴だ。こんなに浮気ばかりしてたら、その内奥さんにも子供にも見捨てられて寂しい最期を迎えることになるぞ、などと千里は思った。
 
それでも、貴司があまりにも楽しそうに話していたので、千里は笑顔で話を聞いてあげる。やがてあっという間に閉店時刻になってしまった。そろそろ帰ろうかなどと言っていた時、突然店に入ってきた男性の集団があった。
 
「警視庁の者です。麻薬の取引が行われているという情報があったので来ました。店内におられる方、その席から動かないでください!」
 
「え〜?」
と貴司が言うが
「浮気しようとした罰かもね」
と千里はクールに言った。
 

それで千里はあらためて店内を見回していたのだが、その時初めて少し離れたテーブルに冬子と政子が居るのに気づいた。千里は少し自分の「映像記憶」をプレイバックしてみて、そこには3人の女性が座っていたはずと思う。もう1人はトイレにでも行っているのだろうか。実際、空いている席にバッグが置かれている。冬子も政子も席に荷物を置くのがあまり好きではないので、あれはやはり連れの荷物であろう。
 
その時、ひとりの刑事がその冬子たちのテーブルに寄った。そしてふたりの荷物をチェックした後、連れの荷物(?)を調べている。刑事は怪しげな薬のシートを取り出した。
 
千里は席を立ってそちらのテーブルに行く。慌てて貴司も席を立ち付いてくる。
 
「あれ〜、冬じゃん」
と声を掛ける。
 
「千里!?」
と冬子が声をあげる。
 
「済みません。席を移動しないでくださいと言ったのですが」
と刑事が言う。
 
ところが千里はその刑事の手からさっと錠剤のシートを取ってしまう。そして見た瞬間、これはエクスタシーだと確信した。
 
『こうちゃん。これを私の荷物の中に入っているラムネのシートとすり替えて』
『へーい』
 
《こうちゃん》は気のない返事をしながらもこの交換を一瞬でやってくれた。そのラムネのシートは先日「拳銃」と交換に雨宮先生からもらったものである。
 
「あ、これはあれじゃん」
と言って千里は笑顔でそのすり替えられたラムネのシートを裏返して見たりする。
 
「すみません。それは証拠品なので」
と言って刑事がシートを取り返す。
 
「あなたはこの錠剤のことをご存じですか?」
と刑事が千里に訊いた。
 
「これはラムネ菓子のタブレットですよ」
と千里は笑顔で言う。我ながら名演だと思う。
 
「1錠いただいていいですか?」
「あ、いいと思いますよ」
 
刑事が数人顔を見合わせている。
 
「舐めてみれば分かりますよ」
と千里は言う。
 
刑事の中で責任者らしき人が1錠取り出すと、その端を本当に舐めてみた。
 
「ラムネだ!」
と刑事。
 
冬子がホッとした表情をするのを目の端で見て、冬子には女優の素質は無いなと千里は思った。
 

刑事達は店に居る客の荷物から何も怪しいものが出てこないので、店内のゴミ箱なども調べた上で、結局冬子・政子・千里・貴司の4人については裸にして服のポケットなどまで徹底的に検査した。むろん千里たちは女性の捜査官に調べられたのだが、股を広げて飛んでみてください、などとまで言われた。アソコに隠してないか確認するのだろう。
 
結局千里がすりかえたラムネ菓子以外には何も出てこないままこの日の捜索は終了した。ちなみに《こうちゃん》は問題の薬シートと元々千里が持っていたラムネのシートを持ったまま店外で待機してくれていた。
 
捜索が終わって解放されたのは夜の1時過ぎである。取り敢えず4人で冬子のマンションになだれ込んだ。
 
千里は「トラブルに巻き込まれてやっと解放された。誓って貴司とは何もしてないけど詳細は本人に訊いて」と阿倍子にメールした。
 
ここで《こうちゃん》が問題のシートを千里に返すので、千里はそれを
 
「これ、自分のマンションのゴミには出さないで。どこかコンビニのゴミ箱にでも捨ててきた方がいい」
 
と言って冬子に渡した。冬子がぽかーんとした顔をしていた。
 

結局そのシートは千里が処分してあげた方がいいと貴司が言い、確かにそうだと千里も思ったので、千里はそのシートの処分を《こうちゃん》に頼んだ。
 
『どこに置いて来たの?』
と千里が戻ってきた《こうちゃん》に訊くと、
 
『芹菜リセさんのマンションのゴミ箱』
などと言う。
 
千里は可笑しくて吹き出しそうになった。
 
それで千里は貴司を冬子のマンションに放置したまま、3時頃、政子のリーフを借りて自宅に戻った。
 

翌日夕方、貴司は物凄くバツが悪そうな顔をして千里(せんり)のマンションに帰宅した。案の定、阿倍子が物凄い顔で睨んでる。
 
「どういうことか説明して」
「すまん」
と言って貴司は土下座する。
 
「あのぉ。これお土産」
「は?」
 
貴司が差し出したのはクーラーボックスである。
 
「いや、昨日のレストランで出た料理をフードパックに詰めて持ち帰った」
「そんなことできるの?」
 
それで貴司は千里がキャンセルしといてねと言って帰ろうとしたものの、それだとキャンセル料を払わなければいけないのでもったいないから食べていかないかと誘ったということ。すると千里は自分は浮気を阻止に来たので、自分が貴司とデートする形にはできないと言い、出た料理の大半をフードパックに詰め、クーラーボックスに入れてしまったのだという。
 
「中の冷却剤は今朝1度交換したから大丈夫と思う」
「でもよくレストランでそんなことして咎められなかったね!」
「いや千里がうまいことやってた。飲み物とか、生ものとかは僕が食べた。結局千里はワインを飲んだだけなんだよ」
 
阿倍子は千里の思いやりにちょっと涙が出る思いだった。しかしその分猛烈に嫉妬心も湧いた。
 
「じゃ私食べるから、貴司は水でも飲んでて」
「うん」
 
それで阿倍子はフードパックに入った料理を電子レンジでチンして食べたが
「美味しい!」
と言って少しだけご機嫌になった。
 
「あと、奥さんを連れて行ったらとか言われて、帝国ホテルの御食事券ももらったんだけど」
と言って千里からもらったクーポンを見せる。
 
「誰にもらったの?」
「いや、その・・・千里に」
 
何て優しい人なんだ!でもムカムカする!!
 
「じゃ私を帝国ホテルに連れて行ってよ。でも代金は貴司が払って。そのチケットはお友達にでもあげてよ」
「分かった」
 
そういう訳でこの夜貴司はほんとに水だけで過ごす羽目になった。
 

千里と青葉の沖縄行きは、当初4月下旬を予定していたのだが、なにしろゴールデンウィークである。航空券もホテルも全く取れないということで結局5月中旬に延期された。
 
ゴールデンウィーク中、千里Bは最初休めるかもと言っていたのだが、5月末に納品予定のシステムを動かすマシンがこの時期になって突然Windows8機からLinux機に変更になるという無茶な話が発生し、プログラムの修正のため一部のOB社員まで動員される事態となる。それでゴールデンウィーク中、千里BはずっとJソフトに泊まり込みになった。
 
一方、千里Aはこの時期、フル代表に内定している佐藤玲央美(ジョイフルゴールド)・広川妙子(レッドインパルス)と一緒に愛知県の某所で自主キャンプに参加した。交通費節約で28日の夕方から、千里のインプレッサに2人を乗せて現地まで行ったのだが、千里が先日からレッドインパルスの練習に参加していると聞くと玲央美は
 
「やっとプロになる気になったか」
などと言う。
 
「いや、私は無理ですよー。プロのレベルじゃないです」
と千里は言うが
 
「とんでもない。クラブチームに登録していたんじゃなければうちに登録したかったくらい」
と広川さんは言う。
 
「千里は昔から、そのあたりの物事に対する覚悟が無すぎるんだよなあ。もっと自分を主張すればいいのにさ。バスケにしても恋愛にしても」
と玲央美。
 
千里はその言葉にドキッとした。
 

このキャンプの参加者はフル代表候補者やそれに準じるレベルの選手20人ほどで、代表にほぼ確定している花園亜津子も参加すると言っていたのがアメリカで行われるキャンプに参加することにし、そのあとで千里が参加すると聞いて花園さんはかなり残念がっていたらしい。
 
「久しぶりね、村山さん」
とここ20年ほど日本代表を務めてきたチーム最年長の三木エレンは言った。
 
「ご無沙汰しておりました」
「あんたユニバ代表、自分で辞退したんだって?」
「すみませーん。代表候補合宿やってて自分の力不足をハッキリ認識したので」
「ふーん。一時期引退してたんだっけ?」
「そうなんですよ。ちょっと手術したりして2年ほど休養していました」
 
性転換手術のあとの休養期間だなんて言うと話が面倒なので、そのことは言わない。
 
「そんなになまっているのかどうか私が確認してやるから覚悟しなさい」
「はい」
 

青葉はゴールデンウィークの前半は午前中は水泳部の練習、午後は合唱軽音部の練習で大忙しであった。そして後半は岩手に行き、溜まっている案件を片付けた。
 
チケットは1ヶ月前にちゃんと予約していたので、5月2日に新高岡(北陸新幹線)大宮(東北新幹線)八戸というルートで八戸まで行く。咲良と会ってその晩は彼女の家に泊めてもらい、翌3日は新幹線で盛岡に移動して真穂と会い、彼女から頼まれた盛岡や花巻での案件を処理。そのまま真穂の車に乗せてもらって大船渡に入る。その日は平田さんの家に泊まった。翌4,5日は今回は真穂に足になってもらって大船渡・遠野・陸前高田・気仙沼付近で相談事に応じる。多くは簡単な処理で済むもの、簡単なヒーリングで結構な改善が見られるものなのでこの2日間9件、盛岡・花巻でのも含めて11の案件を処理した。
 
「ひとつひとつはすぐ済んだみたいだけど、けっこう体力使わない?」
と真穂が言う。
 
「うん。でも悪霊と対決するようなのとか、呪い系のものが無かったら」
と青葉。
 
「でもただ付いているだけの私の方が疲れてきたよ」
「ごめんねー。あと1件だから」
「やはり女子高生の体力は凄い。もう私、最近体力の衰えを感じていて」
「そんなこと言ってたらお母さんはどうなるのよ?」
「ああ、更年期障害でたいへんみたいね〜」
「ホルモンバランスが変化するのは、ほんとに辛いんだよ」
 
青葉は5日の夜は早紀の家に泊めてもらい、ここに椿妃も来て3人で久しぶりのおしゃべりをして過ごした。そして6日の午前中は3人で盛岡に出て、一緒に映画を見たりしたあと別れ、ちゃんと予約していた新幹線で新高岡に帰還した。
 
 
前頁次頁目次

1  2  3 
【春演】(1)