【春代】(2)
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(C)Eriko Kawaguchi 2015-07-18
翌朝、千里はまた桃香の家に行き、一緒に御飯を食べて桃香を送り出してから自分のアパートに戻り、千里Aは体育館にバスケの練習、千里BはJソフトにお仕事に出かけた。午前中のバスケの練習にはこの日は玲央美の他、橘花と雪子も来て4人での練習になった。橘花は小田急沿線にある高校の教師になったので、今期も可能なら40minutesに参加したいということだった。
「でも神奈川県の教員チームに勧誘されない?」
「できるだけ目立たない振りをしておく」
練習が終わった後、千里は車で首都高に乗ってぐるっと一周してみた。
「やはりこちらかな」
と独り言を言い首都高を降りる。それで世田谷区の烏山界隈を走る。通りがかりのスーパーでよく冷えたコーラのファミリーサイズにビール6缶を買う。氷ももらって車に積んでいる発泡スチロールの箱に一緒に入れる。
「うーん。このあたりって気がしたんだけどな」
と千里は更に独り言を言い、通りがかりのピザ屋さんでシーフードピザLとバーベキューピザLを買った。そしてミラを走らせていた所
「あ、ここだ」
と明確に波動が確認できる場所を見付けた。近くのTimesに車を駐めて千里は荷物を持ち、堂々とその派手な外装のホテルに入って行った。フロントが
「いらっしゃいませ」
と言うと千里は
「宅配です」
と意味ありげに微笑む。
「了解しました」
と言ってフロントの人は通してくれた。
それで千里は4階まで上がり、その部屋をノックする。なかなか反応が無いので千里は何度もノックする。
「いったい何よ?」
と雨宮先生の声がする。
「ピザのお届けに参りました」
と千里。
「そんなもの頼んでないけど」
と言いつつ、先生はドアを開ける。
「あんたか!?」
「ピザとコーラとビールのお届けに参りました」
「一戦交えていた最中だったのに。あんたも入って3Pしない?」
「恋人は間に合っていますので」
ベッドの中にいたのは、けっこう名の売れた歌手であるが、千里は気づかない振りをする。
「先生のガールフレンドですか?」
などと彼女が訊くので
「ボーイフレンドよ。こいつこれでも男なのよ」
と先生が言うと
「うっそー!」
と彼女は言っていた。
取り敢えずピザを食べる。彼女はコーラを飲み、先生はビールを飲んでいる。
「一番搾りか。これも悪くないけど、私はレーベンブロイが好きだって知ってるくせに」
「たまたま寄ったスーパーには無かったので」
「そうだ。あんたにこれあげる」
と言って先生は怪しげな薬のシートを千里に渡す。
「まるでエクスタシーみたいなマークが入ってますね」
「なめてごらんよ」
「なめるだけでいいんですか?」
「気に入ったらシートごとあげる」
それで千里は1錠出して舐めてみた。
「ラムネじゃないですか」
「私がそんな危険な薬を使うわけないじゃない。でもあんた平然としてるから面白くない。この子はキャーっとか騒いだのに」
「でも先生、命拾いしましたね」
「なんで?」
「もし先生が麻薬などに手を出すようになったら、私がこの手でずっとハイな気分でいられる場所に送り届けてあげようと思ったのに」
と言って千里はバッグの中から大型の拳銃を出す。彼女がうそー!?という顔をしている。
「ちょっと!あんたの方がよほど危険じゃん」
と雨宮先生。
「ご存じコルト・パイソンですよ」
と言って千里はその大型の拳銃の引き金を引く。
カチッという音がして銃身の先に火が点いた。
「ねね、このラムネ菓子10シートとあんたのそのライター交換しない?」
「いいですよー」
というので千里は交換に応じた。
「すごーい! 私、拳銃と麻薬の取引の現場に遭遇しちゃった!」
と彼女が言っていた。
ピザを食べ終わった所で彼女を帰して、千里と雨宮先生の2人だけで話す。
「ところで何だったっけ?」
「この呼び出しで来たのですが」
と言って千里は雨宮先生の字で《広告チラシの裏》に書かれたメッセージを見せる。
《おまえのひみつをしっている。ばらされたくなかったらおかまのひまでにこい》
「まだ日数があるけど」
「4月4日は私は奈良まで行って来ないといけないんですよ」
「カラリパヤットの試合か何か?」
「カラリパヤットはやったことないですね。バスケットボールなら12年ほどやっていますけど。法事なんですよ」
「あんたもいつも忙しいね」
「おかげさまで。でも引越前で良かったです。30日に引っ越したんですよ。これ、郵送もしていますけど」
と言って千里は移転通知のハガキを1枚雨宮先生に渡した。
「そういえば2週間くらい自宅には帰ってないな」
などと言いながらハガキを受け取る。
「なんで住所2つあるのさ?」
「どちらも世田谷区で距離は2km程度ですが、私自身のアパートは用賀の方です。郵便物はそちらに送ってもらった方がいいですが、書留とか宅配便は友人宅の経堂の方が確実に受け取れると思います。用賀の方は何日も留守にすることがしばしばあると思うので」
「ああ、あんたも割と不在がちだもんね」
「バスケの試合や合宿がありますし、ソフトハウスの仕事も何日も会社に泊まり込むようなこと多いみたいなんですよ。それに雨宮先生に言われて突然リオデジャネイロまで、なんてこともあるし」
「友人ってより実際は夫婦なんでしょ?あの子と」
「マリッジリング交換しましたよ。私バスケ選手だから指輪は実際にはつけられませんけど」
「じゃ彼女だけつけてるの?」
「あの子は浮気をたくさんしたいみたいだからつけてないです。お互い持っているだけですね」
「まあ、それもいいかもね。でもあんた自分のパートナーが浮気しても平気なんだ?」
「私も浮気してるから」
「変な夫婦!」
「雨宮先生の所には負けます」
「まあそれでさ。今月中か来月頭くらいまでに沖縄まで行ってきてもらえないかなと思ってね」
と雨宮先生は言った。
「まあ国内ならいいですよ。私、今パスポートが切れてるんですよ」
「それは困る。また作っておいてよ」
「分かりました」
「でも前のパスポートっていつ作ったんだっけ?」
「高校の時です。海外の大会に参加するのに作ったんですよ」
「なるほどね」
と言ってから雨宮先生は考えている。
「あんたさ、入出国する時に性別のことでトラブったりしない?」
「1度だけありましたね」
「1度で済んだのか。私は毎回のようにトラブってるよ。あんたどのくらいの頻度で海外に行ってるの?」
と先生が言うので、千里はバッグからパスポートを取り出してお見せする。
「凄い。これページが増補してある」
「足りなくなったので」
「凄い回数だね。あんた毎年4−5回海外に行ってるでしょ」
「そんなものだと思います」
「最後のスタンプが2012年か。じゃ3年間海外に出てなかったのか」
「そうなんですよ。最後の入出国がその年にタイに性転換手術に行った時で。そのあとしばらく身体を休めていたし、バスケも一時引退していたし」
「・・・・」
「どうしました?」
「あんた高校の時には性転換手術終わってたよね?」
「はい」
「なんで2012年に性転換手術したわけさ? あんた男に戻ったんだっけ?」
「まさか。男から女になるための手術ですよ」
「意味が分からないんだけど」
「みんなそう言いますね」
「だいたいこのパスポート、性別が女になってるじゃん」
「まだ戸籍は直してなかったのに、なぜ性別女で発行してもらえたのかは私も謎なんですよ」
「まあそれでさ。木ノ下大吉さんに会ってきて欲しいのよ」
「私で済む話なんですか?」
「あんたの妹を連れて行って欲しいんだけど」
「何か霊的なことに関わるお仕事ですか?」
「ちょっと怪異があるみたいでね」
「それなら妹だけでいい気もします」
「私の勘が言ってるんだ。これはあんたと妹と2人が同時に必要な案件だってね」
「私は何も力は無いですけど」
「何の力も無い人が、私の居場所を見付けられる訳無いさ」
「それ私も困ってるんですけど。居場所をせめて新島さんだけにでも連絡しておいてもらえませんか? それでこれは町添さんからの書類です。こうやって私が届けるはめになりましたし」
と言って千里は書類の束をクリアファイルに入れて渡した。
「誰からも連絡されたくないから居場所を教えないんだけどね」
と言いながら、先生は書類を開けてみていた。
「これ今日中に返事しないといけないよね」
「お願いします」
「じゃ今書くからあんた届けといて」
「分かりました」
千里はその日雨宮先生に書いてもらった書類を青山の★★レコードに届けに行き、その後、その日は江東区の体育館に行く。ここで火木土には40minutesの練習をしているのである。練習時間は火木は15-21時だが、自分が参加できる時間だけ参加すればいいことにしている。実際には火木は学生は17-21時、主婦は15-17時、会社勤めの人は19-21時という感じで、時間帯が完璧に分散している。15-21時と6時間通して参加するメンバーはまず居ない。土曜は12-16時としているので、わりと揃うのだが、毎回参加しているのに土曜日しか顔を合わせないという同士もいる。
千里は毎日午前中に世田谷区の体育館で「自主練習」をする他、週3回は40minutesの練習にも参加しているのである。
千里Aがここで練習をしている時間帯、千里Bの方は会社で仕事をしている。そしてBが仕事をあがるくらいの時間でAも練習を切り上げて、だいたい似たような時間で帰られるようにしていた。ちなみにAが練習を終えて用賀のアパートに戻るのに使うのは半蔵門線−東急田園都市線のラインなので、タイミング次第ではAとBがほぼ同時に用賀駅に到着する場合もあった。なおAとBは別のパスモを使用している。また携帯は情報を共有できるよう出羽の佳穂さんが二重化して「完全コピー携帯」の状態にしてくれていて発着信のみならず内部メモリーやSDカードの中身まで連動する。
4月3日(金)の夜9時。青葉は東京都内ББ寺で住職をしている瞬法さんと一緒に千里のインプレッサに乗り込み、奈良に向かった。(青葉は春休み中千葉の彪志の所に滞在していた。奈良に行ったあと高岡に戻る予定である)
「瞬里ちゃんも瞬葉ちゃんも知ってたけど、ふたりが姉妹というのは全然知らなかった」
などと瞬法さんは言う。
「瞬葉は凄いですけど、私はただの気まぐれで名前を頂いただけですから」
と千里は運転しながら言う。
「結果的には師匠の最後の外出になった、2011年の私の親族の葬儀の時も姉が師匠を車で奈良までお送りしたので、その時に名前を頂いたそうです」
と青葉。
「その時、この車を使ったんでしょ?」
と瞬法さんが言う。
「はい、そうです」
「助手席に乗ったよね?」
「よく分かりますね」
「ほんのわずかだけど、師匠の気配がこの車には残っている」
と瞬法さんは言う。
おそらくそれは瞬法さんにしか分からないものであろう。青葉にもそれを感じ取ることはできない。
車は東名の美合PA、伊勢湾岸道の湾岸長島PA, 名阪道の針TRSと休憩して朝6時頃、高野山の★★院に到着した。瞬法さんは千里に「君はずっと運転していたから少し寝ていなさい」と言い、瞬法さんと青葉で、瞬嶽師匠の三回忌の準備の手伝いに入った。
既に一門の主座である瞬嶺さん、大阪のЛЛ寺で住職をしている瞬高さんなども来ているが、青葉はその人たちにとっても、現在★★院の首席である瞬醒さんにとっても「使いやすい」ので、大忙しであった。
朝7時頃菊枝さん(瞬花)が来て、8時頃千里も起きてきたので、その後はそういう細々とした作業はこの3人で分担してやれるようになり、少しは楽になった。
しかし全国から多数の弟子たちが来ている。また高野山の他の寺院から顔を出してくれている人もある。中にも超大物の来訪もあるので、瞬醒さん・瞬法さん・瞬高さんの3人で主として応対していた。瞬嶺さんは法事の導師を勤めるので、基本的にはあまり動かないようにしていた。
午後3時から瞬嶽師匠の三回忌法要が始まる。瞬嶺さんが導師を勤め、瞬法さんと瞬高さんが脇を勤める。更に瞬海さん・瞬醒さんがその脇に従い、更にその脇に瞬常さんと瞬大さんが従って7人体制で読経は進められたが、青葉・菊枝も含めた「瞬」の名前を頂いている弟子が前の方に並びそれに唱和したので物凄いボリュームの読経であった。それ以外の参列者もかなりの人数だが、昨年の一周忌の参列者はこの倍ほど居た。
「瞬」の名前を持つ弟子の中で唯一読経に参加しなかったのが千里であるが、千里はそもそもお経が読めないのである! 祝詞なら奏上できますけど、などと言っていた。千里は直美や瞬醒の弟子である醒環・醒春とともに裏方を務めてくれて、会場の案内係をしたり、飲み物やカイロあるいは膝掛けなどを欲しがる参列者に対応していた。なにしろ参列者にはお年寄りが多いし、それぞれが結構な地位にある人たちなので、ワガママであったりもするが、千里がそういう対応はとてもソフトで上手いので、彼らも比較的快適に過ごしてくれたようであった。
参列者のひとりで90歳くらいのお坊さんが、持ち物の中から何か薬を取りだした。それを見て千里はさっとそばによると「今お水をお持ちします」と言って部屋を出て、台所に行き、ポットのお湯と水道の水を混ぜてぬるま湯を作り、持っていった。
「どうぞ」
「ありがとう」
と言って老師は薬を飲むが、渡されたのがぬるま湯であったことに驚いたようであった。
「あんたよくできてる。◆◆院かどこかの尼さんだっけ?」
「いえ、私は在家のものです、猊下」
「あ。私のこと分かった?」
「∽∽寺の貫首、導覚猊下とお見受けしました」
「よく知ってるね」
と導覚は感心したように言う。
「私は人の顔を覚えるのが得意なので。あ、済みません。私は瞬里と申します。瞬嶽のおそらく最後の弟子ではないかと思います」
「あんた瞬の名前持ってるの?だったら何で前の列に座らないの?」
「私、巫女なもので、仏教の方はとんと分かりませんので」
「へー!」
「私が般若心経を唱えると祝詞に聞こえるといいます」
「あはは、それは1度聞いてみたい」
「ではいづれ。名前は何かの気まぐれで頂いたと思うんですけどね」
しかし導覚さんは千里をしばらく見つめてから言った。
「あんた面白そうだから、これやる」
などと言って、席の下に置いていた古ぼけた鞄の中から、これまた古そうな独鈷杵を取り出して千里に差し出した。ラピスラズリが填め込まれている美しい独鈷杵である。
「とても貴重なもののように思うのですが」
「恐らく100年くらい前に当時のビルマかベンガルで製作されたものだと思う。この金剛杵を今日誰かに渡さねばと思って持って来ていたんだけど、どうもあんたに渡すべきもののようだ」
「多分私は媒介者ではないかと思いますが、お預かりします。最終的に誰に渡したかは後でご報告します」
と千里は言った。
「んー。じゃその時、祝詞版般若心経を聞かせてよ」
「分かりました」
4月8日(水)。青葉たちは3年生になった。
1〜6組では進学先別にクラス替えが行われたのだが、青葉たちの社文科、空帆たちの理数科は1年生から3年生まで全くクラスが変わらない。美由紀も日香理もずっとクラスメイトである。担任も音頭先生(担当数学)がそのまま持ち上がったが、副担任に昨年も3年生を担当した国本先生(担当英語)が入った。今年は受験体制である。
志望校調査が行われた。
日香理は親と結構揉めたものの、何とか東京外大・言語文化学部という志望票にハンコをもらって提出することができた。第2志望は金沢大学の人文学類・言語文化学コースにした。
「夏の模試でA判定が出たら受けてもいいと言われた」
と日香理は言う。
「良かったね」
「数学や地歴頑張らなきゃ」
「大変だね!」
東京外大を受けるような子は英語・国語はほぼ満点なので、地歴や数学の点数が合否の分かれ目になってしまうのである。
美由紀は第1志望を金沢美術工芸大学と書いたが、純美礼が「あんたの頭では絶対無理」などと言っていた。ここは日本国内で5本の指に入る名門美大である。偏差値も無茶苦茶高い。第2志望は富山大学の芸術文化学部にした。富山大学はキャンパスのほとんどが富山市にあるのだが、この芸術文化学部だけは高岡市にキャンパスがあるのである。通学に便利というのもあった。しかし担任はその志望票を見て「第3志望を書け」と言った。それで金沢学院大学の芸術学部というのを欄外に書いて出した。
「金美(かなび)や富大(とみだい)なら国公立だから学費が安いんだけどな」
「せめて富山大学に合格できるくらい勉強頑張りなよ」
「勉強はしてるつもりなんだけどなあ」
美由紀はふだんの試験の成績は学年280人中だいたい200番前後である。金沢美大に行きたいのなら、たぶん50番以内程度までは成績を上げる必要がある。むろんそれ以外に絵の勉強もしっかりやる必要がある。この3つの志望先は全て実技がある。金沢美大は実技の配点が全体の7割、富山大学も実技と面接あわせて全体の8割という配点である。
「やはり1日5時間は勉強しなきゃ」
「え〜?そんなに勉強するの?」
「その半分は絵の勉強をした方がいい」
「無茶苦茶絵のうまい子ばかり来るだろうからね」
「だから結果的に学科試験の点数ってかなり利いてくるはずなんだよ」
「でも旧帝大クラスを狙う人とかは無茶苦茶勉強するよね」
「うん。昔から四当五落と言う」
「何それ?」
「睡眠時間4時間なら合格するけど、5時間寝ているようじゃ落ちる」
「やはり素直に諦めようかな」
青葉はこれまで「建前」的に第1志望・名古屋大学法学部(偏差値69)、第2志望金沢大学法学類(偏差値61)としていたのだが、ここで初めて本来の志望である金沢大学を第1志望に書き、第2志望には富山大学経営法学科(偏差値54)を書いた。富山大の経営法学科は法律を学ぶ専門コースではないものの、ここから普通の法学部出身者と同様の「既修者」として法科大学院に進学する人もある。もっとも青葉は法律家になるつもりはないので法科大学院には行かずに大学を出たらそのまま一般企業に就職するつもりである。
この「名古屋大学・仮志望」問題は1年生の時から音頭先生には話していたのだが、早速副担任の国本先生から呼び出される。
「君の成績なら充分名古屋大学は射程範囲だと思うけど、なぜ志望校を下げるの?」
と訊かれる。
2年生の最後に受けた模試では名古屋大学はC判定になっていた。あと少しで合格ラインというレベルである。
「済みません。元々この高校を受ける時、志望大学はどーんと大きく書いておけと中学の校長に言われまして、それで名大なんて大それた志望校を書いたのですが、私はできるだけ地元の大学に行きたいので。私が遠くに行っちゃうと母は1人になってしまうので」
「うーん。女の子だとそれがあるからなあ。でも名古屋大学に合格できるくらい勉強しなよ。いっそ私立で△△△(偏差値70)か□□(偏差値73)あたりも受けない? 前期で金大の法を受けて、後期で富大の経営法学科受けても、私立とは日程はぶつからないはずだから」
「済みません。東京の大学に行くつもりはないです」
しかし先生は「やはり高い所を目標にしておいた方が、最後に下げるのは構わないから」などと言うので、青葉は妥協して△△△大学の法学部の受験についても少し検討してみると返答した。
この4月8日(水)にはバスケ協会からユニバーシアードに出場する女子日本代表のメンバーが発表になった。
そのメンバー表を見て「うっそー!?」と叫んだのがキャプテンに指名された鞠原江美子(愛媛Q女子校→大阪・M体育大学修士卒/Wリーグのブリッツ・レインディアに4月から加入)である。
江美子は早速千里の携帯に電話をした。
千里Bはその時、Jソフトウェアで同期に入った専門学校卒の女性プログラマー・石橋さんに組んでもらいたいプログラムの仕様を説明していたのだが、その石橋さんから「村山さん、携帯のバイブ鳴ってますよ」と言われる。
千里Bはそこに表示されている名前を見ると
「ああ、これはいいよ」
と言って、千里Aに念を飛ばした。
その時都内のカラオケ屋さんで集中して編曲作業をしていた千里Aは、千里Bからの念を受けて、サイレントモードにしていた携帯が着信中であることに気づき、電話を取った。
「エミちゃん、お疲れ様〜」
「千里、どうかしたの?ユニバ代表のメンバー表にあんたの名前が無い」
「ごめーん。私、辞退した」
「なんで〜?」
「いや、伊香ちゃんと神野ちゃんの2人とも捨てがたい素材じゃん。ここであの2人に世界を経験させておけば、東京オリンピックでは中心選手に育っていると思うんだよね」
「それはそうかも知れないけど、私は千里が居ないととても今回のユニバで世界を相手に勝ち進む自信は無いよ」
と江美子。
「彰恵もいるし、絵津子も純子もいるし」
「彰恵は何とかするだろうけど、絵津子・純子はU19で世界大会経験してから世界は4年ぶり。前回のユニバでは最終メンバーに残れなかったら圧倒的に経験不足なんだよ。千里は世界相手にこれまで3回も戦っているし、フル代表と一緒にたくさん強いチームとの試合を経験している。格が違いすぎるよ。伊香・神野もだけどね」
「うーん。でも私実際問題として、あまり世界に通用してないよ、これまでの大会では」
「未経験の子とは比べものにならないよ」
「それにもうメンバー発表しちゃったしね」
と千里。
「せめて昨日私に教えてもらっていたらなあ」
と江美子は言っていた。実を言うと昨夜も篠原さんと1時間電話で話したのだがそれでも辞退すると言ったのである。
30分ほど江美子と話してから千里は
「ごめんねー。頑張ってね」
と言って電話を切った。
翌4月9日(木)、午前中また千里は佐藤玲央美と一緒に練習をする。
「昨日のユニバ代表の発表のあと、なんか凄まじかったよ」
と玲央美は言う。
「そう?」
「(伊香)秋子を推す谷川コーチと 神野(晴鹿)さんを推す菊池コーチとの間にはさまれて、千里を推していた篠原さんが負けたんじゃないかとか。谷川さんと菊池さんが何だか悪者にされてるよ」
「それはひどい」
「千里のせいだからね」
「うーん。まあ一昨日も篠原さんと電話で随分話したんだけど、済みません、辞退しますからと頑張った」
「変な所で頑張るね」
「そうだなあ」
「選手やスタッフにはこの件では絶対ネットとかに何も書くなって伝達が回っているみたいだし、秋子も『そんな馬鹿な』と言っていたよ。昨日だいぶ電話であの子と話したよ」
と玲央美。
「いや、実は私自身も晴鹿から昨夜電話が掛かってきて、この代表ラインナップは納得できないと言われて、なだめるのに苦労した」
と千里。
伊香秋子は札幌P高校での玲央美の後輩である。また晴鹿は千里自身が指導してその才能を開花させた「生徒」なのである。ふたりはSGの枠はふたりだろうと考え、千里に続く2人目の座を争っていたつもりであったようだ。
「まあ発表しちゃったものは仕方ないけど、これでベスト8に残れなかったら千里のせいだからね」
「え〜!?」
「もしそういうことになったら千里には責任取って頭を坊主にしてもらわないといけないくらいだ」
「そんなぁ」
「でもね」
と玲央美は言った。
「千里がユニバ代表に漏れたことでさ」
「うん」
「上の方では千里をフル代表に招集しようという話が出ているみたい」
「嘘!?」
「フル代表に入れるためにユニバ代表から外したのであれば世間も納得するからね」
「えー!?」
「フル代表のシューターは現在あっちゃん(花園亜津子)と三木さんというのが有力な線。でも三木さんもう39歳だからさあ。1996年アトランタ五輪の最後の戦士。本人も体力が付いていかないなんて言っているんだよ」
「いや、三木さんはそれでも強い。私には雲の上の人だよ。2012年にフル代表で一緒にプレイして、しみじみ思った」
「私は今回、フル代表の合宿で三木さんとあらためてやって、こうやって日々の練習で千里とやっていて、今はもう両者互角だと思ってるよ」
と玲央美は言う。
千里は顔を引き締めた。
「技術とか体力・瞬発力では千里が圧倒的に強い。でも三木さんの経験が今の所それをわずかに上回ると思う」
千里は心の中に闘争心が燃え上がるのを感じた。三木さんとは確かにもう3年手合わせしていない。今の三木さんとまた戦ってみたい気分だ。彼女がとにかくまだ自分より上である間に戦いたい。
「千里があと1年くらいマジメに練習して、大会から逃げなかったら追い抜くよ」
と玲央美が言うと、千里も笑顔になる。
「だけど私も千里も逃げたつもりが、ってことあるみたいだし」
と玲央美。
その言葉に千里は大学1年の時の出来事を思い出していた。
「あれは不思議な体験だったね」
と千里は言う。
「今でもあれは夢としか思えないよ。きっと私も千里も一生バスケットからは逃げられないんだよ」
と玲央美。
「ちなみにフル代表は3年前に一度やって分かってると思うけど、会社の仕事とかをする時間は全く無くなるからね」
「だよねぇ」
「会社の辞表、書いておきなよ」
「うむむむむ」
「でもその前に首にならないの? 千里全く会社に出てないじゃん。午後からフレックスで出てるなんて嘘でしょ」
「うーん・・・・」
翌日4月10日(金)。この日は40minutesの練習は無いのだが、千里は13時から16時までカラオケ屋さんで作曲の仕事をした上で、W大学の体育館に顔を出した。実は千里は昨年の秋くらいから、毎週金曜日にW大学の女子バスケ部が主宰している《レディス・バスケット・ゼミナール》という催しに参加している。毎回出られるのではないのだが、他の用事が無い限りは出るようにしている。本来は高校生以上の女性を対象にバスケットの技術指導をする企画なのだが、そういう名目で千里は毎回W大学のメンバーとかなり本格的な「手合わせ」をしていた。
実際問題として千里は修士論文がほぼ完成した11月以降、関東地区に居る間はバスケットと音楽製作活動で1日の時間をほとんど使うようになっていたのである。
しかし今日は練習に入る前にW大学から唯一今回のユニバーシアード代表に選ばれた伊香秋子につかまってしまう。
「千里さん、辞退したってどういうことですか?」
「ごめーん。2年以上のブランクをまだ取り戻せてない私が出るより現役バリバリの秋子ちゃんと晴鹿ちゃんで頑張ってもらった方がいいと思ってさ」
「私も晴鹿も千里さんには全然かないませんよ。確かに昨年秋に最初にここのゼミナールに来られた時は感覚が鈍っている感じはありましたけど、もうとっくに私も晴鹿も手の届かない領域に行ってしまっています。今日は私と勝負して下さい」
「えーっと」
「それで私が勝ったら辞退を取り消して下さい」
「そんなこと言っても」
ともかくも、そういう訳で今日のゼミナールは千里と伊香さんとの「勝負」の観戦から始まることになったのである。
勝負は、マッチング対決を攻防を変えながら10本ずつやった後、スリーポイント30本勝負ということになった。
マッチングでは1回ずつ攻守交代してやるのだが、千里が攻撃するケースでは伊香さんは10回の内2回、千里の攻撃を停めた。逆に伊香さんが攻撃するケースでは千里は10回の内6回、伊香さんの攻撃を停めた。
「なんか既に大差で勝負が付いている気がするけどスリー対決行きます」
「うん」
W大学のフォワードの人にマークされている状態でスリーを撃つというのを交互にやる。それで30本の内伊香さんが10本入れたのに対して千里は30本の内18本入れた。
「私の負けです」
と伊香さんは素直に負けを認める。
「じゃ、私の辞退はそのままでいいね?」
「だめです。ユニバーシアード代表に選ばれた私より明らかに千里さんが勝っているのだから、私が辞退しますから、千里さん出てください」
「え〜〜!?」
青葉たちの高校では4月13日(月)に新入生を部活に迎えた。青葉たちの合唱軽音部では体育館での新入生勧誘で、各自楽器を持ってステージに上がり、練習中の『黄金の琵琶』を30秒器楽演奏した後、30秒歌うパフォーマンスをした。これが結構好評であったようで、21名もの新入部員を迎える。
例によって、楽器はできないけど歌ならという子も、歌は歌えないけど楽器ならという子も受け入れたし、今年は男子部員が2名入って来た。これで合唱軽音部は総勢48名(内男子4人)となった。
「ちょっと待て。その男子4人に俺も数えられてない?」
と吉田君が空帆に尋ねるが、空帆は
「当然入ってるよ。チューバもドラムスも歌も頑張ってね」
などと言っていた。
「今年は高音が出やすくなるように去勢を考えない?」
「お前ら、そういうのを翼にも言ってるだろ?」
48人は学年別ではこうなる。
■3年生12人(歌唱者11人)
川上青葉(Sp/A.Sax) 杉本美滝(Sp/Tb) 清原空帆(Sp/Gt1) 上野美津穂(MS1/Cla) 黒川須美(MS1/Dr) 治美(MS1/Tp) 竹下公子(MS2/Tp) 呉羽ヒロミ(MS2/Tp.Vib) 大谷日香理(A/Tb) 沢田立花(A/A.Sax) 真梨奈(A/Tb) 吉田邦生(-/Tuba-Dr)
■2年生15人(歌唱者11人)
久美子(Sp/T.Sax) 佐絵(Sp/Cla) 真佑(Sp/Tp) 彩菜(Sp/Fl) 和紗(MS1/Fidd) 麻季(MS1/Euph) 佑希(MS2/Dr-Tb) 乙音(MS2/Gt2) 友絵(MS2/Bass) 亜耶(A/Fl) 芽生(A/Gt2-B) 衿香(-/Gt1) 菜美(-/Gt1) 衣美(-/KB) 谷口翼(-.Pf/Pf)
■1年生21人(歌唱者17人)
純奈(SP/Gt1) 月花(SP/B-Gt2) 祥子(SP/A.Sax) 千鶴(SP/Dr-Tb) 小雪(SP/Fidd) 妙子(MS1/Fidd) 愛子(MS1/Tp) 紀子(MS1/S.Sax) 比奈子(MS1.Pf/Pf)
美涼(MS2/A.Sax) 理夜(MS2/Vib) 佳穂里(MS2/Cla) 絵利紗(MS2/Tb) 睦美(A/Gt2) 育乃(A/Euph-A.Sax) 叶恵(A/T.Sax) 玉江(A/Tb) 照香(-/Fl) 花美(-/Gt2) 高橋晴彦(-/Tuba-Fl) 坂上透(-/Bar.Sax)
人数の都合で2-3年は若干のパート移動が発生している。合唱パート別の人数はSp 3+4+5=12 MS1 3+2+4=10 MS2 2+3+4=9 A 3+2+4=9 という構成である。また楽器パート別ではこうなる(括弧内は学年)。
Gt1 空帆(3.琵琶) 衿香(2) 菜美(2) 純奈(1)
Gt2 乙音(2) 芽生(2.B) 睦美(1) 花美(1)
B 友絵(2) 月花(1.Gt2)
Pf/KB 衣美(2) 翼(2.BS) 比奈子(1.Vib)
Dr 須美(3) 佑希(2.Tb) 千鶴(1.Tb)
S.Sax 紀子(1)
A.Sax 青葉(3) 立花(3) 祥子(1) 美涼(1)
T.Sax 久美子(2) 叶恵(1)
Bar.Sax 透(1)
Fl 彩菜(2) 亜耶(2) 照香(1)
Cla 美津穂(3) 佐絵(2) 佳穂里(1)
Tp ヒロミ(3.箏) 公子(3) 治美(3) 真佑(2) 愛子(1)
Tb 日香理(3) 美滝(3) 真梨奈(3) 絵利紗(1) 玉江(1)
Tuba 邦生(3.Dr) 晴彦(1.Fl)
Euph 麻季(2) 育乃(1.AS)
Fidd 和紗(2) 小雪(1) 妙子(1)
Vib 理夜(1)
今年はソプラノサックス、ヴィブラフォンが加わっている。ソプラノサックスが入ったのは紀子がそれを自己所有しているからである。またヴィブラフォンが入ったのは理夜が「鉄琴しか出来ない」と言うので、学校の備品のヴィブラフォンを借りることにしたからである。1年生の透は中学の吹奏部でサックスの経験者ということで、身体が大きいのでバリトン・サックスの担当にして、それでこれまでバリトン・サックスを吹いていた翼は本来のキーボードに戻ることになった。
なお全体合奏では1人で済む楽器、逆に1人しか担当者の居ない楽器については兼任になる子が数人居る。
「歌える人が39人も居る!」
「やった!これで今年はエア歌唱者を入れなくて済む」
「でも40人越えなくて良かったね。41人以上だと逆にコンテストに出られない子が出てくる」
「とりあえず後1人は増えても大丈夫だな」
などと言っていたら、吉田君が
「あ、だったら俺抜けていいの?」
と言うので
「合唱からは抜けてもいいよ」
「でもチューバとかドラムスはお願いね」
と空帆たちは言う。
「まあ、そのくらいはやってやるか」
と吉田君。
「でもどうしても女子制服を着てコーラスのメンツに並びたいなら課題曲と自由曲で一部歌唱者を入れ替えてもいい制度を利用して」
「あれは二度と嫌だ!」
翌14日火曜日。
青葉は理数科の杏梨から声を掛けられた。
「ね、青葉、青葉って水泳確か上手かったよね?」
「そんなでもないけど」
「富山湾を氷見から黒部まで横断したことあるんだって?」
「それは無茶! 以前住んでた岩手県の大船渡で、大船渡湾をよく横断往復してたんだよ。片道1kmくらいだよ」
「氷見から黒部までってどのくらいだっけ?」
「40kmあると思う」
「そんなにあるのか」
「ドーバー海峡より長い」
「そんなにあるのか!」
「でも何で?」
「うちの水泳部に入ってくれないかなあと思ってさ」
「へ?」
「うちの水泳部、人数が少ないのよ。一応部活の統廃合基準は何とかクリアしてるんだけどね。特に女子が新入生を入れても3人しか居なくてさ、これだと6月の高体連でリレーに出られないのよ」
「あらら」
「だから青葉、大会に出る時だけでもいいから顔貸してくれないかなと思って」
すると近くに居たテニス部の純美礼が訊く。
「青葉って女子選手として出られるんだっけ?」
「ん?何か問題あるんだっけ?」
「うーん。私、戸籍は男だから」
「嘘?」
「だけど青葉、中学の時に卓球の大会に女子として出たよね?」
と隣から美由紀が言う。
「うん。私の参加資格について当時体育連盟に照会してもらって、それで許可をもらったんだよ」
「へー。でも卓球で出られたんなら水泳にも出られるのでは?」
「高体連の方に確認する必要はあるけど、許可出るかもね」
「よし、すぐ確認してもらおう」
それで杏里はすぐに青葉を職員室に連れて行き、顧問の先生に青葉の性別問題を説明して、高体連に問い合わせてもらった。するとその場で口頭で去勢から2年以上経っているのであれば女子として登録できると回答があり、念のため証明する医師の診断書を持参して本人が来てもらえたら、登録許可証を出すということであった。
それで青葉は顧問の先生の車で自宅に戻り、2011年7月14日付けの睾丸が存在しないという診断書、2012年7月18日付けの性転換手術をしたという証明書を持って高体連に赴いた。それでその診断書・証明書を見て、高体連水泳専門部の人はすぐに女子としての参加を認めるという許可書を書いてくれて、その場で向こうの人がデータベースに登録して選手登録カードも発行してくれた。
どうも向こうの人は青葉の「実物」も確認しておきたかったようで
「へー。君はふつうに女の子にしか見えないね」
などと言いながら作業をしてくれた。
そういう訳で青葉は「水泳部に入る」とは一言も言ってないのに、なしくずし的に水泳部の部員になってしまったのであった。
4月中旬の金曜日。その日は雨だった。
朝は晴れていたので、傘の用意が無い子もいる。用意周到に持って来ていた子や学校に置き傘していた子と、適当に一緒に入ったりして駅まで行く。青葉が美由紀と一緒に傘に入り、日香理は自分の傘を持って3人で駅に向かっていたら、青葉たちと同じT高校の女子制服を着た子が、街路樹の下で雨宿りしている。
が、街路樹なのであまり雨を避ける効果は無く、かなり濡れているようである。
「大丈夫ですか?」
と青葉たちは声を掛けた。
「もし駅の方に行くのなら、私の傘に一緒に入りません?」
と日香理が言う。
すると彼女は戸惑ったような仕草をしている。それで日香理が近づいて
「遠慮しなくていいですよ。お互い様だし」
というと
「すみません。じゃ、お願いしていいですか?」
と彼女が言った。
その時、彼女の声を聞いて美由紀が「へー!」という顔をする。青葉と日香理はこの手の出来事に対してはポーカーフェイスである。
日香理が「どうぞ」というと、彼女は「すみません。お借りします」と言って日香理の傘の下に入ってきた。
「でも急に雨降ってきましたよね」
と青葉が言う。
「そうですね。学校を出てからちょっとぼんやりしてたら突然降ってきて、もうどうしよう?と思いました」
と彼女。
その時、美由紀が彼女の制服に付いている校章のリボンの色に気づいた。
「あれ?校章のリボンの色が黄色。私たちと同じ3年生?」
青葉たちの高校の校章に付けるリボンの色は学年ごとに違う。入学したら3年間同じ色を使うのだが(留年や留学で1年遅れた場合を除く)、青葉たちの学年が黄色、現在の2年生が赤、1年生は緑である。卒業した青葉たちの1つ上の学年は青だった。
「ごめんなさい。これ実は姉の制服なんです」
一瞬美由紀が日香理を見たが日香理は相変わらずポーカーフェイスである。
「実は私、姉の制服を勝手に借りて出てきて。今日、姉は高体連の大会に出て行ってて学校はお休みだったものだから。私、ほんとうはT高校1年生なんです」
すると、もう我慢できないという感じの美由紀が訊く。
「ね、ね、学校でもその服を着てたの?」
すると彼女はかぁっと顔を真っ赤にしてしまう。
「実は学校を出た後でこれに着替えたんです」
「なるほどー」
「でも濡らしちゃって、どうしよう」
「お姉さんには借りるって言ったの?」
「実は無断なんです」
「それは濡らしてしまって御免と謝るしかないと思う」
と日香理が言う。
「やっぱりそうですよね。でも何て言われるか気が重い」
その時、青葉が言った。
「無断で持ち出したこと、濡らしてしまったことは謝らないといけないけど、ちゃんとクリーニングしておけば、少しはお姉さんにも言い訳ができるんじゃないかな」
「でもクリーニングって3〜4日かかりますよね?」
と彼女。
「特別料金を払えば2時間でやってくれる店知ってるよ」
と青葉。
「ほんとですか?」
「よし、そこに行こう」
と言ったのは美由紀であった。
彼女には取り敢えず着替えた方がいいと言う。彼女はそれで通りがかりのスーパーの屋外にある、インスタント写真コーナーのボックスを借りて着替えてきた。ボックスから出てくると、ちょっと俯いている。男子制服姿を曝すのが恥ずかしいのだろう。
「男の子の格好していても女の子の格好していても、中身が同じなら、お友達になっていいよね」
と美由紀が言うと、青葉と日香理も
「同意同意」
と言う。
それでお互いに名乗り合った。彼女(彼)は1年生の篠崎希という生徒手帳を見せてくれた。「しのざき・のぞみ」と読むらしい。学生服の衿に付けた校章にも1年生を表す緑色の布が付けられている。
「篠崎萌ちゃんの妹さんか」
と日香理が言う。
「はい、そうです。すみません」
ここで「妹」と言ってあげるのが日香理の優しさだ。
「のぞみちゃんなら、男の子でも女の子でも通じる感じ」
「それでけっこう、女として登録してたりするんです。実は市の図書館の利用者カードは性別・女になってます」
「やはり、女の子になりたい男の子なの?」
「はい」
と言って、彼女は恥ずかしがって俯く。
「私たちそういう子には慣れてるから平気だよね」
「全く全く」
「特に青葉の周囲には同類が集まりやすい気がする」
と美由紀が言うと青葉は苦笑する。
「同類?」
「あ、この子は元男の子だったんだよ。もう手術も終わって完全に女の子になっちゃったけど」
「え〜?すごーい。高校生で性転換手術しちゃったんですか?」
「この子は中学三年生の時にしちゃったんだよね。何か超特例だったらしい」
「まあふつうは20歳以上、緩い所でも18歳以上でないと手術してくれないからね」
青葉が知っている、超特急でしてくれるクリーニング店に行く。2時間コースは何と通常の3倍の料金である。通常料金なら女子制服の上下は600円なのだが1800円になる。
「きゃー」
と希が言っていたら
「少しカンパしてあげるよ」
と言って青葉が百円玉を2枚出してあげる。
「じゃ私も」
「私も−」
と言って日香理と美由紀も100円ずつ出してあげた。
「済みません!ありがとうございます」
と言って残り1400円を本人が出して、超特急コースを頼んだ。
仕上がるまで近くのスーパーで待つことにする。店内で38円のジュースやワゴンに入った値引シールの貼られたをおやつを買って休憩コーナーで食べながら、おしゃべりした。
「やはり小さい頃から女の子になりたかったの?」
「はい。物心ついた頃からそうでした。お姉ちゃんの服を勝手に着てけっこう叱られていました」
「なるほどー。常習犯か」
「すみません。でも高校の女子制服を無断借用したのは初めてです」
「初めての出来心で、でもこういうトラブルが起きちゃうのか」
「まあそういう時に限ってトラブるものなんだよ」
と青葉は言う。
「青葉は幼稚園でも小学校でも女の子の服を着て通ってたんでしょ?」
「うん。うちは親から放置されてたから、親も咎めなかったのをいいことに」
「すごーい。いいなあ」
「でも女の子の格好で出歩くのって、周囲の目の問題もあるけど、一番大きな壁は自分の心だよ。自分の心の壁を乗り越えなるのがいちばん大変なんだ。だから希ちゃんも、これを機会に積極的に女の子の格好で出歩くといいんだよ」
と青葉は言う。
「そうですよね。なんか女の子の格好で出歩いてたら、知り合いに会わないだろうか、男とバレないだろうかとか考えちゃって」
「男とバレるわけがないくらい、きれいに女装すればいい」
と日香理が言う。
「ああ、やはりそうなのかな」
と希。
「でもそこまできれいに女装できるようになるには、たくさん女装外出することが必要」
と青葉。
「そうなのか!」
「でも女装は開き直りだよ」
と美由紀。
「そうそう。自分は本当は女の子なんだから、女の子の服を着るのが本来の姿だと思っていれば、他人にどう見られようと平気」
と日香理。
「女の子だって可愛い子ばかりじゃないんだから、何も可愛い女の子だと思ってもらえなくてもいいんだよ」
と美由紀が言うと
「そうですよね!」
と希も同意するように言う。
「部活なんかはわりと緩いし、理解してもらいやすいから、取り敢えず部活には女の子の格好で出ればいいよ」
と美由紀が言う。
「部活は入らなかったんです。中学の時はテニス部に入っていたんですけど、あくまでも男子選手としてしか扱われないから」
「スコート穿きたかったのね?」
「実はお小遣いで買っちゃいました」
「おお、上出来上出来!」
「でもついに人前で穿く勇気が無かったです」
「やはりそこのブレイクスルーが必要なんだよね」
と美由紀。
「うん。でもそれがいちばん大変なんだよ。あの子、女の子みたいな男の子だなとみんなが思っていても、いざ女の子として行動しようとすると、様々な抵抗が束になってぶつかってくるから」
と青葉は言う。
「それも怖くて」
「文化部の方がまだ垣根は低いかもね。肉体的に男子である以上、どうしても女子選手にはなれないだろうけど、文化部なら女子の服を着てたら一応女子部員として扱ってもらえる可能性あるよ」
と日香理が言う。
「うちの美術部に入らない?みんなに話を通してあげるよ」
と美由紀が言うが
「ごめんなさい。私、絶望的に絵が下手で。図工・美術の成績1以外もらったことがないです」
と希は言う。
「じゃ芸術は何選択した?」
「音楽です。でも合唱の組み分け、テノールに入れられちゃった」
「ほんとはアルトかソプラノになりたいのね?」
「はい」
「じゃアルトの声が出るように高い音域の練習をすればいいよね?」
と日香理が言う。
「うん。高い声ってわりと出るようになるんだよ。低い声を出せるようになるのは難しいけどね」
「へー」
「そうだ。うちの合唱軽音部に入りなよ。それでアルトに入れてあげるから、頑張ってアルトの声が出るように練習しよう」
「えー?」
「いいよね?合唱軽音部・部長さん?」
と日香理。
「うん。それならきっと、どこからか女子制服を調達してきて、希ちゃんに着せようとする子たちが絶対出る」
と青葉。
「ああ、出る出る」
「それ嬉しいかも」
と希は言っている。
「コンクールに出る枠ってあと1人余ってたから、9月までにアルト領域が出るようになったら、ちゃんとアルトとして出られるね」
と日香理。
「うん。最悪声が出なくても、女子制服だけ着てステージに並んでエア歌唱で」
と美由紀。
「その合唱軽音部って、私よく分からなかったんですが、軽音楽を合唱するクラブですか?」
「違う違う。元々合唱部と軽音部があったのが、人数が少なくて廃止するぞと生徒会から言われたんで、一緒になっただけ。だから活動内容はふつうの合唱部の活動とふつうの軽音部の活動」
「人によって、合唱に力点のある子と軽音に力点のある子がいるよね」
「ああ、じゃ楽器はしなくてもいいんですね」
「何かできる楽器ある?」
「私、リコーダーもまともに吹けないんですよ」
「ああ、割とそういう人はいる」
「あれ小学校の音楽教育に問題があると思うなあ。出来る子は褒め称える一方で上手にできない子にはひたすらコンプレックスを植え付けるだけの教師がよくいるから」
「丁寧に教えたら、誰でも吹けるはずなんだけどね」
「私ができるのって琵琶くらいかなあ」
「琵琶ができるの!?」
「はい。母が琵琶の師範なので小さい頃から姉たちのついでに習ってました」
「あ、萌ちゃんが上手なんだ?」
「いえ、萌姉は性格が荒っぽいから琵琶を3つも壊して、あんたはしなくていいと言われたらしくて。その上にもうひとり今年大学を卒業した香という姉がいるんですよ」
「ああ、そうだったんだ」
「うちの流派は女琵琶なので、女でないと名取りになれないんですよね。だから母は香(かおり)姉に自分の後を継がせたいみたいで。私はそのおまけです。実は結構女物の浴衣とか着せてもらって喜んでいた」
「なるほどー。女物の服着たさに練習にはげんでいたりして」
「実はそれ結構あったんです!」
「どのくらい弾くの?」
「香姉からは自分より上手いと言われるんですけど」
「握手」
と言って日香理が笑顔で希と握手する。
「何ですか?」
「今練習してる曲には琵琶奏者が欲しかったんだよ」
「え〜?」
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【春代】(2)