【春代】(1)

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2015年3月26日。
 
昨日千里・桃香の卒業式をお祝いするために母と一緒に千葉に出てきた青葉は、そのまま彪志のアパートに数日滞在することにした(但し母との約束でその間のセックスは3回まで)。母はその日は桃香のアパートに泊まった。千里はユニバーシアード代表候補の合宿中である。
 
翌日、青葉は桃香たちと合流し、ふたりの引越先に行ってみることにした。
 
桃香と千里は4月からは別々に住むことを1月に決めたのだが、その後千里がひじょうに多忙であったことから実際のアパート探しにはなかなか取りかかれなかった。ようやく3月2日に修士論文の最終版を製本・提出した後、3月3日に候補にしていた地域を見て回った上で4日に不動産屋さんに行って契約した。その後一部の荷物はぼちぼちと運び込んでおこうかという話はしていたものの、実際には元々段ボールに入っていた夏用の服を少し持って行った程度で、結局30日にほぼ全ての荷物を移動することになりそうである。
 
千里のミラを借りて朋子が運転し、桃香の案内で先に桃香の引越先のアパートに行ってみた。この日は一応ミラに桃香の本を入れた段ボールを4つ積み込んで持って行っている。
 
「本なんか持って行っても向こうでは役に立たないのでは?」
と母は言うが
 
「いや調理器具とか持って行くと、こちらで御飯作るのに困るから」
と桃香は答える。
 

桃香の新しいアパートの前で車を停め、青葉はそのアパートを見上げた。
 
「どの部屋?」
と青葉は桃香に訊く。
 
「409号室。そこの北東の角の部屋。北東で鬼門だから安かったんだよ。しかも部屋番号が4と9。他の部屋は家賃が56,000円なのがここだけ49,000円なのだよ」
「家賃まで4と9なんだ!」
「52,000円だったのだが、どうせなら4で埋めようと言って44,000円にならないかと言ったのだが、あの店長頑張るんだよな。結局49,000円で妥結した」
 
「さすが桃姉!」
「買物は徹底的に値切るのが基本だよ」
 
「でもそんな部屋大丈夫なの?」
と朋子が訊く。
 
「凄く良い部屋」
と青葉が言うと
「良いのか?」
と桃香は驚いている。
 
「今住んでいる所よりもいい?」
「今住んでいる所は問題外。比較の対象にもならないよ」
と青葉は言う。
 
「あんまり酷いんで強制的に改良しているとか言ってたよね?」
と朋子が訊く。
「そう。あそこは本来人が住んだら半年以内に自殺するようなとんでもないアパート。あそこ住人が居着かないでしょ?」
と青葉。
 
「だいたい1年以内に出て行く人が多い。おかしくなる人も多いみたいで、夜中に包丁振り回して警察に捕まった住人とか薬で捕まった住人も居た。私が住んでいる時にも自殺した人もあった。安いアパートを探していたクラスメイト男子が一時引越して来たらホモに目覚めたようだ。私は最初からレズだから平気だけど」
 
「女装に目覚めた人も居たって言ってたね」
「そうそう。スポーツマンで凄い男らしい人だったのだが、3ヶ月もした頃、そこによく若い女が出入りしているのに気づいて。最初ガールフレンドかと思ったのだが本人だったのだよ」
 
「それ最初から女装趣味があったとかは?」
「最初の頃、オカマは皆殺しにしろみたいなこと言ってたのに」
「実は本人がその傾向持っている時に、わざとそんなこと言う人もよくいるよ」
 
「そのあたりは分からんな。でも特に今私たちが住んでいる部屋は、前の住人さんとその前の住人さんが自殺して、更に1つ前の住人さんは新婚さんだったのが3ヶ月で離婚したらしい。だから破格に安かったんだよ」
と桃香は平気な顔で言う。
 
「そんなに酷かったの?前の住人さんが自殺したというのは知ってたけど」
と朋子が言う。
 
「あのアパートのある界隈数十メートルの範囲が人が住めないような場所なんだよ。ところがあのアパートの周囲に強烈な結界が巡らしてあって、あのアパートだけ砂漠の中のオアシスみたいになってる。しかも桃姉たちの部屋は更にシェルターのようにして守られている」
と青葉は言う。
 
「へー。それはまた凄いね。それって青葉がしてくれたの?」
と桃香。
 
「さあ。誰かさんがしたんだろうけどね」
と青葉は言っておく。
 

「でもとにかくこのアパートは良い所だよ。周囲が良い気に満ちている。特に桃姉が借りた東翼側は良好」
「へー!」
 
このアパートは4階建てでコの字の形をしており、南側に5軒(3〜7号室)、西翼側に2軒(1〜2号室)、東翼側に2軒(8〜9号室)の住居がとられている。桃香はその東翼の端の9号室を借りたのである。
 
「南側の部屋は向い側のビルから形殺を受けるんだよ。両翼はその影響が無い。特に上の階になるほどいい」
「ほほお」
「西翼側はお寺から出ているラインに引っかかっているんだけど、東翼側はその手のものにぶつかってない」
 
「つまり4階の8・9号室が良好なの?」
と彪志が訊く。
 
「そうそう」
 

それで中に入ってみる。
 
「ここエレベータ無い訳〜?」
と朋子が言う。
 
「5階建てまではエレベータを設置する義務は無いらしい」
と桃香。
 
「これ引越の時に大変そう」
「何、引越すのは入る時と出る時の2度だけだ」
「確かにそうかも知れないけど」
 
青葉以外の3人が息切れしながらも何とか4階まで辿り着く。
 
「ダイエットにはいいアパートだ」
「確かに」
 
それで部屋の中に入る。
 
居室の中央奥の所に小さな袋が置かれている。
 
「その袋は?」
と彪志が訊く。
 
「千里がここに来た時真っ先に置いたのだが、伏見稲荷で頂いてきた砂らしい。何か清めの砂とかで」
と桃香。
 
「うん。この砂がこの部屋をすごくクリーンに保っているよ」
と青葉は言った。
 
さすが、ちー姉だ!
 

青葉は窓から外を眺めたり、部屋のあちこちで方位磁針を確かめたりしていた。そして見ながら青葉は確信した。
 
ちー姉は基本的にはここに住むつもりだ。明らかに自分も住む前提で色々なものが選ばれている。しかしよくこんなに良い部屋をわずか1日で見付けたものだと青葉は思う。
 
「1Kと聞いてたから狭い部屋を想像していたのに、ここ割と広いね」
と朋子が言う。
 
「この台所、4.2畳くらいらしい。4.5畳無いとDKを名乗れないらしい」
と桃香。
「数字が『死に』ですか?」
と彪志は半ば呆れながら訊く。
 
「それでさ、気づいたか?各階の間の階段の数は13段なんだけど、地面から1階へも床上げしてあるので5段の階段を登る。だから地上から4階にあがる階段の数は合計44段」
 
「このアパート建てた人変です!」
と彪志が言う。
 
「でも実は建設関係の法規に従うと、階と階の間の階段数って13段にするのがいちばん効率がいいんだよ」
と青葉は言う。
 
「あ、そういうもの?」
「階と階の間は280-290cm程度。階段の1段の高さは23cm以下。だから290÷23=12.6で13段になる。だから階段が13段っていう住居は多いし、普通だよ」
 
「なーんだ」
 

「部屋はこれ8畳より広いよね?」
と青葉は言う。
 
「9畳なんだよ。部屋の真ん中に鴨居があるだろ?本来は四畳半2間の2DKで設計施工したらしい。ところがよく見ると、手前の部屋には窓が無い。すると居室とは認められず、1KSになっちゃう。それならいっそのこと1Kにして広い居室があるということにした方が高く貸せるのではないかということで、設置するはずだった敷居を付けずに9畳の1室にした。でも鴨居は残った」
と桃香は説明する。
 
「それ窓を開ける訳にはいかなかったの?」
と朋子が訊く。
 
「両方に窓を付けると、この建物自体が強度不足になるらしい」
「そんなにギリギリの強度なんですか!?」
「でも千里はここはまだ6−7年は崩れないって言ってたよ」
 
「しかし何か無計画な建設やってるなあ」
と彪志。
 

「それでここに神棚を置く予定なのね?」
と青葉は確認する。
 
「神棚」と書かれた紙が、鴨居で区切られた奥側(南側)の小壁の端に貼ってある。そこに神棚を設置すると神棚は南を向く。神棚や仏壇は東または南に向けて置くのが基本である。
 
「うん。千里がここに置けと。神棚なんて別に要らんのに」
 
「いや、ちゃんとした神棚を置いた方がいい。今居るところは略式の祭り方をしているから」
 
その祭り方は1年前に青葉がしたものである。しかしちー姉は私があれをするまで3年間あそこに住んでいて、なぜ神棚を置かなかったのだろうと青葉は疑問を感じた。しかし今度は置くつもりになったようである。
 
ちなみに部屋の中のあちこちの床には桃香の字で「本棚8段」とか「水引」とか「机」とか「カラーボックスA」などといった文字の書かれた紙が貼ってある。
 
「これ一応、引越の計画だけは立てたのね?」
「そうそう。千里とふたりで計画して紙を貼っていったんだよ」
 

「方位とかはどうなの? これって玄関が鬼門よね?」
と朋子が言う。
 
「玄関の位置、トイレの位置、お風呂の位置、レンジ台の位置、居室の方向、全て大吉」
と青葉は言う。
 
「すごい!」
 
「桃姉は艮命だから北東は伏位、西側に天医・延年・生気と並ぶ。ちー姉は乾命だから北東が天医、西側に伏位・生気・延年と並ぶ」
と青葉は解説する。
 
「要するに桃香さんと千里さんって吉方位が同じなんだ?」
と彪志が驚いたように言う。
 
「そうそう。生年が違うからふつうなら吉方位が食い違って面倒なことになるんだけど、ふたりの場合は偶然にも一致するんだよ」
「へー」
 
「実はちー姉を男命で見る必要があったら、吉凶が反転してしまって桃姉の吉方位がちー姉には凶方位になってしまうんだよ。でも私は性転換した人、少なくとも若い内に性転換した人の運気は転換後の性別で見てよいと考えているんだよね」
と青葉は追加で解説する。
 
「じゃ万一千里が男のままであったら、私とは共同生活不能になってたな」
と桃香は言う。
 
「4年間も共同生活できたこと自体が、ちー姉の運気を女性の運気で見ていいことを表していると思う」
と青葉。
 
「ああ、じゃやはり性転換してよかったんだな」
 
「そうだね。それでここは玄関が北東、居室が西側だからどちらも吉。お風呂は南東で凶方位、トイレも北で凶方位、ガスレンジの方向も東で凶方位。こういうものは凶方位に置かないといけないけど、ピッタリなんだよね」
 
「全部うまく行ってるんだ?」
と朋子が感心したように言う。
 

結局、桃香の新居は風水的に最高に良いということが確認できた。
 
それで今度は千里が借りるアパートに移動する。桃姉のアパートがあんなに良い風水になっているなら、ちー姉のアパートも、そこまでじゃないかも知れないけど結構良い場所なんだろうなと思いつつ車で3分程度の移動をする。
 
そして降りてみて青葉は顔をしかめた。
 
何これ〜!?
 
「こちらはどう?」
と桃香が訊く。
 
「桃姉、ここの家賃いくら?」
「ここは15,000円なのだよ。羨ましいと言ったら、私のアパートの家賃は千里と折半することにした」
 
つまり、やはり、ちー姉は実質向こうに住むつもりなんだ! しかしそれにしてもこれって何? ここはもしかして元々は住宅地ではなく、神社かお寺かその類いのものがあったのではなかろうか。
 
青葉はそんなことを考えながらアパートを見ていたのだが、ちょうどそこに70歳くらいのお婆さんが通りかかる。
 
「すみません」
と青葉はその人に声を掛けた。
 
「はい?」
「このあたりに確かお稲荷さんか何かあった気がしたのですが、どこかご存じないですか?小さい頃に見たような気がして」
 
すると彼女は顔をしかめていった。
 
「実はね、このアパートが建っている所に7-8年前までお稲荷さんがあったんだよ」
「ここでしたか!」
 
「それがお稲荷さんを祭っていた年寄りが死んだ後、息子がこんな場所にこんなもの建てておいてもったいないと、お稲荷さんを潰してしまってさ」
「あらら」
「それでこのアパートを建てたんだよ」
「そういうことでしたか」
「だけどさ、やはりお稲荷さんは怖いよ。そんなことした翌年、その息子が死んでしまってね」
「あらあ」
 
「事業にも失敗したみたいで大変だったみたい。このアパートは銀行が抵当で取って、不動産屋さんに管理委託したみたいだけど、そういう経緯を知ってたらちょっと住みたくないよね」
 
「ほんとですね」
「でもこれあまり人には言わないでね」
「ええ。人には言いませんよ」
 

お婆さんが立ち去ってから彪志が言った。
 
「ね、それってお稲荷さんの祟りもあるかも知れないけど、ここは元々あまり人が住むような場所じゃなかったりして」
 
「そうだね。神様なら住んでもいいかも知れないけど」
と青葉は言ってから、ちー姉ってまさか実は神様なんじゃないよね? などと一瞬考えてから、まさかねと思う。
 
「さて帰ろうか」
と青葉は言った。
 
「中を見なくてもいいの?」
と桃香。
 
「見る必要もない。ちなみにちー姉の部屋って2階だよね?」
「いや、1階なのだが」
 
「1階か・・・・そのどっち? 右側? 左側?」
と青葉は訊いたが
 
「真ん中なんだけど」
と桃香が言うと
 
うっそー!! と青葉は思った。
 
絶対やだ! 絶対に1階のこの真ん中の部屋にだけは住みたくない!!!
 
ここは木造2階建て、各階3室のアパートなのだが、その1階真ん中の部屋に明らかに何かの跡がある。きっとここにそのお稲荷さんのお社が建ってたんだ。
 
「青葉、ここ良くないの?」
と朋子が訊く。
 
「うん」
 
「そんな所選んじゃって千里ちゃん、大丈夫かしら」
と朋子が言うが
 
「まあそもそも方位とか風水とか気のせいだから」
 
などと桃香は言う。いや、ここは方位とか風水とか以前の問題なんだけど。
 
「何か考えがあるんだと思う」
と青葉は言った。
 

母はその日の最終の《かがやき》で高岡に帰還した。今回は千里に会えなかったものの、また近いうちに高岡に行けるだろうから、その時にまた、ということにした。
 
千里は28日の夜日本代表の合宿を終えて千葉に戻ってきたので、桃香・青葉・彪志と4人で焼肉屋さんに行き、合宿の打上げ兼卒業祝いということにした。
 
千里は29日は神社に出て行っていた。
 
そして30日。青葉が彪志と一緒に千葉市内のアパートを出て、引越の手伝いのため桃香たちのアパートに行くと、大きな4tトラックが駐まっている。
 
「あれ?運送屋さん、もう来てくれたの?」
と声を掛けると、
 
「運送屋なんて頼んでいない」
と桃香が言う。
 
「あのトラックは?」
「千里が友だちから借りてきた」
「まさか、自分達で引っ越すの?」
「うん。運送屋さんに見積もりしてもらったら20万円だと言うんだよ。信じられん。だから自分たちですることにした。今日引っ越しすることにしたのは、その友だちが今日はお休みでトラックが空いているからなのだよ」
 
「それで!でも2人だけでできるの〜?」
と青葉が言うと、桃香は彪志の手を握り、
 
「彪志君、君の働きには期待している」
と言った。
 

最初4人で荷造りしていたのだが、とても手が足りないということになり、彪志が友人の男子学生を3人呼んでくれたら、かなり進捗が良くなって、お昼頃には荷造りを完了した。特にひとり電機関係に強い子がいて、エアコンも手際よく取り外してくれた。
 
「しかし2DKにこんなに荷物が入るもんなんですね〜」
と彪志の友人たちは驚いていた。
 
段ボール箱には「C」「M」のマークが入っている。千里のアパートに持ち込むものと、桃香のアパートに持ち込むものを区分けしているのである。
 
それで荷物をトラックに運び込む。「M」のものを先に積み込んで、そのあと「C」のものを積み込むことにする。それで先に千里のアパートに行って荷物を降ろしたあと、桃香のアパートに行く方針である。
 
ここで、彪志の友人たちがとっても戦力になった。実際この作業は男手が無いと無理という感じであった。大型の家具などは彪志と千里だけでは大変だったであろう。青葉や桃香も軽めの箱をたくさんトラックまで運んだ。
 
しかし桃香の荷物を積み込んだだけで、既に4tトラックの7−8割のスペースを占有している。
 
「これ絶対千里さんの荷物まで入りませんよ」
と彪志が言うので、結局2往復することにして、桃香の荷物だけを積んで一度世田谷区まで行くことにした。
 
「しかし2DKの荷物が4tトラックに入りきれないなんて信じられない」
などという声もあがっていた。
 
取り敢えずピザの宅配を頼み、千里がお茶のペットボトルやフライドチキンなども買って来て、それをお昼にする。2時頃、千葉のアパートを出発し、まずは桃香のアパートへ向かった。トラックは千里が運転して青葉と彪志が同乗する。別途桃香がミラを運転して、彪志の友人たちに乗ってもらった。(例によって辿り着いた時は運転手は彪志の友人に交代していた)
 
桃香のアパートで荷物を降ろして、テレビ・本棚・食器棚などの大型家具を概略配置、エアコンも取り付けてもらった。テレビや電気関係の配線は後で桃香が自分ですることにする。
 
なお、冷蔵庫と洗濯機は現在使用しているものは千里のアパートに持っていき、桃香のアパートには新しいものを買う予定で、明日配送を頼んでいる。
 
しかし桃香の部屋は4階でエレベーターが無いので、大きな本棚などを運び上げるのはほんとうに大変だった。一番重たかったエレクターもどきのスティール・ラック(これが3つもある)などは千里と彪志の友人3人の4人で持って階段を上がった。
 

桃香のアパートに荷物をあげたあと、疲れたという声が多く、いったんラーメン屋さんに寄って人間側の燃料補給をした上で、再度千葉まで行って千里の荷物を積み込む。そしてまた世田谷区に行って千里の荷物を降ろした。
 
この時青葉は
 
え?
 
と思った。このアパートが先日来た時とはまるで違う空間に変質していたのである。
 
彪志も感じたようで青葉に確認する。
「ここ、すごくきれいだよね。まるでよく信心されている神社の境内みたい」
 
「うん」
と青葉も同意した。そしてハッと思った。
 
玉依姫神社もこういう感じであの清浄な空間が作られたのではないかと。
 
こちらは1階なので荷物を運び込むのは楽であった。
 
洗濯機と冷蔵庫を置き、エアコンも取り付ける。千里のアパートに取り付けたエアコンは、実は大学1−2年の時に千里が自分のアパートで使っていた古い物だったのだが、取り敢えずコンセントにつないでスイッチを入れてみたら、ちゃんと動作してくれた。
 

「お疲れ様でした。ありがとうございました」
 
全員で焼肉屋さんに行き、お疲れ様会をした。
 
トラックは千里と彪志で返しに行ってきて、ふたりは少し遅れて合流した。
 
(まずはトラックとミラに分乗して焼肉屋さんまで行き、桃香・青葉、彪志の友人達を降ろしたあと、千里がトラック、彪志がミラを運転してトラックを貸してくれた千里の知り合いの所に行き、そのあとミラに2人で乗って焼肉屋さんまで戻った)
 

「いや、エアコンの取り付けとか、私にはできんかった。助かりました」
と桃香が、取り付けてくれた子に御礼を言っている。
 
「桃香がやると『あれ?ネジが余ってる』とか、なりそうだよね」
と千里。
 
桃香はだいたい機械には強いのだが、ややアバウトな面もある。
 
「それどころか、表と裏を間違えて取り付けて、部屋の外が冷えたりして」
と本人。
 
「でも用賀のアパートの方に取り付けたものは、元々パネルを使用していなかったんですね」
「あれは台所と部屋の間に、畳の上に直接置いておいたんです」
「なぜ?」
「居室は雨漏りが酷くて生活不能だったんで、台所で実際寝起きしていたんですよ。だから台所だけ冷やせたら良かったんです」
「なんか壮絶な生活してますね」
 
「でもおかげでそちらのパネルを使用して経堂の方のアパートに取付けられたんですよ。用賀のアパートは窓が小さいから、今使っていた方のパネルで間に合いました」
「良かった良かった」
 
「でも電機屋さんでバイトしてたんで、あの作業は得意です」
「それは凄い。次もまた頼みたいくらいだ」
「いいですよー。晩御飯で手を打ちます。次はいつですか?」
「いつだろう?」
と桃香が言うと
「あのアパートにはたぶん5年くらい住むことになると思う」
と千里が言った。
 
「じゃまだその頃、僕が関東に居たら」
「うん。よろしくー」
 
「でも5年も経ったら子供が3−4人出来ていたりして」
と本人。
「5年でそんなに作るのは、桃香の子宮が忙しすぎる」
と千里。
「千里も手伝ってくれ」
「うーん。私は産む自信無いなあ」
 

2015年3月31日。L神社ではこの日転出または退職する、辛島夫妻や千里など数人の職員の送別会をしてもらった。
 
「千里ちゃんの龍笛が聴けなくなるのは寂しいな」
などと言っている神職さんもいる。
 
「そのあたりは友香ちゃんとか、風希ちゃんとかに頑張ってもらって」
「私は龍は呼べませんよ〜」
と友香が言っている。
 
「ここの神社でお祓いをうけていると落雷がある、というのが一部では話題になってたみたいですけどね」
 
「また玉依姫神社の方には時々顔を出しますけどね」
「そのついでにこちらにもちょっと」
「いや、また新しい名物を作っていってください」
 

送別会の後、辛島夫妻が新たに赴任する神社に行くというので、千里も「ちょっと来てみない?」と言われて同行した。
 
車で1時間ほど走り、越谷市のF神社に到着する。鍵を開けて社務所軒住宅という感じの家に入る。引越は住んでいるようだが、まだ段ボールなどが大量に積まれている。
 
「この荷物を整理するのに数年かかるかも知れない」
「ああ、ありがちです」
 
取り敢えずお茶を頂く。
 
「ここは他に職員さんとかおられないんですか?」
「居ない。もっともお祭りの時とかは地元の女の子たちを臨時の巫女に採用する予定で、氏子さん代表とは話している」
 
「前の宮司が2年前に亡くなって、跡継ぎが居なかったので市内の別の神社の宮司さんが兼任で祭礼などはしていたんですよ。でも日常的に誰か居ないと不便ということで、氏子さんの方からどなたかお願いしますと依頼があっていたので私たちが来ることにしたんですよ」
 
と広幸さんは言う。
 
ふたりは若い頃から都内の幾つかの神社で神職・巫女をしていたものの、6年前に千葉L神社の禰宜(ねぎ)と巫女長の夫妻が水戸市内の神社に宮司として転出したので、その後任として頼まれて夫婦でL神社に奉仕することになった。栄子さんがL神社宮司の従姪であったことから、その縁での就任だった。この世界の人事は9割が縁故である。
 
「まあ若い頃に奉職した神社に一生勤める人が多いこの世界で私も広幸も随分と多くの神社を渡り歩いたね」
 
「でもまあ今度は死ぬまでここだろうな」
「まあ30-40年は奉仕することになりそうだね」
「小さい神社って氏子さんたちとうまくやっていくのに神経使いそう。きれい事だけでは済まないだろうから良心に反する妥協をしないといけないし」
 
「うんうん。そのあたりが大変だろうね」
 

3人でおやつなども摘まみながら話していたら、その氏子の人が3人訪れた。福田さんという80歳くらいの少し足が弱っている感じの男性、池上さんという60歳くらいのたくましい体付きの男性、泉堂さんという50歳前後かなという感じのメガネを掛けた女性である。福田さんが氏子総代、池上さんが若者頭、泉堂さんが会計だそうである。
 
「今日いらっしゃると聞いてお刺身持って来ました」
「おお、それはありがとうございます」
 
と言って、要するに酒盛りが始まる! 結局千里も付き合わされることになる。
 
「こちらは娘さんですか?」
「いえ。村山と申しますが、前の神社で辛島さんの下に付いていた巫女です。学校を出て退職したので今日は新しい神社をちょっと見ていかない?と言われてお邪魔したんですよ」
 
「うちは子供は男の子が2人で長男が國學院、次男は東京の国立大学に行ってて、ふたりとも都内に下宿しているんですよ」
 
「おお、國學院に長男さんが行っているなら跡取りも安泰ですね」
と氏子総代さんはご機嫌である。
 
「そうだ。村山さんがお嫁さんになるというのは?」
「すみませーん。私、婚約者がいるので」
「それは残念!」
「なんか、物凄い霊的な力を持っているみたいなのに」
などと福田さんが言う。へー。この人「少し見える人」みたいねと千里は思った。
 

酒盛りは続いていたが、30分ほどで刺身は無くなってしまう。
 
「丸魚だったらあるんだけど」
と泉堂さんがいうので
「私おろせますよ」
と千里が言うと、泉堂さんは車でひとっ走りして(飲酒運転だ!)、5kgほどありそうな鰤を持って来てくれた(帰りは泉堂さんの息子さんが運転してきた)。それで千里が3枚におろして身を刺身にし、頭と骨は煮物にして出した。しかし泉堂さんの息子さんも加わって酒盛りは続き、この鰤も1時間ほどできれいに無くなってしまった。
 
「良い気分だ。村山さん、なんか芸して」
などと池上さんが言う。
 
「うーん。じゃパフォーマンスを」
 
と言って千里は自分のバッグから龍笛を取り出すと、自由な旋律で吹き始めた。例によって龍が集まってくるが、千里が酔っているせいか、どうも集まってきた龍もなんか変な感じの龍が多い!?ついでに朱雀まで1羽いる。
 
「おお、龍が来てる」
と福田さんが喜んでいる。
 
今日の龍たちはどうも少しガラが悪いようで、何だか喧嘩を始めた。それまで晴れていたのが突然曇ってきて落雷がいくつもあり、物凄い雨が降った。あとで気象台はこの季節には珍しい積乱雲が発達したためと発表したようである。
 

千里は20時過ぎに「明日は入社式があるので失礼します」と言って帰らせてもらった(たぶん酒盛りは夜中まで続いたと思う)。
 
7人全員が大量にお酒を飲んでしまったので、泉堂さんがもうひとりの息子を呼ぶと、やってきたのは実際には娘さんである。
 
「あれ?息子さんじゃなかったんでしたっけ?」
「息子だったんですけどね。ちょっと海外旅行してきたら、帰って来た時は娘になってたんですよ」
「性転換したんですか?」
 
「おちんちんあるとビキニの水着を着る時に邪魔だなと思ったので、取っちゃっただけですよ」
「へー」
 
「あれ?信じられちゃった? いっそそういうキャラということにしようかな。あ、私、少なくとも物心ついた頃には女でした。それ以前に勝手に性転換されていたら分からないけど。お兄ちゃん、ゲームのバトルの時間だからちょっと待ってとか言っていつまでも動かないんで、私が来ました」
と彼女は言っていた。
 
結局彼女が千里を南越谷駅前まで車で送ってくれた。彼女は文教大学の学生さんということであった。
 
ここは武蔵野線・南越谷駅と東武伊勢崎線・新越谷駅が隣り合っていて実はひじょうに便利な場所である。千里は新越谷駅の時刻表を見て、
 
ここから(自分のアパートの近くの)用賀駅まで乗換無しで帰られるんだ!と驚いたものの、酔いを冷ますのにはのんびりと郊外を回って帰った方がいいかなと思い、武蔵野線・南武線で登戸駅まで行き、小田急新宿行きで経堂駅まで到達。小田急OXで食料品をいろいろ買ってから、桃香のアパートに帰還した。帰宅したら
 
「千里〜、お腹が空いたぁ」
と言って桃香が裸で倒れていた。
 
取り敢えず買って来た食料品を今日配送されてきていた真新しい大型冷蔵庫に入れる。
 
「桃香、そんなあられもない格好で寝てたら、おちんちん切っちゃうぞ」
などと言うと
 
「そんなこと言われて過去3回切られた。千里が男役してくれるなら切ってもいいぞ」
「それはさすがに勘弁してもらおう」
「千里、自分のちんちんを女の子に入れたことは1度も無かったの?」
「私は女の子には興味無いから」
「私はいいのか?」
「桃香は男の子だから」
「そうだったのか」
 
それで千里が桃香にキスしてそのまま抱きしめて愛撫しはじめたら
 
「すまん。セックスの前にごはんが食べたい」
と桃香は言った。
 

翌朝、2015年4月1日。
 
千里は桃香のアパートで目を覚ますと、取り敢えず服を着てから朝ご飯を作った。ついでにここ数日溜まっていた服の中で洗濯優先するものを昨日配送されてきた真新しいプチドラム型・ヒートポンプ式の洗濯乾燥機に放り込んでタイマーをセットする。だいたい桃香の帰宅する時刻に合わせて乾燥が終了するようにし、桃香が帰宅してから干す方式で行こうということにしている。桃香が干し忘れる可能性は大いに!あるが、しわになるのは気にしないということでふたりは合意している。
 
「桃香、起きて」
「あと30分寝せて」
「今日は振袖着ないといけないから」
「あ、そうだった。めんどくさいなあ。だけど女だけに振袖着せるのって不公平だよな。男にも着せればいいのに」
 
「男に振袖着せるのは気持ち悪い。でも男女差別の酷い会社は多いよ」
「日本は困った国だ」
 
文句を言いながらも起きてきてトイレに行った後、どうせすぐ着替えるしなどと言って、パンティとトレーナーだけで食卓に座り、一緒に朝ご飯を食べる。
 
そのあと千里が桃香の振袖の着付けをする。
 
「ありがと、ありがと。千里手際がいい」
「元々は桃香のお母さんに習ったんだけどね」
「しかしこれ実用的じゃないよなあ」
「まあ晴れ着だから。普段着にするのなら化繊の着物とかがいいんだよ」
「千里何枚か持ってるね」
「うん。簡単に着られるし、洗濯機で洗えるから便利だよ」
「私はポロシャツにパンツというのが楽でいい」
「お茶の水のOLだから、桃香毎日スカート穿いて出社しなきゃ」
「美緒に見立ててもらって何枚か買ったし、千里から何枚かもらったけど、それも面倒だ。なんかスカートなんて穿いてたら女装でもしているみたいで気分悪い」
 
「まあ仕方ないね。そのうち総理大臣になってスカート禁止法とかでも制定する?」
「あ、それいいな。女性のスカート禁止」
「男はいいの?」
「可愛い男の娘ならよい」
 
髪は簡単にまとめて横に大柄の花飾りを付けた。桃香は元々かなり短い髪にしていたのだが、会社の面接の時「その髪は短すぎる」と注意されたので、しぶしぶ少し伸ばしたのである。
 
「この花飾り、いっそ生花でできないものかね」
「しおれちゃうよ」
「やはりそうか」
「成人式や結婚式で生花を使う人がいるけど、直前に付けるのがコツ」
「なるほどー」
 

桃香をミラに乗せて、この日は永福出入口から首都高4号に乗り、神田橋で降りて桃香の会社の近くまで行った。早めに出たのでまだ車の量が多くなく1時間も掛からずに到着できた。
 
そのあと千里はいったん用賀の自分のアパートまで戻る。そしてジャージ!に着替えて、粉のスポーツドリンクを水で溶いて水筒に詰めバッシュとボールを持って出かけることにする。
 
「じゃ、千里、会社のほう頑張ってね」
と声を掛ける。
 
「うん。千里も練習頑張ってね」
と初日なのでローラアシュレイのビジネススーツを着てメイクをしている最中の千里は答えた。
 
再びミラに乗って、出勤する千里(千里B)を用賀駅で降ろした後、もうひとりの千里(千里A)は都内の某体育館に行く。しばらくひとりで練習していたら、9時頃、佐藤玲央美がやってくる。
 
「おはよう」
「おはよう」
 
と挨拶しあい、玲央美がウォーミングアップした後、ふたりで1on1やシュート練習などをたっぷりする。
 
「あ、そうそう。クラブ選手権優勝おめでとう」
「ありがとう。次は社会人選手権だ」
「皇后杯まで上がってこいよ」
「頑張る」
 
「千里、会社にはいつから出るの?」
「あ、今日入社式だったよ」
「初日からサボってるのか!」
 
「でもレオ、今日は本調子じゃないみたい」
「千里もまだまだだな」
 
ふたりともこのところあれこれ行事が多くて、やや練習不足になっていたのである。
 
「あっちゃん(花園亜津子)が千里とまたシュート対決したがってるよ」
と玲央美が言うが
 
「うーん。今だとあっちゃんががっかりするようなプレイしかできないと思う。少し鍛え直すから6月まで待ってよ」
「6月ね。伝えておく」
「でもFIBAの見せしめは納得できないなあ」
と千里は言う。
 
3月18日に、FIBAから、U19女子世界選手権(7月18日〜)には日本は日本バスケ協会が資格停止中なので参加不可という通達があった。しかしU19世界選手権より先に行われるユニバーシアード(7月4日〜)の参加是非については6月に判断するというのである。
 
「私も。女子はもっと怒るべきだよ。男子リーグの問題で処分くらったのに女子が犠牲になるというのは不愉快」
と玲央美。
 
「まあ男子は制裁を受けるほどの実力が無かったりしてね」
「うん。それは言える。どうせ国際大会なんて出ないんだからFIBAの制裁なんて関係無いなんて言ってる人もあるようだけど、そういう井の中の蛙的な発想はよくないね。日本の男子もちゃんと育てれば世界に通用するはずだよ」
と玲央美は言う。
 
「田臥勇太がNBA初の日本人選手になった時も世間はみんな騒いでいたのに、バスケ協会の幹部は彼に冷たかったね。日本の国内リーグに貢献もしてない選手なんて日本代表には要らんみたいな変な話もあったし」
「うん。あれは酷かった。今回の事件をきっかけに変わるといいけどね」
 
「そちら、フル代表はいつ招集されるの?」
と千里は訊く。
 
「5月上旬と聞いてる。そのあとはアジア選手権の終わる9月5日まで、ほとんど自分のチームには顔を出せなくなると思う」
と玲央美。
 
「たいへんだね〜」
 
「千里のほうはどう?ユニバ代表は昨年招集された顔ぶれとまるで変わってたね」
「そうそう。半分入れ替わってる。ここから更に半分くらい落とされるから結局昨年招集されたメンツで実際に代表に残れるのは4人だけ」
 
「凄いサバイバルだね!」
と言ってから
「あれ?もう代表発表されたっけ?」
と玲央美は訊く。
 
「あ、ごめーん。それ私が言ったって言わないで」
「内部情報か」
「その手の情報はレオのほうがよほど詳しい」
「世界の壁は厚いけど、優勝狙って頑張ってよ。2011年は12位、2013年は13位だったけど、怪我人とかが出た不運もあったからね」
 
「いや、怪我人以前に、あれは私も世界のレベルを思い知った。アジアとは全然違うもん。でも今回は私は出ないし」
 
玲央美は顔をしかめる。
 
「なんで?」
「辞退した」
「なんで〜?」
「うん。篠原さんからサブのシューターは(伊香)秋子と(神野)晴鹿とどちらがいいかと尋ねられたから、私が辞退しますからそのふたり両方出してあげてと言った」
 
「うーん・・・篠原さん、千里の性格が分かってないな」
と言って玲央美は頭を抱えている。
 
「まあ実際問題として私は社会人で全然練習時間なんか取れないし、大学院に進学して大学のバスケ部でたくさん練習できるその2人の方がいいと思うんだよねー」
 
「でもこうやって会社サボって練習してる」
「まあね」
「取り敢えずこちらも5月か6月に代表が本格稼働するまで練習不足になりがちだし、良かったら練習付き合ってよ」
「OKOK。私は平日の午前中はだいたいここで練習するつもりだから。今度の土日はちょっと用事で出てこられないけどね」
 
「要するに会社行く気、全く無いんだ!」
「フレックスだよ」
「ほんとに〜?」
 

玲央美のほうは本当にフレックスということで、13時から21時までの勤務だが、実際には最後の3時間はチームの練習で読み代えることになっている。つまり実質的には13時から17時まで勤務してそのあと1時間の休憩を置いて18時から21時までチームの練習に参加する。練習も仕事なのである。
 
この日千里は午前中4時間ほど体育館で汗を流した。
 
この体育館での平日午前中の練習というのは昨年の春〜秋のシーズンオフにしていたもので今年も先月から再開したのだが、メンツには溝口麻依子(主婦・40minutes)・森田雪子(大学院修士2年・40minutes)・六原塔子(パート勤務・江戸娘)・入野朋美(愛知J学園高校→J学園大学→レッドインパルス)など様々な所属・立場のメンバーがおり、最大6-7人集まることもある。あくまで各自が勝手に練習していてたまたま遭遇したからちょっと手合わせしたという建前になっている。
 
この日の練習は8時から始めて、9時から玲央美が参加、11時過ぎてから「買物のついでに寄った」という麻依子が2歳の希良々ちゃんを連れて出てきて、子供はベビーカーに乗せたまま練習に参加した。千里も玲央美も時々希良々ちゃんのそばに寄って声を掛けたりあそんであげたりしていた。
 

体育館での練習が終わった後、千里は「ついでだし」と言ってミラに玲央美を乗せて会社の近くまで送って行った。そのあと千里は車を適当に走らせていたが、コンビニを見ておにぎり・飲み物などを買った後、カラオケ屋さんがあったのでそこに入り3時間借りることにした。
 
本当は昨日、3月31日までに仕上げるよう頼まれていたものを合宿・引越とあるので期限を延ばしてもらっていた曲が2曲ある。どちらも概略はできているので今日はそれを仕上げて納品しなければならない。
 
千里はパソコンの電源を繋ぐと、MIDIキーボードもつないでCubaseを立ち上げ作業を始めた。
 
昼間のカラオケ屋さんは客が少ないので、一般に料金も安いし、他の部屋からの騒音も少ないので集中して作業するのに良い環境である。だいたいフリー・ドリンク制だし、お腹がすいたらフードも注文できる。
 

青葉はどうにも千里の新居が気になり、4月1日は彪志が大学の掲示を見に行った間にひとりで電車で世田谷区の用賀駅近く、千里のアパートまでやってきた。
 
アパートを少し離れた所から見て考える。
 
ほんとに26日に一度下見に来た時とはまるで違う空間だ。凄くきれいにはなっているけど、きれいすぎるんだよなあ。ここはまるで神社の境内のような空間になっているので、穢れに関わることはしない方が良い。セックスはやめておいた方が良いし、できたら煮炊きなど火を使うこともしない方が良い。
 
アパートに近づいてみる。
 
その時、青葉は1階の真ん中の部屋に鍵が差しっぱなしになっていることに気づいた。
 
ちー姉ったら、なんて不用心な! きっと慌てて出かけたので鍵を取り忘れたのだろう。鍵を外してあとでちー姉に渡そう、と思ったのだが、中に入ってみたい気がした。私が入るの、別に悪くないよね? 私、ちー姉の妹だし。
 
青葉はそう言い訳して鍵を開け、中に入った。
 

入口を入ってすぐの所に梵字を書いた半紙が2枚、左右に貼ってあるのでギクッとする。見るとごく普通の阿字と吽字だ。ちー姉が書いたのだろうか。美しい阿字と吽字だと青葉は思った。
 
部屋の中を見ると、彪志のお友達がエアコンを取り付けてくれたのと冷蔵庫・洗濯機以外では、荷物はほとんど段ボールに入ったままである。洋服が少し出してある。出社するのに着る服が必要なので出したのであろう。青葉は段ボールを何気なく見ていたのだが、あることに気づく。
 
ここには調理器具を入れた段ボールが無い!
 
もしかして調理器具は全部桃姉の新居に持っていっちゃった? やはりちー姉は向こうを生活の拠点にするつもりなのか。あるいは今持っている調理器具は全部桃姉の所に置いておいてこちらでは新しいのを買うつもりなのか。
 
ここにある箱は大量の書籍類、大学の講義のノート、CD/DVD、洋服・和服の類い、それにハードディスクの入った箱が2箱ある。おそらくこれは音楽制作関係のデータではないかと青葉は思った。バスケ関係と書かれた箱があるので開けてみる。
 
わぁ!
 
そこには千里があちこちの大会でもらったものであろう。多数のメダルや記念品がひとつひとつビニール袋に入れられシリカゲルも入れられて保管されていた。大量の賞状も入っている。
 
すごーい!
 
青葉が見ていると、インターハイやウィンターカップのもの、U18,U19,U20,U21 と書かれたもの、また千里の出身校である旭川N高校の名前のものもあるので、学校から表彰されたものであろう。
 
時計やボールペン?などもある。ちー姉は確かU18アジア選手権でもらった腕時計を普段使いし、U21世界選手権でもらった万年筆で作曲作業をしていたと思ったが、他にもたくさんあるようだ。
 
それを丁寧に閉じたあと、他の箱も眺めてみる。
 
不思議なマークの箱がある。何かの絵みたいだけどなあと思いながら開けてみたら、箱の中に更に箱が入っている。そしてその内側の箱の上に
 
『青葉へ。開けちゃダメよ〜ダメダメ』
 
という文字が書かれたメモ用紙が貼り付けてある。
 
ガーン。
 

私って、やはりちー姉の掌の上で筋斗雲(*1)に乗って飛び回っている孫悟空?
 
 
(*1) キント雲のキンの字は觔という字。意味的には筋と同じ。筋斗とはトンボ返りという意味で、この雲に乗っている間、術者はひたすらトンボ返りをし続ける必要がある)
 
猛烈に不愉快になった。
 
開けちゃる!
 
と思うと青葉はその箱を開封する。
 
更に箱がある!! そしてまたメモだ。
 
『じぇじぇじぇ!見るんけ?』
 
青葉は苦笑する。「じぇじぇじぇ」は例のドラマで随分有名になった言葉だが、同じ三陸でも青葉が育った大船渡などの気仙地区では使わない表現である。ドラマの舞台になった「北三陸市」は実際には久慈市がモデルになっていると言われる。
 
はいはい。見ますからね〜。
 
更に開ける。
 
中に入っていたのは、以前千里が愛用していた青いスントの腕時計、それからリズリサの財布、そして折りたたまれたミッキーマウスのトートバックなどなどである。
 
これ、多分全部細川さんからもらった品だ。
 
と青葉は直感した。きっと彼が結婚してしまった時点で彼からもらったグッズをここに入れて封印したのだろう。真新しい「タンスにごん」とシリカゲルが入れられている。引越前に交換したのだろう。
 
フォトアルバムが2つある。ひとつは彼と撮ったスナップだ。中学生時代?のものからある。すごーい。でもちー姉ったら、中学生の頃からちゃんと女子中生してるじゃん!! ふたりともお揃いのユニフォームを着て並んでいる写真もある。Rumoi S JHS と書かれている。ほんとにふたりって長い付き合いなんだなというのを改めて思った。
 
もうひとつのアルバムを開ける。
 
こちらは写真は数枚しか無いようだ。
 
可愛い6-7歳くらいの感じの男の子が写っている。誰だろう? ちょっと面影がちー姉に似ている気がする。まさかちー姉の小さい頃の、まだ男の子していた時代の写真じゃないよね? と思ったものの、次のページには千里自身がその子と並んで写っている写真がある。これ、ちー姉は高校生だろうか、それとも大学に入りたての頃だろうか。結構若い。更に細川さんとその男の子がバスケットボールを手に持って一緒に写っている写真まである。細川さん、これ20歳頃かな?だとすると今はこの男の子は12歳くらい?でもこうやって並んでいる所みると、この子、細川さんにも似てない?もしかして細川さんの従弟か誰か??
 
でも誰なんだろう?
 
と考えたが分からなかった。
 
そのアルバムの最後のページにあった数枚の写真に青葉は大いに戸惑った。
 
赤ちゃんのエコー写真なのである。
 
青葉はその写真を見ている内、その写真に見覚えがあるような気がしてきた。
 
そうだ!
 
これは細川さんの奥さんの胎内で育っている最中の子だ。
 
でもなぜその写真がここに??
 
しばらく考えている内に、青葉は驚くべき結論に到達した。
 
でもまさか?
 

その時、青葉は誰かに肩をトントンとされ、びっくりして振り向いた。
 
そこにはクリーム色のアロハシャツと薄黄色系のアロハシャツを来た6-7歳くらいかな?という感じの男の子の兄弟が立っていた。顔が似ているし、年齢も同じくらい。双子だろうか?
 
そして例によって、その子たちを見てしまってから「しまったぁ!」と思った。
 
何か最近も似たようなことをして、私、ちー姉に注意されたぞと思う。でもこの子たち、ちょうどこの写真の男の子と同じくらいの年齢かな。
 
「君たちどうしたの?」
と青葉は優しく訊く。
 
「ぼくたち、まいごになっちゃったみたい」
「それは困ったね。どこから来たか分かる?」
「あっちのほう」
「ちがうよ、こっちのほうだよ」
とふたりの意見は一致しない。
 
どうもクリーム色の子がお兄さんで黄色系の子が弟のような感じだ。
 
「お前たち、琉球から来たな?」
と突然青葉の後ろから、《姫様》が出てきて、ふたりに訊いた。
 
「りゅうきゅうっていうのかな?」
「ぼくたちニライむらってところにいたの」
 
「姫様、ご存じですか?」
「いや、知らん。しかしこの子たちは南国の匂いがするのだよ」
 
「この子たちどうしましょう?」
「警察は迷子の面倒は見てくれんのか?」
「人間の迷子なら面倒見てくれますが」
「仕方ない。青葉、しばらく養ってやれ」
 
それで姫様が言うので、青葉はしばらくふたりを自分の眷属に入れておくことにした。
 

その4月1日、会社に出て行った「千里B」は入社式の場で、社長から3月末で社員が7名辞めたことを聞かされ驚く。
 
それでなくても手が足りない感じだったのだが。
 
おそらく忙しすぎて体力や精神力に限界を感じて辞めてしまったのだろう、と千里Bは思った。
 
入社式が終わった後、女子社員一同でオフィスにいる社員にお茶を配ったが、それを配り終えた所で千里Bは山口専務に呼ばれた。
 
「村山君、君さ。この程度の仕様書を見てプログラム書ける?」
 
と言って渡されたのは、なんとまあ今時こんなものを使っている所があったのかと千里B自身驚いたHIPOシートである。1970-80年代に多用された「構造化チャート」を書くためのシートだが、千里Bこと《きーちゃん》(天一貴人)がが千里Aの所に来る前に宿主にしていた人が、この業界に就職した1980年代半ば頃には既に形骸化して、事実上フリーシートしか使用されなくなっていた。この仕様書もそのHIPOシートのフリーシートに機能が記述されたものである。
 
「ここまで書いてあれば書けます」
と千里Bは明言する。
 
「実はある金融業者の支店固有システムの話があるんだけど、そこの管理をしている監査法人の会計士補さんがこのレベルの仕様書を書くので、こちらでプログラムを書いてもらえないかという依頼なんだよ。実は**君にやってもらおうと思っていたら、彼女辞めちゃったし」
 
「ああ・・・」
「それで考えていたんだけど、君凄くしっかりしたプログラム書いてるなあと思ってね。ちょっと午後から打ち合わせに行くから一緒に来てくれない?」
 
「分かりました」
 

一方千里Aは何とか4時までに楽曲2つの調整を終えると新島さんに送信したあと、車で経堂駅まで行き、コルティの駐車場に駐めて大量の食料品を買った。それで桃香のアパートに戻り、鶏のクリームシチューを作り始める。材料を全部入れてIHヒーターで煮込んでいる間に今度はスパゲティミートソースを作る。更にブロッコリーを小さく切ってガスコンロで茹でる。その後ほうれん草をこちらもガスコンロで茹でて充分湯切りし小さく切る。鶏の手羽に唐揚げ粉を付けて揚げ始める。これは結構時間が掛かる。
 
ここでお米を研いでしばらく流水にさらしておく。
 
スパゲティが冷めて来たので小分けして冷凍する。ブロッコリーを小分けしてクレラップで包み冷凍する。ほうれん草もクレラップで包んで冷凍する。やがてシチューができあがるので、冷まし始める。鶏を鍋から上げてこれも冷まし始める。
 
そして!今日の晩御飯に取りかかる。お米をジャーに移して水加減してスイッチを入れる。それから今日のメニュー、ビーフストロガノフを作り始める。さっきクリームシチューを作ったばかりで、何ともデジャヴな感じだ。取り敢えずIHヒーターで煮込み始め(基本的に煮込み作業は忘れてしまった場合にそなえて、IHヒーターでタイマーを使用してすることを桃香とは話し合っている)た所で洗濯機が終わったので、取り出して室内に掛けたタコ足やハンガーに掛けて干す。除湿器を作動させる。それをやっている内に桃香が帰宅した。
 
「お帰り〜」
「ただいま〜、千里。何かいい匂いがする」
「今振袖脱がせるね。その服で1日仕事したら大変だったでしょ?」
「今日1日で2kgくらい痩せたかも知れん。着崩れするから、上手な人が途中で結構直してくれた」
「良かった良かった」
 
それで千里は鍋を弱火で煮込んだまま、桃香の振袖を脱がせて、和服用の衣紋掛けに掛けて奥の部屋の鴨居に掛けた。
 
「お腹空いた」
「もう少ししたらできあがるからお風呂に入ってて」
「おやつ無いの〜?」
「うーん。フランスパンでも食べる?」
「食べる」
 
と言って桃香はフランスパンをスライスして、そのままかじり付いている。
 
「トーストした方が美味しいのに」
「待ってられん」
 
その後桃香がお風呂に入っている間に千里はクリームシチュー、唐揚げも小分けして冷凍してしまうが、そこに電話が掛かってくる。見ると新島さんである。居室に行ってから電話を取る。
 
「こんばんは。醍醐です」
「あ、千里ちゃん、ちょっと雨宮先生と連絡取りたいんだけど、取れるかな?」
「新島さんがご存じないのを私が知る訳がないのですが」
「そう言わないで何とか連絡取ってもらえないかな?」
「緊急ですか?」
「明日中に返事をもらいたいのよ。実は町添さんからの書類なんだけど」
 
千里はため息をつく。
 
「明日の午後でも良ければ会う予定なので、渡して来ますが」
「ほんと?助かる。じゃ、申し訳ないけど、書類こちらまで取りに来てくれる?私、今夜中に仕上げないといけない曲を抱えていて」
「了解です。行きますよ」
 

千里Aが新島さんと電話していた頃、千里Bはようやく仕事を終えて、ややぼんやりしながら電車に乗っていた。会社の最寄り駅・二子玉川からアパートの最寄り駅・用賀までは1駅しか無いが、歩けば30分近く掛かる。仕事の後で疲れていると1駅でも電車に乗りたいところである。
 
しっかしこの業界は10年経っても全く体質が変わってない! 人が居着かない訳だよ。
 
などと千里Bはぶつぶつ言いながら電車を降りるとアパートまでの道のりを歩き始めた。そこに千里Aから声が掛かる。
 
『きーちゃん、音楽関係の用事で出かけないといけないのよ。今どこに居る?』
『用賀駅を降りてアパートに向かう途中』
『こちらはごはん作り終えて、今桃香がお風呂入っている所。ちょっとチェンジしてくれない?』
『それって私が御飯食べていの?』
『もちろん』
 
『じゃ入れ替えるけど、桃香とセックスということになる前に帰ってきてよ。私、女の子とHする趣味無いから』
『たぶん間に合うんじゃないかなあ。桃香には取り敢えず水割りでも飲ませたら今夜はダウンしてセックスまで行かない可能性もある』
『飲ませてみる』
 

それで千里Aは自分が用賀駅の近くにいることを認識する。
 
じゃ千里ちゃん、よろしくね〜。
 
と心の中で言って千里Aは方向転換して用賀駅に向かった。東急で渋谷まで出てから乗り換えよう。しかし結局自分自身は晩御飯を食べてない!お腹空いた〜。コンビニで何か買っていこう。
 
ということでこの日千里はたくさん料理を作ったのに自分では食べそびれたのであった。
 

千里はその晩は新島さんから
「せっかく来たついでに今月の分、これだけ作曲お願い」
と言われてタイトルと歌唱者のリストをもらい、簡単な打ち合わせもする。それで結局夜11時まで掛かってしまった。なお桃香は実際御飯を食べたらお酒を飲ませるまでもなくそのまま眠ってしまったらしい。よほど疲れたのだろう。それで千里Bは桃香を放置してミラを運転し用賀のアパートに戻ったということであった。
 
千里Aは新島さんのマンションを出ると渋谷に出て、同駅を0:01の東急で用賀駅に帰還。自宅まで歩いて5分の道のりを走って2分ほどで到着する。シャワーを浴びてからスヤスヤと寝ている千里Bを吸収して、自分も寝た。
 
千里Bを吸収してから感じる。
 
これって2人分疲れてるじゃん!
 
『2人分仕事してんだから当たり前じゃん』
と呆れたように《こうちゃん》が言った。
 
 
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