【春演】(2)
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(C)Eriko Kawaguchi 2015-07-25
このゴールデンウィーク、まともに休めたのは大企業に勤めている桃香だけであった。千里が仕事で会社に泊まり込んでいる様子なので、桃香はひとりで帰省しようと思ったものの、出遅れたので飛行機も新幹線も満席である。それで車を運転して帰ろうかとも思ったものの、千里は「今の時期に車で移動なんて渋滞にハマりに行くようなもの」と言うし、テレビを見ていたら「○○トンネルで30km渋滞、○○ICを先頭に50km渋滞」などというニュースが流れている。
こらあかん!
ということで桃香は普通列車乗り継ぎで高岡まで帰ろうと考えた。千里が「それもしんどいよ〜」などと言うものの「何とかなるだろう」と言い桃香は旅行鞄とお土産の「ひよこ」を持って経堂駅まで行った。時計を見ると8:23であった。
ちょうど小田急線・新宿行きの急行が来たので乗るが、これはそんなに混んでいなかった。それで、なーんだ、ゴールデンウィークといっても路線によってはそんなに混んでないのでは・・・などと思ったのだが、新宿駅は凄い人であった。
なかなか思う方向に行けないのを何とか埼京線の乗り場まで行き、川越行きに乗る。赤羽で高崎行きの快速に乗り換え、1時間半の行程で11時すぎに高崎駅に着いた。信越本線の時刻表を見る。桃香は取り敢えず長野方面に行きたかったのだが、なぜか列車がみな横川行きである。それで仕方なく次の横川行きに乗った。
11:53に横川に到着。とりあえず「峠の釜めし」を自分の分と母の分と2個買い、それで長野方面の時刻を見ようとしたのだが・・・・
「なんで長野方面に行く電車が無いんだ?」
それで駅員さんに訊く。
「新幹線が長野まで通ったんで、横川−軽井沢間の信越本線は廃止されたんですよ。もう18年ほど前ですが」
「え〜!? じゃ長野に行くにはどうすればいいんですか?」
「長野に行かれる方はみなさん高崎から新幹線に乗るのですが、ここからなら軽井沢までバスで行って下さい」
それで仕方なく駅前からバスに乗る。12:10のJRバスに乗り軽井沢駅前まで行く。そこから13:05の《しなの鉄道》に乗り長野で乗り換えて15:58に妙高高原に到着。ここから今度は《えちごトキめき鉄道》に乗って、直江津乗換で泊まで行く。更にここから《あいの風とやま鉄道》に乗り、富山乗換で20:10高岡着。ここからJR氷見線に乗って伏木駅に到着したのは20:34であった。
■小田急
経堂8:34→8:47新宿
■JR東日本
新宿9:22→9:36赤羽9:41→11:13高崎11:20→11:53横川
■JRバス
横川12:10→12:44軽井沢
■しなの鉄道
軽井沢13:05→14:50長野15:17→15:58妙高高原
■えちごトキめき鉄道
妙高高原16:04→16:55直江津17:33→18:48泊
■あいの風とやま鉄道
泊19:03→19:48富山19:53→20:10高岡
■JR西日本
高岡20:22→20:34伏木
実に7つの会社線を乗り継いで12時間掛けての帰宅であった。
なお、桃香が使ったルート以外に、もうひとつ3月13日まで《特急はくたか》が走っていたルート通りに六日町まで行って北越急行を使う手もある。その場合は小田急/JR東/北越急行/えちごトキめき/あいの風とやま/JR西、と6つの会社線で済むし、実はそちらの方が早く到着することができた。
経堂8:34(小田急)8:47新宿9:22(JR東)9:36赤羽9:41→11:13高崎11:33→12:38水上13:42→14:42六日町14:49(北越急行)15:51犀潟16:02(JR東)16:11直江津16:12(えちごトキめき鉄道)17:26泊17:28(あいの風とやま鉄道)18:14富山18:25→18:43高岡19:03(JR西)19:16伏木
更にここで北越急行を使わずに長岡(正確にはひとつ手前の宮内)までそのままJR線に乗っていく手もある。この場合会社線は5つで済むが到着は桃香のルートと同じになる。
経堂8:34(小田急)8:47新宿9:22(JR東)9:36赤羽9:41→11:13高崎11:33→12:38水上13:42→15:31宮内15:43→17:05直江津17:33(えちごトキめき鉄道)18:48泊19:03(あいの風とやま鉄道)19:48富山19:53→20:10高岡20:22(JR西)20:34伏木
「いや疲れた」
と桃香は言ったが
「これが金沢方面まで行くのなら最後はJR西日本じゃなくて《IRいしかわ鉄道》に乗ることになっていたね」
「大変だ! 新幹線ができたのはいいけど、ローカル線が細切れになりすぎだよ」
「うん。利便性を著しく落としていると思うんだけどね」
桃香が横川で買って来た「峠の釜めし」を一緒に食べる。
「普通の炊き込み御飯という気がする」
と朋子。
「まあここは記念碑的なものだから。碓氷峠は一度千里の運転する車の助手席で越えたこともあるが、目が回った」
と桃香。
「ああ、そういう車には乗りたくない」
「あれはドライバーは割と平気らしい。それで次は私に運転させろと言ったが千里は嫌だと言った」
「あはは」
「だけどあんたと2人だけのゴールデンウィークなんて、いつ以来かね」
「うーん・・・。大学1年の時も2年の時もバイトしてて帰省しなかったから、高校の時以来かな。まあたまには親孝行しようか」
「・・・・・」
「どうしたの?」
「あんた何か悪いことしたんじゃないよね?」
「なんで〜〜?」
「あんたが親孝行だなんて凄く変」
「変と言われても」
「誰か女の子を妊娠させたり・・・・はしないか」
「さすがに私には精子は無い」
「いや、あんたなら分からん。妊娠させないまでも、向こうのお父さんが娘を傷物にした責任、どう取ってくれる?とか怒鳴り込んでくるとか」
「うーん・・・・。セックスする時はちゃんとお互い同意の上でしているつもりだけどなあ。無理矢理やっちゃったのは千里くらいだよ」
「・・・・それどっちがどっちに入れた訳?」
「大学2年の時一度だけ千里が私に入れてくれた。その後、私が何度か夜中に千里を襲ったことがあるんだけど、千里のちんちんはふにゃふにゃしていて、どうしても私のに入れることができなかったんだよ。仕方ないから私が千里に入れた。だから無理矢理結合したのは全部私が千里に入れたパターンだ」
「うーん・・・」
「千里は優しいから自分がレイプされたなんてことは人には言わずに、自分が私と自主的にセックスしたみたいな言い方をしていたから、聞いた人は千里がまだ持っている男性器で私の女性器と結合したのだろうと思ったと思う。でも色々考えてみると、千里はたぶん私と出会った時、本物のちんちんは既に取ってしまっていたんじゃないかと思う。だから、一度だけ千里が私に入れてくれた時もあれは私が使ってるのと同様の作り物だったのではという気がするんだよね」
「でもあんた千里ちゃんの性転換手術に付き添って行ったよね?」
「うん。そこら辺がどうにも謎なのだよ。こないだこんなものが出てきた」
と言って桃香は1枚のレシートを見せる。
「ジュエリーショップ・コロン?」
「あの千里の性転換手術でタイに行った時、青葉にイヤリングをお土産に買ってきた。その時のレシートが唐突に出てきたんだよ」
「ああ、日星月のイヤリングね」
「で日付を見てみ」
「July 15, 2006?」
「不思議だよなあ。あれは2012年だったはずなのに。お店のレジの日付がくるってたのかも知れないけどね」
翌日3日は2人で一緒にスーパー銭湯に行ってきてから夕食は桃香が作った。カレーライスを作ったのだが・・・・・
「ごはんがちゃんと炊けてない。これメッコ飯(芯が残った御飯)になってる。あんた圧力弁を外してるじゃん」
「あれ〜〜?」
「じゃがいもが生煮え。ちょっとこれ再加熱するね」
「ごめーん」
「それにこれ辛すぎる。あんたカレーパウダー入れすぎたのでは?」
「いや千里がいつも市販のカレールーに加えて香り付けと言ってパウダーとかガラムマサラとか入れているからなあと思ってやってみたのだけど」
「入れすぎると超辛口になっちゃうから」
朋子が頑張ってリカバーしたのだが、カレーの方は牛乳を加えたりして何とかなったものの、御飯の方はどうにもリカバーできなかった。
桃香が千里に電話してみたら、千里は「いったん冷やしてから水を充分吸わせた上で少し日本酒を加えて再度炊飯してみて」と言ったので、やってみたものの、それでもあまり改善されなかった。
「まあ今日はこれで食べよう」
と朋子も言って食べるものの
「美味しくない」
と桃香。
「あんたお嫁さんにはなれないみたい」
「まあ行く気もないけどね」
「いつも千里ちゃんが御飯作ってるの?」
「うん。自分が帰って来られなかった時のために常に冷凍ストックがあるから食べるものが無い時はそれを解凍して食べている」
「千里ちゃんがもし他の男の人と結婚したら、あんた餓死するのでは?」
「その時はひたすら外食だな」
ゴールデンウィークが終わって普段の日常が戻って来る。青葉は部活と受験勉強に励んでいたし、桃香も何とか頑張って毎日スカートを穿いてお茶の水の会社でOLをしていたし、千里Aは日々バスケの練習で汗を流しながらも音楽制作活動をしていた。
「私もう辞めたい」
と千里Bが文句を言っている。
「まあ、そう言わずにせめて1年くらい勤めてくれると嬉しいなあ。短期間で辞めると後輩に影響があるから」
「ほんとに辛いんだよ。青龍代わらない?」
と千里B。
「俺はスカート穿いて女子社員を演じるのは嫌だ」
と《せいちゃん》。
「じゃ男に性転換しましたと言うってのは?」
と千里B。
「それは勘弁して〜」
と千里Aは言った。
「じゃさ、システムの設計とかプログラミングは私や青龍でやるから、千里、営業的な打ち合わせとかは自分でやってくれない?」
と千里B(きーちゃん)が提案する。
「私、コンピュータは素人だよ」
と千里。
「実は営業的な打ち合わせは素人の方がいいんだ」
「へー!」
「だってコンピュータを使う側は素人だもん」
「なるほどー」
「確かにメーカーの営業とか、コンピュータのこと本当に分かってない奴がいてイライラするよな」
と《せいちゃん》も言っている。
「専門家みたいな顔しているだけで相手は結構信用する」
と《きーちゃん》。
「うん。逆に知識が豊富でも自信無さそうな感じのSEは信用してもらえない」
と《せいちゃん》。
「要するにハッタリか」
と千里が言うと
「営業なんて9割がハッタリと演技力だよ」
と《せいちゃん》は言う。
「それに営業的な仕事は、システムの仕事とは頭の中の全然別の部分を使うんだよ」
と《きーちゃん》。
「ふーん。じゃ難しい技術的な話が出たら教えてよ」
「もちろん」
そういう訳で千里は営業的なレベルの打ち合わせでは「SEを演じる」ことになるのである。
結果的にJソフトに2015年春から2019年春まで(名古屋に行っていた2018.05-09を除く)勤めていた「千里」は、千里A(本人)、千里B(きーちゃん)、千里C(せいちゃん:結局女装させられたが、他の女子社員と一緒に着替えたり女子トイレを使うのを物凄く恥ずかしかっていた)が状況に応じて交代で演じていたのである(お芝居で言えばトリプルキャスト)。これは実は千里本人が巫女の力を失っていた時期(2017.08-2019.04)も、本人が意識しないまま継続していた。
そういう訳で2017.07に川島信次が「一目惚れ」してしまったのは間違い無く千里A本人なのである。もっとも元々男性同性愛の傾向がある信次は女装の千里C(せいちゃん)にも、かなりドキドキしていたようである。
2015年5月15日(金)。
千里Aは珍しくナチュラルメイクした上で、17時前まで大田区内のカラオケ屋さんで楽曲のまとめ作業をしていた。この日はレッドインパルスの練習・W大学での練習ともにお休みにさせてもらっている。
千里Bから『そろそろ代わろう』と言われてパソコンをハイバネートさせ、荷物をまとめて精算しカラオケ屋さんを出る。あまり目立たないように路地に入ってから「OK」と言うと、次の瞬間、Jソフトの社内に居た。
画面に何かのソースコードが表示されているが、ちんぷんかんぷんだ。このワークベンチの基本的な操作だけは教えられていたので念のためメニューから全保存を選んだ上で閉じておく。1年先輩の竹下さんが応接室の片付けに立ったのを見たので、千里はお盆を持って社内のテーブルに乗っている茶碗の回収を始めた。
さりげなく専務を見ると何かを考えている風。これは絶対に目を合わせてはいけない状況である。誰かを捜している雰囲気。ちょっとやばいな。千里は《こうちゃん》に頼んで、矢島さんの机の上に乗っていたマーカーを落としてもらった。それを拾うのに矢島さんが席を立つ。すると専務が
「あ、矢島君、ちょっと」
と声を掛ける。矢島さんが専務の机の所に行き、何か話している。
よしよし。
千里が茶碗の回収をしているのを見て石橋さんもその作業に合流する。ふたりで茶碗を洗い場に持っていき洗って拭いて食器棚に片付けた。17:18。まだ少し時間があるな。千里は一度トイレに行ってきた後でマシン室に行き、壁の棚に立っているSQLのマニュアルを取り出すと、何かを調べるかのようにめくって見る。内容は全然分からん!
『だいたいSQLって何だったっけ?』
などと思うと、《せいちゃん》が
『Structured Query Language。RDBを操作する言語だよ』
と答える。
『RDBってパソコンとハードディスクとかをつなぐケーブルのことだっけ?』
と千里が言うと《せいちゃん》は呆れている様子。それはUSBである。
マニュアルを閉じて元のところに戻してから自分の席に戻ると、自分の机の上の端末で適当な電子マニュアルを開いて何かを調べているふりをする。さりげなく靴をローファーからウォーキングシューズに履き替える。
17:27。机の上に乗っている仕様書を棚に返してくる。その時、石橋さんが千里に声を掛けた。
「村山さん、済みません。ここ教えてくれません? どうしても文法エラーになるんですよ」
え〜?そんなの分からないよぉ。せいちゃーん!
石橋さんが訊いてきた内容を《せいちゃん》に教えてもらって、さも分かっていたふうに教えてあげる。
「なるほどー! そうだったのか」
と彼女が納得した所で千里は自分の席に戻る。せいちゃん、サンキュ。(なお、今《きーちゃん》は千里Aの代わりにバスケの練習と音楽の作業に使った荷物を持って羽田に向かっている最中である)
17:30。
時計の秒表示が00になった瞬間、千里は
「失礼しまーす」
とみんなに声を掛けると荷物を持ち、タイムカードの所に行って退社スタンプを押す。そしてオフィスを出ると走り出した。
走りやすいようにバッグは背中に背負う。
階段を3階から1階まで駆け下りる。更にビルの出口を出ると全力疾走する。54秒で駅の改札口に到達する。パスモをタッチして中に飛び込む。人の居る場所を避けて細かい切り返しで走り抜ける。敵が何人いようともそれを抜いてゴール目指して走り抜けるバスケのわざがこういう所で役立つ。全く休まずに階段を駆け上る。
電車が動いているのが視界に入る。
嘘!?間に合わなかった?
と思ったものの、それは電車が到着する所であった。千里が階段を駆け上がった時、電車が停止してドアが開く。千里は待っている人の列に並んで渋谷行き急行電車に乗り込んだ。
青葉は6時間目が終わってすぐ母に学校まで車で迎えに来てもらい、富山空港まで行った。
「気をつけてね」
「ありがとう」
「あ、これ千里ちゃんへのお土産。機内でもホテルででも一緒に食べるといいよ」
と言ってお菓子を言付かる。
「ありがとう」
と言って、青葉は17:40発の羽田行きANA320便に搭乗した。
一方千里Aは18:24に渋谷・品川経由で京急・羽田空港駅に到着した。出発ロビーで先に到着している千里Bと合流。航空券は千里Bが持っていて、既にチェックインの手続きをしてくれている。取り敢えずBが荷物を見ていてくれている間にAはトイレに行って、汗を掻いた服を着替え、ボディシートで身体を拭きメイクも落とした。
荷物の入れ替えをする。沖縄行きのための着替えや巫女服などはBが持って来てくれている(元々は朝バスケットの練習に行く千里Aが持って出た荷物である)。会社用の名刺や勤務用の手帳、オフィス用の化粧品類、またバスケの道具や午前中の練習で汗を掻いて着替えた服、会社からのダッシュで汗を掻いた服、などは、Bがアパートに持ち帰ることにする。パソコンとMIDIキーボードは持ち歩いていないと雨宮先生からお叱りを受けるので預け用の荷物に入れる。
「じゃ後はよろしく〜」
と言って別れた。それで千里Bは荷物を持って京急の駅の方に行く。アパートに戻り、着替えの洗濯などをする予定である。
千里Aが航空券を見せて荷物を預けた上で、しばらく出発ロビーで待っていたらジャスト19時に、★★レコードの氷川主任がやってくる。
「おはようございます、氷川さん」
「おはようございます、醍醐先生。これ松前からです」
と言って彼女はお菓子の紙袋と現金の入った分厚い封筒を差し出す。
「それとこちらはケイ先生から」
ともうひとつお菓子を渡す。
「お疲れ様です。じゃお預かりしますね」
と言って千里は受け取り、中の金額を確認した上で予め書いておいた預り証を氷川さんに渡し、セキュリティの方に向かった。
青葉が乗っている飛行機は18:50に羽田に着陸した。トランジットで20:00の那覇行きANA479便に乗り継ぐ。ANA同士なので余裕の乗り継ぎである。この那覇行きに羽田から千里が搭乗し、ふたりは並びの席で沖縄までの旅をした。
「これお母ちゃんからのお土産。ふたりで食べてって」
「ありがと。青葉、晩御飯は?」
「一応お母ちゃんがコンビニおにぎり用意してくれたの、羽田までの機内で食べたけど」
「じゃ空港の売店で買ったお弁当食べない? 私は会社終わってから羽田に飛んできたから、何も食べてなくてお腹空いてお腹空いて」
「今日は定時で退社したのね?」
「そうそう。さりげなく茶碗を洗いに行ったり、トイレに行ったり資料を調べたりして上司に声を掛けられないように気をつけておいて、17時半になったらタイムスタンプ押してそのまま飛び出した」
「なるほどー」
「だから二子玉川を17:33の急行に乗れたんだよ」
青葉はびっくりする。
「ちー姉の会社って駅のそばなの?」
「300mくらい距離はあるかな。階段を駆け下りてひたすら走る」
「制服とかは?」
「あるけど、事務の子以外はけっこう私服で勤務してる。今日はもう最初からジーンズ穿いてたし靴も10分前にウォーキングシューズに履き換えてたから」
「それにしてもよく3分で到達するね!」
「少々の荷物があっても300mは1分以内で走れるし。駅の改札はパスモで通れるからね」
「すごーい」
「青葉だって鞄抱えてセーラー服着ててもそのくらいは走れるでしょ?」
「うん、多分」
とは言いながらもちょっと不安がある。
「だから18時半前に空港の駅までは到達したんだよ。もっともそれからチェックインして荷物預けてセキュリティ通ってとしていたら19:10くらいになったけどね。なにせ夕方の空港は混んでるから」
「だよねー。でも会社から空港まで1時間で行けるって凄い!」
しかし青葉は千里が会社から階段を駆け下り、300mの距離をほぼ全力疾走した後更に駅の階段を駆け上がったという話を凄いと思った。
「そういうのってやはりバスケで鍛えてるからできるのかな?」
「まあバスケは40分間ひたすら走り回るからね。青葉だって毎朝数km走っているんでしょ?」
「うん。でも最近某所で自分の体力不足を痛感した」
「ふーん。それってきっといつもマイペースで走っているからかもね。人間って刺激が無いと、つい安易な方向に流れてしまうんだよ。私もバスケの練習をひとりでやってたり、あるいは自分より下のレベルの人とだけやってたら、どうしても力が衰えていく。今回ユニバーシアード代表のメンツと一緒に久しぶりに練習してさ、やはり自分は弱いということを認識した。だから今鍛え直しているんだよ」
「私もそれでこないだから水泳部の朝練に参加させてもらってるんだ」
「へー!」
「だからジョギングは朝じゃなくて合唱軽音部の部活から帰ってきてから走ることにしたんだよ」
「青葉も頑張ってるね。私も負けずに頑張らなくちゃ」
「うん」
青葉は笑顔で返事した。
「でも木ノ下先生って結局今何してるんだっけ?」
と青葉は千里に訊く。
「世間では色々な噂が飛び交っているよね。紅型(びんがた)職人の弟子になってるとか、三線(さんしん)作りの弟子になってるとか、ユタの修行をしているとか、青いチューリップ作りに取り組んでいるとか」
青いチューリップは青いバラ・青いカーネーションなどと同様に、作ることが不可能なものとして知られ、それゆえにその製作に一生を掛けている職人さんたちが存在する。
「あの年齢でユタの修行は無いと思うけど」
「うん。あれは若い頃に、ある異常な精神状態を体験した人だけがなれる特殊なもののようだよね」
「ユタに限らず、霊能者には一度生死の境を彷徨ったことのある人ってわりと多いよ」
「どうもそんな感じだよね。でもまあ今回の件では、私も青葉も変な予断を持たずに直接本人を見てもらった方がいいのではというのが雨宮先生の話でね」
「でもなぜ雨宮先生の所に」
「木ノ下さん本人は別に誰かに相談しなくてもいいと言っているらしいけど、奥さんがもう耐えられない、このままなら離婚して本土に帰るとか言っているということで、木ノ下さんの弟の藤吉(ふじよし)さんから雨宮先生に相談があって、それで青葉に頼むという話になったみたい」
「藤吉先生と雨宮先生ってつながりがあるんだ?」
「まあ、その件については、表の世界にいる青葉や冬子は知らなくていいよ」
「うむむ」
「ところでこないだ政子さんから電話があってさ」
と青葉はその件を話しておく。
「神社の招き猫の狛犬がどうのと、なんか色々話して切ってしまうから、私も訳が分からなくて」
「政子は韻文の世界に生きてるから、あの子の話を理解できる人は少ないね」
「仕方ないから冬子さんに電話して訊いてみたんだけど」
「まあそれが正解」
「結局、千葉の玉依姫神社の鳥居の所に狛犬か何か設置したいということらしいんだよ」
「ふーん」
「祠のすぐ手前の所に招き猫のペアが居るから、鳥居の所にも何かのペアをと。でも狛犬じゃ面白くないから、何か変わったものが設置できないかと」
「冬子と政子の銅像とか?」
「え〜〜〜!?」
「冗談だけど」
「うん。そういうのはやめよう」
「政子は面白がるかも知れないけどね」
「頭痛い」
青葉も千里も疲れているので飛行機の中では大半寝ていたようである。
22:35。飛行機は那覇空港に到着する。その日は那覇市内のビジネスホテルに泊まった。
青葉は冬子に呼ばれて沖縄に来ると、豪華なホテルのふかふかベッドに寝ることになるのだが、もともと貧乏性の青葉には実はそういうホテルは落ち着かない。今回千里と泊まったような安ホテル(2人で8500円である)の方が実は安心して眠られる感覚があった。
青葉が夜中ふと目を覚ますと、千里は起きて部屋のテーブルを使ってパソコンとMIDIキーボードでどうも楽曲のとりまとめ作業をしているようだ。ヘッドホンもつけて聴いては調整し聴いては調整している。リズムを取るのに足をトントントントンと床に打っている。
青葉は千里を邪魔しないように目をつぶった。そして思った。
すごーい。ちー姉ってこんな時間を使って作曲までやっているのか。だから、ソフトハウスに勤めつつバスケもやりながら作曲家もできるのかと、改めて千里に尊敬の念を持った。やはり自分ってまだまだ全てにおいてアマであり、また「あまちゃん」だったんだろうなというのを認識した。それであそこの箱に「じぇじぇじぇ」などと書いてあったのかなとも青葉は思ったが、それは多分考えすぎである。
しかし実際今回の沖縄での仕事は色々な意味で青葉にとって大きな転換点となったのであった。
翌朝、ホテルで朝食のバイキングを食べたが、千里から言われる。
「青葉にしては食事の量が多い」
「うん。私、やはり体重が無さ過ぎるというのも認識したんだよ。体力が無いひとつの原因は体重が少なすぎるのもあるかと思って。だからもっと食べようと思って」
「そうだね。女性は概して持久力があると言われるんだけど、それはやはり皮下脂肪を蓄えているから。赤ちゃんを育てるためには、万一食料が充分に取れなかった時に使えるよう常に備蓄エネルギーが求められる。私も中学の頃までは痩せすぎと言われていたけど、バスケを本格的にやるようになってから、随分お肉を付けて体重も増えたんだよね」
と千里は言う。
「ちー姉って今体重は?」
「身長168cm, 体重65kg」
「やはり結構あるね」
「でも実は脂肪が少なすぎるんだよ。私の身体ってほとんど筋肉だから。青葉はそれ体重47-48kgくらいしかないでしょ?」
「うん」
「青葉の身長なら57-58kg欲しいし、60kgあってもいいと思う。私みたいに筋肉優先であるなら」
「こないだから何人かからそれ言われて、頑張って食べている所」
「私も高校入った頃って体重は50kgくらいしか無かったんだよ。正直可愛い女の子でありたいと思って食事を控えて体重を抑えていたのもある。青葉も実はそれ無い?」
「うん。まあ」
「でもスポーツ選手としてはそれではダメだと思ったから可愛い女の子という路線は諦めて、頑張って身体を鍛えて、2年生でインターハイに行った頃が57kg, 3年生の秋にアジア選手権に行った頃が60kgかな。その1年間で増えた3kgはほぼ筋肉だと思う」
「わあ・・・」
「だって3年生の春から秋に掛けてはひたすら代表合宿やってたから、いやでも鍛えられるよ。あの時は勉強する時間も無かったから」
「凄そう」
「でも大学1年の時、結構サボってたからね。少し贅肉が付いて65kgくらいになってたのを1年生の年末頃から再度鍛えなおして、桃香と同棲し始めた頃はいったん身体が引き締まって62kgくらいまで落ちていた。そのあと2012年に日本代表候補をやっていた時は64kgくらいまで増えて。その後またバスケを休んでた1年の間に贅肉がついて67kgくらいになったけど、2013年秋から鍛え直して引き締まって今はまた65kgくらい」
「サボってる間には体重が増えるけど、鍛えている時は経る時と増える時があるんだね?」
「そうそう。トレーニングしていると贅肉は落ちるけど筋肉は付くんだよ」
「そっかー」
ふたりとも巫女服に着替えてからホテルを出る。
「この服装で沖縄を歩くとなんか沖縄に殴り込みにでも来た気分」
と青葉が言う。
「本土のやくざが沖縄に進出しにきたって図かな」
と千里。
近くのレンタカー屋さんでライフを借りた。沖縄はゆいレールで行ける範囲外に行く場合、極端に交通の便が悪くなる。千里が運転して恩納(おんな)村にある木ノ下先生の自宅に向かった。
「私初めて恩納村に来た時は、けっこうギクっとした」
と千里が言う。
「私たちって性別に関する単語に敏感だもんね」
「そうそう」
「沖縄の言葉で男とか女って何て言うんだっけ?」
と青葉が半ば独り言のように言うと、千里は一瞬後ろに意識をやった後
「男はウィキガ、女はウィナグだって」
と言った。
「誰に訊いたの〜?」
「秘密。でも青葉、なんか沖縄の子たちを連れてるね」
「あ、分かる?」
「昨日飛行機に乗った時には何か普段と違うのが居るなと思ってたけど、那覇に着いてから活性化したみたいだったから、あ、きっと沖縄の子なんだと思ってた。キジムナーかな、いや、これはシーサー?」
「そう。私は最初狛犬ちゃんかと思ったんだけど、シーサーの兄弟みたい。東京の某所で迷子になっていたのを拾ったんだよ」
「へー。あ、オスメスじゃなくて両方男の子なの?」
「うん。この子たちどちらも男の子みたい」
まさかちー姉のアパートで拾ったとは言えないし。でもちー姉は私があの箱を開けてみたことは分かったのだろうか?
国道から分岐して県道、更に村道であろうか、細い道を走っていくとサトウキビ畑が途切れた所に幅300-400m, 奥行き100mくらい、最近掘り返したようで土の地面が出ている一角があった。
「あれは何か建てるのかな?」
「何かの工場でも建てるのか、あるいはホテルか何かか」
「あれ?でもあそこ」
「あそこだけサトウキビ畑が残っているね」
広く掘り返された地面が続くエリアの中央付近に1箇所、恐らく20m x 40m 程度の広さの部分だけサトウキビ畑が残っているのである。
「買収に応じずにあそこの地主さんだけ頑張っているのでは」
「なんかこじれたのかもね」
やがて木ノ下先生の御自宅に到着する。家の前に車を駐める。
「ニライ地区別荘地開発計画反対」
という大きな横断幕が掲げられている。それを見て青葉はハッとした。ニライって、このシーサーちゃんたちが居た所と言ってた場所では?
「ね、この別荘地って・・・」
「今見た土が掘り返されていた所かもね」
千里がドアホンを鳴らす。
「はい」
という中年の女性の声。
「おはようございます。藤吉真澄先生から紹介されて参った鴨乃清見と申します」
と千里が名乗る。
「ようこそいらっしゃいました」
と言って笑顔でふたりを通してくれた。どうも木ノ下先生の奥さんのようである。座敷に通され、お茶を頂く。
「そうそう。これは★★レコードの松前社長から言付かって参りました」
と言って、銀座の高級洋菓子店(2015年6月閉店)のマロングラッセを渡す。
「まあまあ、済みません。この店のマロングラッセ、あの人大好きなんですよ。今呼んで参ります。でも驚かないで下さいね」
と奥さんは言って奥に下がる。何だ?何だ?
それで奥さんに連れられて木ノ下先生が出てきたのだが、驚かないで下さいねと事前に言われてなかったら、正直驚きの表情を出してしまったいたかも知れないと青葉は後で思った。
「あんたら、(藤吉)真澄の知り合い?」
と、明らかに女性用の真っ白い服を着て、長い髪に白い鉢巻きを付け、濃厚なお化粧をした木ノ下先生は言った。
「お初にお目に掛かります。鴨乃清見と申します。こちらは私の妹で鈴蘭杏梨絵斗あるいは大宮万葉の名前で活動しております」
と千里はにこやかに笑顔で言って《作曲家・鴨乃清見》の名刺を出した。青葉も《作曲家・大宮万葉》《作曲家・鈴蘭杏梨絵斗》という2枚の名刺を出す。どちらも政子が作って渡してくれたものだ。
「鴨乃清見さんか! あんたなかなかマスコミに露出しないよね?」
「この3月まで学生でしたので。本業はむしろ私はバスケット選手なんですよ」
「へー!」
ふーん。ちー姉はバスケット選手を名乗るのか。ソフトウェア技術者じゃなくて、と青葉は思った。
「ですから、作曲家としての活動は年間数曲しかないんですけどね」
「いや、その数曲が珠玉の名作だと思う。あんたとなら話してもいいかな。鈴蘭杏梨絵斗というのも聞いたことある。確か、槇原愛の曲を書いているね」
「はい。書かせて頂いております。私も高校生なもので、あまり表には出ておりません」
「へー。でもあんたたち、巫女さんみたいな服を着ているし、巫女なの?」
「はい。私は中学生の時から約12年ほど巫女をしています。妹は物心ついた頃からの巫女です」
「凄いね!」
「作曲の方の仕事では私は雨宮先生の弟子、妹はケイ先生の弟子なんですよ。それで雨宮先生が藤吉先生から相談されて、私たちが来ることになったんです。私はまあ大したことないのですが、この妹は2年前に亡くなった高野山の瞬嶽大僧正の直弟子でして」
「瞬嶽さんのか!」
と木ノ下さんは言った。
正直、青葉は瞬嶽などという、その筋では有名ではあるものの一般の人にはほとんど知られていない名前はどんなものだろうと思ったのだが、木ノ下先生は知っていたようである。
「そういうあんたたちになら話してもいいかな」
と言って木ノ下先生は半年ほど前から起きていた出来事を青葉たちに話してくれた。
「ここ数年来、この近辺では大規模なリゾート開発が続いているんだよ。私などもよそ者だからあまり大きなこと言えないんだけど、元々基地があった所の再開発とかはまあいいと思うんだ。しかしそれに合わせて便乗したような開発もかなりあってさ」
と木ノ下先生は語り出す。
「そんな中でこの近くのニライ地区という所にあった廃校の跡地に別荘地を作るという計画が浮上して、住民が気がついた時には、その廃校の土地だけでなく周囲のサトウキビ畑とかも、大量に買収されていたんだよ。買収は様々な名義で行われていたんで、誰も気づかなかったんだ」
「ありがちですね」
「ここに来る直前、土が掘り返された所がありました」
「うん。そこなんだよ」
「1ヶ所だけ畑が残ってましたが」
「そうそう。玉城さんが頑張ってるんだ。死んでも売らないと言ってる」
「なるほど」
「それでその廃校のそばに古いウタキがあってさ、そのウタキは管理していたノロさんが2年前に亡くなったんだけど、相続した甥が東京の方で事業をしていたのが失敗して数億円の借金をしていて、その借金のカタに取られてしまって、地元の住民は猛反発したんだけど、業者が入ってこの2月にブルドーザー入れて、建物丸ごと潰して更地にしてしまったんだよ。あの中には貴重な琉球王朝時代の板絵や祭具もあったのに」
「乱暴ですね」
と青葉は思わず言った。
「そのブルドーザー入れたのも完璧な不意打ちで。住民との話し合いで工事は春になるまで凍結するという同意をしていたんだよ。ところがあいつら2月4日の早朝、まだ誰も周囲の住民が起きていない内に土木機械を入れて崩してしまった。2月4日は立春だからもう春だというのが向こうの言い分で」
「うーん。それはやはり明確な日付を決めていなかったのも問題だと思います」
と千里が言う。
「うん。住民の間にもそういう意見は多かった」
と木ノ下先生。
「それにしてもあくどいですけどね」
と千里。
「だろ?」
「先生の御衣装はノロの衣装とお見受けしました」
「そうなんだ。実はそのウタキが崩された2月4日の晩に、2年前に亡くなったノロの霊が僕の所に降りてね。お前が自分の代わりにあのウタキを守れというお告げがあったんだ。それで僕はノロになることにした」
民間の霊能者ユタと違い、本土では神社の宮司に相当するノロは、きちんと組織化されていたものなので、正式の儀式にのっとって継承が行われるのが本来なのだが、現在そういう意味での正規のノロはほとんど存在しないと言われている。強い霊感を持つ人などがノロを非公式に継承している例もある。但し。。。
「それで女性の格好をなさっているんですね?」
と千里が訊く。
「そうそう。ノロって女しかなれないんだよ。だから僕は女にならなければならないと思った。それで女物の下着を買ってきて、ずっとつけてるし、髪も元々けっこう伸ばし放題になっていたんだけど、2月4日以降一度も切ってない。お化粧も頑張って覚えた」
なるほど。それでこういう格好をしていた訳か。
「ブラジャーもつけてバストパッド入れてるけど、これなんかいいね。癖になりそう」
「ああ、けっこう男性でブラジャーにはまる人いるんですよ」
「うんうん。いるらしいね。男でブラジャーつけるなんて変態じゃんと思ってたけど、締め付けられ感がいいんだよ。それで足のムダ毛もちゃんと剃ってるし、ヒゲはレーザー脱毛したし」
「徹底してますね!」
「いや、足の毛はまだ数日に1回でいいけど、ヒゲは毎日剃らざるを得ない。しかしヒゲを剃るといやでも自分が男であることを思い出す。だからそれを考えなくていいようにレーザー脱毛しちゃったんだよ」
「なるほどー」
「トイレもずっと座ってしてる。もういっそ去勢しようかとも思ったんだけど、女房に反対された」
「先生まだ現役だったんですか?」
「実はもう10年くらい前からもう役立たずなんだよ。どうせ立たないものなら取ってもいいかなとも思ったんだけどね。前立腺肥大対策にもなるし」
「先生、おそらくノロをするのは一時的なものだと思います。去勢したら後で悔やみますよ」
と千里が笑顔で言う。
「一時的なもので済む?」
「ええ。後継者のノロが遠くない内に現れると思います」
「そうか。男の身の僕がそもそも代行してていいのかという疑問はあったんだけどね。でも週に2回は僕は完璧に神がかり状態になるんだよ」
「なるほど」
青葉はその神がかりというのが、奥さんが「もう我慢できない」と言っていた内容かなと推測した。
「神がかりになった時の言葉は女房が記録してくれているんだけど、そのお告げに従って、2月末には住民数人と一緒に、那覇市内のゴミ処理場に行った。それでそこでウタキの拝所にあったと思われる祭具や板絵などの破片を発見した。処理場の人と交渉して、それを買い取って持ち帰った。
「なるほど」
「それを地元の女子高生・女子大生数人でずっと復元作業しているんだよ。君たちもちょっと見てくれない?」
「はい、拝見します」
それで木ノ下先生に案内されて奥の部屋に行く。女子高生かなという感じの子が5人、作業をしていた。元々ウタキの奥部というのは男子禁制の世界である。それでこの作業も女性だけのチームでやっているのだという話であった。
青葉はその時、部屋の片隅に白と黄色のシーサーがあるのに気づいた。
「そこのシーサーもウタキにあったんですか?」
「そうそう。ウタキの入口付近にあったんだよ。このウタキにあるものの中では新しい部類で、1990年頃に奉納されたものらしい」
「へー」
青葉は自分の後ろにいるシーサーの兄弟が凄く喜んでいるのを感じる。間違い無い。この子たちはここに宿っていたんだ。
「ちょっと見せてもらっていいですか?」
「どうぞどうぞ」
それで近づいて見る。どうもかなり破壊されていたのを接着剤でつなぎ合わせたようだ。
「その子たちも粉々になっていたんだよ。それをそこの長堂ちゃんたちがきれいにつなぎ合わせてくれて」
「私もそのゴミ処理場に行って、破片をかなり頑張って集めたつもりだったんですけどね。白い子の方は何とか全部破片があったのですが、黄色い子の方がちょっとだけ破片が足りなかったんですよ。それでそのあと数回またゴミ処理場にお邪魔したんですけど、どうしても足りない破片を発見できませんでした」
とその長堂さんと呼ばれた女子高生っぽい子が言っている。
「どこが足りなかったんですか?」
「お股の所なんです」
それで見ると、黄色いシーサーのお股の所が確かに欠けている」
『きゃー、僕のおちんちんが無い!』
と青葉の後ろでシーサーの弟君が悲鳴をあげている。
「これ白い方を見ると、ちゃんとおちんちん付いてるんですね」
と青葉はもう1体のシーサーを見て言う。
「そうなんですよ。ディテールにこだわってますね」
と長堂さんは笑いながら言う。
「その白い子のおちんちんの部分を接合する時は、結構キャッキャッ言いながらくっつけましたよ」
そんなことを言われて青葉の後ろのお兄ちゃんシーサーはなんか恥ずかしがっている。
「元々どちらもオスだったんですか?」
「ええ。どちらにもおちんちん付いてましたよ。子供の頃、このシーサーのおちんちんにタッチして帰ってくるなんて遊びしてましたから」
すると木ノ下先生が言う。
「でもシーサーって普通、オスとメスとも言うよね。いっそこの黄色い子はもうこのままメスってことにしちゃったらどうかね? この欠けて穴が開いているところは女の子の割れ目ちゃんってことで」
すると青葉の後ろでシーサーのお兄ちゃんの方が言う。
『お前、女の子になる?僕の妹ということでもいいよ』
『え〜?僕、女の子になるの? いやだぁ』
と弟(妹?)君。
千里が言う。
「白い子のおちんちんが無事だから、その子のおちんちんを3Dスキャナーで取り込んで、対称にして黄色い子用のおちんちんを3Dプリンターで作ることができると思いますよ」
「ああ、なるほど」
「あるいは女の子の形の部品を作って填め込む手もありますけど」
「あ、それもいいな」
「じゃ、男の子として復元するか、女の子にしちゃうか、挙手で決めよう」
などと木ノ下さんが言い出す。
「あ、それもいいですねー」
と復元作業をしていた女の子たち。この部屋には5人の女子高生がいる。
「じゃ女の子にしちゃおうという人?」
2人手を挙げる。
「じゃ男の子に戻してあげようという人?」
3人手を挙げた。
「じゃ3対2で男の子にするということで」
と木ノ下先生。
青葉の後ろで黄色い子が『助かったぁ』と言っている。
『お前が妹になっても、可愛がってあげたのに』
とお兄ちゃんは弟が妹にはならないことになって少し残念そうだ。
「じゃ、那覇市に私の知り合いでそのあたりに慣れている人がいますので連絡しましょう。女性がいいですよね?」
「ええ。その方がいいです」
それで千里が連絡していた。
「きれいな香炉がありますね」
「それは多分200年くらい経っていると思う」
「それは凄い」
「その香炉だけは鉄製だったのでほぼ無傷だった。その香炉を乗せていた台は破片は回収したんだけど、それを復元したのでは強度が足りないから、ウタキの祭祀に詳しい人に頼んで、香炉台は新たに作ったんだよ」
「なるほどー。でもきれいな台ですね」
「うん。できるだけ昔風に作ってもらった」
「ここにある板の破片は?」
「板絵のはずなんだけど、なかなか復元できなくてね。かなり色合いが薄くなっている上に元々の絵柄を覚えている人が誰もいないんだよ」
と木ノ下先生。
「これ、できると思わない?」
と千里が言う。
「うん。復元できそうな気がする」
と青葉も言う。
「ほんとですか?」
それで千里と青葉がその破片を並べて組み合わせていく。ふたりが物凄い速度で破片を揃えていくので、女子高生たちが「すごっ」と言って様子を見ていた。ふたりの復元作業は20分ほどで終了した。
「こういう絵だったのか!」
「海を渡って来訪するマンタか・・・」
「木目もきれいに合っているみたい」
「だって、木の板は元の形に戻りたがっているから」
と千里。
「うん。その木たちが求めている通りに並べてあげたらいい」
と青葉。
「君たち凄いね!」
と木ノ下先生は驚いている。
「この形で問題無ければ接着しますよ」
「お願いします!」
それで青葉と千里は新しい合板の上にその破片を並べて美術品用の接着剤で接着していく。ふたりは用意されている接着剤の薄いものも作り、板の下の方は濃いもので接着し、表の方は薄いもので接着していく。実はふたりとも1月に秋田で美術品修復の専門家・柳田さんの作業を見ていたので、そのやり方を真似しているのである。むろんさすがに柳田さんのようにうまくはつなげない。
接合作業は3時間に及んだ。正午を越したので、一度木ノ下先生の奥さんが作業をしている女子高生に
「お昼御飯、いかがですか?」
と呼びに来たのだが、青葉と千里の2人だけは
「作業中で中断できないので、あとで頂きます」
と言って作業を続けた。
午後2時すぎ、
「できました」
という青葉の声に、他の作業をしていた女子高生5人が寄ってくる。
「すごーい」
「きれーい」
「繋ぎ目が目立たないようにうまく修復されてる」
「なんかお手本にしたい感じだね」
奥の部屋で文献を見ていた木ノ下先生も出てきて修復された板絵を見て
「凄い。君たち、ずっと修復作業に加わってもらいたいくらいだ」
などと言っていた。
居間に行って、遅い昼ご飯を頂きながら、青葉たちは先生の奥さんと話した。20歳くらいの女性が食卓にいた。娘さんということであった。
「マロングラッセ頂いてます。これ凄く美味しい!」
と娘さん。
奥さんに勧め似られて青葉と千里も1粒頂いたが、ほんとに美味しい!!
「木ノ下先生がノロの役割を代行することになったのは、恐らく本来の後継者に引き継ぐために先生がとても好都合だったからではないかと思います。多分本来の引き受け手は先生と繋がる誰かなんですよ」
と千里が言う。
「ではノロが宿ったというのは、あの人の妄想ではないのですか?」
「先生が神がかりになった時に口走った言葉を奥様が記録してくださっているんでしょう?」
「そうなんです。書き留めろなんて言われたものですから。もしあの人が・・・」
と言って奥さんは言いよどむ。
「その筋の病院に掛かった方がいいということになった場合でも、この記録が重要になるかも知れないと思って」
『その筋の病院』というのを青葉は一瞬性転換病院?と思ったが、精神科のことだとすぐに思い直した。
「その筋の病院にかかる必要はないと思いますよ」
と青葉もにこやかに言う。
「あの人のその・・・女装はその誰かに引き継いだら直るのでしょうか?」
「うーん。それはなんともいえません。もしかしたら元々女装に興味があったのかも知れませんけどね」
「でもあの人、性転換手術を受けようかとか言い出して」
「この問題が解決したら、そこまでの気持ちは無くなると思いますよ」
「良かった。でもそれどのくらいかかるのでしょう」
「そうですね・・・」
青葉は言いよどんだのだが、千里が明快に答えた。
「今月中には解決すると思います」
「ほんとですか!」
「今月中ってあと半月しかないですけど」
と娘さんもびっくりしている。
「ええ、多分あと数日以内に何とかなります。まあ余波はしばらく残ると思いますが。先生、けっこう女装に味をしめた感じもあるので、女装癖はひょっとしたら残るかも。さすがにおっぱい大きくしようとか、おちんちん切ろうとかまでは考えないと思いますが」
と千里は笑顔で答えた。
「余波ですか・・・」
と奥さん。
「ただの女装ならいいんじゃない?」
と娘さん。
「何十年も物凄いペースでお仕事してこられた方ですし、あと少し好きなようにさせてあげましょうよ」
「そうですね。それはそう思っていたのですが。。。でもあの人、去勢とかしちゃったらどうしようかと気が気じゃ無かったんですよ」
「私たちが、それは停めておきましたし、当面大丈夫だと思いますよ」
「だといいのですが」
「お母さん、お父さんが睾丸くらい取っちゃったって、別にこれから子作りしようとかいう訳でもなければいいんじゃない?」
などと娘さんが言う。
「さすがにこの年で私も子供産むつもりはないけど」
と奥さん。
「お母さん、まだあがってないんだっけ?」
「かなり怪しいけど、取り敢えずまだ私は女だよ」
「お母さん、身体が若いもんねー」
「でも私はあの人が本当に女になっちゃったら、さすがに一緒に居られる自信がないよ」
「その時はレスビアン覚えればいいじゃない」
「え〜!?」
「お母さん、興味無い?」
「うーん。それはさすがに考えたこと無かった」
「これはこのケースの判断上必要なのでお聞きしたいのですが、先生と奥さんは現在、夜の生活はなさっているのでしょうか?」
と千里が訊いた。
「してません。実は2月4日に突然自分はノロになった、とあの人が言って以来、自分は清浄を保たなければならないからセックスもできないと言って」
「なるほどですね」
「実はもうあの人長いこと立たなくなっていたんです。でも立たないなりに撫であったりしていたんですよ。でもそういうのもしなくなったんです」
と奥さん。
「なーんだ。その状態なら、睾丸くらい無くなってもいいし、おちんちんも無くなっても問題無いんじゃない?」
と娘さんが言う。
「え〜?」
「だって撫で合うだけなら、女同士の身体でも同じことできるはず」
「そうかも知れないけど・・・」
「お母さん、今度百合の本とか買って来てあげようか? 図解付きで解説してある本とかもあるよ」
「ちょっと待って」
青葉と千里は15時すぎに先生の自宅を辞した。取り敢えずその別荘地の開発予定地に行ってみる。
「こういう所の別荘って誰が買うんだろう」
と青葉がつぶやく。
「空気の読めないヤマトンチューの金持ちだろうね。誰か芸能人とかでも買いそうだよ」
と千里。
「数年ずれてたら木ノ下先生が買ってたりして」
「あり得る、あり得る」
そんなことを言っていたら、高そうなスーツを着た30代の男性が近づいてくる。
「あんたたち、反対派?」
青葉はこの人がもしかしたらここの開発を進めようとしている会社の責任者ではと思った。
「ただの通りがかりのものですが」
と千里がにこやかに言う。
「あ、そうでしたか。済みません。最近ここの開発の反対派の人たちの悪質な妨害にあっているものですから」
とその人は突然にこやかな笑顔になる。
「別荘でも作られるんですか?」
「そうそう。あなたたち内地の人みたいね」
「ええ。東京に住んでいますが」
「あなたたちもどう?1軒」
「お幾らくらいですか?」
「80坪の別荘が8000万円の予定なんですけど」
「あら、安いですね」
と千里が言う。
すると向こうはこれは思いがけないお客さんかもと思ったようである。
「あ、もし良かったら検討してくださいよ。これパンフレット差し上げます。こちら私の名刺です」
と言って、その人は名刺と分厚いパンフレットを千里に渡した。XX開発株式会社・代表取締役と名刺には書かれている。
「あ、私の携帯の番号も書いておきますね」
と言って彼は名刺に電話番号を書き加えた。
「じゃパンフレット見てみますね」
と千里は笑顔で言い、青葉を促して車に戻った。
車をスタートさせた千里が苦しそうに笑っている。
「ちー姉、もしかして呪具を手に入れたのでは・・・・」
と青葉は言ってみる。
「私、そんな《おいた》はしないよぉ」
と言いつつ千里はとても楽しそうであった。
本人が直接渡してくれた名刺である。しかも本人の字で書き加えられている。その気になれば、呪いの道具にするのは簡単だ。
しかしふたりは帰りの車の中で、かなり悩んだ。
「でも木ノ下先生については、結局、今私たちにできることって何も無かった気がしない?」
と青葉は言う。
「まあ絵の修復をしたのと、シーサーちゃんのおちんちんの修復のメドが立ったくらいかな」
と千里も運転しながら言う。
「シーサーちゃんにとっては大事なことだったみたいね」
と青葉は自分の後ろの方に意識をやりながら言った。
「あれ?、もしかしてシーサーちゃんたち、あそこに置いてこなかったの?」
と千里が尋ねた。
「うん。あの状態では中に入れないとこの子たちは言った」
と青葉。
「へー」
「あるべき場所にあの身体が無いと、戻れないんだって」
「なるほどー」
青葉と千里はレンタカーで那覇空港まで行くと、車を空港の駐車場に駐め、空港内で夕食を取った後、18時半の飛行機で宮古島に飛んだ。青葉が沖縄に行くという話を聞き込んだ冬子から、頼まれた案件があったのである。
「こんにちは、照屋清子(てるや・さやこ)さん」
と青葉はキャンバスに向かって絵を描いている少女に語りかけた。
「あなたはどなたですか?」
と明智ヒバリは絵筆を休めて訊いた。その表情は、噂に聞いていた鬱病を発症して気力を喪失し薬の副作用でボーっとした状態の少女のものではなく、どこにでもいる普通の明るい少女の表情に思えた。
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【春演】(2)