【春来】(上)

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光平は夢を見ていた。あれ〜? またこれ変な夢かな。こないだ霊能者の女の娘(?)に来てもらって悪夢見なくなったと思ってたのに。
 
でもあの子、可愛かったなあ。本人は何も言ってなかったけど、間違い無く「女の娘」だよね。元「男の娘」だったけど、既に体質が完全に女性化している感じ。声も完全に女の子の声だったし。うっかり触ってしまったけど胸は既にできているみたい。きっと去勢もしてるんだろうなあ。
 
夢の中では武装した男たちが多数歩き回っている。しかしその武装がこないだまで見ていた者とは雰囲気が違う。こないだまで見ていた夢に出てきた男たちは長い銃身の銃などを持っていて迷彩服を着ていたのだが、今日の夢で見る男達は何だか古めかしい甲冑をつけ、刀を持っているのである。
 
その内、敵襲があったようで、あちこちで刀を抜いて組み合っている男たちがいる。きゃーと思って見ていたら、ひとりの男を斬り倒した男がこちらに向かってきた。
 
殺される!
 
と思ったのだが、その男は光平の手をつかむと、争いの場から少し離れた岩陰に連れて行った。そして光平を押し倒すと服の裾をめくる。ちょっと〜。何するの!?と思った次の瞬間、光平は何とも不思議な感覚に貫かれる。
 
男に何か(?)をされながら、光平は快感と嫌悪感が混在する不思議な感覚を覚えていた。目から涙が一筋こぼれたが、怖い感じはしなかった。
 
その時、光平はふと疑問を感じた。
 
もしかして、僕、女の服を着てる!??
 

「ねぇねぇ、良かったら読んで感想聞かせてくんない?」
と青葉はクラスメイトの純美礼からUSBメモリーを渡された。
 
「何か書いたの?」
「うん。短編小説なんだけどね。古代男の娘物語なのよ」
「へー」
 
純美礼はけっこう同人小説のようなものを書いているようである。以前にも何度か見せてもらったことがある。概してBLが多い。
 
「舞台は古代サハリ国。当時サハリ国では砂漠の向こうの国から流入してきたコスミル人の人口が増えすぎてサハリ人との軋轢が問題になっていた。そこでサハリ王は産婆たちに命じた。コスミル人のお産に立ち会って、女の子ならそのまま生かしておいてよいが、男の子であったら殺すようにと」
 
「それ聖書の出エジプト記の話じゃない?」
「そうそう。それがヒントなのよ。でも実名使ったらどこかからお叱りが来そうだから架空の名前で。それである所でコスミル人夫婦に男の子が生まれた。このままでは殺さなければいけない」
 
「何となく読めた」
「そこで父親が機転を利かせて生まれたての男の子のおちんちんを切っちゃった」
「ふむふむ」
「それでこれは女の子だから殺さなくてもいいですよね?と産婆に言い、産婆もちんちんは見なかったことにして、そのまま帰ってくれた」
 
「で、その子が成長してモーゼになる訳?」
「いや、モーゼという名前を使ったら叱られるからマナカという名前で」
「ふむふむ」
 
「その子はちょっとした経緯から、サハリ国の王女が自分の娘として育てることになる。それでサハリ国の王子に見初められてその愛人になる」
「ヴァギナあるわけ〜?」
「そのあたりは適当に誤魔化して。あれって誤魔化す方法無いの?」
 
「まあスマタという手はある」
「なるほどー」
「さすがに3000年前の医療水準では性行為に使用できるほどのヴァギナを人工的に作るのは不可能だったろうからね」
「当時から性転換手術ってあったんだっけ?」
 
「AD65年頃に、ローマ皇帝ネロが愛人の男の娘スポルス・サビナに性転換手術を受けさせている。どの程度の内容かはよく分からないけど、まあおちんちんとタマタマを取って、割れ目ちゃんくらいまでは作ったかも。でもさすがにヴァギナまで作るのは無理だったと思うなあ。AD220年頃のローマ皇帝・ヘリオガバルスは自身がいつも女装していて配下のものに自分を女帝と呼ばせ、やがて性転換手術も受けて、この人はヴァギナまで作ったとも言うんだけど、怪しい話という気もするし、ヴァギナを作ったとしても、ほんとうに使えるものができたかどうかは疑問だと思う」
 
「当時って麻酔無いよね?」
「うん。だから凄まじい痛みに耐える必要があったと思うよ。恐らく半分以上の確率で死亡していたと思う」
「こわーい」
と純美礼が言うが、その凄まじい痛みが怖いのか、高確率で死ぬのが怖いのか、どちらだろうと青葉は思った。
 
「ヘリオガバルス帝の場合、自分が手術を受ける前に男の子を連れて来ては去勢させていたという話もあるから、事前にたくさん実験したのかも」
「実験で性転換させられた男の子たちはちょっと可哀想かな」
 
「元々女の子になりたかった子ならいいけど、むしろちんちんの大きな子を好んで去勢させていたという説もある」
「やはり迷惑な皇帝だ」
 
「そういえば青葉はヴァギナあるの?」
「あるよー」
「セックスに使えるの?」
「使ってるけど」
 
「う・・・実験済みか」
「でも手術前はスマタでたくさんやったよ」
「私セックスもスマタも経験したことないな」
「まあ大学に行ってから彼氏見付けてやってみるといいよ」
 
「あれって入れられて痛くないの?」
と隣から彩矢が訊く。
 
「私は気持ちいいけど」
と青葉。
「日香理もしてるんでしょ?どう?」
などと突然振られて日香理はびっくりしていたが
 
「ごめーん。まだ私はセックス未経験」
と言う。
 
「あれ?でもこないだ彼氏とお泊まりデートしたんでしょ?」
「お泊まりはしたけどセックスはしてない」
「我慢させられるもの?」
「オナニーする所を見てあげた上で、抱き合って寝たよ。まあ生殺しかも知れないけど」
 
「ちょっと可哀想」
「まだ私、妊娠したくないし」
 
「青葉は妊娠できるんだっけ?」
「それは子宮が無いから無理」
「青葉子宮無いの?」
「うん。卵巣も子宮も無い」
「あれ?でも青葉、生理あるよね?」
「うん。そのあたりの仕組みが実は自分でもよく分からない」
「ふむふむ」
 

2015年5月。
 
ゴールデンウィークに青葉は、東北に出かけ、八戸で咲良に会い、その後真穂と一緒に盛岡〜気仙沼近辺で様々な相談事に対応した。ひとつひとつは簡単に解決するものや、病院に行かせたほうがよい類のものばかりで、青葉は2日間で11件もの案件を処理した。それはその場で全部解決したものと青葉は思っていた。 
ところがである。
 
盛岡近郊で処理した1つの案件についてその後また動きがあったのである。真穂からの電話を受けた時、青葉は木ノ下大吉さんと明智ヒバリの件で沖縄に来ている所だった。
 
「青葉ちゃんに見てもらった直後は悪夢を見なくなったんだけど、一週間もしたら、また見るようになったらしいのよ」
「あらあ」
 
そのクライアントの場合、住んでいる家に霊道が通っていたので、出雲の直美さんに頼んで霊道を動かしてもらったのである。それで解決したと思っていたのだが、もしかしたら霊道が戻ってしまったのだろうか?
 
「それは困っているでしょうから、こちらの案件のキリのいいところで何とか一度そちらに行きます」
と青葉は答えた。
 
その時、青葉は沖縄にまだ半月くらい滞在しなければならないかも知れないと思っていたのだが、思わぬ展開から数日で解決してしまった。実際には青葉はほとんど何もしていない。むしろ千里と二人で見届け人の役を果たしたような感じであった。
 
それで5月20日に高岡に戻り、21日は学校にも出て行ったのだが、5月22日学校が終わった後、新幹線に乗って岩手に出て行った。
 
新高岡1750-2026大宮2040-2227盛岡
 
その日は真穂のアパートに泊めてもらい、翌日5月23日(土)、朝から盛岡近郊にあるクライアント石切さんの自宅を訪問した。
 
まず霊道は動いてないことを認識する。
 
ということは、霊道以外に悪夢を見させている原因があるんだ! これはもしかしたらかなり大変な案件かも知れないぞと青葉は気を引き締めた。
 
中にあげてもらう。居間に通されるが、コタツの上に郵便物がいくつか出ていて、石切光平様という封書と、石切由紀様という封書が混じっているのに気づいた。石切さんは独身と聞いていたのだが、実は同棲しているのかなと思った。二人暮らしであれば防御方法が少し変わる。そういえば化粧品の匂いもする。もしかして自分達が来る直前まで一緒にいたのだろうか。邪魔して悪かったなとも思う。
 
「済みません。遠くからわざわざ来て頂いて」
と言って石切さんは青葉たちに座布団を勧めた上でテーブルの上にあるものを片付けた。
 
「いえいえ。とにかく状況を把握しなければと思いまして」
と青葉は答えた。
 

石切さんは1975年生まれの39歳である。盛岡市内で従業員300人ほどの中堅の事務機販売会社に勤めていて取締役部長の肩書きを持っている。若いのに大したものだが、見た感じはそんなにやり手には見えず、物凄く優しい雰囲気を漂わせていた。青葉はたぶん凄い人ほど凄そうに見えない例なのだろうと、彼を見て思った。
 
石切さんが悪夢を見るようになったのは3年くらい前かららしく、ちょうどその頃、近くで大規模なスポーツ施設の建築が行われたらしい。青葉はその工事の影響で霊道が石切さんの自宅を通るようになってしまい、それで異変が起きるようになったのではと推測していた。
 
それであらためて話を色々聞いていた時、家に訪問者がある。
 
「あら、ごめーん。お客様だった?」
と60代くらいの女性が言う。
 
「あ、お母さん」
と石切さんは声を出した。そして青葉が彼女を見た時、この問題はこの家系に絡むものだということを確信し、同時に自分がとんでもない大事件に足を踏み入れてしまったかもと思い緊張した。
 
石切さんはお母さんにここ数年ずっと悪夢を見ていたので、会社の友人を通して霊能者の「川上先生」に相談したら、自宅に霊道が通っているということでそれを動かしてもらった。それでしばらくは悪夢を見なくなっていたのだが、先週くらいからまた見るようになったので再度相談したのだと説明した。
 
「でも悪夢の内容が微妙に違うんですよね」
と青葉は確認する。
 
「そうなんです。以前見ていた悪夢は昭和時代くらいの人が出てくるもので、手足がちぎれたり凄い血が出ていたりする人が転がっていて、泣き叫ぶようなのが多かったんですが、ここ最近見るようになったのは、古代の武具を身につけた《もののふ》という感じで、奈良時代くらいかなあ」
 
そう石切さんが言った時、お母さんがハッとする感じがあった。それで青葉はお母さんに尋ねた。
 
「お母様も、そういう悪夢を見られたことはありませんか?」
 
するとお母さんは
「どうしてそれを?」
と言った。
 

「たぶん家系的なものではないかと思うんです。実は私の祖母と叔母の1人もそういう古代の《もののふ》が出てくる夢を子供の頃見ていたんです。おとなになってからは、めったに見なくなったのですが、見なくなったというより、見ないように心にブロックを掛けている感じなんですよ」
 
「自分を守るシステムができあがったんでしょうね。光平さんの場合、恐らく強い守護で守られていて、防御システムも必要無かったのが、それが最近何かの原因で利かなくなって、霊道の影響も受けたし、それが排除されたら、その家系的な問題が現れてきたのだと思います」
 
「いやまさにそういうことという気がします。この子の防御を何とか作ることはできませんかね?」
 
「すみません。ご実家はどちらでしたでしょうか?」
「青森県の新郷村というところなのですが」
「そちらにお伺いしてもよろしいでしょうか。どうもこの問題は一度そちらを見てみないと対処が難しいようです」
 
「はい、でも料金は?」
「この事件は先日3万円で受けて、それで契約は済んでいますから、ここから先はアフターサービスということで」
 
と青葉は笑顔で言う。
 
「でしたら交通費・食費・宿泊費だけでも出します」
「そのくらいはありがたく頂きましょうかね」
 

お母さんの瑞恵さんは車で来ていたので、お母さん・石切さん・青葉・真穂の4人でお母さんのビスタに乗ると、青森県に向かった。東北自動車道・八戸自動車道で八戸ICまで行き、そのあと国道454号をひたすら西進する。
 
その間青葉は石切さん本人やお母さんから色々お話を聞いていた。そして聞けば聞くほど、この問題の「根深さ」を実感する。これは「解決」できる類いの問題ではない。回避策をとるしかないと青葉は認識した。
 
そろそろ実家ですよといっていた時、青葉は唐突に「キリストの墓」という案内板を見た。
 
「キリストの墓って何ですか?」
「ああ、あれは村の古い塚をなんか偉い学者さんがここはキリストの墓だと言って」
「え〜〜!?」
「それで、ああやって案内板出してますけど、別に何も無いんですよ」
とお母さんは言ったのだが
 
「私も話には聞いたことある。一度見てみたいと思っていた」
と真穂が言い出す。
 
「じゃちょっと寄りましょうか」
と言って、お母さんは車をそちらの道に入れた。
 

「キリストの里伝承館」などというのが建っているのを見て青葉はクラクラとする思いであった。屋根には十字架が立ち、玄関の所には五芒星のマークが入っている。
 
「もともとこの付近は戸来(へらい)村と言っていたんですよ。そのヘライというのがヘブライのことではないかと竹内なんとか麻呂という偉い学者さんが言い出して、それで現地に来ていろいろ調べて、ここの塚がキリストの墓に違いないということで」
 
「竹内巨麿ですか!」
「あ、そうそう、そんな名前」
 
青葉は頭が痛くなった。それが元でこれだけの騒ぎになっているのか。 
「この星形の紋章はこの戸来村の旧家・沢田家の家紋として長く伝えられているものなんですよ。それがなんかイスラエルのシンボルと同じだとかで」
 
いや、ここに掲げられているのは五芒星だが、イスラエルのダビデスターは六芒星だぞ、と青葉は思う。
 
「実はうちもその沢田家の分家筋に当たるみたいで、うちの家紋も星形なんですよ」
とお母さん。
 
「そうでしたか!」
 
「あとうちではやってないですが、戸来村では赤ちゃんが生まれると無事育ちますようにと額に十字のマークを描く習慣があったらしいんです」
 
とお母さんが説明する。実際この伝承館の中にも籠の中に入れられた赤ん坊の額に十字を描いた人形が置かれていた。
 
「あと戸来村に伝わるナニャドヤラというお祭りで歌われる歌の歌詞が日本語としては意味不明なんですが、それがヘブライ語ではちゃんと解釈できるらしくて」
「なるほどー」
 
「毎年6月にはキリスト祭りというのも開催してるんですよ。今年は・・・6月7日かな」
「はあ・・・」
「最初の頃はキリスト教の牧師さんに来て頂いていたんですけど、アーメンとか言われても、みんなそんなの唱えられないじゃないですか」
 
「確かに。キリスト教徒でない人には言えない単語ですよね」
「それで一時期はお寺の坊さんに来て頂いたものの、それもしっくりこないということで今は神社の神主さんに来て頂いて祝詞をあげてもらっているんですよ」
「へー!」
 
キリストの墓の前で祝詞をあげるのか。凄い。でも祈りの形は、祈る人の心に沿うものであるべきだから、神道の徒であれば祝詞でよいはずだとも青葉は思った。
 
「お祭りにはイスラエルの大使さんが来てくださったこともあるとかで」
「それはまた凄い!」
 

「でもイエスってゴルゴタの丘で磔になったのでは?」
と真穂が疑問を呈する。
 
「そこで死んだのは弟のイスキリで、キリスト本人は数人の弟子とともにシベリアを渡って戸来村に来たということなんですよ」
とお母さん。
 
「なぜわざわざ日本に」
「そもそもキリストは若い頃、日本で修行したらしいんですよ。十和田湖そばの戸来岳とか、もう少し南の八幡平(はちまんたい)とかが修行の地だったそうで。なんでも越中にすごく偉い人がいて、イエスはその人の弟子になったとか」
 
「越中ですか!?」
 
突然北陸の地名が出てきて青葉はびっくりした。
 
「その縁があって日本に戻ってきたらしいんですよ」
 
「でもイスキリって名前、イエスとキリストをくっつけた単語では?」
「あ、それはそんな気がしていました」
 

「でも日本人の観光地化感覚だと、キリストもなか、とか、キリスト煎餅とかも出来そうだ」
と真穂が言うと
 
「キリストラーメンがありますよ」
「え〜〜!?」
 
それで青葉たちは伝承館を出た後、近くのラーメン屋さんに入る。メニューにほんとにキリストラーメンがあるので頼む。ラーメンはわりと短時間で出てきた。 
「どのあたりがキリストなんですかね?」
と真穂が訊くと
「ここにダビデの星のナルトを乗せてまして」
とお店の人が説明してくれる。
 
「なるほど〜」
 
そのナルトは正しく六芒星の形をしていた。ほんとにダビデスターである。ラーメンはそれなりに美味しかった。
 

結果的に2時間近く寄り道をしてしまったが、午後2時頃、石切さんの実家に到着する。
 
石切さんのお父さんが在宅で
 
「おい、瑞恵、腹減った」
と言ってから
 
「あ、お客さんですか」
と青葉たちを見て言う。
 
「うん。ちょっと面倒なことをお願いしたんですよ」
とお母さんが言うと
 
「なんだ、光平が嫁さんを連れてきたのかと思ったのに」
とお父さん。
 
「ごめーん。僕はまだお嫁に行く気は無いから」
「お前が嫁に行くんだっけ?」
 
「さあ、どっちだろう。それで、この人達は岩手の方では有名な霊能者さんなんだよ」
「へー」
 

お父さんは
「美人さんで霊能者って凄いですねー。霊能者って何か髪振り乱した凄い形相のおばあちゃんかと思ってた」
などと言いつつも、やはりふたりが美人ということでご機嫌が良い。
 
その時、青葉はふと疑問を感じた。
 
「石切さんの家の家紋が五芒星なんですよね?」
「ええ、そうです」
「お母様のご実家の家紋は?」
「そちらもおなじ星形なんですよ。だから、元々同じ一族なんでしょうね。苗字は平林(ひらばやし)だったんですけどね」
 
なるほど、光平さんは両親の双方から同系統の遺伝子を引き付いでいるんだ!と青葉は納得した。それならかなり強い影響を受けるはずである。
 
仏間に案内してもらい、青葉はそこで愛用のローズクォーツの数珠を持って、霊的な感覚を解放した。
 
その時、青葉はこの家の中に妙なものがあることに気づく。
 
すっと無言で立ち上がると、その自分の感覚を頼りに探し当てる。居間の棚の上に、銀色の十字架があった。
 
「すみません。この十字架はどういういわれのものですか?」
「あ、それは僕が20代の頃にツーリングで遠出していて、確か富山か石川か、あの界隈で道に落ちていたのを拾ったものなんですよ」
 
「道に落ちていたんですか!?」
「何かよくないものですか?」
「いえ。これはむしろこの家を守っています」
「それは凄い」
 
「だったらそんな所に置いておかないで、神棚か仏壇にでも置いた方がいいかね?」
とお父さんが訊くが
 
「いえ、キリスト教のものを神棚や仏壇に置くとパワーが落ちるので、これはここでいいですよ」
と青葉は笑顔で答えた。
 
そして青葉は石切さんとお母さんに言った。
 
「かなり状況が見えてきました。ちょっと準備を整えて、再度こちらを訪問させて頂いてよろしいでしょうか?」
 
「はい、いつでもどうぞ。いつ頃になりますか?」
 
青葉は手帳を見て確認する。
 
「来週ではまだ準備が終わらないと思うので、再来週の土曜か日曜あたりではいかがでしょうか?」
 
「はい。いいですよ。あ、再来週だったら、ちょうどキリスト祭りの日になりますね」
 
「ああ!!」
と言ってから、青葉は石切さんに1枚の御札を渡す。
 
「私が来るまでの間、この御札を寝るとき枕の下に敷いておいてくれませんか」
「はい」
「それで当面は何とかなると思います」
「分かりました。ありがとうございます!」
 

青葉はその後、地元の資料などを見られる所がないか尋ね、石切さんのお母さんは地元の図書館に連れて行ってくれた。いくつかの資料を図書館の人に言ってコピーさせてもらう。
 
「このあともう帰られますか?」
「そうですね。どこかで1泊してから明日の朝の新幹線で帰ろうかと思っていたところですが」
「でしたら十和田湖にお泊まりになりませんか? 明日は八戸までお送りしますよ」
とお母さんが言う。
 
それで結局、石切さん・お父さん・お母さんの3人、真穂・青葉の5人で十和田の温泉旅館に泊まることになった。
 
「十和田湖は来られたことあります?」
「真穂さんは来てるよね?」
「うん。私は紅葉のころにきたことある」
「十和田湖は春の風景も夏の風景も秋の風景もそれぞれ良いんですよ」
「冬は?」
「冬は道路が無くなってしまうので」
「なるほど」
「一応焼山方面からの道は最近冬季除雪するようになったんですけど、通れない時もあります。昔は冬の十和田湖ってスキー以外に到達手段が無かったんですよね」
「へー」
 

休屋の旅館に入り一息ついてから散歩に出た。ビール飲んでると言うお父さんを置いて残りの4人である。有名な乙女の像を見る。その時青葉の感覚に独特の波長が感じられた。
 
「そちらに神社がありますね」
「ええ。十和田神社ですね。行ってみますか?」
「はい」
 
それでそちらに行き、お参りをする。
 
「この先に何かあるのを感じるんですが」
「ああ。鉄のハシゴがあるんですよ」
「鉄のハシゴ?」
と青葉が訊くと
「あ、ちょっと面白い所だよ」
と真穂が言った。
 
それで行ってみると、垂直な崖に長い鉄のハシゴが掛けられている。
 
「昔は鉄の鎖みたいなちゃちなものだったんですが、今はこういうしっかりしたハシゴになってて、誰でも降りてみれるんですよ」
 
青葉はお母さんにこのハシゴが降りられるだろうか?と疑問を持ったのだが、先頭に立って降り始める。それでその後、真穂、光平さん、最後に青葉が降りていく。ハシゴは結構長い割には降りやすく、あまり腕力なども必要無かった。 

「これは凄い」
 
と青葉は声を挙げた。
 
「いい所でしょ?」
とお母さん。
 
「これはここだけのために十和田湖に来る価値のあるような場所です」
と青葉。
 
「なんか気持ちのいい場所だね。私はまだ2度目だけど」
と真穂は言っている。
 
「そのあたりに十和田湖の水の湧き出し口があるとも聞いているんですけどね」
とお母さん。
 
「確かに水が深そうですね」
と青葉は言う。
 
しばらくその付近を歩いていたのだが「あ、ここいいな」と思う場所があった。 
「光平さん、ここに立って頂けますか」
と言って青葉は光平を湖のパワーをかなり強く受けられる場所に立たせた。そしてローズクォーツの数珠を持ち心の中で祝詞を唱える。
 
青葉はふと、数珠持って祝詞なんてことやるのは日本国内でも数人しかいないかもね、と思った。
 
「なんか身体が温かくなった気がします」
「はい。光平さんの防御性能を高めましたから。こういう強いエネルギーの流れのある場所でしかできないことです」
 

それで帰ろうということになったのだが、ハシゴの所に戻り、最初に青葉が登ろうとした時、ハシゴのすぐ下の所に青い石が落ちているのが気になる。何だろうと思って拾い上げた時、青葉はどこかで「カチッ」という音がした気がした。
 
音のした方を見る。
 
そこに居るのは光平さんである。
 
青葉はこの石が何か意味があるものと考え、とりあえずそれを自分のバッグに入れた。
 

千里は5月15日(金)の夕方会社の仕事を終えた後青葉と一緒に沖縄に飛び、木ノ下大吉先生が抱えているトラブルとアイドル歌手明智ヒバリとのセッションをしたのだが、思いがけない展開で、ふたつの問題が同時に18日(月)に解決してしまった。それで千里と青葉は19日(火)に東京に戻ることができたのである。
 
千里は色々悩んでいるふうの青葉の心を整理してあげるため、19日に羽田に着いた後、自分が参加しているレッドインパルスと40 minutesの練習風景を見せ、20日(水)には青葉を伴って福井県の∽∽寺を訪れ、ヒバリの件を導覚貫首に報告した。青葉はあきらかに∽∽寺の強烈な「空気」の中で心の整理が進んでいるようであった。そして千里は青葉を高岡に送り届けた後、その夜の内に東京に戻ったのである。
 
実際には18-20日の3日間、Jソフトの方には千里Bが出勤していた。しかし千里(千里A)は21日(木)、自ら会社に出て行って専務に相談したいことがあると言った。専務は千里が深刻な顔をしているので、会議室に連れて行き話を聞いてくれた。
 
「実はユニバーシアードの日本代表に選ばれてしまったんです」
と千里は切り出した。
 
「あれ?代表候補にはなったけど代表から落ちたとか言ってなかった?」
「それが怪我した子が出て、その代わりに私が招集されたんです」
「ああ!」
 
「2月・3月の合宿の時も、お仕事を休ませて頂きましたが、また今回も大会の日程や先行する合宿とかでかなり仕事を休まざるを得なくて」
 
「どういうスケジュールになってるの?」
と専務に尋ねられるので千里は篠原監督から送られて来たスケジュール表を専務に見せた。
 
「23日から30日まで都内北区の味の素トレセンで第四次合宿、6月24日から7月3日まで第五次合宿、そのまま韓国に渡って4日から13日までユニバーシアードの本戦です。帰国は14日になりますが15日は報告会とかの行事があるので、実際にこちらに出社できるのは16日からになると思います」
 
「うーん・・・・」
と専務は悩んでいる。
 
「こんなに休むのが、簡単に許されることではないことは分かっています」
と千里は言う。
 
「それで考えたのですが、いっそ会社を辞めさせて頂けないでしょうか?まだ仮採用中なのにこんなことを言って本当に申し訳ないのですが。一応退職願は書いてきました」
 
と言って千里は毛筆で「退職願」と表書きした封筒を差し出した。千里は4月入社で6月までは仮採用の状態にある。むろん7月で本採用に切り替えてもらえるかどうかはその間の仕事ぶり次第である。
 
専務は目を瞑って考えていた。
 
「実はさ」
「はい」
「明日発表するけど、片口君が今月いっぱいで退職するんだよ」
「あらぁ〜」
 
片口君はこの4月、千里たちと一緒にこの会社に入社した人であるが、かなり苦しんでいたようである。もっとも本人以上に周囲が困っていたようで、千里Bが「あの人のプログラムは読解不能。最初から勉強し直して欲しい」などと文句を言っていた。
 
「それでなくても人手不足の折、困ってしまってね。随分慰留したんだけど、すっかり自信を失っているみたいで」
 
「うーん・・・」
と今度は千里が悩む番であった。私なんて自信が無いどころかほぼ無理なんだけどなあ。
 
「募集は出しているし、何人かこの春から面接しているけど、なかなかいい人がいないんだ」
「そうですね。仕事を探している人は多いけど、なかなかお互いの求めるものは一致しないですよね」
 
「うん。まあそれでその状況で、明らかに戦力になっている村山君に今辞められるのはとっても困るんだよ」
 
「すみません」
「それでどうだろう? これ休まないといけない日数は来週5日間と6月24日から7月15日までの平日16日間、合計21日間だよね」
「はい」
 
「その間、有休を10日使ってもらって残り11日は欠勤扱いということで」
「休んでいいんですか?」
「うん。辞められるよりはマシだから」
「すみません!」
 
千里は後ろで千里Bこと《きーちゃん》が凄く嫌そうな顔をしているのを意識した。彼女は2月からここまでの3ヶ月ほどのお仕事で精神的に疲労しており、辞めさせて欲しいというのは半分は彼女の意志なのである。
 
しかし専務は21日間休んでもいいから仕事を辞めないで欲しいと要請し、千里はとりあえずそれを受け入れた。
 
「でも私まだ入社して2ヶ月も経ってないですけど有休ってあるんでしたっけ?」
「本当は6ヶ月勤務したところから10日間なんだけど、そのあたりは適当に」
「はあ・・・」
 
「あ、そうだ。君は今まだ仮採用の状態だったよね?」
「はい」
「まだ3ヶ月経ってないけど6月1日付けで本採用に切り替えるから」
「はい。ありがとうございます」
 
と千里は答えたものの、《きーちゃん》がまた嫌そうな顔をしていた。 
『きーちゃん疲れているみたいだし、今日明日は、せいちゃん私の代わりに仕事しない?』
『え?俺でいいの?』
『もちろん私の格好してね』
『まさか女装しないといけないの?』
『だって私女の子だもん』
『え〜〜!?』
と《せいちゃん》も嫌そうな顔をしたが、《きーちゃん》は
 
『お化粧の仕方、教えてあげるね』
などと笑顔で言っていた。
 
『でもその前に足のむだ毛とかは剃ってよね』
 

「あ、そうだ、専務。退職願を出すつもりだったので出さなかったのですが、一応バスケ協会の方から、日本代表に招集するので、仕事に関する配慮をお願いしますとの依頼状を書いてもらっています」
 
と言って千里は川淵三郎会長名義の依頼書を専務に手渡した(川淵は5月13日にバスケ協会会長に就任した)。宛名は株式会社Jソフトウェア・山口勇次社長様になっている(山口龍晴専務のお兄さんである。兄弟だが年は16歳も離れている)。 
「川淵三郎って、まさかサッカーのJリーグ元チェアマン?」
「そうなんですよ。バスケ協会がここ10年ほど内紛続きで男子リーグが分裂したまま改革が全く進まないので、ついに国際バスケ連盟から資格停止処分をくらったんです。それで今までの役員が全員辞任して、改革を断行するために国際バスケ連盟の方から、バスケット界にしがらみのない人物ということで、川淵さんを送り込んで来たんですよ」
 
「へー!知らなかった」
 
「資格停止処分のおかげで、今日本は国際大会に出られない状態なんです」
「ユニバーシアードはいいの?」
「川淵さんのもとで改革が進んでいるので、おそらく制裁解除してもらえるのではないかという前提のもとでとにかく練習だけしています。実際、代表になっているみんなは、もしかして解除してもらえなかったらという不安を抱きながらの練習になっているんですけどね」
 
「それはまた精神的に辛いね」
「処分解除について話し合う会議は6月19日。でもユニバーシアードは7月4日」
「ギリギリだね!」
 
「見せしめだと思うんですけどU19女子世界大会は実際に出場NGになっちゃったんですよ」
 
「U19だったら高校生とか大学1年生とか?」
「そうなんですよ。代表になっていた子には私も知っている子がいて泣いてました」
「大人たちの揉め事でそういう若い世代が犠牲になるのは可哀想だね」
「全くです」
 

そういう訳で、千里(千里A)は専務との対談を終えた後、千里C(女装の《せいちゃん》)と交代してバスケの練習に行った。
 
実際には《すーちゃん》《たいちゃん》などの指導のもと《せいちゃん》を女装させて、その作業をしている間は《きーちゃん》がお仕事をしていてくれた。そしてお昼過ぎに《きーちゃん》と《せいちゃん》が交代した。この日、《せいちゃん》は女子トイレに入るのを恥ずかしがり、念のため付き添っていた《すーちゃん》に手を引かれて女子トイレに入ったものの、列に並ぶのにまたまた恥ずかしがってずっと俯いていたらしい。
 
一方、本体の千里(千里A)は10時頃、いつもの体育館に行き、練習に来ていた玲央美や朋美たちと合流した。
 
「千里、今週は初参加だね。忙しかったの?」
と六原塔子から言われる。
 
「うん。月曜火曜は沖縄に行ってたんだよ。昨日は福井から富山を回ってきた」
「へー」
「これ沖縄のお土産」
 
と言って紅いもタルトを出すと、一瞬にして消えるので、さすがにびっくりする。 
「美味しい美味しい」
「ちんすこうもいいけど、紅いもタルトもいいよね」
 
「千里、会社は辞めてきた?」
と玲央美から訊かれる。
 
「退職願を出したんだけど、却下された」
「あれま」
「取り敢えず今回のユニバーシアード日本代表に関する活動に関しては21日間全部休暇を認めるし、その内10日分は有休で処理してくれるらしい」
 
「21日間で済めばいいけどね」
と玲央美は言った。
 
「え!?」
 

ともかくも21-22日(金土)は千里Aはいつものようにバスケットと音楽制作で1日を過ごした。ただ23日からは合宿で丸1日バスケット漬けになるので、今週までに仕上げられなかった3曲に関しては申し訳無いが、どなたかに回して欲しいと新島さんに頼んだ。
 
その3曲は結局は雨宮先生がケイ(冬子)に頼んだらしい。後で新島さんに経過を聞いたが、ケイはかなり力(りき)の入った作品を書いてきて、彼女の個性も強く出ていたので、そこを修正してもらって「駄作にデチューン」してもらった上で依頼元に回したらしい。
 
「さすがケイですね」
と千里は新島さんとの電話で言った。
 
「あの子は個性が強すぎるんだよね。それで魅力的な作品を書けるけど、ゴーストライターには向いてないと思った」
と新島さん。
 
「才能のある人は大変ですね。私なんか何も才能無いから、全て駄作になる」
などと千里。
 
「はいはい。そういうことにしておいてもいいよ」
と言って新島さんは笑っていた。
 

23日から30日まではトレセンでユニバーシアード代表の子たちと練習した。ユニバーシアード代表は最初2月に「代表候補」として24名が発表され、そのメンツで2月の第二次合宿、3月の第三次合宿をした。そのあと4月頭に正式に代表12名が発表された。この時、千里が辞退したためSGには神野晴鹿と伊香秋子が選ばれたのだが、その伊香秋子が5月中旬に怪我したと称して事実上辞退したため、結局代わりに千里が招集された。そして第四次合宿を迎えたのだが、元々がお互いによく知っているメンバーだし、日本代表として一緒に戦った経験のある子も何人も居て、千里としては居心地のいい仲間たちである。24名から12名に絞られた件に関しても、千里の問題以外は、みんな妥当な人選だと思ったようである。
 
「千里さん、すごーく進化してる」
とポイントガードの水原由姫が言う。
 
「何が自信が無いから辞退するだよね、全く。これだけプレイできるのに勝手に辞退するのは犯罪だよ」
などと高校時代以来の親友で今回のチームの副主将である前田彰恵。
 
「千里が辞退するから、私は副主将まで引き受けるはめになったし」
「ごめーん」
「今からでも千里、副主将しない? だいたい千里本来副主将が付ける5番の背番号つけてるし」
と彰恵。彰恵の背番号は6番である。
 
「これびっくりした。私、追加招集なのに5番渡されるんだもん」
と千里。
 
「秋子ちゃんが辞退した後で、急遽番号を組み替えたみたいですね」
と7番の番号を付ける森田雪子が言う。彼女は千里の高校の後輩であり、また40 minutesの仲間でもある。
 
「でも副主将は彰恵でいいと思うよ。私、人望無いし」
と千里。
 
「人望はさておき、実力では飛び抜けてるよね。少なくとも1on1で千里に勝てる子は誰もいないし」
と主将の鞠原江美子。むろん江美子が主将の番号4を付けている。
 
この江美子と彰恵と千里の3人だけが1990年度生まれ(修士OG)である。今回の代表メンバーは千里たちの学年が3人、1つ下(修士2年)が1人、2つ下(修士1年または学部OG)が6人、3つ下(大学4年)が2人という構成だ。 
「2月には私、千里さんに結構勝てたのに、今日は全敗。なんか勝てる気がしない」
などと千里の高校の後輩でもある湧見絵津子が言う。
 
「いや、そういう絵津子も無茶苦茶進化してる」
と渡辺純子が言う。
 
「そういう純子だって3月から飛躍的に進化した」
と加藤絵理。
 
湧見絵津子・渡辺純子・加藤絵理、そして大学に進学しなかったのでユニバ代表にはなっていないが鈴木志麻子の4人は2009-2010年に「高校女子四天王」と呼ばれた良きライバルである。おそらく次世代のA代表の中核になる選手である。 
「いや、みんなそれぞれ進化しているよ。この1ヶ月半、みんなよく頑張って練習していたみたいだね」
と篠原監督も笑顔で言っていた。
 

この合宿の始まった23日、日本の資格停止処分の解除をするかどうかを決める会議が6月18-20日に開かれる予定だったのが8月7-9日に延期されたというニュースが飛び込んで来て、千里たちユニバ代表を不安にさせた。
 
ユニバーシアードはその会議より前、7月4-13日なのである。
 
この件について日本バスケ協会は緊急にFIBAに照会、その結果ユニバーシアードの出場可否については6月中旬の会議で別途話し合うという返事が返ってきて、千里たちはホッと胸をなで下ろしたのであった。
 

さて、青葉は24日の夜東北から高岡に戻った。25日(月)に学校に出て行き、お昼休みにお土産のお菓子をみんなで分ける。
 
「青葉、十和田湖に行ってきたんだ?」
「うん。近くでちょっと相談事があったんだよ」
「十和田湖というと八郎太郎と南祖坊の壮絶バトルだよね」
 
「そうそう。それで十和田湖を追い出された八郎は男鹿半島の八郎潟に逃げていく」
「でも田沢湖の竜子姫に惹かれて田沢湖に通うようになる。ここでまた南祖坊がちょっかいを出すけど、今度は八郎が勝って南祖坊は十和田湖に戻る」
 
「それで八郎が竜子さんとラブラブで八郎潟を留守にすることが多いので、八郎潟は次第に水深が浅くなっていってしまった。逆に田沢湖はどんどん水深が深くなっていった」
 
「今では八郎潟はほとんど消えてしまったので八郎はずっと田沢湖に住んでいるらしい」
 
「でも龍の縄張り争いってのはたいへんだね」
「その手のバトルの伝説ってけっこうあちこちにあるよね」
「あ、十和田湖っていったら、近くにキリストの墓もあるでしょ?」
と彩矢が言い出す。
 
「うん。見て来たよ」
「ほんとにキリストさんの墓だった?」
「そんなの分からないよ」
と言って青葉は苦笑する。
 
「青葉でも分からないのか」
「古い塚だなとは思ったよ。でも何のためにイエスが日本に来たのかは理由付けが難しい所だね」
 
「キリストの墓は確か羽咋(はくい)にもあったよね」
「え?ほんと?」
 
「有名人の墓ってけっこうあちこちにあったりするもん」
 
そんなことを言っていたら、おやつの匂いをかぎつけて隣のクラスから来ていた空帆が言う。
 
「それ時々混同されているけど、キリストじゃなくてモーゼの墓なんだよ」
「モーゼなんだ!」
 
空帆は輪島市出身である。
 
「ついでに羽咋に近いことは近いけど、宝達志水町だよ」
「へー」
「羽咋はUFOの里として有名でUFOサミットなんて開かれたこともある」
「ほほお」
「昔から空飛ぶ円盤の目撃情報が多いんだよね」
「それって何かの自然現象なんだろうね」
「たぶんそうだと思う。グロッケンの妖怪とか富山湾の蜃気楼とか、その手のものと似た現象なんだと思うよ」
 
「よし、モーゼの墓に行ってみよう」
などと言い出すのは、当然美由紀である。
 
「足は〜?」
「誰か運転免許取った人?」
と質問するも誰も手をあげない。
 
「あ、吉田、自動車学校行ってなかった?」
と唐突に美由紀は吉田君に話を振る。
 
「え?何何?」
と他の男子の友人と話していた吉田君がこちらに振り返る。
 
「吉田、もう免許取ったんだっけ?」
「まだだよ。今第2段階」
「何それ?」
 
「運転免許の講習は第1段階と第2段階に別れるんだよ。第1段階は校内のコースで練習する。それで仮免試験を受けてそれに合格すると第2段階になって実際の路上で練習する」
と日香理が解説する。
 
「ああ、じゃもう運転できるんだ?」
「できないよ。仮免許練習中の札を前後に出して、指導教官が助手席に同乗している状態でないと運転できない」
 
「路上で運転できるということは実際の車を走らせられるんでしょ?」
「指導者無しで運転したら無免許運転で捕まるよ」
「なんだ。面倒だね」
 
それで青葉を含めた数人が親に連絡してみる。すると結局吉田君のお母さんが車を出してもいいと言ってくれた。お母さんはふだんはミラココアに乗っているのだが、お父さんのノアを持って来てくれるらしい。
 
「行くのは5月31日・日曜日でいい?」
「OKOK」
 
「それ何人乗り?」
「7人乗り」
 
「じゃ行くのは、私と青葉と日香理と彩矢と空帆ちゃんと吉田だな」
と美由紀が言う。
 
「それで母ちゃんから伝言。モーゼの墓に行くなら、スカート厳禁、おしゃれ靴厳禁。手首まである長袖、足を完全に隠す長ズボン、帽子を着用。黒い服は上下とも厳禁。帽子も黒いのは不可。それからリップクリームやヘアスプレーも含めて化粧品の類いは厳禁。靴はスニーカーとかウォーキングシューズ、できたら軽トレッキングシューズ」
 
「何それ〜?」
「軽登山の装備が必要ってこと。香料を使うと蜂が寄ってくる。黒い服を着ていると蜂が興奮するから死にたくなかったら、黒は使わないでって」
 
「ひゃー」
「自分の喪服になってしまうのか」
 
「残念だ。せっかくだから吉田にスカート穿かせようと思ったのに」
「なんでそういう話になるんだよ!?」
 

千里の合宿は5月30日(土)の夕方、無事終了した。合宿所の部屋の片付けをしていた千里は冬子からメールが来ていることに気づく。
 
「どうしたの?」
と同室の江美子が訊く。
 
「ごめーん。打ち上げパス。ちょっと野暮用で行ってくる」
「ああ、彼氏とのデート?」
「そちらは忙しいから逢えないと返事しといた」
「ふむふむ」
 
それは冬子が麻薬を持っていたという疑いを掛けられているので、先日の芹菜リセさんとのレストランでの出来事について証言してくれないかという連絡であった。千里は
 
「忘れ物あったら悪いけどこのバッグに放り込んで私のアパートの前に置いておいてくれない?」
と江美子に言い、適当に荷物をまとめると部屋を飛び出し、NTCの駐車場に駐めていた自分のインプに飛び乗る。
 
エンジンを掛けようとしたが最初かからなかった。3回くらいやってやっと掛かった。
 
「最近ちょっと調子悪いよなあ」
などと独り言を言う。
 
このインプは2009年4月に購入したものだが、その時点でオドメーターは5万kmであった。そして千里はその後6年間に24万km走っている。もうすぐ走行距離は30万kmに達する。
 
「もうすぐ車検だし、よくよくチェックしてもらおうかなあ」
 

千里はNTCを出ると最初に冬子から指定された弁護士事務所の前まで行った。そして
 
「じゃ、千里ちゃん、よろしく〜」
と声を掛けると車を降りて自分は弁護士事務所に入っていく。一方車に残った千里は運転席に移動して自宅に向かった。
 
車を降りた方の千里(千里A)は、弁護士事務所の中に入り、先日のレストランでの出来事をそこにいる人たちに説明した。それで冬子の疑いは晴れたようで、彼らは芹菜を厳しく追及して入手経路を吐かせるなどと言っていた。
 
何か危ない話のようであったが、千里は先に冬子・政子、そして冬子たちの担当の氷川さんと一緒にタクシーに乗って冬子のマンションに移動した。そして深夜遅くまで4人で音楽談義などをしていた。
 

千里は夜1時頃、冬子のマンションを出た。氷川さんは冬子のマンションに泊めてもらうようであったが、千里に「御自宅までこれで帰ってください」と言ってタクシーチケットをくれた。
 
取り敢えずありがたくもらっておく。
 
が千里は冬子のマンションのエントランスを出る前にすっと姿を消した。 

「お疲れ様〜」
と布団に寝ている千里に声を掛ける。そして千里は彼女を吸収して自分も布団に入り、彼女のぬくもりが残る寝具の中で深い睡眠に落ちていった。
 
そして5月31日の朝、5時に起きた千里は朝食を取ったあと車で羽田空港まで出かける。そして7:40の帯広行きJAL 573便に乗る。飛行機は9:10に《とかち帯広空港》に到着。玄関のところで鹿美さんと落ち合い、彼女の車に乗せてもらった。
 
「すみませんね。わざわざ迎えに来てもらって」
「OKOK。私も千里ちゃんに随分あちこち乗せてもらってるし」
「まあついででしたけどね。今回もここまで走ってこようかとも思ったんですけど昨日の夕方まで私都内でバスケの合宿やってたんですよ」
 
「あ、そうか。バスケ選手が本業だったね」
「そうなんですよ。収入がほとんどなくて支出が年間100万以上ある本業です。お金にはならないけど、1日の大半はバスケしてますよ」
 
「すごいなあ。でもまあスポーツはごく一部の選手以外は儲からないよね」
「レースもみたいですけどね」
「そうなんだよー」
 
千里はこの春から、矢鳴さんのツテで鹿美さんと同じドライビング・クラブに所属している。今日は千里にとって初めてのレースなのである。
 
《十勝スピードウェイ》に到着したのは10時すぎであった。
 
 
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