【春来】(2)

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一方、同日の朝9時、青葉たちは伏木駅に集合した。事前に注意されていたので全員しっかりとした長袖・長ズボンに運動靴を履いている。
 
吉田君が助手席に乗り、2列目に青葉と日香理、3列目に空帆・美由紀・彩矢という配置になる。
 
「今日はうちの邦生以外はみんな女の子なのね」
と運転しながら吉田君のお母さんが言う。
 
「吉田も女の子みたいなもんだよね」
などと彩矢が言う。
 
「そうそう。吉田って女子制服も似合うし」
と美由紀。
 
「あんた女の子の服も着るの?」
とお母さんが言う。
 
「着ない、着ない。一度だけこいつらにハメられて着せられたんだよ。恥ずかしくてたまらなかった」
と吉田君。
 
「そうだね。無理に着せられたということにしておこうか」
 
「あんた、女の子になりたいなら正直に言ってね。家の中でスカート穿いてもいいよ」
などとお母さん。
 
「別に女になりたくはねーよ!」
と吉田君は怒ったように言った。
 

車はいったん高岡市の中心部方面に進んだ後、農道を突っ切って氷見市方面に向かう。
 
「あ、これATMの怪を見に行った時の道だ」
と美由紀が言う。
 
「ああ、見に行ったね」
と青葉は懐かしそうに回想しながら言った。
 
当時廃墟と化していたATMは今回は見付けることができなかった。おそらく撤去されてしまったのだろう。
 
その農道を抜けた後、国道415号を通って羽咋(はくい)に向かう。3月に雛人形を見に七尾まで行った時は県道18号で県境を越えたのだが、県道18号と並ぶ、能登半島の石川県側と富山県側を結ぶ重要な道路がこの国道415号である。
 
カーブは18号より「少しマシ」という程度なので、彩矢などはけっこう気分が悪くなっている感じだった。それで県境を越えた所にある熊無の休憩所で30分くらい休んでから先に進んだ。
 

「いや、参った参った」
と千里はヘルメットを脱ぎながら言った。
 
「お疲れさん」
と鹿美さんが声を掛けてくれる。
 
「やはり上品な走り方してたらダメですね。決勝に残れなかった。またやり直しかな」
と千里は言う。
 
「いや、予選通過タイムに30秒足りなかっただけだもん。初めてのレースでこれだけ走れたら充分だよ。コンソレーション・レース(敗者復活戦)頑張ろう」
「はい」
 

吉田君のお母さんが運転するノアに乗った青羽たちは、国道415号を羽咋市まで降りて行った後、コンビニで少し休憩してから今度は国道159号を西進、結局11時頃に「モーゼパーク」に到着した。
 
お母さんは車内で休んでいるということであったので、他の6人でモーゼの墓まで行くことにする。吉田君のアドバイスで青葉が買っておいた虫除けスプレーをみんな手や顔に掛けた。
 
「しかし竹内巨麿さんも人騒がせだよねー。青森ではキリストの墓を発見して能登ではモーゼの墓を発見して」
 
と空帆が笑って言っている。
 
「ここは能登になるんだっけ?」
と美由紀が尋ねる。青葉も微妙な付近かなという気がした。
 
「うん。能登と加賀の境目は、だいたい旧高松町と旧宇ノ気町の境界付近なんだよ。だから、このあたりは能登の南端に近い付近」
 
と輪島出身の空帆が解説してくれる。
 
車を降りた近くに何か柱のようなものが立っているのを見るのでまずは行ってみる。
 
「これ何だろう?」
「さあ」
 
とりあえず細長い柱が3本立っているが、何なのかはよく分からなかった。
 
美由紀や空帆が取り敢えず写真を撮っていた。その後、遊歩道に入る。
 
「遊歩道っていうか山道だね?」
と日香理が言う。
 
「うん。今の時期でもこんなものだから夏とかに来ると、蚊が大軍で押し寄せてくると思う」
と吉田君。
 
「蚊くらいならいいけど、蜂とか来たら怖いね」
「熊に注意なんて看板もあったし」
「注意と言われてもお見合いしたらどうすればいいんだろう?」
「まあ、ひとりでは来ない方がいいね」
 
少し歩いた所に何やら小屋があるので入ってみると、記帳所になっていてモーゼ伝説の解説などもしてあった。
 
「十戒を授かったのはこの宝達山だと」
「シナイ山じゃないの〜?」
「ここがシナイ山だったりして」
「うーん・・・」
 
「十戒が刻まれたメノウの石を天皇に献上し、天皇の娘・大室姫をモーゼに嫁がせたと」
「何天皇なの〜?」
 
「モーゼが活動したのはだいたいBC13世紀、日本は神武天皇が即位したのが日本書紀の記述をそのまま信用してもBC661年」
と日香理が解説する。
 
「時代が合わないじゃん」
「でもいわゆる古代文書の類いによれば神武天皇以前にもウガヤ朝とかアエズ朝とかいって多数の天皇がいたと言われている」
 
「うーん・・・・」
 
「だいたいモーゼってイスラエルの民を約束の地に導く途中で120歳で亡くなったという話だったのに。道の途中でイスラエルの民を放置して日本に来たわけ〜?」
と彩矢が疑問を呈する。
 
「もっとおかしいのが青森のキリストの墓のほうだよね。ゴルゴタの丘で死んだのは弟のイスキリだったというけどさ、あそこでイエスが死んだのでなかったらキリスト教の信仰そのものが崩壊するよ」
と日香理が言う。
 
「まあ竹内文書は色々と問題点が多い」
と青葉も苦笑しながら言った。
 
「でもイスキリってちょっと聞くとイシキリにも聞こえるね」
と美由紀が言う。
「ああ、イシキリなら日本人の苗字にもあるよね。石切さん」
と彩矢。
 
「うちの親戚にもいるよ、石切さん」
と空帆。
 
青葉はそれを聞いて「え!?」と思った。
 
「そうそう。このモーゼの墓の近くに平林、平らな林と書いて『へらいばし』と読む地名があるらしいよ。ふつうならこの地名は「ひらばやし」だけどね。このヘライというのがヘブライではないかという話がある(*1)」
と空帆が言う。
 
青葉はその時『あれ〜。平林ってどこかで聞いた名前だぞ』と思ったが、その時はすぐには思い出せなかった。
 
(*1)筆者注。この情報はネットに流布しているのですが、私は地図上では平林という地名を見付けきれませんでした。平床ならありますが「ひらとこ」と読むことをmapionと郵便局の郵便番号一覧で確認済みです。
 

取り敢えずみんなでわいわいと記帳してから道を進む。
 
記帳所があったから、その先すぐなのかと思ったら全然目的地に着かない。
 
「これどのくらい掛かるの〜?」
と既に疲れている顔の美由紀が訊く。
 
「うちの母ちゃんは15分くらい掛かるって言ってた」
と吉田君。
 
「そんなに遠いの〜?」
 
傾斜がけっこうきつく、美由紀や彩矢が遅れがちなので、それを待ってあげて歩いていたら結局駐車場から25分ほど掛けて、やっとミステリーヤードなる所に到達する。ここは元々「三ツ子塚」と呼ばれているものらしく、三つの小高い塚が並んでいる。
 
「真ん中がモーゼの墓、左が奥さんの大室姫、右がモーゼの孫の墓らしい」
 
「なぜ突然孫が出てくる?」
「子供は〜?」
「さあ」
「そもそもモーゼって結婚してたんだっけ?」
 
「してる。出エジプトをする前にツィポラという女性と結婚し、ふたりの息子ゲルショムとエリエゼルを設けている。ただしモーセは自分の息子を後継者にしなかった。従者ヌンの子、ヨシュアが後を継いだ」
と聖書に詳しい日香理が解説する。
 
「そういうのはいいね」
「うん。子供が継ぐと概して劣化コピーになる」
 
「ツィポラというのは小鳥って意味らしいよ」
「小鳥ちゃんかぁ」
「可愛い名前だね!」
 

それで取り敢えずモーゼの墓なるものにアプローチする。
 
「うーん・・・・」
 
「何か板が刺さってる」
「字は読めないね」
「たぶんモーゼの墓とか書かれていたのでは」
 
「取り敢えずお墓だしお参りしよう」
 
「モーゼさんなら十字を切らないといけない?」
と美由紀が訊くが
「みんなクリスチャン?」
と青葉は問う。
 
「私、仏教徒〜」
「同じく〜」
 
「だったら合掌すればいいよ。異教徒なのにキリスト教徒の真似する方がおかしい」
と青葉は言う。
 
「私も同意見。自分の心に従うお祈りの仕方をすればいい」
と日香理も言う。
 
それでみんなお墓の前で合掌した。
 

「よし、帰ろう帰ろう」
 
と言って山を下りるが、
 
「なんか消化不良〜」
という声が多い。
 
「モーゼの像を造ろうなんて話もあったらしいけど、予算がなくてうやむやになってしまったらしいよ」
と空帆が言う。
 
「要らん要らん」
「駐車場そばにあった怪しげなモニュメントだけでも充分という感じだ」
 
「ここまで来たついでに羽咋のコスモアイルに行かない?」
と空帆は提案した。
 
「それ何?」
「UFOとロケットの展示館。本物のアメリカの宇宙船とかも展示されている」
「おっ、行ってみよう」
 

それで車に戻ると、また吉田君のお母さんの運転で羽咋市に移動した。山道を歩いた後なので、車内では熟睡していた子もいた。お腹が空いたという意見も多かったので、ゴーゴーカレーに寄ってお昼にした。
 
青葉が「お昼代は私のおごり」と言うと、美由紀などカレーを3杯も食べていた。
 
満腹したところでコスモアイルに行く。
 
「なんかロケットが立ってる」
「この建物自体がUFOの形なのか」
 
「あのロケットはマーキュリー計画で実際に使用されたロケットなんですよ」
と空帆が言う。
 
「本物なんだ!」
「すごー!」
 
それで中に入ってみると、展示物はUFO関連のものと宇宙開発関連のものに別れていた。羽咋には昔から「そうはちぼん」というものが見えるという話があるらしい。夜中に円盤状の物体が飛んでいるのを多数の人が目撃しているということである。
 
「なんか面白いもんがある」
「宇宙人の死体か!」
「これテレビで見たことあるー」
「ここでこんなものを見ることになるとは」
 
しかしここは展示されている宇宙船の数々が壮観である。
 
バイキング着陸船、ルナ24号、アポロ月面着陸船、ボイジャー探査船、アポロ司令船、モルニア通信衛星、ルナ/マーズ・ローバー、ヴォストーク宇宙船、マーキュリー宇宙船。
 
「よくこんなに集めたね」
「物凄くお金が掛かってる」
 
「いや、これを見ただけでも今日遠出してきた価値があった」
などと言っている子もいる。
 
モーゼの墓の方がやたらと苦労した割に何も無かったので、ここの物凄い展示がよけい楽しくなるのだろう。
 

コスモアイルを見た後は、恋愛に御利益(ごりやく)があるという気多大社(けたたいしゃ)に寄ってお参りした。
 
「なんか神社とかお寺とかに来るとホッとする」
「まあ小さい頃からそういうものに慣れてるからね」
 
恋みくじなどというのがあるので、引く子が多かったが、美由紀が
 
「がーん。凶だ」
と言って嘆いていた。
 
「あれ、青葉は引かないの?」
「うん。私は恋では迷ってないから」
と青葉。
「日香理も引かないのね」
「うん。私も青葉と同じ。迷ってない」
 
「日香理さ、彼氏は大学どこに行くの?」
と美由紀が訊く。
 
日香理は暗い顔をして答えた。
「たぶん大阪のO大学かK大学になると思う」
 
「日香理は東京に行くんでしょ?」
「うん。だから遠距離恋愛かなあ」
 
「東京と大阪で大変だね!」
 
それで青葉は言った。
「うちの千里姉も、千葉の大学に入って、彼氏は大阪の会社に勤めていて、それで毎月2回車で大阪まで往復してたんだよ」
 
「すごーい!」
「頑張ったんだね」
 
「青葉も岩手の彼氏と遠距離恋愛してる」
と彩矢が指摘する。
 
「うん。今は千葉の大学に通っているんだけどね」
「青葉、北陸新幹線ができたんで、だいぶ彼氏と会いやすくなったでしょ?」
「うん。でも新幹線は高いよ」
「確かに」
 
「私も運転免許取って車で会いに行こうかなと思ってるんだよ」
と青葉。
「それがいいかもね」
 
「両方が車を運転してきて中間点で会ってもいいんじゃない?」
「ああ、そういう手もあるね」
 
「大阪と東京なら名古屋とか、金沢と千葉なら長野とか」
 

そんなことを言いながら、気多大社の境内を出て駐車場に行く。その時、青葉はノアのそばに何か赤い石が落ちているのに気づいた。
 
何気なくそれを拾った時、どこかで「カチッ」という音がした気がした。
 
え!?
 
この感覚、確か十和田湖でもしたぞ。
 
あの時拾った青い石、どこやったっけ?と焦ったが、ちゃんとバッグの内ポケットに入っている。並べてみると、ちょうど同じくらいの大きさである。
 
これはセットだ!
 
と青葉は確信した。しかし同時にこれだけでは足りないというのも認識した。たぶん・・・・石は3つ必要だ。
 
「気多大社の神様って誰だったっけ?」
と美由紀が言い出す。
 
「大己貴神(おおなむちのかみ)、別名・大国主神(おおくにぬしのかみ)、いわゆる大国様(だいこくさま)だよ」
 
「因幡の白ウサギに助けてもらった人だっけ?」
「逆! 白ウサギを助けたんだよ」
「あ、そうか。ワニに身ぐるみ剥がれたのね」
「ふつう皮を剥かれたら死なない?」
「元気なウサギだったんじゃない?」
 
「大国主命(おおくにぬしのみこと)って須佐之男命(すさのおのみこと)の子供だっけ?」
と吉田君が訊く。
 
「うん。子供という説もある。古事記では6世の孫ということになってる。須佐之男神−八島土奴美神−布波能母遅久奴須奴神−深淵之水夜礼花神−淤美豆奴神−天之冬衣神−大国主神」
 
と青葉が暗誦すると
 
「呪文みたいだ!」
とみんなから言われた。
 

羽咋からは、来る時の山越えの道がやはり辛かったという意見が多かったので遠回りにはなるものの、のと里山海道(旧能登有料道路)を南下して、津幡北バイパス・国道8号線を走って高岡まで帰還した。
 
伏木駅で解散するが、みんな吉田君のお母さんによくよく御礼を言った。ガソリン代はあらかじめみんなで出し合っていたお金を渡した。
 
「お母さん、吉田君がスカート穿きたいって言ったら認めてあげてくださいね」
「うん分かったよ」
「ちょっと待て。俺、そんなの穿きたくないって」
「無理しなくて良いのに」
「心の声に従った方がいいよ」
「俺マジで女装趣味とか無いから」
 
などとやりとりしたが、お母さんは冗談と思ったか本気にとったか判然としない。
 

千里は笑顔で車から降りると、ヘルメットを取って鹿美さんと握手した。
 
「おめでとう」
「ありがとうございます。今度はこんなに走れるとは思わなかった」
「思い切りやったんじゃない?」
「そうなんです。なんか午前中のレースでは自分を無意識に抑えてしまったみたい。今回は恐れずに自分の能力をそのまま注ぎ込んで行った気分」
 
と言いながら千里はそれって色々な場面で言える話だぞと思った。
 
「うん。レースって走るのは車だからさ。そのあたりの気持ちの問題で随分成績が変わるんだよね」
「もっとも自分がコントロールできる範囲を越えたら死にますけどね」
「まあ死なない程度に頑張ろう」
 
表彰式が始まる。千里は表彰台のいちばん高い所に立って、賞状を受け取り拍手してくれるギャラリーに笑顔で手を振った。
 
まあ敗者復活戦での優勝でも、取り敢えず優勝には間違いないよね!
 

青葉が自宅に戻ると、母が
「お疲れ様」
と言って、アッサムのミルクティーを入れてくれた。
 
「美味しい美味しい」
 
「モーゼの墓ってどうだった?」
「苦労した割に肩すかしをくった気分だった。隣の羽咋のコスモアイルが面白かった」
「へー」
 
「でも鍵を拾った」
「鍵?」
「こないだ岩手・青森まで行ってきた案件なんだけどね」
「ふーん」
 
青葉が仕事のことを他人に話すのは珍しいが、この時はなんか誰かに話したい気分だったのである。
 
「どうもかなり古い戦いにルーツがあるみたいで。あれはたぶんアテルイとかより更に前の時代じゃないかなあ」
 
「アテルイと言ったら、坂上田村麻呂と戦った人だっけ?」
「そうそう。8世紀の戦乱だから、1200年以上前。でもあれはもっと古い」
 
と言いつつ、青葉は美鳳さんたちの時代っていつだっけ?などと思った。すると
 
「蜂子皇子が出羽に来て、私たちがお迎えしたのが594年」
と美鳳さんの声が響いてきた。青葉はそちらに会釈した。
 
「こないだはキリストの墓に行ってきたんでしょ?」
「そうそう。あれもかなり古い年代だと思ったんだよね」
 
「だったら本当は古い時代の豪族のお墓なんだろうね」
「たぶんそうだと思う。それでキリストの墓を見た後十和田湖で最初の鍵を拾ったんだよね。でも鍵は3つ必要って気がしたんだよ」
 
「それ三位一体みたいな話?」
「あ、そうかも」
 
「でもキリストにモーゼにと出てきたら、あとは何だろうね」
 
「うーん・・・・・最初の人類アダムやエヴァか、ノアかヤコブかヨセフか・・・」
 
と言いつつ、今日は吉田君のお母さんのノアに乗せてもらったことを意識する。たぶん今日の探訪に最適の車だったんだ。
 
「ノアって洪水の人だっけ?」
「そうそう」
「そのヤコブとかヨセフは分からない」
 
「ヤコブは天に続く階段、Jacob's Ladder を見た人、ヨセフはその子供でエジプト王の夢解きをして、エジプトを飢饉から救った人」
 
「ああ、なんかそういう話があったね」
 
「でもアダムの墓はイエスが処刑されたゴルゴタの丘がそうだと言われているし、ノアの墓は諸説あるけど未確定。少なくとも日本には無かったはず」
 
などと青葉が言ったら
 
「でもキリストに対抗できるのは私は、お釈迦様かマホメットかゾロアスターかと思ったよ」
などと母が言う。
 
「お釈迦様はインドのクシナガラで亡くなったはず」
「祇園精舎じゃなかったんだっけ?」
 
「祇園精舎、省略せずに言えば祇樹給孤独園精舎は、釈迦が生きている時代に建てられたお寺のひとつ。別に入滅の地ではないんだよね。でも平家物語の物悲しい語りから、結構誤解している人いるね」
 
「うん。私も祇園精舎の鐘の声ってので」
「しかも釈迦の時代のお寺に鐘なんて無かった」
「あららら」
 
「マホメットというかムハンマドが亡くなったのはサウジアラビアのメディナ。ゾロアスターというかザラスシュトラが亡くなったのはアフガニスタンのバルフ。どちらも多分日本には関わってない」
 
と青葉は遠くに視線をやりながら言った。
 

ところで吉田君は自宅に戻って母に
 
「今日はありがとね」
と言ったのだが、
「あんた、本当に女の子になりたい訳じゃないんだっけ?」
などと母に言われる。
 
「なりたくないよー」
 
「この写真は?」
と言って母が見せたのは、1年生の時に空帆にうまく乗せられて合唱大会で女子制服を着てステージに立った時の記念写真である。
 
「それ捨てたのに!」
「捨ててあったの拾ってたのよ」
 
「それ、女子合唱部で女が急に2人休んで人数が足りないと言われてさ、強引に女子制服着せられたんだよ」
「そうだったんだ!」
「もう恥ずかしくてたまらんかった」
 
「じゃ本当に女の子になりたいんじゃないのね?」
「なりたくない。俺チンコ取られるくらいなら死にたいよ」
 
「まあ別におちんちんなんて無くても困らないけどね」
「母ちゃんは無くてもいいだろうけど、俺は困る!」
「なんなら今のうちに睾丸だけでも取る?高校生くらいで睾丸を取ったら、あまり身体が男性化しない内だから女らしい身体になれるらしいよ」
「玉取るなんて嫌だ」
 
「女の子になったら可愛い服着られるのに」
「着たくない!」
「成人式に振袖着たいならお金出してあげてもいいよ」
「成人式はパス」
 

今回千里のドライビングクラブから十勝スピードウェイに来ているのは男性が5人と女性が4人で、実際にレースに出場したのは千里を含めて6人であった。車両は友好関係にある札幌のクラブから借りたのだが、運搬はこちらの責任でやる。千里は来る時はギリギリで入ったので、帰りはこの運搬を担当することにした。
 
キャリアカーは3台積みのを2つ持って来ている。まずはみんなで協力して4台積み込んだ上で、手ぶらで帰るメンバー7人を千里と鹿美さんの2人で帯広空港まで運んだ。その後、帯広空港までの往復に使った2台もキャリアカーに積み込み、ふたりでそれぞれ1台ずつ運転して札幌に向かう。
 
札幌までは200kmほどの距離でこれを4時間ほど掛けて運んだ。向こうのクラブの人に御礼を言って札幌駅に移動する。実際は向こうのクラブの人が送ってくれたので、再度御礼を言って別れた。
 
駅前で一緒に晩御飯を食べた後、22:00発の《はまなす》に乗り込む。切符を見ながら自分達の席に行く。今回は実は人気のカーペット席が取れたのである。女性専用席1階の隣り合う席なので、取り敢えずカーペットの上に座り込む。このカーペット席というのは、いわばフェリーの2等室のような感じでカーペットが敷かれており、布団も付いているので横になって乗車することができる。いわば「区切られていない」寝台のようなものである。2階席は事実上個室に近いが、1階席は4人単位で1区画になっている。その先頭側(青森側)1区画が女性専用になっているのである。
 
同じ区画で一緒になった人達も友人同士のようで、40代くらいの女性2人組であった。軽く言葉を交わしたら、青森から来た人でこの週末、定山渓温泉まで来ていたのだと言っていた。
 
「私たちは東京方面からカーレースに出るのに来ていたんですよ」
「へー、すごーい」
「F1みたいなの?」
と向こうの佐々木さんという人が訊く。
 
「あんな凄いマシンじゃなくて、ふつうに公道を走れる車なんですよー」
「へー、そういう車でもレースするんだ?」
「ハイブリッドカーでのレースも一緒に開催されて、プリウスやCR-Zがたくさん並んでましたよ」
 
「わぁ、私もプリンスいいなと思ってたのよ。お父ちゃん、次はプリンスにしようよと言ってるんだけど」
 
という向こうの工藤さんの発言には千里も鹿美さんも敢えて突っ込まないことにした。
 
「おふたりとも東京の人?」
と佐々木さん。
 
「私は新潟出身なんですが、もう東京に10年住んでます」
と鹿美さん。
「私は留萌出身なんですが、6年ほど千葉に住んでます」
と千里。
 
「あら道産娘なんだ!」
 
「父から漁師になれと言われたのを逃げて千葉まで行っちゃいました」
「女の子にも漁師になれって言うの!?」
「まあさすがに沖合まで行くような船には乗せないだろうけど、沿岸を回る船にはけっこう若い女性も乗ってるんですよ」
「なるほどー」
 
「まあ、あと海女さんは女性が大半だよね」
「男性の海女さんというのは聞いたことない」
 

「おふたりとも青森市の近くですか?」
「五所川原って所なんだけどね」
「ああ。お隣のつがる市には私、高校生時代に行ったことありますよ」
と千里が言うと
「それ遮光器土偶の出たところだっけ?」
と鹿美さんが言う。
「そうそう。亀ヶ岡遺跡。近くの木造駅とか駅が巨大な遮光器土偶になってるよね」
と千里。
「遮光器土偶って可愛いよね」
と佐々木さん。
「ええ、可愛いですよね−」
と千里も同意する。
 
「でもなんか青森って色々怪しいスポット多いんだよ。戸来村(へらいむら)にはキリストの墓があるし、うちの五所川原にはお釈迦様の墓があるし」
と佐々木さん。
 
「それは凄い! キリストも釈迦も日本で死んだんですかね?」
と鹿美さんが言うが
 
「分骨したのをもらったんじゃないかね」
と工藤さんが物凄く現実的なことを言う。
 
「ああ、それならあり得ますよね」
「仏舎利塔なんてあちこちにたくさんあるし」
 
「お釈迦様もたいへんねー。死後自分の身体が広い範囲に分散して」
「まあ死んだら本人としては遺体はどうでもいいかも」
 
「でも五所川原の釈迦の墓は何だか偉い霊能者さんがここだって認定したらしいよ。最初は長野県のほうでそれらしき場所を見付けたらしいけど、更に研究していたら、そちらは分骨したもので、本体はこちらだって」
 
「へー。何て霊能者ですか?」
「何とか菊子さん」
 
「山根キクですか!」
と千里が半分驚いたような声で言う。
 
「あ、そうそう。そんな名前」
と工藤さん。
 
「キリストの墓が戸来村にあるってのも、竹内何とかさんより先にその菊子さんが言い出したんだって」
「へー!」
 
彼女はそう言っているが、千里の認識では山根キクは竹内巨麿の共同研究者に近い存在だったのではないかと思った。山根はミッションスクールの出身なので竹内文書のキリスト教に関わる部分には山根の関与もかなりあるのではと千里は想像していた。
 
「あ、興味あるならお釈迦様の墓、行ってみる?」
と工藤さんが言う。
 
「私、行ってみたいかも」
と鹿美さんが言うので、明日そこに行くことが確定した。
 

急行《はまなす》は6月1日(月)5:39に青森駅に到着した。4人で一緒に朝御飯を食べた後、駅の近くに駐めてあった佐々木さんのトヨタistに4人で乗り込む。車は国道7号・101号を走りやがて細い道を登って青森県自然ふれあいセンターという所まで行った。時刻は8時頃である。
 
「あれが梵珠山。そこの中腹に寺屋敷というところがあって、そこがお釈迦様の墓なんだって」
 
「旧暦4月8日と7月9日には御灯明が降臨するんだって」
「旧4月8日っていつだろう?」
「5月25日ですね」
と千里は手帳を見ながら言った。
 
「過ぎちゃってるね」
「先週来たら見られたのかな?」
 
「一応登山道もあるけど」
「山頂まで2.4km 70分と書いてある」
 
千里は
「ちょっと行ってみようかな」
と言ったのだが、他の3人は
「私たち待ってるね」
と言った。
 
それで千里は登山靴に履き替えると水と非常食をリュックに入れて少し膝の屈伸運動をする。
 
「なぜ登山靴を持っている?」
と鹿美さんから訊かれる。
「うーん。私、必要になるものが事前に分かる性格なんですよねー」
と千里。
「あ、たまにそういう人いるね。その人が傘持って出た日は必ず雨が降るとか」
と工藤さん。
 
「雨の降る日は分かりますよ」
と千里。
「やはり!」
 

それで千里は最も古くからの登山道だというサワグルミの道を選んだ。その登り口までは車で行けるので佐々木さんに送ってもらってから、鳥居を通って登り始める。佐々木さんたちはふれあいセンターで展示を見ているということであった。
 
六角堂休憩所、岩木山展望所、八甲田山展望所、と通過していくと分かれ道がある。ここがふれあいセンターでもらった地図で見ると寺屋敷南広場のようである。「←釈迦堂山山頂10分、→梵珠山山頂20分」と書いてあるので千里は梵珠山山頂の案内板の方に進む。
 
すぐに寺屋敷北広場に到達する。
 
『さっきの所が南広場でここが北広場なら、寺屋敷は気がつかないうちに通過しちゃった?』
『ここから右手の登山道を行った所にあるんだよ』
と《とうちゃん》が教えてくれる。
 
『じゃ、そっち行けばいい?』
『せっかく来たから先に山頂に行ったら?』
『そうするか』
 
それで少し歩いて梵珠山山頂に到達した。七体の観音像が並んでいるので千里は1体ずつ合掌してご挨拶をした。このサワグルミの道は標準時間が75分らしいが、千里は1時間も掛けずに到達した。
 
山頂の展望台で景色を見ながら水分補給・カロリー補給してから下ることにする。さっきの寺屋敷北広場まで降りてきた後、マンガンの道の方に進む。少し行ったところで
 
『千里ここだよ』
と《とうちゃん》が言った。
 
『ああ、確かに何かあるね』
『まあ挨拶だけしていきな』
『うん』
 
それで千里はその何かある場所に向かって合掌した。
 
それで更に道を行こうとした時、何かを登山靴の先で蹴ってしまった。
 
「何だろう?」
と独り言を言いながら拾い上げると、小さな黄色い石である。
 
『千里、それを青葉に渡してあげなよ』
『青葉に?』
『それ欲しがってるから』
『へー!』
 

その後「越口」(峠という意味)と書かれている所を通り、陸奥湾展望所を通り、結局山頂から40分くらいで、ふれあいセンターの所まで降りてきた。到着したのは10時半頃である。往復で休憩時間も入れて2時間程度の山歩きであった。
 
「お疲れ様〜」
と待っていた3人から声を掛けられる。
 
「どうだった?」
「気持ち良かったよ。見晴らしも良かったし」
「ああ、見晴らしはいいだろうね」
「火の玉見た?」
「夜中しか見えないかも」
「それは言えるね!」
 
「写真撮った?」
「撮ってない」
「あら残念」
「私が写真撮ってもまずまともに写らないんですよ」
「もしかしてカメラ音痴?」
「いや、機械全般に音痴です」
「それでよく車を運転できるね?」
「車は何となく感覚で運転するし」
 
ふれあいセンターのトイレで汗を掻いた下着を交換させてもらう。それから4人で7号線付近まで降りてからファミレスのような所で少し早めの昼食を取った。お金は千里が出した。その後「どうせ近くだし」と言って佐々木さんたちは千里たちを新青森駅まで送ってくれたので、千里たちは12:39のはやぶさ20号に乗って東京方面に帰還した。
 

鹿美さんは自宅が埼玉県、そして千里もこの後高岡に行くのでふたりとも15:38に大宮で《はやぶさ》を降りる。それで千里は16:18の北陸新幹線《はくたか569》に乗り継ぎ、18:42新高岡に到着した。
 
新高岡駅に降り立つと青葉と朋子が迎えに来てくれている。
 
「わあ、ありがとう」
「いやびっくりしたけど、何かあったの?」
「青葉、これあげるね」
と言って千里は梵珠山の『釈迦の墓』のそばで拾った黄色い石を渡した。青葉が受け取った時、青葉は「カチッ」という音を聞いた。
 
3つ目の石だ!
 
「これどこにあったの?」
「お釈迦様の墓の前で拾った」
「お釈迦様の墓! それどこにあるの?」
と青葉が驚いたように訊く。
 
「青森。正確には五所川原市と青森市の境界。あそこはまだ青森市の範囲かな」
「そんな所にお釈迦様の墓が!?」
「梵珠山で検索してごらんよ。青森県自然ふれあいセンターのパンフレットに詳しい場所が書いてある。はい、これ」
 
と言って千里はそのパンフレットも青葉に手渡した。
 
「じゃね!」
と言って千里がまた駅の中に戻ろうとするので朋子が呼び止める。
 
「御飯でも食べてから帰りよ」
「うん。そうしようかな」
 

それで朋子の運転で伏木の自宅まで戻った。朋子がカレーを仕掛けてタイマーをセットして出ていたのでルーを加えて10分で仕上がる。
 
「美味しい美味しい」
「カレーはいつでもいいよね」
 
「でも、やはり何か案件を抱えていたのか」
と千里が言う。
「鍵を2つまでは拾ったんだけど、もうひとつがなかなかヒントが無くて」
と青葉。
 
「なんかかなり古いものって気がしたよ」
「うん。これは凄まじく古いものなんだよ」
 
「青葉が漂わせている雰囲気だけから見ると飛鳥時代くらいの古さって感じ」
「うん。これって物凄く古い」
 
「これって呪いじゃないよね」
「そんな気がしてきた。むしろ幸運をもたらすものと思うんだ」
 
「同感。その悪夢見ている人って、単に自分のエネルギーをコントロールできてないだけじゃないの?その悪夢ってパワーの暴走だと思う」
「やはりそう思う?」
 
「車のエンジンだってガソリンの爆発だけど制御された中で爆発しているから有用なエネルギーとして取り出せる。原子炉だって凶暴な破壊力があるけど大学の先生レベルの専門家が扱う限りはまず問題は起きない。その人は自分の力を制御できてないんだよ。放射能漏れみたいなもん」
と千里は言う。
 
「うーん。原子炉に関してはその意見には私は必ずしも賛成できないけどちー姉の言いたいことは分かる。この人も本当は修行でもしてもらうのがいいんだろうけどね」
と青葉。
 
「うん。お勧めは滝行毎日30分最低2年」
 
などと千里が言う。青葉はそれちー姉がした修行?などと思いながら答える。
 
「という訳にもいかないから、最低限の防御のお手伝いをしようということなんだよ。それで模索しているうちに鍵が3つ必要だと思ったんだ」
 
「神話的トロイカだよね。天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神とか、天照大神・須佐之男神・月読神とか、火照命(海幸彦)・火須勢理命・火遠理命(山幸彦)とか」
と千里。
 
「それそれ。3って何か深い霊的な意味があるみたい。キリスト教でも三位一体があるし」
と青葉。
 
「観音菩薩・地蔵菩薩・不動明王が仏教的三位一体と言っていた人もある」
「それ、むしろ仏教的民間信仰でしょ」
「そうそう。父母子の三位一体」
「日本人にキリスト教の三位一体の話をすると、神・聖母マリア・キリストと答える人が結構いる」
 
「まあ異教徒は間違うよね。聖霊って思いつかない。観音・地蔵・不動は男女子になってるけどね」
と千里が言うと。
 
「それ、その順序で男女子だよね?」
と青葉は確認する。
 
「そうそう。ふつうの人は不動=父、観音=母、地蔵=子と思う。でもオカルティストなら、観音=父、地蔵=母、不動=子と考える」
「だって観音様って、どう考えても男神じゃん」
 
「まあシヴァの要素が大きいよね」
「うん。アヴァローキテシュヴァラ」
 
「でも観音様って女神と誤解されがちなんだよなー」
「それどころか女性器のことを観音様ともいうし」
「あれは観音開きになるからだと思う」
「あ!そうだったのか!」
 
そんなことを言っていたら
「あんたたちの会話は高尚なのか低俗なのか、さっぱり分からん!」
と朋子から言われた。
 

「そういえばこないだ行ったキリストの墓のところでイエスは越中の偉い人に弟子入りしたなんて書かれていたんだけど、ひょっとしてそれって押水に居たモーゼだろうか」
と青葉は唐突に思いついたことを言った。
 
「それはあるかもね。元々の越中って石川県と富山県をあわせた領域だから」
と母が言う。
 
「そうか。越の国が越前(福井県)・越中・越後(新潟県)に別れて、その後、越中から加賀が独立して、更に加賀から能登が独立したんだったね」
「そうそう」
 
「でもモーゼとイエスでは時代があまりにも違いすぎる」
「どちらも大昔ということで」
「それ時代を合わせるためにモーゼは500歳まで生きたことにしたんだったりして」
「500歳まで生きてもイエスの時代には届かないんだけどね」
「あまり分かってなかったんじゃないかなあ」
 

千里はその日の最終新幹線(新高岡1959→2252東京)で帰って行った。
 
そして青葉は千里からもらった黄色い石(釈迦の墓)、十和田湖で拾った青い石(キリストの墓)、気多大社で拾った赤い石(モーゼの墓)を並べてみて、確かにこの3つはセットだと確信した。全然違う場所で拾ったのにサイズ・形も似通っているのである。
 
「赤青黄って三原色かな?」
 
それで青葉は6月5日(金)の夕方、また盛岡まで出かけて行った。真穂のアパートに泊めさせてもらい、翌6日朝、一緒に石切さんの家に行く。青葉は丸い透明なプラスチックトレイに乾燥剤の上に綿を敷いて3つの石を120度ずつ離れた位置に置いたものを石切家の神棚に置かせてもらった。
 
そしてローズクォーツの数珠を持って般若心経を唱えた。
 
「これでもう大丈夫ですよ」
と青葉は笑顔で石切さんに言った。
 
「いや、こないだ頂いた御札を枕の下に敷いて寝てたら、全然悪夢を見なかったんですよ」
 
「それもこの神棚の左側に納めていいです」
 
「でも神棚なのに、この観音様の御札を置いてもいいんですかね?」
「日本の神様は八百萬(やおよろず)おられるので、そこに仏教の仏が入っても問題無いんですよ」
「なるほどー。それでお経をあげてもいいんですね?」
 
「私の曾祖母は鈴(りん)を叩きながら祝詞を奏上してましたよ」
「面白いですね!」
 

青葉は今回の事件の問題点を語った。
 
「悪夢を見るのは、実は石切さんご自身の中にある物凄いパワーを石切さんご自身が制御できてないからなんです。お母様も子供の頃、似たような悪夢を見ておられたとおっしゃってましたが、大人になって見なくなったのはそれを制御できるようになったからなんですね」
 
「ああ、そういうことだったのか」
「家系的にそういう強いパワーを使うことができるのだと思います。石切さんがまだお若いのに部長さんになられたのは、そのパワーを使えるからというのもあると思います」
 
「確かにもうきつい、と思ったような時にどこからともなく力が湧き上がってくることがあるんですよ」
「そのパワーの使い方を覚えると、もっとお仕事が発展すると思いますよ」
「なるほどー」
 
「ただお母様などが子供の頃からその夢を見ていたのに、石切さんは最近見るようになったのは、たぶん石切さんの霊的な感覚がお母様ほどは強くないので見ていなかったのが、工事の影響で霊道がまともにこの家にぶつかってしまい、感覚の弱い人でも悪夢を見るようになった結果、霊的な感覚が開発されてしまったんだと思います」
 
「なるほどー。それは納得できます」
「それと男性と女性の差もあると思います。どうしてもこういう感覚は女性の方が強く出るんですよ」
 
と青葉が言った時、石切さんは衝撃的なことを言った。
 
「あ、だったらそれは最近僕が女装するようになったからかも」
 
へ?と青葉は思ったが、そんな気持ちは顔に出さない。しかし真穂は声に出してしまった。
 
「石切さん女装なさるんですか?」
「ええ。実はここ3年くらい、会社には男として出て、自宅では女として生活するという二重生活になっていたんです。いや、済みません、川上さんは会社の人から紹介されたもので、男装でお会いしていたのですが」
 
「ちょっと待って下さい。それなら、ちょっと女装して頂けませんか、防御の方法が違います」
「あ、そうなんですか?」
 
それで青葉と真穂が居間にいる間に石切さんは寝室に行って着替えてきた。お化粧もしているし、髪も長い。ウィッグであろうか。
 
「美人〜!」
と真穂が笑顔で言う。
 
「お恥ずかしいです。私、女の声が出ないんですよね」
と石切さんはいわゆる《ささやき声》で話す。
 
「違和感、全然無いですよ。ふつうに女性にしか見えません」
と青葉も言った。
 
「女性ホルモンはもう10年くらい飲んでるんです。ですからおっぱいがあるからもう男湯には入れないんです。男性機能は消失しているし去勢もその内したいんですけどね。法的な名前も変えたいから、数年前から友人には女性名で手紙とかを送ってもらっているんですよ」
と石切さんは語る。
 
あ・・・・と青葉は思った。ここに先日来たとき、テーブルの上に石切光平様宛の郵便物と石切由紀様宛の郵便物があったのはそれか!光平さんの女性名が由紀なんだ!
 
彼女は話し方も女性の話し方になっている。さっきまでは男性の話し方をしていたのに。視線の使い方も、さっきまでは男性の視線だったのに、今は女性の視線である。ほんとに二重生活で男と女を使い分けているんだなと、青葉は思った。
 
「すみません。石の並びを変えます」
と青葉は言って、神棚に納めていた石を入れたケースを取ると、ふたを留めていたセロテープを剥がし、右回りに赤・黄・青とセットしていたのを青と黄の位置を入れ替えた。石切さんにセロテープをもらって再度ふたを留めた。
 
「それって底に乾燥剤を入れておられますよね。時々交換した方がいいですか?」
 
「はい。年に1度くらい交換した方がいいと思います。下の綿も一緒に。その時、この石の順序が逆にならないようにしてください。今これは女性の主人を守る配置にしていますので」
 
「じゃ写真を撮っておこう」
「それがいいですね」
 
それで石切さんがデジカメで写真を撮ってから、青葉は再度それを神棚に納め、再び般若心経を唱えた。
 

その日は真穂から
「ついでに頼む」
と言われた、盛岡近辺での案件をいくつか処理した。
 
「この程度なら真穂さんでもできるのに」
「私は素人だよー」
「うちのちー姉みたいなことを言う」
 
それで翌日石切さんに連絡したら
 
「昨夜はとても気持ちいい夢を見ました」
ということだったので、青葉もホッとした。
 
「今日は実家の新郷村でキリスト祭りがあるのですが、おいでになりませんか?」
「あ、ぜひ見たいです」
 
それで真穂も連れて、石切さんと盛岡駅で落ち合った。彼女は今日もきれいに女装していた。
 
「ご実家にその格好で行ってもいいんですか?」
「ええ。もう諦められていますから」
「カムアウトする時はたいへんだったでしょ?」
 
「もう結婚しろ結婚しろってうるさかったんですよ。お見合いの話とかも持ってくるし。それでカムアウトして女装で実家に行って、自分は女性には興味が無いからと言ったら、衝撃を受けていたようでしたが、結婚の話はしなくなりました。実はお見合いの話は会社の社長からも持ってこられていたので、同時期に社長にもカムアウトしたんです」
 
「男性のお見合い相手連れて来られたりして」
と真穂が言う。
「それやられたらどうしよう?という不安はあります」
 
「男性との恋愛経験は無いんですか?」
「実は高校時代、ボーイフレンドがいたんです」
「へー」
「セックスもしましたよ」
「へー!!」
 
「あれが凄く気持ちよかったことで自分は女でいいんだとあの当時思ったんですよね。中学生の頃はけっこう揺れていたんですよ」
 
「みんな悩むと思います」
「でも結局そのあとずっと20年間仮面男子生活してたんですよ。ただ28歳の時に偶然女性ホルモンの入手方法を知って、それから飲むようになったんです。飲み始めてから凄く心が安定しました。特に射精能力が無くなり、更には勃起能力も消失したことで、自分はやっと男を辞めることができたと思えたし。それまではオナニーしてしまう度に自己嫌悪に陥っていたんですよ。それでも女装で外を歩く勇気は無かったんですよね。でもミクシイで知り合った友人が3年前に性転換手術を受けまして」
 
「おお」
 
「それで彼女に刺激されて私も私生活は完全女性に切り替えることができたんです。最初はほんとに外を歩くのが怖かったんですけど」
 
「おそらく、その時に石切さんは心理的にも社会的にも性転換したんですよ」
 
「トランスジェンダーですよね?」
「ですです。トランスセックスも大変だけど、トランスジェンダーはまた別の大変さがあるんです」
 
「正直、まだトランスセックスのための行動を取る勇気が無いんです」
「それはまだ悩めばいいと思いますよ」
 
「ええ。でもまあそれで私にはもう子供はできないから、親には孫の顔を見せてやれないですけどね。実は親には既に去勢もしたと言ってるんです。面倒だから」
 
「化学的に去勢済でしょ」
「確かに化学的にはそうですね」
 
「性転換しても子供産めたらいいのにですね」
と真穂が言う。
 
「産めるものなら産んでみたいですね」
 
と彼女は言って運転席で微笑んだ。その顔がまるで観音様のように美しいと青葉は思った。
 
 
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【春来】(2)