【春分】(3)

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「そうそう。これお土産ね」
と言って旭川で買った洋菓子を出す。
 
「さんきゅ、さんきゅ」
「旭川では叔母さんの所に泊めてもらったの?」
「ううん。叔母さん所は子供2.5人居るから、とても寝られない。札幌の妹の所に泊まってたんだよ。本人は留萌に帰省中だったんだけど」
「なるほどー」
「2.5人?」
「お腹の中に1人いるから」
「ああ」
 
「もっとも、妹のアパートではお正月の間、ひたすら掃除してた。あの子、散らかし方がハンパじゃないし、例の桃香の元カノの残留物も凄まじくて。衣類とかは段ボールに詰めて送りつけたけどね」
 
「桃香の元恋人?」
と母が訊く。
 
千里も青葉も各々の守秘義務に従って織絵(XANFUSの音羽)のことは母には話していない。桃香にも誰にも言わないよう頼んでいる。青葉が2度にわたって札幌に行った件も、単に札幌の顧客に頼まれてと青葉は母に言っている。
 
「事情があって、しばらくうちの妹のアパートに泊めていたんだよ」
と千里。
「あいつ昔から片付けがダメだった。あいつの部屋はカオスだった」
と桃香も言っている。
 
「桃姉、ひとのこと言えない」
 
桃香のアパートは本が芸術的な積み上げ方をなされていたりする。ただし千里が気づくと、すぐあるべき場所に格納されてしまう。
 
「うん。うちの掃除はいつも千里がやってくれていた。でもレポートとか書く時には使う資料が全部手の届く範囲にあった方が助かるんだけど」
 
などと桃香が言うと
 
「それは散らかす人の言い訳」
と母は断言していた。
 

1月10日。青葉は千里にミラを運転してもらい富山市に行って、先日会った《ドッペルゲンガー少女》ハルを拾って秋田県某市まで行くことにした。桃香も「運転交代要員」として一緒に来る。
 
「もっとも私より青葉の方がずっと運転はうまいんだが」
などと桃香は言っている。
 
左倉さんの自宅に行き、青葉が両親に挨拶し、自分の姉の桃香と千里ですと言ってふたりも紹介する。それで、ハルも旅支度をして出てきたのだが、ハルは千里を見てびっくりする。
 
「千里さん!」
「あれ〜、ハルちゃんだ」
 
などとふたりが言うので、青葉もハルの母も驚いている。
 
「知り合い?」
とお母さん。
 
「私、千里さんにバスケ習ったんだよ」
とハル。
 
「え〜!?」
「偶然通りかかったハルさんと親しくなって。それで私がバスケ選手だと言うと教えて欲しいと言うんで手ほどきをしたんですよ。つごう3回会ったかな」
と千里。
 
「千里さん、凄く上手いんですよ。特にスリーが凄い。全然外さないんだもん」
とハル。
 
「ハル、日本代表の人に会ったって、川上さんのお姉さんだったんだ?」
とお母さん。
「そうか。川上さんに会った時、初めて会った気がしなかったのは、千里さんの妹さんだったからなのか」
とハル。
「ちー姉、日本代表になったんだっけ?」
と青葉。
 
「まだフル代表になったことはない。U18,U21と代表になって、今度U24でも取り敢えず代表候補に招集されることになった」
と千里が言う。
 
「千里、そんなにバスケ強いんだっけ?」
と桃香。
 
ハッとしたようにお母さんが言う。
 
「あの、すみません。2007年のインターハイで愛知J学園と対戦なさったんですよね?」
「ええ。対戦しましたよ」
「左倉奈津って選手、覚えておられませんか?」
 
「ああ。もしかして、このハルちゃんのお姉さんですか? 身長は無いんだけど動きが素早い選手で。けっこう手強かったですよ」
 
「嬉しい。やはり娘のこと、覚えていてくださる方があったんですね」
とお母さん。
 
「あ、そうか。ハルちゃん、バスケしてたお姉ちゃんが亡くなったって言ってたけど、その人?」
 
「うん。交通事故で死んじゃったんだよ」
とハル。
 
「インターハイで会った時に1年生だったから、翌年は手強くなって出てくるだろうと思っていたんだけど、1月の交流試合には来ていなかったし、翌年のインターハイやウィンターカップでも見なかったから、J学園はベンチ枠の競争激しいし枠から外れてしまったかなと思ってた。亡くなった選手がいたというのは知らなかったよ」
 
と千里は言った。
 

青葉たちは千里のミラで秋田まで往復するつもりだったのだが、ミラでは狭いしうちのシビックを使ってくださいと、お父さんが言うので借りることにした。千里がETCカードを差し替えようとしたのだが
 
「あ、そのままうちのETCカード使ってください」
と言われる。更にENEOSと出光のカードを渡され
 
「ガソリンはこれで入れてください」
と言われるので、それも遠慮無く預かることにした。
 
運転は、実は桃香がうっかり朝からチューハイを飲んでしまっているので、酔いが醒める時間を考えて、取り敢えず直江津付近まで千里が運転することにした。
 
「千里が疲れたら青葉が運転すればいいよな」
などと桃香は言っている。運転交代要員などと言って乗り込んできたのに!
 
「でもボールペン修理するだけなのに随分高くつくね」
とハルは後部座席に座って足をぶらぶらさせながら、楽しそうに言っている。ひざには三毛猫を抱いている。青葉はこの子、幽霊なんだっけ?と思って見るものの、青葉の目には実体のある猫に見える気がする。どうにもよく分からない存在だ。でも青葉が見つめていたらアキはニコッと笑った気がした。
 
「でも記念品の大事なボールペンだもんね」
と青葉は言う。
 
「国体優勝記念のボールペンかぁ。凄いなあ。千里はそういうのもらったことないの?」
などと桃香が訊くので
 
「大分国体で優勝した時は椎茸もらったよ」
と千里は言う。
 
「椎茸は食べちゃった?」
「そんなの保存していても無意味」
「残るようなものはもらわなかったの?」
「桃香にあげたツゲの櫛もその時もらった記念品」
「わっ、あれそんな大事なものだったのか?」
「桃香だからあげたんだよ」
「私、あれふつうに髪をとかすのに使ってるけど」
「だって櫛は髪をとかすためにあるものなんだから。まあ私の髪は櫛などでは手に負えないし」
「その髪って一度もつれたら修復のしようがないだろ?」
「うん。この髪がもつれたら絶対ほぐせない。だからもつれないように日々のメンテが大事」
 
「でも千里さんもそういうのを使っているんですね。私、そもそもそんな大事な記念品を持ち出したりするからってお父さんに叱られたんですよ」
とハルは言う。
 
「ちー姉、別の大会でもらったボールペンも普段使いしてるもんね」
「万年筆だよ。私のバッグの中に入っている五線紙にはさんでるよ」
 
と言うので助手席の桃香が自分の足下に置いている千里のバッグの中から銀色の万年筆を取り出す。
 
「これ私もボールペンかと思ってた」
と桃香。
「万年筆というと黒というイメージがあるよね〜」
と千里も言っている。
 
「お、パーカーじゃん。これ高いんじゃないの?」
「まあ自分では買わないよ」
「千里は安い物しか買わない女だ」
と桃香。
「それは桃香とのいちばんの価値観の共通点だよね〜」
と千里。
 
「あのぉ。もしかして千里さんと桃香さんって・・・・」
とハルが今気づいたように言う。
 
「うん。夫婦だよ」
「すごーい! 女同士で夫婦なんですか?」
「別に普通だよね」
「そうですよね!普通ですよね!」
「お、ハルちゃん、理解あるじゃん」
 
「私もけっこう女の子が好きなんですよね〜」
「ああ。いいんじゃない?」
「高校は女子高に行っちゃったら? 女子高ってわりと女の子同士で恋愛する子もいるらしいよ」
「うふふ。いいな、それ」
 
そんな冗談(?)を言うハルを見て、青葉はやはりこの子、強い子だと思った。もっとも富山県内には今女子高は無いんだけどね。
 

桃香はメガネを掛けて目を細め、千里の万年筆に刻まれている文字を読んでいる。
 
「3P Championか。大会名はよく分からんが、スリーポイント王になったのか」
「うん。そうだよ。私はそれしか才能無いから」
 
「格好いいですよね。スリーって。ゴール下の乱戦からダンクとかも格好いいけど、遠くから華麗にスパッと決めるってのも。しかも3点だし」
「うん。スリーを連発すると劣勢になっていてもどんどん挽回するから」
「私、スリーも頑張って練習しよう」
とハルが言うと
 
「ハルちゃん、体格的には他の選手に負けるからポイントガードになるかシューターになるかの選択だと思うよ」
と千里は言った。
 
「ですよねー」
と本人も言っている。
 
「そんなに体格で負けるか? ハルちゃんって身長165くらいあるだろ?女子としてはかなり長身だと思うけど」
と桃香が言うが
 
「バスケの世界では170cm代の選手がふつう。むしろ180cm無いとレギュラー取れない。強い学校だと190cm代のセンターがふつうに居るし、外国人留学生で2m越える子もいるよ」
と千里が言う。
 
「すげー。バスケ選手ってそんなに背丈があるのか」
と桃香は驚いていた。
 
ただ青葉は今千里が言ったことばに何か引っかかりを覚えた。さすがに話が大袈裟じゃない?180cmでないとレギュラー取れないって、それほんとに日本人チームなのか??
 

走り出してすぐに有磯海SAで停ってのんびりおやつを食べたりしたので桃香はわりと早く酔いが覚めた。念のためアルコール・チェッカーで確認してから入善PAで運転を交代する。
 
「ここからの区間、トンネルが多いから眠くなったら言ってね。すぐ替わるから」
と千里は言っている。
 
この付近は昔は交通の難所だった地区である。とにかくトンネルが多い。むしろ空が見える場所を走っている時間のほうが短い。
 
入善PA・朝日ICを通った後、(26)泊(25)城山(24)宮崎と続き、越中境PAを経て、(23)境(22)市振(21)親不知(20)風波と続いたあと親不知ICの付近は一時的に海の上を走る区間がある。トンネルを掘るより海上に道を作ったほうがマシだったのであろう。しかしこの区間は景色が良いので、ハルが「いい眺め!」と言っていた。
 
「ここからは天気が良い日は佐渡が見えるんだよ」
と桃香が言うと
「佐渡も一度行ってみたいなあ」
などとハルは言っている。
 
再びトンネルの連続で(19)子不知(18)寺地(17)高畑(16)岩木と抜けて糸魚川IC・蓮台寺PAを過ぎてから(15)平牛(14)金山(13)鷹の峰(12)鬼伏(11)大平寺と経て、能生ICを通過する。
 
「いつも思うけど能生(のう)って《生》の字が余計だよな」
と桃香。
「それを言ったら京都の西院(さい)のほうがもっと酷い」
と千里。
 
「人間の名前でも1文字余計ってよくありますよね」
とハルが言う。
 
「私の合唱部の先輩で真琴(まこと)さんっているんだけど、真の琴と書くんですよね。いつも最初の真だけでいいじゃんと言われてます」
と青葉。
 
「ああ、その手の名前はよくある。でもその子の場合、真1文字でまことなら男と思われちゃうよ。真琴なら女だと思ってもらえる」
と桃香。
 
「確かに音で聞くと男女あるけど文字を見たら性別が分かるという名前は結構ある」
「同じ《かずみ》でも和己と書けば男、和美とかけば女」
「ただそのあたりの感覚は時代によっても変わるんだよね。20-30年前なら、広海(ひろみ)なんてのは男名前だった。でも今の感覚だと女名前なんだよね」
 

車は更にトンネルを通過していく。
 
(10)能生(9)山王(8)筒石(7)徳合(6)名立大町(5)名立と抜けて名立谷浜SA/ICに来た所で給油をする。ここから先の区間はGSが少なくなっていく。ついでに人間の方も給油しておく!ハルもアキにカリカリをあげていた。
 
そしてトンネルは(4)花立(3)薬師(2)正善寺(1)春日山と来て番号の付いたトンネルは終了である。春日山トンネルを抜けるとすぐ上越JCTなので、既にどちらに行くかによって車が車線に別れている。
 
青葉たちは上信越道には分岐せず、直進して北陸道を走り続けるので右車線に居たのだが、トンネルを抜けたところで桃香はウィンカーを点けて左車線に移動した。ん?と青葉が思っていたら、桃香は更に上信越道への分岐に入ってしまう。
 
青葉が「桃姉、違う!」と言った。
 
桃香が「え?」と言い一瞬考えてから「あ、そうか。間違った!」と言って、ハンドルを右に切ろうとする。
 
千里が助手席から強引にハンドルをつかみ「もうダメ!」と言って進行方向を左に戻す。
 
突然車が蛇行したので、後ろの車からクラクションを鳴らされる。
 

「ごめーん! いつも上信越道の方に行くもんだから」
と桃香が謝る。
 
「私もごめん。もっと早く桃香の異常行動に気づくべきだった」
と千里が言っている。
 
「上信越道に入っちゃったけど、そのまま藤岡JCTまで行って関越を北上して長岡まで戻ればいいよな?」
などと桃香が言い出す。
 
「次のICで降りて乗り直そうよ」
と千里。
 
「それやると走行区間が切れて高速代が割高にならないか?」
「わざわざ藤岡まで回ってくるガソリン代の方が高いよ」
 
などとふたりは言い合っていたが
 
「あ、そうだ。せっかくこちらに来たから新井PAで休もう」
と千里が言う。
 
「ああ、あそこはハイウェイオアシスが併設されていたな」
「うん。あそこでお昼にしよう」
 

それで新井PAに入って駐車場に駐める。
 
「わあ、ここショッピングモールみたい」
とハルが声をあげる。
 
「ここ来たことなかった?」
「ええ」
「金沢の向こうの徳光PAなんかもショッピングモールになってるよな」
と桃香。
「うん。向こうは機能的にコンパクトにまとまっている感じ。こちらは無秩序に色々乱立している感じ」
と千里。
 
それでハルがお寿司を食べたいというので、きときと寿司に入る。お寿司屋さんなのでアキは車内でお留守番である。この時期なら熱中症になることもないだろうし、アキは普通の猫ではないようなので平気だろう。
 
「私、ここのお寿司屋さん好きなのよね」
とハルは言っている。
「私も美味しいと思うが、問題はここは高いのだ」
と桃香。
 
ちなみに「高い」というのは桃香基準での話で、普通の食欲の人同士で行くなら1人1000-1500円程度で充分満たされる。桃香にとってはお昼に500円以上掛けるのは「高い」部類になる。
 
「だからこういう時に入らなきゃ。お財布はうちのお父ちゃん持ちだし」
と言ってハルは財布をぶらぶらさせている。
 
今回の旅の食費も左倉さん持ちである。
 

それでハルがたくさん食べ、桃香もせっかくだからとよく食べ、千里と青葉はゆっくりと食べるという構図で食事は進行する。
 
40分ほど掛けて食べて、そろそろお腹がいっぱいになってきたね、という話になってきたところでデザートに行く。ケーキを食べてハルは満足そうである。青葉も付き合ってケーキを食べているが、桃香と千里はお寿司だけで満腹してそちらはパスした。
 
それでそろそろ出るかね〜。もう少し休んでからにしようか。などと言っていた時、ユニフォームを着た背の高い女性の集団がお店に入ってくる。
 
「何だろう? 背が高い。バスケかな。バレーかな」
とハルが言っていた時、千里がその集団の中のひとりに手を振る。向こうはびっくりしたようにしてこちらに来る。
 
「千里ちゃん、お久」
「紀美鹿ちゃん、お久」
 
「千里ちゃん、今どこのチームに居るんだっけ?」
「東京のクラブチームで40minutes」
「ごめん。聞いたことない」
「去年の春に正式登録したんだよ。結成したのは一昨年の秋」
「もしかして自分で作った?」
「そうそう。いったん引退していたけど、バスケしてないと身体がなまるよね〜とか言っている子を寄せ集めて」
「やはり、千里ちゃん一時期引退していたんだ?」
 
「でも篠原さんに見付かっちゃってさあ。取り敢えずユニバの代表候補に招集されることになってしまった。発表は来月だけど」
「あれ?ユニバーシアードに出られるんだっけ?」
「私、今大学院生なんだよ。3月に卒業するけど」
「そうか。1月1日時点で大学生か大学院生なら出られるんだ?」
「そうらしい。クラブの方も取り敢えず関東クラブ選手権に進出したから全国を狙う」
「全国優勝して皇后杯まであがっておいでよ」
「うん。頑張る。そうだ」
 
と言って、ふたりの会話に呆気にとられていた感のある青葉やハルの方を見て言う。
 
「紀美鹿ちゃん、左倉奈津って選手を覚えてる?」
 
紀美鹿はドキっとしたようであった。
 
「忘れられない子だよ。その子がどうかしたの?」
「ここにいるハルちゃんってのが、奈津ちゃんの弟」
と千里。
「弟!?女の子に見えるけど」
と紀美鹿。
 
「あ、ごめん、ごめん、妹」
「びっくりしたー」
 
「ハルちゃん、この人は奈津さんがインターハイに行った時のJ学園の副主将だよ」
「わあ」
 
「奈津さんとは私何回かしかマッチングしてないんだけど、才能を感じさせる子だった」
と千里が言うと
 
「才能もあったし、努力もする子だったよ。それで1年生からインターハイに連れて行ったんだけどね。まだ当時は実力不足ではあったけど。生きていたら3年生で主将をつとめていたかもと思うし、あの子がいたら翌年そう簡単に札幌P高校にも負けなかったんじゃないかと思うよ」
と紀美鹿は言う。
 
「ありがとうございます。姉を覚えてくださっている方にお目にかかれて嬉しいです」
とハルは言っている。
 
「妹さんはバスケするの?」
 
「小学1年の時、ミニバスしてたんです。でも姉が死んだショックでやめてしまって。でもずっとやってみたいなあという気はあったんですよ。そんな時千里さんに会って、ちょっと教えてもらって。ここ数ヶ月、ずっと個人的に練習してます」
 
実際にはここ数ヶ月、アキが学校に行っている間、ハルはひたすらバスケの練習をしていたようである。
 
「ひとりでやってんの? バスケ部無いの?」
「冬休み明けたら入部させてくださいと言いに行こうかと思ってるんです」
「今中学生?」
「中学2年です」
「もし高校からJ学園に来るつもりがあったら、私が紹介してあげるよ」
と紀美鹿。
 
「それは無理です!」
とハル。
 
「まあ取り敢えず部活で自分を鍛えて、高校でインターハイ目指すといいかもね」
「ええ。頑張ります」
「J学園大学に来る手もあるよ」
「行けたらいいけどなあ」
 

紀美鹿は結局チームメイトとは別に、こちらのテーブルでハルと話しながらお寿司をつまんでいた。すると満腹していたはずのハルもまたお寿司をつまんでいた。
 
紀美鹿と別れて車に戻る。お寿司から剥がしてきたお魚を数切れアキにあげると美味しそうに食べていた。わさびも少々付いていると思うが、アキなら平気であろう。
 
今度は千里が運転し、この新井PAに設置されているスマートICから出てまた入り直す。そして上信越道下りに乗り、上越JCTから北陸道新潟方面に分岐した。
 
「でも嬉しかった。お姉ちゃんを覚えていてくれる人がいて」
とハルが感動したように言っている。
 
「でも桃香が道を間違えたから、紀美鹿ちゃんに会えた訳だから、桃香のファインプレイかもね」
などと千里。
 
「世の中、結構そういうことってあるもんなんだよ」
などと桃香は言っている。
 
その後は日本海東北自動車道の朝日まほろばICを降りた所から桃香、酒田からまた千里が運転して、夕方、目的地の秋田県内某所に到達した。この日は取り敢えず泊まって、明日朝、職人さんの所を訪問するつもりだったのだが、青葉が連絡を入れると「朝から来られるより夜の方がいい」などというので、結局そのままそこの工房に行く。
 

青葉が以前その「職人技」を目撃したことがある、柳田さんは見た感じ50歳前後であるが実年齢はよく分からない雰囲気もある。
 
「つなぐ腕は親父の方が上なんだけど、なにせ目が衰えているからな」
などと豪快な感じで言っている。
 
「それでこれなのですが」
と言って青葉に促されて、ハルがボールペンを出す。
 
「へー。これ**工房さんとこで作ったね?」
「そこまではちょっと」
「いっそ、軸そのものを交換する? 同じ軸が入手できると思うよ」
「いえ、亡くなった姉の遺品なので、継ぎ目が残っても、これをそのまま使えるようにして欲しいんです」
とハルが言う。
 
「そんな大事なもの、なんで壊したの。これ相当の力を入れてボキッとやってるよ」
 
「実は不良に絡まれてとりあげられて。その不良の番長が乱暴な扱いをして折ってしまったんです。でも折られたという話聞いて頭にきたので、私自身でアジトに乗り込んでいって、番長倒して取り返してきました」
 
「へー。お嬢ちゃん、元気だね。でも君、使えるようにと言ったね?」
「はい」
「つまり見た目をきれいに修復するより使えるように修復して欲しいわけね?」
 
「姉の遺品だからこそ、私、そのボールペンを使いたいんです」
「気に入った。概して見た目優先の客が多いからさ」
 

それで柳田さんはルーペで切断面をつぶさに観察している。
 
「破片が足りないなあ」
「足りませんか!?」
 
「折れた時に小さい破片が飛んだと思うんだよね。でもそういう連中なら、そんなの放置しただろうなあ」
 
それで柳田さんはしばらく考えていたが、やがて修復方針を説明した。
 
「使えるようにしたいということなので強度を確保する必要がある。考えたんだけど、軸の内側に継木(つぎき)をしたいと思う。しかし単純に強度を取れるほどの継木した場合、内径が狭くなりすぎてリフィルを入れる時に入れにくくなるおそれがある。それで内側を少し削ぎ取って内径を確保するとともに継木はアクリル樹脂を染み込ませた秋田杉の板を使う。単純に強度を取るなら金属を使うのがいいんだけど、長年使っている内にサビが来るんだよね。それに重たくなって使用感を落としてしまう」
 
「そうそう。このボールペン軽いのがいいんですよ。普通に売ってるプラスチックのボールペンよりずっと軽いんですよね」
とハルが言う。
 
「杉の方がプラスチックよりずっと比重が小さいからね」
と柳田さん。
 
「それで表面の方は丁寧に切断面を合わせ付けながら、やはりアクリル系の糊で貼り合わせていく。見た目優先なら、麩糊とかを使ったほうがきれいなんだけど、強度が足りない。アクリル系の糊は接着作業が終わった後で加熱加圧すると強度が増すし、伸縮性もあるんだよ」
 
「使うのは360HV?」
と桃香が何だか難しい言葉を放つ。
 
「498HVを使う」
と柳田さんが答える。
 
「私は柳田さんにお任せします。こちらの考え方を理解してくださっているようなので」
とハルも言う。
 

それで念のためハルと、立会人として桃香も同意書に署名した上で柳田さんは作業を始める。
 
ライト付きのルーペを顔に装着して細かい部分を見ながら折れている部分の内側を細いナイフで削ぎ取る。柳田さんの作業はひじょうに精密で、この削る作業は何度も刃を動かすことなく、1発で均一に削いでいく。
 
「1発でよく削ぎますね」
と桃香が感心したように言う。
 
「そうしないとその破片を再利用できないじゃん」
と柳田さん。
 
その作業が終わった所で、新しい秋田杉の板を出してきて、2mmほどの厚さの細い板を4個作る。これにアクリル樹脂を染み込ませた上で、手元側の軸の内側、削いだ部分に接着する。そして慎重にペン先側の軸の内側部分とも合わせ付け接着する。
 
「木目がピタリと合ってる」
と桃香。
 
「そりゃ俺の仕事だから」
と柳田さん。
 
しかしここからが大変であった。折れた軸の表面は結構乱れている。それをルーペでよくよく見ながら、内側から順に先の細いピンセットで合わせ付け、きちんと組み合わせる。組み合わせるのと同時に接着していく。少しずつ外側に来て最後は表面の合わせ付けをしていく。
 
柳田さんは濃度の異なる4種類の糊を使っていて、内径側や内部の接着にはより濃いものを使い、表面側の接着にはより薄い方を使っている。
 
「この接着剤のいい所はとにかく強い接着ができることなんだけど濃くすると濡れ色が発生して、いかにも接着しましたという感じになってしまうんだよ」
 
と彼は説明していた。
 
あらかたつなぎ終えた所で、確かに足りない所が数箇所ある。柳田さんはそこの形を見ながら、内側で削ぎ取った木片を細いナイフで切り取り、きれいにその足りない部分の形に合わせる。
 
「木目に合わせて破片を作るんだ!?」
と桃香が驚いている。
 
「そうしなきゃ木目がつながらないじゃん」
と柳田さんは言っているが、彼の作業にいちいち驚いたり、しばしば工業系の専門用語で質問する桃香との会話を結構楽しんでいるようである。
 
青葉は・・・桃香の言っている言葉がさっぱり分からなかった!
 
青葉は人間に使う薬については詳しいものの、こういう工業系の薬品についてはあまり知識が無い。
 
そして千里は話が全く見えないので、工房の隅で半ばウトウトしながら待っていた。また、アキも千里の膝でおとなしく待っていた。
 

柳田さんの作業は4時間以上に及んだ。
 
しかし
「できたかな」
と彼が言った時、そこにはとても折れたものをつないだようには見えない、きれいな秋田杉のボールペンが置かれていた。
 
「凄いです。こんな現場を見せて頂いて感激です。弟子入りしたいくらい」
とハル。
 
「あいにく女の弟子は取るつもりないけど、興味を持ってくれて嬉しいよ」
と柳田さんは言った。
 
彼が満足気な顔をしているのを見て、青葉も心が充ち足りる思いだった。
 

最終的にアイロンで加熱して強度を強める。その作業のあと充分冷えた所でハルに試し書きさせてみる。
 
「凄く書きやすい。嬉しい。元の通りです!」
とハルは本当に喜んでいる。
 
「この技術があれば切れたペニスでもつなげるかな」
と桃香が唐突に発言する。
 
「桃姉、こんなところで唐突な下ネタ、罰金10万円」
と青葉が渋い顔をして言う。
 
「お姉さん、つなぎたいペニスがあったら持って来たらつないであげるよ」
と柳田さんはさらりと返す。
 
「過去に3回ちょん切られたからなあ」
と桃香が言うと、千里が強烈なキックを桃香の背中にお見舞いする。
 
前のめりに倒れて床で顔を打った桃香が
「痛いじゃん。DV反対」
と言うが
「場所を考えて言葉を選べ」
と千里は腕組みして答えた。
 

「でもきれいに直って良かったね」
と青葉が話を戻すのを兼ねて言う。
 
「本当にありがとうございました。あの、お幾らお支払いすればいいでしょうか?」
とハルが訊く。
 
「ハルちゃん、約束したからこの修理代金は私が出す」
と青葉が言う。
 
「でもお父さんから、それもこちらで出しなさいと言われたの」
とハル。
 
するとその会話を聞いていた柳田さんは
 
「あんたが可愛いし、実用性優先と言ったからタダでいいよ」
と言った。
 
「でも・・・・」
「ハルちゃん、本人がタダでいいと言っているんだから、遠慮無くそうしてもらいなよ」
と桃香が言う。
 
「分かりました。でも本当にありがとうございました」
と言ってハルは再度頭を下げた。
 

「あ、そうだ。挨拶代わりにと思って持って来たのに、お渡しするの忘れていました。これ富山のお菓子ですけど」
と言って千里が柳田さんにお菓子の箱を渡す。
 
「まあお菓子くらいならもらっておこうかな」
と言って柳田さんは受け取った。
 
工房を出たのは23時前である。
 
「さて旅館を取らなきゃ」
と桃香が言ったのだが
 
「なんで?」
と千里が言う。
 
「ん?」
「用事は済んだからもう帰ればいいよね?」
と青葉も言う。
 
「君たちはまさか今から富山に帰るつもりか?」
 
「特に他には秋田に用事無いもんね」
「夜中の方が道も走りやすいしね」
 
「私は寝たい」
と桃香。
 
「うん。寝てればいいよ」
と千里。
 
「私も寝てていですか?」
とハル。
 
「うん。寝てて」
「夜中なら青葉も運転できるよね?」
「短時間なら運転してもいいよ」
 

そういう訳で帰りは桃香とハルが後部座席で寝ていて(アキもハルのひざで寝てしまった)、千里が運転席、青葉が助手席に乗ってシビックは道を走り出した。取り敢えず7号線まで出てから、ひたすら南下する。
 
「ところでいくら入れたの?」
と青葉が小声で訊いた。
 
千里は運転しながら左手の指を3本立てた。
 
「じゃ後で半額渡すよ」
「OKOK」
 
柳田さんとは事前の話し合いで、あの子が出すと言い出すかも知れないから、その時はタダということにしておいて菓子箱で代金を渡すことにしていた。
 
彼に払うべき報酬は実際問題として左倉家に負担させるには高額すぎる金額である。たかがボールペンの修理にそんなにかかったとなると、ハルのお父さんが後悔する可能性があるし、「二度と壊さないようにガラスケースに入れて保存しておこう」などという話になってしまう可能性もある。
 
そしてそもそものハルちゃん・アキちゃんとの約束もあったので、今回は青葉としても柳田さんの名人芸を見せてもらう御礼として、代金は自分が出していいと思っていた。ただそこで千里が半々にしようと言ってくれたのである。
 
実際問題として、柳田さんはあの作業に1週間分くらいのエネルギーを使ったはずだ。これはその代償である。
 
ところがこのやりとりをした時、ハルの膝で寝ていたかと思っていたアキがニャーニャーニャーと3回鳴いた。
 
千里が青葉に尋ねる。
「その子、本当に猫なんだっけ? 来る時から思ってたけど」
「ちー姉、人間態のアキちゃんとも会ってない?」
と青葉が尋ねる。
 
「へー!」
と千里は今気付いたようで、楽しそうな顔をした。
 
「でも桃香が心配するからと思って青葉と交代でと言ったけど、私は大丈夫だから、青葉も寝ているといいよ」
と千里は言う。そして
「アキちゃんも寝てなよ」
と後部座席に声を掛けた。
 
「ちー姉、工房で寝てたね」
「なんか難しい言葉が飛び交っていたし。でも青葉も人間の細胞はつなぐことができても、鉛筆の折れたのはつなげないでしょ?」
「うん。無生物には私の力は及ばない」
 
「人それぞれの得意分野があるんだろうね」
と千里は言う。
 
青葉は思った。もしかしたら私とちー姉って、相互補完しあう関係にあるのかも。ちー姉の能力ってよく分からないけど困ったことがあったら色々相談していいのかも知れない。菊枝さんにはあまり弱みは見せられないし、菊枝さんに相談しなければならない時って、かなり最終手段だけど、ちー姉には日常的に相談できそう。青葉はそんなことを考えた。
 
「相談はいつでもして。もっとも私はそんな大したもんじゃないし、何も力は無いけどね」
と唐突に千里が言った。
 
青葉は目をぱちくりした。
 
「ちー姉?今もしかして私の思考を読んだ?」
「え?読むも何もそんなにハッキリと考えたら伝わってくるじゃん。ね、ゆう姫さん」
 
青葉は後ろに意識をやった。姫様がおかしそうにしている。
 
「ちー姉、姫様が見えるの?」
「全然。私、霊的なものって何も見えないのよね〜」
 
「それだけは絶対嘘だ!」
 

青葉が目を覚ました時、車は既に黒部市付近を走っていた。
 
「もうこんなに来たのか。ちー姉、休まなくていい?」
「私は豊栄SAでトイレに行ってきたけど、みんな熟睡してたね。青葉トイレ行くなら次の有磯海で停めるよ」
「あ。トイレは行きたいかも」
「OKOK」
 
「ところでちー姉さ」
「ん?」
「手術した後って、おしっこ近くならなかった?」
「なったなった。だから早めに行かないとやばいよね」
「うんうん」
「総延長がけっこう短くなるからね」
「どのくらい違うんだっけ?」
「男性の尿道は16cmくらい。女性の尿道は4cmくらい」
「4分の1になったのか」
「まああそこを走る部分が長いからね」
「メインストリートを廃止しちゃう訳だもんね」
 

「ところで、ちー姉って結局本当はいつ手術したんだっけ?」
「自分でもよく分からないんだよねー」
「その分からないというのが分からない」
「まあ青葉だから言うけどさ。実はある朝、目が覚めたら女の子になってたんだよ」
「うーん・・・・」
 
「世の中にはいろいろ不思議なことがあるもんだから」
「そういうことでいいんだろうか」
「いいことにしとこうよ。謎って全てが解明されなくても、実用上問題なければいいんじゃないのかなあ」
 
「そうだねぇ」
と言いながら青葉は後部座席のアキに目をやる。ハルの両親はこの「猫」を認識しているのだろうか?でもそれは詮索する必要の無いことだ。アキはハルの守り神なのだから、そのままにしておけばよい。
 
「ただ私が確信しているのはさ」
と千里は言う。
 
「うん」
「私と青葉って、深い縁があって出会っているということ」
「私もそう思う」
「桃香がいなかったら青葉と結婚したくなっていたかも」
 
青葉は困ったように苦笑した。
 
「ちー姉、男の子が好きなんじゃないの?」
「青葉こそヘテロっぽいね」
「私は女の子には興味無いよ」
「私もそのつもりだったんだけどねー。桃香だけは唯一の例外だな」
 
「じゃ、桃姉のこと好きなの?」
「好きじゃなかったら、とっくに別れているよ」
「じゃ、なぜ別々に暮らすことにしたの?」
「私と桃香が次のステップに行くために、それが必要だと思ったから。恐らくはまたいづれ一緒に暮らすことになると思うよ」
 
「ちー姉がそう言うんだったら、きっとそうなるんだろうね」
 
青葉はそういう会話をした時、後部座席で《寝ている》桃香がピクッと反応したことに気づいていた。
 

結局、有磯海(ありそうみ)SAで桃香とハルも起こして朝食をゆっくりと食べた。ついでにハルの要望でデザートまで食べる。ハルはアキにカリカリをあげている。
 
その席で唐突にハルが言い出した。
 
「あの、昨日からの3人の会話を聞いていて、ひょっとしたらと思ったのですが、もしかしてみなさん性転換してるんですか?」
 
「うん。そうだよ。私は高校1年の時、青葉は中学3年の時に性転換したんだよ」
と千里が言う。
「すごーい!」
とハルは言ってから
 
「いや、桃香さんってひょっとしたら性転換してるんじゃないかって気はしていたのですが、会話を聞いていて、もしかしたら千里さんもかなと思って。でも青葉さんまで性転換していたとは思わなかった。まだ高校生なのに」
 
などと言う。
 
「ちょっと待て。私は生まれた時から女なのだが」
と桃香。
 
「え?そうだったんですか?ごめんなさい!」
 
「まあこの中で女湯に入ろうとして悲鳴をあげられたことのあるのは桃香だけのはず」
などと千里は笑って言っている。
 
「でも千里さん、バスケ選手なんでしょ? そのあたりどうなってたんですか?」
「病院で何度も精密検査受けさせられたよ。それで女子選手として出場してよいという許可が出たんだよ」
「すごーい」
 
「ちょっと待て。千里、君は女子バスケ選手なんだっけ?」
「私が男子バスケ選手に見える?」
「それっていつからなのさ?」
「高校1年のウィンターカップ道予選までは男子の方に出ていた。でも男子の試合に出ていて、協会から私の性別について疑問を示されて。病院で検査を受けてくれというから受けたら、君は女子だから女子の方に出なさいと言われたんだよねー」
 
「ということは千里は高1の時に既に性転換していた訳?」
「そうだけど」
「うむむ」
と桃香は悩んでいるようだが、ハルは感動しているようである。
 
「私の性別の取り扱いに関しては協会トップの医学委員会でも審査したらしい。でも私の事例を議論したことで、その後の審査の基準が確立したみたいね」
と千里は言う。
 
「わあ」
 
「基本的には去勢から2年経っていれば女子選手として認めるんだよ。これは国際的な基準でもある。でも1年経てば都道府県大会までの参加は認められる」
 
「そうなってたのか」
 
「だからハルちゃんも勇気出して、女子バスケ部に入れてくださいって言いに行ってごらんよ」
 
と千里は言った。
 

え!?
 
青葉は千里の言葉の意味が分からなかった。
 
「あ、私の性別分かってました?」
とハルが言う。
 
「君、本名はハルアキ君でしょ?」
と千里。
 
「えへへ。そうなんです。漢字では季節の春に季節の秋。春秋。その上だけ取ってハルということにしてます。でも小学3年生以来、女の子で通しているから友だちでも私が戸籍上男だっての知らない人も結構多いですよ。中学も問題無く女子制服での通学を認めてもらったし」
 
うっそー!?
 
青葉はそんなことに全く気づかなかったので千里とハルの会話に衝撃を受けていた。
 
じゃ、もしかしてもしかして・・・・。
 
元々ハルちゃんとアキちゃんって、ハルアキ君の両面なの!?
 
そして唐突にいつかクラスメイトの純美礼が言っていた、過受精した受精卵がXX受精卵とXY受精卵に分裂して、男女の一卵性双生児ができるという話を思い出した。元々ハルアキ君が男の子の心と女の子の心を持っていて、それが女の子のハルちゃんと男の子のアキちゃんに分裂した。ふたりは実は小さい頃から一卵性双生児のようにして育ってきた。でも本人の性別意識が明確になってきて、アキちゃんも男の子から男の娘になった?
 
そう考えるとハルちゃんとアキちゃんが同時に行動できるだけのエネルギーがあったことが理解できる。つまりこの子はそもそも2人分のエネルギーを持って育ってきてるんだ。
 
アキちゃんって、猫が人間に擬態しているのだと思ってたけど、実は人間が猫に擬態していた?? 恐らく猫の身体のほうがエネルギー消費を抑えられるからだ。オスの三毛猫という形を取ったのも男の娘という示唆なんだ。
 
そしてもしそんな人が本来持っている2人分のエネルギーを1人の身体で使って行動したら・・・
 
番長くらい倒しちゃうかもね〜。
多分バスケでも凄い選手になる。
 
「いや、びっくりしたけど、君は女の子にしか見えないよ。君はむしろ男子バスケ部に入れてくださいと言っても拒否されるぞ」
と桃香が言う。
 
「実はそんな気もするんですけど、何か揉めたら嫌だなと思ってスポーツ系のクラブ活動には消極的だったんですよね〜」
とハル。
 
「小学校の水泳部とかは女子水着?」
「もちろん女子水着ですよ。体育の水泳の時間とか小学1年の時から女子水着です。当時は棒も玉もあったけど、アンダーショーツで押さえておくと外には響かなくて付いてるように見えないんですよね」
 
「中1の時、陸上部に居た時はどうしてたの?」
「女子選手扱いでした。顧問の先生が問い合わせてくれたんですが、取り敢えず地区大会はそのまま女子として出てもいいと言われたので出たんですけど2000mで優勝したから、事務局の方では少し慌てたみたい」
 
「なるほどー」
「結局私自身が県大会への出場を辞退することにして、準優勝の子が繰り上げで県大会に行きました。私は地区大会に出してもらっただけでも充分嬉しかったから、辞退は構わなかったんですけどね。なんか私みたいなのが上に行ったら悪い気がしたし」
とハルは言ったが
 
「いや、それは君の気持ちの持ち方がおかしい」
と千里は言う。
 
「君、去勢はしてるんでしょ?」
「小学5年生の時に取ってもらいました」
 
「だから声変わりしてないのか!」
と桃香が言っている。
 
「うちの両親、4回子供ができて他の3人死んじゃったり流産して生き残ったの私だけでしょ。それなのにその私が子供を作れなくなってしまうことに両親は凄く悩んだみたいです。でも私の希望を聞いてくれたんです」
とハル。
 
青葉はハッとした。左倉家に来た時に気づいて速攻で処理した呪い。それは青葉の守護霊が左倉家の家守さんと話したのでは、左倉夫婦には結構きつく出ていたようであるし、結果的にお姉さんの奈津さんはそれで命を落とした。それに比べてハルちゃんへの呪いの出方が弱い気がしていたのだが、それは睾丸を取ってしまったことで呪いから逃れることができたのかも知れない。この子はたぶん生殖能力を犠牲にして、自分の命を守ったんだ。
 
「いいご両親じゃん」
と桃香が言う。
「親孝行しなきゃと思ってます」
とハル。
 
「まあそれで君は去勢もしてるし、女性ホルモンも摂取してるよね?」
と千里が尋ねる。
 
「はい。でもまだおちんちんは付いてるんです」
とハル。
 
「おちんちんでバスケする訳じゃないから、そんなの些細なことなんだよ」
「そうかも」
 
「だから君は自分が女子選手であることに自信を持てば良い。後ろめたいなんて考えずにふつうの女子としてプレイすればいいんだよ。全国大会とか行ってごらんよ。性別なんてどうでもいいと思うくらい体格の良い選手がたくさんいるよ」
と千里は言う。
 
千里がそんなことを言っているのを聞いて、青葉はこれって、ちー姉自身が以前誰かに言われたことなのでは?と思った。
 
「そうか。それで180cmで普通なんて、お話されたんですね」
「うん。まああの話は男子として参戦した場合なんだけどね」
 
あ・・・そうだったのかと青葉はあの時の「180cmでないとレギュラー取れない」などという話に納得が行った。
 
しかし・・・ちー姉、この子が男の娘だってことにいつから気づいていたの?私は言われるまで全く気づかなかったのに!
 
「君が女子選手として参戦する場合でも強豪校のセンターは180cm,190cmだよ。女子でもね。そんな体格の選手と対戦するなら、君が元男だったとしても全然そのことはアドバンテージにはならない」
と千里。
 
「そんな気がしてきました」
とハル。
「だから自分が女であることに自信を持とう」
と千里。
 
「私頑張ります。休み明け、女子バスケ部に行ってきます」
 
「うん。その性別問題で疑問を出されたら私に連絡してよ。バスケ協会のその付近の審査している人と連絡取ってあげるから」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 

ハルの性別問題が出てきて、有磯海では結局3時間滞在することになった。
 
そのあと桃香の運転で10時頃、左倉家に帰着する。
 
「こんなにきれいに修復してもらったんだよ」
と言ってボールペンを両親に見せると
 
「凄いね−」
「繋ぎ目が全然分からない」
「ここまできれいになるとは思わなかった」
と両親も驚いているようであった。
 
あらためて両親が青葉たちに感謝の言葉を述べるが、私たちは職人さんの所に連れて行っただけですから、職人さんに感謝の手紙でも書いておいてくださいと言って、左倉家を辞した。
 
青葉は両親の前ではアキが姿を現さないことに気づいていた。玄関に入る直前までハルが胸に抱いていたのに!
 

再び桃香の運転で自宅まで戻った。
 
「あれ? メールが来てる」
 
と言って千里が携帯を見ている。
 
「ちー姉、スマホにしないの?」
「あれ苦手〜。ショップで触ってみたけど、さっぱり操作が分からなかった。フリック入力も面倒くさいし目が疲れるし」
 
「私は千里の携帯の文字入力のほうがさっぱり分からん」
と桃香は運転しながら言っている。
 
「私はポケベル打ちだからね〜」
 
などと言っている。確かにポケベル打ちができるのならスマホのフリックの表示が出るより速く2タッチできるだろうから、高速かも知れないし、感触だけで打てるから目も酷使しないだろう。
 
「なんか大きな仕事を受注したんだって。要員が足りないので、良かったら2月2日月曜日から出社して頂けませんかだって。学校の行事やバスケの大会があったら、その日はそちら優先でいいからと」
 
「何か忙しそうだね」
 
千里は左手で携帯を持ちながら左手親指を高速に動かして返事を入力しているようである。
 
「行きますって返事した」
「いつ帰る?」
「2月2日からだから特に予定は変えなくていいよ。予定通り今週いっぱいまで滞在させてもらおう」
 
「うん。それで行こう」
「こちらで、こないだ買った『一週間で覚えるJava』でも読んでようかな」
などと千里は言っている。
 
「千里、何度かプログラムをデバッグしてあげた時に感じたけど、そもそもクラスとオブジェクトの区別が付いてない気がする」
などと桃香が言っている。
 
「え?クラスってオブジェクトの親だよね?その親がスーパークラスで」
「やはり分かってないようだ」
 
「ちー姉、クラスはオブジェクトの母型だよ」
「そうそう。クラスという母型から、オブジェクトを生産する」
「うーん。私、ポインターとかハンドルとかもよく分からないんだけど」
「ポインターは写真みたいなものだよ。実体じゃないからポインターだけコピーしても実体はコピーされない」
「私、友だちから文字と文字列の区別が付いてないと言われたこともある」
「そのあたりは言語によっても違うね」
「うん。文字と文字列を混同して使える言語も結構ある」
「Perlとか古い所ではCOBOLなんかは数字と数も混同して使うけどJava Scriptではこちらが区別していてもシステムが勝手に混用するから、混用されないように気をつけてコードを書く必要がある」
 
「あ、そのJava Scriptって時々聞くけど、Javaとはまた違うんだっけ?」
 
「・・・・・」
 
青葉は千里がソフトハウスの仕事をするということに物凄い不安を感じた。ちー姉がプログラム組んだら、スペースシャトルが爆発するかも。
 

2月2日朝。千里は、千葉のアパートで朝日と共に目が覚めた。週末は小田原までバスケの大会に行っていたのだが、桃香もどこかに出ていたようで、まだ帰宅していない。
 
千里は大きく伸びをして顔を洗い、トイレに行ってくる。もう性転換してから肉体的には10年近く経っているとは思うが、トイレをする度にここに邪魔なホースが昔は付いていたことを一瞬思い出してしまう。そして思い出してしまう度に、自分はまだ元男であったことを引きずっているんだろうなと思ってしまう。
 
朝ご飯を作りのんびりと食べる。桃香の分はラップを掛けて冷蔵庫に入れておいた。帰宅したらチンして食べるだろう。
 
「じゃ、そろそろ出かける?」
と声を掛ける。
 
「こんな格好でいいかなあ」
と、しまむらで買ったビジネススーツに身を包みナチュラルメイクをした千里が立っている。
 
「うん。おしゃれしてはソフトの仕事なんてできないからね。じゃ悪いけど、よろしく〜」
と千里は言う。
 
「だけど千里、ほんとにプログラミングだめみたいね」
「『一週間で覚えるJava』読んでみたけど、私には『一瞬で眠れるJava』であることが分かった」
 
「千里最近、くだらないオヤジギャグが多い」
「桃香の影響かも」
 
「まあ成り行きだし、やってあげるけど、千里も自分の仕事頑張りなよ」
「うん。ありがとう」
 
それでビジネススーツ姿の千里が手を振って出かけて行くのを千里は笑顔で見送った後、自分はトレーナーとジーンズにダウンコートという格好で、ノートパソコンとMIDIキーボード、五線紙と筆記具を鞄に入れて出かける。市内のカラオケ屋さんで夕方までの平日日中コースに申し込み、部屋に入った。
 
「さて、私もこの曲、何とか夕方までに仕上げないと」
と言って、千里はフリードリンクのコーヒーを持って来てからパソコンを開き、MIDIキーボードをつないで、Cubaseの画面を操作し始めた。
 
 
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【春分】(3)