【春分】(中)

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それでこの子の場合を考えてみると、この子は学校で試験を受けていたはずの日に商店街を歩いていた所を補導されている。やはり学校に行っていたはずの日にゲームセンターで不良と話していた。
 
あるいはこの子は、自分の分身を学校に置いておき、本体は商店街に行ったりしていたのではなかろうか。もしかしたら分身の方に自分の頭脳的な面を集中し、商店街を歩く本体の方に体力面を集中して、何とか両方を動かしたとか。 
しかし・・・
 
そんなことができるのは、きっと物凄い天才だ。
 
「本人と会わせてください」
と青葉は言った。
 
「はい、でも・・・・」
 
「この事例はあるいは私のような霊能者ではなく、心理カウンセラーなどに会わせるべきケース、あるいは精神科医などに診せるべきケース、あるいは学校の保健室の先生などと相談したほうが良いケースなどが考えられると思うのです。彼女を見たら、私もその判断が付くと思います」
 
「はい、お願いします」
 

それで青葉はそのまま左倉さんの自宅に行き、お茶を入れてもらって歓談しながら、春さんという娘さんの帰るのを待った。
 
「亡くなったお姉さんがインターハイに行ったのって、2007年ですよね?」
「ちょっと待ってください」
 
と言ってお母さんは机の中から何か取り出す。
 
「確かに2007年です。2007年佐賀総体と書かれています」
「それはインターハイの金メダルですか?」
「はい」
「凄いですね。私の姉はこの同じ2007年佐賀総体の銅メダルを持って
いるんですよ。凄く大事にしていますけど、何度か見せてもらいました」
「川上さんのお姉さんも凄いんですね!」
 
「姉のチームは準決勝で、そちらのお姉さんのチームに負けたんですよ」
「そうだったんですか!」
「そちらのチームに花園さんって凄い人がいて、その人にかなわなかったと言ってました」
 
「ええ。その年のキャプテンさんです。花園さん。彼女も皇后杯まで終わった後で、うちにお線香あげに来てくださったんです。ずっと練習していたからなかなか来られなかったと言って謝っておられましたが、ほんとに凄い人だったようです。娘も、あの人のせめて半分くらい頑張れたらなんて言っていたんですよ」
 
「今は日本代表ですからね」
「ほんとですか! さすがですね。じゃ、あの子、川上さんのお姉さんと試合していたんですね」
 
青葉はお母さんの手を握って言う。
 
「きっとうちの姉は、お嬢さんのこと覚えていると思います。花園さんも絶対今も覚えていますよ。お嬢さんは亡くなっても、彼女とふれあった多くの人の心の中に記憶を残しているんです」
 
「そうですね。だったらあの子、あんなに若くして死んで可哀想にとばかり思っていたけど、実はとても幸せな人生だったのかも知れませんね」
と言って、お母さんは涙を流した。
 
「ええ。きっとそうです。お母さんが泣いていたら、きっと天国でお嬢さんも悲しいですよ」
 
「ですよね。私ももっと頑張らなきゃ」
 

16時すぎ。
 
「ただいまあ」
と言って、ハルが帰って来た。
 
しかし青葉を見るとビクッとしたような顔をする。
 
「あんた誰?」
と彼女は言った。
 
青葉は彼女を見た瞬間、そうだったのか!と事態が分かってしまった。 
「こんにちは。私、川上青葉と申します。別に何もしませんよ」
と笑顔で言う。
 
「ふーん。。。。話し合いの余地はありそうね」
「ええ。ハルさんとお話がしたかったんです」
 
「お母ちゃん。私、この人と少し話したいからさ。悪いけど、しばらく買物とかに行っててくれない?」
とハルが言う。
 
「うん。いいけど」
 
それでお母さんは18時頃に戻りますと言って出かけて行った。
 

「あんた凄い人みたいだね」
とハルは言って家の中を見回している。
 
「君よりは少し強いくらいかな」
 
「うん。どうもそうみたい。で、あんた私を殺すの? 封印するの?」
と彼女は言った。
 
「私は何もしないよ。私は邪悪な霊に対しては容赦しないけど、人と共存している存在には寛容なつもり」
 
「ふーん」
と言ってハルは青葉を値踏みするように見ている。
 
「やっぱ、あんたと喧嘩してもとても勝てそうにないから、取り敢えずあんたの話を聞くことにするよ」
とハルは言った。
 
「で、君の本体はどこ?」
と青葉は優しい表情で尋ねる。
 
「上に居ると思うけど」
「え〜!?」
 
そういう事態は全く想定していなかったのである。
 
「ハルちゃん!降りておいでよ」
とハルは階段の下で大きな声で言った。
 
「うーん。面倒くさいなあ」
と言って階段から、全く同じ制服を着た、同じ顔の少女が降りてきた。 
嘘だろ? なんて気配の小さな子なんだ?と青葉は思う。
 
でも少女を見た感じ、これは自分の分身を出しているために気配が小さくなっているのではない。元々余分なオーラを出していないのだ。自然と無駄な力を使わないような筋肉の使い方をしているし、脳波も無駄に周波数を高めていない。これは修行を積んだ禅僧のような使い方だ。非常に稀にこういうことが生まれつき出来る子が居る。
 
青葉が彼女に見とれていたら、その上から降りてきた子は
 
「今日は午前中ひたすら体育館でバスケの練習しててさ。午後からは疲れたから寝てたんだよ。お母ちゃん帰って来たのは気づいてたけど、誰かお客さんと話しているから、上にはあがってこないだろうと思ってそのまま寝てた」
 
などと言っている。
 
青葉は目をぱちくりする。そして「ドッペルゲンガーは同じ場所に同時には現れない」というのが、全く間違いであったことを認識した。
 

「どちらがハルちゃんだっけ?」
と青葉が訊くと
 
「私」
と言って2階から降りてきた方の少女が言う。
 
「じゃ君は?」
と外から帰ってきた方の少女に尋ねる。
 
「私はアキ」
と彼女は言った。
 

「取り敢えず座ろうか」
と言って居間のテーブルに座る。
 
アキちゃんがお茶を入れて、お菓子も出してきてくれる。
 
「このクッキー好き〜」
などとハルは言っている。
 
「君はハルちゃんの飼い猫かな?」
と青葉はアキに訊く。
 
「うん。三毛猫だよ。私はナツちゃんが死んだ直後にこの家に迷い込んだのを保護してもらったんだよ。死んだ娘の身代わりみたいだって言われて大事にしてもらった。秋くらいに生まれたみたいというのでアキという名前を付けられたんだけどね」
とアキは言う。
 
「だけど名前が安直だよね〜。私は春に生まれたから春、亡くなったお姉ちゃんは夏に生まれたから奈津、そしてこの子は秋生まれだからアキ」
とハル。
 
「まあいいんじゃない? ドロシー・レーベンハイト・ジュニアみたいな感じの難しい名前を付けられるよりは。私はこのアキという名前気に入っているし。ハルの振りしてあちこち行ったけど、それでハルちゃんとみんなから呼ばれていて、ハルという名前もいい名前だと思った」
とアキ。
 
「猫にしてはよくしゃべるね」
「猫は本当は人間のことば全部分かるんだよ。しゃべったら気味悪がられるからしゃべらないだけで」
 
「確かに猫って結構功利的に人間と接してるよね」
「うん。犬は人間の子分になっちゃうけど、猫は人間と無関係に勝手に生きてるんだ」
 
「だけどアキちゃんのおかげで、実際、ハルちゃんも随分元気になったんじゃないの?」
「まあね。とりあえず私を脅してカツアゲとかしていた連中はアキが服従させちゃったし」
 
「へー!アキちゃん強いんだね」
と青葉は感心したように言う。
 

「だけどさ、君たち、こういう生活をどのくらい続けているの?」
「2学期の頭からだから、3ヶ月半くらいかな」
「そろそろ限界じゃない?」
と青葉はアキを見て言う。
 
「うん。実はそれは薄々感じていた」
とアキ。
「アキちゃん」
とハルが不安そうに言う。
 
「私、普通の猫に戻ろうかな、と最近少し思うようになってきたんだよ。でもアレが気になっていたんだけど、なんか解決しちゃったみたいだし」
 
「そうだね。これからはアキちゃんが身代わり務めなくても、ハルちゃんひとりでも頑張れるでしょ?」
「アキいなくなっちゃうの?」
 
「私はずっとハルのそばに居るよ。あと15年くらいは頑張って生きるよ」
とアキ。
「あと15年しか居ないの?」
「ごめんね。そのくらいが猫の寿命の限界なんだよ」
 
「でも私、アキみたいに強くないし」
「それは勘違いだと思う。私ができることは全部ハルができることでもあるんだよ。ハルってけっこうしっかり身体を鍛えているしさ」
「そうだろうか」
 
「私は実際ハルの力を使ってこの身体を動かしている。だから番長を倒したのも実はハルなんだよ」
「私ってそんなに強いんだっけ?」
「ハルは優しすぎるんだよなあ。自分が相手を殴ったら相手は痛がるとか。先にそれを考えてしまう。でも喧嘩する時は思い切りが大事」
 
「私、やはり人は殴れないよお」
とハルが言うと
 
「まああまり不良と付き合うのもよくないとは思うよ。ボールペン取り返すためにやむを得ず黒岩は倒したけどね」
とアキも言っている。
 

「そうだ。そのボールペンってどうなったの?」
と青葉は訊く。
 
「これなんです」
と言ってハルちゃんが2階まで行って軸の折れたボールペンを取ってきた。 
「文房具屋さんに見せたんだけど、木のボールペンの軸が折れたのはどうにもならないと言われて。ひとつの手は接着剤でくっつけることだと言われたんだけど」
 
青葉はそのボールペンを見ながら言った。
 
「これ多分私の知り合いで直せる人がいると思う」
「ほんとですか?」
とハルもアキも一様に嬉しそうな顔をする。同じ顔で同じ表情をされると凄いインパクトだ。
 
「一度室町時代の横笛を修復しているの見たけど、木製美術品を修理するのに使う専用の接着剤を使って、位置合わせも正確にしてから丁寧につなぐから、繋ぎ目はほとんど目立たなくなると思う」
 
「すごーい。でも修理代高くないですか?」
「今回の依頼でお母さんから相談料をもらえそうだから、その相談料で私が頼んであげるよ」
 
「嬉しいです! でもそしたら相談料の手取りが無くなりません?」
と心配してくれる。
 
「そのくらいいいよ。私は君たちみたいな凄く面白い子たちを見ることができただけで充分だから」
 
と青葉は言った。
 

「じゃ、私猫に戻るね」
とアキは言った。
 
そして次の瞬間、ハルと双子のような少女の姿は消えて、1匹の三毛猫が居た。 
「ニャー」
と鳴くのをハルが抱きしめて
「アキちゃん」
と言って涙を流していた。
 
青葉もその猫を撫でてあげる。するとアキが青葉にじゃれつく。
 
「アキ、川上さんのこと気に入ったみたい」
とハルが言う。
 
「猫の身体になったのいいことに、私に触りまくっている気がするんだけど!?」
「あはは。アキは男の子だから、女の子の川上さんのこと好きかもね」
「え?三毛猫なのに?」
と言って、青葉はあの付近を確認する。
 
「へー。珍しい。この子、オスの三毛猫なんだ?」
「アキが私の格好してる時にパンティに触ってみたら、ちゃんとおちんちんもタマタマも付いてたよ」
「あはは、じゃ、あの子、男の娘だったのか」
 
と青葉が言うとアキも「ニャー」と鳴いた。
 
ハルがお母さんの携帯に電話したので、お母さんは早めに帰って来た。 

「お母さん、私、川上さんとお話して、凄く気持ちの整理がついた」
とハルは言う。
 
「ハルちゃん泣いた?」
と母が言う。涙の後が残っているのに気づいたのだろう。
 
「うん。泣いたらスッキリしたの」
と彼女は言う。
 
「私、明後日からサボらずにちゃんと学校に行くね」
とハル。
「サボらずにって、あんた2学期になってから無欠席・無遅刻じゃん」
 
「勉強も頑張るから」
「勉強頑張るって、あんた中間テストは学年10位で、期末テストは5位だったじゃん」
 
「それからまた部活する」
「ふーん。また陸上するの?」
「ううん。バスケット」
「へー!」
「実はね、こないだからお姉ちゃんが死ぬ直前に買って、1度も使わなかった例のバッシュ持ち出して、ひとりで練習してたんだよ」
 
「奈津もあんたが使ってくれるんなら、いいだろうね」
とお母さんも言う。
 
「それと、体育館でバスケの日本代表の人に遭遇してさ」
「へー!」
「その人に何度か教えてもらったけど素質あると言われた」
「いや、あんた実際運動神経良いんだもん。やれば強くなるよ。あんたもお姉ちゃんと同じJ学園に行く」
 
「さすがに入れてくれないよぉ」
とハルは笑って言っている。
 
まあ、あそこはよほど実績をあげている選手以外は門前払いだろうなと青葉も思う。
 

青葉は左倉さんには、娘さんと充分話し合ったら、心の中に溜まっていたものが解消されたし、悩んでいたこともかなりスッキリしたと言ったこと、青葉から見ても、精神科医などに更にかかる必要は無いと思うと言った。ただ娘さんと話した内容に関しては、娘さんとの約束でお母さんにも話せませんので、相談料は無料でいいですと言った。
 
しかしハルは自分は凄くスッキリしたから、相談料弾んであげてと母に言ったので、お母さんは青葉に相談料を5万円も払ってくれた。
 
それを現金で頂いてから青葉はハルにちょっと席を外してくれるように言う。そこでハルは2階の自分の部屋に上がっていった。
 
そこで青葉は言った。
 
「実はこの一家に呪いが掛けられていました。先日奥様に肩凝りを起こしていたものを祓いましたが、それもこの呪いの一環だったようです」
 
「え?そんなものが」
「お嬢さんは、最近その呪いに気づいて、色々自分で防御策をしていたようですね。ハルさん最近、植木鉢の場所を動かしたりしてたでしょう? そこに置いてある大きな金魚の水槽も、ハルさんが買ったそうですね」
 
「そうなんですよ! 金魚飼いたいと突然言い出して。水槽のサイズもあのサイズを指定して、あの場所に置いたんです。窓を塞ぐじゃんと夫は文句を言ったのですが」
 
「呪いの仕掛けがその方角から来ていたのをその金魚鉢で塞いだんですよ。もうその大元の仕掛けを私が破壊しましたから大丈夫ですけどね」
 
そのあたりは青葉の後ろにずっと付いている《姫様》がG峠に祠を作ってくれた御礼に『サービス』と言ってやってくれたのである。
 
「そうだったんですか。あの子なりに色々骨を折ってくれていたんですね」
「ここ10年くらい、色々おかしなことが起きてませんでしたか?」
 
左倉さんはしばらく考えていたが「あっ」と言う。
 
「10年前というと、車の事故を起こしたのがその時です。雪道には充分慣れているはずだったのに、夫が国道でスリップ事故起こして車は大破。夫が1ヶ月、私は半年も入院したんですよ」
 
「それは大変でしたね」
「その後、義父が経営していた薬屋さんが倒産して、結果的には破産もすることになって苦労しましたし。あ、まさか」
「はい」
「奈津が死んだのも、ひょっとしてその呪いのせいでは?」
 
「可能性はあると思います。でもこの呪いを掛けたのは素人なので、怪我くらいはさせても人を殺すほどの力は無かったと思うんです。呪い半分、ほんとうの不幸な事故半分ではないでしょうか」
 
「そうですか。でもその呪いを掛けたのは一体誰なんでしょう?」
 
「イメージですけど」
と言って、青葉は紙に自分が感じ取った、呪いの掛け手の似顔絵を描いた。 
「あいつだ・・・・」
「ご存じですか?」
「夫の元恋人なんです。実は結婚後も夫としばしば会っていたようなんですよ」
「なるほど」
「その女もその女ですけど、夫も酷いと思いません?」
「そうですね」
 
と言いつつ、ああ、ちー姉にこういう話を聞かせたいぞと青葉は思う。 
「そいつ、今どこに居るんですか?」
「死んでますよ」
「あら」
「10年ほど前です。ですから死に際に自分の命を代償にこの呪いを掛けたんです」
 
「そうだったんですか・・・」
「でもこういう人は成仏とかはできないんですよ。然るべき所に行ってもらいました」
 
「地獄とかですか?」
「地獄より辛いかも知れませんね」
と言ってから青葉は笑顔になり
 
「ハルちゃんもこれからは元気になると思います。左倉さんも気を取り直して頑張ってください。呪いのことも忘れましょう。その女を恨んでしまったら、こちらが結局闇に引かれることになって、その女の思うつぼですよ」
と言った。
 
左倉さんはしばらく考えていたが言った。
 
「怒りに対して怒り、恨みに対して恨みを持っても何も生まれないんですよね」
 
「そうです。キリストは右の頬を打たれたら、左の頬を差し出しなさいと言いましたが、それは聖者の心持ちではないのです。そういう生き方をすることが自分自身の心を豊かにする、これは生きる知恵なんですよ」
 
と青葉は言った。
 

「川上さんって高校生じゃないみたい。私、何だか80歳か90歳くらいの老賢者と話している気分。あ、ごめんなさい」
 
「いえ。私、6-7歳の頃から、そんなこと言われていました」
 
「へー。あ、でも済みません。ハルのことで相談に乗ってもらっただけだったのに、呪いまで処理して頂いて。さっきの相談料では足りませんよね。今日は用意していなかったので、あとで追加してお送りしますので、口座番号を教えて頂けませんか?」
 
「あ、いえ。ハルさんのことを解決するために、先にその呪いを処理してしまう必要があったんです。それでハルさんは私を信頼してくださったので。ただ」
 
「はい」
「私、お姉さんの形見のボールペンの壊されてしまったのを修理できる人を紹介する約束をしたんです」
 
「修理できるんですか?」
「そういう名人がいるんですよ。それで良かったら彼女に確認してもらいながら修理作業を進めたいので、ハルさんをその人の所に私が連れ出すのを許可して頂けませんか?」
 
「もちろんです!お願いします!」
 
「その時の彼女の旅行代金を、呪いに関する処理料ということにしませんか?修理代自体は私が出しますので」
 
「それ、もちろん川上さんの旅費と職人さんに払う修理代もこちらで出させて下さい!」
 
「じゃ私の旅費まではお願いしようかな。でも職人さんへの支払いは、私が今回受け取った相談料で払うというのをハルちゃんと約束したので、それは守りたいのです。余分に頂くと、なんだ結局これで儲けるのかと、ハルちゃんに思われてしまうので」
 
「はい、でもそれでは川上さんに申し訳無いです」
「私はハルちゃんにとても面白いものを見せて頂きましたから。それにあの子、凄く勘が良いから。あの子との約束は守らないと」
 
「分かりました」
と左倉さんも納得してくれたようである。
 

しかし青葉は最後に衝撃的な話を聞くことになった。
 
「でもアキちゃんというのも可愛い子ですね」
と青葉は言った。
 
「アキ??」
と左倉さんは不思議な顔をする。
 
「あ、写真でも見られました?ほんとに可愛い子だったんですよ」
と左倉さんは少し考えてから言った。
 
だった? 今度は青葉のほうが戸惑う。
 
「三毛猫ですよね?」
「ええ。珍しいオスの三毛猫で」
「そうです。そうです。珍しいですよね」
 
「ちょうど奈津が死んで、お葬式の晩にうちに迷い込んで来たんです。なんか娘が猫になって戻って来たみたいな気がして。それで奈津の次でアキって名前付けたんですよ。当時子猫でたぶん生まれたのも秋頃だろうと思われたのもあって。可愛い子猫で。ほんとに奈津の身代わりのように可愛がっていたんですけど、翌年、ハルが野犬に襲われそうになったのをかばって大怪我して。それでうちに来てから1年もしない内に亡くなってしまったんですよ」
 
え!?
 
アキは死んでいた!?
 
これほど大きな衝撃を受けたのは、青葉は久しぶりであった。
 
「その猫が亡くなってからハルがほんとにいつも泣いてるので、ハルちゃんどこかで子猫もらってきて育てる?と訊いたのですが、また死なせたら可哀想だからいいと言って。それで今年金魚を飼うことになるまで、ペットの類いもうちには居なかったんですよ」
 
「確かに小さい頃、ペットの死に遭遇すると、そういう方向に行く人も結構いるみたいですね」
 
「あの子にとって、姉の奈津って、年も離れているし、ずっと遠くで暮らしていたから、憧れてはいても必ずしも身近な存在ではなかったかも知れない。かえって、その三毛の子猫のほうが愛情を感じる存在だったかも知れないなんて私は考えました。とても夫には言えませんでしたけどね。その猫も、ほんとにハルになついていたし、ハルもよく可愛がって毎晩一緒に寝ていたんですよ」
 
「でも短期間でもそういう猫ちゃんがいたことで、今もハルちゃんはそれを心の支えにしているんだと思いますよ」
 
そんなことをお母さんと話しながら青葉は心の中が実は大パニックだった。 
むろん職業柄、そんな驚きを顔や声に出したりはしない。しかし、しかし・・・ 
じゃ、あのアキって猫は一体何なのよ!?
 

2014年12月31日。青葉が母と一緒にお正月の準備をしていたら車の停まる音がする。台所の窓から覗くと見慣れたミラである。
 
「ああ、桃姉とちー姉が帰ってきたのかな」
と言って青葉が玄関に出て行き
 
「お帰りー、桃姉、ちー姉」
と言ったのだが、入って来たのは桃香だけである。
 
「あ、千里は北海道に行った」
と桃香は入ってきながら言う。
 
「ちー姉、もしかしてお父さんと和解できたの?」
と青葉は訊く。
 
千里は2012年の春に性転換手術を受けることをお父さんに話しに行った所、お父さんが激怒して、床の間に飾ってあった日本刀を抜き「殺してやる」などと言われる騒ぎになり、お母さんが必死に停めている間に妹さんがうまく逃がしてあげて、取り敢えず警察沙汰にはならずに済んだのである。そのあと千里はお父さんから勘当を言い渡されていた。
 
「いや、千里の就職が決まったんで、保証人のハンコをお母さんに押してもらうのに行ったんだよ」
と桃香は居間のコタツに座って言う。
 
「あら、千里ちゃん、就職決まったんだ!」
と母は嬉しそうに言うが、青葉は「うっそー!?」と思った。
 

「でも保証人って2人要るんじゃないの? もうひとりは?」
「旭川に叔母さんが居て、その叔母さんに押してもらうと言っていた。留萌の実家は出入禁止になっているから、お母さんとも旭川で会うらしい」
 
「ああ、そういえばそんなこと言ってたわね。高校時代にその叔母さんの所に下宿していたんだっけ?」
「そうそう。そんな話だった」
 
「でもちー姉、どこに就職すんの?」
と青葉は訊く。
 
「東京都内のソフトハウスらしい。昨日先輩から紹介されて面接に行ったら、即採用されたという話で。いや、私もびっくりした」
 
などと桃香は言っている。
 
ソフトハウス?? 確かちー姉、自分はプログラミングの才能は無いみたいだなんて言ってなかったっけ??大丈夫なのかな。
 
「でも昨日そういう話が決まって、よく北海道に行く便が取れたね。帰省ラッシュが凄いだろうに」
と母が言うと
 
「ちょうど車で帰省する友だちがいるから、その人に同乗させてもらうと言っていた」
と桃香は言った。
 
「なるほどねー」
「確か、同じ旭川出身の中嶋さんとか河合(旧姓溝口)さんとかと仲が良かったはずだよ」
と青葉は言った。
 
ふたりは千里と40minutesのチームメイトだ。ただバスケットの話を桃香にしていいのかどうか青葉はこの時は判断がつかなかったので、青葉は単に仲がいいということだけ言った。
 
「まあ、それで千里のミラが空いてるから、それを借りて運転して私も帰省してきたんだけどね」
と桃香。
 
「桃姉、安全運転で来た?」
「いや、それが途中渋滞にあって疲れて、ついウトウトとしたら、左側を縁石に擦ってしまって。あとで千里に謝らないといけない」
 
「まあ、そのくらい、ちー姉は気にしないと思うよ」
「あんた、ちゃんと休憩しっかり取りながら運転しなきゃダメじゃん」
 

その頃、千里は青函フェリーの中で半分まどろみながら、(森田)雪子、(若生)暢子、(中嶋)橘花とおしゃべりしていた。要するに40minutesの旭川組である。もっとも雪子は留萌、暢子は名寄である。この4人で交代で暢子のフリードスパイクを運転して青森まで走ってきて、それでフェリーに乗ったのだが、暢子は旭川経由で名寄の実家まで行くので、雪子は旭川から留萌までJRで帰ることにしている。
 
「ガソリン代・高速代を4人でシェアするとかなりお得だもんな」
「4人もいると結構寝ていられるし」
 
なお同じ旭川組の河合麻依子(チーム登録名:溝口麻依子)は夫・娘(1歳10ヶ月)と一緒に飛行機で帰省している。麻依子と夫は夫婦関係がとても良好なようで、麻依子がひたすらバスケの練習をしたり大会に出ても、夫がしっかり子供の面倒を見てくれているようである。
 
「でも橘花、すんなりと教員採用が決まって良かったね」
と暢子が言う。
 
「うん。正直、コネとかも無いし、1年くらい待機しないといけないかも知れないなと思っていたから、採用してもらったんでマジ嬉しかった」
 
「橘花、高校時代にインターハイと国体に出て、undergraduate(大学の学部生)の時にもインカレ、国体、皇后杯と出ているし、国体は今年も出たし、それだけの経歴があれば受けがいいと思うよ」
と千里は言う。
 
橘花は茨城のTS大学で学部課程(4年間)を修了した後、研究している分野に詳しい先生がいた東京のLA大学の修士課程に進学し、この3月で修了予定である。バスケ部も最初はLA大学のバスケ部に移籍したものの、そこの顧問と折り合いが悪く退部してしまう。それで練習相手を探していたとき、千里と偶然会って一緒にトレーニングしようかという話になり、そこから40minutes結成に至ったのである。
 
「まあ私自身は2年間国体には出られないけどね。でもどこの学校に行くかは分からないけどバスケ部の顧問をやらされそうだ」
 
大学を卒業した者は就職などによる引越先の住所または勤務地の都道府県から国体にそのまま出場できるが、大学院を卒業した者にはこの特例が適用されない。通常の転勤者と同様の扱いで2年間国体に出場できなくなる。(転勤の多い仕事をしている人は「ふるさと」の都道府県から継続して出場する選択が可能である。橘花も北海道代表になるつもりがあれば来年も国体参加は可能である) 
「赴任先はまだ決まってないの?」
「神奈川県内で教員している先輩に訊いたら、3月下旬になってから突然言われるから、それからバタバタと引越先探しらしい」
「それは大変だ」
 
橘花の40minutesへの参加自体に関しても、引越先から練習場所に交通網的に出てこられるかどうか次第と本人は言っていた。
 

「でも千里さんは留萌までは行かないんですね」
と雪子が訊く。
 
「うん。うちのお父ちゃんが私が性転換したこと怒ってて、勘当が解けてないから」
と千里は言う。
 
「そのあたりが不思議なのだが、千里って結局いつ性転換手術したんだっけ?」
「昨日部屋を整理してたら古い書類が出てきたんだよ」
 
と言って千里は英文の書類を見せる。
 
「これは・・・?」
「私の性転換手術の手術証明書」
「へー」
「July 18, 2006か」
「それが私の公式の性転換記録」
 
暢子が指を折っている。
「やはり高校1年の夏なんだ?」
「インターハイの道予選が6月に終わってその年はインターハイに行けなくて、そのあと手術を受けたんだよ。そして夏休みいっぱい身体を休めていた」
 
と自分で言いながら「歴史上の事実」としてはそういうことになるんだろうな、と千里は思う。
 
「なるほどねー。じゃ秋の大会の頃はもう女の身体になっていたのか」
「ああ、体育館の裏手で細川君とセックスしてたって時か」
「セックスした以上、女の身体だった訳だよね」
 
うーん。なんかもうそれでもいいや。
 
実際に千里が初めてヴァギナを使って貴司を受け入れたのは2006年12月8日である。
 
手術を受けるために桃香と一緒にタイに渡ったのは実際には2012年7月14日で検査などをされた上で7月18日に手術をされた。しかし後からもらった手術証明書を見たらなぜか年は2012ではなく2006になっていたのである。このあたりは時間がモザイクになっているので、美鳳さんにもなぜこうなってしまったかは分からないと言っていた。強引なことをしている故にあちこちにしわ寄せが来ているようだ。2006年の夏は実際には学費を稼ぐために巫女さんのバイトに精を出していたのでバスケ部の練習には(偶然にも)顔を出していない。 
「だから実は6月にドーピング検査をされた時はまだ男の身体だったんだよ」
「でも女性検査官の前でおしっこしたんだろ?」
と暢子が訊く。
 
「あれ、私も1度受けたけど、無茶苦茶恥ずかしいね」
と橘花が言う。
 
「あれね、お股自体はいつもタックって技法でおちんちんが見えないようにしていたんだよ。だから見た目は普通に女性のお股に見えたと思うよ。ただ、それやると、普通の男性ではおしっこはかなり後ろの方から出る。ところが私のおちんちんって凄く小さかったから、結果的に女性のおしっこが出る場所とほぼ同じ場所から出ていたのよね」
 
「ほほお」
「私のって元々が小さかった上に中学1年の時から大量の女性ホルモンを投与されているから、かなり萎縮していたんだよね」
 
「なるほどねえ」
 

1月1日。高岡。
 
「ここ数年、毎年千里ちゃんも来てたから、居ないお正月が何だか変ね」
 
などと言いながら、青葉の母はお雑煮を作ってテーブルに置く。青葉がブリを切って刺身にして並べる。
 
「明けましておめでとう」
と言っておとそ代わりのミツヤサイダーで乾杯する。
 
「あんたたちアパートはどうするの?」
「それ一昨日、千里と話していたんだけど、各々の通勤の都合もあって、別々に借りることになりそう」
と桃香は言う。
 
桃香の勤務先は千代田区の小川町駅近くで都営新宿線・丸ノ内線・千代田線が使用できる。
 
都営新宿線(小川町駅)は東側は千葉県市川市の本八幡駅、西側は京王線の神奈川県相模原市の橋本駅まで到達する。
 
丸ノ内線(淡路町駅)は池袋駅から東京駅経由で新宿駅に至る線で、他線との直通運転は行われていない。
 
千代田線(新御茶ノ水駅)は東側はJR常磐線に入り茨城県の取手駅、西側は小田急に入り東京都多摩市の唐木田駅まで到達する。
 
一方で千里の勤務先は世田谷区の二子玉川駅の近くにある。使用できるのは東急(渋谷から半蔵門線、更に押上から東武線にまで直通運転。中央林間から東武動物公園までがつながる非常に複雑な路線)である。
 
「千里の就職が突然決まって30日の日にふたりで東京近辺の鉄道路線図と地図と見比べて、かなり検討したんだよ」
 
と言って桃香はかなり書き込みがなされている地図を出す。この大量の書き込みがふたりが悩んだ経過のようである。
 
「ひとつの案は北千住駅の近くに住むこと。ここはたぶん双方の勤務地に普通に到達できる唯一の選択だと思う。ところがこの辺は高いんだよ」
 
「けっこう都心に近いもんね」
「賃貸情報見ていたんだけど2DKで10万とかするんだよ。信じられない」
 
桃香と千里が今住んでいるアパートは千葉市内中心部にあるにも関わらず家賃が共益費込みで6000円というそちらの方がよほど信じがたい値段である。それから見たら10万円なんてとんでもないだろう。でもちー姉の収入があればそのくらい平気だと思うけど、と青葉は思いながら聞いていた。
 
「北千住から更に離れて東武線沿いのどこかに住む手も考えた。もうひとつは総武線沿いのどこかに住むことも考えた」
 
「桃姉の会社ってJRのお茶の水駅からは遠いの?」
と青葉は地図を見ながら言う。
 
「うん。結構歩くけど、何とかなるとは思う。早めに出れば」
「あんたそれが怪しいよね」
 
総武線沿線なら、千里は錦糸町から半蔵門線に乗り換える手がある。新宿まで行ってしまい、山手線で渋谷に移動してから東急に乗る手もあるだろう。早起きできる千里なら多少乗換があっても大丈夫なはずだ。
 
「でもあちこち検討している内に千里が、やはり別々に住まないかと言い出して」
「なんで?」
 
桃香は言いにくそうに言う。
 
「実はここ2年ほど、私と千里は、かなりすれ違いになっていたんだよ」
「あら、そうなの?」
「一応セックスは週3〜4回してるんだけど」
 
母が渋い顔をする。女子高生の前であからさまにセックスとか言うなよという顔だが、青葉は別に平気だ。
 
「桃姉、週末はいつも浮気してたでしょ?」
と青葉が言うと
 
「うん。まあ。。。でも千里も私以外にも恋人がいるような感じもあって」
 
ああ。桃姉も気づいてはいたか。
 
「じゃ、あんたたちの関係はどうなる訳?」
「千里は今のままでいいと言った」
「今のままってどういう関係?」
「それが私と千里では見解に違いがあって」
と桃香は頭に手をやっている。
 
「桃姉はちー姉のこと、いつも恋人だと言っているけど、ちー姉は桃姉のこと友だちだと言っているもんね」
と青葉は指摘する。
 
「うん。それは最初からそうだったのだが。でも私も千里も青葉の姉であるというのだけは確かだ」
 
「姉妹ではあるわけか」
と母が言う。
 
「ちー姉、例の指輪は返したりしてないよね?」
と青葉が訊く。
 
「実は何度か千里が帰宅した時に、私が他の子と、している最中で、千里が怒ってもう指輪返すと言われたことはある」
 
「そりゃあんたが悪い」
 
「でもちゃんと持っていてくれているし、今後も持っていたいと言ってくれた」
 
「その指輪がある限りはちー姉と桃姉は夫婦でもあるんだよね?」
「うん。左手薬指にはなかなか付けてくれないんだけど」
 
「まあそれだけ浮気してたらね」
 

「まあそれで千里は『味噌汁が冷めない程度の距離』に住まないかと言うんだ」
「へー!」
 
「それって、桃姉が浮気相手を連れ込んでいても、ちー姉が安心して寝られる場所を確保しておきたいということでは?」
 
「うん。千里からは深夜に帰宅しても他の女の子のあられもない姿を見ずに寝られる場所が欲しいと、はっきり言われた」
 
「そりゃ、そうだろうな」
「少し反省している」
と言ってから桃香は更に言う。
 
「それと千里の仕事先が、おそらく深夜まで作業が及ぶことが多いと思うと言うんだよな」
 
「ああ、ソフトハウスだとそうだろうね」
「だから最悪会社から歩いて帰られる距離に住みたいと言うんだ」
「なるほど」
 
「それで出た案が、千里は東急の用賀駅または桜新町駅の近くに住み、私が小田急の経堂駅の近くに住むこと」
と桃香が言う。
 
「東急のこの付近の線路が北に膨らんでいるんだね!」
と青葉は地図を見て驚く。
 
「そうなんだよ。だから小田急の経堂駅と東急の桜新町駅の間は直線距離で2.3kmしか無いんだ。恐らく距離2km未満で各々アパートが見付かるんじゃないかと千里は言うんだよね」
 
「ちー姉が見付かると言うんだったら、間違い無く見付かると思う」
と青葉は言う。
 
「そうそう。千里って、こういうの言い当てるんだよな。まあそのくらいの距離なら、私も千里の所に朝ご飯食べに行けるし」
 
「それ絶対無理。桃姉がそんなに朝早く起きられる訳無い」
「むむ」
 
母が笑っている。
 

「ところで青葉は千里の恋人のこと聞いてないか?」
 
と桃香は青葉に尋ねた。
 
「それちー姉から言わないでと言われてるから」
「千里の恋人って何人か居るの?」
 
青葉は悩んだ。どこまでなら話していいものか。
 
「そんなに何人もは居ないよ。まあ桃姉以外には1人だけだよ。でもちー姉はそんなに彼氏とは会ってないと思う。ちー姉が土日にどこかに行っている場合、ひとつは運転手のバイトしている場合」
 
「あの子、そんなのしてるんだっけ?」
「ある作曲家さんの助手をしていて運転手兼用なんだよ」
「そういえば千里はよく楽譜を書いているな」
「あれスコア作成1曲1万円という美味しいバイトらしい」
「それは凄い」
 
実際には千里は編曲は1曲最低でも10万円は取るようだと冬子からは聞いている。それは「醍醐春海」の名前を汚さない品質のものを仕上げるのに必要な時間と精神力を考えるとそうならざるを得ないのではと冬子は青葉に言っていた。しかし千里本人は友人に1曲1万円なんだよと言っているようなので、青葉はそれに合わせておいた。
 
「運転手の方は距離にもよるけどだいたい片道1万円から3万円と言っていた」
「それも美味しい」
「東京から鹿児島まで走ったのは5万円もらったらしいけど」
「凄い距離走るな!」
「あの子、運転上手いもんね」
と母も言う。
 
「それともうひとつは、バスケットの練習や試合に行っているんだよ」
 
「あの子、バスケットしてんだっけ? 高校時代にしてたってのは聞いたけど」
 
「ちー姉の大学のバスケ部、あまり強くなかったからクラブチームに入ったんだよ。そのあと性転換手術するのに辞めて、身体を休めた後で今度は昔の友だちと一緒に新たなクラブを設立して、今はそこで練習してる」
 
昨日から考えていたのだが、千里から細川さんのことは「あまり」言わないでと言われているものの、バスケのことは言わないでと言われなかったはずだ。 
「へー」
「大学出た後スポーツしていなかった人とか、結婚して引退していた人とかと。身体動かしてないとなまるよねーとか言って始めたみたい」
 
「ほほお」
と桃香。
 
「そういうのもいいよね」
「企業系のクラブチームだと実質プロみたいな凄い所もあるみたいだけど、ちー姉たちのは何にも規約が無いから出られる時に練習に出るんだと言ってたけどね」
「なるほど、なるほど」
 
「でも元々強い人たちが集まって結成したから、凄く強くなってしまって今月末には関東大会に出るよ」
 
「それって千葉の大会を勝ち上がった訳?」
 
「ちー姉が大学生時代に参加していたチームは千葉県の協会に所属しているんだけど、今ちー姉が入っているのは東京都に登録しているクラブ」
 
「へー!」
 
「でも私がこのこと話したってちー姉には言わないでね」
 
「うーん。どうせ私はバスケは全く分からないし。最近は何だかリベロとかいうのができたんだろ?」
「それはバレーボール!」
「そうだっけ?」
 
「今度ちー姉がふだん付けてる時計とか、いつも使っている万年筆を見てみるといいよ」
 
と青葉は言う。
 
「ん?」
「大きな大会でもらった記念品なんだよ」
「ほほぉ」
 
「千里ちゃん、以前は青い時計をしてたけど、最近は銀色の時計をしてるよね?」
と母が言う。
 
「言っちゃっていいのかなあ。あの青い時計は高校時代の彼氏にもらったんだって」
 
「高校時代って、あの子、男子高校生してたんじゃないの?」
「まあそれでも彼氏がいたんだよ」
 
千里が高校時代に女子制服を着ている姿の写真は千里から、桃香には内緒にと言われていた気がする。
 
「あれだけ可愛ければ、できるかもね」
と母が言う。
 
「でもその彼氏が結婚してしまったから、その時計をするのを止めて、その記念品の時計を使うようになったんだよ。あの青い時計も捨ててはいないと思うけど」
と青葉は言った。このくらいまでは言ってもいいよね?
 
「もしかして、例のヴァイオリンをくれた大阪の男の子?」
と桃香。
 
「うん」
「確かに千里が青い時計から銀色の時計に変えたのはあのヴァイオリンをもらってきた後だ」
 
千里は細川さんと高校生の頃以来。何度もあのヴァイオリンを「あげる」「もらったものだから私のもの。だからあらためてそちらにあげる」などと言って交換していたらしい。それがふたりの愛の交換でもあったようだが、2013年の夏に細川さんが結婚して、そのヴァイオリンも最終的に千里が引き取った。それでふたりの愛は終わったはずだった。
 
でもちー姉、結局その後も不倫してるじゃん!
 
「そういえばあの時、そんなこと言ってたわね。じゃ、失恋したのね」
と母が言う。
 
「実際、あの時期ちー姉、落ち込んでいたでしょ?」
「そう言えば」
「私が高野山までの運転頼んだ時も自信が無いなんて言ってたし」
「そうそう。千里は元々運転がうまかったのに、あの時期は私が頼んでも、ごめーんとか言っていたんだよ」
 
「そのあとミラを買ったんだよ。それで運転している内に少しずつ自分を取り戻していったみたい」
 
「そうか。そうだったのか」
 
「その彼氏が今の奥さんと婚約したのがその1年前、2012年の夏だよ」
「ん?」
「その直後にちー姉は、桃姉の指輪を受け取ったんだよ」
 
と青葉は言う。
 
「そうだったのか・・・・」
「だからちー姉はもうそれで彼のことは忘れるつもりだったらしい。それで桃姉の指輪を受け取って1ヶ月もしないうちに桃姉の浮気現場を目撃して、激怒して、もう左手薬指には付けないと」
と青葉が言う。
 
「いやあ、あれはまずった」
などと桃香は言っている。
 
「呆れた子だね」
と母も怒っているようであった。
 
「まあそれでも、ちー姉は実際には彼とたまに会っているみたい。これ私が言ったとは言わないでよね。だけど彼は結婚したんだから、あくまでも友人として会うだけで、キスしたりセックスしたりすることはないって」
 
と本人は主張してるけど怪しいよなあ、と青葉は思う。
 
「そうだったのか。まあ単に会うくらいまでは許してやるか。私も浮気してるから、千里を責められん」
 
「だからたぶん、ちー姉が桃姉との同居を解消するのは、桃姉が他の女の子を連れ込んでいた時に、ちー姉が寝る場所が純粋に無いからだよ。今までもあちこち友だちの家とかに泊めてもらってたみたいだし。だから桃姉のこと嫌いになったんじゃないと思うよ」
 
青葉が「嫌いになったんじゃないと思う」と言ったので桃香は少し安心したようである。
 
「いや、悪いとは思っていたのだが」
「仕事で疲れて帰って来て、お風呂とかにも入れないんじゃ困るわよね」
 

その千里は1月4日にまた車の相乗りで東京に戻り、5日(月)の朝、Jソフトウェアに顔を出した。先日の面接の時は、断られること前提だったのでスッピンでジーンズだったが、この日は一応ちゃんとメイクして、ローラアシュレイのスカートスーツを着ている。
 
「おはようございます。先日仮採用して頂きました村山と申しますが、専務さんいらっしゃいますでしょうか」
と入口の近くに居た女性社員に告げる。
 
「ちょっとお待ち下さい」
と言って、その子が専務を呼んでくる。
 
「あ、村山君。お疲れさん」
と言って出てきた専務さんは、何だか目にクマができている。ヒゲも生え放題の様子である。
 
「お疲れ様です。先日頂いた書類で保証人のハンコをもらってきたので提出に参ったのですが」
「あ、了解了解」
と言って受け取ったが、ふと思いついたように
 
「ね、村山君、パンチは速い?」
「キーボード入力ですか? あまり速くないです。英文でだいたい秒8-9文字程度、日本語だと秒4文字程度です」
 
これは楽器のキーボードで指を鍛えている故であるが、何よりもバスケットのシューターの指の力は強い。もっとも千里が「あまり速くない」と言うのは、プロのパンチャーの速度と比較した場合である。プロのパンチャーは千里より2-3割速い速度で入力が出来る。
 
「無茶苦茶速いじゃん! ね、君今日は用事ある?」
「いえ、特に」
「だったら、ちょっと入力を手伝ってくれない?」
「はい?」
 
「実は明日朝10時に納品しないといけないシステムのソースを入れていたハードディスクが飛んじゃって、今社員総出でリストから再入力してるんだよ」
 
「それは大変ですね!」
「ちょっと来て来て」
と言って、そのままコンピュータールームに連れて行かれる。
 
「コンピュータールームは土足厳禁だから靴脱いでね。あ、君IDカード無いよね?」
「はい」
「すぐ作らせるから。それがないとこのドアを通過できないから」
と言って、近くに居た50代くらいの感じの女性に指示している。
 
「プログラムは全部で300本ほどある。昨夜から始めて今50本入力し終えた所で」
「リストがあるならOCRとかには掛けられないんですか?」
「OCRはゼロとオー、イチとアイとかを結構読み間違えるんだよ。それで入ってしまうと、あとでミスに気づくのに時間がかかる。それよりはちゃんと内容を読める人が打った方が結果的に速いんだ」
「なるほどー」
「それにリストにはこうやってたくさん修正の書き込みがサインペンで入っているから」
「なるほどですね!」
 
「明らかにおかしい所とか気づいたら誰かに聞いて。そこ多分バグだから」
「分かりました」
 
それで千里は取り敢えず1枚ソースリストをもらい、専務さんがその場で新たに定義してくれたユーザーでログインして、ソースを打ち始めた。
 
5分ほど入力していた時、《きーちゃん》が声を掛けてくる。
 
『千里』
『なあに?』
『その行の i= というのはおかしい。そこは k= だと思う』
『へー!』
 
それで千里は近くに居た矢島さんに声を掛ける。
 
「済みません、矢島さん」
「うん、何?」
と彼女は自分の入力の手を止めてこちらに返事してくれる。
 
「ここの部分、i= じゃなくて k= であるべきだと思うんですが」
「どれどれ」
 
と言って矢島さんはリストを見ている。
 
「ほんとだ!これ i= にしても大抵はうまく行くけど、データによっては処理がスキップされてしまう。ここは k= だよ。ありがとう、それで打っておいて」
「はい」
 
そんな感じで、千里は《きーちゃん》が教えてくれる通りに修正しながらリストを入力していったのであった。
 

千里は不眠不休で翌日のお昼過ぎまでソースの入力作業を続けた。結局納品は6日朝10時の予定を夕方16時に延期してもらった。そのシステムと連動した全国システムが7日朝から動き出すので、どうしてもこの日の内にシステムを導入してスタッフの教育をする必要がある。それでその日の16時に導入して、夜中まで掛けて向こうのスタッフに教えるらしい。向こうのスタッフさんも大変である。
 
実際には納品時点ではソースがまだ復旧していないもののオブジェクトコードだけ存在するものも納品に使用して、その分は更に入力を続けていた。また、導入に行く部隊と別グループで再度システムのテストを念入りに夜通しやって、もしバグがあったら7日朝に入れ替えるという話であったが、彼らは結局丸2日貫徹である。全くお疲れ様である。千里は主要プログラムのソース入力自体がお昼までにだいたい終了したので、それで開放してもらった(5日のお昼・夕食・夜食、6日の朝食・昼食は社長さんがお弁当を大量に買ってきて、それを食べた)。 
『きーちゃんもありがとう。お疲れ様』
と千里は《きーちゃん》に御礼を言う。
 
『あれって最初から貴人が入力する訳にはいかなかったの?』
と《せいちゃん》が訊く。
 
『パンチ速度自体は千里の方がずっと速いんだよ』
と《きーちゃん》。
『なるほどね』
 
『でもあれやってて思ったけど、私にはやはりプログラムは無理だよ。まるで呪文を入力している気分だった』
と千里は言う。
 
『千里ってプログラムの命令のひとつひとつをいまいちちゃんと理解してないっぽいんだよなあ』
『ね、ね、この会社にはきーちゃんがお勤めしてくれない?』
『はあ?』
『私、雨宮先生から大学院も卒業するしこれからは毎月10曲書いてもらうからなんて言われてるしさ』
『あ、その方がいいんじゃない? BASICやPerlにPHPなら俺も分かるぞ』
などと《せいちゃん》も言っている。
『きーちゃん、JavaとかC++とかUnix系OSの操作とか分かるよね?』
と千里。
 
『まあ、たしかに千里にはプログラミングの才能は無さそうだしねえ。んじゃ、WWW端末系は青龍やってよ』
と《きーちゃん》も半ば呆れたように言った。
 

千里はJソフトウェアを出ると、いったん東京駅に出てから上越新幹線に乗り込む。 
『越後湯沢で起こしてね』
と後ろの子たちに言い、熟睡した。
 

一方、高岡では、その日青葉はまだ冬休み中であったが、補習で学校に出て行っていた。お昼休みに隣のクラスの空帆が来る。
 
「ね、ね、来年のコーラスの大会で歌う曲だけどさ」
「随分先の話だね」
「いや、去年も早めに準備しておこうなんて言ってて、結局7月になってから決めたからさ」
「確かにバタバタだったよね」
「私と青葉のふたりで決めちゃってもいいだろうから決めちゃおうよ」
 
合唱軽音部の部長は青葉、副部長は空帆になっている。
 
「何を歌うの?」
「KARIONの『黄金の琵琶』」
「なるほどー」
「作曲者の許可は取れるよね?」
「まあ作曲者は私だし。作詞者の承認も必要だけど、あとで冬子さんに頼んでおくよ」
 
『黄金の琵琶』の作詞者は政子だが、政子に電話して頼んでも電話が切れた次の瞬間、彼女は忘れてしまう危険がある。それで冬子に頼めば、着実に編曲許可の書類を送ってもらえるだろう、という判断である。
 
「去年は中部地区大会までだったけど、今年は全国行けるかも知れないと思うんだよ」
「まあ一昨年は人数も居なかったしね」
 

その日の夕方になって千里がやってきた。
 
「参った参った」
などと言っている。
 
「昨日来るかと思っていたのだけど」
と桃香が言う。
 
「ごめんねー。例の会社に書類を出しに行ったら、会社内がパニックでさ」
「あらあら」
「トラブルが起きてその対処を社員総出でやってて、私もちょっと頼むと言われて徹夜で作業してた」
「大変だったね!」
「新幹線と《はくたか》の中で熟睡してきたよ」
 
「熟睡してて、よく越後湯沢で乗り過ごさないね」
と母が言う。
 
「千里って、熟睡していても、必要な時刻にはきちんと目が覚めるよな」
と桃香が言う。
 
「うん。だから私、夜間のファミレスのバイトをしながら結構眠っていられたんだよ。お客さんが来たら目が覚めるし、会計の所に行っても目が覚める」
「便利な体質だ」
 
「神経の1%くらいが常に起きてるんだろうね」
と母が言う。
 
「逆に私の身体って、完全に神経が眠っちゃうと、けっこう動きをサボるのよね〜。性転換手術で全身麻酔された時も一時的に心臓が止まったし」
 
「え〜!?」
「別に心臓が止まるくらいは普通だから私は平気なんだけどお医者さんは慌てたらしい」
「いや、それ絶対普通じゃない」
 
あの時は全身麻酔中ではあったのだが、危険を感じた《くうちゃん》が強引に千里の脳を覚醒させ、それで心臓は再稼働したのである。しかしおかげで手術中は自分の性器が解体されていく様子をずっと知覚するハメになり、そちらの方が千里はよほど辛かった。このあたりが自分が手術されている所を楽しんで見聞きしていた青葉との性格の違いだ。
 
「以前、病院で健康診断受けてて看護婦さんが『あれ?脈拍がない。あれ?血圧が無い。機械が壊れてるのかな』と悩んでたんで、『あ。すみませーん。心臓ちゃんと動かしますね』と言って」
 
「心臓の再稼働ってどうやるの?」
と母が訊くので
「足を動かせば心臓も動くよ。手くらいじゃダメ。足が良い」
と千里は答える。
 
「千里、実は君は死んでいるのでは?」
と桃香。
 
「あはは。私、あまり生きているって自信が無い」
 
などと千里は笑いながら言っている。
 
「でも桃香、私が死んでるように見えたら、足を数回動かしてみてよ。それでたぶん蘇生するから」
と千里が桃香に言う。
 
「分かった。それは覚えておく。でも私は千里より先に死にたいな。愛する者の死を見るのは辛い」
と桃香が言うと、千里は微笑んでいる。
 
青葉は半分は冗談で
「ちー姉、千日行の堂入りができるかもね」
 
と言ったのだが
 
「あ、私、瞬嶽さんに君なら堂入りが1ヶ月でもできると言われたよ。さすがにそれは死ぬと思うけどね」
と千里は答える。
 
「瞬嶽って青葉の亡くなったお師匠さん?」
「そうそう。たぶん外交辞令だよ」
 
堂入りというのは、不眠・不休・不飲食(水も飲んではいけない)で1週間お経を唱え続けるという、人間の生命力の限界を超える修行である。これを経ないと千日行は満行しない。
 
でも瞬嶽がそんなことを言ったのなら、本当にできるのでは?と青葉は思う。しかし・・・・と青葉は更に悩んでいた。
 
天津子は自分と青葉が協力して千里を殺そうとしても殺せないだろうなどと先日言っていた。でもそれ殺せないというより、たとえ殺してもすぐ生き返るんだったりして??
 
 
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