【春分】(1)
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(C)Eriko Kawaguchi 2015-05-22
「ね、ね、一卵性双生児なのに性別が男女ってのがあるらしいよ」
と言ったのは純美礼であった。彼女はだいたいこういう怪しげな話が好きである。
「それ、一卵性双生児で生まれた片方が性転換したって奴じゃないの?ブレンダと呼ばれた少年、というのでその筋では有名だよ」
「へー。そういうのもあるのか。いや私が聞いたのはね、人間って卵子に精子が結合してできるんだって知ってた?」
「いや、高校生にもなってそんなの知らない子はちょっとおかしい」
「そうだったのか。でさ、普通は1つの卵子に1つの精子しか結合しないんだって。なんか精子が結合した瞬間、卵子は門を閉めてしまうから、もう新たな精子は進入できないんだって」
「うん。そういうメカニズムになってるよ」
「でもまれに2つの精子が完全に同時に進入して2つ精子を受け入れてしまうことがあるんだって」
「過受精ってやつだね。ひじょうに珍しい。すると染色体がXXXまたはXXYになってしまうんだよ。XXXはふつうの女性とほとんど変わらないんだけど、XXYはクラインフェルター症候群と言って、男性なんだけどやや女性ぎみの身体になって生殖能力も弱い人が多い」
「そうそう。それでそのXXYになってしまった受精卵が分裂して一卵性双生児になるんだけど、その時、うまくXXとXYに別れることがあるんだって」
「その話はおかしい。それだとXが1個足りないじゃん」
と日香理が至極妥当な指摘をする。
「もしかしたら精子が3個同時進入したのかも」
「いや、XXとXYに別れるのなら、卵子由来のXが2つ必要」
「だったら、卵子が元々Xを2個持ってたとか」
と純美礼の話はどんどんあやふやになる。
「でもまあそういう訳で一卵性なのに、XXとXYの染色体になっちゃう訳よ」
「それあり得たとしても物凄く確率が低いと思うけど。そもそも過受精が起きる確率が凄まじく低い上に、受精卵が分裂して一卵性双生児になる確率も凄く低い。更にその分裂する時に都合良く XXとXYに別れるなんて」
「でも確率が低くてもあり得るでしょ?」
「まああり得ないことはない」
「そんな複雑な過程を経るよりこちらのほうが簡単だよ」
と凉乃が横から声を掛ける。
「最初にまだ受精していない卵子が分裂してしまう」
「ほほお」
「その2つに分裂した卵子が各々別の精子と受精する」
「なるほどー」
「それ結果的には純美礼が言ったのと同じ形になるね」
と日香理が言う。
「そうそう。卵子由来の遺伝子は共通だけど、精子由来の遺伝子は別。だからこれを半一卵性双生児とも言うんだよ」
「そういう双子は割と発生している気がする」
「うん。でも男女で生まれて来たら、みんな二卵性だと思うから、わざわざDNA検査とかしない限りは誰も気づかないよね」
「しばしば男女の双子なのに凄く似てる子っているけど、ひょっとしたらそういうタイプなのかも」
「そういう子たちって絶対服を交換して、男の子が女の子の振りして、女の子が男の子の振りしてたりしてるよね?」
「それ、ライトノベルの読み過ぎ」
「でも一卵性双生児も、いつ分裂したかによって子宮内での形がけっこう違うんだよね」
「へー」
「早い時期に分裂した場合は羊膜も絨毛膜も別々。この場合は二卵性双生児に近くて結構安定して育つ。少し遅れて分裂した場合は、ひとつの絨毛膜の中に羊膜がふたつできて、まあ同じ部屋の別の布団に寝ている感じになる。かなり遅くなってから分裂した場合は、絨毛膜も羊膜も共通。だから同じ布団に一緒に寝ている感じになる」
「同じ布団だと取り合いになりそう」
「うん。だからこのタイプの一卵性双生児は育ちにくい。食事も同じ皿から取り合っているようなものだから、栄養不足になりがちだし、凄く不安定」
「なるほど」
「遅く分裂するっていつ頃?」
「えっとね。確か一週間以上経ってから分裂したら、一羊膜性になってしまうと聞いた気がする」
「なんだ。ずっと遅くなってと言うから、生まれた後で分裂したのかと思った」
と純美礼。
「はあ!?」
「なんで生まれた後で分裂する訳よ?」
「そういうことって無いんだっけ?」
「赤ちゃんが分裂して増えたりしたら怖いぞ」
「Dr.スランプのガッちゃんだな」
「あのね。人間はプラナリアとは違うの」
と凉乃が呆れたように言った。
ハルはその日体調がすぐれず、朝なかなか布団から出られずにいた。
「お腹痛い。生理つらいなあ」
などと独り言のようなつぶやいていたら、下の階で母が呼んでいる。
「ハルちゃん!いい加減に起きなさい!何やってんの?遅刻するよ!休むの?」
ハルは本当は休みたい気分だったが休んだらまたD先生からねちねちと言われそうで、それも気分が悪い。
「今行く」
と返事をして布団から出るものの目の前が電波状況の悪い時の地デジみたいな画面になって、崩れるように座り込んでしまう。うーん。生理2日目だし。血が足りないよぉ。点滴でもしてもらいたい気分。
母はまた何か叫んでる。
「もう間に合わないよ!何やってんのよ?」
その時
「ミャー」
とそばで三毛猫が可愛く鳴いた。
「よしよし」
と言ってハルは猫の背中をなでる。猫がゴロゴロと喉を鳴らす。
「アキは元気だよね。毎晩夜中に運動会してるもん。でもあんた結構いい年だよね。人間の年に直したら45歳くらいかなあ」
そんなこと言われながらも、ハルが背中をなでなでしているので猫はゴロゴロと喉を言わせている。
「ああ、アキ、お前が私の代わりに制服着て学校に行ってくれたらねえ」
などとハルは言った。するとアキは
「行ってもいいよ」
と言った。
へ?
ハルが驚いていると、アキはハルそっくりの姿に変じた。そしてブラウスを着て制服のスカートを穿くと、上衣を身につけ、胸にはリボンを結ぶ。
「じゃ、私、代わりに行ってくるからハルは寝てなよ」
とアキが言う。
ハルはきっとこれは夢だと思った。でも夢なら寝ててもいいよね? そう思うとアキに
「うん。寝てる。よろしく」
と言って布団に戻り目をつぶった。
ハルの母親はもう8:05になってやっと娘が2階から降りてきたので
「あんた、もう完全に遅刻!」
と言う。
「大丈夫、大丈夫。今から走って行けば間に合うよ。お母さん、御飯は?」
「こんな時間に起きてきてあるわけ無いでしょ! はい、これお弁当」
「ありがとう。でも朝も何か食べないとお腹空くしなあ」
と言ってハルは冷蔵庫を開け中からウィンナーを2本取り出すと、テーブルの上に置いてあった食パンの包みから1枚取り出しパンにはさんだ。
「じゃ行く途中で食べる」
と言ってハルが飛び出して行く。
「あれ間に合うの?」
とコタツに座って新聞を読んでいた夫が訊く。
「遅刻だと思うけど。8:15から読書の時間なのに」
「ほんとにあの子、最近朝が弱いよな。なんか体調悪かったりしない?」
「私はもしかして自律神経とかかなと思っていたんだけど。私もこのくらいの年にけっこう貧血とかで辛かった時期があったのよ」
「それ女の子特有のホルモンバランスとかの問題かなあ」
「かも知れない。あまり酷いようだと一度お医者さんに相談した方がいいのかも知れないけど。あ、私たちもそろそろ出ないと」
「よし。出かけるか」
と言って夫は新聞を置き、壁の鍵掛けから車のキーを取った。
その頃2階の部屋でハルはまどろんでいたが、やがて車のエンジンが掛かる音、車が出て行く音がする。いつも父が母を乗せたまま勤務先の医薬品会社まで行き、そのあと母が運転して自分の仕事先のテレビ局に行く。テレビ局勤務といってもアナウンサーなどの表に出る仕事ではなく、放送の実務や番組制作に関わる仕事をしている。ごくふつうの勤め人である。
帰りは母は自分の車でテレビ局を出て晩御飯の買物をしてから自宅に戻る。父は帰りは遅くなることが多いので、市電が動いている間なら市電で自宅に最も近い電停まで来てから、母に連絡して迎えに来てもらう。思いっきり深夜になった場合はタクシーで帰宅する日も多い。
「あ、お母ちゃんとお父ちゃんが出かけたな。私はこのままお昼くらいまで寝てよう」
とハルは思い、また眠りの中に入っていった。
その日、ハルの学校。
1時間目は担任でもあるD先生の理科の授業である。原子の構造について説明していた時、何か物珍しそうな表情で教室の壁の方を見ていたハルに気づく。
「おい、左倉」
とハルを当てるが、ハルは自分が呼ばれたことに気づかない。
隣の席のマコトちゃんが
「ハルちゃん、当てられてる」
と小さな声で言ってあげる。
「あ、はいはい」
と言ってハルは立ち上がって先生の方を見た。
「今原子内の電子の軌道数を説明していた訳だが、最初の軌道には2個、次の軌道には8個、その次の軌道には18個入る訳だけど、4番目の軌道には何個入ると僕は言った?」
と先生は質問する。
その話は教科書には明記してなくて、単に今D先生が口頭で言っただけである。
「32個です」
とハルは即答する。
「おぉ!」
と教室内から声が上がる。
「へー。ぼーっとしているようでもちゃんと聞いてたんだな。よろしいよろしい。でも授業中にあまりよそ見をしないこと」
「はい。済みませんでした」
その日の昼休み、ハルがお弁当を食べていたら、ガラの悪そうな男子生徒が2人寄ってくる。
「おい、左倉、ちょっと顔貸せよ」
ハルは
「今御飯食べてるから終わってからね」
などと平然とした顔で言う。
「顔貸せと言ったらすぐ貸せよ」
とひとりの男子がすごむ。
しかしハルはその子をしっかり見据えると
「他人がエサ食べてる所邪魔したら、血を見るよ」
と言う。
その気合いに負けて、その男子は
「分かった。待つ」
と言う。それでハルはゆっくりとお弁当を食べ終わると
「美味しかった。おごちそう様!」
と言って大きく伸びをする。
「じゃ行こうか。何の用事なの?」
と言ってハルは席を立った。隣のマコトが心配そうに見ているが、ハルは笑顔でマコトに手を振る。
学校の裏手まで来たところで男子が言う。
「あのさあ、こないだお前からもらったボールペン、凄く書きやすくて自慢してたら黒岩さんに取られちゃってさ」
と男子。
「ふーん。それあんたたちにあげた訳じゃなくて貸しただけだからさ。そろそろ返してと言おう思ってたんだけど」
とハル。
「おい、ちょっと調子に乗ってんじゃないよ」
と言って男子がハルの肩を押そうとしたが、ハルがすっと身をかわすので男子は空振りして前のめりに転んでしまう。
「おい、大丈夫か?」
「あんたたち運動神経悪いね」
「何〜?」
勝負は3分で付いた。
ふたりの男子がハルを殴ろうとしようが捕まえようとしようが、ハルはするりと逃げてしまう。
「参った」
「お前、なんか強くなったな?」
「毎晩たくさん走ってるから。階段の上り下りとか壁面登りとか」
「そうか。トレーニングしてたのか」
「で、そのボールペンどうしたのさ?」
「それが黒岩さん、壊しちゃってさ。同じ物巻き上げてこいって言われたんだよ」
「それ話が逆じゃん。壊した人が弁償して私に返してくれるもんじゃないの?」
「そんなこと黒岩さんに言えるかよ!?」
「根性無いね。あんたたちタマ付いてんの?」
ふたりは顔を見合わせている。
「一応付いてるけど」
「そんなもの取っちゃいなよ。私が取ってあげようか。私男の子の玉落としたことあるよ。スパッとね」
「嘘!?」
「それは勘弁してください!」
それでその日の放課後、ハルはふたりの男子に案内させて、黒岩がアジトにしている某部の部室に行く。
「なんだ。新しいボールペンは持って来たか?」
と奥に座っていた人物が言う。
「あんた? 私のボールペン壊したってのは?」
とハルが言うと、黒岩はビクッとした。
「誰だ、お前?」
と言って椅子から立ち上がり、空手系の構えをする。自分の目の前に居るのが油断できない人物というのを彼は瞬時にして感じ取った。
ハルと黒岩が対峙する。
黒岩が「やぁ!」と声を挙げて突っ込んでくる。ハルはさっと身をかわす。逆から突っ込むもやはりひょいと身をかわす。
何度やっても黒岩はどうしてもハルの服の端さえつかむことさえできない。彼が壁に立てかけてあった竹刀を取る。思いっきり振り下ろす。
しかしハルはいつの間にか2m以上もあるロッカーの上に飛び上がっている。黒岩が手をいっぱい伸ばしてそのロッカーの上にいるハルの足を竹刀で払おうとした。がそれより速くハルは飛び降りる。風圧でスカートがめくれる。
「い、いちご?」
と思わず黒岩が言った次の瞬間、ハルは黒岩の顔面を思いっきり蹴っていた。
黒岩が倒れる。
「爪立てちゃダメって言われてたからなあ」
などとハルは言っている。
黒岩は土下座した。
「お見それしました。この黒岩赤次郎、まことに感服しました。イチゴ、じゃなかった、姐御(あねご)の好きなようにしてくださいまし」
「まあ別にそういうのいいけどさあ。取り敢えずそのボールペン返してよ」
とハルが言う。
「へへーい。これです」
と言って黒岩が返す。軸が折れている。
「あああ。これ私の死んだお姉ちゃんがバスケットの大会で優勝してもらった大事なボールペンだったのに」
「申し訳ございません」
「まあ壊れたものはしょうがないから勘弁してやるからさ。少なくとも私が在校している間は、下級生からカツアゲすんのやめなよ」
「分かりました。舎弟どもにもきっちり言っておきます」
と黒岩は答えた。
10月上旬。千里は大阪で「子作り」をした後、東京に帰ろうと自分のインプを運転していて、少しぼんやりしていたら、いつの間にか琵琶湖の北東岸を走っているのに気づいた。本来は米原JCTは直進して名神を走り続けなければならない所をなぜか分岐して北陸道に入ってしまったようである。
あれ〜? なんで私こちらに来ちゃったのかなと思うが、自分が道に迷う時はその理由があるんだと言われていたことを思い出す。
それで取り敢えず賤ヶ岳SAで停めて青葉たちへのお土産にお菓子を買ってから、北陸道をそのまま走り、小矢部砺波JCTで能越道に分岐して高岡ICで降りる。ところが青葉の家(桃香の実家)に行ってみると、誰も居ない。考えてみたら月曜日なので、青葉はふつうに学校に行っているし、朋子も会社に出ているのだろう。それで折角来たしと思い、お土産のお菓子はメモを付けて郵便受けに放り込み、桃香の好きな鱒寿司でも買って帰るかと思い、8号線を富山方面に向かって走った。
富山空港の近くにある笹義というお店で鱒寿司の輪っぱを1つ買う。ここが桃香のお気に入りのお店なのである。
それで車に戻ろうとしていた時、千里は中学生っぽい少女が竹刀(しない)を持って歩いているのを見かけた。普通なら別に見過ごすところだが、千里は気がついた時には彼女に声を掛けていた。
「ね、君、今日は学校無いの?」
彼女は千里を見ると
「お姉さん、補導員か何か?」
と訊く。
「ううん。私は通りすがりのバスケットボール選手」
「へー! バスケットするの?」
「中1の時から11年半やってるよ」
「すごーい! あれ?だったら今24歳?」
「まだ23歳。私、早生まれだから」
「すごーい。まだ18-19歳に見えた」
ああ確かに私って若く見られがちみたいね。本当は毎年100日余分に修行してるから実は今は歴史年齢より2歳くらい上のはずなんだけど、などと千里は思う。
「ね、お姉さんバスケット教えてくれない?」
「いいけど。でも竹刀はバスケには使わないかな」
「ああ。これ? さっきちょっと別の中学の子と果たし合いしてきてさあ」
「元気だね」
「これは念のため持って行っただけで、実際には素手で倒したよ」
「偉い偉い。喧嘩は道具使っちゃいけない。お互い素手でやるもんだよ」
「お姉さん、話分かるね」
どうも少女は千里のことが気に入ったようである。
「まあ取り敢えず車に乗りなよ。そんなの持ってる所、おまわりさんに見付かると面倒だよ」
「そうだねー」
それで千里は彼女を車に乗せ、近くの市民体育館に向かう。
「実はさ、うちの中学の女子生徒がそこの男子生徒にレイプされて妊娠したんだよ」
「生臭い話だね」
「赤ちゃんはうちの中学の女子生徒でお金出し合って中絶したんだけどね。こういうの警察に届けたら、被害者のほうが記者とかに追いかけ回されてひどい目に合うじゃん」
「うん。全く日本はひどい国だよ」
「それでうちの中学の番長してる子が、話付けちゃると言って、加害者の子を締め上げて中絶費用は結局そいつに全額出させたんだ」
「いい話じゃん」
「ところがそれを向こうの中学の番長が気に入らんと言い出してさ。果たし合いだって言ってきたんだけど、被害に遭ったのは女なのに、男同士で決着つけるなんて不愉快じゃん」
「まあそういう考え方もあるかもね」
「だから私にやらせてよと言って、それで私が向こうの番長倒してきた」
「へー、男の子に勝ったんだ?」
「私はそこら辺の人間の男には負けないよ」
「まあ、そういうのもいいんじゃない?」
と千里は微笑んで言った。
「やっぱ、お姉さん、話が分かる人みたい。名前教えてよ」
「私は千里。君は?」
「私はアキ」
と少女は言った。
市民体育館の駐車場にインプを駐め、少女と一緒に中に入る。千里はいつも車にバッシュとボールを積んでいる。
「君靴は?」
「あ、適当に」
などと言うので、千里が窓口で申し込む。1時間借りることにする。この子を昼休みには学校に送り届けたい。
それで
「1時間借りたよ」
と言って振り向いた時、そこには戸惑うようにしてバッシュを手に持ち立っている、はかなげな少女が居た。
「君、アキちゃんだよね?」
と千里が尋ねると
「えっと・・・・私ハルです。ここどこ?」
などと彼女は訊く。
「市民体育館だけど」
「私、なぜここに居るの?」
「君がバスケの練習をしたいと言うから連れてきたんだけど。君もバッシュ持ってたんだね」
と千里は答えるが、おいおい、これこの子が知らないうちに拉致されてきたなんて騒いで、私、未成年者誘拐に問われないよね?と心配になる。
「あ、このバッシュお姉ちゃんのだ」
千里はもしかしてこの子、さっきアキと名乗った子の双子の妹で「お姉ちゃんのバッシュ」ってそのアキの方のバッシュなのかな?と思った。
「バスケの練習する?」
「してみたい!」
と彼女が言うので、千里は微笑んで
「1時間借りたから。それで少し練習してから、お昼には君を学校に送り届けるよ」
と言った。
それで彼女がバッシュを履く所を見ていたのだが、一度も使ったことのないバッシュのようで、そもそも紐がまとめてある。千里は彼女に紐の通し方から教えてあげた。
「このバッシュ、君にはまだ少し大きいみたい」
「私、バスケまたやろうかな。それでこのバッシュが合うくらいになる頃には少しは強くなれるかな」
「かもね。以前もやってたの?」
「小学1年の時にちょっとだけね」
「ふーん」
千里はハルと名乗った子がバスケ自体は事実上初心者であるものの、運動神経が非常に良いのを認識した。
何よりも走るスピードが速い! 下半身を何かのスポーツでかなり鍛えているようで、走ってきてピタリとトラベリングにならないように停止することができる。
ドリブルもパスも初心者ではあったものの、千里は基本を丁寧に教えてあげる。
「まずはチェストパスをしっかり覚えるんだよ。相手の胸を見て、しっかりと両手で押し出す」
と言って実際に彼女の両腕をつかんで投げる所の練習をする。
「お姉さん、腕が凄く太い」
「まあU18とかU21とかの日本代表とかもしたし」
「すごーい!」
「女の子らしいということとね、腕や足が細いかどうかって関係無いんだよ。身体を鍛えている女の子に魅力が無いんだったらオリンピックのゴールドメダリストはお嫁に行けないじゃん」
「ですよね〜」
「君って凄く運動神経いいもん。腕立て伏せとかも頑張りなよ」
「そうだなあ」
「腕立て伏せ頑張ると胸の筋肉が発達するからおっぱいも大きくなるよ」
「頑張ります!」
「ハルちゃんはバスケは何でまたやってみようと思ったの?」
「お姉ちゃんがバスケ強かったの。もう死んじゃったんだけどね」
「へー!」
と言いながら、千里は、じゃさっき私が話していたアキちゃんって、もしかして幽霊?などと内心冷や汗を掻きながら考えていた。
2014年12月21日。
この日はローズ+リリーの富山公演があり、青葉は冬子から出演しない?と打診された。
「サックス吹くんですか?」
「うん。オープニングに七星さんとふたりで吹いてもらえないかと思って」
「私、下手ですよ〜」
「そんなことはない。それと『苗場行進曲』というのをやるんだけどね」
「はい?」
「青葉たちの学校の合唱軽音部の子たちに楽器を演奏しながら行進してもらえないかと思って」
「私たち、吹奏楽部とは違ってマーチングとかはしませんけど」
「構わない構わない。ギターやベースを掻き鳴らしながら行進してこそ苗場らしいじゃん」
「確かにそうですね!」
ということで青葉たちは部ごと出ることになったのである。公式の要請はレコード会社から出してもらい、★★レコードの北陸支社の営業さんが学校に来て校長・顧問と話し合い、学校側からも許可が出た。
当日、青葉たちは話を聞いて急遽参加することになった3年生も含めて32名が高岡駅に集まった。この部はほとんどが女子なので、みんな当然女子制服を着ている訳だが、1人、1年生の翼だけは、(男子なので)男子制服を着ている。
「なんで翼、男子制服なのよ?」
「え? そんなこと言ったって僕、男子だし」
「でも折角、女子制服で揃っているのに男子制服の子がまじってたら変だよね」
「じゃ、僕、行進参加は遠慮しましょうか?どうせ僕、ピアノ抱えては行進できないし」
「心配ない、心配ない。君のためにこれを用意した」
と言って女子制服が1着出てくる。
「さあ、着てみよう」
「え〜〜〜!?」
そういう訳で32名の《女子》が1時間後、富山駅から出てローズ+リリーのライブ会場、オーロラホールに向かっていた。
まだ開場前なので、会場前には大勢の観客が詰めかけて入場を待っている。青葉たちは裏手の楽屋口に行く。警備員さんが立っているので、予め渡されていたバックステージパスを見せる。
「T高校の生徒さん32名ですね。じゃ数えますから1人ずつ通って下さい」
というので、みんな楽器を持ったまま通過する。
翼が通る時に警備員さんが「あれ?」というので翼はドキッとする。
女子制服着てるの変だった?
と思ったら
「君は楽器は持ってないの?」
と言われる。
「ぼく・・・、いや、わたしピアノ担当なので手ぶらです」
と翼は答える。
「ああ、さすがにピアノは手で持てないよね」
と警備員さん。
「スタインウェイのコンサートグランドは480kgですよ」
とひとつ前に通ったユーフォニウム担当の麻季が言う。
「480か。女子高生なら10人がかりかな」
と警備員さん。
「20人要るかも」
「でも君の楽器も大きいね」
「これは4kgくらいです。ピアノの100分の1ですね」
「それでもずっと抱えてるとけっこう大変でしょ?」
「重いと思ったら、猫のルイちゃんに持たせてます」
「君んちの猫も大変だね!」
そんな冗談(?)も言いながら全員通過する。
「確かに32名ですね。あれ?女子生徒32名と引率の女性教師1名と書いてあるけど」
と警備員さん。
「すみませーん。顧問の今鏡先生は持病の癪(しゃく)が差し込んで緊急に帝王切開で三卵性双生児を出産中で」
と3年の郁代さんが訳の分からんことを言う。
「はあ!?」
「代表は代わりに私が務めます。連絡事項がありましたら清原で呼び出して下さい」
と空帆が言った。
新部長の青葉が個別でも出演して忙しいので、新副部長の空帆が代わって今日のまとめ役をしているのである。
廊下を歩いて楽屋方面に行く時に翼が言う。
「なんか女子生徒32名で届けられていたみたいですけど?」
「うん。だから翼、ちゃんと通用口を通過できて良かったね」
「何なんですか? この計画性は?」
と翼は抗議した。
それで歩いていると、向こうでケイのお友達の秋乃風花さんが40代くらいの女性と立ち話しているのに青葉が気づく。
「おはようございます、秋乃さん」
「おはよう、青葉ちゃん。凄い人数だね!」
「苗場行進曲に出場するんですよ」
「おお、よろしくねー。あっ、控室に案内するね」
と言う。すると一緒に居た女性が
「君たち、それは高岡T高校の制服だっけ?」
と言う。
「はい、そうです!」
と青葉たちが元気に答える。
「越中テレビの者ですけど、あとでちょっと取材させてもらっていいですか?カメラの人呼ぶから」
などと言っている。
「いいですよー」
と答え、秋乃さんに案内され控室に入る。
中に以前会ったことのある鈴木真知子ちゃんや松村市花さんがいるので会釈する。
「たくさん来たね!」
と鈴木さんが言う。
「おはようございます、鈴木さん」
と青葉が言うが
「おはようございます、川上さん。でも同い年だし名前呼びにしようよ」
と鈴木さん。
「そうだね、真知子ちゃん」
「うん。よろしく、青葉ちゃん」
「この人どなた?」
と部員たちから質問が出るので青葉が紹介する。
「ケイさんのヴァイオリンの姉弟子で、鈴木真知子ちゃん」
と紹介する。
「姉弟子? 妹弟子じゃなくて?」
「中学生の頃のケイさんが、当時小学生の真知子ちゃんにヴァイオリンを習っていたんだよ」
「凄っ!」
「天才少女ヴァイオリニスト?」
「真知子ちゃん、よかったら何か弾いてもらえる?」
「いいよ」
それで真知子ちゃんがヴァイオリンを取り出すと自分でもヴァイオリンを弾く2年生の杉本美滝が
「それ、物凄く高そう」
と言う。
「そんなことないですよ。3万ユーロで買ったから」
と真知子ちゃん。
「3万ユーロって何万円だっけ?」
「今150円くらいだから450万円」
「きゃー!」
「私が買った時は1ユーロ、100円を切っていたんですよ。だから300万円くらい」
と真知子ちゃん。
「いや、それでも充分高い」
そして真知子ちゃんがカルメン変奏曲の一節を弾いてみせると
「かっこいいー!」
「うまーい!」
という声が掛かっていた。
その時、楽屋にスターキッズの七星さんが入ってくる。青葉を見て
「おっす、青葉」
などと言うので
「おはようございます、七星さん」
と青葉も挨拶する。
七星さんの顔は知っている人も多いので、部員たちが騒ぐ。しかし空帆が何か考えている様子。
「どうしたの? うっちゃん」
「いや、今ふたりの挨拶聞いてて突然思いついたけど『おっす』ってもしかして『おはようございます』の短縮形かな?」
と空帆が言う。
「うん。そうだよ。君は清原さんだったよね?」
と七星さんが言う。
「覚えていてくださいましてありがとうございます。清原空帆です」
「『おはようございます』が『おはよっす』『おはっす』とかになって最後はとうとう『おっす』になってしまったらしい。明治時代に海軍で広まったとか、京都の武道学校の生徒たちの間で広まったとか言われるけどね」
「なるほどー」
「さて、準備準備。オープニング、青葉はこれ着て」
と言って渡された衣装は狩衣っぽい。
「これを着るんですか?」
「コキリコ演奏するから」
「コキリコなんですか!?」
と青葉が驚いたように言う。
「連絡・・・行ってたよね?」
「聞いてません。てっきり『眠れる愛』でも吹くのかと思ってました」
ローズ+リリーの新譜『雪月花』に入っている『眠れる愛』の音源では実際に青葉がサックスを吹いている。
「それも後でやるけどね。じゃ譜面も・・・」
「見てません」
「先々週、ケイの所に行ったら、その日はケイが出かけてたからマリに渡したんだけど・・・・」
「マリさんじゃ無理です」
「だよなあ。あの子、天国の住人だから」
と七星さんも諦め気味だ。
「風花ちゃん、この譜面コピーしてくれる?」
と言って七星さんが譜面を秋乃さんに渡している。
「行ってきます」
と言って飛びだしていく。
「それで譜面は今から覚えて」
「分かりました!」
それで七星さんは赤い狩衣、青葉は青い狩衣を着るので、各々服を脱いで着替える。が、その時、近くで驚いたようにして俯く子が居る。
「ん?」
と須美が気づいてそちらを見る。
「あ、翼か」
「あのぉ、ここもしかして着替えとかもするんですか?」
「まあ女性用控室だから」
「僕、外に出てます」
「だめだよ。連絡事項とかあるかも知れないし」
「えー!?」
「君は今女子高生なんだから、別に女性が着替える場所に居てもいいと思うけど」
「まずいですよー」
「じゃ、目をつぶっていればいい」
「そうします!」
オープニングはその青葉と七星さんのツインサックス(ふたりともYanagisawa A-9937PGPというピンクゴールドの製品を使用している)をフィーチャーした「コキリコ」(富山県五箇山民謡)であった。
実際に五箇山(ごかやま)のお祭りでも使用する「ささら」を持った地元の人にも入ってもらい、踊ってもらっている。コキリコの唄に関してはマリは半日お稽古を受けただけだが、ケイは民謡の名取りで、しかも五箇山の近く高山の出身でもあるので、コキリコは幼稚園の頃から唄っていたらしい。それで地元の人にも充分聴きごたえのある唄になっていたようであった。
オープニングの演奏の後、七星さんは元々本来の衣装の上に狩衣を重ね着していたので舞台袖でさっと狩衣を脱いで再度ステージに出て行ったが、青葉はいったん控室に戻り、次に『眠れる愛』に出るため別の衣装に着替える。他にも何人かの伴奏者が忙しく出入りしては、着替えたりしているので、その度に翼は目をつぶっていた。
その青葉が『眠れる愛』の出番を終えて次は『苗場行進曲』に出るため制服に着替えていたら
「こんにちは〜」
と言って、最初に出会ったテレビ局の人がアナウンサーっぽい若い女性と大きなテレビカメラを持った女性と一緒に入ってくる。
テレビ局の人たちとは、『コキリコ』『眠れる愛』にも出た青葉のことについてはインタビューでは触れないことにして、純粋に高岡T高校の合唱軽音部の課外活動というのに焦点を当てて質問をすることで合意した。
「合唱軽音部って変わった名前ですね?」
「昨年度までは合唱部と軽音部だったのですが、人数が少なくて統廃合の対象にするぞと言われたので合体しました」
「それで合唱の大会と軽音の大会の両方に出ています」
インタビューに主として答えているのは空帆と日香理である。
「色々お話聞いていたら、他の地区のライブでは吹奏楽団の人たちのマーチングをした所が多かったらしいですね」
「そうなんです。でも私たちが出る『苗場行進曲』という曲、元々が毎年夏に新潟県の苗場で行われているロックフェスティバルのために作られた曲なので、私たちのような軽音の楽団が出るほうが、よりふさわしいとケイさんから言われたんです」
「なるほどー、それで軽音なんですね」
「みんな各々楽器を持って演奏しながら行進します」
「ドラムスとかはどうするんですか?」
「エアードラムスで」
「スティックだけ持って歩きます」
「ピアノもエアーピアノです」
「ピアノは指を動かすだけで」
「チャイコフスキーのピアノ協奏曲をダイナミックに弾きながら」
このインタビューの様子は多少編集された上でローカルの情報番組で10分間も流されたらしい。
インタビューが行われていた間、青葉はカメラの後ろに立ってストップウォッチを持っている女性がずっと気になっていた。最初に廊下で会った、秋乃さんと立ち話をしていた人である。
それで撮影が終わった後で、その女性の所に行く。
「済みません」
「はい」
「ちょっと肩にゴミが付いていますよ」
と言って、彼女の左肩を払う(祓う?)。
「あ、ありがとう」
「いえ」
と言って青葉は部員たちの所に戻り、ピンクのサックスを手に持った。
青葉たちが『苗場行進曲』に出場するのに出て行く。ステージの撮影はレコード会社が許可を出さなかったものの、レコード会社担当の氷川さんは資料映像として★★レコード側でもステージは全部撮影しているので、その画像を後でコピーしてあげますよと約束してくれた。それで撮影隊は彼女たちがステージまで上がっていくところと、降りてくる所だけを撮影することになった。
彼女たちが出て行った後、控室は急に静かになった。残っているのは最近事実上のローズ+リリーのマネージャーと化している風花と、さきほど青葉が肩の所に付いていた(憑いていた)ゴミを払って(祓って)あげた女性、左倉さんだけである。★★レコードの氷川さんは舞台袖に行っているし、UTPの甲斐さんはお使いに出ている。
控室の中で、左倉さんが風花に言った。
「元気な子たちですね」
「いや女子高生32名のパワーはさすがに凄いです。自分の高校生時代を思い出してしまいました」
と風花。
「やはり軽音なさっていたんですか?」
「軽音は有志でバンド組んで1度だけ大会に出たのですが、それより中学高校の6年間、私は合唱部にいたんですよ」
「わあ、合唱もいいですね」
と言ってから彼女は突然、愁いの表情になる。
「どうかなさいました?」
「実はさっきのインタビューの時に突然亡くなった娘のこと思い出して」
「お嬢さん、高校生で亡くなられたんですか」
「ええ。16でした。昨年七回忌を済ませたのですが」
「じゃ、生きておられたら今はOLでもしてたか、ひょっとしたら結婚して赤ちゃんできていたり」
「実はそんなことばかり考えるんです! 死んだ子の年を数えるなとは言いますけどね」
「お子さんはその人だけですか?」
「その子の前に生まれた子は生まれてすぐ亡くなって。出生届けと死亡届を一緒に出しました」
「わあ」
「その後、その子が生まれて、その次の子は今度は流産して」
「あらら」
「卵管妊娠だったんですよ。でその時卵管を傷つけてしまって、それでもう妊娠はできないと言われたんですけど」
「あら〜」
「でもそれから6年も経ってもうひとり出来たんです」
「それ、反対側の卵巣から出てきたんでしょうね」
「お医者さんもそんなことを言ってました」
「じゃそのお子さんは希望の光ですよね」
と言いながら風花は過保護に育っていなければいいがと余計な心配をする。4回妊娠して3人出産して、結局今1人しか生き残ってないというのは随分運も悪いが、親もその子に愛情を注ぎすぎてしまうこともありがちだ。
「そうなんですけどねぇ」
と言ったまま、悩むような表情になる。風花はその表情を読みかねた。
「すみません。こんな個人的なこと話してしまって」
「いえ。いいですよ。世間話の範疇で」
「あれ?」
「どうしました?」
「いえ。ここ数年ずっと左肩が痛かったのが急に何ともなくなったような気がして」
「へー」
「夫は五十肩だろうとか言って。せめて四十肩と言えよと」
そんなことを言うので風花も微笑む。しかし左倉さんはハッとしたように言った。
「さっき、女子高生の子、あのピンクのサックス持っていた子が私の肩にゴミが付いているとか言って払ってくれて。それで肩の凝りが取れたのかも」
「ああ、それはあり得ますね。ピンクのサックス持っていた子なら、川上青葉ちゃんと言って、日本で五指に入る凄い霊能者なんですよ」
「えー!?」
「たぶん、何かが取り憑いていたのをお祓いしてくれたんですよ」
「わぁ・・・」
そこに甲斐窓香が戻って来るが、鱒寿司の輪っぱの入った袋を両手に持っている。
「お疲れ様〜」
と風花が声を掛ける。
「済みません。風花さん。まだあるんで運ぶの手伝ってもらえません?」
「OKOK」
「あ、私も手伝いますよ」
と左倉さんも言ってくれて一緒に通用口の方に行った。
『苗場行進曲』の演奏を終えたT高校の合唱軽音部員たちが戻って来る。一緒にケイとマリ、七星さんも入ってくる。
それでケイとマリが前半着た衣装を脱ぎ、汗を掻いた下着も交換するのに上半身裸になってしまうと、それを見た翼は慌てたように部屋の外に飛び出して行った。
「ん?どうしたのかな」
「あの子、女子制服は着てるけど実は男の子なんで、遠慮したんだと思います」
と青葉。
「へー。別に気にすることないのに」
とケイ。
「私たち、けっこう男性の目線とか気にせず舞台袖で急いで着替えたりすることもあるもんね」
とマリも言っている。
しかしそこに窓香が
「おやつ代わりに鱒寿司買って来ました」
と言うと
「頂きます!」
と言って、みんなそれに飛びつく。池の鯉に餌をやったかのような凄い騒ぎである。
「20個買って来ましたから足りるとは思いますけど、足りない!ということでしたら、また買って来ますから」
などと窓香は言っている。
するとそれを見たマリが
「あ、鱒寿司、私も好き〜」
などと言うので、窓香は
「マリさんのは別途ちゃんと買ってあります」
と言って、マリの前に輪っぱをどーんと積み上げた。
幕間を経て、またマリとケイ、七星さんが後半のステージに出て行く。T高校の合唱軽音部員たちはまだ騒ぎながら鱒寿司を食べている。
「なんかあっという間に無くなりそうだよ」
と風花。
「少し追加で買って来ます」
と窓香が言う。
「あ、甘い物もあったら歓迎です」
などという声もある。
「どこかお勧めあります? この時間に開いているところで」
と窓香が彼女たちに訊く。
現在既に夜8時前である。多くの店はもう閉まってしまう。
「富山駅の地下街のお菓子屋さんなら遅くまで開いてますよ」
「柔らかいクッキー系のものが好きです」
「じゃ、行ってくるね」
と言って窓香は飛び出して行った。
それで窓香が出て行った後、左倉さんが青葉の所に来て言った。
「済みません。さっきは何か祓ってくださったみたいで、ありがとうございます」
「あ、気づきましたか? ちょっとたちの悪そうなものでしたけど、取り除いたからもう大丈夫ですよ。肩がずいぶん凝っていたでしょう?」
と青葉は言う。
「そうなんです!アンメルツ塗ってもサロンパス貼っても、エレキバン貼っても全然利かなくて」
「実際肩こりに悩んでいる人の半分以上が実は精神的なもので、その中の1%ほどに霊的なものがあるんですよね」
と青葉は言う。
「実はさきほど秋乃さんから聞いたのですが、川上さんって日本一の霊能者さんなんですってね」
青葉は困ったような顔で風花の方を見る。風花がVサインをしている。
「まあ私は自分のできる範囲のことをしているだけですけど」
「あの、もしよろしかったら相談に乗って頂けないでしょうか? 御依頼料がどのくらい掛かるのか分かりませんけど、100万円くらいまでなら何とか用意しますので」
「そんなに取りませんよ!」
と青葉は言った。
翌日の12月22日。青葉は富山市内のレストラン個室で左倉さんと会っていた。21日が日曜日、23日は天皇誕生日で、22日は休みの間に挟まれた平日である。本当は青葉としては学校を休みたくないのだが、左倉さんの相談内容が深刻な感じであったこと、相談の中心になる中学生の娘が学校に行っている間に話したいということだったので、この日に相談に応じたのである。
「なんかあの子、最近まるで人が変わったようなんです」
喫茶店で会ったその40代の母親はそう青葉に言った。
「幼い頃はわりと元気な子だったんです。でもあの子が小学1年生だった時に9つ年上の姉が交通事故に遭って亡くなって」
と母親は言う。青葉は心の中で暗算する。
「亡くなられたお姉さんは高校1年生だったんですか」
「はい、そうです。昨年七回忌をしました」
ということは亡くなったのは2007年ということになる。そして妹は今中学2年か。
「随分年の離れた姉妹ですね」
「亡くなった子を出産した2年後に卵管妊娠して流産して、それで子供はもうできないだろうと言われていたのですが、6年も経ってから突然妊娠して」
「なるほど。私の知り合いで8つ年の離れた姉妹がいますけど、そこもやはり流産絡みで間が開いたんですよ」
「たまにあるみたいですね」
「でも交通事故で子供を亡くすと辛いですね」
「あの子は小学生の時からずっとバスケットしていて、中学でもジュニア大会で全国BEST8になって、高校は愛知県の強豪校に行って、その年インターハイで優勝したんですよ」
「J学園ですか!」
「ご存じですか?」
「私の姉もバスケット選手でインターハイ上位まで行っていたのでJ学園の強さはよく聞きました」
「そうですか。あの子もその年は1年生なのにインターハイのベンチに座っていて、期待されていたんですよ。結局出番はほとんど無かったのですが」
「いや。あそこで1年生でインターハイのベンチに座れるって、無茶苦茶期待されていたんだと思います」
「その年は国体でも優勝して。そちらはけっこう出番があったと言って喜んでいました。それでその国体の優勝記念にボールペンをもらいましてね」
「へー」
「秋田で行われた国体だったので秋田杉を使ったボールペンだそうで。それで娘はウィンターカップでも頑張るぞと言って、あ、ウィンターカップって・・・」
「分かりますよ。高校バスケではインターハイと並ぶ大きな大会ですね」
と青葉は答える。
実は千里がかなりバスケをやっていたということに最近気づいて勉強したものである。
「でもそのウィンターカップの地区予選直前に、新しいバッシューを買って帰る途中、青信号で横断歩道を渡っていたのに、強引に右折してきたトラックに轢かれて。即死でした」
「それは酷い・・・・」
と言いながら青葉は考えていた。右折してきたトラックが死角になる側の歩行者を轢いたとすれば、左側をやられたことになる。この人も昨日左側に変なものが憑いていた。何か共通の原因が無いか?
「J学園の監督とコーチと校長先生に理事長さんまでわざわざうちに謝りに来られたんですよ。でも私も夫も、出場できない娘の分まで頑張って優勝してくださいと言って。それでJ学園はウィンターカップでも優勝したし、その後出た皇后杯でも3回戦まで進出したんです」
「高校チームがプロも出場する皇后杯でそこまで進出するのは凄いですね」
と青葉は言いつつ、その年ってちー姉もインターハイと皇后杯に出ているし、ひょっとしてちー姉はインターハイでそのお姉さんと対戦していたりしないか?と思った。その年、ちー姉の高校は準決勝でJ学園に負けている。
「それで妹のハルなのですが、ハルは補導された時、その姉が国体の優勝記念にもらったボールペンを持っていたんですよ。なんでも学校の先輩に貸したら壊されたとかで。その修理ができないか文房具屋さんに尋ねに行ってたらしいんです。でもその日はあの子の中学は中間試験をしていたんですよ。それで『あんた何やってんの?学校は?』って声を掛けられて。それで娘が逃げようとしたもので捕まって警察に連れて行かれて事情を聞かれて」
「なるほど」
「それで私の携帯に電話があったので会社を抜け出して引き取りに行って。ところがですね」
「はい」
「娘は中間試験は全教科90点以上出して先生に褒められたんですよ。特に補導された日に行われていたはずの理科では満点だったそうで」
「え?」
「つまり、娘は中間試験の日に学校を抜け出して商店街を歩いていることなんてできなかったはずなんです」
青葉は考えた。
こういう場合、常識的には、どちらかが身代わりだったというのが考えられる。しかし大学なら代弁したりひょっとして身代わり受験もあるのかも知れないが、中学校で、クラスメイトにも先生にも顔を知られている生徒の身代わりなんて誰にもできるわけがない。一方、親が警察まで引き取りに行ったのであれば、それが別人ということは絶対にあり得ない。
でも青葉はそれ以上に不思議なことがあった。こういう案件で何かの怪異のせいであれば、背中がぞくぞくとしたりするのだが、この話を聞いていてもそういうのが全然無いのである。
「それから、娘は姉が亡くなって以来、凄く泣き虫になってしまって。自分もお姉ちゃんみたいにバスケット強くなるんだと言ってミニバスのチームに入っていたのも辞めてしまって。ただスポーツ自体は好きみたいで小学校高学年のクラブ活動では水泳をしていましたし、中学では陸上部に入って昨年は中体連地区大会の2000mで優勝したんですよ」
「それは凄いですね」
「ところがそれも今年の春くらいからどうも様子がおかしくなって」
「はい?」
「それまで朝はちゃんと起きていたのが遅刻がちになって」
「ええ」
「5月頃、顔に怪我していたのでどうしたの?と訊いたら転んだだけと言って。それからどうも部活をずっとサボっていたようで。でもそれにしては帰りが遅いし」
「うーん・・・」
「それとお金が」
「もしかして家の中でお金が無くなりますか?」
「はい」
と母親は辛そうに言った。
つまり娘が勝手に取っているのだろう。青葉は考えてから言葉を選ぶようにして言う。
「もしかして、それっていじめにあっているのでは?」
「やはりそうですか? 実は私も疑って本人に訊いたのですが、そんなのないよと言うものですから」
まあ、親が訊いても言わないだろうね。
「そういうお話なら、これ私のような者に相談するより、先生とまず話し合うべきだと思います」
「いや、それがですね」
「はい」
「その警察に補導された少し前から、また元気になって」
「へー!」
「毎朝ちゃんと遅刻せずに学校に行くようになって」
「ほほお」
「でも陸上部は辞めるといって、退部届を出すからというので印鑑を押しました。どうも陸上部自体、今年の春に顧問の先生が交代してから、その先生とあまり合わなかったのもあったようです」
「ああ、それは辛いですよね。でも元気になったのなら良かったじゃないですか?」
「ところがなんか違和感があるんですよ」
「はい?」
「あの子、凄く元気な時と、夏頃までと同様におどおどしている時の両極端があって」
「なるほど」
「私服もこれまで可愛い系の服がずっと好きだったのが、その元気になっている時はパンツルックが多いんですよね」
「ああ」
「それとちょっと良くない噂を聞いて」
「ええ」
「あの子、なんかたちの悪い子たちと付き合っているんじゃないかと。これ、あの子を幼稚園の頃から知っているお母さんが、私にだけこっそり教えてくれたんですが、その人のお友達が、平日の日中に、ゲームセンターで、いかにもガラの悪い感じの男子中学生数人と一緒にいたのを見たと言って」
「それ、その子たちに脅されていたのでは?」
「そのお友達もそう思って、場合によってはうちの娘を保護してあげなきゃと思ったらしいんですが、見ていたらむしろうちの子がその子たちに命令しているようだったと」
「へー」
「でもですね。うちの娘は、2学期に入ってから無遅刻無欠席で偉いと先日も担任から褒められたんですよ」
青葉は確信した。
これはドッペルゲンガーだ。
元気にしている時とおどおどしている時とがあるというのであれば、普通なら躁鬱病が考えられる。明らかに性格の違う2人がいるという場合、多くは解離性同一性障害(俗に言う多重人格)だ。
そして解離性同一性障害が進むと、本人がその解離しているもうひとりのキャラを認識している場合もある。これはいわゆるイマジナリーフレンドと言って、実は正常な人でも幼い頃はイマジナリーフレンドを持っている人がいる。しかし解離性同一性障害の人が持つイマジナリーフレンドは物凄く存在感が強い。本人もそれが自分の心の中の存在であることに気づかない。
そしてこの心の中の別人格は、しばしば、いわゆるイブホワイトとイブブラックの事例のように本人と全く正反対の性格を持つ場合がある。
二重人格の別人格が不良少年たちと付き合っているという話であれば1986年のテレビドラマ「ヤヌスの鏡」(杉浦幸(みゆき)主演−おニャン子の杉浦美雪とは正真正銘の別人)の例などもある。
もっと古い物語では、1972年のオカルト映画で『悪を呼ぶ少年』というのがあった。原題はThe Otherで、このタイトルが既にネタバレになっている感もあるのだが、主人公は「出産時間差のため生まれ星座が異なる」一卵性双生児の男の子。片方は良い子で片方が邪悪な子なのだが、この映画の中でカメラは1度たりともその兄弟を同時には映さなかったのである。
(全くの余談だが、この物語の中盤に兄弟が見せ物小屋に忍び込むシーンがある。「ふたなり」の見せ物で、兄弟がドキドキしながら見ているとステージに出てきた人物が服を脱ぐのだが、立派なバストがある。それで主人公の少年は『女の人だよね』と思う。しかしその後、ステージ上の人物はお股の茂みの中から立派なペニスを出してみせる。『えー?男の人なの?』と主人公は混乱する:原作にあったシーンだが映画でもこのシーンを流したかどうかは不明。そもそも何のためにこういうシーンがあったのかも意味不明)
ドッペルゲンガーは本体とは絶対に同時に同じ場所には現れないという伝説があるが、それは実際には普通の解離性同一性障害、いわゆる二重人格で、同時に双方が現れることが物理的に不可能であるからではないかと青葉は思っている。
しかし、これは科学者は絶対否定すると思うのだが、イマジナリーフレンドが他人にも見えるようになり、実際に本体とイマジナリーフレンドの双方が別々の場所で行動している場合があると青葉は考えている。
これは実際には自分の精神の一部を飛ばしているもので、安倍晴明などが使役していた「式神」に近いものだと青葉は考える。青葉の知合いには式神の類いの使い手が結構いる。北海道の天津子はチビと呼ばれている虎の眷属を使っている。この虎はかなりの存在感を持っており、霊感の強い人には結構見えるようである。
青葉も数人の眷属を使っているが、天津子のチビほどの存在感は無いので、彼らを見られるのは、トップレベルの霊能者に限られる(但し見えなくても霊感のある人には「何となく感じられる」ようである)。
本人と見まがうばかりの姿を取った式神というのは、青葉も瞬嶽師匠の高弟で瞬角さんという人が使っていたのを1度見たことがあるだけである。彼のお寺を訪問した時、玄関の所で確かに瞬角さんが檀家の人と話しているのを見た。それで「今行くからあがって待ってて」と言われて中に入り、奥の部屋に行ってみたら「おお、待ってたぞ」と言われたのである。あれは玄関の所にいたのが、瞬角さんの式神だったとしか思えない。
しかしその件に関して、瞬角さんはこちらが尋ねても何も答えなかった。その瞬角さんも今はもう亡い。あの人には色々聞きたいことも多かったなと青葉は思う。
そもそも式神を人間と同じサイズに出現させてちゃんと動かすということはその式神のために人間1人分のエネルギーを使うということになる。それが生身の人間にできることなのか、青葉は疑問を感じる。青葉は以前、福井県を走るバスの中から、眷属のひとりを千葉県の彪志がバイトをしていた場所まで飛ばして、彼の危機を救ったことがある。しかしそのために無茶苦茶エネルギーを使った。こちらは夜行バスの中で半ば寝ていたからできたようなものである。
霊能者の中にはけっこう生き霊を遠くまで飛ばせる人がいるが、生き霊を飛ばしている時は自分の3分の1くらいをそちらに取られている感じで、本体は物凄く疲れやすいし、霊的な防御まで弱くなると、皆言っている。
だから、自分の分身をどこかに出現させてそれを動かすなんてことをしている時は、本人はほとんど寝ているのでないと、あり得ない気がするのである。
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【春分】(1)