【春暉】(3)
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(C)Eriko Kawaguchi 2015-03-23
翌週の日曜日。青葉が自宅で勉強をしていたら、千里から電話があった。
「今から胚移植やるんだけど、お願いできる?」
「うん。そこ大阪だよね?」
「正確な位置を言うね。東経・・・」
と千里は正確な緯度経度を青葉に伝えた。青葉はその場所を地図で確認した。地図上に病院の名前が入っているのを確認する。
「今、奥さんはベッドに横になった。足を広げて楽にしてと言われている所。お医者さんが培養した受精卵を吸い上げたチューブを・・・・今膣に挿入した」
青葉は意識を向こうに集中する。千里の実況で向こうの状況がまるで手に取るように分かる。千里は物凄く優秀な発信器だ。ふつうの人と話していても、ここまで向こうの様子は見えない。さすが私のお姉さん!と思いながら相手に波動を送っていた。
「今、受精卵が投入された」
と千里。
「誘導するよ」
と青葉。
青葉にはその瞬間、チューブの先から飛び出した受精卵が2個見える気がした。でも・・・1個は明かな欠陥品だ。これって精子の質がほんとに悪そう、と青葉は感じた。しっかりしている感じの1個に意識を集中して、その受精卵が無事、子宮粘膜に着陸するのをサポートした。もう1個も少し遅れて着陸したものの、そちらは1分もしないうちに剥がれてしまった。いったん着陸したものが剥がれたことで軽い出血がある。
青葉はその出血した部分を治療した。傷が広がると、無事な方の受精卵の成長にも影響が出る。
「まだ30分くらい安静にしているように言われている」
「1時間安静にしておいて欲しいんだけど」
「伝える」
奥さんは結局処置室で2時間ほど休んでから帰宅したが、その間青葉はずっと向こうに気を送り続けたので、かなり疲れた。
「青葉、ありがとう。お疲れ様」
「ちー姉もずっとそちらの様子を発信してお疲れ様。でもこれはうまく行ったと思う」
「良かった」
「でも、ちー姉、元彼が奥さんとの間に子供を作るのサポートしても平気だったの? 私なら凄く辛いと思うのに」
「まあ私の子供だし」
青葉はこないだからずっと疑問に感じていたことを言ってみた。
「もしかして、使用した卵子は奥さんのじゃなくて、ちー姉の卵子?」
「まさか。私染色体上は男なんだから卵子がある訳ない」
「じゃ、使用した精子がちー姉のもの?」
「過去の試みで、貴司の精子と阿倍子さんの卵子ではどうしても着床しないのが確認済みなのよ。それで生殖細胞を他の人から借りることになった」
「だから体外受精なのか」
「受精卵は2個投入したけど、1個はすぐ流れたでしょ?」
「うん」
「実は流れちゃったのが、阿倍子さんの卵子と私の精子を掛け合わせたもの」
「ああ」
「私の精子って弱いもん」
「だろうね」
「だから、着床したのは貴司の精子を使用したものだよ」
「その卵子は誰のもの?」
「内緒」
うむむむ!
「だけど、ちー姉がそばに居ることを、よく奥さんが承諾したね。夫の前妻なんて普通なら考えるだけでも不愉快な存在だろうに」
「私は病院内には居たけど、別室だよ。阿倍子さんの処置をしていたのは1階の処置室。貴司はその外の廊下。私は今2階の病室に居る」
「モニターででも見てたの?」
「まさか」
「だって細かい状況をレポートしてくれてたじゃん」
「そりゃ、こんなに近くに居たらそのくらい見えるよ」
「ふつうの人は壁や床の向こうの様子なんて見えないんだけど!?」
「そうだっけ?」
師笠は久しぶりに座るW7系の運転席に心躍る思いだった。ローカル線の運転も楽しかったし、乗客とのふれあいがあって、鉄道員の原点に立ち返ったような気持ちになれた。でもやはりこの時速260kmの世界というのは快絶だ!
詳しい経緯は結局説明されなかった。しかし同僚たちの話をまとめると、だいたいこんな感じのようだ。
自分を含めて試運転中に誰かをはねたと言って新幹線を緊急停止させた運転士が10人出たらしい。その内自分を含めて最初の4人が他の運転区に飛ばされ、残りの6人も飛ばされなかったものの、試運転のスケジュールが空白になっていた。しかしこのような事件が相次ぐのはやはり何かおかしいということで、どうも凄腕の霊能者に密かに調査依頼が行われたようだということ。
それでその霊能者がうまく怪異を処理してくれて、その後は同種の事件が全く発生しなかったため、やはり一連のトラブルはその心霊現象が原因だったのだろうということになり、飛ばされていた4人も元の新幹線チームに復職し、スケジュールが空白になっていた6人にも新たに試運転の日程が指定されたのだということである。
しかし世の中にはそういう不思議なものって本当にあるんだなあとあらためて師笠は認識を新たにしていた。
白山車両基地で運転を終え、乗務報告書を書いて提出してから控え室で休憩する。乗務中は切っておく携帯のスイッチを入れるとメールが来ている。
ギョッとして開くと、こんな文章が表示されていた。
《じゅんちゃーん。今度の日曜デートしない? また可愛い服買ってあげるからさあ》
もう勘弁してよぉ!!!!
師笠は密かに穿いているショーツの中に後ろ向きに収納しているアレがぴくりと反応するのを感じた。
10月11日(土)。青葉はヒロミとふたりで朝から特急《はくたか》と上越新幹線を乗り継いで高崎まで行き、そこで千里・桃香の乗るミラに拾ってもらい、伊香保温泉に入った。
他に来ていたのは、和実・淳、あきら・小夜子+2人の子供、冬子・政子+友人の奈緒である。
青葉は医学生である奈緒に、ヒロミの身体を調べて欲しいと依頼した。ヒロミは自分では手術とか受けた覚えがないのに、自分の身体がいつの間にか女の子になっていて、それなのに寝ぼけている時に男の子の身体になっているような気がする時もあると言った。実際どうなっているのだろうと思い、婦人科に行ってみたら「内診された上で異常なしと言われた」というのである。
青葉はヒロミの身体の異変に関しては自分の影響、土地の影響もあるかも知れないと言い、それで富山県から離れた地、青葉が近くに居ない環境で彼女の身体をチェックしてあげて欲しいと言ったのである。
それで奈緒は冬子のフィールダーにヒロミだけを乗せて草津温泉まで行き、そこで彼女の身体を調べた。その結果、ヒロミは起きている時は女の子の身体だが、寝ていると男の子の身体に戻っているという結論に達した。但し男の子になっている時も、睾丸は認められないということだった。
その奈緒の報告を聞いた上で、千里は
「草津温泉か・・・・」
と言った。
「何かそこにあるの?」
と冬子が訊く。
「ちょっと昔のことを思い出しただけ」
「そこで恋人と熱い一夜を過ごしたとか」
「雨宮先生って所在がつかめないじゃん」
と千里は言った。
「千里でも分からないんだ?」
と冬子が言う。
「ところが夜中に緊急に雨宮先生を呼び出さなきゃいけなくなってさ」
「うん」
「私が占ってみた訳よ」
「ああ、占うくらいしか探しようがないかも」
「雨宮先生の電話に掛けたって絶対出ないからデートしてる相手の女の子の電話に掛けた訳。そしたら、今草津温泉に居ると言われてさ」
「迎えに行ったの?」
「快適だったよ。雨宮先生のエンツォフェラーリ」
「あれを運転したんだ!」
「他の人には指1本触らせないのに」
「私が勝手に持っていったから、先生怒ってたけどね」
「所在をちゃんと明確にしてない雨宮先生が悪いよ」
と冬子は言った。
「この伊香保温泉に着いた時も、何だか懐かしそうな顔をしてたね、ちー姉」
「ここはインターハイで泊まったから」
「この付近でインターハイやったの?」
「会場は埼玉県本庄市」
「結構遠くない?」
「あの付近の宿泊施設の収容能力が足りないから、多くの学校が伊香保温泉に泊まったんだよ」
「温泉に泊まるのは合理的かも。身体を休められるもん」
「あの階段を毎日登り下りしたよ」
「ぎゃー」
「あれ300段くらいあるよね?」
「スポ根の世界だな」
「でもインターハイに出てくるくらいの学校はスポ根漫画真っ青の練習してるよ。ただ、漫画と違う所はさ」
「うん」
「変な特訓ってのは無いってこと。練習に王道は無い。地道に基礎練習を繰り返す。これが結果的にはいちばん上達する。冬たちもそうでしょ?」
と千里は言う。
「うん。歌手や音楽家も地道に毎日毎日何十回も何百回も練習することでしかうまくならないよ」
と冬子も言った。
「やはり女装も何十回も練習すればいいんだよね」
と政子が言い出す。
「なぜそういう話になる?」
と冬子が呆れて言っている。
「1回や2回の女装外出だと恥ずかしくて自信が持てないだろうけどさ、何十回も女装で外を歩いている内に、女として行動する自分に自信が持てるんだよ」
と政子。
「まあ、それも真実かもね」
と千里も同意した。
青葉はこないだ会った40歳くらいの初心者女装っ子さん、少しは慣れたかな?などと思い起こしていた。
2014年10月18日(土)。XANFUSの音羽(桂木織絵)が「XANFUSを卒業」したことが発表され、日本のポピュラー音楽界に衝撃が走ったが、その件で翌日桃香から連絡があったので、青葉は二度驚くことになる。
「じゃ音羽さんって、桃姉と昔恋人だったの?」
「うん。まあ高校の時ね」
「桃姉がレスビアンの道に誘い込んじゃったんだ?」
「千里には内緒で頼む」
ああ!もう私、このふたり双方から「桃香には内緒で」とか「千里には内緒で」と言われていることが随分増えているよ!!私もそろそろ何を言ったらいけないのか分からなくなって来たぞ!!!
「突然東京に転校していって別れたんだけど、それが歌手になるためだったなんて全然知らなかった」
XANFUSなんて随分知名度があるのに。でも桃姉って国内の音楽は全く聞かないもんね。
「それで最初、織絵は高岡の実家にいったん帰るつもりだったんだけど、それだと絶対芸能記者が実家に押し寄せるだろ?」
「そうなるよね」
「それでしばらく札幌に住んでる千里の妹さんの所に身を寄せることにしたんだよ」
「ああ、玲羅さんね」
「青葉、会ったことあったよな?」
「私は会ってない」
「千里が性転換手術を受けるのにタイに行く時、成田で会わなかったっけ?」
「その時、私は富山で手術受けるのに入院していたし」
「あ、そうか!」
それで桃香が言うには、織絵が突然解雇されて物凄くショックを受けているので、心のヒーリングをしてやってくれないかということだったのである。
それで青葉は20日(月)、学校を休んで朝から富山空港から羽田乗継で新千歳まで飛んだ。新千歳には玲羅が車で迎えに来てくれていた。
「初めまして」
「どうもどうも」
などと挨拶するが
「私たちって姉妹なんですよね?」
と玲羅が言う。
「そうそう。私、千里さんに妹にしてもらったから」
と青葉も答える。
青葉は玲羅の運転するセフィーロの助手席で、彼女と話していて、あ、この玲羅さんも少し霊感あるなと思った。やはり千里の霊感もベースとしては遺伝的なものがあるのだろう。
「だけど玲羅さん、千里さんのこと、ずっとお姉さんと呼んであげてたんですか?」
「まあ本人がお姉ちゃんと呼んでくれと言うから。姉貴が高校生になった頃からかな」
「なるほど」
「でも実はそれ以前の段階で、私、惰性で『お兄ちゃん』とは呼んでいても、お兄ちゃんが男だって思ったことはなかったです」
「へー」
「お兄ちゃんって、なんで女の子なのに男の子のふりしてるんだろう?と思ってましたよ。裸になっても、おちんちんなんて付いているの見たことなかったし」
「そうですね。男の娘には、おちんちん無いんですよ、きっと」
青葉は笑いながら、そう答えた。
「こんにちは。醍醐春海こと村山千里の妹で、青葉と言います」
とアパートに着くと青葉は織絵に挨拶した。
「どこかで会いましたっけ?」
と織絵が訊く。
「直接お会いしたことはなかったと思います。ローズ+リリーの『女神の丘』という曲のPVに私が出演したので、それをもしかしたら目に留められたかも」
「ああ、あのPVで舞を舞っていた人だ。巫女さんのコスプレして」
「実はコスプレじゃなくて本職なんですけどね」
「そうだったんだ!」
「ちょっと手を貸してください」
「はい」
それで青葉は左手で織絵の左手を握ったまま、いろいろおしゃべりをした。
「だったら、千里さん、玲羅さん、青葉さんで3人姉妹なんですか?」
「玲羅さんは千里さんの実の妹さんです。私は東日本大震災で両親、祖父母、に姉まで失ってひとりで途方に暮れていた所を千里さんに保護されて、妹にしてもらったんです」
「そうだったんだ? それは辛かったね」
「あまりにも凄すぎて、1ヶ月後くらいでしたよ。初めて泣いたのは」
「それに比べたら、私は大したことないな」
青葉の身の上を聞いて織絵の心の中に自分も頑張らなければという気持ちが湧いたようであった。
「最初、千里さんか一緒に行動していた桃香さんが私の後見人になってくださるという話だったんですが、それだと私が成人する2017年まで、いわば子連れということになって、結婚の障害になるからと言って、桃香さんのお母さんが私の後見人になってくださったんですよ。ですから、私は桃香さんとは法的にも義理の姉妹なんです」
「なるほどー。だったら、私も桃香の元恋人ということで、青葉ちゃんの叔母みたいなもんだ?」
「そうかも!」
「みんな親戚ですね」
と玲羅も楽しそうに言った。
「天津子、千里姉ちゃんと知り合いだったんだね」
と青葉は天津子に言った。北海道には1週間滞在することにしたのだが、折角北海道に来たからということで、青葉は足を伸ばして旭川に天津子を訪問していた。
「なぜ、そのことを知らなかった?」
と天津子が言う。
「だって、ちー姉も天津子も言わないんだもん!」
「私はそんなことを青葉が知らないなんて、思いもよらなかった」
うーむ。。。。
「青葉って、魔術とか密教とかについては異様に詳しいけど、人間の営みに関してはほんっとに無知だよね」
「なんか最近、誰かにも同じ事を言われた気がする」
天津子とは周囲数kmに人が居ない山奥に入って龍笛対決をしたものの、近くでたくさん雪崩が起きたようであった。
「誰も巻き込まれなかったよね?」
と青葉が言ったが
「ウサギさんが2頭お亡くなりになった」
と天津子。
「ウサギさん、ごめんなさい」
「せめて食べてあげて供養しよう」
「それ誰が取りに行くのさ?」
「チビ行っておいで」
と天津子が言うと、天津子の眷属の虎が山の中に走っていき、10分ほどで死んだウサギを2匹くわえて持って来た。
「おお、美味しそうだ」
それでふたりは枯れ木を組んで火を起こし、うさぎを丸焼きにする。
「いい匂いだ」
「うん。私もむやみな殺生はしたくないけど、食べるためなら割り切る」
やがて充分焼けているのを確認して天津子がサバイバルナイフを使って肉を切り分ける。
「美味しい、美味しい」
「ウサギ美味しいかの山ってやつだよね」
「天津子さ、うちの千里姉をどう思う?」
「どう思うって?」
「正直、私は分からない。物凄い霊的なパワーの持ち主のようにも思えるけど、実は全然ふつうの人なのかもと思える時もある」
「まあ千里さんとは3年ほど雅楽合奏団にいたけど、私がかなう相手ではないと思い知らされたね」
「やはりちー姉って凄いんだ?」
「本人は凄くないと思う」
「ん?」
「千里さんのオーラは青葉も見えるでしょ?」
「うん。なんか普通に少し霊感がある人程度なんだよね」
「それが千里さんの実態だと思う。でもあの人って多分物凄く大きな存在に護られているんだよ」
「そういうことか・・・・」
「だから多分私と青葉がふたりで束になって千里さんを殺そうとしても絶対に殺せないよ。確実に返り討ちに遭う」
「なるほどねえ。もしかしたらそうなのかも」
「あと、あの人、物凄く優秀な霊媒なんだよ」
「ああ・・・」
「だから私はあの人をバッテリーとして使わせてもらってる。本人が拒否していない限り、かなり凄いパワーをあの人から取り出せる」
「そのパワーを私も分けてもらっているんだよね?」
「そうそう。このパワーを使っているのは、多分私と青葉と、もうひとり菊枝さんも」
「何となくそれ心当たりある」
「瞬嶽さんのさ」
「うん」
「遺産をあの人管理してるよ」
「え?」
「瞬嶽さんが弟子に伝えたかったものの、それを学べる弟子が現れなかったいくつかの秘伝を、そのまま千里さんの魂にデッドコピーしてある。だから青葉も修行を積んでその秘伝を学べる条件を満たしたら、自然と千里さんからそれを受け取れるはず」
「そんな仕組みがあったなんて・・・」
「あとさあ」
「うん」
「あの人、自分では男の娘だと主張しているみたいだけど」
「ん?」
「それ絶対嘘だから。だって、私ある程度人の身体の中身を透視できるけど、あの人、卵巣も子宮も持ってるもん」
「え〜〜〜!?」
「だいたいあの人、最初に会った時から波動が女の子だったし」
「ほんとに?」
「青葉も騙されてたでしょ?」
「ちょっとその件は再度考えてみる」
青葉は10月の20日(月)から26日(日)まで札幌に滞在して織絵のヒーリングをしたのだが、11月22日(日)、再び呼び出されて札幌に向かった。
「こんにちは。いや、おはようございます、かな?」
と青葉。
「私は事務所首になって引退の身だから、ふつうにこんにちはでいいよ」
と織絵。
「私は実質休業中だから、こんにちはでいいよ」
とAYAのゆみ。
「青葉さん、ヒーリングの達人と聞いて、私もヒーリングしてもらいたいなと思って」
とゆみが青葉に頼む。
「いいですよ」
それで青葉はゆみの手を握っておしゃべりしながら、心のヒーリングをした。
「織絵さん、男装がハマってますね。以前から時々してたんですか?」
「ううん。光帆に乗せられてコスプレ・プレイとしてやってただけ。男装で人前に出たのは今回が実は初めてなんだよ」
「凄く自然でふつうに男の子に見えますよ」
「だけど私は男の声が出せないから」
「声はみんな苦労しますね」
「ゆみさんは、やはり数年間にわたる精神的な無理がたたって心が折れたんだと思います」
と青葉はヒーリングしながら言った。
「前のマネージャーさん、私に全然休ませてくれなかったから。若い人に交代したのをいいことにわがまま言って休ませてもらって。最初は少しだけ休むつもりだったのに、全然やる気が復活しないのよ」
とゆみは言った。
「北海道旅行で何か得られました?」
「心の栄養をたっぷり吸収した感じ。やはり大自然の中に自分を置くのはいいことだと思った」
「ゆみちゃん、私と話している内に随分元気になった気もする」
と織絵が言う。
「織絵ちゃんも私と話している内に随分やる気を回復した気がする」
とゆみ。
「それとね。青葉さん、槇原愛の曲とか書いておられるんでしょ?」
「ええ。マリさんに押しつけられたというか」
「ああ、何となく分かる」
「実は私たちでこの曲を書いてみたんだけど、編曲とかできるかなあと思って」
「見せて下さい」
それは水森優美香作詞・桂木織絵作曲『Take a Chance』という曲だった。
「できたら打ち込みで伴奏作って2人で歌いたいなと思って」
「性質上、あまりいろんな人には声掛けたくなくて」
「私でもできるけど、たぶん姉の方がこの手の仕事は速いです」
それで青葉が千里に連絡すると、OKOKと言って引き受けてくれて翌日の午前中にきれいに編曲された譜面とMIDIデータを送ってきてくれた。千里は旭川に知り合いのスタジオがあるけどと言った。
「確かに札幌で収録するより旭川でやった方が目立ちにくいよね」
それで結局玲羅も含めて4人で旭川に移動し、この歌を収録した。スタジオでは荒木さんという音響技術者さんが録音を担当してくれた。荒木さんはベテランさんのようで、単に録音をするだけでなく、織絵とゆみのふたりに歌い方に関するアドバイスとかも、かなり突っ込んでしてくれた。荒木さんの方が、作曲者のふたりより、よほど深く楽曲を解釈していたりして、ふたりが「あっそうか」と言う場面も多々あった。
「いや、でもゆみさんに会えるとは光栄でした」
などと、一息ついたところで荒木さんは言った。
「いえ、こちらこそ歌い方のアドバイスとかまでしてもらって」
とゆみ。
「デビューなさったのが2008年の4月でしたよね?」
「ええ」
「あのデビューCDの発売直前の調整作業をこのスタジオでやったんですよ」
「え?そうだったんですか?」
「3人で歌った音源から権利関係の問題で2人分消さなきゃいけないという話で」
と荒木さん。
「あれは大変だったみたいですね。私は何もしてないんだけど」
とゆみ。
「でもなんでそれを旭川のスタジオでやったんですか?」
と青葉が訊く。
「音響技術者の耳ではなく、ミュージシャンの耳でやりたいとプロデューサーの方がおっしゃって。1曲は別の方が東京のスタジオでしたのですが、もう1曲は鴨乃清見さんがなさったんですよ。あの方が旭川在住だったので、データをこちらに高速回線で転送して、こちらの環境にインストールして、それで夜10時頃から始めて朝8時頃までに完成させて。鮮やかでした」
「へー。鴨乃清見さんって旭川におられるんですか」
とゆみ。
「あの人もプロフィールが謎ですもんね」
と織絵。
「当時まだ高校生だったんですけどね」
ん?高校生?
「正直私は最初高校生で大丈夫か?と思ったんですが、物凄くセンスがいいんですよ。手際よく音源を整理して。あれって最初から完成形が見えている感じでしたね。だから、それに向けて全力でデータを調整していたという雰囲気でした」
「確かに卓越した芸術家は試行錯誤して作品を作り上げるんじゃなくて、最初から直線で迫っていくんですよね。夏目漱石の『仁王』の話みたいな感じで」
と玲羅が言う。
「そうそう。まさにあの人は音楽をデータの中から彫り出して行った感じでした。消さなければいけない2人の声の代わりに自らフルートを吹いてそれで代替したんですけどね」
ん?フルート??
「最後の最後になってサックスのパートを加えられた時はびっくりしました」
「『スーパースター』って、そのサックスパートがとても魅力的で評価高かったんです」
とゆみが言う。
「でしょ? キーボード使ってリアルタイムでMIDIをインプットしていくんだけど、キーボードで入れているのに、まるで生のサックス吹いているかのように、データが入って行くんですよ。サックス吹かれるんですか?と聞いたら、あの人の先生がなんでも日本でも五指に入るサックスプレイヤーだとかで、その先生の演奏を思い浮かべながら入力したなんて言っておられましたね」
先生がサックスプレイヤー??
青葉はさっきから心の中で、ひとつの疑惑が少しずつ拡大して行っていた。玲羅と顔を見合わせると、どうも玲羅も同じことを考えているようだ。
「私も最近は若い人に任せっきりになって、なかなか現場に入っていなかったんですけどね。今回はその鴨乃清見さんから、便宜を図って欲しいと連絡があったので、久しぶりに担当させてもらいました」
と荒木さんが言う。
織絵とゆみも「へ?」という表情でお互いの顔を見た。
「すみません。もしかしてその鴨乃清見さんって、この人ですよね?」
と青葉は携帯の中から写真を1枚選んで表示した。
「ええ、そうです。そうです。この方です。これ最近のお写真ですね。昨日久しぶりにお声を聞いた時は声がけっこう大人っぽくなったなと思ったんですけど、お姿は女子高生だった時分とあまり変わっておられないんですね」
と荒木さんは懐かしそうに言った。
つまり・・・・鴨乃清見って、ちー姉だったの!? そして当時、ちゃんと女子高生してたんだ!!
「鴨乃清見の正体が醍醐春海なんて全然知らなかった」
と織絵もゆみも言った。
4人はスタジオを出てから近くのスタバでお茶を飲んでいた。
青葉は考えていた。醍醐春海はたくさん居る中堅の作曲家のひとりにすぎない。しかし鴨乃清見はこれまでいくつものヒット曲を生み出している。恐らく年収は1千万を超えている。だったら、だったら・・・ちー姉、一般企業に就職する必要なんて、全く無いじゃん!!!
「醍醐春海さん、きっと私にデビュー当時の初心に帰れって意味で、ここのスタジオを紹介したんだと思う」
とゆみは言う。
「あの時は大変だったんでしょ?」
と織絵。
「実質プロデュースしてくれていた人と、名目上のプロデューサーさんとがふたり続けて亡くなって。それであすか・あおいが辞めちゃうし。それで予定されていたデビューは中止。追加オーディションでメンバーを3〜4人にすると言われて。もう私、本当にデビューできるのかなと、不安でしょうがなかった」
とゆみは言う。
「でもその時、上島先生が、AYAは私ひとりでいいと言ってくださって。それで雨宮先生が音源はこちらで調整して、ボーカルが1人になったからと言って、決して3人版より見劣りしないものにしてやるからとおっしゃって」
「あ、そうか、そこに雨宮先生が絡んでいたのか」
と青葉は言った。
だから、ちー姉は駆り出されたんだ! どうもちー姉って実は雨宮先生の3番弟子か4番弟子くらいのポジションみたいだし。
「この曲を実はこないだケイちゃんに渡して、ローズ+リリーで歌って欲しいと言ったんだよ。私が帰京したら一緒に音源製作しようと言われている」
と言って、ゆみは1枚の譜面を取り出した。
「水森優美香作詞・戸奈甲斐作曲。これトナカイって読むの?」
「そうそう。実はAYAのインディーズ時代の実質的なプロデューサーだった人のお姉さんなんだよ」
「へー」
「デビュー直前に亡くなったという方の?」
「そうそう。私が長期間休んでいるのを心配して訪ねてきてくれてね。それで一緒にこの曲を作ったの。でも自分ではまだ歌う気力無かったから、ケイちゃんに託した」
「そういうのもいいと思うよ」
と織絵が言う。
「戸奈甲斐さんにしても、醍醐春海=鴨乃清見さんにしても、いろいろ私のために配慮してくれてるんだなあと思うと、私もまた頑張ろうかなという気持ちがだいぶ高まってきた」
「そうだね。ゆみはまた頑張れると思う」
と織絵。
「私ね。実は親の愛ってのを知らないの。うちのお母さんシングルマザーで私を産んだんだけど、子供抱えてひとりでお仕事頑張ってたから、私はずっと保育園に預けられたままで、小さい頃の記憶って、めんどくさそうな顔の保母さんに、おやつとか与えられて、しばしば静かにしなさいって叱られてって、そんな記憶ばかりでお母さんとの思い出が無いのよね」
とゆみは突然語り出した。
「その内、お母さんが結婚して、新しいお父さんは、お母さんが出かけている時とか、私を裸にしてじっと観察してたりしてさ」
「まさか・・・・」
「レイプはされてないと思う。でもそれに近いセクハラをされてる。そのうち、そのお父さんが唐突に世都子(せつこ)を連れてきて、あんたの妹だよと言われて。でもあの子、泣いてばかりいたからいつしか、私があの子の世話をするようになって。だから私、小学3-4年生の頃から主婦してたんだよ」
「へー」
「そのセツコちゃんが、遠上笑美子ちゃんだね?」
「うん。この話、これまでしたのはケイと高崎さん(元マネージャー)に、小学校の同級生だった元リュークガールズの朋香くらいかなあ」
「ともかちゃんと同級だったんだ!」
「うん。あの頃は私、世都子とふたりで毎日おやつ作って食べたりしてた。ホットケーキ焼いたり、フルーチェ作ったり。晩御飯まで作ることもあった。カレーくらいなら作れたし。でも私、世都子が来たことで、やっと愛情というものを学ぶことができたんだと思う」
「でも、ゆみって愛情をもらった方の経験が無いんだ」
「うん。そんな気もするよ。だから、私、男の子から好かれても、全然気付かなかったんだよね。小学生の頃」
「そういう育ち方してると、そうなるのかもね」
「でも中学生の頃からモデルのお仕事するようになったから、それからは私に言い寄る男の子もいなくなったし」
「ゆみちゃんは自立することで、自分の心のバランスを回復したんだろうね」
「実はさ」
「うん」
「うちのお父さんが6月に死んじゃったんだ」
「知らなかった!」
「全然報道されてないね」
「私、葬式にも行かなかった」
「なんで〜?」
「行きたくなかったもん」
「私が行かないと言ったら、世都子もじゃ私も行かないと言うんだけどさ。あんたにとっては実の父なんだから行きなさいと言って行かせた」
「今回のゆみちゃんの長期休業って、それもあったのかな」
「自分の心の中では、もうとっくに赤の他人のつもりでいたんだけどね」
しばらく4人とも何も話さなかった。しかしおもむろに玲羅が言った。
「ゆみさん。お墓参りでもしてきませんか。生きてた頃はいろいろあったろうけど、死んでしまったら、もうみんな仏様ですよ」
「そうだねぇ」
「私もそれがいいと思う。それで自分の心に決着を付けなよ」
と織絵も言う。
その日はもう遅くなったので旭川に泊まることにしてホテルを取った。夕食を和食の店でのんびりと取っていたら、近くのテーブルに芸能関係者っぽいオーラを漂わせた30歳くらいの女性と、その女性に伴われた16-17歳くらいの女の子がやってきた。
ゆみがそちらに視線をやらないように小声で織絵に訊く。
「知ってる?」
「見たことある気がする。えっとね・・・・分かった。ラッキー・ブロッサムの元マネージャーさんだよ」
「じゃ、∞∞プロの人か」
「そうそう。谷津さんの部下。名前何だったかなあ」
「やべー。谷津さんなら私の顔を知ってる。谷津さんも来るのかな?」
「いや、ゆみの顔は誰だって知ってるって」
そんなことを言っていたら、ふたりの連れであろうか。そのマネージャーさんと同世代くらいの感じの男性が入って来て、テーブルに座った。
「あの人は★★レコードの八雲さんだよ」
と小声で織絵が言う。
「サマフェスの打ち上げの時に会った」
「でも織絵、男装してるし気付かないかも」
「ゆみも男装する?」
「それも楽しそうだけどな」
「あの女の子は知らないから、誰か新人歌手かなあ」
「聞いてる?八雲さんが担当した新人さんって、ブレイクすることが多いんだって」
「それって、逆にブレイクしそうな人を預けているのでは?」
「いや。絶対売れると思って何億も掛けて売り出した人が全く売れないのがこの世界だよ」
「確かに、確かに」
「毎年何十人もメジャーデビューするけど1年後まで残るのは5−6人、3年後まで残るのは1人いれば良いほう」
「08年組って、そういう意味では凄いよね」
「言えてる、言えてる」
「でもそろそろやばい気がする。出ようか」
「うん。そうしよう」
それで4人は席を立ち、八雲さんたちが居るテーブルを見ないようにして歩いてお勘定場まで行き、精算した。それでホテルを出てコンビニにでも行って、おやつでも買って部屋で食べようという話になり、みんなでロビーの方へ行く。そしてホテルの玄関を出ようとした時のことであった。
「おや、珍しい人たちが」
と、今外から入ってこようとしていた男性が、ゆみたちに声を掛けた。
「鈴木さん・・・・」
それは∞∞プロの鈴木社長であった。
「ゆみちゃん、ちょっと心配してたよ。前橋君からもちょっと相談受けてたんだよね」
「すみませーん。サボってばかりで」
とゆみ。
「その男装の麗人さんも、少し元気回復した?」
と社長。
「バレてますよね?」
と織絵。
「美人が男装すると、すごく素敵な美青年になるね。僕もそちらの趣味があったらデート申し込んでしまいそうだよ」
「社長、バイですか?」
「普通の男の子とも、おっぱい大きくしてる男の娘とも寝たことはあるけど、あまり楽しくなかった。基本的に僕はストレートだと思う」
と社長は言った。
鈴木社長は新人歌手のキャンペーンで来ているのだと言った。
「社長自ら同行なさるって、物凄い期待の新人ですか?」
「いや、期待の新人ではあるけど、実際には大雪山の観光協会から相談を受けてきたついでに、ちょうど日程の合ったこちらにも顔を出しただけ」
「なるほど」
社長は結局4人を連れ出して、良い雰囲気のスナックに連れていった。
「未成年は、そこのリーフちゃんだけ?」
「はい」
「じゃ、リーフちゃんにはウーロン茶で、他は水割り行けるかな?」
「はい」
「でもよく私をご存じですね」
と青葉は言った。
「まあ商売柄ね」
「鈴木社長って、自分のプロダクションのタレントさん全員の顔を覚えているという伝説がありますけど」
「そりゃ自分とこのタレントさんは全員覚えてるよ」
「だって∞∞プロのタレントさんって系列プロ所属の人まで入れると1000人を越えますよ」
「まあ小学校の校長先生の気分だね」
「ああ!生徒全員の顔を覚えてる校長先生って結構いますよね」
「そうだ。こんなの作ったんですよ」
と言って、ゆみは今日スタジオで作ってPVも撮影した『Take a chance』のビデオを自分のスマホで再生した。
「面白いね。これ。ユニット名は?」
ゆみと織絵は顔を見合わせる。
「何も考えてませんでした」
「じゃ僕が名前を付けてあげる。XAYA ってのどう?」
「いいかも!」
「これ君たちが書いた曲?」
「そうです。私が作詞して、曲は音羽ちゃんが付けました。編曲と打ち込みは醍醐春海さんにして頂いたのですが」
「ああ。あの人とは長い付き合いだなあ」
「長いおつきあいなんですか!?」
「うん。あの人が高校生の時からだから。初期の名作が『See Again』だよ」
「そうか!あれ鴨乃清見だ!」
「鴨乃清見という名前を付けたのは僕」
「そうだったんですか!!」
「この曲は、作詞 AYA, 作曲 XAN ということで」
と鈴木社長が言う。
「なるほど」
「音羽ちゃんが XAN, 光帆ちゃんが FUS で合わせてXANFUS」
「そういう説は初めて聞きました」
と言って織絵は笑っている。
「音羽君、どこかの事務所と再契約しないの?」
「そうですねぇ。もう少し気力が戻ったら」
「契約すると気力が戻るよ」
「うーん。そうかも知れない」
「うちの子会社でさ、@@エンタテーメントというのがあるんだけどね」
ゆみは織絵は顔を見合わせる。ふたりとも知らないようだ。しかし青葉が発言した。
「それって、一度引退した人や高年齢でデビューした人専門の事務所ですよね?」
「そうそう。よく知ってるね」
ゆみも織絵も「へー」という顔をしている。鈴木社長は現在そこに在籍している人のリストを見せてくれた。
「あ、近藤うさぎさん、ここと契約したんだ?」
「そうそう。魚みちるちゃんと一緒にね。あの子たち、まだ磨けば光ると思うんだよね」
磨けば光るか・・・・意味深な言葉だなと青葉は思った。
「ここと音羽ちゃん、契約しない?」
と鈴木社長が言った。
織絵は少し考えていた。
「実は内密にお願いしたいのですが、光帆が今月末に専属契約の解除申入書を提出するんです」
「まあ時間の問題だったね、それは」
「契約は4月更新なので、フリーになるのは4月からですけど、もしよかったら一緒にお世話になれませんか?」
「大歓迎」
そう言って、鈴木社長は織絵と握手した。
その日、4人は鈴木社長と12時近くまでおしゃべりをしていた。鈴木社長は話題が豊富で、あちこちのイベントなどで経験した裏話などまで楽しく話してくれて、こういう世界と無縁の玲羅も「すごーい!」などと声をあげていた。
楽しい気分でホテルに戻る。部屋はシングルを4つ取っているので、廊下で3人と別れ、青葉は自分の部屋に入った。
しかし何だか疲れた!
今日はいろんなことがあったなあと思い返していたが、お風呂に入りたくなる。部屋のお風呂を使おうかとも思ったのだが、今お風呂の音を立てると、隣の部屋の織絵さんが寝付きにくいかなと思い、青葉は大浴場に行くことにした。
着替えを持って地下に降りて行く。エレベータを降りて左手に青い暖簾に男と書かれた文字、右手に赤い暖簾に女と書かれた文字がある。青葉は微笑んで右手に行き、赤い暖簾をくぐった。
しかしこないだクロスロードの集まりでも話題になってたけど、あのメンツの中で男湯にかつて入っていたのって、あきらさん・淳さんだけみたいだよなと青葉は思った。自分は女湯にしか入ってないし、冬子さんもそうだ。ちー姉はノーコメントなんて言ってたけど、あれ絶対女湯に小さい頃から入ってる。和実も怪しいよなあ。
そんなことを考えながら身体を洗い、髪も洗って、そのあと軽く流してから湯船に入る。何気なく視線を泳がせた時、先に湯船に入っていた18-19歳くらいの人物と視線が合う。
「あっ」
と向こうは明らかに男声で反応した。
「え?」
と思わず青葉も声を出してそちらを見る。
「ごめんなさい。ついこちらに入りたくなって」
と《彼》は言う。
「いや、あなた声さえ出さなかったら、男とはバレないですよ」
「ごめんなさい。すぐあがります」
「女湯はもう少しパスするようになってからの方がいいかも」
「すみません」
「でも私も男の娘なんですよ」
「え? そうなんですか?」
「もっとも、おっぱい大きくしちゃったし、下も取っちゃったからもう身体は完全に女の子になっちゃったけど」
「わあ、すごーい。いいなあ。手術しちゃったの?」
「そう。病院はね富山県の****って所。検索すれば出てくると思う」
「へー」
「ちょっと変な先生でね。美少年を見たら、手術代は分割払いでもいいから、今すぐ手術受けない?とか勧誘しちゃう。乗せられちゃって、うっかり性転換しちゃったなんて人もいるんですよ」
「面白そう」
「あなたも女の子になりたいの?」
「私、実はよく分からないの」
「20歳くらいまではたくさん悩めばいいですよ」
「私もゆっくり結論を出せばいいかなとは思っているんですけどね」
何となく青葉は彼と女湯の湯船の中で10分近く、女装のことや、声の出し方とかを話した。
「なんか楽しかった。でも他の人来たらやばいから、あがります」
「うん。女湯はあまり無理しないでね」
「はい。今回女湯に入れて凄く満足したから、しばらくは我慢できると思う」
彼はそんなことを言ってあがっていった。彼は胸もお股もタオルで隠していたが、チラっとタオルの隙間から見えたお股には何もないように見えた。ああ。ちゃんとタックはしてたんだなと彼を見送りながら青葉は思っていた。
でも今の子、どこかで見たような気がするんだけどなあ。どこで見たんだっけ?と青葉は考えてみたものの、分からなかった。
AYAのゆみは、織絵と一緒に作った音源・PVを土産に東京に帰還し、その後、自らが作詞してローズ+リリーに提供した曲『Step by Step』の音源製作とPV作成に参加した。
一方、XANFUSの件は、最終的に嘘のように都合良く収拾してしまった。
XANFUSの事務所の新社長・悠木朝道氏の方針で織絵は解雇されてしまったのだが、朝道社長がレコード会社の反対を押し切って強行した7大ドームツアーで6億円もの赤字を出してしまい、更に発売したCDも全く売れず事務所が経営危機に陥る事態になったことで、社長以外の株主が全員団結して社長を解任してしまった。
そしてあらためて就任した悠木栄美社長のもとで織絵・光帆側との和解が成立し、結果的に織絵と光帆は鈴木社長の∞∞プロの子会社・@@エンタテーメントと契約して、そちらで新XANFUSとして再出発(事実上の移籍金を3億円支払った)し、元の事務所側ではXANFUSの後継ユニット Hanacle を売り出すことになった。
年末、青葉の家に訪問者があった。
「どこかの巫女さんみたいなんだけど、言っていることがよく分からなくて」
と応対に出た朋子が言うので、青葉は何だろう?と思いながら玄関に行った。
少しよれた巫女服を着て、髪の長い、見た感じは70歳くらいに見える巫女さんである。
「すみません。どちら様でしたでしょうか?」
「あんた凄いね。***様をきれいに引っ越しさせた」
「ああ、あの神社の方ですか? すみません。連絡先が分からなかったので、勝手にお邪魔して移転させてしまいました」
「***様は安寧に納まっておられる」
「そうですか。それは良かった」
「なんか望みがあったらかなえてやるぞ」
「えーっと、特に何もないけどなあ・・・」
と青葉が言っていたら、横から朋子がこんなことを言い出す。
「祈願とかしてくださるのなら、この子の姉がまだ就職先が決まらないのをいい就職先が見付かりましたら」
「分かった。それは何とかしよう。あ、そうそう。元神社のあった場所はこちらは特に用事は無いから、使いたかったら使ってもよいぞ」
「あ、はい」
「じゃな」
と言うと、巫女さんの姿はすっと消えてしまった。
朋子が目をぱちくりさせる。
「あの巫女さん、どこ行ったんだっけ?」
「うーん。まああるべき場所に帰ったんじゃないかなあ」
と青葉は言った。後ろから女神様が言う。
『青葉、許可が出たみたいだから、あそこにも祠を作ってくれ』
『はいはい』
また彪志に工作してもらおっと。
『しかし青葉、なぜあの巫女さんを家の中に入れずに玄関で立ち話をした?』
『入れた方が良かったですか?』
『とんでもない』
『何となく入れちゃいけない気がしました』
『まあ、青葉もいい勘をしているよ』
12月29日。ゆみは妹(遠上笑美子)とふたりで、その霊園を訪れていた。妹に案内されて、そのお墓まで行く。掃除をしてお花を供え墓石に水を掛ける。線香をそなえて一緒に合掌した。
静かにそこから立ち去ろうとしていたら、目の前に立つ女性が居た。
「井深さん・・・・」
それはこの春からAYAのマネージャーになった井深さんであった。専門学校を出て$$アーツに入社したばかりで、20歳。ゆみより3つ下である。
「済みません。社長からは同行しろと言われたんですが、プライベートな所まで踏み込んではいけないような気がしたので、少し離れた場所で見ておりました」
「ううん。色々心配掛けてごめんね」
「私、この業界のことよく分からないし、至らないこと多いと思いますけど、頑張りますから、私と一緒にまた歌手活動しませんか?」
「そうだね。また少し頑張ろうかな」
「それではこれ、AYAの1月のスケジュールなのですが」
と言って井深さんが渡した紙を見て
「何これ〜〜〜!?」
とゆみは悲鳴をあげた。スケジュール表が真っ黒になっていた。
「取り敢えず1月1日は朝8時からΛΛテレビでお正月特番です。その後12時からはTFMでプリマヴェーラのふたりと一緒にニューイヤーサウンド、それから・・・・」
遠上笑美子がくすくすと笑っていた。
12月30日。千里は5年ちょっと勤めたファミレスを退職した。思えばここのファミレスに勤めていたから、震災のあと炊き出しのボランティアで被災地に入ることになり、それで青葉と巡り会ったんだよな。そんなことを考えると、やはり自分はここに勤めたことが意味があったんだということを認識する。
世の中は色々なものが複雑に絡み合ってできている。なぜ自分が今こういうことをしているのだろうと疑問に思うこともよくあるけど、いつかその意味が分かる時が来る。千里はそう考えていた。
ファミレスは人の入れ替わりが激しい。あっという間にいちばん古株になってしまい、2012年の春以降はこの店の夜間店長を拝命していた。おかげて普通はバイトが辞めても退職金も出ないのだが、結構な金額の退職金を頂いた。
「神社も3月いっぱいで辞めるし、就活は今の所40連敗くらいだし(実は全然数えていない)、4月以降はやはり冬の言うように作曲家の専業かな」
そんなひとりごとをつぶやきながら大学に行き、院生室でお茶を飲んでいたら、3年先輩(博士後期課程3年)の田代さんが入って来た。
「明けましておめでとう」
と田代さん。
「まだ年は明けてないですけど」
と千里。
「そうだっけ? 最近暦が全然分からなくて」
「博士論文のプレゼン計画はもうできたんでしょ?」
「今論文自体を書いてる」
「え〜〜?提出期限過ぎてません?」
「3月修了は諦めた。今必死にまとめあげてる」
「お疲れ様です」
「1月5日の朝9時までに提出できたら4月に学位(博士号)くれると教官は言ってる」
「できそうですか?」
「絶対無理」
「ああ・・・」
「村山さんは修士論文は出したんだよね?」
「もう出しましたよ」
「あんた、バイト随分してたみたいなのによく書く時間取れたね」
「夜間の勤務だから、お客さんを待ちながら書くんですよ」
「それよく体力持つね」
「まあ何とか」
「博士課程に行くんだっけ?」
「いえ。どこかに就職しようと」
「どこかにって、まだ就職先決まってないの?」
「ええ。今の所40連敗で」
「あり得ない! あんたみたいな頑張り屋さんを」
と言ってから、ふと思いついたように言う。
「あんた大企業狙い?」
「全然こだわりません」
「研究所とかが希望?」
「むしろふつうの企業がいいです」
「だったら、こないだ、いい人いませんかねって頼まれた所があるのよ。ソフトハウスなんだけど」
「ソフトハウスって、ソフトクリームか何か作る所ですか?」
「んな訳ないじゃん。コンピュータのソフトウェアを作る会社だよ」
「へー」
「あんたプログラミング言語は何覚えた?」
「えっと。Java/Swing, PHP/Smarty, Visual C++/MFC, .... とかやってたかなあ、たぶん」
「たぶんって不確かだね」
「すみません。あまりまじめにやってなかったんで」
「まあいいや。分からない言語は覚えればいいしね。ここ、ちょっと行ってみない?」
「はあ」
それで千里は不本意ながら、教えられた会社に「田代さんから紹介されたのですが」と言って連絡し、Excelで作っている履歴書フォームの日付だけ修正してプリントし、それを持って出かけて行った。(わざと)セーターにジーンズという軽装である。メイクもしていないスッピンだし、およそ面接を受けに行く人間の格好ではない。
山口専務さんという人が会ってくれた。
しかし12月30日というのに社内は多数の社員さんが働いている。恐らく盆正月の無い仕事なんだろうな。こういう業界って無茶苦茶忙しいと聞くもん、と千里は他人事のように考えていた。
「すみません。急に紹介して頂いたもので、軽装でスッピンで来てしまいまして」
「ああ。構いませんよ。うちはみんなラフな格好で勤務してますし、女性もスカート穿いてお化粧して仕事してるのは事務の子くらいですから」
ああ、ソフトハウスってそういう雰囲気なのかな。実際専務さんも作業服の上下だ。油にまみれているのでマシンの修理とかしていたのだろうか。
「C大学の修士卒業見込みですか」
「はい」
「でもどうしてこんな時期に就活なさっているんですか?」
「ひたすら断られ続けたもので」
「それは大変でしたね」
と言って難しい顔になる。それだけ断られたということは、何か問題のある学生か?と考えたのだろう。千里としても、断られることを予定して来ているので、全然平気である。
履歴書を見ていた専務さんが「ん?」という声をあげる。
「2012年10月、性別の取り扱い変更認可って、これ何?」
「はい。私は生まれた時は男だったので。2012年7月に性転換手術を受けて女になりまして、10月に裁判所の認可も通って、法的にも女性になりました」
「あんた、元男なの!?」
専務さんは驚いたように声をあげる。
「はい、そうです。今は女ですが」
まあ、これで大抵の所はその後の面接が適当になる。みんなあからさまに性別問題を理由に断るとまずいというのを知っているので、何か断る理由が無いかとあら探しを始めるのである。しかし中にはさすがに怒りたくなるような酷いことを言われた所もあった。
「あんた、そんな風には見えないのに」
「そうですね。女みたいな男だと20年言われ続けて、何とか女になりましたけど、今度は男だった女と言われるようになったので、なかなか大変です」
「あんた苦労してるね」
と専務さんが言う。
あれ〜。この人はなんか同情的だぞ〜。
「だけど、あなたの場合、女にしか見えないから、この際、その問題はあまり気にしなくていいと思う」
え〜? そうなの〜? 私は断られてもいいんだけど。
「あなた資格結構持ってるね」
「そうですね。色々取ったかな」
「情報処理技術者試験のST/SA/PM/SCと取ってるんだ」
「まあ取るだけ取っておこうと思って」
「NTT.comマスターの★★★(トリプル)取ったんだ?」
「済みません。新制度になってから受け直してません」
NTT.comマスターは2013年10月に制度が変わって名称も変更になっている。
「いいよ、いいよ。凄い。大型自動車免許持ってるの?」
「ちょっとバイトの都合で取得しました」
「簿記1級に英検1級も取ってるのね」
「受けたら通ったというか」
「TOEICの870点ってどのくらいのレベルだっけ。おーい!矢島君」
と言って専務は女性社員を呼んだ。なんか格好いい女性だ、と千里は思った。お化粧もしていないのに物凄く輝いている。女性には基本的に関心のない千里でさえ、この人素敵〜と思ってしまった。
「君もTOEIC受けてるよね?870点ってどのくらいのレベル?」
「それはもう英語ぺらぺらのレベルです」
「凄い」
「むしろその程度以上の得点は無意味です。そこから先は英語の実力より受験テクニックの問題になってきますから」
「なるほどね」
「ね、矢島君、この子が男の子だと言ったら信じる?」
「へ? この人は男装させても女の子にしか見えない気がします」
「だよねー。やはり性別は問題なし」
「まさかこの人が男性だとか?」
「男性だったけど、性転換手術受けて女になったんだって」
「ご冗談を」
「やはり冗談と思った方がいいくらいだよね。君、取り敢えず仮採用」
え〜〜〜〜!?
「試用期間3ヶ月で問題なければ本採用ね」
と専務さん。
「ありがとうございます」
と千里は返事をしたものの、うっそー!と内心叫んでいた。
だって、私プログラムなんか組めないのに!?
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【春暉】(3)